2008年1月インタビュー


「権力」について、というテーマを考えてきました。最近マックス・ウェーバーの「職業としての政治」をかじり読んでいるんですが、彼は、支配の種類を「伝統的支配」「合法的支配」「カリスマ的支配」の3つに分けています。それは、総合的にいえば、「権力」というあいまいな言葉で言い換えられると思うのですが、わたしは権力構造の下に自然となじんで生きているので、普段あらためて、考えようとしない面白いテーマだな、と気づきました。
 先生は、どのようにお考えですか。

「人間はアイデンティティーというものを持っていて、その中には、生まれ持った星みたいなものが包容されていると思う。オギャーと生まれたときは、その星は空っぽの器の中に輝いている。個人は成長するにつれ外部から刺激を受け、つまり他人や書物や芸術や学問というものが、水のように、空っぽだった器に入っていき、徐々に水量が増してゆくというわけ。つまり、器の中の水量は変容するの。
 アイデンティティーというのは付属物という意味もあるんだけれども、つまりアイデンティティーは、変容とともに輝く星だとも言える。総量的にいうと。
 空っぽの中に輝いていても、きらきらと光る星だけれども、水量豊かな宇宙の中に輝いていても、そのアイデンティティーは、きらきらと輝いている。

仏教の十便十宜図の十番目に、ひょうたん酒を抱えて群集の中へ入っていくという絵がある。人間の理想的な姿だと、常々思っているんだけど、まさにそれは、今いってきたことを髣髴させるような絵で、ひょうたん酒は星で、その星を抱えて、群集の中に紛れていく。アイデンティティーは変容しなければならないし、するべきものだ。
 でも、この世には、変容するアイデンティティーというものを放棄する人がいる。「代々親から受け継つがれた宗教が絶対だ」、あるいは「私が幼い時に考えた考えが絶対だ」、あるいは「人間と人間との関係性はこうだ、とある日信じたそれが絶対だ」というふうに。それは、ある時期に固着してしまったアイデンティティーということになり、もう変容していないわけ。前に話した円環した状態だね。

例えば、一つの宗教を信じている人が、友人の家に呼ばれていって、宗教人として習慣から、友人宅で朝の勤行をしたとする。そういう時、周りの人は意外と、「やめろ」とは言えない。円環した人を刺激する面倒くささというのを考えて、許してしまうんだろうけれども、本来許すべきものじゃないんだよね。でも現実の人間関係においては、許容しかないのよ。

人は許容してはいけないものを許容する苦悩をいつも内に抱えているとき、芸術に触れたくなり、触れると救われる。変容すべきものを変容すべきでない、と捉えて暮らす生活のことを、社会生活っていうんだよ。だから社会は疲労するものという一種のステレオタイプができあがるんだね。固定観念がね。

マックス・ウェーバーの「伝統的支配」とは、倫理的支配だと思うよ。人間とはかくあるべきものだという支配の仕方をいっているんじゃないの。伝統という一枚岩のうえに、人間はかくあるべきだという、規定された考えに基づいた支配のこと。変容を許さなくなった固着したアイデンティティーを支配するには、パチっとあてはまるんじゃないかな。

よくほめ言葉で「お前は変らないからいいなぁ」なんて言いますが…。いままでの『変容』とどう違うのですか。

器の中の星、この質量は変わらない。これを失ったら人間じゃない。これを失ったら、ただ変容する軟体動物になっちゃう。変容というのは、「昔と違う」というんじゃない。「昔とお前は変わらないなぁ」、といいながら中身がむちゃくちゃ変わっているはず。器の中の星を包容するものを含めてアイデンティティーというから、アイデンティティーは、謙虚に変容させるべきなの。

