六十三

 風呂から上がると、喫茶店で食事をした。二人、生姜ダレで炒めた焼肉と、ライスを食べた。
「……結局キョウちゃんが私のおかあさんとそうなったのも、私が意地を張って、キョウちゃんを幻滅させちゃったせいね」
「男と女が自然にそうなっただけだ。ぼくのほうがお母さんより罪の意識が大きかったと思う。節ちゃんがせっかく悪い女のまま別れたのに、それをむだにする感じでね。……あの日節ちゃんはぼくに、セックスしたくてきたのかって言った。些細な言葉だと節ちゃんは思うかもしれない。でも、その言葉はぼくの根底を揺すぶる侮辱だったんだ。それ以来思い出すたびに、節ちゃんはぼくの憂鬱の種になった。たとえいっときでも本気で好きになった女だったからね。だから、あんな形で破局を迎えたのが中途半端な気がした。その憂鬱を消し去りたいと思った。新鮮な気持ちで歩み出したいと思った。これは重要なことなんだよ。ぼくにはカズちゃんという好きな人がいる。彼女を心から好きになったのは、節ちゃんに会ってから何カ月か経ったあとだ。その意味では、ぼくは節ちゃんを裏切っていたことになる。ぼくはカズちゃんのおかげでずっと幸福だったけれど、心の底ではいつも節ちゃんという女に翻弄されてきた。すばらしい出会いだったからね」
 節子はうなだれた。心なしか目の縁が赤らんでいる。
「あのとき、ほんとに私のことを心配してきてくれたんだって、いまはわかります。むしゃくしゃした気持ちにまかせてあんなことを言ってしまって……。私を罰してほしい。抱いてくれなんて言いません。ずっとそばにいさせてください。キョウちゃんを見守ることだけで、私、じゅうぶん生きていけるんです」
 見上げた頬に涙が流れていた。
「わかった。ぼくのほうからときどき訪ねてくるよ」
「うれしい。ほんとに何と言って感謝したらいいか」
 私は節子の手を引き寄せて握った。金を払って表に出た。
「……もし癌だとして、手術費用はどれくらいだろう」
「だいじょうぶです、おかあさんは癌保険に入ってるから。入院費も含めて、五万円ぐらいですみます」
「どうにもならないときは、言ってね」
「ありがとう。鬱陶しいでしょうね。私たち親子の人生に巻きこまれて。堪忍してくださいね」
「二人が素直に生きてれば、ぼくが鬱陶しくなる理由なんかぜんぜんない。明るくしててくれれば、ぼくはそれだけでいいんだ」
「キョウちゃん……」
「お母さん、晩めし、自分で用意できたかな」
「心配ないわ。手術まではふつうに動けますから。たぶんあさってから入院だと思う。とにかく心配しないで」
「今夜は不謹慎なことをしたくない」
「わかってます。いつまでも待ってます。キョウちゃん……愛してます。じゃ、さよなら」
「さよなら」
 あの外股でチョコチョコ帰っていく後ろ姿を見て、無性に哀れになった。
「節ちゃん、待って!」
 泣き笑いの顔が振り向いた。
         †
 節子は奥の四畳半にきちんと蒲団を敷き、その蒲団の上で、ふくらんだ頬を横向けながら、青いデニムのスカートを脱ぎ下ろした。パンティストッキングを脱ぎ、下着姿になった。母親と同じような股上の深い下着だった。私は彼女の肌の色を自分の腕の色と比べた。こんなに地黒の肌だったろうかと思った。
 節子は蛍光灯を豆燭にして、下着をつけたまま蒲団にもぐりこんだ。目をつぶっている。何年前、どの季節に、どんなふうに、このからだを抱いたのか思い出せなかった。私は衣服を脱ぎ捨て、蒲団を剥いだ。ブラジャーを外し、パンティを引き下ろした。私の性器に血液がみなぎってくる気配はなかった。探ると、彼女も濡れていなかった。私は仰向いた。
 だらりと力のない性器が生暖かい濡れたもので包まれた。節子が柔らかく口で包みこんでいた。彼女は懸命に私を奮い立たせようとしていた。私は感激した。たちまち血が流れこんだ。からだの向きを変え、乳房をつかんですぐに挿入した。いつの間にか節子もじゅうぶん濡れていた。感覚も何もなくひたすら動いた。やがて節子の高潮が訪れ、喜悦の声を発しながらかなり強く気をやった。私に快感はなかった。つづけて二度、三度と節子はアクメに達する。それでも私には訪れはない。
「あああ、キョウちゃん、ごめんなさい、もうイケない、あ、イク、イクウウ!」
 節子が痙攣をしているうちに、私は激しく腰を往復させた。節子は喉をつめるようにしてアクメの発声を吐き出し、膣で何度もその証拠を示す。
「もうだめェ!」
 ついに私は射精した。
「うれしい!」
 節子は私の胸を押すようにひたと手を置き、歯を噛みしめ三度、四度と気をやりつづけた。じゅうぶんに痙攣して落ち着いた節子は、強く私を抱き寄せ、いつまでも離さなかった。ようやく節子のからだが長まり、私は蛍光灯の紐を引いた。節子の顔が真っ赤だった。
