百八十七

 九回表。闘魂はの斉唱。ここも小笠原がマウンドに登った。速球がうなりはじめる。あっぱれなやつだ。ようやくバットに当てた克己はピッチャーゴロ。そろそろ水壁か臼山にマグレの一発が出てほしい。たしか水壁は三年生までに二本のホームランを打っていると聞いたし、臼山は春の立教戦で一本打っている。五対一。ここを三者凡退で終わってもたぶん勝てる。しかし締まりがない。 
 私はベンチから風を孕んだ灰色の空を見上げた。シャーという耳鳴り。忘れていた倦怠がとつぜん押し寄せてきた。霧雨が揺れている。耳鳴りだけの透きとおった無音の世界が訪れる。水壁が顔に雨を受けながらバッターボックスで立ち尽くしている。ベンチの岩田が、
「イグゼー!」
 と叫んだ。野添も、イグゼー! と呼応した。あしたの試合に起用されないことがわかっているような吹っ切れた叫びだった。カーンと音がして、水壁の打球が左中間に舞い上がった。鈴下が、
「ようし、いったァ!」
 と叫んで、ベンチ前へ跳び出した。レフトとセンターが懸命に走る。のめるようにグローブを突き出し合う。深々と抜けた。水壁はサードベースを窺う格好でセカンドでストップ。騒音の世界が回復し、たちまち倦怠が去っていく。ワンアウト二塁。臼山が柄杓の水を一杯飲み干した。
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 私は叫んだ。めずらしく私の大声を聞いたベンチ連中が、
「ヒャー!」
 と悲鳴を上げた。ベンチに笑顔が広まり、たちまち騒がしい空気になった。臼山がバッターボックスへ走っていく。バットの握りを股間でしごく。長く持ってブンブン素振りをする。テルヨシは顔をタオルで拭い、自軍ベンチの石井藤吉郎監督をチラリと見た。交代を求める表情ではなく、まかせておけという自信のそれだった。
 その表情のとおり、渾身の力で伸びのあるストレートを投げてきた。初球、ギュンと真ん中高目、空振り、二球目、同じく真ん中高目ファールチップ、たちまちツーナッシングになる。打てる。タイミングがピッタリ合っている。テルヨシは、変化球は必要なしと見て投げてこない。チーム全員アッパースイングの練習はじゅうぶん積んである。外、内、中、どこでも低目にさえくれば掬い上げられる。
 ―低目にこい!
 きた! ベースの外角低目を横切るストレートだ。踏みこんでハッシと掬い上げた。するどい角度でライトへ舞い上がる。
「いった!」
「いったァ!」
 谷沢が背走する。打球のほうが速い。追うのをあきらめた。最前列に白球が突き刺さった。力のホームランだ。バンザイをしながら臼山が一塁ベースを回る。全員ベンチ前に出てバンザイで迎える。仲間たちに背中や肩を叩かれながらベンチに飛びこんでくる。部長やコーチと握手する。詩織たちがおめでとうと口々に言う。磐崎が、
「びっくりしたあ! ライトでもあんなに飛ぶんだ」
 克己が満足げにうなずき、
「アッパーの練習が効いたな」
「おう! 二号ホームランだ。たぶんこれで四年間の打ち止めだろ」
 臼山が屈んで伸ばした頭に黒屋が柄杓で水をかけた。私は彼と握手して、
「まだまだいけますよ。立教戦や慶応戦が残ってます。あと二本はいくでしょう」
「がんばるよ。金太郎さんがそう言うなら打てるかもしれない」
 今度は柄杓で一杯あおった。テルヨシの外角低目のストレートは失投ではなかった。臼山の日ごろの鍛練が効いたのだ。七対一。
 マウンドからテルヨシが走って降り、小柄な左投手の小坂が、すまし顔で投球練習を始める。テルヨシは感化されていなかったが、早稲田の選手はだれもかれもプライドが高そうなツンとした表情をしている。胸を貸してやってるという顔だ。私が嫌いなものは、表情に現わすプライドと不機嫌だ。そういうツラをしたやつは叩き潰してやりたくなる。  
 鈴下監督は有宮を引っこめ、代打に副将中介を出した。きょうは二人の副将が控えに回っている。次の野添には大桐を出すだろう。中介も春季の立教戦でホームランを打っている。六点差では心細い。どんな反撃があるかわからない。一点でも多く取っておくに越したことはない。
 サイドスロー、百三十キロの小坂は打ちにくい。彼からはこれまで春のリーグ戦でヒット二本打ったきり、まだホームランを打ったことがない。不気味にコントロールがいいので、ブン回しはつけこまれる。太鼓、ブラバン、叫び、突き、踊り。うるさい。二時間以上も断続的につづくやかましい応援が目と耳につきはじめた。中日球場にこの騒音はなかった。観客は純粋に野球を楽しんでいた。早くプロへいきたい。
「ストライーク! バッター、アウー」
 主審のコールが聞こえた。八球も粘って三振した中介が走ってベンチに戻ってくる。柄杓で掬った氷水を二杯頭にかける。一打席で完全燃焼。タオルでゴシゴシやる頭に湯気が立っている。ツーアウト。鈴下監督が中介に、
「小坂はコントロールの鬼だからな」
「はい、遅いボールなのに、当たりません」
 大桐が野添の代打で出た。彼のヒットは三、四本見ているが、すべてポテンヒットだ。しかし、バットをしっかり振り切っているからこそポテンヒットになる。芯を食えば待望の一号ホームランが打てる。小坂はひょうひょうと外角低目でゼロツーにし、三球目も真ん中低目にひょうと投じた。凡打になるボールだ。大桐は振り切った。ボテボテのゴロがゆっくり三遊間を抜けていった。荒川がクローブを膝に叩きつけてくやしがっている。ひょっとしたら私に回ってくるかもしれない。足のある磐崎が初球を一、二塁間へバスターした。中村が猛ダッシュして飛びついたが、寝そべった格好からの一塁送球が大きく逸れて磐崎セーフ。大桐二塁へ。ツーアウト一、二塁。
「金太郎、回すぞォ!」
 横平がネクストバッターズサークルから飛び出ていく。ノッポの小さい顔をライトスタンドへ向ける。ホームランを打つつもりだ。打つなら初球だ。見逃せば小坂に投球を組み立てられる。横平も何が何でも初球を打つという顔をしている。小坂はそれを感じ取っている。彼がセットポジションに入った瞬間、横平はクローズドスタンスに構え直した。ライトを見つめていたのはフェイクだった。外角へ逃げていくカーブがきた。ボールだ。並行スタンスだと届かなかった。待ってましたとばかり踏みこんで思い切り叩いた。ドライブのかかった打球がライン目指して飛んでいく。芝生に水しぶきを上げてワンバウンドすると、ラインの外へ跳ね出た。大桐、右膝を畳み尻で滑って美しいホームイン。横平二塁へ足から滑りこむ。八対一。三塁側スタンドの観客が跳ね狂う。五打席目が回ってきた。マーチが月光仮面に切り替わる。バトンガールたちのあいだで応援団が激しく突きまくる。
