二百十一 

 それからよしのりはカクテルを二、三種類振った。ダイキリという響きのいい言葉を覚えた。うまくはなかった。山口が、
「神無月、あえて野球の話をしていいか」
「うん」
「野球は、攻守走のスポーツだよな」
「うん」
「おまえのバッティングは光のかたまりだが、守備も走塁も閃光だ。ところが、ホームランを打ったときしかめったに走らない。走ると美そのものだ。足の速さは六大学でもナンバーワンクラスだろう。もっと盗塁してみたらどうだ」
「それはよく考える。でもぼくの役割はチャンスメーカーじゃなく、クリーンアップだから、あまり派手な動きをしたくないんだ。プロにいったらあらためて考えようと思ってる」
「二盗、三盗、本盗なんてのを一度見てみたいな」
「サイクルスチールか。そんなことをしたのは、過去に二人しかいない。昭和二十六年の巨人与那嶺、二十八年の国鉄土屋だ」
「ホームランには敵わないが、足も武器だからな。勝利の効率を高める。何よりも、美しいものはもっと人に見せるべきだ」
「うん、ヒットで出たときは、考えることにする」
 よしのりが、
「東大の事件が片づけば、これからは昭和元禄がやってくるって言われてるな」
「学生運動って、天下分け目の関ヶ原みたいなものなの?」
 よしのりは前屈みになって笑い、
「おまえがそんな話に乗ってくるの、似合わないぜ。俺に世間相場で話しかけようとする必要はないよ。関心のないことは、わざわざ話さなくていい。世の中のことなんか、世の中のやつらにまかせとけばいいんだ」
「そうだね。でも、学生のくせに、学生運動のことをまったく知らないのも、なんか脳味噌のないアメーバみたいだ」
 アメーバの連想で山口が、
「美女と液体人間!」
 私もすぐ反応して、
「白川由美!」
「なんだか、エロチックな映画だったな。いつごろだった?」
「昭和三十四年六月、横浜保土ヶ谷東宝。伊勢湾台風の三カ月前。小学校四年生」
 よしのりが、
「なんだ、それ!」
「映画少年だったから」
 山口が、
「そういう問題じゃないだろ。相変わらず不気味な記憶力だ。だれもおまえのことをアメーバだなんて思わないよ。……なあ、横山さん、昭和元禄なんてものは記憶力の悪いマスコミが騒いでるだけのものだよ。昭和元禄って、昭和三十年代全体のことを言うんだ。やってくるんじゃなくて、とっくのむかしに始まってる風潮だ。たとえば三C、漫画、芸能界」
「三Cってのは、カラーテレビ、カー、クーラーのことだろ?」
「そう」
 私は、
「石原裕次郎、小林旭、高橋秀樹。栃、若、力道山。新幹線、東京オリンピック、東名高速。巨人、大鵬、玉子焼き……」
「どれも韻を踏んでないな。しかし、そのようなもんだ。来年は、万博で昭和元禄はクライマックスというわけだ。学生運動なんて、その太平楽の水面に立ったさざ波みたいなものだろう」
 私たちのする会話は、だれの耳にも留まらず、埃のように自分の呼気に飛ばされ消えていく。
「神無月か?」
「神無月だろう」
 という声があちこちから聞こえてきはじめた。
「じゃ、そろそろ切り上げるか」
「そうだな、帰ろう」
 二人で立ち上がると、バンドの男たちがドラムと会釈で別れの挨拶をした。よしのりに見送られて玄関に向かう私たちに、部長が深々と頭を下げた。
「唄ってくださってほんとうにありがとうございました。思いがけないボーナスをいただきました。山口くん、きょうはありがとう。バンドの人たちも驚いてましたよ。鼻が高いです。歌のうまいお客さんということで紹介しましたから、ご安心ください。正体が知れたら大騒ぎになりますものね」
「いつもごちそうさま」
「とんでもございません。またのお越しを心よりお待ちしております」
 山口も、ごちそうさまと言って頭を下げた。よしのりに挙手して階段を降りた。二人で阿佐ヶ谷駅に向かった。
「そろそろヒーロー扱いにうんざりしてきたんだ。マスコミで宣伝されるせいだ。校庭で騒がれる分にはいい。なぜ日本じゅうで話題に? ホームランごときで」
「話題にすべき大事なことだからだ。ほんとうの自分と向き合って、耐えなくちゃな」
「ヒーローでなかった過去を断ち切れない。チョコバー、歯笛、貸本、裕次郎。ただ人を恋しがるだけの平凡な子供だった。無知で、楽しい毎日だった。平凡だった過去は変えられない」
「平凡? いつ?」
「ずっとだ」
「ふざけたことを言うな。人を恋しがるだと? たしかにおまえはかぎられた人間からしか恋されないから、もの足りない気はしたろう。だから思わぬ人間から恋されると、その奇跡への感謝を渾身の力で返すことを学習してきた。……無知の時代か。楽しかったろうさ。無知のおかげで、平凡嫌いが平凡に触れないでいられたんだからな。なぜ平凡が嫌いだったか考えろ。極めつきの天才だったからだよ」
 東西線に乗る。
「群を抜いて頭角を現すことはおまえの宿命だったんだ。それを悔やむな。しっかり受け取るんだ」
「そうか。じゃ、ヒーローと思われてもかまわないよ。時間をかけて努力すれば自分を騙せるはずだ」
「騙すも何も、実際ヒーローじゃないか。いく先も決まっている。おまえの嫌いな権力とおまえの人気を握る金払いのいい集団だ。平凡嫌いのおまえにピッタリのコースだ。よけいな共感をしなくてすむ。そういうのは初めてでないはずだ。宿命だったんだよ」
「―要らないな」
「権力と人気があれば、人を救える」
「そんなものなくても救えるだろう」
「ああ、たしかにな。俺たちは救われた。しかし、数多い人じゃない」
「数多い人など救いたくない」
「心ならずとも、それがおまえの宿命だ。あきらめろ。貸本や裕次郎の時代は、おまえの救済の記憶に穴が開いていた時代だ。自分だけを救済していたからだ。記憶に穴が開いているなどイヤだろう。俺はイヤだ。どこに穴が開いたか知りたい。その理由がいまの自分を生き延びさせているものだからな。とにかく、おまえはできるだけ大勢の佳き人間を救う宿命だったんだ。目の前にいる少数の非凡な人間は、ただちに愛することで救済できる。目の届かない多数の非凡な人間は手を伸ばして愛せる距離にいない。救済の網にかけるしかない。おまえの網は野球と文学、俺はギターだ」
「救済は山口の宿命でもあるのか」
「そうだ。俺もなるべく大勢の佳き人間を救いたい」
 荻窪で降りて、微笑している車中の山口に手を振った。愛する友を送ったあとに、一人でたたずむ恐ろしく気抜けした時間が訪れた。
         †
 部屋に入ると、目はまず、ヒデさんと一夜をすごした万年蒲団と、机の上の原稿用紙に吸い寄せられた。書きさしてあったのは、荻窪という題の詩だった。朝、ヒデさんが机に片手をついて、その詩を凝視していたことを思い出した。

  冷えた畳に だれか待っているかしら?
  待っている その人は神
  魚にこころがあったら 殺さないとか
  夕星(つづ)の夜が 長すぎるとか
  考える毎日に疲れはてた
  中央線の遠い音
  耳にゆかしい遠い音
  だれか待っているかしら?
  待っている その人は神
  すんでのこと 簡古の夕日は灰となり
  足なみ励ます 根こぎの 枯れくさ
  道に小止(おや)みして ため息ばかり
  旧街道の遠い音
  耳にゆかしい遠い音
  だれか待っているかしら?
  待っている その人は神
  ぼくは断じて帰さない!


