二百五

 三十分ほどで東京球場に着いた。
「でっかいなあ!」
 マーくんは人混みの中からスタジアムの外壁を見上げる。薄暮の空が低い。列に並んで入場券を買う。小山田さん、吉冨さん。少年の心に戻り、わくわくする。ゲートに番号をふった入口で、半券を切り取られて回廊に入る。スタジアムの廊下は広くて長い。どこからか、カチャ、カチャとスパイクの爪音が聞こえてくる。壮大な儀式の予感だ。
 ―聞こえるはずがないな。
 一塁側の内野指定席中段に二人並んで坐る。ここからは左バッターがよく見える。
「すごいなあ、野球場ってとっても広くて、芝生がきれいなんだね」
 マーくんは試合開始前の練習に見入った。バッティングケージに入る一人ひとりの選手のスイングの速さや打球のするどさに感嘆の声をあげ、外野席に飛びこむボールをあこがれの目で見つめる。ひたむきな視線に胸を打たれる。チンポ! と叫んで走り回る子供と思えない。アイスクリームを買って与える。自分を小山田さんや吉冨さんに重ねる。彼らは私のひたむきさに胸を打たれたのだ。
 両翼九十メートル、センター百二十メートル、右中間左中間のふくらみのない狭い球場だ。東京オリオンズ対阪急ブレーブス戦。ホームランがたくさん見られそうだ。灯りが点りはじめる。光の球場と呼ばれるだけあってひどく明るい。カクテル光線が薄暮の空にまばゆく映える。マーくんに語りかける。
「青の帽子、アンダーシャツ、ストッキングがきれいだね。ドジャースと同じユニフォームなんだね。東京オリオンズは、もと大毎オリオンズといってね、三番榎本喜八、四番山内一広、五番葛城のダイナマイト打線だったんだ」
「葛城の名前は?」
「タカオだったかな。いまは榎本しか残ってないね。三番ロペス、四番アルトマン、五番榎本か。カタカナのクリーンアップはなんだかさびしい。ピッチャーは成田、坂井、佐藤の三本柱で安泰だけど、控えがちょっとね。阪神からきた小山は、五勝もできないロートルになっちゃったし。―きょうは阪急戦か。オリオンズは阪急と南海を追いかける形だから、ここでひと踏ん張りしないとね。東京球場の第一号ホームランは、野村が打ったんだよ」
「先生よく知ってるね! 東大で勉強ばかりしてるのに」
「野球が好きなんだ。だから勉強しないで、野球ばかりしてる」
 三年目の成田と十五年目のベテラン梶本の投げ合いで試合が始まる。成田十七勝、梶本十一勝。
「さ、プレイボールだ」
 マーくんがポンポンとグローブを叩く。大熊セカンドゴロ、阪本三振、ウィンディ三振。さすが絶好調の成田だ。スライダーが切れに切れて、バッターのつけ入る隙がない。
 一回裏東京の攻撃。前田センター前ヒット、西田レフト前ヒット、ロペスライト前ヒット、一点。ノーアウト一塁、三塁から、アルトマンライト前ヒット、一点。榎本ライト前ヒット、一点。五打者つるべ打ちで三点取った。
「梶本のボールが速いなあ!」
「ロペスの打球が見えなかったよ!」
「アルトマンのヘルメットがキラキラしてる。バットもピカピカ光ってる」
「うわあ、榎本のベースを回る足が速いや!」
 すべてあのころの私だ。いや、いまの私だ。
 二回以降、予想にたがい退屈な貧打戦になった。東京は二回に前田の五号ソロ、八回裏まで散発二安打、阪急は八回まで散発六安打、九回表にやっとスペンサーの十五号ソロが出てお終い、結局四対一、東京のα勝ち。スペンサーの特大ホームランにマーくんが飛び上がって喜んだのが唯一の慰めだった。私にしてみれば、二人の投手のコースの投げ分けに見どころがあったけれども、子供の目にはつまらない試合だっただろう。私たちの席にはファールボールすら飛んでこなかった。
 帰り道、南千住の不二屋パーラーに入って、マーくんにチョコレートサンデーを食べさせる。出前の鮨とちがって、マーくんはじっくり味わって食べる。私はコーヒー。
「投手戦で、退屈だったろ。ファールも飛んでこなかったし」
「スペンサーのホームランを見れたからいいや。ぼく、来年から野球部に入るんだ」
「がんばれよ。左利きはいろいろ重宝されるからね。どこを守りたいの?」
「ピッチャー。江夏みたいになるんだ。三振、バンバン取ってやる」
「肩と肘を作らないとね。腕立て伏せ、懸垂、それと遠投だ。コントロールも磨かないとね。いくら速くてもコースが甘いと打ちこまれる」
「うん、毎日堤防にぶつけて練習してる」
「よし、将来が楽しみだ。……マーくん、ぼくはやめちゃったけど、もし次の先生がくることになったら、いい子にするんだよ」
「あしたからいい子にすれば、先生、やめない?」
「いや、もうやめちゃったんだ。マーくんのせいじゃない。野球の大事な用ができちゃってね」
「ぼく、次の先生でもちゃんと勉強するよ」
「いい子だ」
「また遊びにくる?」
「マーくんが中学生くらいになったらね。どんな子になったか見にくる」
「先生、トロきらいだったよね」
「うん、イクラとトロね。でも貝類は好きだな。特にトリガイ」
「こないだそう聞いたから、きょう帰ったら、トリガイだけ別に頼んであるよ」
「ありがとう。トリガイのシュンは、太平洋側は春先、日本海側は夏らしい。九月はギリギリだな。いまどきは、冷凍でいつでも食えるからね」
 マーくんはわけもわからずうなずく。
 十時に近く、タクシーで四国屋に送りつけた。また父親と姉が小暗い店先に迎えた。娘は制服をミニスカートに穿き替えていた。
「きょうはほんとうにありがとうございました。野球が大好きな子なので大喜びしたでしょう。いい思い出になりますよ。きみ!」
 電器店のカウンターにいたアルバイトふうの男を呼んだ。
「このカメラで私たちを撮ってくれ。三枚ね」
 四人店先に出て並んだ。男は慣れない仕草でパチリ、パチリとやった。
「大切にとっておきます。神無月さんがプロで活躍するようになったら、店の鴨居にも店先にも掲げます。秋のリーグ戦、楽しみにしてます」
 母親が鮨盥を手に二階から下りてきた。トリガイが別皿に盛ってある。階段の框に五人腰を下して、めいめい小皿の醤油に浸してつまみ合う。私は別皿の分をすべて食った。鮨を噛む私の顔を娘が見つめていた。シナのある笑いを浮かべ、一人前の女の顔をする。その脂ぎった厚い皮膚を見て、私は目を逸らした。ふと、娘が父母に似ていないことに気づき、深い事情を感じた。母親が、
「あらためて言うのもなんですけど、神無月さんはいまいちばん有名なかただったんですね。東大生で六大学野球の花形。身分をおっしゃりたくなかった気持ちはわかりますけど、お人が悪いですよ。―どうですか、この子はものになりそうですか」
 作った笑顔で言う。ボンヤリとした質問だ。父親は一瞬驚いた顔をしたが、母親に気を使って、不機嫌なそぶりを見せなかった。
「まだ小学生なんですから、のんびりやればいいんですよ。どんな才能も伸びる時期がくれば自然と伸びますから」
 私もボンヤリと適当なことを言い、腰を上げた。
「マーくん、これを食べたら、少しお勉強するのよ」
「はーい」
 そうならないことはわかっている。父親が、
「二週間とは言え、短気を起こさずよくやってくださいました。あしたからしっかり新聞を読ませていただきます」
 まんざら愛想使いでもない調子で言った。マーくんはいつまでもうれしそうに笑っていた。四国屋一家が道に出て手を振った。中学生の娘が、しょんぼりうなだれて橋まで送ってきた。
「ときどき遊びにきてくれる?」
「こない」
「先生のこと大好き。一生憶えてる」
 私が歩きだすと、ずるずる東西線の改札までついてきた。平たい顔に切れこんだ細い目に涙を浮かべ、胸の前で小さく手を振った。
         † 
 九月二十五日水曜日。朝から強い雨が降っている。三、四日つづくという予報だ。きょうはランニングにも本郷の練習にも出ないことにした。机に向かうと、足もとから腹のほうへ冷えが昇ってくる。耳鳴りは止んでいる。
 小説の題名を決めずに、東京戸塚(と母は言った)の記憶から書きはじめる。まったく進まない。書きたいことはあっても、持って回った書き方をしようとする悪魔の誘惑があるからだ。この気持ちが欠けらでもあるかぎり書いてはならない。コンコンと戸が叩かれた。
「神無月、いるか」
「おう、いるぞ」
 戸を開けると、目の前によしのりが立っている。
「どうした」
 よしのりはあごを玄関に振った。短い廊下の先の玄関に、ヒデさんが傘を手に立っていた! 私は、ヤア、と言い、手を上げて近づいていった。彼女は姿勢を正しくした。
「よくきたね! 大きくなった」
 ヒデさんは笑いながら、
「先月会ったばかりです」
「あ、そうだった」
 よしのりが玄関に下りて並びかけると、ほとんど背丈が変わらなかった。小さなボストンバッグを提げ、セーラー服に黒いストッキングを穿き、黒いローファを履いている。靴先が泥で少し汚れているのが初々しかった。からだ全体がふっくらとして、抜けるように色が白くなっている。夏には気づかなかったことだった。
「とつぜんすみません、前もってお知らせもしないで。今朝、上野に着きました。神無月さんが名古屋にいらっしゃるまえに、どうしてもお会いしたかったんです。ご迷惑でしたでしょうか」
「ぜんぜん。どうしてよしのりといっしょに?」
「恵美子さんにお兄さんの住所を教えてもらって、まずそちらへいきました。直接お訪ねするより、男の人に連れてきてもらったほうが、人目にもいいと思って」
「気を使わなくていいのに。ここは門戸開放だよ。それだけに、怖いことが起こるかもしれないけど」
 ヒデさんは頬を染めながらコックリをした。管理人が戸の陰で聞き耳を立てているような気がした。
「ほんとにすみません、あらかじめ手紙も書かずに。電話番号は知ってたんですけど、もしいらっしゃらなかったら、途方に暮れてしまうと思って」
「俺もいい役回りだわ。ま、あとはよろしくな。秀子ちゃん、しっかりかわいがってもらえ。神無月の女関係に無理やりネジこむんだから、贅沢言っちゃだめだぞ。じゃ神無月、今夜これたら飲みにこい。秀子ちゃんもいっしょに」
 ヒデさんは白い歯を出して笑った。大きくて切れ長の目の美しさに惚れぼれとする。だれもが振り返る女だ。けいこちゃんの成長した姿。ほんとうにチビタンクの妹なのかと疑ってしまう。傘を広げて帰ろうとするよしのりの背中に声をかけた。
「よしのり、いっしょにめしを食おうよ」
「おう、大将にいくか」
 私はヒデさんの荷物を受け取って部屋に置き、下駄を履いた。傘を差して表へ出る。 
「兄さんは、元気?」
「はい、大学の勉強、しっかりがんばってるようです。神無月さんに会いにいくって電話したら、うまくやれよって言ってくれました」
「このこと、お父さんお母さんも承知?」
「母だけは。父はあのとおり忙しくしてるのが趣味ですから、話をする機会はほとんどありません。それに私、九月から白百合荘に入りましたから、私の行動は把握できてないと思います。学校は三日間の休みをとってきました。母は、くれぐれも神無月さんによろしくと言ってました」
「どういうこと、よろしくって」
「都内の旅館に泊まって、東京の大学見物をしてくるって電話をかけたんです。スベリ止めで受けるかもしれないからって。まだ二年生なのにそんなこと言い出したから、お母さん、私が神無月さんに逢いたいんだってすぐわかったみたいで……。無茶しちゃだめよって言いました。私の様子が真剣だったので、そうなる危険が高いって感じたようです」
「秀子ちゃんは、神無月とそうなるためにきたんだろ」
「……はい。神無月さん、いつか合浦公園にいったとき、私、今度、と言いかけてやめたことがあったでしょう」
「うん。三年以上も前の話だ」
「その今度が、きょうです。あれからもう三年も経ったんですね」
「たった三年で、立派な大人の女になった。驚いた」


