百六十三

 深夜に近く、高円寺のカズちゃんの家に到着。カズちゃんだけパジャマ姿で起きてきて、夜食を作る。何カ月ぶりかのカレーライス。
「夜は食べた?」
「きょうはお好み焼だけ」
「そんなものじゃだめよ。疲れないようにしてね。わざわざ自分を忙しくして楽しんでるみたいだけど、気が気じゃないわ」
「だいじょうぶ。野球部が充実してきて楽しいんだ。セックスは気付け薬みたいなものだよ。リーグ戦に入ったら、一戦一戦がカンフル剤になるから、しばらくセックスから遠ざかると思う」
「あしたの節子さん、無理しないでね。逢えるだけで節子さんはうれしいんだから。土曜日のグリーンハウスもあるし」
「了解。あしたから門前仲町の家庭教師だ。五時から七時。そのあとで節ちゃんのところに寄る。じゃ、荻窪に帰る。朝のランニングがあるからね」
 十分ほどで会話を切り上げ、最高のカンフル剤の口づけをする。汚れたユニフォームをクリーニング済みの無番のものと交換してダッフルに詰める。カズちゃんは玄関まで出て手を振った。
         †
 九月三日火曜日。曇。昼近く、詩織から電話があった。電話があるまで目覚めなかった。朝のトレーニングをさぼってしまった。
「ユニフォーム、一着だけ洗濯機で洗ってアイロンがけをしました。なんだかそうしたくなっちゃって。ロッカーに入れときました。あと一着は、あしたまでにはできあがると思います」
「ありがとう」
「グローブは野添くんが丁寧に磨いてましたよ。とってもうれしそうだった。バットも大事そうに乾(から)拭きしてました」
 鈴下監督が先発レギュラーの発表をしたと言うので、メモをとる。
 一番センター中介、二番セカンド磐崎、三番ライト横平、四番レフト神無月、五番キャッチャー克己、六番サード水壁、七番ショート野添、八番ファースト臼山。副将の大桐を控えに回したのは、監督の勇断と大桐の譲歩があったせいだとしても、同じ副将の中介が岩田に席を譲らないのは解せない。そのことを詩織に言うと、
「足が速いから、切り込み隊長として尊重されてるんですよ。克己さんと並んでムードメーカーだし」
「足はぼくより遅いよ。足じゃ野球は勝てない。オリンピックの飯島がプロ野球に入ったって、屁の突っ張りにもならない。野球はピッチングとバッティングだ。少なくとも年功序列じゃない」
 詩織がフフフと笑う。
「イライラしないでください。チームをなんとかしたい気持ちはわかりますけど、少しづつ理想に近づけていかないと。たしかに神無月くんは野球の達人だけど、野球というゲームをやり遂げるためには、個人個人のスキルアップはもちろんのこと、チームの和がとても大事だと思います。精神的な協力体制。いまのところ、これを最善のラインアップと考えて、精いっぱいがんばりましょうよ。チームワークは私たちの持分にして、神無月くんはホームランを打つことだけを考えてください。大勢の人たちは、試合というイベントの結果がどうなるかよりも、あのホームランを見たいというのが本音だと思います」
 たぶん監督も、チームのみんなも、とつけ加えた。
「あさって木曜日、十一時から準レギュラー相手に紅白戦をするらしいです。ホームラン打ちまくってくださいね」
「きょうもいまから練習に出るよ。今朝走り損なった。一時前には球場に着く」
 霧雨が降っている。きのうより冷えこむ。野球そのものではなく、野球の練習が私を虜にしている。野球が娯楽の喜びではなく、本来の姿のとおり、七面倒な思考の入りこむ余地のない〈鍛練の喜び〉になってきているということだ。娯楽の喜びはゲームの遂行にある。そこで心を全解放する。ブレザーに下駄を履いて出かける。荻窪駅までの歩行も一定の速度でリズミカルに進み、大切に鍛練の一部に繰りこむ。
 東大グランドで三時間汗を流す。ランニングとダッシュを念入りにやる。部室で臼山についてもらい、七十キロのバーベルを十回挙げた。守備練習をしているセカンド磐崎の後ろに付き、彼の動きをまねながら前後左右に動き回った。この練習方法はレギュラーたちの喝采を浴びたが、だれもまねしようとしなかった。私も一回きりでやめた。フリーバッティング二十本、二盗のスライディング十本、ベーラン五周で切り上げる。四時半。雨が上がった。
 本郷三丁目から丸ノ内線荻窪行に乗って大手町に出、東西線西船橋行に乗り換えて門前仲町へ。二十分もかからなかった。本郷からは近い。家庭教師の初日ということで妙に緊張している。何に緊張しているのかわからない。うまれて初めての経験だからということでもない。たぶんあの無愛想な、魅力のない母親の態度だ。不気味な眼つきだった。ああいう眼つきの女にはこれまで一度も遇ったことがない。林と同様、私も二、三回で逃げ出すかもしれない。
