二百二十三
   
 十月五日土曜日。六時起床。朝方小雨。冷える。軟便、シャワー。耳鳴りゼロ! 居間でテレビを観ながらハムエッグとトーストの朝食。売り出し中のコント55号というコンビがモーニングショーのゲストで出て、朝っぱらからドタバタやっている。芸のキレが小気味いいので、思わず笑う。カズちゃんが、
「試合開始前の練習って何分ぐらい?」
「ふつうは両チーム三十分、合わせて一時間。試合開始の一時間半前から。バッティング練習はやってもいいし、やらなくてもいい。ぜんぶ守備練習にあててもいい。一チームそっくり最後まで何もしなくてもいい。ぼくはバッティング練習をやらないことが多い。デモンストレーションは趣味じゃないし、ホームランを本試合にとっておきたいからね。プロにいっても率先してはやらないと思う。守備練習はやる。肩を少しずつ慣らすためにね。早くきて、気の緩んだバッティングなんか観ても、退屈なだけだよ。ネット裏の特別席なんだから、ゆっくりやってきて試合を堪能すればいいさ」
「そうね。でも練習ってワクワクするじゃない。試合を観る心構えができるというか。試合開始四十分前ぐらいにいくから、守備練習は少し観れるわね」
「キョウちゃんのバックホームって、すごいよね。ボールが信じられんスピードで、ビューってホームベースに戻ってくる。最初見たとき、びっくりしたわ」
 千佳子が、ほんとにびっくりします、と鸚鵡返しに言い、
「青高で何度も見ました」
 カズちゃんが、
「このあいだ新聞に、大リーグでもトップクラスの肩だって書いてあったわ」
「十二時に出たら、一時には神宮球場に着くね。うちのフリーバッティングが少し残ってるかもしれない。きょうは後攻だから、東大のフリー打撃は後番だな。一時過ぎに、五本だけ打ってみるよ」
「やった!」
「ええなあ。うちはあしたは日曜出勤や。その楽しみ、今度に取っとくわ」
「きょうの試験、東大駒場だったよね」
「うん」
「何時から?」
「一時半から三時半まで。十一時半にお姉さんたちといっしょ出る。吉祥寺から井之頭線に乗って四十分くらい。ちょっと早いけど、キョウちゃんの大学を見てくるわ」
「のんびり解くんだよ。あせるとかえってスピードが落ちるからね」
「うん」
 カズちゃんと素子は午前の臨時仕事に先発。九時。ダッフルを担ぎ、下駄箱にあった黒鼻緒の下駄を履く。千佳子に見送られて玄関を出る。千佳子は道まで送って出て手を振った。小さな粒の雨。傘を差す。ブレザーに下駄。千年小学校へ朝からユニフォームを着てかよったことを思い出す。朝礼のときみんながさざめくように笑っていた声も。
 野球を捨てようとしたあの恐ろしい時期のことも思い出す。だれのせいで野球をあきらめたわけでもない。どんな形でもつづけていこうと思えばそうすることができた。何もかも面倒くさくなって、その気分に野球が巻きこまれただけのことだ。野球を奪ったのは他人ではない。あのころ自分の手で野球をえぐり取った傷口から、いまも赤い真皮が覗いている。その傷を隠しながら、いったいどのツラさげて、やりつづけた甲斐があったなどと言えるだろう。運のいい巡り合せだとしか言いようがないのに、野球への情熱を厚かましく主張するのは恥ずかしい。私はほんとうに野球で成功したのだろうか。たぶん、バッターボックスでは成功したのだ。幸運の巡り合わせの中で。
 ―野球が取り柄だなんて、とんでもない!
 しかし、野球! 人生の中で自分がいちばん好んだものは何かと問われると、血族でもなく、友への信愛と女への情動でさえなく、むろん競争や立身に齷齪する人生ゲームでもなく、野球という麗しいスポーツへの〈嗜好〉だったと答える。ただ、いつのころからか嗜好を超えた崇高なものの存在を実感するようになった。人間という普遍的な存在に、好みではなく、深い感動を覚えるようになった。いきすがる人びとにさえそれを感じるほどになった。自分以外の人びとに感激できるようになったという意味でなら、いまの私は幸運に依存しない独行の人間として取り柄があり、マグレではなく、実力で成功したと言えるのではないだろうか。
 フジに寄る。朝の客でごった返している。席がないので立ったままでいる。カウンターに金城くんと並んで立っているカズちゃんに、
「洗濯ずみのユニフォーム受け取った。帽子も新品同様になった。ありがとう」
「お礼はマスターに。千佳子さんに挨拶してきた?」
「うん、道まで見送ってくれた」
 マスターが、
「きょうは明治戦だね」
「はい。新しいスパイクがすっかり足に馴染みました。クリーニングありがとうございました」
「いいからいいから。モーニング食べていきなよ」
「朝めしは食いました。できればハムサンドと玉子サンドを作ってください。球場に向かうバスで食べます」
「ほいよ。金城くん、ハムサンドと玉子サンド」
「はーい。玉子焼に砂糖入れますか」
「塩気だけで」
 コーヒーを飲んでいるあいだ、きょうも数人の客と握手する。金城くんに礼を言ってサンドイッチの紙袋をダッフルにしまい、高円寺駅へ。
 電車の席に座って見下ろす格子縞の黒鼻緒が目に心地いい。天下泰平に眠りこけている乗客がいる。彼の背後の窓の外、低い雲のあわいに青空が覗いている。一日降るはずの雨がすでに上がっている。しかし信用できない。荻窪から丸ノ内線で本郷三丁目へ。やはり霧雨が落ちてきた。傘を差して灰色の本郷通りを歩く。
 東大グランドでレギュラーたちと走りこみをする。たがいに手伝いながら、ストレッチも入念にやる。ふつうの小雨が降りはじめた。きょうは一日雨だ。部室で八十キロバーベルを五回。十キロダンベル十五回。簡略なミーティング。マネージャーの白川が、
「ユニフォームが泥んこになった場合のために、もう一着持っていったほうがいいと思うけど、どうかな」
 中介が、
「いや、背番号が見えなくなっても、膝小僧が破れても、俺はそれでやりつづける。大事な一戦だ。この初戦に負けたら、たぶん優勝はない」
 みんな、そうだそうだと応じる。詩織が、
「きょうからすてきなコンバットマーチが鳴り響きます。神無月さんの友人、法学部一年生の山口勲さんというギタリストが作曲してくれました。期待してください」
 睦子が、
「スタンドのバトンは二十人に増えました。ステージの上と下に三人交代で六人、客席の前二列に七人、後ろ二列に七人、入れ替わりで踊ります。ふつうのミドルスカートのときと、東大のユニフォームのときと、二つのバージョンで踊ります。ユニフォームのときは半パンです。あまり騒がしくない、メリハリのある整然とした応援をします。あいにくの雨天で見にくいでしょうが、ときおり眺めて励みにしてください」
 黒屋が、
「水道の蛇口をひねって水を飲むのは味気ないし、いちいちダッグアウトから引っこまなくちゃいけないのが面倒です。やっぱり樽を用意しました。氷は入れてません」
 白川が、
「この雨でもスタンドは超満員だと思いますが、雰囲気に呑まれずにいつものプレーをお願いします。バスのカラオケいきますか」
「勝ち点上げた日の帰りにしよう!」
 克己が言った。鈴下監督が、
「先発、アンダースローの森磯! まず目くらましだ」
「森磯、頼んだぞ!」
「打たせろよ。ぜんぶ捕ってやる!」
 森磯は百二十キロ後半のピッチャーだ。精いっぱい放った直球でも、せいぜい百二十七、八キロまで。遅すぎて目くらましになるかもしれないが、もって二回だろう。来季のことを考えての投入にちがいない。
「打たれたら、村入、三井の順でいく。なんとか勝って、第二戦は、那智、台坂、有宮で確実にものにしたい」
 スリークォーターの村入のほかは全員オーバースロー。百四十五キロ以上を出す那智を除いて百三十キロあとさき。この半年でたしかに球速は増した。しかし、威力があるというほどではないし、おまけに左ピッチャーが一人もいない。有宮と台坂が卒業すれば、来年はエース那智、中継ぎ三井、森磯、クローザー村入でいくことになる。手薄とは言えないが、万全とも言えない投手陣だ。投げ慣れた二枚看板が抜けるのは痛手だ。たぶん今年優勝できなければ、この先、東大に優勝は巡ってこないだろう。助監督の西樹が、
「きょう勝てば、おそらく二連勝だ。頼むぞ、森磯」
「はい、浮き上がるシュートを覚えましたから」
 肩が弱いから、せっかく浮き上がっても打ちごろのところへ落ちる。
 ―打ちごろ? 
 それもありかな。打ちごろだからと言って、すべてをきちんと打ち返せるわけではない。十本のうち六、七本は打ち損なう。打ち損なえば、ほとんどが凡打になる。いけるかもしれない。
 先発メンバー発表。一番センター中介、二番セカンド磐崎、三番ライト横平、四番レフト神無月、五番キャッチャー克己、六番サード水壁、七番ショート大桐、八番ファースト臼山、九番ピッチャー森磯。
 ロッカーの棚に置いてあったケース入りの眼鏡をダッフルに入れる。野添が、
「試合が夕方にかかったときの用心ですね」
「そう。強い雨が振りだしたときにもね」
 スパイクの泥を落とす竹ベラを各自携行して、農学部門前を出発。バスの窓に貼りつく細かい雨を見つめる。だれも口を利かず、私と同じように窓をボンヤリ見つめている。サンドイッチを出して齧る。うまい。これなら苦手なパンも食える。役者を目指しているという沖縄人の金城くんの内気な笑顔が浮かぶ。食い終えて目をつぶる。
 十二時、雨のゲートを入る。コンクリートの回廊にスパイクを鳴らしてロッカールームへ。
「フリーバッティングをするやつは十二時半からだぞ。鏡、やっとけ」
 兼コーチの声に、二枚の鏡の前に横平と水壁が立つ。横平が、
「金太郎さん、ちょっと低目の〈返し〉を見せてくれ」
 こねないように自然に返すスィングをして見せる。
「なんだか右手の引きも利かせてるようだな。やっぱりマスターできん」
「低目は返す意識は持たなくていいんです。意識して返すのは高目です。何よりもバットを遅らせて出すことが肝心です」
 水壁が、
「腰が先だよな、金太郎さん」
「はい」
 私はスタッフや準レギュラーたちといっしょに一足早くロッカールームを出て、ベンチに入った。広大なグランドを眺め回す。明治チームがバッティング練習をやっている。左バッターが二人、鈴木と月原。ほとんどの選手がダウンスィングだが、和泉と辻はパンチショットだ。掬い上げるのは四番の小野寺だけ。要警戒だ。那智が、
「神無月さん、先攻ベンチが三塁側、後攻ベンチが一塁側というのは知ってたんですが、大学野球の先攻後攻はどうやって決めるんですか。高校野球はジャンケンでしたけど」
「そうだったね。ジャンケンに勝っても負けても先攻になると喜んだものだよ。高校のやつらって、先攻の有利さを知らないもんだから、ジャンケンに勝っても後攻を取りやがる。だから青森高校はいつも先攻だったなあ。大学は、リーグ戦以外は主将同士のジャンケンだけど、リーグ戦はスケジュール表の左に書いてある大学が先攻、右に書いてある大学が後攻だ」
「へえ、そうだったんですか」
 私もどうにか覚えた知識だ。バックネット裏を見る。早めに出てきたのか、雨のかからない大屋根の下にすでに二列縦隊になった十一人が肩を並べて、一塁ベンチを眺めている。私は大きく手を振った。詩織と睦子もベンチから身を乗り出して手を振る。十一人全員立ち上がり、両手を高く上げて大きく振り返した。父親がいちばん大きく振った。十二時半から、イの一番にケージに入ることにした。ベンチにどやどや入ってきたレギュラー陣に、
「きょうは打撃練習します。五本」
「おお、いけ! 度肝を抜いてやれ。有宮、台坂、那智、三人交替でフリーバッティングのピッチャーをやれ。そのあと、試合中ずっとブルペンでウォーミングアップだ」
「あしたのですか」
「きょうのだ。総力戦できょうの試合をもぎ取る」
「ウォース!」
 克己がピッチャー陣に向かって大声を上げる。
「よし! 有宮と台坂と那智は順繰り、村入、三井といっしょに試合中投球練習しろ!」
「オッケー!」


