四 

 駅前から十五分も歩いたころ、不動産屋の背中が、ブロック塀に囲まれた平屋の民家の前で立ち止まった。小さな鉄門の脇に橋本と書いた板が打ちつけてある。電信柱の住所表示は天沼一―三。
「駅から遠いのでお安いんです。一階の南向きの角部屋です。民家に下宿用の一部屋を建て増ししたものです」
 私はその角部屋のこちらに見える庭が気に入り、
「遠いといっても二十分もかからないし、築年数の古いほうが、壁や柱に気兼ねをしない分、安心だ」 
 不動産屋は鉄門から入り、玄関戸を引いて呼びかけた。式台脇の部屋の戸を開けて出てきた洋装で丸眼鏡の婆さんと、萎びた着物を着た猫背の肥った婆さん二人に案内される。インテリふうの丸眼鏡の婆さんは、どことなく青木小学校の四宮先生に似ていた。短い廊下の奥の八畳。部屋の戸は片開きで、健児荘と同様、鍵がない。鉄門に面した壁の半分が二枚の大窓になっていて、庭に面した壁の半分も同じ二枚の大窓だった。庭の眺めが美しい。カズちゃんは、窓の幅と敷居までの高さを目測した。カーテンを吊るすためだろう。
「ここ、いいわねえ。高円寺よりも明るいじゃない」
 丸眼鏡が、
「先月まで、中大法学部の学生さんがいらっしゃったんですよ。おたくさんは早稲田ですか?」
「東大の文学部です」
「まあ、東大!」
 山口はもうニヤニヤしていない。ばあさん二人が齢をとりすぎていたからだ。東大と聞いて肥った婆さんのほうはそっと姿を消した。
「家賃は八千円ですね?」
 カズちゃんが訊く。
「はい。下宿の体裁ですが、賄いはありません」
 不動産屋が、
「敷金一つ、礼金二つ。破格でしょ」
「三万二千円用意すればいいということですね」
「今月分は日割り計算ですから、三万円弱になります」
 私は、
「ここに決めます。これから来月分も引いてください」
 婆さんに四万円を差し出した。
「それは不動産屋さんのほうでお願いします。私どもの部屋は廊下の突き当たり、玄関の脇です」
 親しげに笑う。素子が、
「高円寺の五分の一やね。壁とか天井とか、たしかに古いわ」
 私は、
「そんなもの見て暮らさないから気にならない。荷物が届くまで、しばらくは机も本もなしでのんびりするよ」
「二、三日、高円寺で暮らしなさい」
 彼女は庭に面した窓を開け放つ。
「あら、庭に洗濯機を置く場所と水道があるのね。電器屋さんに注文して帰りましょ」
「いらないよ。洗濯物は高円寺に持ってく」
「そうね。私もときどき取りにくる」
 眼鏡の婆さんが、
「ご親戚のかたですか?」
 カズちゃんは、
「従姉です。保証人にはこの子の叔父がなります」
 私は、
「南阿佐ヶ谷まで自転車でどのくらいですか」
「一キロくらいですから、五、六分じゃないでしょうか。すぐそこの国鉄のガードをくぐって青梅街道に出て左折したら、あとは真っすぐです」
 丸眼鏡にきちんと挨拶して、五人で駅前に戻る。不動産屋で書類を書かされた。
「たしかに受領しました。これ領収証です。一応、きょうからご入居ということになります。そうだ、学生さんには言っておかないと。麻雀をするのは、夜はもちろん、昼もご法度です。大きい音で音楽をかけるのもだめ。大家さんが口うるさいんでね」
「さっき、すぐ姿を消した人だね」
「はい、お姉さんのほうです。あの人が苦情を言い出したら、百パーセント出ていかされます。くれぐれも気をつけください。それじゃできるだけ早く、保証人の書類をお届けください」
 四万円に三千円余りのおつりがきた。
「はい、素子、パンストでも買って」
「六足も買えるわ」
「じゃ、私の分もお願い」
 保証人の件は、あした一人であの床屋にいって、母に言われたとおり善夫に頼むことにしよう。山口が不動産屋に、
「いまアパートの賃貸料の相場ってどのくらい?」
「一万七、八千円から、二万二、三千円ですね」
「大卒の初任給が三万円だから、恐ろしく高いな」
「高円寺は一等地ですから」
 私は不動産屋に、
「荷物がいずれ届くと思いますが、運送屋さんに言って、部屋に放りこんでおいてもらってください。入居するときに整理します。きょうじゅうに名古屋に連絡します。多少時間がかかると思うので、四、五日後に見にきます」
