八十五

 十分ほど歩いた。壁に小さな字で菱田屋。たいそうな構えでないことに安心する。客待ちもせず、空きの多い店内に入る。カウンターを避けて四人がけのテーブル席に座った。
「おお、神無月だ!」
 だれかが声を上げたが、私が声のほうを向かないので、それきりになった。私は生姜焼き定食、睦子はチキンカツタルタルソース定食、木谷は肉野菜炒め定食。しばらく三人好奇の目に曝されながら無言で食っていたが、私がめしのお替わりを求めると、また別の学生から、
「よ、ホームラン王!」
 と声がかかった。カウンターから振り向いた女子学生が、
「マネージャーの鈴木さんですね。週刊誌の写真で見ました。きれい!」
「ありがとうございます」
 別の女子学生が、
「神無月選手の試合中の様子には、勝とうというしゃかりきな雰囲気が感じられないんですけど」
「リラックスしてるんです。リラックスしなければ力は発揮できない」
「野球は勝負事ですよね」
「勝負事?」
「勝つのが目的でしょう?」
「うん、でもそれだけじゃなく……」
「何ですか」
「美しい―」
「才能があるからそう思えるんじゃないんですか?」
「才能のある人がみんなそう思えるんじゃなく、そう思えるのはぼくという特定の個人に贈られたご褒美です。ぼくの場合、ようやく美しさを満喫できる野球にたどり着けたという苦しい歴史がある。その〈ようやく〉が腹立たしい。たどり着くまでの苦しみに対する怒りを抑えてリラックスしないと、ようやく手に入れた野球がみんなの野球と同じものになってしまう。いま野球をしている大学野球の選手のほとんどは、野球にたどり着けたんじゃなく、もともと手に入っていた野球の勝ち負けの階段を上ってきただけです。東大野球部は素人の集まりですからちがいますよ。そういうほとんどの野球選手は、そんなわけで野球そのものに喜びと美を感じていない。彼らと同じ気持ちでいたら、野球はただの階段登りのための勝負事になってしまう。……才能にはご褒美があります。短い美しい時間です。ご褒美を満喫しなければいけない。そのためには、無意識に胸に抱えている怒りに気をつけなければいけません。怒りは武器だとは思いますが、やっぱり香辛料ぐらいに留めておかないといけない。それでも使いすぎると感覚が鈍ります。野球の美しさが見えなくなるんです」
 店主を含めて大拍手が上がった。いつの間にか店内が満員になっている。私は二杯目のどんぶりを食い終え、
「うまかった!」
「こんなおいしいの、初めて!」
 木谷が嘆息する。睦子が満足そうに微笑む。
「じゃ、本郷へ移動しようか」
 一人のまじめそうな男子学生が挙手し、
「このところ世間は東大準優勝の話題で持ちきりですけど、たった一人の天才バッターで成し遂げた偉業でしょう?」
「おおまちがいです。出場選手全員でもたらした僥倖です」
「でもあなたの力は大きい。天才であることはまちがいないでしょう。天才と口で言うのは簡単ですが、すごい人というだけでよくわからない。天才って何でしょうね?」
「強い熱で吹きこぼれた鍋ですね。熱を加えるのは他人です。その他人がいなければ、自分の内部の才能というトロ火でグツグツ煮立ってるだけで、吹きこぼれずに干上がってしまう。熱の加担者がいなければ、天才は表立って出現しません。……ぼくを吹きこぼれさせた人たちに、どれほど感謝してもし切れない。彼らのおかげで、ぼくはいま、たまたま天才と呼ばれています」
「たとえ他人の援助で吹きこぼれたとしても、天才として開花した以上は、基本的に怖いもの知らずだと思いますが、何か怖いものがありますか」
「孤独は怖いです。支持者のいない暗闇のことです。暗闇は怖い。だれよりも強いのは孤独を恐れない人間です。ぼくは強い人間ではない。問題は支持者でない周りの人たちです。行動や感情を指図してくる人たち。知らぬ間に、人生をむだにしてしまう。言いなりになってね。そしていつか独りになる。それが孤独です。じつは支持者がいないことをあたりまえのことと思っていたころは、怖いものなんて何もなかったんです。グツグツ自分だけで忙しく煮立っていればすみましたから。でも、曲がりくねった人生の中で、その人生の支持者が現れ、ぼくを支えることがレベルの高い愛情に基づいていると気づいたとき、それまでの自分がどれほど孤独だったかがわかって怖くなりました。