三十四

 所長は立ったままでいるスカウトに声をかけた。
「落ち着きませんな。どうぞ、押美さんも腰を下ろして」
「あ、はい」
 スカウトは遠慮がちに長床几の一方の隅に腰を下ろした。カズちゃんが茶を差し出す。私はスカウトという人種がいることは知っていたけれども、実際に姿を見るのはきょうが初めてだった。彼は大きなからだを紺色の背広で固めた立派な風采をしていた。全身に大量の筋肉がついているように見えた。
「単刀直入に申しあげます。ご子息を、中京中学でお預かりするというわけにはまいりませんでしょうか。授業料その他の諸経費は全額免除ということで、中学はもちろん、高校から大学まで一貫してお世話させていただきます。中学では、一年生から四番を打ってもらうつもりでおります。詳しいご説明をする前に、まずこれをご覧ください」
 押美は母の返事を待たずに立ち上がると、提げてきたジュラルミンのカバンから布製の白い巻物を取り出して、手馴れたふうに食堂の壁に垂らした。それからズシリと重そうな映写機を引き出してテーブルの上に据え、コンセントを捜して差しこんだ。
「しばらく明かりを消していただけますか」
 畠中女史があわてて蛍光灯を消した。すぐにカラカラと映写機が回りはじめ、小さなスクリーンに私の姿が映し出された。先日のホームランだった。打ったボールは膝もとだと思っていたが、さらに低い足首のあたりだった。バックネット裏のかなり近い距離から撮影している。しかも、何試合にもわたっていろいろな角度から何本ものホームランを撮っていた。
 ―いつのまに撮ったんだろう?
 押美は音のしない画面を見つめながら、スウィングの速さとか、バットコントロールの正確さとか、フォロースルーの大きさなどを、力のある声でテキパキと細かく説明した。
「長距離打者特有のスウィングです。打撃ばかりではありません。ゴロやフライを処理するときの反応、返球のスピード、ベースを蹴って旋回するときのタイミング、何をとってもすばらしい。からだが頭よりも速く反応するんです。非常にたぐいまれな素質です。十年とか二十年単位の才能ではありません」
 そう言って彼は、流れ落ちる汗をハンカチで拭った。映写機が止まり、女史が蛍光灯を点けた。クマさんの破けそうな笑顔が目の前にあった。吉冨さんも小山田さんもカズちゃんも笑っていた。母だけが険しい顔をしていた。
「いかがでしょう、お母さん。来年からわが校のほうへ―」
 母は黙っていた。スカウトがちらりと私を見た。全身に緊張が走った。英雄になったようだった。中京中学から中京商業、そして、中日ドラゴンズへ……。まぶしすぎる未来がすぐ手の届くところにある。押美は社員たち全員を見回し、
「みなさまもおわかりいただけたと思います。正規の少年野球チームに属した経験もないのに、ここまで完成しているのはまったく不可解です。五十年、いやひょっとしたら百年に一人の逸材ですね」
 ホーッ! という社員たちの嘆声が上がり、狭い食堂に華やかな希望の虹がかかった。カズちゃんがパチパチと拍手した。しかし、押美の賛辞は母の虚栄心をあおり立てはしなかった。相変わらず不機嫌な顔でスカウトを見つめていた。
「おいしい話は、噛みしめて聞きませんとね」
 彼女はポツリとそう言い、無意識に下まぶたの小ジワを撫でたり、筋張った指をしごいたりした。スカウトは一瞬、得体の知れない不愉快な代物に触れたような顔をして、母から目を逸らした。
「おじゃましますよゥ。肉屋で買ってきました。とつぜんのことで、鶏は焼けなかったんでね」
 姿が見えないと思っていた荒田さんが、紙袋を両手に提げて入ってきた。
「銀紙、銀紙、カズちゃん」
 カズちゃんがテーブルに敷いた銀紙の上に、大量のコロッケとメンチカツをドサッと盛った。香ばしいにおいが立ち昇った。
「さ、みんなで、やって、やって」
 私は床几の端に腰を下ろすと、手づかみでかぶりついた。吉冨さんとクマさんもつづいた。シロが私の足もとにやってきて、見上げた。私はコロッケとメンチを一個ずつシロに与えた。小山田さんもむしゃむしゃやりながら、スカウトの顔をあらためて注視した。押美は手をつけようとしなかった。スクリーンを取り外し、映写機をカバンにしまい終えると、母のほうへ身を乗り出して、