「わかりました」
 四人浮きうきとした足どりで歩く。
「あっという間に二軒とも決まってしまったわね」
「いろいろ見て回るのは面倒だし、おたがい最初にいい物件に当たってよかった」
「そうかしら。キョウちゃんのアパートのお婆さん、面倒くさそう。ぜったい阿佐ヶ谷にいかないようにって、みんなに連絡しなくちゃ。さ、大将でホレタマを食べましょ」
 山口が、
「ついでだから、そのあとラビエンに寄ってくか」
「あしたの夜にしましょう。きょうはくたくた」
「だよね」
 素子が、
「山口さん、アパート代のこと話しとったけど、家賃に比べて大卒の給料って安すぎん?」
「安すぎる。三万の月給だと、年二回のボーナスは合計十五万ぐらい。年俸約五十万。平均給与四万二千円。それであの家賃はないよな。あくまで平均値だから、たいていのサラリーマンはもっとラクにしのいでるだろう」
「ウエイトレスの給料はどのくらいやろ」
「フジの貼紙、時給二百二十五円から二百五十円てなってたわよ。早番と遅番があるでしょうけど、一日八時間働いて日給千五百円から二千円。二十五日働いて、三万七千五百円から五万円。ボーナスはないけど、時給二百三十円もらえば年俸五十五万二千円。大卒の平均年俸よりいいわね。いいお小遣いになるわ。素ちゃんはそっくり貯金するのよ。生活費は私にまかせればいいから」
「計算はや!」
 私は山口に、
「最近の物価ってどのくらいなの?」
「さあ、葉書七円、封書十五円、公衆電話一通話三分十円、銭湯三十二円、タクシー初乗り百円、新聞定期購読六百六十円、ハイライト八十円、岩波文庫平均百五十円。そのくらいしか知らないな」
 素子が、
「サック一ダース五百円」
「うへー、それだけで貴重品だ。その手の商売人も出費だなあ」
「ぼくは使ったことないよ。飛行機代の片道ってどのくらい?」
 カズちゃんが、
「五千円から七千円」
 素子が、
「シャンプー百五十円、パンスト五百円、トイレのブルーレット二百八十円」
 カズちゃんが、
「ボンカレー八十円、サッポロ一番三十円、かけそば五十円、ビール百三十円、牛乳二十円、喫茶店のコーヒー八十円、缶コーヒー百円」
 食べ物ばかりだ。山口が、
「カラーテレビ十九インチ二十万円、週刊誌七十円」
 私は、
「パチンコ玉一発二円、国鉄初乗り三十円」
「地下鉄は二十円だな。北村席と和子さんのおかげで、俺たちは裕福だ。早く恩返ししなくちゃ」
「ぼくも」
「あたしも……」
「素ちゃんはそばにいてくれるだけで、恩を返してるわ。キョウちゃんも山口さんもね。みんなに恩返ししてるのは私よ」
 木莬のガードから南口に出て、商店街の大きな電器屋で洗濯機のウィンドーショッピングをする。素子が真剣な顔で見つめていた。もう一度ガードをくぐって大将へいった。
「お! またきたね。いま横ちゃん、労働中。仕こみで忙しい時間だ」
 私は、
「ラビエンにはあしたの夜いくつもりです。きょうめし食いにきたら、神無月があしたいく、と伝えといてください」
「ほいよ、夜の十時ぐらいに中休みで出てくるからね」
 コメプリマが始まった。素子がうれしそうに拍手する。山口が歌声に耳を澄ます。
「歌自体が好きなんだな、人間じゃなく」
 人間じゃなく―ふと死の影がよぎる。それをカズちゃんは見逃さない。手の甲にそっと手を置く。山口が、
「これはうまい! おそらく塩だ、塩加減がいい」
「ありがとう!」
 マスターが鍋を鳴らす。素子も、
「こんなおいしいホウレンソウ玉子炒め、食べたことあれせん」
「同感。カズちゃんとちょくちょくくればいい。ぼくもそうするよ。ほかにもいろんなメニューがありそうだ」
 マスターが、
「玉丼、カツ丼、天津丼もあるよ」
「ぼくは阿佐ヶ谷に住みますから、しょっちゅうきます」
「俺はラビエンに飲みにきたときにしよう」
 客が出ていき、入ってくる。鍋がひっきりなしに鳴る。私たちはみんな満足して腹をさすった。店を出る。
「吉永さんに顔を見せてきたら?」
