九十七

 屋根の低い古い家々と藪しかない道を踏切のほうへ登っていく。
「ここで死んだ味噌屋のけいこちゃんと、種畜場の兄妹はイトコなんだよ。知ってた?」
「知らねがった。秀子も言わねがった」
「中島の妹とけいこちゃんはそっくりだ。見るたびに胸にくる。……種畜場と、山田くんの家に挨拶にいこうと思ったけど、じっちゃがかわいそうだからやめるよ」
「やめなくてもいがべ。晩げにゆっくりでぎるじゃ。めったに会えねんだすけ、いってこい。遅ぐなんねうぢに帰ってこい。晩げの用意しておぐすけ。その前に惣介のとごさ寄っていぐべ」
 じっちゃの弟の家だ。坂の途中で折れた。何度目かの訪問だった。私は頭の中で整理した。じっちゃの祖先は南部藩師範代という士族であり、じっちゃの父親は明治維新後に士族の商法で造船所を営んで失敗した。ばっちゃは野辺地のかなり大きな商家の出である。ばっちゃはじっちゃに嫁ぎ、妹は坂本という漁師の嫁になった。坂本の息子たちはなぜか合船場を煙たがっている。じっちゃの弟が二百メートルも離れていない場所に暮らしている。そもそも、南部藩の城はどこにあり、じっちゃの父親の造船所は浜町のどこにあったのか。ばっちゃの実家の商家はこの野辺地のどこにあって、どんな種類の商売をしていたのか……皆目わからない。よしのりの横山家とガマの村上家は、ばっちゃの遠縁に当たると言う。たぶん商家の分派なのだろうけれども、親しく付き合っている様子がないのはどういうわけなのだろう。
 それが、私が十九年間で知り得たすべてだった。人はみずから語らないかぎり正体がわからない。私は、母や父の過去と同様、合船場に関するどんなことも探らないことに決めた。とにかく何かの因縁で、私はここにいるのだ。蛙の卵の一粒一粒の来歴をたどったところで詮がない。その一粒一粒自体が正体不明なのだから。
 惣介さんも坂本と同じように炉端で茶を飲んでいた。じっちゃに似た小ぶりな四角い顔をしている。この顔を見るのも何度目かだ。いつものように、惣介さんの長男の嫁という太った女が出てくる。ばっちゃはホタテを半分、ウニを一枚分けてやった。バケツが軽くなった。上がれと言うので、ばっちゃと炉端に坐った。嫁はガハハと笑いながら、
「有名になったニシ。相変わらずいい男だっきゃ。若げころの善吉さんとソックリだでば。女殺しだこだ。このばっちゃも善吉さんに殺されたのせ。いいとごの娘だったのに、じっちゃに入れこんでまって、七人も八人も子をなしたの」
 ばっちゃはうれしそうに、からだをこごめる笑い方をした。惣介さんは口を利かず鷹揚な肩つきで煙草を吸っていた。小さな女の子が二人、私にまとわりついてきた。ばっちゃが紙袋といっしょに菓子折を差し出すと、嫁はすぐに開けて惣介と女の子たちに供した。
「婿さんは役所がい?」
 ばっちゃが尋いた。おそらくその男には生涯会うことはないだろう。嫁が、
「おうよ。五時半にピタッと帰ってくる。時計みてな男だ」
 惣介が口を開いた。
「それがいぢばんだ。アニギみてになったら、一家が苦労する。大した男だたて、働がねんだおん。ハギさんも苦労したべ」
 ばっちゃはまたからだをこごめて笑い、
「なんも、好ぎだ人に尽ぐすのあだりめだべ」
「おんや、いづまでノロケてるんだが」
 嫁がまたガハガハ笑った。惣介も肩の胸のつかえが下りたような笑顔になった。ばっちゃがこういう話をしたのはたぶん初めてのことだったのだ。
「ばっちゃって、いい女だね」
 私が言うと、
「こそばいじゃ。じっちゃは人嫌れだすけ、ワが尽くさねばラチが明がねのよ。アダマよすぎで、だれともうまぐいがねすけ。うまぐいぐのは、おめぐれなもんだ。おめもじっちゃとソックリだすけな」
 惣介の女房に当たる人の姿がないのを妙に感じた。
「惣介さんの奥さんは?」
「五年前に癌で死んだ。おめが野辺地さくる少し前だ。オラがハギさんにいい顔をするのを曲げて取って、餅焼いてせ、ハギさんもこごさきづらかったんず」
 嫁が、
「ハギさんは、スミちゃんとはタイプがちがるたって、野辺地小町だったんでェ。曲げて取るのはあたりめだんだ」