         二百二十四

 明治のフリーバッティングがすみ、私はヘルメットをかぶり、ゆっくりとケージに入った。小雨が霧雨に、霧雨が小雨にの繰り返し。私の試合前バッティングはめずらしいことなので、スタンドがざわめいた。落ちてくる雨がはっきり見えるようになった。視界いっぱいに傘と合羽。記者席やカメラマン席には大傘が並んでいる。フラッシュが連発される。
「キョウちゃーん、がんばって!」
 吉永先生の甲高い声が聞こえた。有宮はなるべくホームランが出やすいように配慮して、初球を低目のストライクゾーンに投げてきた。しっかり見定め、渾身の力で掬い上げる。白球は雨空にぐんぐん伸びて、ライトスタンドの場外仕切り網に打ち当たった。
「ウオー!」
 スタンドがどよめく。明治ベンチ全員が身を乗り出している。島岡監督のずんぐりしたからだも混じっている。二球目、真ん中低目。センターへ打ち返す。低いライナーで伸びていき、スコアボードの裾に一直線に突き刺さる。どよめきが驚愕の叫び声に変わる。金太郎、金太郎の輪唱。三球目、外角高目。踏みこんで絞りこむ。下をこすられたボールが高く舞い上がり、レフトの前段ぎりぎりに落下する。ホームランはホームランだ。試合がまだ始まってもいないのに、ブラバンが山口のコンバットマーチを初めて演奏しはじめる。鉦やシンバルや小太鼓の入る本格的なものだ。軽快で勇壮な響きの中でバトンガールが踊りだす。四球目、内角の胸もと。叩きつける。猛烈なライナーがライトの前段に吸いこまれる。五球目、外角寄り低目。きっちり手首をかぶせて振り抜く。センターへ低く伸びていき、バックスクリーンの左端にぶち当たった。
「おみごとォォ!」
 監督の声に、ベンチがいっせいに勝鬨(かちどき)まがいの叫びを上げる。ネット裏を見ると、十一人はもちろん、観客総立ちになって拍手している。最前列のスカウト連は拱手して動かず、ベンチ横の報道関係者は傘の下であわただしくペンを動かす。
 横平が走ってケージに入る。一球目からライトの中段に飛びこむホームランを放ち、それで切り上げてベンチに走り戻る。
「雨に濡れたくない!」
 ベンチに笑い声が拡がる。水窪はパンチショットで三球打ち、レフト前ヒット二本、左中間のフェンスへ一本打ち当てた。これも大拍手になる。よほど明治のフリーバッティングがインパクトに欠けていたのだ。そのあとは時間切れになるまで、台坂がレギュラー陣に二球ずつ投げた。
 守備練習に入る。さすがに明治の守備はすばらしい。連繋プレーの華麗さにため息が出る。外野へフライが上がる。センターの広沢と、ライトの月原の肩がいい。どのチームにも感じることだが、内外野とも肩が強くなければ、緊張感のある美しい守備にはならない。幸い東大のレギュラーには、地肩の弱い選手は数えるほどしかいない。森磯、中介くらいか。ほとんどの選手が九十メートル以上は投げられる。ただ華麗でない。ボールさばきに手慣れた感じがないのだ。それは怠惰からではないことがわかっているので、ひたすら練習で鍛えるしかない。
 東大の守備練習。スタンドが静まる。華麗でないからだ。鍛え上げた少年野球。それでもボールをポロポロこぼすことはない。しっかりと基本に忠実なプレイをする。横平のバックホーム、低いワンバウンドでキャッチャーミットに吸いこまれる。ピッチャーにコンバートしてもいいくらいの肩だ。遠投力は彼がいちばん伸びた。どこかの社会人チームでもやっていけるだろうが、彼は大学院に残って光合成の研究をすることになっている。中介のバックホーム。山なりだがコントロールよくワンバウンドでキャッチャーミットに収まる。堅実なマツダ自動車。私のバックホーム。フラッシュが焚かれる。低いノーバウンドのボールが、ホームベース上に仁王立ちする克己のミットにするどい音を立てて収まる。嵐のような歓声、太鼓の乱打。みんなこの低く伸びていく美しい直線を待っていたのだ。
 ウグイス嬢のメンバー紹介がすむと、サイレンが鳴った。監督やベンチの絶叫。
「ようし、いけ!」
「ドーンといけ!」
 東大・明治両チームがホームベース前に走っていって整列し、振り返り、いつものとおり帽子を取って味方スタンドに礼、両チーム向き合って礼。四人並んだ審判も同じように礼をする。いままで開始前の挨拶は何も考えずに仲間に倣ってやっていたが、相撲の仕切りと同じ戦闘前の儀式だとあらためて意識すると、礼をしながら思わず身が引き締まった。
「ウエー! イグゼイグゼ、イグゼー!」
「しまってこーぜー!」
 東大の先発選手が守備に散る。中介と遠投キャッチボール。バックネットを見ると、山口が立ち上がって盛んに写真を撮っている。浜野が応援団前の三塁側ブルペンに立ち、投球練習を始めた。心なしか顔が赤い。エースらしい切れのいいボールを投げている。バッターボックスに立つのが楽しみだ。それに比べて、サブマリーン森磯のボールは悲しいくらいのろい。しかも、生まれて初めての先発にアガリまくっている。二球連続でショートバウンドのボールをバックネットへ転がしてしまった。マウンドからホームベースが遠く見えるのだ。
「プレイボール!」
 明治大学応援団の太鼓、太鼓、突き、突き、ブラバンの『紫紺の歌』に合わせたバトンガールの踊り、紫紺の旗が振られる。
 トップバッター、ショート倉田。バットを寝かせ、しゃがむような格好で構える。お辞儀をするボールを叩きつけてくるだろう。芯を食えば、レフトに大フライが上がる。空に紗をかける雨を一瞬見上げた。緊張して構える。初球、ギンという音がして、水壁がジャンプした。捕った! 十センチ上だったら、レフト線の長打コースだった。
「ナイスプレイ!」
 内外野が明るい声をかける。森磯は先輩の水壁に帽子を取って礼をし、指を一本立てる。まだアガっている。二番ファースト鈴木。左バッター。これもバットを寝かせている。
「三遊間!」
 私が大声を上げると、大桐と水壁が少し寄り合った。そのとたん、流し打ったゴロが濡れた土を噛みながら三遊間目指して滑ってきた。大桐は芝生の切れ目に向かって走りながらウンと左足を踏ん張り、逆シングルでギリギリつかむと、振り向きざま一塁へみごとなワンバウンドの送球をした。
「ナイスプレイ!」
「ナイスプレイ!」
 今度も森磯は帽子を取って大桐にお辞儀をした。三番センター広沢。バットを立てた長距離バッターの構えだ。
 ―森磯さん、覚えたてのシュートでいこう。
 初球、内角低目のボール。シュートなのか、ただのお辞儀をするボールなのかわからない。二球目も同じコースにストライク。だめだ、ボールにしろ。ストライクは危ない。三球目、少しだけ高目に浮いた。バット一閃、ライナーがレフトを目指して飛んでくる。ラインドライブして少し落ちるか。落ちない。あっという間に私の頭上を越えてフェンスにぶつかった。撥ね返り、ワンバウンド、ツーバウンド。
 ―よし、二塁で刺せる!
 掬い上げ、思い切りセカンドベース目がけて腕を振り下ろす。一本の線が磐崎のグローブと合体したとたん、広沢が足から滑りこんだ。
「アウゥゥ!」
 塁審の手が上がる。フラッシュ、フラッシュ。歓声がスタンドに轟々(ごうごう)とこだまする。
「ナイス返球!」
「ナイス返球!」
 一塁ベンチ目指してダッシュ。水壁にグローブで背中を叩かれる。
「ナイスプレー!」
「先輩もナイスジャンプ!」
 山口がカメラマンに徹している。金太郎コールに混じって、
「キョウちゃーん!」
 というカズちゃんの迫力のある声が聞こえた。カズちゃんが叫ぶのはめずらしい。顔を向けると、節子も吉永先生も立ち上がって夢中で拍手している。ベンチの喝采。ホームランを打ったみたいに肩や背中を叩かれる。森磯が、
「金太郎さん、ありがとう!」
「いえ、いつやっても刺すのは気持ちのいいものです。自由に投げて、どんどん打たせてください」
「二回は外角中心にいってみる」
「賛成です。ゴロが多くなれば、アウトも多くなるでしょうね。早く試合を終わらせて、あしたに備えましょう」
 柄杓で水を一杯飲む。中介が棚のヘルメットをつかんでかぶり、ベンチを出ていく。恐い顔をした痩せっぽっちの浜野が、バッターボックスに入った中介を睨みつける。中介も負けじと睨み返す。山口のコンバットマーチが大きく高らかに鳴り響く。紺碧の空に勝るとも劣らず美しく壮大だ。
 プレイ! と審判が声を上げたとたん、初球が中介の顔のあたりにきた。百四十キロもいかない直球なので簡単によけられたが、二球目も少し球速を増して同じところにきた。中介がいきり立って、
「ビンボールだ!」
 と怒鳴る。審判が両手を激しく交差させて一歩前に出ると、
「危険球、もう一球で退場!」
 と叫んだ。島岡監督がベンチを出かかったが、思い留まった。山口のコンバットマーチが急テンポになる。空がたちまち重苦しい雲に覆われ、粒の大きい雨に変わった。
 ―雨、雨、権藤、雨、権藤。
 あれは雨天中止では投げないという意味だ。中止でない日はほとんど投げる。恐ろしい話だ。
 三球目、外角にストレートがズバリときた。ストライク。やはり伏線だったようだ。私までとっておけばよかったのに。浜野はロジンバッグをポケットにしまい、ごしょごしょすべりを止めてから、振りかぶって四球目を投げこんだ。ど真ん中高目、百四十キロのストレート。中介はファールチップした拍子にヘッドアップして尻餅をつきそうになった。かろうじてこらえてグンと伸び上がり、ピョンと跳ぶ。応援団が突きを繰り出し、バトンガールたちがきびきびと跳ねる。五球目、真ん中高目から外角へするどく曲がり落ちるカーブ。ああ、これは打てない。空振り三振。キャッチャーからボールが内野を一周する。きびしい形相で中介が戻ってきた。
「カーブが切れる。手を出しちゃいかんな。狙いはストレート一本。次は打つ!」
「内角高目にくるのは、ぜんぶストレートだと思います。外角のストレートかカーブへの伏線です」
「見逃させるためか?」
「はい。ボールと思わせるためです」
「なるほどな。さすがだ」
 克己が、
「見逃さないほうがいいのか?」
「見逃すべきです。狙って振ってもまず当たりません。あの高さだと、よほど落ちないかぎりボールになります。それで空振りを取りにきてますから、むちゃ振りだとだめでしょう。振らないと決める手ですね」
 横平が、
「俺は、カーブだろうとストレートだろうと、高目は捨てる。低目一本」
 そう言って、ネクストバッターズサークルへ出ていった。二番打者磐崎も、高目から落ちるカーブを空振り三振して戻ってきた。
「打てん。ググッと落ちやがる」
「カーブばかり投げてるんで、そのうち疲れてくるでしょう。そしたら狙いどころになります。ぼくも第一打席はヤバイな」
 ドン、ドン、ドン、ドドーン、ドン。太鼓の音が大きくなった。そのとたん、ガキーンという打球音が上がった。
「オッケー! オッケー!」
 監督が叫び、詩織と黒屋が手を取り合って跳びはねた。低目のカーブを掬い上げた痛烈な当たりが一、二塁間を抜いていく。横平が一塁ベースをフェアグランドへ駆け抜けて止まった。
「ナイスバッティング!」
 鈴下監督の甲高い声。横平はファーストベースへ駆け戻ってきて、一塁コーチの兼と握手する。一塁側スタンドの叫び、金太郎コール、太鼓、ドンドンドン、鉄腕アトムから山口のコンバットマーチへ。ヘルメットを手に取り、ベンチ前に出て空を見上げると、少し弱まった紗の雨脚が柔らかく揺れている。記者席の大傘の列からフラッシュの光が飛んでくる。バックネットを振り返る。十一人が手を振る。浜野の鬼面が蒼白になっている。フリーバッティングの五本のホームランを思い出しているのにちがいない。
「金太郎、頼んだぞ!」
「第九号お見舞しろ!」
 浜野がセットポジションに入った。横平慎ましいリード。メリハリのきいた応援という私の注文が伝わっているのか、ブラバンと太鼓が一瞬静まり、団員とバトンガールが直立してピッチャーとバッターに注目した。
 初球、落差の大きいカーブを真ん中に落としてきた。ストライク。浜野を讃える三塁側スタンドの喚声。一投で球筋を見極めた。フォークに近いカーブ。打ってはいけない。芯を食わないかぎりポップフライになる。二球つづけてきたら一か八かの勝負に出る。一塁側の応援が静まっても球場全体の歓声がすごいので、からだが浮き上がるような気分になる。二球目外角高目へカーブがすっぽ抜ける。キャッチャー、ジャンプ。スタンドの騒音の中で太鼓が復活する。金太郎、金太郎さん、止まないシュプレヒコール。コンバットマーチ。バトンガールが踊りはじめる。
 ―直球だ。渾身のストレートでくる。高くても低くても振ってやる。
 頬の雨を手のひらで拭う。指の湿りを確かめ、バットを握り、構える。三球目、直球! 外角低目だ。踏みこみ、草の先を払う要領でバットを薙(な)ぐ。捕まえた。
「キャー!」
 詩織たちの嬌声が上がる。
「いったあ!」
 次打者の克己の声だ。左中間の上空へ霧雨のカーテンを切ってボールが伸びていく。バットを放って走り出す。あっという間に左中間中段に突き刺さった。コンバットマーチが弾む。応援団の美しい舞いに混じってバトンガールが肩を組んでラインダンスを踊る。彼らに帽子で応えて一塁ベースを回る。フラッシュの中で速力を増す。ボールの飛びこんだ場所を見やりながら、全速力で二塁から三塁へ。歓声が笑い声に変わる。目の端にうなだれている浜野がいる。十一人の応援者たちに手を振る。父親が手を振り、母親も手を振り返す。ホームインした横平が次打者の克己とタッチし、ベンチ前の迎えの行列に雪崩れこむ。私もその中へ飛びこんでいく。監督や助監督と握手し、チームメイトや白川に背中を叩かれてベンチに駆け下りる。詩織と抱擁、睦子と抱擁、黒屋と握手。克己が高いキャッチャーフライを打ち上げてチェンジ。ゼロ対二。


