百十四

 三月十四日木曜日。快晴。七・五度。美濃路が堀川に突き当たるシャトー西の丸までランニング。マンション裏の川端の小庭で三種の神器と素振り。一本道を往復四十分。帰りに花屋に寄って挨拶。まだ不定だが、たぶん受かっただろうということを告げる。
「受かったら、四月から東大で野球をやります。見守っていてください」
「これからは毎日、新聞種だね。活躍、心から祈ってますよ」
「はい、期待に添えるようがんばります」
 お婆さんが、
「ホームランを打ちつづけてくださいや」
「はい、それだけは約束できます」
 女将が、
「こっちに戻ったら、かならず顔を出してくださいね」
「はい、もちろんです」
 焼肉定食をハナムケに送られる。
 八坂荘に戻り、机の教科書や参考書の整理。二度と使わないものだ。学生鞄の中身を整理する。大金の入った封筒、いのちの記録、詩稿ノート、言葉ノート、文具、土橋校長の万年筆、木谷千佳子のスタンド敷き。部屋の掃除。ふと、東大に落ちていたらと考え、首筋が冷たくなった。
 ―天下一の大ボラ吹きとして生きていく。
 そして大学と名のつくところは二度と受けない。それでも、母とはかならず離れ、カズちゃんたちと東京に住むことにしよう。常に山口や村迫さんと連絡をとりながら。……何年かかるかわからないが、トレーニングを怠らず、辛抱強く待っていれば、いずれ中日球場のグランドに立てるだろう。
 深夜にやってきた節子が一泊した。彼女は肉体の反応に抑制が利くあいだずっと私の顔を見つめつづけ、反応に打ち負けそうになるときも、目を固くつぶり、美しくくびれたからだをふるわせながら、清潔な唇を私の唇から離さないままでいた。
「大切なお母さんだったんだね。文江さんから昔話を聞いた。二人の絆が堅いことがよくわかった。ぼくの母のいやがらせを甘んじて受ける気持ちになったことも、痛いほどわかった。とにかく、正看に合格してほんとによかった。おめでとう」
「ありがとう。四月一日の月曜日から、武蔵野日赤に勤務します。アパートの住所が決まったら和子さんにハガキを出します。いつか訪ねてきてくださいね。何カ月かにいっぺんでいいです。キョウちゃんのそばにいられると思うだけで、どうしようもなくうれしいんです」
「うん、しょっちゅうは逢えなくなるね」
「おたがい忙しくなりますから。……北村席さんの会合みたいに、ときどきみんなで顔を合わせられたらいいですね」
「……カズちゃんと素子はいっしょに上京することになってたけど、節ちゃん、吉永先生、神宮の法子は意外だった」
「法子さん……」
「まだ会ってなかったね。いずれ顔を合わせるよ。とにかく一族郎党というくらいの大移動になった。こうなるとは思わなかった。驚いて立ちすくんでる感じだ」
「喜ばしいことだと思います。そこに山口さんも加わって」
「阿佐ヶ谷に横山よしのりというバーテンもいる」
「私はわくわくします。本拠地は北村席」
「まるで参勤交代だね」
「いつまでも、一族、つつがなく暮らせるようにがんばりましょうね」
「もちろんだ。一週間後には東京か。どうか受かっててください!」
「ふふ。受かっても落ちても、和子さんはキョウちゃんと東京で暮らすと言ってましたから、私は合格発表の二十日を待つ必要はないんですけど、一応、二十二、三日から転勤の準備をします」
         †
 カズちゃんと東京で同居することになっている素子は、十五日の昼に休憩をとってやってきて、上京したらいつもお姉さんといっしょに行動すると言った。
「キョウちゃんとお姉さんは、お内裏(だいり)さまや。私らは官女」
「そういう上下関係はいやだな。ぼくがカズちゃんのことを女神と言ってるのは、一段上の人間として崇拝してるからじゃなく、感謝の気持ちを伝えたいからなんだ。祈りに近い気持ちなんだ。ぼくにとって、ぼくを愛してくれる女はみんな女神だ。それぞれ生活のやりくりには得手不得手があるし、信念も、プライドもある。それを尊重し合いながら、ドラマの科白じゃないけど、喜びも悲しみも分かち合って、たがいに信頼し合える対等な関係をつづけたい。実現の難しい理想的な関係だと思うけど、理想じゃなく現実として、ぼくはそれを目指してる。目指せるということ自体、幸福なことだと思う。ぼくがこれまでこの世で味わうことのできた幸福は、すべてカズちゃんを中心にする女や男たちのおかげなんだ。だから、彼女は厳密な意味でだれとも平等視できないけど、ぼくたちは平等な関係だ」
「難しくてようわからんけど、キョウちゃんの目指してることは無理や。うちらとキョウちゃんが対等なんてことあるわけないがね。お姉さんとうちらが同じなんてこともあるはずないしな。上も下もないかもしれんし、おたがい信頼し合っとるゆうのもそのとおりかもしれんけど、めちゃくちゃちがう人間が平等ゆうのはおかしいわ。付き合ってもらっとるだけでありがたいのに、大事にしてもらったうえに、同じだなんて言われたら、ありがたい気持ちをどこへもってったらいいかわからんようになる。キョウちゃんも、みんな自分と同じような人やと思ったら心から感謝なんかできんでしょう。ほんとにキョウちゃんは、自分を知らん人やねえ。ほかの人なんか、そこへなおれ、でええがね。愛しとるゆうことをハイゆうて受け入れてくれる人がおらんと、アタマがおかしなってまうわ」
 そう言って素子は私を強く抱き締めた。やさしい女たち―私は彼女たちに守られる一方であってはいけない。彼女たちを守ろうとしなければいけない。
 十六日から花の木に泊まった。ランニングと三種の神器と素振りをしっかりやった。
         †
 十八日月曜日。曇。零下一・五度。ひさしぶりに冷えこむ。西警察署前から名古屋駅までランニング往復。名古屋の街にしばしの別れを告げるつもりで風景を目に焼きつけながら走る。イベントに挟まれた時間は希薄になる。充実させなくては。