「キョウちゃん……一生懸命おかあさんに操を立てようとしてくれたのね。でも最後はちゃんと出してくれた……ありがとう」
 私はうなずいた。
「許してね。あのときも、ほんとは抱いてほしかったの。高校生のキョウちゃんが、ズルズルだめになってしまうと思ってがまんしたの」
「……もう離れるのはよそうね」
「はい、ぜったい。……死ぬほど愛してます。……お金を用意してくれた和子さんというかたに、くれぐれもよろしくおっしゃってください。心から感謝していますって。キョウちゃん……私、これからは一所懸命生きていきますから、どうか見捨てないでくださいね」
         †
 節子と大鳥居の交差点で別れ、自転車を飛ばして岩塚へ帰った。道の途中で、革靴の汚れがひどく目立ったので、自転車を降り、しゃがみこんでハンカチで拭った。
 シロが走って出迎えた。食堂に社員たちの姿はなく、インコと母しかいなかった。母はテレビをかけっぱなしにしながら新聞を読んでいた。
「遅かったね」
 ギロリと見た。
「夕食、ごちそうになった」
「しっかり勉強してきたのか」
「へたばるほど。散歩さえしなかった」
「またあしたから図書館かい」
「うん。……二学期が始まるまでに、西高のそばにアパートを借りたいな」
「どうして? ここだと不都合があるのかい」
「そろそろ本格的に受験態勢に入りたいんだ。やっぱり寮にはなんとなく自由の利かないものがあるからね」
「社員たちがうるさいか」
「まさか。励みになってるよ。……片道四十分は遠すぎるんだ」
「そんな贅沢言い出したら、キリがないだろ」
「贅沢言ってることはわかってる。でも、通学にむだな時間を使わないで、好きなだけ部屋に閉じこもりたいんだ。たった半年なんだから。金はじゅうぶんあるし、心配ないよ」
 母は煙草の煙に目を細めながら、考えこむようにうつむいた。
「ま、おまえが自分で見つけて、自分で金を払うなら、私は何も言わない。たまに洗濯物は取りにいってやるし、新しい下着やシャツも届けてやる」
 それで話はすんなり落着した。拍子抜けした。
「……浪人していいよ」
「え?」
「東大に受かるなら、一年ぐらい浪人していい」
「………」
「ただ、学問してくれ」
「浪人はしない。おふくろの顔は潰さないよ。……おふくろの眼鏡どおり、ぼくに学問の能力はないよ」
「あってもなくても、学問しなければ、タダの人になる」
 それが願いだろう。
「野球選手はタダの人?」
「それ以下だ。おまえの気持ちはお見通しだからね。一攫千金を夢見る人生なんてロクなものになりゃしない」
 タダの人以下になることも承知しない。名声を得る可能性があるからだ。もう何を話してもむだだ。
「ぼくは何も夢見てないよ。呪われた人生だと思ってるからね」
「好きなことをやれなきゃ呪われてるのか。それならこの世のみんな呪われてるだろ。根も葉もない話だ。好きなことをするやつが人を呪いにかけるんだよ」
「とにかく二学期からアパート暮らしをするよ。青森みたいに」
「受からなかったら、そこで浪人しなさい。会社の人に顔向けできないからね」
 もう一年浪人させることで、野球から遠ざけてキッチリ潰し切り、塗炭の苦しみを味合わせようというのか。
 部屋に戻り、机に向かう。むしゃくしゃする。手紙でも書いて時間を潰そうかと思ったが、やめた。ときどき山口には音信をする。彼のほかにはだれにも書かない。この一年、筆まめの人ではないばっちゃからは当然のごとく音はなく、じっちゃからは月に一度ぐらい定期便がある。読みにくい崩し文字の内容はいつも同じで、日々健康留意のこと、学問精励刻苦のこと、人生勇往邁進のこと。母の話だと、じっちゃはむかしから手紙など書かない人だという。青白い筋立った大きな手で傘のステッキを引きずりながら、郵便局まで歩いていくじっちゃの後ろ姿が浮かぶ。ばっちゃの笑顔を思い起こすときも、その陽気さをさびしく感じる。彼らの愛情に見守られながら杉の木のように成長したというのに、胸に時おりさびしい風を吹かせながら、とりたてて思うところもなく放っておく。
 見回すと、掃除をした気配がある。抽斗を開ける。微妙に動かした跡があったが、予想していたことなので、驚きもしなかった。色紙を取り出して眺めた。ワスレナグサノツモリ・梅津恵子というサインの下に、紫色の小さな花が描いてあることに初めて気づいた。青と白の縞模様のスタンド敷きを見つめる。彼女たちに呼びかける言葉がない。馴染んだ人びとがなしくずしに疎遠になっていくということは、その人間にもともと関心がなかったということになる。クマさんや荒田さんをはじめとする西松建設の社員たち、奥山先生と学友たち、ヒデさん、葛西さん一家、ユリさん、小笠原、木谷千佳子、色紙をくれた女たち……彼らに関心がなかったと思うのはつらい。
