百十二 

 カズちゃんたちの姿が見えないと思ったら、おトキさんや賄い連中に混じって、台所で動き回っていた。直人を抱いたトモヨさんが、味噌汁を盛っていたカズちゃんに近づいて、ひとことふたことしゃべりながらお辞儀をした。カズちゃんがポンと背中を叩いた。みんなで皿を運んでくる。カズちゃんが、
「お帰り、キョウちゃん。散歩のことだけど、大門通りは去年見たとおり、文化財の妓楼と、トルコの建物以外観るものがないから、お城にいってきたら? 東奥日報さんのほしいのは、外を出歩いているキョウちゃんの写真でしょ」
「城の中は息苦しいし、堀は干上がってる。城にいけば城門で写真を撮るだけになるね。やっぱり花街だな」
 カズちゃんはうなずき、新聞を読んでいる主人を横目に、
「じゃ、食べましょう。おとうさんも新聞置いて」
「いただきまーす!」
 素子の声に父親を除いた全員が箸をとる。小柄な吉永先生と節子の食欲が旺盛なのに驚く。山口はどんぶりを手に、
「俺も花街散歩がいいや。あの町並は飽きない」
「私は遠慮します」
 吉永先生が言うと、節子と法子も、
「私も」
 女たち三人は素子を囲むように寄り添って箸を使った。彼らの気持ちはよく理解できた。素子も彼女たちのやさしさに応えるように、
「有形文化財か何か知らないけど、私には生々しく見えるから、散歩にいかんわ」
 浜中が、
「観光見物にきたんじゃないんですから、付き添ってくださらなくていいんですよ。適当に神無月さんを撮りますから」
 私が、
「名古屋城、熱田神宮、テレビ塔、それで名古屋はぜんぶと言っていいです。北村席のほうがずっとおもしろい。ここでみんなと寝転がって話をしていたいんだけど、まずリクエストに応えないと。菅野さん、車はいいですよ」
「そうですか? 近くまで乗ってってもらおうと思ってたんですけどね。じつは最近、雨のとき以外、送り迎えの仕事はしてないんですよ。なんせ本宅から店まで歩いて十五分かそこらってんですから、あたりまえですよ。女将さんや旦那さんの買物、集金、会合のお供がもっぱらのところですかね。それでいままでと同じ給料をくれるんですから、北村さんは慈善家ですよ」
 父親はわれ関せず焉(えん)と新聞を見下ろしながらビールを飲んでいる。彼が食事をとる姿はめずらしい。
「神無月さんがプロにいったら、こんな小競り合いの記事じゃすまなくなりますな」
 彼の目の前に、王の見出しがある。

