百二

 八畳の居間の炬燵に寝そべり、さっそく講義を聴く。よしのりはぺろりと唇を舐め、
「まず、去年の十大ニュースと思うものを言ってみろ」
「ブルーシャトーのヒット、グループサウンズ隆盛、特にタイガース、カセット・テープレコーダー発売、ひとつ買ってみないといけないな。ツイッギー来日のせいでミニスカート流行、リカちゃん人形、花のサンフランシスコ、オール・ユー・ニード・イズ・ラブ……EP盤三百三十円、高い!」
 台所で二人の女の笑い声がした。
「お話にならんな。吉田茂死す、羽田デモ、小笠原諸島返還決定、美濃部東京都知事に当選、西日本集中豪雨、南海電鉄事故、ユニバーシアード東京大会、衆院選挙、コラーサ二世号太平洋横断、新潟・山形に集中豪雨。このくらい言ってみろ」
「無理だな。奇跡的に一つも知らない」
 よしのりは首を振り振り、
「東欧が試験に出るなら、いま始まったばかりのプラハの春だな。ひとことで言うと、チェコスロバキアの民主化運動」
 いま始まったばかりなら、試験には出ないだろう。それでも拝聴することにした。
「指導者は共産党第一書記ドプチェク。こいつは、ついこのあいだ選任されたばかりだから、春の芽吹きはこれからだな」
「何からの民主化なんだ」
「権力構造、貧富の較差だな。チェコは、第二次大戦直後に共産党政権が成立して、社会主義共和国になった」
「それまでは何だったんだ」
「チェコスロバキア共和国だ。名前が変わっただけで、中身はいっしょだ。能力給で、貧富の差のある社会だ。そこに共産主義の財産共有・万人平等の概念を着色したのが、民主化というやつだ」
「やっぱり、よくわからない」
「スターリンは、共産主義は資本主義と対立するので戦争は避けられないと言いつづけた男だ。それを批判したのがフルシチョフで、暴力ではなく議会制度を通して平和的に社会主義に移行できると言った。社会主義圏における自由化運動の芽生えだな。この動向にチェコスロバキアは乗り遅れた。そして経済が悪化し、批判が高まった」
「そこでプラハの春か」
 まったくわからないが相槌を打ってみる。
「ああ、西欧文化の採り入れだ。ミニスカート大流行」
「そんなもの採り入れても、ちがう社会体制が入ってくるだけで、貧富の差はなくならないんじゃないの。ましてや、体制のぶつかり合いである戦争はなくならない」
 カズちゃんと素子がコーヒーを持ってきた。カズちゃんが、
「よしのりさん、すごい知識ね。キョウちゃんの知恵袋になってよ」
 私はよしのりに、
「気が早いと思うよ、そんな〈春〉に喜ぶのは。だいたい、フルシチョフはどうなったの」
「穏やかに失墜させられた」
「じゃ、プラハの春というやつも、彼を失墜させた人たちの手で、いずれなきものにされるよ」
「……俺もそう思う」
「この世には、どんな体制の下であっても、権力と非権力しかない。非権力は権力に組み敷かれる。人はそんなことはあきらめて生きなくちゃいけない。体制の下での不平等はあきらめなくちゃいけない。あきらめたくないなら、権力になるべきだ。権力と闘う側になっちゃだめだ。非権力というのはもともとあきらめてるということだから」
 カズちゃんは、なるほど、と言い、
「キョウちゃんが小さいころから社会科が不得意だった理由がわかったわ。表面的な知識しか書いてない教科書や参考書が肌に合わなかったのよ。ただヘヘーと暗記すればいいのに、それを受けつけなかったわけ。文化人のお手本を受け入れるなんてまっぴらよね。英語と国語は言語だから、キョウちゃんのお手のもの。数学や理科の教科書は理屈が通ってて、権力的じゃない。どうにか受け入れられる。でも社会科はだめ。知識人の飲みもの。よしのりさん、ことキョウちゃんに関しては、知恵袋失格。推測や直観を雑ぜてくれないと」
「がんばりまーす。しかし、そんなのは無理なんだよ」
 素子が台所から、
「三十分もしたら、おいしい芋煮ができるよ」
 カズちゃんが台所へ去ると、よしのりは小さい声で、
「ついに女神に会えたな。ちょっといない美人だぜ。飯場にいたなんて信じられんな。頭もいいし、最高だ。もう一人もイロっぽい。口数が少ないし、控えめというのも好感度満点だ。あの先生、気の毒になっちまうな」
「吉永先生か? よしのりはまだ、女のうわべしか見れないんだな。修業が足りん。ぼくも最初はおまえと同じ気持ちだった。不細工で見てられないと思った。付き合っているうちにだんだんわかってきた。顔もそれほど醜くない。意地悪な気持ちや嫉妬がないからだね。吉永先生は女の最高の部類に属するよ」
