三十七

 法子が、
「神無月くんは、自分の詩をどう思ってるの?」
「価値はわからない。浮かんできて、書き留めて、去っていくものだからね。ほくはいつも、このバッターボックスが最後かもしれないと思って打席に立ってる。だから、凡打をしたときは泣きたくなる。詩も同じだ。これが最後の推敲だと思って一行一行を書く。つまらないものができ上がると、泣きたくなる。野球と詩には境目があると思ってるし、価値に上下があるとさえ思ってるけれども、没頭しているときはどちらも夢の中だ。差をつけられない」
「差をつけなくていいの。キョウちゃんは、夢の中にいるのが正常な状態なんだから」
 素子が、
「あたしたちは、キョウちゃんが夢の中から出てきたときに、そばにいてあげればええんよね」
「そう、私たちには夢を見つづける才能がないんだもの。キョウちゃんといると、いつも夢を見ていられるでしょ。いてあげるんじゃなくて、いてもらうのよ。架空のキョウちゃんと架空でないキョウちゃんが、入れ替わり立ち替わりそばにいてくれる。そういうのって、うれしくてしょうがないでしょ」
 法子が、
「それだけじゃないわ。私たちにも、夢を見ようっていう情熱が伝染するもの。インタビューに応えてたあの東大野球部の人たちみたいに。グランドにいるときのあの人たちの表情は現実のものじゃなかった。……私、一つお店を持つつもり。何年かかるかわからないけど、とにかく、一軒、お店を持つの。和子さんや素子さんと同じ目標よ。夢を見つづける神無月くんのため、というのがいちばん強い理由だけど、自分の情熱も花開かせたいから」
「ええこと言うわあ。腕一本、エイ、エイ、オー、やな」
 カズちゃんが、
「情熱をなくさないためには、腕が五本も十本も必要よ。みんなで支え合ってがんばりましょう。そうそう、桜花賞当たったのよ」
「八枠流し?」
「そう。4―8。三千六百円。六番人気のコウユウという八枠の馬が一着ですって。三万六千円もお小遣いが入っちゃった」
「お姉さん、お鮨連れてって」
「お鮨でも、鰻でも、フランス料理でも、何でも連れてってあげる」
 彼女たちに出会う前の私は、陰鬱で、無力な男だった。いろいろとめずらしい目に遭うと、懸命に考えこみ、思考がまとまらず、すっかり意気消沈して、トンチンカンな反応しかできなかった。いまでも似たようなものだけれども、ただ無力ではなくなった。何人も味方ができた。彼らの手で、〈存在の報酬〉という名目で分不相応の高みにまで持ち上げられ、〈存在の維持〉を求められ、何よりも愛されている。
「ぼくと出遭ってくれたお礼に、歌を唄うね。外国の歌」
 ワア! という歓声と拍手が上がる。
「アメリカのジョニ・ジェイムズという女性歌手が唄った、アイ・キャント・ビギン・トゥ・テル・ユーというバラード。メロディを口ずさむだけでかならず泣いてしまう曲なんだ」
 すぐに唄いだす。

  I can’t begin to tell you how much you mean to me
  My world would end if ever we were through
  I can’t begin to tell you how happy I would be
  If I could speak my mind like others do
  I make such pretty speeches whenever we’re apart
  But when you’re near the words I choose
  Refuse to leave my heart
  So take the sweetest phrases the world has ever known
  And make believe I’ve said them all to you
  But when you’re near the words I choose
  Refuse to leave my heart
  So take the sweetest phrases the world has ever known
  And make believe I’ve said them all to you

 五人の女がこぞって泣いた。私も涙が止まらなかった。法子が、
「ふるえが止まらない。歌詞の意味を教えて」
 カズちゃんも素子も指で涙を拭いながら、懇願するようにうなずいた。
「どれほどあなたが大切な人か、うまく言えない。いつか私たちが別れるとき、私の世界は終わるの。ほかの人たちがしゃべれるように自分の気持ちを言えたら、私はなんて幸せでしょう。離れてるときは、そんなすてきな言葉をいつでも言えるのに。でもあなたといっしょにいると、大事な言葉が胸から出てこないの。だから、この世で最高にすてきな言葉を考えてちょうだい、そして、私がその言葉をぜんぶあなたに捧げてるという気持ちになってほしいの」