         二百二十五

 二回表。明治の攻撃は、四番和泉のライトオーバーの二塁打から始まり、小野寺ライト前ヒット、辻ライト線の二塁打、月原右中間二塁打とヒットが四本つづき、たちまち三対二と逆転された。ノーアウト二塁。左バッターはもちろん、右バッターも、下手投げピッチャーに対するセオリーどおり右方向を狙ってきた。
 八番キャッチャー古川、深いセンターフライ。月原三塁へ。浜野がピッチャーの足もとを抜けるセンター前ヒットを打って、一点。四対二。バッティング練習になった。お辞儀をしてゆるく外角に流れる球は打ちやすいのだ。百二十七、八キロでは、どんな幸運の力を借りても、〈大人〉の野球には通用しない。弱い雨が降りつづいている。スタンドがカラフルに見えるのは、ほとんどの観客がカラフルな合羽を着ているからだ。
 ワンアウト一塁のままピッチャー交代。鈴下監督は三井ではなく、有宮を投入してきた。速い球で目先を変える気だ。有宮は克己を立たせてふつうのキャッチボールを五球、全力でやった。スタンドが沸いた。速球を見せつけたのだ。百三十七、八キロ。ミットがいい音を立てるのでもっと速く見える。それでも浜野より遅い。明治ベンチの表情に余裕がある。しかし有宮はみごと期待に応えて、倉田を三球三振に打ち取った。すべてカーブだった。そのための速球のキャッチボールだったのだ。
 ―やるもんだな、東大のバッテリーも。
 東大の応援団が五人並んで声もなく突きを繰り出しはじめた。守備のときに突きをやるのはめずらしい。左バッターの鈴木が走ってバッターボックスに入る。バットを高く構えたとき、いやな予感がした。有宮のカーブが少し高めに浮いていたので、出会いがしらの長打を心配した。杞憂だった。有宮は、今度はすべて内角の直球を投げて、三球でセカンドゴロに打ち取った。この試合も勝てると確信した。
「ナイス、ピッチング!」
 みんなでグローブを叩きながらベンチに駆け戻る。
 二回裏、三回裏と、浜野は六番から二番まで連続六人を内野ゴロに切って取り、すっかり立ち直った。
 八回表まで、両チームとも各回打者四、五人で終了する投手戦になった。それでも明治は九人全員安打、東大も磐崎と有宮を除く全員がヒットを放った。残塁が多いせいで、得点は二対四のまま。私はホームラン一本きりで、残りの三打席をセカンドゴロ二つとセンターフライに打ち取られた。浜野はもう私には直球を投げてこない。ストライクもボールもすべて変化球だ。カーブ一本に狙いを絞ったが、微妙にタイミングを狂わされて落ち際を芯で捉え切れない。どうしてもボールの下や上を叩いてしまう。
 八回裏に入った。七回のエール交換が終わったあたりから天気が急速に回復して、雲の切れ間からまぶしいくらいの陽射しが落ちてきた。濡れた芝生の緑が美しく輝く。私はベンチの端に立ち、バックネットを見やった。カズちゃんが両手を膝に置き、やさしい眼差しでじっとグランドを見つめていた。白いセーター、グレイとブルーのチェックのハーフコート、漆黒の髪がさわやかだ。父親と菅野と山口は楽しそうに会話していた。勝敗などまったく考えていない様子だった。
 ピッチャーの有宮からの打順だった。七回あたりから浜野のカーブはほとんどブレーキが利かなくなって、いわゆるションベンカーブになってきていた。彼はコースを投げ分けながら、百四十キロ台の直球に頼りはじめた。
「ここから大量得点ですね」
 私が克己に言ったとたん、有宮がぶん回して、いい当たりのレフト前ヒットを打った。狂喜する一塁側ベンチの騒ぎを遠目に睨みつけながら、島岡監督がベンチで立ったり座ったりしている。ここまで二点に抑えている浜野を代えきれないのだ。
「中介さん、大逆転いきますよ!」
「ガッテン承知のスケ!」
 中介、磐崎、横平とつるべ打ちになった。中介のセンター前に飛んだライナーがイレギュラーして辻が後逸。三塁打。有宮還って一点。磐崎左中間二塁打。中介還って一点。横平ライトオーバーの二塁打。磐崎還って一点。四対五。逆転。たまらず島岡が立ち上がってマウンドにつかつか歩み寄り、ひとことふたこと浜野を叱りつけると、審判を振り向いてピッチャー交代を告げた。
 池島という左の本格派が出てきた。百四十三、四キロ。スピードは浜野とドッコイドッコイだが、コントロールが悪い。コースを考えながら投げているふうもない。ただ速球に頼るだけのボンクラ野郎だ。初球がストライクならホームランをぶちかましてやろう。いや、初球でも何でもホームベースのそばにくるボールはぜんぶブッ叩く。池島の投球練習が終わった。スパイクの土を竹べらで取る。
「キョウちゃーん!」
 という叫びがまた聞こえた。バックネット向かってピースサインを掲げた。節子と吉永先生が小さな手でピースサインを返す。三塁側のテレビカメラが首を巡らして私のピースサインを追いかけてきたので、あわててバッターボックスに向かう。月光仮面マーチ。応援団とバトンの乱舞。
「金太郎さん! 金太郎さん!」
「金太郎! 金太郎!」
 フラッシュが光る。薄暮が近づいている。あと三十分もしたらあのゴム留めの眼鏡が必要になる。ネクストバッターズサークルの克己に、
「初球からいきますよ」
 と声をかけた。克己は無言でバットを上げた。
「プレイ!」
 ここで一本出ればダメ押しになる。ベンチが期待にふるえて立ち上がる。座っていられないのだ。池島にデッドボールを怖がらせるために、ベースに近づいて構える。ベースに近づけば真ん中低目が内角低目になり、外角は真ん中になる。それがいやなら胸もとを突くか、外角へ大きく外してボールにするしかない。そのコントロールは彼にない。池島は不安そうにセットポジションに入った。内角をえぐればデッドボールの危険がある。しかし池島は私のそんな姑息な手に惑わされずに勇気のあるところを見せようとするだろう。
 一球目、そらきた、勇を奮って腰骨のあたりだ。尻を引いてよける。
「ストライーク!」
 池島は、したり顔にニヤリとする。笑う状況ではない。空元気だろう。私はキャッチャーに気づかれないように、ボックスの中で十センチほど真後ろへ下がった。二球目、池島は調子に乗って同じコースに投げてきた。内角、腰の高さの絶好球! 渾身の力でひっぱたく。小気味よい手応え。ベンチの呼吸が瞬間沸騰する。
「よーし、いった、いった、金太郎弾!」
「足柄山まで飛んでけー!」
「ホッ、ホッ、ホーム、ラーン!」
「百五十メートル弾! ドッカーン!」
 伸びる、伸びる。白球がライト最上段の金網を越えて淡い青空へ消えていく。あんなに飛ばしたのは私ではない。いつもそう思う。一塁ベースを回りながらその空に向かって感謝のこぶしを突き出す。速力を上げてベースを回る。大歓声が逆巻く。十号ツーラン。菅野がバンザイし、主人が頭の上で手を叩いている。カズちゃんたちが胸の前で両手を組んでいる。山口がカメラを覗いている。内野外野のフラッシュが目を射る。
 ベンチ前に飽きもせず監督や助監督や部長やチームメイトが並んでいる。詩織や睦子たちまで並んでいる。飽きてくれないことがうれしい。反復される感激。私と同様、彼らもホームランに慣れることができないのだ。どうしても感激に慣れることのできない奇跡の人びとに向かって感謝のこぶしを突き出す。奇跡は一瞬で消える。大切にしようとしまいと、一瞬で消える。さあ、次のホームランだ。
 克己が五センチほどバットを短く持って構えている。レベルスイングのパンチショットでホームランを打つつもりだ。四対七。八回裏。試合は十中八九決まっている。あとは余興だ。部長が、
「克己くん、もう一本!」
 黒屋が、
「克己さーん、ホームラン!」
 初球、内角へショートバウンド。なんと空振り。長嶋のように、最初から打つと決めていたのだろう。私は思わず拍手した。
「ナイス、スイング!」
 実際するどいスイングだった。東大のクリーンアップの威力を再確認させるようなスイングだった。ドン、ドン、ドン、突き、突き、突き、ドン、ドン、ドン。コンバットマーチ。詩織と睦子が声を合わせた。
「克己さん、ホームラン!」
 監督もふだんになく昂ぶり、
「一発いけー!」
 克己は少し横ずさりしてキャッチャーに寄った。内角を踏みこんで叩くつもりだ。こういうときは、まずまちがいなく予想したとおりの球がくる。案の定、内角の低目に素直な速球がきた。短く持ったバットでしっかりぶん殴って掬い上げる。スピードがあるだけに反撥が強い。ボールはきれいな弧を描いてレフトの頭上へスッ飛んでいった。
「オッケー、いったあ!」
 弾道がくっきり見える。ベンチ前に全員跳び出て小躍りする。コンバットマーチと歓声に合わせて克己は小刻みに走る。バシャ、バシャとシャッターの音、フラッシュの光。克己はホームを駆け抜け、ネクストバッターズサークルの水壁と強く掌を打ち合わせる。勢いを緩めながら走ってきて、ベンチ前に勢揃いした全員とハイタッチをする。帽子を取って一塁スタンドに礼。
「野村ばりだったぞ!」
 監督が克己の背中を叩く。四対八。あたりが薄っすらと灰みがかってきたので、私は野添にゴムひもを眼鏡に通してもらってかけた。ベンチが大笑いになったので、すぐ外して野添に返す。臼山が、
「もう十月だもんな。薄暮が早くなった」
「守備のときにかけます。ミスをしたら、四点差なんてあっという間ですから」
 明治のピッチャーがスリークォーターの技巧派古谷に交代した。大洋の秋山ふうの投げ方だが、さほど球威はない。水壁、大桐と右中間へ連続二塁打。一点。臼山、大きなライトフライ。大桐、三塁へ。打者一巡。ようやくワンアウト。有宮、センターの深いところへ犠牲フライ。一点。四対十。ツーアウトランナーなし。中介、レフトフライ。怒涛の攻撃が終わった。
 九回表、眼鏡をかけて守備につく。すべての輪郭が鮮やかだ。内野を往復するボールのスピードが怖いくらいだ。有宮を休ませるために、台坂投入。四番の和泉から。明治スタンドが最後の力を振り絞って大声援を送る。山口のコンバットマーチ、応援団長のきびきびした手振り、団員たち揃っての正拳突き、バトンを持った女たちのジャンプパフォーマンス。東大スタンドの応援団とバトンガールは、後ろ手して静観の姿勢をとる。高い空を見上げる。お寺の猿。さぶちゃん。そして、そして……幸運が重なって、ここにいる。   
「イグゼー!」
 中介の掛け声と同時に、審判の右手が上がる。爪先立って腰を落とす。台坂の重い直球が外角に決まる。和泉がのめる。
「ストライーク!」
「セイ、セイ、セイ、セイー!」
 横平の声。一塁ベンチ前に、気の早い準レギュラーたちが五、六人立っている。二球目真ん中低目の直球。するどい打球音。痛烈なショートゴロ。大桐、腰を落とし基本に忠実にさばいて一塁送球。アウト。総立ちの明治スタンド、ブラバンの喧騒。東大チーム全員が指を一本立てる。
 五番、小野寺。きょうは左中間二塁打一本、レフト前シングル一本打っている。中介と声をかけ合って左中間を狭める。たちまちツーナッシング。どいつもこいつもなぜ見極める前に振らないのだろう。そうすれば自分のバットスピードとボールスピードの懸隔が測れるのだ。克己のように最初から振っていくのがいちばんだ。チラリと、小野寺が足をクローズドスタンスにしたのが見えた。中介もいち早く気づき、右中間を狭めた。ギン! という音がし、打球がライナーで右中間に飛んだ。ドライブしてシュートがかかり、疾走する中介の左グローブをすり抜けた。これまた疾走してきた横平がワンバウンドで押さえ、二塁へ矢のような送球をする。悠々アウト。中介と私が同時に叫ぶ。
「グッド、アーム!」
「ナイス返球!」
 東大スタンドが総立ちになって喝采している。おもむろに応援団が日本舞踊のような舞を始めた。初めて見る美しい舞だ。台坂が指を二本立て、内外野に示した。一塁ベンチ前に選手全員が勢揃いしている。手を膝に置き、整列位置へ駆け出す姿勢だ。試合終了後の挨拶はスタッフも含めて登録選手全員が列に並ぶことになっている。
 六番、センター辻。守備の男。この試合も右に左に走り回って、長打を未然に防いでいた。初球、ブンッと振った。空振り。私はバックした。ボールを小さな一点に当てるという意味では、ヒットもホームランもすべてマグレだ。同じマグレなら、思い切って強く振る人間のほうが危ない。
 カーンと乾いた音がした。ボールがセンターへ高く舞い上がる。大きい。明治スタンドの歓声が白球を押す。百二十二メートルのフェンス目指してボールが伸びていく。越えるか? 台坂の球が重いことが頼みの綱だ。俊足中介、背走、背走、ジャンプ! グローブが高く差し上げられる。からだが回転する。フラッシュ、フラッシュ。
 ウオー! という大歓声の中、辻がうなだれてベンチへ戻っていく。私は眼鏡を外して後ろポケットにしまった。中介が捕球したグローブを掲げたままベンチに向かってダッシュする。私と横平もダッシュする。
「ナイス、キャッチ!」
「中介、プロ並だったぜ」
「サンキュー!」
 ブラバンが、ああ玉杯を演奏している。スタンドのOBたちが切腹スタイルに腕を振り下ろしている。応援団が不思議な舞いをつづけている。短いサイレンが鳴る。カズちゃんたち十一人が手を振る。私は帽子を振る。報道陣が審判の後方に待機する。レギュラーが監督やスタッフたちと握手する。
「選手、整列!」
 審判の大声。ダッシュ。ホームベース前に整列。スタンドに礼。選手同士礼。目の前の三人、四人と握手。ウグイス嬢の勝敗を告げるアナウンス。一塁側演壇前へダッシュ。拍手と歓声。礼。足音を高めよ斉唱。応援団の演舞。
「神無月さん!」
 野太い声に驚いて視線をやると、御池がいた。松尾、中尾、宇治田、堤、それからいくつかの見知らぬ顔が私を見下ろして親しげに手を振る。松尾が、
「すごかぞ、神無月! たまげたばい!」
 応援団長のめまぐるしい手の動き。中年の人びとが泣き、若い人びとが笑っている。御池たちに礼をして駆け戻る。バックネットに大きく手を振り、ベンチ前の記者たちを切り抜け、心ゆくまで甕の水を飲む。