 机の抽斗に入れっぱなしだった小物を整理した。色褪せて白っぽくなった千佳子のスタンド敷きが出てきた。最初にもらった青と白の市松模様のものだ。人びとの住んでいるところには親切な心も住んでいる。あらためて敷いてみた。千佳子の顔が浮かび、申しわけない気持ちになる。青高の九人の女たちが寄せ書きをした色紙は、この二年のあいだになくしてしまった。別の抽斗にパーカーの万年筆を見つけて、飛島の快男児の山崎さんを思い出した。一度だけでも、彼といっしょに駅裏へいってみたかったと思った。
         †
 カズちゃんの言ったとおり、新居が三日もしないうちに決まってしまった。カズちゃんらしくない興奮した声の電話がかかってきた。
「菊田さんが、吉祥寺の持ち家を改築して貸してくれるって! 石手荘は立ち退きをひと月延ばすように交渉してくれるそうよ。十月末までだいじょうぶって胸叩いてた。井之頭公園のそばの平屋の一軒家で、築十八年。昭和二十五年に建てたのね。十二帖の物置を洋間に改造して、十畳と八畳と六畳は畳を新しく入れ直して、台所とトイレを改装し、ガス風呂もつけてくれるんですって。東京にいるあいだ、家賃三万円、敷・礼なし、季節ごとの付け届けは要らない、その家にキョウちゃんが暮らしているうちに、もし菊田さんが死んだら、その家をあげるから、その代わりに彼女の墓守をしてくれって。相続税も自分で払うって言ってた。住所を言うから、書き取って」
 書き取った。御殿山という区画名が典雅に響いた。
「急な話なのに、えらく入れこんだものだね」
「……初めて不動産屋さんに入っていったとき、菊田さん、キョウちゃんの顔を見てひどく驚いたこと覚えてる?」
「うん、一瞬目を剥いたね」
「むかし別れた男の人に似てたんですって。二十九年前というから、昭和十四年。私が五歳ね。菊田さんが三十三のとき、四歳年下の死ぬほど惚れた男と、戦争で生き別れになったって」
「ふうん」
「同じ料亭で働いてた板前だったらしいけど、徴兵で取られて、そのまま行方不明。たぶん死んだと思うって言ってた。奥さんがいる人だったから、終戦後も確かめにいけなかったらしいわ」
「かわいそうに。……どんな慰めも効果のない話だね。あと十年も経てば、ぼくはその男の顔になるわけだね。十年でも、二十年でも、彼女が死ぬまで、ときどき顔を出すよ」
「そうね、それがいちばんいい慰めね」
「しかし、家をくれるなんて、気前がよすぎる。夢みたいだ」
「キョウちゃんにはそういうことが起きるのよ。初めて会ったときから、キョウちゃんのこと忘れられなかったんですって」
「それはそうだろうね。思わず抱き締めたくなったんじゃないかな。かわいそうに」
「キョウちゃんて、ほんとに……。トシさんも本望ね。元気そうだけど、いつガックリ弱ってもおかしくない齢だから、これで思い残すこともなくなったんじゃない」


         二百十二

「……墓守って?」
「トシさんのお墓の永代供養をすることよ。万一そんなことになったら、私が引き受けるから心配しないで」
「彼女はいま、どこに住んでるの」
「やっぱり荻窪よ。あの店から十分も歩かないところ。一度連れてってくれたけど、すごくきれいなお家。庭にお花がいっぱいで、大きな縁側があって、台所とお風呂以外は、十帖の物置と、八畳と六畳の和室二間。さっぱり片づいてて、とても気分よかった。お茶を飲みながら、いろいろお話聞いたわ。戦後大阪で姉弟だけになって、弟さんはがんばって自動車修理会社を立ち上げて、十年ほどはうまくいってたらしいんだけど、働きすぎで倒れて入院したとき、伯父さんに騙されて会社を乗っ取られて、弟さん、がっかりして自殺したそうよ。トシさんはそのころずっと旅館の仲居をしていて、四十過ぎていっとき好きでもない男と暮らしたそうだけど、むかし惚れた人を忘れられなくて、すぐ別れて上京したんですって」
「ドラマチックだ!」
「そんなわけで、親兄弟も子供もいないから、キョウちゃんにお家をあげても、相続にイチャモンをつけてくる人はいないって。会社を乗っ取った伯父さん一家は論外だしね」
「いいのかなあ、ほんとに」
「もちろんそうしてあげたほうがいいわ。トシさんも喜ぶし、キョウちゃんも遠慮なくお友だちを呼べるようになるしね。トシさん、上京してから、やっぱり仲居をしながら株で貯金を増やして、四十七歳で家を二軒、財産用と住まい用を建て、五十歳で不動産鑑定士の資格を取ったんですって」
「五十歳! 豪傑だね。努力家なんてレベルじゃない」
「そうね。想像を絶する人生ね。それから荻窪に店を出して十二年、ずっと独りでああやって矍鑠(かくしゃく)と生きてきたのよ。あくどいこともずいぶんやったそうよ。家を二軒も持つには悪いこともしなくちゃね、だって」
「まさに人に歴史あり、か」
「とにかく、ひと月後に、新築のような一軒家に引越しできるってこと。鍵は引越しの日に渡すわね」
「うん。また引越し屋を頼むことになるけど、ステレオを慎重に運ぶように言っといてくれる」
「わかった。机はどうする。うちのを運ぶ?」
「あのままにしておく。カズちゃんの家で勉強できなくなる。自分用の机があるというだけで、ホッとするんだ。新居には荻窪のを持ってくよ」
「蒲団が少ないみたいだったし、傷んでたから、引越しに合わせて買うわ。一軒家だから物干しが必要ね。それも揃えなくちゃ」
 仕事や勉強で忙しいカズちゃんに何もかもまかせるのは心苦しかった。電話を切り、思いついて、御池に連絡した。
「おお、神無月さん、ひさしぶりやなかですか! もう神無月さんの声を聞けんものと思っとりました。うれしかァ!」
「すまない。さっそく頼みごとなんだ。たぶん十月中に荻窪から吉祥寺へ引越しする予定だけど、手伝ってくれないか」
「はあ、やっぱり!」
「やっぱりって、知ってるの」
「なんとなく耳に入りました。女出入りが激しくて追い出されたって」
 この話を知っているのはカズちゃんだけだ。彼女がしゃべるとするなら、山口。山口が洩らすならよしのり。しかし御池にだれが……。
「だれ、そんなこと言ったの」
「堤さん。阿佐ヶ谷の店に一度みんなを連れてってもらったことがあったけんが、その店で最近仕入れた情報らしかです。松尾さんらは腹抱えて笑っとりました。神無月さん、ワシ、神無月さんのためなら何でもしますよ。お役に立ててうれしかです。日程が決まったら、連絡ください。日大の友人とトラックでいきます。雨が降ってもいきますけん」
「助かるよ。図々しいようだけど、頼むね」
「荷物をまとめておいてくれれば、ぜんぶ運びます。住所をメモします。言ってください」
 石手荘と新居の住所を伝えた。
「手間賃を出すよ」
「いらんです。今度、飲むチャンスがあったら連れてってください」
「ありがとう」
「リーグ戦、応援しとります。ぜひ優勝してください」
「うん。全力を尽くすよ」
 つづけてカズちゃんに電話を入れた。予想どおりカズちゃんはひどく喜び、
「すごい助っ人! これで引越しはスムーズにいくわね。さっそくお礼を言わなくちゃ。電話番号教えて」
「礼を言われたがるタイプじゃない。第二の山口だ」
 山口とよしのりの二人に連絡を取り、新居で御池のトラックを待ち受けることに話が決まった。
         †
 こつこつ荷物を整理していこうと考え、押入のダンボールを開けると、地図帳や歴史年表にまぎれて、青高に入学したばかりのころに使った漢文の教科書が出てきた。あちこちに赤線が引かれ、感想のようなものがびっしり書きこんである。この教科書がなぜこんなところまで私にくっついてきたのかわからなかった。よほど捨てがたかったのだろう。青森高校―終生忘れられない私の青春の棲家。

 ●人鶏犬(けいけん)の放つあれば則ちこれを求めることを知るも、放心あるも求むるを知らず。学問の道は他なし、その放心を求むるのみ。
 自己流訳 自分が飼っているにわとりや犬が逃げると、捜し歩く。にもかかわらず、自分の本心がどこかへいってしまっても取り戻そうとしない。学問の道というのはこの放心を捜し出してわが身を立ち返らすことだ。
 感想 放心というのは、きっと心が物に対する欲に惹かれて正しい判断ができなくなった状態のことなのだろう。放たれた心を捜し求める必要があるのは、学問ばかりでなく、人生全般に言えるんじゃないだろうか。それにしても、生活の伴侶や助力者であるにわとりや犬を取り戻そうとするのは正しい判断なのか。愛欲ではないのか。去った女を取り戻そうとするのはどうだろう?