 スイトンがおやつ代わりに出されたので、家族たちといっしょに食べた。いい味だった。スイトンで腹ができたのに、そのまま一家の昼食になり、帰りそびれて、きちんと昼めしを勧められた。ばっちゃが茶漬けを所望すると、梅ジソと小かぶの漬物で湯漬けが出た。一膳食った。
「ばっちゃ」
「なによ」
「じっちゃは、ばっちゃにヤキ餅焼かなかったの」
「焼がね。オラのほうが焼いだ。子をジッパどなしたのは、オラがじっちゃを離さねがったからだ」
「ぼく、じっちゃに似てる?」
「おめのほうがイイ男だ」
 惣介が白髪のいただきをコリコリ掻いた。子供二人が私をきらきらした目で見つめていた。女と子供と老人しかいなかったので、野球の話は出なかったが、それからはやはり近所の人びとの生き死にの話題になった。そろそろ一時になろうとしていた。ばっちゃが私の様子を見て、いとまごいをした。
 田島鉄工の前を歩きながら、
「ばっちゃ、ぼくはなんだか、うれしくてしかたないよ」
 その気持ちをどう説明していいのかわからなかった。ばっちゃはひとこと、
「オラんどは、似た者だんだ」
 と言った。合船場の玄関で、バケツを持ったばっちゃと別れ、もう一度海浜へ戻って、種畜場にいった。このあたりの夏景色を見るのは初めてだった。山田三樹夫と杉山四郎を思い出しながら歩いた。
 緑に囲まれた種畜場は、牧場のように美しかった。玄関で声をかけると母親が出てきた。伊勝のミッちゃんのような老眼鏡をかけていた。それでも美しい人だとわかった。彼女は式台に膝を折り、
「おひさしぶりです。どうぞ上がって」
 と丁寧な辞儀をした。中島の家庭教師をした広い板の間に通された。まだ務めを果たさないストーブがでんと坐っている。年中据えっ放しのようだ。父親の姿がない。一度も対面できない巡り合せのようだ。母親が茶をいれにいったのと入れ替わりに、ヒデさんがばたばた出てきた。
「神無月さん! 夏休みが取れたんですか」
「いや、練習の合間に出てきたから、あした帰らなくちゃいけない。勉強進んでる?」
「必死です。青高はみんなできるからたいへん。でもこのあいだ、やっと五番に入りました」
「すごいね、東大級だ」
「神無月さんが在学中に中日ドラゴンズに入ったら、名古屋大学にいきます」
 母親が茶盆を捧げて出てきた。あの日のヒデさんと同じ格好だ。皿にナスの漬物が盛ってある。
「中島は?」
「六月の下旬に帰ってきて、すぐに帯広へ戻りました。農場実習があるとか言って」
「そう。あの中島が大好きな動物相手に走り回っている姿が想像できる。なんだか気持ちがいいな」
「神無月さん、東大準優勝おめでとう。それから戦後三人目の三冠王、おめでとう」
「三人目だったのか、知らなかった」
「それより、どんなすごいバッターでも四年間八シーズンで二十本打てるかどうかというホームランを、たった一シーズンで打ってしまったほうが驚きです。この記録は地球が滅ぶまで破られないだろうって新聞に書いてありました」
「マスコミはオーバーだね」
 母親が、
「合船場や野辺地中学校にも、新聞のインタビューが押しかけたんですよ。きょうは道を歩くのがたいへんだったでしょう」
「いえ、別に」
「え! ほんとですか。揉みくちゃにされてるものだと思ってました」
「そんなふうに思うのはぼくに好意を抱いてくれる人だけです。揉みくちゃにされるのは芸能人ぐらいでしょう。テレビにいつも出て、ものをしゃべっている人以外は有名人とは言えません。新聞でモテはやされてる人間は無名です。テレビ社会の当然の帰結です。たとえば、ソロバン暗算日本一とか、トラックに腹を轢かせて平気な鉄人とか、喉に剣を押しこむ大道芸人とか、とんでもない能力を持った人たちも有名にはなれません。テレビに出てもらいたいほど彼らの芸が平均的ではないので、大勢の人たちに好まれないからです。ぼくのホームランもそうです。とりわけぼくはマスコミ嫌いなので、けっして有名になることはありません。大衆はマスコミ好きですし、マスコミは平均的な人びとを好みます。マスコミが大衆の代表である以上仕方のないことなんです。ぼくは異常な記録を作りつづけようと思ってます。異常というのは人間としての誇りだし、ぼくを愛する異常な人たちが喝采してくれます」