 カズちゃんが両手で顔を覆うと、二人の女たちがテーブルに突っ伏して泣いた。私はテーブル布巾で涙を拭いた。顔を挙げて気づいた素子がそれを奪い取った。カズちゃんも気づき、
「何してるの、汚い。すぐお風呂に入って。もう、無頓着なんだから」
「あたし、キョウちゃんとお風呂入る」
 素子が手を挙げた。
「みんなで入りましょう。湯船に三人まで入れるから。キョウちゃんをへんな気にさせたらだめよ」
「はーい」
「素ちゃんと法子さん、キョウちゃんと入ってて。私あと片づけしていくから」
 たっぷり湯が張ってあった。私はからだも洗わず飛びこんだ。二人の女は髪を束ねてから秘部を洗い、きのうのホームランの話を始めた。特に一本目の照明灯の脚に当たったホームランに話が集まった。素子が、
「あれって、何メートルくらい飛んどるん?」
「百四十メートルから百五十メートルくらい。年ごとに飛距離が伸びてる。体重が増えたからだと思う。きょうの一本目は上段にぶちこんだんだけど、百三十メートル以上飛んでる。二本目の左中間は、百二十メートルちょいだな。メートルに関係なく、ホームランは気分がいいよ。ボールをうまく処理できた証拠だから」
 素子が湯船に入ってきた。そして、
「法ちゃん、背中向けて。洗ってあげる」
 横坐りで背中を向けた法子の首筋を、素子は湯船に立ったまま手を伸ばしてスポンジで洗う。
「私たちみんな胸が大きいやろ。将来垂れるのが心配。キクちゃんや節ちゃんなんか大きすぎるから、垂れんようにケアするのがたいへんや。水泳がいいらしいよ」
「和子さんの身長はどのくらいかしら」
「お姉さんは百六十四。胸は法ちゃんと同じくらい。そう言えば、垂れた垂れたって言っとった。興奮したときぐらい、男みたいにピンと上を向かんかしらって」
 二人でケラケラと笑った。女同士の話はおもしろい。どれほど心が豊かでも、肉体的な美に徹底的にこだわる。人生の大半を化粧して暮らすのもむべなるかなと思う。
「節ちゃんて、化粧してたっけ?」
 私が訊くと法子が、
「もちろん、女のたしなみよ。だれでも薄化粧はしてるわ」
「だれのために?」
「難しい問題ね。女であるという対面のためかしら。だから、化粧をするのは仕事のときだけ。神無月くんといるときは、人間であればいいから、化粧はしないわ」
「お姉さんだって、フジに出るときはちょっちょっと化粧するんよ」
「ふうん」
 私が湯船を出て髪を洗っていると、女二人が湯船に入った。戸が開いて、カズちゃんが入ってきた。髪を揚げ、やはり股間を洗う。
「化粧、化粧って声が聞こえたけど、何?」
「女はみんな、仕事のときはお化粧するって話やよ」
「女であることを主張する当然の礼儀ね。主張の必要のないときはしないわ」
「法ちゃんと同じこと言っとるわ。あたしは男の気を引くように化粧しなさいって教わったから、厚化粧やったなあ」
 私は、
「うん、すごかった。化粧の向こうに顔があった。迫力満点だった」
「忘れてや。恥ずかしなるで」
 湯船を交代して私とカズちゃんが入った。法子が素子の背中を流しながら、
「私もノラでは厚化粧だった。おねえさんなんか、お化粧とったら、別人よ」
 ひとりでクツクツ笑う。カズちゃんが、
「私も目だけはちょっと化粧するかな。眼がきついから。小さいころから人を睨む癖があったの。人を信用してなかったのかもしれないわね」
 法子が、
「私もそうだった。ブスなのでよけい」
「自分をブスと決めつけてたのね。そのこと自体悪いことじゃないわ。謙虚で静かな性格になれるから。驚くなかれ、キョウちゃんもそうなのよ。鏡を見たくもないブ男なんですって。些細な一部を取り上げて美醜を決めてるのは自分なのよ。でも、ほんとは、決めるのは他人の好き嫌いなの。他人は好き嫌いを全体の印象で決めるでしょ。目とか鼻じゃなくね。自分でブスとか美男子とか考えるのは勝手だけど、それを愛してくれる人がいれば意味ないわね。他人がきれいだと言えば、そう、ありがとう、と言えばいいし、ブスだと言ったら、そう、残念、と言えばいいのよ」
 法子が湯船の外からカズちゃんの手をとった。
「ぼくは上がるよ。コーヒーいれとく」
         †
 四月十五日月曜日。晴。六時に起きた。部屋の空気がほんのり暖かい。十度はある。しっかり春だ。
 法子がスポーツ紙と一般紙を買ってきて、丁寧に食卓に並べた。きのう日曜出勤だったカズちゃんと素子は、きょうは午後からの遅番だということで、みんなゆっくりと朝食の支度をしながら台所を動き回っていた。
「ぼくは昼ごろ本郷の練習に出る。きのうのきょうでダレたくないから」
 法子が、
「下宿の場所まで案内してくれない?」
「いいよ、そのあとで東大球場へいく」
「そのあと武蔵境に帰るわ。あしたあたり荷物が届きそうな気もするし」
「蒲団だけ買って待機してればいいわよ」
 カズちゃんが言うと、
「武蔵境の駅前商店街に大きな蒲団屋さんがあったわ」
 カズちゃんが、
「ちゃんとしたものを買ったほうがいいわよ。お金ある?」
「たっぷり」

 
これ、ほんとに東大?

