八十八

 山口が頬を拭い、
「おわかりいただけましたか。俺は、死の床に就いたら、彼の歌を聴きながら黄泉の国へ旅立とうと思ってます。じゃ、神無月は喉休めに三十分ほどお休みします。その間、俺たちの演奏をお楽しみください」
 席に戻ると、女二人が投げ縄を撃つように抱き締めてきた。客席の女が何人か駆け寄って私の手を握った。みんな泣いていた。コーラスガールの一人がママス&パパスの『私の小さな夢』をソロで唄いだした。すばらしいハーモニーが追いかける。耳を傾けていると千佳子が、
「神無月くん、人間でないみたい。何をやっても―」
 睦子が、
「私、一年生のとき、出会った日に光みたいなものに打たれたの。それは人間に打たれるような感じじゃなかった。あの感じのままずっといるの」
 人間でない……。光みたいなもの……。どうも私は、すっかり別の生きものにされてしまったようだ。もう私は高島台にも、浅間下にも、平畑にもいない。どうすればいい? 別人のまま居座ろうか。山口がダニー・ウィリアムズのホワイト・オン・ホワイトを唄っている。すばらしい。目頭が熱くなった。千佳子が、
「山口さん、すてき。玄人の声ね」
 睦子が、
「最高級だけど、人間の声」
「いや、これこそ神の声だよ。ぼくのはへんな人間の声だ。林という神にも会わせたかったな」
 むだだとわかって抵抗する。
「神無月!」
 という声がした。目の前に林が立っていた。
「林! スピーク・オブ・ザ・デビル!」
「山口に呼び出された。おまえがセカンドステージで帰ってしまうと言うんで、サードステージで唄ってくれってさ」
 店長が飛んできた。
「林くん、聞き逃したよ。いま神無月さんが琵琶湖の少女を唄い終わったばかりだ。もう一曲唄ってくれるそうだ。サードステージ手伝ってくれたら、バイト料弾むよ」
「わかりました。このステージでも一曲やりますよ、神無月の前に。あとで唄ったら散々だ。神無月、何唄うんだ」
「プット・ユア・ヘッド・オン・マイ・ショールダー」
「五十九年か。じゃ俺は、同じ年のシックスティーン・キャンドルズだ。で、そちらの二人は?」
「青森高校の同級生。東大野球部マネージャーの鈴木さんと、青森在住の木谷さんだ」
「在住はよかったな。どうせいずれ東京に出てくるんだろう」
 ウィスキーのオンザロックが運ばれてくる。林はそれをクイと飲んで、ステージに早足で近づいていった。彼を知っている客たちが大きな拍手をした。
「びっくりしたな、噂をすれば影だ。あいつは文Ⅲの同級生の林。いま神の声で唄うからじっくり聴いて」
 山口が林をバンド連中に紹介した。彼らに林はボソボソ言った。山口がマイクを取った。
「みなさんご存知、当店のドル箱、林郁夫が神無月の応援にきました。じつは俺が呼び出したんですけど」
 ドッと笑い声。
「……私、ぜったい、東京にくる」
 木谷が一人でうなずいている。睦子が彼女の手を取った。
「神無月が唄う前に、林に一曲ぶっ放してもらいます。ザ・クレスツの、シックスティーン・キャンドルズ!」
 イヨー! 林さーん! 喝采になった。とつぜん男たちのコーラス。
「ハッピバースデイ、ハッピバースデイ、ベイビー、オー、アイラビュー、ソー」
 林のミスティな高音が炸裂する。

  Sixteen candles make a lovely night

 ヒャー! キャー! という叫び声とともに、歌声がかき消されそうになった。

  Blow up the candles
  Make your wish come true
  For I’ll be woshing they’ll love me too

 林の爆発的な声はその騒音の中を突き進み、歓声を鎮め、演奏の波に乗り、コーラスに励まされて舞い上がりつづけた。すばらしいの一語だった。
「オー、アイ・ラビュー・ソー!」
 と彼が歌声を長く引いて唄い切ったとき、店じゅうに拍手と歓声が渦巻いた。
「すごーい!」
「これが神というものなんだよ」
 拍手の中で林がステージから私を手招きし、
「ポール・アンカの、あなたの肩に頬うめて。天の声、神無月郷!」
 と叫んだ。私はステージに走った。女声コーラスとエレキが弾けた。マイクの柱をしっかり握って唄いだす。

  Put your head on my shoulder

 ウワー! 拍手を耳に入れずに私は唄いつづける。

  Hold me in your arms, baby
  Squeeze me oh so tight show me
  That you love me too