「このまま世間の塵に埋もれさせておく人材ではありません。わたくしどもといたしましても、全面的に協力させていただきます。ぜひ、郷くんを中京中学へ」
 母は露骨に不快そうな顔つきをした。クマさんがことの重大さを母に思い知らせるように、
「偉いもんだなあ、キョウ。俺が親なら、鉦太鼓を鳴らして近所に触れ歩くぞ。中京中学にいけ」
 すると小山田さんも、
「三年後は、ついに中商か! これで、中日ドラゴンズに入ってホームラン王を獲ることが確実になったな」
 カズちゃんがまた拍手をした。母は乱れた鬢の毛を掻き上げて耳に挟んだり、額を撫ぜたり、爪の先をこじったりしている。彼女がこんな冷やかな態度に出るのはいったいどうしたわけだろうと私は懸命に考えてみたけれど、見当がつかなかった。岡本所長が重々しい咳払いでさえぎった。
「なるほど、おばさんの息子さんには、素晴らしい才能があったんだね。……私が見るところだと、野球〈だけ〉で終わらせるには、惜しい頭を持ってるようだがねえ」
 押し出しのいいつやつやした顔が、お世辞とも揶揄ともつかない微笑で歪んでいる。その歪んだ笑いには、心からの讃美ではない、かすかに不純なものが混じっているように見えた。
「所長、野球〈だけ〉ってなんですか。だれだって何かだけで終わるんですよ。野球だけで終われる人生なら、上(じょう)の上でしょう」
 小山田さんが所長の話の腰を折って言った。クマさんも色めき立って、
「そうですよ、野球選手なんて望んでなれるもんじゃない。もったいないこと言わないでくださいよ」
 所長は微笑を崩さないまま、二人を両手で制する仕草をした。
「当事者でない人間が興奮しても仕方がない。ただ私はね、努力の積み重ねのない才能というものを危なっかしく感じるんだ。まだこの子は十二歳だよ。努力と呼べるものを何年してきたと思うね」
 彼は顔の筋ひとつ動かさずに言った。
「才能があれば、おのずと努力はついてきますよ。どのくらい努力してどう完成したかじゃなくて、もともとある才能を確実に伸ばすために、これからどんなふうに適切な努力をするかでしょ」
 吉冨さんが目を充血させ、押し殺した声で言った。所長は見向きもしなかった。荒田さんが悲しそうにうつむいたままメンチを噛み回している。原田さんはきょろきょろと所長とスカウトの顔色を見比べていた。所長の言葉を笠に着たのか、それまで生首のように白い顔をしていた母が、少し頬を紅潮させ、押美に向かって言った。
「せっかくのご好意をお断りして申し訳ありませんけど、この子には勉強をさせようと思っています。所長さんのおっしゃるとおり、才能などというあいまいな言葉に踊らされて、努力しない人間になってしまったらたいへんですから。たとえ成功したとしても、有卦に入るにはどれほどの運がないといけないか。そうでなくたって、スポーツはケガをしたらおしまいでしょう。努力しようにも、元手がなくなります」
 木で鼻をくくったような言葉といっしょに、気取った柔らかい視線がスカウトに注がれた。彼女は、私の夢を実現させるために虹を渡ってきた使者を追い返そうとしていた。これまで何年も、将来を期待される言葉ばかりを聞かされてきた私は、当然母も、心の底では同じような気持ちでいるものと思いこんでいた。
「おばさん、それじゃあんまりキョウがかわいそうだ―」
 クマさんが涙を滴らせて言った。畠中女史がうつむいている。
「失敗したら、もっとかわいそうでしょ」
「好きな道で失敗したら、本望だろう!」
「私も、スキーで経験があります。国体の大回転で転倒して、くるぶしを骨折したんです。それで二度と滑れなくなってしまいました。本望じゃなかったです」
「なるほど。しかしそりゃ、おばさんの身の上だ。キョウちゃんが叔母さんの人生をなぞるわけのものでもないだろう。それに、国体とプロ野球じゃ比較にならない」
