二百三十六

 十月八日火曜日。目覚めると、トモヨさんの姿はなく、枕もとに衣類が畳んである。からだが軽く、数日の疲れが吹き飛んでいる。九時には寝たはずだから、いまは五時くらいか。いや、この爽快感からすると、十時間は寝ている感じだ。ドアを開けて、山口が呼びかけた。
「何時だ!」
「七時だぞ! 上天気だ。顔洗ったら、酔い覚ましの一杯いこう」
 やはり十時間寝ていた。
「おう!」
 共同洗面所で顔を洗う。七、八人も宿泊客が歯を磨いている。旅館の歯ブラシでいっしょに歯を磨く。仲居たちがぱたぱた往き来している。温泉宿でもないのに、よほど知られた旅館なのだろう。ここを拠点に商用や行楽に出かける客が多いと仲居が言っていた。夫婦の部屋に全員が集まっている。
「神無月さん、おはようございます!」
 北村一家が頭を下げる。食卓に着くと、梅干に砂糖をまぶしたものが置いてある。
「さあ、一杯だけ。酔いがすっかり醒めますよ」
 主人につがれて、コップのビールを一気に飲み干す。トモヨさんが心配そうに見守っている。
「この梅干を頬ばってください」
 言われるとおりにする。酸っぱさで顔が歪むが、胃袋がスッキリした。食事が運びこまれる。アジの開きをメインに、納豆、目玉焼き、海苔といったさっぱりした朝食だ。味噌汁が大盛りの豚汁なのがうれしい。きょう一日の精がつきそうだ。みんな別れの時間を惜しむように、黙しがちにゆっくりと箸を動かす。
「名残惜しいですね。ぼくはいつもグランドと机にいるだけで、どこへもいきませんし、みなさんのことも忘れません。いつ会いにきてくださってもけっこうです。吉祥寺の家は軽く七、八人は泊まれると思いますから」
 山口が、
「もうくるチャンスはないだろう。ドラゴンズに入団が決まれば、三月にはオープン戦だ」
「たしかにね。今度会うのは名古屋か」
「立派な家にお迎えしますよ。家の造りで、何かご希望はございませんか」
「きのう言った広い洋間を一つ。それだけでいいです」
「ステレオ部屋兼書斎か。名古屋にいったら、いい音をを聴かせてもらうよ。ヘレン・シャピロ、プレスリー、弘田三枝子。特に弘田三枝子の『砂に消えた涙』なんかミーナよりもパンチがあって、耳にビンビンくるぞ」
「リチャード・チェンバレンの『夢を見るだけ』や、クリフ・リチャードの『サマー・ホリデイ』も耳にやさしい。ぼくに英語を教えてくれた埼玉のサイドさんが、よく口ずさんでた。おふくろを見かぎってから、叔父さんのところにもいかなくなった」
「……ほんとに、家はきちんと建てますからね」
「はい、ありがとうございます」
 母親が、
「野球選手のお友だちもくるやろうから、十二畳ぐらいの和室も二間くらい―」
「野球仲間をですか……。そういうことがあるかもしれませんね。しかし、友人にするつもりはありませんよ」
「おやおや、さびしいこと」
「……唐突ですが、中学時代の同級生に、直井整四郎という大秀才がいましてね。彼が東大合格者の中に名前を連ねているのを新聞で見たとき、さびしい気持ちがしました。勉強という一本道を歩いていた男が、何の寄り道もせずに目的を達成しただけ。それも単なる大学合格という目的。さびしく感じました。そういう単純な連中を友だちにしたくないんです。昭和三十四年のホームラン王、打点王の森徹なら思い出の人ですから、それだけの理由で連れてきてもいいですが。……彼はもうドラゴンズいません」
 父親が、
「東京オリオンズにいますよ。今年引退が決まっとります」
「背番号7。野球選手になれなければ死ぬと、ぼくに決心させた選手です。あのホームランボールどこへいっちゃったのかなあ。引越しを繰り返すと、大切なものがボロボロなくなっていく」
 菅野が、
「ドラゴンズには、江藤慎一と高木守道、それに板東英二がいるじゃないですか」
「高木と板東は印象に残ってますが、江藤はいま一つ。一塁へのヘッドスライディングがいやだったな。みんな野球一本ですよね。なんだか味がない。ぼくは、何の回り道もなく一直線に目標に向かう人を見ると、さびしく感じるんです。とにかく、どうしてもお父さんたちが連れてきてほしいという選手がいたら、連れてきます」
「そんなやつはおらんですよ。ただ、中日は昭和二十九年から優勝しとらんのです。優勝させてやってください」