 というスポーツ紙の見出しを筆頭に、諸紙のスポーツ欄が東大一色になっていた。女三人で覗きこみ、感嘆のため息をついた。

   
北の怪物 東でも大暴れ
   
二試合で五発 Aクラスどころか初優勝も?


 一本目のホームランのフォロースルーが大写しになっている。法子が、
「五月人形みたい」
 カズちゃんがうなずき、
「ユニフォームという鎧を着た五月人形」
「クエスチョンマークだらけだ。戸惑ってるんだね」
 法子が、
「そりゃそうよ。東大と野球もびっくりする組み合わせだけど、ましてや優勝となったら想像不可能だもの。神無月くんしか起こせない奇跡ね。これからどうなっていくのか怖いくらい。ふつうじゃないことが起きてることだけは確かよ」
 朝食のテーブルが整う。ハムエッグと納豆と焼海苔に、ナスの漬物と味噌汁。朝からめしが進む組み合わせだ。女たちも精力的に箸を動かす。素子がふと箸を止め、
「キョウちゃん、これからは何年も忙しくなるね。あたしらがそばにいることを考えすぎんといてね。ときどき顔を見せてくれれば、それでじゅうぶんやから」
 カズちゃんが、
「そうよ。私たちがいつも心がけてることは、できるかぎりキョウちゃんのそばにいることだけ。そして、キョウちゃんのさわやかな声をいつも耳にしていること」
 法子が、
「じつを言うと、千年小学校で初めて神無月くんに遇ったとき、私、絶望したの。そしてそれを吹き飛ばすためにすぐ決意した。神無月くんという存在をふつうじゃない架空の夢だと思おうって」
 素子が、
「みんなわかっとるわ。こうしていられるのも束の間の夢やって。きのう、夢を見つづける情熱って話をしたばかりやないの。叶わん夢だなんて絶望せんと、夢を見つづけるゆう気持ちを鍛えることで心が豊かになるんやないの? それがあたしにとっての幸福や。その幸福だけは絵空事やない。世間のどんな人も、その幸福を奪うことはできん」
 カズちゃんが強くうなずいた。


         三十八

 私はハッキリとした語調で言った。
「ぼくは夢を見つづけてるのかもしれないけど、ぼくたちの関係は現実だよ。野球は、名古屋に留まろうと思ったとき、たまたま身近に現れたんだ。むかしを忘れさせてくれる夢のような遊び道具だった。幼いころの記憶はなぜか悲しくて、遠い灯りみたいに頭の隅でずっと揺れてた。そんなものは忘れなくちゃいけない―そのためには、静かに、規則的に、夢を見ているように流れていく生活が必要だったんだ。むかしの思い出に没頭していると、つい孤独だった幼いころを思い出してしまうし、自分だけですごしたそういう過去を忘れて出発しないと、新しく出会った人を愛する気持ちに冷たいものが混じってしまうと思ったからなんだ。ぼくは自分と似たようなおとなしい表情をした人びとにめぐり会うことで、人のやさしさを知り、愛情こそ命の根本だと気づいた。人を愛することは、気長な、崇高な、無から何ものかを創り出す仕事だ。ぼくのような変てこりんな人間を愛する人にしても、心の仕組みはきっとぼくと同じようにへんてこりんなんだろうね。おとなしい表情の下には、きっとたくさんの抑えられた悲しみや、たくさんの圧し殺されたため息がひそんでいるにちがいないんだ。それを隠しながらぼくを愛してくれる人に、ぼくが不安を与えるはずがない。ぼくのほうこそ、そういう決意をさせてもらって幸福だ。ぼくはこの場所からどこへもいかない」
 カズちゃんが笑いながら、
「キョウちゃん独特の言い回しで話してるけど、私たちがキョウちゃんを愛してるのと同じくらいキョウちゃんも私たちを愛してるってことを言いたいのよ。野球は出世するためとか、出世して私たちを切り捨てるためにやってるんじゃないってこと。私たちの関係は現実だって、キョウちゃんがハッキリ言ったでしょう? 素ちゃんと法子さんがみんなの不安を代表して言ってくれたけど、何も心配することはなかったということね。みんなよかったわね。私もよかった」
 素子が、
「出世するためやなくても、キョウちゃんは出世するでしょ。あたしらは、愛されとることに甘えて足を引っ張らんようにせんとあかんね」
 みんな赤ベコのように一斉にうなずいた。カズちゃんがいれたコーヒーを三人で飲んだ。素子が私に語りかける。