 赤摂也の数学ⅡBの参考書をカバンから引き出し、ベクトルの勉強に取りかかる。
        †
 七月二十六日水曜日。快晴。八時半。ジャージ姿で河原に向かう。ユニフォームに着替え、ひと練習のあと、カズちゃんと菅野とポットのコーヒーを飲み、もう一度ジャージに着替えて中村図書館へ。
 落ち着かない気持ちで、二時まで数学ⅡBだけをやる。ロビーの公衆電話からカズちゃんに連絡を入れる。素子が出た。カズちゃんに代わってもらい、文江さんのことをかいつまんで報告する。
「きょう検査して、で、悪ければきょうから入院かもしれないわけね。わかった。転移してないといいわね。トモヨさんには、しばらく知らせないことにする。私、いまから節子さんと連絡をとって、素ちゃんといっしょに日赤にいってくるわ。図書館の帰りにまた電話ちょうだい。入院が長期にわたるようなら、お見舞いの計画を練りましょう。しっかり勉強してください」
 五時ごろ電話しようと図書館の玄関へ向かうと、カズちゃんと素子がロビーのベンチに坐っていた。手を上げて表へ出る。自転車を牽きながら三人並んで大門のほうへ歩き出す。
「節子さんに初めて会ったわ。かわいらしい人。キョウちゃんが好きになるのも無理もないと思った。……やつれちゃって、気の毒なくらい。お母さんのほうが健康そうだった。……子宮の入口と子宮の本体に合わせて四カ所。子宮の中は膿でいっぱいだったって。片方の腎臓に転移が発見されて……膣の上部と子宮をぜんぶ摘出して、腎臓を片一方取って……。それから少なくともひと月ぐらい入院ですって」
「助かるんだ!」
「一年以内に転移が見られなければ、ね」
「よかった!」
 素子も潤み目で笑い、
「私、ちゃんと自己紹介した。節子さんの話やら、康男さんの話やら、ぜんぶ聞いたよ。驚いたわ。私とお姉さんでときどき見舞いにいくから、心配せんと勉強してや」
「〈お姉さん〉が板についたね。いいね」
「文江さんには、大きな子宮筋腫の一部を切除するということにしてあるから、話を合わせてね。退院まで個室にしてもらったわ。見舞いにいきやすいように」
「女として、もう……」
「キョウちゃんはやさしい人ね。私もお医者さんに尋いてみたの。半年から一年ぐらいはオーガズムはないらしいけど、徐々に回復するみたい。いままでよりも強く感じるようになる例もあるんですって。文江さんにそっと教えてあげた。泣いてた」
 言いながら自分も泣いている。素子ももらい泣きをする。
「それより、手術がうまくいくことを祈りましょう。節子さんていい人よ。キョウちゃんを追いこんでしまったのは、自分の優柔不断のせいだ、苦しいときのキョウちゃんを励ましてくれて、お礼の言いようもない、キョウちゃんにかわいがってもらえる筋合いじゃないけど、陰に日に精いっぱい尽くしたいって言ってたわ」
「手術は?」
「八月の五日、土曜日の二時。三人でいきましょう。節子さんもお休みするって。テレビ塔には三カ月の休暇届を出したらしいわ。手術前にも一度、顔を見にいかなくちゃ。見舞い時間は三時から五時まで」
「六日の日曜日が模擬試験なんだ。ぶつからなくてよかった」
「ぶつかっても、キョウちゃんはいくでしょ。トモヨさんの予定日は八月十日ですって」
「カズちゃんが三月三日、ぼくが五月五日、トモヨさんが十一月十一日。八月八日がいいな」
「そんなにうまくいくもんですか。おかしなこと言うんだから」


         六十四

 晩めしどきになって、食堂へいった。またカレーとクリームシチューだ。
「痩せたぞ」
 山崎さんにあご先をつままれた。所長が入ってきて、 
「お、キョウ、どんな参考書使ってる?」
「小西甚一の古文研究法、赤摂也の数Ⅰ、数ⅡBぐらいです」
「赤摂也? 知らんなあ。問題集は?」
「梶木隆一英語難問集。理・社は教科書のみです。この休み中に、二年分の数学の教科書を復習し終えるつもりです」
「英・国は」
「得意科目なんで、やりません。これから入試まで、英単語と古文単語と漢文句法の確認ぐらいはしようと思ってます」
 食堂がひとしきり感嘆の声でさざめいた。
「万一ほしい参考書が出てきたら、遠慮なく言え。すぐに手に入れてやる」
「ありがとうございます。大学レベルの英文法書だったら、読んでもおもしろいかもしれませんね」
「また、大風呂敷広げないの。早くごはんをすまして、勉強しなさい」
 母に駆り立てられ、私はカレーをあわてて掻きこむと、
「勉強、勉強、お勉強」