         二百二十六

 汚れたユニフォーム一式とグローブ、スパイク、帽子を入れたダッフルを担いで、高円寺に帰る。女が五人、畳の居間でコーヒーを飲んでいた。節子が、
「おめでとう! いよいよ優勝ね」
「まだまだ。あした勝って、ようやく見えてくる。あ、カズちゃん、ユニフォーム、泥のハネをうるかすために湯に漬けてね。それから洗濯機に入れてくれればいい」
「洗濯機は布地を痛めるわ。泥だけ落として、クリーニングに出しとく」
 吉永先生が、
「十本目ですか?」
「うん。秋は春の半分ぐらいになりそうだ。研究されて、春よりも変化球を投げられることが多くなったからね。きょうも凡打が三本」
「おとうさん、感動しまくってた。キョウちゃんは人間じゃないって。ホームランはもちろん、凡打も美しいんですって。山口さんが、神無月は成功も失敗も同じように美しいんだって泣くの」
 節子が、
「泣いてないで、ちゃんと写真撮ってくださいってハッパかけたのよ。百枚くらい撮ったんじゃないかしら。きょうのホームラン、どのくらい飛んだの?」
「最初のは百三十メートル弱かな。二本目は百五十から百六十メートルくらい。自分でもなぜあんなに飛ぶのか不思議なんだ」
 カズちゃんが、
「本人が不思議なんだから、私たちにはもっと不思議ね。とにかくホームランは神秘。克己っていう人のホームランもきれいだった」
「ああいうのをパンチショットって言うんだけど、よほど練習しないとできない。素子、試験どうだった」
「八割取れた。十一月三十日発表」
「百パーセント合格だ」
 玄関に出てスパイクの土を叩き落し、式台に戻って腰を下ろして、雨に濡れたグローブとスパイクの水気を取る。千佳子がコーヒーをいれてくる。女たちみんなで框に横坐りになる。
「山口は帰ったの?」
「林さんに電話してから、おとうさんたちをグリーンハウスに連れてった。林さんとのセッションをツーステージやって、新宿を見せて、それから西荻窪の旅館へいくって言ってたわ」
「山口と林はすてきだ。猫も杓子もしゃしゃり出たがる時代に、どこかの片隅でひっそり才能を発揮する……胸にくるね。ぼくもしゃしゃり出たがってたころがあった。そういう浮ついた気持ちのかたまりだったときがあったんだ。それほど遠いむかしじゃない。思い出すと侘びしくなる」
「いまは?」
「侘びしくない。しゃしゃり出てないし、あのころを思い出す暇がないくらい忙しいからね。忙殺というやつ。あのころは忙しくなかった。しゃしゃり出て、充実してた。思い返すとスカスカな精神構造だ」
「好きなように言ってなさい。あのころもいまも、キラキラ目立ってたけど、味方が少なかったのね。しっかり光を見きわめられる目利きがキョウちゃんを持ち上げるようになって、片隅でひっそりとというわけにはいかなくなっただけよ。忙しいのは気に入らないかもしれないけど、才能を無視されるよりはマシだと思わなくちゃ。キョウちゃんは無視されることになつかしさまで感じる人だから、浮つくなんてことは一度もなかったのよ。そういう人だということはほとんどの人に理解してもらえないわ。持ち上げられる自分を反省するなんて気持ち、人は絶対わからない」
 三人の女が抱きついてきて、頬にキスをした。吉永先生は唇にキスをした。まじめな自己省察は彼女たちの慰撫の対象になり、そうして、私への愛着の根拠になる。
 グローブとスパイクにグリースを塗り磨き立てる。下駄箱の上に置く。素子が、
「キョウちゃんの気持ち、ようわかる。心底、褒められ嫌いの人だからやよ。それってうれしいことやよ。キョウちゃんがどんなに持ち上げられても、遠くへいかないゆうことやもの」
 カズちゃんが、
「大勢の人から認められ、持ち上げられることはすばらしいことだと思うの。でも、キョウちゃんにとっては、クマさんたちや私たちに直接愛されるよりは充実感がないんでしょう。そっちのほうを奇跡だと思ってるから」
 千佳子が、
「そうですね。たしかに、これまで関係しなかった大勢の人に持ち上げられることはめでたいことなんですけど、そのせいで、対話のない対人関係の中に放り出されることになるんですね」
 カズちゃんが、
「そう。対話がなければ、愛なんてあるはずないもの。愛がなくても、名声だけで生きていける人間がほとんどなのに……」
 節子が、
「そういう世界でキョウちゃんが充実しないなら、私たちが……」
「うんと愛してあげることよ」
 吉永先生が、
「キョウちゃんにとって、社会的な成功は充実しないものなのね。不思議な感覚。口じゃ表現できないことなんでしょうけど」
 私はコーヒーを飲みながら、饒舌になる予感の中で、くどくならないようにと心がけながらしゃべりはじめる。
「母親に背負われてる赤ん坊の気持ちなんだ。通りがかりの第三者に褒められたいんじゃなく、よく知った人に身も心も愛されたい。大勢の人に無視されてもいいから、ごく一部の人に異常なほど愛されたい。そうじゃないと……何と言うか、たがいに引き合えない無重力の中に放置された感じになる。そういうことは、赤ん坊のような愛情乞食には耐えられない。これからどうしようかという気になる。もともとぼくは愛されることに慣れていないから、一部の人にでも思いがけなく愛されると、戸惑ってしまい、少し引いた気持ちで、その奇跡に感謝する。そしてそれが生きる充実感になる。だれに話しかけるかを決断することができるからね。通りがかりの人に褒められる喜びの中に安住してしまうと、奇跡に感謝するという簡単なことさえできなくなって、褒める人に一方的に支配されはじめるんだ。顔を見たこともない大勢の人たちの性格や、習慣や、毎日の思考にね。すると、愛してくれる数少ない人のもとへ近寄っていったり、その人に話しかけたりする決断も億劫になる。そういう状態を、世間では、遠くへいってしまったとか、雲の上の人になったと言うんじゃないかな。そんな片輪な人間がますます褒められて、人気者になっていく。いやな感じだ。ぼくにはパサパサした社会的な多忙よりも、身近で愛してくれる人と対話できるしっとり落ち着いた幸福のほうがずっと重い価値がある。その対話の中でぼくは初めて自分以外の人間を愛することができる。愛のある関係だ。その関係は、長く生きていくために重要で不可欠な要素だ。そういう関係がないかぎり、現実の中で充実して生きている感じがしないんだ」
 カズちゃんが、
「ひさしぶりにキョウちゃんがしゃべってくれた。名古屋以来ひさしぶり。頭がいいってことがどういうものか、よくわかる」
 吉永先生が、
「ほんと、めったにないことよ! もっと聞きたい」
 千佳子が、
「赤ん坊の気持ちというのが、よくわかります。人間は愛されることからすべて出発するというのがよくわかるんです。赤ちゃんは、かわいがられて、愛されて、やがて周囲の一部の人を愛するようになります。彼に触れない大勢の人の気持ちなど考えません。それを考えるようになるのが、名誉欲だと思います。ふつうの人はそれが満たされると充実感を覚えるんですけど、神無月くんはその逆なんです。人間として理屈に合ってるのは、神無月くんのほうです」
 私は、
「ぼくは愛に満たされてるから、じつはこんなふうに見得を切ってしゃべる必要なんか何もないんだ。とにかく、知らない人たちの中で浮ついているのは嫌いだ。インタビューも振り切りたい。このあいだはクマさんたちに語りかけるために受けたんだ。……もっと寡黙にならなくちゃいけない」
 節子が、
「キョウちゃんの言葉ってわかりやすい」
 カズちゃんが、
「そうね、私たちが考えてるようなことを理路整然と言ってくれるから。とてもうれしいことね」
「さ、風呂入ろう」
「そのあとごはんにしましょう。スタミナのつくものを四人で作るわ」
 節子が、
「私は、豚挽肉と山芋の甘辛炒め。牛肉は消化するのに体力を消耗するから、疲れを取るには豚肉のほうがいいんです」
「そうね。牛肉もたまに食べるのはいいのよ。スタミナがつくわ」
 千佳子が、
「私はマーボ豆腐に挑戦します。素子さんは?」
「鶏肉と茄子とピーマンのトウバンジャン炒め。料理教室で習ったばかりやが」
 吉永先生が、
「私は、オニオンスライスを敷いた上に、刺身用の鮭のマリネ」
 風呂場にいく。頭を洗い、ゆっくり湯に浸かった。窓を開けて、隘路を見下ろす。隣の屋敷の生垣が迫っているので、少し翳っているけれども、カズちゃんたちの草取りが行き届いていて、すっきりした感じだ。からだを洗い終わり、もう一度湯に浸かっているとカズちゃんの声が聞こえた。
「いっしょに入っていい?」
「もちろん!」
 やがてカズちゃんの豊満な裸体が笑顔で入ってきた。
「みんなが入ってきてって言うから、お言葉に甘えちゃった」
 前を清め、湯船に入ってくる。大きな尻が浴槽に入ると、湯が少しあふれた。心なしか湯の温度が下がる。カズちゃんは湯を掬って肩にかけながら、
「ああ、いい気持ち。むかし、おかあさんがよく、ゴクラク、ゴクラク、って言ってたけど、よくわかるわ。私も年をとったのね。……キョウちゃん、もう少し何かお話聞かせて」
 私は口づけをし、
「このごろ考えたスタンザなんだけど……多くを見た瞳が生きる意味は、見た歴史を伝えることではない、見た人間を伝えることだ、記憶には定められた破壊の速度がある、記憶が滅びないうちに、記憶に値する人間のことを伝えよう」
「すてき……」
「ぼくは、人間の脳の仕組みを思うことがときどきあるんだ。人間の脳はいろいろな部分がいろいろな働きをしているそうだけど、ぜんぶがすぐれた結びつきで時空を超えた記憶というものに統一されているんじゃないかな。いま生きているぼくたちは、生きているあいだの自分一人の記憶だけじゃなく、これまで生きてきた数千億の人びとの記憶と関係している。いま生きているぼくたちは、目を閉じて、いま、ここでそれを感じる。あらゆる人びとの歴史からここに統一されて存在してるんだ。そしてこの瞬間を忘れないように新しい記憶をつけ加えるんだ。後世の人たちのためにね。ぼくたちは、孤独じゃない。ぼくたちが感じる何かは、数千億の人びとも感じてきたものだし、感じていくものなんだ」
 カズちゃんが、湯当たりのせいではなく頬を紅潮させて抱きついてきた。
「する?」
「だめよ。きょうは疲れちゃだめ」
「うん、がまんする」
「私もがまんしてるの。トモヨさんが帰ったら、ちゃんと抱いてもらいます。それよりお話のつづきをして」
「つづきはないよ。―愛情生活のことでは何の不満もないんだけど、無理やりそこから忙しさの中へ引き剥がされるのが少しつらい。自分の力が及ばない状況に身を置くと、つい考えてしまう。決めるのは自分じゃないから、身をまかせるしかない。中学時代のおふくろとの関係がそれだった。持ち上げられる忙しさじゃなく、引き摺り下ろされる忙しさだったけどね。あのときに考えたことがある。―ぼくはまだ人の記憶に残ろうとする努力をしていない、努力をつづけなくちゃいけない、ただ屈しているんじゃなく、戦え、あきらめるな、殊勝にもそう思ったんだ。そうしたら、カズちゃんが現れた。現れただけじゃない、あきらめずに努力したぼくにご褒美をくれた」
 カズちゃんがキスをした。
「ほんとにキョウちゃんは褒め上手ね。私はずっとキョウちゃんのことが大好きなだけ。そうだ、よしのりさんのことなんだけど、このあいだ電話してきて、夜間高校にいってみようかなって言うの。高校受験の塾にでもかよって、基本的な知識を身につけたいって」
「女に嘘をつくのに飽きたんだね。よしのりのかわいらしい愚かさを見抜けない女ばっかりだから。よしのりみたいな天然の馬鹿者に、学校の勉強なんか必要ないよ。学歴がほしいだけなら、大検で高卒の資格を獲って、思い切って大学を受ければいい。彼の頭なら簡単だ。……でも彼には先天的に根気がない」
「子供が生まれたとき、父親が中卒じゃかわいそうだって」
「どこが? 母親の態度しだいだ。母親がよしのりを愛してれば、子供も愛する。それでも世間の基準を尊重するような子供は、捨てちまえばいい。本人に純粋な勉強心があると言うなら、通信教育のシステムがあるかどうか、山口に調べてもらう」
「……キョウちゃんの言うとおり、子供の気持ちどうのこうのより、自分の肩書きに対する劣等感だけの問題みたいね」
「そういうことなら、やっぱり勉強なんかする必要がない。子供はちっともかわいそうじゃない。子供というのは本質を見抜く。もの心つけば、たちまち彼の純朴さはわかる。勉強なんかしてたら、子育てがおろそかになる。社会的な自己達成より、愛する者の人生のほうが重要だ」
 カズちゃんの目に涙が光った。
「さ、上がって流しましょう」
「うだったから、出るよ」
「だめだめ、私の楽しみを奪わないで。足の裏もこすってあげる」
 全身に石鹸を塗りはじめる。勝手に反応しはじめたものには目をやらないようにしている。足の裏に軽石をかける。石鹸を流し、カズちゃんは私のいきり立ったものを含んだ。
「ここまでよ。がまんしてね」


