百四十八

「ほら、あそこです」
 先生は花岡病院という大看板を指差した。山小屋ふうの洒落た造りの病院だ。手を振りながらスロープへ去っていく。
「再来月、試合を観にいくのが楽しみです。その前に、気が向いたら何度でも逢いにきてください。ブレザーの上着とワイシャツはクリーニングに出しておきます」
 彼女が玄関ドアに入ったところでもう一度手を振った。
 まだ五時半を回ったばかりだ。家々の光が淡い。駅前の路地へ入り、食堂を探したが見つからないので、園(その)という喫茶店の扉を押す。黒いヘアネットをかぶった四十年輩の男がカウンターから愛想よく挨拶する。浅野が夜ごとかぶっていたナイトキャップに似た網帽を見て一瞬たじろいだが、気を取り直してカウンターについた。
「ブレンドコーヒーと、バタートースト」
「かしこまりました」
 ステンレス製のピッチャーの注ぎ口をフィルターの上でゆっくり回しながら、細心にコーヒーをいれる。浅野の傷ある頬を思い出しながら、しばらくぼんやりと男の顔を見つめた。当然だが似ていない。あたりまえのことにホッとする。
 首をめぐらすと、客は奥のボックス席に一人、常連らしい中年の女がグラビア雑誌をぺらぺらやっている。ラフに着こなした藍色の服が目を引く。眼鏡をかけたい誘惑を断ち切り、私はしばらくその鮮やかな色を見つめていた。コーヒが出る。
「うまい―」
「ありがとうございます」
 山口やカズちゃんほどうまいわけではない。三角形のバタートーストが二切れ出る。男の背後の鴨居に、額入りの証書がずらりと並べてある。十以上ある。資格をとるのが趣味のようだ。
「すごい数ですね」
「一つとったらおもしろくなっちゃいましてね。この十年、次から次と試験を受けました。二度までは挑戦することにしてるんですよ」
 その心理を知りたいとは思わない。
「向学心旺盛ですね。園という店名は、マスターの苗字ですか」
「いいえ。私、園まりのファンでしてね。中尾ミエ、伊東ゆかり、スパーク三人娘」
「なつかしいなあ。ぼくも小学校時代、園まりのファンでした。マッシュポテト・タイム。ディー・ディー・シャープのカバー曲」
「いいですね。六十二年でしたっけ」
「中一でしたから、そうです。あのころはカバー曲が多かった。大御所は弘田三枝子でしょう。ミーナの砂に消えた涙。三人娘の伊東ゆかりも中尾ミエも、ポップスのカバーがいい。中尾ミエはヘレン・シャピロの悲しき片想い。サンレモ音楽祭にも出た伊東ゆかりの喉のよさは抜群ですね。声につやと伸びがあるから、ポップスばかりでなく、歌謡曲も唄える。小指の想い出とか、恋のしずくとか、つまらない曲ばかり唄ってますけど」
 早く帰ろうと思っているのに、つい親睦の言葉が出る。
「園まりはもともと歌がへたですもんね。演歌調の曲を唄うようになってからは、へたがはっきりわかるようになって、ガクッときました。しかしそうなるとかえって、世間の人たちの好感度が増して―」
「売れるという仕組みですね。でも、もう店の名前は撤回できないと」
「そのとおりです。なんせ、園まりは美人ですから。私、晩婚でして。つい二年前に結婚したんですが、それも園まりに似た顔の女にめぐり会うまでは結婚しないと決めてましたんで」
「めぐり会ったんですか」
「そりゃ、無理ですよ。妥協しました」
 トーストを食べたら、腰が浮いてきた。話がつまらないので、無理に合わせるのが気疲れする。そんな掛け合いを聞いているのがよほどつまらなかったのだろう、藍服の中年女が出ていく気配が背中にした。私は中腰になってコーヒーを飲み干した。しっかり腰を上げる。あしたから早朝ランニングだ。きょうは早く寝てしまおう。
「コーヒー、ごちそうさまでした。またきます」
 もうこないだろう。
