十九

 勉強を始める前に、たまたま相撲の話になったことがあった。あまり相撲を知らない私は、横浜の街頭のテレビで見た若乃花をぼんやり気に入っていたけれど、守随くんは栃錦のファンだった。
「そろそろ、栃若の時代も終わりかな。このあいだ優勝して大関になった大鵬と、怪力柏戸の時代になると思う。柏鵬時代」
「ONみたいなもの?」
「そう。栃若、柏鵬っていうふうに、性格が反対のカップルで売り出すのがマスコミのやり方なんだが」
 私は守随くんの分析力に痛く感心した。頭がいいというのは、こういうことを言うのだろうと思った。
 ある晩、ひとわたり勉強をやり終えたあと、守随くんは表情を引き締め、とつぜん勉強と関係のない話を持ち出した。
「……神無月くん、気悪くせんでな。神無月くんは寺田と仲良うしとるみたいやけど、あんまり深入りせんほうがええと思う。あいつの家は、怖(おそが)いで」
「どうして?」
 私はわかっていて訊いた。
「これだで―」
 守随くんはいつか康男がやったみたいに、頬っぺたに当てた指を斜めに滑らせた。眼鏡の奥の目が執拗に私の顔を見ている。眉間にいやなシワが寄っている。私の中で大きくふくらんでいた守随くんの人柄が、たちまち小さくしぼんでいった。
「そんなこと、とっくのむかしから知ってるよ。……康男がヤクザだったってかまわないさ。ぼくは康男が好きなんだから」
 私は大げさな気持ちでなく、康男のことを、ようやくめぐり会ったたった一人の友人だと思っていた。ほかのクラスメイトたちが結んでいる友情は、どれもこれも上っ面だけの子供の遊びみたいに思われた。私が康男と結びつこうとする心の底には、たしかに彼の大人らしさへのあこがれもあったけれども、そういう仲間たちへの軽蔑や反抗心も蠢いていた。私は少し声を大きくした。
「康男は、まわりの子たちよりずっと大人なんだよ。だれだって人から大事にされなかったり、守ってもらえないとわかったりすると、あっというまに大人にならなくちゃいけないんだ」
 守随くんは呆れたような苦笑を洩らした。
「やられてまったんやね」
「どういう意味」
「寺田は、腐ったみかんだってこと。腐ったみかんは、まわりのみかんも腐らせるんだがや。朱に交われば赤くなる、ゆうが」
 それは世間風を吹かせた聞いたことのある言い回しだった。自分の言葉ではない、思慮の浅い嘘だった。私は嘘が大嫌いだった。
「康男は腐ってないよ!」
 寺田康男は、彼と口を利いたこともない守随くんのような生徒たちには、その入り組んだ気心をはっきりとはつかめない男なのだ。彼らにとって康男は、いつまでたっても傍若無人な、怖いだけの存在にちがいない。しかし、ぜったい腐ってなんかいない。ときどき校庭の片隅や廊下で、弱い生徒をいじめる出来損ないたちにカツを入れるとき以外は、康男はするどい爪を注意深く隠している。恐(こわ)持ての大人らしい風采をのぞけば、静かで、害のない男なのだ。風采だけではない。康男の心はだれよりも成熟している。いっしょに夜道を歩いているときなど、私の話す幼い言葉に、康男がごく自然に大らかな理解や繊細な解釈を加えたりすると、私は泣きたくなる。まわりを腐らせるどころか、生き返らせるのだ。ぼんやり遊び暮らしているような康男の生活は、見かけだけのものだ。彼の豪気さと気持ちの細やかさは、生まれつきの性格のせいで輝かしく磨き上げられていて、だれだってそのどちらにも手が届かないのだ。
「深入りせんほうがええて。……寺田は荒けにゃあ男だで。神無月くんも、みんなに同じように思われたら損だが」
 私は、自分と康男が結んでいる友情のせいで、損をしたとも、何か誤解されたとも思ったことはなかった。人のそばで、いつも心配そうな難しい顔をしながら、臆面なしに鼻を突っこむ連中、何のためにこういう連中は、年がら年中心配そうな顔をしているのだろう。何のために年がら年中小難しく意地悪なのだろう。私は呻(うな)るように言った。
「康男もぼくも、だれからもへんに思われてないし、怖がられてもいないよ。守随くんこそ、康男のことを考え直したほうがいい」
