百五十四

 木谷千佳子はかぎりなくやさしい微笑を浮かべ、
「……神無月くんは口にする理想から離れようとしない人です。山口さんは理想を口にしないだけで、二人の状況はほとんど同じです。神無月くんの言うことは、男の大上段の理想です。男は女より肉体的には純粋な生きものなので、性的異常者でないかぎり、女に好意や愛情を感じなければ勃起しません。勃起が好意や愛の証拠です。性処理の仕方が純粋なんです。だからこそ理想を口にできます。山口さんと神無月くんは、性処理という意味ではちっとも状況はちがいません。空しいオナニーなんかしていないんです。相手にしてきた女の人の数もちがわないかもしれない」
「それはない。山口よりぼくのほうが圧倒的に多い」
「いいえ、素子さんとトモヨさんは例外にして、神無月くんは進んで売春婦を抱きません。トルコのような、即物的にたがいに対応しなければならないところには出かけてもいかない。顔が嫌いだったら手も出さない。よしのりさんの妹の話、ムッちゃんから聞いたことがあります。その差し引きをすると、女の人の数は山口くんと大して変わらないと思います。愛を感じる女を恋人にする手続は、とても面倒だし、肉体関係を結ぶまでにかなりむだな時間がかかるでしょう? 手っ取り早い性処理は、少しも空しいものじゃないと思うんです。男も女も性処理は健康な生理です。ただ男のほうが、かなり精神性が強いので、反応の仕組みが厄介です。男が〈処理〉と考えて売春婦とするセックスする場合でも、勃起する以上は無意識に愛情の始まりを求めてそうするんだと思います。女はただ性行為に興奮して没頭するだけ。だから、快感だけを求めるたいていの男女の場合、二人のあいだに何も始まらない。それだけのことです。私の最初の場合もそうでした。愛されて抱かれたわけじゃないんです。でも、神無月くんは、もしセックスしてくれるなら、私に好意を抱いて処理の対象にしてくれるはずです。そのうえうれしいことに、神無月くんは愛情さえ感じてくれるでしょう。和子さんとセックスするときのようにです。トモヨさんや節子さんにも、神無月くんが最初から愛を感じていたはずはないと思うんです。性処理から始まったはずです。それがいつしか愛情が芽生えていった―」
 選手たちが守備練習に移っている。石井藤吉郎監督の姿が見える。鈴下監督よりよほどスマートだ。
「山口さんも悩まないで、ただ愛情の始まりを求めて、好ましい女の人とセックスすればいいと思います。ちっとも不道徳なことじゃありません。愛が芽生えさえすれば、おたがいに処理し合いながら、過剰なくらいの幸福に包まれることになります。だからこそ、私たちは男の自然体を認めてるんです。認めるというより、放任してるんです。これからも処理が愛情に結びつく女が出てくるかもしれない。自分がその女になるかもしれない。それでいいんです。……状況がちがってくるのは男じゃなく女でしょうね。女は、愛のない処理の時期は生理的に複雑なステップもなく、でき心で興奮して男と寝ますが、愛が定まると一人の男だけで処理するようになります。そのときだけ、処理の仕方が男のように純粋になるんです。その純粋さが男には常にあると気づけば、男を不道徳漢とは思えなくなります。女はきっと、相手が嫌いな男でも、あそこを触られたり、中に入れられたりしたら感じてしまうと思うんです。もちろんそんな経験はありませんけど。……男は嫌いな女には最初から手を出しません。女のように愛のない処理の時期がないんです。だから、泣く泣く嫁にいくなんて愚かなことも起こらない」
 私たち二人は木谷の話に感銘して、残っていたサンドイッチを頬張りながらコンクリートの階段を降りた。山口は顔を紅潮させ、
「木谷、おまえ、頭冴えすぎだ。そんなふうにやさしいことを言ってくれても、俺はやっぱり純粋なオナニーの道具として付き合った女がいたんだよ。グリーンハウスの客だけじゃない。五月のクラス旅行で余興にギターを弾いたら、感激して向こうから近づいてきた女がいた」
「なんだ、バス旅行にいったのか」
「ああ、青高の旅行を思い出してな。おまえも悪ふざけで参加したみたいだったしさ」
「どんな女だった」
「ちょっとコケットだったが、インテリぶった堅い女で、これっぽっちもリビドーが湧かないし、もちろん恋愛関係になれる感じじゃなかった。好みじゃないというやつだな」
「そういう気持ちは伝わるはずだ」