 小山田さんはそう言って、シャツからはだけた毛むくじゃらの胸をガリガリ掻いた。吉冨さんが母の横顔を睨み据えている。押美スカウトは無言のままでいた。母を説き伏せる言葉がなかなか浮かんでこないようだった。クマさんがため息をついた。
「キョウの気持ちは訊かないの、おばさん」
「訊けば、いきたいって言うに決まってるでしょう」
「じゃ、そうしてやりゃいいだろう」
「ケガとおっしゃっても―」
 ようやくスカウトが口を開いた。
「ケガとおっしゃっても、お母さん、きちんと理にかなったトレーニングをして、過度の練習を避けていれば、その危険はほとんどありません。また勉学の方面にしましても、当校はかなりの教育設備や環境が整っておりまして、六大学へ進学する学生も相当数おります」
「スポーツの特待生ですか? 東大や慶應ということじゃありませんよね」
 吉冨さんがわざとらしく大きなゲップをした。
「いえ、数少ないながら、スポーツ推薦によらずに東大や早慶へ進学した実績もございます。いずれにせよ、郷くんのこれほどの才能が、野球以外の方面へ分散されるのは、あまりにもったいないことで―」
 岡本所長の人を馬鹿にしたような、しばしば強圧的にさえなる表情が、とつぜん用心深い臆病そうな顔つきに変わった。前言を翻そうとする顔だった。母がその表情に逆らうように言った。
「それは個人の自由じゃないでしょうか。だれも他人の人生を決めつけるわけにはいきませんよ」
「そうです。本人の意志で決めなければいけません。だから郷くんの意志が、野球をやりたくないというのであれば、わたくしどもは退き下がります。しかしいまの場合、お母さんが郷くんの人生を決めつけているわけで―」
「この子は他人じゃありません」
 私はわれを忘れた。そして、立ち上がって叫んだ。
「かあちゃん、中京にいかせてよ! 勉強もちゃんとするから!」
 胸が焼けつくように苦しくなり、涙ぐんで身をよじった。うるさいね、という顔で母は私を見た。
「みんながみんな、金田や長嶋みたいになれるわけじゃないんだよ。ああいう人は何千人、何万人に一人なの。おまえみたいなチビじゃ、とてもとても。どうせ大きくなったら、タダの人になってしまう。おまえのオヤジも、小さい人だったからね」 
 母は一語一語、私の全身に貼りつけるように、はっきりと強い調子で話した。私は自転車屋の階段を下りてきた父の姿を思い出した。神無月大吉は少しも小さく見えなかった。
「おばさん!」
 クマさんと荒田さんが同時に声をあげた。荒田さんはクマさんに譲った。
「いいかい、おばさん、人間には器があるんだよ。キョウは、俺たち素人の頭じゃ計り知れないほどの、信じられないほどの器を持ってるんだ。自分だけの小さい素人了見で考えちゃいけないよ。人を観るプロが五十年、百年に一人と言ってるんだ。もしかして、金田や長嶋以上かもしれないじゃないか」
 荒田さんがたまらず言った。
「そうだよ、おばさん。俺も、決勝戦の満塁ホームランを見たとき、からだがビリビリしたんだ。まぎれもなくキョウちゃんは天才だよ。天才を殺す権利が、いったいおばさんにあるの? キョウちゃんはおばさんだけの持ち物じゃない。みんなの希望だよ。キョウちゃんが大きくなってプロ野球の選手になるのを、みんなで待ってるんだ。まちがっても埋もれさすわけにはいかないよ」
 みんな私の一大危機に遭遇して、夢中で援護した。でも母はそんな援護など歯牙にもかけなかった。
「親子の問題に軽々しく口を出さないでください。この子を手塩にかけて育ててきたのは私ですよ」
「だから、これは親子の問題じゃないんだって。俺は何も、親子関係のことをどうのこうの言ってるわけじゃないんだよ」
 彼らの怒りは、母を悪く詮索するとか、毛嫌いをするということには結びつかなかった。たとえ疑わしい事実があったにしても、いざとなれば母を庇ってやる人情も持っているのだった。これまでは下手に説教をして気まずく言い返されるのもイヤだと考えてきたやさしい男たちが、私を尊ぶ人間として、いまや母への気遣いを捨てて、いつになく声を荒らげている。
「毎日二百回も素振りしてるんだ。人の何倍も努力してる。ぜったい大選手になってみせるよ」 
