四十六 

「抜いたあ!」
 横平の打球が一、二塁間を抜いていき、中介がゆっくりホームインする。磐崎は二塁へ。一点先取。早稲田の内野全員が集まり、学級委員会が始まる。長い。〈関白〉石井藤吉郎監督がベンチからにこにこ眺めている。岡島副部長が、
「たった四年で早稲田をここまで強くした男だ。二十年前の六大学の首位打者だよ」
 仁部長が、
「豪放磊落の誉れ高い石井さんは、バントとスクイズを極端に嫌う。敬遠などもってのほかだ」
 小笠原の背スジが伸びた。勝負と決まったようだ。テルヨシは私のホームランを何本も見てきているので、失投でもしないかぎり低目には投げてこない。応援団の太鼓、怒鳴り声、突き、四股。きょうはバトンガールの姿が見えない。
 初球、内角、肩の高さへ渾身の外し球。掬い上げる臨界点だ。叩く。一瞬、アッ、とテルヨシが口を開けたのが見えた。ドッと上がる喚声。ラインドライブした打球が伸びていく。切れるかもしれない。全力で走り出す。ライトの谷沢が懸命に追う。走りながらポール際でジャンプ。届かない。ボールが観客席でいびつに弾んでフィールドに戻ってきた。谷沢が拾い上げようとしない。線審が右手を回した。喚声が極大になる。ネズミ花火のようにスタンドを走り回るフラッシュ。磐崎と水壁が手を叩きながらホームベースを目指している。私の走る姿をテルヨシが穏やかな顔で見ている。十号スリーラン。ゼロ対四。
         †
 小笠原は七回裏まで投げた。被安打十一、ホームラン三。二本は私で、一本は三番に座った横平のライト前段への二号だった。水壁は三塁打を一本打った。八回裏は大木が出てきて三者凡退に抑えた。
 村入が五回まで投げ、台坂、有宮とつないで、四対九で勝った。早稲田の挙げた四点は谷沢のスリーランと、荒川の適時打だった。九回表試合終了の瞬間、守備位置から振り向き、レフトスタンドの山口へ大きく両手を振った。彼も大きく振り返した。サイレンが鳴る。小笠原と整列のときだけ、握手をしたついでに口を利いた。両チーム最後のエール交換のあいだ、バックネットぎわに退いて話す。
「バッド、ピッチング」
「ナイス、バッティング。会いたかったじゃ」
 鼻の先を引っ張るむかしながらの癖のせいで、目が狐みたいに吊り上がる。
「その癖、やめろ。不気味だって言っただろう。しかし鈴木と同じで、有言実行の人間だな」
「睦子か。マネージャーやってんだべ」
「ああ。これもぼくたちの運命だ。おまえは一流ピッチャーになるよ。ぼくを二本も凡打に打ち取ったんだからな。きょうは不運だったと思ってあきらめろ」
 記者やカメラに揉まれて、早稲田ベンチへテルヨシといっしょに歩く。谷沢や荒川の背中がさびしげにベンチにもぐりこむ。
「レフトのホームランは振り遅れだったべ」
「わざと振り遅れたんだ。レフトスタンドに山口がいたからな」
 なつかしそうにレフトスタンドを見つめ、
「プロさいぐ気が?」
「あたりまえだ。そのために野球をしてきたんだ。東大が優勝したらすぐいく。優勝しなければ、二年で見かぎる」
「ワも中退してプロさいぐじゃ」
「中日ドラゴンズだ」
「わがってら」
 テルヨシがベンチ仲間を追うように去ると、私は報道陣といっしょに味方ベンチ前に駆け戻った。
 一塁側スタンド前から立ち去ろうとする私たちの背中への祝福の応援歌は、ああ玉杯に花受けてだった。学者らしい年配の顔がいくつも感無量で唄っていた。大学野球では試合終了後のホームベース前整列はあるが、ベンチ前に並んで校歌を聞くことはない。しかし東大は勝利することがめずらしいので、勝てばかならずベンチ前にたむろして応援団と観客の校歌合唱を聞く。
「よーし、後始末して引揚げだ」
 鈴下監督は、うれしいです、うれしいです、と言いながら記者団のインタビューをすべて遮って、みんなをバスへ急がせた。フラッシュが焚かれつづける。克己たちの声がする。
「われわれを早く感激に浸らせてくださいよ。勝ち点二ですよ」
 報道陣に対する鈴下監督のきつい声が上がる。
「いいかげんにそのへんで。もう少し勝ち進んだら、じっくりインタビューを受けます」
 私たちはバットケースとダッフルを持ち、ユニフォーム姿のままバスに乗りこんだ。黒屋と上野が甕を抱え、睦子がお絞りの袋を二つ提げている。黒屋が、
「氷水すっかりなくなっちゃった」
「お絞りもぜんぶ使い切りました。それぞれの甕に把手つきのアルミコップと、もう一つの甕には柄杓だけでいいですね」
「そうね。頭に水をかけるんだから」
 バスの窓の下までしつこくマイクが追いかけてきた。
「最終戦は法政戦になりますが、勝算は」
 臼山が、
「ありませーん、ウース」
「実質決勝戦になると思われますが」
 克己が首を振り、
「無理でしょう、途中で失速の可能性大です」