 門前仲町につく。地下鉄の構内から階段を昇って大通りへ出ようとしたとき、初秋のにおいが鼻をくすぐった。牛巻坂のにおいだ。思わずあごを上げると、水色の空を雲がゆっくり流れていった。
 材木を浮かべた藍色の川を渡る。川が好きだ。灰色の岸辺に挟まれて、堀川と同じインク色の水が横たわっている。材木に堰き止められたいくつかの流れが小さな渦になって落ち合い、ひとつづきの縞目を作る。合流した平らな本流がそのまま空に接している。風が心地よい。岸の材木の上に何人かの男たちが乗っている。筏師。生まれ育った土地でこの涼しい大気を呼吸しつづけてきた人びとの声が道へ上がってくる。
 マーくんの母親はきょうも横顔だけで挨拶した。二万四千円のために遠くからやってくるアルバイト学生を軽んじている。こんばんは、と声をかけるが、応えない。階段を昇って二階の八畳に入り、大テーブルにちょこんと向かっている小学生に声をかける。おとなしいのはこの数分だ。襖の向こうで中学生の姉がごそごそ動き回る気配がする。
 漢字書き取り。三字ほどで飽きる。算数のドリルをやらせる。二つ、三つ簡単な計算をさせただけで、彼はきょうも鉛筆を放り出し、奇声を上げて走り回る。
「マーくん! あと三題やろう。それから、書き取りを十個。もう少しのがまんだ」
 私は自分の言葉を信用していないし、男の子も走りやまない。先払いで金をもらっていることが頭にちらつく。
「チンポ! チンポ!」
 いつのまにかズボンを脱いで、パンツの脇から皮をかむった小さな性器を引っ張り出し、そのまま私に走り寄ってくる。
「そんなスズメ見たくない。まじめに書き取りをしよう」
 襖からケラケラという笑い声が聞こえる。スズメと言われて子供なりに傷ついたのか、男の子はうなだれて卓に戻ってくる。書き取りをしおらしくしていると、下から、
「マーくん、お鮨、何食べたい?」
 母親の声だ。
「ちょっと休憩をもらって、食べたいものを注文してらっしゃい」
 まだ十五分も経っていない。子供が返事をして下へいき、私は手持ちぶさたなまま放り出された。女子中学生が襖を開け、手招きをする。すぐにわかった。顔が性欲で歪んでいる。十三、四歳の性欲は身に覚えがあるので驚きはしないが、板のような顔をした少女のそれは想像しがたかった。どう言えばいいか、極論かもしれないけれど、性欲は美しい人間だけに与えられるものだと私は思っている。性欲に歪んだ醜い人間の顔は見るに耐えない。林が、週一好待遇の家庭教師を辞めた理由は、グリーンハウスの仕事に不都合が出たからではなく、まちがいなくこれだ。彼は襖を入らずに、襖の前から逃げ出したのだ。逃げた理由を雇い主に言えば、逆に疑われるだろうと悩んで、同じ肩書の私を後釜に差し出したのだ。私が即刻逃げ出したら、彼の顔を潰すだろうか。
 私は襖の敷居を越えて、スタンドの明かりだけの仄暗い部屋に入った。中学生はスナック菓子を頬ばりながら、漫画を読んでいた。
「きみは林を誘ったのか」
 それには答えず、
「あなた、きれいね」
 ゲゲゲの鬼太郎のぬりかべが、太い声で言う。ふざけたヤロウだ。ケツでも叩いてお仕置きをしてやろうか。
「三十分は帰ってこないわよ。いつもそうなの」
「林のときも?」
「そう」
「だから誘ったのか」
「ぜんぜん乗ってこなかった」
「あたりまえだ」
 怠惰からだろう家の中でもセーラー服を着たままでいて、それがまったく似合わない。数学の問題集を本立てから抜き出し、
「解き方教えて」
 適当なページを開く。五千円札が挟まっている。
「取れたら、あそこを触らせてあげるし、お金もあげる」
 下衆だ。
「お父さんに言って、きょうかぎり辞めさせてもらう」
「やめて! 叩かれちゃう」
「ぼくの口を封じたかったら、もうこんなことはやめろ」
「やめるわよ」
「襲われたなんて、嘘っぱちを言うんじゃないだろうな」
「言わない」
「ぼくをおとしめようなんてしたら、冗談でなく、怖い人にきてもらうぞ。こんな店一軒ひねり潰すのなんて簡単だからな」
 凄みを利かせた顔で言う。
「言わないったら」
「林の顔を立てるためにも、しばらく辞めるわけにはいかないんだ。じゃまをするな。とにかく来週から静かにしてろ」
 マーくんはそれから十分も戻ってこなかった。私は十畳のテーブルで独り、算数のドリルを真剣に楽しんだ。やがて母親がマーくんといっしょに顔を出し、表情のない顔で、
「お鮨をどうぞ」
 と声をかけた。キッチンテーブルへいった。姉もやってきた。ケロリとしている。姉妹揃ってバクバク食いはじめる。私はトリガイとアナゴだけを摘んだ。母親もモサモサ食っている。父親はやってこなかった。
