七十

 紹介されたのは棟割四室のいちばん奥の六畳部屋だった。長方形の六畳の左片側がすべて押入で、入口のドアから一帖切った板間の半分が、レンジを一つ置いた流しになっている。入口の正面の庭側の窓は磨りガラスで大きかった。右壁側にステレオを置き、窓の前に机を置こうと思った。光が淡いので、長時間の読書にいい。
「徹マンしてもいいし、ドンチャン騒ぎでないなら、酒盛りしてもいいわよ。柱が太くて壁が厚いんです。猫を飼ってもいいけど、犬はだめ。吠えるから」
 カズちゃんは、
「おいくらですか」
「一万五千円。敷一、礼一。学生さんには少し高いかな」
 私は、
「気に入りました。ここにします。奥部屋で日当たりが柔らかい」
「庭の生垣の外が空き地になってて、ときどき子供が遊ぶから、窓を開けるとうるさいですよ」
「気にしません」
「呼び出し電話はありません」
「電話は持ってます」
「じゃ、お店に戻って手続しましょか。出前のコーヒー、おごってあげますよ」
 廊下に出ると、玄関の脇部屋から小柄な女が出てきて、不動産屋の女に寄り添った。私にお辞儀をして、管理人の××です、と言う。私は辞儀を返し、
「お世話になります。よろしくお願いします」
 と頭を下げた。
 アーケードの途中で三文判を買い、不動産屋に戻って書類を書いた。保証人はカズちゃんになった。苗字のちがう判を捺すとき、
「お姉さんは結婚してるんですね?」
 と尋かれて、カズちゃんは、はい、とためらわず答えた。手付けの一万円も彼女が払った。出前のコーヒーが届いた。
「それじゃ、今月の下旬から入居ということでいいですね。今月の日割り計算分はこの手付けからじゅうぶん出ますから、あとは敷金礼金の三万円だけですね。いつでもいいから持ってきてちょうだい。おばさん、もう六十二だから、あと十年もこの商売やってられないと思うけど、できるだけここに詰めてるから、困ったことがあったらいつでもおいでなさいね。どんなことでもいいですよ。ほんとに、お人形さんみたいにきれいなお姉さんと弟さんね」
 阿佐ヶ谷に戻って、大将でホレタマ定食を食った。
「六十二って何? すごくきれいだ。オバケ」
「いるのねえ、ああいう人も。知り合いに似てるってごまかしたけど、東大の神無月って気づいたみたいね」
 大将のマスターはいつもとちがって人なつこく話しかけてきて、
「こないださ、店閉めて家に帰ったら、畑の中の一軒家が燃えてんのよ。消防車がワンサカいて、水じゃんじゃん引っかけて、あっという間に燃え落ちた」
「それ、ひょっとして……」
「そ、俺んち。漏電だってさ。杉並の外れの古い農家だったから、近所付き合いがないんで、だれも連絡してくれなかったのよ」
 私は箸を置いて微笑しながら、
「マスターは、チョンガーなんですか?」
「一度も結婚したことなし。ステレオは惜しかったな。相当カネかけたから」
 そのときだけ少し残念そうな顔をした。うふ、とカズちゃんが笑うと、マスターもこらえきれないようにゲラゲラ笑いだした。
「これくらい味がよけりゃ、商売が傾くことはないわよ。また、すぐ、家もステレオも買えるわ」
「ありがと、べっぴんさん。よし、サービスだ。南太平洋から、魅惑の宵、いっちゃおう」
 張りのあるバリトンが狭い店内に響く。通りがかりの三人組がニヤつきながら入ってくる。親しげな目つきからすると常連のようだ。歌が終わると、注文も忘れて拍手喝采をしている。
「味よし、喉よし、鬼に金棒じゃないの。また食べにくるわね」
「まいど!」
 道に出てカズちゃんが言った。
「引越し代も、電話の付け替えも心配しないでね。ゆっくり引越しの支度をしなさい。トラックの予定が決まったら連絡するわ。……このごろ詩を書いてる?」
 なまぬるい風が首筋にきた。
「書きたいことがあれば書くし、なければ書かない」
 ポエムに入る。ジャーマンコーヒーを注文する。表現するというのは恐ろしい。表現したとたんに、自分の精神の虚(うろ)がさらけ出されてしまう。奇妙に固まった感情だけをしまいこんだ、外ににおいの洩れない、白っぽい脳味噌が覗いてしまう。野球に励みながら、寺田康男やカズちゃんや節子にこだわっていたころのぼくには、香りの強い溌溂としたオレンジ色の脳味噌があった。あのころのへたくそな、それでいて生きいきと躍動するような詩を書きたいけれど……。