 カズちゃんは、かよっていたスイミングクラブと弓道のクラブに脱会する旨を電話した。
「適当にかよっていただけなんだけど、一応連絡はしないとね。黙ってやめるのは失礼だから。私のために立てていた計画もあったでしょうし」
 素子はきのうで水仙を辞めた。私とカズちゃんは素子といっしょに店に顔を出し、カツカレーを食べた。夜、三人で川の字になり手を握り合って寝た。
「短いあいだやったけど、水仙のママにはようしてもらった。ちょっと悲しいわ」
「またいずれ名古屋に帰ってくるのよ。永遠の別れじゃないわよ。素ちゃんは素直で、心がきれいで、だれにでも好かれる子だから、水仙のママさんたちのほうが悲しそうだったわ。東京にいったら、近況を書いてあげなさい。それから年賀状もね」
「うん」
         †
 十九日火曜日。晴。零度。昼十七度まで上がった。あしたから徐々に穏やかな天気になるだろうとラジオが言っている。カズちゃんと素子は食器など小物の整理。レコードの箱詰め。書籍の箱詰め。衣類の箱詰め。
「家具と大物の電化製品の梱包と運送は、プロにまかせるわ。こうやって箱荷物を作っておいたほうが、引越し屋さんも助かるでしょ」
 東京の住所が決まりしだい、北村席に連絡して引越し屋を雇い、早急に送ってもらうと言う。私は八坂荘に戻り、書籍類や机上の小物類の箱詰め。テープレコーダーとテープの箱詰め。
 午後に信也が訪ねてきて、別れの挨拶をする。
「すばらしい一年をすごさせてもらった。しかし、生きながら伝説になっていく人間と暮らすのは疲労する。心地よい疲労だったがね。ほんとにありがとう。……私は幼いころからの喘息持ちでね。年中鼻炎に苦しめられて呼吸が苦しい。四月から少し休職して、からだを休めようと思ってる。あした合格の発表があったら、職員室におまえを祝う垂れ幕を二枚垂らすことになってる」
「どういう垂れ幕ですか」
「祝東大合格・神無月郷君、というやつと、羽ばたけホームラン王・神無月郷君、というやつだ」
「……ありがとうございます。受かるといいですが」
「最後の最後まで、おまえはそういう男だったな。感激するよ。―いつまでも見守ってるぞ」
「はい」
 萩の湯にいき、八坂荘で寝る。
         †
 二十日の午前十時半に公衆電話から飛島寮に電話をすると、母の甲高い声が飛びこんできた。
「郷、受かったよ! さっき山口さんから報せが入った。山口さんも受かったそうだよ」
 電話をひったくる気配がして所長が出た。
「おい、キョウ、やったな。おめでとう! いやあ、よくやった。俺は……俺は、うれしいよ」
 感涙に咽んでいる様子だ。ほかの社員のざわめきがないところをみると、彼だけ出社を遅らせて待機していたようだ。母が電話を代わり、
「かあちゃんも、ほんとにうれしいよ。もう、この二、三年を考えるとね、かあちゃんおまえに申しわけが立たなくて―」
 申しわけなど立つはずがない。揶揄と妨害と遺棄。そのせいでなんと道草を食ったことだろう! それもこれも、私があなたの子供だというだけで、あなたと同じ土壌から同じ養分を吸いこまなければならなかったからだ。これをかぎりに私はあなたの土壌を完全に離れ、別の幹になっていく。……それにしても、私にそんな理の立った復讐の気概などあっただろうか。怒りはあったけれども、報復の気概などなかった。しかしやはり、この十八年は、少なくとも野球を奪われてからの四年間は、まちがいなくあなたへの復讐そのものに費やされてきたのだ。
「今夜五時までに寮にいく。そのあと、こっちに戻って部屋を整理して、あしたの朝、東京に向かう。整理した荷物は、《勉強》と書いてある箱と自転車以外は、あとで転居先に送ってくれればいい。飛島寮のぼくの部屋の荷物は、机の中身だけを送ってほしい。入学金四万円と授業料一万二千円、合わせて五万二千円、よろしく」
 それくらいの要求をされなければ、さすがの吝嗇家も後ろめたい気がするだろう。
「あいよ。まかせとき」
 ふだん使わない蓮っ葉な言葉遣いをする。
「上京したら、二、三日、山口のところに泊まって下宿探しをする。新住所は決まりしだい連絡する。いまから土橋校長と写真を撮りにいってくる。東奥日報の浜中さんがきてるんだ。この部屋は、あした以降好きなときに引き払ってね。月末までの家賃は払ってあるからだいじょうぶ。入学式は四月十二日。出ない予定だから、こなくていい」
 感激のない声で話した。
「はい、はい、了解、了解。東京の下宿の保証人は善夫になってもらいなさい。なるべく大学にかよいやすいところにするんだよ」
「わかった」
 また善夫だ。しかし渡りに船だ。カズちゃんを保証人にすれば不都合なことが起こるかもしれない。何かの拍子に、母から不動産屋へ連絡がいって、カズちゃんの存在が知れたりしたらたいへんだ。
 カズちゃんに電話をして合格を知らせる。北村席に伝えるように言った。
「オッケー、出発! あしたの朝九時、菅野さんが花の木に迎えにくるわ。オーバー着て、マフラー巻いて、学生カバン提げて、八坂荘の玄関で待ってて。出発!」
 カズちゃんはふだんどおりの明るい声で言って、電話を切った。
 学生服を着、学帽をかぶった。霧雨が降っている。傘を差さずに出た。
 西高の門前に、五台、六台、新聞社の車が駐車し、腕章をして傘を差した新聞記者やカメラマンがたむろしていた。一般の人たちもいて、彼らから好意的なかけ声がかしまく飛んでくる。ちょうど入学試験後の春休みの時期なので、学生たちの姿はない。門内に常緑のソテツが高々とそびえている。
 浜中と、カメラマン一人、デンスケ担いだ男一人が、私を庇うようにして門から校舎の玄関に導き、ほかの記者たちは靴下で廊下に上がりこんだ。