 ●孟母三遷の教え?
 感想 環境は常に余儀なく押しつけられるものだ。人はどんな環境にあっても、泥の中に咲く蓮のように、周囲の汚濁に煩わされずに、逆に周囲を浄化して生きなければならない。もしそうできていたら、いまぼくは、この小さな部屋の机に座っていることに不満を持つはずがない。流人が理想を掲げるなぞいい気なものだ。理想は遠流を強いる側が掲げる。私は、もとの環境で自分がまちがった高みにいたことを知る。彼らは正しい高さを保つ肚でいた。しかも大勢で。おそらくいま私を愛してくれる人びとにとって、その慈愛に満ちた努力も、彼らの自己満足の微笑の中に採りこむ一要素にすぎないだろう。他人の脳漿の成果である私。
 窓の緑が褐色に変わっていき、薄い霧が線路ぎわを覆う。窓ガラスの露には、ガラスをなぞる力しかない。環境から遠ざかりきれない自分というものから、この水滴のように流れ落ちてしまいたいけれども、そうするための手段を考えるのは億劫だ。何もかも空だ。―空なる詩が書きたい。


 涙が流れた。なんと幼く、そして、なんと憂愁に満ちた精神だろう。
 最近、いのちの記録をあまり書かなくなったことに気づく。活字を眺めても、角膜の内側ばかり見ている感じだ。どう思い悩み、どう疑ったところで、からだに詰まっている無力感は追い払えない。読書や詩作にしても、近ごろでは、じっちゃの常套文句の〈精励刻苦〉という状態からかなりへだたったものになってきた。取ってつけたように急に湧き上がってきた希望―何者にもならず、カズちゃんたちと人生をまっとうすること。それこそ、自分の新たな目的に思える。その延命願望にまみれた目的を叱りつけ、器の小ささを嘆く束の間の感傷に落ちる。そうして、何者かに雄飛することを願っていたころの回想ばかりしている。溌溂とした思索こそ私の希望だったのに。
 アーケード商店街に出かけ、電器屋で自動鉛筆削り器を買ってくる。机にBの三本の鉛筆と消しゴムを用意する。原稿用紙を両手のあいだに置く。
 原初の記憶から飛んで、高島台の飯場の項へと書き継ぎ、遡り、遡り、合船場の囲炉裏の項をあいだに埋めたところでシックリきた。深夜までかけて、原稿用紙十八枚半。それでじゅうぶんに疲労した。深夜の勉強に没頭した西高時代のように、硬く勃起している。だれにでもいい、豊かな尻たぼをわしづかんで突き入れたくなった。
 十二時に近い。歩いて酔族館へいくことにする。月曜日に楽譜を受け取りがてら山口と酔族館で会う約束をしていたが、背に腹は替えられない。開いているだろうか。たしか法子は十二時前に閉めると言っていた。南口のどこにあるかは確認した。
 夜のアーケード商店街を歩く。勃起が収まらない。道のほとりに女の姿に思わず目を留めたりする。これほど純粋な性欲はあさましい。荻窪駅の地下道を通って南口へ出る。三台ほどタクシーが停まっている。南口のロータリーを眺める。駅前の景色にはなぜかなつかしさを感じる。人がほとんど歩いていないのは、みんなネオンの館に吸われてしまったか、とっくに吐き出されてしまったかしたからだろう。ロータリーの小塚に、背の高い糸杉が立っている。タクシー乗り場にちらほら客が並んでいる。
 ネオンの数が多い。ほとんどが雑居ビルのプレート看板だ。消えているネオンはない。すぐ目の前の角地の細長いビルの壁に、縦並びの看板が貼りついている。そのいちばん下に、酔族館という涼しげな水色の文字が輝きを放っている。あらためて法子の店だと思う。勃起しているので陰茎のすわりが悪い。ズボンの上から手を当て位置を直す。
 広めの階段を上って、突き当たりの厚板の装飾扉と対面する。開けると、薄暗い店内に客の姿はなく、責任者らしき中年の男とテーブルに向き合って伝票を整理している法子の横顔が見えた。着物を着ている。
「こんばんは……」
 法子は横顔を振り向け、
「きょうは、もう、おしまいです。……あら、神無月くん! やっときてくれたのね。うれしい! チーフ、こちら私の永遠の恋人、神無月郷さん」
 男は立ち上がって直立不動の姿勢でお辞儀をした。
「東大の神無月選手ですね。お会いできて光栄です。聞きしにまさる美男子ですね。さ、こちらへどうぞ。いま、ビールをお出しします」
「古沢さん、神無月くんは下戸なのよ。練習は午前中からだし、飲ませないで」
「はい」
「腹へってるんだ。机に貼りついて、一日食べてなかったから」
 勃起から意識を逸らそうとする。
「そう、じゃ、すぐ食べにいきましょう」
 古沢という名のチーフは、進み出て、私と握手すると、
「じゃ、ママ、私はこのへんで」
「ごくろうさまでした。はい、タクシー代。あしたもよろしく」
 裸の千円札を手渡す。古沢は奥の部屋へ去った。更衣室だろう。数分で、彼は私服に着替えて出てきた。
「またいらしてください。いつでも歓迎いたします」
 古沢が深々と辞儀をして、ドアを押して出ていくと、法子は私に微笑みかけ、カウンターからビールを一本もってきて抜いた。
「あれ、食事に出るんじゃなかったの?」
「ふふ、二人で乾杯したかったの。初来店だもの」
 慣れた手つきでグラスに注ぐ。私はゆっくり喉に流しこんだ。
「とうとう、きてくれたわね。どういう風の吹き回し?」
「お尻を見たくなって……」
「お尻?」
「法子の大きなお尻」
「まあ……いま、見る?」
「うん」
 扉に鍵をかけにいった。テーブルの前で着物を脱ぎ、いつか言っていたとおり、二枚重ねのパンティを脱いで、全裸の背中を向ける。
「ほんとに二枚重ねだったね。ああ、きれいだ。ホッとした」
「もう、いい?」
「うん」
 法子は二枚の貞操パンティを拾い上げてバッグにしまった。
「ちょっと着替えてくる」