「あたし、あのころ命がしぼんだみたいな生活してたでしょ。キョウちゃんはあたしにとって、そういうみじめな生活に飛びこんできた値段のつけられないほど大切な贈り物やったんよ。……いまもそう。あたしいつも神さまに感謝しとる」
「……私もよ」
「私も」
 三人テーブルの上で手を取り合った。
 法子が立ち上がったので、私はダッフルを担ぎ、下駄を履いて、いっしょに玄関から出た。素子が法子に、
「来週も神宮球場へいくやろ」
「うん、日曜の応援にいきます」
「キクちゃんも日曜日はくるゆうとった」
「じゃ、来週ね。和子さん、素ちゃん、ごちそうさま」
「いってくる。自転車置いてくね」
「カギして出るわね。早く帰ったら自分で開けてね」
「うん、カギ持ってるからちゃんと開けられる」
「きのうのユニフォーム、クリーニングに出しとくわ」
「ありがとう」
 法子と二人阿佐ヶ谷に出、山口に電話する。母親らしき人が出て、少し驚き、すぐ代わった。
「法子と阿佐ヶ谷にいる。下宿を見たいって言うんで」
「わかった。三十分で阿佐ヶ谷のポエムにいく」
 ポエムのテーブルに法子と向かい合ってコーヒーを飲んでいると、下駄を履いた山口が五、六紙を手にやってきた。ドッカと腰を下ろす。法子に、
「初めまして、山口です」
「山本法子です」
「上京五人女、これで四人と顔合わせしたな。もう一人か」
「うん、吉永先生」
「きのうもすごい試合だったんだって?」
「はい。神無月くんのホームラン二本」
「神無月のホームランは美しいからな。あの軌道は一生忘れられない。俺を呼び出して正解だ。男と女二人きりでいるより、男二人女一人でいるほうが、まんいちマスコミに見つかっても勘ぐられない」
「そんなつもりはなかった」
「わかってるよ。しかしこういうことなら、いつでもお安い御用だ。女二人以上のときも呼んでくれ」
「オーディション、どうなった」
「三時からぶっ通しで三時間もやった。新宿のグリーンハウスというパプだ」
「合格か?」
「バッチリ。ちょっと高級な店だから、学生を雇うかどうか逡巡したんだな。きょうの予定は?」
「法子にぼくのアパートを見せてから、本郷へ練習に出る」
「きのう、オーディションにいく前に神宮に寄って、ライトスタンドから観てたんだぜ。すげえ当たりが俺の頭の上へぶっ飛んでった。スカッとした」
「なんで東大の学生席へいかなかったんだ」
「さびしい村より、賑やかな街だ。応援が楽しくなる。どの新聞もおまえのことばっかりだ。三試合総当たり戦が始まって以来、東大史上初の勝ち点だって? 弱いチームもあったもんだ。まあ、一回戦ボーイの青高を二年連続で準優勝に導いた男だ。三位ぐらいにはもっていけるんじゃないか」
「優勝を狙ってるよ」
「大きく出たな。今週の日曜日はかならず観にいってやる」
「ネット裏に全員集合してるぞ」
「合流しないよ。独りで応援したい」
「賑やかな街じゃないのか」
「俺だけの感想を抱きながら観たいってことだ」
「授業はどうしてる? やっぱりスパッと切れないだろう」
「おまえもか」
「体育と英語を残したけど、そのうち体育だけになるね」
「国語学の北条というやつだけは話がおもしろくて、二度出席した」
「おろしろいって?」
「言葉を飾らないしゃべり方をするんで、理屈の辻褄が合って快適だ。そういうことはほかの講師には皆無のことなんでな」
「パフォーマンスがめずらしいってことだね。中身は」
「講義内容に興味があるわけじゃない。やつがいま研究テーマにしている〈笑い〉に関する雑談がおもしろくてな。二回目の講義のときにこんな話をした。私たちはだれでも、息を吐き出しながら、一息で『ハ、ハ、ハ、ハ、ハ』という音を出すんです。初めのハは大きく、最後のハは小さくて、息が切れかけているかのような状態になります。ハ、ハ、ハ、ハ、ハという音は、快いリズムで一秒間に五回発せられます。この単純なパターンを変えるのは難しい。わざと変えようとすると、なかなかうまくいかないので、自分がいかに標準的、かつ自動的に笑っているかわかります」
 山口は、ハハハハハ、と五回つづけて発声し、
「ほんとうに五回かと思い直したよ。三、四回がふつうだと思ってたからな。とにかくそんな話を聞いたら、意識して笑えなくなっちまう。そういうところがおもしろいと言えばおもしろい。こんなことも言ってたな。ほとんどの笑いは冗談のあとに出るわけじゃない、ふつうの会話の一部として発せられる、聞き手よりは話し手が発することが多い、たいていは会話文の区切りで発せられるから、笑いは句読点代わりだとな」