 と声に出しながら、別棟に退却した。笑い声が追いかけてきた。 
 ペギー・マーチのテープを回しながら、数ⅡBのつづき。五問ほどやると、目にが浮かんだ。テープを止め、時刻も確かめず床に入り、かなり以前に読み差していたバルザックの『幻滅』を開いた。印刷機の歴史の章を読んでいるうちに、いつのまにか眠りこんだ。
         †
 翌二十七日、図書館を二時に切り上げて、トモヨさんに会いに北村席へいった。
 玄関にいいにおいがしていた。ちょうどオヤツの時間で、前座敷も奥座敷も、みんなめいめいくつろいでいる。母親までいっしょになって台所に立っていた。麻雀牌を掻き混ぜる音がする。
「おお、神無月さん。いらっしゃい。トモヨ! 神無月さんだぞ」
 女たちが盛りつけを終わって、おトキさんや賄いといっしょになってぞろぞろ出てくる。オヤツはうなぎだった。箸を割る音がほうぼうで立つ。おトキさんが、
「夏の土用のうなぎです。トビウオを小麦粉でカリッと揚げて、よく冷やしたのもありますけど、それも食べますか」
「トビウオは淡白で好きじゃないけど、揚げたら味わいがちがうかもしれないね。食べてみる。野辺地の祖父が、トビウオは魚の王様だと言ってた」
 トモヨさんが横にきて、ヨイショと言いながらゆるゆる腰を下ろした。
「うわ、なに、そのお腹! 相撲取りよりすごいな」
 大きく笑いながらトモヨさんは横坐りになった。まるでオットセイだ。
「そこまでふくらんで、ちゃんともとに戻るの?」
「努力しだいです」
「トビウオ、うまい! でも小骨が多いな」
「だいじょうぶ、よく揚げてありますから。そのまま食べてください」
 主人もオットセイを横目に見て、
「トモヨ、ほんとにその腹戻さんかったら、抱いてもらえんぞ」
「はい、よくわかってます。出産後は和子お嬢さんと運動することになってますから」
「予定日は八月十日だったな」
「一週間ぐらい早まるかもしれないそうです。八月二日か、三日」
「あら、うなぎもおいしい!」
 女将が声を上げた。父親が、
「きょうは、和子はどうした?」
「素ちゃんと水泳にいっとるが。夜にはお腹すいたって帰ってくるやろ。素ちゃんはええ性格の子やな。さすが神無月さんのお気に入りや。あんな純真な子を、よういままで立ちん坊させとったな。あれは引き取ったらんとあかん。和子といっしょにおふくろさんとこへ掛け合いにいってきた。月十万出す言うたら二つ返事やった。素ちゃんは稼ぎの悪い子やったから、十万もらったほうが得や言うてな。もともと稼ぎのええ妹に立ちん坊させて生活しとったらしいから、ボーナスが入ったて喜んどったわ。金の亡者やで」
 私は、
「素子もやっと幸せになれた。よかった」
 いっしょにプールへいこうとカズちゃんと約束していたことを思い出した。女将が、
「和子とは、よう会っとりますか」
「べったりです。何かといえばすぐに会います」
「まちがって、和子も妊娠せんかなあ」
「彼女は慎重です。まるで母親です。この齢になって、ぼくもようやく母親を持てました。そしてすぐに父親になります」
 座敷全体に笑いが満ちた。おトキさんが、
「夏に生まれた子は明るい言いますよ。いちばん明るいのは五月生まれで、いちばん暗いのは十月生まれやそうです」
「どこで聞いた話や?」
「イギリスやらの研究で、そんな結果が出たって、女性自身に書いたりました」
 賄いたちがうなずく。
「なんや、女ものの雑誌かい。でもうれしいな。この子は真夏やぞ。めちゃくちゃ明るいで。神無月さん、何か名前考えてありますか」
「はい、シンプルなやつを。男なら直人、女なら直子」
「すてき……。季節関係なく、素直な子。明るい暗いは生まれもっての気質ですものね。素直ならば人に好かれます。郷くんみたいに」
「ぼくみたいに馬鹿じゃだめだよ。ちゃんと利口で、素直でないと」
 おトキさんさんが、
「神無月さんや山口さんは、よく自分のことを馬鹿馬鹿と言いますが、利口ってどういうのですか」
 主人が、
「おトキ、ワシらみたいな人間を利口と言うんだよ。自力で生きていける人間だ。他人に助けられなければ生きていけない人間を、馬鹿と言ってな、こりゃ変種だ。かわいらしくて、冴えたところがないと、他人は助ける気にならない。つまり天才的でないとだめだということや。もちろん、本人たちだけが馬鹿と言ってるだけで、ワシらから見れば馬鹿どころか、利口の最たるものや。神無月さん、松葉会へのおとりなし、ありがとうございました。神無月さんが〈馬鹿〉なおかげで、ワシらはええ目を見さしてもらうことになりましたわ。うんと馬鹿でいてください。たっぷり援助しますから」
 玄米茶が出た。
「あれは勝手に若頭が言い出したことですよ」