 店内が水を打ったように静まった。男声女声コーラス。林も加わっている。

  Put your lips next to mine dear
  Won’t you kiss me once, baby
  Just a kiss good night, maybe
  You and I will fall in love

 コーラス。ババババ、ババババ。

  People say that love’s a game
  A game you just can’t win
  If there’s a way I’ll find it someday
  And then this fool will rush in
  Put your head on my shoulder

 オオオー! ヒュー! ヒュー! 足踏み、怒号。すぐに静寂に戻る。

  Whisper in my ear, baby
  Words I want to hear tell me
  Tell me that you love me too
  Put your head on my shoulder
  Whisper in my ear, baby
  Words I want to hear tell me
  Tell me that you love me too
  Put your head on my shoulder

「完璧だ!」
「泣かせてくれ!」
 林と山口の声だ。バンドのメンバーが立ち上がって拍手すると、店内が大歓声と拍手に満たされた。ほとんどの客がハンカチや素手で目を拭っている。千佳子と睦子は肩を抱き合って泣いていた。林がマイクを握り、
「こういうのを千載一遇と言うんです。とんでもないものを聴きました。神無月はまたしばらくきませんよ。秋のリーグ戦が始まるころか、終わるころか、ま、いずれにしても天使ですから、気まぐれにやってきます。その出会いを楽しみにしましょう。当分のあいだ神無月の野球を応援してやってください。歌手になれ? いまそっちから聞こえてきたぞ。俺は芸能界にいってもいいですが、神無月はそういう小さな世界にはまる器じゃない。野球界にしても、しばらく熱中したあとは、どっかにフラッといっちまうでしょう。俺もいずれ企業人になるんで、芸能界にはいきませんけどね。じゃ、山口、休憩しよう。ありがとうございました! サードステージは、俺と山口が唄います。こちとらも天才だから、飽きないと思うよ」
 ドーッという歓声と拍手になった。黒服があわただしく客たちに酒や食い物を運びはじめた。
 私は山口と林とバンドの連中と握手すると、睦子と千佳子を促してレジへいった。
「いや、お気使い無用です。ほんとにありがとうございました。じつは立っていられないくらい感動して、仕事が疎かになってしまいましたよ。これから店内の興奮を治めるのがたいへんです。すみやかに引き揚げてください。歌を神無月さんの余興だと思わない筋に足留め食らっちゃいますよ。店の前にタクシーを呼んであります。これはお夜食に。新しく作ったミックスサンドです。きょうの出演料だと思ってください」
 手提げの小さい紙袋を差し出す。礼を言い、三人でタクシーに乗りこんだ。
「南阿佐ヶ谷、お願いします」
「すごい、すごい、とにかくすごい。どこまで宇宙が拡がっていくの?」
 千佳子が目からハンカチを離さない。
「神無月さんのそばにいると、毎日がドラマの連続ね。苦しいほど」
 睦子もしきりにハンカチを動かす。
         †
 私と木谷がキッチンテーブルに落ち着くと、睦子はコーヒーをいれた。千佳子がポツリと、
「……私、神無月くんに捨てられないかしら。ムッちゃんの大きさにとてもかなわない」
「争う必要のない人間と争ってるの?」
「捨てられるのが怖いんです」
「千佳子が捨てないかぎり、ぼくは捨てないよ」
「捨てるもんですか!」
 睦子が、
「神無月さんに近寄りもしない人は何の心配もないけど、近づいてしまった人は、捨てられることがいちばんの心配になるわ。でも、それはすぐ消えちゃう。神無月さんは鏡なのよ。私たちの姿を映してるだけなの。私たちと同じように生きてくれるの。鏡という特殊な能力を発揮しながらね。私たちがそばにいればそばにいるし、離れていけば離れる。美しく輝けば美しく輝く。悪意を持てば悪意を返す。神無月くんからの拒否ということはないのよ。私たちの思いどおりになる人だけど、自分がかわいくなったら終わり。それは大勢の人の意見を愛して、神無月さんから離れていくということだから。千佳ちゃんがこのままの神無月さんを愛してるかぎり、そばにいて愛してくれるわ。世間の目が怖かったら、神無月さんを捨てればいい。そして社会的に幸せになればいい。神無月さんに復讐されることはないわよ」
 申し合わせたわけでないのに、カズちゃんとまったく同じことを言う。
「世間の目って?」
「やれ、結婚しない女だ、やれ愛人だ、やれハーレムだ。私たちが非難されてる分には私たちが耐えればいいだけのことだけど、神無月さんが世間にいじめられたときに支えてあげられるかどうかは、私たちの人間的価値に関わってくることね。ふつうは見捨てる。中学時代の神無月さんのお母さんたちのように。都合のいいときだけ寄ってきたってだめ。鏡の神無月さんは、その人たちが神無月さんを捨てたときに、彼らを捨てたの。その関係は二度と修復できないわ。いちばん恐ろしいのはそのことよ」
「ありがとう! ムッちゃん。私、もう二度と心配なんかしない。こんなに愛しているんだもの、何も心配することはないわ」
「そうよ、私も何も心配してない」
「睦子はどうしておふくろたちのことを知ってるの」
「東奥日報に神無月郷物語のような記事が、高校二年生の夏から半年ごとに掲載されてるの。そこに神無月さんのことが小学校時代からすっかり書いてあるわ。野辺地のお祖父さんお祖母さんからの取材がほとんど。淡々と、だれを中傷することもなく、事実として書いてあるの。いま、こうして神無月さんが静かに生きてることが信じられなくなる。そのことからだけでも、神無月さんが人間じゃないと思って当然ね」
 私は康男を思った。
「じっちゃばっちゃが知らないこともあるんだ。ヤクザの寺田康男との関係や、複雑な女関係のことだ。そのことは、ぼくのそばにいる人間だけが知ってることだ。睦子は康男や女たちにもう会った。千佳子も彼らにいつか会う」
「はい」
「すごい人たちよ。あらためて神無月さんの宇宙がわかるわ」
 明け方の四時を回るまでいろいろな話をした。千佳子や睦子の幼いころの思い出、私の幼いころの思い出、たがいの母親の話、父親の話、失敗談、成功談、ライバル、受験、思いつくまま仔細に話し合った。未来の話はしなかった。
 話が途切れ、二人が眠気に負けてテーブルに突っ伏すのを目に納めてから、そっとアパートを出た。