「俺はどうしても顔を見てしまうけどな。シオンのママもひどい」
「フーテン、読んだよ。名作だ。漫画というよりも、文学だ」
「だろ? 特に何がよかった」
「全十六話、すべてよかった。長暇貧治を狂言回しにして、いろんな人間の切実な人生模様を語らせるんだけど、その〈文体〉が華麗だ。山本周五郎の『青べか物語』や『季節のない街』に匹敵すると思う」
 よしのりは腕組みをして、
「おまえには〈なんとなく〉よかった、というようなことはないのか。いつもそうやってキッチリ分析してるけど」
「特にとおまえに訊かれたわけだから、なんとなくじゃおまえも不満だろ。ふだんはなんとなく以下だ。何も意識しないで、ただ感じてる。漫画のすべてがなんとなくよかったと言うだけじゃ、感想を求めた人間に失礼だろ。だから、おまえを納得させようとした。山本周五郎は吉永先生のおかげで知った」
「へえ」
「ほかに気に入った漫画家はいないか」
「真崎守だな。いわく言いがたい自己探求癖がある」
「そいつは東京で落ち着いたら読もう」
「できたわよ! 芋煮だけ取りにきて。ごはんとお漬物はあとで持ってくから」
 台所からカズちゃんの声がした。どんぶりに芋煮、もう一つのどんぶりにめしが盛られている。私たちは芋煮を両手で捧げ持って居間に運んだ。いいにおいだ。里芋、牛肉、こんにゃく、ごぼう、長ネギ、舞茸。醤油汁にぎっしり詰まっている。
「どれどれ」
 よしのりがつゆをすすった。
「うまい! 本場の山形よりうまい」
「里芋もうまいぞ!」
 カズちゃんが電気釜と漬物を持ってきた。すぐに自分の芋煮も運んでくる。一口すすり、
「ん、よし、今回も成功」
 賑やかな昼めしになった。
「めしのおかずにもなる芋煮なんて初めてだぜ。和子さんは名人だな」
「素ちゃんと合作よ」
「私は切ったり剥いたりするだけ。味つけはお姉さん」
 天麩羅屋と同じように、女二人でモリモリ食う。
「俺、三日から仕事だけどさ、十三日で辞めて、十四日に上京する。十和田の先輩が、阿佐ヶ谷にバーテンの職を見つけてくれた。一足先にいってるぞ」
「そうか、よかったな。予定どおり永島慎二のそばにいけるじゃないか」
 カズちゃんが、
「だれ、その人」
「漫画家。フーテンて作品、聞いたことは?」
「ないわ」
「おもしろいよ。あした持ってくる。阿佐ヶ谷の店の名前は?」
「ラビエン。北口を出てすぐだそうだ」
「四月に東京で会おう」
「おお、待ってるぞ」
 翌日フーテンを取りに戻ると、ドアの前に真崎守の漫画がドッサリ積んであった。新しい。それもいっしょに紐に縛って花の木に持っていった。
         †
 カズちゃんの教習所が再開し、私の規則正しい日々も始まった。食事、勉強、食事、勉強、セックス、風呂、就寝。英語と古文の単語暗記、日本史年表と世界史年表の年号暗記は、転入試験を受けたときと同じようにカズちゃんに手伝ってもらった。教習所から戻って夕飯を支度するまでのあいだ、カズちゃんはずっとフーテンを読んでいた。
「よしのりさんに文学的素養はないみたい。あるのは、世間で有名なものに飛びつく名誉欲だけ。永島慎二には深みがないわ。キョウちゃん、お世辞はだめよ。山本周五郎と似てるなんて、とんでもない。その周五郎にしても、キョウちゃんの文章に比べたら月とスッポン。……凛冽な悲しさ。キョウちゃんの文章はそれね。ふるえない人はいない。そんな文章を書く人がグランドを走り回ってるなんてだれも信じないでしょう。二冊目のいのちの記録の清書は、上京するまでにすませておくわ」
         †  
 一月七日の昼、カズちゃんを教習所に送り出して、一週間ぶりに八坂荘に戻ると、
 
 部屋にいます。キクエ。

 というメモがドアの隙に挟んであった。私は急いで彼女の部屋へいった。炬燵で吉永先生が待っていた。にこにこ笑いながら私に向かって小さく手を振る。私も笑顔で応えた。
「ただいま。キョウちゃん」
「おかえり。一週間、カズちゃんのところで勉強してた」
 先生がインスタントコーヒーを入れる。
「よかったですね、リズムがとれて。たくさん勉強した?」
「しっかりやった。高知はどうだった」
「楽しく過ごしました。年末はお店の手伝いもしたのよ。おねえさんには、これまでのキョウちゃんとのことや、私の気持ちをぜんぶ話しました。二人だけの家族だからだれにも気兼ねはいらない、がんばりなさい、と言ってくれた。あなたたちのような男女関係は言語道断、不道徳の極みに思われるから、へたに打ち明け話なんかしないで、きちんと秘密を守って、胸を張って暮らしていけばいいって」