 長打力に自信をつけた横平が、
「柳の下にドジョウ五匹、いるかも」
 まんざらでもなさそうな顔で言う。
「神無月さん、神無月さん、いかがですか」
「その前に慶応戦と立教戦に勝たないと。最終戦は一勝できれば、勢いで二勝できるかもしれません。話に聞くかぎり、法政三羽烏は無敵です。全力を尽くします」
 バスが出た。きょうは試合後だれも泣かなかった。信じられないと口に出す者もいなかった。一勝一勝が東大の記録になっていく。四勝一敗、勝ち点二。四勝零敗の法政に次ぐ二位。副部長の岡島が言った。
「夕方のニュースは東大四勝の話題ばかりになりますよ。よく記憶に焼きつけておきなさい。最長二年間の天下だからね」
 克己が、
「いや、金太郎さんの指導を財産にすれば、プラス三年ぐらいいけるでしょう」
 最上級生の臼山が、
「そういうもんじゃないだろう。目の前に司令塔がいるのといないのじゃ大ちがいだ。二年間というので手を拍とうぜ」
 同じく四年生の横平が、
「優勝はこの一年間のうちに達成したいな。それだけを思い出に、一生生きられる」
 大桐が、
「今年というのは虫がいいんじゃないか。優勝は後進にまかせよう。いずれにせよ、金太郎さんがプロにいったら、後援会を作ろうな」
「賛成!」
 水壁が、
「その前に、金太郎さんの成績をなんとかしなくちゃいかんだろう。どうも金太郎さん、単位を取る気がないみたいだからな。三年に進級する気持ちが出てきたときは、いまのままだとアウトだぜ」
 臼山が、
「進級なんかする必要がないよ。二年終了で中退だ」
「成績不良がバレたら、オソロシイ身内の手で野球の差し押さえを食っちゃうだろう」
 睦子が、
「大学側から成績の送付はないはずです。そうですよね、監督」
「ない。したがって、野球の差し押さえの心配はない。ただ、扶養者が確認を取ろうとして大学側に連絡してきた場合は別だ」
 みんな押し黙った。四年生全員が口々に、
「金太郎さんの不得意な科目をみんなで手伝ってやろうや」
「けっこうです。英語以外はぜんぶ不得意ですし、何もしなくても二年間いられますから」
 中介が、
「だからさ、そのあいだに親族が成績を訊いてきたらたいへんだろう。くそう、二番合格の力でやれば難がないだろうになあ。金太郎さんは野球一筋だもの。まあいいや、四年の卒業内定組は単位を揃えるので忙しくなるけど、三年生以下は、このご時勢、レポート提出が多くなるだろうから手伝えるはずだ。金太郎さん、教場試験だけは自力でがんばってくれよ」
 私はとつぜん目が潤んできて、
「ありがとうございます。がんばります。野球をやりたい一心で受験勉強をしたときの気力でやります。ただ、学問は受験勉強とちがって、独特の約束言語を使わなくちゃいけないんで、自分の能力圏外だとハッキリわかってるんです。とにかく二年間のあいだだけでも、履修し直しのような面倒くさいことは避けようと思います」
 大桐が、
「泣くなよ、金太郎さん、こっちも泣きたくなるだろう」
 睦子が、
「私、なんとかします」
 上野が、
「私たちが手分けしてがんばります。先輩がたが卒業したあともまかせてください」
 部室でみんなが私服に着替えているとき、監督が言った。
「〈せんごく〉で食事会だ。ビール飲んでいいぞ。ステーキの嫌いなやつはいないな」
「いませーん!」
 中介が、
「四年間で初めてだな、食事会」
 克己が、
「理由そのものがなかっただろ」
 ベンチ入りメンバー二十一名、監督、助監督、部長、副部長、コーチ二名、マネージャー以下全スタッフ、総勢三十一名の食事会になった。一人ビール一本つきの肉三昧コース、三十日間熟成ステーキと大盛りライス、ビーフシチュー、チョリソーソーセージ、皮つきフライドポテト、小松菜とベーコンのペペロンチーノ、オニオンリングフライとコーンバター、サラダ大盛り。女子マネージャー三人がビールつぎに回る。鈴下監督が、
「これから勝ちつづけると、周りにいじられて、浮かれている暇がなくなる。いまのうちに浮かれておこう」
 西樹助監督が、
「勝ちつづけていじられることを期待してね」
 克己キャプテンが、
「金太郎さん、俺たちなんでこんなに打てるようになったのかな」
「打つことが楽しくなったからです。野球のボールは、うまくミートすれば、自分が思った以上に飛んでいく。基本は素振りです。ただ振るだけじゃなく、このあいだ言ったように、内、中、外のコースを想定しながら、そのコースに合わせた理想のスイングを思い切ってする。それを百回、千回、一万回と繰り返す。その結果がヒットとホームランです。みなさんはこのところ、よく素振りをしていました。当然の結果です」
 横平が、
「とにかくボール目がけて振り出したら、しまったと思ってもバットを中途半端に止めない。それだけは心がけるようになった」