         二百十三

 更衣室までついていった。付け髪を外して、簡易洗面台で丁寧に顔を洗った。スカートとブラウスに着替え、
「帰りましょ」
「下着、穿かないの」
「うん、すぐ要らなくなるでしょ」
「要らなくなるね。危ない?」
「おととい終わったばかり。バッチリよ。ごはん食べにいきましょ」
「その前に……ビンビンなんだ。性欲そのもの。こうなるのはめずらしい」
「ま、うれしい! 前から? 後ろから?」
「どちらがすぐイク?」
「前」
「じゃ、前から。キスしながら」
 法子はスカートを脱ぎ落とし、カウンターからティシューボックスを持ってくると、片脚をソファの背凭れに上げた格好で私を招いた。私もズボンとパンツを脱ぎ、抱き締めて挿入した。求めていた感触だ。温かい膣に性器を収めながら口づけをする。
「ああ、神無月くん、愛してる!」
 数秒で迫ってきた。早く出したいと思って歩いてきたので、腰の動きが止まらない。
「法子、イクよ」
 口をかぶせてくる。
「うん、いっしょに!」
 ガクンと射精する。
「ああーん、愛してる、イク!」
 膣全体をゴム輪のように締めつけながら達する。そのせいでスムーズな律動が導かれ、性器の腹にえも言われぬ快感が走る。法子はガッシリ私を抱き締め痙攣をつづける。たまらず離れ、ソファに腰を落としくの字になる。私はティシューをまとめて抜き取り、精液が流れ出ないように股間をしっかり押さえた。
「あ、ありがとう!」
 私は寄り添い、ブラウスの肩を抱いた。口を吸いながら痙攣が治まるのを待つ。性欲が去ると、愛しさと悲しさが頭をもたげてくる。
「愛してるよ、法子」
「ありがとう。私もよ、死ぬほど」
 ようやく細かい漣が消えていき、法子は舌を使って丁寧に口づけをする。右手にぬめった性器を握っている。唇を離し、亀頭を含みながら、胴と付け根をティシューで拭う。
「十二時くらいから勃ちっぱなしだった。いきずりの女でもだれでもよかったんだ。ごめんね」
「ううん、よくわかる。私は神無月くん以外の男はいやだけど―一日グシュグシュしてることがあるわ。そういうときは自分で慰めちゃう。よかった、私に出してもらえて」
 そのまま靴を履いた格好で法子はトイレにいった。戻ってくると、身じまいを整える。二枚のパンティは穿かないままだ。私の下着とズボンを拾って手渡す。
「和子さんから聞いたわ。吉祥寺に引越しだって」
「うん、十月末か、十一月の初めにね。信じられない幸運だ」
「東京に遠征してきたときのお家になるわね。いちいちホテルに泊まらなくてすむわ」
「それはどうかわからないけど、シーズンオフの東京の家はできたね。名古屋にはカズちゃんのお父さんが家を建ててくれると言うし」
「それも聞いたわ。資金のお手伝いするって言ったら、お父さんの気持ちだからだめって止められた」
 法子はソファの汚れを確かめ、鍵を開けて表に出た。しっかりと確かめながらもう一度鍵を閉める。
 駅前のタクシーに乗りこみ、三鷹と告げる。
「繁盛してる?」
「とっても。あのあたりでは、一番。女の子も十人くらいいるんだけど、みんな私より年上よ」
「やりにくくない」
「だいじょうぶ。私の腕のいいことは知れわたってるから」
 深夜営業のステーキハウスに入る。見慣れない食券販売機がある。法子はステーキセットというのを二枚買う。ライスとサラダがつくようだ。菊田トシさんの話をする。
「ふうん、そんなすてきな六十二歳がいるのね。私がその人でも、神無月くんにならお家の一軒ぐらいあげちゃう」
 大して驚きもしないで言う。
「風呂がつくのがうれしい」
「私もしばらくしたら、お風呂つきの部屋を借りる予定なの。毎日銭湯にいくのもつらいものがあるし。客商売って、へんな汗をかくし、タバコやアルコールのにおいがからだに染みつくから」
 木枠に嵌めた鉄板に載った肉が出てきた。ジュージューいっている。フォークを入れようとして苦労する。
「ん、硬いな」
「こういうところはそうなのよ。がまんして、スタミナつけると思って、ね」
 片目をつぶって笑う。
「武蔵境も半年になるのか。飽きたろうね」
「飽きはしないけど……。しょっちゅう会えなくていいから、もっとそばで暮らしたい。私も吉祥寺にしようかな。一戸建は安くても七、八万はするから、マンションでも借りて」
「そうすればいい。2LDKぐらいがいいね。遊びにいくよ。あの机を適当な部屋の隅に置いといてくれないかな。ちょっと書きものをしたいときに便利だから」
「うん、もちろん」
 ジャガイモを一つ食べ、ステーキを一切れだけ噛まずに呑みこんだ。ポテトサラダに醤油をかけておかずにし、ライスだけ食う。法子はいつもの食欲で完食し、私の残した分も平らげた。神宮前商店街のカツ丼と同じだ。頼もしい。
「うちで、お茶漬け作ってあげる。腹がへってはイクサが、ね」
「うん。まるで……」
「お母さんて言いたいんでしょ」
「そう」
「神無月くんが永遠に求めてるのは、恋人じゃなくてお母さんだって言うと、一理ある感じがするけど、お母さんには性欲を感じないはずだから、やっぱり、お母さんぽい永遠の恋人じゃなきゃだめね」
「ぽい、というのは?」
「寛容で、きびしいの。そして、じつのお母さんとちがうのは、神無月くんに性欲を感じる女だってこと。私も、和子さんも、素子さんもみんなそう」
「きびしさは感じないけど」
「生きつづけなさいってきびしく命令してるわ。お母さんは憂鬱なんてつまらない病気に妥協しない。自分もいっしょに生きつづける気だから、明るく命令するの」
「なるほど」
 タクシーで武蔵境へ向かう。アパートのだいぶ手前のさびしい道で、私は運転手に声をかけて停めてもらった。法子は好奇心に満ちた目で降りてきた。
「どうしたの? こんなところで」
「スカートの下がノーパンだと思うと、またギンギンになってきちゃった。この道の途中に小さな墓地があったよね」
「うん」
「あそこで、したいんだ」
「わ、刺激的。入れたら、すぐイキそう」
「少しがまんしてよ。ぼくがイケなくなっちゃう」
「がまんする。〈工夫〉しちゃいやよ。出し入れするだけにしてね」
「うん」
 路灯も月もないので、墓地の中は真っ暗だった。墓石のあいだの隘路を奥まったほうへ手を引き合いながら歩いていき、塀ぎわの松にもたれて口づけをする。唇を離し、後ろ向きに立たせてスカートをまくり上げる。真っ白い尻が浮き上がる。ズボンとパンツを引き下ろす。尻がひやりと深夜の冷気に触れる。