「ありがとうございました。お出ししたのは深煎(い)りのキリマンジャロとモカをブレンドしたものです。ブラジル、ガテマラ、マンデリンなどの深煎りもあるんですが、キリマンジャロの深煎りは、香りとコクがあるわりに後味がスッキリしているんですよ」
 マスターは自信たっぷりの笑いを浮かべながら、もう一度、ありがとうございました、と言って頭を下げた。
 ドアを押して出ると、暮れかかった道にさっきの中年女が立っていた。藍色の服が目に沁みるようだ。ためらいがちに近づいてくる所作がおっとりして好ましい。色白の若々しい丸顔も好みだ。体格もよく、ずっしりと存在感がある。カズちゃんに似ている。そんなはずはない。顔がちがう。しかし、顔以外はじつによく似ている。年齢も同じくらいだろう。目、唇、あご、すべて好みの造作だ。キクエの中へ放出したばかりなのに、下腹がかすかに疼いた。
「あなた、東大の神無月選手でしょう。神無月郷、十九歳」
 警戒心が湧いた。
「いえ、ぼくは―」
「警戒することないのよ。まちがいないわ。東大の神無月選手。でもそんなことどうでもいいの。とにかくどこかの学生さんよね。つまらない話に付き合わされて、退屈したでしょう」
「退屈だった。個人の趣味を聞いても、おもしろくも何ともない」
「気を利かせてあなたのほうからどんどん話しかけたからよ」
 もう一度女を見つめる。カズちゃんより二、三センチ大きい。
「ふうん、あなたはそういう見つめ方で女を見るのね」
「多少近視なもので」
「すてきな見つめ方よ。ゾクゾクするわ」
「で、ぼくに何かご用でも?」
 答えず、先に立って歩いていく。ついてくると思った私が歩き出さないので、また戻ってきた。
「あんなパンふた切れじゃ、もの足りないでしょう。ごちそうします」
 女はしばらく言い出しかねているようにうつむき、そっと私の手を握った。
「笑わないで聞いてちょうだいね。……あなた、私をじっと見つめてたでしょう」
「え? そんなつもりは。すてきな色だなと思って」
「それはいまわかったわ。いいの、そのことは。……私、あなたが店に入ってきたとたんに、ドキドキして座っていられなくなって……。こんな気持ちになったのは生まれて初めてのことなんです。ひょっとして、二人の会話に呆れて出ていったと思われると、切ないなって思って。それだけのことを伝えたくて……」
 まじめな表情だ。私はいつもの水の心を取り戻した。
「それだけというのはおかしい。下心があるほうが自然だ。まじめに誘ってください。あなたの顔が好きですから。―一度だけのアバンチュールなら付き合います」
 女はパッと赤くなった。私の心は純粋に好色の意識に傾いた。初対面の女に純粋に欲情するのは生まれて初めてのことだった。路上で性器がふくらんだ。これも初めてのことだった。女は小さな声で、
「あら……」
 と口を開け、視線をそこに走らせて微笑んだ。そうしてふたたび先に立って歩きだした。背中を向けたままで言う。
「下心がありました。……お言葉に甘えます」
 不思議な表現を聞いて、性器に血が入りきった。
「セックスをしたあとで、夕食をご馳走してくれるんですね」
「もちろん。何が食べたいですか?」
「玉子丼。さっき食い物屋を探している途中だったんですよ」
 女は振り向き、くつろいだ笑いを浮かべると、今度こそ安心した様子で先に立って歩きだした。二分ほど歩いて細道へ曲がりこみ、奥まった袋小路にある屋敷の前に立った。広い庭に草木がたっぷり生えている。薄闇の中で種類が確認できない。大きな松が立っていることだけはわかる。門柱に表札が出ている。河野とあった。
「大きな家だなあ!」
 高円寺のカズちゃんの借家よりもずっと大きい。高橋弓子の家もこんな二階家だった。大きすぎる家には魅力を感じない。