「金太郎さん! 金太郎さん!」
「金太郎! 金太郎!」
「神無月ィ!」
「ホームラン、ホームラン、金太郎!」
 初球のことだけを考える。あの外角低目をホームランするには、ボックスのいちばん前に立ち……待てよ、横平をまねてクローズドスタンスで構えれば、同じ失敗を恐れて内角の膝もとに投げてくるはずだ。小坂に背番号が見えるくらいクローズドに構えた。意外にも、小坂は初球を外角の高目に大きく外してきた。バットが届かないところだ。その手は食わないぞというわけだ。四球とも遠く外して敬遠するのかもしれない。スタンスを戻した。すると今度は真ん中高目にキャッチャーがジャンプするくらい外した。スタンドに不満のどよめきが上がった。私を歩かせて、七点を返す可能性に賭けたのか。三球目も外角に遠く外した。月光仮面マーチが空しく響く。応援団が憤りにまかせて宙を突きまくっている。バトンガールたちの踊りも心なしか精彩なく見える。もうストライクはない。あきらめた。今シーズンは、どのチームとやってもこればかりになるかもしれない。四球目も外へ高く外した。一塁へ走り出す私の背中へ岩田の声が飛んできた。
「ふざけやがって!」
 岩田が怒りの打席に入った。
「岩田ァ、ここで打てば、これからの試合をぜんぶ譲ってやるぞ!」
 中介が口ラッパで怒鳴る。
「打ちまァす!」
 ベンチを振り返って怒鳴り返す。きょうの岩田はセンター前へいい当たりのヒットを一本打っている。一球目、外角低目へカーブ。ボール。腰を低くして見逃し。
「イーワータ!」
「イーワータ!」
 何点取ってもうれしい三塁側スタンドが、ねぶたのような乱痴気騒ぎになる。太鼓の連打、ブラバンの高揚、白手袋のきらめき。二球目、真ん中低目のカーブがナメたようにのんびり曲がってきた。岩田はここがぶん回しのしどころと心得て、それこそゴルフボールでも打つように掬い上げた。打った瞬間にホームランだった。一直線にレフトの頭上に伸びていき、スタンドの中段に突き刺さった。百六十五センチの岩田は小坂に人差し指を突き出しながら一塁を回る。二塁を回るときも三塁を回るときも同じ仕草をした。ベンチのみんながホームベースに突進して岩田を迎え入れ、包みこんだ。雨の粒がはっきり見えるようになったので、克己はわざと三振して切り上げた。十一対一。
 九回裏、小坂に長倉が代打で出て、ショートゴロ。荒川がこの日二本目のホームランを左中間へ打ちこんだ。目の覚めるような一直線のホームランだった。木下サードゴロ、阿野センターフライで試合終了。
「よし、一勝!」
 鈴下監督が叫ぶ。大歓声が波のように押し寄せる。フラッシュの嵐。整列して礼をし合い、三塁スタンド前へ走っていく。ほかの大学はやらないことだ。私は最低限の儀礼として好んでいる。応援団とスタンドに最敬礼。闘魂はの演奏と斉唱を聞く。シャッターの音がひっきりなしに聞こえる。山口と林が傘を上下に振って雨の中を帰っていく。応援団の激励のエールが終わると、私は列を離れてバックネット前に走っていき、村迫に帽子を取って頭を下げ、その帽子を振りながら女六人に笑顔を振舞った。みんなで跳びはねて手を振る。村迫が立ち上がりネットぎわまで降りてきて、
「すばらしかった、神無月くん。フォークを打ったヒットは神業でした。きみは日本の野球を変える人だ。万難を排してきみをドラゴンズに迎え入れるからね。いつも見守っていますよ。あとでもう一度ロッカールームに顔を出します」
 深く礼をして階段を上がっていった。入れちがいに女たちが階段を降りてくる。カズちゃんがネットに顔を寄せ、
「キョウちゃん、すごかったわ。ファーストフライも美しかった。小中学校時代に見られなかった姿を、いましっかり見せてもらってる。またあしたね、バイバイ」
 節子が、
「キョウちゃんのユニフォーム姿、いつもきれい。私の持ってるたった一枚の写真が動いてるの。信じられない」
 千佳子が、
「ほんとに、柔らかい機械が動いているみたいで、人間だって思うのがたいへんでした。ムッちゃん、毎日その姿を見られて幸せですね」
 素子が、
「喉が嗄(か)れたてまったわ。こんどからあんまり叫ばんようにするね。キョウちゃんがバット振ったり、守ったりする場所が、パーッと明るくなっとったよ」
 吉永先生が、
「節子さんといっしょにあしたもきます。野球映画を見てるようで、ほんとにすてきでした。さよなら」
 法子が、
「スカウトたちが一生懸命冷静なフリをしてるのがおかしかった。ごめんね、あしたはこれません。また午前開始の試合でね。がんばって」
 彼女たちが階段を戻っていくと、私は報道陣に取り囲まれた。春と同様、彼らを肩で押し分け、監督や仲間たちの待つベンチに戻る。いずれマスコミは拒絶には反感で応じるだろう。かまうことではない。愛想よくできる日だってあるのだ。心の流れのままだ。氷水を一杯飲み、もう一杯を頭にかけ、インタビューを受けている監督や選手たちを尻目に、そそくさとベンチ裏のロッカールームへ引き揚げた。
 村迫が二、三人の部下を引き連れて顔を出した。プロ球団の領袖の空気をただよわせた男の登場に、私は八坂荘のときよりも緊張した。
「マスコミ嫌いもあそこまで徹底してると、小気味いいですね。世俗を嫌う孤高の人間だということが、からだじゅうから滲み出ている。東大が優勝する勢いですから、神無月くんもすでに中退を念頭に置きはじめているでしょう。まだ嗅ぎつけている球団はありません。中退すれば、急遽来年のドラフトに備えて、各球団はパニックを起こすでしょう。ドラゴンズはすぐに自由交渉に動きます。あわてて自由交渉に乗り出すどの球団よりも高額の契約金を用意するつもりです」
 私は村迫の顔を見つめながら、あらたまって言った。
「お気遣いなく。どんな条件でもドラゴンズにいきますから」
「ありがとうございます。万全の態勢でお迎えします。自由交渉の時期は、あなたの動きを快く思わない球団が、金で揺さぶりをかけるような動きを見せるでしょう。あなたの希望を独りよがりに感じて、世間が騒ぐかもしれません。入団後のあなたと〈彼ら〉との衝突は、私どもが全力で緩衝材となるべく務めます」 
「ドラゴンズに交渉されないかぎり、プロにはいきません」
「胸に沁みるありがたいお言葉です。万難を排してあなたをわがチームに迎え入れる所存です」
 彼の連れの者たちが力強くうなずいた。集団の人声が聞こえてきたので、彼らは深く辞儀をして去った。