「ああ、だめ、もうイキそう」
「まだ何もしてないよ」
「だめだめ、すぐイッちゃう」
 言葉のとおりだった。尻のあいだに亀頭が触れたとたん、法子は遠慮のない声を上げてたちまち果てた。あらためてこちらを向いて立たせ、片脚を持ち上げて挿入する。
「ああ、前から入れたら……」
 唇を吸いながら、法子の内部がうごめいてくるのを待つ。二、三度往復するとそれがきた。
「もうだめ、イカせて」
「十秒だけがまんして」
「うん、うん―」
 すばやく腰を動かす。握手するように締まってきた。法子は私の首にかじりついて必死にこらえていたが、
「あああー、ごめんなさあい、イクウウウ!」
 私も同時に放出した。痙攣しやすいように尻を抱え上げてやる。両足を宙に浮かせたまま、法子は思う存分腹をふるわせている。
「ああ気持ちいい、融けそう」
 結合したまま、私は傍らの墓の台座に腰を下ろした。法子はその動きも刺激になったのか、また強く痙攣しながら、唇を求めてきた。引き寄せて固く抱きしめる。
「愛してる、死ぬほど好き、大好き、神無月くん、愛してる。捨てないで、どこにもいかないで」
 鼻声になったので、法子が泣いているのだとわかった。
「捨てるわけないよ」
 唇を吸う。膣の脈動がやまない。
「そんな気がしただけ。私だけじゃなく、みんなを捨ててどこかへいってしまうんじゃないかって」
「……ぼんやり生きてみることにしたんだ。安心して」
 ふるえが収まると法子は、刺激を警戒してゆっくりからだを離し、そこにハンカチを当ててた。バッグから取り出した下着を穿く。私のものを口で清めた。私はパンツとズボンを穿き直し、ベルトをきっちり締めた。墓地を出、アパートのほうへ歩いていく。
「神無月くんが何のために、だれのために生きていようと、神無月くんが死んだら、すぐ私も死ぬ。私は神無月くんのために生まれてきたんだから」
「……子供がいれば、死なない?」
「死ねなくなる。だから子供は要らない。神無月くんがいれば、何も要らない。……危険日には、ぜったいしない」
「ほかの女も、みんなそうだと思う?」
「思う。失敗して、子供ができちゃったら、ほとんどの人は堕ろすでしょうね。私もそうする。神無月くんだと思って育てる人は、トモヨさん以外には、たった一人。雅江さんだけ」
「どういうこと」
「神無月くんの命をあきらめてる、ってことかなあ。愛してないってことじゃないのよ。人間として、自然な気持ちかもしれない」
「子供ができれば恋人の命をあきらめられるという理屈はよくわかる。分身が生きつづけることになるからね。でも、たとえ形見があっても、形見を愛するのと同じくらい、渾身の力で愛した男にこだわるんじゃないかな。どちらの命もあきらめていないって思えるんだよ。ただ、子供の存在は、男と女の逢瀬の時間を束縛するだろうね。北村家のお父さんやお母さんがあそこまでトモヨさんに気を使って、ぼくとの逢瀬の時間を与えようとするのも、そういう理由だね」
 法子は黙って歩いている。それから立ち止まり、私を抱きしめた。
「心の狭いこと言って、ごめんなさい。浅はかだったわ。一つの命が増えたせいで、もう一つの命が軽くなるなんて、屁理屈よね。一つ、一つ、愛する命だもの。トモヨさんの気持ちのほうが自然だわ。何ごとも、自然がいちばんね。なんだか、吹っ切れちゃった。神無月くんて、ぜんぶ包みこんで生きてるのね。人のどんな事情もうなずいて受け入れちゃう。……直人くん、元気かなあ。私も子供がほしくなったら、ちゃんと神無月くんにお願いしようっと。神無月くんへの愛情が変わるわけないし、もちろん神無月くんの命をあきらめるはずもないんだもの。いまは、まだ神無月くん以外のことまで頭が回らないけど」
 見上げて、灰色の夜空が明るいのに驚いた。雲が動くのが見える。
「花園町―」
「え?」
「こういう空を、青森の花園町の下宿先で見たことがある。山田三樹夫という友だちが死んだ夜だ。見て。夜空って、明るいんだよ」
「ほんとだ」
「なんだかうれしくなるね」
「うん」
「ぼくは、死なないよ」
 法子は私の手をしっかり握ってきた。


         二百十四

 九月二十九日日曜日。八時。まだ眠っている法子を残して樹海荘を出る。秋晴れが戻ってきた。電車の窓が明るく透き通っている。
 石手荘に帰り着くと、平べったい箱包が届いていた。大沼所長からだった。開けて見ると、濃紺のスーツ上下だった。

 郷、元気か。私たちも元気だ。おまえが上京してから半年、ときどきみんなで噂話をしているうちに、おまえは鬼神のような活躍をして、ドンドン階段を上って、雲の上へいってしまった。私たちはおまえがときどき空から降りてくるのを待つしかなくなったよ。正月に降りてこないか。まあ、無理なら仕方がないが、一年にいっぺんぐらいは降りてこい。東奥日報さんのひそかな情報によると、来春ドラゴンズに入団する可能性が大きいらしいが、その前に私たちが異動になってしまうことは大いに考えられる。まあそれでも、会おうと思えばいつでも会えるんだがな。
 ドラゴンズの村迫という人から、三人分の中日球場ネット裏指定席の永代優待証書が送られてきた。来年の春からだ。入団の暁にはもう二人分送ると書いてあった。異動の場合は、後楽園球場の中日戦の優待証書に切り替えることもできるらしい。郷、ありがとう。せいぜい有効に使わせてもらうよ。
 スーツは遠征試合にでも着ていってもらおうと思って、かつて宮内庁御用達だった腕のいいテーラーに作らせた。キンタマの寄り具合で、ズボンの付け根のどちらかに余裕を持たせなければならないそうなのだが、わからないのでどちらも少し緩めておいたという話だ。上半身や股ガミのサイズは百八十センチ男性のゆったりサイズにしたそうだ。濃紺は郷に似合う。せいぜい着て歩いてくれ。
 練習嫌いだと聞いた。嫌いなのではなく、万事に忙しいので〈調整〉しているのだと私は受け取っている。大学側の理解にはさすがだと感じ入る。のびのび生きるのはよろしい。それでこそ才能は発揮されるのだと思う。ホームラン数を神の域まで伸ばしてほしい。
 自分ではわからないだろうが、郷の笑顔ほどすばらしいものはない。帰名の折は、かならずその笑顔で会いにきてくれ。同封したのは、半年に一度のカンパだ。社員たち一人ひとりの顔を思い浮かべて、遠慮せず受け取ってください。郷へ。大沼。