         八十九

 七月十九日金曜日。曇。朝の六時に寝て、午後の一時に起きた。熟睡した。部屋の気温がぴったし三十度だ。枕もとのトランジスタラジオが、あしたから一週間真夏日になると言っている。洗顔、歯磨き、時間をかけて下痢便。
 桃井公園までランニング。いつもの鍛練。
 汗まみれのからだをタオルで拭き、空色のブレザーに革靴を履いて高円寺に出かけていく。倶知安を覗き、飛び上がって喜ぶシンちゃんにリクエストを出して、キャベツの油炒め、卵焼き、ハムステーキ、なめこの味噌汁を作ってもらう。なめこはわざわざ商店街から買出しをしてきた。どんぶりめし二杯。断られるのも聞かず、千円を置く。
「あしたからしばらく青森に里帰りしてきます。カズちゃんたちをよろしく」
「秋季リーグは優勝だろうって、新聞じゃもっぱらの噂ですよ。店の客たちも言ってます、生きてるうちに東大の優勝を見られるかもしれん、末代までの語り草どころじゃない、歴史の教科書に載るんじゃないかって」
「新聞には載りますけど、まちがっても教科書には載りません。秋季の応援、せいぜいよろしくね、本気で優勝するつもりですから」
「まかしといて。優勝が近づいたら、商店街の連中を引き連れて、幟を立てて応援にいきますよ」
 フジに寄り、ソーダ水。マスターはじめ、ウエイター、ウエイトレス全員が緊張して、いつものように静かにする。昼下がりの客たちも、緊張しながら新聞に顔を埋めて、チラチラこちらを窺っている。クスクス笑っているカズちゃんに、夕方睦子と千佳子を連れてくる、二人は夜のうちに帰る、千佳子は帰省の連れになる、と告げる。
「わかった。よしのりさんは、あしたの朝十時ごろ、ここに迎えにくるって。今夜はスキ焼にします」
「とうふ、ねぎ、シラタキをたくさん」
「はいはい」
 店じゅうが大笑いになる。
         † 
 阿佐ヶ谷から、ひと駅高円寺まで戻る。高円寺商店街をカズちゃんの家に向かって三人で歩く。睦子が私に、
「青森はどうでしょうか」
「多少涼しいだろうけど、似たようなもんだろうね。よしのりの着物は正解かもね。動きづらいからぼくは着ていかないけど」
 千佳子が、
「下着なんかはどうするんですか」
「現場で買って、穿き捨てる。とにかく荷物は持っていかない。文庫本くらいかな」
 睦子が、
「しばらく神無月さんから離れて、選手たちのお世話に励む毎日になるわ。さびしい」
 千佳子が、
「私の家は新聞もとれないくらい貧乏だけど、これからは図書館にいって、神無月さんの記事を、隅から隅まで目を皿にして読みます」
 睦子が、
「皿にしなくても、載るときは大きく載るからだいじょうぶよ。秋の東大の優勝を祈っていてね。優勝したら、世の中とんでもない騒ぎになるわ」
「東大球場にいってきたこと、西沢先生や相馬先生に伝えます。ほかのことは伝えようがありません。楽しいことは整理してしゃべれないから」
 女二人、手を取り合って微笑んだ。高円寺からの帰りがラクなように、二人はジャージを着ている。足の大きさも同じのようで、千佳子は睦子の運動靴を履いた。明るい夕方の町を歩く。
「スキ焼だって言ってたよ。シラタキとネギと豆腐があれば、ぼくはじゅうぶん」
 睦子が、
「直人ちゃんの誕生日はいつですか?」
「八月十五日」
 千佳子が、
「直人ちゃんて?」
「神無月さんには子供がいるのよ。名古屋に」
「わあ、世界が大きい! いくつですか」
 まったく驚かない。世界が大きい? 小さいのマチガイじゃないのか。小さな秘密の園。それを大きいと表現して安心するのは千佳子自身だ。
「もうすぐ一歳」
「神無月くんに似てるんだろうなあ。会いたいなあ」
「私も」
「いつか名古屋にいったときね。何年か先だね。あ、着いた、ここだよ」
 カズちゃんの家の生垣に三人で立つ。千佳子は、
「大きな家! うちの五倍はある」
 玄関の戸を開けて入ると、
「いらっしゃーい!」
 カズちゃんと素子が笑いながら出てきた。千佳子は、きれい! と思わず声を上げた。睦子がお辞儀をして、
「和子さん、素子さん、こんにちは」
「ひさしぶり。ひと月ぶりぐらい?」
「はい、寺田さんに会いにいったとき以来です」
 素子が、
「ムッちゃん、ちょっと日焼けして、ますますきれいなったやないの。満足しとるな。そっちの子もピカピカしとる」
 カズちゃんが、
「睦子さんのお友だちね」
「はい。木谷千佳子と申します。青森高校でムッちゃんといっしょに野球部のマネージャーをしてました」
「二人とも動きやすい格好できたわね。よし、台所手伝ってくれる?」
「はい!」
「キョウちゃんはテレビでも観て、ゴロゴロしてて。用意ができたら呼ぶから」
 居間のテーブルの上に、昨夜の二人の勉強の跡がある。素子のものらしい調理師の問題集があったので、ぺらぺらやる。