「さばけたお姉さんだ」
 吉永先生はコーヒーをすすりながら私を見つめ、
「早くに両親を亡くしたと言いましたけど、私が八つのときに父が癌で死んで、高校を出たばかりの姉と、からだの弱い母が二人でがんばって魚屋を切り盛りしたんです」
「お母さんのからだが弱いとなったら、お姉さんはほとんど一人で働くことになったろうね。キクエの母親代わりもしなくちゃいけなかっただろうし」
「ええ。店もだんだん左前になって、私が十一のときに、その母も風邪がもとで肺炎に罹って死にました。それから姉は、私たち二人が生きていくために、店を閉じて小さな飲み屋のパートに出ました。そして、そこで知り合った近在の地主さんのおめかけになって……。中絶も一度したそうです。そういう関係とは別に、姉はその地主さんにずっと思いを寄せていたんですけど、本妻さんに談判に押しかけられて、仕方なく身を引きました。そういうつらい経験をしたことがあったせいで、私の気持ちがよくわかると言うんです」
「その後お姉さんはどうしたの?」
「地主さんと別れたときにいただいた少々の手切れ金と、和菓子屋さんでパートをしたお給料とで、私を大学まで出してくれました。いまもその和菓子屋さんに勤めてます。私を高校や大学にやるのに知り合いからかなり借金をしましたし、魚屋さんをしていた土地が借地だったせいもあって、姉はいまでもかつがつの生活をしています。だから私は月々送金して姉の負担を軽くするようにしてるんです。キョウちゃんのお金はほんとうに助かりました」
「東京へいくということは?」
「言いました。有能な人はいつなんどき出世のチャンスをつかむかわからない、そのときは身を引きなさい、出世のじゃましないようにね、とも言われました。もちろん、そうなったら、私はお別れして、遠くからキョウちゃんを見守るつもりでいます」
「そういう紋切り型はやめよう。紋切りは人の誠意を殺すんだ。出世というのは、大学に受かるとか、河原の草野球で活躍するとか、人の丁稚として安泰な生活をするなんてことじゃないだろう。世の中に出る、ということだね。生半可な出方じゃなく、自分の能力を達成するということ、とりもなおさず、プロ野球選手になるということだ。それならほぼ百パーセント実現すると思う。となると、先生は百パーセントぼくと〈お別れ〉するということになるね。ぼくはプロ野球選手になるためにこの十年生きてきたわけだから、いまさらそれをやめるわけにはいかない。ぼくのようなアホな人間のできる唯一の自己達成だからね。自己達成というのは、自分を充実させて、幸福感に満たされることだ。アホだろうが利口だろうが、それこそ人間が生まれてきた最終的な目的なんだ。……ぼくはつい数年前、自分はアホな人間なんだから自己達成など無意味だと考えるほど頭をやられて、一度死の崖っぷちまでいって、他人のとんでもない尽力で生き返らせてもらった。その貴重な命をむだに使いたくない。だからプロ野球選手になろうと思う。そのことでぼくを愛する人にいちいち〈お別れ〉されてたのでは、結局ぼくの達成を喜ばない人びとにおちょくられて暮らしてきたことになる。ぼくを愛し、それが嘘ではなく、からかっているわけでもないと言うなら、何も遠くへなどいかずに、近くに寄り添って、見守ってればいいじゃないか。二人の関係を壊す人たちに常に警戒しながらね」
 吉永先生の目から大粒の涙が落ちた。
「……ほんとうに……ごめんなさい。お別れなんかしません。うれしい。自分がまちがっていたことがわかって、心の底からうれしい」
「とにかく警戒。愛し合う者の鉄則だ。祝福される愛なんてものがこの世にあるはずがない。祝福されるのは世のしきたりだけ。しきたりにのっとっていれば、冷血でさえ祝福される」
 吉永先生がふと思いついた顔になり、
「そういえば、きのうキョウちゃんの部屋の前で、キョウちゃんのお母さんに出くわしました。ちょうど私、八坂荘に帰り着いたばかりで、階段を上っていったら、ここの部屋の者の母親ですが、留守のようですけど、って言われて、ああ、キョウちゃんは和子さんのところだなってわかったから、私、西高の教師です、神無月くんは土日にかけて友だちのところへ合同勉強に出かけてます、って答えたの」