「そうだね。そうする。善夫に書類を渡してから。善夫の床屋は、きょうきめたカズちゃんの家から百メートルも歩かない」
「危うい距離だな」
「まんいちいっしょに歩いているところにぶつかっても、東大の友人だと言えばすむ」
「たしかに上級生程度には見える。……しかし、面倒くささからなかなか解放されない男だな」
「善夫さんにお母さんの息がどの程度かかってるかによるわ。見張れとまでは言ってないと思うけど。でも警戒するに越したことはないわね」
「じゃ、俺帰るから。あした六時な。和子さん、何かあったら電話ください。×××の××××」
 カズちゃんはバッグから手帳を出して、メモを取った。阿佐ヶ谷駅の改札を抜ける山口に三人で手を振った。


         五

 もう一度三人で橋本家に向かう。ありん堂で和菓子のセットを折詰めしてもらった。
 鉄門を入って玄関戸を引き、框横の婆さんたちの部屋に声をかける。姉のほうの老婆が顔を出した。丸眼鏡は夕食の買出しにでもいっているのだろう。カズちゃんが、
「いま手続してきました。これ、つまらないものですが」
「あ、どうも、遠慮なく。東大の学生さんですってね。そんな立派なかたがここに入ったのは初めてです。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
 三人揃って頭を下げた。すぐにいとま乞いをする。まだ黄昏が訪れたばかりだ。空の淡い藍色がいい。藍色の町並を確かめるようにたたずむ。庭の前が鮨屋、通りの角が自転車屋、その向こうに中央線のガードが見える。左に進む。庭のある民家がつづく。四辻に出た。角にスナック『ひろ』。駅に向かう道なりに歩く。植えこみのある豪奢な民家や、マンションや、二階建てのアパートに紛れて、喫茶店、ラーメン屋、教会などが入りこむ。眼鏡をかけたギョロ目のヒゲ男を表札にしている家がある。永島慎二。ここか。
「よしのりの言ってた漫画家の家だ」
「大きな家やなあ」
「家って、男の人生の目標なのよ。よくわかるわ。自分を容れる器の大きさで自分を打ち出すわけ。ここまで豪華にする必要はないと思うけど」
 適当に駅のほうへ曲がりこみ、ポエム、ラビエンを通り、駅舎に入る。改札前から南口へ抜ける。広い通りからすぐ左手の、ノラの小路に似た細道に、一番街というアーチ型の看板が掛かっている。入りこむと飲み屋街だった。ぎっしり並んでいる。はせ川、ゆとり、ボーナス、鳥平、とんぼや、てんてん……。あとは民家の並びへ紛れていき、ぽつんとバーがあったりする。引き返す。二人はとことこついてくる。素子が、
「キョウちゃん、どうしたん。一生懸命歩いとる。もう一度下宿に戻るん?」
「二度と散歩しないためさ。暗記してしまう」
 民家、民家、歯医者、民家、民家、ありん堂、民家……。
「何もないなあ。暗記できない」
 二人が笑い出した。公園がないので、バットを触れないことが気にかかった。青梅街道へ出て、タクシーを拾った。
「あしたの朝、不動産屋の書類を持って善夫のところにいってくる。そのあと吉永先生のところへいって、ホテルに戻ってきたら、ラビエンだ」
 東急インの部屋に帰った。カズちゃんは名古屋の運送会社に電話して、荷物の到着予定日が決まったら、ホテルに電話をくれるように連絡した。私も母に電話を入れた。新居の住所を教え、掛け敷きの蒲団を一組買って下宿で待機してるから、一両日中に頼んであった荷物を送ってほしいと伝えた。佐伯さんが電話を代わり、
「あしたの午前中に送ります。しあさっての夕方までには届くと思います。しばらく辛抱してください」
 所長に代わり、
「私だ、大沼だ。そうか、阿佐ヶ谷か。駒場にいくにも本郷にいくにも中途半端な場所だが、静かな住宅地だから暮らしやすいだろう。人付き合いを密にして、いつも助けてもらえるようにするんだぞ。がんばれよ」
「ありがとうございます。練習と試合で年中暇なしになると思いますけど、暇ができたら帰省します」
 がんばれよォ! と社員たちのかけ声が聞こえてきた。最後に母に代わって、