「つまらないご託はおよし。泰平楽を言えるのもいまのうちだけだよ。世の中はきびしいんだから」
 母は言葉に角を立てた。これ以上懇願すれば、彼女は怒声を発しかねなかった。


         三十五

 岡本所長が唇の端を歪めて笑った。母に与(くみ)しようという気持ちが戻ってきたようだった。彼は音がするほど深呼吸して、
「そんなに何でもうまくいくかな? お母さんはね、いままで、きみのためによかれと思う将来の下地を作るために生きてきたんだよ。お母さんは目先のことにこだわって将来を犠牲にしてしまうような、わがままを言っているわけじゃない。頭のいい息子の母親として、きみのそれ相応の将来に希望を抱いているんだよ。そこを認めようや」
 何を言っているのか、私にはぜんぜんわからなかった。所長の目に、さも満足らしい光が灯った。押美がその横顔をじっと見て、
「所長さん、それはまことに、短絡的では……」
「何が短絡的なのかね」
「頭のいい子のいきつく先が、勉強だけという図式です。川上哲治はじめ、学業優秀だった野球選手は過去にも数多くおります。ちがいますか、みなさん」
 彼は涙に潤んだ目で、周りに同意を求めた。小山田さんは放心の態で天井を見ていた。吉冨さんは唇を噛み、いまにも爆発しそうな気配を漂わせながらうつむいていた。母が分別くさそうに言った。
「この子もいつか感謝してくれますよ。ほんとに、ケガでもしたら、そうなったら、中京程度の学校じゃ、先の保証がないでしょう」
 いっそう柔らかい視線が使者のほうに向けられた。私の目から大粒の涙が流れ落ちた。いったいどう感謝するというのだろう? こんなことが、何かの思慮分別や愛情の印だとはとても思えなかった。
 ―ぼくは毎晩二百回の素振りをつづけてきたのだ。大空を切って飛んでいくボール、何本ものホームランの記憶、約束されているにちがいない未来の栄光、その代償を母は支払うことができるんだろうか。
 岡本所長は母のことばに強くうなずいた。母の立場をすっかり理解しているといった表情だ。彼の同意は私の目に絶望的に映った。私は涙にかすむ眼を彼に向けた。しかし、シャツの襟を広くはだけて白い首をさらしている彼は、私を見ようともしなかった。
 押美は穏やかな目つきで、軽く微笑んだ。あきらめの宣告を理屈で締めくくろうとする彼の皮肉な微笑が、そっくり私の胸の中に入ってきた。理屈で問題は解決しない。いまこの場に必要なのは、ただ彼の強引さなのだ。
「お母さんのおっしゃることは、大いに諒とするところですが……」
 言いよどみ、話の接ぎ穂を見つけようとして、押美は神棚を睨んだ。なかなか言葉が出てこなかった。やがてうなずくと、決意したふうにしゃべりはじめた。
「失礼ながら、私見をお聞きください。私なりに長年の経験から紡ぎ出した結論です。偉大なスポーツ選手というのは、いわゆる博士や大臣などよりも、はるかに上位の人間だということです。末は学者になる、政治家になる、それでアガリというような人材ではないということなんです」
 彼が言い出したことは、いつか守随くんが言った話と似ていた。
「まず第一に、博士や大臣よりもずっと幸せです。それは、彼が何の拘束もなく、好むままに世を送ることができて、趣味の世界に没頭していられるからです。幸い郷くんはまれな天分に恵まれている。これほどすぐれた天分は、一握りの天才にだけ早くから現れるものです」
「天才、天才と、しきりにおっしゃいますけど、それはお眼鏡ちがいでしょう。親の私がいちばんよくわかります」
 母は、野球となると息子の目が異様に輝くのは、並外れた才気の閃きのせいではなく、親一人子一人のさびしい境涯で見つけた唯一の生きがいのせいだと思っていた。彼女の反駁に所長が大きくうなずいた。原田さんはその所長を見守りながら、さすがに小首をかしげた。押美が言葉を継いだ。