「いいえ、神無月さんの〈顔〉です。和子からよう聞いとります」
「でもミカジメとかいうものを取られるんでしょう」
「純利の二パーセントでええ言うてくれました。いろいろハイエナがおると純利の二十パーセント以上は持ってかれると思っとりましたから、二パーセントはタダみたいなもんですわ。あとは店二軒分の運営費、設備費、人件費、銀行さんへの返済、それに税金を払えばええだけです。純利の三割は回転資金に持ってけます。名古屋じゃ、松葉会さんは、山口組系から分家したいちばん大きい組織ですから、睨みをきかせてもらえば怖いものなしです」
 女たちが、ありがとうございます、と声を揃えて頭を下げた。どれほど利益の出る商売なのか想像もつかない。女将が、
「お礼に、神無月さんが大学へいったら、毎月仕送りさせていただきます。お母さんの財布の紐が固いと聞いとりますから」
「自分の手柄でないことでボタモチをいただくのがぼくの運向きのようですから、遠慮なくいただきます。ちょっと撫でさせて」
 トモヨさんのお腹をさする。
「奇妙だ。なんでこんなに大きくなる必要があるんだろう」
「このあいだ、ニューッて足の形がお腹から突き出したときは、びっくりしました」
 また同じことを言っている。何度しゃべってもしゃべり足りないのだ。
「そりゃ、将来は運動選手だな。どうですか、神無月さん」
「おまかせします。何にでもしてやってください。女の子なら、ぼくみたいな角ツラでなければいいなあ」
「私は、丸いのとか、長いのは苦手です。このごろそういう男が多くて、ガッカリしちゃう。女の子なら別だけど」
 トモヨさんが言う。また文江さんのことを思い出した。この部屋で明るく笑っている女たちの子宮は健康だ。子宮癌のいちばんの原因は、男の恥垢に潜んでいるウィルスだと節子が言っていた。そのウィルスは膣内細菌の免疫力のおかげでほとんど死に絶えるけれども、長年生き延びて癌を発症させる悪質なものもいるのだという。
 いつも衛生器具を用いて客と接するここの女たちは、そういう不幸には陥らない。西松の社員たちは、恥垢をきれいに洗え、と私をしっかり教育した。文江さんはもとの亭主しか男を知らない。あたりまえの礼儀を守らなかった男のために、文江さんは大切な女の命を蹂躙されてしまった。この部屋の女たちの明るさと、病院のベッドにいる文江さんの悲しみは、あまりに対照的だ。
「じゃ、トモヨさん、ぼくいまから文江さんの見舞いにいくよ。そのまま図書館に戻る。産まれるときはかけつけるからね」
「無理しないでくださいね。生まれるものは、何があっても生まれるんですから」
「そりゃそうだけど。ドラマチックなことをしてみたいんだ。おトキさん、ごちそうさまでした。ひと月後にまた山口がきますよ。楽しみですね。お父さん、お母さん、またきます。見送らなくていいです、恥ずかしいですから」
         †
 名古屋第一赤十字病院、通称中村日赤。三階建て正面外壁の上端に大きい真っ赤な十字が貼りついている。水平線を基調とした彫りの深いデザインや、円筒形の階段塔がめずらしい。牛巻病院の十倍もありそうな大病院だ。菅野の話によると、市内最古の病院建築だそうだ。大小三棟もある。大きい古風な玄関を入って案内に尋ねると、五番窓口へいって尋くようにと言われる。五番窓口で、
「二階の六号室、婦人科病棟個室です」
 と教えられた。西洋の城館のような造りの院内を眺め回してから、広い階段を上る。文江さんの病室はすぐにわかった。ピンクのパジャマを着せられた色白の文江さんが、これ以上ないほど清潔なベッドに横たわっていた。産科病棟でないので赤ん坊の泣き声も聞こえず、静かだ。十帖もある個室で、トイレ、洗面台、冷蔵庫、テレビがついている。
「ひゃあ! キョウちゃん、きてくれたん」
「すごい部屋だね。筋腫を切り取るぐらいのことで、贅沢すぎないかなあ」
「ほんと、贅沢。食事もおいしいんよ」
「見舞い品なーし。図書館からきたから」
「そんなもん、いらんわ」
「よかったね、娘が看護婦してて、こんないいところ見つけてもらって」
「この部屋に入れたのは、和子さんのおかげやよ。くれぐれもお礼言っといてね。聞いて聞いて」
「なになに」
 うれしくてしょうがないという笑顔で、
「縦にお腹切って、傷跡はほとんど残らんのやと。どうして縦に切るかというとね、筋肉のスジが縦に走っとるもんで、横に切ると筋肉のスジを傷つけるからやって。お医者や看護婦さんがやさしいんよ。紹介状がないと割増料金らしいわ。駐車場は広いし、一階の売店には何でも売っとるし、九時まで開いとる。見舞いの人が利用できるレストランもあるんよ。そっからの見晴らしがええの。カツサンドは部屋に持って帰ってもええし、お風呂はきれいな共同風呂でシャワーもついとるし、掃除婦さんも毎日ここにくるんやけど、すごく愛想がええの」