「そりゃすばらしい機転だ。怖い人だからね。あれで、まだ四十四歳なんだよ。老けてるだろ」
「……苦労したんですね。あ、紋切り型。ふふ」
「すぐ帰っていった?」
「合鍵を持ってたみたいで、中に入って何かしてたようです」
「台所汚かったからね。それを片づけてたんだろう」
「お部屋がきれいで、びっくりしたでしょうね」
「ああ、女っ気がないんでホッとしたはずだ。さあ、追いこみだ。勉強するぞ」
「あしたから三学期が始まるわ。三年生は出席の必要なし。授業はありますけど」
「学年末考査もあるよ。受けないけどね。卒業式も出ない」
「食事は毎日作っていいでしょう?」
「英文法と古文文法の授業だけは出るけど、弁当はいらない」
「朝食と夕食だけ作ります」
「おおきにありがたく。さあ、猛勉だ」


         百三

 一月十日水曜日。朝方零下三・七度。早朝のランニングから戻って、何気なくラジオを点けると、きのう円谷幸吉が自殺したと報じていた。東京オリンピックで銅メダルを獲った円谷幸吉が、カミソリで首の動脈を切って自殺したというのだ。三回しかマラソンを走ったことのないのにオリンピックに出場し、陸上競技でただ一人、日本国旗を掲揚させた類まれな天才だったという。
 新聞配達店で朝刊を買ってくる。遺書の全文が載っていた。そのまま最上の詩だった。思わず嗚咽した。慟哭がいつまでも止まず、私はあの苦しげな顔で走る姿を浮かべながら机にうっ伏した。

 父上様母上様三日とろろ美味しうございました。干し柿もちも美味しうございました。
 敏雄兄姉上様おすし美味しうございました。
 克美兄姉上様ブドウ酒リンゴ美味しうございました。
 巌兄姉上様しそめし南ばんづけ美味しうございました。
 喜久造姉上様ブドウ液養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
 幸造兄姉上様往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
 正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
 良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
 光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
 幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
 立派な人になってください。
 父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
 何卒お許し下さい。
 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
 幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。


 死ぬ直前に婚約者の裏切り(そういう表現ではなかったけれど)があったことも小さく書かれていた。関係ないと思った。失意の中で、猛々しいプライドが死を求めたのだ。中日球場で森徹のホームランボールを握ったとき、もし野球選手になれなければ死のうと決意したことを思い出し、いよいよ涙が湧いた。
 吉永先生が朝食を告げにきて、私の様子に驚き、新聞を食い入るように読んだ。そしてやはり、口に手を当てて泣いた。
         †
 十二日金曜日。冬晴れ。校舎と校舎のあいだの購買部の空地が穏やかな陽だまりになっている。
 ホームルームの時間に、信也から駿台模試の結果を手渡された。国語九九、偏差値八十二、全国一位、英語一○九、偏差値七十四、全国十三位、数学三十三、偏差値五十八、全国一一二二七位、世界史十六、偏差値四十一、全国四○○三六位、日本史二十九、偏差値五十二、全国二八五一一位、生物四十八、偏差値七十七、全国四位、地学五十一、偏差値七十一、全国九位。総合成績、五百八十点満点中、三百八十五点(六割六分)、全国文系志望者中三位、文Ⅲ志望者中一位。
 今回も土橋校長の昼休みの放送があり、私の総合成績が告げられ、全国二千番以内の成績を収めた者として、もう一人金原小夜子の名が告げられた。
 松田にアナウンスが代わり、三学期は自分の出たい授業だけに自由に参加する形になっていると放送した。教師は毎日詰めているので、質問は毎日受けつける。変わった伝統もあったものだ。私は英文法と古文文法。土曜日だけの出席になった。