「何がわかるんです? 少なくとも野球に関しては、私の眼鏡のほうがお母さんのそれより正確です。非凡な資質、つまりカリスマを見抜く目は素人よりもたけています。スポーツ社会の金の出どころといえば、たいがい、世にときめいて金を作った人からのものばかりですが、彼らはふつう、努力のあるなしに関係なく、才能のない選手には興味を持ちません。その反対に見所があるとわかれば、どんどん金を出します。とりわけ天才に対しては、例外なく財布の紐を緩めます。わが校のような法人がその務めを果たしています。私の考えでは、郷くんは、権柄ずくの人間より、野球選手になるほうが向いているでしょう。まったくのところ、もし私に郷くんのような子供がいたら、宝くじに当たったみたいに狂喜するにちがいありません。しかし、お子さんの一生を左右なさるのは親であるあなたらしいですから、郷くんを権柄ずくの馬鹿者にでも、朴念仁にでも、博士や大臣にでも、何でも勝手にするがいいでしょう」
「きみ、失礼じゃないか!」
 所長が大喝した。
「無礼は承知の上です。郷くんの一生がかかっている瀬戸際ですから。……私としてはあくまでも、お母さんの努力が水泡に帰して、郷くんが野球選手になることを心から望んでいます。ふつうの人間が、能ある人間の天職を妨害しようとしたところで、とうてい成功するものじゃない。天職というのは、何かふつうの人間には計り知れない大きなものからの誘いですからね。あなたのようなやり方では、息子さんをただもう苦しめるのが関の山ですよ」
 押美の言葉は、岡本所長や母の言葉よりも簡単で、明解で、幼い私にもよくわかった。
「おたくの学校が、財布の紐を緩めてくださるんですか。貧乏人にはよだれの出るような話ですね。でも貧乏人には、腹の足しにならない夢物語じゃなくて、堅実な将来の保証が何よりのボーナスですから」
 もはや母は喧嘩腰だった。みんな固唾を呑んで見守っている。スカウトは唇を噛みながら、少し力をこめてトランクの鍵爪を閉じると、
「あなたが、ウン、とおっしゃれば、たちまち堅実な保証になりますよ。……また折を見てあらためてお伺いします。これからも、どうか、郷くんの将来を真剣に考えてあげてください」
 そう言って、私に温かい視線を向けた。なぜか私にはそれが、永遠の別れの眼差しに見えた。
「あっぱれな人だな、あんたは」
 クマさんがため息をつきながら言った。ベンチにしょんぼり腰を下ろした荒田さんが目頭を押さえている。
「小田原評定でしたが、微衷を尽くしたまでのことです」
 そう言ったきり、押美は温かい表情を収めてしまった。
「ビチュウか。いい言葉だ。あんたも敷居に足をかけて引き返すことになっちゃったけど、これからもキョウを見捨てないで、ちょくちょくきてやってくださいよ。まだ小学生なんだしさ。いくらキョウがすごいからって、この先、力のある連中が手を貸してやらないと、結局野球でメシ食えなくなっちゃうんだから」
「もちろんです。中学にいってからも、じっくり追跡させていただきますし、中商のほうへも、常々声をかけてまいりますから。だいじょうぶです。天才というものには運がついて回ります」
 押美は腰を上げ、深く礼をしてから、薄暗い食堂を大股に歩いて出ていった。吉冨さんの表情は相変わらず険しく、小山田さんはやっぱり胸を掻きながら瞼を閉じたり開いたりしていた。岡本所長がやれやれと呟き、微笑を浮かべながら、
「なかなか味なことを言うね。しかし私には、そんなに早く現れる天分なんて、合点がいきかねる。小さいころにそう見えるのは、すぐに消えてしまう趣味的なものに過ぎないんじゃないの。まあ、偽りの霊感というやつだ。子供というのはよく見定めて、きびしく道を決めてやらないとね」
「きびしく? いまのがそうなんですか? 所長、後生おそるべしですよ。子供の才能を軽く見ちゃいけません。それとも、キョウちゃんに何か恨みでもあるんですか」
 荒田さんが言った。岡本所長は黙殺し、彼の差し入れたコロッケを置きざりにして引き揚げた。原田さんと畠中女史もうなだれて出ていった。クマさんたち四人は、私の目の前に腰を下ろしたきり動かなかった。
「くだらない夢なんか見ないで、勉強しなさい。くどいようだけど、男の勝負は頭でするもんだよ」