ようやく野球を取り戻したころです。高々四年前です。そのころから野球を美しく感じるようになりました。そして、しきりに天賦を褒め称えられるようにもなりました。あなたが言うように開花したんですね。しかし、吹きこぼれるのは一時的な現象にすぎません。いずれ内部で煮立つ熱も衰え、ぼくはすっかり鎮静するでしょう。でもそのとき、ぼくは支持者も彼らの愛情も失い、孤独な人間に戻るとは思えない。なぜなら、彼らが愛してくれたのはぼくの野球ではなく、ぼくの経てきた人生だったし、しかもすでに彼らの愛情に感激した経験を持つぼくは、もう孤独の恐ろしさには免疫ができているからです。孤独を恐怖することのない人間になっているからです。だから、ぼくを支持した人たちは、鎮静したぼくもむかしと変わらない人間として愛してくれるでしょう―とまあ、厚かましく楽観しているわけですね」
 ひとしきりほうぼうから伸びてくる握手の手がやまなかった。睦子も木谷も握手攻めに遭った。
         †
 千佳子は赤門を感無量の顔で通った。睦子が指差し、
「あれが安田講堂よ。いま、学生に占拠されてるわ」
「センキョ?」
「乗っ取られたの」
 千佳子は要領を得ない顔をする。三四郎池を一周し、銀杏並木を東大グランドへ。
「駒場とぜんぜん雰囲気がちがう。重厚って言うのかしら……保存されてる感じ」
「少なくとも、マナビヤの雰囲気じゃないね」
 球場門に打球音が聞こえてきた。
「やってる、やってる」
「じゃ神無月さん、私たちはここで。私、千佳ちゃんをスタンドに連れていきます。それからグランドに出ます。神無月さんが練習を切り上げる時間に合わせて、私たちも引き揚げますから」
 部室に入り、ロッカーに吊るされている背番号つきのユニフォームに着替える。私に気づいてレギュラーが続々と部室に入ってくる。克己が、
「金太郎さん、鈴木ときたのか」
「はい、青森高校の友人を二人で出迎えたもので。鈴木が練習風景を見せてやれって言うんで、連れてきました。二時間ほどやっていきます。守備練習はしないのでグローブはいりません」
「いや、貸します。キャッチボールをして見せてください」
 那智がグローブを差し出す。横平が、
「マシーン出すか」
「はい。百四十キロで。まず、ダッシュします」
 ぞろぞろグランドに出ると、準レギュラーたちから拍手が上がった。ライトポールまで全力ダッシュ。三十秒ほど休み、ホームベースまで全力ダッシュ。シャッター音。フラッシュ。報道関係者たちに混じって坐っていた木谷が立ち上がり、拍手している。ダッシュをもう一往復。中介とキャッチボール二十本。彼に手伝ってもらって背筋。
「金太郎、ニンニクくさいぞ」
「菱田屋で生姜焼き食ってきました」
「あそこはニンニク入れて炒めるからな」
 なになに、と詩織と黒屋と白川が寄ってきた。
「ほんとだ、くさあい」
「あそこうまいんだよな。ただ、高くてさ」
「女の手前、格好つけました」
「あそこにいるやつか」
「はい、青森高校の同級生です。鈴木睦子の親友」
 詩織が、
「バトンガール何人か呼んできましょうか。だいぶサマになってきましたから」
「いい。太腿見たらムラムラしちゃうから」
 大桐が大笑いし、黒屋と詩織は真っ赤になった。
「練習終えたら、鈴木と彼女を連れて帰ります。そこらへんを案内することになってるので。二、三日、忙しいです。二十日から青森に帰省してきます。合流は九月のアタマです」
「その間、俺たちは地獄のキャンプだよ」
 詩織が、
「その代わり、山形のおいしいもの、食べさせてあげます」
 黒屋が、
「上野さん、お菓子の名物もお願いね」
「いろいろ有名な甘味処にお連れします」
 バットを持って、ホームベースへ歩いていくと、詩織が走ってきて、
「婚約者に指一本触らせませんから。婚約をちゃんと解消してきます。両親にはもう話をしてあります」
 と言って、走り去った。マシーン打撃に入る。一塁側と三塁側のファールグランドに選手たちが居並び、見学の態勢をとる。その中に睦子も混じった。何球かサードゴロとショートゴロをトスバッティングふうに打つ。手首の感覚を確かめ、腰を低くして構える。
「よし、こい!」