     
王不発 堀内七敗目

「七日の大洋戦で森中から二十九号を打ったきり、ピタッと止まった。長嶋は三十号を打っとるのにな」
 対阪神十八回戦。バッキーに抑えられたようだ。カークランド二十七号、遠井九号とある。
「見出しはほとんどホームランですね。ヒットは決勝打でもないかぎり見出しになりません。ヒットはホームランの打ち損じだからですよ。ホームランは狙って打つものですから成功と失敗がはっきりしてますが、ヒットはホームランの打ち損じなので失敗だけです。だから見出しにならないんですね」
 私が語り出したので、田代のデンスケが回りはじめた。
「おもしろい。これまで思い出に残ってるホームランはありますか」
「生まれて初めて打ったDSボールを遠くへ飛ばしたという記憶が一回あるきりで、観客がいる場所でのホームランの記憶は不思議とぼんやりしてるんですよ。もっともっと打ちたいという気持ちしかない。ぼくの野球人生はホームランに励まされてきたので、ホームランが病みつきになってる人生です」
「じゃ、そのへんで散歩いくか」
 山口の声に立ち上がったのは、私とよしのり、それから記者三人だった。
         †
 男六人で新開の町筋を歩きだす。名古屋の夏は暑い。すぐに額や首に汗が沁み出してくる。山口がよしのりに、
「あそこまで神無月が愛してるホームランを見ようとしない横山さんも、大した根性だと感心する。な、横山さん、ホームランを見ると自分の内部で崩壊するものがあるの?」
「そいつの本領でないものは見ても感動しない。感動しないものは見る価値がない」
 私は、
「おまえ自身野球が好きじゃないという、単純な話だろう。ぼくがおまえの子供なら、おまえはおふくろと同じことをぼくにするだろうな。自分が価値ありと思う道をぼくに進んでほしくて、ほかの道を軽んじる。ぼくの親じゃないからそうしないだけだ。二人とも野球を馬鹿にしてるという点では共通してる」
「馬鹿にはしてないが、大したものじゃないとは思ってる。文化的価値が低い」
「ギターは?」
「芸術だ。高い価値を持ってる」
「ぼくは芸術や学問の価値はわからないが、人間を喜ばせるものに高い価値を置くから、芸術も、野球も同じレベルのものだと信じてる」
「価値は知的財産にしかないぜ」
「話はそこでストップだな。これは見解の相違じゃなく、趣向の問題だ」
 乾いたシャッター音が響く。山口が、
「横山さん、バカらしくて聞いてられないよ。自分に正直にものをしゃべることが潔いとでも思ってるんだろうが、友人を貶める気はないんだろうから、友情に免じて自分に不正直になっておべっか使えばいい。おべっか使わないのが潔いってものでもない。……友情がないなら話は別だ。つまらん話はやめにしよう、バカらしい。ところで神無月、素子さんが立ちん坊やめてから、どのくらいだ」 
「高二の一月か二月にこの通りの出口のあたりで出会ってからだから、一年半か。せっかく再会した節子が知多へ逃げていった直後でね。ぼんやりシニカルな気分になってた。大門のアパートで暮らしていた節子母子の生活を立て直すために、カズちゃんが大金を援助した直後の遁走だったからなおさらだった。素子が救いの神に見えた。素子はぼくと出会ってからは商売の場所を駅裏に移して細々とやっていたけれど、そのうち男断ちして、大門口でひたすらぼくを待つようになった。それで、カズちゃんに事情を話したら、預かってくれることになった。それからずっとカズちゃんといっしょにぼくについてきてる」
「十代から十年もそんな商売してたら、たしかに後悔も深い。神無月にやさしくされて、いたたまれない気持ちになったろう」
 田代が、
「トモヨさんという人もそうですが、神無月さんて、一人の女の生き方を根本から変えてしまいますよね」
 浜中が、
「女が変わるんだね。神無月さんが変えるんじゃない。東大の準優勝と同じだ。神無月さんは周囲の人たちの一念発起の触媒だ」
 山口が、
「触媒がなければ反応は進まない。やっぱり変えるんだよ。俺はそれを、いい意味で、ここで遇ったが百年目と考えてる」
 豪快に笑った。私は言った。
「化学物質なら、浜中さんや山口の言うとおりかもしれないけど、人間だからね。触媒なんか関係なく、本人が自分の意思で自分の生き方を変えるんだと思う。人間は他人の力で変わらない。自分で生き方を変える。もともとそういうことができるんだ」
「また陰に潜んだな。言っとくぞ。意思なんて曖昧なものを持ってるやつは、マレが上にもマレなんだよ。奇跡的に意思を持ってるやつに引きずられるんだ」
 カメラの恩田が、私たちにレンズを向け、パシャパシャやった。
「お二人は天然記念物ですね」
 田代が、
「あ、シャトー鯱と羽衣ですよ。立派だなあ」
 ヨーロッパの古代城の小型版がそびえている。もう一軒は、落ち着いた和風旅館の拵(こしら)えだ。それぞれの店の玄関脇に、女の写真看板がずらりと立ち並んでいる。セパレートの水着をつけただけの裸女が微笑んでいる。
「この中に素子の妹もいるんだね」
「知ってたら指名したんだけどな。きのう俺をかわいがってくれたのは、このアヤちゃんだよ」
 よしのりが指を差す。山口が彼の肩を小突き、
「呆れた男だ。単純すぎる」