 水壁が、
「金太郎さんがよく、芯を食うって言うけど、真芯のことじゃないんだよな。ボールのほんの少し下あたり、そこに当たると勝手に飛んでいく」
 私は、
「特に硬式ボールはそうですね。推進力がつくと、重たい分、風の抵抗を受けにくい」
 鈴下監督が、
「もっとアドバイスしてくれないか」
「攻・守・走、すべて重要ですが、カナメは攻です。バッティング。特に連打。巨人が日本中に広めたダウンスイングはだめです。ボールの上を叩いてしまうので、ゴロになる率が圧倒的に高い。芯を食わせるゴルフスイングか、レベルスイング」
「どんなに打っても負けることはあるね」
「ありません。負けるときはピッチャーにやられます。打てないんです。一人二人打っても追いつきません。そういうときは潔くあきらめることです。―バッティングはスイングスピードに尽きます。悪い言葉で、ぶん回し。めくら振りのヘッドアップはだめです。ちなみに、ピッチャーは球速がなくても、コースどりで打ち取れます。それでも速いに越したことはない。遠投で少しでも強い肩を作ることが肝心です。ホームベース付近でボールに微妙な威力が出てきます。守備はワンアウトを取るのが基本で、ダプルプレーを欲張らないことですね。欲張るとミスが出ます。自然な連繋をすればダブルプレーは取れます。盗塁は、リードしているときは進んでやるべきですが、負けているときは、失敗すると士気に響きますので、なるべくやらないのがいいでしょう」


         四十七

 白川が、
「Aクラスになったら、第二生協で写真展をやる。壁にズラッと貼る」
 水壁が、
「女子マネージャー連のおかげで、白川はやることなくなったもんな」
「いやいや、スコアブックの管理、応援団やバトンにもきちんと目配りしてるぜ。ブラバンまでは目が届かないけどな」
 臼山が、
「氷水とオシボリは助かってるよ。あれだけでベンチの暗さが吹き飛んだ」
 中介が、
「ここ数年、ベンチ暗かったよなあ。黒屋なんか、いるだけだったから」
 黒屋が、
「話しかけられない雰囲気があって……。神無月さんがきてから、みなさん人間が変わったんじゃないんですか」
 有宮が、
「そりゃそうだよ、金太郎さんは降臨した神さまだぜ。人間じゃないなら、拝むのがあたりまえだ。俺たちは弟子になって拝みながら、人間改造していかなくちゃ」
 仁部長が、
「私たちの改造なんか、神無月くんの改造人生に比べたら、たやすいものだよ。とことん改造したまえ」
「オース!」
 睦子の目が潤んでいた。全員料理を食いつくし、ジェラートアイスのデザート。一人三千円也。横平が、
「監督、こんな金、どっから出るんですか」
 ニヤリとして、
「部費から出てる。心配するな」
 磐崎が、
「東大生一人当たり、国から一千万は供与されてると聞きましたよ。ほんとうですか、部長」
「肯定も否定もしない。おまけに部費もある」
 座が笑いどよめいた。台坂が、
「東大の財務状況の詳細は知りませんが、総収入の六十八パーセントは国からの交付金ですよね。私立大は十パーセントだ」
 私は、
「三十二パーセントは?」
「自己収入。たとえば、寄付金、授業料、産学連携研究収入の三つ。部活動費は国庫給付金から賄われるから、その六十八パーセントの一部だ。学生一人当たりに純粋に給付される金というのはないので、環境設備費などで学生や職員が豊かに暮らせるという意味だろう。部費の運営も、学内上層部に諮らなくちゃいけないので、ここの飲み食い費用は、監督たちが上に掛け合って相当苦労して捻出したものだよ」
 また明るい笑いが上がる。
「ごっそさんでーす!」
「せいぜい捻出お願いしまーす!」
 帰りぎわ、店の外の道のほとりに立って監督や克己たちと別れを告げ合っていると、睦子が寄ってきて、
「あしたはゆっくり休んでください」
 と、さりげなく言った。仲間たちにはあたりまえの言葉に聞こえたかもしれないが、私はすぐに、火曜日に彼女のアパートを訪ねる約束をしていたことを思い出した。
「うん、ゴロゴロする。また別の機会にね」
 私もさりげなく応えた。先日のように睦子と詩織と三人で本郷三丁目の駅まで歩く。二人同じように親しく口を利く。八方美人を振舞っているつもりがなくてもそうなる。そのくせどちらにも笑顔を向けない。そして先日と同じように、別々のホームから反対方向の地下鉄に乗りこんだ。睦子は南阿佐ヶ谷で降り、私は吉祥寺まで乗っていった。睦子とは話題を作って話す必要がない。ボーっとしていると、臨機、耳に心地よい話題を持ちかけてくる。きょうは大学野球全盛時代の話だった。
