百三十六

 薄暗い光の下に黒板塀が安らっていた。古くて小ぎれいな家だ。家の周囲に人の気配はない。沈丁花の生垣から、薄明るい縁側のガラス戸の中を見やる。生徒たちは帰ったようだ。玄関戸をカラリと開けて土間に入り、開け放してある教室用の部屋を覗いた。蛍光灯の豆燭が点いている。文江さんを求めて二階へ上がった。
 寝室の戸を開けた。窓のない壁ぎわに、買ったばかりらしいビニールクロスをファスナーで開閉するファンシーケースが置いてあった。淡い黄色の地に白の小さい花柄を散らしたデザインだった。着物を吊るすためのものだろう。テレビはなく、大きな文机が別の壁に接して置かれていて、紫の桔梗を五、六茎挿した細口の花瓶と、真空管ラジオが載せてあった。その机に横坐りに向かっている着物の背中が見えた。
「文江さん……」
 そっと声をかけた。振り向いた顔にいっときに笑みが拡がった。
「キョウちゃん! 待っとったよ。ごめんね、無理言って」
「いいんだ。いま、東奥日報さんが帰った。お父さんお母さんや、山口たちも寝た。何してたの」
「生徒の上達具合を調べとったんよ」
 文江さんは足袋を脱ぎ、スルスルと帯を解き、伊達締めも解いて、着物と長襦袢を払い落とした。
「早よすませて、帰ってあげて。予定あるんでしょ?」
「うん。ゆっくり夜中に帰る」
 机の前ですぐに抱き合った。求める度合いが強いときは、前戯なしで挿入するほうが女のからだは激しく反応するということがわかっているので、キスをしながらすぐに合体した。文江さんは肌襦袢の裾よけの褄下(つました)を拡げて私の上にきっちり跨り、ときどき後ろへ反り返るように、小太りのからだをしなやかに動かす。一分もしないうちに下腹とみぞおちをふるわせて私の胸の上に崩れ落ちた。私も同時に射精した。真綿に包まれるような快感へ導かれるセックスだった。文江さんはアクメの発声をすることもなく、ひたすら痙攣することで歓びを表現した。彼女はじっと私の目を見つめ、
「幸せすぎる……」
 と言った。そうして静かに私の胸に顔を埋めた。
 風呂が用意してあった。いっしょに抱き合って入った。
「からだのこと心配してくれたんやてね。ありがと」
「また、長く逢えなくなるんだから、いい思い出をしまっておかなくちゃね。心のこもったセックスをすれば、からだはグングン快復すると思う」
 独特な芳香のある口を吸う。胸に手を置く。文江さんはくすぐったそうにからだをよじり、
「またすぐするのはもったいないわ。今年最後の夜やもの。あの店に味噌煮こみうどん食べにいこ」
 外食を中心にしたさびしい生活がにおった。葵荘の生活だった。一日の仕事が終われば腹がへる。毎度北村席の世話になるわけにはいかないし、とは言え自炊などする気にもならないだろう。一人で食うことはさびしい。食卓は賑やかでないといけない。
 ガード沿いのあのいきつけの店で、味噌煮こみうどんを食べた。天ぷら以外に麺類にも手を拡げたようだ。馴染みのような顔でたがいに挨拶する。客は私たちのほかに二人だけ。ビールを一本頼む。
「きょうは一日じゅう食いつづけだ。北村席の朝食、花屋のオムライス、北村席の夕食、味噌煮こみうどん」
 客がカウンターに二人。マスターは私たちのコップにビールをつぎながら、親しげに語りかけた。
「新開発か何か知らないけど、このあたりもこの一年ですっかり変わってしまいましたよ。滝澤先生はむかしの賑わいを知らんから大して残念でもないやろが、私らのように長く暮らしてきたもんは、さびしてしょうがない。愛着があるから離れるに離れられん」
 私は共感し、
「決断というものには、理屈より先に感情が入りますからね」
「私もいやや、こんなビルヂングがニョキニョキ建っとる場所は。でもここは、何年かにいっぺんキョウちゃんが帰ってくるところなんよ」
 クツクツ煮えたうどんの鉢がカウンターに置かれる。
「お師匠さん、病気はもういいんですか」
「すっかり。何年生き延びたんやろな」
 二人、箸を割り、鉢に屈みこむ。記憶にあるほど硬くはない。
「ほんとに、神無月さんはいつ見ても人間離れした風采ですねえ。顔はもちろんやけど、雰囲気がなんとも言えん。東大準優勝で神無月さんが全国区になったおかげで、ほとんど毎日、テレビや新聞で見られますわ」
 静かな客たちが私を振り向いた。アッと口を開ける。静かな客はありがたい。それだけでおしまいになる。
「秋は、優勝ですか?」