         百十五

「教頭の××と申します。こちらへどうぞ!」
 もったいぶった様子の男が廊下の奥からやってきて大声を上げた。きょうとつぜん顔を現した見たこともない男だった。宣伝好きの人間だと土橋校長から聞いた覚えがある。彼が気位の高そうな顔で記者たちの前に立つと、制度や慣習を頭からすっぽりかぶって生きている人間特有の辛気くささがただよった。
「神無月くんは、あらかじめ予定されていた新聞社のインタビューしか受けません。写真は撮ってもらってけっこうです。そうだね、神無月くん」
 よくわからなかったので、私は彼に首だけでうなずいた。廊下に十人に余る教師たちが並んでいて、口々に、
「おめでとう、神無月くん」
「よくやったね。とんでもない快挙だ」
「県立第二高女設立以来五十二年、共学開始以来十九年、名古屋西高からついに東大合格者が出た」
 などと言いながら握手を求めた。信也や松田はもちろん、一年半のあいだに見知った教師のほとんどがいた。義足のガンジーまでいた。フラッシュが何発も光った。松田が自然な笑顔で、
「東大でも、勉強、まじめにやるのよ」
 と言った。不機嫌そうな教頭が、
「早く校長室に入って」
 と私に言った。そして自分も浜中たちといっしょに入りこみ、校長に頭を下げると私に顔を戻した。
「きみが神無月くんですか。なるほどなかなか聡明そうな風貌をしているね。美男子でもあるな。女が放っておかないだろう」
 無表情に持ち上げ、椅子に腰を下ろしている土橋校長の謹直な顔にぶつかると、
「や、下世話なことを言いました」
 まじめな顔で頭を下げた。あえて愛想よくしなくても愛想があるように見られる自分の顔に、すこぶる自信があるようだ。
 書物が乱雑に積まれている土橋校長の机や、吸殻が二、三本律儀に並んでいる灰皿や、磨きたてられた〈自由・清廉・勤勉〉の額を見つめた。土橋校長は私と浜中にソファを勧めた。東奥日報の録音係とカメラマンが脇に立って控えた。
「すぐ始めたまえ。神無月くんの時間を奪っちゃいかん」
 浜中が、はい、と礼をした。ほかの教師たちや新聞記者たちのために、校長室のドアと窓を開放したまま、浜中のインタビューが始まった。
「東奥日報の浜中です。神無月さん、おひさしぶりです。東大合格おめでとう。あなたもめでたいでしょうが、あなたの野球をこれからずっと目にできるわれわれのほうが、もっとめでたいんですよ。合格と同時に日本野球界の発展が確実なものになったからです。それは追々、衆目に明らかになるでしょう。一年半の不本意な休止期間を終えて、いよいよ予定していた野球人生続編の開始ですね」
 ひっきりなしにフラッシュが光る。
「はい、胸が躍ります」
「今後のご予定は?」
「入学手続を終え、東京に居を定めたら、六大学リーグ戦開始まで、青高時代の体力を取り戻すための自主トレに精を出します」
「どういうトレーニングをなさるご予定ですか」
「五キロ程度のランニング、素振り、筋トレなどです。これまでもなるべく欠かさずやってきましたが、これからはもっと定期的に丹念にやります。東大の春季練習にも参加して打ちこみもやります」
 土橋校長が、
「マスコミのかたがたにお願いしておきます。自主トレはスポーツ選手の命だから、きみたちも追いかけ回さず、じっくり心ゆくまで練習させてやってください。ところで神無月くん、先ほど、東大野球部監督の鈴下氏より、正式に入部要請の電話が入ったことを伝えておく」
 オー、と記者たちがどよめいた。土橋校長はつづけて、
「東大野球部は他の五大学とちがって、希望者はだれでも入部できるが、正式な要請があったということは、入部後にかかる諸経費をすべて支給するという意味であって、国公立大学では異例のことだ。よかったね」
「ありがとうございます。ぼくは、この合格によって、心もからだも自由の身になりました。天下晴れて野球ができます。何らかの不行跡を咎められでもして、退部を勧告されないかぎり、野球をつづけます」
 校長室と廊下にワッと笑いが湧いた。浜中が、
「かつてはそういうこともあったと聞いておりますが、その不行跡のおかげで青森県はあなたにお会いできたわけだし、東大にしても同じでしょう。さて、東大の野球部が春、秋に、三勝でもできたら、六大学野球の歴史が変わります。歴史を変えるあなたの豪快なホームランを早く観たいですよ。青森高校野球部同期で、六大学リーグに進んだのは、早稲田大学理工学部に合格した小笠原照芳くん、すでに昨年東都大学リーグの学習院大学法学部に進学した金貞義くんの二名です。小笠原くんは、きみと対戦するのを心待ちにしています」
「テルヨシが! 有言実行の男だな。ところでお伺いしたいんですが、今年青高から東大へいった学生の名前はわかりますか。顔見知りがいるか知っておきたいんで」
「合格者は九名ですが……」
 彼は手帳をペラペラやり、
「現役は……文科Ⅲ類に二名、山内純くん、鈴木睦子さん。鈴木さんは野球部のマネージャーをする予定だそうです。理科Ⅰ類、一戸徹くん、理科Ⅱ類、奥田毅くん」
 四人の名を言った。そのうち、山内という男以外の三人は顔見知りだった。
「鈴木睦子さんはよく知っています。一年生のときは同じクラスでしたし、二年生のときは野球部のマネージャーをしてましたから」
「そうですか。受験の動機は神無月さんにあったのかもしれませんね」
「たぶんそうだと思います」
 またドッと沸いた。
「ところで、土橋校長、あなたの見たところでは、名古屋西高校に学んだ神無月さんはどういう生徒でしたか」
「ひとことで、真実味のある変人だね。基本的に猪突猛進型だが、本人はその性質を恥じているようだ。変わった心ばえだよ。一見ニヒルに見えるから、先生がたは気を使ったんじゃないかな。天才は扱いづらいからね」