         二百六

 三人、電車に乗り、一駅先の阿佐ヶ谷で降りる。よしのりが、
「メシの前に、ポエムにいくか」
 ガード沿いの路に私の下駄の音だけがカツカツ響く。
「ここからちょっといった住宅街に、永島信二の家がある。漫画家残酷物語を描いた人だ。彼の漫画にはしょっちゅうポエムが出てくる」
 ヒデさんは興味なさそうにうなずいている。私は自分がつまらないことをしゃべっていると感じた。困ったような顔でよしのりが私を見た。
「早稲田と法政に勝って勝ち点二だって? 新聞に載ってたぞ。秀子ちゃん、神無月は東大のね―」
「詳しく知ってます。東奥日報によく特集されてますから。このあいだは、神無月さんが名古屋に里帰りした様子が写真入りで載ってました。……会ってもらえるかどうか、怖かったです」
 ポエムに入り、三人ともジャーマンブレンドを頼んだ。
「神無月の女は十人どころじゃない。……慣れないとな」
「神無月さんだけを見つめて、見返りを求めないつもりでいれば、何ということもありません」
「十七歳か……大したもんだ」
「高校の勉強、どう? 難しい」
「神無月さんて、いつもそうやって興味のないことを訊くんです。兄のこととか、勉強のこととか」
 やさしい笑顔で言う。よしのりが、
「そりゃそうだよ。会話の潤滑油だ。ひさしぶりに会ったわけだしな。答えればすぐ忘れるんだから、答えてやればいい」
 ヒデさんはにっこり笑って、
「難しいです。五十番にも入ったことがありません。みんなすごいんです」
「青高はそうなんだ。鬼みたいな勉強のプロばかりいる」
「でも、神無月さんは成績優秀だったんでしょう」
「マグレ当たりのときだけね。でも、何度生まれ変わっても、勉強じゃ敵わないってやつがたくさんいた」
「がんばります。そして、神無月さんのそばにきます。待っててくださいね」
「うん。東大はもういいの?」
「東大も早稲田も、もういいです。名古屋大学か南山大学しか頭にありません」
「ぼくのそばにくるのが目標なら、くだらない受験は一度きりにするんだね。自分の力に見合ってる名古屋大学だけ」
「はい」
「世間評価と関係ない勉強は、やりだすと好きになる。合格そのものでない目標を見据えた挑戦には、合格以外の楽しみが出てくるから好きになるんだ。好きこそものので、勉強が挫折することもない。たいていの受験生は合格そのものを目標に〈挑戦〉して、たいてい挫折する。勉強を嫌いになる。それでも、合格が世間的評価につながっているので、挑戦を繰り返す。受験姿勢はその二つだ」
「はい。私は一つ目です」
「ぼくも一つ目だった。東大合格を目標にしてたら、的外れな厳密な勉強をして、落ちていたと思う」
 ジャーマンブレンドが出てきた。
「めんこいし、気構えもいいし、こりゃ、恵美子じゃ、どう考えても太刀打ちできないわ。完敗だな」
「恵美子さんも、遊びにきたんですか」
「いや、あいつにそんな勇気はない。神無月にぶつかるには勇気がいるんだ。ぶつかりさえすれば、神無月はかならず応える。勇気がないってことは、情熱もないってことだ」
「頭がいいから、神無月さんの言うように、自分なりの目標を据えて勉強を愉しみながら大学にいけばいいのにって思います」
「それ以前に、恵美子はもともと勉強が好きじゃないらしくてな、それでああいう仕事に就いたんだ。それも根性がつづかなくて、根っから世間が気になるタチだから、定時制高校にかよってな。浜の四戸末子が城内(じょね)でバーやってて、卒業したらいっしょにやらないかって恵美子に声かけたらしい」
 四戸末子の内気な笑顔が浮かんだ。胸のあたりが苦しくなった。
「定時制やめて、やってみたらいいんじゃないかな。大学にいくよりは世間の生活に直結してる」
「だな。しかし、定時制出たら、町役場にでもいくんだろう。野辺地ではそれがいちばんの出世だから」
 ヒデさんはショートケーキを二つも食べた。
「ここにはサバランがありませんね」
「何だ、それ」
「神無月さんと、青森駅前のホテルで食べたんです」
「おいおい」
「青森駅前のホテルの中にある喫茶店だよ。三年前に花園町に会いにきてくれたとき、見送りがてらコーヒーを飲んだんだ」
「あのとき私、いつか名古屋のことを聞かせてくださいって、神無月さんに言いましたよね」
「そうだったね。いつかチャンスがあったらって答えた」
「私、神無月さんのお祖母さんに聞いたり、奥山先生にも聞いたりして、そのあと自分でよく考えました。そして、神無月さんのことが少しわかりました」
「ふうん、どんなふうに」
「だれからも見返りを受けないという信念―それがあるから、こんなに静かに、やさしく人に接することができるんだと思います。だれにもかれにも甘えかかろうとするのは、自分を大事にしてほしいという自己愛そのもので、甘えられる人にはやさしくして、甘えられない人にはつらく当たるような、陰日なたのある人間になると思います」
 私は笑い、
「ふうん、ぼくはそこまで固い信念は持ってないな。甘えようと甘えまいと、人は静かに生きないと命の燃焼が短期間になると気づいた程度かな。短い命はだめだね。愛してくれる人間に愛情を注ぐ時間が少なくなる。とにかくぼくは、愛情の伴わない人間関係は面倒くさく感じるんだ」
 ヒデさんはやさしい目でうなずいた。よしのりが、
「……なるほど、だれにも甘えないやさしさか。安心するのに突き放されてる感じがしたはそれだったんだな」
「それが頭のいいヒデさんの分析なら、たしかにそうかもしれない。自分を含めて、甘えられる人間なんかこの世にいないと考えるほうが自然だからね。でも、だからこそ、たがいに甘え合って生き延びようとしなくちゃいけない気がする。甘え合って生き延びることこそ、愛そのものだ。愛の義務は信頼と延命だと思う。ぼくが死なないでいるのはそのせいだよ」
 ヒデさんは首を振り、
「神無月さんのようなだれにも甘えないやさしい人は、陰日なたなくだれにでもやさしくするので、自分の寄る辺がありません。小さいころからきっとそういう人だったと思います。遠くの土地へ流される経験は、長生きをしてきた人間にとってはそれほどめずらしいものでもないかもしれないけれど、たった十五歳で遠くの土地へ流されたとなると、寄る辺ない心がますます寄る辺なくなるような相当苦しい経験だったにちがいありません。そんな経験をするのは何百万人に一人だと思います。神無月さんのつらい経験はそれだけではありません……。でもそんなことは、ほんとはどうでもいいんです。野辺地のお祖母さんも、ホトケサマ、と言ってましたけど、ここに静かでやさしい神無月さんがいる、それだけでじゅうぶんです」
「ありがとう。自分の存在理由がよくわかる」
 雨が小止みになった。ポエムを出て、大将にいく。ホレタマ定食。ヒデさんの、
「おいしい、おいしい」
 が耳に心地よい。彼女は半ライスをお替りした。昼食どきで満員だったので、マスターと話す暇はなかった。
 よしのりと別れて、私たちは阿佐ヶ谷駅の改札前に立つ。あてはない。
「東京見物と言っても……」
「神無月さんといっしょにいたいだけで、そんなこと興味ありません」
 思いついて、
「まだ日が高い。雨もほとんど上がったし、本郷にいってみよう。顔を出したら少し練習するけど、スタンドで見ながら待っててほしい。ユニフォーム姿を見せたい」
「はい、ぜひ!」
 荻窪に出て、丸の内線に乗る。人いきれと機械油の混じったにおい。
「横山さんは、こんなに早い時間からお店に入るんですか」
「責任者だからね。いろいろ準備があるんだろう。食べ物や飲み物の仕込みとか、ステージの下ごしらえとか。あの店で週に一回山口が歌ってる」
「山口さんが!」
「彼は将来、ギターで一家を成すつもりだ。ギターで生きていけるメドがついたら、東大をやめると言ってる。ぼくも東大がリーグ優勝したら中退する。優勝しなくても、やっぱり中退する。すぐに中日ドラゴンズに入団するんだ」
「私も一刻も早く名古屋にいきます」
「……ぼくはだれにも甘えない、だれにでもやさしくするとヒデさんは言ったけど、そんなパサパサした男にこだわってると、いずれは欲求不満になっちゃうと思うんだ。なぜそんな男に何年もこだわってるの」
「いつか言いました。顔が好きだからです。好きな人の顔は、私が寄せる思いを裏切りません。性質の向きじゃなく、顔が好きなわけだから、裏切られようがありません。好きな人に裏切られる人は、最初に顔から好きにならなかったからです。顔以外のいろいろな条件に影響されて、まずその人の付属品が好きになって、それからあらためて顔を好きになったんでしょう。そういう人は、しばらく離れているとその人の顔を思い出せないはずです。私はどんなときもハッキリと思い出せます」
「この顔を信じるんだね」
「はい。私は……自分の好みを信じます。世間の好みに保証されているものは信じられません。神無月さんを愛するには、別に大学に入る必要なんかないんですけど、神無月さんのそばに出てきて長居するには、もっともらしい理由が必要だと思っただけです」
「よくわかる。名古屋の大学に入れば、たしかに、名古屋に住んでも横槍を入れられないね。ぼくのそばに出てくるだけなら身一つでいいんだけど、それで住みかを構えて働くとなると、なんで青森の人間がわざわざ名古屋で? などと、とやかく言われそうだ」
「要らない詮索をされるのは面倒くさいですよね。東奥日報で読みましたけど、神無月さんのような自由奔放な人でさえ、野球をやるために東大にいくという建前を作らなくちゃいけなかったんですものね。私みたいな平凡な人間ならなおさら、多少面倒くさいことをがまんしなければ、自由に動き回れません。身一つで出てくると、その〈とやかく〉で神無月さんに迷惑をかけるし、それなら楽しんで努力して大学に属してしまったほうが、何不自由なく神無月さんに逢えます」
「世間を安心させて、できるかぎり身動きを自由にするということだね。そういう知恵が中学時代のぼくにあったら……」
「なくてよかったです。あったら、私、神無月さんに遇えていませんから」
 明るい声で笑った。
「ほんとうに気持ちのいい人だなあ、ヒデさんは」
「そうやって笑う神無月さんの顔、大好きです。私、神無月さんが野球選手だろうと、詐欺師だろうと、人殺しだろうと、どうでもいいんです。いまのままの顔でいてくれれば」
「それは極論だろうけど、素直に聞けるな。……ヒデさんにとって、ぼくは止まり木みたいなものなんだよ。足の指にシックリくる止まり木。止まり木がどんなに揺れようと、どうでもいいんだよね。止まり木という存在自体、ヒデさんには完全なものだからね」
「私だけじゃありません。神無月さんは、みんなの止まり木です。山口さんといい、横山さんといい、まだ会ったことのない女の人たちといい、神無月さんを止まり木にする人たちがそばにいてくれてよかった。安心して受験勉強を楽しめます」
 まだ笑っている。なんだかからだの細胞をぜんぶ洗濯されたような気分になって言った。
「有能な人間に囲まれてると、うれしくて仕方がない。無能者には、有能な同調者がついて回るものだ。なんと言ってもうれしいのは、無能であることを他人に委ねられることだね」
「神無月さんは才能のかたまりです」
「一芸が目立ってそう見えるんだろうね。でも、人に休息の幸福しか与えられないのは無能の証だよ。でもぼくはそれがありがたい。そんなふうに人を安らかにさせる形で存在することは、ぼくの理想だ」
 ヒデさんは笑いを収め、
「自分を無能と言って説き伏せるのは、むかしから神無月さんの得意技みたい。何が無能なのかわかりませんけど、無能であってもなくても、私は大好きです」
「ありがとう、ヒデさん。ぼくの命を認めてくれるんだね」
「認めるも何も……ごめんなさい、得意技なんて言ってしまって。よくわかりもしないでいっぱしの口を利いてしまいました。私、神無月さんの言っている意味がわかってないのかもしれません。神無月さんが私にこんな合わせたような言い方をするのは、とても謙虚だからだと思います。とにかく私は、神無月さんが好きなんです。きっとこういうふうに神無月さんを愛しているのは、私だけじゃないような気がします。でも神無月さんのことをだれがどう思っていてもいいんです。ぜんぜん関係ありません」