         百八十八

 選手やスタッフたちが野球道具を抱えて入ってきた。詩織が、
「みんなインタビューでたいへん」
「悪いね、ぼくが引き受けないから」
 睦子が、
「みなさんわかってるみたいで、何も言いません。でも、シーズンの戦局が煮詰まってきたら、なるべく受けてあげてくださいね」
「うん、なんとかね」
 仁部長が、
「神無月くんはそれでいいんだ。神秘的で、かえって東大野球部の名が高まる。大勝ちだったな。あしたは谷沢がカギになる。台坂、三井とつないで、村入で決める」
「台坂さんはスタミナがありますから、完投するかもしれませんね」
 その台坂や三井たちが、ボール籠を提げてやってきた。台坂が、
「那智と有宮は、監督や岩田といっしょにまだインタビューを受けてる。岩田のダメ押しの一発で、きょうは金太郎さんの影がかすんじゃったものな」
 克己が入ってきて、
「かすんでない。金太郎さんが怖くて仕方ないんだよ。あの点差で敬遠にはまいった。おかげで岩田が奮起したんだけどさ」
 三井が、
「これからも敬遠ばっかりになるぞ」
 監督たちといっしょに赤い顔で戻ってきた岩田が、
「俺にインタビューなんて、おかどちがいもいいとこですよ。決勝ホームランは金太郎さんのツーランですからね。みんな忘れてやがる。これからは、金太郎さんは早い打席で打つしかないから、打席数が半減したみたいなもんだ。大差がついたあとで、俺たちがのんびり打たせてもらうという寸法ですよ」
 鈴下監督が、
「金太郎効果だ。見たとおり、春よりずっとチーム力が上がってるんだよ。自分を信頼して、ドンドン打っていけ。あしたも頼んだぞ」
「ウース!」
         †
 バスの座席で顔に帽子を載せうとうとしながら、選手やスタッフたちの笑い声を夢見心地に聞いていると、隣の横平が話しかけてきた。
「金太郎さんが目指してるのは、野球であれ、何であれ、道草を食わずに突き進むことだろ。インタビューに応える時間はむだなんだよね」
 私は帽子をかぶり直し、
「時間のむだという功利的な気持ちじゃなく、好悪の問題なんです。春季もけっこうインタビューを受けましたが、マスコミが成功者を讃えるためにマイクを突き出してくるのがインタビューです。どうしても違和感がありました。青森高校時代もそうでした。たしかに、何かの成功がなかったら人生は生きるに足らないし、おもしろくないものかもしれません。でもぼくは、そんな意識から遠いところで生きてきたんです。少なくとも遠い生き方をすることに親しみがある。成功不成功で齷齪する生き方に嫌悪感がある。それだけのことなんです。きっと、ムダでも何でもして、少し窮屈に生きながら、最終的に目標に到達すればいいのかもしれない―。ただ致命的なことに、ぼくには目標がないんです。ぼんやりした希望があるとすれば、社会的な成功とはちがった、もっとささやかな、人間的成功とでもいったものです。……しかし、最近考えが変わりはじめました。そういう根本的なところはまったく変わりませんが、人間的成功の追求などと仰々しく考えずに、社会的な称賛は〈人から求められる幸福〉の証と思い直して、生きられるところまで生きてやろうという気になってきました。そういう生命欲を後ろ盾にして、どんな形でも、求められる喜びを追求していきたいと思ってるんです。野球もその一つです」
「俺には想像もつかない心境だなあ」
 後ろの席にいた臼山が、
「だれにも想像つかないよ。俺は金太郎さんが大好きなだけだ」
 隣の列にいた中介が、
「それで、楽しい野球……か。求められる喜び。理屈でやってきた野球で勝てずにイチャモンつけられてきたのが、楽しんでやる野球で勝ってイチャモンつけられない。求められる喜びだ。わかってきた。じつに愉快だ」
 臼山の隣にいた克己が、
「この先金太郎さんが野球を求められないなんてことは起こらないよ。ホームランは、野球を知らないやつも喜ばせるからな」
 前列で聞きつけた鈴下監督が、
「金太郎さんは、野球を求められなくなっても、生きていくうえで不自由はない。野球を失っても、それに代替する価値のある生き方を心得ているよ。しかし、いまのところは野球にかまけて、日本中の人びとを喜ばせてほしいな。マスコミにもてはやされるのもその一つだと思ってさ」
 私は、
「野球人生がギクシャクしないための対策として、これからはマスコミにも極力妥協するようにします。安心してください。やはり、しっぺ返しを喰らうのは野球生活の大きなダメージになりますから。きょうはすたこら逃げ出してしまってすみませんでした」
 仁部長が、
「ハハハ、いまのままでも、スカンを喰らうことはないと思うけどね。どうやったって神無月くんの神秘性は健在だから」
 レギュラー揃って部室で着替えながら、
「全試合、打って勝て!」
 という鈴下監督の短い檄をもらったあと、西樹助監督からあしたのスターティングメンバーの発表があった。中介と大桐が先発になった。
 部室裏の水道で、洗濯石鹸を使って新品の帽子の汗を落とした。睦子が小さなザルをどこからか探してきて、それに帽子をかぶせて私のロッカーにしまった。
「あしたには乾きます」
 まだ三時にならないので、控え選手と補欠が練習に散った。睦子と詩織も当然居残りになった。黒屋と白川は、応援団とバトンが練習する体育館へ去り、レギュラーたちのほとんどが授業か、図書館へ去っていった。私はダッフルを担ぎ、彼らより一足早く帰宅した。
 阿佐ヶ谷の銭湯に寄って頭を洗い、ありん堂で稲荷寿司と海苔巻と大福を買った。稲荷寿司と海苔巻をダッフルにしまい、大福を食いながらジョギングで荻窪へ帰る。三十分ほどかかって石手荘に着いた。すぐ下着を替えた。
 稲荷と海苔巻を食いながら、眠くなるまで『白痴』を読む。ムイシュキン公爵は性欲で動いてるような感じがしてならない。彼の不可解な動きの原因はリビドーだと考えなければ説明がつかない。性欲は不可解なものだからだ。トルストイやチェホフの諸作品にしても根底に深い性欲がある。ロシア文学、イコール、性欲、の短絡的な図式ができ上がりかける。しかし、考えたら、世界じゅうの文学がそうかもしれない。
         †
 九月十五日日曜日。曇。午前の気温二十一度。きょうも新しいユニフォームを着た。ベルトも新しくした。
 対早大第二戦。湿ったグランドに吹き渡る微風がすがすがしい。東大スタンドにブラバンとバトンガールの人員が心なしか増えている。ますますうるさくなった。観客は野球そのものに感激せずに、自分を含めた応援の光景に酔い痴れる。詮ないことだ。個人に備わった技芸ごときで万人を喜ばせることはできない。私のバッティングや、守備や、走塁に心打たれる人たちにしか私の技芸は伝わらない。
 きょうもカズちゃんたちがきている。野球の愛好家たち。一人ひとりが色とりどりの花になってスタンドで光り輝く。午後一時試合開始なので、法子の姿はない。
 山口がきのうの席にいる。林はいない。両チームの応援団の静かなパフォーマンスがつづく。東大は青袖に白ワンピースのバトンガールが演台で三人踊っている。演台の下のスタンドにも七、八人、短パンの腰に白手袋を当てて立っている。中介が、
「金太郎さん、テスト。バッテリー間距離は?」
「十八メートル五十センチ」
「ベース間は?」
「二十七メートル五十センチ。ホームからセカンドまではバッテリー間の二倍の三十七メートル、ダイヤモンド一周は百十メートル。ちなみに、キャッチボールの目安は四十メートル、遠投の目安は七十メートルです」
 十一時半。早稲田がバッティング練習を終えた。東大チームが三十分のバッティング練習に入る。氷水を一杯飲み、監督、助監督、助手、マネージャーたちに礼をして、グランドへ出る。足音を高めよの演奏が流れる中、有宮と水壁がブルペンでまじめにキャッチボールを始める。克己や臼山たちが塀沿いにランニングに出る。有宮が、
「金太郎さん、きょうはフリーやるの?」
「はい。外野を抜く長打の練習をします」
「じゃ、俺投げるよ。ホームランも見せてよ。あの一直線、みんなの起爆剤だからさ。勝てるって気になるんだよね」
「わかりました」
 ベンチから鈴下監督の声が飛んでくる。
「景気づけだ、金太郎さん、きょうのフリーはバンバンいけ!」
 五本打つ。右中間のホームラン二本、左中間のホームラン一本、センターライナー一本、センターオーバーのホームラン一本。観客が沸きどおしになる。
「よーし、レギュラー、どんどんいけ!」
 ケージが片づけられ、十二時十分から早稲田の守備練習。十二時二十分終了。すぐさま東大の守備練習。レフトへダッシュする。外野ノックは三本ずつ。バックホームのみ。内野の守備練習のあいだ、センター先発の中介と守備位置を隔ててキャッチボール。肩が軽く感じる。手首を利かせて投げる。低いボールが気持ちよく伸びる。キャッチボールに横平が混じってくる。十投ほどでやめ、三種の神器に入る。中介と横平も腹筋背筋を始める。ベンチのスタッフたちが笑っている。
 早大スタンドの観客が肩組み合って左右に揺れる。早大校歌が聞こえてくる。
         †
 台坂が四点を取られたものの、第二戦も八対四で連勝した。私は四打数二安打、二ホームラン。アンダースローの大木を打ちこんだ東大チームは計八安打。八点の内訳は、私の一回の二号スリーランと六回の三号ツーラン、克己の七回のソロ、八回の横平の二点適時打だった。大木は完投だった。
 早稲田の四点は、荒川と谷沢のツーランだった。台坂は持ち前のスタミナと、丁寧にコースをついた投球でラクに完投した。二本のホームランを含めて、ヒットを五本しか許さなかった。
 打って勝ったとはとても言えない内容だったが、とにかく勝ち点一を挙げた。試合時間は一時間五十分。エール交換のあと報道陣に揉みくちゃにされて、てんやわんやになったが、どうにか愛想よく受け答えをした。質問の内容はすぐに忘れてしまった。愛想を使ったせいでグッタリ疲れた。
 帰りのバスで詩織が、
「帽子、なんとかきれいになるそうです。来週二つの帽子を受け取ります」
 監督が、
「勝ち点一が夢だった時代がついに終わった……」
 磐崎が、
「それは春季に終わってますよ。秋季は数段グレードが上の夢に入りこみましたね。夢街道驀進」
 横平が、
「夢に浸って素直に野球を楽しんでれば、まちがいなく驀進はできるけど、いつかそれが途切れるときがくると思うと怖いよなあ。横を見たら金太郎さんがいないなんてね。そういう悪夢、俺、何度か見たよ」
 克己が、
「あとひと月半、猛烈な鍛錬をしながら、金太郎さんの背中を見失わないようにしないとな。浮かれないで、街道を一歩一歩大事に進もう」
 大桐が、
「俺たち四年生はいい思い出ができた。来年からの選手がたいへんだ。よほど猛特訓しないとな。……金太郎さんはいないんだから。それこそ悪夢が正夢になる。いや、ただの現実に戻るだけか」
 克己が、
「大桐、そんな無責任なこと言うなよ。たとえ今年かぎりの夢だとしても、一年生から四年生まで全員いっしょに見てる夢なんだ。監督、助監督、コーチ、助手、マネージャー、全員いっしょにな。俺たち四年生は金太郎さんの背中を学んで、自分の背中を作った。後輩たちだって作ったはずだ。彼らはその背中をさらに後輩たちに見せて学ばせる大きな責任があるんだ」
 岩田が、
「背中というのは、つまり、野球精神と身体能力のことですね」
「まあそうだな。野球の感じ方と、鍛練可能な身体能力。才能はコピーできないけど、感じ方は修得できる。それは野球だけにかぎらない。これから俺たちが生きていくための心的態度だ」
 鈴下監督が、
「キャプテン、そのとおりだよ。私どもスタッフも同じだ。ガッシリと鍛練した背中を作って選手たちに模範を示し、四年に一度はAクラスに残れるようなチーム作りをしないとね。全身全霊をこめて野球をやってくれてる金太郎さんに申しわけがない。ところで金太郎さん、日が短くなってきたから、あの眼鏡、ときどき使わなくちゃいけないかもしれないね」
「そう思います。優勝がかかってますから」
「オォー! 優勝!」
 初めて思い当たったように車内がどよめいた。