「そこが俺の優柔不断なところで、おまえみたいに白黒ハッキリ打ち出せないんだな。生協でめしをおごったり、映画なんか観たり、ロックコンサートに連れてったりしているうちに、いっぱしのカップル気分で夜の街をうろついて、ふらふらホテルなんぞに入ってヤッてしまった。そのうち、家に連れてってくれなんて言い出した。オヤジやおふくろが喜ぶかもしれんと思って、仕方なく連れてったよ。そしたら俺の家族の前で、勲さんには将来官僚になってほしいなんて言いやがって、妹の顰蹙を買ってた。オヤジもおふくろも渋い顔をしてた。それからもぐずぐず俺にくっついてたんだが、あるとき神無月のことを話したら、案の定、何の興味も示さなかった。それどころか反感を覚えたみたいだった。そんな万能な人なんているはずがない、野球しか能のない詐欺師だって言うんだ。頭にきて、あせおひとよ、そのさびしい寝顔をやめて、の詩を暗誦して聞かせた。おまえが健児荘で寝こんだときにノートを引っ張り出して暗記してたからな。やつはまったく心を動かさなかった。西脇順三郎のほうが深い、なんて言いやがった」
「西脇順三郎ってだれ? 初めて聞いた」
「前衛だよ。戦前のモダニズム、ダダイズム、シュールレアリズム、画家、ノーベル賞候補。それでわかるだろ。とにかくその女の人格も感覚も紋きりの証拠が挙がった。……それっきり別れた」
「彼女の言うことは当たってる。詐欺を働いてるつもりはないけどね」
「神無月くんの詩は、高熱を出して寝こんだあのとき、机の上のノートに書いてあったものを読みました。文字で書かれてることが不思議なくらい……だれとも比較できない独特のものでした。絶対物だと思いました」
「俺が机の奥から引っ張り出したノートだよ。流暢無類の筆力だ。神無月の詩は俺の生きる力だ。何度でも飲まなくちゃいけないエネルギーの水だ。エネルギーは何度でも蓄えることに意義があるからな」
「山口さんの恋人って、自分を何さまだと思ってるんでしょうね。別れたのが正解だと思います。その人とは何も始まりません」
「ああ、そのとおり。神無月との人生のほうが、この先どれだけ長くてどれほど大切かを考えたら、空しいオナニー女なんか棄てて当然だ」
 十六号館前に二人組の男がいて、何か話し合いながら一服つけた。いい風が吹いて、煙を散らした。三人無言になったが、あえて何かをしゃべろうとも思わなかったし、たがいに無言でいてもちっとも気にならなかった。
「さあ、日は天心だ。西門通りを歩いて早稲田通りへ出たら、タクシー拾って新宿御苑へゴー」
 生協書籍部の石段を上って教育学部校舎脇の西門に出る。右手の空地で空手衣を着た男どもが巻き藁相手に、セイ、セイ、と声を出しながら突きの練習をしている。
「うわあ、ここもまた商店街だ」
 前方に商店の列が延びている。左手の隘路に入る。十メートルほどで行き止まる。
「さなえプリントセンター」
「印刷屋だ。卒論なんかを製本する店だな」
「三品食堂」
「牛丼、カツライス、カレーライスの三品しか出さないから、そういう店名になった。よく食いにきた。牛丼にそれぞれ名前がある。玉子入りの並が玉牛、中盛りがなくて、大盛りが大玉牛。牛肉の質はあまりよくない」
 西門前の一本道に戻って歩きだす。
「テーラークボタ。制帽早高堂」
「ミニ帽も売ってるぜ」
 まばらに学生たちが行き交う。
「食堂喫茶ライフ。福岡文具。コーヒークレパス。W御食事いねや」
 覗くと満員だ。
「ここの焼きサバ定食は天下一品だ。品出しの小僧がちょっとアタマをやられてて、仕事ぶりが傷ましいほどまじめだ」
 なるほど、白衣を着たニブそうな青年が立ち働いている。
「教科書静進堂。喫茶エデン。神崎洋服店。食堂フクちゃん。古書稲光堂……。何でもあるね、碁や将棋の道場まである。こんな便利な環境に囲まれてたら、学生はうれしいだろうな」
 千佳子が、
「女学生はこういう通りには、一人でこないと思います。せっかくこんなに便利でも、買物は別の街でして、食事は家や生協でとり、大学では勉強したり、クラブ活動をしたりするだけじゃないのかしら」
「お、新しい問題提起だな。なぜ女はこういった店に出入りしないのか。そういえば三品にもいねやにも、女は一人もいなかったな」
「男子学生の数が多いからというだけのことじゃないかな。周りが女だらけだったら、ふつうに出入りすると思うよ。男女比で決まる学生街の商店より、商店街そのものについての見解を語り合ったほうがおもしろいな」
「ほう、ほう、どうくる?」
「ぼくは商店街をあまり歩き回らない。風物として通り過ぎるだけ。商店街というのはどこもそうだけど、入りこむと、潜在的な欲望を満たすのに忙しくなって、分相応の日常を忘れてしまう。デパートなんかその最たるものだね。総菜屋とか食堂といった必需品を商っている店は別として、贅沢品の並んだ商店街を動き回っている人を見ると、なんて意志薄弱な人たちだろうと思う。一人でふらりと入りこんで、ほしくもない品物を勧められるまま買う。じつはこういったものがほしい、という主張はめったにしないんだから不思議だ。商店街は遊園地のような遊ぶ街じゃない。ほしいものを積極的に求めにいく街だよ。遊園地なら、スッと入って、うろうろして、気に入った遊具がなければ、またふらりと出ててくればいい。何かを買って帰る必要がない。商店街は薄弱な意志を強いる街だ。買いたくもないものを買って帰る。近づくだけですましてふらりと離れていこうとしない」