「西高のみなさんは、神無月さんの野球の技量は瞥見すらしていないわけですから、それに関する感想といったものは述べられないでしょうが、校長先生は彼に野球をつづけるよう勧めたおかたですので、何かその理由があると思いますが、いかがですか」
「私は青高の小野校長とは同学なので、神無月くんのことは転校前に詳しく連絡を受けていた。驚愕すべき野球の天才だとね。当校の生徒たちも、彼のバッティングをソフトボール大会で目の当たりにして、感想を述べる以前に、口をアングリというところだった。西高の先生がたは、まったく知らんでしょう。巷の噂で仄聞するくらいでね。勉学も飛び抜けた力量の持ち主で、西高にも前代未聞の成績で転入した。神無月くんのこの数年間にわたる転々流浪の因は彼の不行跡にあり、自業自得である、決して理不尽に押しつけられたものではないと、まあそんなふうに考える人も多いと思うが、私も、そういう世間に流布している一連の迫害のストーリーは、ひょっとしたら神無月くんの思いこみかもしれないと考え、いろいろと情報を探ってみた。そして、強いられた遠回りは事実だとわかった。中京商業のスカウトを揶揄し数度にわたって追い返したのも事実ならば、強制的に担任教師の許に止宿させたことも事実だった。そのとき彼女の擁護者である東大出身の上司が同席している。東大出身者にそういう人物がいたという事実は残念なことだがね―。この情報は浜中くんをツテに、当時の中京商業のスカウトの押美さんというかたから入手した。追い返された当人だから確実な情報だ。病気の親友を長期間にわたって見舞いながら勉学と野球に励む日々に疑心暗鬼を飼い、友人も勉学も野球も奪い去って島流しにした。この情報は、野辺地中学校の奥山という、当時神無月くんの担任だった先生から入手した。その余のことは推して知るべしだ。神無月くんはけっして不行跡な非行少年ではなかったということだ。……さて、私が神無月くんに東大で野球をやれと言ったのには相応のわけがあって、こういった状況のもとで、神無月くんが野球に対する初志を貫くための最良策は、まず、ご母堂が執拗に提示した東大に入学することだと考えたからだ。そうでないかぎり、先ゆきかならずご母堂から強烈な横槍が入る。島流しに処した彼をわざわざ呼び戻したのも神無月くんの野球の芽を摘むためだったことを考えれば、当然の処置だ。つまり東大を逆手に取って神無月くんの希望を叶えるという腹からだ。また、たとえ弱小東大で野球をやっても、飛び抜けた天賦の才能は見過ごされないと確信したからだ。つけ加えると、これは私個人の希望だが、彼が六大学リーグで東大の地位を引き上げるために奮闘し、ひいては、地元中日ドラゴンズに入団して大活躍することで、全国の野球ファンの励みと喜びになるようにと念じたからでもあるんだ。まだまだ言い足りないが、このへんにしておこう。私は今年から、彼に関する記事のスクラップブックを作るつもりでいるよ」
 浜中のインタビューは三十分ほどつづき、私は校長と並ばされて何枚も写真を撮られた。廊下からも頻繁にフラッシュやストロボが焚かれ、教師たちとも並んで何枚かの写真を撮られた。ペンをさかんに走らせている記者たちに、教頭は終始愛想よくしていた。
 教師たちにもインタビューが行なわれた。信也は、歌も天才です、と言って、文化祭の話をし、ガンジーは、
「私には理想的な生徒でした。漂々と生きていた」
 と言い、松田は、
「模擬試験は全国一位で、定期テストは西高の何百番というのが名物でした。生涯忘れられない生徒です」
 と言った。私の隣に親しげに座っていた教頭が、
「大学の学問はそんなふうにはいきませんよ。模擬試験などないしね。落第してしまいますよ。大学ではしっかり勉強してくださるようお願いしておきます。きみはわが校の名誉を担ってるんだからね。きみのそういうムラッ気を看過するか否かの件や、また、ときおり耳に入ってくる校外における不純な交友の件も、校長はじめ、きみを支持する教師たちの力でひねりつぶしたんですよ。校内にしても、二十点以下の赤点の再試験が一度も課されなかったでしょう? きみだけにとられた特別の措置です。感謝してもらわなくちゃいけません。……いいですか、とにかく大学での勉強もがんばってください。それではじめて私たちの尽力も報われるんですから。入学後の成績が悪くて、マグレで受かったなんて評判立てられたら、本校の名誉にも、きみの名誉にも関わるでしょ」
 そう言って、無理のある笑い方をした。この男は、笑顔は意志で作るものだと思っているようだ。私も彼に合わせて意志の力で笑った。
「図星です。おっしゃるとおりマグレで受かったんですよ、百パーセント」
「わかってますよ」
 そう言って彼は、冗談らしく私の腹を肘で突いた。思わず苦笑した私の顔が、彼の目には、座の取り持ち人としての自分の役どころが成功した証と映ったのだろう、表情を和ませ、校長に愛想笑いをした。だれも笑わなかった。場が険悪な雰囲気になった。校長がバンと机を叩いた。
「きみ、神無月くんの能力を知らないわけじゃあるまい。素直に頭を垂れたまえ。そういう曲折した対応が、彼を長く苦しめてきたんだ。神無月くんの苦悩の歴史に名古屋西高だけは加担してはならんぞ」
「おっしゃいますが校長、新聞記者やら、カメラやら引き入れて、何ごとですか。県立高校は芸能学校じゃありませんよ」
「きょうは球界にその名の高い神無月くんのめでたい門出の日だ。新聞、テレビの一つや二つあたりまえの話だ。イベントでも何でもないときにCBCテレビのカメラを引き入れ、神無月くんに迷惑をかけたのはきみだったことを忘れたのかね。不愉快だ、出ていきたまえ」
 廊下がざわめいた。それに勇を得て教頭は、