 東海橋を渡っていく康男のさびしそうな背中がはっきりと浮かんできた。たった一人の親友に寄せる自分の愛情がますます確かなものに感じられて、私はしげしげと守随くんの顔を見た。彼は渋い表情をした。彼の孤独そうな目の奥にやさしい気持ちが宿っていると思ったのは、私の買いかぶりだったのだ。
「康男を怖がるやつは、バカだよ。バカなやつだけが康男を冷たく見たり、悪口を言ったりするんだ」
「……バカだって言われたら、もう勉強は教えられんわ」
「ああ、いいよ。もうこない」
 私はノートを閉じると、
「じゃね。これまでほんとにありがとう」
 と言って座を立った。守随くんはこちらを見ようともしなかった。二人の口論が抜き差しならない調子に聞えたのか、それともたまたま何か手を離せない用事があったのか、親切な両親は部屋に入ってこなかった。
「じゃ、ほんとにさよなら」
 私はもう一度、玄関から声をかけた。
         †
 五年生の春休みも終わりに近く、昼めしのとき、
「キョウちゃん、赤木圭一郎が死んだね」
 と吉冨さんが言った。私は好物の白菜の浅漬けでご飯をくるみながら、
「裕次郎でなければ関係ないや」
 と応えた。そう突き放さないで話に乗ってくれ、という目で吉冨さんが見ているので、
「どうして死んだの」
 と訊き返した。
「ゴーカートで遊んでいたら、それが撮影所の壁に激突したんだってさ」
 私はゴーカートというものを知らないので、よく呑みこめなかった。
「赤木圭一郎って、好きじゃなかったからどうでもいいな。歌も下手だし」
 吉冨さんは笑いながら、
「俺もどうでもいいんだ。雷蔵と京マチ子さえ元気でいてくれればね。赤木圭一郎が死んだって、べつに日活は痛手じゃないもんな。どうせ、〈第三の男〉だ」
 大映ファンの吉冨さんは、めしを噛みながら味噌汁を流しこんだ。
「抜き撃ちの竜か。ぶらっと入って観たことがある。つまらん映画だったな」
 小山田さんがぼそりと言った。
「みんなひどいこと言うのね。私は紅の拳銃大好きよ。霧笛が俺を呼んでいるなんて、ロマンチックじゃないの。恋人役の芦川いづみ、きれいだった!」
 カズちゃんがうっとりした顔で言う。すかさず吉冨さんは、
「裕次郎、芦川いづみか。日活ミーハー路線の英雄だな」
「ま、ミーハーだなんて!」
 クマさんが、ガハハと笑う。
「天下の裕次郎も、北原三枝と結婚するらしいぞ。そういえば、キョウは裕次郎のファンだったな」
「うん。でも、名古屋にきてからはあんまり観てない。神宮前日活で観た世界を賭ける恋が最後だった。なんだか裕次郎らしくなかった。主題歌はよかったけど」
「世界を賭ける恋なぜ悲し、か」
 クマさんがいい声で唄った。
 二、三年前までの裕次郎のキリリとした顔立ちの中には、わくわくするような獣性のきらめきがあった。あの浮世離れしたきらめきと、結婚のイメージは結びつかなかった。ヤクザ者らしくない裕次郎は、もう何の魅力もない。
「たしかにな。ロマン演歌なんてものを唄いだしたあたりから、裕次郎はつまらなくなっちまった」
 うなずくクマさんをちらりと見て、吉冨さんがまじめな顔で持論を言った。
「とにかく、映画はいいもんだよ。武士、町人、白人、黒人、ヤクザ、勤め人、年寄りに若者、兵隊さん、船乗り、数え上げたらきりがないほどいろんなやつが出てくるでしょ。俺たちの知らない、いろんなやつが出てくる。それでいて、ふだんの生活よりも現実味たっぷりだ」 
「私、そんなこと考えたこともない。理屈っぽい映画って嫌い。わかりやすい映画が好き」
 そうか、と吉冨さんは膝を打って、
「じゃ、カズちゃん、今度、わかりやすい映画に連れてってやろう。ジェリー・ルイスの底抜けシリーズ、楽しいぞ」
「ふざけすぎてるのも、嫌い」
 やれやれ、と吉冨さんは笑った。
「キョウちゃんは、いくか?」
「うん」
 母が流しから振り向いて、
「クセになりますよ。この子は映画キチガイなんですから」
「そうだっけ? 俺が一、二回連れてったくらいじゃないの」
「いいえ、横浜にいたときなんて、週に一度は裕次郎の映画を観にいって、帰ってくるのが夜中過ぎですよ。頭に大きなコブなんか作っちゃって。眠たくて電信柱にぶつかったんだって、平気で言うんですからねえ。歩きながら寝てたらしいんですよ」