「どちらのご出身で?」
「名古屋です」
「ご両親はどういうお仕事を?」
「父はおりません。母は建設会社の寮母です。いわゆる飯炊きです」
「そうですか。それじゃ生活はお苦しいですよね」
「苦しいですね。大学も中退しなくちゃいけないでしょう」
「まあ、せっかく東大に入ったのに。お母さん、悲しいでしょう。奨学金でも取ればよろしいのに」
「それでも、生活は成り立ちませんね。大学やめて、来年あたりから労働しますよ」
「もったいない。林さんは、高校の先輩の引継ぎで七月からここにきていただいたんですけど、実家がとってもお金持ちで、バイトの必要なんかなかったのに、ご親切にマーくんを教えていただいて。お勉強が忙しくなったみたいで辞められたんですけど、あなたにバイトを譲ってあげるなんて、友だち甲斐のあるかたですね」
 しゃべっているあいだ、私を見ていない。小さい目のすべてがネズミのような黒目なので、正視していられない。マーくんも一重だが、大きく切れた目に愛嬌がある。父親の眼鏡の奥の目に似ている。姉は一家の中で一人だけ平板な角面だ。えらが張っているわけではないが、小さな目と鼻と口が顔の真ん中に集まっている。親子三人で二桶の鮨を食い尽くした。どうもこれが彼らの夕食のようだ。
「そのとおりです。大したやつです。どうやって恩を返したらいいかわかりません」
「しっかりバイトして、中退しないことが、林さんにもお母さんにもご恩返ししたことになるんじゃないかしら。ここのバイト料も三万円に値上げしましょうか」
「それはありがたい。値上げしてくれた分、母に送ってやりますよ。と言いたいところですが、いまのままでけっこうです。しかし、それほど貧乏に寛容だということは、あなたがた一家が生まれながらに裕福な人たちだということですね。貧しさに嫌悪感を抱くのは貧しさの真っただ中にある人か、自分が育った貧しい惨めな環境から必死の思いで抜け出した人たちでしょう。生来裕福な人にとって、貧困は好奇の対象だし、何より自分たちの豊かさを引き立ててくれるスパイスなので、寛容になれるというわけです。でもそういう心の動き方というのは、裕福と貧乏とで人間の価値が本物か偽者かと規定したがる奇形な心理ですね。本物も偽者もない。彼は彼、われはわれです。ところで、この門前仲町というのは何寺の門前ですか」
 母親は黒い目をキョトンとさせながら、
「永代寺という明治維新まであったお寺らしいんですが、いまはありません」
 夢から覚めたように明るい声で答える。やはり私の話をまったく理解していなかったのだ。この類の人間には皮肉が効かない。言うつもりもない皮肉だったので、たいして効果は期待していなかった。しかし、小さい目の焦点がようやく私に合いはじめたので、妙な緊張感が消えた。
「そこの川は?」
「大横川。隅田川に流れこんでます。川沿いは桜並木で有名ですよ」
「じゃ、深川というのは、川の名前じゃないんですね」
「このあたりの土地名です。開拓者の名前からとったらしいです」
 マーくんがあくびをしている。
「きれいね、神無月さんて」
 中学生が言うと、
「失礼なことを言わないの。ずっと年上でしょう。東大生なのよ。日本一難しい大学なんだから」
「知ってるわよ。シバコウダイの何十倍もすごいんでしょう」
「そうよ。じゃ、七時までよろしくお願いします」
 私はどうにかマーくんを勉強のテーブルに向かわせたが、それから一時間、マーくんはドリル帳に落書きをしたり、部屋を跳ね回ったり、菓子盆の煎餅を寝転んで齧ったりしてすごした。手に負えない肥満児を肘枕で眺めながら、私は約束の刻限までその姿勢でぼんやり算数のドリルを目で解いた。隣部屋の姉はひっそりしていた。
 ダッフルを担いで東西線快速に乗って武蔵境へ。三鷹で中央線の鈍行に乗り換え、都合五十分弱で武蔵境に到着。法子の樹海荘と反対の口に出る。レールを挟んで同じ駅の右と左に恋人がいる。複雑な思いを抱きながら、節子に向かって歩き出す。豊頬と厚い唇を思い浮かべる。細かい雨が落ちてきた。傘を差す。


         百六十四 

 上島荘の階段を上って、ドアを叩く。節子がドアを勢いよく開けて飛びついてくる。ダッフルを取り落とす。口づけ。初めてディープキスを教えた唇。五年のうちに、妖しさから清潔さへ変身した唇。
「早かったのね、ありがとう」
「からだが汗っぽい。下着を替えたい」 
「ちょっと待って。お湯沸かすから」
 ヤカンに湯を沸かしているあいだ、私の服を脱がせ、下着も脱がせる。机を置いた部屋に、セパレート型のミニステレオが置いてある。書棚にもだいぶ本が増えていた。机の上には石牟礼道子の『苦界浄土』が置いてあった。節子は私の陰毛に鼻を当てて吸いこむ。
