百八

 正門を入る。本郷よりはだいぶお粗末な校舎が建ち並んでいる。入って見ると、教室の中は小中学校のたたずまいだ。イチョウ並木を歩いていき、老朽化した駒場寮を眺める。小汚くツタが絡まっている。北寮、中寮、明寮と玄関看板が掲げてある。中寮に入る。各部屋を見て回る。カーテンのない汚い窓、汚いベッド、汚いソファ、汚い机、床には大小のゴミが散らかり放題だ。十四インチのテレビがかならず置いてあるのが侘びしい。見たことはないが、ドヤ街とはこういうものではないかと思わせた。
「権威を韜晦したつもりが、単なる不潔なスラムになっちゃったんだね」
 長いコンクリートの廊下を通り過ぎて、短い丸太が二本立った裏門になる。
「いやはや……」
「椙山のほうが千倍もきれい。本郷は権威的だし、こっちはゴミタメね」
「これが日本一と言われる大学の実態なんだね。食べもの屋を探そう」
 井之頭線の踏切を渡り、ぶらぶら渋谷に向かって民家の建ち並ぶ細道を歩いているうちに、一軒、菱元という小粒なレストランが見つかった。ドアを押して入る。混んでいるが店主夫婦の応対がいい。満員手前。十五、六人の客がいる。ほとんどが学生ふうだ。空いているテーブルに座って、カズちゃんは海鮮餡かけ飯、私はニラ玉定食を注文する。時間がかかっただけあって、裏切られなかった。
「クリーンヒットだったね」
「ほんと、おいしい」
 大満足して、井之頭線沿いの道をたどっていく。いやに広い道路を横切り、ふたたび細道に入る。神泉駅。道玄坂のいただきから渋谷駅を眺める。三十分余り歩いた。
「いい腹ごなしになった。しかし、野球グランドはどこにあるんだろう」
「そうよねえ。それらしきものは見当たらなかったわね。駒場の左手の校舎裏にあったのは運動場よね」
「うん、ソフトボールぐらいしかできないな。バックネットもなかったし」
「遠いところにあるんじゃないかしら。埼玉県とか」
「それだと、毎日かようのがたいへんだ」
「東大野球部からの打診はあった?」
「ない。受かると思っていないのかも。と言うより、クラブ活動ふうで、こちらから乗りこんでいくって形じゃないかな」
「それはないと思う。合格と同時に飛島寮にやってくるわよ。新聞記者といっしょにね」
 東急インに戻り、部屋に落ち着く。
「セックスは?」
「あしたの晩。一次試験のあとよ」
「次は」
「次の晩。一次発表の前日」
「次は」
「お菓子をおねだりするみたい」
「飽きないお菓子だから」
「ま、じょうず。すぐ食べられたくなっちゃう。でも、がまん。その次は、二次試験が終わった日の夜よ。花の木に戻ってから。それから発表までは、いつものペースでみんなのところを回ってあげてね。上京まで二週間しかないから、トモヨさんと文江さんをメインにしてあげて。きょうは夕食まで勉強してください。私は少し散歩しがてら、おいしそうな店をさがしてくるわ」
 カズちゃんは暖房を調節して出ていった。正四角錐の問題は二次に出るので、一次試験に備えて放物線と直線の問題を数問やる。英単語トレーニング。眠くなったので、服を脱いで仮眠をとる。しばらくするとカズちゃんが戻ってきて、暖房を切り、私の横にもぐりこんでずぐ寝息を立てはじめた。
         †
 目覚めると夜の七時だった。二人で歯を磨き、夜の街へ出る。
「おいしそうな店を見つけたわ。牛スジ鍋。赤頭巾というきれいな居酒屋。お酒は飲んじゃだめよ」
 イン前の明治通りを横切り、だらだら坂を昇る。一つ目のT字路を左折し、突き当たって右折。広い通りに出る。
「美竹(みたけ)通り」
 とカズちゃんが言う。右折してすぐ、その店があった。東大も渋谷も迷路だ。長い布暖簾を分けて入ると、ゆったりした店内に大テーブルが四つしかない。二つが埋まっていた。牛スジ鍋のコース料理を注文する。
「合格したら、イの一番に、じっちゃばっちゃに知らせてやらなくちゃ。ふだん手紙も出さないのに、いちばん気にかかってる」
「いつかきちんと会いにいくわ」
「タイムマシンがあったら、だれにいちばん会いたいかって訊かれたら、若いころのじっちゃばっちゃと答えるな。どうしてあんな広い度量の人間になったのか知りたい。聞き逃がさないように気を張って、彼らの言葉に耳を傾けたい」
 カズちゃんはハンカチを取り出して目もとに当てた。枝豆とモロキューが出てきた。赤身、サワラ、マテ貝、ボタンエビ、ヤリイカの刺身。カマスの塩焼き。すべてうまい。酒を飲まないのでどんどん胃袋に入る。野菜サラダ。焼き鳥盛り合わせ。一口カツ。モサエビの串焼き。そしていよいよ牛スジ鍋。