         百八十九

 カズちゃんと素子がお揃いのジーパンを穿いて、白いブラウスの上に灰色のセーターを着ていた。二人で居間のテーブルに向き合って読書していた。カズちゃんとトモヨさんほどではないが、ほんとうの姉妹のように見える。
「あ、キョウちゃん、お帰りなさい。夕食の下ごしらえはしてあるから、少しゆっくりしてて。きょうはおめでとう。春と同じペースでホームランを打てそうね」
「うん。研究されるだろうから、失投狙いが多くなるだろうけどね」
「雨降らんでよかったわ」
「うん。何より二試合で終わったのがうれしい」
 ダッフルから汚れたユニフォームを二着出す。法政戦に着るためのユニフォームだ。カズちゃんに預ける。いつも一着はクリーニングに出し、一着は洗濯してアイロンがけしてくれる。もう一着は詩織の分担だ。法政戦初戦は、ロッカーに残っているその一着を着る。
「アイロンかけたやつは、水曜日の午前に受け取りにくる。もう一着は、土曜日の試合後に」
「オッケー」
「千佳子は?」
「睦子さんのアパートに泊まりにいったわ。私たちに気を使ってくれたのね。ごはんの前にお風呂どうぞ」
「したあとにする」
 カズちゃんが本をパタリと閉じ、
「うれしい。素ちゃん、お蒲団! お先にどうぞ」
「きょうは二人とも出せる日やよ。する前に洗ってくるわ」
「そのままでいいの。キョウちゃんが喜ぶから」
「ほうやね。お風呂のあと、ごはん食べて、夜食にトンペイ焼き食べにいこ。あそこ二時までやっとるから」
「また?」
 私は苦笑いしながら、
「薄っぺらい生地の上に、豚肉と玉子を載せてるだけだろ?」
「癖になってまった。さっぱりしてて、おいしいんよ」
 カズちゃんが風呂に湯を埋めているあいだに、素子と二人で彼女の部屋にいき、大切に交わった。素子は痙攣が止むと、名残惜しげに私から離れ、荒い息遣いで私の隣に横たわり、豊満な裸体をぴったり寄せる。私は素子の腰のくびれに手を置きながら、口づけをした。
「長くできるようになったね」
「でも、一分もたん。もっともっと鍛えるわ。途中でやめさせてごめんね。じゃ、今度はキョウちゃん出して」
 彼女が上になって合体するのを待つ。素子は合体してしばらく動けそうもないので、私が動く。すぐに高潮にさらわれ、尋常でない悶え声を上げてのたうち、飛びのいて離れる。
 丸くなって震えながら、
「あかん、キョウちゃん、お姉さんとタッチ、ちゃんと出してね。ほんとにごめんね」
 カズちゃんの寝室へいく。すでに全裸になっていたカズちゃんは、安心して私の唇を吸いながら、射精を受け、心ゆくまでアクメを重ねる。やがてゆっくり離れ、痙攣が治まるまでのあいだ、長いキスをする。安らぐ。
「さ、お風呂よ」
 起き上がり、素子を誘って風呂へいく。全身にシャボンを立てて流してから、いっしょに湯船に浸かる。二人の紅潮した顔が、えも言われぬほど美しい。二人の胸を吸い、唇を吸う。
 部屋に戻り、枕を並べて川の字になって、ようやく憩いのときがやってくる。口づけをする。女との交わりの興奮が鎮まった脳が、思い出の髄液を回復する。思い出の点がごく自然につながって、なだらかにきょうまでの直線になって流れる。その線上に愛くるしい年上の女たちがいるということに、素直にうなずくことができる。思い出―いまこの瞬間に存在する人びとへの好意となつかしさが、思い出から派生しているとしたら、文明を変革する発明や、残虐な戦いや、真善美の哲学の長い歴史は、個々の好意となつかしさの思い出を捨てて行なう大業ということになる。それは私の人生の埒外にある。思い出にかかずらう人間は大業を成せない。それが私の幸福だ。私を動かす重要な動機は、人間の魂の緊密な結びつきや親和の不思議を解明しようとする好奇心だ。私は文明や文化に参加しない。
 小さいころから聴きつづけてきた音楽の話を始める。クマさんの話をする。私は同じ話しかしない。飯場が、狭い部屋が、人びとの顔が、甦ってくる。カズちゃんはなつかしそうに表情をゆるめ、素子は興味津々の瞳を輝かせる。
「熊沢さん、元気かしら。お子さんは、もう小学生でしょうね」
「あんな人たちがいたことが、信じられない」
「ほんとね。いつか会えるといいわね」
「うちも会いたい。大将さんに会えたから、今度はクマさんに」
 思い出がしつこくめぐってくる。
 ―荒田さんの鶏の丸焼き、キンタマ兄弟、犬取りにやられたシロが帰ってきたときのみんなの感激……。
「シロはまだ、おふくろの飛島寮でよぼよぼ生きてる。犬取りにやられたときは、生きた心地がしなかった」
「ときどき、シロにくっついて、千年小学校まで散歩にいったのよ。キョウちゃんが校庭で遊んでるのが見られるかもしれないと思って。でも、一度も見かけたことがなかった。悲しかった」
「―ありがとう」
「そこまで惚れられると、男冥利に尽きるね」
「うん」
 素子はチョンと私の額を押した。
「あたしもお姉さんと同じくらい惚れとるからね」
「ありがとう」
「お姉さん、きょうはキョウちゃんと眠くなるまで思い出話して。うち、イキすぎてまって、からだだるいから、ごはん食べたらすぐ寝る。トンペイ焼き、今度にしよ」
「うん。私もストンと寝ちゃうと思う。さあ、私たちはごはんの用意しましょう。キョウちゃんはパジャマを着なさい」
 大根と豆腐の炒め物がおいしい。ワラビのおひたし。イカとワケギのぬた。大アサリの味噌汁。めしが進む。
「次の対戦相手はどこ?」
「法政。二十一日、十一時試合開始。最大の強敵だ」
 素子が、
「野球って、一人じゃ勝てんのやねえ」
「どんなこともそうよ」
「ほうやねえ」
「バッター一人に投手一人が直接的な勝負をする。ピッチャーに味方する大勢の守備者がバッターの妨害をする。ピッチャーがだれの力も借りずに勝つのは、三振を取ったときだけだね」
「じゃ、最初から最後まで一人っきりで戦っとるのはバッターだけやね」
「そう。だからバッターに悲壮感が出る。ピッチャーも、次々とバッターに負けたり、味方に助けてもらえなかったりすると悲壮感が出るけど、バッターにはもともと味方がいないからね。絶対的な悲壮感だ。すばらしい」
 食事を終え、後片づけがすむと、コーヒーになる。素子が、
「悲壮って、どういう意味?」
「ファイトがあって勇ましいけど、悲しいことが起こりそうな感じ」
「バッターって、悲壮なん?」
「あまりにも孤独すぎる。ホームランだけが希望だ」
 カズちゃんが手を握り、素子がテーブルの向かいから立ってきて肩を抱いた。私のあごを引き寄せてキスをする。
「お休み、キョウちゃん。お姉さんお休みなさい。歯磨いて、きょうは千佳ちゃんの部屋で寝るわ」
「お休みなさい」
 素子は廊下へ出ていった。しばらく洗面所の水音がしていたが、やがて聞こえなくなった。カズちゃんと歯を磨きにいく。全裸になって蒲団に入ると、すぐ口が塞がれる。長いキスのあとでカズちゃんが言った。
「毎日、きょうが夢でないことを祈ってるの」
「ぼくも。夢だとしても、ぼくたちが生きてるかぎり夢は覚めないよ。ヤンキーだったころの話、してくれる?」
 カズちゃんは私の胸に手を置き、
「高校二、三年のころかな……。馬鹿みたいだった。ただ、親の家業に逆らいたかっただけのことだから馬鹿みたいなのもあたりまえよね。道徳的な嫌悪感なんて、いちばん下劣な感情よ。付き合った男たちも馬鹿みたいだった。頭はカラッポ、性欲もりもり、そのくせ常識的。オートバイの後ろに乗っても、車に乗っても、セックスしても、何も楽しくなかった。家に戻って机に向かうときが、いちばんホッとするときだったわ。キョウちゃんが思ってるほど、格好いい時代じゃなかったのよ。ただそういう時代をすごしたから、キョウちゃんのことがよく理解できたってことは言えるけど」
「よくセックスしたの?」
「妬いてくれてるのね。でも、セックスって言うと、気になるかもしれないけど、ほかのメンバーの女の子みたいに乱れてなかったのよ。中絶もしてないし、性病にも罹ったこともないの。何人もって思うでしょ? 亭主も入れて、たった二人よ。合わせて十回もしてないの。キョウちゃんとした数に比べたら、ゼロみたいなもの。安心して。何度も言うけど、私を女にしたのは、キョウちゃんよ」
 年下の男の顔をやさしい眼差しで未来を測るように見つめる。ひさしく愛しつづけた末に、ふとした不幸の突発から別れなければならなくなるとでもいうように。測られることで、心の中で何かが毀(こわ)れる。
 ―ぼくの未来を測る必要はないよ。カズちゃんが生きているかぎり、ぼくは生きるからね。カズちゃんを愛していることをちゃんと告げられる言葉があったら、どんなに長くてもしゃべりつづけるよ。そしてカズちゃんが生きているかぎり、カズちゃんの都合のままに生きるからね。それはすべてぼくの意思なんだ。
「死ぬほど愛してるよ、カズちゃん」
「私も!」
         †
 九月十六日月曜日。曇。朝カズちゃんたちといっしょにジャージ姿の手ぶらで出て、荻窪に帰る。
 アーケードの下駄屋で、白鼻緒をすげ替えてもらう。青梅街道を隔てた下駄屋の向かいの細道を入り、映画館が建てこんでいる区域へいく。荻窪オデオン座のスナップショットを見る。吹けば飛ぶよな男だが。なべおさみや緑魔子ではなく、有島一郎が見たくて入る。
 はぐれ者は喜劇的人物に包摂される。喜劇はあがきの一形態である―そう思いながらうなずく。有島一郎は堅物のインテリ先生役で、やはりいい味を出していた。チンピラを諭した彼が、一方でトルコ風呂にかよう場面はなぜか目にきた。この映画を撮った山田洋次という監督の心情はまじめでない。終局、センチメンタリティが庶民を救うと考えている。痛切な愛情の成就、あるいはその希望こそ救済だ。ユーモアは真剣な人生におのずと滲み出るもので、創り出すものではない。
 石手荘に戻り、バットを持ち、運動靴に履き替えてランニングに出る。
 鑑賞ということをやめようかと思って走る。愛を感じたことのない他人がものした書物、映画、音楽……。自分で何も創り出せない人間が、他人の創り出したものに興味を持って時間を費やす……私の時間は? それほど無意義なのか。愛する人間のものした人生や作品の鑑賞に時間を費やすならわかる。そこへ没入することは無意義ではない。大いに意味のある幸福だ。
 草原の公園で素振り。三種の神器。五十メートルダッシュ、往復三本。どうしてこんなに野球が好きなのだろう。苦しいほどだ。
 ―それでも私は他人の作品の鑑賞をやめないだろう。
 神経のふるえ。自己達成だけでは神経がふるえない。自分には感銘できないが、愛があろうとなかろうと、他人には感銘できる。愛する他人のほかに、アカの他人が必要だ。きっと人間の神経はそういう仕組みにできているにちがいない。
 石手荘の部屋に戻ってからだじゅうの汗を拭き、自転車でふらりと出た。昼を過ぎているが、腹はへっていない。荻窪駅南口の酔族館を見にいく。細道をくねくね走って、線路半ばのガードをくぐり、南側に出てようやく南口仲通りの角地に酔族館を発見する。背高のテナントビルの一階、青いネオン看板で〈酔族館〉とある。一階の店舗なので表から幅広のタイル階段を上って入れるようになっている。階段の上がり框がすぐ玄関ドアで、酒場としては最高の立地条件だ。これまで客足がふるわなかったのは、おそらく豪華な店構えと、高級ぶった営業方針のせいだろう。
 自転車を牽いて仲通りを歩く。武蔵境の商店街と似て、あらゆる種類の店が揃っている。
 肉屋でコロッケを二つ買い、齧りながら商店街の外れまで歩く。クリーニング店や私塾が多くなる。善福寺川に架かる橋に出た。忍川上橋と彫られている。左折して、川沿いの狭い舗道をいく。民家から川にせり出している大木に行く手を阻まれたが、すぐ脇に迂回路があったので無事通過。人通りが少ないので自転車に乗る。適当に右に曲がり左に曲がりしているうちに、角川書店創業者の角川源義(げんよし)の邸宅前に出る。思うところなく、なだらかな坂を登り、くだる。樹木に囲まれた豪壮な邸宅が多い。昭和の初期、荻窪は文化人の別荘地だったと聞いたことがある。黄土色の壁面に逆並びの文字で西郊ロッヂングと記された、奇妙な形をした洋館を過ぎると、明治天皇荻窪小休所と石柱に突き当たった。周囲は緑の繁みだ。大きな長屋門が見える。なぜ明治天皇がここを通りかかり、なぜこの建物に休憩のために立ち寄ったかはわからない。
 しばらく自転車を走らせていると、もとの仲通りに交わった。金寿司という老舗らしい鮨屋に入る。静かな店内。客は三組。老いた店主と初々しい若弟子一人。特上寿司にぎり千六百円、てんぷら盛り合わせ千二百円を食う。美味。
 隣の小さな靴店で運動靴を買う。散歩終了。人通りの少ないほうへ折れて荻窪駅を目指す。すぐに出る。列車が行き交うのを眺めながら帰る。