         二百七

 客が降り、客が乗りこむ。機械油のにおいが黒ずんだ床板から昇ってくる。私はヒデさんの横顔に、
「放蕩者や聖者のような、行動的な人間に見られなくてよかった。ぼくは放蕩者にもなれなければ、聖者にもなれない。痩せた放蕩者がでっぷり太った聖者になるってのは、けっこうラクな気がするけどね。世間に倣って自分を変身させればすむんだから。ぼくは外見とちがって放蕩者じゃないから、女は抱くけど、漁色に価値を置くことができない。世間的な何かに〈なり〉たくないから、このままの自分を変身させることができない。学問や芸術の護り札を握って、しかるべき肩書きを得て、何かに〈なる〉人もいるけれども、それはきっと誉めてあげなければいけない立派な努力家だ。でも肩書で人はほんとうに何者かに変身できるんだろうか。なるというのは変身じゃなく、脱皮のことで、皮を剥いてもともとそうだった姿を曝すということじゃないかな。むかしの、いまの、あしたの、死ぬ前のぼくの姿は、すでにそうあったものじゃないのかな。ぼくは長生きして、少しずつ皮を剥いて自分がどう〈あった〉のか知りたい。すでに〈なっていた〉姿をね。むかしは化けの皮を剥がされるのが恐怖だったけど、いまは快楽だ」
 ヒデさんは強く私の手を握り、
「なんて誠実な人なんでしょう! 私は神無月さんの言うことがぜんぶわかります。いま神無月さんがしゃべっている言葉そのものがぜんぶわかります。原始的で、真実味があって、打ちのめされます」
 ヒデさんはゆっくりと悲しげに、長い睫毛をしばたたいた。
「……私は、神無月さんが好きなだけなんです。それで何の不満もないんです。せっかく出遇うことができた愛する人を、一生愛しつづけたいだけです」
 二十もの駅に停車しながら、本郷三丁目に着いた。曇り空からすっかり雨の気配が退いている。傘を車中に忘れてきたことに気づいた。ヒデさんは持っている。
「あら、傘!」
「いつものことだ。もう何本もなくした。十一時か。三時間ぐらい練習するよ」
「はい。神無月さんのユニフォーム姿を見るのは市営球場以来なので、なんだかドキドキします」
「これが赤門」
 ヒデさんは塗料の剥げかかった朱色の門に、目を細めて見入る。何の感想もない。並んで門を入り、
「ここを右へ真っすぐいくと、三四郎池。見ていく?」
「いいえ、興味ありません」
 ヒデさんと構内のイチョウ並木をグランドまで歩いた。東大球場の門を入ったとたん、
「大きくてきれい! 何十人もいる」
 たちまち笑顔になった。監督、助監督、部長たちは出ていない。ネット裏のコンクリート桟の下にカメラマンや新聞記者がチラホラ。応援団やバトンガールたちはセンターの湿った芝生で練習している。ブラバンの姿はない。
 ヒデさんはスタンド横の石段を上っていって、板ベンチにハンカチを敷いて腰を下ろした。走り寄ってきたチームメイトたちがスタンドのセーラー服に気づき、
「なんだ、なんだ、金太郎さん、また恋人?」
「青森の友人の妹さんです。野球が大好きなので、どうせなら練習風景を見せようと思って」
 克己が、
「早く着替えてこい。フリーバッティングを見せてやれ。おーい、金太郎さんのフリーいくぞ! ピッチャー村入。レギュラー、守備に散れ!」
 背番号8のユニフォームを着、少し窮屈になったスパイクを履く。あしたから富沢マスターのスパイクを履こう。グローブとバットを持ってグランドに出る。バックネットのそばで練習を見守っていた詩織と睦子が、補欠たちといっしょにまぶしそうにスタンドのヒデさんを見上げた。私は睦子に、
「青高の後輩だ。再来年名古屋大学を受ける」
 睦子と詩織は何もかも了解した微笑を浮かべた。助手たちに挨拶し、ホームからライトポールまで速駆けで一往復。呼吸を整え、バッティングケージに入る。尻に薄茶色に泥がこびりついたユニフォームを着た村入がマウンドに立つ。
「直球とカーブ、適当に混ぜるぞ!」
「はい!」
 内野に向かって、
「内野ゴロのときは走ります!」
「オッケー」
 内野手たちがグローブを上げる。補欠やコーチ連がネット裏のベンチへ上がって居並んだ。応援団とバトンたちはネット裏のスタンドに退避した。
 初球ライトのネットへホームラン。キャーとヒデさんが叫び声を上げ、手を叩く。つられてマネージャーたちも拍手をする。そこから五球つづけてレフトへライナーを打ちまくる。ヒット一、捕球二、ホームラン二。
「始まったな。左から順番のホームラン」
 克己が立ち上がってセンターにメガホンを向ける。
「センターいくぞ! 十本。村入、ストレートだけ!」
 センターフライ三本、ライナー三本、ホームラン四本。フラッシュが何発も焚かれる。
「おーい、一、二年生、いまから内野に二十本打つから、神無月の代わりに走れ! 金太郎さん、内野ゴロ打ち分けてくれ」
 ホームベースにスタンドから降りてきた補欠十数人がたむろする。村入の投球コースに従って、左、右、真ん中と素直に叩きつける。あいだを抜けていく打球七本、ゴロ十三本。打球が速いので内野ゴロ走者はすべてアウトだ。
「よーし、ライト、二十本いくぞ! 村入、好きに投げろ」
 ライトオーバーのホームラン十九本、ラインぎわのヒット一本。拍手が鳴り止まない。「ありがとあした!」
 私はグローブを持って、レフトの守備位置へダッシュする。克己が叫ぶ。
「レギュラー、フリーバッティング! 五巡。ピッチャー五人、一人あて三振を取るか打たれるまで投げろ。内野ゴロは、一、二年生が走れ! 棚下キャッチャーやれ。俺も打つ」
 ひとしきり球音と走塁のスパイクの音が響く。水窪のいい打球が滑ってくる。ラインぎわで押さえて二塁へノーバウンドの送球。ランナー、アウト。
「ナイス返球!」
 センターの岩田から声が飛んでくる。詩織と睦子とヒデさんが拍手している。守備を風馬に譲り、外野のアンツーカーで腕立て。ユニフォームが汚れるので腹筋背筋はやらない。
 フリーバッティングが終わるころ、粒の見える雨が降りはじめた。全員引き揚げる。応援団とバトンガールが入場ゲートから首をすくめて走り出ていった。ネット裏から兼コーチの声。
「よーし、終了! 来週の金曜まで自由練習。雨以外はなるべく参加! 十月五日土曜日の明治戦は、二時試合開始だ。帰ってよし!」