「戦後に建った古い家です。二階までなかなかお掃除の手が回らないんです。一日置きにやってます」
「この土地の在のかたですか」
「主人がね。私は埼玉の浦和」
 女の美しいふくらはぎを追って、門燈のある玄関を入る。赤土を固めた三和土の土間、食堂を兼ねた台所からつづく廊下の右に二部屋、左に三部屋、柱に仕切られた障子が立っていて、廊下の奥が二股に分かれているところを見ると、便所と風呂場になっているようだ。通された一室は廊下の真ん中の八畳間だった。女は蛍光灯を点けた。庭から剪(き)ってきたのだろう、床の間の大きな花瓶に何種類かのリンドウがまとめて活けてある。服と同じ色だった。箪笥が壁際に二棹、大きなテーブルが一脚、白黒の大型テレビが一台。調度の古さにこの家の財力を感じた。
「この部屋の向かいの二部屋は主人のもので、二階の二部屋は息子たちのものです。この並びの二室は、玄関ぎわが居間、この部屋の隣が私の仕事部屋、ここが寝室です」
 座布団を勧められたので、あぐらをかいた。ズボンが突っ張っている。会話をしながらこういう反応がつづくのも信じられないものだった。
「リンドウが好きなんだな。秋の花だ。服も同じ藍色をしてる。人けがないけど、一人暮らし?」
「よくおわかりね。ときどき、浦和の両親と、都内の子供が訪ねてくるくらい。主人は広島に五年間の単身赴任でいってます。いま二年目。半年にいっぺんくらい年末に帰ってきます。二日もいたことがありません」
 説明が詳しすぎる。
「……そういうことなら、後腐れないでしょう?」
「え?」
「このことは遊び心だったんですよね」
「ちがうんですよ。そういう流れになってますけど、真剣な一目惚れです」
 私は立ち上がり、ズボンと下着を下ろして屹立したものを示した。女に備わった寛容な雰囲気がそうさせた。
「まあ、立派! 信じられない」
 一瞬見つめただけでうなだれ、やさしい笑みを漏らした。私はワイシャツだけになってあぐらをかき直した。スカート姿の女は顔をそむけながら、
「この期に及んで、私、苦しんでます。夫と子供のいる女がこんなことを……」
「苦しいならためにならならない。やめましょう」


         百四十九

 立ち上がり、下着を拾おうとすると、
「意地悪しないでください。……あなたが神無月選手だとすぐに気づいたので、好奇心からマスターとの会話に思わず聞き耳を立ててしまって。退屈そうな声でしゃべってましたから、ああいやなんだなと思っていたら、まんざらおべっかでもなさそうなやさしい言葉をかけてあげて、相当親切な人だってわかったんです。そのとたんにドキドキしてきて、ふとこちらを向いたときの顔を見たら……」
「一目惚れした?」
「そうです……ふるえました」
「それじゃ、下心というのはよくない表現でしたね。でも、アバンチュールでないとすると、あとあと厄介なことになる」
「いえ、おっしゃるとおり、一度だけの冒険です」
 私は腰を下ろした。
「息子さんはおいくつですか。こんな夕方に家を留守にしているということは―」
「二十一と二十二です。二人とも明治大学の学生で、御茶ノ水のアパートで仲良く二人暮らししてます」
「それ、なんだかおかしいな……。あなたは、三十五はいってないですよね」
「ま、うれしい。四十八です」
「え!」
「ビックリしました? おばあちゃんですよ」
「―妖怪と言っていいくらい若い」
「いいんですよ、慰めを言わなくても。あなたを誘惑するほど自信の持てる齢じゃないんです。……やっぱり神無月さんはやさしい人ですね」
 偽りなく若く見えた。髪を上げてまとめ、ふつうに化粧をしているけれども、耳や首に飾り物をつけていない。丸顔の頬が豊かに張っていて、シミ一つなく、皺もまったく目立たない。青いセーターの胸の谷間は大きく窪んでいた。