        百九十
 
 九月十七日火曜日。五時起床。気温十九・七度。終日曇。きょうも荻窪にいる。机の奥まった隅から、

 名古屋市熱田区神戸町×丁目×番地・鶴田荘二○三号室・北村和子

 という、カズちゃんの手書きのメモが出てきた。私の護り札。私は生涯、このメモとともに生きていく。睦子のプレゼントのダンヒルの財布にしまった。
 男と女とは何だろう。私が〈愛〉と言うとき、私はどういうつもりで言っているのだろう。そして、カズちゃんも―。私には、もう馴れ染めのころの甘い明るさや、顔を見つめ合うだけで高揚するような翳りのない喜びに浸る純真さはないし、玩具のような形見の品に安易な幸福を見出す幼さもない。しかし、この生なましい慣用語は、その知ったような大人ぶりを粉々にする。
 私には、静かな外観からは推し量れない強い葛藤がある。私は毎日、自分の性格とかけ離れたいまの生活から脱出したいと願っている。しかし、その具体的な方策を思いつくことができない。この場所から物理的に逃げ去ることは簡単だけれども、実行はできない。カズちゃんをはじめとする女たちにも、野球にも、机にも未練があるから。未練がある以上すべての葛藤に甘んじなければならない。
 カズちゃんを思い出すたびに、自分の未来は一つしかないと決意する。でも、彼女を縛りつけている深いこだわりからは解放してやらなければと思っている。野球が、彼女以外の女たちが、母の鷹の目が、自分の将来のおぼつかなさが、カズちゃんとの人生の幸福に要らない要素として混ざってくるのが恐ろしい。恐怖の中で彼女を縛りつけることは許されない。そう思うとすべてが面倒になり、倦怠が忍び寄ってくる。
 倦怠は渇望の結果だ。渇望していたものがときおり訪れる。それは華やいだ幸福ではなく、カズちゃんとともに味わう沈滞した悲しみと苦しみだ。しかし、自分の心に、カズちゃんの苦悩や悲哀を移して味わうことなどできない。私の悲しさや苦しさの物差しは、私の中にだけある。おそらくカズちゃんの中にもある。彼女の絶え間ない上機嫌は、何もかも感づいてすべてを吹っ切ったような、屈折したものなのかもしれない。彼女はきっと心の底に拭い切れない恐怖を抱えて、私よりずっと苦しんでいるにちがいない。それが、からだの悦びが退いたあとで私を見つめる眼差しに表れる。
 五時半を回り、ジャージに着替えてランニングに出る。青梅街道をひた走る。フラッシュが光った。走りながら見回してもカメラマンの姿はない。天沼陸橋から引き返して、ウォーキングに切り替える。人工の光で明るみはじめたアーケード街を歩く。汗が冷たく蒸発していく。
 裏の空地でバットを振る。からだに染みついた完璧なタイミングで立てていたバットを寝かせ、ほんの一瞬遅らせて外角高目へ振り出す。またフラッシュが光った。薄明かりの奥に人影が動く。呼びかけた。
「グランドの外でお話しすることは何もありません。自主練習は撮ってくれてもけっこうですが、頻繁なのは迷惑です。インタビューも勘弁してください」
 遠慮なく光るフラッシュの中で、内角低目の片手振りを、右手、左手、それぞれ二十本ずつ。真ん中高目のかぶせ振りを五十本。外角低目の押し打ちを五十本。腹筋、背筋、三十回ずつ。腕立て伏せ五十回。アパートの住人が何人か出てきている。
「お騒がせしてすみません。今後は早朝のトレーニングを避けますから」
 私はさっさと部屋に戻り、びっしょり濡れた下着を取り替え、新しいジャージを着る。表で記者たちが何ごとか声高にしゃべりながら去っていく気配がした。
 小さな音でフォーシーズンズの悲しきクラウンを聴く。ニキビ面のタケオさん。淡い緑色の蚊帳。浅野の古机。ステレオを切って、机に向かう。小説という形を意識した文章を書きだそうとする。しかし、どう書いていいのかわからない。だれかに呼びかけたい。だれに? 生きてきた道の途中で出会ったすべての人びとに。そんなことができるはずがない。根気よく、一人ずつ、心に残る人びとに呼びかけていくしかない。
 ―冬の斜めの光。父と母。わけても架空の母。
 頭に血が足りなくなり、眠気に襲われる。ジャージを着たまま蒲団にもぐる。
 十時に起き出す。下痢。歯磨き。ふたたびランニングに出る。フラッシュは光らない。途中で気紛れに入ったレストランで、ミートソースとコーヒー。ランニングから戻り、しっかりとした素振りを百八十本。四面道の交差点までのアスファルト道を百メートルダッシュ三本。片手腕立て右二十本、左十本。腹筋背筋三十回ずつ。やりすぎないこと。
 机に向かい、エロと言うよりもグロな『サテュリコン』を読むのに飽きて、放棄する。人はだれしも、心の底まで食い尽くさずにはおかない道楽というものを持っている。この二千年前の小説のテーマでは、それがまさに性欲と食欲だったというだけのことだ。
 ぼんやり〈小説〉の書き方を考えていると、電話が鳴った。守随くんだった。一時に新宿で会いたいと言う。いやな予感がした。会いたくないと言えばそれですむことだけれども、天地がひっくり返っても私にはそういう角立ったことが言えない。了承する。とにかく不吉な予感を振り払うために机に向かう。小説のことはいったんあきらめ、読みさしていた白痴を読み切る。キメが悪い。尻すぼみ。ストーリーをキメることは難しい。
 十一時を過ぎてから傘を持って出かけていく。秋の風が立って、道をいくからだが軽い。湿った風に雨の気配が濃い。新宿駅の東口を出て人波の中へ入りこんだとき、スタンザが閃いた。