 レギュラーたちが部室でダベりながら汗を拭いているあいだに、帽子を水道で洗って小ザルにかぶせ、ブレザーに着替える。ユニフォームを畳んで紙袋に入れて、ロッカーの隅に押しこむ。隘路を渡ってマネージャー室へいき、傘を貸してくれと頼む。詩織がすぐ傘を一本差し出した。白川がにやついて、
「きれいな女だな」
「野辺地の友人の妹です。再来年受験なので、大学の雰囲気を体験してもらおうと思って連れてきました。あしたは早稲田を見せて帰すつもりです。練習はあさってからきます」
「無理にこなくていいよ。都合がついたらな」
「はい、じゃ、さよなら」
「グッバイ」
 睦子も黒屋も手を振った。部室に戻り、部員たちに挨拶し、グランドに出てコーチ二人にも挨拶をした。兼コーチが、
「じゃ、金太郎さん、次の練習でね。来週の水木金は監督や助監督や部長たちが出てくる」
「はい、失礼します」
 スタンドのヒデさんを呼び寄せ、二人傘を差して三四郎池へ回る。雨に打たれる水面が美しい。
「どう? 漱石の三四郎池。ぼくも興味がないから、一度しかきたことがない」
「思ったより小さい池だけど、きれいですね。水鳥がかわいい」
「高木は、シイ、カシが中心だね。ミズキ、エノキ、キリ、ムクノキ、ケヤキ、タブ、ナンテン、グミ、カシワ、タモ、シュロ。背の低い木は、ほとんどモチ。ほかにビワ、ツバキ、ソテツ、アジサイ。草は、シダ、キク、ドクダミ、ツユクサ、ヤブカラシ、セイタカアワダチソウも生えてる。島の部分には、ザッと目につくのは、クロマツ、ケヤキ、クスノキ、カシワ、アオキ、モミジ、トウカエデ、ツツジ、ツタ、ササ―」
「山口さんが、植物博士と言ってたとおり」
「池に浮かんでる鳥はマガモ。スズメやカラス、ルリビタキやカワセミもやってくるよ」
 ヒデさんはマガモを見つめる。傘で翳った横顔に、えも言われぬ光輝がある。けいこちゃんよりよほど美しい。子供のころのけいこちゃんとは、たぶん似ても似つかないだろう。しかし、この顔から私のすべての女が派生した。
「いこう。あれが安田講堂。意味もなく大きいね。学生をゴマ粒みたいに小さく見せるための書割だ。空でもないのに振り仰がなくちゃいけない。ぼくはこんなものは見上げないで、グランドへいく。グランドには、視線を少し斜めに上げるとスタンドがある。そこから大勢の人びとがやさしい視線を送ってよこす。……彼らの視線を受けながら、できるだけ長くみんなのそばにいようと思う」
 ヒデさんはこぼれるように笑い、
「すてき……。あの女の人たち、恋人ですね……。神無月さんの手や足のようでした。私の好きな人の、からだの一部。立派なことを言ってると思わないでくださいね。ほんとうの気持ちです」
「ありがとう」
「私は、神無月さんが最初に愛した女の生まれ変わりです。私にだけは何でも教えてくださいね」
 思っていたとおりのことを言う。
「うん」
 遠い日のけいこちゃんの仕草を、声を思い出した。
 地下鉄の駅まで傘を並べて歩く。セーラー服が雨の舗道で輝く。
「大勢の女を生身の人間として愛するなんて、奇態な行動だ。精霊として恋してるわけじゃなく、肉体に触れるんだからね。ときどき、だれも愛してないんじゃないかと思うことがある」
 引け目がつまらない理屈を言わせる。自分には男女のことに明瞭な理解も独自の意見もないことを伝えようとする。
「思いすごしです。女を精霊にするような人は愛されないし、たとえ愛されても、全力で愛されることを一生知らずにすごしてしまうでしょう。でも、神無月さんは全力で、すべてをぶつけられて愛されています。そして、そのことを痛いほど感謝しています。女の人だけじゃありません。男の人もそうです。神無月さんは、何人もの女の人や男の人を感謝の心で愛し返すことができるんです」
 明るく吸いつくような瞳で私を見た。
「……ぼくの周囲の男や女は、ぼくを長いあいだ見守ってきた付添いだ。この世の連中をみんな追い払っても、彼らとは別れたくない、そういうふうな人たちなんだ。彼らを思うと、感謝の気持ちにむせ返って息苦しくなるほどだ。ただ、いくら感謝しても、漠然と悲しさに襲われるのはなぜなんだろうね。ぼくは十九だけど、まるで子供のようだってことは自分でもよくわかってる。ぼくは自分の思いを語る要領がわからないんだ。ぼくには感謝を示す言葉や身振りというものがない。軽薄な言葉をしゃべったり、ただぼんやり見つめたりしてる。そのくせ、何よりも人のことを思ってる。よくもまあ、恥ずかしくもなく思うもんだ。ぼくには人のことを思うとき、どうしようもない引け目がある。こんな具合なら黙って引っこんでたほうがマシだという気がする。黙って引っこんでれば、かえって分別ありげに見えるものね」
 ヒデさんは大きく息を吸いこみ、喜びに満ちた表情で言った。
「神無月さんは、いさぎよくて、単純で、他人をかぎりなく信頼して、計画も、富も、名誉も求めないで、ただ真実だけを求める一途な人です。立派な模範として世間に打って出られるのに、陰に隠れて、ほかの人たちに席を譲ろうとする人。そんなふうに生きるためには、多くのものを理解しないことが必要なんです。何も理解しないで、愛されたことに感謝するだけなんて、すてきですね! そんな人間に出会ったら、どんな男でも女でも自分を理解されることなんか求めないで、ただただ愛そうとします。そして、ほかの人間にその愛を知らせるのがいやになります。私にとって大切なのは、愛を返してくれる神無月さんの感情に真実味があること、頭の中で無理に作り上げた返礼ではなくて、とても自然な感情だということです。……これからは、ぜったい自分を疑わないでください」
 足もとに小便(ゆはり)が散った日以来、いっときもこの女と離れずに暮らしてきたような錯覚を起こした。
「死んでしまったような人たちの道徳に照らして自分を貶めることなんか、ぜったいしちゃだめ。神無月さんが異常なことは、百も承知です。肉体の生活も、心の生活も……。あまりにも異常で、無邪気なユーモアさえ感じます。その異常さはぜんぶ、誠実な美しい心からきてるんです」
 傘を畳んで、地下鉄の階段を降りる。
「アパートの狭い部屋よりもきれいな部屋で―」
「私はどちらでもかまいません。神無月さんに抱いてもらえることには変わりはありませんから」
 池袋から山手線で馬場に出、東西線に乗り換え、あてもなく終点までいく。三鷹。寂れた都会。
「降りよう。なんだかしっとりした旅館があるような気がする」
 ヒデさんの美しい目の中に澄んだ光がある。情熱の底とか、快楽の裏には、いくらか悔恨が潜んでいるものだ。それがない。