 五球つづけてライトのネット上段へ。ウオーッという喚声。フラッシュの光。ネットから撥ね返ったボールを外野に回った投手陣が、ホームベースにいる克己と棚下へ遠投する。つづけて十球ほど、彼らの遠投を手伝うために外野へワンバウンドするライナー。左、真ん中、右と打ち分ける。
「あと五球!」
 センターネットへ三本。レフトネットへ二本打ち当てた。
「終わります!」
 グローブをはめたまま、塀沿いのランニングに入った。
「五周します」
 水壁と磐崎と臼山が従う。フラッシュが引きも切らず光る。水壁が、
「金太郎さんがフィールドに立つと、野球場が別世界になるよ」
 臼山が、
「もうすぐ卒業というのがつらいな。せめてもう一年やりたい」
「先輩たちを優勝の花道へ送り出したいですね。がんばります」
 磐崎が、
「いや、ホームランを一本でも多く見せてくれればいい。あれは生きる希望だ。みんなそう思ってるぜ」
 ランニングの途中で両腕立て二十本、右片手腕立て十本、左片手腕立て五本。このごろでは、右手だけで腕立て二十本以上できるようになった。左手は十本までできる。しかし無理はしない。実際左腕に違和感も痛みもないけれども、関節の奥がとつぜんガリッと鳴るような気がして、十本以上はやれない。何も気にせずに鍛えたいと思うが、いま痛みがぶり返したら元も子もない。しかし、この方法でしか左腕の筋力は鍛えられないので、いずれ挑戦してみようと思っている。
 一周ごとに千佳子が手を振る。地べたに仰向けになってストレッチ。マシーンの打球が飛んでくる。拾ってセカンドへ転がしてやる。
 助手がノックを始めた。レフトへ走る。
「ウース!」
 三年の風馬が帽子を上げる。とたんにフライが落ちてくる。風馬は前進して捕球し、セカンドへ渾身の送球をする。八十メートルの肩だ。そのくらいだと弱肩には見えない。
「ナイス返球!」
「やめてよ、金太郎さん。どんなに鍛えても、ここまでだ」
 肩は先天的なものだ。肩の強い弱いは自分がいちばんよく知っている。中介と横平は九十メートル以上の肩になっている。控えの岩田と杉友も九十メートル級だ。レフトにゴロが転がってきた。掬い上げてセカンドへ手首と腰の回転だけで返す。フラッシュ。
「ヒョー! 一直線」
 風馬の声。
「神無月くーん! すてきィ!」
 木谷の声。フラッシュ。木谷を撮っている。彼女は絵になるだろう。十本ほどで切り上げる。
「キャプテーン、上がります!」
「オーライ! じゃ、九月にな!」
「先輩たち、失礼しまーす!」
「おー、九月な!」
 マネージャーの白川が、
「肺活量だけは鍛えといてね。ランニングで!」
「わかりました!」
 また詩織が走ってきて、
「山形土産、楽しみにしててくださいね」
「うん」
 睦子はすでにスタンドの千佳子を迎えにいっている。ユニフォームをブレザーに着替えて、グランドの門を出る。赤門に二人が待っていた。


         八十六

「超大型猿飛佐助って感じでした。一人だけ人間の動きじゃないみたい」
「そこまで言う?」
「青高時代よりズッとすごくなりました。からだも大きくなったし。みんな神無月くんを心の底から尊敬してます。見ていて感動しました」
「私もいつも感動してるの。ほんとにあの苦しい受験時代が報われたわ」
「いつも一番だったでねの」
 木谷がまた訛りを隠すように口に手を当てて笑った。
「たった一つ、後悔してることがあるんです。神無月さんがインフルエンザで倒れたとき、見舞いにいかなかったこと。歯なんか気にして、肝心の神無月さんのからだのほうを忘れてしまって」
「忘れるはずないでしょ。神無月くんに不愉快な思いをさせたくないって、やさしく気を使ってのことだもの。きちんと歯を治して、東大にも受かって、最愛の神無月くんのそばにもこれたじゃない。ムッちゃんは意志の人よ。一生、友だちでいてね」
「こちらこそ。水木金、三日間、ゆっくりしましょ。白川マネージャーにお休みもらったから、たっぷりお付き合いできるわ。名所は遠慮するって神無月さんは言ったけど、東京タワーなら散歩気分でいけるでしょう。金曜の夜は、神無月さんの女神に会いにいきましょ。神無月さんはその晩そこに泊まって、翌日仕度をして青森にいく手はずだから。私たちは夜のうちに帰りましょう」
「うん。女神って呼ばれてるのね。会うの楽しみ」
「神無月さんを十年も護ってきた人。みんなから女神と呼ばれてるわ。彼女のところにほかの女の人たちも全員集まるの」