「今年は神無月さんでフィーバーしてますが、去年までの六大学野球はパッとせず、観客動員に苦しんでました。人気が長期的に低迷してしまってたんです。原因はテレビの登場です。放送です。プロ野球や高校野球はNHKや民放各社で放送されるのに、東京六大学野球は全試合のうちテレビ放送対象試合は十パーセント未満です。昭和初期の六大学野球は、ものすごい数の入場客が徹夜で並ぶので、大勢の警官が出動するほどでした。国民的スポーツだったんです」
「どうしてそんなに人気があったんだろう」
「明治後期から昭和初期の早慶は、外国遠征などで野球の最新技術をいち早く採り入れて、日本を代表するレベルの高さを誇っていたこと。高校球児はことごとく六大学へ進学したため、スター選手を独占したこと。それより三十年も遅れてプロ野球が始まり、技術的にもハイレベルだったんですけど、やっぱり高校球児は六大学に進学しました。プロ野球選手は卑しい見世物芸人と見られていたし、スポーツでお金を稼ぐことが軽蔑されていたからです。もう一つ、学生ファンの愛校心です。俺たちの大学という強い意識です。神無月さんがドラゴンズに抱いてるような気持ちを学生全体が抱いてたんです」
「競技レベル、スター選手の独占、強烈な愛校心か。いまのプロ野球界に欠けてるものは見当たらないね。メディアはなぜ六大学を放送しなくなったのかな」
「長嶋茂雄がプロ野球へいってしまったからです。……だからいまの六大学人気も一瞬の花火です」
         †
 高円寺に帰り着くと九時を回っていた。カズちゃんと素子は私の服を脱がせ、風呂に入れ、ご苦労さまと繰り返しながら、二人で全身を隅々まで洗った。
 コーヒーを飲みながら、居間でテレビを観た。NHKのニュースの焦点という十五分番組で、私のことが写真とともに採り上げられていた。
『東京大学に入学するやいなや、爆発的にホームランを打ちまくり、大学野球の人気を復活させた怪物神無月郷。しかし、彼がプロ入りすると同時に、世間の大学野球への関心はふたたび一気に薄れてしまうのではないか、かつて長嶋茂雄が巻き起こした現象がふたたび起こるのではないかと危ぶまれている。……なぜ神無月選手はここまで一世を風靡することになったのか。そこにはメディアの力が大きく影響している』
「なんやこれ、キョウちゃんの活躍や将来より、大学野球が大事なん?」
 睦子がしゃべりかけたタイムリーな話題だった。
「そう、プロ野球より大学野球の時代が長かったから、とても大事に思ってるのよ」
『この十年、大学野球が人気低迷をつづけてきた最大の原因は、メディア露出の少なさにあった。春夏の高校野球やプロ野球は、連日主要放送局による全国ネットのラジオ・テレビ中継があり、シーズン中のスポーツニュースにおいて試合結果や選手のインタビューを目にしない日はない。しかし、大学野球の主要局によるテレビ中継は、基本的には早慶戦のみ。大学野球がニュースの話題となるのは、スター選手の華々しい記録の更新時のみで、ほかにはドラフト候補の選手がたまに特集される程度だ。雑誌や新聞に関しても、プロ野球や高校野球と比較すると、大学野球の露出度は低い。それこそが大学野球を人気低迷へと追いこむ決定打となってきた』
「さ、このあたりからいつも難しいことを言い出すわよ」
『関心の対象として知らないものごとは批判できない。大学野球の存在やおもしろさを知らなければ、大学野球を好きになることも嫌いになることも不可能だ。つまり野球大国日本において大学野球の人気が伸び悩んできたのは、日本じゅうの人びとが大学野球を知らなかったからではないか。それゆえ大学野球のおもしろさ、魅力、大学球児たちの姿が伝わってこなかったからではないか。私たちは世の中のほとんどの事象を知らないままに生きている。みずから見た・聞いた情報が自分の知り得るすべての情報であるからには、それ以上の情報を得るためにはメディアの力を借りるしかない』
 ちがう。長嶋茂雄がいなければ、いくらメディアが採り上げても大学野球はおもしろくない。
「なかなかキョウちゃんのことを言い出さんね」
「そろそろ言うわよ」
『ただこれまで、魅力だけあって実力が伴わないのに、話題づくりのために取り沙汰され、ヒーローに仕立て上げられて頼りない末路をたどった選手も一人二人ではない』
 長嶋以降の話だな。
『そういったことはメディアの弊害と言っていいだろうが、神無月郷の場合、実力万全の選手であるのに、なぜか社会問題を巻き起こすほどの人気を集めているというわけでもない。東大入学に至るまでの彼の異様な人生経験が喧伝されたことと、その奇妙な無名志向も手伝って、マスコミ受けや一般受けがよくないということもある。周囲の人びとの手で仕立て上げられる以前に、彼らに仕立て上げる気をなくさせているのだ』
 相変わらず大学野球は人気がないと言っているのか?