 スーツを納めた箱に分厚い茶封筒が同封されていた。中を見ると、千円札混じりで二十万円余りの義捐金が入っていた。
         † 
 九月三十日月曜日。朝からパラパラ降ったり止んだり。山口から電話あり。
「あと二日くれ。あさっての午前に石手荘に届けにいく」
「わかった。いいもの作ってくれよ」
「うん、乞う期待」
 本郷のトレーニングは室内の腕立てと腹筋背筋だけ。ランニングも素振りもやらずに早めに切り上げる。
 荻窪に戻ると、雨が上がったので、青梅街道のジョギングに出る。ジョギングから戻って、裏の空地で素振り。
 邪宗門まで出かけ、モーニングを食べたテーブルで、新しい大学ノートを前に、のんびりコーヒーを飲みながら、詩想を練ったり、スタンザの訪れを待ったりしていた。これまで何度も書いたようなスタンザが浮かんでくるけれども、どのノートに書きつけたか忘れてしまっている。とにかくこうして完成に近づけていき、でき上がったと感じれば、赤丸を打つ。私は何者でもないという恐怖心をスタンザに刻むことを思いながら帰る。この恐怖心に取りつかれてからひさしい。私の作品を推挙する人間などいるはずのないことを肝に銘じる。芸術はホームランのような華麗なプレイではない。魂の精華だ。私の魂は何ものでもない。間断なく魂を追跡され見守られるほどの将来など、私に約束されているはずがない。行きずりの人間の足を止め、見つめられ、年ごとを生きて土に還る道端の草の花ほどの存在だ。口に出して呟く。
 ―何者でなくても、生きていかなければならない。
 さまざまなノートにこの哀しい決意のスタンザは書きつけながら、いつ完成を見るとも知れない。カズちゃんと歩いた海へつづく坂道、しとねでカズちゃんに愛撫された額、カズちゃんの輝く胸、カズちゃんに抱き締められたときの両乳の温もり。言葉に残さなければならない。
 夜、睦子と詩織に、あしたの朝早くから横浜へいくと電話した。いつか横浜の街を歩こう、とほかのだれかとも約束していた。カズちゃんと素子だったかもしれない。いずれにせよ、これが横浜を歩く最後の機会になるだろう。睦子は、
「水曜日からは休めないので、ちょうどよかったです」
 詩織は、
「あしたは日本晴れだそうです。楽しみ」
「渋谷駅、ハチ公前、八時。東横線に乗る」
         † 
 十月一日火曜日。六時起床。ひさしぶりにふつうの排便。流しで歯磨き。石鹸を使って頭を洗う。二十一・三度。白のワイシャツに大沼所長の送ってくれた濃紺の背広を着、黒革の靴を履く。内ポケットに十万円。玄関を出ると、暑すぎない曇天。日本晴れではない。
 荻窪から吉祥寺に出、井之頭線に乗り換えて渋谷へ。いったん繁華な外へ出て、ハチ公前で待つ。七時五十分、二人が簡易カメラを持って現れる。申し合わせたのか、二人とも清楚な白のフレアスカートに白のセーター、半コートをはおり、折った腕に白いハンドバッグを提げている。睦子のコートは全体が淡い茶で、詩織はオレンジの暖色。出勤途上の人びとが見返るほどの美しさだ。
「おはよう!」
 私が元気よく声をかけると詩織が、
「おはようございます!」
 と明るく応える。睦子が、
「おはようございます。神無月さんは律義な人ですね、きっちり約束守るんですから。横浜を歩くって約束したこと、ふっと忘れてました」
「私も。これが神無月くんなのね」
 屋根がかまぼこ型の高架駅への階段を上る。横浜の一つ手前の反町までの切符を買う。四面四線の広い美麗なホームに出る。
「初めてこのホームにきたけど、きっと十二年前は古ぼけてたんだろうなあ。黄緑の青ガエルと言われたあのころの電車じゃない。東西線に赤い襷をかけたステンレスだ。趣がないなあ」
 睦子が、
「きょうはそういうお話をたっぷり聞かせてくださいね。ときどき写真を撮ります」
「思い出せるかぎりね」
 桜木町行きの鈍行に乗る。
「二十一駅の二十個目か。楽しそうだ」
「ほんと、急行待ち合わせを入れても、四十五分ですって」
「おしゃべりしましょ」
 電車はビルの群れをすみやかに出て、近代的なマンションや民家の家並に入る。線路端にだけ緑がある。この景色はどの街も変わらない。車体の軋る音。モーター音。ときどき停車駅のホームに目をやる。中目黒、学芸大学、自由が丘。ホームに新聞や雑誌を読みながら立っている背広姿が多い。勤め人だろう。横浜へかよう人たちだ。田園調布、武蔵小杉、日吉。
「高島台にいたころだから、もう十二年も前だな。おふくろが日吉って駅の名前を口にするとき、ふっとインテリくさい顔をしたのは、慶応大学があったからだな」
 セーラー服の女子学生が数人乗ってきて、ぺちゃくちゃしゃべり合う。こちらに首を振り、ギョッとした目で睦子と詩織を見る。
「負けたって顔してるよ」
 詩織が、
「あの年ごろは、勝ち負けしかないから」
 睦子が、
「ここから神奈川県です」
 車窓の景色は変わらない。綱島。
「ああ! よく聞いた名前だ。なぜか温泉町のイメージを持ってた。一度も電車に乗ったことがなかったのに」
 詩織が、
「湯島のイメージからじゃないかしら」
 菊名。
「これもよく聞いた。憶えているのは、きっと名前の響きが好きだったからだろうね。日吉、綱島、菊名、反町。二十一個のうち、この五つしか憶えていない。横浜や桜木町がこの路線だというのは、きょう知ったよ。その二駅の中間の高島町というのが、きっとぼくの小一時代の高島台と関係ありそうだ」
「反町で下りれば、その高島台へいけますね」
「うん。そこから始めよう」
 反町で降りる。狭い高架のホームから駅前の商店通りへ出る。だだっ広いT字路。かすかな記憶がある。右手に反町東映、広い通りを渡った先が反町日活。
「反町東映か。青木小学校恒例の映画鑑賞会。つづり方兄弟、マラソン少年、米。この映画館の闇をよく思い出す。あの通りにある反町日活。裕次郎の嵐を呼ぶ男の看板を遠くから見た。一度ぐらい入ったことがあるのかもしれない。長嶋茂雄の四打席四三振のニュースを憶えてるから」
 詩織が、
「むかしの生活の甘い香りね」
 睦子が東映の入口で私をパチリ。私は左手の坂道を指差し、
「その道を上がっていけば青木小学校だ。いってみよう」
 二人は嬉々としてついてくる。
「この十五メートルほどの坂をよく夢に見る。この左手は草むらだった。駐車場になってるね。右手は古臭い民家だったけど、立派なマンションになってる。この道を生徒たちがゾロゾロ反町東映へ下っていくんだ」
 二差路を左へいく。
「この左はただの空地だったのに、なんだ、このばかでかい建物は。マンションだな。右手は、このとおり、むかしからツタの絡まる築塀だった」
 三差路を右へいく。すぐ小学校の築塀になる。
「赤レンガの屏風だね。ここにいつも権威を感じてた。むかしからこの学校の正門は左右から登る階段式。学校の前にシャレた家が立ち並んでるなあ。そしてやっぱりマンションか。ただの草の崖だったのに。学校帰りにときどき小便をした。マン、ション、ベン、て言いたくなるね」
 詩織がパチリとやる。塀を越え、民家の群れの中に小さな公園がぽつんとある。
「この公園で、村山くんという子とソフトボールをした。村山くん? アンディ・ウィリアムズに似てた。へんな怒り肩。それだけ。こんな狭い公園でソフトボール? 三角ベースだったかもしれないな。それなら五、六人いたはずだ。でも村山くんしか憶えてない」
 睦子がパチリ。右折し、短い坂を上る。
「ここから左へ上っていけば、いよいよ高島台だ。その前に、ちょっと小学校の裏門を見ていこう」
 裏の格子門から覗く。
「こんなにかわいらしい校庭だったのか! あの坂下の小橋までいってみよう。東横線に架かる陸橋なんだ」
 十五メートルほどの橋のコンクリートの欄干に手を置いて三人でトンネルを見下ろす。東横線のトンネル! あの崖の上で母と暮らした。
「あのトンネルの上のほうから草の崖に石を蹴落とした。崖の上に立派な住宅がたくさん建っちゃってるなあ。ここから見えないけど、トンネルの右上に、横浜に初めてきた母子が暮らしたアパートがあった。アパートの向こうも崖で堰き止められてて、その崖の上の平地に、父の両親が暮らす長屋があった」
 二人がパチリ、パチリ。睦子が、
「鉈豆ギセルのお爺さんと、裁縫ベラのお婆さんですね」
「うん。そんなことまで話したっけ」
「千佳ちゃんから聞きました。千佳ちゃんは和子さんから、何もかも詳しく聞いたんです」
 感慨深そうに二人は崖の上の空を見上げた。崖から見下ろされるこちらの小橋の右手につづく坂道を指差し、
「あの坂の途中に、歌のうまい田中恵子ちゃんの家があった。いつも板戸の門が閉まってたな」
 恵子ちゃんの家の板戸の前に立つ。古びていたがいまもむかしのままの板戸だった。飛び抜けて歌のうまかった無表情な女の子。板戸から振り返って青木小学校の草の崖を指差し、
「崖の上のあの小屋が便所。足の速い内田由紀子ちゃんがいっしょに掃除当番をしていたとき、汲み取り口のそばから小笛を掘り出してぼくにくれた。水道の水で洗って、ピーッと吹いて、形見に持っててと言った」
 笑うと思っていた二人は笑わずに、目頭を押さえた。