マックス・ウェーバーのカリズマ的支配というのは、動物的支配のことだと思うよ。個人の魅力に基づいた動物的支配。いま話した個人の変容の度合いによって、その変容に人が魅力を感じたとき、その変容の度合いに人がついてくるということだよ。たとえば独裁者が出てきら、独裁者という変容を遂げた人についていくし、聖人だったら、聖人という変容を遂げた人についていくわけだよ。

身分階級の上の人が、身分階級の下の人を統治するという形が正当だとすると、そこには、身分という一種の固着した形しかないの。さっき話した社会生活と一緒。固着した関係性、伝統的関係性の中で支配をつづけるってやつだ。王は庶民を支配する、あるいは、高学歴者は低学歴者を支配する。全部それ。それが伝統的支配。

ところが、カリズマ的支配というのは、そのひとが小卒でも中卒でも関係ない。人間が人間に惹かれる、根源的なものに惹かれて統治されるという形で、本来は支配というものは、カリズマの方がいいの。カリズマが無能だってことはまずないのよ。カリズマっていうのは常に有能なのよ。

 カリズマが支配力をもつというと、どうしてもヒットラーとか、狂気的で恐ろしい世界を連想しがちですが…。

カリズマというのは、超人のことだよ。超人間的、非日常的な資質をもつ英雄のこと。ヒットラーは、倫理的に劣っている偽者のカリズマでしょ。倫理的に卓越したものをもっているものが、本物のカリズマだよ。

直接性的な魅力じゃなくても人間は、そういう人に動物的な魅力を感じるから。友情も本当は動物的なほうがいいんだよ。動物的っていうのは、根源的ってことなんだよね。

 私が友情の形というもので一番感銘を受けたのは、ドンキホーテとサンチョパンサの関係ですね。ドンキホーテの使いでサンチョパンサが、宿屋の女に愛のことばを告げに行ったとき、「何であなたはこんなことをしてるの?」って女に馬鹿される。そしたら、サンチョパンサは、「あの人が好きだからだ」って、美しく歌い上げるシーンが映画「ラ・マンチャの男」にありました。あそこで、とても感動しました。

「私は彼を好きだから彼は友人なのだ。彼は友人だから、私は彼が好きなのだ」ぼくの授業(ツボ)のサマセットモームの日記ところで一度やったでしょ。

そうでしたね。
 『風と喧騒』で、「会津はおれのカリズマだ」って、横山に言わせていますが、カリズマというと大勢の人の評価、という印象があるのですが、ドンキホーテとサンチョパンサや会津と横山のように、個人的な関係をカリズマって言えるんですか?

優れた個人というのは群集の一要素に過ぎないけど、彼を選んだ分子を引きつけることができるということで、横山やサンチョパンサに選ばれた彼に、ほかのだれもが引っ張られるという可能性がある。

でも、群集の中の一個人が、この人は素晴らしいって思ったときに、みんなもそう思うはずだ、なんて思わないの。自分が素晴らしいと思った人、その一対一の関係性だけでカリズマが成り立っているの。

それが、たまたま一対多になっていったということで、カリズマの群集性っていうのが出てくるんでしょ。元来一対一だよ。一対一の誘引関係。人間というのは、自分以外のほかのみんながこの人に魅力を感じるだろうか、っていう逡巡のクッションを置かないからね。瞬間的に魅力を感じるものだから。それが、自分以外の他になった場合にカリズマが大勢の人に対して支配力を持ったっていうことでしょ。基本は、カリズマというのは一人に対して支配力を持つものだ。

権力というのは、大勢の人を動かす力だけれども、カリズマ性というのは、個対個で成立することが多い。権力というのは一対多なのよ。権力者をカリズマっていう同義語に置き換えるような俗風があるけど、違うね。

一対一で動物的に惹かれる魅力、それは絶対必要だ。恋愛関係の二人はお互いをカリズマだと思っているはずだ。カリズマの学術的な定義は、俺は知らないけどね。カリズマっていう言葉を俺が小さいときに初めて聞いたときに、感じたのはそれだったから。例えば、赤羽の雀荘の南海さんとか、俺にとっては完全なカリズマだったし、寺田康男なんていうのは、俺の死ぬまでのカリズマだよ。