 山口の目が充血してきた。
「おまえが何を言いたいか、商店街なんて概念でいくら遠回しに表現したってわかるぞ」
「私もわかります!」
「おまえが言いたいのは、商店街云々じゃない、他人に強いられた意志薄弱な生き方は自分の身に合わないと言いたいんだ。そういう人びとのいる光景にため息つきながら、ふらりと通り過ぎるだけだということだろう」
「神無月くんは意志強固ということですか」
「意志強固にそうやってるわけじゃない。意志強固だと、人間関係がつらくなる。神無月はつらいことには甘んじるが、面倒には甘んじない。だからつらいことに自分から進んで近づかない。なるほど意志薄弱を条件にする功利的な人間関係というものはある。そういう関係は、物色しながら選んで買うも、黙殺して通り過ぎるも自由というものじゃない。けっこう強制的な要素が強くて不自由だ。世間のほとんどの人間はそうやって不自由を受け入れて暮らしてるけれども、神無月はそれを快く受け入れる類の人間じゃない。意志を脆弱にして応えることもしなければ、強固にして反発することもしない。自分が選ばれたって、黙殺されたって、屁でもないからだよ。近づかず、遠ざからず、何ごとにも拘らずに生きてる」
 私は愉快になって笑いながら、
「何言ってるんだ。ぼくは単純に、商店街に関する感想を言っただけだ。ない頭を絞ってね。山口、たしかにぼくは山口の言うわれ関せずの気持ちを意志強固に保てるようになった。人を愛せるようになって、強い意志の人間になったんだ。なぜ人を愛せるようになったんだろう? 人の切実な心情が感受できるようになったからだよ。むかしは、愛してるの? と訊かれれば、よく言い当ててくれたと微笑んで、そうだ、と言うだけだった。いまでは、問われなくても、愛してると自然に口に出せる。そういう気持ちでいる人間が商店街に入ると、象徴的に言うと、優柔不断を強いる人びとの中に入ると、かつての脆い自分を思い出させるんだ。だから通り抜けるだけにする」
 山口はひさしぶりに、
「泣かせてくれ」
 と言って、手で目を覆った。千佳子が、
「山口さん、神無月くんの命を助けてくれて、ほんとうにありがとう。おかげで私たちも生きていけます」
「どういたしましてと言えるか? 神さまが人目につかない沼地に捨てられてたら、どうする? 拾い上げて、よく洗って、奥殿に飾るだろ。だれだって同じことをする」
「はい。でも、拾い上げることはだれにでもできることでは―」
「お、ようやく一台タクシーがきたぞ」
 山口はタクシーでも語りつづけた。
「神無月が切実に愛されることに覚醒して、意志強固な愛の人になったという話には感動するが、切実な片想いに生甲斐を見出してる俺たちにとってはどうでもいいことだ。神無月が人間らしさを見せることは、たぶん一般受けするだろう。俺たちが神無月を再認識することはない。俺たちにとっては、ただの、いや、ちょっとうれしいボーナスだ。神無月が生きてることで過分な固定給をもらってるから、ちょっと儲けたという感じになるだけだな。神無月に対する愛情に増減はない。一般のやつらは、すばらしい人間性などと言ったりするんだろう」
「感覚の覚醒というのはめったにないことだけに目覚ましい。たとえば、島流しを喰らって感傷的な気分にやられてたころ、よく散歩に出た。ある日、町の裏手の農道を歩いていたとき、その道は幼いころにときどき通った道だったので、なつかしいなと思った。単なるノスタルジーだ。そんな気分で、道端の溝や、道のずっと先や、川や、田んぼや、家並を見ながら歩いているうちに、はたと、この道から上方を見上げたことがなかったと気づいた。思わず視線を上げると、烏帽子岳からつづく山並がくっきりと見えたんだ。それはノスタルジーじゃない。初めて見た光景だったからね。衝撃だった。同じことが精神にも起こった。さっき話したとおりだ」
「俺は和子さんだ。たとえそんな覚醒が起こる以前に出会ったとしても、関係ない。おまえは自分が人間らしくないという幻想に怯えているから、そんな覚醒に意義を見出すんだろう。しかし、おまえは原初的な人間だ。優越も劣等も超越してる。そのままでじゅうぶん、やさしく、愛情深く、慎ましく、しかも強靭だ。つまりあらゆる人間らしさを包摂してる。あえて人間らしさをつけ加える必要はない。覚醒しても質量は変わらない。そういう覚醒は自分の中で楽しんでおけ。根本的なことを言うと、おまえの野球や、歌声や、詩や、天真爛漫や、向上欲のなさに美を見出さずに、世間的な人間らしさに惚れるやつを俺は信じない」