 私は寄っていって女の手をとった。美しい手をしていた。その手が性器をそっと握ってきた。握ったまま離そうとしないのに、そういうことをし慣れているふうではない。私は正座している彼女の腿をさすり、尻もさすった。女はようやく好色な気分に満たされはじめたようで、つかんでいるものを潤んだ目で見下ろした。すぐに両手で握り直し、上体を屈めて、ミヨちゃんと同じように唇を近づけた。亀頭の先にかすかに唇をつける。
「きれい……こんな形のものがあるなんて」
 私は女の肩を抱き寄せると、スカートの下に手を入れた。女は私のものを離さないまま、中途半端な力で抵抗した。胸を揉み、これも中途半端に抗う唇を吸う。応え方を知らないような反応だ。
「ほんとに私、おばあちゃんですよ……」
 からだの力が急に抜け、握っていた手を離すと、正座したまま膝が開いた。手を腿の奥へ入れ、ためらいなくパンティの股ぐりに指を差しこんだ。しとどに濡れていた。ひどく複雑な襞の感触だった。すぐに大きな陰核を探り当て、指で愛撫するとするどく反応した。
「あ、神無月さん、こんなことして後悔しません? こんなおばあちゃんと……後悔しません?」
「もしあなたが後悔しそうなら、やっぱりやめます」
 ほんとにやめようと思った。交接にいたるまでの手続が面倒になりそうだったからだ。
「やめないでください! 待って、お蒲団を敷きますから」
「このまま畳の上でいい」
 女は私の言葉にひどく興奮したのか、頬をいっそう赤く染めた。畳にそっと押し倒し、サマーセーターを脱がせる。女は恥ずかしさと期待がない交ぜになった笑顔で、
「お願いします」
 と言って固く目をつぶった。
 ブラウスを脱がせた。清潔な白色のブラジャーをしている。外すと胸が転がり出た。
「大きい!」
「―そう言ってもらってうれしいです」
 乳輪が清潔な淡い色をしている。乾いた乳首を含んで、しばらく舌でもてあそぶ。細い声が出た。セーターと同じ藍色のスカートをペチコートといっしょに引き下ろし、臍まで覆っている白いパンティも剥ぎ取った。彼女は一瞬腿を合わせたが、すぐに力を抜いた。黒々とした逞しい陰毛のせいで、裂け目が見えない。私はワイシャツを脱いで全裸になった。女は遠慮がちに視線を私のものに移し、上半身を起こして、さっきより勇敢に亀頭に唇をつけた。陰茎の付け根を握ってしばらく舐め、躊躇せずに口中に含んだ。舌を回しながら唾液で濡らし、喉のほうへ押しこもうとして噎(む)せた。生まれて初めてのことをしたようだった。そのせいか恥じらいがすっかり消え、口を離してみずから仰向けになると、わずかに脚を開いた。膝小僧に古傷がある。私はその傷からゆっくり指を這い上らせた。付け根で止める。自然に股が大きく開いた。
「ゾクゾクします。上手なんですね」
 ふっくらとした大陰唇を両手で押し拡げる。濡れそぼった焦茶色の小陰唇に囲まれた前庭が膣口を開けている。最初から開いた膣口以外はやはりカズちゃんとそっくりな形だった。調和のとれた一対の小陰唇が妖しく光り、裂け目のいただきの包皮から、つやつやした白っぽい陰核が顔を覗かせている。大きさもカズちゃんとほとんど同じだった。体形も性器の形もこれほど似ていて、反応だけがちがうとは思えない。カズちゃんの反応を思い出した。
「ひさしぶりなのでちょっと怖いです」
「ひさしぶりって?」
「四年……だいじょうぶでしょうか」
 嘘を言っていない顔だ。おそらく、夫に等閑にされて以来、セックスをしていないということだろう。なぜそういうふうになるのか私には夫の心具合はわからないが、出産のせいで女の生殖器が傷み、使い物にならなくなるという根強い迷信がもとになっているのにちがいない。それが事実ではないことを私は知っている。出産どころか、文江さんのように子宮を摘出してさえ女の生殖器は破壊されない。