「羽衣にいったの? 鯱は怖そうだし、天女はやさしそうだ。おまえらしい。しかし浜中さん、あなたたちは禁欲的ですね」
「いや、われわれもふつうの男ですが、そんなことをすれば、取材対象の神無月さんが汚れるような気がするんです」
 アッハッハとよしのりが笑い、
「たしかに神無月は穢れなき男だけどさ。三年余りもこいつを見てきただろ? 女と寝るのを生命維持に欠かせない習慣だと思ってる」
 恩田が、
「しかし、女性に対してまったく自然に接しますし、いっさい構えた感じがないんですよ。三年前のインタビューでは、女のせいで流されてきたと多少の遺恨を持って答えてましたからね。神無月さんをずっと撮ってきて、その変化がいちばん意外です」
 山口が、
「意外でも何でもないよ。神無月には、何のわだかまりもなく不当を訴える習癖があるんだ。こいつが、女が原因で島流しされたのは正当な処置じゃなかった。だって、しっかり野球も勉強もやってたのに、節子さんに追っかけられ、彼女の手落ちから憂き目を見たんだからね。遺恨が残って当然だ。まだ酸素みたいに女を吸ってない時期だよ。女が一酸化炭素から酸素に変わったのはその後の幸運のせいだ。愚か者の唯一の救いは幸運だ、というのが神無月の口癖になった。こいつが言うには、天運が有卦に入ったかららしい。ま、どうでもいいでしょう。本人がそう言いたいんだから。つまり、いい陽が照ってきた、みたいに、女であれ男であれ、周囲の人間の愛情の変動を自然の風光のように捉えているんだよ。好天ならば感謝し、悪天ならば部屋にこもる、それだけのことと考えてる。俺たちの到達できない境地だ。ただ、その気組みを知れば、意外でも何でもない」
 恩田が、
「なるほど、自然の景物を秘密にするなど、意味がないですものね。自分のことを開けっぴろげとも感じていないわけだ」
「何の大上段な主義もないということだろうね。とにかく、その好天のせいで、神無月もやっとラクな呼吸で生きられるようになったわけだ。だから、ただ感謝の気持ちで空気を吸う行為をとやかく言われても、神無月には何のことやらわからない。食って、寝て、排泄する。だからって神無月が人間らしいなんて誤解をしちゃいけないぜ。こいつは俺たちと同じ人間活動をするけど、人間じゃないからな。母親がこいつを人間に引き下ろそうとして悪さした。そうされた恐怖心だけはしっかり残ってる。だから俺たちの前では活動を秘密にしないが、母親の類の人間たちに対してはしっかり秘密を守る。あの母親ほどの悪人はめったにいない。この先そんなやつを見つけたら、俺たちが退治してやらなくちゃいけない。そいつらは神無月を部屋に閉じこめっぱなしにして殺すからな」
 よしのりが浜中に、
「野球以外で神無月を記事にすることって、可能なの? たとえばゴシップとか」
 三人がよしのりを見た。浜中が、
「それは可能ですが、神無月さんのふつうの生活の断片を記事にしたいので、ゴシップは記事にしません」
 よしのりはつづけた。
「記事にしたら、新聞社は不興を買って、相当な痛手を被るわけでしょ。落ちた偶像なんて、追跡の意味がないわけだから。新聞社だけじゃない。神無月も痛手を被って世間に殺される。あんたたちが神無月の〈生活〉とやらを知りたかったのは、何がホームランに結びついているかであって、意外な実態ではないんだよね。ところが、ホームランは何の努力もなく生み出されていて、生活は野球と関係ない奇人性にまみれているとあっては結びつけようがない。北村席の人たちも、神無月の野球のこと、ほとんど口に出さなかったでしょ? 彼の人間性を前にしたら、野球と関係がないとわかっちゃうからですよ。神無月の人間性しか見つめられなくなる。しかし、山ちゃんが言うとおり、神無月は人間じゃない。人間性なんかない。人間じゃないなら、庶民は関心を持たないから、記事にしてもしょうがない」
 浜中は唇をキッと結び、
「横山さんは、神無月さんが嫌いなんですか」
「まさか。いちばんわかりやすいのは野球だって言いたかったんだよ。そんなものを取材してどうするんだろう」
「一度ごらんになることですね。世に知らしめるべきものだとわかります。とにかく、野球はもちろん、神無月さんの生活も取材しつづけます。あのものすごいホームランに、生活の何かの一部が結びついているとは思っていません。ただ、神無月さんの神秘的な異常性のほうは、庶民は信じませんので、書きません。彼らに近い〈現実〉をフィルムに収めて記事にします。とにかく写真と録音は〈一生〉つづけさせていただきます」
 よしのりは民家の垣根沿いの、ちょっと乗っかれそうな突出しに腰を下ろし、煙草の火を点けた。
「一生? それはずいぶん長すぎるぜ。言質を取られたらやばい」
 山口が、
「だれが言質を取ろうとするんだよ。浜中さんはその気概を持ってるということだ。神無月は死ぬまでドラマまみれだ。取材の価値はある。横山さんは、神無月が野球であれ人格であれ、有名になっていくことを癪に思ってるようだな。じつは文学でも世に出てほしくないんじゃないか。神無月の母親とまったく同じだ」
 よしのりは口をゆがめて笑った。この男のことがまったくわからなくなった。
 ―でも、母と同じということはありえない。彼はかつて私と似た人間に痛めつけられてはいない。だから怨みからこういう言動をしているのではない。