「あれは名西の名を世間に知ってもらう意味でやったことです。神無月くんの評判を上げるためではありません。その効果はじゅうぶんありました。その証拠に、今年の受験生は倍増しました。教職にある者が一人の生徒を引き立てることは許されませんし、ましてや勉学の怠惰を奨励するわけにはいきません」
「どこが怠惰なんだ! 大学で野球選手に励もうと、学問に励もうと、怠惰でない人間の自由な選択肢だ。責任は本人がとる。神無月くんの気配りを利用してつけこむなど言語道断。とにかくここは引き取りたまえ。あとで話がある」
 教頭は皮肉な微笑を返すと、軽く辞儀をして去った。彼の態度は、一人の生徒に特別な待遇を与えたという廉(かど)で、土橋校長の西高における立場が危うくなったことを示していた。私は不安な視線で校長を見た。
「気にするな、神無月くん。才能はえてして嫉妬を生むものだ。きみはだれに引き立てられたわけでもなく、勉学も怠惰ではなかった。彼は正論を吐いているように見えて、しゃべったことは嫉妬のなせる暴言だ」
 そのとおりだというふうに周囲がざわついたが、一人の記者が、
「握りつぶした校外の不行跡というのは?」
 とデンスケのマイクを窓から突き入れた。
「女子生徒とたまたま下校路を歩いたり、文化祭のあとの打ち上げで男女こぞって喫茶店にいくぐらいのことは、学生にとっては茶飯事だろう。目くじら立てるほどのことじゃない。一度、二度の酒、煙草だって、学生ならだれでもやる冒険だ。みんな彼に注目してアラ探しをしていたということだよ。握りつぶしたというほどのことじゃない。彼はどの生徒よりもまじめに孤独にすごした。それはだれもが知っていることだ」


         百十六

 浜中が、
「神無月さん、かつてあなたは心ない人びとの讒言で、不良というレッテルを貼られて遠島を強いられました。それが悪意ある誇大解釈だったことは、いまではマスコミ各方面に知られています。それから、あなたが自分の業績をすべてマグレと断じてしまう異常に謙虚な性癖をお持ちのことも知られています。悪意ある人びとは、その事実をあえて無視して、逆ねじを食わそうとします。土橋校長は、心から気に入っているあなたへの細かい配慮から、そうした痛ましい過去の虐待を偲ばせるような、不届きな響きを立てる絃には触れまいという態度を示しました。これからのあなたは、まちがいなく多くの善意の人たちに取り囲まれるでしょう。心から祝福します。まずは、東京大学合格おめでとうございました」
 記者たちはくつろいだ雰囲気を取り戻してペンを走らせた。浜中は満足げにうなずき、言葉をつづけた。
「神無月さん、私どもはこれで引き揚げます。東大でもちょくちょくおじゃましようと思っています。土橋校長先生、立場上の不都合もかえりみず、特別な場を設けていただいて感謝の言葉もありません。神無月さんがこの名古屋西高で、万全とはいかないまでも、大勢の支持者に守られて一年半を過ごせたということがよくわかりました。東大に合格を果たすほどの勉強はたしかにたいへんだったでしょうが、総じて、偉大な野球選手のすばらしい休息期間だったと思います。諸先生がた、長居して申しわけありませんでした。これで失礼いたします」
 教師たちは大きな拍手をした。東奥日報の三人の記者たちがすみやかに引き揚げた。残った新聞記者たちも手帳をしまい、廊下のカメラマンに最後の撮影を命じた。ひとしきり私と校長や校舎の内外を撮影していく。彼らが、各社の記者たちといっしょにぞろぞろ引き揚げると、廊下の教師連が校長に礼をして室内に入ってきた。ガンジーが言った。
「神無月くん、きみのような自然児は、東大でも苦労するぞ」
 信也が、
「神無月、定期テストが悪いくらいで職員会議が開かれるはずがないと思わないか。土橋校長がひねりつぶしたのは、別の案件だ。教頭の態度は遠回しでへんだったろう? おまえは、年かさの女と歩いているところを何度か生徒に目撃されたんだよ。女生徒からの密告だ。おまえをこそこそ追い回しているやつは多かったからね。毎回ちがう女だという話もあった。文化祭にも女が押し寄せた。とうとうそれが議題として取り上げられた。名づけて、不純異性交遊、風紀紊乱。校長はね、英雄色を好む、のひとことで退けた。私や石黒さんはじめ、校長に賛同する教師が過半数だったが、これが教頭の言った、一人の生徒を引き立てるということだ。教頭が尽力したなんてのは嘘っぱちだ。処罰派の筆頭だったんだからな。校長の言ったとおり、まぎれもない嫉妬ではあるんだが、目撃された事実があるだけに、校長も苦しい立場に追いやられたわけだ」
 土橋校長は目をつぶって聞いている。
「すみませんでした。とんでもないことをしました。みんな、名古屋の飯場や小学校以来の古い知り合いです。ぼくの数年来の不遇を同情し、一人暮らしの不便を心配して、ある種の陣中見舞いをしてくれてたんです」
 嘘は言っていないつもりだった。土橋校長が、
「何も言わなくていい。きみぐらいの美男子なら、女が蠅のようにたかってあたりまえだ。何より、きみがわが校の名を高めてくれたことは、まぎれもない事実だ。これからももっと高めてくれるだろう。この先何百年待ったって、西高には二度と現れない英傑だ。きょうは教師連にとっても二度とない晴れ舞台だったんだよ。いちゃもんをつけるなど、もってのほかだ」
 ガンジーがうなずき、
「そうだよ、気にかける必要なんかない。たしかに校長の引責辞任の話を持ち出す馬鹿もいたが、西高の名誉を高めたという点がほとんどの教員に支持されて、それは立ち消えになった。安心してください。だいたい何の引責だか意味がわからん。土橋校長は、名古屋西高を一代で一流校にした名校長だ。彼が辞めるなら、私も辞めるつもりでいたよ。校長は東大の先輩だからね」
「石黒くん、画策が成功すれば引責もありうるよ。しかし、それはない。神無月くんの業績を否定することになるからだ。おまけに神無月くんは何の問題も引き起こしていない」