「息継ぎがわりということか」
「というより、しゃべり終わったことを目立たせるためらしい」
「学問というのは、抽象や総合ばかりでおもしろくないな。かわいらしいものとか、きれいなものなんかを見たときに、思わずハハハとやっちまうのは、どう定義するんだ。微笑はどうなる。ぼくは山口を見るたびに笑ってしまうけどな」
「……冴えた男だな。うれしいよ。ふつうでいたいのに、はみ出し者にしかなれないおまえとちがって、ああいう連中ははみ出し者を気取ってるが、ふつうの人間だということだろう。おもしろいと思ったのは錯覚だったかな」
 山口がコーヒーをすする。私もすする。うまいコーヒーだ。法子がおいしいと言う。山口が、
「ジャーマンブレンド。ポエムにしかない。夏はブラジルのアイスコーヒーがうまいぜ」
 初めて会ったときから、私は山口に対して愛情を感じている。寺田康男のときと同様、私は彼といるだけで満足だ。私は、本能的に、山口がいまの地位よりもずっと価値のある人間であることがわかっているけれども、彼はそれをほかの人びとにはみごとに隠しおおせている。
「で、そのパブでギター修業をするのか」
「しばらくな。遠大な計画の第一歩だ。弾き語りで守備範囲を拡げてみるよ」
「法学部におもしろい学生は見当たらなかったのか」
「いないな」
 山口は法子を見て、
「で、家は落ち着いたの?」
「あしたくらいに荷物が届くと思います。それからゆっくり部屋の整理」
 あらためて法子をよく見ると、名古屋にいたころよりは少し太って、胸が鳩のように張っている。
「朝早くから和子さんがいっしょに探してくれて、午前中に決めてくれたんです。きょうは蒲団一式買わなくちゃ。生活用品は、おかあさんが送ってくれるし、二、三日中には落ち着くんじゃないかな」
 とうれしそうに語る。
「で、武蔵境のどのへん?」
「節子さんの反対口から歩いて十分。『みつい庵』ていう駅前のお蕎麦屋さんが募集の貼紙出してたから、ついでに五月から働くことに決めちゃおうっと」
「蕎麦屋?」
「すぐやめるつもり。肩ナラシね。少し、東京の雰囲気を覚えてから、夜の勤め先を探すわ」
「なるほど。じゃ、さっさと神無月のアパート見せにいこうぜ」
 山口が立ち上がってレジへいった。
 明るい道へ歩み出す。永島慎二の通りのほうへ出た。歩きながら山口に、
「おトキさん、元気かな」
 山口はなつかしそうに目を細め、
「何度か手紙くれた。なかなか東京に遊びにくるのは難しいよ。やっぱりこっちからいくしかないな」
 私はうなずき、
「人に会うというのは、たいへんなことだ。時間と意志がないと。……特に意志」
「おまえのは鋼鉄の意志だ。時間をひねり出して貫く。俺は真鍮の意志ぐらいかな。時間の都合に合わせて貫く」
「ぼくは時間があってもぐずぐずする。ただ、すぐにでも会おうとする鋼鉄の意志はないけど、別れないという鋼鉄の意志はある。遇って、気に入ったら、ぜったい別れない。そう言えば、法子と再会したのは蕎麦屋だったね」
「そう、運命の再会―」
 橋本家の前に出る。
「あの角部屋。ごらんのとおりの環境だ」
「庭の眺めがいいわね」
「ボケ、ミツマタ、オウバイ、サツキ、トキワマンサク、赤、白、黄色、ピンク、きちんと考えて植えてる。ヒヤシンス、フリージア、クロッカス……これは最近気づいた」
「神無月くん、花に詳しいのね、すてき」
「祖母が天才だからね。小さいころからよく教えてもらった」
「あの目立たない花、何かしら」
「アラセイトウ。この庭のは白い種類だけど、赤も紫も桃色もある。カズちゃんの家の庭は芙蓉がきれいだね」
「相変わらず、鬼みたいな知識だな」
 山口が腕組みをして首を振る。法子は部屋のガラス窓に視線を移し、少し背伸びをして、
「きれいなステレオがある。ぴかぴかしてる」
「ナショナルテクニクスSC1400。音楽がないと、生きてる気がしない」
「ラジオじゃだめなの?」