「八時間たっぷり煮こみました。とろとろですよ」
 白菜、豆腐、アスパラなども煮こんである。
「向こう三日はエネルギーもちそうだ」
 食べつくす。そろそろ満杯だ。また店員がやってきて、
「おじやにしますか、うどんにしますか」
「うどん」
「うどんお願いします」
 ダメ押しになった。食ったものが喉まできた。デザートのメロンが出てホッとした。
「どうやってこんな店見つけたの?」
「すれちがう人に一人ひとり聞いたの。おいしい老舗はないですかって。そしたら、ほとんどの人が、新しいけどうまい店があるって、ここを教えてくれたのよ」
 カズちゃんの知恵の源がわかったような気がした。素直に人の経験を吸収する。それでだめだったら? 苦労して自分の頭味噌を搾るまでだ。できそうで、なかなかできることではない。どうしても一くさり、自分の考えを混ぜこんでしまう。
 社会科が不得意なんて言っていられない。きちんと理解できない知識に出会ったら、素直に暗記すればいいだけのことだ。カズちゃんならきっとそうするだろう。自分の考えや推理を混ぜこむ必要などない。社会現象には想像を超えたさまざまな要因が関係しているにちがいない。権力のバランス、利益集団の利害の衝突、時勢、個人的な欲望と好悪。そんなものを秩序正しく関連づけて考えられるものではない。二次試験の世界史、日本史の論文にはただ暗記したことを羅列するだけの答案を書こう。その他の科目は、貧しい脳味噌を搾れるだけ搾って考えよう。
 十時。カズちゃんが洗面器に水を汲んでベッドの裾に置く。
「喉のためよ」
 歯を磨き、二人で抱き合いながら眠りに就いた。いよいよあした、東大入試が始まる。
         †
 三月三日日曜日。晴。温度はわからないが、それほどの冷えこみではない。本郷の一次試験会場に八時半までに集合ということなので、五時半に起きて、歯磨き、排便。シャワーを浴びる。耳鳴りは安定した音量。
 厚手の長袖のシャツ、股引まで穿かされたが、どちらも肌触りがよく、暖かかった。ワイシャツ姿でカズちゃんとバイキングの朝食をとる。部屋に戻り、シャープペンシルを学生服の胸に差し、消しゴムをポケットに入れた。学生服の上にトレンチコートを着て、眼鏡をかける。七時にカズちゃんといっしょにホテルを出た。
 渋谷から第二の都会池袋に出る。池袋駅のコンコースが迷路だ。カズちゃんがいなければ確実に迷う。地下鉄丸ノ内線に乗る。小ぢんまりした車内。満員。ぎっしり行儀よく立ち、座っている人びと。新大塚、茗荷谷、後楽園。地上に出たり、地下にもぐったりするが、地上に景色らしきものはまったくない。地下へ入ると、しきりに車内灯が明滅した。パンタグラフか何かの接触が悪いのだろうか。万人のあこがれの東京を一つひとつ体験していく。
 本郷三丁目の狭いホームへドッと吐き出される。階段出口の前の信号を渡り、東大キャンパスの敷地を囲む立木の生垣に沿って歩く。街並がきょうも不快だ。灰色のトレンチコートやフード付きの黒いコートの列。カズちゃんの言うとおり、学生服だけの姿は一つもない。どの喫茶店も開いている。試験日の特別開店というやつだろう。
「私、母親の気分よ。あの小さい子をここまで育てたんだって」
「育てたんだよ。ぼくのすべてを。そしていっしょにここを歩いている」
「キョウちゃんがまだかわいらしいままだから、へんな気持ち」
 赤門までコートの波がつづいている。腕章をつけた男たちが立っている。山口の後頭部を探すが見つからない。八時五分前。赤門の前に立つ。きのうと同様、塗りの剥げた朱色の門だ。
「じゃ、いってらっしゃい。いつもの気持ちで」
「うん」
「試験が終わるころ、ここに立ってるわ」
「ずっと立ってないでよ。風邪ひいちゃう。喫茶店で時間を潰してて」
「そうする」
 手を握る。大勢の受験生に雑じって門を入り、構内の道を進んだ。暖かい地方からきたのだろう、ついに学生服だけの男を見つけた。かかとが一センチも余ったぶかぶかの革靴を履いて、不自由そうに歩いている。文字通りオノボリさんふうだけれども、郷里の期待を背負ってやってきた誇りが背中にあふれている。

 
大衆団交
 とめてくれるなおっかさん


 看板文字が、構内のところどころでけばけばしく自己主張している。意味不明だ。とにかくご時勢に遅れちゃいけない。彼らの心はすぐに燃え上がるけれども、時勢に遅れはじめたものは何でも切り捨ててしまう。馴染んだものに落ち着いた愛情を注げないのだ。