「だいじょうぶ。でも、こんなすばらしいからだを放っておく男もいるんだね。もったいない」
「……なまくらなからだで」
「それは男の責任だ」
 あらためてふくよかで短い小陰唇を拡げる。透明な湯があふれていた。子供を二人産んだ膣口がギザギザした円周を広げている。ふつうの女の膣口はいくら足を拡げても、ぴったり塞がっていて見えない。この女はクリトリスの下の尿道口まではっきり見える。こんなに生殖器の機能をはっきり示す女陰を見るのは初めてだった。
「あまりいじってないね。色がついてない」
「……若いときに少しだけ。……いえ、三十歳くらいまでこっそりしてましたけど、こんなに年を取ってしまって、ちゃんと感じられるかどうか心配です。……そのときの感じさえ忘れてしまいました」
「やっぱり下心はなかったんだね。それにしても、そんなに長いあいだ性欲が湧かなかったの?」
「そんなはずないです。まともな女ですから。でも、正直言って、若いころから性欲ってあまり感じたことがなかったんです」
 女の頬がまたまだらに赤くなる。大きな入り口に左手の中指を入れる。喉をつめるようなあえぎ声が洩れ、ゆるい洞で泳いでいた指をすぐに膣口が締めつける。女は記憶を探るように腰をゆらゆら動かしている。親指を置いている陰核が硬くしこってきた。
「ああ、いい気持ち、なつかしい感じです」
 快感を覚える表情がカズちゃんとまったくちがう。カズちゃんはかならずえも言えない微笑を浮かべる。ほかの女たちもそうだ。眉根に皺を寄せることなどけっしてない。
「……神無月さん、ほんとにきちゃったみたいです。ああ、イキそう」
 カズちゃんたち以外の女が達する姿など見たくない。
「何か考えてがまんしてみて。強くイケるから」
「何を考えようかしら、あ、だめ、ごめんなさい、何も考えられない、もうだめ、イク!」
 膣口が指を吸いこむほど収縮した。私は指を抜き、すぐさま広い膣口に亀頭を押し当て挿し入れた。
「あああ、気持ちいい! だいじょうぶ、もう妊娠はしませんから、安心して出してくださいね」
 数往復し、静止して膣の動きを確かめる。少し脈を拍つだけで膣口のほかはゆるいままだ。深い快美感を経験したことがないとわかる。このからだに接した男の好奇心の不足と怠惰が腹立たしい。彼女はそれだけの心地よさでじゅうぶん満足したふうに、自分の手で腹をさすっている。
「……私、主人以外の人と性交したんですね。とうとう不倫をしてしまったんですね」
 性交、不倫などと、古い言い回しを使いながら私の背中に手を回す。二、三度あわただしく動いてみた。女はひどく驚き、
「あ、怖い!」
 大きく引きこするように動く。
「ああ、感じます、気持ちいい!」
 火遊びのはずが、観察と精勤になっているのが苦々しい。彼女はトモヨさんや素子と同様、潤滑液が極端に多い体質らしく、往復のたびにピチャピチャ音がする。やがて、広かった膣がしっかり私をつかみはじめた。さらに大きく動く。女は目をつぶり眉間に皺を寄せている。抽送を速める。女の股間がピチャピチャ囁く。壁がさらに強く迫ってきた。そういう確認作業をしながら腰を動かすせいで、カズちゃんたちとの交わりに比べて少しも喜びがない。
「ああ、すごく気持ちいい! こんなの初めて。ああ、気持ちいい! どうしましょう」
 それがほんとうに彼女の初めての感覚だということが、ときどき目を開けて天井を見つめる不安そうな表情からわかった。未知の高揚を求めて、背中に回した手が私を離すまいとする。手を振りほどいて高円寺へ帰りたくなった。しかし不安を感じている女のそばには寄り添っていなければならない。早く射精しよう。私は射精だけを願って腰を励ました。
「ああ、だめ、気持ちよすぎる! どうしましょう、どうしましょう、だめだめ!」