 母は流し場に立って背を向けた。カズちゃんがすっかりしょげかえって、のろのろ飯台を拭きにかかった。何やら不満らしい母の独り言が、皿を洗う音や鍋をかき回す音の合間に聞こえた。これ以上、何が不満だと言うのだろう。
「アタマ、アタマって、うるせえな。まったく、度しがたいぜ。なんだ、偽りの霊感てのは。意味がわからねえや」
 吉冨さんが椅子を鳴らして立ち上がり、食堂から出ていった。明るい食堂に夜が入りこんできて、やがて鮭の塩引きを焼くにおいが食堂を充たした。
「キョウ、冷(れい)コー飲みにいくか?」
「いかない」
「そうか」
 クマさんは冷蔵庫からコーラを出して持ってきた。コップに注いで差し出す。自分のコップにも注ぎ、私のそれにチンとぶつけた。
「機嫌なんかとらなくていいんですよ」
 流しから振り返った母の眼には、ただ一つのこと、つまり頭の勝負を除いて世間の栄達など何の価値もないのだ、という信念が光っていた。
「俺は、アタマ悪いから、キョウにこんなことしかしてやれないのよ。おばさんはつまり、キョウに、世間一般で言う立派な肩書きをつけさせてやりたいだけだろう」
 荒田さんが母の背中に向かってぼそぼそと言いはじめた。
「スポーツ選手なんてのは、たしかに世間並みの肩書きのある人よりは一段劣って見えるかもしれないけど、人間そのものとして光っていると思いませんか。実際、肩書きをぜんぶ捨てたとき、人の真価が出てくるもんです」
「そういうのって、きれいな言い回しですけどね……。でも、子供を持ってみないと親のまじめな気持ちはわかりませんよ。親というのは、子供を物笑いの種にしたくないんですよ。私に言わせれば、この子は、分不相応に野球選手になる夢を見ているだけで、まだまだ〈人間そのもの〉としても未完成な、心配ばかりかける小倅にすぎませんよ」
「おばさんは一生キョウちゃんに怨まれると思いますよ。小山田さん、クマ、一杯やりにいこうか」
「そうすっか」
 小山田さんが立ち上がった。クマさんはもう一度私に笑いかけると、仕方なさそうに彼らのあとにつづいた。
 それから何日か、私は母と口を利かないですごした。胸の中には涙があふれていたけれども、いつかきっとどうにかなるという一縷の望みを捨てなかったし、それ以上に、母に腹を立てる自分の心の中を手探りで掻き回すのが面倒くさかった。母は沈黙している私に、板襖の向こうからあれこれと話しかけた。
「親の口から言うのもなんだけど、おまえはいろいろと小才があるから、こんなふうに面倒なことになるんだよ。まあ、わが子ながら、大したもんだとは思うけどね」
 彼女は何の反省もなく、哀れな私を思いどおりに引き廻そうとしていた。私は不幸のまま、水のようにあきらめていた。
「でも小才があるくらいで、はなばなしい人生を送ろうなんて、無理な望みだよ。ふつうの人間はどうしたって〈一隅を照らす〉という生き方しかできないし、それがいちばん幸せなんだからね」
 私ははなばなしい生活をしようなどとは思っていなかった。ただ、野球をしながらずっと生きていきたいだけだった。


         三十六

 このときから私たち母子は、ただ対峙するだけで触れ合うことのない別々の世界に住むことになった。一つの希望と一つの狂気の懸崖が向き合う境界には、いつも深い地峡があった。
 社員たちは私の静かな態度にじゅうぶんな敬意を払った。彼らも何もしゃべらなかった。世の中では往々にして、狭量な連中がおよぼす悪意のせいで、やさしい気持ちから出てくる最良の言葉さえもついには擦り切れてしまうのだ。
 母は、大いに私の態度の恩恵をこうむった。これがほかの子の母親だったら、たとえどれほど人格が立派だったとしても、二度と彼らから口を利いてもらえなかっただろう。息子のおかげでだれからもいじめられずにすむ母を、私は幸運な人間に分類した。
 翌日の日曜日、昼をすぎても蒲団の中にいる小山田さんに、
「中日球場へ連れてって」
 と頼みこんだ。たいていは向こうから誘ってくるのだけれども、このところ腫れ物に触るみたいに気兼ねして、近寄ろうとしない。私におねだりされて、なにやらホッとしたようだった。
「よっしゃ、ダブルヘッダーだな。何戦だ?」
「広島戦」