 例の作り話だ。みんな笑った。吉冨さんが私に笑顔を向けて、
「キョウちゃん、時代劇観たことは?」
「あるよ。幼稚園のとき従兄と映画館の便所の窓から忍びこんだんだけど、時代劇をやってた。言葉の意味がよくわからなかった」
 役人の提灯が雪崩を打って押し寄せてくると、映画館の暗闇でさかんに拍手していた人びとを思い出した。画面に話しかけたり、叫び声をあげたりする人もいて、それが吉冨さんの言う現実味というものなのだろうと思った。いままで考えたこともなかったけれども、きっと現実味があるということのほうが、ここに確かに現実があるということよりもすばらしいのだ。
「子供じゃなくても、時代劇の科白は難しいわよ」
「やっぱり、ジェリー・ルイスがいいかな」
 クマさんが異を唱えた。
「吉冨、ジェリー・ルイスの芸は、由利徹なんかとちがってちょっと大げさすぎるんじゃないか。日本人は大笑いできんぞ」
 荒田さんも身を乗り出して、
「旗屋の映画館で殺人鬼登場というのをやってるぜ。子供は怖い映画が好きなんだよ。俺が連れてってやる。いま野球部はないんだろ」
「うん、四月の一日から」
「大人もスリラーは好きですよ。俺もいきます」
 と吉冨さん。
「三流くさいな、その題名」
 小山田さんが鼻で笑った。
「私もいく! 日曜日でしょ。夕ごはんだけ支度すればいいもの。佐藤さん、私、四時から入りますね」
「どうぞ、どうぞ。いまや、時差出勤の時代ですからね。私も日曜は、〈寝て曜日〉だから」
 めずらしく母が機嫌よく応えた。おや、と思うと、彼女はテレビを観ていた。日日の背信という昼のメロドラマだった。病床にある妻をないがしろにして、生活苦から金持ちの愛人をしている女との恋に溺れるという、何か覚悟のないだらけた内容で、私も母やカズちゃんといっしょになって一度観たことがあった。
「出版社の社長と、宝石店の社長の愛人との恋愛ですか。なんだか身動きしやすくて、真剣じゃないですね」
 とカズちゃんが言った。母はうるさそうな顔をしたけれども、そのとおりだと思った。
 結局、その週の日曜日、五人の男女に連れられて旗屋へ出かけた。所長用のクラウンでいった。カズちゃんと助手席に乗った。彼女の柔らかくて温かい太腿がぴったりくっついて気持ちよかった。
 古びた小さい映画館の暗がりで、前田のクラッカーをかじりながら観た殺人鬼登場はほんとうに怖かった。誘拐してきた美女を次つぎと殺しては、顔の皮を剥いで別の女に移植する整形外科医の話だった。その秘密を握った人間もみんな殺してしまう。人が殺されるのは恐ろしかったが、自動車事故で顔が化け物みたいになった恋人のために残酷な手術を繰り返す男の心は哀しかった。怖い場面になるたびに、隣に座ったカズちゃんがギュッと私の手を握った。うれしかったけれど、握り返せなかった。どういういきさつかよくわからなかったけれど、最後に男がサーカスの熊に顔の肉を爪でえぐり取られる場面は、子供心にもその因果がわかってやるせなかった。



         二十                  

 帰りに、旗屋から熱田神宮裏の老舗のうなぎ屋へ回り、四人そろって〈ひつまぶし〉を食べた。山椒の香りがすばらしく、この世のものとは思えないほどおいしかった。一粒もごはんを残さなかった。
「むちゃくちゃなストーリーだったけど、けっこうおもしろかったな」
 茶をすすりながらクマさんが言った。カズちゃんが、
「私は怖くて怖くて、キョウちゃんの手を握ってばかりいたわ」
 クマさんが、
「俺の手を握れよ」
「カズちゃんは人妻ですよ。それは無理でしょう。俺はやっぱり雷蔵がいいな。今度またみんなでいきましょうや」
 と吉冨さん。
「キョウがいきたいと言ったらな」
 荒田さんが私に八重歯を剥いた。
「キョウちゃんには稲尾物語か、くたばれヤンキースがいいだろ。どっかでリバイバルやってないか」
 小山田さんが首をひねった。それからみんなでビールになり、私はバヤリース・オレンジを飲んだ。飯場に入ってから一年半、こんなふうにすごしている時間が何もかも夢のように感じられる。