 山口は、ハンカチで目頭を拭いている千佳子に、
「よかったな、原初的な人間に好かれて。自分がダイヤだと証明してもらったようなものだからな」
 と言って、自分もまた手で目を拭った。
 紀伊國屋前から新宿三丁目の交差点を越え、ビルを縫って進み、新宿御苑の門で車を降りた。
「開園時間は九時から四時までだ。たっぷり時間がある。ぶらぶらしよう」


         百五十五

 入園券を買って入る。係員がついと山口と私の足もとを見た。二人とも下駄だ。間隔の広い桜の並木を歩く。葉の落ちた大樹が混じっている。洋式の建物を脇目にまっすぐいくと、低木を配した細道がいくつも交差している。真っすぐ進む。園路のあちこちに警備員がいる。
「この左右の視野に入る空間が和式庭園だ。芝生はない。便所にいきたければいっておけよ」
 木谷がバスケットを私に渡し、バッグを小脇に抱えてしゃれた建物に入っていった。
「あいつは受かるな。熱がある」
「ああ、頭もいい。そして、誠実だ」
「いい女ばかり集まる。目いっぱい話ができるのがありがたい」
 小川真由美が手を拭きながら出てきた。私からバスケットを受け取る。
「溜まってました。すみません、オシッコが近くて。日本庭園て、小学校の校庭みたいですね」
「まあな。趣がない。池のあるところにいけば、大名庭園ふうになるぞ」
「やっぱりここも、お大名さんの庭園跡ですか」
「ああ、信州の内藤という譜代大名だ。六十年前に天皇の持ち物になったが、戦後東京都の管轄する公園になって一般に公開された。立派な建物はぜんぶ皇室時代の遺物だ」
 千佳子はモミジとクヌギの落ち葉を拾ってバスケットに入れた。道端の真っ赤な実を見つめている。木陰に咲いている白いスイセンに視線を移した。
「その赤いのはクチナシの実だよ。きれいだね」
「ほんと」
 山口が、
「木谷は何学部を受けるんだ?」
「法学部。赤本で調べて、名古屋大学ではいちばん入りやすい学部だとわかったので。自分に見合ってると思います」
「そうか、慎ましいな。どうせ神無月のそばにいくのがメインだから、余計なことはラクなほうがいい。がんばれよ」
「はい、受かります」
「参考書は自分で決められるか」
「もちろん。それくらいできなければ、合格はおぼつかないと思います。居候の資格がありません」
 山口にさわやかな笑いが出た。
「おまえは好かれて当然だよ。でっかいおにぎりの念願が叶ったな」
「はい!」
 低木と潅木の並木道をひたすら進む。変則の四叉路に出た。背の高い野生のバラが群らがる路に、大木戸門・温室と標識が出ていたが、遮断柵が置いてあったので、低木の道を進みつづける。
「だだっ広いけど、雑然とした感じだろ。和式庭園に、イギリス式、フランス式の庭園を折衷させたからだ」
「でも芝生がきれい!」
「洋式庭園に出たな。まず、歩く順でイギリス式からいくか。樹や花の名前は神無月にまかせる。イギリス式の特徴は放ったらかしに伸ばした大木だな。樹の間にビルの群れが見える。神無月、あのでっかい樹は何だ」
「三十メートルはある巨木だね。ユリノキ。青森の松原通に生えていただろう。ポツンポツンとある大木はプラタナス」
 千佳子はここでも枇杷の落ち葉を拾った。
「このぼんぼりみたいにきれいな赤い花は何ですか」
「ヒヤマザクラ。これはわかるね」
「ツバキ」
 芝生に切られた道をいくと、バラとプラタナスに縁取られた並木道になった。庭が広がる。山口が、
「これがフランス式だ」
 芝生の庭がキッチリ剪定されている。
「美しい!」
「きれい!」
 空気があまりにもすがすがしいので、急に腹がへってきた。
「まだ腹へってない?」
「俺はまだだ。大量に食ったからな。おまえたちはへったんじゃないのか」
「ぼくはへった。千佳子は?」
「ぜんぜん」
「じゃ、神無月を優先して、意識をめしに持っていこう」
「おごるよ。もう少しゆっくりして帰るか」
 戻りはじめる。蝉が鳴いていたことに気づく。時雨れるように鳴いていたので耳に入らなかった。道の肩に橡(とち)の実が転がっている。休憩所の草はらに薄紫のツルボが突き立っている。中の池という小池にいってみる。架け橋を渡りながら浮島を眺める。
「なんてきれいなんでしょう。あの濃いピンク色」
「サルスベリ」
「ほんとにどういう記憶構造なんだろうな。たちどころというやつだ」
「ばっちゃが知識人の理想だからね。人から訊かれないと、ただの花としか見えない。それでいいのに、人は何でも命名したがる」
「名がないと不便だし、気持ちがシックリしないからだろうな。お、あれは何だ。林の木の根方に一本スッと立ってる草。黒い実がポツポツついてるな」
「藪ミョウガ」
「きゃー!」
「ひょー!」