 石黒は首を振り振り、
「いやはや校長というのは、学校全体の責任を担っている立場とはいえ、配下の教師のつまらない意見にも耳を傾けなきゃいかんし、ときには全体意見のまとめ役をしたり、尻拭いもしなければならん。ほんとうに気の毒な身の上ですな。私はまっぴら御免こうむります。定年まで現役教諭を務め、そのまま退職します」
 信也が笑いながら、
「土橋校長、石黒先生、神無月のせいで、大のおとなが少年になってますよ」
 石黒が、
「そうだね、不思議な男だ。きみがいるだけですばらしい解放感に浸れるよ」
 松田が、
「神無月くんもそろそろ解放してあげないと」
「お、そうだ」
「校長先生、あとで教頭先生に話があると言ったのは、まさか……」
 私が訊くと、校長は明るく笑いながら言った。
「私たちはオトナ同士だよ、神無月くん。オトナというのは、よほど策謀に長けていないかぎり、下の者は上の者に巻かれるんだ。心配無用。きみのような人間を庇ってこそ一国の文化状況は高まる。くどいようだが、きみはわが校の英雄だ。西高始まって以来の大秀才であり、ドラフトナンバーワンの大選手だ。ただ、大熊も蜂に刺されればつらい。石黒くんも先のことを危惧していたが、ああいう因循姑息な人間が蠢いているのが世間だ。気にせず笑い飛ばすんだね。さあ、帰って、上京に備えなさい」
 信也が、
「夏にでも帰省することがあったら、あのアパートに遊びにきてくれ。フォーククラブの連中を呼びつけるから」
 石黒が、
「ぼんやり生きる楽しみを忘れずにね」
 私は土橋校長と教師たちに深く礼をすると、校長室を出た。雨が強くなってきたので、返す必要のない古い傘を受付のトニー谷から借りた。
         †
 吉永先生に合格を知らせる葉書を出しにいって戻る。机周りを整理し、詰め残した本を段ボール箱に入れた。管理人の窓口の電話に呼び出された。法子だった。
「聞くのこわいけど……受かった?」
「受かったよ」
「やった! やった! おかあさん、おねえさん、神無月くん受かったわよ! 神無月くんが東大に受かったのよ」
 おめでとう、という大声が電話の向こうに聞こえる。
「三月中に、下宿なりアパートなり決まると思うから」
「私は四月。なるべくそばに探すわ」
         †
 机に二時間ほど突っ伏して仮眠をとる。腕が痺れた。
 四時半、ワイシャツとセーターにカズちゃんの買ってくれたオーバーをはおり、マフラーを巻いた。自転車を漕いで岩塚へ出かけていった。
 飛島寮では、すでにみんな一杯入っていた。所長が目を泣き腫らしている。
「おお、主役登場だ!」
「おめでとうございます、郷くん!」
「大ホームラン!」
「よくやった、天才!」
 長テーブルの中心に、リボンのついた鶏の丸焼きが置かれ、刺身の盛り合わせや、果物のオードブルや、チャーシューや、サラダや、乾き物がそれを取り巻いていた。
 飛島さんが私の肩をつかんで席に着かせたとたん、三木さんが立ち上がって、
「乾杯の音頭を取らせていただきます。ええ、佐藤さんの鬼っ子が、みごと東京大学に受かりました。すごいすごいとは思っておりましたが、ここまでスイスイと快挙を成し遂げられると、何か気抜けしてしまいますね。しかし、うれしい。そりゃ佐藤さんの喜びもひとしおでしょうが、われわれの感慨のほうがいっそう深い。いや、所長の感慨が、と言い直しましょう。所長は若いころの遊びが祟って―」
 嘘つけ! と山崎さんが茶々を入れた。
「残念なことにお子さんがおりません。彼はキョウちゃんの父親代わりをしたいと常々言っておりました。一目で気に入ったのだそうであります。奥の深い、気魂のある顔だ、将来は飛島建設に俺のコネで入れて自分の片腕にするんだ、というのが口癖であります。佐藤さんもひどい。キョウちゃんがここにくるまでずっと、素行不良の馬鹿息子と言いつづけてましたからね。できすぎた息子なんでテレてたんですかね。ほんとうにキョウちゃんの能力を知らなかったフシもありますな。キョウちゃんのオトボケの罪かもしれない。今回は、正真正銘、金剛力を発揮してしまったというところでしょう」
「長いぞ、簡潔に!」
 飛島さんが笑いながら言った。
「しかし、たとえ金剛力と言えども、不断の努力がなければ衰えるものである。その独立独行の努力を弛(たゆ)まずつづけ、人並はずれた成果を示してくれたことを素直に喜ぶものであります。乾杯!」
「乾杯!」
 母が、ばっちゃにそっくりの格好で身を縮め、口に手を当てて笑っている。所長が頬の赤い顔で言った。
「キョウ、何かひとこと、思うところを言え」
 私は、はい、と答えて立ち上がり、
「……ぼくは、小学校、中学校、高等学校といつも中途半端でした。一つの学校にも、一つの土地にも、一人の人間にも、居ついたためしがありません。これからは、学校に、土地に、人間に、なるべく居つくようにがんばります」
「なんだ、それは」
 食堂じゅうが大笑いになった。佐伯さんだけが泣いていた。
「山崎、どこにも連れ出すんじゃないぞ。キョウはこのあとアパートに戻って荷物整理だからな」
「東大生に、ゲスな女はあてがえないですよ。それも愛嬌かなって思ったけど、キョウちゃんの顔が神々しすぎる。女ッ気のオの字もない」
 飛島さんが立ち上がり、両手を腰に当てて若き血を唄いだした。佐伯さんが私のコップにビール瓶を差し出し、
「郷くん、ぼくもがんばって、今年中に二級建築士の資格をとるようにするからね。きみはすごい人だ。忘れられない人間だ」
 小さな手で握手を求めた。私は少しためらってから握った。私の倦怠の血が佐伯さんの情熱的な血に混ざらないようにと祈った。