「いいにおい。桜の花びらのにおいみたい」
 沸いた湯を洗面器に移し、タオルを浸す。よく絞って、首と腋と股の付け根を拭き、タオルを洗う。湯を捨てて、もう一度洗面器にやかんの湯を注ぎ、タオルを浸して絞る。陰茎、陰毛、肛門を念入りに拭き、亀頭は含んで舐める。別のタオルを蛇口の水に濡らして絞り、頭髪を揉むように拭いた。清潔な下着を箪笥から出してくる。
「一回お願い……」
「うん」
 するすると全裸になり、トイレにいく。私は蒲団にいって横たわった。水を流す音につづいて、カーテンを引く音がした。
「顔に跨って」
「オシッコしたばかりよ」
「いいよ」
 下唇に柔らかい襞が触れた。
「手をちょうだい」
 握り合わせる。節子はクリトリスを私の口に持ってきた。すでに固くしこっている。小便の塩気を舐め、襞を舐め、クリトリスに舌先を当てる。ビクンと尻が上がる。舐めては吸い、舐めては吸いを繰り返す。
「キョウちゃん、愛してる!」
 小陰唇が鼻をこすって前後する。膣口から滲み出してきた愛液を舐める。四つん這いにさせ、乳房を握りながら往復する。
「あああ、キョウちゃん、うう、大好き、好き好き、大好き、ああ、だめだめ、イク!」 
 顔を振り向かせ、唇を吸う。浅く、深く腰を動かす。
「も、もうだめ、好き、大好き、ううん、イクウ!」
 腹を引き締めて思い切り気をやる。私は動きを止めて節子を存分に痙攣させた。膣がうごめいているあいだに射精する。
「ああ、キョウちゃん!」
 節子は背中を丸くしてからだを縮めた。私は豊かな胸を握り締める。
「あああ、キョウちゃん、愛してる! 愛してる、愛してる!」
 カズちゃんと同じような連続のアクメになってきたので、素早く引き抜いた。引き抜くとき、どの女もかならず名残の痙攣をする。後ろ髪を引かせるためだろうか。ふるえが小止みしたところで、抱き抱えて仰向けに横たわらせる。大きく股を開き、名残の痙攣すると同時に愛液を一筋、勢いよく飛ばした。腹を縮め、陰阜を突き出して、また遠くへ飛ばす。三回、四回と繰り返す。節子がこうなるのは初めてのことだ。薄く目を開けて、
「ご、ごめんね、キョウちゃん、イキつづけてる、あ、イク! 入れて! キョウちゃん入れて!」
 挿入し、静かに節子の内部の鼓動を聴いた。
「愛してるわ、キョウちゃん―」
 ようやく尻が跳ねなくなって、穏やかな表情に戻った。
「みんなこうなるのかしら」
「それぞれちがうよ。カズちゃんも節ちゃんみたいにイキつづける。でも、イキつづけながら、入れてって言ったのは節ちゃんだけ。入れたらぼくもとても安心した」
 節子はふと天井を見上げて、
「世間の女の人たちを見てると、生活のこまごましたことに追われて、ろくに本も読まないし、映画も観ないし、音楽も聴かないってわかる。こういう最高のセックスもぜったいしてないと思う。どこかパサパサした感じがするの。キョウちゃんに遇わなければ、私もきっとそうだったと思う。本も音楽も心を豊かにしてくれるわ。このごろ、バッハとモーツァルトを聴いてるの。バッハを聴くと心がきちんと整理されるようだし、モーツァルトはキョウちゃんの歌を聴いてるようで、悲しくて泣きたくなる。恐ろしいわ、あのまま知多にいったままだったら!」
 抱きついてくる。
「石牟礼道子の苦界浄土を読んでたね。机に置いてあった。水俣病か。人の痛みに関心があるのはいいことだよ。共感や同情は人間のいちばん大切な条件だからね。それのない人間はクズだ。あの本にこんなふうな一節があったろ? ―ゼニは一銭もいらん。会社のえらか衆の、上から順々に水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に四十二人死んでもらおう。奥さんがたにものんでもらう。そのあと順々に六十九人水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか―。でもね、自分の不幸を根に持つ人は、自分を幸福にしようとしない。不幸をもたらした人間に復讐したがる。つまり不幸な自分の憂さを、人を不幸にして晴らそうとする。不幸な人がいくら慰められても、周囲の人間は幸福感を覚えないんだよ。子供の笑顔や、犬猫のかわいらしさや、愛する者のオーガズムや、ホームランに幸福感を覚えることを考えればすぐわかる。ぼくたちはどんな状況の中でも、他人の幸福を求める人間に同情や共感をすべきだ。……ああいうたぐいのノンフィクションは読まないほうがいい。フィクションならば話は別だよ。たとえば藤村の破戒があるし、エリ・ヴィーゼルの夜がある。まさに芸術の精髄だ。ノンフィクションや実用書は寝転がって読む分にはいいけど、真剣な読書からは省くべきだね」