         †
 四月四日。六年生の初登校の日だ。通学路にまぶしい陽が降り注いでいる。道端のレンギョウの新芽が萌え出たと思ったら、もう黄色い小さな花が咲きはじめた。空き地に咲く酸葉(すいは)の花は真っ赤だった。子どもたちが、いつもより明るくはしゃいでいる。千年小学校の生徒は、胸に四角い布を土台にした楕円形のプラスチックの名札をつけ、一年生から六年生まで縦に並んで登校する。そのグループのことを分団(ぶんだん)と呼んでいる。今年の分団は、私とリサちゃんがみんなを引き連れて、いちばん先頭を歩くことになった。初めて浅間下の町並を歩いたときのような、空のざわめきが聞こえる。道沿いのタイサンボクの木立(こだち)で囀りの練習をしていたウグイスが、ぴたりと鳴きやんだ。
「まいど!」
 自転車に乗った氷屋が、ズボン姿のリサちゃんに声をかけて分団の列を通り越していった。酒井棟の飯場は事務所の飯場より大きな冷蔵庫を使うので、一年中氷屋が出入りしている。
 野球部も先輩の長崎や吉村たちが卒業していって、ぐんと風通しがよくなり、今年入部した九人の五生生を加えると、たとえ春だけのヌカ喜びだとしても、総勢二十名近くに増えた。レギュラーは、レフトの私、ファースト関、セカンド中野渡、ショート兵頭、サード高山、ピッチャー岩間、キャッチャー須藤の六年生七人。岩間がエースに昇格し、控えのピッチャーも五年生から二人抜擢された。二人とも岩間に劣らないくらいの強肩だ。新入りの五年生から、ライト小平、センター友近の二人が選ばれ、五年生の補欠の質も、去年よりはずっとましになった。豊作だ。ひょっとしたらという気がする。
 木田をはじめ、六年生の補欠は三人、五年生は五人。彼らの中からポチポチ落伍者が出る。気の毒だけれど、いてもいなくてもいいやつらだ。服部先生が集合をかける。
「新千年チーム、キャプテンは神無月、主戦ピッチャー岩間。八番までほぼ固定の打順を発表する。一番関、二番友近、三番中野渡、四番神無月、五番高山、六番須藤、七番兵頭、八番小平。スランプにかかるやつが出たら、五年から引き上げる」
 私は晴れて最上級生として四番を打つことになった。五年生のときの肩肘張った気分がなくなり、伸びのびとした解放感がやってきた。ところが、キャプテンに指名されたことで、あらためて重苦しい気持ちに満たされた。学級委員さえやったことのない私が、生まれて初めて仲間を統括する立場を任されたのだ。何をすればいいのかさっぱりわからなかったけれども、まじめな練習態度を見せつづけることだけはしようと思った。そう心を決めると、バッティングに、ランニングに、いよいよ力がこもった。ノックの服部先生も一段と張り切っている。
 春の身体検査で、身長は百五十九センチにまで伸びていた。この一年で十センチ。中学を終えるころまでには、きっと百七十五センチを超えるだろう。それでも特別大きいほうではないけれども、背のハンデは基礎体力でカバーできる。体力テストでは、百メートル十三秒五、ソフトボールの遠投六十三メートル、もちろん校内一位だった。懸垂が五回しかできなくて、二の腕がからだの中でいちばんの弱点だと分かった。腕相撲は負けたことがないので、肘から手首までは人一倍強いことがわかっている。腕立て伏せと懸垂を毎日やることに決めた。
         †
 校内委員の選挙が近づいてきた。廊下にも教室にもしきりに、清き一票を、の放送が流れている。もちろん加藤雅江の声だ。選挙に先んじて、新学期のクラス委員選挙が行なわれた。今年もぶっちぎりで守随くんと鬼頭倫子に票が集まった。
