百十八

 文江さんについて寝室のある二階へ上がった。尻が魅惑的に揺れる。たしかに豊満なからだに戻っている。紺のブラウスとシュミーズとベージュのスカートを脱いで、コットンの大きなブラジャーを取り、股上の深いパンツ姿で横たわった。私も裸になって見下ろす。色白の腹に真っすぐ白い傷跡がある。相変わらず美しい肌だ。パンツを下ろす。こぢんまりと縦に長い陰毛もそのままだ。手を添えただけで素直に股が開く。はじめてのときのように脚がふるえることはない。左右いびつな茶色い小陰唇は文江さんだけのものだ。膝をついて、長いほうから含み、前庭を舐めながら短いほうへ。かつては包皮の中に収まっているのが常だった陰核が恥ずかしそうに頭を覗かせている。指で浅い膣をこわごわこすりながら陰核に舌を使う。やがて、
「愛しとる、キョウちゃん、イクよ……」
 グンと陰丘が跳ね上がる。腹が縮まり、伸びる。膝の裏を抱えて挿入する。
「あ、ああ、気持ちええ! すぐイッてまう、ゆっくりしてね」
 手術前と同じように深く入る。膣壁のざらざらも回復している。うれしい。驚いたことに、最初のころと同じように段になって締めつけてくる。ゆっくり、深く動く。
「あ、イク、いっしょに、キョウちゃん、いこ、いこ、うんん、イクウウウ!」
 私の律動が彼女の負担にならないように、射精して、すぐに抜く。寄り添い、残りの精液を文江さんの下腹にかける。柔らかい腕が私の首に巻きつく。腹が私の腹につく。
「毎日抱かれとる感じやわ。逢っとらん時間が飛んでまう。大好きやよ、キョウちゃん。お腹汚れてまったね。お風呂できとるよ。入っとって。そのあいだに私、お茶漬け食べてまうで」
 文江さんは茶漬けを食い終わって風呂へやってくる。
「四時から九時までの授業だと、晩めしを食べてる暇はないね」
「その分、朝と昼をしっかり食べとくの。慣れたわ」
 二人で抱き合って湯船に浸かる。追い焚きをする。すぐに汗が出てくる。
「すっかりよくなったね。おめでとう」
「ありがと。節子から電話あったわ。うんとかわいがってもらってって。北村さんに、お金ぜんぶ返し終わったんよ。女将さん、いらんゆうてくれたけど、それじゃ長いお付き合いできませんゆうて返しました。最初の節子の分も返しました」
「えらいね」
「それでも、この家、借りてもらっとる。来年あたりから、きちんと自分で払わんと」
「少しずつね。ぼくは、プロの契約金をもらったら、ぜんぶ母と祖父母にあげようと思ってる」
「ええことやが。お母さんに縁切り状をくれてやるつもりやろ。でも、お祖父さんお祖母さんには、お金をあげるよりも、家を造り替えてあげるほうがええと思うけどなァ。お便所とか水周りとか、暖房とか。先が短いんやから、お金もろてもどうもならんでしょ」
「それは自分たちで差配してもらう。ぼくはそんな暇はない」
「……やっぱりプロにいくつもりなんやね。お疲れさまという感じやけど、キョウちゃんがいちばん好きなことをできるんやから、私たちもうれしがらんとね」
「あまり喜んでないみたいだね」
「このごろ、キョウちゃんをそっとしといたげたい気がするんよ。期待したり、引っぱり回したりせんと、自分の好きな部屋に置いといたげたいゆうか。……年とったせいやろかね、なんだか動くのが億劫で、部屋にじっとしていたいことが多いんよ。生徒と会うのも面倒でね。よくキョウちゃん、面倒くさいゆうでしょ? その気持ちがわかってきた。ごろごろしていたいわけやなくて、あんまり人と関わりたくないゆう感じ。いちばん好きなことは、墨を磨って、字を書くこと。それをすると大勢の人が褒めてくれたり喜んでくれたりする。でも、キョウちゃんのことを考えたり、むかしのことを考えたりして机の前でボーッとしてるのが、いちばんホッとするんよね」
 私は微笑して、
「墨を磨ったり字を書いたりする喜びはぼくの野球といっしょだよ。机の前でボーッとしていたいのも同じ。……サッと冷たい風が過ぎるみたいに、死にたくなることは?」
「あるよ。でも、キョウちゃんの顔や、節子の顔が浮かんできて、冷たい風が暖かい風に変わってまう」
「文江さんはぼくと同じ感覚で生きてるんだね」
「これも暖かい感じなんよ」
 私のものを握る。
「……不思議やけど、似とるんよ。冷たくなっとったからだに、あったかい風が吹いてくる」
 立ち上がらせ、後ろを向かせる。屈んだ胸に手を回し、乳房を手に収める。挿入する。文江さんの右手が、私の尻を愛しげに撫ぜる。
「愛しとるよ」
 乳房を離した手で尻を割り、私のものが小陰唇に包まれながら出入りする様子を眺める。単純な運動に複雑な愛が注がれる。
「……キョウちゃん、うんとイクよ」
「好きなだけイッて」