         †
 十三日土曜日。二科目の授業を終えて戻った午後の早い時間、ドアがノックされた。
「はい―」
「私です。法子です。きちゃいました。いまおじゃまですか」
「いや、だいじょうぶ。どうぞ」
 吉永先生は出勤しているが、まんいち彼女が早く帰ってきた場合のことを考えて、素早くすませなければならない。白いファーコートを着た法子はドアを入ると、キョロキョロ部屋の中を見回した。カーテンを開け、ガラス窓の外を見る。隣家の屋根しかない。
「タクシーの運転手に住所を言って、そこのパチンコ屋さんの前まで乗ってきたの」
「法子の叔父さんの蕎麦屋にいこうか。歩いて二十分くらいだ」
「花屋さんで食べてきたからいい。アパートの部屋って、こういう造りになってるのね。どこか古臭い感じ」
「古いものはいい。新しいものは苛立つ」
 愛してる、と言いながら私の首にかじりついて、唇を求める。
「したい?」
「ぜったい」
 さっさと全裸になる。法子とは最初の一回しかしていない。敏感なからだだけれど、カズちゃんやトモヨさんのように、動かさないで達するというような離れ業はできない。手順を踏む必要がある。
「蒲団に入ろう」
 私も裸になり、寒さで鳥肌の立った皮膚を彼女の温かい肌に密着させる。キスをしたまま、急いで指でオーガズムを与える。案外早く達してくれたので、挿入して、乳房を揉みながらいつもよりも素早く腰を動かす。これにも応えて、法子はたちまち昇りつめた。彼女のからだに不満が残らないように、自分の射精を急ぎつつ、さらに二度目のオーガズムを彼女にしっかり与えた。同時に射精する。硬直する彼女の熱い腹で自分の腹を温める。深い満足げな腹式呼吸と筋肉のふるえが伝わってくる。これほど早い行為は、うめき以外の表現をもたらさない。法子のうめき声だけが吐き出される。もちろん、彼女には私が急いだという意識はまったくない。じゅうぶん愛を表現したと思いこんでいる。陰部にティシュを挟んでやる。
「表に出て、少し歩こうか。寒いけど」
「歩きたい。通りの雰囲気がすてきだから」
 環状線に出ても、パチンコ屋のほかに何もないので、オヒョウ並木の菊ノ尾通りに出て、済生会病院を見上げながら歩く。榎小学校のほうへ戻り、中央郵便局を過ぎて西高の正門に出た。
「このあいだも思ったけど、なんだか小さな高校」
「かわいらしいね」
「神無月くんに似合わない」
 カズちゃんや節子と逆のことを言う。
「せいぜい、いまの一周がぼくの行動範囲だ」
「金原さん、元気ですか?」
「あれ以来会ってない。駿台模試で全国二千番以内に入ったことは校内放送された」
「神無月くんは」
「三番」
「やっぱり次元がちがうのね」
「それよりきょうは、どうしてぼくがいると思ったの?」
「何も考えないで、タクシーに乗っちゃった。よかった、いてくれて。……みんな、神無月くんを追いかけて東京に出るのね」
「みんなじゃないけど」
 追わない女はみんな金原と同じ事情だと法子は思っている。天神山公園を抜けて、よしのりのアパートへいく。
「いまから会う横山よしのりという男は、青森からぼくを追いかけてきた中卒のバーテンだ。おまえ、俺で呼び合ってるけど、深い関係じゃない。もう一人、山口という男も青森から追ってきて、この一年半、東京にいる。同じ高校三年生。山口との関係は愛に満ちてる」
「東京へいったら山口さんに会えますね。楽しみ。横山さんとはどういう関係なの?」
「腐れ縁」
「神無月くんは振り払わないから、お付き合いがたいへん。溜まり場人間。でも、そうするしかないのよね。底なしにやさしいから」
 よしのりは部屋にいて、せっせと荷造りしていた。引越しがあと数日に迫っている。
「だれ、その女」
「山本法子です。神無月くんと小中と同級生」
「東京にいくの?」
「はい」
「馬鹿っぽいな。馬鹿だと捨てられるぞ。本を読め」
 と言い、私たちを相手にせず荷造りをつづけている。
「じゃ、よしのり、四月には訪ねるから」
「おお、じゃな」
 法子は私を誘って、天神山通りからタクシーで名古屋駅前に出た。そうして名鉄百貨店の新刊書店に入った。
「きょうから、少しずつ、本を読んでいくようにする。選んでくれる?」
 私は文学書のコーナーから適当に文庫本を五、六冊選び、法子に与えた。