 私を抱き締める腕にやさしさがこもった。
「キョウちゃんは、不幸が心底嫌いなのね」
「関心がないんだ。リンカーンやケネディの暗殺も、ガンジーや浅沼稲次郎やキング牧師の暗殺も、左肘の手術も、島流しもね。たしかに、いっとき心は揺れるけれども、すぐ忘れてしまう。忘れたくない愛する人びとや、愛する趣味や、愛する芸術や、愛する木や草や花や、愛する思い出は、けっして忘れない。胸を締めつけるような悲しい人間や光景は好きだけど、不幸に陥った人間や悲惨な光景には興味が湧かない。ぼくは博愛主義者じゃないからね。不幸や惨めな状況に陥ったら、どうにかして自力で脱出するべきだと思うタチなんだ」
 小学五年生のとき、テレビで水俣病患者を見て、痛ましい気にはなったが同情はしなかったことや、中一のとき加藤雅江の脚を見て、やはり痛ましい気にはなったが同情はしなかったことを話した。
「どちらも自分で引き起こした不幸じゃない。でも雅江は、運命にめげずに自力で克服しようとした。手術して、何年越しかの運動で脚を鍛えて筋肉をつけ、左右の脚の太さのちがいをほとんど目立たないものにしたんだ。不幸の中でなんとか幸福になろうとしたからだよ。精神を克服したら、肉体の幸福もついてきたんだ。それに比べて、怨みつらみで後半生をすごそうと決意した人たちはどうだろう。一瞬の思考もできないほど強度の舞踏病に冒されてる人はたしかに気の毒だと思う。でも彼らは、幸福になるにも、不幸になるにも、意志を持ちようがない。苦痛を癒す手段がないから、見放すしかない。その人たちとちがって、せっかく意志を残している人びとが、その意志をすべて、遺恨を果たすことに使っているのは残念だ。ぼくはそういう人間に関心はない。他人を幸福にしようとしてる人間だけを幸福にしてやりたくなる」
 舌を絡めてキスをする。
「……愛してます。ほんとうに心から愛してます。一生離れない」
「離れるなんて、起こりえないことだよ。さ、起きて、散歩しよう」
「はい。法子さんのほうの北口の、亜細亜大学から小金井公園までぐらいしか、歩くところはないわ。片道一時間ぐらいかしら」
「いってみよう。このごろご無沙汰だけど、ぼく散歩が大好きなんだ」
 節子は股間をティシューで拭い、私のものを口できれいにした。用意した下着を大事そうに穿かせる。
         †
 雨が上がっていたが、節子は用心に傘を持った。駅まで二十分、暗い緑の中の住宅街を歩く。すがすがしい。節子の外股もすがすがしい。私は自分が下駄を履いていることに気づいて笑った。
「あのステレオ、音響のST55だね。何年か前に発売された高音質ステレオだ」
「二万二千円しました」
「奮発したね」
 北口へ抜けてさらに十分、南口と似たような住宅街を歩いて、亜細亜大学の近代的な建物が群がる敷地に入る。構内を抜けていくと【花の通学路】と立て看板のある小道に入った。道の左右に工夫もなく花々が植えられている。道の途中の武蔵川公園の柿の実が色づきはじめていた。花の通学路を抜け、桜堤団地に到る。信号を渡り北上する。古瀬公園の入口に出る。松露庵と看板が立っている。もう閉じているが、菓子店と喫茶店を兼ねているようだ。
「病院の友だちとここに一度入ったのよ。栗蒸し羊羹を食べて、緑茶を飲みました。友だちはきんつばを食べた。同僚たちへの土産に赤城山という饅頭を一箱買ったわ」
「今度、ステレオを聴きながら食べたいな」
「はい、買っておきます」
 松露庵を囲む人工の庭園を見て過ぎる。噴水の上がる小池がある。剪(き)り揃えた小松を植えた和式の平屋がある。見学用か茶房か園灯だけの遠目なのでわからない。庭園を抜けて玉川上水沿いの広大な草原に出る。
「小金井公園よ。都内で一、二の広さの公園ですって」
 昼、大人や子供が芝草に寝転んだり、ボール遊びをしたりする姿が目に浮かぶ。遊具を散りばめた区画があちこちにある。
「ここは千八百本桜の名所らしいわ。機会があったらきてみましょう」
「うん。でも来年の春には、名古屋にいると思うよ。プロにいかなくても、東京には残らない」
「そうなったら私も、また転勤願いを出さなくちゃ」
「じっくり構えて、名古屋に戻ればいいよ」
「はい」
 草地に切られたアスファルト道を、灯火を点けた自転車が何台かのんびりと走っている。夜の散歩だろう。ナラ、クヌギ、赤松の生えた雑木林に入る。抜けると一般道に出た。遅くまでやっていそうな簡易食堂があったので入る。焼きうどん。私は大盛り。節子は味噌田楽を頼む。
「食い足りないね」
「はい、帰ったら、お茶漬けを作ります」