         百十三

 長寿庵の美人壁画、妓楼から旅館や料亭へ生まれ変わった建物、遊郭を建て直したトルコ金波楼、無人の旧遊郭、中村観音などを巡っているうちに、大門の交差点に出た。素子に出会ったあたりの電柱に、

 
警告 売春目的の勧誘・客待ちは処罰されます!

 という看板がくくりつけてあった。山口が、
「リアルだなあ! これじゃ、素子さんが散歩したくなかったはずだ」
 恩田がパチリとやった。よしのりがケロリと雰囲気を変えて、
「このへんか、素ちゃんと遇ったのは」
「ああ、まさにここだ。厚化粧で世慣れたふうに立っていた。ぼくから声をかけた」
 私は地面を指差した。胸が熱くなった。大門口から引き返す。
「あそこが、節子母子が暮らしていた葵荘アパート。学校の帰りに、さっきの看板の場所を風呂桶抱えて曲がっていく節子の背中を偶然目撃した。そして、何週間かして節子がまた逃げていったあと、同じ場所で素子に出会った」 
 左右に指を差す。シャッターを切る音。山口が、
「節子さんを見つけたとき、あとを追いかけたのか」
「もちろん。アパートの部屋番号と表札を確かめて、数日後に訪ねた。節子が頑固に入れようとしなかったけど、文江さんが同情して入れてくれた」
 恩田が葵荘の鉄階段に近づいていき、パチリとやり、階段を上ってパチリとやった。私は彼のあとを追い、階段の手すりに手をかけた。日蔭の階段の手すりは、三十度を超える大気の中でヒンヤリ感じた。不思議な身ぶるいが走り、階段を上れなくなった。山口を振り返ると、彼はその様子をじっと観察していた。
「俺には窺い知れない感傷なんだろう」
 恩田が降りてきた。
「やあ、さびしくて、暗い廊下でした。あそこで待たされるのはつらいものがありますね」
「節子は無職で、文江さんはテレビ塔の売り子をしてた。惨めな生活状況だった。ぼくのせいでそうなったのだと思った。おふくろが節子を牛巻病院から追い出したにちがいないからね。カズちゃんに話して二十万円用意した。母親はひどく感謝したけど、節子は何日かして、その金の一部を旅費にして知多へ去った。文江さんは申しわけながって……」
 山口が、
「オッケー、文江さんとの関係がわかった。同情したのはおまえのほうで、文江さんじゃない。彼女は年甲斐もなくおまえに惚れたんだよ。その気持ちにおまえも和子さんも応えようとしたんだ。だから、彼女の子宮癌の手術費用も、書道塾を開く費用もぜんぶ出したわけだ」
 田代がデンスケのテープを交換し、録り終わったテープを腰のポシェットにしまう。浜中が、
「すごい話ですね。新聞には書けないことばかりです。キッチリ記録には残しますけど……大部の伝記になると思います」
 喫茶店に入った。つぶ餡の載った小倉トーストと冷コーを注文する。よしのりが、
「名古屋にしかないメニューだな」
 私に倣って注文した恩田が、
「めずらしいなあ。しかも、おいしい」
 田代が思いついたように、
「横山さんのカメラ眼というのを見せてほしいんですが。たとえばこのメニュー表、見開きを一瞥して復唱できますか」
 恩田がメニュー表を撮影する。よしのりは、
「チョロイな」
 と言って、数秒メニューの表面にキョロキョロと目を動かすと、天井を向いて二十以上の品目をたちまち誦えた。店主や客たちを含めて大拍手になった。
「何ですか、それは!」
 恩田が叫ぶ。よしのりが、
「学歴がないから活かせない才能だよ」
 山口が、
「学歴と関係なく活かせる才能だ。しかし思考が伴わなければ、どうでもいい才能だけど」
 田代が、
「学歴が空しくなるので、あまりその才能見せないでくださいよ」
 おべっかを言い、メニュー表を取りあげて一生懸命暗記しようとする。
「無理だ。せいぜい五つか六つまで」
 私は、
「よしのり、学歴なんかいらないよ。寺子屋レベルの能力じゃない。大いに世のために役立てるべきだ」
「うれしいことを言うじゃないの。学歴で固めた集団は、おまえみたいなことを言ってくれない。学歴で入りこめれば重宝してくれるだろうがな」