「かならず善夫を保証人にしてね。いまから連絡しておくから」
「明日の午前中にいくと言っといて」
 ルームサービスでステーキディナーを食い、一人ひとり、狭いバスタブに浸かったあとで、シングルベッドに横たわりながら話をした。ほとんど素子の問わず語りに終始した。
 小さいころは色が黒くて、インド人と言われた。喧嘩が強い女の子で、いじめられている弱い男の子をよく助けた。机を持ち上げて投げつけたこともある。
 おとうさんとおかあさんは満州移民で、あたしはそこで生まれた。満州ではおとうさんは大工の棟梁で、競輪に勝って上着とズボンのポケットにお札をいっぱい詰めて帰ってきて、配下の者たちに大盤振舞いをした。日本に帰ってきてから太閤口に住みついて、おかあさんがこの商売を始めた。おとうさんはビリヤードで稼いでいた。夜中におかあさんがいつも仲の悪いはずのおとうさんに跨って泣き声を上げていたのを盗み見て、子供ながら人間の業を感じた。しばらくしておとうさんは脳溢血で死んだ。
 おかあさんに頼まれて、初めてこの仕事に就いたとき、裁縫の運針を覚えるような気持ちだった。空襲で手首から先をなくした先輩に、声の出し方や腰の動かし方をきちんと教わって、それを自分なりに応用して毎晩男の反応を見るのが楽しかった。
 二十歳のときに、客の名古屋大学の学生に恋をしたけど打ち明けられなかった。その代わり覚えた技をうんと使って楽しませてあげた。
 キョウちゃんに遇って男の反応を見なくなった。自分が感じるようになるとは夢にも思わなかった。いままでどんな技を覚えたかも忘れてしまった。
 妹もこの仕事に就いたのはとても悲しいけれど、口には出せない。
 素子はカズちゃんに肩を抱かれて眠った。
 朝、四時に目が覚めて、ひとり渋谷の街を歩いた。戻って洗顔し、二人が目覚めるまで造りつけの机に向かって詩を書いた。

  もっとさびしい唄が聴きたい
  聞こえる、聞こえる
  窓のむこう
  耳を濡らして、夢醒めた夜に

  夜の奥に青空がわたり
  ことばにできない光の束が
  ふり仰いだ目に記憶を注ぐ
  ほんの少しのあいだ―
  天上を棲み家としていたころの夜の唄だ

  きょう、再生を果たしたいと願い
  空を見る
  窓の内を眺める
  いづちとも知れぬ視界の虚(うろ)より
  光はあふれ……

         †
 三月二十三日土曜日。曇。
「早起きね。きょうは素ちゃんと銀ブラして、四時半には戻ってるわ。キョウちゃんが吉永さんのところから戻ったら、ラビエンへいきましょ」
 排便し、シャワーを浴びて、白のワイシャツ、海老茶のセーターと紺のブレザーに身を固める。バイキングでめしを二膳食う。
「お金、だいじょうぶ?」
「封筒のままカバンの底。ポケットにもいつも何万円か裸で入れてる」
「へえ、そうなん!」
「ふつうだろ?」
 カズちゃんが笑いながら、
「ふつうじゃないわね」
 英夫叔父さんが、種類を分けた硬貨を小財布に縦に納めて、大事そうに取り出していたことを思い出した。青梅の映画館の売店、栄の松坂屋、電車の駅で。
「きょう、銀座で買ってきてあげる。キョウちゃんに革物は似合うわ」
「じゃ、小銭納れも買ってきて」
「はい、はい。入学手続書類を郵送しといてあげる。封筒に入れるのは、まずこれ、入学金振込証明書」
「ほい」
「受験票」
「ほい。あとは、学籍登録シートに受験のときに使った写真を貼って終わり。ほい、入れた。じゃ、投函よろしく」
 二人が出かけたあと、ホテルを出て満員電車に乗る。土曜日がこれなら、週日は推して知るべしだな。当分苦しめられそうだ。野球道具は持って歩けないとわかる。一日の時間を選んで、部室にすべて運びこんでおかなくてはいけない。
 高円寺の駅前から善夫に電話を入れた。不機嫌そうだった。商店街を歩き、九時過ぎに床屋に着いた。善夫は回転ポールの横に立って待っていた。半日の休みを取ったと浮かない顔で言った。
「迷惑かけてごめん。保証人の書類を書いてほしいんだけど」
「なんだそのボサボサ頭は。サッパリしろ。髪刈ってるあいだに書いてやら」