 脂質に関する記述について、正しいものを一つ次の中から選びなさい。
 ①中性脂肪は複合脂質である。
 ②中性脂肪は細胞膜の構成成分である。
 ③リン脂質は単純脂質である。
 ④コレステロールは性ホルモンの合成材料となる。

 さっぱりわからない。試験のための勉強などどうでもいいと思ってしまうが、どうしても答えろと言われたら④に印をつける。性という言葉に反応したからではなく、①から③は脂肪や脂質の定義をしているが、④だけは定義ではなくその二つの単語を使わずに、異なった文構造で合成物質の機能を説明しているからだ。
 三十分ほどうとうとした。 
「できたわよォ!」
 寝ぼけ顔でキッチンにいくと、二つの鍋がもうもうと湯気を上げている。
「素ちゃん、鍋奉行して」
「はーい」
「みんな、ごはん、どんぶりにする?」
「どんぶり、どんぶり」
「いただきまーす!」
 一斉に箸をとり、素子の取り分けた肉や野菜をおかずにもりもり食べる。
「おいしい!」
「うまい!」
 素子が、
「私は継ぎ足していくから、あとはめいめい皿に取ってや」
「はーい」
 千佳子は箸を止め、だれにともなく、
「私、家が貧しくて、上京して大学を受ける余裕がなかったんです。家の家計の足しに公務員にでもなって、地元で結婚をして落ち着いてしまおうかなって思ってました。神無月くんが転校して名古屋にいってしまう夏に、死ぬほど好きだった神無月くんに抱いてもらうつもりで健児荘を訪ねました。……そういう雰囲気になりませんでした」
「そりゃ未練が残るがや」
「東京にきて、神無月くんとたくさんお話して、たくさんの時間をいっしょにすごして、神無月くんとすごせるかもしれない人生にもっと未練が残りました。ムッちゃんに励まされて、地方公務員なんかじゃなく、全国的に通用する資格を取って神無月くんのそばにいこうって、本気になりました。家に仕送りもできるし」
 カズちゃんが、豆腐を小鉢に掬いながら、
「仕送りって何? ご両親、働いてるんでしょ」
「はい」
「大の大人が、自分たちの口を養えはずがないわ。大学だっていかせられたはずよ。貧乏だ貧乏だって言いながら、サボってたのね。女は大学にいかなくていいという地方独特の先入観からでしょう。向こうのことは向こうにまかせて、あなたはあなたの人生を歩まなくちゃ。キョウちゃんを心から愛してるんでしょう。上京しなければ後悔するに決まってるじゃない。青森高校までいった経験をむだにしちゃだめ。資格試験なんか受けてるときじゃないわよ。私や素ちゃんと立場がちがうのよ。大学にいくの。東大とまでは言わないけど、早稲田とか慶應とかあるでしょ。東京の大学でなくてもいいし。年間、七、八万の学費なんか出してあげるわよ。大学に落ち着いてから先のことを考えても遅くないわ。受験勉強はこの家でしなさい」
「とつぜんの展開だね。そんな右から左に決まるものかな」
 私が言うと素子が、
「右から左に決めるんよ。千佳ちゃん、この家で勉強しながら、買物係してや」
 睦子が遠慮がちに、
「そうさせてもらったら、千佳ちゃん」
「……うん。お父さんお母さんに相談してみる」
 カズちゃんが、
「あなた一人娘でしょ」
「はい」
「簡単に手離さないと思うわ。相談しても結論は見えてると思うけど。まあ、話をしてみたら? それでわかってもらえなかったら、置手紙でもして出てきなさい、ここの住所と電話番号をちゃんと書いて。八月の二十日過ぎなら、いつでもオッケーよ。そのあたりまで私たち、名古屋にいってるから」