 ヒデさんさんが、
「私たちも異常なんですね。わかりやすい説明。大衆は平均なものが好きということですか?」
 猫目をクリクリさせて尋く。
「そう、自分に似てるから。ふつうの人は自分に似ていないものに不安を覚える。自分には敵わない人間を心から尊敬できる寛大な人だけが、異常な人を心から喝采する。異常な人を嫌悪しながら喝采に付和雷同する人は、いずれアラ探しを始める」
「芸能人は異常人じゃないんですか?」
「才能のある人はいるけど、大衆に嫌悪感を抱かせるほど異常な人はいない。彼らが大衆と似ているのは、有名になりたがる点だ。そこに惹きつけられる。異常な人間は有名になりたがらない。ただ才能を発揮したいだけだ。そういう人間は大衆に好まれない」
「テレビの仕組みがぜんぶわかりました。神無月さん、大好き!」
 ヒデさんが私の手をとると、母親はあらためて感謝の表情を浮かべ、
「おかげさまで、ユキオは帯広畜産大に受かりましたし、ヒデは青高に受かりました。二人とも、将来に希望を持ちながら、張り切って学生生活を送っていけます。何もかも神無月さんのおかげです。お礼の申し上げようがございません」
 そう言って微笑を深くして叩頭した。
「本人の力です」
 母親は顔を挙げ、
「いいえ、神無月さんのおかげです。二人とも神無月さんを励みに勉強しました。人を励みにすることほど強いことはありません」
 茶を注ぐ。一口飲む。母親は私に含みのある顔で、
「神無月さんを好んだということは、うちの子たちも少し変わっているということでしょう。ふつうの人間には満足しないはずです。秀子は神無月さんにあこがれています。それが生きる原動力みたいです」
 しばらく私の顔を見つめ、
「……東京に出たら、お付き合いしてやっていただけないでしょうか。そういう希望も励みになるんです。神無月さんの事情は秀子から聞いています。何人もの女のかたから愛されているそうですね。私も変わっているんでしょうか、ヒデと同じように、神無月さんに何の嫌悪感も抱かないんですよ。結婚を前提にということではないんです。ただ、この子の思いを叶えてやっていただけませんか」
 もう一度手を突いた。ヒデさんも母親のまねをして手を突いた。私は笑いだした。
「だれかがどこかから覗いていたら、何かの冗談かと思って気味悪がりますよ。ヒデさんは明るくて、聡明で、見ているだけで気持ちが晴ればれとします。ぼくの生きる原動力にもなるでしょう。……ぼくは幼稚園のころ、味噌屋のけいこちゃんが好きでした。あの顔がぼくの中で、女の原型になっています。ヒデさんはそのけいこちゃんにそっくりです。中島くんにも言ったことがあります。ただ、そうなればおたがいに男女の……」
「もちろんそうでしょう。不都合がおありですか」
「いえ、まったく。ただ、大学生活が」
「ヒデにとって大切なのは神無月さんで、大学じゃありませんから」
「ヒデさん、大学も人生のバラエティだよ。とにかく受かるようにがんばって」
「はい! がんばります」
「ぼくは野球で忙しくしてるから、ヒデさんにも何かやってほしいな」
「もう決めてるんです。乗馬をするつもりです」
「乗馬!」
「はい。小さいころ、父に乗せてもらって、いっぺんで気に入りました。ここにも二頭いて、ときどき乗ってるんです。父はもちろん、兄も母も乗れるんですよ」
「なんだかいいなあ。浮きうきしてくる」
 母親は心の底からホッとしたように笑った。
「よかったね、秀子。受験前に会いにいくんでしょう? 神無月さんにご面倒かけないようにね」
「いけば面倒かけるわよ。手紙だってあまり出さないようにしてるくらいだもの。面倒かけても許してもらえるような時期にいくわ。つまり合格したとき」


         九十八

「お父さんは、このことを?」
「主人は二人の子供のどちらも、猫だと思ってます」
「猫? 猫かわいがりということですか」