「結局、ぼくをダシにして、クイズみたいに楽しんでるじゃないか」
「だってすごいんだもの」
「それこそ、賞金稼ぎができるぞ。あの木から垂れてる赤いふさふさは?」
「カジノキの実」
「このピンクのユリみたいなやつは? スイセンとちょっとちがうな」
「アマリリス」
「これか! 歌のアマリリスは」
「し、ら、べ、は、アマリリス。フランス土産のオルゴールの調べが、アマリリスのように美しいという意味だね。たしかにスイセンに似てる。江戸時代の外来種で、ジャガタラスイセンと呼ばれた。ユリにも似てるよね。だから、ベラドンナリリイ。ベラドンナはイタリア語できれいな女の意味」
「大学の講義よりおもしれェや」
 千佳子がパチパチ拍手する。私は調子に乗り、
「きょうは暖かい日だから、秋の七草のヤマハギが咲いてるよ。紅色の蝶々みたいな形をしてるやつ」
「一家(ひといえ)に遊女も寝たり萩と月、芭蕉」
「きたね、いつものやつ。萩刈りて虫の音細くなりにけり、虚子」
 男二人、ワハハハと笑い合う。千佳子が抱きついてきた。
「おいおい、半年早い」
 衛門を出る。千佳子が、
「楽しかった!」
 山口が、
「まだまだ、これからだ。腹ごしらえして、歌声喫茶だ。何でも経験しとけ。歩くぞ」
 三丁目の交差点へ出る。メインストリートを駅の方向へ歩く。
「門を出たとたん、楽しくない風景になりましたね。八階建てのビルがびっしり」
「ん? ほんとだ、ぜんぶ八階建てだ。青高はすばらしかったね。校庭から八甲田山系が見えた」
「ああ、目に焼きついてる。健児荘からモロだったな」
「健児荘はいまでは白百合荘というんだよ。女子青高生だけが入ってる」
「そうか。健児はいないのか。ちょっと残念だな」
 八階建てビルの並木道を歩いていく。ビルの一階部分は商店になっていて、おそらく有名な店ばかりなのだろうが、ふつうの商店街とちがって扉が閉じているので何を売っているのかわからない。銀行と映画館だけはわかる。
「これこそ神無月の言う、ふらりと離れていきたい商店街だな。なになに、新宿東映、ルイ・ビトン、三菱銀行、伊勢丹、正体不明、正体不明、大和証券、○一○一、AX? 意味不明、住友銀行、カルツェ・ドニエ? 意味不明。こりゃ入りこむには意志の力が必要だ。意志薄弱だと近づくこともできん。こういうのには純粋に尻込みしてしまう」
「商店街じゃないね。意志薄弱な貧乏人を相手に品物を売ってやるつもりのない、金好きの商人たちの出張所だね。セレブリティを集めるつもりで出店してるから、金のない庶民には通り過ぎてほしいだろう。意志の強弱とは一切関係のない、金力を見せ合うブルジョアの社交場。ぼくたちとは関係のないドブだ」
 紀伊國屋書店脇を曲がって、殺風景な通りを歩く。テアトル新宿を右手に見る大通りに出る。信号を渡り、さらに混沌とした商店街に突入する。曲がり曲がって、新宿コマ劇場前の広場に出る。
「疲れたなあ。西荻窪とぜんぜんちがう」
「東京人がため息をつくような街なのに人があふれてる。彼らは東京人じゃないね。だから何度でもきたがる」
「こんなところに……不思議ですね」
 千佳子がつくづく新宿コマ前の広場を見わたす。山口が、
「都会の喧噪にあこがれる人間は、うじゃうじゃいる。やつらに対する感想は〈不思議ですね〉で止めとかないと、ノイローゼになるぞ。ただ、こいつらのおかげで芸能界が成り立ってるということだけは覚えておいたほうがいい」
 数百の店が軒を並べる通りをクニャクニャ歩いて、『にいむら』というトンカツ屋に入る。風俗店や大人のおもちゃの店から少し離れた一画にどっしり構えている店だ。二階のテーブル席につく。千佳子が額の汗に冷たいお絞りを当てる。
「むかしから、オヤジとよくきてる店だ。戸山高校に受かったときもここにきた」
「東大受験前に、円山町のフグ屋」
「ああ。イベントは食い物で飾るわが家のしきたりだ」
「飾るためには、うまいことが条件だね」
「太鼓判だ。オーブンで仕上げるから、衣が油っぽくない。脂身もちゃんと取ってあるので神無月も食える。めし、味噌汁、キャベツはお替わり自由だ。とにかくうまい。気に入ったら、ときどき食いにこい」
「けっこう歩いたので、お腹がすきました。それで歩かせたんですね」
「そういうこと。ここから一分も歩けば、西武新宿駅だ。それで一駅高田馬場に出て、東西線ですぐ高円寺というわけ。その前にトンカツ食って、歌声喫茶トモシビだ」
 オーソドックスにロースカツ定食にする。
「灯(ともしび)の飲み物はまずい。ここでビールを一口入れておこう」
 出てきた瓶ビールをつぎ合って乾杯する。千佳子が泣いている。鼻汁をお絞りで拭く。
「どうした、木谷」
「……うれしくて。おいしい」
「馬鹿だなあ、あの大きなおにぎりと、月の輪に巻いたタオルのお返しだ。神無月はこんなものじゃすまさないぞ」