 玉川上水に架かる橋を渡り、別の雑木林に入る。川面に肥った鯉の背中が見える。林を抜けると五日市街道だった。緑陰の舗道を歩く。風を感じる。小金井公園と書かれた大きな木看板に到着した。公園の出口のようだ。
「歩いたね。引き返そう」
 もう一度公園内に戻ると、少し雨が落ちてきた。節子が私に傘を差しかけた。受け取って、差しかけてやる。
「私たち、あのころよく歩いたわ。牛巻病院から坂を登って降りて、熱田神宮まで」
「熱田神宮といえば、かならず節ちゃんを思い出す」
「私もキョウちゃんを思い出すの。知多にいるときもずっとそうだった。十五歳のキョウちゃんが十九歳になり、二十一歳の私が二十五歳になったのね。不思議」
 手をつないで歩く。小雨の中で夜のバーベキューを始めた家族がいる。四阿に蝋燭を灯して、弁当を食べている家族もいる。いろいろな種類の犬が走り回っている。シロはどうしているだろうか。しょんぼり寮の門に寝そべっているだろうか。
 駅に近づき、節子は法子のアパートの方角を見返った。
「法子さんが誘いにきてくれて、樹海荘に二度ほどいきました。ごはんをご馳走になったの。ほんとに親切な人。商売をしてると、こすからい打算的な気持ちになることが多いけれど、キョウちゃんに逢うたびにまっとうな心を回復できるって言ってました。九月の半ばから荻窪の店のママさんをするんですって。スカウトされたらしいわ」
「そう、よかった。でも、忙しくなるだろうな」
「しばらくは目が回るほどじゃないかしら。スタッフ集めから始めるようですから。……みんなでいっしょにお婆さんになって、お爺さんのキョウちゃんを見てみたい」
「せいぜい長生きするよ。節ちゃんもね」
「はい」
 アパートに戻り、モーツァルトのレクイエムを聴いたあと、一度交わった。それから二人で鮭茶漬けを食い、裸で抱き合いながら、朝まで熟睡した。


         百六十五

 九月四日水曜日。曇。朝七時、ダッフルを担ぎ、節子のアパートを出る。節子は武蔵境駅まで送ってきた。
 石手荘に帰り着き、すぐに下痢。虫の声のような耳鳴り。
 気温二十・二度。一キロのダンベルを両手に持ちランニングに出る。石手荘から天沼陸橋までの往復を、かなりスピードを上げて走る。ランニングの途中、駅の売店でビッグコミックという漫画月刊誌を買った。表紙に白土三平という名前が書いてあったからだ。空地で一連のトレーニングをすませ、ダンベルを素早くジャブのように突きながら五分ほどやる。全身に汗をかく。部屋に戻って、絞ったタオルで汗を拭い、下着を替え、机に向かった。
 ビッグコミックを読む。白土三平、手塚治虫、水木しげる、石森章太郎、さいとう・たかお。見どころなし。四国屋の女房から渡された茶封筒のことを思い出し、ブレザーのポケットを探った。二万四千円入っていた。
 詩織の下駄を履いて東大球場へ向かう。じっくり三時間の鍛練。克己に勧められて、バック走というものを本塁からライトポールまで五本やる。これまでのランニングとまったくちがう筋肉を使うことが気に入ったので、毎日のダッシュに繰りこむことにした。
「巨人軍がむかしから採り入れているランニング方法なんだよ」
「ふうん、知らなかった。とにかく何でもやってみないと」
 阿佐ヶ谷に出て、オデオン座で猿の惑星を観る。あまりにもくだらないので途中で出る。
 荻窪を乗り越し武蔵境まで帰路を延ばして、法子のアパートに寄った。店の仕込みやら打ち合わせやらで不在だと思っていたが、返事が聞こえた。
「いらっしゃい、神無月くん!」
「いなかったら、駅前でラーメンでも食って帰るつもりだった。どう? 仕事順調?」
「らく、らく。おそばやカツ丼を運ぶ仕事と変わらない。きょうは第四火曜で、月に一回の定休日だったの。先週の日曜日、おかあさんとお姉さんとよしえさんがお店に遊びにきて、うちに泊まってったのよ」
「四人で寝るのは狭かったろう」
「ここ、台所の下敷きを入れて十二畳もあるの。四人でゆったり寝れたわ。おかあさんたちすごくはしゃいじゃって、枕の投げっこなんかしたのよ。月曜の昼に、東京タワーに連れてってあげた。タワーのそばのボルガってお店で、みんなでロシア料理を食べた。おいしかったァ。そうそう、私、スカウトがきたの」
「聞いたよ、節子に」
「そう。郷間さんていうこのあたりの大地主さん。群の馴染みのお客さんで、ときどき人を連れて飲みにきてくれてたんだけど、吉祥寺や荻窪に何軒かお店を持ってるらしくて、荻窪南口のお店をまかせたいって言うの」
「何て言う店?」
「酔族館(すいぞくかん)というの。水じゃなくて、酔う。私の客あしらいの腕を買ったんですって。その店、赤字がつづいたから、最近閉じたらしくて。マネージャーとボーイ長にはひと月分の給料を出して待機させてるらしいんだけど、あとはぜんぶ首を切ったみたい。きのう見てきたわ。大きなお店。黒字にすれば、共同経営も考えるって」