「うちの親がここに談判しにきたら、とてもご迷惑をかけることになります」
「ご両親がここに? たぶん東京には出てこないと思うわよ。ここまでの話を聞くと、そんなに大切な娘に対する態度じゃないもの。娘の働きがなければ生活ができないという家庭でもなさそうだし。貯金もかなりあると思うわ。もし談判しにきたら、私がどうやっても説得してあげる。キョウちゃんのことを話しちゃだめよ、ややこしいことになるから。私のことは睦子さんの東京の知り合いのお金持ちとでもしておきなさい。睦子さん、話合わせてね。あなたの家族ともね」
「はい!」
 カズちゃんは立ち上がり、食器棚の引き出しをごそごそやっていたが、
「はい、五万円。これで上京できるでしょう。ほんとに青森には未練ないのよね?」
「ありません」
「キョウちゃんのそばにきて、私たちみたいに幸せになりなさい」
「ありがとうございます!」
「大学いったら、アルバイトするのよ」
「はい」
「落ちたら、私たちみたいに働けばいいわ」
「受かります!」
「私の机を使いなさい。寝室兼勉強部屋。私たちは居間のテーブルで勉強するから。はいはい、もうごしょごしょ考えないこと」
「ほんとうにありがとうございます」
 ふたたび賑やかな食卓になった。睦子が泣いていた。
「やさしい子やな。うちらが千佳ちゃんのことは面倒見たるで、心配せんと」
「はい、よろしくお願いします」
「あしたは千佳子さん、ここに十時までにきなさい。キョウちゃんの友だちのよしのりさんという人が待ってるわ。私たちは八時過ぎに出勤してるから、お弁当を作っておくわね」
「はい。ありがとうございます」
 カズちゃんは千佳子の肩をやさしく叩いた。それから私に、
「よしのりさん、飛行機はいやだって。命惜しみなんだから」
「そうかァ、長旅になるね」
 睦子と千佳子は長居しないで、玄関から帰っていった。背中が嬉々としていた。
「あの二人、ほんとにキョウちゃんのことが好きなのよ。顔を見てたら、痛いほどわかったわ。大事にしてあげるのよ、キョウちゃん」
「うん。……ぼくに子供がいるって睦子が教えたら、世界が大きいって言ってちっとも驚かなかったけど、大きいはないな」
「ちょっとショックだったのね。それを隠そうとしたんでしょう。でも、何か広々としたものに包まれたことをサッと感じたのね。キョウちゃんの世界は広くも狭くもない。自然な世界よ。さ、もう少し食べようっと」
「あたしも」
 二人が鍋を平らげていく姿を、私は目を凝らして見ていた。
「ぼくも、もう一膳。ふつうの茶碗で」
 素子がめしをよそった。シラタキと豆腐とネギはしっかり味が滲みていたので、大盛りの一膳めしをたちまち平らげた。食後の茶をすすり、後片づけを手伝う。台所洗剤で食器を洗い、キュッキュッとするまで泡を流すのが楽しい。布巾で手を拭う。二人が洗い終えた器の水を拭き取りながら、水屋に収めていく。並んで立つ二人の肩に手を置いた。カズちゃんの背中がピンと伸び、素子がヒャッと身をよじった。
「誤解しないで。愛しくて」
 カズちゃんが私に抱きつき、
「うれしいわ」
 素子が、
「ちょっと期待してまった」
「名残のセックスだね」
「でも、きょうはお姉さんとテレビでも観て寝るわ」
「そうしましょ。キョウちゃんは青森をふうふう飛び回らなくちゃいけないんだから」
「ぼくもひさしぶりにテレビ観たいな」
 片づけを後回しにして居間へいった。金曜ロードショー、ザ・ガードマン、蝶々・雄二の夫婦善哉と観ているうちに、たまらなく眠くなり蒲団をとってもらった。カズちゃんたちはまた台所へいった。