「そうか。じゃナイターだけでいいな。権藤が投げるのは第二戦のほうだろ。坂東のリリーフがあるかもしれんぞ。吉冨も連れてくか」
「うん」
 去年のオールスター戦でえらい目に遭って以来、野球を観にいきたいときは、小山田さんか吉冨さんに頼むことにしている。小山田さんは寝返りを打って、枕もとの灰皿に向かって煙草を一服吸いつけた。それからステテコの上にズボンを穿き、サンダルをつっかけて吉冨さんの部屋に声をかけにいった。私もついていった。
「いいですね、いきましょ。キョウちゃんから言い出したなら、そりゃぜったいいかなくちゃ」
「権藤が投げるんじゃないか」
「ですかね」
 吉冨さんも私の傷心を重く考えていて、しばらく遠慮して声をかけなかったのだけれど、私から誘われたことを心底喜んで、いそいそと支度を始めた。食堂にいる母に三人で外出の報告にいく。二人とも母に対してふだんの笑顔を収めていた。
「いつもすみませんねェ。ほんとに厚かましい子なんだから」
 小山田さんが苦い顔になった。カズちゃんが、母の目を盗んで、
「これ、お小遣い」
 耳打ちしながら、畳んだ五百円札を私の手に握らせた。このお金をとっておいて康男におごってやろうと思った。日曜日には寝倒すクマさんが、なんだなんだという感じで食堂にやってきた。
「キョウを野球に連れてく? それは小山田と吉冨にまかしとこう。出かける前にコーヒーおごってやる。荒田はいくのか?」
 カズちゃんが、荒田さんはひよこ鑑定士の特訓教室に出かけてる、と答えた。
 オレンジにいった。私はコーヒーとナポリタン。クマさんと小山田さんと吉冨さんはトーストにビール。客がけっこう立てこんでいたので、マスターはときどきしかレコードをかけなかった。
「気骨のある男だったな、あのスカウトは」
 と小山田さん。
「ああ、こんどくるのはいつかな」
 とクマさん。
「中学二、三年じゃないか。あそこまで言ったんだ、もう一度くるだろ。ところで、押美って名前、聞いたことないか」
「さあ」
「十年ほど前、百メートルで十秒三の日本新記録を出した男だと思うんだが」
「そうなの? 陸上畑か。俺は野球に明るくないけど、それじゃ、いつまで野球のスカウトをやるか心もとないな」
「いや、彼がこなくても、ほかの名門からくることだって考えられますよ。キョウちゃんみたいな逸材を、このまま放っておかないでしょう」
「そう願いたいな。しかし、ほかのスカウトがきたとしてもだぞ、おばさんがまた追い返すんじゃないの」
 小山田さんが目をいからせた。
「そこだ……」
 クマさんがうなずく。吉冨さんもうなずき、
「今度きたら、さすがのおばさんも、キョウちゃんの才能を認めるでしょう」
「どうかな。身内ほど身内の才能を疑うと言うが、たとえ疑っても応援するのが筋だろう。キョウを前にしてなんだが、俺には狂ってるとしか思えん」
 黙々とスパゲティを食べている私を、三人はじっと見つめた。クマさんが頭を撫ぜた。
「キョウは立派だよ。俺ならグレちまう」
「ぼくはグレないよ。スカウトがこなくたって、テスト生って手があるもの。野村も山内もそうだし」
「だよな。でも、キョウちゃんの場合、テスト生なんて道草じゃないかな。もったいなさすぎる」
 小山田さんが言った。
 店を出ると、午後の陽が少し傾いて、むしむしと暑い刻限になっていた。シロが飛んでくる。
「おっと、朝顔に水をやるのを忘れてた」
 吉冨さんは事務所前で長いからだを曲げて、朝顔の垣にジョウロを傾けた。水を浴びたピンクや青の花がつやつやと光った。シロの首をごしごしやっていたクマさんが、
「俺、テレビでも観て、のんびりしてるわ。しかし、よくおばさんオッケーしたな」
「野球はさせたくないけど、見物はいいんだろ。クラブ活動はオッケーで、スカウトは御法度と。わけわからんな、おばさんの気持ちは」
「ま、そう言うな。キョウが悲しくなる。俺もいま悪口言っちゃったんだけどさ」
「ですね」
 クマさんが食堂に引っこむと、蕎麦でも食っていくか、と小山田さんが言う。
「いまオレンジで食べたばかりなのに?」
 彼の顔を見上げると、