 朝礼のとき、それぞれ男女の列の先頭に彼らが立った。生徒会長が、休め! の号令をかける。校庭でも廊下でも出会ったことのない校長先生と教頭先生が何かをしゃべっているあいだ、ぼんやりと仲間たちの後頭部を眺めている。彼らの話が退屈に感じるのは、天気のこととか、偉人のこととか、校則のこととか、きっと彼らもしゃべりたくもないことをしゃべっているからだ。音楽の先生が朝礼台に上がって、校歌斉唱。これまでの三つの小学校の校歌は覚えたことがなかったけれど、千年小学校の校歌だけはメロディが好きなので覚えた。やわらかい風が吹き、校庭一面に光が躍っている。私はもっと風を感じたくて、空を見上げた。スーザの行進曲キャプテン・ジェネラルに合わせ、両手を振って教室へ戻る。CBCテレビのニュースと同じ曲だ。いままで聴いた行進曲の中でいちばん好きな曲だ。相変わらず高橋弓子が怒り肩を揺すって歩く。
 今年からレフト側の鉄筋校舎だ。一階の真ん中の教室。正門の職員室からやってくるのには五分もかかるだろう。アルミサッシの窓の外はまばらな立木の庭になっている。立木の向こうには民家が建ち並んでいる。
「ケネディは四十三歳で大統領になったんだが。歴代大統領の中では最年少だって知っとる? カトリック教徒で大統領になった初めての政治家や。どえりゃあ鈍才でよ、ハーバード大学にはお父さんのコネで入ったんやと。落第ぎりぎりで卒業したらしいで」
 また岩間が性懲りもなく知ったかぶりをしている。どうでもいい知識を仲間の耳に垂れ流す。有名人のくだらないゴシップなぞ、知りたくもない。岩間はそんな知識をいったいどこから仕入れるのだろう。彼は、桑子が姿を現すまで次から次と、これからはレジャーの時代やとか、ガガーリンは地球は青かったと言っとれへん、やさしく光る淡い水色だと言ったんやとか、高度経済成長はオリンピックや新幹線の特需のせいやとか、ニュースのアナウンサーがするようないろいろな話をしたけれども、私はそのすべてに何の興味も抱かなかった。
 私は岩間の得意げな顔を見ながら考えた。だれかが興味を持っているからこそ、何かの手段で伝えられ、岩間のような人間の目や耳に入り、人に語るための知識として定着するのだ。人はさまざまなことに興味を持つ。没頭するためではなく、蓄えて語るために。その情熱は、ほとほと呆れるほどだ。もし人間全体がそうだとすると、この先、たぶん一生のあいだ、私はその情熱のせいで苦労するだろうと直観した。私はものごとに没頭したい人間で、ものごとを蓄えて伝えたい人間ではない。つまり、蓄えるために頭を働かせるのをつらい仕事だと考える人間だ。私は人にものごとを伝えられないようにできている。自分だけで没頭するようにできている。
「先生がおみえになりました。起立」
 鬼頭倫子のおっとりした掛け声。ガタガタと椅子の鳴る音。
「礼。着席」
 窓から暖かい乾燥した光が教室に射しこんでいる。桑子の剃りたての頬が青い。
「生徒会の選挙が近いな。生徒会長、副会長、会計、書記の四役だ。神無月、おまえ、書記に立候補してみろ」
 とつぜん教壇から私に向かって言った。
「ショキって何ですか」
「生徒会の黒板係だ」
 太い眉を上下させる。上機嫌だ。
「黒板に何を書くんですか」
「みんなの話し合いの進行具合を要領よくまとめるわけだ。や、まとめるのは生徒会長がやるから、おまえは要点を書くだけでいい」
「つまり、メモ係ですね」
「まあ、そんなところだ。しかし、たまには発言もしなくちゃいかんぞ」
 こんなことを求められるのはきっと、五年生の三学期以来めきめき勉強の成績が上がってきたせいだろう。このごろでは、守随くんや鬼頭倫子と並んで、算数や理科でも百点を取れるようになった。
「ぼく、近眼になったらしくて」
 教室がざわめいた。
「近眼? 見え透いたことを言うな。みんなの意見と生徒会長のまとめを聴いて、ただそれを黒板に書くだけやないか。月に一回ぐらいの生徒会なんて、大した仕事でないぞ。耳は聞こえるんだろ」
 桑子なぜかおもしろがって許そうとしない。実際、最近夕暮れになると、遠くのものがぼんやりかすんで見えにくくなることがあって、そんなときは目に力を入れないと焦点が合わない。康男のように目をすがめてあたりを眺めることも自然にできるようになった。なぜかそんなふうにするのがうれしい。ふだんはそんなに頻繁に目がかすむことはないし、野球や勉強をするのに何の不自由もない。
「守随くんや鬼頭さんは?」
「各クラスの学級委員は、あらかじめ風紀委員とか図書委員とか美化委員とか保健委員とか、何かの執行委員になっとる。選挙せんでもええんや。生徒会長、副会長、書記、会計だけが毎年立候補して選ばれる」