「ラジオも長いあいだステレオで聴いてきた。でも澄んだ音楽が聴けない。小学校四年生のときから外国のポップスを欠かしたことがなかったんだけど、高校に入って忙しくなってしまって、二年以上も耳を留守にした。音楽の歓びを取り戻さなくちゃ。ノアでも『ヘイ・ポーラ』の話をしたことがあったね。お姉さんに幼いって言われたけど、ポップスを聴く耳も、クラッシックやジャズを聴く耳も先天的なもので、人間的な成熟とか、ブランクのあるなしとか、いっさい関係ないんだ。ただ敏感でなければ馬の耳だ。敏感なら、すぐ駄作と傑作を聴き分けられる。飯場のクマさんも、ここにいる山口も、そういう耳を持った人間だ。幸いなことに、ぼくもそういう耳を持ってる」


         三十九

 山口が、
「クマさんというのは、中古のステレオをおまえに買ってきたっていう飯場の運転手のことだな」
「うん、そのステレオがきっかけで、本格的に音楽漬けになったんだ」
「その人、神無月くんのことが好きだったのね」
「ぼくもクマさんが大好きだった。どうしてるかなあ……。みんな、遠くへいってしまう。ぼくのほうから積極的に訪ねていかないせいもあるけど、あのころの名古屋のだれもかれも思い出だけの人になってしまった。かろうじて、康男と、節子と、法子と、それからカズちゃんが残った。人間て、いつも顔を合わせてないといけないんだね。そうじゃないと好きだったことまで忘れてしまう」
 法子はうっとりと首をかしげていた。私は孤独な道の上から人びとの善意の広場へ取りこまれたことをしみじみ幸福に思っている。しかし、ときどき、たまらなく孤独な道に戻りたいと思うことがある。そのことは言わなかった。
「―何か聴かせようか」
「聴きたい……」
「ちょっと寄っていくか。俺も聴きたい」 
 大家の婆さんたちに、客を入れると断って部屋に入る。
「あの婆さんたちにいちいち来客を報告しなくちゃいけない。ステレオの音も小さくしてくれと言うし。少しうんざりしてる」
「短気起こすなよ。ねぐらを失う」
 山口はすぐ机に寄り、詩稿ノートを覗きこんだ。
「きみたちよ憶えていてくれ、酷寒の荒涼をわたしも見たのだ。……お、あの詩が完成してる。たしか、私も悲しみながら横たわった、ここまでだったな。……私も見たのだ、いつも私は、蒼い古代の人びとのその声を聞くのだが、私がきみたちに言いたいのも、これだけのことにすぎない、野も山も、川も海も、滅ぼうとして滅び去ったのではない、歴史のなかへさらわれていくことで、きみたちを捨てたのだった、けれどもきみたちよ憶えていてくれ、百世紀を明けそめてなお、きみたちの吐息だけが確かなもので、そして、一つしかないのだということを。―なんという透明度だ」
 山口は机に手を突いて、しばらく瞑目した。
「レコード選んでよ」
 山口は頭を振ると、レコードラックからタミー・ウィネットのアイ・ドン・ワナ・プレイ・ハウスのEP盤を抜き出した。
「相変わらず渋いところを集めてるな」
 不動産屋の警告を思い出して少しボリュームを絞った。いい音が流れ出す。
「おお! いい音だな」
「すてき。こんな音、聴いたことない」
「ぼくも最初びっくりした。機械ってどんどん進歩するんだね」
 低音の伸びと絃の響きがすばらしい。山口と法子がいるのを忘れて聴き入る。康男にもこうしてステレオを聴かせたことがあった。曲が終わり、すぐにステレオを切った。
「私、神無月くんにうんと贅沢させてあげる」
「必要なときはお願いするよ」
「新聞に載ってたが、おまえ、やっぱりすごい入学成績だったんだな」
「ああ、マグレの打ち止め。学費免除になった。一万二千円ぽっちだけど」
「千円でも払わないですむならそれに越したことはない」
「お母さんは、毎月お金送ってくるんでしょう?」
「学費どころか、生活費も送ってよこさない。ぼくが、いろいろな人から金をもらってるのを知ってるからね。毎月カズちゃんのお父さんが学費を送ってくれるし、飛島の人たちがくれた餞別の残りもある。カズちゃんもときどきくれる。いつもふところがあったかいんだ」
 山口が、
「北村のオヤジさん、俺にも毎月十万送って寄こす。親たちが驚いたんで、おまえ絡みの事情を話したら、タニマチを買って出られたということは見こまれたということだ、期待を裏切らずに、将来かならず出世して恩義に報いるようにしろって、それでザッツエンド。サッパリしたもんだよ」
「それでもバイトするのか」
「修業は欠かせないし、北村さんには来年からの義捐はお断りしたからな」
「あのお父さんはそんなことにはめげないと思うよ」