         二百二十七
  
 マーボ豆腐以外はすべて初めての味で、辛く、甘く、しょっぱくて、どんぶりを二膳お替りした。女五人も、もう食べられないと自分で音を上げるまで食べた。千佳子はふだんの勉強を忘れてすっかりくつろぎ、頬を染めて箸を動かしていた。
「きょう御池が松尾たちと一塁スタンドに観にきてたよ。堤もいた」
「御池さんはいい人ね。引越しをぜんぶやってくれるなんて」
「圧しつけがましくないし、山口とそっくりだ。いよいよ引越しか」
「引っ越したら、あっちこっち連絡がたいへんね。康男さんには連絡しといたわ」
「ぼくもほとんどハガキを書いといた。ぼくはさっぱり手紙を書かない不精者だけど、吉祥寺に移ったら、ときどきは近況らしきものを書かなくちゃいけないね」
 素子が、
「手紙って面倒やね」
「そうだね。でも、怠けた気分が問題なら努力でどうにかなる。ぼくの場合、ちょっとちがうんだ。野辺地へ流されたとき、それまでの人間関係が手紙だけのものになって、それに応える努力を放棄してしまった。尊敬していた埼玉の叔父には返事を出したけど、ほかの人にはいっさい返信しなかった。怠けた気分じゃなく、会いにこようとしない人間は関係ないって思っちゃったんだね。で、文字のやりとりの手紙というものに関して努力しないクセがついた。そんなわけでぼくは独りぼっちになってしまったけど、生身のカズちゃんがぼくのそばにくるとわかってたので、ぜんぜんさびしくなかった。加藤雅江は百通も書いた手紙を投函しなかったと言ってた。そのときはぼくに会いにくる気がなかったからだよ。つまり、手紙は距離を明確にする。手紙を書くなら、会いにいくという内容にかぎるべきだ。さもなければ、海のごとく深い愛情を持って、近況の報告をするというのでなくちゃいけない。でもみんなイベントを報告するだけだ。だから、自然と筆不精になった」
 カズちゃんが愉快そうに笑った。ちらと覗いた奥歯が清潔だった。
「きっと、キョウちゃんには、会いにいきたい人がほとんどいないのね。遠い人だと思ってる人は、会いたい人にはならないわ。会いたい人には、飛んで会いにいくものよ。キョウちゃんが会いたい人はみんなそばにいるわ。みんな飛んできたから。でも、なるべく書いてあげないとだめよ。キョウちゃんが行方不明になったら悲しむ人がたくさんいるんだから」
 食器の片づけが始まり、カズちゃんと千佳子がコーヒーをいれた。素子が、
「またキョウちゃん、頭洗っとる。洗いすぎると禿げるよ。キョウちゃんの頭って、麝香のようなにおいがするんよ。ぞくぞくってきちゃう」
 節子が、
「そうそう、ジュッて濡れちゃうの。髪を洗ってしまうのもったいないけど、汚れすぎるとお尻の穴のにおいになってしまうものね」
 千佳子が大声上げて笑いながら、
「そういうの、フェロモンというらしいです」
 カズちゃんがうなずき、
「小学四年生がそれを出してたのね。女が寄ってくるのは、キョウちゃんにとって不可抗力だわ」
 素子が、
「ほうよね、トモヨさんも初めて男に惚れたんやものね。私もやけど」
「男はこりごりと思ったり、男をずっと忘れていたりする年のいった女がハッと目覚めてしまうの。文江さんもそうだったし、ついこのあいだの上板橋の人がそうでしょう。それから、青森のアパートの管理人さん、今度吉祥寺の家をくれるという菊田さんもそう」
「若い女もそうです」
 千佳子が胸を張る。私はコーヒーを一杯含むと、立ち上がった。節子が、
「キョウちゃん、ゆっくり寝てね。私もキクちゃんも日曜当番だから、あしたは応援にいけないけど、たくさんホームラン打ってね」
「うん」
 歯を磨いてすぐに蒲団に入った。
         †
 早い朝がすぐにきた。六時半だった。八時間眠った。カーテンの外がひどく明るい。快晴だ。気温も高い。すでに女たちは台所に去っていて、枕もとにワイシャツとブレザーが畳んであった。ふつうの排便をしてから風呂へいき、歯を磨きながらシャワー。キッチンへいく。
「うわー、きれい。青く光っとる!」
 素子が包丁の手を止めて言う。みんな振り返る。カズちゃんが目を細める。
「ぜったい、野球をやってる人間だなんて思えないわね」
 節子が、
「キョウちゃん、ゆっくり寝ててって言ったでしょ。私とキクちゃんは七時には出るんだから。後ろ髪引かれちゃうわ」
「いくら疲れてても、十時間は寝れないよ」
 キクエが笑いながら、
「女は疲れてなくても、そのくらいはふつうに寝られます。コーヒーいれる? じょうずにいれられるようになったの」 
「うん。節ちゃんとキクエの予定は聞いたけど、カズちゃんと素子の予定は?」
「素ちゃんは日曜出勤。私はお休み取って、おとうさんと菅野さんと神宮球場。おかあさんたちは山口さんに案内してもらって、はとバスに乗るみたい。千佳子さんは勉強」
 千佳子は、
「きょうもあしたもあさっても勉強。正味、あと五カ月しかありませんから。来月は最後の模擬試験です。駿台の名大オープン」
「オープンか。なつかしい響きだ」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは、駿台模試全国一位よ。二回連続」
「すごーい!」
 吉永先生も、
「高校じゅうが大騒ぎになりました。おもしろいのは、校内の定期試験はいつも百番から三百番なんです。不気味でした」
「キョウちゃんは、義務的なつまらないことには功利主義者なのよ。ズルをせずに要領よく取り組む。まったく義務もないことは放棄する。中一のときの知能試験もいいかげんに受けて、ひどく誤解されたことがあったのよ」
 節子が、
「何ですか、それ」
「メンタルテストでとっても低い知能が出て、担任の先生がびっくりして飯場に飛んできたの。驚いたことに、知能試験の結果のほうを信じて、こんな低い知能の子がこれほどいい成績なのは、強制的なスパルタ教育をしてるからじゃないかって、虐待を疑うようなことを言ったの。キョウちゃんのお母さんは半狂乱になって、その先生を怒鳴りつけたのよ。うちの子の知能は天才的だ、三歳のときに保健所で測ったら八歳の知能だった、試験をやり直せって。キョウちゃんは、大切な試験とは知らなかったの一点張り」
 私は、
「でも、おふくろの保健所というのも、胡散臭いな」
 吉永先生が、
「ほんとうだと思います。戦後は、健康優良児を見つけて表彰するために、保健所でいろいろなゲームをさせて知能も測ってましたから。……スパルタだなんて、その先生、いじめにきたんだわ。いやらしい」
 節子が、
「いやあね、そういうの」
「ぼくはほんとに知らなかったんだ。試験官の保健婦が、ふだんの試験とはちがって学校の成績とは関係ないから気楽にやれと言ったんだよ。知能試験だと知らなかったのはぼくだけだったみたいだ。でも、そんなことなんてあるのかな、教室でも廊下でも、だれもひとことも言わなかった。あの試験嫌いの康男でさえ一生懸命やってたってことは、試験が簡単だったということより、アタマの試験だって知ってたってことだよ」
 カズちゃんが大きな声を上げた。
「康男さんが! それでやっとわかったわ。大将さんがあんなにキョウちゃんに惚れこんだのは、のびのび生きてるキョウちゃんを見て、案外まじめな自分を恥ずかしいと思ったからよ」
「まじめな? ヤクザの康男さんて、まじめな人なん?」
「そうよ、世間の埒(らち)を越えられないから、埒に反発するのよ。そういうものをぜんぜん意識していない人に出遇ってごらんなさい。金ピカに見えるわ。私もそうだったからよくわかる。まじめな人って、親に反発して、愚連隊みたいな連中と付き合って、結局まじめに勉強して大学にいったりするわけ。私たちがそうよ。大将さんがまじめな人だということは、お兄さんが見抜いてた。だから康男さんににまじめな道を歩ませようとしたの。ただ大将さんがえらいのは、初志貫徹して、いまもなお埒にぶつかっていってるところ。自由に社会を泳いでるキョウちゃんが、埒に妨害されないようにずっと見張ってるのも、そういう理由からよ」
 千佳子が、
「あの、その知能テストの件ですけど、総合して考えると、きっと担任の先生がホームルームか何かでチラッと話してるんじゃないかなあ。それを聞いてなかったボンヤリさんが神無月くんだけだったんじゃないかしら。すごいシャットアウト力ですね」
「野球のことしかかんがえてなかったのね。キョウちゃんにはシャットアウトなんかするつもりはなかったでしょうから、すごい集中力と言ったほうがいいわ。……社会的にはぜったい役に立たない集中力。まず、無能力者と見なされちゃう」
 節子が、
「キョウちゃんが自分のことを、馬鹿だ馬鹿だと言う理由がわかってきたわ。そうやって長いあいだ虐められてきたせいね」
 私は、
「虐められてきたからというのは当たってないかもしれない。たとえば、十日間のアルバイトをしたとして、二日目ぐらいに、ああここは給料を出してくれそうもない会社だなって感づくと、その場でパッとあきらめて、それでもきっちり十日間働く。ぼくはそういう人間だね。そういう気持ちは説明できない。虐げられたという消極的な気持ちにはならなくて、虐げる相手と殉死するという積極的な気持ちになるわけだよ。そういう犬死をなんとも思わないと言ったほうがいいかな」
 カズちゃんが、
「心ない人たちの誤解や曲解や冷たい言葉が、キョウちゃんの中に無意識に蓄積したかもしれないけど、キョウちゃんは何も考えないで生きてきたんでしょうね。悪意はキョウちゃんには何の効果もないのよ」
 千佳子が、
「そういうの、ちょっと口惜しいです。神無月くんのことを馬鹿と思いこんでた人がいたなんて。その後の神無月くんの追跡調査をしたんでしょうか」
「してないと思う。いまは全国的な有名人だから、あいつバカだったのによく出世したなあって思ってるはず」
「でも、東大……」
「スパルタでどうにか受かったって信じてるにちがいないわ。キョウちゃんのお母さんが、その担任の先生が帰ったあと、キョウちゃんに向かって、もうおまえはオシマイだって嘆いた理由がよくわかる」
 コーヒーのいいにおいがただよう。私は笑いながら、
「権威主義者は公式記録しか信じないからね。しかし、オシマイってのはうれしいな。権威主義者から見放されるのは願ってもない幸運だ。彼らにバカにされながら、放っとかれるのがいちばんうれしい。ところで、山口たち、はとバスでどこへいくんだろう」
「大したところへはいかないわよ。銀座とか、浅草とかじゃないの。退屈ね」
 千佳子が、
「山口さん、ギターを持っていったかしら。そうしたらみんなを退屈させなくてすむでしょう? ギタリストってモテるんでしょうね。でも山口さんて、あまり遊んでる感じがしませんよね」
「彼は禁欲的な人間だからね。おトキさん以外には、たまにプロの女としか遊ばない。それにギタリストよりは、ドラマーのほうがモテるって、いつだったか言ってたよ。林はドラマーじゃないけど、遊びまくってると思うな」
 カズちゃんが、
「林さんは不器用な人よ。一人、二人の女の人とぎこちなく付き合ってると思う。みんな自分と同じだと思っちゃだめよ」
 先生がコーヒーを私たちの前に置き、
「はとバスがコースに入れているのは、皇居、浅草、東京タワーだと思います。ほかは、新宿御苑、銀座くらいかしら。もし、高知のお姉さんが出てくることがあったら、はとバスに乗ろうかな」
 みんなでコーヒーをすする。素子が、
「トモヨさんやおトキさんは、そんなもの見たくないやろね。名古屋城、大須観音、名古屋テレビ塔。見飽きとるやん。日帰りで房総や箱根にいくかもしれんよ。ほい、片目焼きと納豆とアジのヒラキ。節ちゃん、キクちゃん、ごはんよ」
 素子が先生と節子二人分の惣菜皿を並べ、味噌汁を盛る。素子が、
「この秋最後の好天気だってニュースで言っとったよ。キョウちゃん、きょうの試合は何時から?」
「十一時。先攻。三回までに勝負を決める。あとは、来週の慶応戦があって、一週休みを挟んで、十月二十六日からの立教戦で終わり」
「ほんとに春と秋は野球漬けね。キョウちゃんのように、できれば部屋にいたいだけの人が、季節ごとに駆り出されるのは気の毒。きょうはうんとレコードを聴いてから出かけたら?」
「やめとく。頭の中が荒っぽい行進曲になってるから、しっとりした音楽は合わない」
 みんな声立てて笑った。食事を終えた節子とキクエを玄関に送る。節子が、
「じゃ、キョウちゃん、ひと月がんばってね。優勝したらまた集まりましょう。ふらっときたくなったらいつでもきてね。待ってる」
 吉永先生が、
「右に同じ。来月は節子さんの紹介で、日赤の面接をすることになりました」
 カズちゃんが、
「ほんと! よかったわね。ぜったい合格よ」
 節子が、
「まちがいありません。私が紹介しなくても」
「受かったら、中央線沿線に引っ越しますから、キョウちゃんは少し訪ねてきやすくなると思う。家を探すのは和子さんに手伝ってもらっていいですか」
「オッケイ」
「うちも手伝うで」