「いいえ、子供たちを愛してますが、猫のように放任してるということです。どんな生き方をしても、命の危険がないかぎり、笑って見てるでしょう。夫は農林高校を出てから動物一筋の極楽とんぼです。世間のことには疎くて、ユキオの受けた帯広畜産大さえ知りませんでした。ユキオも気抜けしておりました。たぶん、夫は神無月さんが野球で活躍してることも知らないと思います」
「すばらしい!」
「そんなものですか?」
「チビタンク……いや、中島くんが尊敬するのもわかる気がします」
「ユキオが?」
「むかし、そう言ってました。ところで、種畜場ってどういうことをするところですか」
「国が経営してる施設です。ここはその施設の官舎で、歩いて二十分ほどのところに国立牧場があります。研究所の大きな建物も牧場に付設してあって、そこで家畜やら家禽やらの種つけをしてます。種つけ事業の指導や、有畜農業を奨励する広報活動や、飼料作物の経営もします」
「難しそうですね。お父さんはその仕事に邁進しているかたなんですね」
「とにかく動物好きですから」
 母親はもう一杯茶をついだ。私はナスのお新香をつまんだ。
「ほんとに、神無月さんはスミさんそっくりですね」
「え? 女学校がいっしょだったんですか」
「いえ、私は高等小学校まででしたけど、スミさんのきれいなことは野辺地じゅうに知れわたってました。ときどき、本町で見かけたりすると、颯爽として、目を見張るほどきれいなかたでした」
「野辺地小町と言われたんですよね」
「ええ、そう言われてました。お祖母さんもそういう評判のかただったそうです」
「ばっちゃのことは、きょう親族の家で初めて聞きました。母がそう呼ばれてたことはよく母自身の口から聞かされました。でも、他人が褒めるならいざ知らず、自分で自分の美を誇るというのは、人間として下等なことだと思います。ばっちゃは奥ゆかしい。私の母よりきれいだったと思いますよ。いまも内面から健康な輝きを発してます。母は内面に栄養がいきわたらないせいで、醜くすすけてしまいました」
 母子で当惑したように顔を見合わせた。
「こっちに送られた事情をよくヒデから聞いてます。神無月さんのお気持ちはよくわかります。神無月さんが女の人に好かれたことがお母さんを刺激して、意地悪な気持ちにさせてしまったんでしょう。潔癖症のような少し怖いところのある人だったと聞いてますから。お祖父さんも、神無月さんのお父さんも、女の人によくモテたかただったそうです。お二人とも非常に誠実で、よく努力するかたで、出世はとんとん拍子、そういうかたには浮いた話がよく似合います。ただ、ヒデのことで、お母さんを刺激するようなことにならないようにと祈ってます」
 私は首を振り、
「女性関係のことでそういう面倒はもう起こらないでしょう。ぼくは徹底した秘密主義になりましたから。母は女性関係のことばかりでなく、最近は野球についても何も言ってきません。油断はしてませんけどね」
「そうですか。野球のことでも、ヒデがご迷惑にならないようにと念じてます。ところであの味噌屋は、私の姉が嫁いだ先です。だからケイコは私の姪に当たります。気の毒なことに、一人娘のケイコが死んでから、姉はおかしくなってしまって……。ご主人は味噌屋を閉めて、姉を連れて大間のほうへ越していったんですが、そこで姉は首を吊って死にました」
 腰のタオルを抜いて目に当てた。ケイコー、という声が遠くから響いてきた。
「……そうでしたか。あのお母さんがおかしくなって、味噌屋を閉じたということはばっちゃに聞きましたが」
 ばっちゃはそのとき、けいこちゃんの母親が頭を病んで自殺したという話もしたかもしれなかった。憶えていない。ヒデさんの母親は沈んでいた顔を明るい笑顔に戻して、
「でも、神無月さんのお話を聞いて、なんだか安心しました。ヒデはきっとケイコの生まれ変わりなんでしょう。親としてもうれしいです」
「ヒデさんは代用品じゃありませんよ」
 母親はホホホと声に出して笑った。ヒデさんがまた温かい手で私の手を握った。
「じゃ、ぼく、これから山田三樹夫に線香上げにいきますから。中島くんによろしくお伝えください」
 ヒデさんが、
「一子さんにケッパレって言ってください。彼女、来年受験だから」