「きのうの夜も、詩のノートを清書していったの。寒気がして、風邪でもひいたのかと思った。これは私たちだけのものじゃない、大勢の人たちに送り出さなければいけないものだと思った」
 私は愛する女の手をとった。
「同じ心臓の持ち主らしくないことを言うね。いつものカズちゃんじゃない。ぼくはそんな必要を感じていないことは知ってるはずだ。ぼくの詩は普遍的なものじゃない。セメントみたいな感情を割って散りばめただけの殺風景なものだ。同じセメントの心臓を持たない人に影響を与えるのは罪深い。ここに同じカチンとした心臓をふるわせて感動する人がいる、それだけでじゅうぶんだと思わない? そういう感動は万人に伝播しない。別な心臓を持つ人の魂を蝕むものだ。蝕まれる人の数を増やしてどうするの。もう清書なんかする必要はないよ。ただ読んで、同じ鼓動を拍ってくれればいい」
 カズちゃんは私の手を握り返して涙を浮かべた。
「キョウちゃんの心はセメントじゃないわ。果物みたいにミズミズしい心よ。静かだけど、石の静けさじゃなく、もぎたての静物の静けさ。キョウちゃんの詩は、歴史に残るわ」
「……歴史か。見たことも会ったこともない人たちの連なりを歴史というんだよね。歴史に残すということは、自分の寿命を超えて、その人たちの世界に入りこもうとすることだと思うな。ヤッホーと呼びかける者は、目の前の山並のこだまを、いま生きている自分の耳で確かめたいんだ。時代を越えたところに横たわる山並から返ってくるこだまじゃない。いま生きて見つめている小さな山並は、この目に見える世界にある」
「わかったわ。もっと大勢の人というのも、正体の知れないものね。私の心臓の中を、この一瞬のうちにきらめいて流れるようにキョウちゃんは書くのね。……うれしい。死ぬほどうれしい。……でも、清書はつづけるわ。第二の私、第二の山口さんのために、どうしても書き残さなくちゃいけないと思うから」
 私はカズちゃんの手を解いた。
「人の作品なんだけど、大勢の胸をふるわす普遍的な詩があるんだ。ランボーでもベルレーヌでもない。彼らの詩はあまりにも個別すぎる。ゲーテは『普遍よりも個別を』と言ったらしいけど、個別は大勢の人びとに響かない」
「いいえ、たとえ個別でも、ある人間の胸をふるわせたら、それは普遍よ。普遍的なものはすべて芸術と呼ばれる資格があるわ。キョウちゃんは私にとっての芸術家よ。……その人の詩を聞かせて」
「三井ふたばこという女性だ。昭和二十年代から詩を書きはじめた人で、いま五十歳。初期の詩は、整った世界を作ってるけど、知性とイメージの飛翔を核にしていて、好みじゃない。ぼくの好きな詩は悲しい詩だ。みち、という題名。娘に贈ったみごとなソネットだ」
 私は暗誦した。

     みち 
  あなたの髪を梳きつつ
  思うこと
  わたしが死んでしまっても
  なお のびつづけるであろう
  この愛しい髪
  なお降りつづけるであろう
  今日のような細い春雨
  なお つづくであろう
  運命のうねった小径
  この一瞬 わたしの櫛は
  不気味な戦慄とともに
  みしらぬ未来の国をかすめる
  あなたの髪を梳きつつ
  思うこと


 カズちゃんは深いため息をついた。
「そういうのをキョウちゃんは普遍的な詩って言うのね。流行歌のことね。キョウちゃんは、もっともっとすごい詩を書いているのよ。広大で、圧力があって、美しくて、有無を言わさない愛情に満ちていて……。ほんとは詩を書いて生きてるだけでいい人なのよ。だからいつでも詩を書いていてね。私みたいな女のために書いてくれて……なんと言って感謝したらいいのか、言葉が浮かばない。ほんとにありがとう」
「そういう感想と感謝は、ぼくの耳だけに残しておくよ」
 阿佐ヶ谷駅の改札でカズちゃんに手を振った。彼女はこぼれるように笑った。