 店主に気を差したが、その場で髪を刈ってもらうことにした。耳にかかる髪をうるさく感じていたこともあった。野球帽をかぶりやすいように慎太郎刈りにした。善夫が後ろのベンチテーブルで書類を書きながら待っていた。
「いい男だねえ。佐藤さん、ほんとに甥っ子さん?」
「似てねべ」
 虫食われた歯を剥いて笑う。愛想を言う店主とは知らなかった。
「それの母親が大した美人だんだ。これのあごの形はオヤジ似よ」
「善夫は神無月大吉に会ったことあるの?」
 私は鏡から語りかけた。
「ちゃっけころにな。じっちゃばっちゃに会いに野辺地さきた。礼儀正しかった。高橋秀樹に似てたな。髪は長かったけんど」
 店主が、
「外国の俳優はみんなこういうあごをしてるぜ。絶世の美男子だ」
 竹内と同じことを言う。隣の男の髪を刈っていた女房らしき女が、
「とんでもなくじょうずな野球選手なんでしょ。新聞にも載ってましたけど」
「何やってもとんでもねんだ。このまま、オラんどとはちがる道をいぐべおん。雲の上の人(ふと)だ。わがってねのは親だげだんだ」
 さびしそうに笑って、判子に息を吹きかけた。
「トンビには鷹はわからないということですかね」
 店主が刈りあがった頭に香料をすりこんだ。肩や胸に散った毛を小箒で払い落とす。
「そういうことだじゃ」
「善夫は、ぼくが親もとを離れて祖父母に育てられていたころから、いっしょに暮らした兄のような存在です。親以上に切っても切れない縁です」
 いつもの癖(へき)が出る。
「喜ばせるなじゃ。おめは、ものしゃべらねほうがいい。ジツがこもらね。これからは親も兄弟もなんも気にしねで、忙しぐ生ぎろじゃ」
 二人で阿佐ヶ谷の不動産屋に出向く。善夫はサインした保証人の書類を出した。
「部屋見でがら帰るじゃ。姉さ報告しねばなんねすけ。まず昼めしだ」
 駅前商店街の『秀月』という蕎麦屋に入り、天ぷらそばを食った。うまかった。いずれこの店で丼ものを征服していこう。
「この三年でボイラー技士の二級、一級と取ってきたすけ、取り扱い主任になれだ。あと三年取り扱い主任で働げば、特級受げる資格がでぎる。今年じゅうに飯田橋さ引越しして勉強に打ちこむど」
「どうして飯田橋に?」
「飯田橋の日本医大のボイラー室に去年から勤めてんだ。ほれ、ボーナス、十万」
 きれいな銀行封筒を差し出した。
「そんな大切な金、受け取れないよ。名古屋でたっぷり餞別をもらってきたんだ」
「それだば兄貴の面子が立たねべ」
「ふうん……。じゃ、もらっておくよ、兄さん」
 善夫は照れくさそうに七三の頭を掻いた。善司と善夫、私は二人を兄と思って育った時期があった。義一は二人をどう思っていたのだろう。
「ぼくたちは不思議な関係だね」
「不思議ってへれば不思議だな。……切っても切れねかもしれねな。何かあったら頼ってこいじゃ」
「うん」


         六 

「いい服着てんな。母ちゃんが買ってけだのな」
「ほかの人に買ってもらった。飯場以来、恵んでもらうことが多い。おふくろのケチを相殺するみたいにね」
「そう言ったもんでもねべ。青森の下宿には送金してたんだべ」
「下宿代に毛の生えた程度をしっかりとね。送ってあたりまえだ。自分が不始末をした尻は自分で拭くのがあたりまえだ」
「……ワを恨んでるが?」
「努力家は恨まない。おふくろは善夫とちがって、何一つ挑戦したことのない怠惰な人間だ。自分が認めた人間が挑戦してうまくいった結果はたいそう尊重するけれども、たとえ認めた人間でもうまくいかなければ軽んじる。それに関しては結果論だけの人間だ。認めない人間が挑戦した結果は、よくても悪くてもないがしろにする。結果論すら最初からない」
「何が言いてんだ?」
「努力家でないくせに他人の評価ばかりする人間は、悪さされたら恨むべきだと思うけれども、ぼくは面倒くさい」
「……復讐みてなことはするなよ」