 ユリさんの背中とだぶった。もうどれほどセックスの回数を重ねても、妊娠の可能性はない。呼びかける。
「文江―」
「はい、キョウちゃん……イク……」
         †
 文江さんが作った梅紫蘇の茶漬けを食べる。こんなおいしい食べ物がこの世にあるとは知らなかった。
「親子と関係しとることが、つらない? いろいろ言われるでしょ」
「ぜんぜんつらくないし、だれにも何も言われない。正常なことではないと思うけどね。節ちゃんや文江さんはつらい目に遭ってない?」
「遭っとらん。キョウちゃんのお母さんみたいな人とは付き合わんようにしとるし、私らのことを知っとるのは、北村さんの人たちとキョウちゃんの周りの人たちだけ。キョウちゃんの口の堅さは保証書つき。あの記者さんたちに漏らすにしても、あの人たちがぜったいしゃべらんとわかってそうしとる。私、ボーっとしとるみたいで、きっちり人間を見とるんよ。お嬢さんも、あの女の人たちも、みんなそうや。……あした会うお母さんには口を滑らさんように気をつけんとあかんよ」
「わかってる」
 蒲団に入ってからも、寝物語はつづく。母よりも年上の五十歳の女。カズちゃんと同じように、胸に抱かれて何でも話せる。
「東大に受かったとき、正直どんな気持ちやった?」
「ざまみろって気持ち」
「成し遂げたいことやなかったゆうことやね」
「うん、肝心なことはなかなか、ね」
「肝心なこと?」
「それが自分でもわからないんだ。成し遂げたいことがあるかどうかも」
「何もないんよ。きっと、こうしていたいだけなんよ」
 柔らかく抱き締める。
「そうかもしれない―愛したい」
「愛したいというのは、心が冷えとるからやよ。誤解せんでね。キョウちゃんが冷たい人間ということやないよ。そういうことやなくて、心があんまり動かんゆうこと。……動いたら、とことん没頭できるんやけど、動くことが少ないんよ。ごめんね、奇跡みたいに出会った人に話すことやない。どうでもええことよ。そういうキョウちゃんがぜんぶ好きなんやから」
 胸を吸い、いきり立ってきたものを文江さんの中に収めながら眠った。気づいたときにはすでにからだが離れ、文江さんは私のかたわらで安らかな寝息を立てていた。
 翌日八月十六日の朝、起きぎわに、復調した文江さんの器官のすべてが満足するように、もう一度しっかり交わった。五十女がこれから何度強い満足が得られるかと思うと、胸が痛んだ。終わってから五分も静かに抱き合い、シャワーで局部を流し合ってから、服を着た。
「好きなことを、好きなようにやってね」
 食卓には着かず、玄関先で別れた。三日つづきの快晴。太陽がギラついている。北村席に戻ると、歯を磨き、柔らかい便をした。ひさしぶりによく聞こえる耳鳴り。
 十六畳三間が賑やかだ。三十二畳では北村夫婦、トモヨさんと直人、山口、どこかのホテルに泊まってやってきた東奥日報の記者たち、よしのりがビールをつぎ合い、朝食の開始を待っている。東京組の女たちはすっかり賄い連中と打ち解け、台所に入り浸りだ。菅野がやってきた。
「きょうは岩塚ですね。いくのは神無月さん、山口さん、東奥さん。私を入れて六人。一台じゃ足りないんで、あとでレンタカーを借りてきます。山口さん、そっちの運転、お願いします。東奥さんは私が乗せていきますよ」
 ひやむぎから始まる朝食になった。浜中が、
「じつにおいしいタレです。ごちそうです。勝手に押しかけるマスコミなぞ、門前払いで追い返すのがふつうなのに、ここまで至れり尽くせりのもてなしをするかたたちがいるものなんですね」
 直人をトモヨさんから抱き取った主人が、
「東奥日報さんは勝手に押しかけとれせんがね。ワシらにしても、みんなで神無月さんのまねをしとるだけやが。名古屋に誘ったのは、たぶん神無月さんやろ? 神無月さんが尽くしてくれたということですよ。それならワシらは神無月さんに応えんと」
 皿鉢(さはち)を出すときに聞きつけたカズちゃんが、
「似たもの同士でないと、まねもできないけど。恐いのは、尽くされた人が慣れてしまうことね。そうなるとキョウちゃんという存在は、都合のいい〈棚からぼた餅〉になっちゃうでしょ?」
「慣れる前に感動があるので、とても慣れることはできないです」
 と恩田。山口が、
「お父さん、神無月のほうには尽くしてる気持ちはないんですよ」
「得意の自然体というやつだな」
 と、よしのり。丸干し、白菜の浅漬け、海苔、納豆、目玉焼き、ワカメと豆腐と油揚げの味噌汁。最高の組み合わせだ。めしを二杯食う。女将が尋く。
「神無月さん、きょうはお泊まり?」
「帰ってきます。母に耐えられるうちは、飛島の人たちのためにいます。耐えられなくなったら、早々に引き揚げてくるかもしれません」
「和子かトモヨが起きとるから、いつ帰ってきてもええよ。泊まってきてもええし」