 蓄えたすべての情報を吐き出そうとする。
「検査は終わったの?」
「ぜんぶ終わった。一日がかりやった。痛くも何ともなかった。……子宮、取ってまうんよ。ごめんね」
 悲しそうな顔になる。
「たくさん生きたから、イボみたいなのができちゃったんだね。余計なものを切り取ったスッキリおべんちょ、どんな活躍するか楽しみだね」
 あの夜、康男のかたわらで恥じらいながら小声で言った秘部の名前を、ふつうの声で言った。
「キョウちゃんは、神さまみたいな人やね。ありがとう」
「元気な顔を見てホッとした。じゃ、手術の日にくるよ。ほら、よくテレビドラマでやってるみたいに、搬送車で運ばれていくとき、がんばれって声かけるだろ、あれをやってみたいんだ。手術が無事に終わったら、翌日は模擬試験だ。ぼくもがんばるからね」
「キョウちゃん」
「なに」
「愛しとるよ」
「ぼくもだよ。じゃ、五日にね。さびしがっちゃだめだよ」
「うん、わかっとる、さいなら」
 廊下に出ると、涙が噴き出した。死ぬと決まっていないのに、ぜったいに死ぬと強く感じたのだ。他人の生死に心が動く―山田三樹夫のときは、その命よりも知性の喪失をいとおしんだ。いまは命そのものの喪失に深く胸をえぐられる。
 いつのことだったろう、溌溂とグランドを駆け回り、ホームラン記録を打ち立て、人びとから讃えられ、野球のことだけに気持ちを浮き沈みさせて暮らしていたのは。いずれ名門校の野球部で活躍し、ちらほらプロのスカウトの目を惹くようになる、そうしてひとたびスカウトされたら、天命にしたがってプロ野球の世界へ飛び出してゆく、そんなふうに自分の命の飛翔だけを夢見ていたのは―。
 他人の人生の不幸に胸を騒がすというある種の愛他は、いまに始まったわけではない。何年かすれば、何かの幸運に導かれて成功の階段のふもとにたどり着き、一段、一段昇りはじめるにちがいないという〈私の〉希望が、虹の使いの背中とともに去っていったあのときから始まったのでもない。北の果ての辺鄙な収容所に送りこまれ、計画のすべてがおじゃんになって、殺風景な小部屋の冷たい蒲団にもぐってからだを丸めながら、それでもなお、一縷の希望にしがみつこうとする〈私を〉憐れんだあのときからでもない。野球を忘れ、一人ひとりの他人に会いはじめたときからだった。


         六十五

 七月三十日日曜日、河原の練習。飛島の社員たちがシロを連れて見物にきて、何人かの人びとにまぎれて盛んに声援を飛ばし、盛んに拍手した。フリーバッティングには奇声を上げて喜んでいた。二時間集中して励んで切り上げ、所長たちに手を振った。彼らはうれしそうにしゃべり合いながら帰っていった。徒歩だと一時間もかかる道のりだ。佐伯さんの運転させて車できたのだろう。
 ユニフォームからジャージに着替え、車と自転車の泣き別れ。どこも寄り道せず、図書館へ。みっちり勉強した。ドラゴンズメモはとらなかった。
 晩めしどき、大沼所長はじめ、だれ一人河原のカの字も口に出さなかった。そんな話を持ち出せば、母子の関係ばかりでなく、私の野球人生が風雲急を告げるとしっかりわかっているのだ。
 夜十時過ぎ、シロと散歩に出て、公衆電話からカズちゃんに電話をする。西高のそばにアパートを見つけてほしいと頼んだ。
「八月中でいいんだ」
「本格的に勉強態勢に入るわけね」
「そう。ドラフト騒ぎに悩まされる心配もなさそうだし」
「わかった。一路邁進、がんばりましょ。あさっては練習のあとプールにいくわよ」
「オッケー」
 三十一日も河原の練習から始めて図書館まで同じスケジュール。図書館での勉強を読書に切り替え、二日間で暗夜行路を読了した。終章の時任謙作の直子に対する許しに、腑に落ちないものを感じる。それまでの神経病みの彼の人生行路を〈暗夜〉と感じられないのでなおさらだ。出生のいきさつなど、どうでもいいことだ。この世に生まれ落とされたことだけを喜べばよい。妻の浮気をきっかけに人間を離れ山にこもって大自然に触れる―自然の中に身を置く程度のことで人間の矮小性を悟るなぞ、凡愚の骨頂だろう。胸が痛むのは、乳幼児にはめずらしい丹毒という病で死んだ赤ん坊の身の上だった。私はその子の命の途絶がなんとも憐れで仕方がなかった。
 八月一日の晩めしどき、もう社員たちが腹ごしらえを終わり、一杯ひっかけてメーターを上げているところへ、風呂から上がってきたステテコ姿の大沼所長が、笑いながら私に一冊の新本を差し出した。私は酒席の喧騒の中で、相変わらず遅い晩めしを食っていた。
「何ですか?」