「柳の下に……。精いっぱいAクラスを目指します」
「どんどんプロからの打診はきてるんでしょう」
「いっこうに。三年後ですね」
 会計をするときマスターが、
「どうぞご自愛なさって。ご活躍のほど祈っとります。大記録を伸ばしつづけてください」
「ありがとう。マスターも商売繁盛を」
「は、もったいない」
 帰りの夜道で腕を組んだ。
「どんな粗食でも、自炊のほうが栄養豊富だよ。インスタントラーメンに野菜を入れるだけでもいい」
 文江さんは顔色を曇らせながら、
「さびして、ついつい人のいるところへいってまう。強ならんとあかん。……今度はいつ会えるんかなあ」
「早くて来年の春だね」
「そんなに早うきてくれるん?」
「半年以上も先だよ。何の方針もなく生きてる男だけど、勘弁してね。ただ、精いっぱい生きてることだけはわかってほしい」
「生きててくれれば、百点。それ以上、何も望んどらんのよ。直人くんをキョウちゃんと思って大切にするつもり。和子お嬢さんも同じことを言っとった。宝物みたいな人の子供だから、陰になり日なたになり、みんなで大切に見守らなくちゃいけないって」
「くれぐれもお願いします」
「他人行儀はやめてや。……あさっては仕事をしとるから、見送れん」
「いいんだ。あしたの午前中に大むかしの友人に会って、あさっての昼にはみんなで新幹線に乗る。ぼくのことは、野球記事を読めば消息だけはわかるからね」
「キョウちゃん、私は一生、キョウちゃんだけを愛しとるんよ。キョウちゃんが生きとるかぎり、ずっと私も生きとる。からだに気をつけてね。お嬢さんやお友だちに、くれぐれもよろしく。これまでのこと、なんて感謝したらいいか、わからん言っといて」
「わかった」
 カズちゃんの言ったとおり、床に入ってすぐ、二度目のセックスをした。文江さんはあまりにも激しく気をやったせいで、気を失ったようになり、そのまま深く寝入った。私は服をつけ、深夜の道を北村席まで戻った。
 北村席の玄関戸は常に開いている。質のいい戸車のせいで滑るように開くので、屋内に響かない。トモヨさんが起きていて、茶をいれてくれた。
「二階にお床をとっておきました。上がって右から二つ目の部屋です。お腹は?」
「文江さんとガード下で味噌煮こみうどん食べてきた。彼女のいきつけ」
「私も一度お義母さんに連れてってもらいました。柔らかくておいしいの」
「みんなは?」
「和子お嬢さんたちは玄関の客部屋でお休みです。山口さんとおトキさんは……」
「なるほど。よしのりはあの女の人ね」
「はい」
「直人は?」
「ぐっすり」
「お別れの……する?」
「はい。お疲れでなければ」
「だいじょうぶ。ちょっと文江さんの後始末してないけど」
「すぐタオルを持ってきます。……うれしい、きのうのが最後だと思ってましたから」
 階段灯の点いている二階の上がり框から二つ目の部屋に入る。枕もとのスタンドだけを点け、きちんと敷かれている蒲団に横たわった。やがて全裸のトモヨさんが温かいタオルを持ってやってきて、性器の付け根を丁寧に拭いた。めずらしくディープキスをしてきた。興奮している。全裸の肌がしっとり触れた。温かく吸いつくようだ。トモヨさんは私のいきり立ったものを見つめ、
「きれい……」
 喉だけで囁いた。口づけをしながら腹をすり下ろし、私のものを股間に収める。手を自分の尻の後ろに伸ばし、指先でいとしそうに結合部の根もとをさする。そっと突き上げると、グンと反り返り、慎ましく痙攣する。私はトモヨさんをやさしく横たえ、腹をさすってやった。トモヨさんは片膝を立てて痙攣しながら、しだいに脚を伸ばしていく。
「ありがとうございます」
 囁くように言う。とろりとした視線で、まだ射精していない私のものを見つめ、
「ごめんなさい、私だけ……」
 しっかり握り、
「きてください」
 挿入し両手を握り合わせる。トモヨさんはときおり目を開けて、唇を引き結び、あらぬ方向を眺める。いただきへの時間を長びかせようとしているのだ。顔が快感にゆがみはじめる。
「も……だめみたい、郷くん、ごめんなさい、もう限界、がまんできない、ああ、イクイク、イク!」
 私を自分の乳房ごと抱き締め、本能的に腰を激しく前後させる。私もあわただしく腰を往復させる。迫る。
「郷くん、もうだめ、すぐちょうだい!」
 吐き出すと、トモヨさんは苦しげに喉を絞りながらからだを硬くして弾む。
「あああ、走る、走る、愛してます、イク、ククク、イク!」