「南口なら、ぼくのアパートから歩いても遠くないな。気が向いたら、飲みにいくよ。いつから?」
「十五日の日曜日から。しばらく二時、三時の早出(はやで)で忙しいけど、気にせずここに逢いにきてね。いずれ荻窪に越すつもり」
「わかった。カズちゃんたちにも連絡しといて」
「もう連絡したわ」
 収入もほぼ二倍になると言う。
「ようやく神無月くんにお小遣いあげられる」
「いらない。とんとん拍子できたね。まだ上京して半年だよ。将来自分の店をやるようになったら、こっちで商売するの?」
「神無月くんがこちらにいるかぎりそのつもり。お母さんが引退したら、ノラはお姉さんが継ぐでしょ。だからわざわざ名古屋にこだわることもないのよ。もし神無月くんが名古屋に戻ったら、私はお姉さんのお手伝いをするわ。少しお店を広げて」
「秋に中退すれば、来年のドラフトにかけられるんだけどね」
 ドラフト外交渉のことは言わなかった。この種の話をしてツーカーなのはカズちゃんと山口だけだ。
「神無月くんがいつまでも東京にいるなら、雇われママさんのままでいる。小さなお店ぐらいなら持ってもいいけど、いくら小さい店でも、失敗したら大勢の人に迷惑をかけることになるわ。こういう仕事の借金て並じゃないから。……神無月くんがうんと年とったら、私、掃除婦だって何だってするつもりでいるの。たぶん、たぶんだけど、ほかの女の人も私と同じ気持ちでいると思う」
 何も応えられない。ワカメと豆腐の味噌汁があったので、猫めしを作ってもらう。二膳食った。
「ああ、食った」
「こんなものしかなくて、ごめんね」
「ごちそうだよ。さ、歯を磨いて、蒲団に入るよ」
「ごめんなさい、私、きょうはアンネなの」
「ちょうどよかった。ぼくもクタクタだ」
「あしたは荻窪の酔族館まで三者面談にいかなくちゃいけないし」
「三者面談?」
「群の経営者のコモトさんと、酔族館の経営者の郷間さんと、私。郷間さんはコモトさんに引き抜き料を払わなくちゃいけないから、その契約をするわけ」
「金銭トレードだね」
「そう。それから郷間さんと私とマネージャーとボーイ長の四人で、お店のレイアウトやら、備品の仕入れやらを検討し合って、それから女の子の募集の案を練るの。さっそくあしたから新聞広告入れて募集をかけるわ。九日から十三日まで応募者の面接。十人くらい採るつもり」
「目の回る忙しさだ。がんばってね」
「いよいよ船出。いいお店にするわ」
「ああ、疲れた。このまま少し休んでくから、法子は勝手に出勤して。横になるだけで疲れが取れるんだ」
「私も横になる」
 法子はパンティ一枚の裸になる。蒲団を敷いて二人で入る。法子の大きな胸をわしづかむ。形にも淡いピンクの乳輪にも凛とした緊張感がある。弾力を確かめるように揉んでから、胸の谷間に頬を埋める。
「幸せだ。美しい女は頭の先から足の先まで美しい。……ぼくたち、あまり逢えないね。とつぜん訪ねてくる男とセックスして、いっとき悶えて、またすぐ別れる。空しくならない?」
 法子はかぎりなくやさしい顔になり、
「私の目的って何? 神無月くんと一生離れないことよ。どんなときも、神無月くんのことを忘れたことがないの。……たとえときどきでも、私と一生会えるって思ってみて。神無月くんも幸せでしょう?」
「幸せだ」
「ね? 私、このままでじゅうぶん幸せなの。心配しなくていいのよ」
 門前仲町の話をする。
「気持ちの悪い中学生。今度悪さされたら、そんなバイト辞めてね」
「うん。その場で辞めてくるよ。ひと月やれば、林の顔も立つ。きょうは泊まらないよ」
「もちろんそうして。忙しいからだだもの。
 雅江から電話があった話をする。
「わあ、ほんと! よかった!」
「菅野さんが守随くんの家に乗せてってくれたとき、雅江にも会って住所と電話番号を渡してきたんだ」
 法子は涙を流しながら、
「よかった、ほんとによかった。雅江さん、とうとう神無月くんに抱いてもらえるのね」
「半年先だ。彼女の度量の広さと忍耐強さは、外見を見ただけじゃ量れないものがある」
「でも、雅江さんは庇ってあげなきゃいけない人よ」
「ぼくは、だれも庇わない。ぼんやり見てるだけ。法子のさっきの掃除婦の話じゃないけど、おそらく雅江は、法子と同じ気持ちだよ。彼女は見返りを求めない。同情からいちばん遠い人間だ。同情だけが彼女を哀れにするんだ」
 法子は笑顔でうなずき、
「……そうよ、一人の女に同情して庇ってたりしてたら、神無月くん身動きとれなくなっちゃうもの。私たち、みんな同じ気持ちだってわかってるのに、雅江さんだけ特別扱いするのはおかしいわよね」