「気にしたんだね。あいつは活字信者で、狭い価値観でものを言うからな。たしかに、カズちゃんも読書家だし、吉永先生も机に本を置いてることが多いけど、そのほとんどが彼女たちのすばらしい心に影響を与えた作品だ。駄作は駄作として識別している。よしのりはそういう読み方じゃない。傑作も駄作もない。有名なものかどうかで読む」
「私はそういう読み方をしないわ。とにかく馬鹿に見えないようにしなくちゃ」
「彼は男尊女卑だから、女はみんな馬鹿に見える。ぼくにはそう見えない。馬鹿に見えるというのは、ぼくのような男のことだ。根本的な頭の悪さが顔に滲み出てしまう。でも馬鹿に見えたら見えたで、面倒がなくていい。だれにも知性を期待されないから、テレビの文化人みたいに気の利いたことをしゃべらなくてすむ。読書癖がついちゃうと、知性のあるふりをしたくなる。女は韜晦することができないから、その程度が激しい。やさしい天衣無縫な女でいられなくなる。馬鹿に見えないようにするために本を読んだらだめだよ。法子でなくなる」
「はい。本を読めば、たまには感動することだってあるし、頭がすっきりしそう」
「うん、それだけでいいんだ」
 感覚のほとんどが倦怠に委ねられ、積極的な愛の認識がかなわないという私の瑕(きず)は、書物で涵養される知性や教養ごときで癒されるものではない。頭の悪さよりも救いがたい不幸だ。怠惰な精神は書物の影響では改変されない。法子はカズちゃんたちと同様、怠惰な女ではない。だから書物ごときで天衣無縫な魂は揺らがず、書物の知性や教養は尽きることなく栄養として吸収される。だからどしどし本を読むべきだ。馬鹿に見えてもいい。ほんとうはそう言いたかったけれども、自分の精神的な怠惰と愛の不足を口にしたくなかったので、ただ笑っていた。
         †
 十七日水曜日、ラジオのニュース。中日ドラゴンズは球団社長小山武夫と監督の西沢道夫が都内の中日新聞支社で記者会見し、西沢が十二指腸潰瘍悪化を理由に監督を辞任したと発表。二十日土曜日、朝買ってきた中日スポーツの記事。中日ドラゴンズの広野功と西鉄ライオンズの田中勉とのトレード成立。二十五日木曜日、ラジオのニュース。中日ドラゴンズは名古屋市内の中日新聞本社で、新監督に杉下茂が就任したと発表。何の気休めか自分でもわからないが、心が安らぐので、この数日中日ドラゴンズ関係の新聞やラジオのニュースに目と耳を凝らしている。
 一月いっぱいで自由参加の授業が終わった。三年生は二月末の卒業式まで受験休みに入った。
 二月一日木曜日。午前中を通して零下。すぐ消える小雪が降った。昼、雪に濡れた環状線を走る。玄関前で素振り百八十本。山口からの飛島寮宛ての封書がドアの下に差してあった。新しい下着も置いてある。母だ。

 おたがい夏以来沙汰やみだったな。おまえのことだから、この半年、きっといろいろなドラマがあっただろう。俺は、人生でいちばん勉強したというくらいか。その勉強にしても、おまえと離れたくなくて追いかけてきた結果だから、けっこう楽しんでやることができた。もともと俺にドラマなんてものは起こらない。おまえに会えたのが、最大にして、最後のドラマかな。俺の部屋の前に立っていたおまえの顔がいつも浮かんでくる。もしあのとき、俺が『ひみつ』を弾いていなかったら……。こういうのを運命って言うんだろう。
 東京でのおまえと会えるのを心待ちにしている。北村席ではさっぱり聞けなかったこの一年半の武勇伝を聞かせてくれ。ドラマはそれに見合った人間にしか起こらない。俺は誠実な聞き役と目撃者でありつづける。俺には、おまえのような人間がこの世に存在しているのが驚異だ。おまえのことを考えると、出会えた奇跡と幸運を感じる。命あるかぎり、おまえの道行きを見届けたい。
 早稲田の政経も受けることにした。社会科だけはなんとかトップクラスを通した。いろいろ大口を叩いてきたが、東大合格の可能性は六分四分。もう一奮起する。不合格にでもなると、おまえとの身近な楽しい交友が繰り越しになってしまうので、最大限の努力をして、かならず合格を果たす。
 じゃ、いずれ東京で。最愛の友へ。返事はいらんぞ。山口。



         百四

 勉強につぐ勉強。
 夕方になって、佐伯さんが訪ねてきた。勉強のじゃまになるからと遠慮して部屋に入らない。手に封筒二つ持って、こらえきれないように笑っている。
「これ、お母さんから。もう一つの封筒は、いつものみんなのカンパ。受験に役立てて」
 礼を言って受け取った。母から?