『しかし、神無月郷の登場は大学野球の人気回復の千載一遇のチャンスである。彼に対するメディア露出が増えれば、彼の人気度・知名度はともに上昇するはずである』
 だから、もともと人気のない選手をいくら露出してもだめだって。
『問題となるのは、大学野球そのものが営利を目的としない教育的な色彩の強い機構である以上、ヒーローを作り上げること自体の是非が問われるということだ。選手個人に過分な注目を集め重圧をかけることは、大学野球の本分から逸れてしまう危険があるということだ。たしかに大学野球選手の知名度や人気を上げていくには、スター選手のメディア露出を増やす必要があるが、それによってプロ野球のように営利目的になってしまうのではないかという危惧と、大学野球は教育の一環であるという理念。大学野球の人気復活を本気で考えるとき、このバランスをどのようにとるかという議論は避けて通れない道となるだろう』
 何だこりゃ。大学野球が営利目的になるはずがないだろう。テレビカメラの前で知的な風貌をてらいながら、スター選手のプロへの移行という簡単明瞭な理屈を睦子のようにしっかりと行き届いて説明できていなかった。結局、大学野球はスポーツ界の営利目的の趨勢に負けて、今後人気が出ることは永遠にないだろうということだ。プロ野球以上のスター選手を連続で輩出できないからだ。素子が、
「大学野球の人気が出てほしいん? ほしくないん?」
「キョウちゃんの出現が千載一遇のチャンスと言ってるんだから、表向きは人気が出てほしいんでしょう。引っこみ思案なキョウちゃんをもっと露出しろということね。長嶋のときほどの大フィーバーじゃないのが残念みたいね。なんだかホッとした」
 せんべいを齧りながら七人の刑事を観る。警視庁の空撮と、男のハミングによるオープニングテーマがいい。西松の食堂でも何度か観た。バス通り裏の佐藤英夫が出ている。英夫兄さんと同姓同名だ。彼が東大出だと母が言ったことがある。遠い日の記憶だ。
「サスペンスの質が低くて、眠くなっちゃった。寝るわ。二人、夜更かししないでね」
「あたしも寝る」
「ぼくは帰るかな」
「素ちゃんとゆっくり寝なさい。あしたはゴロゴロしてる予定だったでしょう」
「うん。この二週間、ちょっと疲れたな」
 離れの床に就き、素子と全裸で抱き合うだけで満足して熟睡した。
         †      
 四月二十三日火曜日。朝から強い雨。朝食はアジの開き、片目焼き、板海苔、タクアンと、わかめと豆腐の味噌汁だった。ごちそう。
「一敗して、なんだか雲行きがおかしくなってきたでしょう?」
「そうだね。三敗したら、雲行きどころか、雨、嵐だね」
「ユニフォームは金曜日までにはできてるから、いつでも取りにきてね。アンダーシャツも洗濯しといたわ」
 傘を差し二人といっしょに出る。阿佐ヶ谷の下宿に帰り、十一時少し前、ブレザーに革靴で阿佐ヶ谷駅へ。吉祥寺に出、井之頭線で駒場東大前に向かう。なぜか駒場を見ておきたいと思った。銀色の電車。ドア上部の路線図を見る。十四個目。車輪の響きが軽い。軽量の電車なのだろう。
 西口を出て、正門前に十二時五分前。あろうことか、門柱の前に山口と睦子が傘を差して立っていた。
「どうしたの!」
「鈴木から電話があってな、ぜったい神無月が雨の中をやってくるって言うんだよ。三時までにはくるってな」
「神無月さんが青高を去った年の春、いえ、前の年の秋だったかもしれない、小雨の日でした。校舎裏をいろいろなものに目を留めながら散歩してる神無月さんの姿を偶然見たんです。あとで思い返して、去っていくときにはかならずああやって、自分を包んできたものを記憶しようとする人なんだなと思いました。きょうは雨だったので、ふとそのことに思い当たったんです。雨なんかいつだって降るから別にきょうにかぎらないと思ったけど、試合のない週日はかならず練習に出てくるし、雨でも降らないかぎり休まないので、きょうだと思いました」
「週日の雨の日なんていくらでもあるよ」
「ええ、でも、神無月さんは、そういうことを去る直前じゃなくて、ずっと前にするんです。きょうじゃなかったら、山口さんとお昼でも食べて帰って、来週から雨の日に一人でこようと思ってました」