         二百二十八 

 八時。節子とキクエ、小さな二人が肩を並べて帰っていった。
「またお姉さん泣いとる。すぐ泣くんやから」
「純粋さを見習わなくちゃって思うと、泣けてくるの」
「お姉さんがいちばん純粋やよ。底なしやがね。まねできんわ」
 私はカズちゃんに訊いた。
「桜貝って、何の象徴?」
「さあ。どうして」
「野辺地にいたころ、節ちゃんが別れの手紙をよこしたことがあって、いつかかならず桜貝を拾ってきてあげると書いてあった。大門で彼女に再会したとき、その意味を知りたくて訊いたことがあったけど、自分でそう書いたことさえ忘れていた。それ以上訊く気にならなくて、結局、意味はわからずじまいだった」
 千佳子が、
「何の意味もないんじゃないでしょうか。きれいだなと思ったぐらいで」
「そうねえ……ときどきハート型したのが見つかることがあるけど」
「それだ! ハートのペンダント」
「お別れはするけど、心はいつもいっしょってことね」
 そう口に出して、カズちゃんの目がまた潤んだ。素子が、
「でも、そういう気持ちがあるなら、なんで別れの手紙なんか出したん?」
「いろいろあって、キョウちゃんのことがすごい重荷になったんでしょう。キョウちゃんのお母さんには責められる、失業はする、文江さんは出てくる、試験勉強はある、あれやこれやでね」
 あらためて私たち四人分の食事の準備にかかった。
「アジのヒラキ、ハムエッグ、納豆、海苔、白菜の浅漬け、それに、ほうれん草のおひたし、そんなものでいい?」
「いいどころじゃないよ。またどんぶりめしになっちゃう」
「食べておきなさい。お昼を食べられないんだから。夜は西荻でちゃんと食事してね」
「うん。あしたは山口といっしょに北村一家を連れて、井之頭公園でも散歩する」
 八時。紺色のブレザーに、革靴を履く。カズちゃんに渡されたダッフルを担いで出た。
         †
 十時五十分。試合開始十分前。一塁明治側の内外野スタンドに少し空席があるくらいで、ほとんど満員だ。真っ青な秋空に綿雲が浮かんでいる。白川が、
「気温二十七度。あしたからグッと冷えこむそうだ」
 風はセンター方向に吹いている。きょうはだれもフリーバッティングをせず、守備練習に徹した。真新しいユニフォームを着ているのは私と、ピッチャー連中だけ。三塁側スタンドの闘魂は斉唱。歌い終わると太鼓の音がやかましくなる。応援団とバトンのパフォーマンス。山口のコンバットマーチはまだ鳴らない。
 カズちゃん父娘と菅野がきのうと同じ席に坐っている。心なしかプロ球団関係者と思われる人びとの数が多い。ドラフトが来月に迫っているからだ。私はまだ在学生なので、ドラフト指名対象者ではない。秋季シーズン後、中退届を出せば球界が来年のドラフトに備えて大騒ぎになる。あるいは、自由交渉に大挙してやってくることになる。中退を覚(さと)られてはならない。いかなるチームの勧誘も断り、中日ドラゴンズと入団交渉をしなければならないから。ドラフトでいったん他球団に属し、トレード、トレードで球界を漫遊するつもりはない。私の思惑はドラゴンズの思惑にぴったり一致しているので、中日首脳部はすぐさま契約交渉に移るだろう。
 明治はきょうも浜野を立ててきた。法政と早稲田は東大に負けたほかは勝ちつづけている。もう一敗もできないという崖っぷちで戦っている。明治はきのうの一敗で三勝二敗になった。きょう負ければ、優勝の望みはきわめて薄くなる。背に腹は替えられない。浜野が投げるしかないのだ。浜野百三は四年間明治大学を背負ってきたエースだ。二年生時のおととしには立教戦でノーヒットノーランを記録している。法早戦で勝ち越すのは法政だろう。早稲田は法政相手に二敗か一敗する。早稲田の優勝もまずない。
 東大の先攻。打順は変わらず。第二戦に岩田や野添を起用する案はいつのまにか立ち消えになっている。投球練習をする浜野の腕の振りが弱い。細い目がマウンドからチラチラ東大ベンチを見る。いつもの挑むような目ではない。自信がなさそうだ。東大は強豪から恐れられるチームになった。それで強豪になったのかというとそうではない。強豪チームが東大の強さを信じきれずに狼狽しているというのが実情だろう。東大の過去の実績を考えると、どうしても少しナメた気分が抜けないのだ。優勝すれば話は別になる。
 応援団、バトンガール、三塁スタンドの観客、全員後ろ手で直立。荘重な太鼓に合わせて、ああ玉杯斉唱。それが終わると一塁側スタンド、明治大学校歌斉唱。
 鈴下監督が、きょうも試合前の謙虚な檄を飛ばす。打線に火が点くと謙虚でなくなる。
「あと三勝しなければ優勝はないつもりでいけ!」
「オー!」
 サイレン。円陣を組む。克己のカツが入る。
「初回で試合を決めるぞ!」
「オッシャー!」
 プレイボールのコールがかかり、中介がバッターボックスに入った。きのうよりも顔が蒼ざめている。たとえ全勝でここまで走りつづけてきても、二敗の法政の足音が背中にひたひたと聞こえているからだ。
 整然とした三塁側応援団の手ぶり。足音を高めよの斉唱。歌がやみ、声援がドッと盛り上がる。山口のコンバットマーチに合わせたバトンダンス。足先やバトンがすばらしく揃っている。
 浜野は、きょうは力で押してこないだろう。ふつうのスピードのストレートや変化球を外角に集めて、ゴロを打たせる作戦でくるはずだ。
 初球、外角低目のスライダー。ストライク。これに手を出すと、あっという間にチェンジだ。二球目、内角高目、ストレート、ボール。ミエミエの配球。次は外角の捨て球だ。中介の蒼ざめていた顔に、ようやく血の色が戻った。彼は浜野が振りかぶったとたん、少しステップして前へ出た。ボールになる外角のカーブ。踏みこんで強振する。バットの先に当たったハーフライナーがセカンドの頭を越えた。ライトの前にゆっくり転がる。監督がパンパンと手を拍つ。
「ヨーシ、ヨーシ!」
「ナイス、バッティング!」
 ベンチが叫ぶ。磐崎がゆっくりボックスに入る。女子マネージャーたちが、
「磐崎さーん、ヒット!」
 太鼓の連打、山口のコンバットマーチ。このマーチ一本槍になってきた。横平がネクストバッターズサークルへ走る。磐崎がバッターボックスで叫ぶ。
「ドリャー、イグゼー!」
 浜野はうろたえ、セットポジションに入ってもランナーを見ていない。初球、外角のカーブ。中介が走った。キャッチャーは捕球してすぐにあきらめた。
「ウオー!」
 歓声が、三塁側の内外野から上がる。ドン、ドン、ドン、コンバットマーチ、応援団の演舞、バトンガールが後ろ手を組んで静かに立ち並ぶ。二球目、磐崎サードの前へセーフティバント敢行。中介が足から三塁へ滑りこみ、三塁捕って一塁送球、暴投! 中介ホームイン、磐崎二塁へ。バトンのきらめき。ずんぐり島岡が怒鳴りながらファールラインまで歩いてきて、浜野とキャッチャーの古川を呼びつける。島岡が審判に帽子をとって礼をして引き揚げると、バッテリーも島岡の背中に礼をして左右に別れる。ヘルメットを持ってネクストバッターズサークルに入る。