「早く会いたい! 神無月くんを男にした人ね」
「そう。女のすべてを教えた人。でも、そういうことじゃないの。人間として大切なことを教えるのは神無月さんにだけじゃない。無心に人を愛することの重要さを私たちにも身をもって教えてくれる人」
 私は目が熱くなり、
「帰ったら、すぐ夕食に出かけよう」
 木谷千佳子は地下鉄の中でキョロキョロ車内広告や路線図を見回した。それから小さなボストンバッグのチャックを開けて薄っぺらいカメラを取り出し、はしゃぎながら私たち二人を撮った。そのカメラを引ったくるようにして睦子が私と千佳子の写真を撮った。
 南阿佐ヶ谷駅から薄暮の道を三人で歩いた。
「気持ちが落ち着く町だ。近所付き合いも面倒でなさそうだし、部屋と大学を往復する学生にはもってこいだ。ただ、公園がないから散歩はつまらないね」
 千佳子は家々の表札などをめずらしそうに眺めながら歩いている。睦子が木谷に、
「阿佐ヶ谷駅のほうは繁華街だけど、こっちのほうはさびしい住宅街なの。買物や外食をするには、阿佐ヶ谷駅に出なくちゃ」
「青森のうちのあたりも同じ感じ。住宅街なんてこんなものじゃないかしら。日本中そっくり」
「じゃ、ぼく、下で待ってるから」
 睦子と木谷が福寿ハイツの鉄階段を上る。五分もしないで身仕舞いを整えた睦子と千佳子がいっしょに降りてきた。
「すてきなお部屋でした。台所もトイレもお風呂も」
 切なそうな表情でもう一度階段の上を見上げる。睦子が肩を抱いた。
「いきましょ」
「夜の街へ散歩に出るよ。腹がへった」
「はーい!」
 千佳子は淡黄の花柄のシャツにブルーのスカートを穿いていた。睦子は白のワンピースに薄地の黒いカーデガンをはおっている。黄色とブルーと白と黒。目に涼しい。夜の通りも涼しくなる。
「東京って、遅くまで食べ物屋さんが開いてるんですね」
「大店は九時ぐらいで閉まるけど、鮨屋なら二時、三時まで開いてる。鮨は食いたい気分じゃないから、ほかに適当な店を見つけよう。居酒屋で食事するのは意外な穴なんだ。少し生ビールでも飲もうか」
 二人が賛成した。
「千佳子は陸上をやってたって聞いたけど、睦子は?」
「何も。駅前の家から、三年間、自転車漕いだだけです。どうして?」
「同じように体格がいいから。胸や尻の形も双子みたいに似てる」
 二人で顔を見合わせてうれしそうに笑った。木谷は饒舌になり、
「藤田くんは市役所の作業員になりました。西沢先生は数学科の主任になりました。梅田くんは北大の医学部にいきました」
「梅田滋のことは知ってる。古山、佐久間はどうしてるのかな。一戸と奥田は東大にきたと聞いたけど、一度も会ってない。西沢先生、相馬先生、石崎先生……なつかしいな」
 木谷が、
「古山さんは、明治大学で学生運動をしてるそうです」
「流行はインテリの信奉するものだ。インテリがミーハーの元祖になる。ジーパンやヒゲや長髪を流行らせたのは大学教授だ。東大にもいるだろ。ヒゲの長髪講師。詩を愛する古山がミーハーだったのは残念だ」
 千佳子が、
「神無月くんは、過去を大事にするんですね」
「充実した現在が、やがて充実した過去になるからね。現在を充実させることで、過去が輝く。未来はいつも空っぽ」
 睦子が、
「理想的な考え方―」
 阿佐ヶ谷駅の南口に近い少し広い通りの角に、鰻弁という店があった。店じまいの支度をしていた。
「うまそうだ。あしたの夕方にでもきてみよう。居酒屋はもっと繁華街へいかないとなさそうだ」
「あそこに」
 睦子が指差した。道の向かいに鳥富と書かれた白い暖簾が見えた。
「あそこにしましょ。個室ありって書いてあるわ」
「決定。さあ、食べよう」
 床に灯籠のような照明を二基置いてある四畳半の座敷に通された。四人がけの掘炬燵式のテーブルだ。
「落ち着くね」
 千佳子が、
「ものすごく高そう」
「客がけっこう入ってるから、そうでもないだろう」
 年増の店員の持ってきたお品書きにみんなで目を凝らす。
「鳥だけじゃないようだ。一とおり食べてみよう」
 すみません、と言って注文しはじめる。
「生ビールの中三つと枝豆、鶏皮パリパリポン酢、一つ、ナスの田楽、一つ、長ナスの一本漬け、一つ、鶏ももニンニク塩焼き、一つ、鴨のロース煮、一つ、かにきのこ釜飯、三つ。取り皿を十枚くらい。ゆっくり二時間ばかりかけて食べますが、いいですか」