 食事が終わった。女将はテレビを点けて、興味もないニュース番組を流しながら、女二人に身支度をするように促した。女三人はしっかりと着物を着こんだ。主人は真っ白いおろしたてのシャツに、やんちゃっ気のある黄色い花柄模様のネクタイを締め、ダブルのスーツをはおった。
「趣味悪いでしょ、この人」
「いいえ、気分が明るくなります。カズちゃんの明るさは、お父さん譲りなんですね」
「神無月さん、和子をよろしくお願いしますよ。あの子の頭には神無月さんしかありませんからね。じゃ、名残惜しいですが、そろそろ出発しますわ」
 菅野が、
「首を長くして待ってますよ。半年後か、わくわくしますね」
 そう言って菅野は、クラウンを玄関に回すために出ていった。私たちも式台に出る。宿の従業員がほとんど全員玄関に見送りに出る。主人はその全員に手を振る。次々と五人が車に乗りこむ。運転席の菅野が涙顔で窓の外の私と山口を見、
「待っとります」
 と、また言った。後部座席の女将が軽く頭を下げる。助手席の主人がやさしい笑顔を向ける。二人の女もそれぞれの恋人に笑いかけた。主人は窓を開け、
「や、ほんとに、五日間、お世話になりましたな。いずれお二人に会えることを楽しみにしながら、一家で商売に精を出しますわ。お二人も精々がんばってくださいよ」
 女将が私に、
「直人のことは心配せんとな。トモヨが孕んどったら、ちゃんと連絡するで」
「道中お気をつけて」
 私と山口は窓から手を差し入れて、二人の男と三人の女の手を握った。それから名残惜しく微笑み交わした。トモヨさんが私に小声で、愛してます、と言うと、おトキさんも生まれて初めてのように、愛してます、と山口を眺めて言った。
 クラウンの後ろ姿が消えるまで手を振った。玄関に戻り、もう一度加賀屋の人たちに辞儀をした。山口が、
「お世話になりました。また何かの機会があったら利用させていただきます」
 女将らしき女が、
「こちらこそよろしくお願いいたします。神無月さん、加賀屋の者一同、東大の優勝を心からお祈りしております」
「ありがとうございます」
 もう一度深々と辞儀をし合った。西荻窪駅へ歩き出しながら山口が言った。
「神無月、人生を面倒くさく思うなよ」
「なんだ、とつぜん」
「いや、きのうは危ない横顔をしてたからな。だんだんあの冬の顔を取り戻してきてる。いつも笑って生きてるだけにしてくれ。野球でも、女でも、文章でも、笑いながら没頭してくれ。何かやってれば、人生は面倒くさくならないから」
「わかってる。気を回しすぎるな。水木金と練習なので、そのことを考えてた」
「そうか、なら安心だ。慶応戦は観戦をお休みにして、ギターの練習に精を出す。立教戦は観にいく。おまえが歴史に立ち会って興奮してる姿をこの目に収めたい」
 私はダッフルを下ろすと、山口の両腕を取って引き寄せた。
「山口、おまえはぼくと心中するな。ギターの才能はたしかにピカイチだけど、おまえには片手間でも学問をする能力があるんだ。ギターの大家になって、ついでに法曹界で活躍したっていいじゃないか。とにかく中退するな。あの上野詩織も、東大に残って学者になるそうだ。おまえとちがって、単品の学者だけどな」
「何度も言うが、東大に受かったのは、生涯に一度のマグレだ。マグレを基盤に飛躍などしようと思わない。おまえの野球と同じ運命をたどらせてくれ。二度とつまらないことは言うな。いずれにせよ、おまえより先に中退しようとは思ってないから心配するな。じゃこれでしばらく顔は合わせないぞ。立教戦は外野で観る。何かあったら連絡をくれ。元気でな」
「ああ、おまえもな。何もなくても連絡したいときはする」
「いつでもな」
 切符売場の前で山口と別れて、彼の姿が消えるのを確かめてから、電車に乗らず、ダッフルを肩に荻窪までガード沿いに歩き出す。駅周辺の賑わいを抜けると、高架と並行している歩道に人けがない。右手は剥き出しの土から高架の脚が突き出し、土木作業用のフェンスがつづいている薄暗くさびしい空間だ。左手は民家に混じって不動産屋、雀荘、喫茶店、古本屋、赤ちょうちん、大衆食堂、スナックなどがつづく家並。日常生活の書割としてはどこか釈然としないところがあるけれども、どちらも、月や星よりは目に留めて違和感がない。
 じっちゃばっちゃのことが思い出された。彼らは新聞やテレビで報道される私をなつかしんでいるだろう。もう彼らに、島流しの孫という貢物は捧げられない。たまに近況を告げるくらいのおためごかしが残されているだけだ。彼らを愛する私の心は、その程度の世故を通してしか伝えられない。何も告げずに、私は彼らをひそかに愛しつづける。彼らは私の愛で報われるより、世間の枷の中に私が安住している姿を確かめることで報われるにちがいないからだ。