「球場で腹がへったら、席を立って食堂へいかなきゃいかんだろ。とにかく入れとこう。キョウちゃんは何が食べたい?」
「天丼」
「よし。吉富は」
「モリとビール。おごられます。きょうは巨人戦ですか」
「広島戦だ。濃人(のうにん)中日、今年は強いからなあ。まずまちがいなく権藤が投げる。広島は大石か長谷川。投手戦になるんじゃないの」
「権藤、権藤、雨、権藤ですね」
「うん、雨、雨、権藤、雨、権藤だ。もう二十七勝もあげてる」
「パリーグじゃ、稲尾が四十勝の勢いですもんね。プロのピッチャーはすげえな。よく肩や肘がもつよ」
「鉄腕だからな。女史も誘うか?」
「なんですか、それ。いつもそうなんだから。どうも小山田さん、誤解してるみたいだなあ。俺にはその気はありませんよ」
 小山田さんは、ガハハハと笑った。吉冨さんは、事務所の連中が苦手にしている畠中女史を扱うのがいちばんうまい。女史の四方山話を聴きながら、眼を明るく見開いて見つめる表情や、なるほどとうなずいては肩を揺する動きなど、いかにも聞き役に徹しているので、女史は安心したふうに長話をする。でも、何を言っても結局スダレみたいな反応しか返ってこないので、やがて舌が疲れたという様子で話をやめてしまう。別に話のないときも、畠中女史は吉冨さんに近寄っていくことが多い。きっと吉冨さんのことが好きなんだろう。
「荒田さんの特訓て、どういう特訓なの?」
「ひよこのケツを見て、オスメスを一瞬で見分ける練習だ」
 荒田さんがどうしてそんなものの講習にいっているのかわからなかった。でも、きっと彼の得意な鶏の丸焼きと関係があるのだろう。近所の蕎麦屋に入り、小山田さんと吉冨さんはさっそくビールのコップを打ち合わせた。私の前にも海老が二匹載った天丼が出てくる。ぜんぶ食べられそうもない。
「半分食べて」
 と言うと、吉冨さんが蓋に半分盛り取った。
「あの一日のことは、忘れられませんよ。一生忘れられないかもしれない。タチの悪いドラマを観てるようだった」
「ああ……おっかなかったな」
「スカウトの言葉に思わず涙が出ました。所長にはガッカリだった。見てのとおり、人非人だったんだな。キョウちゃんはえらい。じっとがまんしてたもの」
「うん、言うだけのことをきちんと言ってな。野球のスカウトなんてのは、ふつう一生に一度だってお目にかかれない代物だぜ。野球を知らないオバさんや所長には、刺激が強すぎてわけがわからなかったんじゃないの。とにかく、おっかなくて見てられなかった。俺がキョウちゃんだったら、精神に異常をきたすね」
 吉冨さんは私の肩を抱き寄せ、
「キョウちゃん、いつかきっと、でっかいチャンスがあるからね。じっと辛抱して待ってるんだよ」
 それからビールを含んだ。
「ぼく、ぜんぜんあきらめてないよ」
 私は箸を使いながら明るく言った。
「そうだ、そうだ。あきらめちゃだめだ。吉冨の言うとおり、人間あきらめないでがんばってれば、かならず陽の目を見る。それでなくても、キョウちゃんには、がんばりの才能があるんだ。希望を捨てるな。希望は命だぞ」
「うん」
 小山田さんはコップを飲み干すと、鮭の握り飯と茹(う)で玉子を三人分注文して包ませた。
 バスで神宮前に向かった。名鉄に乗り換え山王まで出る。小山田さんたちを真似て吊革をつかんだ。車内の人いきれが気持ち悪く、窓の外のビルや看板が飛び去っていくスピードも速すぎるので、少し吐き気がした。
「キョウちゃんは、野球以外は何が好きなんだ」
 小山田さんが尋いた。
「横浜のころは漫画と映画だったけど、いまはポップス。それから、本―」
「漫画は?」
「もうほとんど読まなくなったけど、『誓いの魔球』って漫画は好きだ」
「買ってやる」
 球場に入る前に、小山田さんは大きな本屋に立ち寄り、『誓いの魔球』という厚手の漫画を全巻揃えで買ってくれた。大型本で四巻もあった。ずっしりと重い紙袋を私は何度も覗きこんだ。きょうは夜ふかしするかもしれないと思った。
         

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