 その夜、私は机に姿勢を正し、願いにあふれたスタンザを書きだした。

  わたしはきみを謳(うた)うすべを知らない
  顔を見合わせることのない
  時間の遊びに
  わたしはうつむいて詩を想えばよい
  日が射し
  風の凪(な)いだ地上を
  きみを連れて歩いたことをなつかしみながら


 何かが欠けていた。たぶんそれは詩魂だった。思想ではなく生活の断片を芸術にまで高める言葉の結晶だった。融和しがたい生と死、純粋と邪悪、夢と現実。すぐれた詩人たちの、この世の苦しい対立を透き通った言葉にくるんで昇華させる言葉だった。私の、においのない単一の彩りをしたセメントの精神。私の言葉は、一瞬の戦慄を永遠の真実に高める予感だけに留まるのかもしれない。そう思うと、悲しみがますます深いものになった。
 ―いったい私に、表現すべきことがあるのだろうか。この坦々とした日常から、ほんとうに書きたいものなど紡ぎ出せるのだろうか。いつか私の浅薄な言葉は見抜かれるだろう。見抜かれる前に口をつぐまなければならない。
 深夜、カズちゃんを追いかけるようにタクシーを飛ばして高円寺へいった。


         七十一

 六月十日月曜日の朝、寝床からキッチンへいくと、カズちゃんが松葉会に電話を入れているところだった。雨音がする。今月初めての粒の大きい雨だ。
「はい、平井、ですね。わかりました」
 とっくに仕事に出たはずの素子もいて、味噌汁を作っている。
「節ちゃんが遅番勤務や言うんで、お姉さんもあたしも三時半からの遅番に変更してもらったわ」
 カズちゃんは康男を電話口に呼び出して約束を取りつけた。十一時に松葉会のビルの前で待つとのことだった。
「本部ではまだ新米の三下だから、客を事務所に入れてもてなすことはできないんですって。外でごはんを食べようって。時田っていう人と玄関に立ってるらしいわ。ほら、キョウちゃんのことが大好きな、眉毛が真っすぐで太い人」
「ああ、あの人。時田っていうのか。睦子に電話する」
 素子が、
「だれだれ、それ」
「青森高校の同級生。同じ文学部の一年生。野球部のマネージャーだ。ぼくのそばにいたい一心で、東大を受けて合格した。女の人たちに会いたいって言ってたんだ」
「ええ子やが! はよ呼んだげて」
 電話をすると、睦子は飛び上がって喜ぶような声を上げた。高円寺駅改札で待つように言う。
「しかし、松葉会に出向くのはとつぜんだったね」
「善は急げでしょ。法子さんと、キクエさんは都合がつかなかったわ。またの機会ね」
 いわしの桜干し、カブの葉の浅漬け、玉子焼、カブと豆腐の味噌汁。三人で向かい合って朝めしを食う。
「仲店を歩きましょうね」
「うん。でも、あそこは写真で見ると、日本じゃないみたいで、嫌いな通りだ。一つも必要なものを売ってなさそうだし。十二時に康男とめしを食って、一時には帰りの電車に乗ろう。康男も暇じゃないだろうから」
 素子が、
「キョウちゃんはそう言うけど、あたしは東京きたときから、浅草にいくの楽しみにしてたんよ。見て歩くわ」
「じゃ、付き合うよ。遅番に間に合うように帰らなくちゃね」
「節子さん、大将さんと話が弾めばいいけど」
「そうはいかないだろう。康男のほうにわだかまりがある。でも、いまの節子を見せてやりたいな」
「ビックリするでしょうね。睦子さんは、怖がるんじゃないかしら」
「明るくて、肝っ玉が太いから、だいじょうぶだろう」
「お姉さんみたいやね、その子」
 高円寺の改札で節子と睦子と待ち合わせた。二人、たがいにそれと知らずに、大して離れていない場所に傘を手に立っていた。私が二人に手を振ると、顔を見合わせて驚いたように笑った。女三人寄っていって、睦子に挨拶する。
「北村和子です」
「滝澤節子です」
「兵藤素子」
 睦子はふだんよりも頬を紅潮させて姓名を名乗り、
「きれい! 三人とも女優さんみたいです」
「あんたもやが。自分でわからんの」
「前歯の虫歯、治したんです」
「関係あれせん。美人やわ」
「おもしろい子ね」