「家にいたら伝えとく」
「日曜日だからいると思うわ。夏休みだし。私、電話しときます」
 母親がもう一度叩頭して、
「きょうは、ほんとにありがとうございました。くれぐれもこれからも秀子のこと、よろしくお願いいたします」
 母親とヒデさんは玄関まで見送りに出た。歩きだしながら、振り返ると、遠目に、ヒデさんの母親もけいこちゃんに似ていることがわかった。遥かな思いがやってきた。
 金沢海岸沿いの道路を歩いて本町に向かった。うさぎやから袋町へ折れる。百メートルほど先の道のほとりで、一子が立って私を待っていた。私は早足になった。一子も走ってきた。 
「おひさしぶりです! 五月人形が歩いてるみたいでした」
「山田くんに会いにきた。勉強はどう?」
「がんばってます。ずっと野高の一番を通してます。でも、東京へは出られそうもありません」
「どうして? ヒデさんも受験期になってから考えると言ってたけど」
「……母が大学受験に反対なんです」
「へえ! なんだか話がちがってきたね」
「どうしても受験したいなら、岩大にしろって」
「手もとに置いておきたいんだね」
 一子は玄関の戸を開けて中へ呼びかけた。
「お母さん、神無月さんがきてくれたわよ」
 廊下にヌッと顔を出した母親は、あの日よりも冷やかな表情で私を迎えた。
「山田くんに線香を上げようと思いまして」
 彼女は軽く会釈をし、私を奥の仏間へ連れていった。一子は私の背中についてきた。位牌と写真一枚になった山田三樹夫が、仏壇から私を見下ろした。線香を焚き、リンを打って、写真と位牌の前に掌を合わせた。母親が話しかけてこないので、お辞儀をして、玄関へ出た。母子で囁き合うような声を聞きながら玄関を出ると、一子も出てきた。
「すっかり嫌われちゃったね」
「神無月さんが有名になって、つらいんです。三樹夫の足もとにも及ばない男がって言ってました」
「……当たってるな」
「でたらめを言わないでください。……母には兄がすべてだったので、神無月さんのことはぜんぶ癪の種になるんです。兄もすばらしい人でしたが、神無月さんのすばらしさは常識の物差しでは計れないものです。母を許してやってください。兄が死んで、ものが見えなくなってしまったんです」
「こうやってぼくと歩いてるのもたいへんだね」
「五分ぐらい出てくると言ってきました」
「五分!」
 私は手帳を破って荻窪の住所と電話番号を書いた。あてもなく二人、郵便局を曲がって新道を歩く。
「あのお母さんじゃ、ぼくはきみに手紙を出せないし、電話もできない。何かの折でこちらにきたときしか会えないね。来年は受験の時期だから、会う時間を作るのは無理かもしれない。再来年からは―」
「私、受験しません」
「え?」
 私は、まじまじと一子の顔を見つめた。真剣な目で見つめ返す。
「……母の反対は押し切れません。でも、何年か働いて、母の援助なしでやり通して、お金が貯まったら、大学を受験します。秀子さんから少し遅れるかもしれないけど」
 私は一子の手をとり、
「お金の枷じゃない。心の枷だ。働いたら、大学はまず受からない。ヒデさんが、がんばるように伝えてくれと言ってた。無断で東京の大学を受ければいい。そのつもりなら、上京と受験の費用は送るよ。お母さんの反対なんか気にしちゃだめだ。受かりさえすれば、お母さんも考え直すよ」
「……たぶん、だめだと思います」
「そうか……。そうだろうね、わかるよ。ぼくも同じ環境で遠回りした」
 一子は私ではない。何を言ってもむだだろう。よしのりの家の前まできた。
「じゃ、ここで別れよう。また会える日まで元気でね。さよなら」
「さようなら」
 歩みだして手を振ると、一子は胸の前で小さく手を振って応えた。
         †
 合船場の夕食はホタテ尽くしだった。刺身、煮付け、七輪で炙った貝焼き。ウニとホッケ焼きも出た。食卓をともにしないじっちゃは、私が箸を動かす様子を穏やかに眺めていた。
「ホタテの肝がこんなにうまいなんて知らなかった」
「ワラシは、うまいもまずいもわがらねすけな。ちゃっけころはなんもホンツケなぐうまいもの食ってたんだ」