「ヨーコヒラ! ヨーコヒラ!」
 横平、初球の外角低目のストレートをみごとに掬い上げる。左中間の深いところへ一直線に抜けていき、低く弾んでフェンスに打ち当たった。ツーベース。磐崎ホームイン。三人で二点。マスクを外した古川がマウンドへ走る。うなずき合い、すぐに駆け戻る。
「金太郎! かませー!」
「金太郎さん! 場外!」
「金太郎、一発!」
 詩織が渋ったはずの足柄山マーチが鳴り響く。突き、突き、バトンの乱舞が始まる。ヘルメットをしっかりかぶる。横平の足跡を均す。変化球の下を叩くために、バットを腰のあたりに引きつけて構える。浜野はセットポジションからなかなか投げてこない。ドンドンドン、突き突き突き、金太郎さん、金太郎さん。初球、外角へ高く外す。ブーイング。彼らは負けられないのだ。また島岡がベンチ前に跳び出て、大声で叫んだ。
「バカモノー!」
 スタンドの喧騒にまぎれながら、はっきり聞こえた。浜野の顔が鬼のように真っ赤になっている。二球目、外角高目、渾身のストレート。百四十二、三キロ。ストライク。三球目、セットポジションに入ったとたん、二塁ランナーの横平がするするとリードする。浜野、牽制の構えだけ。ふたたびセットポジション。腕を振り上げる直前に、横平がスタートを切った。握りを直球に切り換えるしかない。真ん中高目に棒球がきた。かぶせるようにひっ叩く。少しタイミングが早かったが、しっかり捉えた。右中間へ高く白球が舞い上がる。
「ウオオォォ!」
 フラッシュが光る。浜野がグローブを地面に叩きつけた。高い弾道で右中間の中段に落ちた。十一号。横平がゆっくり三塁ベースを回る。ぴょんと跳び上がってホームイン。私は全速力でホームへ突入した。横平にタッチし、監督と助監督に抱き止められる。
「ナイス、ホームラン!」
「高く上がったなあ!」
 カズちゃん父子と菅野にヘルメットを掲げる。ピカリ! バシャ! ピカリ! ベンチ前に並ぶ掌に次々とハイタッチしていく。マネージャーや部長たちが、手も砕けよとばかり拍手している。詩織と睦子と黒屋の抱擁。準レギュラーたちと握手。甕の水を一杯。野添が、
「押しこみましたね。ナイス、テクニック!」
「ナイス、テクニック!」
 控え選手たちが呼応する。四対ゼロ。ノーアウト。ベンチから身を乗り出してブルペンを眺めると、那智がものすごい速球を投げこんでいる。棚下のミットがいい音を立てる。ブルペンの二人は、これ見よがしに舞い踊るバトンガールをけっして見ない。法政や早稲田の控えバッテリーは、味方スタンドをときどきポカンと眺めていたりする。東大バッテリーにそんな余裕はない。
 浜野を代える気配がない。替えればきのうとまったく同じ展開になると島岡監督は踏んでいる。きょうは後攻とは言え、速球ピッチャーの那智から大量点を取り返せるあてはない。浜野が一回でも長く好投して抑えておかないと、たいへんな負担になる。六、七点まではがまんするだろう。
 歓声が上がった。克己の打球がライト前へ抜けていく。きょうの試合は三時間を超えるかもしれない。那智がテンポよく抑えてくれれば、二時間半。水壁がバッターボックスへ走る。初球内角低目のストレートをブンと振る。ファールチップしてワンバウンドしたボールが脛に当たる。痛そうにけんけんする。水壁は、コールドスプレーを持って走り出ようとする白川を手で止めた。
「指じゃありません!」
 指に当たらなくてよかった。指に当たればたいてい骨折するので、四年間つづけてきた大学野球とこれきりオサラバになる。屈伸運動して、ふたたびバッターボックスへ。もう一球同じところへくるだろう。それを読んで、水壁は後ずさった。きた! 内角低目の速球。スムーズにバットが下から出る。まともに当たった。速い打球がレフトのラインぎわを襲う。フェアグランドで弾んでファールグランドへ切れこむ。小野寺が全力で走って止めようとしたが抜かれた。塀に沿ってボールが転がる。水壁は小野寺が後追いするのを見て二塁を蹴った。克己一塁から長駆ホームイン。水壁は足から滑りこんで三塁ベース上に立った。応援スタンドに向かってこぶしを突き上げる。五対ゼロ。ノーアウト。
 大歓声の中、七番大桐はバットを頭上で振り回しながらボックスに向かった。青高の金を思い出した。春にはバントとフォアボールこそ野球だと思っていた男が、逞しく変身している。明治倒せのシュプレヒコール。ブラバンが立ち上がってコンバットマーチを演奏する。西樹の怒声。
「ぶん回せ、ぶん回せェ!」
 大桐はバットを高く掲げた。内角低目を突かれたら打てないというフェイクだ。浜野がその手に乗ったら、練習し尽くしたアッパースイングが炸裂する。浜野はまず外角遠目のカーブでストライクを取ってきた。つづけて二球目も外角の速球。ツーストライク。大桐は二球簡単に見逃した。浜野はボールをこねながら考える。もう一球同じコースへいくか、高く外すか、低く外すか、真ん中高目で三球三振を取るか。内角は罠がありそうだから投げるのはよそう。スクイズで搾り取られるのもいやだから、真ん中低目も投げられない。浜野は疑心暗鬼に陥る。大桐がピクリともせずに二球見逃したことが功を奏した。
 鉄腕アトム、パッパーパパパパー、ブカブカ、ドンドン、ブカ、ドンドン、セヤ、セヤ、セヤ、セヤ、ブカ、ドンドン、パッパーパパパパー、ブカブカ、ドンドン、ブカドンドン。
「かっとばせー、大桐!」
「カッセ、カッセ、オオギリ!」
「明治、倒せ!」
 三塁へ牽制球。サードの二年生の和泉が苛立ったふうに強いボールを浜野に返した。まだ一回の表、ノーアウトだ。守備陣は浜野以上に苛立っているだろう。三球目、顔のあたりにシュート。大桐上半身をひねってよける。危険球というほどではない。もう少し低い胸もとのボールだったら、大桐は空振りしていた。ツーワンからの四球目、外角のスライダーがストライクコースにきた。大桐の思惑失敗。打つしかない。のめってレベルスイングになる。バットの先に当たったボールがぼてぼてセカンドに転がる。しかし水壁、ヘッドスライディングでホームイン。
「よし、六点!」
 鈴下監督がパンパンと手を拍つ。スクイズと同じ結果になった。拾いものの一点だ。ワンアウト、ランナーなし。六対ゼロ。那智なら安全圏か。監督が、
「野添、那智に完投のつもりでいけと言ってこい」
「はい!」
「有宮と台坂もブルペンへいけ。三井、村入、森磯、屋内練習場へ」
「はい!」
 ブガブガ、ドンドン、ブガドンドン、せいや、せいや、バトンくるくる、バトンくるくる。臼山、打った! センター前ヒット。監督が叫ぶ。
「那智、三振しろ!」
 スリーバントまでやれという符丁だ。うなずいて、那智は一球でバントを決めた。打者一巡。ツーアウト二塁。また監督が怒鳴る。
「中介、ホームランだけを狙え。ぜんぶ振れ!」
 内角、外角、高目、低目、すべてを振って、中介はセカンドライナーに倒れた。浜野に七球投げさせた。