「うん。法子は古い友人だから、そう思うのも当然の気持ちだとわかるけど」
 夕方五時。着物を着た法子と武蔵境駅まで歩く。顔も着物もピカピカとあでやかなので、すれちがう人たちがみな振り返る。
「ママは貫禄がないと馬鹿にされるから。せいぜいきばらないと」
「ふだんから貫禄があるからだいじょうぶだよ」
 群の前の階段下で別れた。私はダッフルを担いで荻窪へ帰った。
         †
 九月五日木曜日。晴。十八・九度。草原の公園までのランニングを終え、本郷へ出かけようとすると、堤から電話が入った。堤だと名乗られるまでその存在さえ忘れていた。中野の飲み屋で知り合った早稲田の学生たちがおもしろいので会わせたいと言う。
「六大学のホームラン王に会わせるって約束してしまったんだ。頼む」
 面倒くさいと思ったが、あの時計台をもう一度見たいと思った。
「わかった」
「あした早稲田の正門、四時」
「いや、五時だな。三十分だけ。時間をむだにできないんだ、来週の土曜からリーグ戦だから」
「オッケー。マドンナたちは元気か」
「さあ、しばらく会ってない」
 はぐらかす。
「後期の体育、出るんだろ」
「出ない。出なくても福島さんは優をつけてくれるから」
 下駄箱から京都の下駄を出して履く。
 九時半。ブレザーと綿パンに下駄履きでグランドに入ると、ライトブルーのミニスカートを穿いた七、八人のバトンガールが、走りこみをしている選手たちを背に、ブルペンの前で、取ってつけたような笑顔を作りながらぎこちなく踊っている。バトンを回す手つきもどこかぎこちない。これで特訓したと言うのだから、バトンダンスというのはひどく難しいものなのだろう。左胸にTの字を染めたワイシャツに、膝までの白いプリーツスカート、靴は白いスニーカーだ。投球練習を見守っていた監督が、
「バトンクラブに大学の正式な認可が下りたよ。鈴木くんや上野くんたちが十五人の有志を集めてくれた。大した収穫だ」
「……へたですね」
「まあ、これからだな」
 容姿には自信ありげで、みな太地喜和子ふうの丸顔をし、肉付きもよく、すらりと脛が長い。
「きょうはベンチ入りメンバーだけの紅白戦だが、出るか」
「はい」
 コーチの兼や小原やマネージャーたちがぞろぞろやってくる。詩織が、
「高校の先輩に頼んだんです。体操部だった二つ上の先輩が、自分といっしょにやろうって体育の授業仲間に声をかけてくれて、六人集まりました。あとは黒屋さんと睦子さんが」
 睦子は内気そうに笑い、
「私はそれほど役には立ってません。同じクラスの子に声をかけたり、構内でチラシを配ったりしただけです。黒屋さんは桜蔭高校出身なので、かなり集められたみたいです」
「振り付けの型はだいたいでき上がりました。いろいろなバージョンはこれから考えていくそうです。黒屋さんの友だちで、青学でバトンをやっていた人に指導を受けるみたいです。短パンか膝丈スカート着用、ミニスカートは穿かないことにしました」
 鈴下監督が、
「観客の目の保養にはなるけど、選手の気が散るからね」
「青森で経験があります。気が散るというほどでもありませんでしたけど」
「それは金太郎さんだからだよ」
 黒屋が、
「リーグ戦初戦からパフォーマンスします。きょうの紅白戦は実戦のつもりで練習させてもらいます」
 十時。午前の授業がないレギュラーや補欠たちがやってきた。部室に入ってロッカーの前で着替えをする。ロッカーは五十もあるので、補欠たちも和やかな気分でレギュラーに混じって着替えることができる。私のロッカーの中に、アイロンがけしたユニフォームが一着、クリーニング屋のビニールをかぶせたものが一着用意してあった。グローブも念入りに磨いてある。
「野添くん、グローブありがとう」
 照れ笑いをする歯が白い。真っ黒に日焼けしているからだ。
「高級グローブなんで、磨き甲斐がありました」
 克己が、
「十一時から紅白戦をやる。七回まで。赤組の四番、神無月、白組の四番、横平。先発ピッチャーは、赤組有宮、白組台坂。そのほかは試合開始のときに知らせる」
 バットとグローブを手にベンチに入る。赤組は一塁側、白組は三塁側だ。グランドへ出る。ゆっくり塀沿いに二周。大桐が並びかけてくる。
「秋リーグ、野添に譲るべきだったかな」
「バッティングが不調の場合に考えればいいでしょう。克己さんと並んで、中介さんと大桐さんはチームの要ですから、がんばってください」
 当たり障りのないところを言う。
「有終の美を飾りたいからな」
「春からは一流企業ですか」
「旭化成だ。中介はマツダ自動車。あとは知らん。社会人野球に引っ張られたやつはいない。当然だけどな」


(次へ)