         二百八

 北口から少し歩き、老舗ふうの小ぎれいな旅館に入った。迎えた仲居は四十年配の落ち着きのある女で、黒繻子の衿をかけた碧い無地の着物に地味な昼夜帯を締めていた。いいところに入ったと思った。帳場のようなカウンターで、求められて名前と住所を書いた。ヒデさんもそれに倣った。私は、セーラー服姿の高校生が自分の名前を書きこむ横顔を眺めた。まじめな表情をしていた。
 仲居は廊下でも部屋の中でも何も言わなかった。二階の八畳部屋は掃除が行き届いていた。案内された木枠の内風呂もしっかり磨いてあった。ヒデさんは部屋の隅の乱れ籠に入れてある寝巻きと丹前をめずらしそうに眺めた。
「お蒲団を敷きましょうか」
 仲居が尋いた。
「……そうしてください」
 仲居はテーブルを隅に寄せ、蒲団を並べて敷くと、
「夕食は、六時から八時までです。大部屋でとりますか、こちらにお持ちしましょうか」
「七時ごろに、部屋へお願いします」
「朝食は七時から九時までです」
「夕食を食べたら帰ります」
「そうですか。何かお申し付けがありましたら、ダイヤルの二番を回してください。どうぞごゆっくり」
 と丁寧に挨拶して出ていった。壁の時計を見ると、五時だった。薄い蒲団の裾に並んで坐り、見つめ合った。ヒデさんは私の胸に抱きついてきた。
「この日をずっと夢見てきました。愛してます」
「信じる。ぼくは愛を口にする女のすべてを信じる。愛してくれる人間を信じなければ、この世に信じられるものがなくなる」
 ヒデさんが顔を上向け、私の胸に両手を添えた。抱き寄せ、蒲団の上に横たえ、強く、長く、唇を吸った。彼女も大きく口を開けた。セーラー服のスカートの下に手を入れると、
「お風呂に入ってきます」
 ヒデさんは私の腕を押しのけて起き上がろうとした。
「このままでいい」
「よごれてます」
「ヒデさんのからだから出たものだ。汚くない。服を脱いで、裸になろう。おたがいに隅々まで見せ合わなくちゃ」
「はい―」
 ストッキングの上から溝に沿ってそっとさする。脚を少しずつ開かせ、湿りのある場所を指で探る。ヒデさんは股を閉じ、ゆっくりと制服の上着のボタンを外した。スカートとシュミーズを脱いで、白い前フックのブラジャーを取ると、少し上に反ったコニーデ型の乳房が現れた。色白のせいで、乳輪がくっきり浮き上がって見える。全体がぴんと張っていて、乳房の下に皺がない。ヒデさんは自分で尻を上げ、黒いストッキングを脱ぐ。仰向けになった。私はヒデさんの一連の動作を眺めながら、全裸になった。
 下着一枚の姿がなまめかしい。華奢でほっそりとしていながら、胸と尻の大きい理想的な曲線を持った裸体だ。ヒデさんは目をつぶっている。私はパンティを引き下ろすと、彼女の上体を抱いて口づけをした。
「ちょっと待ってて」
 私は立ち上がり、浴室にいってバスタオルを持ってきた。二つに折って腰の下に敷いた。並んで仰向けに横たわる。ヒデさんが目を瞠った。私の性器を凝視している。
「触ってごらん」
 反り上がっているものに屈みこみ、顔を寄せる。女の本能だ。
「これが……神無月さんの……きれい……とってもきれい」
 五本の指で握った。
「ドクン、ドクンて、いってます」
「うん。……ヒデさんのも見せて」
「……はい」
「オシッコをするようにしゃがんで、うんと開いて」
 言われたとおりヒデさんは起き上がってしゃがむと、大きく股を開いた。
「けいこちゃんと同じ格好ですね」
「うん」
 ヒデさんがカズちゃんたちに似て、控えめな性質でないのがうれしい。
「ぜんぜんちがう。のっぺらぼうじゃない」
「……あたりまえです。大人ですから」
 開脚した股の前に寝そべって覗きこむ。白いからだの中で目立つ多めの陰毛が、大陰唇の上部まで覆っている。あの日のけいこちゃんが、陰毛の下に複雑な襞を曝している。極端に短い縦長の小陰唇、ポコンと突き出た包皮がわずかに茶ばみ、クリトリスが白い頭部をかすかに覗かせている。ピンク色の前庭に愛液が光っている。会陰も濡れている。股ぐりに黒ずみはなく、毛穴も立っていない。いつも清潔にしている証拠だ。
「濡れてる」
「はい、興奮してます」
 ヒデさんの顔がけいこちゃんのように輝いた。
「ぼくに顔にお尻を向けるように跨って」
 喜びの表情で素直に従う。シャッターが絞られたような肛門の周りは、これもまったく焼けていない。その清潔な印象に多量の愛液がそぐわなかった。膣に浅く指を入れてみた。ピクリと腹が波打った。痛みの波ではない。
「気持ちいい?」
「はい」
「ぼくのものを口に入れて」
「はい」
 そのまま屈み、懸命に含もうとするが、うまく口の中へ入らない。
「先を舐めるだけでいいよ」
 大事そうに茎を握りながら亀頭の先を舐める。クリトリスに舌でそっと触れた。同じように腹が縮んだ。
「気持ちいい?」
「……とても」
 小陰唇に沿って舐めた。ヒデさんは私のものから口を離した。
「ああ、神無月さん、気持ちいいです。自分でするより、ずっと……」
「オナニーをしたことがあるの?」
「はい。何度か」
「イクときは声を出す?」
「つい、イクッて声を出してしまいます」
「中に何か入れたことは?」
「……中指を……神無月さんのことを思いながら……」
 舌を回しながら二つの乳首をいじった。
「とっても気持ちいいです。ああ、恥ずかしい、こんなに早く……イキそうです、イッていいですか、ああもう、もうだめです!」
「いいよ、思い切りイッて」
「うーん、イク!」
 腹を落として尻を突き出し愛らしく痙攣した。そっと腰を横へ押してやると、仰向けに転がり、両脚を少し開いてもう一度グンと痙攣した。頬が紅色に染まり、品のいい微笑のような表情になっている。数回痙攣するのを待って、すぐに挿入した。狭い空間に無理に滑りこませたのに、じゅうぶん潤っているせいかまったく痛がらない。
「痛くない?」
「はい、痛くないです。……大きい神無月さんのが入ってます」
「そう、いま入ってる」
「……とうとう私たち、いっしょになれたんですね」
 たちまちヒデさんの目から涙がこぼれた。
「出会ってから四年かかったね」
「はい。長かったです」
 用心してゆっくり動く。やはり痛がらない。少し速く動かしてみる。イツッ、という声が洩れたが、一度きりだった。動きを止めて尋いた。
「スポーツをやってた?」
「徒手体操を一年生のとき。足首を捻挫して、やめました」
「よかったね。じゃまものがほとんど消えてなくなってる。でも、ちょっと痛むかもしれない。じゃ、ぼくがイクのも感じてもらうね。ヒデさんのようないい顔ができるかわからないけど」
「はい。お顔を見せてください」
 私は腰の下のタオルを取り払った。いつものとおりきちんと手順を踏み、浅く、深く動きはじめる。膣のうごめきはないが、全体が狭いので強くこすられる。すぐに果てそうな気がした。ヒデさんが言いつけを守って、じっと私の顔に視線を注いでいる。一秒も表情の変化を見逃すまいとしているようだ。不思議なことに、絶えずけいこちゃんを思いながらも〈ヒデさんの顔〉だけを見つめていた。思い出そうとするけいこちゃんの遠い面影がヒデさんの実際の表情の動きに拭い去られていく。ヒデさんの真剣な視線が、不意に焦点を失って逸れた。
「なんか、へんです。お腹の奥で、さっきみたいにイキそうな……。あ、へんです」
 動きながらクリトリスに触ってみた。
「あ、イク……」
 手を離すと、ヒデさんは達しないで、あの微笑のようなものを浮かべながら呼吸を荒くしはじめた。壁に脈がはっきり打っている。
「気持ちいいの?」
「はい、とても、とても、気持ちいいです、ああ、イク……」
 その寸前に私は引き抜いて、彼女の陰毛に向かって迸らせた。ヒデさんはグーと腹を縮めると、自分の片脚を抱いて胸に抱き寄せた。膝にあごを擦りつけるようにして、腹の筋肉を収縮させては緩める。微笑はなく、ア、ア、と言いつづけている。剥き出しになった陰部を見ると、短い小陰唇もクリトリスもすべてがひくついていた。異様に敏感な体質のようだ。そのひくつきをすぐさま唇と舌に記憶したくて、股間にキスをした。性器全体のうごめきが舌に触れた。目を開けて私の姿勢に気づいたヒデさんは、思わぬ快楽に打ちのめされて、またからだを強く硬直させた。それからゆっくり脚を下ろして、私の頭に両手を置いた。
「……恥ずかしい。女って、こうなるんですね」
「とてもかわいかったよ」
「……愛してます……郷さん……」
「名前を呼んでくれたね。ヒデさんの上に出しちゃった。妊娠が心配だったから」
「……ちゃんと中に出してくれてよかったのに。だいじょうぶだったんです」
「うん、今夜はアパートでそうする」
「うれしい……」
 彼女は首を曲げて自分の下腹部を見下ろした。からだを起こして、陰毛の上に貼りついているトロリとしたかたまりに触る。
「これが、郷さんのお腹から出たんですね」
「そう、気持ち悪い?」
「いいえ」
 彼女は手を伸ばし、濡れて鎮まっている私のものをやさしく握り、
「信じられません。ここから出たなんて。不思議」
「そのときのぼくの顔を見た?」
「あ、見ませんでした―ごめんなさい」
「ヒデさんはとても敏感だから、見る前におかしくなっちゃったんだね」
 ヒデさんは頬を染めながら、もう一度私のものを握り直した。じっと見つめ、起き上がると、微笑を浮かべながら、ぺろりと舐めた。草の葉で私の分身を愛撫した面影が、一瞬戻ってきた。そしてすぐにヒデさんだけの顔になった。
 いっしょに湯船に浸かり、からだを流し合い、野辺地の話をした。祖父母や、町の人びとのことや、彼らの仕事や生活ぶりのこと、気候のこと、海や山のこと、学校のこと、けいこちゃんのこと……。
「ぼくは根無し草だから、帰巣本能はないんだ。待っているか、訪ねていくだけ。そういう人間は、不健康な魅力があるかもしれないけれど、信用できない」
 蒸し返して、何とか自分をないがしろにしようとする。下心はない。ひたすら自分を否定したい。
「健康だろうと不健康だろうと、魅力がない人を好きにはなれません」
 ヒデさんは大人っぽい口調で応えた。
 風呂から上がり、二人しっかり服を着て、ルームサービスの食事をした。案内した仲居がおさんどんをした。
「お二人、婚約してるんでしょ。美男美女、お似合いのカップルね。おばさん当ててみましょうか。おクニから結婚前に花嫁さんが会いにきた、婚前交渉はどちらの親も承知、来年の春には学生結婚でゴールイン」
「当たりです。彼女もいずれ大学生になるので、すぐには結婚しないでしょうけど、デートを重ねることはまちがいありません」
「なるべく早く結婚したほうがいいわよ。お二人とも見たところ、資産家のお子さんでしょ。結婚してしまえばどうにかなりますよ」
「ご意見、参考にします。また、こちらに遊びきたら、ここに寄らせていただきます。きょうは二人が結ばれる記念日だったので、都心から外れた静かな街で思い出を作ろうと思って三鷹にきました」
「そうだったの。お役に立ててうれしいわ」
「じゃ、帰ります。ありがとうございました」
「これからもご贔屓にね。いつでもお待ちしてますよ」