 神宮球場の青いベンチとフェンスが浮かんだ。真っ黒いバックスクリーンとスコアボード。外野にそびえる二基の照明灯。場外弾を防ぐネット。嵐のような歓声。
 石手荘に帰り着き、きょうから練習に出ようと思い立つ。ふつうの排便。丁寧に尻を拭く。聞こえるか聞こえないかの耳鳴り。ジャージに下駄を履き、ダッフルを担いで本郷へ急ぐ。
 電車の棚にあったスポーツ新聞をめくっていると、佐藤栄助旧松葉会を松友会として統合、という記事が小さく載っていた。康男の決然と結んだ唇を思い出した。牧原というワカの名前はどこにも出てこなかった。なぜかホッとした。表に出ず、隠然たる勢力を誇ってほしいと思った。
 東大構内が静かだ。全共闘の学生たちが先月の末に医学部研究棟にバリケードを築いて以来、大学構内がゴーストタウンになっている。黄色く輝く銀杏並木を歩く。安田講堂までの短い並木道だ。見上げると緑の果実がなっているのが見える。黄葉し尽せば、あの果実が落ち、潰れて、下痢便のにおいを発する。精液のにおいがすることもある。
「きゃー! 神無月さん」
「おー! 金太郎」
 新聞記者がうろうろしている。詩織や睦子やチームメイトたちに迎えられ、部室へ走った。今週の土曜から全学部が無期限ストに入るということで、ほとんどの仲間が授業から戻ってきている。詩織が部室に駆けこんできて、
「二月の後期試験、語学のほかは、ぜんぶレポートになるみたいです。私が全科目書いてあげます」
「サンキュー! その前に、中退が決まっちゃうかもしれないよ」
「ですね!」
 無番の薄汚れたユニフォームを着て、曇り空のグランドへ飛び出す。克己たちと周回しながら話が弾む。
「戦後第一回優勝は慶應だったんだぜ。別当薫、藤田元司、佐々木信也という錚々たるメンバーで、十年間二十シーズンのあいだに、七回も優勝した。早稲田は八回だ。明治は三回、法政、立教一回ずつ。つづく十年間は早稲田四回、慶應四回の五分だ。立教と法政が取って代わって五回ずつ。立教の四季連続は長嶋と杉浦のおかげだ。この三年間の五シーズンは早慶立一回ずつ、法政が二回だ。このところ慶應は低迷しているが、広野功、江藤省三という名前に聞き覚えがあるだろう」
「ああ、江藤慎一の弟。いま巨人で縁の下の……力なし。広野というのはドラゴンズにいたんじゃなかったですか。堀内から逆転サヨナラ満塁ホームラン」
「今年から西鉄」
「二人とも慶應だったんですね」
「去年の春は藤原といういいピッチャーがいたんで優勝した」
「今年は?」
「ごらんのとおりだよ。一年生に萩野という速い左がいるが、まず出てこないだろう。バッターも一年生の松下が目立つ程度。これも出てこない。うちが負ける要素がない」
「慶應に二連勝しても、法政が勝ちつづけてるかぎり、安心はできませんよ」
「当然だ。法政が八勝二敗で終われば、立教戦で俺たちが二勝一敗なら優勝ということになる。二連勝なら完全優勝だ」
 外野でポール間ダッシュ往復二本、横平と五十メートルのキャッチボール二十本、三種の神器いつもどおり、フリーバッティング二十本で切り上げた。それから一時間ほど、レギュラー連中のフリーバッティングの球拾いをした。彼らの打球のするどさが春とは別物になってしまったので、私がいなくても慶應戦には勝てると感じた。
 部室裏の水道で頭と帽子を洗って、きょうはジ・エンド。監督やスタッフに挨拶をしてグランドをあとにする。鈴下監督が、
「金曜まで出るのか」
 と背中に声をかけた。
「出ます! 慶應戦のあとの二週間も、とにかく走りこみます」


         二百三十七

 荻窪駅前の不動産屋に寄った。
「お借りする家のお礼に伺いました。だいぶ遅れました。申しわけありません」
「あら、律儀な青年ねえ」
 菊田トシの笑顔を初めて見た。義歯かと見まがう美しい歯並びだ。顔に豊かな肉がついているので、目尻の皺が浅い。
「とんでもないプレゼントをいただき、ありがとうございました」
「東大の野球部で、ホームラン王ですって? 超のつく有名人だったんじゃないの。とんでもない男だとわかって、おばさん、人間を見る目に自信を持ちましたよ。練習の帰りなの?」
 肩に担いだダッフルを見て言う。
「はい」
「東大もたいへんなことになってるわね。野球なんかやってられるの?」