 東京大学教養学部と書かれた門柱が濡れている。ヒマラヤ杉の巨木の向こうに小柄な時計塔が見える。門のすぐ内部にはシラカシの木も数本、同じような威容で佇(た)っている。
「半信半疑だったが、きてみた。驚いたぜ」
「どうして山口を?」
「神無月さんをいちばん愛してる男の人ですから、神無月さんのぜんぶを知ってもらいたくて」
 山口がやさしい苦笑いをする。衛舎の小さな門が別にあって、学生や教師たちが出入りするときの通用口にあてられている。時計塔を載せた教養学部一号館の粗末な教室に三人で入る。
「一号館は旧制一高本館。昭和八年に建てられた。本郷と同じ内田ゴシック。この教室は履修届の確認をした教室だ。机につき、単位の帳尻合わせを係員に教えてもらって数えながら、すでに登録用紙に鉛筆で書きこんだものと、緑色の小冊子の中に記してある科目名とを照らし合わせて確認していく。俺のはすでに提出してあったから、おまえの科目登録用紙の確認だ。軟式野球、西洋近代文学史、万葉集論講、庭園学、世界史概論、スポーツ身体運動科学、教育学、美学、科学思想史。英語と第二外国語のフランス語は、すでに受験時の願書で自動登録されているが、もう一つ外国語を選べるようになっている。おまえが一度受講して切り捨てた科目のロシア語だ。小机を並べている男たちに履修届を提出した」
「すまなかった」
「おもしろかった。好奇心の幅を見た」


         四十八

 教室を出てヒマラヤ杉を眺める。曲がりくねった大枝。暗くて幹の上のほうまでは見えない。不気味な生きものだ。 
 あらためて一号館を見る。煉瓦の風化具合が、権威の風化を感じさせる。世界史概論の授業をオミットした101号館にいく。
「一高の特設高等科として建設された。留学生用だ」
 正門左手を見る。
「900番教室。一高の講堂だった。内田ゴシック。定期的にパイプオルガンの演奏が行なわれてる」
 オンボロ掲示板を過ぎて正門の右手へ戻る。900番教室と対をなすように外観がきわめて似ている。
「駒場博物館。一高の図書館だった。いまは一階が美術博物館、二階が自然科学博物館になってる」
 雨に濡れた深緑のイチョウ並木を歩く。下草の中にキバナコスモスが咲いている。クラブ活動を誘致するタテカンがそこらじゅうにある。
 先日の〈桜の下〉の連中にはまったく遇わない。ときどき、学生に混じって学者風の中年男たちが通る。はしばみ色のシャツの襟を覗かせた厚手の白いセーターを着て、ジーパンを穿き、ヒゲなど生やした男たちだ。染髪のせいで信じられないほど頭髪が黒々としている。額の皺が髪の黒さに調和していない。五十の坂を越していながら、なお三十くらいに見せようとする意地汚さのせいだ。
「ぼくは何学部中退ということになるんだろう。文Ⅲて学部じゃないよね」
「ああ。東大は科類関係なく、入学者全員が駒場の教養学部に二年間所属することになる。それから進学振り分けでいろいろな学部に属していく。つまりその二年間のうちに中退すれば、教養学部中退ということになるな」
 大小さまざまな研究棟、生協食堂、購買部、学生会館、体育館、寮の入口、図書館、グランドなどを見て回る。たぶんまっとうな学生の生活には欠かせない設備なのだろう。
「もういいな。じゅうぶんだ」
 正門を出る。
「いまからグリーンハウスで楽器のパートの打ち合わせだ。弾き語りと言っても、ドラムとベースとピアノのバックがつく。わがままに弾けないんだ」
「勉強になる?」
「大して。俺は独奏が本分のギタリストだからな」
「春季リーグが終わったら聴きにいく」
「私も」
 正門前で山口と別れる。彼は駒場東大前駅の階段へ、私と睦子は駒寮正面の生協書籍部へ。
「何かほしい本が?」
「新刊書に飽きたから、毛色のちがったところを読んでおこうと思って」
「……神無月さんて、活動を止めない人なんですね」
「興味のあることは鼠みたいにチョコマカ動くよ。丑年なんだけどね」
 大学の指定教科書を(語学を除いて)四冊買った。自分の履修科目は考えなかった。
「神無月さん……」
「ん?」
「……私、メンスになっちゃって」
「そんな申しわけなさそうな顔をすることないよ。すがすがしい気持ちでデートしよう。リーグ戦の中休みにだってゆっくり逢えるんだし」
「はい」
「映画を観て、何か食べて帰ろう」
「はい」