「私たちも起きてます」
 節子が言った。吉永先生と素子と法子もうなずいた。よしのりが、
「俺は、三日坊主にならんように〈あっち〉で奮闘努力してるから、いないと思う」
 素子が、
「あんた、何しにきたん」
「ご厚意に甘えてるだけだ」
 キクエが肩をすくめた。
「ワシが起きとったら、飲みましょう」
 主人が直人に冷奴を含ませながら言った。カズちゃんが、
「私たち五人は、きょう熱田神宮にいって、うなぎ食べてくる。ついでに法子さんの里帰りにも付き合ってくるね」
         †
 北村席をぐずぐず出遅れて、午後三時に飛島寮の鉄門に車二台で入った。駐車場の隅から、よぼよぼしたシロが闖入者を威嚇するために吠えながらやってきた。
「ぼくだよ、シロ」
 私は山口と車から降り、すぐに私に気づいて伏せの姿勢になったシロの毛づやの悪い背中を撫でた。山口も犬好きらしく、顔を両手で挟んでごしごし撫でる。菅野と浜中たちも降りてきた。さっそくシャッターの音が始まる。山口がぐるりと見回し、
「ふうん、ここがおまえの引き取られ先だったのか」
「あの棟の一階の角部屋に一年いた。それから八坂荘に移った」
「八坂荘には私も何度かいきました」
 菅野がうれしそうに言う。シロといっしょにみんなで食堂に入ると、母が床に大きな掃除機をかけていた。背の高い扇風機が回っている。山口が、初めて見る鷹のような母の顔に目を瞠った。
「あら、帰ってきたの。連絡もしないで。いつも事後承諾だね」
 合格のときより、よほど感激が薄くなっている。やはり私が東大へいくことが生涯の願いではなかったようだ。
「ハガキ出したよ。正確な日時は書かなかったけど。書いたって出迎えの予定なんかないでしょ」
 機材を抱えている男たちを見て、
「そちらのかたたちは?」
「おひさしぶりです。東奥日報の浜中です」
「ああ、何年か前の」
「初めまして、カメラの恩田です」
「録音の田代です」
「段取り役の菅野です」
 四人で礼をする。車に乗る前に打ち合わせてあったのだろう、四人とも真剣な顔をしていた。
「フィールドの外の神無月さんの生活を取材させていただこうと思いまして、厚かましくついてまいりました」
「俺、山口と言います。青高以来の友人です。俺も図々しくついてきました」
「あなたが……東大法学部のかたですね。すごいですね、法学部なんて」
「神無月は法経文総合二番入学です。俺なんか足もとにも及びません。もちろん同じ入試問題です」
「でも、文学部ですからね」
「だから法経文総合で―」
「人は自分を認めたくていろいろな理屈をつけるものですよ。東大は法学部、医学部、経済学部、理工学部だけ。農学部と文学部は付け足し。いずれにしても、郷がいろいろとお世話になってます。能無しですから、いつもご迷惑かけてるんでしょう」
 山口は苦々しく顔をそむけた。
「柄にもなく、東大なんかに受かってしまいましてね、本人もアラを隠すのがたいへんだと思いますよ。野球がなかったらどうなっていたんだか」
 恩田たちが口をアングリ開けた。


         百十九

 浜中が、
「ということは、野球はお認めになったと……」
「さあ、どの程度のものかは知りませんが、東大みたいなチームにいると目立つんじゃないんですか。周りが下手くそですから。せっかく東大へいった以上は、大企業にでもいって、ツブシを利かせないと。野球なんかしてたら、肩書だけコケ脅しの無能なサラリーマンになってしまう。それこそ東大卒の面目丸つぶれでしょう」
 田代が勢いこんで、
「神無月さんが小学校からホームラン記録保持者であることはご存知ですよね」
「さあ、そんなこともありましたかね。とにかく不良でしたから、ほかのほうは霞んでしまいましたよ」
「いまや、大学野球の日本記録保持者ですよ、お母さん」
「金田や長嶋というわけにはいかないでしょう。騒ぎ立てる価値もないものを持ち上げるとロクなことになりませんよ」
「金田や長嶋以上です。というか、比較の対象がないくらいです。新聞は読まれないんですか」
「朝日や日経には載ってないようですね。所詮、野球ですから」
 記者たちはたがいに顔を見合わせ、白昼に妖怪に出会ったかのように目をしばたたいた。彼らは即座に説明をあきらめて、シロやインコに向けてシャッターを切り、デンスケを回しはじめた。山口はいまにも爆発しそうな表情をしていた。
「一泊して帰る。練習があるから、すぐ戻らないといけないんだ」
「無理して泊まることないよ。大沼さんたちに会ったら帰りなさい。一日でも勉強をサボったら、おまえの頭じゃついていけないだろ」
「そうだね」
「どうなの、東大でやっていけそうなの?」
「学費免除になったし、バイトも見つけたし、だいじょうぶだよ」