「やってられるようです」
 愉快そうに笑って机の書類を閉じ、老眼鏡を外して微笑んだ。老人という先入観を取り払ってあらためて見つめると、目の大きい美しい女であることがわかった。
「譲渡の手続や入居の手続は、何も心配しなくていいからね。今月の二十五、六日にはでき上がりますよ」
「ほんとにありがとうございました。二十六日から三日間は最終戦です。引越しはそのあとになると思います」
「そう。離れも改装しといたからね。コーヒーの出前をとってあげましょう」
「いえ、お礼に伺っただけですから」
「……あの、神無月さん」
「はい?」
「一度だけ……抱き締めてもらっていいですか? 形だけ」
 瞬間、菊田さんの頬にサッと緊張が走ったが、すぐに微笑にその緊張を溶かしこみ、
「握手でもいいんですよ」
 と言って、仕切りのカウンターからのろのろ出てきた。ネイビーのシンプルなワンピースに、黒いカーディガンを羽織っている。先回はまったく気づかなかったが、細いプラチナのネックレスをしていた。髪は裾の短い中学生のような七三分けで、清潔そのものだった。私はその清楚な姿を見て心底抱き締めたくなり、彼女の両腕の上からそっと抱いた。弾力のあるからだがふるえ、喉から妙なため息が出た。
「はい、おしまい、おしまい。どうもありがとう」
「……お家は大切に使わせていただきます」
 私は辞儀をし、店の戸を開けて出ようとした。
「ちょっと待って、練習のあとならおなか減ってるでしょう。いっしょにごはんを食べましょ」
「でも、まだお仕事が……」
「きょうは閉店。王子さまがやってきたからね」
 菊田さんは店の鍵を閉め、ロータリー沿いの舗道を先に立って歩いた。昼下がりの商店街を抜け、天沼陸橋のたもとの信号を渡る。カズちゃんと変わらないくらい足取りがしゃきしゃきしている。六十二歳というのはまったくの老人ではないのだと知る。
「ちょっと寄り道」
 と言い、天沼陸橋のいただきまできて、舗道から中央線の線路を見下ろした。
「この橋は戦前に架けられたんですよ。あの十階建ての四角いビルは、昭和二十何年かにできた公団住宅。そうは見えないでしょ。荻窪でいちばん古いビルなのにね。ここから見る夕日は荻窪絶景と呼ばれてるの」
「引越しのとき、その絶景を見ました。リヤカーでステレオを運びながら、この陸橋を渡ったんです」
「そう、見たの、よかったわね。さ、引き返しますよ」
 天沼八幡通りという看板の下をくぐる。古い商店街だ。多くの店が廃業してシャッターを閉めている。五分ほど歩いて左折すると、民家に混じって赤い看板の『天心料理・吉吉』という店があった。店前にミニバンが停まっている。配達用の車だろう。
「キチキチ、と読むんですか」
「そう、おいしいわよ」
 彼女は店の戸を引いて首だけ突き入れると、
「菊田です。牡蠣の天津丼、二つ。一つは大盛りで届けてちょうだい」
「へい! 毎度!」
 中から、勝手知ったふうな男の声が帰ってきた。姿は見えなかった。
「店の中じゃ落ち着かないものね。うちで食べましょ」
 二分ほど歩いた角地に、青瓦を葺いた端正な木造の平屋があった。横に流した二本の太竹にハツユキカズラを絡ませた生垣がめぐらしてある。折り戸を開け、前栽(せんざい)に入る。玄関から縁側までを幅広のL字形で囲んだ庭に、初秋の花が咲き乱れている。コスモス、金木犀、銀木犀、萩、彼岸花、ツワブキ、大きな黄菊……。
「すごいですね、この庭は」
「花を植えるのが趣味でね」
 五つほどの飛び石を伝って玄関戸を開けると、サラ土のまま叩き固めたしっとりとした土間がある。大きな式台の右手が、細道に面した十帖ほどの台所。大理石製のキッチンテーブルが置いてあり、豪華な食器棚が二つ、壁に貼りついている。広い調理場。
「お上がりなさい」
 菊田さんはレンジで湯を沸かした。廊下を跨いで、庭に面した十畳と八畳の和室。居間にしているらしい八畳間は、落ち着いた調度品がさびしくない程度に取り巻いていて、十畳の明るい和室には、ソファやら箪笥やらが隙間なくきちんと置かれていた。玄米茶が出た。いい香りがする。
「すてきな家ですね」
 トシさんはカーディガンを脱いで洋箪笥のハンガーに掛け、
「住むだけの二間の家ですよ。吉祥寺の家は借家にしようと思って建てたんだけど、なかなか借り手がつかなくてね。いずれ売って、こっちで暮らす予定だったんですよ。お姉さんは、元気?」
「はい」