 だめという言葉を真に受けて私は動きを止めた。
「いや! やめないで、何か起こりそうなんです!」
 よくしゃべる女だ。激しく腰を動かす。
「ああ、もうだめ!」
 膣の強い緊縛がアクメの急接近を確実に知らせている。私は女の快楽を早めようとして脚を抱え上げた。尻に手をくぐらせ、肛門の周囲をやさしくこすり、迫っている高潮を呼び寄せようとする。カズちゃんに教えてもらった方法だ。しかし女は初めての感覚に貪欲になっているので、そんなことをしなくても勝手に高みに昇りつめていく。
「ああ、すごく気持ちいい! うん、うーん、もうだめみたいです、イッちゃいそう」


         百五十         

 訪れがない。私は苛立ち、思い切って性器を外して、女をうつ伏せにした。背中を触るだけでからだがふるえる。腹を抱え上げ、茶色い小陰唇の中へ突き入れた。ガクンと尻が突き出た。
「あああ、イッちゃいましたァ!」
 予想どおり猛烈に子宮付近の壁が収縮した。かまわず突き立てる。射精の気配がきた。
「またイッちゃいますゥ! あ、あ!」
 ようやく私はキクエで薄められた精液を女の子宮深く打ちこんだ。律動をすべて伝えて精液を搾り出す。何度も女の尻が突き出る。最後の一滴まで搾り出して離れると、女は尻を引いて一度大きく痙攣し、四つん這いのままガクガクと痙攣を繰り返す。とたん、小陰唇のあいだから、私の打ちこんだ精液が小便のように間歇的に畳に飛び出した。苦しげに尻を揺らして痙攣を繰り返す。私は横に回って、女の極限まで赤身の増した顔を見つめた。口を真一文字に結び、歯を噛みしめている。苦行に必死で耐えている表情だ。美しくない。目をつぶったまま女が言った。
「ああ、怖いくらい気持ちいい、あ、だめ、止まらない、ううーん!」
 私は、引っこんでは突き出る腹をさすった。
「ああ、そんなことすると、イ、イク! キャ! オシッコ」
 四つん這いの股間から畳に愛液が幾筋も飛んだ。首筋が鮮やかに紅潮している。
「あっああ、どうしよう、止まらない」
 ゆっくり仰向けてやり、腹をさすりながら顔の紅潮が退けるのを待った。
「やさしい人……」
「四年ぶりに、どうだった?」
「初めての感覚なので、何年ぶりとも言えません。生まれてからずっとお腹の奥に詰まってたタドンみたいなものが抜け落ちてスッキリした感じです」
「タドン、か。おもしろい表現だ」
 私が畳に仰臥すると、女は目をつぶり自分の胸に両手を預けて、スースー規則的な呼吸音を立てはじめた。眉間の皺が退き、少女の顔に変わっている。いつの間にか私の呼吸もそのリズムに溶けはじめた。
         †
 目覚めた感じで睡眠時間がわかる。二時間ほど眠ったようだ。完全に意識のない眠りだった。畳に寝そべった裸の下半身にタオルケットがかかっている。洗い髪の女が、さっきとはちがう淡いブルーの上下をきちんと着て坐っていた。
「目が覚めました?」
「うん。よく寝た」
「よっぽど疲れてたみたいですね。オチンチンを揺すっても、舐めても起きなかったわ」
「ぜんぜん気づかなかった」
「ごめんなさい。……あんまりきれいだから、からだじゅう舐めちゃいました。……ずっと神無月さんを眺めてたんですよ。青白い彫刻みたい。足も手も大きくて形のいいこと。こんなきれいな人に抱かれたんだって思ったら、また濡れてきちゃって……ありがとうございました。何度も聞いた言葉でしょうから、月並みなことを言いたくないんですけど、初めて女にしてもらいました」
「もう会えないかもしれないね」
「ええ。いい夢は、一回でじゅうぶんです」
 女はニッコリ笑い、しばらく思案する顔で私を見つめていた。
「神無月さんといると、嘘じゃなく、セックスをしていることを忘れてしまうんです。……ときどき、会ってもらえないでしょうか」