「ホッケもうまい。じっちゃは、トビウオがいちばん好きだったよね」
「ンだな」
 上機嫌に答える。
「ばっちゃは?」
「何でも好ぎだ」
 煙草を吹かしているじっちゃに、貝焼きを差し出すと、
「食い飽ぎてるじゃ」
 とにっこり笑った。ばっちゃに惚れ抜かれた男の笑顔だった。
「あのおばさんは、いつも何かくれるね」
 じっちゃが、
「坂本は恩を忘れね男だんだ。あの嫁が若げころ、ばっちゃにさんざん世話になったすけな。結婚式の費用もばっちゃが貯金をはでたんだ」
 恩を思い出させるのがいやさに、ばっちゃは年に何度も訪ねないという。私がきたときだけは特別のようだ。
「坂本はときどきこごさ寄るけんど、嫁はこね」
「惣介さんのところは?」
 ばっちゃが、
「三年にいっぺんもいがね」
「くれてやる一方よ。あの嫁は強欲たがりだすて」
 じっちゃが舌打ちした。
「ばっちゃ、これからはいきたくないところへはいかなくていいよ。種畜場では歓迎されたけど、山田くんのところではお母さんに冷たくされた。これで二度つづけてだ。もういかない。一子は親切だった。ヒデさんも一子も、東京の大学を受けるって」
「二人とも、心持ぢのいいワラシだ。おめに惚れてるすけ、そばさいきてんだおん。したばって、東京の大学は難しいべ」
「彼女たちは受かるよ。ヒデさんは青高の五本指だし、一子は野高の一番だ。ただ一子はお母さんが反対してるらしい。彼女が東京に出ることを嫌がってるんだ」
 じっちゃが、
「郷みでに、最後の最後はてめの力で凌ぐしかねな。オラんどが口出してもどうにもなんねべ」
「子供の将来を奪ってしまって、なんも思わね人間もいるんだ。スミみてにな。二人が女学校で競争してだのがよぐわがる。そっくりなんだじゃ。死んだ三樹夫も助かったな。生ぎてだら、悲しい思いしたべに」
 ばっちゃが言った。私は最善の方法を一子に教えたのだと確信した。
 七時を回って夜が更けるにつれ、老人たちの活力は失せてくる。都会の宵の内は、彼らの夢見の時間だ。
「ごめんね。今度きたときは、もっとたくさんいる」
「気にすな。顔見るのと見ねのとでは大ちがいだんだ。三日が一日でも同じだ。わざわざ東京から顔出すんでェ。ありがたくて仕方ねじゃ」
 勉強部屋で寝た。健児荘で使った机が、ステレオと並べて窓際に置いてあった。善司の本棚に薄っすらと埃がかぶっていた。壁の裾の壁紙がところどころ破れ、竹骨が覗いている。むかしのままだった。この部屋で悲しみといっしょに暮らしたことがあった。あのときほどするどくはない、湿り気と重みの増した悲しみの中で目をつぶった。


         九十九

 七月二十二日月曜日。曇。空気が蒸しタオルのようだ。
 ばっちゃが駅まで見送ると言う。よしのりと帰るから、と言うと、
「あれもきたのな」
 じっちゃが顔をしかめた。
「東京じゃ、すぐそばの駅に住んでいて、いつも世話になってる」
「何の世話だが。逆だべ」
「そういうものでもないんだ、いいやつなんだよ」
「わげもなぐ刺さってきたら、追っ払うんで」
「わかった。安心して。道中をいっしょにするだけだから。じっちゃ、また来年ね」
「気をつげていぐんで。手紙コ書ぐすけな」
 ばっちゃといっしょに土間から明るい陽ざしの中へ出た。ばっちゃが横山に挨拶していくと言う。
「ハナちゃんは、くっちゃべりだすけ、話早ぐ切り上げねば」
 ばっちゃが玄関から呼びかけると、ハナさんと恵美子が出てきた。恵美子はまじめな表情をしていた。ハナさんが、
「おんやあ、ババちゃ、いがったな。キョウちゃんのツラ見れて。こたらことでもねば、よしのりも帰ってこねべおん。東京では、だいぶ世話かけてるらしな。ありがと」
「なんもよ、こっちこそ、世話になってるてじゃ」
 絣姿のよしのりが爪楊枝をくわえて顔を出す。少し酒が入っている。
「じゃ、出発するか」
「うん、野辺地駅まで歩こう」
 玄関に出てきて、ハナさんと恵美子が頭を下げた。ハナさんが、
「キョウちゃん、今度こっちさきたら、夜這いしてやってけんだ。オラはなんも言わすけ」