「加藤雅江さんも副会長に立候補するんよ」
 前のほうの席から鬼頭倫子が振り向き、彼女にしては大きな声で言った。足の悪い加藤雅江ですら、みんなのためにがんばろうとしていると言いたいのだろう。でも私には関係のないことだ。
「―野球が忙しいし」
「なんだ、今度は野球か。どの委員だって、みんなクラブをやってるぞ」
 私の拒絶のほんとうの理由はそんなことにはなかった。私は、無関心とはちがったもっと生理的な感覚から、いわゆる〈よい子〉の寄り合いを毛嫌いしていた。人望を集めるそういう生徒たちを見ると、かならずあのひろゆきちゃんの家の夜の集会を思い出した。彼らが集団で演出していた何か安心したような、わざとらしい明るい雰囲気や、気取ったやりとりを思い出した。できればそういう集団には近づきたくなかった。


         二十一

「ようし、決を採る。神無月を書記に推薦したい人」
 桑子が挙手を求め、たちまち賛成多数で決まってしまった。康男まで真っすぐ手を挙げていた。
「守随、おまえの推薦がお流れにならなくてよかったな」
 そう言って桑子は笑った。守随くんは頭を掻きながら、私に向かって素朴な笑顔を向けた。ドキッとした。気まずく別れたあの夜以来、彼はずっと私の顔を見ないようにしていたのだ。放課後、守随くんは私に寄ってきて、
「ごめんな、あのときはつまらんこと言ってまって。神無月くんの言うとおり、寺田はええやつやったが。ぜんぜん弱い者いじめなんかしとれせんかった。こないだの朝も、千年の交差点で、ババア危ねえぞ、って言って、どっかのお婆さんをおんぶしてやっとった。やっぱし、神無月くんの目は高いわ」
 いつになく早口に言って、握手を求めてきた。康男の美点はそういう道徳的なところにあるのではなくて、いかついオトコ気の中にあるんだ、と私は言いたかったけれど、守随くんなりに康男を認めてくれたことがうれしくて、彼の手を握り返した。
 それはそれとして、桑子に推薦するなんて、余計なことをしてくれたものだ。おかげで私は、その日は野球の練習に集中できず、夜は夜で、床に入ったあともなかなか寝つけなかった。いつもは目をつぶりさえすればすぐに寝入ってしまうのに、その夜は思いつめた気分で、真夜中過ぎまで歯を食いしばるようにして起きていた。そうやって起きていると、夜の長いことがつくづく感じられ、隣の蒲団で母が前後不覚にいびきをかいているのが憎たらしくてならなかった。夜中というのはこんなにさびしいものかと思って、しじまに耳を澄ました。ようやく眠りについても、気取った秀才たちの前でおどおど黒板に金釘を書いているようないやな夢ばかり見て、眠っているのか目覚めているのかわからないくらいだった。
         †
 朝めしのとき、小山田さんが私の顔を見つめながら言った。
「春の怨みをことごとく集めたる、か……」
「なに、それ」
「夏目漱石『草枕』より。春は悲しい気分になるってことだ。キョウちゃんが悩ましい顔してるからさ」
「……学校の書記に立候補させられちゃったんだ。週番ぐらいならいいけど、生徒会はイヤだな。あした、立候補演説をしなくちゃいけない」
「めでたいじゃないか。演説というのは、言いたいことを要領よく言う鍛錬になる。何にせよ、経験しておいて損なことなんかないぞ。どんなことでも経験すれば、自分の得手不得手がハッキリする」
「そのとおり!」
 吉冨さんがにっこり笑う。
「俺もそう思う」
 クマさんが重々しくうなずいた。
「ぼくの得意なのは、野球だけだよ」
 私は彼らに愛想笑いを返しながら、ますます憂鬱になった。
 演説の当日、候補者たちが朝礼台の両側に立ち並んだ。生徒会長候補二人、副会長候補三人、会計候補二人、書記候補四人。中に、片足の短い加藤雅江のポニーテール姿もあった。寝不足の顔に風が気持ちよい。柔らかそうな雲のかたまりが、三階校舎の上をゆっくり流れていく。演壇脇に立った背の低いポールの国旗が揺れている。