「はい」
「神無月は、どんな行動でも、その行動の根にある精神の微細な粒子を顕微鏡で見るんだ。そこに愛が一分子でも流れてたら、神無月の反応は激烈なものになる」
「はい、とんでもないお返しを待っています」
「その代わり、おまえが神無月に見かぎられたら、俺たちはおまえに鼻も引っかけないからな」
「見かぎられるような浅い気持ちじゃありません」
「よし。さあきた。食おう」
 食いはじめて腹がしっかりへっているとわかった。肉が柔らかく、しつこくない。風味もいい。
「おいしい!」 
「文句なしにうまい!」
 山口はうれしそうに大きくうなずいた。
「この前も言ったけどさ、前期試験、ほとんど優だったぞ」
「チョロイと言ってたね」
「うん。しかし、さびしかったな。戸山以来、俺は秀才という範疇の人間に属してしまった。早くギターでどうにかしないと、取り返しのつかないことになる」
「変わった悩みですね。二人を知ってるのでよくわかりますけど」
「振り子がへんに揺れると、その勢いで目標を見誤ることが多い。振り子は揺らさないほうがいい。俺も神無月といっしょに中退しようと思ってる。ギター一本で生きる」
「山口が決めたことにぼくは何の不満もない。ぼくも野球をやれるところまでやる。そのあとのことは、茫洋として何も考えられない。ただ、ぼくのプロ入りと同じように、ギターで生きていく目途が立って忙しくなるまで、秀才でいてもかまわないんじゃないか。もともと山口は秀才なんだ。急いで鈍才になることはない。プロに誘われました、中退します、そのほうが、山口の情熱に愚かな横槍が入らない。だいじょうぶだよ、まちがっても山口は、へんに揺れて官僚になったり、法律家になったりしない。超一流のギタリストになるしかないヨタロウだよ。懸垂四十回が基本だぞ」
 千佳子がにっこり笑って、
「憶えてます。マラソンも一等賞。猿飛佐助か牛若丸。およそ勉強とは無縁の人に見えました。ところが二年生の春には全校の首席、夏には東奥日報模試の首席、とんとん拍子。ピカピカに頭のいい人だったとわかりました」
「神無月のせいで初めてかぶった化けの皮だったんだよ。神無月は野球をやるためにかぶる必要があったんだが、俺はギターを弾くためにかぶる必要はなかった。神無月を死ぬほど好きになったせいでやっちゃったことだから、仕方ないと言えば言えるが、俺らしく生きることもできた。芸大にでもいってな。もうこの皮は剥がないといけない。神無月はプロ勧誘で剥げる。俺もイタリアのコンクールで好成績を挙げ、プロに誘われて剥ぐ。とにかくそれが俺たちの一本道だ」
 私は箸を置いて山口の手をとり、
「ぼくのプロ入りが決定した日に、山口も中退届を出せ。それで一蓮托生だ。最高に好ましい意味でね」
「オッケー!」
 痛いほど強く握り返してきた。
「私はどうしようかな」
「もう純粋に一蓮托生してるじゃねえか。何もしなくていいよ。ほんとに木谷はかわいい女だな。まあ、和子さんにうんと鍛えてもらいな。無私ということをな」
「はい!」


         百五十六

 西武新宿駅前に双子のような丸いビルが建っている。左は純喫茶ミカド、右が歌声喫茶灯(ともしび)だ。
「驚くぞ」
 山口がニヤリと笑う。かすかに合唱の声が聞こえてくる。右のビルの短い階段を上って店内に入る。人いきれ。一階、中二階、三階まで、顔を接し合うほどの狭いテーブル席に何百人もの若者たちがひしめき合っている。空いているテーブルをなんとか見つけて、挟まりこむようにして座る。
 ピアノ、アコーディオン、バイオリン、ギターを抱えたバンドを控え、妙な衣装をつけた何人かの男女が狭いステージに立っている。彼らをリーダーにして全員がロシア民謡を合唱している。これは異様だ。高校生のようなウェイターに豆本の歌集を渡される。コーヒーとアイスソーダしかないのでコーヒーを注文する。二百円もした。歌集の分も入っているのだろう。
「では二十四ページを開けてください。はい、みなさんも声を合わせて!」
 ステージ上の小太りの中年男が叫び、唱歌、労働歌、歌謡曲と、合唱や輪唱のしやすい曲を選んで、半ば強制的に唄い継いでいく。歌謡曲はなんと、タイガースの『君だけに愛を』だった。
 千佳子はキョロキョロしながら小声で合わせようとするが、男二人は唄わない。唄う気にならない。月曜日はどうの、火曜日はどうの、きみだけに教えよう、ふしぎなぼくの胸のつぶやきを。月曜日も、火曜日も、胸のつぶやきも、どうでもいい。つまらない歌ばかりだ。正常な感性の人間の唄うべき歌じゃない。これぞ青春、あしたの鋭気のもとだと信じこむような錯覚野郎が唄う歌だ。でなければ、そのフリをすることで、性的な利得にありつこうするやつが唄う歌だ。ああ、光夫さん!