 トモヨさんは私の胸を押して飛び離れ、枕に覆いかぶさるようにしながら背中の筋肉を引き攣らせた。シーツに腹をぶつけて痙攣する。
 やがて二人、ゆっくり横たわる。トモヨさんは私にぴったり寄り添い、手を握りながら言った。
「郷くん、ありがとう。……女って、こういういやらしいところを持っているんです。それもぜんぶ郷くんに見せてあげなくちゃいけないの。……郷くんを愛してるのでいやらしくなれるんです。郷くんの喜びがいちばん大切だから―。私のいやらしいからだは郷くん以外の男に開いたらぜったいだめ。そんなことになったら、その場で死にます。かならず。心もだめ。心を狭くしなくちゃ命懸けにはなれない。……郷くん」
「ん?」
「ありがとう、生きててくれて」
 私を抱き締める。豊かな乳房と私の胸が押しくらをする。握り合う手に力がこもる。トモヨさんは私の背中をさすりながら、
「女同士、おたがいの身の上も、郷くんとの歴史もほとんど知ってるから、おたがいを自分と同じ女として認めることができるんです。それも、郷くんに出遇った瞬間に、何の理屈もなくそういう気持ちになれたわ。……たとえば、節子さんは郷くんの原点だし、郷くんの大切さがわかって戻ってきた人。それで救われた人。救われたという意味では、みんな同じ。郷くんがどれほど与えるだけの人か、出遇った瞬間にわかってしまいます。そういう女の心もからだも、私たちは理解できるんです」
 トモヨさんの顔を眺めながら話を聞いているうちに、うとうとしてきた。
「きょうは疲れたでしょう。お眠りなさい。私、直人の部屋に戻ります」
「何時だろう」
「一時を回りました。八時には食事ですよ」
「うん」
 屈みこんで私の性器を口で浄めたあと、別れのキスをする。
「またあした。お休みなさい」
「お休み」
 全裸のままそっと戸を引いて出ていった。今度こそ深い眠りに就いた。


         百三十七
      
 十九日月曜日。七時に目覚めた。居間のほうからカズちゃんたちの賑やかな声が昇ってくる。下着をつけ、ワイシャツにズボンを穿いて、広い階段を下りていく。カズちゃんは主人夫婦と、膝に直人を抱いたトモヨさんといっしょに早い食事を終えるところだった。おトキさんたち何人かの賄いがおさんどんをしている。
「おはようございます」
 一家で頭を下げる。カズちゃんがやさしく微笑し、
「よく眠れた?」
「ぐっすり」
「トモヨさんがボーナスで励んでもらったって、朝からうれしそうなの」
 女将が、
「和子にも励んであげてね」
「私はいちばんたくさん励んでもらってるわ。ご安心」
 直人を膝に乗せたトモヨさんが胸をはだけ、直人に乳を含ませた。
「いくつぐらいまでお乳をあげるの」
 私が尋くと、
「求めるあいだはあげるようにって、病院の先生が言ってました。もうしばらくは離乳食と二本立てです」
 髪の薄い直人の後頭部がもこもこ動く。私は思わず笑った。
「お風呂、あと二十分ほどかかりますから、シャワーで」
「うん」
 排便。数カ月ぶりに下痢便でなかったことがうれしい。シャワーを浴びながら歯を磨き、しっかり頭を洗う。見下ろす足が大きい。
 縁側に腰を下ろした。薄青い曇り空。やがて雲が千切れ、快晴に変わる。主人夫婦とトモヨさん母子がやってきて並びかけ、空を見上げた。主人が、
「きょうも暑くなるぞう。降っても暑い、照っても暑い。外出する予定はありますか」
「はい。きのうたまたまパチンコ屋で遇った知人のところへ」
 階段にがやがやと声がして、山口やよしのりといっしょに吉永先生たち四人が降りてきた。折りよく東奥日報一党も玄関に姿を現した。恩田が、
「おはようございます。ラス前の朝ですね」
「はい、あしたの午後に帰ります」
 台所がバタバタしている。賄いたちに指図するおトキさんの声が聞こえる。そのあわただしさの中で、おトキさんといっしょにカズちゃんがコーヒーを持ってきた。主人が、
「おトキは頑丈やなァ」
 と声をかけると、おトキさんは赤くなって逃げていった。カズちゃんが、
「おとうさん、つまらないこと言わないの」
 山口が、
「もう一晩、頑丈でいてもらいます」
 と応じると、一座に和やかな笑い声が上がった。シャッターの音が始まる。よしのりが、
「俺も一晩活躍したぜ。プロの姐さん相手に」
「そりゃ、ようございましたね」
 女将が信じていない声で言う。
「ほんとですよ」
 カズちゃんが、