 法子は、私が義捐金暮らしをしているということよりも、母からまったく仕送りを受けていないという事実に驚いたようだった。法子はバッグを探って封筒を差し出した。
「はい、これ、合格のお祝い。母と姉と私から。おととい渡すのを忘れちゃったら、きのうもすっかり忘れちゃった」 
「分厚いな!」
「十万円ずつ、三十万円。受け取ってもらわないと困る。おかあさんたちからくれぐれもって言われてるから」
「しかし、神無月のおふくろさんはどういうつもりだ。有徳の神無月は金の成る木だとでも思ってるのか」
「受験料と入学金は出してもらった」
「そんなもの! ……彼女はいつ報いを受けるんだ」
「いい死に方をしないわよ。とにかく受け取って」
「また抽斗に放りこんでおこう。ありがとう」
 婆さんたちに挨拶をしてアパートを出、王将でホレタマ定食を食った。食事のあいだじゅう客たちが私のほうを見ながらざわついていた。
「おまえは絵になるから、どうしても写真が出ちまう。ノイローゼにならないように、せいぜい工夫しろよ」
 店を出て、山口と法子と三人で中央線に乗った。電車の窓の外の風景が、過去の世界を包む皮に見える。その皮をいちいち剥き、過去の世界を引っ張り出そうとする。この土地の景色に、引っ張り出せる過去がないことに気づく。皮の奥に記憶のネガに焼かれた世界がなければ引っ張り出しようがない。仕方なく新しい皮のほうを憶えこもうとする。しかし、思い出にする前に、確実に思い出になると予感しなければ記憶できない。
「ボーッと何を見てるの」
 法子が私の目を深く覗きこんできた。その目を見つめ返し、力のある美しい目だと思う。私の女たちの目は、大小に関わらず力と光があって、とても美しい。山口が私の代わりに答える。
「記憶しようとしてるんだ。悲しい本能だ。次で降りるよ。神無月、早大戦がんばれよ。日曜日のスタンドにいるからな。捜さなくていいぞ。じゃ、法子さん、今度みんなで横山さんの店にいこう。上京してから会ってないんだろう」
「はい、本を読むようになったって報告したいです」
 山口は西荻窪で降りた。吉祥寺まで一駅だけ法子と二人になる。
「きょう、練習の帰りに寄るよ。四時くらいかな」
「ほんと! 電話がないから連絡できないわね。北口のパチンコ屋の前で待ってる。四時になってもこなかったら、パチンコ屋に入ってるね」
「うん。入って捜す」
 私は吉祥寺で降り、法子はそのまま電車に乗って去った。
         †
 昼を回った東大グランドにチームメンバーほぼ全員集まって熱心に練習していた。監督以下スタッフがバックスタンドでじっと見つめている。フェンス沿いのジョギング、三種の神器、遠投、素振りを終え、芝生で寝転がって軽いストレッチをやっていると(きついストレッチは長期的なケガのもとだ)白川マネージャーがやってきて芝に腰を下ろし、六大学野球の講義を始めた。
「基本的なことを教えておいたほうが、みんなと話が通じやすいと思ってね。東大野球部は東京六大学野球連盟に所属してる。これを所属リーグと言う。六大学は言える?」
「明治、東大、早稲田、慶應、法政……」
「立教だ。リーグの歴史は大学野球でいちばん古くて、大正十四年、一九二五年だ。その年に東大は五勝七敗で四位。以来七十六シーズン、昭和八年に三位が一回、昭和二十一年に二位が一回あるきりで、あとはすべてBクラスだ。四位が九回、五位が十三回、六位が五十二回だ。ここ十年二十シーズンは、五位が二回、六位が十八回」
「すごいですね!」
「ある意味すごい。ここに優勝となったら、すごい、ものすごいを超えて、超常現象だ」
「Aクラスが二度もあったのなら、実績はあるわけです。大正以前は強いチームだったことを思い出すべきです」
「一高か。むかしむかしのお話だね。ところで、試合はぜんぶ神宮球場で行なわれる。春と秋のリーグ戦最終週は早慶戦一カードだけ行なわれる。神宮球場は学生でない一般人も学生席で応援観戦できる。二試合行なわれる場合、観客の入れ替えはない。二戦先勝で勝ち点一、勝ち点が同じ場合は勝率の高いほうが上の順位になる。同勝ち点、同勝率で一位の場合、早慶戦終了後にプレーオフ一試合が行なわれる。同じ条件で一位が三チームの場合、巴戦三試合が行われる」
「一誠寮の食事は寮生以外でも―」
「オーケーだ。たまに食いにいってみてくれ。みんな喜ぶぞ」