「驚いたろ」
「うん。こいつら何してるの」
「おまえの思ってるとおりだよ」
「漁色」
「正解。同性で唄ってるやつらは、目が忙しく動いてるだろ。カップルで唄ってるやつらはベッドに入る前の準備運動のつもり。表向きは、学生や集団就職の労働青年が集い、大声で合唱して連帯感を共有するという形だ。これが、おまえが怖がってきた社会の正体だよ。コマ前に群がってたやつらの正体だ」
「経験しておけと言ったのはこのことか」
「そうだ。共産主義めいた労働歌が多いが、客たちのほとんどはノンポリだ。色を漁りながら色にありつくきっかけさえ得られずにさびしく帰巣するやつら、人生に何の策もなく生きてるやつらの烏合する場所だ」
 私たちの会話を聞いて、千佳子が遠慮のない眼で周りを見つめはじめた。出てきたコーヒーがまずい。でたらめにいれているのにちがいない。周囲の若者たちの精神の質を象徴するようだ。彼らが純朴を装っているように見えるのが胸苦しい。ふと、ほんとうに純朴な四戸末子もここにきたかもしれないと思った。こんな愚にもつかない集団歌を唄うことでいっときでも救われ、ほんとうにあしたの生命力を養ったのかもしれない。涙が湧いてきた。
「また独特の回路で感情移入してるな。おまえにはまいるよ。どんなやつのためにも泣いてやるんだから。ジーザス・クライスト。泣くなよ。俺も泣けるじゃないか」
 千佳子も泣いている。
「さ、むだな涙を流すのはもうじゅうぶんだ。出よう」
 狭い席をこじ開けて出て、三人階段を降りる。黄昏が近づいている。目の前の西武新宿駅の階段を上り、切符を買う。スッキリした駅舎とホームだ。通勤帰りの客といっしょに詰めこまれる。はぐれないように千佳子の手を握ってやる。彼女は腕を握ってくる。
「例の東大の女と灯にいった。はしゃいで溶けこんでたよ。矛盾のない化学反応だ。同類だったわけだ。性質が反発し合ったら溶けこめないからな。だから惚れたのは俺じゃなくギターの腕か、と思いきや、官僚になってほしいとほざくわけだろ。惚れたのはどうも俺でもギターでもなさそうだ。野球の技能に惚れておまえに近づいてきた女なんていないだろう。何に惚れたわけでもなく、歌声喫茶でいっしょに唄えるブラインドデートの相手がほしかっただけだ」
「女は才能に惚れない」
「ヒデ子ちゃんは顔だったな」
「そう、顔に惚れるんだ。その顔が自分の思ってた〈アタマ〉と一致しないと、恋が冷める。ぼくのおふくろが言うアタマじゃない。あれは、成績や学歴のことだ。ぼくの言うアタマは―」
「言わずもがな」
「山口も顔は気に入られたみたいだね。デイトの相手になったわけだから。でも、ギターではなかったし、アタマでもなかった」
 千佳子が、
「アタマというのは、顔を好きになったあとでもらえるご褒美です。肩書みたいな飾り物が好きな女には興味のないものです」
 馬場に着いた。地下へ降りて東西線に乗り換える。落合から地上の中野へ出るときの車輪の軋りが、開け放した窓からものすごい音で飛びこんでくる。山口が手帳を破いて千佳子に渡す。
「ほい、これ、俺の自宅の住所と電話番号。勉強のことでも何でも、気にかかることがあったら電話して。午後の四時くらいまではたいてい家にいるから」
「はい」
「お、高円寺だ。俺はこっから三つ目だから、このまま乗ってく。和子さんと素子さんによろしく。木谷、がんばるんだぞ」
「はい。きょうはありがとうございました」
「バイバイ」
 窓越しに手を振って別れた。
         †
 高円寺の商店街を歩いていく。千佳子が腕を組んでくる。
「とうとう始まったね、東京生活が」
「はい。夢みたいです。でも夢だなんて言ってられない」
「そんなに張り切らないで。のんびりやればいいんだ。これ、五万円。当座の昼めし代」
「いりません。おかあさんが、二十万円もへそくりをくれたんです」
「無理しないで取っておくんだよ。二十万なんて、昼めし食ったり本を買ってたりしたらすぐになくなるから。カズちゃんがお小遣いをくれても受け取ること。彼女は引っこめないよ」
「はい。ありがとうございます」
 軒灯を点けた玄関に笑顔の二人が出迎えた。
「お帰りなさい。どうだった?」
「何もかも、とっても楽しかったです。二人のお話も最高でした」
「そう、よかったわねえ。いい息抜きになったじゃない。ごはんは?」
「トンカツを食べました。にいむらってお店で。あ、お弁当おいしかったです。ありがとうございました」
 バスケットを素子に差し出す。
「あら、葉っぱが入っとるが」
「新宿御苑のです」
 カズちゃんが、
「モミジと枇杷と……」
「クヌギだよ」
「葉が厚いのは水分が抜けないから無理だけど、モミジは押し花にしてあげる。クヌギとビアはセロファンに包んで、栞にすればいいわね。結局茶色く枯れちゃうけど」
「にいむらはうまい店だった。山口父子のいきつけらしい。今度折があったらいこう」
「いこまい、いこまい」