 ―選ばれちゃったら、野球部の練習や、遠征試合の予定がめちゃくちゃになってしまう。それだけじゃない。ときどき学校帰りに覗くのを楽しみにしている貸本屋にもあんまりいけなくなるし、もし生徒会が土曜日なんかに当たったら、小山田さんたちと薄暮のダブルヘッダーにもいけなくなるだろう。
 いろいろな心配が胸に迫り、私は壇上でしゃべる逃げ口上を唱えはじめた。
「素振りの練習時間が減ってしまいます」
「字が下手です」
「耳が遠くて、人の声がよく聞き取れません」
 耳は聞こえるんだろと桑子は言ったけれども、耳が遠いのはほんとうのことだ。小さいころにやった中耳炎のせいで(母の話だと東京にいたときらしい。そのころ左手も火鉢に突っこんだらしくて、手の甲と指の股に薄っすらとケロイドが残っている)、右の耳が遠いのだ。え? と聞き返すたびに、母は不快な顔をして、
「おまえは爺さんかい」
 と言う。でも、そんな言い訳はどれもこれもうまくいきそうに思われなかった。
 生徒会の中でもいちばん下役の候補なので、私は真っ先に呼び上げられ、片手で陽差しをさえぎる格好をしながら鉄段を昇っていった。最後の一段を踏もうとしたとき、足が滑って踏み外し、階段のふちに脛(すね)をしたたかにこすった。痛みをこらえながら演壇に上がり、額をポンと一つ叩くと、校庭のそこかしこから笑い声が湧いた。降って湧いた幸運に私は内心小躍りした。
 ―これでだいじょうぶだ。みんなじゅうぶん呆れただろう。
 私は会心の笑みを浮かべながらマイクを握り、
「いつもこんなふうです。あわて者なので、とても校内委員なんか務まりません。おまけにぼくは、今年から野球部のキャプテンになりましたし、毎日顔出ししなくちゃいけないし、日課の素振りは欠かせないし、いろいろと忙しいんです」
 腰に手を当てて部員に命令するように人差し指を突き出したり、バットを振る格好をしたりしてみせる。
「秋の終わりには、熱田神宮の奉納相撲にも出てくれと桑子先生から頼まれているし」
 突き押しのまねをしてみせる。
「そんなわけで、生徒会の仕事をちゃんとすることなんてできっこありません。字も下手だし、目も悪いし、耳もよく聞こえません。どうか、ぼくを選ばないでください。お願いします!」
 と大声で言い終え、お辞儀をすると、とんでもない爆笑がどよめいた。ちょっと大げさに言いすぎたかな、と思いながら、私は壇上からさっさと駆け下りて候補者の列に戻った。脛がズキズキ痛んだ。ズボンをまくって見ると、かなり深くえぐれていた。それでも私は満足していた。悩める幾晩かが嘘のようだった。
 桑子が近づいてきて、猫のようにからだをこすりつけた。
「当選確実だ。うまくやったな」
 私は心臓に一撃を喰らわされたように感じて、整列している生徒たちへ目をやった。みんな好意的な笑顔を浮かべている。胸が苦しくなり、深く息を吸おうとして空を見上げた。そのとたん、どうしたはずみか、ゆらゆらと空一面が急にいびつに波打って見え、しゃがみこむと、ゲッと吐いた。朝かきこんできた湯漬けのめし粒が、目の下に真っ白く散らばった。桑子があわてて背中をさする。康男の声が遠くから聞こえた。
「どしたんや神無月、だいじょうぶか!」
 その日から私は意気地なく寝こんだ。学校を二日休んだ。選ばれたくない、選ばれたくない、あんなやつらの仲間になりたくない。その言葉だけが頭の中に渦巻いた。
 二日間寝ているあいだに、脛の傷は分厚いかさぶたに変わった。二日目の夕方に、康男が加藤雅江といっしょに見舞いにきた。カズちゃんに連れられて彼らは部屋の敷居まできて、にっこり笑った。康男とは二、三週間に一度は東海橋までいっしょに歩いているけれども、ひどくひさしぶりの気がした。見舞好きの加藤雅江は、なんだかぷりぷりしている。
「根性なしやね。来週の月曜日は開票やよ。当選確実なんやから、肚をくくりなさい」
 年寄りくさい言い方をする。
「神無月は気がこまかいでかんわ。くだらんことでぶっ倒れてよ」
 二人は部屋に上がりこみ、枕もとに坐って、火鉢のふちにきちんと並んでいる煙草の吸いさしを見つめた。恥ずかしかった。やがて母が南部煎餅を持ってやってきた。二人に短い礼を言ったようだったけれども、康男のほうは見ようともしないでさっさと食堂へ戻っていった。康男にすまないという気持ちがあらためて湧いた。