「……いよいよあと一カ月だね。みんな期待してるよ。所長なんか、自分のことみたいに緊張しちゃって、このごろニコリともしないし、山崎さんは、祝賀会には芸者を呼ぶかなんて言ってる。いつもの冗談だけどね。いちばん心配してるのは、三木さんと飛島さんじゃないかな。試験が終わった日に東京に迎えにいくか、まんいち不出来だったときにへんな行動をとらないように、って言ってたから」
「そうですか。そんな心配はいりません。かならず受かると伝えてください」
「うん、伝えとく。……一晩、お母さんの苦労話を聞いた。聞いてるうちに、苦労したのはじつはお母さんじゃなくて、郷くんだったとわかった。つくづくすばらしい人だね、郷くんは。そんな苦労なんか、おくびにも出さないものね。じゃね、風邪ひかないように」
 身についた口数の少なさを忘れたように、佐伯さんはよくしゃべった。
 母の封筒を開けると、受験料と書いた便箋に包んだ三千円が入っていた。もう一つの義捐金の封筒には手の切れそうな一万円札が十枚入っていた。
 ラジオのスイッチを入れた。東大医学部無期限スト突入とか、南ベトナム共産ゲリラテト攻勢開始などというニュースをやっていたが、何のことやらさっぱりわからなかった。ダイアルを回すと、おらは死んじまっただ、という耳障りなリフレインが流れ出してきた。
         †
 二月十日土曜日。曇。英語難問集完成。東大に請求した出願書類が届いた。写真屋にいって、受験票用の写真を撮った。現像を待ち、五枚の小さな写真を受け取って帰る。写真を貼った横長の受験票に必要事項を書きこみながら、カズちゃんたちの未来を思った。私を愛することで周囲の人びとからしだいに離れていき、ついに社会の片隅に逼塞する未来を。
 郵便局に出かけ、受験料三千円を払いこんで領収証をもらい、願書と受験票と返信用封筒といっしょに大封筒に入れ、書留で送った。赤摂也数Ⅰ読破。
 毎日自分の部屋で、吉永先生の作る朝食をとったあと、古文研究法と赤摂也数学ⅡBと英単語トレーニングペーパーだけをひたすらやった。三時間もやっているとさすがに飽きがきたが、放り出そうとせずにやりつづけた。しまいには、集中すればするほど疲労が薄れていくのを感じて驚いた。
         †
 十五日に受験票が届いた。
 かならず朝三十分ほどランニングをし、朝めしは抜き、昼は電気釜で二合の飯を炊き、ランニングの帰り道で買ったコロッケとメンチとポテサラをおかずにして食った。三日に一度、夕方風呂へいき、しばらくあたりを散策して帰り、吉永先生が作る遅い晩めしを食った。欠かさず深夜に読書をした。ひと月で読破するペースで、セルバンテスのドン・キホーテをゆっくり読んだ。少し痩せたが体調はよかった。
         †
 十八日日曜日。晴。学生服を着て庄内川原へいき、名城大付属高校のスタッフと選手たちに一年間のお礼の挨拶をした。
「とてもさびしいですが、きょうでお別れします。二週間後に上京して、東大を受験します。最後の追いこみにかかります。ことが順調に運べば、今年の春には神宮球場で野球をやっています。さらに順調に、しかも幸運に運べば、来年の春にはドラゴンズのメンバーとして中日球場で野球をやっています。……闖入者の無理なお願いを聞き届けてくださったうえ、一年間、真剣な態度と親密な笑顔をもって接してくださり、また好きなように練習させてくださったみなさんの、驚くほど寛大な心に感謝の念が尽きません。高江監督はじめ渋山部長、小森副部長、そして選手のかたがたのお顔を終生忘れることはないでしょう。……ほんとうに、ありがとうございました」
 一人ひとりと握手をする。彼らのキリリとした眉や、潤んだ目を見つめているうちに涙が流れてきた。
「俺、死にもの狂いで練習します。それしかないんですよね」
「はい。でも、やりすぎて故障したら、練習の目的を達成できなくなります。たゆまずやってください」
「ぜったいホームラン王になってください」
「そのタイトルだけを目指しています」
「去年の二月七日からちょうど一年間。夢のようでした。いつも神無月さんがやってくるのを心待ちにしてました。また、この河原にきてくれますか」
「そのチャンスはあると思います。ぼくが感謝を忘れなければ。だいじょうぶ、ぼくはそういう人間じゃありません。ふらりときます」
 小森副部長が、
「野球技術は言うに及ばず、真摯な日々の鍛練、求道精神ともども並々ならぬ薫陶、ご教示、感銘いたしました。これからの指導の範とさせていただきます」
 渋山部長が、
「中日球場のデビュー戦は、かならず野球部挙げて駆けつけ、神無月さんの勇姿を目に焼きつけたいと思っています」
 高江監督が、
「言葉に尽くせぬ目覚ましい経験でした。このすばらしい経験を秘密にしておくことが苦しかったですよ。あなたは偉大な野球選手です。神無月は最強のバッターか、などという質問はいずれ侮辱に近いものとなるでしょう。なぜなら、野球はあなたの一部でしかないからですよ。偉大なことがわかり切っている野球だけであなたの人間的な偉大さを語ることはできません。どうか諸々の難関を不屈の精神で乗り越えて、さらに偉大な〈男〉になってください。おからだ重々お気をつけて、まずは東大という最初の難関を突破なさってください。感謝するのはわれわれのほうです。一年間、ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