「面倒くさいことはしない。東大に受かって彼女の手から逃れることで、ぼくの中で復讐は一段落した。彼女の求める権威が〈不良〉にも案外簡単に手に入ることを証明したからね。これからぼくが野球をすれば、彼女はますます空しくなって、穏やかな復讐が苛烈な拷問になる。一見、東大に受かることも野球選手になることも、どちらも彼女の利益になってるようだけど、彼女にとってぼくが賞賛を浴びることは、ぼくに似ていたオヤジが賞賛を浴びることになる。じわじわとボディブローが効いてくるだろうね」
「一生効かねかもしれねど。姉はなんも考えてねすけ。……あした、サイドさんの家へいぐべ」
「五、六日中に荷物が届くから、来週の土曜日にしようよ。心のこもった手紙をもらったお礼を言いたい。サイドさんには、そう伝えといて」
「わがった。三十日だな。だば、来週は土日の連休をもらうべ。サイドさんに会うのは何年ぶりだ?」
「知ってるだろ。中三の秋以来だから、三年半ぶりだよ」
 善夫は橋本家の婆さん二人に、よろしくお願いいたしますと頭を下げ、道の途中で買った和菓子を差し出し(また、ありん堂の饅頭セットだった)、形ばかりに部屋を見回した。丸眼鏡が、
「甥ごさんが東大なんて、鼻が高いでしょうね」
「どういうもんですかね。小さいころから頭のいい子でしたから、それほど驚いてはいませんがね。野球をやるみたいですから、出入りが不規則になるかもしれません」
 善夫は標準語でしゃべり、鼻の穴をふくらませた。
「まあ、野球を」
「新聞にちょくちょく載りますよ」
 もう一度鼻の穴をふくらませた。
 善夫は飯田橋の病院へ出勤するために東西線のホームへ回った。私は中央線のホームへ上り、複線のレールを跨いで手を振って別れた。
 新宿から池袋に出て、東武東上線に乗り換え、上板橋に向かった。池袋から七つの駅を数えた。まだ日の高い閑散としたホームに降りた。南口を出て、長い商店街を抜け、ひたすら手紙の住所と略地図を頼りに歩く。風呂屋の煙突が見えてきた。寿司屋の角の狭い道を曲がり、三段の石段を上ると、庭に囲まれた空気の澄んだ空間に出た。大きな庭に立木を仕切りにして二棟の平屋が建っていた。一つは旧式の邸宅で、それと立木雑じりの垣を隔てた少し低い土地に、ベニヤ壁を淡いブルーのペンキで塗ったかわいらしい小屋が建っていた。細かい波を打ったトタン屋根。その上に老い柿の葉がかぶさるように繁っている。
 庭に通じる門に糸井という表札が掛かっていた。声をかけようとすると、手に剪(き)り鋏を持った丸眼鏡の女が庭の潅木の陰からヌッと立ち上がり、
「あ、あなた、神無月さんね」
「はい―」
「吉永さんからいつもお話を伺ってます。ようやくいらっしゃいましたね」
 事情はすべてわかっているようだ。
「吉永さんは在宅ですか」
「ほら、あそこにいますよ。さっきまで、二人でお茶を飲んでたところだったの」
 丸眼鏡が振り向いた長縁に、先生が正座していた。私が手を振ると、もう頬がゆがみかけている。サンダルを突っかけて下りてきた。よく見ると、縁の下の支石のあいだに茶褐色の犬が横たわっていた。
「いよいよ東大野球部ですね!」
 東大と聞いて、大家の目に尊敬の色が浮かんだ。私のハガキを受け取ったあとも、大家には話していなかったようだ。自慢するようで恥ずかしかったのだろう。
「……一日千秋の思いって、生まれて初めて実感しました」
 吉永先生が名古屋を出てまだ十日しか経ってない。
「待たせてごめん。合格が決まったあと、手続したり、下宿先を決めたりしなくちゃいけなかったからね。今朝、新住所を書いたハガキを出した。阿佐ヶ谷だよ。ちゃんと入居するのは、名古屋から荷物が届く三日後くらいだね。それまで渋谷の東急インというホテルに、カズちゃんと素子と二人で泊まってる」
「素子さんて?」
「上京してくる女たちの一人。ぜんぶで五人。文化祭の舞台にカズちゃんと登っていったもう一人のほう」
「ああ、あの人。お人形さんみたいにきれいだった人ですね」
「うん」
「和子さん、素子さん、私、ほかのお二人は?」
「節子と法子」
「そのかたたちにもいつか会えるかしら」
「いつかね」
 大家が話の中身を察して、
「じゃ、吉永さん、またお話したくなったらいつでもきて」
 先生は深々とお辞儀をした。