 目についた便所で小便をし、石造りの校舎の寒々しい一室に入った。青高や西高の教室とはちがった空気を呼吸した。小さいころから聞かされてきたアガモンの毒気を含んだ重い空気。しかし、かなり小ざっぱりした教室だったので、大して圧迫は感じなかった。二百人ほどの受験生が次々と指定された席につく。受験票を机の端に置く。
 老若四人の試験委員が入ってくる。いちばん年老いた教官が教壇に立ち、何やら説明を始める。名前と受験番号を書き忘れるな、とか、試験終了後三十分待機せよ、とか、みごとな命令口調で言っている。
 若手の教官たちが薄い試験冊子と解答用紙を配る。試験冊子三部、解答用紙三枚。初打席に入るような緊張感。凡打の不安がよぎる。
 一次試験は英・数・国のみだ。各教科二十問二十点満点。休憩時間はなく、百八十分ぶっ通し。どの教科から着手してもよい。
「参考書等をしまえ!」
 という声が上がる。がたがたという物音がたち、やがて静まる。監視教官たちが机のあいだをゆっくり見回りはじめ、長老が懐中時計を見る。五分ほどの完全な沈黙。馬鹿らしい。十秒ですむ沈黙だ。
「始め!」
 試験監督の大時代な発声を緊張の中で嗤いながら聴いた。気を引き締める。十年間の野球人生と、プロ野球入団と、母との絶縁が懸かっている。
 胸からシャープペンシルを抜き、ポケットから消しゴムを取り出す。数学から手をつける。冊子をめくる。四角い穴埋め。四つずつ五題。二次曲線と接線、無理方程式、軌跡、三角関数、空間図形。一番から解きはじめる。不安になるほど簡単。ケアレスミスが一つくらいあるかも。数学の不得意な私がこのできなら、ほとんどのやつらは満点だろう。英語、国語の順で解く。どちらも満点の感があった。二十分ほど時間を残した。名前と受験番号を確認する。
「鉛筆を置け!」
 答案回収。三十分待機のあと、教室の外へいっせいに吐き出される。ぞろぞろ行進する人波を嫌い、構内を逆方向へ歩く。古風な偏見と新しい思想を不様に混ぜ合わせたような建物の群れ。ここで学生たちの反乱が起きているとよしのりから聞いたけれども、いっさいそんな気配はない。三四郎池のほとりをしばらく廻り、水鳥や色とりどりの木立を眺めてから赤門を出た。カズちゃんの笑顔が立っていた。
「まず軽く突破。天麩羅そば食いたい」
 カズちゃんは人目をかまわず抱きつき、
「阿佐ヶ谷へいって食べましょ。映画を見て、それからラビエン」
「ラビエン?」
「よしのりさんのお店の名前よ。忘れたの」
「ふうん、カズちゃんの記憶力にはつくづく驚くな」
 新宿へ出て、総武線で阿佐ヶ谷へ。ホームも階段も高円寺と瓜二つの造り。北口に出てガード沿いに歩く。軒先テントの店、引き戸の店、押しドアの店、ガード下の店。歩き出してすぐにラビエンの置き看板が見つかった。階段が二階に昇っている。二人で上っていった。ライオンの浮彫りを施した厚い板戸が閉まっている。
「ここで、よしのりさんが働いてるのね。山口さんも言ってたけど、キョウちゃんの周りで起きることって、ドラマチックすぎて怖いくらい。だから毎日が飽きないのね」
「カズちゃんそのものもドラマだよ。でも、もうドラマはじゅうぶんだ。むかし話をこれ以上増やしたくない。先の方針はしばらく立ったんだし、ほんとうに新しい出発をしよう。心とからだを感じ合える愛しい人たちとだけ暮らしていく。愛し合う者同士、むかし話をしないで暮らしていく」
「むかし話って?」
「自分の関心のない人や、場所や、ものごとが出てくる話」 
 それは、いまカズちゃんと並んで立っているうちに、とつぜん湧き上がってきた想いだった。虫のいいことだが、むかし話に自分の根強い倦怠も含めてしまおう。


         百九

 ラビエンの階段を降りて、再びガード沿いに歩き出す。細道に曲がりこむ。オデオン座という映画館がある。トリュフォーの夜霧の恋人たちをやっている。
「おそば食べたら、これを観ましょう」
「トリュフォーか。いやな予感がするな」
 細道を引き返し、バスロータリーを横切って三菱銀行の裏路に入る。すが原という蕎麦屋が見つかった。エビが二本載った天麩羅そばを食う。うまかった。ここでもカズちゃんはカレーを食べた。そして、まずい、と言って食いさした。天麩羅そばを半分分けてあげた。オデオン座へ向かう。
「映画の前に、ちゃんと食おう。腹へった」
「私も」