「野球部員はアルバイトができますか」
「それもオーケーだ。たいてい家庭教師か塾講師だけどね。基本的には六勤一休で、リーグ戦の期間を除いて日曜日は休みが取れる。金太郎さんには関係ないな」
「はい、特別待遇ですから。―甘えないように自分を戒めてます。野球用具に関してもぼくは特別待遇ですが、ほかの部員はどうなってるんですか」
「グローブ、スパイク、ユニフォーム、バットは各自購入。帽子、ヘルメットは大学が支給。部費月千二百円。一年生は免除。一誠寮食費有料。ちなみに生協食堂は夜の十時まで開いてる。ユニフォームは二万円から三万円もするので、けっこうな出費だ」
 私はふと好奇心が湧いて、
「新治投手というのはいつごろの人ですか」
「昭和三十六年から四年間エースで投げた。大男。八季連続最下位だったけど、四年間で八勝もした。四十敗以上してるけどね。四十年に大洋入りして、二年間で九勝六敗。立派なもんだ。ここ二年はほとんど登板がない。引退だと思う」
「井手という人は?」
「三十八年に東大に入って四十一年まで投げた。新治の控えで二年間やった。四勝二十一敗。金太郎さんの愛する中日ドラゴンズにドラフト三位で入団して、新人で一勝四敗。沈んだね。野手転向が囁かれてるけど、悪あがきだろう。東大の名を高めてくれるのは、金太郎さんだけだよ」
 さびしい気分になって、フリーバッティングを始めた。カメラマンたちがケージに集まってきた。
         † 
 公衆電話からフジのカズちゃんに連絡を入れた。
「法子のところに泊まってくる」
「わかった。帰ってくるのはあしたの練習のあとね」
「うん。あしたの夜のうちに阿佐ヶ谷に自転車で帰る」
「はい。あしたは何食べたい」
「トキワのビーフシチュー」
「オッケー」
 四時十分。武蔵境駅の北口を出て、武蔵境商店街を見通す。境銀座という三角の小旗が電柱から電柱へ掛け渡してある。左手の角地の五階建てのビルの隣にパチンコ屋があった。大きなガラス扉の前に法子が立っていた。
「お待たせ」
 法子は嬉々として腕を組んでくる。
「私も四時にきたばかり。お腹いっぱいだけど、みつい庵に入りましょ。偵察」
 角ビルの一階の蕎麦屋の小ぎれいな暖簾を眺める。商店街の何軒か向こうに蒲団屋が見えた。
「よさそうな店だ」
 戸を引いて入る。二時を回っているので立てこんでいない。小上がりにあぐらをかいて店内を見回す。掃除が行き届き、品出し口も清潔だ。奥で働いている職人の白衣も糊が利いてパリッとしている。もりそばを頼む。法子はたぬきそば。白巾を姉さんかぶりにした中年の女が愛想よく応対する。たぬきそばと天ぷらうどんを頼む。天ぷらうどんは私の追加だ。
「たぬきがいちばん好き」
「ぼくは立ち食いの天ぷらうどんがいちばんだな。東京で覚えた。こういう正式な店にきたら、もりを食うことにしてる。―あれ、おもしろいね。何だろ」
 壁に貼ってあるポスターを指差す。
「ああ、巨人の星。星飛雄馬」
 ユニフォームを着た少年がボールの代わりに割り箸を握って、ざるそばをすすっている漫画だ。手描きなので、店の者が描いたとわかる。うまい筆だ。
「感じのいい店だ。たしかにもう一人いないと、混んだときに注文が滞っちゃうね。時給は?」
「四百五十円」
「喫茶店の二倍だ。西高の同級生の父親が今池でパチンコ屋をやってるんだけど、そこは時給百三十円だって」
「それ、ひどすぎる」
 もりそばとたぬきそばが出てくる。うまい。二人たちまちたいらげる。
「武蔵境にきたら、かならず入ることにしよう」
「すぐ約束しようとする。そんな暇ないでしょ」
 商店街の一本道を歩きはじめる。店々から吐き出される活気が快い。蒲団屋で、かなり高価な一式を注文する。法子は住所を告げ、一時間後に届けてくれるように言う。
「きょうの昼間は退屈しただろう」
「箒木とバケツと雑巾買って、一日お部屋のお掃除してた。名古屋に電話したら、十一日にようやく荷造りが終わって送ったと言ってたから、届くのはきょうあすね。ここの商店街、何でも売ってるのよ。名古屋には、こういう、町に一つあるような賑やかな商店街って、あんまり見かけないわよね。神宮前にしても、それほど賑やかじゃないし。東京は商店街だらけね」


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