「これ、この先、二人のデートにかかる費用。ぼくは金を払う現場になるべくいたくないから、いつも睦子が払って」
「……はい」
 五万円を渡す。新宿に出て、テアトル新宿に入る。百五十円。ダーク・ボガードの『召使』という映画をやっていた。召使の主人乗っ取り。ホモセクシュアル絡み。陰湿で感情移入できない。途中から前衛と化したので、まったく観ていなかった。ただ、歌がよかった。イギリスの女性ジャズボーカリスト、クレオ・レーンのオール・ゴーン。映画館を出てLPを買う。
「気持ちの悪い映画でしたね」
「そのひとことで終わり。専門家が喜びそうだ」
 東口の雑踏を避け、西口に出る。小田急百貨店の一階に、格子戸の天兼(てんかね)という天ぷら屋があったので入る。カウンターに坐り、二千二百円のコースにする。睦子がオシボリで手を拭いながら、
「神無月さんはよく、救済者と言われますけど、どう思いますか」
 私は茶をすすり、
「人を救うのは鈍重な自然児じゃなくて、繊細な精力家だと思う。自分ほどの精力をみなぎらせて生に執着し、乾坤一擲の決意をもってしたら、人間何でもできるという覇気を示せる人間だ。ぼくの生き方はそういうストレートなものじゃない。世の中の事情にまったく興味が湧かないこと、それをやってみようという気持ちさえ起こらないこと、本能的にそれを回避してしまおうとすること、そういう生来の倦怠に冒されている。ぼくは関心のないことには決して手を出さない。精力的にというより、むしろ狂おしく取り組んだのは野球とセックスのみだ。その余のことは、好奇心もなく、ただ挑戦しただけ。おまけに不幸に馴れているので、世間の喜びには容易に親しめない。そんな人間は、人びとの模範とはなれない。人を救うなんてことはとうていできない」
「やっぱりそう思ってたんですね。でも実際、みんなを救ってるんです。だれの模範にもなれない神無月さんしかできない方法で。……静かな包容力。人をそのまま吸収する寛容さです」
 刺身のつきだし。赤身と中トロ。天ぷらが始まる。巻海老が三匹。
 山田三樹夫の話をする。ただ淡々と話す。耳鳴りが始まり、とつぜん山田三樹夫の笑顔が浮かんだ。アオヤギとキビナゴ。
「机の人は、どんなに頭がよくても、経験の人に根本的な感銘を与えられません。山田さんに感激したのも、神無月さんの吸収力です。山田さんは救われました。幸福に死んでいけたと思います」 
「人生を悔いることなく生き抜いた男の心を経験した。いい思い出だ」
 キス、穴子、アスパラ、アシタバ、タマネギ。
「春季リーグが終わったあと、五月のクラス旅行いきますか」
「そんなものがあるの。こうなったら何でも経験しておかなくちゃね」
「こうなったらって?」
「きょう、こうやって、駒場に別れを告げにくるくらいの未練があるならってこと。……睦子」
「はい」
「ありがとう」
「こちらこそ。きてくれてありがとうございます」
 潤んだ目を指で拭った。大きな掻き揚げで天ぷらは打ち止め。
「バスでいくんです。今年は富士五湖だそうです」
「バス旅行は好きだな。ぜひいこう」
 一膳めし、赤だし、お新香。ほどよい満腹。
「さ、出ようか。あ、デザートはいりません」
 強い雨が振っている。駅構内に入り、丸ノ内線の改札へ。車内は湿った人いきれ。
「ぼくがドラゴンズに入ったら、名古屋にくるつもり?」
「つもりも予定もなく、そうします」
 やさしい笑顔の中に、無理のない心意気を読み取ることができた。
「いま、東大はどうなってるの」
 睦子は即座に答える。
「一月に医学部学生大会が無期限ストライキを決議しました。詳しい理由は知りません。二月に学生と医局員の小競り合いで、十何人か処分されました。このまま紛争がエスカレートしていくと思います」
 無理のない知識、無理のない好奇心。思わず肩を抱き寄せる。素直に凭れてくる。人目をかまわなくても、だれも見ていない。都会だ。
 南阿佐ヶ谷の駅前で握手して別れた。