「どうぞごゆっくり。最初にビールをお持ちします」
 灯籠の灯りにぼうっと二人の女の顔が浮き出している。美しい。出てきたジョッキで乾杯する。私は、
「東京という街は、すぐ慣れてしまうね。最初は旅先の大繁華街みたいな感じだったけど」
 睦子が、
「でも、しばらくいたら、田舎に帰る、という感じでしょう?」
「うん。東京は文化集団だからね。文化集団は、富士山や熱田神宮のような単品の文化的名所とちがって、劣等感を刺激する圧力がある。だから愛着が湧かないんだね」
「私はきょうが初めてだからよくわからないけど、見物という言葉がぴったり」
「地方の文化的名所とちがって、見物だけですまさせてくれずに、定住を強いて無理やり文化生活に巻きこもうとするよ。……東京だよ、おっかさん。山出しの人間に脅迫的に文化集団を紹介する。脅迫に負けた人は喜んで定住して、ほかの山出しに対してくだらない優越感を得る。虎の威でなく、自分の威で優越感は得るべきものなのにね。―これが私だよ、東京さんてね」
 二人の女は小気味よく笑った。睦子が、
「会えるものが何か、という大切な問題を含んでますね」
「うん、一人は一人の人間にしか会えない、あるいは少人数の人間にしか会えない。事象には会えないんだ。木谷千佳子さんだよ、鈴木睦子さん、その逆の文脈もある。神無月郷選手です、ドラゴンズのみなさん、その逆の文脈もある。そういう文脈の中でしか人は愛着を感じ合えない。愛着というのは、決して相手に慣れないということだ。……事象には慣れる」
 私は一杯目のジョッキを飲み干し、
「慣れない事象もある」
 睦子が、
「人以外の事象に愛着を持つ場合ですね」
「そう。ぼくの場合は、野球、芸術。その伝でいくと、東京や東大や名所旧跡に愛着を持ってる人間は、それに慣れることがないので、いつも新鮮に感じるんだろうね。ぼくももっと人以外の愛着物を増やすべきかもしれない。学問だけは無理だな」
 千佳子が、
「神無月くんて、宇宙ね」
 睦子が、
「そう、何でも浮かべてる」
 夜道を三人で満腹の腹を抱えて帰る。ジョッキをもう一杯ずつ飲んだので、適度な酔い心地だ。
「大したご馳走だったね。腹いっぱいになった」
「東京はちょっとしたお店で、あんなおいしいものが食べられるんですね。びっくりすることばかり」
「どこの味よりも、名古屋の北村席の味のほうが上だよ」
 二人がキョトンとした。
「女神の実家。いつかみんなで集まることもあるさ」
 福寿ハイツの前で、
「じゃ、ぼくはここから帰る」
 睦子が、
「コーヒーでも」
「いや、あしたの朝のランニングがあるから。あと二日、楽しくすごそうね」
「はい、きょうはありがとうございました!」
 二人で頭を下げる。
「あしたの昼は東京タワーと浅草。夜は新宿グリーンハウスだ。山口のギターを聴きにいこう。あしたは木曜日だ。月木は山口が出演する日だよ。阿佐ヶ谷でうなぎ食べたら出かけよう」
 千佳子が、
「あのバス旅行でギターを弾いた山口くん?」
「そう、山口くんはいま東大の法学部にいるの。ギターのプロを目指してね」
「もちろん、ぼくの歌も聴いてもらう」
「楽しそう!」
「じゃ、お休み」
「お休みなさい!」
 石手荘に帰り着くと、すぐに下着だけになって蒲団にもぐりこみ、目をつぶった。アルコールが効いてきて、たちまち深い眠りに落ちた。
         †
 時計を見ると、七時をとうに回っている。八時間くらい眠った。からだが軽い。やっぱり適度の酒量だった。部屋の小さな流しで顔を洗い、歯を磨く。酒の翌日の下痢をする。
 ジャージを着、バットを持って桃井公園までランニング。広々とした芝の上で、ダッシュ、素振り、三種の神器。風呂に入っていないのが気にかかる。石手荘に戻ると、ブレザーに着替えて南阿佐ヶ谷へ出かけていく。
 鉄階段を昇り、ドアをノックすると二人の笑顔が覗いた。
「さあ、東京散歩に出るぞ。その前に風呂借りるよ」
「どうぞ! それから朝ごはんです」
 バスタブに湯を満たして、酒の汗を流した。酒と言っても、中ジョッキ二杯ぐらいのものだ。女二人にはきつかっただろうと思うが、女は総じて酒に強い。女が吐いている姿を見かけたことがない。男と内臓の仕組みがちがうのかもしれない。