         九十

 七月二十日土曜日。空がキラキラ光る快晴。カズちゃんと素子が出勤したあと、庭で腕立てをやっていると、ボストンバッグを提げた黄色いワンピース姿の千佳子がやってきた。
「おお、美しい。睦子は?」
「本郷に出かけていきました」
 睦子のトレパン姿が浮かんだ。
「コーヒーいれて、飲んでて。シャワーを浴びてくる」
「はい」
 頭をしっかり洗う。裸身の千佳子が風呂に入ってきた。驚かなかった。抱きつき唇を求めてきた。狂ったように舌を絡める。私の性器には触れようとしなかった。
「こちらにきたら、ときどき抱いてくれますか」
「もちろん。さ、からだを洗わなくちゃ」
 千佳子は愛しそうに背中を流した。それから自分のからだも洗った。律儀な背中を見つめながら脱衣場に出た。
 身なりを整えた千佳子がキッチンテーブルに着いた。
「夜遅くまでお話したの。よかったねって、ムッちゃん泣いてくれて。神無月くんに抱いてもらったことも話してくれました。死ぬほどうれしかったって。いつかかならず抱いてもらえるから、焦らないでねって言ってくれて……ああいう大きな人間になるよう、私、がんばります」
「人を好きになるのにがんばる必要はないよ。でも、ほんとによかったね。……とつぜん決まった進路だけど、うまくいくといいね」
「もう、怖いものはありません」
 二人でコーヒーを飲んでいると、高円寺駅からよしのりが電話をしてきたので、カズちゃんから渡されていた三十万円を紺色のブレザーの内ポケットに納れ、革靴を履き、千佳子といっしょに出た。千佳子は小さなボストンバッグ一つ、私は手ぶらだった。浴衣姿のよしのりが改札の前に立っていた。高級そうな紺地の絣だった。
「もう切符買ったぞ。野辺地までも青森までも値段はいっしょだ。青森まで買っておいたほうがいい。出歩くだろ。切符は五日間有効だ。だれだ、この女は」
「木谷千佳子です」
「おう、横山だ」
「こいつは中学の同級生。野辺地の家が斜向かいなんだ」
「あんた、神無月のコレか?」
 小指を立てる。
「はい」
 胸を張って返事をする。
「レベルワンだな。神無月好みの顔だ。こいつの女はみんなかわいいぞ。だれだれに会った?」
「女の人は、和子さん、素子さん。男の人は、林さん。山口さんはもともと同級生です」
 窓口で切符を買おうとする千佳子を押し留め、青森までの二人分の切符を買った。よしのりは、紙袋を提げ、遊び人ふうの草履をつっかけている。
「高級な生地だな」
「久留米絣だ。三万した」
「スッカンピンになったろ」
「俺の貯蓄額を知らないな。おまえこそ、ふところだいじょうぶか」
「心配するな。三十万持っていく。ばっちゃに十万、じっちゃに十万、残りは宿代と土産代と旅費だ」
「俺も五万あるから、まずだいじょうぶだな。下着はパンツとランニング、五組ほど持ってきた。要るか?」
「一組くれ。馬門で着替える。あとは自分で買うからいい」
 上野十一時一分発特急はつかり。よしのりが私の金を一万円預かり、三人分の弁当を買ってくる。
「ほい、幕の内。残金は折々の弁当代にする」
「飛行機なら二時間なのに」
「落ちたら一巻の終わりだからな。あんたは青森までか」
「はい」
「野辺地で泣き別れだ」
「八月の下旬に出てきます。和子さんのところで受験勉強することになりました」
「そうか。事情は聞かん。がんばれよ」
「はい」
 品のよさそうな老婆の前に私とよしのりが座った。千佳子は老婆の横に座った。むかし横浜から二十時間以上かけて一人で里帰りしたときも、こんな婆さんが座っていた。
「浴衣がお似合いですね。学生さん?」
「はい、一橋大学、社会学部、一年」
 必要のない嘘をつく。千佳子が驚いてよしのりを見つめる。私は千佳子にウィンクする。旅の恥はかき捨てというわけだろうが、彼の本質から遠いことをされると何かさびしくなる。先回の失恋で懲りたにせよ、人間として美学に欠けている。こういうときこそ、水戸黄門の印籠でいいのだ。コケおどしは、コケにだけ効果がある。しかし、こういうお婆さんが、いちばん怖いコケかもしれない。よしのりはまちがったことをしていないと思い直す。