 チャイムが鳴り、こんちわァ、と呼び声がする。トシさんは、はーいと返事をし、キッチンへいってやかんの火を止めると、式台に出た。
「神無月さん、あなたも運んで」
「はい」
 阿佐ヶ谷の大将のマスターに似た小熊のような顔をした三十代の男が、相好を崩しながら、
「お客さんなんてめずらしいじゃないの、菊田さん。若いツバメかい」
「当たり。三十年前の大阪からタイムマシーンで飛んできてくれたんですよ」
「へ、タイムマシーン? よくわかんないけど、めでたいや。食べ終わったら、いつものように玄関に出しといて。マイドー」
 二人で大鉢の天津丼をキッチンテーブルに運び、トシさんがお茶を運んでくるのを待つ。
「さ、食べましょう」
「いただきます」
 フーフー、レンゲを吹きながら食べる。
「うまい! 牡蠣も新鮮だ」
「でしょ、おばさんの大好物。週に一回は出前してもらうんですよ」
 大盛りの天津丼を菊田さんよりも早く平らげる。言われたとおり、腹がへっていた。菊田さんも上品にゆっくり平らげた。お茶で口を漱ぐ。清潔な作法に見えた。私もまねをした。食べ終えた皿をすぐに台所に下げる。
「お鉢は洗っておかないとね。作ってくれた人に申しわけないから」
「そうですね」
 鉢をシンクに下ろしてスポンジで洗いはじめる。律儀な後ろ姿をしみじみと見た。小柄ではない。ノースリーブのワンピースから突き出した腕も肉づきがよく、思ったより尻が大きい。もう一度他意なく抱き締めたくなった。
「キチキチとは開店以来のお付き合いでね、マスターの結婚式にも出たのよ。何年かにいっぺん、町内の温泉旅行や、初詣に参加することもあるけど、マスターの言うとおり、訪ねてくる客なんかめったにいなくてね―」
 私は糸で吊り上げられるように立ち上がり、トシさんの後ろに立った。気配を察してトシさんの手が止まった。私はごく自然に、好色めいた気分もなく、さっき抱擁したときに質量を感じた胸を後ろから両手でつかんだ。
「あ、神無月さん、だめですよ、あかん……」
 思わず大阪弁が出た。強く拒絶せずに、そのままからだを硬くしてじっと動かない。ボーイッシュな髪の首筋にキスをすると、いっぺんにからだの力が抜けた。首が真っ赤になっている。私は彼女の顔をこちらに向け、唇を吸った。とたんに菊田さんは私の胸に顔を埋め、腰を強く抱きしめてきた。スカートの裾から手を差し入れ、パンティの下を探ろうとすると、
「神無月さん、やめて、あかん、いけないことよ」
 私はパンティのゆるい股ぐりから指を入れて、ぬめった襞を触った。予想しなかったほど濡れていた。ハア、と吐息が洩れた。腰をくねらせながら、
「ほ、ほんとに後悔するわよ、ぜったい後悔する。こんなおばあさんとしちゃったらぜったい後悔するわよ。そうなったらもう取り返しがつかないわ」
「何を取り返すの?」
 陰核を探り当てようとすると、
「あっちで、ね、あちらで、ね、お願いですから……」
 八畳の部屋へ濡れた指をつかんで誘い、つかんだままカーテンを引いて、しばらくまともに私を見据えた。
「こんな、年寄りでええの? 六十二よ。おばあちゃんよ」
「年齢は関係ありません。トシさんを抱きたいだけです」
 トシさんと言ってみた。トシさんは顔を真赤にしてうなずき、私の指を離すと、廊下へ出ていき、しばらく風呂場の水音を立てた。やがてシュミーズ姿でうつむいて戻ってきた。髪を水で濡らして整えた顔は、サッちゃんよりも美しいくらいだった。じっと押し黙って押入から蒲団を出して敷いた。丁寧にシーツをかぶせながら言う。
「ほんとは……こうなることを神さまにお願いしてたんです。神さまが会わせてくれた人とこうなりたいって。こんなに早くお願いが叶うと思いませんでした。さっきお店で抱き締められたとき、二十年ぶりにオマタのところがおかしくなってしまって……どうしたらいいのかわからなくなって。あなたのお姉さんがね、もしそういうことになったら素直になって……さりげなく言ったんですけど、冗談だと思って、笑い合ったんですよ。……ほんとは願ってたことなんですよ」
「カズちゃんが店にきたの?」
「何度もきてくれてますよ。天女さまです……」
 シーツを敷き終わると、トシさんは安心したふうにシュミーズを脱ぎ、ゆるい白色のパンティを脱ぎ、ブラジャーを外して蒲団に横たわった。ブラジャーをあとで外すのがめずらしかった。さすがに少し弛んだ胸だったが、じゅうぶん豊かだった。私も服を脱ぎ捨てて、全裸になった。並んで横たわる。陰茎が萎えているのが申しわけない気がした。トシさんはそれを見ようとせず、