 予想していた言葉だった。
「この近所に恋人がいて、二、三カ月に一回は会いにくるから、気が向いたらその帰りに寄ることにする。前もって連絡はしない」
「二、三カ月に一回は会えるんですね!」
「うん。きみの家族がとつぜん帰ってくる予定がなければ」
「二、三カ月どころか、半年にいっぺんしか帰ってきません。神無月さんがここにくる日に偶然ぶつかってしまったら、また二、三カ月待ちます」
「ぼくの都合が悪くて、半年もこられないということがあるかもしれない」
「都合って?」
「四つあるんだ。一つは、最愛の人が一人、愛する人が十人いるので、ほかの女に彼女たちに向けるほどの深い愛情が湧かないということ、二つ目は、彼女たちのところを折おり回らなければいけないということ、三つ目は野球で忙しいということ、四つ目は、外に出るより家の中にいるのが好きだということ」
「神無月郷―だれにも冒されない孤高の天才……」
「そんな見出しが出たことがあるんだね。すごいキャッチフレーズだな。野球の天才だったら合ってる。孤高はでたらめ。マスコミの作り上げた虚像に振り回されないほうがいい。ぼくがしたことは、六大学の打撃記録をいくつか塗り替えたことだけだ」
「だれでもできることではないわ……。東大を準優勝までさせて」
「この世に数ある社会的貢献の中で、スポーツごときの記録がいったい何ほどのものだと思う? それより、あくまでぼくの感想だけど、たくさんの女と付き合って幸福を共有するほうが人間としての大記録だと思わない? あるいは、これもやっぱり私的な考えだけど、何かの趣味に没頭して、その完成を願いながら机に千時間も一万時間も貼りついて命を消費するほうが、人間としての大業績だと思わない? 個人的な記録や業績は、世間に貢献しないかぎり、単なる趣味人の道楽として閑却される。とにかく、そういう四つの理由で、二、三カ月に一回が限度ということだよ」
「孤高の天才……。その意味をいちばんわかってないのが神無月さんみたいですね。こういう言い方は嫌いでしょうけど、あなたみたいな寵児が、そこらへんのおばあちゃんを抱いたんですよ」
「ぼくは人間に興味があるので、孤高というのは当たらない。新聞に採りあげられる有名人以外の人間なら、ぼくの周りにぞろりといる。より良きソコラヘンの人ばかりだ。ぼくが童貞を捧げた最愛の人を筆頭に、女たちのすべてを愛しているので、より悪しきソコラヘンの人にぼくたちの幸福な関係を妨害されないよう、親やマスコミに警戒網を張ってる。そういう意味では、たしかにぼくは秘密主義者だ。だからそれを孤高と取りちがえられるんだろう。八方美人になって寵児扱いされると、かえって首を絞められることになる。より悪しきソコラヘンの人間が寄ってくるから」
 女はしみじみ私を見つめた。
「ふつうのかたじゃありませんね……わかりました。私も秘密を通します。たとえ三カ月や半年に一度でも、会ってもらえるだけでも夢みたいですから」
 女は立ち上がって、箪笥の引き出しから封筒を取ってきた。
「……あの、これ、失礼だと思わないでね。学費にでも役立てて。野球をやってれば、いろいろ物入りでしょう。十万円、入ってます」
「遠慮する。ぼくに金をくれないのは母だけでね、彼女以外のみんなが金をくれる。だから、お金は間に合ってる。そういうことは、もうしないで」
「アッサリですね」
「あなたの名前は?」
「河野幸(さち)子」
「幸福の幸?」
「そう」
「これからはサッちゃんて呼ぶね」
「ええ。じゃ、私はどう呼ぼうかしら?」
「好きなように」
「故郷の郷。キョウちゃん……」
「みんなそう呼ぶ。今年の秋、東大を中退してプロにいく。名古屋の中日ドラゴンズ。小学生以来の希望の到達点だ。プロチームに入団すれば、もの心ついてからの人生が一段落する。だからかならずプロにいく」