         二百九

 夕暮れの路に出、駅前から伸びる商店街を歩いた。古本屋を冷やかし、質屋で針先ほどの小粒なダイアを垂らした首飾りを買ってプレゼントし、洋品店で私の見立てで黒いウールのオーバーを買った。
「これで冬を乗り切って」
 ヒデさんは大事そうに紙袋を持って歩いた。
「この幸せを母に伝えます」
 夜の中央線に乗る。ヒデさんは私の横顔を見つめ、
「負担に思わないでくださいね。郷さんが静かに生きたいことは、よくわかってますから」
「ラビエンに寄る?」
「二人だけになりたい。学校を休んできたので、あしたの午前には帰ります。みなさんに会うのは再来年にします」
「わかった。荻窪に帰ろう」
         †
 ヒデさんの初々しい好奇心は留まるところを知らなかった。その好奇心にほだされながら交わることがうれしかった。ヒデさんは好奇心の赴くまま、ほとんどの体位の知識を求めた。私は教え、そして、そのつど、彼女の内部へ心置きなく吐き出した。律動を伝えるたびに、官能に目覚めたばかりの十七歳の元気いっぱいのからだが、熟した果実のようににおい立った。私の腕を枕にするヒデさんに、
「名古屋大学に馬術部はあるかな」
「きっとあると思います。なければないでいいんです。……花園のミヨ子さんも、きっと名古屋にいくと思います」
「そう言ってた……」
「いま中三ですよね。大学、就職、どちらに進路を決めるにせよ、高校を出るまであと三年半。そのときはもう彼女も子供じゃないから、そんなに怖い感じはしません。子供のときに思い切った行動をとられてたら、いろんな意味で怖かったけど、案外常識的な人でよかった」
「いろんな意味って?」
「神無月さんが犯罪者にされちゃうんじゃないかって……」
「なるほどね」
「まだ、手紙なんかはきませんか?」
「こない」
「住所を調べる方法がないんでしょうね。たしか奥山先生の親戚だったから、最後はそっちのほうから調べると思います。……私、ミヨ子さんのこと、人間として認めています。郷さんの生活を乱さずに、郷さんを愛する人はみんな認めます。ミヨ子さんの印象は、最初身勝手な感じがして、いいものじゃなかったんですけど、いまは自分も同じような印象を与えただろうって気づいて、お友だちのような気がしてます」
         †
 翌朝早く起き出し、下痢をした。下痢にかならず高い耳鳴りが伴うようになった。ヒデさんも歯を磨いてから排便した。私も歯を磨き、何度も口づけを交わした。
 石手荘から出た足で西荻へ出かけた。連日の雨だ。小さなボストンバッグを持つヒデさんに傘を差しかけて歩く。西荻駅前の電話で山口を呼び出し、ヒデさんと再会させた。
「秀子ちゃん! どうしたの」
「神無月さんに会いにきたんです」
「うん、それしか答えようがないよな。で、ついに抱いてもらったの?」
「はい、やさしく、何度も」
「よかったね。いま何年生?」
「二年生です」
「大学は?」
「東大を受ける予定でしたけど、名古屋大学に替えました」
「そうか、名古屋大学も簡単な大学じゃないぞ。がんばれよ」
「はい」
 三人で立ち食いの天麩羅ソバを食った。ここでもヒデさんは、おいしい、を連発した。
 一駅吉祥寺へ回り、井之頭公園にいった。三人傘を差して池を眺める。山口は雨滴が紋を作る水面を見つめながら、
「大した公園じゃないけど、土産話にはできるよ」
「三四郎池よりは明るいですね。落ち着きます」
 池の縁にミゾソバの赤い小花に混じって水引草が生えていた。
「ミズヒキソウ……」
 指を差すと、
「お、あれがミズヒキソウか」
 山口はすぐに暗唱を始めた。
「夢はいつもかえっていった、山の麓のさびしい村に、水引草に風が立ち、草ひばりのうたいやまない、しずまりかえった午さがりの林道を……」
 私がヒデさんに説明する。
「立原道造の詩。ほら、あの糸みたいに細い赤い花。目を凝らさないと見えないよ」
「ミズヒキソウ……きれいな響き」
「そう。秋ふけし日の、においだつ草なかに、ミズヒキグサもうらさびにけり」
「茂吉か。どっちの歌も、さびしさを歌ってるな」
 ヒデさんは胸に両こぶしを当て、
「二人とも、すごい!」
「秀子ちゃんも、たくさん本を読むんだぞ」
「読みます。そういう詩や歌を聞いただけで、周りの景色がぜんぜんちがって目に映ります」
「本を読みすぎると、大学入試に落ちるから、気をつけなよ」
「気をつけます」
 私が、
「読みすぎても受かるよ。思いどおりにやったほうがいい」
「それは神無月だけの話。まねをしちゃだめだ」
「はい、山口さんの言いつけのほうを守ります。神無月さんは模範になりません」
「神無月は自分のことを馬鹿だ馬鹿だと言うんで、周りの人間はつい、自分も神無月のやることぐらいできるんじゃないかと思っちまう。できっこない。神無月がある意味自分をきびしく評価するのは、それはいろんな不幸のせいで自分に対する判断力を鈍らされたせいだ。心が石のように見えたりするのも、数かぎりない打撃を耐え忍んでいるうちに、身についた癖だ」
「はい、そうだと思います。私の大好きな癖です」
 公園口通りの『オリーブの樹』でミートソースを食べ、武蔵野文庫でサントスニブラを飲んだ。通りの軒並はいろいろな種類の店が雑じってうるさい感じがするが、この二軒の店だけは構えがどっしり落ち着いている。ヒデさんが山口に、
「神無月さんについて、もっとお話を聞かせてください。神無月さんは自分の悪口しか言いませんから」
 山口は真剣な目つきになり、
「こいつには手に入れたいものがないんだ。人が〈必要〉の幻に負けて、何としても手に入れたいと思うものは、たいていの場合、それをすでに手にしている他人が必死になって渡すまいとしてるものだ。だから、そういうものを手に入れるための悪事の大部分は〈必要〉というまことしやかな仮面をかぶる。神無月は、他人が渡すまいとしてるものをハナから必要と思ってないんだよ。だから手に入れたいものがない。悪事も働かない」
 私は、
「手に入れたいものはある」
「愛だろ。それはおまえが唯一必要物だと思っているものだ。必要の幻じゃない。もともとおまえを満たしてる現実だ。求める必要はない」
 ヒデさんは山口と同じ真剣な目を私に向けてうなずいた。山口が、
「秀子ちゃん、何日かゆっくりしてくの?」
「きょうのお昼に帰ります。帰ってたくさん勉強します」
「二年後か。俺は東京にいるよ。ギターを弾きながらね」
「神無月さんと離れてさびしくないですか」
「アハハハ、こいつは訪ねていけば簡単に手に入るよ。ギターで一人前になったら、四六時中そばで暮らそうと思ってる。売り手に箔がつけば、別に東京にいなくてもいい。それまでは東京でいろいろ修行するさ。東京は修行の便宜が図りやすいからね。齷齪営業もしなくちゃいけない。……しかし、神無月、考えると、セーラー服ってのは、なかなか高度な擬態の役目を果たしてるな」
「たしかに。この中に熟したからだが隠れてるなんて、まず思わないからね」
 ヒデさんは照れくさそうに肩をすくめた。山口は、
「猛勉、元気」
「モウベン?」
「西沢利治先生」
「ああ、数学科の主任ですね。数Ⅰも西沢先生に習いましたし、数ⅡBもいま習ってます。私はできの悪い生徒ですけど」
「担任?」
「いいえ」
「なら、秋のバス旅行は経験なしか」
「はい。西沢先生のクラスは、そんなことしたんですか」
「したんだ。竜飛岬へいった。いい旅だった、な、神無月」
「ああ、いい旅だった。風が強い日でね。あのものさびしい風景を思い出すと、いまでも胸がいっぱいになる」
 東西線で馬場に出、山手線に乗り換えて上野に向かう。山口がヒデさんに尋く。
「東奥日報に名古屋の記事は載った?」
「はい。神無月郷の夏休みという題名で、一週間連続で特集されました。山口さんや、横山さんや、大勢の女の人たちが毎日写ってました」
「いまや神無月は全国紙にもばんばん載るようになったけど、最初の報道を手がけたのは東奥日報なんだ」
「知ってます。青森放送や青森テレビも、名古屋の街並のスナップ写真を背景に神無月さんのいろいろな表情を流して、派手な特集放送をしました。神無月さんの歌声と、山口さんの本格的なギターを初めて聴きました。ジーンとしました。神無月さんがすごい美男子だということがあらためて知れわたって、しばらくセンセイションになったんですよ。新聞記事はスクラップにして大切にとってあります」
 山口は大きくうなずき、
「これほど有名になると、足を引っぱろうとする人間どもが虎視眈々と狙いはじめる。東奥日報も相当気を使ってあの記事を書き上げたんだ。なんせ、神無月が歌ってた場所は置屋だからね。売春婦の元締めの家だ。北村和子という神無月の恋人の実家だ。東奥日報の浜中という記者の腹一つで、あんなにうまく報道してくれた。とにかくアラを探されないようにしないと、大のマスコミ嫌いの神無月は、これまで冷たくした分、しっぺ返しを喰らう。しっぺ返しをすることで、やつらに愛想よくすることを免罪符として押しつけてくるんだ」
「母もよく言ってました。マスコミは怖いから、くれぐれも神無月さんに迷惑をかけないようにしなさいって」
「何をされようと、神無月は気にしないんだが、王が庶民にいたぶられているのを目にするのは、臣下の心臓に悪い。自分の心臓を守る意味でも、周到に行動しないとな」
「はい、自重します。いつまでも。……自分だけでなく、神無月さんの幸せもかかってますから」
 上野駅で青森までの切符を買い、駅弁も買って渡した。五万円を、参考書代と言ってボストンバッグに入れた。
「あれほどかわいがってもらったうえに、こんなことまでしていただいて―」
「遠方からきた人にできるかぎりのもてなしをするのは当然の礼儀だ。チビタンクとお母さんによろしく、機会があったらお父さんにもよろしく。楽しんで勉強すること」
「はい! 神無月さんも、山口さんもお元気で。一年半、お別れいたします」
「またチャンスがあったら会おう。神無月のことは心配するな」
「はい。神無月さん、ときどき手紙を書きます。返事はいりません」
「書きたいときは書く。ぼくの手紙にも返事はいらないよ。キリがなくなる」
「そうですね」
 デッキに昇ったヒデさんと握手する。山口が、
「今度俺たちが秀子ちゃんに会うのは、たぶん、二年後の名古屋だな」
「はい、かならず名古屋大学に受かります。じゃ、さようなら」
「さよなら」
「さよなら」
 ヒデさんは列車の窓からいつまでも手を振っていた。