「きれいなからだ! ここまでとは思いませんでした。ほんとに私を抱いてくれるんですか?」
「抱きたいんです、トシさんを」
「お礼のつもりで抱いてくれるなら、気を使わなくていいんですよ。……それでもおばさんはうれしいけど」
「お礼のつもりなら、ぼくはのこのこついてきません」
「でも、無理してるでしょう。ほら、ここが」
 さびしそうに私の股間を見つめる。
「トシさんのからだをしっかり見れば、ちゃんとなります」
「見るって?」
「あそこを見ているうちに、カチカチになります」
「ま、恥ずかしいこと!」
 私は半身を起こし、腿に手をかけた。トシさんは陰毛の上に両手を置いて少し抗うようにしてから、素直に脚を広げた。何本か白髪の混じったきれいな形の陰毛が現れた。かすかに割れ目が見える。そこにキスをした。
「あ、神無月さん、そんなこと、あかん」
 トシさんは顔を手で覆った。さらに脚を押し広げようとすると、それにも少し抵抗してから、進んで大きく広げた。若々しい性器があった。色素の沈着していない門渡(とわたり)がかすかに見える。びっしょり愛液で濡れた長くもなく短くもない柔らかそうな小陰唇、ピンク色にピカピカ光る前庭、薄茶色の包皮が花弁のように開いてそっくり剥き出しになっている奇妙なクリトリス。初めてこういう包皮と陰核を見た。まったく色づいていないところをみると、花弁状になっているのはおそらく先天的なものだろう。男との数年間の性生活に使っただけで封印してしまった新鮮な性器だった。
「オマメちゃんの皮が花びらみたいに開いてる。生まれて初めて見た。オマメちゃんも大きくて、ほんとに花のようにきれいだ」
「そんな……恥ずかしい」
 私は両腿を持ち上げ、尊敬の気持ちをこめて、門渡から舌を這わせた。
「あ! ほんとにそんなことをするんですか……見るだけじゃなく?」
 小陰唇を含んで吸う。大きく舐める。
「……ああ、気持ちいい。ああ、神無月さん、どうしよう、おばさん気持ちいい」
 愛液があふれてきた。開いた包皮を含み、陰核を舐める。
「ああ、神無月さん、おじょうず、うう、すごく気持ちいい」
 急に陰核がしこってきた。
「ああたいへん、おばさん、もう―」
 尻が左右にくねりはじめる。
「あ、恥ずかしい、いや、見られたくない、ああ、イキそう、神無月さん、おばさんイキそう、ごめんなさい、お願い、顔を見ないで、ああイク……うううーん、イク!」
 私はアクメに達した性器全体にかぶりつき、反射的に前後に反射する腰を抱えながら、小陰唇のうごめきやクリトリスの膨張を舌で捉えた。


         二百三十八

 私は口を離し、
「ほら、トシさん、見て」
 トシさんはみぞおちをひくつかせながら首を上げて、私の下半身を見下ろすと、息を呑んだ。
「すごい……」
 トシさんが下腹をひくつかせているうちに有無を言わせず挿入する。
「い、痛い!」
 じゅうぶん濡れているので、痛いはずがない。痛いと感じたのは、彼女が数十年ぶりに男を受け入れた感覚を目覚ましいものに捉えたからだろう。むかし恋した男ではない男と交わる倫理的な恐怖もあったかもしれない。
「長いことしてなかったから狭くなってるんだね。だいじょうぶ、すぐ拡がるから」
 進入するときも、進入していったん膣内に留まるときも、滑らかな緊縛感があった。温かい。安心させるために、二つの乳房をしっかりつかむ。しばらく浅いところを探り、それから深く突き入れ、また浅く往復する。
「痛くないでしょう?」
 トシさんは目をつぶってうなずき、
「ああ、神無月さん、お臍の下がとっても気持ちいい。こんなふうになったのは何十年ぶりかしら」
 言葉遣いが、ひどくやさしい調子に変わっている。
「イッたこと、あるんだね」
「はい……」
 オーガズムの経験があるとわかって心から安堵した。私は思いどおりに動きはじめた。膣がしっかりと陰茎を握ってくる。
「ああ、とてもいい気持ち、おばさんもう少しでイキますから、神無月さんも遠慮なく出してちょうだいね」