「夜、よしのりの店にいく。カズちゃんと、素子と、山口という男がくる。いっしょにいく?」
「もちろんいきます」
 庭の二本の竿の一本に蒲団が干してあり、もう一本にこまごまとした洗濯物がかかっている。庭に面していない側に回って小さな戸を引き開けると、一メートル幅の沓脱ぎの框が板敷になっていた。板敷きの向こうは明るい六畳間だった。框の脇壁に落とし便所の戸が切ってあって、開けると和式のキン隠しがあちらを向いている。清潔に拭き掃除がしてあり、プラスチックの白い蓋をし、消臭剤を効かせているのでにおわない。部屋の壁はすべて外壁と同じベニヤで、クリーム色のハケ痕が新しい。
「いまどき、落とし便所か。趣があるね。ここは、いくら?」
「八千五百円」
「ぼくのアパートとほとんど同じだ。安く借りられてよかったね」
 式台から部屋へ上がる。六畳の右手に一帖分、用途不明な板の間がある。ぜんぶで七帖ある勘定だ。正面のベニヤ壁の半分が窓、窓の横壁が押入だった。板の間に小さなステレオでも置くといいなと思った。大きな窓は大家の屋敷に向かって切られ、左手の壁にもやはり半間の窓が切られている。その窓の前に見覚えのない机が置いてあった。
「買ったんだね。しっかりしたものだな」
「家具屋さんでちゃんとしたのを買ったの。腰を据えて勉強するためです」
 先生は好みのピンク色のカーテンで部屋の明るさにオブラートをかけていた。半間の小窓の脇から壁の外へ突き出すように豆タイルの流しがこしらえてある。
 七畳間―狭くて、清潔で、ものさびしい生活空間。たぶん吉永先生が幼いころから心に飼ってきた肅条とした精神風景だった。
「あの大家さん、息子さんと二人暮らしなの。早稲田の商学部を中退して、ぶらぶらしているらしいけど、一週間にいっぺんぐらいしか見かけない」
「犬も、えらくおとなしかったね」
「胃癌らしいんです。ときどき、ゲハ、ゲハ、ってへんな咳をするわ」
 大家の食の細そうな顔を浮かべた。彼女も何か病を抱えているのかもしれない。
「かわいそうに、犬も癌にかかるんだね」
「あの声を聞くと、喉に通るものも通らなくなってしまう」
「……大家さんとは、よく話すの」
「はい。あの縁側の奥が縫製室になってて、ご近所の仕立てものや繕いものを引き受けてるみたいです。私、ときどきお手伝いするのよ。もう、いろんなこと教えてもらいました」
 机の脇に背の低い書棚が置いてあり、節子の机にあったのと同じような医学書が並べてあった。
「難しい試験?」
「それほどでもありません。ふつうに勉強すれば、一回で受かると思います。准看の資格は持ってるので、正看の資格をとるための試験ということになりますけど、ただ、准看をしているあいだに、歯医者でも、ふつうの病院でも、学校でも、二年間の実務経験をしておくことが受験資格になるんです。私はあと一年。とにかくそれが先決ですね。准看のまま、ずっと雇ってくれる病院があるならいつまでも勤めつづけてもいいと思ってます。そのうち就職先が決まったら、ちゃんと知らせますね」
 先生はまじめに勤め、根気よく勉強し、いずれ正看の試験に難なく受かるだろう。怠惰な者と、勤勉な者―私は母を思い浮かべ、何か基本的な人間性のちがいといったようなものを感じた。
「その板の間にステレオを置いたら? 今度、いっしょに電器屋へいこう」
「ラジオがあるから、そんな贅沢なものいりません。……ひさしぶりに抱いてください」
「うん」
 吉永先生の生活に音楽はない。それなのに、こんなに精神が潤っている。先生はいそいそと押入から蒲団を出して敷いた。二人裸になり、並んで横たわる。指先が膝の上をかすめただけで、彼女はぴくんと尻を上げた。陰毛の中に指を差し入れる。
「あ、ジュッて出てしまいました……」
 襞の中に指をこじ入れて、温かい湯にしばらく浸している。そろりそろり突起を探り当てる。
「ああ、もう、がまんできない」
 彼女は私のものをしっかり握り、唇を求めて強く吸った。片足を抱え上げる形で、屹立したものを押し入れる。二度、三度、往復しただけで、