         二百十

 上野公園口のライオンに入る。生ビールの中ジョッキ、枝豆、鶏の唐揚げ、ローストビーフを注文する。山口はほかに大盛りナポリタン。ジョッキを打ち合わせる。
「カズちゃんと文江さんは八重歯なんだ」
「は? そうか、そう言えば」
「二人の八重歯で女たちのカッコを閉じたような気がして。大門の入口と出口みたいなものかな」
「何だ、そりゃ」
「どちらかの八重歯が抜け落ちたら、女たちがバラバラになりそうな気がする」
「……和子さんは頑丈だが、文江さんは齢だしなあ。歯も早く抜けるんじゃないか」
「素朴で強い女だ。娘に情熱の模範を示すために、自分の肉体を投げ出してぼくを引き止めたんだからね。できないことだよ」
「娘などかまわず、おまえに惚れただけのことだろ」
 これというわけもないのに、なぜか急に胸騒ぎがした。
「あんな象徴的な病気になっちゃって。……あと何年生きられるか。中日球場で野球をやる姿を見せてやりたい。彼女がいなくなれば、節ちゃんは少し遠ざかるだろう。ぼくの女の原点だとみんなが信じている節ちゃんが遠ざかれば、カズちゃん以外の女たちが、少しずつ遠慮をしはじめるような気がする」
「だから、その連想には根拠がないって。文江さんが亡くなれば、亡くなったという事実が残るきりで、みんな少しさびしくなって、もっと強く肩を寄せ合うようになるんじゃないのか。神無月帝国はいずれ二十人になると俺は踏んでるぞ」
「何人だろうと、一人でも欠けるのはつらい」
 山口はうっすらと微笑を浮かべ、
「……おまえはだれよりも変人だよ。だから、変人を好む。おまえを愛する変人は、おまえに変人性を嫌われないから助かってる。おまえには、あらかじめ定められた自分の人生の目的が見えるし、感じられるんだ。世間にはもっと高尚な役割、あまねく常人を救うという役割を与えられた人間もいるんだろうが、おまえはこの世における自分の役割は、変人たちが望むかぎりのあいだ彼らに自分の時間を提供することだと信じてる。そしてそのことに満足してる。つまり、おまえはやっと、自分にほんとうにマッチした人間どもに巡り会えたということだ。―俺を含めてな」
 山口のかすかな微笑は、彼が私を心から愛し、そして尊敬していることを、そしてきちんと私の運命を理解していることを物語っていた。私は強く心を打たれた。もとを正せばみんな、ただのいきずりの男と女にすぎない。変人であるかどうかは山口の言うとおりにせよ、私は、彼らと巡り会うことでついに永久の場所を見つけ出し、そしてその世界で自分が幸福であることを悟ったのだ。彼らは私の行動の価値を認め、世間が非難し罰するにちがいない行為を肯定する。私は世間にいるよりも、彼らが作りあげた世界にいるほうがまちがいなく幸福だろう。
「どうだ、ひさしぶりにラビエンでもいくか」
「いこう。きょうは出演しないから、気楽だね」
「ああ、ノンビリ飲める」
        †
 ラビエンは盛況だった。目立たずに時間をすごせる。
「タートルネック着てみたんだけどさ、どう、だらしなく見えない」
 よしのりが山口に訊く。
「見える。もともとタートルネックは、ネクタイなしでも着られるフォーマルファッションとして売り出されたものだから、だらしなく見える。接客には向いてないな」
「チェ。神無月、きょうは歌わないのか」
「歌わない。飲み代ただにしてくれなくていいよ。歌ってもいいんだけど、山口の伴奏なしでは歌いたくない」
 カウンターにつまみが出る。焼きソバ、ニラレバ、餃子、チーズセット。ナマコ酢とモロきゅうまで並んでいる。
「この酒、信州の真澄。どんどん食って。たまには、カクテルでも作ろうか?」
「お、頼む」
 シェーカーを振りはじめる。私は、
「いろいろ入れたのは何だ?」
「ジン、グレナディンシロップ、ライムジュース、玉子の白身」
 振る姿がさすがにサマになっている。カクテルグラスに淡い朱色の液体を注いで、二本指でツイと差し出す。
「はい、クローバークラブ。アルコール度はふつう。飲みやすいよ」
 表面に卵白が浮いているので飲みにくそうだ。山口が横合いからサッと奪い、含んだとたんに、うまいと笑った。
「俺の調合の腕がいいんだよ」
 あらためて私にもう一杯作る。シェーカーを振りながら山口に、
「ギターコンクールまであと一年か。優勝か入賞をしなかったら、どうする?」
「弾き語りの仕事をつづける。一年ごとに挑戦だ」
「神無月といっしょに中退しちゃうんだろ? 中退なんかしないほうがいいぞ。肩書は助けてくれるからな」
「神無月みたいに自分を崖っぷちにおかないとな。二、三年ものにならなかったら、神無月じゃないが、土方をする。長屋の八つぁん熊さんみたいに、週に二日も稼げばじゅうぶんやっていけるだろう」
「そうか。一見気楽そうだが、ギリギリの覚悟をしてるわけだ。しかし、天下の東大法学部だぜ。ギターなんか弾かなくたって―」
 私は口を挟んだ。
「ギターなんかとはなんだ。ぼくに向かって野球なんかと言えるか。ギターには東大法学部の数万倍の価値があるぞ」
 山口は苦笑いしながら、味噌をたっぷりえぐったキュウリを齧った。
「横山さん、ギターは俺の本道なんだ。神無月と同じように東大は寄り道だ。人生というのは寄り道ではうまくいくもんだ。神無月にしても同じだ。本道以外はスムーズにいくようになってるんだよ。おそらく神無月が最後まで恵まれない本道は文学だろう。才能を素直に買ってくれないし、その筋に挨拶回りをしなくちゃいけないし、なんせコネが幅を利かせる世界だからな。野球やギターの場合はちょっとちがう。本道は本道でも、才能をしっかり認める世界だ」 
「ショパンコンクールなんかは、怪しいらしいぜ」
「イベントが大掛かりになれば、そういうこともある。ギターコンテストごときは、まず不正はない」
 ステージがガタガタしはじめる。よしのりが、
「きょうはグループサウンズだな。ラビエンもすっかり音楽パブになったよ」
 部長が近づいてきた。
「そろそろステージが始まるんですが、エレキギターですけど、もしよろしければ、神無月さん、一曲歌っていただけないでしょうか。正体は明かしません。お客さんの飛び入りということにしますから」
 山口が、
「歌ってやれ」
「エレキで?」
「スワンの涙でも歌えばいいだろう。よしのりさん、歌詞本ない?」
「ステージにあるよ。スワンの涙? オックス? 神無月には合わないな」
「まあ、魔法を見てみろって。びっくりするぞ」
 部長が頭を下げたまま固まっている。私は、わかりました、と言ってステージに向かった。部長がステージに飛んでいって、バンドの連中に説明する。私は彼らの一人に渡された歌詞本を譜面台に広げた。エレキギター、ドラム、ベース。ピアノまで控えている。みんな若い。
「スワンの涙、お願いします」
 お辞儀をしながら言うと、全員笑顔でうなずき、カチ、カチ、カチ、とスティックが鳴り、とつぜん前奏が始まった。スムーズに歌い出す。