 売店で買った都内地図で浅草付近の平井という住所を調べてみる。浅草と言うので仲店や浅草寺の近辺かと思ったら、隅田川を跨いだはるか東だとわかった。池袋から浅草へ出るのをやめて、千葉行きの総武線に乗りこんだ。私を端の席に座らせ、女四人、肩を並べてしゃべり合う。
「節子さん、このごろタイトスカートばかりね。もったいないわ。派手な顔をしてるんだから、自分に似合った明るくのびのびした服を着なくちゃ。こんどいっしょに洋服屋さんにいきましょ。見立てて上げる。看護婦さんは、ふだんから外見で患者の気持ちを明るくするように心がけなきゃいけないわ」
「ええ、気をつけます。ねえ、和子さん、キョウちゃんの好きな女の人は、みんな、目が吊ってると思いません? こちらの睦子さんもそう」
 カズちゃんは睦子の顔を微笑しながら見つめ、
「そうね。一重、二重、大小の差はあっても、みんな吊ってるわね。キョウちゃんの顔の好みはたった一つなの。幼稚園のころに汽車に轢かれて死んだけいこちゃんという子。目が吊ってて、頬がふくらんでて、下唇が厚いの。私たちはみんなその子の面影の中にいるの。だからって、代用品てわけじゃないのよ。キョウちゃんは本能的にこうういう顔が好きなのよ。よかったわね、おたがい猫顔してて」
「ほんと、うれしい」
「みなさん、私より年上なのに、同い年の感じがします。もっと睨みつけられるかと思ってました」
 うれしそうに笑う睦子にカズちゃんが、
「キョウちゃんはそう言ってなかったでしょう。好きな男の言うことは信用しなくちゃ。再来年、けいこちゃんの従妹の秀子さんという女の子が出てくるわ。けいこちゃんと瓜二つらしいの。みんな嫉妬しないでね」
 節子が、
「しません。自分に嫉妬するようなものでしょう?」
 カズちゃんが小首をかしげて、
「私は両親がさばけた家業だし、節子さんは母一人子一人で、そのお母さんがキョウちゃんに恋してる。キクエさんの身内はお姉さん一人、そのお姉さんはキクエさんをがんばれって応援してる。法子さんは母一人姉一人で、一家が私の家と似たようなお仕事。素ちゃんは母一人妹一人、二人のお仕事は私の実家の下請けみたいなものでしょう。この五人は全員不思議なくらい身内に障害がないのよ。睦子さんたち青森の女の子は、結局、泣く泣くお嫁さんにいくんじゃないかしら」
 睦子が、
「本人の気持ちしだいだと思います」
「それはそうだけど、身内って恐いのよ。キョウちゃんみたいな〈善き人〉でさえ、島流しされたんだから」
 素子が、
「ほうやね。この子たちに面倒が起きたら、私たちで何とか手を打ってあげんと」
「必要があるときはね。でも、キョウちゃんの自然体を見てれば、彼女たちの心もハッキリ決まって、去る人は去るでしょうし、そばにいる人はいつづけるでしょう。私たちはなるべく手を貸さないようにしましょ」
「頼まれんかぎりはな。でも、頼まれたら何とかしたらんとあかんよ」
「気持ちだけにしておきましょう。自分の生き方を決めるのは、自分しかないんだから」
 二十近い駅を通過し、四十分ほどかけて平井という駅についた。木造の橋上ホームから降りて駅舎の玄関を出ると、広いロータリーに降る雨が小粒になっている。タクシーに乗る。
「松葉会本部へ」
 と言うと、運転手の背中が一瞬固まった。何か悪事を働いたような気がして、私たちも無言になった。運転手はひとことも口を利かないで、荒川沿いに一キロほど走り、会の建物から少し離れたところで車を停め、カズちゃんにキッチリつり銭を渡して去った。
 五間幅の三階建のビルの前に、黒いスーツ姿の康男が一文字眉に傘を差しかけられて立っていた。ほかに十人に近い男たちが二人に随うように小雨に濡れて整列している。彼らはスーツを着ておらず、まちまちの服装だった。見習いの若衆たちだろう。半間の階段が玄関脇から昇っている。階段の横のガレージに、伊香保へ乗っていったのと同じようなハイエースと、黒塗りのベンツが納まっていた。二階の窓ガラスに、渦巻き形の紋章に並べて、金文字で松葉会と書いてある。紋章が名古屋のものとちがっていた。
「神無月!」
 若衆たちが頭を下げる中心で康男が両手を拡げた。
「康男!」