「勉強のことだよ」
「高校時代みたいにはいかないけど、何とかやってる」
「考えたら、おまえの頭で東大なんて、デキすぎだものね。あのオヤジの子なんだから」
 いつもの病的な揶揄が始まる。失礼しますと言って、浜中たちがテーブルに着いた。新しく入ったらしい中働きの女が台所から挨拶した。麦茶を持ってくる。山口が少し癇の立った声で、
「信じる信じないは、お母さんの自由ですが、くどいようですが、神無月は、法・経・文三学部合わせて、二番で合格したんですよ。一番で受かったみたいなもんです」
「ふうん、よほど星の巡りがよかったんでしょ。でも自惚れないほうがいいと思いますよ。だれだって人生、一度や二度のマグレはありますから」
 ―母の言うとおりだ。直井整四郎も、一戸とおるも、ぼくみたいな馬鹿が、自分たちの崇拝する場所にいることを知ったら肝をつぶすだろう。そして、自分たちの勉強の歴史を空しく思うだろう。山口は苛立った調子のまま、
「マグレの定義がよくわかりませんが、お母さんの言うとおり、才能ある人間の人生はマグレそのものに見えるかもしれませんね。常軌を逸してますから。しかし、もうマグレは起こらないだろうと思ってると、才能があるもんだから、また起こってしまう。何度起きても、凡人はマグレだと言う。そこまで決めつけられると、本人も自惚れるわけにいかないし、自信をなくしはじめる。タチが悪いや。この奇特な人間が、才能があるせいで憂き目を見ちゃうってんだから。どうすりゃいいんですかね」
 浜中が危険なものを察知して、
「まま、山口さん、お母さんは照れてるんですよ。もろ手を挙げて息子を褒めるわけにはいかないということでしょう」
「褒められたくて生きるのぐらい、みっともないことはないですからね」
 母の粗雑な物言いに、下働きの年増がびっくりしている。山口が、
「そういう欲望から最も遠い人間ですよ、神無月は」
「へえ、人間が変わってしまったんですかね」
 山口が麦茶をあおった。浜中が、
「神無月さんの生い立ちなどをお聞きしたいんですが」
「いくらでもありますよ、泣かされてきましたから」
 浜中は私の顔をするどく見つめ、
「神無月さん、そのあたりをお独りで散歩して、気分直しをしていらっしゃいませんか。恩田くん、私どもはそのあいだにぼちぼちお母さんの話を聞いとこう。田代くん、〈しっかり〉録音してね」
 浜中の親切な助け船に乗って、山口と菅野と三人で庄内川の土手へ散歩に出ることにした。シロがついてくる。菅野が、
「聞きしにまさる怪女ですな」
 山口の目が充血している。
「予想どおりだったのが悲しいな。神無月の億劫癖の根源が見えたよ。百トンの重荷だ。小さいころからあれじゃ、何でもかんでも面倒くさくなるのがあたりまえだ。よくぞここまで寛容な人間に育ったもんだ。感服する。神だな」
 シロに先導されて河原に下りる。腰を下ろして眺めた先のグランドで、少年たちが野球をやっている。
「あの子たちの最高の時代だね。一球一球に胸が躍るんだ」
「じょうずならばな。俺はへたくそだったから、ちっとも胸躍らなかった。おまえのホームランに初めて血が沸いた。おまえは俺のギターに感動するんだろう?」
「ああ、ずっと感動してる」
「おまえを感動させる人間だったことがうれしいよ」
 菅野が草をむしって前歯で噛む。
「あのお母さんは、神無月さんに感動したことがないんですね」
 山口が、
「感動の体系がちがうんだな。東大に受かったときは一瞬喜んだんだろ?」
「一瞬ね」
「……こりゃもう理屈じゃない。とにかくおまえが気に食わないんだよ。いままでどおり疎遠にしてるのがいちばんいい」
 行儀よく控えているシロを見下ろす。頭を撫ぜると私を見上げる。
「もう九歳か。ずんずん年とっていくな。かわいそうに」
 潤んでしょぼついた目に、愛玩動物のかわいらしさが残っている。山口も同じように頭を撫ぜながら、
「おまえにぴったり寄り添ってるぞ。痛々しいな」
「野犬収容所から連れ戻ったこともあったからね。強い絆を感じるんだろう。この様子じゃ、あと一、二年だ。タイミングよく看取れない気がする」
「気が重い。戻るか」
「おふくろの愚痴話は長くなるだろうから、そこらの喫茶店でスパゲティでも入れてこう。あの調子なら、浜中さんたちにはソウメンでも出すだろうから。ぼくがいなければものごとはうまく進む」
 シロを駐車場へ追いやり、西栄町の辻まで歩いて、パパイヤという新装の喫茶店に入る。三人でナポリタンを食う。
「西荻にすげえうまいナポリタンを食わせる店があるから、今度連れてってやる。いちばんうまいのは駅構内の立ち食いそばだ。それも連れてく」
 思わず目頭が熱くなった。菅野が、