  きみのすてきなブラックコート
  二人で歩く坂道に
  こぼれるような鐘の音
  だれも知らない二人の午後は
  港が見える教会の
  小さな庭でお話しましょう
  いつかきみが見たいと言った
  遠い北国の湖に
  悲しい姿 スワンの涙

 浮ついた歌詞に歯が浮きそうだ。女の客たちが、キャー! と叫びながら立ち上がった。コーラス。三人ともプロだとわかる美しい和音だ。
「なんだ、なんだ、すごいな!」
「これグループサウンズじゃねえだろ! 別物じゃん」
 指笛、拍手、悲鳴。ズダダダダとドラムの連打。ピアノとエレキが激しく合奏する。コーラス。バンドの一人が科白を言う。

(あの空は あの雲は 
 知っているんだね)

 つづけて歌うようにドラマーが促す。

  離れたくない二人の午後は
  ブラックコーヒー飲みながら
  街のテラスでお話しましょう
  いつかきみが見たいと言った
  遠い北国の湖に
  悲しい姿 スワンの涙

 ピアノの長い後奏。ドラム、ズ、ド、ドン。
「ウオー!」
 拍手、男どもの喝采、女たちの黄色い叫び。指笛があちこちで鳴る。バンドの四人が立ち上がって拍手している。カウンターに戻ると、よしのりがビールを用意していた。一気に流しこむ。部長が走ってきて、
「この一曲でじゅうぶんです。めったにお見えにならないんで、わがままを言わせていただきました。ほんとにありがとうございました。リーグ戦のご活躍はもちろん、東大の優勝を心から祈っています。きょうはどうぞゆっくりしていってください」
 涙を浮かべたよしのりが、
「すばらしかった。どっから声を出してるんだ?」
「あんな歌で泣けたの? 心が広いなあ、よしのりは。荒唐無稽な歌詞なので、どう歌っていいかわからなかったよ」
 山口が、
「百日待てば百日目の声だし、千日待てば千日目の声だ。おまえの声はこの世に一人。ほかのやつの声は、声じゃない。横山さん、神無月の魔法に畏れ入ったか」
「まいった」
 エレキギターが静かなイージーリスニングの演奏に入った。よしのりが、
「神無月、俺、新しい女できたよ」
「またか!」
「ポン女の英文科だ」
 今度は山口が、
「またウソの学歴?」
「うん、日芸にしてる。……いずれ正体を言うよ。そろそろ別れる気でいるから」
「み月とつづいたことがないな。なんで女にはウソ言っちゃうんだろうな。おまえは天才的な博覧強記なんだぞ。中卒でどこが不都合なんだ」
「ほんとだよ、横山さん。自信を持ってその天才頭に惚れさせなよ」
 よしのりは、
「それは男の考えだよ。女は甘くない。女ってやつは、自分は細かい嘘をつくくせに、男の嘘は許せないってところがあるからな」
 よしのりは片目をつぶって茶目っ気たっぷりに笑い、アイスピックで氷を割りはじめた。山口がよしのりに、
「どう甘くないの?」
「いつか山ちゃんがやったみたいに、神無月の詩を見せたんだ。売れないわね、のひとことだ。ただの馬鹿だったんだよ。時すでに遅しだ。まあ、それもがまんしようと思えばできる。でもな、ほかに何が不満だともハッキリは言えないんだけど、ストレスが溜まってしょうがない。言葉の端ばしに、女の確固とした考えのしるしを見つけてしまうんでさ」
「考えのしるし?」
「安楽な物質生活だよ。金、金、金。女心というやつは、つけ上がったり気取ったりで、たいてい潤いのないものだ。厄介なことに、その立ち居振る舞いのどこかに、愛くるしい愛嬌が隠されてる。だから欠点をあげつらってみても虚しくなるんだ。……とにかく彼女の終着駅が俺ではないというのは確かだな」
 山口は、
「ふうん、深いね。俺は、女の経験はほとんどないから、いまのところ憂き目を見たことはないけど、世間の男を見ると、よくて途中下車、ほとんど通過ばっかりされてるな。神無月のように常に終着駅にされる男は特殊なんだよ。謫居(たっきょ)の人だったときにも、和子さんの目的地だった男だからな」
「まあな。しかし、神無月を気に入る女は人非人だぜ。ふつうの女は神無月に途中下車も通過もない。最初から乗ってこない」
 山口は愉快そうに笑って、
「人にあらずか……なるほどね。現実生活も意識の大所に入れながら、ひたすら好きな男の心とからだに一心こめて順応する女なんてのは、たしかに金のワラジ級の人非人だな。しかし人非人じゃなきゃ、神無月の本質は見抜けないだろ。そんな女はごく少数しかいない。たくさんいたら、神無月は潰れる。神無月を気に入る女はマレもマレ、ゼロみたいなもんだ。芸能人なんて、何百万、何千万人の女から好かれるだろう。平凡だからだよ。人生を賭ける必要がない安全牌だからな。好いたって、身に降りかかる火の粉がない。神無月は、ほんとにごくわずかな女からしか好かれないけど、近づいたら、大ヤケドする。人生賭けなくちゃいけなくなる。いまのところは目覚ましく大勢の女に見えるが、この先三十年経っても、せいぜい二、三十人だろう。一年に一人。それで一生分の数だとしたら、ふつうの男が生涯に付き合う女の数よりはるかに少ないぜ。世の中には百人斬り、千人斬りなんて男がけっこういるし、どんなふつうの男だって、商売女を数に入れれば、少なくとも二、三百人の女と寝ることになるだろう」
「まちがいない。よく飽きないもんだ」
「本と同じで、開くまでわからないからだろう。横山さんだって、もう四、五十人はいってるんじゃない? くどいようだけど、神無月を気に入る女は、女の分母を考えればゼロに近いということだ。俺たちがいま目撃してる神無月の女たちは、そのほぼゼロの集合体だ。人にあらずの神無月のフェロモンを嗅ぎ分けられるそんなゼロみたいな女なんてのは、まぎれもない人非人だ。まあ人非人じゃなきゃ、なかなかそこまで神無月に身も心も超人的に尽くせないな。付き合う男が常人だと、女はわがままな好色女になるか、カチカチの生活人になるかのどちらかだ」


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