「やりたくねえなら、無理すんなや。俺から桑キンタンに言っといたるわ」
 私の顔を見つめながら、康男はバリバリと煎餅をかじった。
「だめだが。選挙の結果は公明正大なんやから。そんなにいややったら、演説の日に休めばよかったでしょが。いまさら、みっともない」
 加藤雅江の悟りすました顔を見ているうちに、奇妙にあきらめたような気分がやってきた。
 ―ムキになっていやがることもないのかな。当選したら、加藤雅江の言うとおりハラをくくって頑張ってみようか。……でも、やっぱり、ぼくには委員なんて無理だな。
         †
 土曜日の晩めしのあと、母に歯医者についてくるように言われ、面倒くさかったけれども、選挙のことを忘れるための気晴らしだと思ってうなずいた。五本しか残っていない下の歯をぜんぶ抜くのだと言う。
「大事にしなかったツケが回ってきたよ。戦時中に栄養が足りてなかったしね」
 栄養が足りなかったのは母だけの事情ではないだろう。こうなったのはひとえに彼女のだらしのない性格のせいだ。部屋を散らかし放題するのが彼女の癖で、国際ホテルでも、浅間下の三帖間も、いつも私が片付けていた。飯場の部屋も、ふと油断すると散らかってしまうので、私はいつも眼を光らせて片付ける。
 祖父母の話では、歯を磨く習慣のない母は、十代の終わりに歯の根が膿みだして、結婚したときには上の歯が総入れ歯だったという。浅間下でも、たまに台所で口から肌色のかたまりを外し、こっそりブラシをかけている姿を見かけたことがある。それが入れ歯だとは察していても、母が秘密らしくしている様子に気兼ねして何も訊かなかった。
「入れ歯って高いんだよ。いやんなっちゃう」
 ちょうど花見どきで、道々あちこちの薄暗い空地が賑わっていた。紅白の幕をめぐらしている集団もあった。ほとんどが子供連れで、夜桜の下に敷物を広げ、重ね物や酒で浮かれている。
「暇な人はいいね。ああやってのんきに暮らせて」
 母は冷たい視線で彼らをちらりと見ると、道を急いだ。
「ここで待ってて」
 千年のスポーツ用品店の並びにある歯医者の前で言い、母は玄関のガラス戸を押して入っていった。細長い花壇のふちに腰を下ろして待った。市電がパンタグラフに青い火花を光らせながら、片方へ傾(かし)ぎ、また反対側へ傾ぎして走り過ぎた。吊革の揺れる窓がひどく明るく見えた。何分おきかに往来する。千年の十字路から名古屋港のほうへ曲がっていく電車があれば、それに乗って康男の住んでいる東海橋までいけるのに。東海橋へ向かう市電はないので、康男は歩いて千年小学校までかよってくる。彼の歩く町並を一度歩いてみたい。
 いい匂いをさせて、ラーメン屋の屋台が通りかかった。じっと見つめていたら、屋台を停めたので、私はあわてて目を逸らした。
 一時間もして、母はタオルを口にあてて出てきた。血が滲んでいる。
「五本いっぺんにやってもらった。痛くて、痛くて、泣きたくなったよ」
 くぐもった声で言う。泣きたいという言い回しが母に似合わなかった。
「これで全部歯がなくなっちゃったの」
「そう。せいせいした」
「でも入れ歯にするんでしょ」
「そうしないと、ものが食べれないからね。何万円もするんだよ。給料ふた月み月分、消えてしまったわ」
 黙っていると、
「―郷、ほしい本はない? 何冊でも買ってやるよ」
 と言った。サトコを思い出した。何万円もする入れ歯のせいで、ヤケになっているのかもしれない。私は気乗りがしないまま、千年小学校の正門前にある駄菓子屋へ母を連れていった。そこには、トコロテンを食わせる縁台の後ろの出店にいつも新刊の雑誌が並べてある。
「これ」
 と適当に指差して、小学六年生を買ってもらった。そんなお堅い本に食指が動くはずもなかったけれど、母のご機嫌伺いにもなるし、付録本で分厚くふくらんでいるのにも心惹かれたからだった。



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