「山口さん、幸せですね、神無月さんに泣いてもらえて。……神無月さんを見てると、人間てどこまできれいになれるのかなって、そのたびにびっくりしちゃって、たまらない気持ちになります」
「どこまで内気で謙虚になれるかの見本でもある」
 私は何者だろう。私は彼らの信じる意味で、一度もこの世に存在したことがない。だから、彼らの信仰が成就することはない。
「……ぼくは精神的にも物理的にも暴力的な人間だ。幼いころに気づいた。人を救う立場に立てれば、その暴力で人を傷つけることはない」
「自分を傷つけることもな」
「これ以上どうやって人を救うんですか。疲れて死んでしまいますよ」
「救おうと意識して救うんです。意識しないと、冷血になる。疲れて死ぬよりもひどい死に方になる」
 山口が声を高め、
「冷血だとだれかに言われたのか!」
「自分で悟った。十歳のころに」
「ふざけるな。母親だな。あの女はな、自分がやさしくされないと、当てこすりで冷酷だと言うんだよ。それを繰り返されれば、一種の洗脳だ。おまえはな―」
 ぼろぼろ泣きはじめる。
「おまえはな、先天的に人にやさしくすることしかできないおめでたい人間だ。それに感動する人間と、イラつく人間がいる。おふくろさんは後者だ。イラ立ちはどんな存在も全否定する。利用価値のある要素はちゃっかり利用するが、それ以外はカスと見なして切り捨てる」
 菅野が、
「利用できるのは東大だけ?」
「いや、もう一つ。人間性だ。神無月の人間性のおかげで、あの母親は生き延びてきたんだ。そうでなければ、鼻つまみ者としてとっくに放逐されてる。神無月の人間性がすごすぎるんで、こんな子供の親なら、どこか見どころがあるんじゃないか、そう好意的に推測されて生き延びてきたんだ。彼女は気づいていない。それどころか、自分のおかげで神無月が生き延びてきたと思ってる。神無月、もういいかげん、腐れ縁を断ち切れ。いや、断ち切ってるんだろうが、それなら徹底してそばに近づくな。おまえをきちんと理解できる俺たちのそばにいろ。親が子をいちばん理解できるというのは迷信だ。親兄弟も、祖父母も、親戚も、血のつながりのある人間を見くびる。ぜったい尊敬などしない」
 ジュークボックスがあったので、私は席を立った。百円入れて三曲聴いた。キング・トーンズの『グッドナイト・ベイビー』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』。山口と菅野は呆気に取られて、じっと私を見つめている。もう百円入れて、外国の曲を三曲聴く。オーティス・レディングの『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』、ビートルズ『ヘイ・ジュード』、ボビー・ゴールズボロ『ハニー』。
「なんかしっくりしないな」
 独りごちる。山口がホッとして、
「停滞だな」
「新しい波がくればいいけど。ヘイ・ジュードは林に合いそうだね」
「もう唄ってたぞ。聴き応えがあった」
 菅野が、
「林さん、ですか。知らない名前が出てきましたね。いつか会わせてください。さ、いきますか」
 菅野に促されて店を出る。途中の電話ボックスで北村席に今晩帰ると電話した。山口は鉄門のところで待っていたシロの頭をごしごし撫ぜながら、
「なあ、シロ、おまえでさえ神無月を理解してるのにな」
 目を潤ませて言った。浜中たちが駐車場のクラウンに戻って、雑談をしていた。菅野が窓を覗きこみ、
「インタビュー終わりました?」
 恩田が、
「いやあ、太刀打ちできなかったです。お父さんと神無月さんの悪口ばかりで、肝心なことは何一つ話しませんでした」
「そんなの最初からわかってたことですよ」
 山口の呟きに田代が、
「お父さんのことを一つだけ褒めてましたよ。ソウル高専出身で校歌を作詞した、と」
 山口が、
「学歴と芸術か。いや、芸術じゃないな。業績だ。野球じゃだめなんだな。いや、だめじゃない。金田や長嶋はいいわけだから。……すでに確立しているもの。過去形のもの。現在進行形や未来形は認めない。……野球の到達点はプロか。しかも、有名でなくちゃいけない。うへェ、ふつうの人間に求めることじゃない。神無月はそれを成し遂げちまうんだろうが、世間でじゅうぶん有名になるまでは、彼女はぜんぜん意に介さない」
 浜中が、
「もっと深い、何か、こう、怨嗟のようなものを感じます。世間では、神無月さんが東大へいったのをしゃらくさいスタンドプレーだと、見当はずれなことを言う連中がいますが、これで、きちんと釈明する記事を書けると思います。じゃ、挨拶をしに食堂に戻りましょうか。晩めしを食べてってくれって言われましたが断りました。おやつにソウメンをいただきましたよ」