 大声が河原に響きわたった。
         †
 二十日火曜日。晴。五度。風の強い一日。風呂上がり、桶を抱えての散策の途中、押切北の交差点で金原に遇った。彼女の顔が輝いた。
「あら!」
「よう。どうした」
「名鉄で問題集買ってきた帰り。西図書館にでもいこうかなって思ってたところ。風呂桶なんか持っちゃって、所帯じみてやがんの。このところ、私乗ってんの。名大模試で当確が出たから」
「もともとすごかったじゃないか」
「これで二度つづけて、模試で加藤くんを抜いてまった」
「人は見かけによらないよな。意外な才能だ」
 金原は私にいたずらっぽく笑いかけ、
「こうして人が偶然会ったときは……天の導き」
「寝る?」
「寝る!」
 二つ返事だった。並んで歩き出す。
「予定はいいの?」
「セックスし終わったらすぐ図書館いくわ。じつは、あれから何度もうずうずして、よっぽど八坂荘にいって神無月くんに声かけようかなって思ったけど、じっとがまんして自分で慰めてた。でも、どうしてもあんなふうに気持ちよくならんのよね」
「あたりまえだ。自然になるもんじゃない。男の努力が必要なんだ」
「それから、好きだって気持ちもね」
「もちろん。女はそれがいちばんだね。男は好奇心と親切心」
「それもわかる気がするわ」
「きょうだいじょうぶな日?」
「うん。あと二、三日でくる。いま、うずうずのピーク」
 平たい顔で笑う。これが金原とは最後のセックスになると思った。
 金原の部屋のベッドに横たわる。下着が尻まで濡れていた。引き下ろして見ると、小陰唇も湯の中に埋まっている。
「ぼくとするのは、きっとこれで最後だよ」
「ほやね。……さびしいわ」
 愛撫なしですぐに入れると、たちまち表情が一変した。眉間に皺を寄せ、まじめな快楽の追求者のそれに変わっている。
「ああ、なんて気持ちええんやろ、信じられんわ。あ、イキそ、一回イクわ、ええ?」
 うなずくと金原は一度穏やかに気をやり、少し休んで、きちんと手順を踏んだ二度目を要求した。彼女を私の膝に背を向けてあぐらをかかせ、口づけをしながら、右手で小さな胸を揉み左手の指で大きなクリトリスを愛撫した。彼女はすぐに果てた。そのまま四つん這いにし、背後から緩急つけてやさしく攻めた。金原は五度も、六度も達した。アクメの声が大きいので、金原は窓の外の隣家の塀に気を差し、みずから枕で口を覆った。それでも彼女は声を出しつづけた。
「ああ、すっきりしたわ」
「ぼくも。これで、おたがい完全合格だね」
「神無月くんはね。私はアイ・ホープ・ソーや。数学は水物やから。……ね、神無月くん」
「ん?」
「これからも街で偶然会ったら、してくれる?」
「遇ったらね」
「一生」
「うん、一生」
 二月二十八日の卒業式には出ないから、たぶんこれきり彼女には会わないだろうし、たまたま街角で出会っても、たがいに気づかずに通り過ぎるだろうと思った。玄関で手を振って別れた。名古屋西高と別れるような気がした。
 八坂荘に戻ると、素子が階段下の框に品よく座っていた。
「素子!」
「もうすぐ受験やから、がんばってって言いにきたんよ。東京に出たら、しばらくお姉さんと同居して、働いてお金を貯めてから、自分の部屋を借りることにしました。お姉さんがそう言ってくれた」
 意識して標準語を使おうとしている。気持ちが東京に飛んでいるのだろう。
「そう、よかったね。そのときはしょっちゅう訪ねるよ」
「……私みたいな女を」
「私みたいな? 素子のせいじゃない」
「ほうやね、あたしのせいじゃない。そんなこと考えながら一生家に閉じこもっとられんもんね」
「素子……ぼくがいる。もう何の心配もない」
「むかしの客がおる」
「だれかに遇ったの?」
「だれにも」
「いちばん難しいのは、そういうやつらに見つけられたとき、自分を責めないことだ」
「あたしは悪くなくて、そいつらが悪いの?」
「いや。あたしでも、そいつらでもない。悪いのは事実じゃなく、自分の感情だけだ。……もう日常が変わったんだ。路に立たずに、ぼくと歩いたり、カズちゃんと自転車に乗ったり、男からもらった金なんか数えずに、本を読んだり、映画を観たり、人生の楽しみやすばらしさに心を向けるようになったんだ。マイナスの感情を振り払ったんだ。そういうふうな毎日に変わったんだよ」
 素子は声を上げて笑って私に抱きついた。
「そういうもんよね」
「そういうもんだ。事実は新しい感情の中で、少しずつ、忘れてく」
「そうかもね」
 私は素子の肩を抱いた。
「―素子のこと、大好きだよ」
「あたしはキョウちゃんのこと、死ぬほど好きや。じゃ、あたし、帰るわ。仕事の昼休みに出てきたから」
「水仙まで送るよ。自転車でいっしょにいこう。五分で帰れる」
 あわただしいけれども、浮きうきする一日だと思った。送りつけたついでに、水仙で自家製カレーというのを食った。カズちゃんのカレーのほうがうまかった。おいしい、と素子に手を上げると、女店主と見交わしてうれしそうに笑った。五人がけのカウンター、テーブル二卓の小さい店が素子によく似合った。



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