 浜中が頭を掻きながら、
「耳が痛いですね。横山さんの言うとおりです。横山さんには学歴を積めないような家庭の事情があったんでしょう?」
「そんなものないよ。勉強がきらいだっただけ」
「よしのりは置かれっ子だ。野辺地には多い。ぼくも、従兄の義一もそうだ。ぼくは幸い母に引き取られた」
 よしのりが手刀を振り下ろし、
「そんな話は、もうやめだ。神無月、おまえ自分の息子にプレゼント買ってきてないだろ」
「ああ。紋切りなことを言うな」
「初めての誕生日だぞ。何が紋切りだ」
「おまえは買ってきたのか」
「ふっふっふ、言わない」
「俺も」
 山口もうなずく。私は呟く。
「ナつかしき、オそれ多き、トわの宝子」
「何だそれ」
「な、お、と」
「オー!」
 また店じゅうに拍手が上がった。よしのりが、
「色紙に書いて直人に贈れ。ぜんぶひらがなで、いいな」
 笑い声を上げる客たちを恩田がパチリパチリやる。だれも私に気づかない。六大学の噂は、浜中のおかげで野辺地には届くが、名古屋には届かない。気がラクだ。ドラゴンズに入団すればこうはいかない。外を出歩くのにも不自由するようになる。―たぶん。
 大通りに出て、文具屋で色紙とマジックペンを買う。
「この市電通りが本来の太閤通だ。椿町から大門までつながる通りは、じつは名無しなんだ。青線通りと呼ばれてる。西高への通学路の一本だった。もう一本は大門口の向こうの環状線。その道沿いの蕎麦屋に雨宿りして、法子と再会した。もう一人、小中学校の同級生の鬼頭倫子という女とも遇ったが、ひとこと口を利いて通りすがっただけだった」
 よしのりが、
「おまえはいく先々でメモして歩いてるようだな」
「頭の中にね」
 山口が、
「俺たちも神無月のメモの一つだ。ありがたいじゃないか。今回も青森で相当メモされてきたんでしょう」
「ほかのやつをメモしてたんじゃないの。俺は俺で勝手に動き回った。神無月もそうだ。俺はただの旅の伴侶だよ」
 両側の背の低いビルを眺めながら市電通りを歩いて、笈瀬通りまでくる。
「あの角の通りを入ったところが、葵荘から文江さんが最初に引っ越した家だ。そこへ知多の日赤病院で働いていた節子が訪ねてきて……いろいろあって、結局節子は知多から戻って、大門の日赤病院に勤めることになった」
「節子さんが萎れてたころだな」
 山口が言った。よしのりが、
「山ちゃんは何でも知ってるな。俺はいつもつんぼ桟敷だ」
「横山さんは忙しいからね。神無月どころじゃない。俺は暇人だから」
 太閤一丁目の交差点から駅裏のターミナルへ。
「あそこが素子の実家。このあたりはまだ取り壊されてないな。でも、トモヨさんの長屋はなくなってしまってる」
「トモヨさんも立ってたのか」
 よしのりが訊く。山口が答える。
「いや、彼女は立ちん坊じゃない。おトキさんと同じ立場の人だ。子供ができて養子に入る前は、塙席という置屋に籍を置いてた。二年前、神無月と俺が北村席を訪ねたとき、和子さんが神無月にトモヨさんをアレンジしたんだ。トモヨさんが神無月に一目で惚れこんだと見抜いてね」
「チ! アレンジときたか」
「もう素子は家族に会ったかな」
 よしのりは胸を張り、
「素ちゃんもそろそろ家族を吹っ切らないと、この先、なにかと不都合が起こるぜ。俺は吹っ切った」
「妹がトルコで働いてるから、金銭的な面倒見はもう要らないんだ。上京を許したのは母親だそうだ。ぼくのおふくろよりは人間らしい人ということになる。カズちゃんは素子にお母さんに感謝しなさいと言ってる」
 浜中が、
「和子さんという人は、みごとな中心人物ですね」
 山口が、
「女神だからね。神無月は彼女に、心臓と呼ばれてる」
 田代が、
「五日間が過ぎたら、私どもは、夢が醒めたみたいになるんでしょうね」
 よしのりが、
「ちがうな。神無月の時間はいつもこいつの夢の時間だ。俺たちは常に、俺たちの現実を見てる。神無月の夢になんか参加させてもらえないよ」
「横山さん……」
 山口は心から落胆したようにうなだれた。