 幸子が抱きついて唇を求めた。
「プロになってからもお付き合いしてくれます?」
「サッちゃんが離れないかぎりね」
「離れません」
「いっしょにお風呂に入ろう」
 全裸の私が立ち上がると、幸子も服を脱いだ。
「女と抱き合って湯船に浸(つ)かるとホッとするんだ」
「十九にもなって、へんな人ですね。お母さんへのあこがれですか?」
「まさか、蛇蝎のようには感じるけど、あこがれたことはない」
 幸子と抱き合って湯に浸かった。トモヨやカズちゃんやユリさんと同じように、私を抱き締める胸は大きくて暖かかった。ディープキスをした。
 ふと髪型に気づいた。中学生のようなミドルヘアだった。胸の大きさにもあらためて気づいた。両手で乳房をつかむ。私を慈しむように笑った。そうしてカズちゃんたちと同じように私の全身を洗った。
 風呂から上がると、サッちゃんは私のからだを大切に拭いた。股のあいだまできちんと水気を取る。
「ほんとにグロテスクですね。顔とのアンバランスがシュール。そうそう、キョウちゃんの下着汚れてました。これ、主人の下着ですけど、着ます?」
「うん。ご主人、身長何センチ?」
「百七十二」
「ぼくは八十。八十一くらいかも。尻が大きいから、パンツはどうかな」
 ランニングシャツはなんとかいけたが、パンツはやっぱり窮屈だった。
「かわいそう。きょうだけがまんして穿いて帰ってください」
「うん。ついでにワイシャツも一枚もらう。脱いだやつはクリーニングに出しといて。下着は捨てて」
「いいえ。洗濯して、しまっておきます。大きなサイズの新しい下着も何組か買っておきますね」
 新しいワイシャツを着、しっかりズボンのベルトを締めて、台所の食卓につく。大邸宅のわりには昔風の小ぶりなキッチンだ。清潔に整った生活空間を眺める。顔を見知ったばかりの女の背中を見つめながら落ち着いている自分が不思議だ。サッちゃんはあり合わせの野菜と鶏肉で親子丼を作った。出会って一時間もたたないうちに性欲をさらけ出し合った者同士が、食欲を満たすために向かい合う。
「はい、リクエストよりも豪華よ」
 キャベツの味噌汁も出てくる。彼女も小さな茶碗で同じものを食べた。
「うまい!」
「おいしい!」
 ささやかで充実した夕食だった。初めて出会った男を一目で好きになり、できれば抱かれたいと思いながら路上で待ち構えていた女。カズちゃんもこの女なら気に入ってくれるだろう。
「サッちゃんの膝小僧の傷、好きだな」
「あ、これ? 小学校のころ運動会で転んで、傷が化膿しちゃったの。治るのにだいぶかかったわ」
「ぼくも鼻の脇に傷があるよ。ほら、ここ。小一のとき、近所のお寺の飼い猿にやられたんだけど、破傷風にかかっちゃって。でも、死ななかった。からだに思い出の傷痕が残ってるのって、なんだかうれしいよね。小さいころはいやだったけど」
 サッちゃんは、いつか節子がしたように、私の鼻の傷を指でなぞった。目に涙が浮かんでいる。
「キョウちゃんのこと、好きになっていい?」
「一目惚れだったんだろう?」
「そういうことじゃなく……」
「サッちゃんの勝手だ。ぼくはサッちゃんが好きだ。でもぼくには最愛の女がいるし、大好きな女も何人かいる。彼女たちから離れるわけにはいかない」
「独占しようなんて思わないわ。野球をするじゃまもけっしてしない。私もあなたの女の一人にしてね」
「みんなで一人なんだ。それが彼女たちの気持ちだ」
「じゃ、みんなで一人にしてください」
 サッちゃんは水屋の抽斗からメモ用紙と鉛筆を取り出して、サラサラと書いた。
「これ、私の住所と電話番号」




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