         二百二十九

 カズちゃん父娘と菅野にグローブを振り、レフトへダッシュ。スコアボードの時計は十一時二十五分を指している。長い攻撃だった。投球練習の那智のスピードが、どう見ても百五十キロ近くに見える。テルヨシと同じくらいのスピードだ。畳んで振り下ろす腕が美しく撓(しな)る。肘の負担が感じられない。
「プレイ!」
 三百六十五歩のマーチ。先頭打者倉田、たった四球で三振。四球目は真ん中にするどく落ちるカーブだった。私は思わずグローブにこぶしを叩きこんだ。二番鈴木、詰まったライトフライ。広沢、三球三振。チェンジ。那智がいれば、優勝できる! この二週間のあいだに、彼に技量の前進と肩の強化があったとするなら、初優勝のために神が賜(たまわ)った奇跡だ。中介と顔を見合わせながらベンチへ駆け戻る。
「素質はあったけど、ここまでになるとはなあ」
「驚きましたね!」
 上を向いて歩こうマーチ、女子学生指揮者のタクトがきびきび動く。バトンガールの活発なダンス、応援団の突き。踏み出した左足に体重を乗せ、腰を落とし、腕を回転させて突き出す。中介が叫ぶ。
「新ヒーロー登場!」
 詩織と睦子と黒屋が那智に握手を求める。副部長の岡島が、
「ツノ隠してたな、那智くん。山形の練習より五キロは速いよ」
「肘の使い方を研究しました。少年野球教室という中学生向けの本で」
「ほんとかよ!」
 克己が叫んだ。
「春と投げ方変わってないぞ。肩が強くなったんだろう」
「と言うより、遠投で肩が柔軟になって、弓のツルのように引き絞れるようになりました。それがいちばん大きいです」
 那智は水を一杯飲んで、ブルペンへ引き返そうとする。私は呼び止め、
「那智、きみは都立西高だったよね」
「はい」
「野球は強いの?」
「見どころあるのは軟式野球です。ぼくも軟式野球部でした。硬式ボールに慣れるのに手間取っちゃって。ようやくまともに腕が振れるようになりました」
「そうだったのか。研究の賜物だね。きみは、早稲田の小笠原と並んで六大学を代表するピッチャーになると思う。ぼくがいなくなってもがんばってね」
「ありがとうございます。光栄です。神無月さんこそ、プロで活躍なさることを祈ってます。もう少しスピードが出るようになったら、ぼくもプロの目に留まるかもしれません」
「きょう注目されるよ。軟式のおかげで肩が疲労してないから、これからはその新鮮な肩に経験を積ませて、肘と無理なく連動するフォームを作り上げていけばいいね。こき使われないように気をつけて」
「はい!」
         †
 十六対一、九回裏、ツーアウトランナー三塁。明治大学応援歌、紫紺の歌。

  …………
  闘志はもゆる 神技の精華
  無敵の 明治明治明治
  輝く栄冠 戴くわれら
  オオ明治明治 われらが明治

 最終打者、ツーワンから三振。那智完投。二時間十九分。
 五打数五安打、三ホームラン。十三号。私のほかにも横平、克己、中介の代打で出た岩田、めずらしいことに臼山まで一本ずつ打った。那智が許したヒットは、左バッターの鈴木に出会い頭に打たれたソロホームラン一本きり。合計十七個の三振を奪った。島岡監督はまるで罰でも与えるように、十一点取られるまで浜野に投げさせた。八回から登板した敗戦処理の池島から東大チームは五点搾り取った。八番打者臼山のスリーランが含まれていた。
 応援団への感謝の礼のあと、鈴下監督と、ヒーローたちにインタビューをまかせ、バックネットへ走っていった。カズちゃん父子と菅野に別れの手を振る。それからいち早くバスに戻った。追いかけるようにいっしょに乗りこんだ仁部長が、
「神無月くん、これからはマスコミにうまく対応すると言っていたのに、相変わらずインタビューを逃げてますね。法政戦のあとのインタビューほどのものでなくてもいいんですよ。がんばります、うれしいです、程度でじゅうぶんです。まったく傲慢でない人物を傲慢だと曲解されたくないんです。それにしてもどうしてマスコミを嫌うの? インタビューされたり、ストロボを焚かれたりして、うれしくないんですか。いや、責めてると取らないでくださいね。東大野球部にとってはきみの神秘性が大いに宣伝効果を発揮してるので、ありがたいことなんですから。とにかくきみをマスコミに悪くとられたくないんです」
 人から怪物や神扱いされるよりもっといやなのは、ヒーローと見られることだ。見知らぬ人たちのヒーローはだれかにまかせろ。
「……すみません。騒がれると不安になるんです。信頼する周囲の人たちから褒められる分には気持ちがいいだけですみますが、見知らぬ人たちにまで騒がれるというのは、ぼくにとっては緊急事態です。逃げ出したくなります。マスコミの人たちは、いつまで経っても見知らぬ人びとで、しかも、ぼくを見知らぬ人びとに宣伝しようとして近寄ってきます。見知らぬ人に騒がれるのは不安です。……次の試合からは、がんばります」
「何もがんばらなくていいですよ。しかし、折り紙つきの変人ですね」
 のそりと臼山と横平が乗りこんできた。臼山が、
「聞こえちゃったよ。でも、なんかホッとする。本来的にえらそうでないやつっているんだな」
 がんばる―私には野球しかないから。ことが起きると私はこう考える―最悪だ。そして逃げ道を探す。そんなものはない。負けを認めるのか? 正解だ。しかし、手っ取り早い正解はおもしろくない。マシな気分のときはこう思う―もとに戻せるかも。そしてうまく戻すには何が必要かを考える。答えは明白だ。ひたすら〈がんばる〉こと。だれも人生を返してくれない。自分で取り戻す。そのためにはとてつもない努力をしなければならない。―がんばる。
 仁部長が諭す。
「プロにいったら、マスコミを拒否することは難しくなりますよ」
「チームがぼくを必要とするなら、手離さず、雇いつづけてくれるでしょう。それでじゅうぶんです」
 横平が、
「部長、金太郎さんがマスコミを嫌うのには理由があるんですよ。たぶん金太郎さんは読んでないだろうけど、何日か前のサンケイスポーツの匿名記事で、金太郎さんのことを自信過剰な自己中心主義者だと書いてありました。ワンマンで非協力的な神無月の柄でもない統率役ぶりは笑止だ。集団を混乱させるだけでそれに殉じようとしない統率者などあるものではない。彼は自分が詐欺師だと知りながらヒーローの誇大妄想を広げている。いつか彼とは次元のちがう、自分を蟻同然と思わせるような真のヒーローに出会い、その正体が暴かれるときがくるだろう。―俺たちは混乱してませんよ。殉じようとしないって何ですか。いっしょに負けろってことですか。それに、金太郎さんはだれも統率しようとなんかしていない。こういうことを書くマスコミの体質を金太郎さんは直観でわかってるんですよ」
 臼山が、
「ひどい憎悪記事だな」
 横平は、
「極端な記事だけど、金太郎さんを生理的に嫌っている記者が書いたものだろう。多かれ少なかれマスコミはこの種の悪辣さを秘めてる。法政戦のとき金太郎さんが嫌悪を押し殺してマスコミの前で積極的にインタビューに応じたのは、心から呼びかけたい人たちがいたからだね。あまり話題にならなかったのは、マスコミも庶民も、ヒーローの自己証明を好まないからだ。そんな必要があるのかと思うんだな。サンケイの記者も同じだ。感情にまかせて自己証明をするようなやつはヒーローじゃないと断言するんだよ。ヒーローは長嶋のようにアッケラカンとしているとね。―しかしね、気質や性格はヒーロー性を決定しない。雇用者にとって手離しがたい気持ちにさせるのは、第一に商品的価値だろうけど、それはマスコミ評価に基づいているというより、天才ゆえの技能の高さと、言動の変人性じゃないのかな。それがファンを惹きつける際立った商品的価値だと思う。ファンあってのプロ球団だからね。球団関係者にしても、貴重な人間を抱えている満足感をファン以上に得るだろうしね。不思議な世界に引きずりこまれるわけだから。長嶋もその一人にすぎない。もちろん、どんな野球選手も、技能が衰えれば、そういう魅力とは関係なく解雇されてしまう。ファンが見離すからね。つまり金太郎さんがマスコミを拒否しようとしまいと、言動や気質じゃなく、ひたすら野球人としての技能が問題なだけで、金太郎さんの進退にマスコミの報道は関係していないということだよ。そのことがよくわかっている金太郎さんの姿勢が、正当で自然なものだね」
 私は横平に深く頭を下げた。監督や選手たちがマネージャー連といっしょに、どやどやとバスのステップを昇ってきた。那智が握手を求めたのでシッカリ握り返した。
「褒めていただいてありがとうございました。おかげで投げ切れました」
「褒めたんじゃない。評価したんだ。きみは来年も再来年も、六大学で勝利数を伸ばせるよ。東大がまともな戦い方をするかぎりね」
 鈴下監督が、
「金太郎さん、こんなところで部長たちと内輪話なんかしちゃって、気楽だなあ。きみが試合後に姿を消すんで、いつもたいへんなんだよ。きょうは那智がいたし、ホームランを打ったやつが何人かいたからさまになったけどさ。記者連中はきみにインタビューしたいんだ。六連勝だぜ、六連勝。何か感想があっただろうに。今度からは、何かひとことしゃべってから逃げてくれよ」
「わかりました。〈善処〉します」
 笑いの中でバスが動きはじめた。私は最前席の壁に掛けてあったマイクを握り、
「お詫びに一曲唄います」
 鈴下はたちまち相好を崩し、
「そうか! 拍手!」
 車内が拍手の音に満たされる。大桐が、
「俺、青森テレビ配信の『怪物ふるさとに帰る』って番組、観たことあるぞ。テレビ東京だったかな。とんでもない声だった」
「上野さん、リクエスト、ください」
 私が言うと、詩織はにっこり笑って、
「江梨子!」
 と応えた。黒屋が機器をいじって江梨子のバックミュージックを流した。一番から歌いはじめて三番を歌い終わるまで、だれも微動だにしないで息を詰めていた。バスがちょうど信号で停まった。大拍手が起こった。運転手まで振り向いて拍手している。磐崎が、
「金太郎!」
 と叫んだきり、何も言わず目頭をコブシでこすった。黒屋が頬を掌で拭いながら、
「なんて声―」
「まいったな、声が天井から降ってきたぞ」
 助監督の西樹が、走り出したバスの天井をキョロキョロ見回しながら、スピーカーを探すような仕草をした。詩織が鼻をすすりながら、
「助監督、スピーカーはカラオケ器械用のものしかありませんよ。神無月くんの声は天から降ってくるんです。マーチを作ってくれた山口さんは、神無月くんの声を聴くと、いつもぼろぼろ泣きます。同じ歌の天才の文Ⅲの林くんも泣きます。林くんは新宿のグリーンハウスという店で、山口さんと曜日をたがえて歌ってます。山口さんは阿佐ヶ谷のラビエンという店でもギターを弾いてます。神無月くんが飲みにいくと、どちらの店でもかならず歌わされて、飲んだ料金は無料になります。……いまの歌を聴いただけで、神無月くんにとって、静かな生活というものがどれほど大切かわかってもらえたと思います。これからは、ますます神無月くんの生活はあわただしいものになると思いますけど、からだの底にこんな静かな想いが流れているんだということを、私たちだけでも理解してあげたいんです」
「よくわかった! いや、わかってた!」
 と克己が言い、水壁が、
「ときどき、三塁からレフト振り向くとさ、金太郎が空をさびしそうに見上げてるんだよ。思わず涙が出たことがあったな」
「俺はその姿をじっと見てて、左中間抜かれたことがあったぜ」
 中介が笑った。岡島副部長が、
「金太郎さん、あなたが大学にいるあいだは、私たちは権限の範囲内で、何とかあなたをマスコミから守ってあげようと思う。もともとそういう約束だったものね。とにかくいまの歌は、ホームランに匹敵するファインプレーだった。金太郎さんがバッターボックスに立ったら、歌声が頭の中で鳴り響きそうだ。プロにいってからも、テレビで金太郎さんの姿を見るたびに、空から歌声が降ってくるだろうな」
 横平が私の肩に手を置き、
「何をやってもすごい金太郎さんだけど、とんでもないのはやっぱり、野球の才能だ。金太郎さんのホームランのおかげで、六連勝まできた。無敗だ。優勝はしたいけど、じつはそんなことは重要だと思ってない。ここまで野球を楽しくやらせてくれてる金太郎さんに心から感謝したい。これはみんなの代表意見だ。あんなにまじめに練習になんか出てこなくていい。契約違反してることになるだろう? ただ試合のたびにホームランを見せてくれよ。俺はそれが見たくて野球をやってるようなものだ」
 周りに座っている選手たちも、前や後ろに座っている選手たちも、あらためて盛大な拍手をした。臼山が、
「でも、いまのペースで練習に出てきてほしいな。金太郎さんの顔を見るたびに張り切っちゃうから。あれれ、金太郎さんが泣きそうになってるよ」
「これは病気です。親切にされると、発作を起こすんです。葉や草が風に揺れているのを見るような感動に襲われるんです。……練習はからだが求めるかぎり出ます。いま、その気分がほとんど毎日です」
 ひとしきりバスの中にやさしい笑いが満ちた。詩織と睦子がひっそりと泣いていた。



(次へ)