 私たちが長テーブルで待っていると、母が風呂を立てて戻ってきた。そのまま台所に入り、下働きといっしょに夕食の用意にかかる。夕映えがきている窓辺でインコがさえずっている。三人の男たちが、台所の母に話しかける言葉を探している。気まずい。社員たちもいないのに、こんなに早く押しかける必要はなかった。泊まらなくてもいいと母が言い出したことがせめてもの救いだ。台所から母が、
「小学校何年生のときでしたか、この子、私の給料袋を落としちゃってねェ。こずるく給料日にやってきて、どうしてもほしい本があるなんて切羽詰まった顔で言って、まあ、軽い気持ちで袋ごと預けた私も悪かったんですが、知り合いに借金して、どうにかしばらく凌ぎましたけど、返済に半年もかかりましたよ」
 記者たちは、母の温かみのない愚痴にすでに食傷気味になっている。早く社員たちにインタビューして帰りたいという焦りが見えみえだ。浜中がしつこく田代と同じ質問をする。
「神無月さんは幼いころから野球で騒がれていたんでしょう?」
「さあ、私は働くのに忙しくて、この子が学校で何をやっていたのかまったく知りませんね。木琴買え、自転車買え、要求ばかり強くて、悩まされましたよ」
「グローブやバットを買ってくれと言われたことはないんですか」
「ありませんよ。スポーツにお金をかけるなんて愚の骨頂。この子が野球をやってるって知ったのは、名古屋にきてからです。西松の社員たちが大騒ぎして、贅沢な野球道具を買い与えてました。おだてられて身に合わないスポーツなんかするから、腕の手術をしなくちゃいけなくなって。それでもやめなかったんだから、懲りない子ですよ」
 とうとう浜中は声を荒らげた。
「お母さんの生甲斐は、何ですか! 息子さんの幸福じゃないんですか。神無月さんの才能はまぎれもないほんものですよ。その才能で、自分ばかりでなく、お母さんまで幸福にすることができるのに」


         百二十

 六時に近く、どやどやと社員たちが帰ってきた。山崎さんが、
「おう! ホームラン王の里帰りか」
 と声をかけたので、テーブルのみんながいっせいに立ち上がって礼をした。大沼所長は食堂に寄らずに作業着のまま早々と風呂へいったようだ。フラッシュが焚かれる。
「テープ、回して」
 浜中がするどい声で言った。三木さんが、
「あらら、カメラとテープレコーダーだぜ。俺たちにインタビューか。キョウちゃんと同じ釜のめしを食った人びと、てか」
 浜中を除いた山口たちが自己紹介をする。
「東大法学部か!」
 山崎さんが嘆息した。飛島さん、佐伯さんのほかに、初顔の社員も四、五人いる。寮が少しばかり大所帯になったのだ。下働きがいたわけがわかった。
「キョウちゃん、一段といい男になったな。女難の相が出てるぞ」
 三木さんが言うと、飛島さんが、
「女難じゃなく、艶福でしょ。郷くんに悪さする女はいませんよ」
 小さな佐伯さんが寄ってきて、私を抱きしめた。
「少し痩せたよ。野球一筋でがんばってるんだね。ぼくも、ようやく二級建築士の資格をとった。四年後は、一級に挑戦だ」
「佐伯さんなら、すぐです」
 やがて、一番風呂を浴びた所長が浴衣姿で入ってきて、
「ややや、キョウのお帰りか! 佐藤さん、スキヤキにして!」 
「食材がありませんよ」
「山崎、佐伯、そこの八百屋と肉屋で、うーん、とにかく車で走り回って材料買ってこい」
「じゃ、シラタキと豆腐もお願いします」
 下働きがうれしそうに言う。私たちは断っためしを食わなければならないというあきらめた表情で見つめ合った。
「ほんとに所長さんはワンマンなんですから」
 母が媚びたふうに微笑する。この笑いを見たことがある。彼女が胆石で入院していたベッドだ。岡本所長を見上げたときだった。山口の表情が嫌悪感を帯びた。大沼所長が卓につくと、母が氷水を出した。お手伝いの女がビールとコップを盆に載せて持ってくる。
「学生にはけっこうですよ、未成年だから」
 母が言う。三木さんと飛島さんが隣の男たちにつぐ。他の社員もそれをまね、隣についだ。浜中たちは、仕事中ですから、と断った。
「東奥さん、ひさしぶりだね。キョウのことはきちんと記事にしてるようだね。ほんとにありがとう」
「はい、精いっぱいやらせていただいてます」
「いまや、日本一有名な野球選手だ。おまけに、東大生ときてる。どんなことでも記事にできるだろう。こんな目の前に座っているのが信じられない。人間国宝だな。どうだ、キョウ、東大はおもしろいか」
 所長が浴衣の首を団扇であおぎながら尋く。
「野球はおもしろいけど、授業はさっぱりわからない。同級生のファンに虎の巻を作ってもらって切り抜けてます」
 山口が、
「俺はファンがいないから、自力で切り抜けるしかありません」
 みんな声を上げて笑う。所長が、