「そんなこと自慢しないの。よしのりさんの男がすたるわよ。奥ゆかしく黙ってることよ」
 主人に、若い若いと肩を叩かれてヤニ下がる。八時を回って菅野がかけつけた。
「神無月さん、九時に出発して、十二時前には戻りましょう」
「いってくれるんですか」
「もちろんですよ。きのう法子さんたちから話を聞いて、むだな時間を使わせちゃいかんと思いましてね」
「ありがとう。守隋くんの両親に挨拶したらすぐ戻ってきます。車で待っててください」
「了解です」
 座敷のテーブルが皿鉢で賑やかになる。トルコ嬢たちも十人ほどテーブルにやってきてくつろいだ。
「海鮮丼にしましたよ。レタスと豆腐のお味噌汁。レタスがシャキシャキしておいしいですよ。納豆と海苔とお漬物はお好きにどうぞ。お刺身の盛り合わせは、きのう出しそびれたもので作りました。ちょうどおいしくなってます」
 おトキさんが食卓にやってきて言う。九時出勤のトルコ嬢たちがいっせいにどんぶりを掻きこむ。全員であわただしく箸を動かしているところを見ると、めずらしいことにきょうは中番以降の女はいないようだ。私は大食いの山口に半分手伝ってもらった。味噌汁がうまい。二杯お替りした。カズちゃんたちの食欲はすごい。東奥連中よりもはるかに早く食い終えると、みんなではしゃぎながら朝風呂に入りにいった。よしのりが、
「おトキさん、ビール一本くれない。それから、梅干に砂糖まぶして、二つ」
「はーい」
「オツだね」
 と言いながら父親も、
「おトキ、ワシにも二粒」
「はーい」
 よしのりとビールの差し合いをする。
「オヤジさん、俺、神無月たちと関係なく、ふらりときていいかな」
「ああ、いつでもいらっしゃい。佐渡情話完全版を聞かせていただきますよ」
 よしのりはこの場所からひそかに去っていくにちがいない。酒の気分で訊いてみただけなのだ。トルコ嬢たちが次々と出かけていく。菅野が、
「じゃ、神無月さん、私たちもチャッチャとすましてきましょうか」
 トモヨさんが、
「お昼はカツ丼を作っておきますね。お嬢さん、あしたの出発は何時ごろ」
「午後三時か四時の新幹線でいくわ」
 主人が、
「わざわざきてくれたんだ。和子たちや東奥さんの帰りの切符は買わせてもらうよ」
「いや、私どもは取材費がありますから。飛行機に乗って青森まで速攻で帰ります」
 浜中が言うと、
「そうですか、じゃ、土産だけでも持って帰ってください。ウイロウがいいかな」
「お父さん、私たちもウイロウにして。キョウちゃんはいらないわよ。持っていくところがないから」
「神無月さんは〈自分〉をお土産に持っていくだけの人やろ」
「そのとおりよ。自分以外のプレゼントは持たないの」
「じつは、野球部の監督や部長にウイロウを買ってくるって約束したんです。ウイロウ三つ、きしめん三つお願いします」
 主人は大笑いしながら、ヨッシャ、と言った。カズちゃんが、
「無理な約束しちゃったのね」
「ふだんわがまま言わせてもらってるせめてものお詫びにね。と言うより、とてもいい人たちなんだ。鈴下監督はウイロウが好物だから土産に買ってきてくれって、自分から言ったんだよ」
「それじゃ買っていかなくちゃね」
「ぜったいね」
「いまからキョウちゃんが外へ出ちゃうなら、私たちどうしようか。ガード下に味噌煮こみうどん食べにいく予定だったんだけど」
「うちらもいく。そのあと、きょうこそパチンコがんばろ」
 素子の提案に女たち全員が手を叩いた。山口とよしのりが、
「俺もいくぞ!」
 浜中が、
「神無月さんの外出についていっていいでしょうか」
「どうぞ。守随くんは撮らないでください」
「承知しました」
 私はクラウンの助手席に乗りこみ、東奥日報の三人を後部座席に乗せて守随くんの家に向かった。八年ぶりだった。浜中が訊く。
「その守随さんというのは、どういうかたですか」
「小学校五年のとき、ぼくに勉強を教えてくれた人です。小学校の大秀才。野球だけのバカに声をかけてくれた」
 自称バカにはもう耳を貸す者はない。心外だが、マグレの人生を説明することは難しすぎる。かならず韜晦と取られるのでムダ手間だ。反応が返ってこない以上、自分をバカ呼ばわりすることは金輪際やめよう。相手の誤解にまかせて生きるのも心苦しいけれど、自分を高く見せる詐欺を働かない努力をするかぎり、誠実な人間性を失わないでいられるだろう。菅野が、
「神無月さんは恩義に篤いですからね」
「篤くもなりますよ。そのときからぼくは勉強ができるようになったんだから」