 恵美子はとぼけた猿面をあらぬほうに向けた。応えずに、お辞儀だけして三人で歩き出す。新道から本町に出るまで、よしのりは南洋にいる二人の兄たちの話をした。
「一家の生計を助けるなら、二人でじゅうぶんだ。それなのに、俺まで引きこもうとしてる。南洋に出ろってよ。家を建てたいんだな。危ないからしばらく帰らない」
 ばっちゃが、
「おめみてなヤサ男、漁師になれるもんだってが」
 よしのりは笑い、
「だろ? 君子危うきに近寄らずだ。野辺地に戻ってくるのも、今回が最後だな」
「おめはおめで勝手にしたらいがべ。キョウをくだらねこどに巻きこむなじゃ。だあ、あたらのにキョウを夜這いさせるもんだってが。おめんどの一存でキョウを動かすことはでぎねど」
「わり、わり、もう押さないよ。意気地のない女だ。人にばっかり頼って。真剣さというものがない」
 佐藤菓子の前でばっちゃは、
「文雄のかっちゃに挨拶していぐすけ。おめんど気をつけていぐんで」
「うん、ばっちゃ、元気でいてね。約束はできないけど、こられる機会があったらかならずくるから」
「おう、いづでも帰ってこい」
 ばっちゃは佐藤製菓のドアを押して入っていった。呆気なく祖父母と別れた。この呆気なさがいつも心に残る。よしのりと野辺地駅まで歩く。これから何度でも見ることができる家並だとわかっていても、目に染ませるように眺める。野辺地川にかかるコンクリートの橋にたたずむ。よしのりが嘆息して、
「濁ってるな。こんな小っちゃな町にも都市化の波が寄せてきてる」
「海も汚くなるのかな」
「遠くないな。あの浜にも堤防ができるだろう。山は削られる。ますます帰りたくない町になる」
 だらだら坂を登る。
「ここ、カズちゃんが働いてた旅館。きのう、四戸末子ときた」
 よしのりは、今度は上の空でなく玄関を眺めた。野辺地駅の小さなロータリーに出た。
「俺は十鉄バスでいく。十和田へ直行。おお、もうきてる。じゃ、あしたの三時、青森のグランドホテルでな」
「もう少し遅いほうがいいな」
 よしのりはニヤリとし、時刻表を見ながら、
「じゃ、六時でいい。弁当でも買って、寝台特急に乗ろう。六時四十五分にゆうづる2号がある。上野には朝の五時四十一分に着く」
「十一時間か。ロマンチックだ」
 よしのりが乗りこんで、すぐバスが出た。
 十時過ぎに青森に着く。駅前から葛西家へ電話をする。ミヨちゃんが出た。
「郷さん……」
 しばらく絶句しあと、電話を引ったくる物音がした。
「いま、どこですか」
 奥さんが電話を代わって泣き出し、
「駅前にいます。二十分ほどで着きます」
「会いにきてくれたんですね。忙しいでしょうに。いつも新聞読んでます。主人の切り抜き帳も三冊目になりましたよ。何百年も破られない記録を作ったんですってね」
「ご主人は?」
「五時過ぎに帰ります」
「ご主人に会ってから帰ります」
 ふたたびミヨちゃんに代わり、
「逢いたかった! 恋しくて恋しくて、気が狂うほどでした」
「何年生になった?」
「中三です。先月十五になりました。来年、青高を受けます。私、しっかり勉強したんです。……一年ぶりですね。うれしくて死にそうです」
 花園町にタクシーで乗りつけた。玄関に夏服の二人が出迎えた。ミヨちゃんは妖しいほど美しくなっていた。中学生らしい長髪が肩に触れ、大きな垂れ目には魅力的な愁いがあふれていた。四十歳の奥さんは、あわてて化粧をしたようだったが、さすがに目縁や頬の衰えは隠せなかった。それでも並の四十代の女よりははるかに立派な容色を保ち、一年前よりも透き通った雰囲気をただよわせていた。ミヨちゃんが私の手をとり、
「郷さん、ますますきれいになったわ。少し焼けましたね」
 奥さんももう一方の手をとった。親しんだテーブルに向き合って坐り、しばらく無言で見つめ合う。二人とも目を潤ませ、何をしゃべったらいいのかわからないようだ。
「サングラスのおじさんは?」
「自分から言い出して、浅虫の盲人介護施設に入りました。これ以上迷惑かけたくないと言って。ひと月に一回、お母さんと交代で会いにいってます。おとうさんがいくこともあります。叔父さん、神無月さんの話をいつもしてます」
 私は、