「あ、ここがよしのりの言ってたポエムか」
 ラビエンの先のT字路の角に、手形をシンボルにした黄色い看板が出ている。角地を利用した小さな店だ。ガラス窓から覗きこむと、小振りな四つのテーブルが満席になっている。向かいの角に木莬という小さな看板を吊るした飲み屋がある。ミミズクか。よしのりが好みそうな名前だ。おそらくいきつけになっているだろう。
「あそこ、食べ物屋だね」
 右手の辻を見やると、戸口に立てた小さな黒板にチョークでぎっしりメニューを書きこんだ店がある。大将と看板が出ている。
「いらっしゃい!」
 カウンターだけの店だが、けっこう混んでいる。店主が中華鍋をガチャガチャ鳴らして炒め物をしている。いいにおいが立ち昇ってくる。
「それ、ください」
「あいよ、ホレタマ二丁!」
 店には自分しかいないのに、だれかに呼びかけるような威勢のいい声を上げる。先客の前にホレタマをドンと置くと、鼻歌をフンフンやりながら、ふたたび鉄鍋をガチャガチャ鳴らしはじめる。大宮デンスケのような小熊面に愛嬌がある。口数が多いかと思ったのは誤解で、客から何か語りかけられたときだけ口を利き、答えるのはごく短い一言で、すぐに気のないふうに目を外す。注文以外の問いかけにもときどき顔を向けて、適当な受け応えをするけれども、愛嬌のある顔つきや、身振りの活発さのせいでいろいろな意味にとれ、なかなかの効果を発揮する。生きいきした表情は頭のいい証拠と思われた。きっと、ここへもよしのりはよくくるだろう。
 見つめられていることへの照れ隠しか、彼はとつぜんいい声でコメ・プリマを唄いだした。抜け上がるように明るい声だ。サイドさんが丸一日かけてステレオを組み立てた夏の日の午後、この曲を高らかに唄っていたことを思い出した。十歳。あのころから私はもう何千曲というポップスや日本の流行歌を聴いてきた。もしクマさんに会っていなかったら、私はきっと世上に流行しているものだけを聴く耳になっていただろう。クマさんはわが子にもこんないい曲を聴かせているだろうか。クマさんに会いたい。
「ほいよ、ホレタマ!」
「トニー・ダララですね。一九五八年のフェスティバル・バールで、新人の彼が唄ってみごとに優勝した曲です。きみはぼくの唯一の人、初めてのときと同じように、いや初めてのときよりももっときみに恋してる、って内容です」
 客たちがホーッとこちらを向いた。
「これ、うまい!」
「おいしい!」
「あんた、よく知ってるネエ」
 カズちゃんがにこにこしながら口を動かしている。
「イタリア語なんかぜんぜんわからないんですけどね。歌詞の意味は何かの本で読みました。ここに横山という男は食いにきますか」
「横ちゃんは常連だよ。ほとんど毎日くる。おもしろい男だ」
「ぼくたち、横山の友人です。これからはときどき寄せてもらいます」
 二人ともどんぶりめしを平らげた。
「ごちそうさん」
「いい男っぷりだね。横ちゃんもいい男だけど、はるかに上をいってるな。上も上、雲の上だな。で、こっちに引っ越してくるってことかい」
「名古屋から上京してきます。きょうは、受験の帰りです」
「……ひょっとしてあんた、あの野球で東大の……横ちゃんが言ってたけど。で、こちらが女神さん?」
「北村と言います」
「まだ一次が終わったばかりで受かってませんけど―」
「へえ! 横ちゃん言ってたこと、ほんとだったんだ。うわ、こりゃすげえや、ドラフトナンバーワンと永遠の女神が目の前に坐ってるよ!」
 客がざわついてきたので、私はあわてて、
「ごちそうさま。またきます」
 表へ飛び出した。カズちゃんがゆっくり金を払っている。ひとことふたこと、何やら小熊に言って出てきた。
「そんなに頻繁にはこれません、野球が忙しくなるので、って言っといたわ」
 オデオン座に入る。夜霧の恋人たち。
 軍隊上がりの男がホテルマンの職を捨てて探偵として働きはじめる。失敗を繰り返しながらも何とかがんばる。ストーリーはそれだけ。男にまとわりつく正体不明のストーカーがいたり、男にぞっこんの恋人がいたり、男の精神的支柱を描かないので、この映画で何を表現したかったのかわからない。がんばれ、モテ男というところか。サスペンス仕立ての雰囲気はあるが、事件は起こらない。世間評価の上等なものはすべて、私の理解を超えている。こういうときに、私は自分の頭の悪さをしみじみ感じる。そして、中一のときの知能試験が鮮やかに甦ってくる。
 ―あれは測りまちがいではなかったんじゃないか?