 記者三人が顔を見合わせて笑った。田代が、
「病気が出かかってますよ。ちょっと勉強を教えてもらって、たちまち頭角を現すなんてことは、天地がひっくり返っても起こりませんよ。毎日教室で教えてもらっても、秀才にはなれないでしょう?」
「守随くんは天地をひっくり返したんですよ」
 浜中がやさしく笑いながら、
「神無月さんが言うんだから、そのとおりなんでしょう。もともと勉強の素質があったなんてことは、神無月さんは考えたこともないんです。すばらしい」
 恩田が、
「そのかたは、ひどい落ちぶれ方をしたと聞きましたが」
「はあ。失意の人というのは、転落を免れることはできないでしょうね。それが無頼の意志に支配されているなら、なおさらそうなるしかないんです。守随くんはそのことを知ったうえで、それにきちんと対峙し、舌を丸めて自分の運命に唾を吐きかけたんです」
「はあ、舌を丸めて……」
「彼は独りぼっちのとき、舌を筒のように丸めて唾を吐く癖がありました。……ぼくは彼が転落したということを信じたくないところがあって。……きょう確かめます」
 三十分もしないで、白鳥橋から船方へ曲がりこむ。浜中が菅野に尋く。
「あの川沿いに見える緑地一帯が、有名な白鳥公園ですね」
「そうです。桜の名所です」
 市電に出会い、追い越され、すれちがう。畠中女史と、この市電に乗って労災病院へいった。チンボ勃ち。香水のにおい。女史はどうしているだろう。ダッコちゃん。過ぎていった人たち。車窓の景色はむかしと変わらずにここにあるのに、同じ景色の中に彼らはいない。恩田がパチリパチリやっている。愛知時計の工場群を覆う長い塀の前でクラウンを降りる。
「三十分ほど待っててください」
「ほい。法子さんの話によると、タチが悪そうだから、さっさと切り上げてきたほうがいいですよ。人は変わります。神無月さんみたいな人以外はね」
 熱田高校の生垣に沿って歩いた。守隋くんは約束の場所に立っていなかった。十時までにまだ十五分ほどある。
 痴漢をするために隠れたコンクリートの電信柱が、生垣に接してまだそのまま立っていた。あの電柱の陰でふるえた夜の時間が思い出された。校庭にサッカーゴールが二基、それを眺めながら歩く。畑と草むらだった土地にたくさんの家が立ち並んでいる。生垣の端までいき、左折して、小さなさびれた門まで歩く。いままで正門だと思いこんでいたのは裏門だとわかった。クマさんの社宅の裏の畑を眺めてから、正門を求めて歩く。さらに左折すると、船方公園という遊具設備のない空地があり、その前の道路を隔てて大きな門があった。サッカーグランドを一望できる正門だった。市電通りに出る。ちょうど十時だ。
 守随くんがぼんやり立っていた。百メートルほど向こうにクラウンが見える。
「きたんか。お人好しやな」
 守随くんは無表情だった。私はシャッターを意識しながらさりげなくクラウンを過ぎた。市電通りを並んで渡るときも守随くんは同じ顔をしていた。
「岩間くんの家って、あんなに小さかったんだね」
 この家を見るのは二度目だ。幹線道路沿いの岩間医院が古びた平屋であることにあらためて驚いた。守隋くんは首をかしげながら、汗っぽい指先を神経症のようにこすり合わせている。
「だれやったかな、岩間って」
「青木くんの見舞いのとき、少年サンデーをプレゼントしただろ」
「忘れたわ。―神無月くんを連れてったら、おふくろやオヤジが喜ぶで。ときどき、あの子はどうしてるかなあ、って言っとったから」
 ぴくりとも頭を動かさない姿勢が不気味だ。
「きのうはあれから儲けたで。……神無月くん、ますます男前になったわ。東大か―」
 八年ぶりに見る狭い庭が、ますます狭く感じられた。守随くんは、ただいまも言わずに玄関の戸を開けた。式台に父親と母親が両手をつき、からだを平たくして待っていた。ゾッとした。


         百三十八

 眼鏡をかけた父親は私の手をとって、
「ああ、神無月さん、よくきてくれました。これで洋一も救われるでしょう。いや、私たち親子も救われます」
 手をしっかり握る。私は踵をこすり合わせて靴を脱いだ。ふたたび手を握られた格好で居間に通され、座布団を勧められた。
 ―同じテーブルだ。
 八年前に守随くんと勉強をした大テーブルが、古びて、みすぼらしく見える。
「神無月さんは救いの神です。よくぞいらしてくれました」
 母親が切羽詰まった顔で、