「あ、イク……」
 異様な興奮のせいで私もすぐに迫った。
「イク、キョウちゃん、イク!」
 先生は片足を上げ鶴のように首を曲げたまま激しくふるえた。こらえきれず私も追いかけるように射精する。
「愛してる!」
 キクエは急きこんでそう言ったかと思うと、口を大きく開け、片足を抱えこんで痙攣に身をまかせた。不自然な格好で抱き合っている耳もとに、汽車のように速い息づかいが聞こえる。私はその唇を自分の口で塞いだ。からだを離すとき、先生の太腿からシーツに精液が滴り落ちた。私はその半透明な液体に視線を凝らした。
「気持ちよすぎて、早漏になっちゃった」
「私も。愛してるって思ったとたんにイッてしまいました」
 愛らしい腹を撫ぜる。
「野球部はいつからですか?」
「ぜんぶ荷物が届いてから。そろそろ野球部の関係者が訪ねてくるころだ。もう新人同士の自己紹介は終わってるかもしれないけど、ぼくはいわゆる〈大物〉だから、あらためて監督から彼らに紹介されるんじゃないかな」
「……練習が始まったら、しばらく逢えなくなるでしょうね」
「うーん、見当がつかないな」
 先生は裸のままコーヒーをいれに立った。
「職探しはうまくいってる?」
「もう五軒も廻りました。働きやすいかどうかを見定めながら、ゆっくりやってるの。隣の駅にも足を伸ばすつもりです」
「暇をみて、かよってくるからね。先生を入れて五人も東京に出てくるんだ。一週間に一人に逢いにいっても、五週間かかる」
「たいへん! 無理しないでくださいね。私はだいじょうぶですから」
「さあ、もう一度きちんとするよ」
「はい!」
         †
 二人で渋谷に向かう。先生は道を歩くのが大儀らしく見えたが、電車に乗ると落ち着いた。
「もうだいじょうぶ?」
「感じすぎてしまって。まだ腰がどんよりしてます……もう当分ほしくなりません」
「三日もすればほしくなるよ。それからはがまんの積み重ねだ」
「はい……」
「どうしてもがまんできなくなったら、阿佐ヶ谷にたずねてくればいい。なんとか方法を考えよう」
 腕を強く組んできた。
「和子さんに早く会いたい。気品があって、力強くて、やさしさのかたまりのような人。和子さんが命懸けで愛してる人が、ここにいるキョウちゃん。私たちは彼女といっしょにキョウちゃんに向かって行進する女。私、心底満足してるんです。キョウちゃんに迷惑をかけないかぎり、どれほど深くエゴイスティックに愛しても、和子さんがやさしく見守ってくれるから」
 不思議な心理だと思った。
 東急インのロビーに入る。フロントから部屋に連絡を入れてもらう。すぐに二人がロビーに降りてきた。
「吉永さん!」
「和子さん! 会いたかった」
 抱擁し合う。
「こちら素子さん。あなたより四歳年上よ。大切にしてあげて」
 先生は素子と握手し、
「初めまして。吉永キクエです」
「兵藤素子です。上板橋のお家はどうやの?」
「やっと整頓できました。六畳一間の一戸建てです。というより、小屋かな。トタン屋根にベニヤ造りの」
「一人暮らしなら、じゅうぶんやが。贅沢言わんことよ」
「はい、じつは満足してます」
 カズちゃんが、
「今夜はキョウちゃんのいちばんの親友に会えるわよ。山口勲さんていう人。横山よしのりさんにはもう会ってるのよね」
「はい。八坂荘で」
「きょうは山口さんギターを持ってくるはずだから、キョウちゃんの歌が聴けるわ」
「わあ、文化祭のあの声が……」
「山口さんは名人だから、もっとすてきな声になるわ。じゃ、いきましょうか。まず、ホレタマを食べてもらわなくちゃ。ねえ、素ちゃん」
「そう、ホレタマ、ホレタマ。私たちはオムライス」
「テレビの天気予報で言ってたけど、あしたから一週間雨らしいわよ。外出は億劫ね」
「少しぐらいの雨なら野球部の練習に出るよ。まだ何も言ってこないけど」
「もう飛島のほうに連絡をとって、キョウちゃんの住所はわかってるはず。二、三日したらやってくると思うけど」



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