 私は鶏をむしって食い、刺身を頬張り、ビールを少し飲み、求められて青高健児を怒鳴り声で唄った。つづけて大沼所長が、ああ玉杯を唄い、三木さんと佐伯さんは、おそらく生まれて初めての高校校歌を唄った。母も手拍子を合わせていた。何人か鉄筋棟の社員たちも様子伺いにやってきて、私に愛想を言ったり、所長にビールをつがれて飲んだり、卓上のものをつまんだりしたが、申し合わせて麻雀部屋へ上がっていった。
 宴もたけなわを過ぎて、所長が母に訊いた。
「キョウの中学時代の話は飽きるほど聞いた。もっと小さいころはどうだったの」
「生まれたときは、目も鼻の穴も口も顔も、とにかく丸い子で、女の子みたいにかわいかったんですよ。二歳くらいまでは女の子の服を着せて育てました」
 二歳は戸山にいた。女の子の服は着ていなかった。写真を見ると、幼いころから顔はベース板だ。丸くはない。
「父母がうちに預けろと言うんで、実家に預けました。でも、やっぱり子は親といっしょに暮らすのがほんとうだと考え直して、五歳のときに引き取りました」
 またウソが始まった。私が泣きついて連れていってもらったのだ。
「それから転々としたんだね」
「横浜、名古屋……。横浜ではいい子でしたよ」
「どうして横浜に? 知り合いでも?」
「いいえ、教師の職にも飽きましてね。いえ、飽きたと言うより、生徒たちを預かる責任感に耐えられなくなって。……思い切って都会に出て、人生を変えてしまおうと思いまして。鹿島建設さんにお世話になりました」
「そりゃまた、すごい心境の変化ですな。キョウはかわいそうだったな。学校の先生の子供のほうが生活はしやすいだろうに」
「落ちぶれてみたかったんですよ。主人と別れたあとでしたし」
 精妙な嘘を積み重ねていく。顔に真実味がある。恐ろしいと思った。
「それから名古屋へ?」
「弟がぜひこいと言ってくれましてね。子供といっしょに住める職場があるからって。それ以上でした。みなさん父親代わりになってくれて」
「キョウがまともに育てば、それに増した望みはなかったわけだ。まともどころか、野球で有名になっていくわ、成績はよくなっていくわ、そこへちょっと……夜遅いご帰還が加わったくらいで、野球も環境も取り上げる必要はなかったんじゃないの。キョウをどうしたかったわけ?」
 所長が難詰に入った。みんな聞き耳を立てている。


         百十七 

「正しい道へ戻したかったんです」
「ふつう、そういう仕打ちを受けたら、グレるよ。キョウは天才だったから、もとの環境を取り戻せた。佐藤さんの望みまで叶えるというオマケまでつけてね。これからはキョウの自由にさせてやりなさい。野球だけは奪っちゃいけない。佐藤さんの理想はわからないでもないよ。東大へいって、人を支配できる人間になること。その支配を大勢の人にもっともだと思わせること。才能は人の錯覚に基づくので、あてにならない。というより、野球では人を支配できない。芸術家より評論家のほうに支配力があるという考え方だ。佐藤さん、この世でもっともすばらしいものは、才能だよ。東大を出て人を支配している人間に光はあるかね。私とキョウを比較してもすぐにわかるが、岸信介や佐藤栄作より、王や長嶋のほうが輝いていると思わないかね」
「どうでしょうかね。私にはわかりません。みなさんはどうですか」
 逆に問い返してきた。山崎さんが叫んだ。
「おばさん、長嶋に決まってるだろ! ほんとにわからないの? それどころじゃない。キョウは東大へいった長嶋だぜ。どれほどの光だよ」
「見当もつきませんよ」
 母はこの種の難詰には慣れている。ただここには岡本所長のような味方はいない。クマさんや、小山田さんや、吉冨さんしかいない。彼らに会いたかった。会って、自分がこれほど多くの人に愛され、その愛の中で、野球とはまた別の希望に懸命にすがって生きているということを知らせたかった。叶わない夢だった。私は所長に向かって言った。
「東大野球部から西高の校長に、正式の入部要請がありました。野球に関わる費用がすべて無料になるそうです」
 所長の前で母に向かって堂々と、野球をやる、と宣言したかった。もうこれからは自力で突破していく。僥倖はあてにしない。
「そうか、学費は?」
「わかりません」
「あの成績じゃ、特待生だろう。免除だな」
 母はさっきまで所長がどんな類の話をしていたかも忘れたように、穏やかな顔でうなずきながら、
「ケガをしても、東大出てれば大企業にも役所にも勤められるでしょう。かならず卒業するんだよ」
 私は答えなかった。所長たちが母を見つめながら、呆れたふうに首を振った。チャーシューを食い、サラダを食い、ピーナッツを齧り、またビールを少し飲んだ。
「本社の意向で、キョウがプロに入団した秋から、年に一度をメドに、ファンクラブの行事の一環として、東京のどこかの料亭でキョウの慰労会を催すことになった。私らも日程の合う者は参加する。これはキョウの都合に合わせながら断続的に、あるいは連年続行する」
 所長が言うと、オー! と拍手が上がった。山崎さんが、
「キョウちゃん、俺たちはかならずいくからな」
「はい、それならば参加します」
「おいおい、それじゃ俺たちの一人でもいかないと、会が成立しないぜ」
 三木さんが言うと、飛島さんが、
「だれかがいきますよ、会社休んでも」
「いくなら全員だ」
 所長が言った。
 九時に近く、私は酔っていない腰を上げた。
「じゃ、これ、入学金。浅間下みたいに、落とさないようにしなさいよ」
 母から封筒を渡され、三木さんからいつもの義捐袋が手渡された。
「佐伯、キョウをアパートまで送ってってやれ。警察に捕まらないようにしろよ」
 所長が言った。
「はい。安全運転で送り届けます。そのつもりで、ジュースだけ飲んでました。山さんみたいな誘惑の多いところには寄りません」
「バカヤロ。帰りに誘惑されてこい!」