         二百十五

 引き返して、高島台へ向かう坂道までくる。突き当りから幅広の階段が昇っている。平べったいコンクリートの階段だ。巨大な墓地が基点になっている。
「サルを飼ってた寺。ぼくの登校路だ」
「破傷風のサルですね」
「そう」
 詩織はじっと暗記するように耳を立てている。高島台へ登っていく。
「何もなかった広い空地が一大住宅地になった。この広い石段! あの上に鹿島建設の飯場があったんだ」
 登り切る。
「この五つの団地の群れは鹿島建設が建てたんだ。ここに飯場があった。この坂道でベルトコンベアに乗って、こっぴどく叱られた。コンベアのワイアに脚を挟まれて、破傷風で死んだ土方がいたから」
 飯場のあった場所がそっくり公園に変わり、ベルトコンベアが昇っていった道を挟んで四階建ての集合住宅が向き合ってそびえている。詩織が、
「破傷風菌がウヨウヨいた地域だったのね」
「当時の開発地はみんなそうだった。ガードレールになってるその下は、丈の高い草が生い茂った崖だった。京浜急行の神奈川駅が見下ろせた。光の列がホームに出入りするのをよく眺めた」
 睦子はハンカチでしきりに目を拭っている。
「さぶちゃんと、ひろゆきちゃんの家にいこう」
 いまも残っている土手道を歩く。
「この土手から、ひろゆきちゃんの自転車を落とした」
 睦子が手短に詩織に説明した。
「まあ! そんな自転車、壊されて当然よ」
「この土手道にはよくオレンジ色の夕日が射した。あの曲がり角の先に、大きな木が立ってた。一度だけ、夕暮れに、その木の下で泣きながら飯場を眺めた。涙が乾いてから、飯場へ帰った。なぜ泣いたのか憶えてない」
 みんなで歩いていってその角地に立ち、飯場の跡地の公園を見やる。住宅地へ歩きだす。
「これがさぶちゃんの家。モダンになった」
 モルタルの平屋が建っている。千葉と表札が出ている。パチリ。彼の名前は千葉三郎だったことを鮮やかに思い出した。この家に、十九歳のさぶちゃんはいるだろうか。サラリーマンか大学生になって、どこか別の場所で暮らしているという直観がある。詩織が、
「会わなくていいの?」
「会わない。イヤミだ。神無月郷なんて名前、この世に二つとない。いまのぼくがどうなってるか、さぶちゃんは知ってる。猿にやられたぼくを背負って飯場に走ったお礼をいまさら言うのもイヤミだ。有名になって、宣伝のためのお礼参りですか……。もちろんさぶちゃんがそんなことを思う人間でないことは知ってる。でも、彼以外の千葉家の家族は意地悪だった。会えば、かえってさぶちゃんが家族に気兼ねする。たぶん、彼は大学生か何かになってこの家にはいないだろうけど、どこにいるにしても、ぼくのことをこっそり喜んでくれてるよ。彼の言葉を正確に憶えてる。―キョウちゃんは天才だ。このまま野球をつづていけば日本を代表する選手になるよ。ぜったいプロ野球選手になってね。プロ野球選手というのはキョウちゃんみたいな天才しかなれないんだよ。キョウちゃんがプロ野球選手になったら、ぼく、いつも応援するからね。野球場にも試合を観にいくよ。楽しみだなあ」
 睦子と詩織はしきりにハンカチを使った。
「ここがひろゆきちゃんち。大きいだろ」
「地主という感じですね」
 元尾という表札が埋めこまれた門柱にブザーがついているが、押さない。パチリ。
「竹薮ももとのままだ。あの藪の中に京子ちゃんの家族が住んでる小屋があった。京子ちゃんは底意地の悪い子でね、いつもオシッコで黄色くなったパンツを穿いてる子だった。このひろゆきちゃんちの物置小屋に誘われて、藁筵(むしろ)に横になってオマンコ触らされた。三つぐらい年上の子じゃなかったかな。生まれて初めて、あのヌルヌルした感触を知った。指を動かしつづけるように言われて、そうしてたらとつぜん、京子ちゃんがブルブルってふるえて、むこうを向いて丸くなって痙攣したんだ。ぼくは怖くなって飯場に帰った。カズちゃんのおかげで女の悦びを初めて教えられたと長いこと信じこんでたけど、思い返すと、七歳のときの京子ちゃんだったんだね」
 雑木林の庭に二階建てのアパートが建っている。その脇の小ぶりな家は、京子ちゃんの家かもしれない。まさかまだ一家が住んでいるということはないだろう。睦子が、
「三、四年生だとすると、九歳か、十歳ね。マセた子というより、神無月さんのことが大好きだったんだと思います」
 詩織が、
「だれにも相手にされない子だったと思うわ。神無月くんならやさしくしてくれると思ったのよ。勇気を持って体当たりしたのね。神無月くんは七歳で一人目の女を救ったんだわ」
「しばらくその話は中断。逃げ出すことで自分の歴史が始まったと思うと情けない気がするから」
「神無月さん、真っ赤になってる」
 二人でうれしそうに手を取り合って笑う。 
「高島台から、浅間下を目指して、市電道を歩こう。肌色の路面電車がなつかしい」
 ―柴山くんの鶴乃湯は別の風呂屋になったんだったな。
「でも、やっぱり裏道から柴山くんという登校仲間の風呂屋を目指そう」
 柴山くんの話をしながら、ひろゆきちゃんの屋敷の林を左に見て、小坂を下る。大きな坂に出る。砂利道だったのがアスファルト道になっている。
「あー、草の土手もほとんど石の土手になっちゃってる。この坂に、ひろゆきちゃんの自転車が落ちたんだ」
 みんなで声を上げて笑う。
「飯場の自転車で、よくこの道を猛スピードで走り降りて、わざと転んで泣いて見せて、さぶちゃんたちを驚かしたなあ」
 坂のいただきをパチリ、裾をパチリ。反町からガードをくぐっていく予定だった大通りをイメージする。イメージの中で泉町へ。前川写真館の前川くん。四年生の学級委員。ピストルの形にした人差し指でクラスメイトに当てていく手の形。逆三角形の顔。親しくなかった仲間がなぜか思い出される。急勾配の坂道を青木橋へ下っていく。
「この崖の、ちょうどここに粘土の道が切られていて、京子ちゃんのあとについてさぶちゃんと登っていった。見わたすかぎりの草原だった」
 猿を見るためによじ登った草の崖は、亀甲模様のコンクリートに変わっている。睦子がまた詩織に説明を始める。
「その小僧、ぜったい許せない!」
 坂をくだりきって、本覚寺の長い階段を指で示す。パチリ。
「青木小学校へ抜けるぼくだけの登校路だ。境内に猿の檻があった。あの大きな橋が青木橋。橋の左下の駅舎が神奈川駅。あ、肌色の市電が走ってる! 二回タダ乗りした」
 パチリ、パチリ。幅の広い青木橋をしばらく眺める。
「坂のふもとに、岩井自転車店があった。ただ通っただけだけど、四年間見つづけたから憶えてる」
 坂のふもとに立つ。
「やっぱり自転車屋はもうないね。ここから右へいっても行き止まり。この市電通りを真っすぐいけば浅間下。次の通りを右折して、坂を登って下りて、柴山くんの風呂屋を目指すよ」
「はい!」
 右折すると、とつぜん、高台を見上げる庶民的な家並に変わった。民家に混じって、和菓子屋、モーターショップ、町工場。なつかしさが胸に迫った。アスファルトの坂道を高台に向かって登っていく。一山越えてもう一度庶民の町へ降りていくためだ。
「ここらへんは台町。道は旧東海道」
 台町の高級住宅街を過ぎていく。睦子が、
「あら、神社」
「小さいわね。鳥居があるだけで名前も書いてない」
「この鳥居横の『しもじま』っていうクリーニング屋、むかしからあったよ。さっきの青木橋の向こうは横浜港なんだけど、日米和親条約のときそこに領事館を置いた。高島台から領事館が見えたそうだ」
 詩織が、
「わかった。横浜港の近所がクリーニング屋発祥の地ということでしょ? クイズ番組か何かで聞いたことあるわ」
「私もその番組観たことある。そのときのアメリカ人の純白の軍服を洗濯してくれって付近の人に頼んだら、アクで洗って薄黒くしちゃって、結局アメリカ人が石鹸を持ってきて洗わせたというあの話ね」
「そうそう」
「ひょっとしたらそのくらい古いクリーニング屋じゃないのかな」
 睦子が、
「そうかもしれませんね。薬も売ってますし、神社のそばというより、鳥居に家がくっついてるでしょう? この土地の氏子総代かもしれません」
 睦子の言葉の意味がわからなかったので、問わずに歩きだす。坂のいただきまでくる。
「高島って表札が出てるあの家ね、高島くんの家だよ。高島台の高島くん。シャレみたいな名前だよね。この家もなぜか意味もなく夢に見るんだ。挨拶しても返してくれないデブの高島くんの顔といっしょにね。この道を下って、あの跨橋を渡れば鶴乃湯だ」
 跨橋へくだっていき、左側の欄干に立って指差す。
「あの市電道を越えて七、八分いくと、横浜駅」
 パチリ。歩き出す。
「なつかしいなあ! この道を四年間かよったんだ」
 柴山くんの風呂屋まであと百メートルというところに蕎麦屋があった。
「出発してからもう三時間ぐらい経ったね。腹がへった。ソバを食ってこう」
「賛成!」
 開店早々の店に入り、もりそばと天丼を三人前頼む。店員が品物を卓に置いたとたん、三人黙々とそばをすすり、丼を掻きこんだ。女とは思えないスピードだ。
「ご馳走さまあ!」
 箸を置くと二人は交代でトイレにいった。
 支払いをすまして外へ出、鼻の先にある柴山くんの鶴乃湯が五階建てのマンションに替わっていることに驚く。
「さびしいな……小四の時には代替わりしてまだ風呂屋だったのに。十年か―」
 睦子がマンションを見上げる。閑散とした通りに人の姿もない。
「さあ、いこう」
 跨橋へ戻って崖に切られた石段を降り、市電通りの信号を渡って横浜駅の西口へ出た。高島屋を右手に見上げながら、商店や飲み屋が立ち並んでいる小路を曲がりこんだ。赤胴鈴之助を観た映画館もなければ、地下に天ぷら天國のあるビルもなかった。
「何もかもなくなってる」
 鶴屋町から旧東海道へもう一度戻る。詩織が柴山くんのマンションを見返りながら、
「マンションって、ほんとに思い出殺しね」
 柴山くんの風呂屋跡を見納め、跨橋のほうを振り返る。
「学校の帰り、あの高島くんの坂から、母の買ってくれた自転車で何度か走った。惰力をつけた猛スピードでね。でも自転車通学はすぐ担任の先生に禁止された。校則違反だって」
 詩織が、
「自転車、買ってくれたんですか?」
「うん。古きよき母親のころだ。思い出すと胸が苦しい。柴山くんは小学三年生の秋の運動会のあと、一家で別の町へ越していった。予告もなかった」
 二人に反応がないのがうれしい。小さな不実だ。彼女たちは、私への迫害以外のどうでもいい不実には反応しない。浅間下を目指して歩きだす。
「あ、ここ、おふくろがよくセンベイの耳を買ってくれた店。不動産屋になってるね」
 パチリ。家並が建てこんできたので、青木橋からつながる市電通りへもう一度出る。
「うわあ! 驚いたな」
 背の高いビルが林立している。
「下町が都会になっちゃってる」
 木の肌のない単色の通りをひたすら浅間下へ急ぐ。
「あった! 浅間下交差点!」
 電柱の標示は、西区浅間下一丁目。パチリ、パチリ、パチリ。睦子が、
「家が消えても、道は消えないんですね」
「そうだね。うれしいな。右の坂を登れば三ツ沢公園、左の市電道をゆくと桜木町。アメリカさんの水色の家」
「有名な家があるんですか?」
「おふくろのバイト先。一日で辞めた。迎えにいった」
 洪福寺行の市電が通る。睦子が、
「お母さん一筋だったころがあったんですね……」
 私は応えず、保土ヶ谷へつながる道を指差し、
「この道を通って父を訪ねていった。そこの角の本屋で給料袋をなくした」
 母の給料をなくした本屋は花屋になっている。
「花屋に替わっちゃったのか。コンビニ、整骨院……あ、肉屋がある! この頑丈な白タイル貼りを憶えてる。結局残っているのはここ一軒か。たった十年で……。日本人は〈いま〉を守ろうとすることに少しも精を出さないんだね。日本人は変化を嫌うって、受験生のころよく英文で読んだけど、嘘だね」
 詩織が、
「日本人ぐらい新しがり屋さんはいないです。物も、人間も、どんどん新しいものに替えていきます」