「親友の山口くんだね。高校時代はキョウの精神的支えになっていたと聞いてる。感謝するよ。いっしょに東大にいったんだな。よかった。キョウの数少ない理解者の一人だ。これからもよろしくお願いするよ」
 所長は深く頭を下げた。菅野と記者たちはひとことも口を利かず、品定めするように所長の様子を見つめていた。田代はうつむいてデンスケをいじり、恩田はときおりシャッターの音を立てた。山口が、
「俺もギターしかできない牛後組なんで、勉強の面倒は見てやれませんが、神無月にぞっこん惚れてますから、一生そばにいます。いや、フジツボみたいに神無月という船の底に無理やりへばりついてるって言ったほうが当たってるかな。つまり、よろしくお願いしなくちゃいけないのはこっちのほうです。俺ばかりでなく神無月の理解者は確実にいますが、数少ないことは事実です。こちらのかたがたがその一人と知って、ホッとしました」
 所長も、三木さんも飛島さんもにこにこ笑ってうなずいた。私が三、四人の新入社員をめずらしそうに見つめていると、視線に気づいた彼らの一人が、自分は早稲田の理工学部出身だと言い、もう一人は名工大の機械工学科だと言った。紀尾井雄司の出っ歯を思い出した。残りの社員たちは何も言わなかった。
「名工大の窯業科にいった学友がいます」
「そういう学科、あったかなあ。環境材料学科のことかな」
 彼らは所長のような、ひょろりと首の長い、家禽のようなからだつきをしていた。所長とちがって無口だった。彼らは、私や山口とはもちろん、三木さんとも飛島さんとも、所長ともしゃべらなかった。自然な笑顔を振舞っても、人間的なたたずまいに魅力を欠いていた。私はあえて彼らに語りかけようとは思わなかった。大沼所長は私の頭を撫で、
「こんなきれいな顔でホームランを打つのか。涙が出るな」
 その様子を恩田がカメラに収めた。三木さんが、
「所長は子供がいないから、キョウちゃんをわが子のように思ってるんだよ。キョウはどうしてるかな、が口癖だからね」
 三木さんは飛島さんをあごで指し、
「こいつが将来七光りで社長になったら、大沼さんは副社長だろう。キョウちゃんが野球で失敗したら、飛島に入れてやると言ってるよ」
「たしか、ご子息でしたね」
 浜中が言うと、三木さんは、
「三男だよ。長男次男は外資系の会社でめしを食ってる。こいつはいずれ、キョウちゃんがプロにいったら、第二期ファンクラブを作るつもりでいるんだ。大学にいるあいだも、いまのファンクラブで集まった義捐金を半年に一度送ってる。キョウちゃん、役に立ってるか」
「じゅうぶん。おかげでこうやって会いにくる贅沢ができます」
 浜中のメモが激しくなった。飛島さんが、
「会社ぐるみの支援はまだ先のことですが、しばらくは、本社支社の社員間のカンパでやるつもりです」
 そう言うと私を見つめて大きく笑った。所長が、
「大学出るまでは、それで用が足りるだろう。キョウはほかからもいろいろ支援を受けるだろうが、俺たちは俺たちで支援する。相撲にタニマチがあるなら、野球に同じようなものがあってもいいだろう」
「心強いですね」
「スポーツには不慮のケガがつきものだ。そのときに途方に暮れないようにしといてやるのはファンの義務だ」
 山崎さんと佐伯さんが買い物から帰ってきて、三つの簡易ガスコンロにそれぞれラードを置いた鍋が用意された。母と中働きの年増が肉を敷き、砂糖をまぶし、野菜を載せていく。山崎さんが私と山口にビールをついだ。
「あっちのほうはどうしてる?」
 といつもの水を向けた。
「野球で忙しくて、まったくチャンスがないです」
「相変わらず不健康だな」
 山口や浜中たちがニヤニヤ笑った。山口が、
「東大の女は魅力がないしな」
 ドッと笑いがきた。所長まで大声で笑った。彼は配下たちに気さくにビールをつぎながら、煮えはじめた鍋に箸を突き立てた。母はこの種の話には拒否反応を示す。手伝いの女はにこにこしていた。
「佐藤さん、キョウは野球一筋だ。まあ、将来を楽しみにして、せっせと働くんだね」
 そう言って、母と下働きにビールをついだ。お手伝いはそれを一杯空けると、台所へ戻っていって、めし櫃の仕度をしはじめた。母はつがれたコップをテーブルに置いただけで台所へ戻っていった。山口は苦々しい顔をしながら、社員たちの談笑の騒音の中で私の耳もとに言った。
「彼女の自己顕示は病的なものだ。自分が注目されないかぎり、とにかく頭にくるようだな。おまえに話題が集まれば集まるほど不機嫌になる。―おふくろさんは本来的な支配者だ。ここにいる全員が支配されてる」