 山崎さんが怒鳴った。笑いの中で、ふたたびビールのつぎ合いが始まった。
         †
 ライトバンの助手席で、私は佐伯さんに言った。
「……ぼくは、佐伯さんのような、ピュアな人間じゃありません。手足の先までドロまみれです。だから、握手するのに気が引けました。でも、なんとかこのドロを洗い落として生まれ変わるよう努力します。この先、どんな失態をお見せするか心配ですが―」
「生まれ変わる必要なんかありませんよ。郷くんのすごいところは、そこなんです。そうやって、どんどんさらけ出して、裸になってものごとを薙ぎ倒していくところ。何ごとにもめげずにね。宗教的なものすら感じます。どんなドロドロした生き方をしようと、それは高貴な人間の箔になります。到底まねできることじゃないけど、ぼくはまねしようと思います。奥の深い魂……。所長はよく言い当ててますよ」
 ハンドルを片手で押さえながら、頬を拭った。
「建築士の試験、がんばってくださいね」
「うん、がんばる。七月に学科試験、十月に設計製図試験」
「合格を祈ってます。一級建築士は?」
「それも目指してるんだ。一級は、二級建築士の免許登録してから四年以上経たないと受験できないことになってる。気長にやるよ。野球、とことんやってね」
「とことんやります」
 八坂荘の玄関で、佐伯さんに部屋の鍵を渡した。
「ぼくはいつも鍵をしないので入れます。あとはよろしくお願いします。あしたの朝、九時に部屋を出ます。みなさんに餞別のお礼を言っといてください。野球で忙しくなると思いますから、実質、これでお別れです」
 堅く握手した。
         †
 夜、部屋の蒲団に独り横たわった。何かを思わねばならないと思った。何も思い浮かばなかった。静寂の中でかすかに耳鳴りがし、浅間下の空の色が見えた。
         †
 翌二十一日の朝八時、雨の中、傘を差して花屋へもう一度お別れにいって、コーヒーを飲んだ。女将が、
「神無月さん、新聞にちゃんと名前載ってたわよ。おめでとう。はい、中日新聞。スポーツ欄も神無月さんのことばかり。こっちは中日スポーツ。一面に『東大で野球をやれ』の見出し。この校長先生、オトコね」
「はい、男の中の男です」
 厨房から主人が、
「里帰りしたら、かならず寄ってよ。おふくろが、あの歌以来、毎日神無月さんのことばかり言ってうるさいんだわ」
 婆さんがお辞儀をした。
「わかりました」
「六十八なんだ。たまにきてくれないと、さっさとあの世にいっちまうよ」
 中日新聞の地方欄を開くと、大学別に合格者が発表されていて、東大の合格者の中に直井整四郎の名前があり、名大の合格者の中に金原の名前があった。金原は希望どおり理学部に、直井は理科Ⅰ類に合格していた。直井は、もし私と大学構内でいき遇ったら驚くだろう。しかし、彼とはたとえどこにいても永遠にいき遇わないだろうという気がした。
 東京の生活に思いを馳せた。渋谷を、新宿を、池袋を、本郷三丁目を、高円寺を、阿佐ヶ谷を思い浮かべた。雑踏、ネオン、車、電車、あの人混みの中をどう歩き、どんな駅を乗り継いでいくのか。授業は? 教授は? 〈学問〉は? 大学の試験は? 東大野球部部員は? クラスメイトは? 知り合ったチームメイトや大学の学友と、どんな会話をするのか。書店は? 映画館は? レコード屋は? 喫茶店は? 食い物屋は?
 それから山口の、康男の、いっしょに上京する女たちの、名古屋に残る女たちの、北村席の人たちの、松葉会の男たちの顔を思い浮かべた。彼らがこれからの私の生活にどう結びついていくのか皆目見当がつかなかった。
「じゃ、東京に出発します。しばらくのあいだ、さようなら」
「オス!」
「さようなら」
「さようなら」
 九時。手には学生鞄一つ。八坂荘の玄関で菅野のクラウンに拾われ、その足で花の木のカズちゃんと素子を拾いにいった。締め切った玄関戸の外に、カズちゃんと素子が緊張した面持ちで立っていた。素子は小振りの旅行カバンを提げ、かつてカズちゃんが着ていた灰色のオーバーをはおっている。少し大きい感じだ。カズちゃんはいつもの大きな鰐革のバッグと大ぶりのボストンバッグを提げ、黒のスラックスに黒のオーバーを着ていた。
 名古屋空港に向かった。強い雨が窓の外をよぎる。
「一週間ほど雨がつづくって予報だったなあ。神無月さん、いよいよ、長の別れですね」
「はい、長旅になります」
「菅野さん、私たちとも長の別れよ」
「男同士のほうがつらいんです。女とは、恋人でもそれほどつらくありません」
「それ、なんだかわかる。戦友という言葉も男にしかないものね」
 菅野はうなずき、
「トモヨさんや、文江さんのことは心配しないで、心おきなく旅回りをしてきてください。直人からも眼を離しませんよ。かわいくて眼が離れないや」
 子供の親という感覚が私にはない。形ばかりに言った。
「よろしくお願いします。夏と冬には帰りますから」
「春のリーグ戦には出ますね」
「さあ、新人は秋からじゃないかな」
「神無月さんは特別ですよ。ましてや弱小東大だし、神無月さんを出さなきゃ、一勝もできんでしょ」
 空港に着いても雨脚は強かった。菅野は窓から雨に手を突き出して握手を求め、目に涙を溜めながら走り去った。
「素子は身長何センチ」
「百五十八。このオーバーお姉さんにもらったんよ」
 二人で楽しそうに笑い合う。
「ホテルは、シングルベッド三つの家族部屋よ。ゆっくり寝て、あしたは入学手続をしたあと、お家を探しましょう」
 飛行機の中ではプロペラの音のせいでかならず眠くなる。カズちゃんも、飛行機が初めての素子もすやすやと眠りこんだ。



(第二部三章名古屋西高校終了)

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第二部四章東京大学へ進む