  緊急だと思われるものより
  知り尽くせないものへ―


 強い雨が落ちはじめた。傘を差す。紀伊国屋前にポロシャツ姿の守随くんが柳のように立っていた。ひと月前よりは表情が柔らかくなっている。開口一番、
「サロン喫茶へいこまい。歌舞伎町の王城みたいな同伴喫茶はあかん。女といっしょでないと入れてくれんで」
 意味がよくわからないままついていった。守隋くんの髪が小粒な雨に濡れる。傘を差しかけてやる。
「本屋の前でナンパしとったけど、ぜんぜんつかまらんかった」
 パチンコ屋やキャバレーのひしめく裏通りを歩く。裏通りのくせにひどく広い。顔に雨のしずくがかかる。くすんだ陽射しの下の黒い扉を押した。薄暗い店内のカウンターだけ明るい。私たちが坐るとすぐに両脇に女がついた。膝をさすってくるので手の甲を叩いた。
「あら、お堅いのね」
 二十秒もしないうちに、妙に静かな男が、粘土のようにいがらっぽい味のコーヒーを出した。インスタントにしてもまずすぎる。私たちの脇を固めた女が、ビールをもらってもいいかと尋く。
 ―喫茶店でビール?
 守随くんは、どうぞ、と答える。馬鹿か。女たちは男のついだぬるそうに泡立ったビールをちびちびやった。それきり黙っている。守随くんもしゃべり出さない。何ごとも起こらない。いらいらする。守隋くんの本音が出る。女の一人に言った。
「触らせるか、脱ぐか、せんの。ここはそういう店じゃないの」
 カウンターの男が少し身動きした。危険だ。
「こうやってサービスするのよ。コーヒーがおいしいでしょう」
「出よう」
 私が立つと守随くんも立った。一人四千円も取られた。私が払った。守随くんは扉を出て、ぼんやり雨空を眺めた。無性に腹が立ってきた。こいつは女に慣れていないだけのスケベ男だ。蹴飛ばしてやりたくなった。
「仕事を辞めてからは何もしてないの?」
「しとらん。パチンコのプロを目指しとる」
 この場からすぐ帰ろうか。ストリップ小屋の女にアタックするのではなかったのか。気配を察して守随くんはすがるように、
「しゃぶしゃぶ、知っとる?」
「知らない」
「いま流行っとるんだが。肉を湯にさっと通して、ゴマだれで食うんよ。いこまい」
「いくらぐらい?」
「一人、一万円」
「馬鹿らしい。そんな金ないよ」
 金はいくらでもあった。ただこの男に饗応したくなかった。
「ぼくがおごるわ」
 彼はきょろきょろ捜し歩いて、ようやくそれらしい店を発見し、物慣れないふうにドアを押した。広い座敷にけっこうな人数がいる。子連れが多い。人は流行りのものにはかならず親子で参加する。薄い豚肉の切り身が二皿、ゴマだれが小皿に少々、銅鍋に沸かした湯、それだけが出てきた。野菜すらついていない。守随くんは切り身を一枚湯に泳がせてから、ゴマだれにつけて食った。箸が止まった。私もやってみた。まずい。いや、味が判断できる代物ではない。食い物ではない。ベッと吐き出した。私は箸を置き、
「守随くん、千年小学校のころのきみは怠け者じゃなかったし、迷信深くもなかった。流行は迷信だよ。いまのきみはどう見ても思慮に欠けるし、迷信にまみれてる。むかしのきみに戻ってくれないか」
「むかしもいまも、俺はくだらん男だが」
「きょうぼくに会おうとした目的は何?」
「別に」
 私は腰を上げた。
「帰るよ」
「ぼくもいくわ」
 レジで守随くんは二万円払った。噛んで吐き捨てただけの肉に、理不尽な大金だ。この金はきっと、彼の生活に響く貴重な金にちがいない。
「守随くん、この金とっといて」
 二万円渡した。
「もらっとくわ。あの女たちからもらった金やろ」
「そう。惜しい金じゃない」
 表の通りはまだ陽が高い。その強い光の下で彼の顔が薄汚く見えた。
 ―いったいこの男は、何を目標に生きているのだろう。何が楽しくて、こうして生き永らえているのだろう。早くに挫折を経験した人間は、挫折の中に安住してしまうということなのだろうか。
 さよなら、と手を振る私に、守随くんは、
「またね」
 と手を振り返した。これきり、二度と会わないだろうと確信できた。パチンコ屋で再会してひと月しか経っていなかった。
 帰りにフジに寄ると、マスターが太鼓腹を突き出し、
「スパイク、もう少し待ってね。スポーツ屋のオヤジが海外の手続に慣れてなくて、うまく取り寄せられなかったみたいなんだよ。今度はしっかり連絡ついたって。ユニフォームは、親戚にクリーニング屋がいるから、ちゃんと今週中に仕上げてもらって北村さんに渡しとく。がんばってね、店のみんなが応援してるからね。また三冠王獲ってよ」
 と笑う。剃りたてのヒゲ、半白の髪、落ち着いた眼差し。信頼できる顔だ。
「そのつもりです」
 早稲田戦は九打数五安打三ホームランだった。いいペースだ。きりっとした制服姿のカズちゃんがココアをご馳走してくれた。
「あしたもみんなで応援にいくけど、スタンドを気にしちゃだめよ。しょっちゅうこっちに手を振るんだから。プレーに集中してね」
 カズちゃんはそっとレジの下から色紙を差し出した。
「マスターの息子さんがほしいんですって」
「お安い御用」
 書きあげたへたくそなサインを、マスターは両手で賞状を受け取るような格好でおしいただいた。カウンターの金城くんがクスクス笑った。私が見つめると金城くんは真っ赤になった。
「キョウちゃんの大ファンなのよ。いつも握手してほしいって言ってるくせに、いざキョウちゃんがくると何も言えなくなるの。握手してあげて」
 カウンターに近づいて手を差し出すと、マスター以上に頭を深く下げて、軽く握った。また真っ赤になった。
「もう、女の子みたいなんだから。どうだった? キョウちゃんの手」
「硬くて、がっしりしてました。ありがとうございました」
 二、三人の客が立ってきて、俺も俺もと握手した。
「硬え!」
「マメだらけだ!」
 私はボックスに戻ってマスターに、
「荻窪の青梅街道とアパートの空地で写真を撮られました。このあたりはうろついてませんか」
「だいじょうぶ。まだまだ秘密基地だよ。安心してコーヒー飲みにきて」
「はい」
「千佳ちゃん帰ってるけど、どうする?」
「勉強のじゃまになるから、このまま帰る」
 結局守隋くんの話はせずに、ココア一杯ご馳走になっただけで荻窪に帰った。


         百九十一

 石手荘の玄関に入るとき、フラッシュが光った。電信柱の陰に二人、三人、いやもっといる。車の中で待機しながら居眠りしているやつもいる。デンスケを肩に一人が寄ってきて、
「いよいよ法政戦ですが、ここで勝ち点を挙げれば、優勝がぐんと近づきますね」
 インタビューはしないという約束は半日で反故だ。私は郵便受けを覗き、自分宛ての手紙を抜き出した。またアパートの住人たちが出てきた。私はイラ立ちを抑えながら、
「何が起こるかわからないので、勝負事はおもしろいです。ヤクマンを狙います」
「左の山中対策は万全ですか。初戦の先発はほぼ山中と決まっています。外角のスクリューが手品のように逃げていきますよ」
「対策なんかあるわけないでしょう。打てる球を打ち、打てない球は捨てる。ぼくは左バッターだから、彼のスクリューは内角に沈んでくる。そこは得意のコースなので、一本ぐらいはホームランを打てるでしょう。勝敗は時の運。鈴下監督が自由放任なのがありがたいです」
「法政の松永監督も、試合は選手の力で決まる、監督は口出ししない、勝ち負けは時の運と言ってます。それから、右の江本に関してはいかがですか」
 立てつづけに質問してくる。
「何も考えてません。インタビューは御免こうむると言ったでしょう。長くなりますから」
「ハア、申しわけありません。じゃ、もう一つだけ。江夏がこの十七日の巨人戦で王から三振を奪って、これまでの稲尾の記録を塗り替え、シーズン三百五十四個の日本新記録を作りました。プロにいったら彼と勝負したいでしょうね」
「もちろんです。プロにいければ対戦できるでしょう。彼は尾崎行雄に次ぐ速球ピッチャーだと思ってます」
「中京大学の湯浅教授の計測によると、尾崎のボールスピードは百六十・二キロだそうです。彼以上の速球ピッチャーはなかなか現れないでしょうね」
 私はあきらめの境地になって、報道関係者と玄関前で正対した。フラッシュが何発も光る。こちらから質問した。
「最近の尾崎はどうなんですか。いっさい新聞を読んでいないもので」
「昨年六勝あげたきり、今年は一勝もしてません。指にマメのできる体質で、長年の疲労から肩も壊して―。もう、再起不能ではないかと。球界筋では終わったと言われています」
「ぼくの中で尾崎行雄は終わりませんよ。心の神棚に飾ってある。直球一本で五年間に二十勝を四回もした人です。終わったなんて言葉は天才に対して失礼だ」
「なるほど。で、法政戦の展望は―」
「そんなこと訊いてどうするんですか。知りたがる人がいるんですか? もういいかげんにしてください。ほんとに今後、グランドの外での取材はいっさい受けません」
 フラッシュが花火のように焚かれる。私は彼らを振り切って玄関へ入ると、早足で部屋に飛びこんでカギを閉めた。
 手紙は母からのものだった。
 私の充実した日常を喜ぶ内容であり得ないことはわかっていた。私はまだ封を切らない先から、ここに母からの手紙が存在するという現実そのものを信じがたい悪夢のように感じた。開けてみると、住所を知らせたきり半年の余り音信のないことへの恨みつらみが書かれていた。愛のない冷めた言葉が、ふるえながら飛び出してきた。かいつまむとこういうことだった。

 世間ではおまえの活躍が大騒ぎされているようだ。飛島の人たちも大騒ぎだ。しかし新聞などで私が悪者にされているのは解せない。私はおまえから野球を奪ったつもりはない。おまえが勝手にやめてしまったのだ。東大にいかないかぎり野球をするな、などと言った覚えもない。おまえが勝手にそう思いこみ、こじつけたのだ。なんという嘘つきだ。どれほど有名になろうとも、親をおとしめる者は地獄に落ちる。ある筋から聞いたが、滝澤さんは結婚したそうだ。思ったとおり不実な女だった。私があのときおまえから引き離しておかなかったら、とんでもないことになっていたはずだ。親のありがたみをしっかりと思い知りなさい。人の気持ちなど、あてにならないものだ。自分を鍛え、他人の思惑に左右されない強さを作り上げなさい。さもなければ、おまえは父親と同じ道をたどるだろう。人生のどこかで不正を働いて、すべての責任を振り捨てて逃避し、チヤホヤする人間と隠れ住む。有名などという幸運はいずれ消えてなくなる。みんなに見捨てられ、さびしく死んでゆく。野球などというヤクザな遊びはやめて、早く地に足をつけた仕事につきなさい。私の生活に関してはお金には困ることはないので、心配いらない。