 映画館を出る。
「おもしろおかしい人生とやらを描きたくて、上品に作ったんだろうけど、何がなんだかわからない映画だった。人はいつも働いてるってことしか、いや、何がやりたいかわからないまま〈動いてる〉ってことかな、それしかわからなかった。ぼくは頭が悪い。こういう頭の悪い人間を東大が受け入れるなら、ぼくは東大に感謝しなくちゃいけないね。……入試なんていいかげんなものだな。ぼくは野球をしっかりやるよ。少しでも東大に恩返しをしなくちゃ」
「……かわいそうな天才さん。馬鹿に踊らされちゃって。だれが観ても、コメディなんだろうなと感じるだけのデタラメ映画よ。私もわからない。こういう前衛的なものは、かならず褒めちぎる一群の馬鹿がいて、理屈をこねながら支持するのよ。天才は馬鹿のことなんか気にしないの。わかった?」
「でもカズちゃん、中一の知能試験、憶えてるよね?」
「ええ、はっきり憶えてるわよ。ひどい事件だったわね。へんなチビ助の先生がやってきて、信じられない知能が出ました―」
「あれ、ほんとなんじゃないかな。ほとんどサボって解答しなかったというのは、ぼくのでっち上げた口実で」
「打(ぶ)つわよ! 馬鹿にどこまで媚びるつもりなの。頭のいい人間までそんな気にさせてしまうのが、馬鹿の付け目なのよ。それより、東大には馬鹿ばかりいるはずだから、くれぐれも気をつけてね。たぶんキョウちゃんは、五番以内で受かるでしょう。まず東大の先生たちに信じてもらえないわよ。自分たちで入学させたくせに、野球しかできない人間の成績じゃないって思うのね。お母さんと同じ考え方。よほどキョウちゃんに惚れこむ人以外は相手にしないこと。そういう人は、男でも女でも、私に紹介してね」
「うん、よし! 一番で受かるか」
「そうよ、その意気!」
 ホテルへ戻り、閉店まぎわのラウンジバーで、おまかせのカクテルを二杯ずつ飲んでから、風呂を使い、裸で抱き合って寝た。約束のセックスはし忘れた。
         †
 三月四日月曜日。晴。下痢。私がテレビを観ながらゴロゴロしているあいだに、カズちゃんが秋葉原にいって、去年十二月に発売された世界初のFM・AMつきラジオカセットRQ―231というのを買ってきた。
「ナショナルの高級品よ。三万五千八百円。現金で買うって言ったら、三千八百円も引いてくれた。さすが秋葉原ね。いつだったかキョウちゃん、圓生の落語が聴きたいって言ってたでしょう。ラジオから直接録音できるわよ。六十分テープも十本買ってきたから、ラジオの番組表を見て、ときどき私が録っといてあげる」
 把手をつかんでぶら提げてみる。
「大きさは大したことないけど、四キロ近くあるね。重厚だ。楽しみが増えた。カズちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
 その夜、さっそくカズちゃんはホテルの新聞のラジオ番組表に目を凝らして、NHKの演芸番組を見つけ、圓生が見当たらないので志ん生の八五郎出世という演目を録音した。いい音質で録れているが、圓生のユーモアと迫力がない。
「やっぱり圓生にはかなわないね」
「そうねえ、大天才にはねえ。できるだけ圓生を見つけて、たくさん録音しておくわ。東京で子守唄にできるように」
         † 
 三月五日火曜日。晴。カズちゃんをホテルに残して、一次試験の発表を見に出かける。文Ⅲは五・九倍の倍率だったが、難なく突破。千九十人が合格していた。二次試験の倍率は三倍弱になった。この千九十人が三百七十人に減る。低い倍率に見えるけれども、ほぼ三人のうち二人が落ちるのだと思うと武者ぶるいが出た。一応礼儀として、公衆電話から西高の信也に連絡した。
「そうか、よし! 土橋校長に伝えとく」
 彼が喜びの声を上げると、一瞬職員室のざわめきが伝わってきた。
「まだ一次試験ですよ」
「わかっとる。とにかくよくやった。その調子で、二次も頼むぞ」
「がんばります」
 母にも連絡した。ジツのある息子を演じておくのは、彼女の先の対応に響く大事な事前処置だ。母は一次試験と二次試験の区別がつかず、
「受かったの? 受かったの?」
 と不安げに連呼していたが、所長に代わって、
「よし、体調を万全にして挑め」
 という物言いで、事情を察したらしかった。所長は出社を控えて待機していたようだ。
「二次試験の結果は二十日に山口から電話がいく。ぼくは七日にはもう名古屋に帰ってるから」
「わかりました。腰をすえてがんばってください」
 へんに丁寧な口調になった。最後にホテルの部屋にいるカズちゃんに連絡した。
「おめでとう! ここまできたら、禁欲を通すわよ」
「よし!」
 思わず大声が出た。
         †