         百十四

 ただいま、と玄関に入る。居間で主人夫婦と非番の女たちに混じって、直人を抱いたトモヨさんや、節子や、吉永先生が談笑している。彼女たちの背後に菅野と文江さんがニコニコ笑いながら坐っている。
「お帰りなさい」
「お帰りなさーい!」
 彼らを写すシャッター音が響く。麦茶を飲みにいった山口と入れ替わりに、台所からカズちゃんが出てきて、
「お帰りなさい。記者さんたち、ご苦労さま。準備オーケーよ。あら、キョウちゃん、床屋さんは」
「あ、忘れた。東京に戻ってからにするよ」
 居間が混雑し、廊下越しの三十二畳の部屋のテーブルへ移動する。賄いたちが追うように麦茶を持ってくる。長テーブルの真ん中に、小さな蝋燭を一本立てた巨大なイチゴケーキが載っている。直人が女たちの肩を伝って私に近づいてきた。私は抱きとめた。不思議そうな目で私を見つめる。国際ホテルで母と撮った五歳の私の写真にそっくりだ。目が大きく口が小さい。あごの形は四角くなく、トモヨさんの丸みを受け継いでいる。ダーダ、ダーダ、という声が愛らしい。弾力のある絹で作った人形のようだ。何度もシャッターが切られる。
「なんてかわいいの!」
 吉永先生が抱き上げて言うと、節子が頬に唇を寄せ、鼻でこすった。トモヨさんが抱き戻し、
「さ、みなさんテーブルに着いて」
 山口がギターを裸で担いできた。
「よ!」
 菅野が手を叩く。十六畳のステージ部屋の前の八畳には空テーブルが置かれているきりだ。ステージライトが青っぽく灯っている。賄いたちが全員その八畳のテーブルに向かい合うと、山口はステージへいき、ギターを奏ではじめた。独特の柔らかいタッチだ。囁くように渋い声で、

  ハッピバースデイ トゥ ユー
  ハッピバースデイ トゥ ユー
  ハッピバースデイ ディア 直人
  ハッピバースデイ トゥ ユー

 一斉に拍手。主人が直人を胸に抱き上げ、点火したローソクに顔を近づけさせる。
「ほれ、フー、フー」
 直人はわけがわからず、キャッキャ笑う。フラッシュが瞬く。もう一度主人は直人といっしょに顔を近づけ、みずから吹き消す。フラッシュ。拍手。おトキさんがケーキを切り分ける。トモヨさんは直人に生地の部分を二口、三口噛ませた。大ぶりなケーキだったので、賄いの女たち全員にもいきわたった。
「直ちゃん、ほい、プレゼント」
 山口が差し出したのは、四十八色クレヨンだった。下から円錐形に段々に積んでいく仕立てになっている。初めて見た。よしのりは動物積木セット。秘密にしたわりには月並みだ。二人ともボストンバッグを提げていたが、こんなものが入っているとは思わなかった。菅野はリボンで飾ったベビーウォーカーをステージ前にそっと置いた。店の女たちが端の二間からやってきて、それを囲むように続々とプレゼントを畳の上に置いていく。ベビー服とおむつが多い。一つのプレゼントが畳の上に置かれるたびに、トモヨさんが頭を下げる。私は色紙に言葉を書きつけ、トモヨさんに差し出す。
 