「江川泰一朗の『英文法解説』だ。これなら、大学教養レベルだ。気に入るだろう」
「ありがとうございます」
 私はその分厚い本表紙を撫ぜながら遠慮がちに言った。
「あのう……家永三郎と黒田清隆共著の『新講日本史』は手に入りますか」
「まあ、この子ったら、図々しい!」
 母が目を三角にした。
「いや、図々しくない。いま教科書裁判で騒がれている学者だな。すぐ手配してやる。受験の理科社会の選択科目は?」
「日本史、世界史、生物、地学です」
         †
 八月二日は朝からカンカン照りだった。一時間で練習を切り上げる。
 カズちゃんとプールへいく約束を実行すべく、図書館から電話をした。
 花の木の式台に水着姿の二人が出迎えた。二人とも背中が開き、肩紐が別れてつながった紺のワンピース。基本的なもので、それがかえって妖艶だ。
「いいねえ!」
「脱いだり着たりが簡単なの。はい、キョウちゃんの海パン、ボックス型のL」
 これも紺で、彼女たちと色を統一している。さすがにここで着替えるのは恥ずかしい。
「ありがとう。現場で着替えるよ」
「トモヨさん、まだ一週間ぐらいだいじょうぶみたい。どうしても台所に立とうとするから、毎日おとうさんに叱られてる。ようし、きょうは泳ぐわよ」
「ぼくは平泳ぎしかできないよ。クロールをすると沈んじゃう」
 素子が、
「あたしも平泳ぎしかできん」
「じゃ、平泳ぎで競争よ」
 女たちは水着の上に平服を着、バスタオルと着替えを持った。私はカバンを持って出る。素子はここに移ったとき自転車も買ってもらったようで、カズちゃんの自転車に並んで女物の自転車がピカピカ光っている。三人自転車を漕いで、青果市場の裏の枇杷島プールというところへいった。バッティングセンターが隣接していたので、帰りに寄っていくことにした。三十球・百円と看板が出ている。
「百円ぐらい打っていくよ」
「人が寄ってくるゾー」
「ミートだけ心がけるから、目立たないと思うよ。軟式バットは強く振ると筋肉を傷める」
 入口で五十円を払い、アーケードをくぐる。すぐ屋外のプールサイドに出た。芋を洗うほどではないが満員だ。コースロープを張った競泳プールの長さは五十メートル、その隣に子供用の楕円形の遊戯プール。涼しげな配置がしっくりくる。それぞれ更衣室に入り、ロッカーに衣類とカバンを入れ、海パンを穿き、シャワーを浴びて出陣。水泳キャップをかぶったマネキンのようなカズちゃんと素子がプールサイドに立って待っている。彼女たちに比べると、すべての女ができそこないに見える。
「飛びこむのは危ないから、まず水中で歩こう」
 二人でひんやりする水に入り、ロープを伝って歩きはじめる。すぐ深くなり、平泳ぎに移る。立ち泳ぎしたり抜き手を切ったりするカズちゃんのフォームが美しい。五メートルも泳ぐとすぐ人にぶつかりそうになる。
「五月ぐらいからかよってるんだよね」
「そう。夏まではこんなに人がいないから、のびのび泳げたんだけど」
 ロープの下にもぐり、人のいないコースを選んで泳いでいく。素子も同じようについていく。私もまねをする。
「お、このレーンは人がいない。ここから競争だ」
 平泳ぎで二人をたちまち引き離していく。青高の五十メートルプールと同様、いまも自分が水を征服していることをはっきり感じた。
「速ァい!」
 カズちゃんの明るい笑い声が上がる。隣のコースへ移って引き返すと、クロールで追ってくる。追いつかれ、追い抜かれる。愉快だ! 素子も平泳ぎで懸命に泳いでくる。
「まいった!」
 カズちゃんはザッと水から上がり、私と素子を待つ。私たちもゴールに達し、水から上がる。
「すごいな、カズちゃんのクロールは」
「キョウちゃんの平泳ぎも。素ちゃんは子供っぽくてかわいらしい」
「うちのは、ほとんど犬かきやわ」
 プールサイドに三人並んで腰を下ろす。ガスバーナーのような陽が照りつける。ひっきりなしに人が飛びこむ。
「もう一泳ぎしたいけど、無理だね」
「そうね、バッティングセンターへいきましょ」
 着替えて表に出る。海パンをカズちゃんに返す。湯上りのような髪をした女が、大バッグとビニール袋を提げて歩く。まだカンカン照り。プールサイドよりも陽射しを烈しく感じる。
「あら、下駄できちゃったの?」
「うん、涼しいからね。だいじょうぶ、裸足で打つよ」
 ここも満員だ。人びとはあらゆる事情からあらゆる場所に寄り集まる。人混みに不平は言えない。右端の狭苦しいボックスが空くまで待つ。一塁ベースと三塁ベースをイメージしなければ、ボールを正確に打つことはできないが、仕方がない。自分に向かってくるボールを想像するだけで緊張する。バッティングという一連の動作が完全に終了するまでその緊張は持続する。それはソフトボールであろうと、軟式、硬式であろうと変わらない。