 六日の試験会場は駒場に移った。しっかり腹を搾って排便し、シャワーを浴びて頭髪をさっぱりさせる。昨夜のうちにフロントに頼んでおいた赤飯弁当を学生鞄に入れる。胸にシャープペン、ポケットに消しゴムと小型のハサミ。社会と理科は選択科目ごとに、答案の端の指定の部分を三角形に切り取ることになっている。回収と採点の便宜のためだろう。いつものとおり時計は持たない。残り時間に合わせて頭の回転速度を切り換える芸当は私にはできない。時間は自分のリズムの中で自然と消費されるものだ。気にしてもしょうがない。
 眼鏡にトレンチコート。カズちゃんといっしょにホテルを出て、渋谷駅に入り、ぎっしり満員の井之頭線で駒場東大前へ。
「すごい人ね」
「二万人が一万人になって、本郷と駒場に振り分けられたんだ。最終的に二千八百人が合格する。文Ⅲは三百七十人。本郷はデカいから、七三の割合で振り分けられたとして、この電車は三千人を運んでるね。本郷では知り合いに会わなかった。駒場でも会わないだろうな。入学したら、青高の友人に何人か会うかもしれない」
 門前にたむろしている親子の集団が目障りだ。人目を意識しながら意味もなく上品ぶっている。どことなくひろゆきちゃん一家を思い起こさせた。声が聞こえてきた。眼鏡をかけた女子受験生が言っている。
「××さん、文Ⅲ志望だって」
 父親が答える。
「文Ⅲなぞ、だれでも受かる。東大は理Ⅲと理Ⅰと文Ⅰだけだ」
 目が小さく、鼻の高い馬面をしていた。その顔には自己満足以外の何ものも浮かんでいなかった。おそらく東大出身者だろう。肥満体の母親がにこにこ笑ってうなずいている。
 ―そういうものなのか。だれでも受かるなら私も受かるだろう。
「カズちゃん、あれ」
「ん? あ、カメラマン。だいじょうぶ、受験風景を撮ってるみたい」
「でも、人を探すみたいにキョロキョロしてるよ」
「そうねえ、人がたくさんいるところへいきましょう。西高へ連絡入れて、キョウちゃんが二次試験に進んだことを聞いてるはずだから」
「校内へ入って紛れちゃおう。人が大勢いる」
「私、ここからホテルへ帰ってる。がんばって。これ帰りの渋谷までの切符。インタビューなんかに捕まらないようにね。あしたもあるんだから」
「うん、じゃいってくる、バイバイ」
「バイバイ」


         百十 

 時計塔のすぐ下の教室が、私の受験番号に振り当てられた試験会場になっていた。受験番号と矢印の貼紙で指示された教室に足を踏み入れたとたん、大きな窓から射しこむ明るい陽ざしを浴びた。カズちゃんと覗いて回ったときより明るいのは、カーテンが開け放たれ、すべての蛍光灯が点されているからだった。
 戸口という戸口、机という机で、若者たちの群れがさざめいている。余裕ありげな軽口や微笑が飛び交っている。青森高校の受験日の再現だ。親しい友人同士で物見遊山でもしにきたという雰囲気。こんな特殊な状況のもとで、たまたま親しくなることなどあり得ない。同じ高校から大挙してやってきたのだ。あの和気こそ、彼らが名門高校出身者である証だ。私は彼らをつなぎ合わせている浅はかな団結心を感じ、その結びつきが私をよけて通るのを快く感じ、そして、自分をひどく高踏的な能ある人間のように感じた。彼らは死出の旅路も徒党を組んでいくだろう。
 あのぶかぶか靴がいた。机に姿勢を正して座り、単語帳を見ている。よく見ると、垢抜けない学生がけっこういる。孤独に斜に構えて、受験参考書ではない厚手の単行本を読んでいるやつもいる。ちらと『都市の論理』という表紙が見えた。
 初日は、国語、数学、順不同の生物プラス地学の順で、二日目は、英語、順不同の日本史プラス世界史の順で試験が行なわれる。理科と社会は、科目別に答案用紙の異なったひと隅を用意したハサミで三角形に切り取らされる。
 試験時間は、初日の国・数・生プラス地は、九時から国語二時間半、国語が終わったところで一時間の昼食休憩、十二時半から数学一時間四十分、三十分休憩して、二時四十分から生物プラス地学、二時間半。五時十分終了。三十分待機。
 二日目の英・日プラス世は、初日と同様英語二時間半、一時間休憩、十二時半から日プラス世二時間半。三時終了。三十分待機。
 配点は、国語百二十点、数学百点、生物・地学各六十点、英語百二十点、日本史・世界史各六十点、計五百八十点満点。合格点は二百六十点から三百二十点―四割五分から五割五分が例年の傾向だ。その得点幅を三十点でも超えれば百パーセント合格する。その振幅の中に取りこまれると、気を揉むことになる。目標三百五十点。
「参考書等をしまえ!」
 の指示で、全員ガタガタと姿勢を正す。ページ数の多い国語の問題冊子と、解答用紙の配布を受ける。解答用紙は厚手の上質紙だ。五分待機。
「始め!」