「こちらも?」
「いえ、友人です。労働者です」
 私が嘘の上塗りをする。
「大きいですね。何かスポーツを?」
「バスケットを」
「こちらのお嬢さんは?」
「私も東京で働いてます。故郷が同じなので、いっしょに帰省するところです」
 千佳子はいっぺんにマスターしてしまった。三人とも一橋大学がどこにあるのかも知らない。むろん社会学とはどういう学問なのかも知らない。たぶんよしのりは、耳に覚えていることを口でなぞっているだけだろう。車窓の景色に関心を移すのも億劫で、ポケットに忍ばせてきた薄い文庫本を出す。サローヤン。ちんぷんかんぷん。小説家には一生なれないなと思う。
 幕の内弁当を開く。何ということもない味。千佳子はカズちゃんのように豪快に食った。よしのりは口をもぐもぐさせながら、
「国立(くにたち)駅から五分、街筋に喫茶店、郵便局、ケンタッキー、スーパーがあるくらいで、病院、幼稚園、小学校に囲まれた閑静な場所です。国立(くにたち)高校や国立音大もすぐそばにあります。何もないって言えば何もないところですが、学問をするにはこれ以上の環境はありません」
 割り箸を振り振り、老婆に一橋大学界隈の描写を細かくしている。これも聞きかじりだろう。私は食い終えてふたたび読書にかかったが、身が入らず、また千佳子にうなずきかけて、目をつぶる。寝て起きれば、あのときと同じように婆さんは消えているだろう。
 揺り起こされると、駅の柱に盛岡という白文字が見えた。一晩眠った感じだった。首や肩が痛いが、頭はすっきりしている。予想どおり婆さんの姿はない。郡山か福島で降りたのだろう。千佳子が私の代わりにサローヤンを読んでいる。
「グロッギーだったな。起こすのがかわいそうだった」
「ああ、春季リーグのあと、なかなか疲れが抜けない」
「ひと月経ってるじゃねえか。世之介でもしてたんだろう」
 千佳子が本を置き、両頬に手を当てて微笑んだ。
「神無月くんが寝ているあいだに、横山さんから神無月くんの歴史のほとんどを詳しく聞きました。……神無月くんに出会えたのは、一生に一度の幸運です」
 二人は親しく長話をしていたようだ。
「千佳ちゃんの話も聞いた。上京は正解だ。次の八戸で、鈍行に乗り換えるぞ。そこから二時間だな」
「―ぼくは世之介じゃないよ。女を抱く頻度は極端に少ない」
「俺は〈これ〉に関しては(両手で女を抱く身振りをする)、大まかな、しまりのない考え方しかできないが、やっぱりあれだろ、女を抱くってのは、こう、ふだんの生活からすればひどく突飛な、どこか儀式的な行動だろ。おまえみたいにまじめに女のところを回るのは、なんか、鍛えた技術を試すみたいな、目的意識のようなものがあるんじゃないのか」
「愛情がないとチンボが勃たないから、女をものとして扱ってるわけじゃない。セックスをするとき自分がどんな考え方をしてるか、はっきりとした言葉の形で頭の中に反芻できないな。遊び心とか、スケベ心とか、そんな浮ついたものでもないし、もちろん目的意識なんてものも持ってない」
「つまり、その女が好きだという精神的なものをしっかり精力に結びつけられる、いわゆる好色一代男であると―」
「まあ、そうだな。愛していても、義務的なものを感じたときは性欲が減退する。なんとか奮い立たせることはできるけどね」
「おまえがどんなに性欲にまみれていても、抱かれるときの女は愛されて抱かれてるって感じがするから、たとえ回数が少なくても満足するわけだ」
「そんな理屈をこねるところを見ると、よしのり、おまえピストン運動に飽きちゃったんじゃないの。勃たないんだろ」
「ああ、最近、ふにゃチンでさ」
 千佳子が真っ赤になってうつむいた。
「いやな女とばかりやってるからだ。だいじょうぶ、好きな女が現れたら、いっぺんに治るよ。……ところでよしのり、いいかげんおまえらしくないことはやめろ」
「何のことだ」
「一橋大って、なんだ。中卒でいいだろう。くだらない女のヒステリーで、人生懲りちゃってどうするんだ。おまえが学歴にこだわるなんて、見ていられない」