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 買ってきた教科書にあらあら目を通した。私は芸術書ばかりを読んできた思春期以来の習慣から、書割よりも登場人物のモノローグと脇科白に心が傾くタチだったので、紙の上を主役面して飛び回る学術的な思想にいささか辟易した。その思想が理屈や形式をこき混ぜて騒ぎまくるのが苦々しかった。それが紡ぎ出す理屈は順序だてて説明されることはなく、ひたすら羅列を重んじて、目くるめく混乱し、遠く逃げ去って、ふたたび戻ってこないように思われた。肝心カナメの箇所を長広舌でぼかすので、結局、何のことやら話がまるで通じない。もっと悪いことに、〈わかってあげる〉気がとても起こらない。
 とにかくページを手早くめくる。猛烈な雑読でも、語の連結に焦点を要領よく当てながら読めば、書いてある内容はわかる。哲学、歴史学、宗教学、美学、すべてが醜悪な、思いがけない用語と言い回しで語られていた。頭もなければ尾もない。空語。とつぜん妙なところで途切れたり、たがいにひょいひょい飛び移っていったりするような、突拍子もない言葉で織られた思想にすぎなかった。私は不快なカオスに蹂躙された。そしてそれらの内容を、学識のない幼い視点でしか見ることができなかったので、恐怖が頭の中に住みついた。恐怖とともに、いっさいの学術本が、私にとってつまらない存在になった。私は結局、これまで読みこんできた古典的な詩や小説へ戻ろうと決意した。
 机から廊下に、廊下から玄関の外に出た。雨の降る庭の水道で口をすすぎ、顔を洗う。
 玄関土間に戻り、入口の壁の、どこやらの商店寄贈の銘の入っている鏡を見た。いつも見るのを避けているのに、ボンヤリと疲労した油断から顔を近づけた。下まぶたのふくらんだやさしい眼。異様にギラついているけれども、何の独創もにおわせない、好色そうで虚ろな眼。母に、岡本所長に、浅野に、保土ヶ谷の父に排斥された眼。まじめな笑顔をしてみる。下まぶたの白い吹出物が、細かい笑い皺に浮き出ている。なぜこんな顔を人は美しいと言うのだろう。こんなつまらない顔を造りあげている脳味噌や内臓が、創造の泉であるはずがない。
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 四月二十四日木曜日。曇のち晴。本郷の練習から帰ると机に向かった。これまで阿佐ヶ谷の二、三軒の古書店で漁った古本の処理にかかった。足もとに積んである本は、
 ・山びこ学校
 ・泣き虫記者
 ・女性に関する十二章
 ・第二の性
 ・光ほのかに―アンネの日記
 ・はだか随筆
 ・太陽の季節
 ・裁判官。
 泣き虫記者から始める。社会事象の羅列。人情物に見えて、権力者側の視点がつまらない。女性に関する十二章。男は種まき器である、女よ、その罪の意識を理解せよ、と伊藤整は訴える。無理。
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 四月二十六日金曜日。晴のち曇。七時起床。狭い便所で排便。肛門を何度も押すように拭く。十五・二度。青梅街道に出て天沼陸橋までランニング。広い道のランニングコースはこの一箇所しかない。返す足でポエムへいき、モーニングサービス。コーヒー二杯。
 五、六人のファンにまとわりつかれサインをする。下宿に戻り、銭湯へいくのが億劫だったので、全裸になって庭の水道で水浴びをする。
「人目があるのでやめてください」
 と眼鏡婆さんに言われる。生垣と塀がびっしり囲んでいるので、人目はない。人目とは常に自分の目のことだ。ままならない下宿に棲んでしまった。
 昼、本郷へ出る。本郷通りの蕎麦屋でラーメン定食。練習から戻り、古本読書つづき。第二の性。途中で放棄。読了しなくてもつまらないと感じた本はすべて段ボール箱に詰めて、ゴミに出す。手もとに置きたい本は書棚に立てる。大きな書棚は要らない。
 夜七時過ぎ、バットを手に、方向を定めず細道をジョギング一時間。その途中の適当な空地に入って暗闇の中で素振り百八十本。帰りに目についた銭湯に入る。番台にバットを預かってもらう。近づいてくるファンはいない。風呂を出て、飛びこみの食堂で焼きサバ定食。
 眼に疲労を感じるまで古本読書。正木ひろし『裁判官』。すばらしい内容だ。手もとに置くべき本。目ヤニでまぶたが粘ついてきたので、圓生の『大山詣り』を聴きながら寝る。


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