「東大にいきなさったんやてね。野球でも記録を作って、大出世なさって。人とまったくちがう雰囲気のお方でしたものね。私どもを助けにきてくださったんですね」
 握った手を離さない。その上に父親が絡みつくように手を重ねた。早くここを脱出しなければと思った。
「氷水をいただけませんか」
「あ、はいはい、おまえ氷あるか」
「冷えた麦茶が。いまお持ちします」
「守随くんには小学校のときたいへんお世話になりました。勉強をしようという気にさせてくれた大恩人です。ぼくにできることがあれば何でもします」
 麦茶が出た。両親は私の手を離して、また畳に両手をついた。母親も父親に並んで同じ姿勢をとる。私は掌で額を拭い、それをズボンの膝にこすりつけた。それから麦茶を一息に飲み干した。
「どうか洋一を説得していただけませんか」
「は?」
 何を、どう説得すればいいのかわからない。
「どういうことですか?」
「大検をとって、大学にいくようにと」
「ダイケン?」
「大学検定試験です。高校中退者でもその試験で高卒の資格をとれば、大学を受けられるんです」
「守随くんは、春に就職したばかりですよね……」
「そんなものはいつ辞めてもいいんですよ。本人もいきたいわけじゃなかったのに、親戚の紹介で、要らない気を使って就職したんです。会社なんか辞めてここに戻ってきて、一年でも二年でもかけて大学検定試験をとり、大学受験をしてほしいんです」
「守随くんなら一発です」
「そう思いますか。ああ、ありがたい。お願いします。検定試験を受けろとだけ言ってやってくれませんか。東大生の神無月さんが言ってくれれば、洋一もきっと心を動かすと思うんです。私どもが言っても、いっこうに聞き入れませんから」
 私は面倒になり、
「守随くん、検定試験の勉強をしたらどう?」
 と言った。すると彼は、
「そうだな、そうしようか」
 とあっけなく同意した。両親が感激して、畳に手をついたまま泣き出した。
「ありがとうございます、ありがとうございます、神無月さんは神さまです、仏さまです。さ、洋一、お礼を言って」
「ありがとう」
 守随くんは無表情に畳に両手をついた。両親は私に向かって深く叩頭した。
「ああ、洋一が神無月さんに出会ったのも、何かの縁だ。こんなありがたいことはない」
「じゃ、俺、これから夜行で東京へいって、荷物を引き上げてくるわ」
「そうか! じゃ、そうしてくれ。くれぐれも先さまには頭を低くしてな。父さんからもあとで一筆書いておく。神無月さん、ほんとうにありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
 守随くんはさっさと玄関を開けて出ていった。私が立ち上がると、両親はまた私の手をとり、玄関の式台まで送ってきた。指で靴を履く私の背中に平伏する。私は訊いた。
「学歴は守随くんのために必要ですか? ご両親のために必要ですか?」
「もちろん、洋一のためです。私たちにそんなものは必要ありません」
「……ぼくの母は自分のために必要としました。東大に受からないかぎり、たぶんぼくは野球をさせてもらえなかった。守隋くんが大学に受からなければ、自主的な生き方を許さないという何かこだわりをお持ちですか」
「……そんなものはありません。ただ、本人が満たされていないということが目に見えてますから、親は手を差し伸べなければならないと……」
「守随くんはいまのままでもじゅうぶん満たされていますよ。ただご両親のお考えのとおり、大学へいったほうがもっと満たされるタイプの人間だとは思いますが、お二人が大学に価値を置きすぎてるので、怖気づいてるんです。自分程度の学力では入れてくれないんじゃないかとね。中学高校での挫折が響いてます。特に中学一年の。……小学校で大秀才だったせいで、競争に価値を置きすぎていて、挫折感が尋常でないんです。彼を再生させるには、もう一度あえて競争の中に追いこみ、実力を発揮させ、自信を取り戻させるほうがいいかもしれません。そのうえで、簡単に大学に受かってもらって、競争の無価値を認識させるんです。大検がきっかけになるでしょう」
 ははァ、と二人はまた額づいた。そして目を潤ませながら、代わるがわる私の手を握った。
「じゃ、失礼します」
 玄関を入って十五分もしないうちに、また玄関を出ることになった。両親にお辞儀をして道へ出、外で待っていた守随くんといっしょに歩きながら、私は悪い夢を見ているような気分だった。