 母は私の非凡を好むが、それは彼女の手柄でなければならない。私の手柄であってはならない。さすが佐藤さんの子だ、と言われなければならない。西松の飯場で、母はだれかに、トビがタカを産んだと言われたことがあった。あのときの母の形相を忘れない。不正なものに対する精いっぱいの反撃の顔だった。たしかに彼女は、私といっしょにいては憂鬱のかたまりになるだろう。私は母がたまらなく気の毒になった。新顔の社員たちは母の不機嫌に馴染めず、めしを食い終えると、頭を下げて寮へ戻っていった。残った者たちの中でめしを食う人間はいなかった。ただビールを飲んだ。山崎さんが、
「東奥さん、春のリーグ戦のキョウちゃんはどうだった」
 また私の話題だ。
「新人戦を除いて二十五本のホームランのうち、四本を現場で見ました。すごいものでしたよ。田淵の四年分をたった半年で抜いてしまったんですからね。東大の準優勝はたしかに歴史的なものかもしれませんが、チームプレイである以上はあり得ることです。しかし、個人プレーとして、半年でこのホームラン数は永遠に破られないでしょう」
「四年で百本か。長嶋の八本を考えると、言語に絶するものがあるな。この価値がわからないのは、佐藤さんだけだ」
 だれも台所を見なかった。
 ―お母さんの生甲斐は何ですか。息子さんの幸福じゃないんですか。
 質問の答えをはぐらかされたままになっている浜中も見なかった。山口は大食漢らしくもなく鍋に一箸もつけていない。いつのまにかシャッターの音も止んでいる。恩田と田代は黙々とめしを食っていた。他人の話題を出さなければならない。辻のことをなんとか思いついて所長に言った。
「体育の授業を受けてるとき、競馬のノミ屋をやってる学生がいて、ヤクザの万馬券を呑んじゃって、六十万円の返済に頭を悩ませてたんです」
 山口が大声を上げた。
「へえ! 会いたかったな、そんな妙な野郎」
「彼に府中競馬場に連れてってもらって、あごが外れるようなことを目撃しました。彼はNHK杯というレースでタニノハローモアの複勝を十万円買ったんです」
 三木さんが、
「おお、NHK杯のタニノハローモア! そのあと七夕ダービーを勝ったぞ」
「九番人気でな」
 と山崎さん。私は、
「それが三着にきて、七百何十円かつきました。彼の借金は六十万円だったので、余裕で返済できることになった。ぼくにもご祝儀を十万円もくれて、びっくりしました。ボートを研究する旅に出ると言って、中退しちゃいました」
 山崎さんが目を丸くして、
「ふーん、東大にはそんなやつもいるのか。それでじゅうぶん食っていけるんだから、東大なんかいく必要はなかったんじゃないの」
 飛島さんが、
「そういうものですよ、頭のいい人間って。東大を試金石にしたんでしょう。ノミ屋をやってたって、東大ぐらい受かる力があるんだって、自分を納得させたかったんでしょうね」
 佐伯さんが感嘆して、
「それって、ある意味、天才的ですね」
 三木さんが、
「別世界の話だ。土俵が東大だからな。キョウちゃんみたいなやつがいるんだから、そういうやつがいたって不思議じゃない。この山口くんだって、東大法学部に現役で受かってるくせに、ギターしか得意じゃないって言ってるだろ」
 所長が言った。
「そうだな、東大は俺みたいな平凡なやつがほとんどだが、異能者も数少ないながらいるんだ。……キョウ、お母さんのことは気にするな。俺たちで引き受けるから。異能者の息子が平凡な自分から離れていくようで怖いんだよ。怖いからって、才能を殺していいって法はない。キョウはその妨害にこれまでずっと苦しんできた。そして自力でその苦しみを克服してきた。もういい。思う存分野球をやれ。飛島はプロにいったらと言ったが、在学中に本社ぐるみで正式なファンクラブを創ってやる。呼んだらかならずこいよ。いや、暇ならかならずこい」
「はい」
「山口くんもきてくれ。東奥さんもな」
 男たちは本気でうなずいた。たとえ社交辞令でも、本気になる瞬間だ。さすがに空腹に耐え切れず、社員たちがめしにかかった。
「神無月、めし一膳食っていこうぜ。用意してくれた人にすまない」
 山口が台所の中働き女を振り返って言った。
「ああ、そうしよう」
 沈鬱な静寂が訪れないよう、所長たちは鍋に箸を突っこみながら絶えずしゃべりつづけた。すでにめしを終えた東奥日報の連中も談義に加わって、今年のドラフト会議のめぼしい候補選手の名前をあげていった。田淵、山本、富田の法政三羽烏、明治の浜野百三、近畿大の有藤道世、富士鉄釜石の山田久志、松下電器の福本豊と加藤秀司、箕島高校の東尾修、日通浦和の金田留広、オリンピック百メートルで惨敗した茨城県庁の飯島秀雄は足だけの入団だという。法政三羽烏以外は知らない名前だった。聞き耳を立てたのは、中日に入団するだろうと目される選手だった。太田、水谷、島谷という名前が聞こえた。
 ―太田? タコ? まさかな。


東京大学 その11へお進みください。


(目次へ)