「さっき千佳子さんのお母さんから電話あったわよ。どうぞよろしくお願いしますって。やっぱり心配してたのね。万事おまかせくださいって言っといたから。何も考えずに勉強に精を出しなさい」
「はい、がんばります」
 素子がコーヒーをいれる。四人でキッチンテーブルに着く。
「早稲田って、親しい感じで、威厳もあって、入りたいなあって思える大学でした」
「入るのよ」
「いえ、名古屋大学にいきます」
「そう。落ちたら名古屋で浪人できるし、そのほうがいいわね」
「はい。新宿御苑は芝生がきれいで、木や花がいっぱい。神無月くんが十も二十も名前を言っていくんで、キャーって感じでした」
「初めて見る特技だったでしょう」
「驚きました。会うたびに驚きます」
「一生、驚きつづけやよ。風呂沸いとる。二人で入りゃあ」
「え! こんなに早く」
「セックスはチャンスあっての恵みだから、してもらえるときにしてもらうこと。何カ月も空くことだってあるんだから」
「はい―うれしい。信じられません」
「処女じゃないんでしょう?」
「はい……。それで……神無月くんに申しわけなくて」
「処女なんて、大した価値じゃないわよ。気持ちを捧げなさい」
「はい……ほんとにうれしい」
「ボストンバッグ、離れの六畳に入れといたわ。きょうから離れを使ってね。素ちゃんが勉強部屋にって譲ってくれたの」
「何から何まで、ほんとにありがとうございます」
 素子が、
「部屋、掃除しといたわ。届く荷物はあるん?」
「はい、服と下着と、神無月くんのユニフォームです。それを着ていつも勉強してました」
 カズちゃんが、
「ぜったい必要なものだったのね」
「はい。でも、もう着ません。とうとう神無月くんのそばにこれましたから」
「お風呂上がったら、少し居間でゆっくりテレビを観ましょ。十時ごろ、おやつ作るわ。焼きそばと餃子」
「おいしい中華スープ作ったんよ」
「このコーヒー、おいしい。にいむらのあとで、山口さんに灯っていう歌声喫茶に連れていってもらったんですけど、ひどいコーヒーでした」
「ああいうところの飲みものは色のついたお湯か水。孤独を寄り合いで解消しようとする人たちの要求のレベルなんか知れてるもの」
 一刀両断だ。
「そろそろ八時半ね。九時から木下恵介アワーがあるの。『二十四の瞳』や『野菊の如き君なりき』の監督。高嶺秀子の旦那さんよ」
「何て言うドラマ?」
「おやじ太鼓。雷おやじっていう意味。八方破れのワンマン社長と家族の物語。もう二十話を超えたかしら。素ちゃんと毎週かならず観るの。それ観ましょう。そのあとは寝るまで勉強。千佳子さん、きょうは計画でも立てなさい。さ、お風呂いって。お湯抜かなくていいわよ。キョウちゃんのお露は美容にいいから」
 脱衣場で千佳子は、もうこらえきれずに抱きついてきた。
「逢いたかった、とっても逢いたかった。自分が抱かれる姿を何度も夢に見ました」
 下腹を押してくる私の性器に気づき、見下ろして息を呑んだ。本能的に両膝を突いて含んだ。口蓋が大きいのか、無理なく包みこむ。長いこと愛しそうに舌を動かしていた。
 洗い場に入ると、私は屹立させたまま壁に向かって放尿した。千佳子はしばらくそれを見つめていたが、ごく自然に私の足もとにしゃがんで自分も放尿した。親しみが深いものになった。湯できれいに流す。抱き合って湯船に入った。口づけを交わす。
「幸せ……。何もかも。私、九月二十一日で十九歳になります。同じ十九歳で、もう子供を産んだクラスメイトがいるんです。福島さん。憶えてます?」
「ああ、靴屋の藤田の想い姫」
「そうなんですか? 彼女が赤ちゃん背負って買い物してるのに遇いました。結婚したのって訊いたら、ちがうって。どういう事情かわからないけど、不幸そうな感じでした。高校時代からいろいろ噂のある人だったけど、ああいう姿を見ると気の毒な気がして……。私はつくづく幸せです。
 湯殿に出て、あぐらをかく。千佳子はしっかり私を抱き締めて腰を落とす。密着する感触を目をつぶって味わっている。
「ああ、私、神無月くんと結ばれたんですね、幸せ」
 口を吸いながらじっとしている。やがて千佳子は遠慮がちに上下動を始めた。
「あああ、愛してます!」
 愛のある吐息に励まされ、すみやかに近づき、心地よく打ち出す。瞬間、千佳子も穏やかないただきに達したようだった。
「あー、うれしい、愛してます!」
 尻をつかみ、律動を伝える。
「あああ、死ぬほど愛してます!」
 からだを離して湯殿に横たえ、慎ましく収縮を繰り返す腹に掌を置く。少し落ち着いたところへ臍を中心に手桶で湯をかけてやる。千佳子は目を開けた。二人また湯に浸かって抱き合った。
「ああ、オラ、神無月くんのこど、死ぬほど好ぎだ」
 やさしい音色の津軽弁でしゃべる。
「千佳子のズーズー弁、いいなあ」
「もうしゃべりません。気持ちがうまく伝わらないから」
 下着とパジャマが二組用意してあった。


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