「守随くん、これはいったい、どういうことなの」
「馬鹿が馬鹿に期待すると、こういう結果になるということやが。ネジが外れてまって元に戻らん。あれで正気のつもりや」
「ああいうことをするの、ぼくにだけじゃないってこと?」
「初めてや。いままでは、ご近所さんへの愚痴回りですんどった。愚痴の相手は、自分が一段低く見とる人間にかぎられるからな。おやじもおふくろも、息子が大のつく秀才だった記憶から逃れられせんもんで、愚痴もタラレバになってまう。自分たちが勉強を強制していなかったらとか、運動をさせていたらとか、中退にもっと強く反対しとったらとかな。自分の息子よりできのいい子供のいるご近所なんか、あの二人には考えもつかんから、手負いの鳥があがくみたいな検定試験の話なんかぜったいせん。息子はある日とつぜん改心して、そんな試験受けんでも大学へいくみたいな話をするわけや。愚痴にもしっかり優越感にまみれた嘘が雑じっとる。そこへ、神無月くんの登場や。一挙に東大生の有名野球選手やもんな。ご近所で目にしようたって目にできん。もうかなわんわけや。優越感を持ちようがない。その膝におすがりして、息子を自慢の種に蘇生させたいって気持ちになったんやろ。驚いたわ。俺はああ言うしかあれせんかった。迷惑かけたね」
 守随くんの心の基盤は皮肉と悪意でできている。彼のような人間は、何に価値を置いて生きているのだろう。知りたかった。
「きみみたいな頭のいい人には、すべてバカらしく思えるんだろうね。大検なんかもチョロイだろう。ちょっと勉強して、大学にでもいってみたら? そうしてみんなを馬鹿にしてやればいい。親も、学歴も、世の中も」
「そういうものを積極的にバカらしいと考えたことはあれせん。何も思わん。食べて、寝て、クソして、また食べる―それだけの人生や」
 絶望している自分に悦に入っている人間が口にする常套句だ。聞いていて何のおもしろ味もない。冴えた頭から出てくる言葉ではない。絶望のレベルの次元が低い。言葉は上手だが、やはり馬鹿の諦念だ。
「女の経験は?」
 守随くんの足どりがゆるやかになった。クラウンの向こうに船方の停留所が見えている。
「神無月くん、ぼくはきみとちがってブオトコだがや。その問題は、主体の美醜が関わってくるから、一筋縄ではいかん。きれいな人間が何の障害もなく、ストレートに考えられる問題や。ぼくのようなブオトコには、考えるべき問題やなくて、障害そのものや。苦痛以外のなにものでもないんよ。女のことなんか何も思わないと言ったら、負け惜しみになる。商売女なら何人も知っとる。素人の女から好かれたことは一度もない」
「守随くんがブオトコだと思ったことはなかったけど、トークショーみたいにうまくしゃべる顔を見てたら、ブオトコだと気づいた。ブオトコという宿命は変えられないけど、女との出会いという運命は変えられるよ。だいたいそういう愚痴を言うのは、一度でも女を真剣に愛したことがあった証拠だし、人間として絶望していないってことにもなる。食べて寝て排泄しながら、死なないで生きてるのは、女に愛されるのを待っているからだろ。だから、寝るとか、食うとか、排泄するとか、動物的な生理を誇張して絶望したふりをしてるんだよ。真剣に愛したことがあって、それが挫折したという理由から、居直って愛されるラッキーを待っている男を、女は愛さない。愛されるのなんか無視して、いつまでも相手だけを全力で愛さないと、愛し返してくれないんだ。全身全霊の愛をきらうのは、臆病で平凡な女だけでね。そんな女が気に入るのは、形式と安全だけだ。守随くんは、形式も安全も失っている。そんな男こそ、女からほんとうに愛されるんだよ。いままで守随くんに報いなかった女は平凡だったということさ。守隋くんのことをブオトコだと気づいたと言ったのは、ぼくの皮肉でね、主体や客体の美醜は、愛があるかどうかで決まる錯覚だし、愛しつづける自分の心とは本質的に関係のない、どうでもいいことだ。……脚の悪い加藤雅江ね」
「……顔のきれいな女やった。かわいそうにな」
「うん、彼女はぼくに恋してる」
「ずっと付き合っとったんか」
「いや、そうじゃない。山本法子の仲立ちで一度会って、わかった。真剣だった。ぼくを真剣に愛しているけど、肉体に引け目があるので、ぼくに愛されるのを消極的に待っている。ふつうはそう思う。ちがうんだ。愛されるのなんか待っていない。彼女は愛されることなんか無視して、ただ全力でぼくを愛してるんだよ。ぼくは彼女に、いつかそれに倍する愛を返そうと思ってる。彼女をかわいそうな女にはしたくないからね」