 私はその支離滅裂な言葉の群れを、肌が凍えるような恐怖の思いで見つめた。心臓が跳びはねるように鼓動した。しばらく目を閉じて鼓動の鎮まるのを待ち、もう一度目を開けて手紙を見つめた。
 文面に作為は感じられなかった。善意もない代わりに、悪意もなかった。たしかに母と私は、どれほど接近を図っても、けっして出会うことのない漸近線と直線のようなものだけれども、あれから四年も経ってすっかり流謫のほとぼりが冷めたいま、母がわざわざこんな手紙を送りつけてきたのは、節子に対する自説の正しさを少女のように主張したかったからにちがいない。
 名鉄の屋上の天婦羅屋で、仲買のオヤッさんから親が子を思う哀切な短歌を聞かされたときの心のシコリのようなものを思い出した。親が子を思うという気持ちが真実であることに素直に同調できないシコリ―。
 子の行状が露見して恥をかく前に、自分がしっかりした定見のある人間であることをふだんから振舞っておく。あんな立派なお母さんにどうしてこんな子が、あるいは、親がきちんとしている分、子供がだらしないのはありがちなことだ―人にそう思われることで自分が少しでも傷つかぬよう予防線を張っておく。もういいかげん自分の人生を辱められたくない、これ以上くだらない気苦労をしたくないという姿勢を保つ。母はそういう人だ。彼女の行動は、子が世間で最も不愉快に思われる悪行をまた繰り返したと知ったときに親が感じる、底なしの罪悪感と敵意に基づいている。
 それにしても、どうして母は私にこんな手紙を出そうと決心したのだろう。どうしてこんなでたらめが書けたのだろう。またどうしてこんなキチガイじみた空想が彼女の頭に巣食ったものだろう。永遠に実現しない空想。彼女はこの空想によって私に何を伝えたいのか。私は、人を深く思いやろうとしない精神の怠慢を目の前にしていた。これほど乾燥した心に抵抗するすべはない。私は彼女に愛されてはいない。たぶんそれだけのことにちがいない。
 しかし、私にとって意外だったのは、たしかに母の空想は狂気の沙汰だけれども、進んで彼女の空想の可能性を信じ、その空想の正当なことさえ信じてやりたいという、不思議な共感が芽生えたことだった。
 ―サーちゃんの唾。
 この手紙の中には、何か悩ましいほどまっとうな、受難者のように正しいものがあって、彼女の狂気をあがない、相殺していた。工場でボルトを洗いながら微笑んでいた美しい母の顔、宮谷小学校まで迎えに出たさびしげなシルエット―私は思い出し、手紙の一行一行を、子の不幸を嗅ぎつける、虫の知らせとまで感じた。私は母の手紙にうなされているようだった。一文一文読み返しては、注意を集中して考えこんだ。そうして、こんなことは以前からすっかり予想していたことだったと感じた。それどころか、この手紙はずっとむかし読んだことがあったとさえ思った。
 結局、どれほど共感しても、私にはなぜ母がこんな手紙を書く必要があったのかさっぱりわからなかった。ただ、筆不精な母があえて筆をとったのは、彼女のからだを震撼させるほどの恐怖感に圧倒されたからだろうと予想がついた。つまり、母はそれほど烈しく、中学生の私の〈ふまじめな〉行状に打撃を受け、四年ものあいだ、自分を呪われた人間であるかのように考えてきたのだった。私は胸をえぐられるようだった。
 新たな覚悟が芽生えた。いままでとちがった心で周囲を見つめなければならない。いや見つめるのではなく、支配しなければならない。私は妨害者を裁く人間法廷にならなければならない。たとえ母にとって、私をいとおしむ女が、身ぶるいするほどの恐怖を与える生霊だとしても、私は彼女たちをサーちゃんのように切り捨てるわけにはいかない。カズちゃんも、節子も、吉永先生も、法子も、素子も、恋人という恋人はすべて、切り捨てるわけにはいかない。それだけでは足りない。ただ一人の女も、彼女の目に曝すわけにはいかない。
 夜遅く、カズちゃんに電話した。手紙のことを言った。
「……思いこんでる人は真実味を感じさせるものよ。負けないでね。節子さんについてのウソは問題外としても、お母さんの考え方はまちがってるから。と言うより、キョウちゃんに愛されないせいで、おかしくなってるのかもしれないから……。ぜったい近づいちゃだめよ。……キョウちゃんの気持ちは、いつも正しいほうを向いてるわ。キョウちゃんのするどんなことも、キョウちゃんに救われた私たちにとっては正しいことよ。キョウちゃん、なんだか、絶望しちゃったみたいね」
「だいじょうぶ。同情というのは、腰が引けた状態なんだなってわかった。同情は愛に変わらない」
「そうよ、だから私たち元気でいられるの。ね、素ちゃん」
 うん、という反射でしたような声が電話の向こうに聞こえた。電話を代わり、
「練習、がんばってね。土曜日に応援にいくよ」
「ああ、ホームラン打つよ」
 カズちゃんに代わってもらい、
「千佳子には手紙のこと言わないで。勉強のじゃまになる。新聞記者に気をつけてね。まだ高円寺はバレてないようだけど」
「きたらトボケるからだいじょうぶよ」
 素子に代わり、
「とうとう、荻窪がわかってまったんやね。高円寺はだいじょうぶや。跡をつけられんように気をつけてね。ハイエナやから」
「うん。あしたフジに寄ってユニフォームを受け取る」
 カズちゃんに代わり、
「用意しとく。じゃ、お休みなさい」
「お休み」
 机に向かう。小説で呼びかける相手が決まった。架空の聖母だ。
         †
 九月十八日水曜日。快晴。二十五・三度。朝の鍛練をオミット。きょうも革靴にブレザーで出た。出ないと告げていた練習をするために本郷へ向かう。高円寺に寄ってフジでカズちゃんから二着のユニフォームを受け取り、ダッフルに詰める。
「クリーニング屋さん、背番号を写真に取ったんですって。自宅に飾るので、これからずっと無料でいいそうよ」
 マスターも金城くんもニコニコして聞いている。
「ちょっと名が売れたくらいで、これほど恵まれていいものかな」
 マスターが、
「そんなもの、恵まれたうちに入らないでしょ。欲のない人だなあ。フアンのちょっとしたプレゼントぐらい受け取らないとだめですよ。ファンを傷つけたくないでしょう?」
「はい。でも、応援だけしてくれれば、ほかに何も―」
 マスターはやれやれというふうに吊りバンドを直し、
「そのほかの親切はむだだと言いたいんでしょう? 才能のある人に、その才能以上のプレゼントはできませんからね。ファン意識がある段階までいき着いちゃうと、ほしいものは〈むだ〉をしないと得られないものになるんですよ。つまりね、感激もある程度までいっちゃうと、手ごたえのあるのは理想だけになる。徹底的に近づこうという理想です。理想は手に入れられないものです。手に入れられないから、物品を仲介にして近づきたくなる。自分にとって手に入れられないものに近づくためには、財産をむだにするという意志が必要です。つまり、どんなむだをしても、フアンのほうが神無月さんよりもらうものが大きいんですよ。神無月さんに近づきたい気持ちを拒んじゃいけません」
「はい」
 気圧された形になった。
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい!」
 店じゅうの人たちが言った。ふと気楽な気分になった。私が彼らの理想であるのは、何年かの期限つきだと思ったからだ。
「いってきます」