「ときどき彼のことを夢に見ることがあるんです。深い印象を与える人だった。……よろしくお伝えください」
「いつも伝えてますよ。新聞を読んであげたりするんですよ」
「この何年か、ふと思い立つと、健児荘の羽島さんにも会いにいって、お話しすることがあるんです。郷さんの思い出話が聞きたくて。来年合格したら、健児荘に入ることにしてます。逢っていってあげたらどうですか。一日ぐらい、練習サボってもいいんでしょう。秋のリーグ戦は九月からですよね」
 よく知っている。母親もうなずいているところを見ると、父親の影響で相当野球に詳しくなったようだ。
「きょう寄っていきます」
 ミヨちゃんが、
「よかった。あんないい人に愛想なくするような郷さんじゃないもの」
 奥さんが、
「今月の初めに赤井さんが訪ねてきて、神無月さんのことをうれしそうに語ってましたよ。雲上人になったって。長年お世話になったお礼に、葛西家にカラーテレビをプレゼントするなんてとんでもないことを言うので、お断りしました」
 なるほど、白黒の十四インチテレビが古ぼけてきている。窓のカーテンや、水屋や箪笥やその上に載った電話は古ぼけていない。その対照がすがすがしい。二人の女の胸のふくらみを見た。すぐ視線に気づいたミヨちゃんが、赤くなってうつむいた。奥さんが微笑し、
「相変わらず開けっぴろげな人ですね。コーヒー入れますね」
 そう言って台所に立った。私はミヨちゃんの顔をじっと見つめた。
「中三か。ぼくが野辺地にきた齢だ。十六歳でミヨちゃんに遇った。あのときもきれいだったけど、ますますきれいになった」
「郷さんに喜んでもらえて、うれしいです。郷さんこそ、まともに見つめられないくらいきれいです」
 奥さんがコーヒーと大福を運んできた。
「なつかしいな、大福。赤井さんとよく食べた」
 ミヨちゃんが、
「赤井さんが、ミヨちゃーん大福! って呼んだ声がなつかしいですね」
「あれから三年と半年ですね」
 目頭を押さえた。
「このコーヒー、うまい。フィルターで入れるようになったんですね」
「健児荘の山口さんのコーヒーを飲んでから、インスタントはちょっと……」
「お漬物切ってきます。コーヒーに合わないと思うけど」
 奥さんが台所にいっているあいだ、ミヨちゃんはずっと私に寄り添い、唇を合わせたり、ワイシャツの胸をさすったりしていた。私は彼女の大きな胸をさすり、唇を吸い、顔を見つめた。
「あと四年だね」
「郷さんのことを考えると、いくらでも努力できます」
「たぶん来年、ぼくはプロにいく。中日ドラゴンズに入団する。名古屋に戻るんだ」
「青高に入ったら、年に一回ぐらい逢いにいきます。名古屋大学を受けます。それからはずっとそばにいます」
「東京のいまの住所を言うから、書き取って」
 ミヨちゃんは電話口に立っていってメモ用紙に書きつけた。長い髪、丸みを帯びた水平な肩、スカートの腰のくびれ、上向いた豊かな尻、引き締まったふくらはぎ、大きめの足。完全な美しさだ。奥さんが漬物の皿を持って戻ってきた。
「あとでオムレツとバタートーストのおやつを作ります。それを食べたら、合浦にいきましょ。神無月さんと合浦公園を散歩したことがなかったから」
 オムレツのおいしさは思いもかけないものだった。ミヨちゃんだけでなく、奥さん本人も驚いた。
「何年かにいっぺんの傑作。こんなマグレ二度と起きないわ。神無月さんが逢いにきてくれたからね」
 二杯目のコーヒーをいれる。コーヒーを含みながらミヨちゃんが、
「私、神無月さんをどうして好きになったんだろうって、この一年よく考えたんです。少年らしさ。それが答えでした。神無月さんの本質は純粋な少年らしさだって、それを好きになったんだってわかったんです」
 母親が、
「砂遊び。それはときどきする楽しい遊びで、人生にはそれ以外の時間のほうが圧倒的に多いって美代子に言われて、ストンとわかったのよ。神無月さんは喜んでいっしょに砂遊びをしてくれる少年」
 奥さんは腕時計を見て、
「一時。合浦から戻ると二時半ね」


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