 二人で朝食を作った。と言っても、納豆、目玉焼き、おしんこ、豆腐と油揚げの味噌汁。板海苔と白菜の浅漬けがほしい。
 一日動きやすいように二人はスラックスを穿いた。千佳子はムッちゃんのを借りたのと言いながらうれしそうに腰のあたりを撫ぜた。阿佐ヶ谷から中央線で水道橋へ向かう。曇り空。
「そろそろ真夏日に入るな。暑くなるぞ。睦子、がんばってね」
「はい。二十日からは秋季シーズンが終わるまで、野球オンリー」
 千佳子が、
「神無月くんは、練習や合宿に出なくていいんですか」
「うん。ふだんの練習は仲間たちの三分の二ぐらいは出てるけど、合宿やオープン戦は出なくてもいいことになってる」
「不思議でしょう? 神無月さんの技術は大学生レベルのはるか上をいくものなので、それほどスケジュールに従う必要がないの。するべきことは体力の維持だけ。ランニングでスタミナを維持することと、あとは筋肉鍛錬ね。きのうみたいに練習に出てきても、その二つだけをするのがふつうなの。バッティングをして見せたのは、第一にチームメイトの士気の鼓舞、第二に模範を示してほかの選手に学習させること、第三に報道関係者やプロ野球関係者へのサービスね」
「自分なりの研究もあるよ」
 水道橋から都営三田線に乗り換えて芝公園へ。
「明るい電車! 風景もきれい」
「地下鉄なんだけど、地上を走る距離が長いの」


         八十七

 芝公園駅の改札を出ると、目の前に広大な公園が開けた。大きな保育園を左に見て公園に入る。クスノキ、ケヤキ、イチョウ。前方にそれらの木立を透いて赤い東京タワーがチラチラ見える。初めて見た。
 古墳や小寺などを左右に見ながら園内の舗道を抜けていくと、増上寺という大きな寺にいき当たった。なかなか近づいてこない山のように、甍(いらか)の向こうに東京タワーがくっきり見えている。
「まだまだ遠そうだなあ」
 増上寺の前を過ぎると、東京タワー通りというのに出た。まったくのビル街だ。なつかしさのかけらもない。ビルの群れの陰に赤い東京タワーが見えている。千佳子が、
「ほんとにもったいをつけるっきゃ。あと二百メートルくらいあるべか」 
 さらに緑地を越え、ようやく長靴を履いたような東京タワーの支柱の裾に出る。料金所の前で、
「このビル街を見るだけだろう? 昇るのはやめとく」
「私も」
「私も」
「浅草はどうする?」
「いってみましょ」
 タクシーを拾って、大提灯の前までいく。小さな雨粒がフロントガラスを打つ。朝と同じ薄曇りの空。本降りにはならないだろう。千佳子が、
「これが写真でよく見る雷門の大提灯よね」
「そう。この雷門から浅草寺の宝蔵門まで、二百五十メートルよ。アパートを決めた日、お母さんと歩いたわ」
「ムッちゃんて、お父さんにもお母さんにも似てないわね」
「兄と似てるのよ、少し」
「でも、お兄さん、お父さんそっくりだったわ」
「じゃ、私はおとうさん似ね」
「へんなの。お母さんはきれいな人。その意味ではお母さん似よ」
 睦子はうれしそうに空を向いて笑う。
「仲見世か。じっくり歩こう」
 ほとんどの人が左右の店に流し目をくれながら、ただ歩いているだけだ。何かに注視することがない。私たちも人波に従って、物見をしないで歩く。けっこう早足で仲見世通りを歩き通し、浅草寺の宝蔵門と、本堂と、五重塔と、人混みと、ハトの群れを見て引き返す。
「……無秩序の極みだな」
 雷門から右へ折れて食い物屋を探す。てんぷら尾張屋、鰻やっこ。
「鰻は夜食べるから、てんぷらにしよう」
 土間の長い店内に入り、小上がりの四人がけテーブルに着く。愛想のない婆さんに天丼を頼む。すぐに焦げたような大海老二本載った天丼が出てくる。早すぎる。
「焦げてる」
 私が思わず声を上げると、
「焦げてないよ」
 聞きつけた婆さんが甲高い声で答える。失礼なやつだと言わんばかりだ。ほかの客たちが笑った。婆さんが、
「食べてごらんよ」
 三人いっせいに海老を噛む。
「うまい!」
「おいしい!」
「だろ」
 婆さんは、得意げに鼻で笑って別のテーブルへ去った。睦子が、
「浅草の尾張屋って有名な店みたいですよ。水窪さんがこのあたり出身で、よく食べにくるって言ってました」
 三人瞬く間に平らげた。千佳子が、
「ああ満足。東京の二つ目の味を征服」
 千佳子が、
「神無月くんの野球の練習も見たし、東京タワーの散歩もしたし、おいしいものも食べたし、もうほんとに満足」