         百九十二

 きのうと一転して青空だ。気温も五度は高い。革袋を担って本郷の構内を歩く。銀杏並木が黄色く色づきはじめている。相変わらず不気味な静けさだ。どこで闘争が行なわれているのかさっぱりわからない。
 すでにほとんどの部員がグランドに出ていた。報道陣はカメラマンが二人ほど。金曜日にはもっと増えるだろう。部室で待っていた詩織が、
「あ、この二戦のユニフォームは持って帰ってたんですね。アンダーシャツとストッキング、ぜんぶ洗濯しておきました」
「ありがとう。部員たちの洗濯も頼まれてるの?」
「レギュラーから差し出された分は、マネージャー四人で引き受けてます。一人五着ぐらいです。ザッとでいいと言う人のユニフォームは、洗濯機で洗います。マネージャー室に大きな洗濯機が五台もありますから。アイロンがけも私たちがします。控えや補欠は自分で持って帰って洗う部員もいます。こだわるレギュラーのユニフォームは専属の洗濯屋に出します。もちろん部費で払います」
「今回のぼくのシャツやストッキングは洗濯機?」
「私が家で手洗いしました」
「おーい、贔屓だぞう」
 これからグランドに出るための着替えをしていた大桐と中介が、わざとらしい不満の声を上げる。彼らといっしょにスタンド下のベンチに入る。監督、助監督、部長らの顔がない。コーン! と気持ちのいい音を立ててボールが内外野に飛ぶ。きょうのメインはコーチや助手を総動員した守備練習のようだ。兼コーチに語りかける。
「横平さん、肩強くなりましたね」
「ああ。金太郎さん、岩田、横平の三強肩だ。半年の遠投練習のおかげで、レギュラーに弱肩はいなくなった」
 中介と駆け出していくと、すぐにゴロやフライが飛んでくる。ドライブのかかる打球を疾走しながら捕球して、セカンドへ投げ返す。バックホームの遠投はやらない。かならずショート経由で返球した。練習のときは多少油断が出るので、思わぬ事故が起きやすい。一時間ほどレフトの守備位置にへばりつく。守備練習のあいだ、女子マネージャーたちが球拾いも兼ねて、準レギュラーや補欠たちといっしょにフェンス沿いにランニングをしている。女三人の胸が揺れる。さわやかだ。
 昼めしどきに部室で八十キロのバーベルをゆっくり五回挙げた。
「金太郎さん、熱心だな」
 水壁が声をかける。
「二の腕はバッティングにはあまり影響しないんですけど、肩を脱臼しないための用心です。腕立てで鍛え、バーベルで鍛えればオッケーでしょう。胸筋もつきますし」
「バッティングに影響するのはどこだ」
「前腕と手首です。そのうえで鍛えなければいけないのは遠投力です。素振りは二百程度に留めないと、鍛えた手首に不具合が出ます。……リーグ戦の時期、一、二年生の姿が見えませんが、どこにいるんですか」
「秋季オープン戦に出かけてるんだよ。一、二年だけじゃなく、三、四年の控え組もな。リーグ戦の空き週も東大球場でオープン戦をやる。そのときはレギュラーの一部も駆り出される」
「申しわけありません」
「なんで? 俺たちには日々の鍛錬が必要なんだよ。金太郎さんに必要なのは、リズムと休息だ」
 スピーカーからパーシー・フェイスの夏の日の恋が流れている。克己が、
「しかし上野のアイデア、抜群だったな。部室に入ったとたんに和むぜ」
 臼山が、
「鈴木と上野は金太郎さんにぞっこんだろ。黒屋は白川とできてんのか」
 中介が、
「いや、黒屋は案外身持ちがいいんだ。基礎科学科の××教授のお気に入りだって聞いた。頭いいんだよ」
 弁当を使っている部員たちのあいだに和気があふれている。法政戦に向けてこれといったテンションの高まりも感じない。全力を尽くしてマグレを期待するしかない―それは私の気持ちだけれども、彼らも一人ひとり表情には出さないまでもそんなふうな考えでいるようだ。台坂が私に訊く。
「金太郎さん、田淵は基本的に金太郎さんと同じローヒッターだよな」
「はい。ただ、ぼくよりも一定のフォームで打つバッターなので、のめらせたり、ヘッドアップさせたりすれば打ち取れます。山本と富田が手ごわいです。特に山本」
「山本の打球の速さはとんでもないぞ。富田は打てないコースがないときてる」
 独り第二生協食堂にいき、天丼。まずい。
 一時からダッシュと、ストレッチと、ティーバッティングと、素振りをやった。だれもフリーバッティングと守備練習をやらなかった。レギュラーたちはティーバッティングの合間に、今季から簡易屋根を取りつけた投球練習場にいって、代わりばんこにバッター役を務めながら球筋を〈見る〉訓練をした。応援団とバトンガールたちが、外野の芝生で溌溂とリハーサルしている。ブラバンも天蓋つきのスタンドで何時間もリハーサルしていた。
 あしたあさってとフリーバッティングを中心に練習する、と克己が言ったので、二日間練習に出ないことを告げた。
「自主練習は欠かしてませんから」
「監督たちがウィークデイにくるのは第四クルーからだ。それまでは無理してこなくていいぞ。試合前のバッティング練習だけは頼む。あれはみんなのカンフル剤だから」
「はい」
 睦子がバトンガールたちのあいだに立ち混じりながら動き回っている。愛らしい。きょうは口を利かなかったし、顔も見合わせなかった。目立たないようにグランドを出た。二時半。本郷通りと同様好きではなかった大都会の街並も、ようやく目に馴染みはじめた。いやなものに馴染むことで自分への愛が戻ってくる。自分はいやなものだったから。
 ―ドン百姓、馬の骨、メンタルテスト……。
 池袋文芸坐でリバイバル映画を観る。どう理屈でねじ伏せようとしても、生きているかぎり鑑賞をやめることはできない。人は感激を忘れる生きものだ。いつも神経に電流を通しておかなければならない。
 戦艦バウンティとアラバマ物語。戦艦バウンティは、たしか六年生のとき、吉冨さんか小山田さんといっしょに名古屋駅前の映画館で観た覚えがある。ありきたりな反乱映画だった。アラバマ物語は初めて観たが、いろいろな物思いで澱んでいた血液が透析されていくような映画だった。情熱を内に秘めた正義漢役のグレゴリー・ペックに魅かれた。彼の演じる思慮深い弁護士アティカスは、ローマの休日の浮わついた新聞記者よりも数段よかった。
 ものまね鳥を殺すこと―アラバマ物語の原題の意味が難解だった。ものまね鳥は美しい声で鳴くことで名高い。美しい声で鳴く者を殺すこと。ものまね鳥というのは、劇中で理不尽な裁判にかけられて殺された善良な一黒人のことだろうか。もう一人、子供たちからミスターブーと呼ばれ、伝説の怪人として恐れられている口の利けない知恵遅れの青年が近所に住んでいたが、彼のことを指しているのだろうか。ブーはアティカスの子供たちを差別主義者の魔手から救った。唖で白痴だと思っていた男が美しい声で鳴いた。
 幸福を与えてくれる無害な鳥を殺すとは何ごとだということなのだろう。もしそうだとすると、ものまね鳥は、善良な魂の象徴ということになる。差別は善良な魂を殺すという主張かもしれない。示唆するところは深い。ともあれ、正義感あふれるアティカスと、彼の二人の子供と、ミスターブーの絡みがみごとだった。ブーを演じたロバート・デュヴァルは、私の好きな俳優の一人だ。 
 七時半。ダッフルを担いだまま上板橋に向かう。河野幸子のことがなぜか心にかかっている。彼女に遇ったのは名古屋から帰ってすぐだったから、あれからほぼひと月経っている。上板橋の駅前からサッちゃんに電話を入れる。
「わ、驚いた! ウソでしょう、またきてくれるなんて。駅前にいるのね、すぐ迎えにいきます」
「コーヒーいれてて。三分もすれば着くから」
 隘路の先の夕暮れの庭にサッちゃんが立っていた。藍色のワンピースを着ている。
「こんなに早くきてくれたのね。ありがとう! うれしいわ」
「夜のうちに帰る」
「恋人のところね」
「いや、あした昼から練習があるから」
 玄関を入るとサッちゃんはダッフルを受け取った。キッチンテーブルに向かい合う。
「お風呂の用意をするわ。湯あたりしないように、ぬるめに入れます」
 湯船を満たしているあいだ、コーヒーが出る。水屋の上に新聞が積んで置いてある。
「このごろ、スポーツ紙をよく読むようになったんです。キョウちゃんに関係する記事はぜんぶ切り抜いてとってあるわ。つくづくすごい人だってわかってきた。私なんかに時間を作ってくれて。……心から感謝します」
「男が女に時間を使わないなら、何に使えばいいのかな」
「……逆もまた真ね」
 湯船に浸かって抱擁し合う。くつろぐときだ。〈抱かれる〉ことの本質を感じる。
「ずっとこうしていていいかな」
「いいわよ。ほんとに不思議な人。二、三カ月の息子を抱いてお風呂に入ったころを思い出すわ。半年もすると活発になっちゃうから、湯船でじっと抱いていられなくなるの」
「サッちゃんの胸は、どうして垂れないの」
 わずかに垂れ気味のトモヨさんの乳房を思い出している。
「さあ、若いころに水泳をやってたせいかしら。クロール。地元の高校から国体にも出たけど、四位だった。胸が大きすぎたのかな。大学ではやらなかった」
「大学にもいったの」
「そうよ。これでも秀才なんだから。東京外大の中国語学科。そこでいまの主人と知り合ったの」
「じゃ、中国語ぺらぺら?」
「ぜんぜん。なんとか読めるだけ。海外経験がないと、そんなものよ。主人はかなりじょうずで、伊藤忠っていう商事会社でその方面の仕事をしてるわ。でも、バイリンガルまではいかないの。だれも完璧なバイリンガルにはなれないし、多言語使用者にもなれない。どこか不完全なのよ」
「知らなかった。ぼくの叔父は五カ国語を話すよ」
「少し不完全にでしょ? ネイティブには敵わないわ」
「その不完全さって、ストレスにならないかな」
「なるでしょうね。でも七割がた聴けて、八割がたしゃべれれば、一流の通訳になれるから、心配するほどのことでもないの」
「ものごとを完璧にしようと努力すると、完璧にならなくても一流と言われて、褒美をもらえるんだね」
「皮肉?」
「いや。ぼくの東大合格みたいなものだなと思って。褒美をもらいたい人間だけが、ものごとを成し遂げようとする。そういう人には褒美をあげる。ぼくは成し遂げたくない人間なんだけど、東大に関しては努力したから褒美をもらえた。しっかりした才能がある野球で褒美をもらえるかどうか、心もとない」
「キョウちゃん一流の物言いね。……野球はどう努力してるの?」
「無理をして成し遂げようということじゃなく、求められているあいだは、たゆまず鍛練して、その時点の達成物を人びとに見せて楽しむということかな。野球はもともと好きなものだし、ほんとうに運よく才能があったしね。そうすることで褒美がもらえるかどうか」
「もらえるに決まってるでしょ」
「でも、求められなくなったら……」
 サッちゃんはキスをし、
「こっそり世間に隠れるつもり? やめてね。才能のある人が世間に隠れても、ちっとも美しくないわ。そういうのを独りよがりって言うの。キョウちゃんはいつまでも求められる人よ。そういう人なんです。一般人とはちがうということを認識してね。私、キョウちゃんが生活するくらいのお金ならいつでも用意できる。たぶんほかの女の人たちもそういう気持ちじゃないかしら」
「みんなそういう気持ちだよ。実際、親から仕送りは受けてないから、彼女たちからもらったお金で生活してる」
「お母さん、送金してくれないの?」
「飯場の炊事婦だからね。入学金を払うだけでいっぱいだった。自力更生をあたりまえだと思ってる人だから」
「新聞記事でいろいろ、キョウちゃん親子の角逐のことはわかってきたから、そんなの序の口かもね。それにしても……」
「サッちゃんが援助してくれるのはありがたいんだけど、いらないよ。なるようになりたいんだ」
「なるようにって、野球という特技があるんだから、将来現役でなくなってもずっとその関係の仕事をして生きていけばいいじゃない? ラジオの解説者だって、テレビ司会者だって、何だって引っ張りだこよ。おまけに東大だもの」
「そういう仕事って、ちょっとしたことで用なしにされる。最初からやらないほうがいい」
「もったいないわ。どうにでも生きていける人なのに」
 もう一度口づけをしながら抱き締める。
「考えたら図々しいよね。才能でやってるかぎりは、力を鍛えたり維持したりする努力も最大級でないわけだから、ある意味怠けて生きてることになる。才能が衰えたら、それまでの怠惰のツケを人に払ってもらうなんて、やっぱり図々しい」
「それでいいのよ。それまでみんなを楽しませてあげたんだから」



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