 かつてこの人は、カズちゃんたちのように、一分も経たない交接で昂揚し尽くすようなセックスをしてきたのだろうか。だとすると、初めて〈でき上がった女〉と出会ったことになる。トシさんは射精の協力をするように懸命に腰を動かしはじめる。からだが往年の作法を思い出したのだ。でも達する気配はない。私はトシさんに合わせて無言で動きつづけた。亀頭の背に異様な刺激があるのに気づいた。柔らかいヤスリでこすられるような感覚だ。たちまち快美感に襲われ、トシさんに勧められたとおり〈遠慮なく〉放出した。とつぜんトシさんはギュッと腹を縮めて達し、
「ああ、かわいい人、うれしい!」
 トシさんは私の頭を抱き締めた。私もトシさんのからだを抱き締めた。トシさんは腹を収縮させながら私の頭や背中をいとしそうにさする。カズちゃんたちほど激しい達し方ではない。痙攣も数度で止んだ。
「イッてくれたのね、気持ちよかった?」
「うん」
「ああ、かわいい人、かわいい人」
 引き抜くときトシさんはふるえなかった。やはり、しっかり達したことはないのだと確信した。彼女は流れ出した精液を愛しそうに手で押さえ、少し屈んだ姿勢でトイレへいった。私は奇妙な刺激のせいで急速に訪れた射精に戸惑い、自分のものを屹立させたままでいた。やがて戻ってきたトシさんは、
「あら!」
 と息を呑んで、蒲団にひざまづくと両手で私のものをそっと握った。頬を寄せる。
「硬い。若いんですね……まだこんなに」
「トシさん、もう一度したい?」
「はい、してくださるの?」
「何度でも」
「……おカリさん……大きい」
 トシさんはそれ以上何も言わず、私の傍らに横たわった。私は上になり、花びらの股を広げ、ゆっくり挿入した。
「ああ、やっぱり大きい……」
 すぐに脈打ちはじめたのに驚いた。トシさんは私の背中をやさしく抱いた。
「好きです、神無月さん、ほんとに好きよ」
 私はヤスリの正体を探ろうとした。すぐに少し硬めの複雑な襞が抵抗を大きくしているとわかり、快感に結びついて射精するのを警戒しながら、上壁を避け、尻の側へゆっくり突き下ろした。何度も突き下ろす。
「ああ、神無月さん、すごく気持ちいい、ああ、だめ」
 トシさんの眉間に皺が寄りはじめる。
「もう、ほんとに、私はいいんですよ、神無月さん、あ、ああ、おばさん、お腹の奥がなんだかおかしくなってきたわ、おかしく……ああ、とても気持ちいい! 神無月さんも気持ちいいんでしょう、出したいんでしょう、がまんしないで、出してちょうだい」
 トシさんの腰がまた射精を促すように動きはじめた。それに合わせて連続して突き入れる。緊縛が急激にやってきて私もすぐそこに迫った。
「あ、うん、あ、うん、神無月さん! ああ、気持ちいい! おばさんまたイクみたい、神無月さん! イ、イ、イク、イク!」
 ヤスリに思い切り擦りつけた。跳ね上がろうとする腰をしっかり両手でつかんで、突き入れ、激しく射精した。小水ほども圧力のある愛液が私の陰毛に何度も噴きかけられる。陰阜を激しく前後させながら、トシさんは私の背中を引き寄せて思い切り抱き締めた。その姿勢でトシさんは腰を無意識に繰り返し突き上げる。律動のリズムと一致して、えも言われぬほどの快感だ。
「うれしい! 神無月さん!」
 唇を貪り合う。膣が激しく脈を打つ。これまでのだれよりも長く脈を打つ。どれほど気持ちがいいのだろうという怪訝な気持ちを打ち消すように、よいことをしたという深い安らぎが押し寄せてきた。トシさんの腰の前後の反射がだんだん緩やかになっていく。
「ありがとう、神無月さん、ほんとにありがとう」
 膣の脈動がつづいている。
「みんなキョウちゃんて呼んでる。そう呼んで」
「キョウちゃん……」
 背中を抱きながらディープキスをする。
「ぼくこそありがとう。じつはトシさんぐらいの齢の人がちゃんと濡れて、ちゃんと感じるのかなって、少し心配だったんだ。ほんとによかった。二回して正解だったね」
「はい―でも……オシッコをしちゃいました。ごめんなさい」
「オシッコじゃない。これが出る人は、めったにいないんだ」
「ほんとに?」
 ヤスリのことは言わなかった。言えば自分の欠点だと誤解して、深く悩むかもしれないと思ったからだ。
「こんなふうになるなんて知りませんでした。ぜんぜん知らなかった。……こんなに気持ちよくなるなんて……知らなかった」
 トシさんはさらにきつく私を抱き締め、
「キョウちゃん、ありがとう! ほんとにありがとう。これで心置きなくお墓にいけるわ」
「つまらないこと言っちゃだめだ。トシさん。ぼく、ときどきお店に顔を出すよ」
「ありがとう……」
 目が潤んでいる。
「からだがベトベトになっちゃった。風呂に入ろう。お湯を溜めながらね」
「はい」