友情ってそうあってほしいですよね。

 伝統的関係性の中に、友情を置かれたら最低だよ。俺は、愛と友情しか書きたくないわけだから、スーパーマン的な登場人物なるんだよ。つまり超人的なカリズマがどうしても要る。なぜなら、人が人に魅力を感じるとき、スーパーマン以外に魅力を感じないのよ。「ああ、おれもこうなれるな」っていうやつに魅力を感じられるわけないじゃん。

 今のテレビドラマや映画などで、傷のなめ合いみたいな友情関係を描く作品がありますけど、私もなんか嘘っぽく感じますね。「あいつはだめなやつだけど、俺がいなきゃだめだから…」とか。

それは、倫理でしょ。伝統。人が人にメッセージを送るみたいな友情関係なんだよね。駄目だね。沈黙の中に好意を感じないと。

恋愛関係でもそういうの、よく聞くんですよね。二股かけられてた女が相手に「あいつは俺がいないとだめだから。お前は一人でも生きていけるから、別れてくれ」って言われたとか相手が弱いから一緒にいてあげる、または自分が弱いから一緒にいてほしい、っていう関係性。

だから、倫理でしょ。「人は自愛を持つべきだ。強いものは一人で生きていける」。というのは。強いって言う判断も何を基準にして、下しているのかっていうことになるよね。

 いやらしい考え方かもしれないけど、男同士でも男女でも、二人でいるとき、自分が優位に立ちたい、っていう考え方があると思うんですよ。自分より弱い相手に、友情関係や恋愛関係を選ぶっていう…。

それは、封建領主対農民みたいなものなんだよね。封建領主は農民を庇ってあげなくてはならない。親は子を愛情深く育てねばならない。あるいは衰えた親には子は慈愛で応えなければならない。全部、倫理・道徳関係なのね。

女対女…というのうは、俺の感覚にないからなんだけど、男と女、男と男が瞬間的に感じ合ったときに強者が弱者を慈しむというような倫理はないんだよね。だからそこには一瞬に感知する魅力の関係性しかないんだね。だからこそ、そこに人は素直に屈するべきだし、頭を垂れるべきだし、そこに自分の最高の知性を使って理屈を与えてあげるべきだし。     

彼は私が守ってあげなきゃなんて、それは優劣関係。でも昔からある形で、無難な形で、人間として何にもケチつけられない形で…。

でも私がいなきゃだめだという強者に、本当にあなたはあの弱者が好きなのか、と聞いたとき、どういう言葉が返ってくるかは自明だよね。相手を弱い人だと感じたとき、それは愛してないよね。人は強いものといたがるはずだから、強いものというのは、自分に魅力を感じさせるものって意味。自分に魅力を感じさせるものは強いって感じるから。強いものといないと安心しないでしょ。人間は生き物だから。どういう種類分けをしてもいいけど、例えば、音楽をやっているもの同士だったら、あの人の音楽的感性はすごいとか、ものを書いている者同士なら、あいつの文章は天才的だとか、そういうのは強いっていうことなんだよね。同じ陸上仲間なら、足か速いとかね。

そういう人に憧れるのであって、あの人はすごいから、ほっといてもいいや、ってお別れできるわけないじゃない、人間。だから、そこら辺をずるく見捨てるということは、弱者どうしで、英雄なしの世界を築こうという、こすっからい考えだよ。間違いない。

一見耳に心地いいからさ。「弱いものを救ってあげる」、そういう理屈って。

 今日は「権力」というテーマでしたが、大勢の人を動かす力よりも、個が個に動かされる魅力の方が、やはり興味の対象でしたね。時間も限られているので、このあたりで、お開きにお願いします。お忙しいところ申し訳ありません。ありがとうございました。


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