 
つかしき
 
それおおき
 
わのたからご
 ―直人へ 父より

 トモヨさんは目を潤ませて、
「額縁を作ります」
 と言った。みんなが覗きこみ、大きな拍手になる。山口が、
「神無月、三曲は唄ってもらうぞ」
「うん。誕生日なので、まず明るくいきたい。かわいいマリア、それを唄うことだけは決めてた」
「男の子だぞ」
「赤ちゃんは中性だ」
「わかった。おれはおまえが三曲唄ったあと、五曲は唄うからな」
 父親が愉快そうに、
「今回も神無月さんの演歌を一曲聴きたいですな。ぜひお願いします」
 そう言ってしきりに杯を傾けている。菅野が横にきてそれにつぎ足し、自分の盃にもついだ。
「歌の前に、西川流、舞います!」
 よしのりが、三十二畳に飛び出し、とつぜん日本舞踊を始めた。カズちゃんたちが喝采する。よしのりはいつのまにか扇子を握っている。東京から持ってきたのだろう。指先に神経が張りつめ、ワイシャツ姿なのにサマになっている。端部屋から移動してきた店の女たちが盛んに拍手をした。
「横山さん、いけてるよ!」
 菅野が仕方ないといった表情で声をかける。よしのりは真剣な顔で扇子を振る。主人がウーンとうなり、
「神無月さんの友人は多才やな。ほとほと感心するわ。類は友を呼ぶ。和子たちも飽きんやろ。ワシもたのしてしょうがないわ」
 菅野は苦笑いする。
「ほんと。小学生の神無月さんに男として惚れこんだって和子はゆうとったけど、わが娘ながら大した眼力やったんやね」
 女将がうなずく。浜中が、
「おたがい奇跡的に吸い寄せられたんですね。才能はもちろんのこと、この上なく自然体です。女性のかたも―」
 恩田もうなずきながら、よしのりに向かって渋々シャッターを切る。よしのりが盛んな拍手の中を照れてピースサインを出しながら戻ってきた。どうしても浮薄な様子を免れない。カズちゃんは女たちの真ん中で仏像のように笑っている。
 ビールや燗徳利、乾きものや汁もののツマミが運ばれてくる。記者たちは、刺身、焼き物、煮物、炒め物、よりどりみどりの酒の肴にただ驚いている。直人がいちいち指をつけようとするのをトモヨさんが止める。法子がビールをついで回る。さまになっている。賄いの女たちも気分よさそうにおたがいのコップにビールをつぎ合っている。
「いまのは何という踊りですか」
 田代が訊く。
「でたらめ。手の舞い足の踏むところを知らず。……直人はかわいいなあ。俺も子供がほしい」
 山口が、
「種を蒔く畑が必要だ。いるのか」
「耕したくなる畑はない。ただ子供が欲しい」
 食卓に冷えた笑い声がさざめいた。山口が口を漱(すす)ぐように麦茶を流しこんだ。還暦に近い女将が五十歳の文江さんとにこやかに語り合っている。年下の女が年上の女の肩を叩いたりする。目に心地よい和やかな図だ。直人を膝前に立たせたトモヨさんを囲んで、これまた非番の女たちが和やかに笑い合っている。トルコに働きに出ている女たちは夕刻まで帰らない。
 おトキさんの率いる賄いたちと非番の女たちが、さわさわと笑いながら、私たちの隣の広間のテーブルについた。山口が誕生日の歌を唄ったきり、なかなかステージが始まらないからだ。ひとしきり撮影と録音を終えた二人の記者たちは、メインイベントの撮影と録音のために、ステージの直前に陣取った。
「じゃ、神無月、そろそろいくか」
「うん。体力はできた」
 手にギターを提げてステージに向かう。
「拍手ゥ!」
 菅野のうれしそうな声。大きな拍手が私たちの背中に送られる。賄いたちが八畳へ戻っていく。山口がステージの椅子に落ち着き、ギターを腋の下に抱えこむ。私はマイクの前に立つ。
「この男、美しいけど垢抜けないでしょう? ボーっと突っ立ってる。俺、神無月のバッターボックスの顔を望遠鏡で見たことがあるんだけど、同じ顔をしてました」
 感嘆と尊敬の混じった笑い声が上がる。
「次の瞬間、場外ホームランでした。同じことが起こりますよ。奇跡の声をお聞かせします。この世に二人といないとんでもない声です。俺、この紹介、一生しそうだな。俺は青高時代に神無月を発見したけど、東大の同級生の一人は、バス旅行の宴会で発見した。林というその男は、俺と同じように神無月の声を聴くとふるえが走り、涙を流す。林は人間世界の天才歌手だが、神無月は天上世界の絶対的ディーヴォだ。女はディーヴァと言います。田代さん、録音の用意よろしいですね。たぶん機械では同じ声に録れないでしょうから、その耳でじっくり聴いてほしい。一曲目は、リトル・ペギーマーチの『かわいいマリア』。マリアは女の子の名前だけど、赤ん坊のかわいさは中性的なものだ、つまり男も女も変わりないとは本人の弁です。では、レッツ・ゴー!」
 山口のやさしいスタッカートを聴きながら、深く息を吸いこむ。
「明るくいこう」
「よし!」


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