 がっしりと抱き合った。宮中の校庭で再会したときよりはるかに大きく、筋肉質なからだになっていた。あらためて向き合って握手する。
「合格祝い、ありがとう」
「ワカが送ったんやろう。俺はまだペーペーだで、祝儀なんか出せんわ。この時田兄貴もな。四十にもなって」
 一文字眉が深々と頭を下げた。
「おひさしぶりです」
 温和な顔立ちだが、眼光だけはヤクザらしくするどい。彼とも握手をした。見習いたちはまた直角に辞儀をした。
「ヤスは幹部候補やが。五年もすれば、千五百の組員の中の五十本指ですわ。こいつらは舎弟です」
 康男は裕次郎のように少し脚を引きずりながら節子の前に出た。
「おまえ、セッチンか?」
「はい、おひさしぶりです」
「ええ女になったな。神無月をひどい目に合わせやがって」
「ほんとに申しわけないことをしたと思っています。ヤッちゃんにも……あのころは、どうかしていて」
「きっちり神無月の女になったんか」
「はい」
「終わりよければすべてよしや。むかしのことは忘れたる」
 カズちゃんをこの種の人間特有の力ある眼つきで見つめ、
「北村さん、いつもお世話さまです。商売繁盛の様子、名古屋のほうは、日ごろ、ええ目見させてもらってます。オヤジさんに、これからも末永いお付き合いのほどよろしくとおっしゃってください」
「はい。大将さん、貫禄ついたわ」
 ふたたび辞儀をする康男と時田にうなずき返すカズちゃんのほうが、ヤクザの姐御らしい貫禄がある。
「女をようけ連れとるな。神無月、新聞に気をつけろ。おまえがいまこうして付き合っとるのは、平たく言えば情婦(イロ)や。ええ新聞種になる。もっと危ないのは、俺たちとの関わりを探られることや。黒い交際やら言うて、やつらはええ鼻ですぐ嗅ぎつけるからな。俺らヤクザのほうは叩かれせん。やつらと〈お友だち〉やからな。叩かれるのは素人さんのほうや。―つけられとらんやろな」
「だいじょうぶ。いまカズちゃんのところに隠れてるんだけど、マスコミに嗅ぎつけられてない家だ。きょうはそこからきた。阿佐ヶ谷の下宿はマスコミに知られてるけど、今月の末には引っ越す」
 安心した顔でうなずき、
「おまえが出世するより、転げ落ちるほうを期待しとる人間が多いでな。この女二人はだれや」
「兵藤素子です。お姉さんのお世話になってます」
「鈴木睦子です。神無月さんのクラスメイトです」
「覚えきれんな」
 舎弟たちが笑った。
「じゃ、ちょっと出てくるわ」
「いってらっしゃいまし!」
 舎弟たちに頭を下げられながら、隘路を通ってガレージの裏手に回った。ビルと裏通りに挟まれた広い駐車場があり、何台も黒い車が並んでいた。クマさんが運転していたような黒塗りのクラウンに時田が乗りこみ、助手席にからだの大きな私と、小さい節子が密着して乗せられた。康男たち四人は後部座席にびっしり乗った。康男が、
「ワカから連絡入ったみたいでな、梨本支部長が車使ってええゆうてくれたわ。東大の神無月か、会いたいな、しかし会わんほうがええやろ、迷惑かかるで、そうゆうとった。窓から覗いとったんやないか?」
「舎弟たちも、目ェまん丸うしよったで。東大の神無月ゆうたら、そりゃ驚くやろ。ワカに電話したんか、ヤッさん」
 時田は運転席から背中で後部座席に語りかける。
「おお、北村さんから電話もらってすぐな。ワカはしょっちゅう、神無月くんは宝もんや言うとるでな」
「あのう、ワカって、本名はなんていうの。一度聞いたことあったと思うけど、忘れちゃった」
 私が問うと、時田が、
「牧原いいます。役職は松葉会執行部理事です。名古屋のあの屋敷は、正式には山口組系松葉会翼賛牧原組です」
「それで紋章がちがってたのか」
「はい。ワカのおやっさんは名古屋弘道会の理事をしとります。中村区にある本部です」
「なんか複雑でよくわからないな」
「ハハハ、そうでしょう。ワシらも頭がこんぐらかることがありますから。ワカはいずれ弘道会の組長に就くお人です」
「ここに乗りつけたタクシーの運転手がビクビクしてたけど、ああいう目でいつも見られているのはかなり精神的な負担にならない?」