 二人待ちで空いた。球速百二十キロと書いてある。カズちゃんと素子はにこにこ笑いながらベンチに控えた。ボックスに入って裸足になり、百円硬貨を投入し構える。バットが軽すぎるががまんする。縦長の奇妙な穴からシュッとボールが飛び出てきた。空振り。カズちゃんが、
「ワッ!」
 と驚きの声を上げた。一瞬で理解した。百二十キロでは球速が遅すぎる。ピッチャーまでの距離を縮めないとふつうのタイミングで打てない。コンクリートの斜面を二メートルほど降りる。降りているうちに二球目がきた。顔のあたりに百二十キロ程度の山なりの直球がはっきり見えた。三球目。きっちりミートする。ライトライナー。すぐ右側がネットだったが、飛んでいく先をイメージできる。四球目、やはり顔のあたりにくる。芯を食ってホームランの角度でネットへ。カズちゃんがパチパチと拍手をする。つづけて十球ほど、ライトとセンターへホームラン。人が群がり集まってきた。
「すげえ!」
「百発百中だがや」
 最後の十球のうち三球、ピッチャーライナーを返すように、手首を利かせてするどく叩く。ボールの出てくる穴のあたりにきっちり飛んでいく。残り七球をすべてライトへホームラン。軽く振ったが、硬式ボールのイメージでは場外が三本。三十本終了した。次に控えていた中年の男が、
「どちらか、野球部の方ですか」
 カズちゃんが、
「北の怪物、神無月郷よ。新聞で騒がれてるから知ってるでしょう。名西の三年生。いま野球はお休み中」
 オーッと客たちが騒ぎだす。私は斜面を戻って下駄を履き、群がってくる人たちにお辞儀をしながらすり抜け、二人の女と早足で表へ出る。自転車を牽いて歩き出す。
「だめだよ、カズちゃん。あんなこと言っちゃ」
「だって、すごいんだもの。つい自慢したくなっちゃった」
「張り切りすぎて、首筋をちょっとひねったかな」
 首を回しているうちに腹の底から笑いが湧き上がってきた。アハハ、オホホとしばらく笑いながら歩いた。信号を渡ったところに『やま』という喫茶店があった。
「ここの鉄板スパゲティおいしいのよ。食べていきましょ」
 しっとり古びた店内だった。冷コーを飲みながら、焦げ茶色の店内を見回す。カズちゃんが腕をこまねきながら、
「すごすぎるわ、キョウちゃんの野球。東大、優勝するかもしれない」
「楽しみだ。一球一球集中して打つとくたくたになるけど、緊張感が解けたときのくつろぎは口じゃ言い表せない。この落差が生命感だと思う」
 木皿に載せた鉄板スパゲティが出てくる。目玉焼で覆い、ミートソースがかけてある。
「ああ、たしかにうまいな」
 カズちゃんはスパゲティをフォークに巻いてもりもり食べる。素子も見よう見まねでフォークに巻いて口に運ぶ。私もたちまち平らげる。
「二人の水着姿の美しさはとんでもないものだね。二人を女の基準にしちゃいけないとは思うけど、ついほかの女と比べてしまう」
「うれしいこと。キョウちゃんの好みの顔とからだに生まれてラッキーだったわ」
「うちも―よね」
「もちろん」
 カズちゃんはフォークを置いて、静かに微笑んだ。素子はニッコリ笑ったきり、自分の美も何も意識せず、食欲にウツツを抜かしはじめる。
「素子、花の木の生活は慣れた?」
「うん。お姫さまみたいに暮らしとる。あのお金、めちゃくちゃ役立ったよ。でも、女将さんのおかげで要らなくなっちゃった」
「貯金しとけばいい」
「うん。……私も働きたいなあ。炊事洗濯なんか働いててもできるし」
「ゆっくり探しましょ。履歴書を工夫してね」
「ほうやなあ……」
 履歴書か。たしかに、もとストリートガールとは書けない。一介の労働者になるのにもしかつめらしく篩をかけられなければならないのか。
「じゃ、ぼく、図書館へいくよ。毎日電話入れる。トモヨさんをよろしく」
「安心して。文江さんの手術の時間も確かめとく。あ、そうだ、これ」
 大バッグから白い封筒を取り出して差し出す。
「三学期の分。五十万円入ってる。大学に入ったら、三カ月ごとにするわ」
「これで一年もつよ。大学にいったら、お父さんお母さんが毎月送ると言ってたし」
「それはそれ。私は私。お金で自由を奪われるのは切ないことよ。あげるというものは遠慮なくもらっときなさい」
 言いながら私のカバンの底に忍ばせる。
「ありがとう。またとつぜん使っちゃうかもしれない。じゃ、素子、またね」
「さよなら」
 そのカバンを手に喫茶店のドアを出て、大きなウィンドーから二人の女に手を振る。


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