 口で諭して、よしのりの不安をわずかに慰めてやることはできるけれども、実際のところ、学歴などという底の浅いものではなく、彼の心は別の場所で苦しみと格闘しているとわかっている。その場所は正確にはわからないけれども、苦しんでいると感じることはできる。
「……なあ、神無月、小物じみたことを言うようだけど、何にせよ学歴は尊いんだ。世間を渡る力になる。……知ってるか、神無月、俺はこの千佳ちゃんと同じだよ。最初に会ったときにおまえに惚れた。俺のつまらない愚痴を、おまえは辛抱強く聞いてくれたよなあ。ありがたかった。俺はあのとき、おまえから一生離れないと決めたんだ。十和田にいるあいだも、おまえのことを忘れたことはなかった。いまはほんとに幸せだ。こうやっておまえのそばにいられるんだからな。大学にかよって、野球をして、詩を書きつづけてくれ。おまえの出世だけが、俺の生甲斐なんだ」
 そう言ってよしのりは、ああすればよかったのだが、そうすることができなかったというふうに、と呟いた。
 八戸に停車した。青森行きの鈍行列車に乗り換える。千佳子が窓外の景色に目をやりながら、ずっと私の手を握っている。別れの時間が迫っている。
「そんなに神無月が好きか」
「はい。神無月くんが死んだら、死にます」
「その気持ち、忘れんなよ。カズちゃんたちも、山ちゃんも俺も心中する気でいるからな」
 カズちゃんや山口はそのとおりだろうが、よしのりはちがう。大上段にそう口に出すことが楽しいのだ。
「お父さんに会いにいったとき、破れたポケットから落ちた百円玉。お母さんに悪いから使ってしまおうと思って映画館の前に立ったとき、ないって気づくの。そしてホッとするの。そういう人となら、いつでも心中できます」
「そんな話までしたのか」
「私、もう神無月くんの年表書けます」
 土手、草むぐら、田、林、畑、川、遠い山並。風景に野辺地のにおいがしはじめた。
「そろそろ野辺地だ。じゃ千佳子、一カ月後ね」
「はい、文房具を入れたカバンと、からだ一つで上京します」
 夜の六時前に野辺地に着いた。千佳子に軽く口づけしてホームに降りる。車窓で手を振る千佳子が見えなくなるまで手を振った。
 合船場には寄らずに、駅前からタクシーを飛ばして馬門までいく。窓の風景になつかしさが湧いてこない。よしのりは運転手の背中に、
「いちばんいい旅館ね」
 と言った。
「いぢばんもなんも、お客さん、馬門には冨士屋一軒しかねェですよ」
「じゃ、そこ、よろしく」
 ロータリーからの坂道を降りていく。薄暮の町並を眺める。
「この鳴海旅館、カズちゃんが勤めてた」
 よしのりは上の空でうなずいた。窓を開けると涼しい風が吹きこんできた。野辺地病院を右手に見て、野辺地川を渡る。だらだら坂。カクト家具店、五十嵐商店、青森銀行、佐藤製菓。うさぎやを左折して、新道の入口を瞥見し、銀映を瞥見し、八幡さまを右へ曲がると、あのころのカズちゃんの家につづく小路が見えた。
「この小路の向こうに、半年、カズちゃんが住んでた」
「なんだかなあ、カズちゃん、カズちゃんて、カズちゃんがおまえを一手に引き受けてるようだな」
「野球も、勉強も、寝起きもね。ぼくは彼女の心臓だから。……逆もありかな」
「逆?」
「彼女もぼくの心臓になってるということ」
「俺もおまえの腎臓ぐらいにさせてくれ。山ちゃんは肝臓。肝腎かなめだ」
「ほかの女は?」
「その他の内臓でいいだろう。なければ命が危ういんだから」
「これから増えていく女は?」
「盲腸」
「わかってないな。ぜんぶ心臓だ」
 岡田パンを過ぎ、すぐに知らない風景になった。馬門温泉はおろか、こっちの方角には足を向けたことがない。
「野辺地に長くいても、こんなところまできたことがない」
「国道243号線です。青森市までつながっとります」
 運転手が言う。
「……この道、引越しトラックで一度通ってる」
「おまえも忙しく動き回ってきたな。縦貫さん、俺、横山だ」
「ああ、新道の。そちらさんは?」
「合船場の郷だ。有名だろ」


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