「いや、ヤサグレ者は、周りにああいう態度をとらせることが目的みたいなところがありますから」
「気にしなくちゃいけないのは、警察の目だけ?」
「いや、それもだいじょうぶなんですわ。テレビなんかでよく、行動服のオマワリたちがぞろぞろと本部事務所に乗りこむ場面が流れますよね。あんなものはジェスチャーにすぎんのです。何もしとらんのです。威張り腐って、怒鳴り散らして帰るだけ。帳簿なんぞ漁ることはぜったいしません。前もってガサ入れの電話をしてくるくらいですから。広域暴力団何々組事務所に警察の手が入りました、なんて報道されるのは、やっぱり前もってテレビに知らせとるからで、しかも放送するということは、そういった非合法の組織を認めとることになるんですわ。マスコミもグルになってのお友だち関係ですよ。暴力団の敵は暴力団だけ。世間に対しては無敵です。俺らみたいな半端もんは、組織に護られとらんと生きていけません。悪く言えば無分別、よく言えば勘定高くない人間どもばかりですからね。常識的に見れば、損ばかりしている人間です。世間のまじめなやつらに怖がられて、ようやく面子が立ついうところですわ。しゃべりすぎました、すんません」
 女たちは予想に反してしゃちこばらず、ゆったりと時田の話に耳を傾けている。私の隣にいる節子は穏やかな顔でワイパーの動きを見つめていた。


         七十二

「ヤッさん、入谷でええんやな」
「おお、オタフク。座敷の予約取ったわ」
 カズちゃんが窓際の康男のほうへ身を乗り出して、
「大将さん、オタフクって、あの有名なおでん屋さん?」
「ほうや、高いだけのことはあるで。おでん定食がうまいんや」
 素子がパチパチ手を叩いた。睦子はキョトンとしている。
「神無月、名古屋みたいなもてなしができなくて、すまんな。八年前に松葉のやんちゃもんが毎日新聞に殴りこみかけてな」
「ああ、岸信介と付き合いがあったって、あれ?」
「そうや。ヤクザと政治家が付き合うのは、あたりまえでな、大昔からや。ヤクザの親分が代議士になったこともあったくらいでな。世間のやつらがごちゃごちゃ言うのは世間知らずやで。あのときは、そういうくだらんことをごしょごしょ探っとるマスコミに気合入れたったんや。それでかえって総理大臣の立場が悪なってな、今後有名人に迷惑かけんよう重々注意せんとあかんゆうお達しが出たんや。神無月は立派な有名人やからな。オタフクも裏口から入るで」
 時田が、
「マスコミには、ワシらむかしから袖の下を払っとるんですよ。あいつらは、表面は正義の旗を掲げとるが、いろいろオイエの事情がありますからね。正義だけでは食っていけんのですよ。それなのに金主を叩くようなことをしたら、懲らしめたらんとね」
 広い貸し駐車場の片隅にポツンと車を止め、少し歩いて、オタフクの裏庭から座敷に入った。体格のいい店員が平身低頭の態でやってきて、注文を尋いた。二人に慣れているふうだった。
「ナマ、中ジョッキ七人前、おでん定食、七人前な。つまみに牛スジの煮こみをつけてや」
「承知いたしました。ごゆっくりどうぞ」
 時田はおしぼりで顔を拭った。すぐに突き出しの牛スジと瓶ビールの生が出てきた。時田がビールをつぎ、乾杯の音頭をとる。柔らかく煮こんだ牛スジを白ネギといっしょに食う。これはうまい。時田が、
「白鳥のほうへいらっしゃったトモヨさんというかたは、お元気ですか」
「はい、名古屋で子育てに忙しくしてます」
「和子さんと瓜二つで驚きましたわ。気風のいいかたで。お子はおいくつで?」
 カズちゃんが、
「十カ月。すごい美男子よ」
 康男がグラスを飲み干し、時田についでもらいながら、
「神無月も人の親やもんな。最初聞いたとき、信じられんかったわ。直人やったか、春にワカがご祝儀送っとったで。ベビー用品もな」
「ワシが選んでワカに報告しました。三輪車とカタカタ。北村さんとセッチンさんは、お子の予定は?」
 カズちゃんが、
「子供は一人いればたくさんよ。いちいち養子縁組してたら、うちのおとうさんたいへんなことになるわ。ねえ、節子さん」
 節子がにこやかにうなずく。時田が、