 国語。現国二問、現・古融合一問、古文一問、漢文一問の順で解いていく。百十点を少し超えた気がした。
 数学。五問中二問を見定めて着手。正方形内の点の動き得る範囲の面積を求める、三つの条件のもとの三次多項式を求める、の二問。完答をめざして試験時間のすべてを投入し、あとの三問は問題も読まずに放棄した。三十五点ほど取れたと確信した。生物と地学は足して八十点が危うかった。国・数・理それぞれ、百十点、三十点、七十点で計算しておく。計二百十点。あと八十点で五割突破。かなり合格に近づいたと感じた。
 ちょっとした事件があった。午後からの数学の試験が始まって二十分ほど経ったころ、最前列の学生が答案用紙を持ってとつぜん立ち上がり、
「この問題の解答、オレ、知ってるぞー、ぜんぶ知ってるぞー、知りたいやつには教えてやるぞー!」
 と叫びながら、机のあいだを走り回った。目が宙を見ていた。その学生は何人かの係員に取り押さえられ、教室の外へ抱え出された。廊下にしばらく、知ってるぞー、教えてやるぞー、という声が響いていた。私は思わず笑い声を上げた。試験官は声の主を探ろうとして教室を見回した。見つからなかった。
 五時四十分退出許可。暮れなずむ菊の門にカメラマンが増えていた。私は顔を斜にうつむけて早足に通り過ぎた。ストロボとフラッシュが何発か焚かれた。人混みにまぎれながら駅の階段を駆け上がり、カズちゃんのくれた切符で改札を通ると電車に乗りこんだ。眼鏡は何の効果もないようだった。ホテルに帰り着き、カズちゃんと堅く抱き合う。
「滑り出し好調。帰りに門で写真を撮られた」
「わ! あしたは私、一日ホテルにいることにするわ。いっしょに撮られたらたいへん」
「写真だけですむと思う。合格するまでインタビューはないよ。とにかくスタコラ逃げてくる。二次試験は学生が少ないからすぐ見つけられる」
「眼鏡かけても同じ顔だから、仕方ないわね。キョウちゃん一人の写真はいくら撮られてもかまわない。私といっしょのところを写真に撮られさえしなければ。とにかく二人で生き延びるために、お母さんに知られないこと」
「東大に受かっちゃえば、関係ないさ」
「いいえ、あの手この手で引き離されるわ。あの人は寛大な人じゃない。何かを許すということをしないの。私は一生、警戒を解かないわ。大胆に、かつ細心にね。さ、ごはんを食べにそのあたりに出ましょうか」
 カズちゃんはほんのり微笑んだ。
         †
 二日目。数少ないながら空席が目につく。数学でショックを受けた受験生が辞退したのだろう。東大の合格者の四割がたは、数学が零点だという噂を聞いたことがある。私は信憑性がある風聞だと思っている。人が何かをやろうと決めたときには、かならずその〈いき脚〉をさえぎるような災いが起こるものだ。不思議なことにその災いは、自分のいちばん弱いところを突いてくる。それでも求めたいものがあるなら、最後まで求めなければならない。試験場からいなくなった受験生は、素早く合格しなければ運命が変わってしまうようなやつらじゃないのだろう。私に来年はない。一年の無駄もできない。
 英語はほぼ満点。百十五点と計算する。これで三百二十五点。五割六分。これでほぼ百パーセント合格だ。二時間半という試験時間は、長いようで短い。得意科目だけに集中度は高く、あっという間に終わった。
 きょうもホテルの幕の内赤飯弁当。味つけが丁寧でうまい。弁当を食いながら、いつごろから英語や国語が得意になったのかを思い返してみた。英語はまちがいなくサイドさんの特訓がきっかけになっている。発音、動物単語から始まって、英会話フレーズ集、途中で放棄した老人と海。教わったのは一瞬で、あとはほとんど独学だったけれども、勉強の気組みが身についた。やる以上はいただきに登らなければいけないという気組みだ。国語は気組みと関係なく、多読癖が素になっている。いまなおつづけているいのちの記録、言葉ノート、詩作。数学は、守随くんの植木算や鶴亀算では私の貧しい素質を人並にすることはできなかった。中学以来の独学で人並になった。人並のものがいただきまで昇りつめるなど見果てぬ夢だ。この世の仕組みを学習する社会科は―小学校から苦手だった。〈勉強〉の充実感がいっさいなかったからだ。
 十二時半、苦手の社会科の試験開始。零点でいい。しかし一点でも多く稼ごう。答案用紙の隅を切り取り、方眼紙の解答用紙に解答番号を書きこむ。意地の悪い作業をさせるものだ。この作業時間が解答時間に入っているのだから恐れ入る。生物・地学もこのとおりだった。
 社会科は予想どおり完敗。二科目合わせて五十点ギリギリと踏んだ。四十点として、計三百六十五点。さらに謙虚に十五点引いて、三百五十点、六割。やはり百パーセント合格だろう。カズちゃんの予言した五本指は無理かもしれないが、いずれにせよ合格はまちがいない。もう一生、英数国理社の勉強をしなくてすむ。バンザイ。