 守随くんの眼鏡が私を見つめていた。
 ―ぼくは、こんなところで、一瞬でも馬鹿だと思った人間に向かって、何を言っているのだろう。
「東京でまた会おまい。神無月くんの自宅の電話番号ちょうだいよ」
「東京で? ……やっぱり、これっきり名古屋へ帰ってこないつもりなんだね」 
「ああ、会社は辞めるけど、名古屋には帰らん。大学にもいかん。埼玉の蕨のストリップ小屋に勤めるつもりや。神無月くんの顔つぶして悪かったな。ストリップ小屋に好きな女がいるんや。思い切ってぶつかってみるわ。なあ神無月くん、偶然とはいえ、きみに会えてほんとうによかったわ。感謝しとる」
 家にこいと私を誘った理由はこれだったのだ。まんまとしてやられた。お人よし。私は自嘲の笑いを浮かべながら、荻窪の石手荘の電話番号を書き、手帳を破って渡した。守随くんは大きく笑った。この八年間でいちばんいい笑顔を見せた―私はそう信じた。その笑いの陰で泣くことになる両親の心痛を思った。しかしどうでもいい。彼らも私を利用しようとした。
 クラウンのドアまできた。恩田がカメラを引っこめた。浜中と田代はそっぽを向いている。守随くんがジロッと車内を見た。
「この車できたんだ」
「ええ身分やね」
「狭いけど、ぼくの隣に乗る? 名古屋駅まで送るよ」
「ええわ。市電でいく」
 守随くんは船方の停留所から名古屋駅行きの市電に乗った。客はほとんど乗っていなかった。恩田がシャッターを切る。禁を破って撮りつづけていたのだろう。私が車に乗りこむと、
「発表しませんからだいじょうぶですよ。しかし、さびしそうな人でしたね」
「だと魅力的なんだけど、彼のからだは得体の知れないルサンチマンでいっぱいだ。菅野さん、もう一カ所寄りたいところがあるんだけど」
「オッケー、どこなりと」
「加藤雅江の家です」
「ああ、大楠の」
「玄関先で少し話したら戻ってきます」
 平畑の通りを恩田は撮りまくる。
「中学校の通学路……ここをかよったんですね。きのうのきょうだけど、何度きてもしみじみする」
「だいぶ開けてしまいました。むかしの面影はほとんどありません。十年も経っていないのに」
 雅江の家の前で車を降り、玄関から声をかけると、作業衣を着た黒縁眼鏡の父親が出てきた。
「あ、きみは!」
「はい、神無月です」
 父親は不思議な笑顔を作り、直角の辞儀をすると、振り返って娘の名を呼んだ。それからさりげなく奥へ引っこんだ。母親は出てこなかった。テレビの音が聞こえた。クラウンが大瀬子橋のほうへ移動していった。雅江は廊下をピョコピョコ走ってきて、
「わあ、きてくれたん? 待っとったわ」
「待ってた?」
「うん―何年も」
 私の手を取り臆面もなく喜びを表現する。
「何年も?」
「うん、毎日。きょうか、きょうかって」
 普段着らしいスカートを穿いている。ポニーテールの髪を切り落とし、ボーイッシュな大人らしい顔になっていた。
「ちょっと散歩しよう」
「早く帰ってくるのよ」
 奥から母親の声がした。
「はあい」
 道をいく雅江の表情は柔らかだった。美しさに一段と磨きがかかっている。大瀬子橋のたもとに停まっているクラウンを指差し、
「名古屋西高の知り合いがここまで乗せてきてくれたんだ。宮の渡し公園まで歩こう」
 窓を覗きこんで、宮の渡しまで歩くと菅野に言う。
「ここで待っててください。話をしたら戻ってきます」
「噂の天女ですか。美しい人ですね」
 雅江が真っ赤になった。二人で歩きだす。シャッターの音がした。雅江は気づかない。
「髪、切っちゃったんだね。ポニーテール、好きだったのに」
「もうすぐ成人式やもん、いつまでも女の子みたいな髪でおれんわ」
「そういうものかな」
 雅江はまぶしそうに私を見つめ、
「……神無月くん、どんどん男前になってくわ」
「自分が美男子でないことは、自分がいちばんよく知ってる。鏡というものがあるからね」
「それ、本気で言っとるの?」
「本気だよ」
 雅江は肩をそびやかし、白い歯を出して笑った。私も笑う。
「きっとぼくの顔は、雅江好みの顔なんだな。褒めてくれてありがとう」
 菅野の車を遠く眺めながら、宮の渡し公園のベンチに座る。




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