「はあ、そういうことですか。なるほど。北村のオヤジさんは俠(おとこ)ですな」
 生ビールのジョッキといっしょに、鍋にたっぷりのおでんとライスが出てきた。まずカズちゃんがおでんを口取りの小皿に採り、箸をつける。
「おいしい! なにこれ」
「うまいやろ」
 康男が胸を張る。みんなで夏のおでんをそれぞれの皿に採ってハフハフやりはじめた。私は、
「うまい! ほんとにうまい。ああ、辛子が鼻に抜ける。うまい」
 康男も時田も、うれしそうにめしを掻きこんでいる。節子までいつもより箸の動きが速い。私は、左右を見ながら、みんなが箸を動かしている様子にうなずいて、ビールを流しこんだ。素子が、
「ムッちゃん、嫌いならガンモくれん?」
「だめです! あとで食べるんです。好物なんです」
 康男が膝を叩いて笑うと、女たちも笑いさざめいた。
「ほれ兵藤さん、俺のをやるわ。ムッちゃんいうんは、同級生やったな。東大で何やっとるんや」
「野球部のマネージャーです。青森高校でも野球部のマネージャーをしてました。毎日神無月さんに会えるから。神無月さんに東大で会うために、必死で勉強しました」
 時田が、
「えらいもんやなあ。神無月さんに惚れたら、一途にならんとどうもならんもんなあ。そばにおっても、一筋縄では縛っとれんで。ねえ、北村さん」
「縄なんかいらないわ。思っていれば、いつもそばにいてくれる」
 康男が、
「あたりや。俺もいつも思っとったもんで、神無月がここにおってくれる。コケの一念にしか応えん男やからな」
 ひとしきり箸の音がつづき、おでん鍋がすっかり空になった。
「トンカツ七人前!」
 時田が襖の向こうに声をかけた。私は、
「神宮前の山本法子って女、憶えてる?」
「おう、飲み屋の娘な」
「彼女も東京に出てきてる」
「追っかけてきたんやな」
「うん。武蔵境というところでスナックのママさんやってる」
「蛙の子は蛙や。芯のある女やったな。うまくいくやろ」
「神無月さんの口から出ると、ツヤ話もただの世間話に聞こえますな。艶福というものですか」
 康男があのすがめた目で、
「神無月、気をつけろや。くどいようやが、マスコミがうるさいでな。あいつら、仕置人やでな」
「みんな自重してくれてるから、だいじょうぶ」
「天下に恥じんように生きると言ったところで、その天下のほうが恥ずかしいシロモノやでな。それでもおそがいことには変わりない。都合悪いことが起きたら、かならず言ってこいよ。なんとかしたるで」
 私は掌を差し出して、指を見せてくれと言った。康男は左手を私の掌に載せた。相変わらず小指の先が第二関節からなく、つるりとしていた。不覚にも涙が落ちた。
「ヤケドを生き延びた手だったのにな」
 女たちももらい泣きした。
「おいおい、俺の指を見にきたんやないやろ。おたがいめったに会えんのやで。くだらんことに時間を潰すなや」
「康男は、ぼくと会うために東京に移ってきたんだろう」
「そりゃそうや。ワカが言うには、ほんとうの友人は少ない、おまえに何か相談を受けたら乗ってやれってな。しかし、おまえがしょっちゅう問題抱えとるわけやないし、それはついでの話や」
 節子が心配そうに、
「こっちにきたのは、危ないことのため?」
 康男は真剣な表情で時田と顔を見合わせ、
「こいつと組んで、間諜よ」
 節子は要領を得ない顔つきをする。ほかの女たちも顔を見合わせた。
「おととし、藤田卯一郎会長が亡くなってからこっち、傘下の各組がバラバラに勢力争いするようになってまってな。いまは正式には、松葉会いう名前が消えとる。なんとか統合せんといかんいう動きがあるんやが、あと何カ月かしたらビシッと決まるやろ。広域暴力団いうんは松葉会だけやないでな。松葉の親もとは山口組なんやが、息がかりの松葉がいまより大きなって親もとの山口組と結託すればどえりゃあでかい組織になる。そこの足並みをごちゃごちゃ乱すために、ほかの暴力団からスパイが潜りこんでくる。そういうやつを見つけるのが俺らの任務よ。逆にそいつらを潰したるわけや。各支部から合わせて百人はそのために務めとる。つまり、俺と時田はスパイをしてるってことや。正確に言うと逆スパイやな。俺も時田も武闘派やが、今回は表舞台やなく、潜入専門の任務を請け負っとるわけや」