「鉛筆を置け!」
 二日間の試験が終わった。社会科の得意な山口も受かっただろう。若い係員が答案を集める。希望と落胆に満たされた静寂。三時半退室許可。構内の喧騒。
 菊の門でカメラマンたちに取り囲まれる。父兄らが驚き、私の顔を確認しようとする。何人かが気づき、わが子の戦場からの帰還を忘れて破顔する。思ったとおりインタビューはない。呼びかけもせず、ただ追ってきてパシャパシャやるだけだ。受験生たちは東大入試という恒例行事の報道写真と思ってか、得意げにニヤついているやつもいれば、その場を足早に去るセーラー服もいる。私も逃げるように歩く。駒場寮の裏手の踏切を渡る。振り向かず一散に歩く。二十分ほどで商店街に入りこむ。いつの間にか一人きりになっていた。坂下の窪地にある神泉駅のたたずまいがすばらしい。
 東急インの玄関にカズちゃんが微笑みながら待っていた。
「受かったよ。五番以内は無理だと思う。例年の合格ラインはかなり超えた」
「きっと、一番ね。さあ、忙しくなるわよ」
 カズちゃんは私の両手を何度も振った。玄関ドアのガラスに彼女の美しい笑顔が映っている。私はそれに名古屋の女たちの祝福の笑みを重ねた。
 ホテルの電話から、まだたしかではないけれど、と前置きをして、母に合格の予想を伝えた。母は話の腰を折って、
「三百五十点? それは何割ぐらいなの?」
「六十パーセント以上」
「六十パーセントで合格できるの?」
 知識のない人間に信用されないというのは、あらゆる苦痛のうちでもかなり程度の高いものかもしれないが、説明する気が起こらない。
 そばに社員一同が控えていて聞き耳を立てているようだったが、
「そりゃ、合格どころじゃない。首席だよ!」
 という所長の大声が聞こえた。東大の試験は何十年も合格点の変動がないらしく、私の得点を聞いて、自分より四、五十点も多いと声高に説明しているようだった。
「はい。ありがとうございます」
 所長に応える母の笑いまじりの声が聞こえた。
「で、おまえ、飛島寮にいつ戻るの。上京するまで八坂荘にいてもいいんだけど。どうする?」
 母の上っついた調子が不快に響く。ひどく場ちがいな、親らしい愛情のこもったような声色に、私は驚きとも怒りともつかない感情を抱いた。
「しばらくのんびりしたいから、このまま合格発表まで、本でも読みながら八坂荘にいるよ。二十日の午前に、東京の山口からそっちへ連絡が入ることになってる。そのときいったん飛島寮に戻るけど、祝賀会なんかしなくていいからね」
「あい、あい、わかりました」
 母はうれしそうに電話を切った。うれしそうに? 私は火に焼かれるような怒りを感じた。私につづけてカズちゃんは、素子と北村席の両親に落ち着いた声色で電話した。喜びに顔がほころんでいた。
 山口から電話が入った。のんびりした声で訊く。
「どうだった」
「六割から六割三分ぐらい。それ以下はない。ぼくみたいな馬鹿がよくここまできたものだよ」
「そういう言い方をしちゃいけない。おまえの自己卑下はまぎれもない病気だ。おまえは出生以来、馬鹿であったためしはない。韜晦の気持ちもなく自分を貶めるのはおまえの美学だろうが、病気のせいでそう表現するとしたら、その美学は有効性がない。美学は真実を追究しなくちゃいけないからな。それにしても、六割三分という得点は、文系全学のトップくさいな。俺は五割七分から八分。まあ、当確だろう。わかってるな。二十二日に受験票を提示して、合格書類を受け取り、入学金を納めるんだぞ」
「わかってるよ。幼稚園児じゃないんだから」
「いや、幼稚園児よりも幼い。不気味に熟した面もあるけどな。ちょっと和子さんに替わってくれ。同じことを言うから」
 カズちゃんは緊張した面持ちで受話器を受け取った。
「はい、……はい、書類、はい、二十二日ですね、……はい、二十一日の午後にまた東急インに入ります。え? 二十一日にごはんを、はい、はい、フグ鍋、はい、楽しみにしてます、じゃそのとき、はい、失礼します」
「なんだい、いやに、丁寧な口を利いちゃって」
「あたりまえよ、キョウちゃんの命の恩人よ。ここにこうやって私たち二人が生きていられるのは彼のおかげ。キョウちゃんが死んでたら、私も死んでたから。わかった? どれほど丁寧にしたってしすぎることはないのよ」
 彼女は駅前の商店街に私を連れて出て、高級そうな洋品店で、ウール百パーセントの黒いオーバーを買い与えた。
「これからは寒くなくても着て歩くこと。いいかげんにしなさいね。きょうもマフラーし忘れていったでしょ」


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