「山口のグリーンハウスが残ってるよ。いちばんのお楽しみだよ」
「そうでした!」
 店を出て、公衆ボックスからグリーンハウスに電話して山口を呼び出す。
「ステージは何時からだ」
「七時、八時半、十時の三ステージ」
「八時ごろいく。鈴木睦子と木谷千佳子を連れてく。八時半のステージが終わったら帰る」
「オッケー。二曲くらい唄ってくれ。店長に言っとく。金の心配はするな」
 電話を切り、
「さあ、東京の夜だ! まず映画が先」
 まだネオンの灯らない新宿に出て、ミラノ座で『雌猫と現金(げんなま)』というフランス映画を観る。フランスのスレンダー女優ミレーユ・ダルク。彼女の髪型をしている女をときどき見かける。恋人が強盗を働き、警官隊との銃撃戦の末死んでしまう。問題は男が隠した大金のありか。ギャングも警察も女が知っているものと思い、赤ん坊を抱えた彼女を追いかけ回す。上質のドタバタ。女が大金を手にしてハッピーエンド。
「おもしろかった!」
「座席がすごい!」
 三人満ち足りてタクシーで福寿ハイツに戻る。コーヒーで一休み。千佳子の上気した横顔に、
「東京を堪能してるね」
「はい、あんな豪華な座席でフランス映画まで観ちゃって」
「計画してなかったイベントは喜びのもとになるね。さあ、うなぎを食べてから、もう一度新宿へいこう。これは計画どおりだけど、異次元の喜びだよ」
 路灯の明かりをたどっって国鉄阿佐ヶ谷駅へ歩く。宵の大気が涼しい。番地でしか区別できない背の低い相似形のアパートが連なる細い道。門にチャイムのついた民家にまぎれて、幾層も並ぶ箱型のマンションがある。側面に貼りついた棟番号がモダンな感じだ。あしたには忘れてしまう家並。濃いマスカラを入れた女の乗った原付バイクが、ゆっくり通り過ぎていく。ぷんと香水のかおりがただよった。駅前のキャバレーあたりに出勤するホステスだろう。
「都心の商売っ気の多い店ではあまり食事する気にならないから、わざわざ阿佐ヶ谷に戻ってきた。こういうところの店は老舗がほとんどだからね」
 鰻弁は小ぎれいな店だった。小上がりに二卓、コンクリートの土間に四卓。土間は満席だった。小上がりのテーブルにつく。
「鰻重の上、肝吸い、串焼き、それぞれ三人前」
 アルコールはグリーンハウスで入れることにする。睦子と千佳子は、まだ興奮のさめない顔でボーッとしている。千佳子が、
「私、一年でも早く東京に出てくる」
「できることは何でもするわ」
 笑い合う二人の首もとにロングネックレスが覗いた。
「それ、いま気づいたけど」
 指差すと千佳子が、
「ムッちゃんにもらったの。大切にする。いつもこれを触ってがんばる」
 料理人らしき男が、鰻重と串焼きを運んできた。
「お待ちどうさま。……あのう、失礼ですが、東大の神無月選手じゃないですか?」
「ちがいます。ぼく、明治の学生です」
「すみません、あまりにも似ていたもので。どうも失礼しました。どうぞ、ごゆっくり」
 女店員が吸い物を運んでくる。男は頭を下げて、カウンターに戻った。千佳子と睦子は顔を見合わせて笑いをこらえている。
「やっぱり老舗の味だ。焼きとコクがすばらしい」
 浅草のてんぷら屋と同じように今回も三人たちまち平らげた。
「ああやって凌いでるんですね。私たちも協力しないと」
 睦子が言った。
「正体の確認だけならあれでいいけど、うれしそうに色紙を持ってこられると降参する」
         †
 新宿駅東口を出て、歌舞伎町から区役所前に出る。靖国通りを渡って、少しネオンの途切れた区役所通りの街並を歩く。路にグリーンハウスという緑色の看板が灯っている。
「このあたりの雰囲気好き。東京じゃないみたい」
 千佳子が言う。重そうな扉を開けて店内に入る。薄暗い空間に大小の丸テーブルが適度な間隔で散らばっている。ほぼ満員だ。
「すてき!」
 また二人同時に言った。店長がつかつかとやってきて、
「神無月さん、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
 ステージのそばの六人がけぐらいの丸テーブルに案内される。すぐにステージの裏から山口が出てきた。
「よう、木谷、鈴木」
 木谷千佳子が、
「おひさしぶり! ギターの道に進んだんですね」