 カズちゃんが、
「そんな簡単にほかの組から潜りこめるものなの」
「松葉会の中で位が上になってくると、もっと出世しとうなって、潜りこんどるやつらにウマイ話持ちかけられて買収されるアホが出てくる。松葉を潰しててめえの組を作り、親もとと仲ようしたい、そういう内部の裏切りがほとんどや。獅子身中の虫いうやつやな。むかしから山口組を潰したい別勢力があるよって、仕方のないことなんや。暴力団抗争いうんは、だいたい内輪もめやから、どの組も組長のタマ狙うやつを見つけるのにヤッキになっとる」
「よくわからない話だけど、なんだか危ない目を見そうだね」
「三下でへこへこしとるように見せとるから心配にゃあ」
「見つけたらどうするの」
「こっそり始末する。そいつを送りこんだ組も騒がん。騒いだら藪蛇やでな。組内で裏切っとったやつも始末する」
 始末すると言うとき、その顔色にいささかの躊躇もなかった。取るに足らない存在を嘲弄するようなその調子には、人をふるえあがらせずにはおかないような響きがあった。睦子が目を見開いて、
「始末って……」
「素人さんが心配することやない。ヤクザのことは知らんでええ。あんたらにしても、気に入った人間や組織に尽くすのが、まっとうな生き方や。あんたらはまっとうに生きとる。ま、とにかく、何か困ったことあったら、神無月もあんたらもかならず知らせてくれ。ほい、北村さん、これが俺の家の電話番号だ。大概のことは解決したる。神無月と関わりないやつまでは面倒見んぞ」
 そのメモをカズちゃんは大事そうにバッグにしまった。睦子が感嘆した目でカズちゃんを見つめた。
「ぼくたちの場合、カズちゃんが統括部長だからね」
 康男はすがめた目を細め、
「あんたは西松にいたときから、ええ人やったな。神無月もその周りの人間も、きっちり守ったってや」
「はい。でも、私たちは、キョウちゃんに守ってもらってるようなものよ。精神的に支えられてるの。キョウちゃんが死んだら、私たちは廃人よ」
「ほう! 神無月のキンピカをきっちりわかっとるんやな。安心したで。クマさんとかいう男、元気にしとるかや」
 胸にこみ上げるものがあった。私はビールをすすった。
「会社を辞めて、長野に帰ったらしい。観光バスの運転手に戻ったと思う。子供が一人いたけど、幸せに暮らしてればいいな」
「いつかきっと会いにいきましょうよ。千曲観光バスに問い合わせて、ちゃんと連絡をつけてからね。いつもキョウちゃんのこと新聞で読んで、喜んでるにちがいないわ」
「小山田さんや吉冨さんにも会いたいな」
「それは簡単よ。西松建設に問い合わせればいいだけだもの。それも時機を見ていきましょう」
 時田が、
「神無月さんは、人を忘れんゆう律義さを持っとる。律儀でないやつは出世せん」
「ぼくは、世に出るという意味では、さっぱりだめです。大学も、野球の集団も、厳密な意味で世の中じゃないから」
「ウハハハ、神無月さんみたいな、自分に折り合いをつけとる人間には、出世なんてものは必要ないんでしょう。セッチンさん、牛巻のボン、覚えてますか」
「はい。怖い人でした。ああなったのも、私に油断があったせいです。キョウちゃんと康男さんに助けてもらいました」
「そうやったな。あの目腐れ、地元のチンピラと女の取り合いをして、刺されて死によりました。跡継ぎがいなくなって、結局、三吉一家は何年かして解散しましたよ。跡目を継げるほどの人材もおらんかったようでね。足洗えんかったやつらは、名古屋の松葉の傘下に入りました」
 私は、マンボズボンの荒くれ者が刺されて、血を流して死んでいく姿を思い浮かべた。同情は湧かなかった。私は目を上げて、
「義足の人は?」
 時田はにやにやして、
「篠塚やな。ああいうサラリーマンはしぶとく生き延びますからな。松葉の庭掃除やら、便所掃除やらしてますわ」



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