         二百十六

 宮谷小学校へつづく道を歩く。お婆さんの貸し本屋は洋服店に変わっている。
「貸本屋もない……」
 オーケーハウジング・フロラという看板が出ている。パチリ。
「神無月さんの文化の素が消えてしまいましたね」
 ドブ川もなくなり、歩道になってアスファルトが敷かれている。食い物屋、商事会社の事務所、理容店。睦子が言うとおり道があるだけだ。宮谷小学校はあった。思わず笑いたくなるほど大きな小学校だ。名古屋西高の数倍の敷地だ。子供のころに見たときよりもずっと巨きく感じるのが不思議だ。
「この細い道を上っていくと、浅間神社。このへんからいじめっ子たちがぽつぽつ出てきた。その端の歩道になってるところはドブ川だったんだけど、汚い水を肥柄杓で掬ってぼくの胸にかけたり、ベルトやバットで叩いたり」
 緑がチラホラ目につくようになった。睦子が、
「美しすぎるものは憎たらしいんです。神無月さんは幼いころ、そういう嫉妬と戦うことに時間のぜんぶを費やしたんです。そのころ私がそばにいたら、命懸けでその子たちを懲らしめてあげたと思います」
「私も石を投げたと思う。男は一歩表に出れば敵だらけと言うけど、嫉妬が根にあるとすると、闘ってもむだね。だれかが護ってあげるしかないわ。神社へいってみましょうよ」 
 やっと家並が低くなってきた。部屋一つ分くらいの広さのある物干しベランダが、家の壁から雨ざらしに突き出しているのがめずらしい。ペンキを塗った鉄骨で組み立てられている。その足もとの細道を登っていく。石垣塀の上に、小森に囲まれた社が見える。
「初めて通る道だ。いや、保土ヶ谷へいくとき一度通ったな」
「ホッとしますね」
 大きな赤鳥居をくぐる。小坂を登り、緑の立木に囲まれる。左手に酒樽の積んである社殿がある。参拝者は一人もいない。女二人が賽銭を投げ、鈴を鳴らす。四つ五つの社に囲まれて、燈篭や狛犬がポツポツ玉砂利の上に配されている。見るべきものもなく、坂を下りて宮谷小学校へ戻る。詩織が、
「それにしても大きな小学校! 校舎塀がまだ終わらない」
「ここにかよわされないで、青木小学校にかよわされた。ぼくはそっちのほうがうれしかった。この校舎塀の外れに、三軒並びの総菜屋があってね、ああ、もうないな、ここに越してきたばかりのとき、その一軒で、一度だけコーヒー牛乳を買って飲んだ。コーヒー牛乳ください、と言ったら、ミルクコーヒーのこと? と訊き返された。日本で初めてコーヒー牛乳と命名したのは、ぼくだ」
 二人で笑う。
「やっぱり信用しないね。折に触れて吹聴してきたけど、だれも信用しなかった」
「信じます」
 三人の会話が楽しい。こんなふうな話をしながら生きていきたい。見覚えのない新しい家並をずんずん通り過ぎる。低層のマンション、動物病院、民家、マンション。
「ああ、その家! 大家さんの坂本さん!」
「とうとうきたのね。神無月くんの子宮」
 パチリ、パチリ、パチリ、パチリ。坂本の家の外で、ライトバンにホースで水をかけながら洗車している男がいる。ひょろりと痩せ、バミューダショーツを穿いている。私は眼鏡を取り出してかけた。
「お母さんと暮らしたアパートは、この家の裏なんですか?」
「そう、三畳の板の間」
 詩織が、
「そこの細い道、通らせてもらいましょうよ。どうしても見たい!」
「見せてくれるかな」
 がやがや話し合っていると、男が洗車のブラシを止めて振り向き、一瞬の躊躇もなく、
「郷!」
 と叫んだ。まるでいままで私のことを考えながら洗車していたかのようだった。
「郷、だろ?」
 私は、守随くんもそれとわからなかったくらい面変わりしているうえに、眼鏡をかけていた。瞬く間に私だと認識したこの男はだれだろう。面長で目の大きい美男子だ。面影が戻ってきた。
「テルちゃん!」
 頬に、短いが深い傷がある。むかしこの傷はなかった。それが美男子の翳りになっていた。女二人がポカンとしている。テルちゃんも彼女たちを見ていなかった。
「おまえ、変わらないな。いくつになった」
「十九」
「俺は二十一だ。あれから何年だ……」
「十歳の九月にここを去ったから、ちょうど九年」
 水を流しっ放しにしながら、私を見つめつづける。
「九年か。なつかしいなあ。寄ってけ寄ってけ」
「連れが……」
「おお、みんなで寄ってけ」
 テルちゃんはホースの水を止め、まくっていたシャツの袖を下ろして玄関に導いた。奥へ声をかけた。
「母さん、郷だよ! 東大のホームラン王」
 現在の正体もわかっていたのだ。奥の部屋から、土色のスラックスを穿き、灰色のセーターを着た女が出てきた。四十半ばのはずなのに、ひどく老い凋んでいる。目もとに記憶があった。私は頭を下げた。睦子と詩織も頭を下げた。
「あなた、キョウちゃん?」
「はい」
「大きくなったこと!」
「びっくりしちゃったよ。郷が俺の後ろに立ってたんで」
「なつかしくて、大学の友人と訪ねてきたんです」
「まあ、おきれいなかたたち。さ、上がってください」
 初めて坂本家に上がった。玄関の式台につづく四畳半が居間兼仏間になっていた。核テーブルが置いてあった。仏壇に、額縁に入った男の写真が飾られている。知らない顔だった。奥には通さず、仏壇の前に坐らせてもてなされる格好になった。土産を持参しなかったせいか、茶を出そうとしないので、テルちゃんがコーヒーをいれてきた。にこにこしている。
「この二人は、東大の新聞部かなんかか」
「よくわかりますね」
 詩織が即答し、バッグからカメラを取り出して、二枚、三枚撮った。
「おととし亡くなりましてね」
 母親は写真を見返った。私も見た。詩織と睦子もぼんやり見た。老人ではないので、夫だろう。知らないということは、たぶん一度も見たことがないのだ。テルちゃんが微笑みながら、
「四年後はプロだな。巨人か」
「中日ドラゴンズです」
「中退もあると書いてあった」
「はい。背に腹はかえられませんから」
「だよな。プロ野球を取るか、東大を取るかじゃ、当然プロ野球だよな」
 睦子と詩織が顔を見合わせてうれしそうに笑った。
「すごいわね、東大なんて。うちのお兄ちゃんは早稲田を落ちたのよ。立教の理学部を卒業して、いまマツダ自動車の広島支店にいるわ」
 ここもマツダ自動車だ。彼女も私の母と同じように、関心事は野球ではなく、学歴と会社だった。
「俺なんか、高卒だぜ。市内の運送会社で働いてる。もう、三年になる。郷は頭のいいガキだったから東大にいったのはわかるけど、よりによって野球とはな。意外な方面で出世したな」
 宮谷小学校の校庭でやったソフトボールを忘れてしまったのかもしれない。
「出世というか……」
「大出世だよ。将来、プロ野球をしょって立つ男だろ」
「まさか。すごい人がまだまだたくさんいます」
「変わった子だったわよね。いつも何か考えてるみたいで」
「そうですか」
 私は眼鏡を外して胸のポケットにしまった。
「あらあ、その顔! すっかり思い出したわ。ちっとも変わらないのねェ。お母さん、お元気?」
「はい、名古屋の建設会社で賄いの仕事をしてます」
「ご苦労なさったかただったけど、いまも相変わらずなのね。でも、期待のかけ甲斐のある息子に育て上げたんだから、大したものだわ」
「そうだよ、サカリヤの兄弟は酒屋の跡継ぎ、俺も兄貴もサラリーマン。みんな沈没じゃん。おまえはすごいよ」
「そういうふうに、四海波静かに生きられるのが最高の出世です」
 蚊帳の外だった睦子が言った。
「サカリヤさんというのは、サーちゃんの……」
「おお、よく知ってるな」
「神無月さんからよく聞いてますから」
「酒屋の大将だ。兄弟ででっぷり肥っちゃってな」
 唾の話は出さなかった。睦子たちも言わなかった。私はこの場所でどんな暮らしをしていたのだろう。ただ青木小学校にかよい、仲間外れにされ、道々いじめられただけだ。いや、楽しいこともあった。貸本を知り、裕次郎を知った。父を訪ねたことも喜びと言えば言えるかもしれない。撥ねつけられた夜の記憶が、淡く哀しく、美しいものに感じる。詩織が、
「あの、三帖の板の間を写真に撮りたいんですけど」
 母親が、
「あの建物は取り壊して、モルタルのアパートにしちゃったのよ。あの部屋のお隣さんは、あなたたちがいなくなってからすぐに引っ越したわ」
「そうですか。福原さんご一家はお元気ですか」
「ご主人が交通事故で亡くなって、奥さんと子供たちは沖縄へ帰ったわ。あの家はいま物置になってる」
 なんということだ。もう話すことはない。いや、あった。
「長屋の裏の飯場に、ヒロちゃんていましたよね」
「おお、あのアバズレな。さんざん男遊びをしたあと、うまく結婚しちまった。あのころ紙芝居屋がよくきた空地があっただろう」
「はい」
「あそこから上がっていった坂のてっぺんに、おふくろさんと夫婦で住んでるよ。子供二人」
 今度こそ話すことがなくなった。
「じゃ、もう少し、センチメンタルジャーニーをつづけてみます。カメラの人たちの時間の都合もありますから。また遊びにきます」
「おう、今度は三十歳過ぎにこい。ふけ具合を比べ合おう。プロの世界は厳しいぞ。きっちり生き延びろよ」
「はい、またあらためてお伺いします」
 母親が、
「お母さんによろしくね。いつでも遊びにきてくださいって」
「はい、失礼します」
 二人は玄関まで送って出た。私たちはお辞儀をし、サカリヤのほうへ歩いた。眼鏡をかけ直す。モダンに改装した店内を覗きこんだ。肥った母親や痩せた父親の姿はなく、太物の前掛をして腹突き出したサーちゃん兄弟が、酒瓶を並べた棚の前でのろのろ立ち働いていた。一瞬弟と視線が合ったけれども、私だと気づかなかった。
「あの背の高いほうがサーちゃんですね」
「うん。口を利いたことはない。ぼくのことを一度、馬の骨って呼んだけど、意味がわからなかった」
 まったく気にもかけていないのに、なぜそんなことばかり憶えているのだろう。なぜ口に出すのだろう。私はささやかな不実の記憶に拘りすぎているのかもしれない。恥ずかしさがやってきた。
 紙芝居の空地へいく。広い駐車場のかたわらに、二棟の大きな民家が建っている。並びの支那蕎麦屋もふつうの民家に建て替えられていた。空地の前を流れていたドブ川が見当たらない。
「ここで、自転車に乗った少年がバイクと衝突してね、もともとここにはドブ川が流れてたんだけど、そこに飛ばされて落ちて、不運なことに、太い針金が何本か突き出たコンクリートの杭にふくらはぎの肉を削ぎ落とされちゃった」
「きゃ、いやだ!」
 詩織が肩をすくめる。睦子はドブのあった地面を見つめている。
「通りがかりの大人たちにドブから助け上げられて、ここに坐らされた。足を投げ出して歯を食いしばってる彼の顔が恐ろしかった。ふくらはぎの裏から骨が見えた。そこからどろどろ血が流れ出して、土の路が血の海になってた。痛みをこらえながら腿を両腕で握り締めている横顔から、絶望感がひしひしと伝わってきた。外人みたいに彫りの深い、黄色い髪の少年だった」
 詩織が、
「そういうのって、記憶に残るわ。いやな記憶の中でもマックスね」
 テルちゃんは、あの瞬間、私のことを考えていたのだ。私がふと足を削がれた少年を思い出したのと同じように、そういう偶然はきっと、長い人生のうちには一度ならず起こることなのだろう。


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