「唯一の得手だからな。われにこの道よりなし、この道をゆく、武者小路実篤。何飲む?」
「ビール」
 やってきた黒服に、適当につまみ三品と壜ナマ、と告げる。
「木谷が神無月に会いにきたのを、鈴木が引き受けたというところだろ」
「そう」
「神無月に会いにくるのは、正しい行為だ。これで木谷は、神無月の思い出の接ぎ穂を脱して、神無月の感覚のテリトリーに入ったわけだ。どうせ二人で神無月にぞっこんなんだろうから、せいぜいかわいがってもらえ。神無月、おまえ、二十日から横山さんと青森だろ」
「うん、木谷もいっしょに帰る」
「そうか。木谷、横山さんに嫉妬焼かれるぞ。ん? 鈴木、おまえ異様にきれいになったな―」
「歯を治したんです」
「それだけで? 木谷はもともと美形だったけど、鈴木もいい土台してたんだな。その手の顔は神無月の好みだ。かわいがられるぞ。こいつは手を出さないとなったら、徹底して手を出さない男だからな。ある意味、純潔だ。多情じゃないんだ」
「知ってます」
 睦子がニコニコ笑いながら言う。木谷千佳子はフッとさびしそうな表情をした。
 ステージに天井灯が点いた。ドラムと、エレキギターと、ベースが演奏準備に入る。みんな颯爽とした背広姿だ。シックなミニドレスを着たコーラスガールも二人いて、職人ぽい様子でマイクをいじっている。
 ビールと、ピーナッツ、ボテトチップ、ミックスサンド、カツサンドが出てきた。黒服がみんなにビールをつぐと、山口が一気に飲み干した。私もまねをする。
 ダダダダダン、とドラムが鳴った。ベースの男がマイクに向かって、
「山口勲、本日のセカンドステージです。きょうは彼の友人、ご存知東大の怪物、春季六大学リーグ三冠王、神無月郷選手がきてくれています。山口いわく、神無月選手は神の声の持ち主であり、その歌声は野球の才能を霞ませるそうです。じつに興味深く、期待に胸躍りますね。それでは神無月選手、どうぞステージへ」
 盛大な拍手。女二人も拍手する。
「拍手どころじゃなくなるぞ。腰を抜かす。よし、神無月、いこう。何唄う?」
「琵琶湖の少女。しばらくしたら、二曲目は、ポール・アンカの、あなたの肩に頬うめて」
「OK。喉は潤ってるか」
「うん。じゃ、唄ってくるね」
 山口と二人でステージに近づいていく。二人の女が胸の前で小さく手を振る。楽器三人が短い合奏で迎える。彼らに丁寧に辞儀をする。アコースティックギターを抱えた山口がスツールに坐り、マイクを引き寄せて、
「声を超えた声をお聴きください。神無月は一曲一曲全身全霊で唄うので、喉の疲労が激しく、このワンステージで二曲しか唄えません。唄う曲すべてが、貴重なダイヤモンドです。では、愛田健二の昨年のヒット曲、琵琶湖の少女、さ、いこ!」
 エレキ、アコースティック、ベース、女声コーラスがワッと弾ける。かすかにドラムが入る。さびしくノスタルジックな前奏。唄いだす。

  比叡おろしが 冷たく散らす
  落ち葉を染めて 夕日が沈む
  かわいいきみの面影を
  探し求めて 琵琶湖に一人
  ボートこぐのさ きょうもまた

 ウオーッという球場のスタンドのような歓声が上がる。店内全員の割れんばかりの拍手。女声コーラスの間奏が喝采にまぎれる。睦子と千佳子が両腕で自分の胸を抱きしめ、眼球がこぼれんばかりに目を見開いている。

  赤い椿の 花咲くころに
  初めてあった かわいいひとよ
  オールを流して泣いていた
  きみがとっても いとしくなって
  ぼくのボートに 乗せたっけ

 キャーという叫び、激しい拍手、ホーッというどよめき、指笛、足踏み、ブラボー、神無月ィ! 山口は涙をこぼすまいと懸命に目を見開いて間奏にいそしんでいる。コーラスのとドラムの音量が高くなる。

  名前なんかは 知らないけれど
  忘れられない 琵琶湖の少女
  おそらくこれが若い日の
  胸にめばえた 初恋なのさ
  風よやさしく 吹いてくれ

 楽器のドラマチックな合奏、コーラス、山口のアコースティックの終奏の爪弾き、ドラムのダダダダ、ドン。客が全員立ち上がり拍手する。嬌声と喝采がしばらく止まない。私は深く辞儀をして、睦子と千佳子を見た。ハンカチに顔を埋めていた。


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