 まだしっかり私をつかんでいる膣から陰茎をゆっくり抜いた。
「あ、イク……」
 一度尻が跳ねて腹が縮んだが、すぐに治まった。ようやく〈ふつう〉の女になった。トシさんは微笑みながら言った。
「……大好きよ、キョウちゃん」
 二人裸で広い湯殿に入る。ゆったりした浴槽に踏みこみ、私はあぐらをかき、トシさんは横坐りになった。湯を入れていく。トシさんは、じっと私のものを見ている。
「思い出してるの? むかしのこと」
「いいえ、それは吹き飛んじゃった。キョウちゃんはぜんぜん別の人だもの。持ち物もまるっきりちがう。……お姉さんにはこのこと言わないでね。これまでアネさん風を吹かせてきた六十女が、こんなに〈オンナ〉丸出しになっちゃって、なんだかとっても恥ずかしいから」
「言わない。言ったら、トシさんの一途な心を冒涜したみたいで、ぼくはもうトシさんに逢えなくなる」
「キョウちゃんは忙しい身なんだから、何カ月かにいっぺん、一年にいっぺん、いいえ、これっきりでもいいんですよ」
「東京には、あと半年ぐらいしか暮らせない。名古屋へ帰るんだ」
 湯が溜まってくる。
「聞きました、お姉さんから。プロ野球に入るんだって。でもそうなれば、東京にも年に三カ月くらいはくることになるでしょ? お家は一生使ってね。お姉さんにはこの家をあげたいんだけど、それはずっと先のことになるでしょうね。いらないと思っても、もらっておけば、売ろうと、住もうと、何かの足しにはなるから」
 私はトシさんの手を取り、
「でも、どうしてそこまでするの。苦労して築き上げた財産だよ」
 湯が肩まできた。トシさん蛇口をひねって止め、首をかしげて、
「お姉さんにも言ったけど、キョウちゃんがむかし惚れた男に似てたってことは、たしかにそのとおりなのよ。でもね、ただ思い出にこだわってそうしたわけじゃなくて、もっと何か心に響くもの、女としてよりも人間としてね。そういう気持ちからだったの。喜捨する感じかな。遇ったとたんに決めたんです。ふだんおばさんのところに部屋を探しにくる学生さんは、まだ十八、九のくせに、たいていどんより濁った目をしてる。何かすっかり老けちゃってる。子供らしくない事情を抱えこんでるのね。そんな学生さんたちを十年以上見てきて、キョウちゃんに遇ったとたん、なんて澄んだ目をした子だろう、真っすぐ前を見て脇見をしない人、何も腹の底にない人、何も野心を抱えてない人、お供えをして拝まなくちゃいけない人だってすぐわかった。……お姉さんとお話したときも、まさかそんな人が、女のからだなんかに関心があるって思えなかったし、たとえあったとしても、六十女に興味なんか持たないだろうって思った。だから……どうお礼を言っていいか。こうなったら家一軒じゃ、とても足りなくなったわ」
 ぴったりからだを寄せて抱き締める。握ってくる。自然な行動だ。尻をもぞもぞさせて微笑む。子供同士みたいに心の仕切りがなくなったようだ。
「もっとしたい?」
「はい。さっきあんなことになって、少し怖いですけど」
 私は立ち上がって、トシさんの顔の前に突き出した。トシさんは素朴な表情で、大きく口を開けて含むと、ぎこちなく舌を動かした。私はトシさんの肩に手を置いてそっと撫でた。苦しそうなので、腰を引いて離れる。トシさんを後ろ向きにする。円く、白く、はち切れるように熟した尻だ。トシさんは驚いて、
「後ろから?……」
「初めて?」
「ええ。……とても怖い」
「むかしの人は後ろからしてくれなかったの?」
「はい。まじめな人でしたから」
「これはまじめなことだよ。女の人を喜ばせることが、ふまじめなはずがない」
「……きょうよくわかりました。男と女の関係に不謹慎なことなんかちっともないって」
「前でするよりも、早くイッちゃうから、できるだけがまんしてね」
「はい、ドキドキします。二十歳の娘になったよう」
「お風呂の縁をつかんで、脚を広げて。先に、この手のひらにオシッコしてね。溜まってるはずだから」
 陰毛を包みこむように手のひらを股の下に差し入れる。
「汚くないよ。お湯はあとで流せばいいんだから」
「はい、恥ずかしい」
 ふくらみを揉む。
「……あ、出ます」
 ジョッと掌を打ってから、長く、心地よさそうな放出がつづいた。間歇的な水切りになったとき、私は背中にキスをし、耳もとに、
「とてもきれいなお尻だよ」
 と囁き、少し垂れ下がっている乳房を右手で拾い上げるようにしてつかみながら挿入し、抽送する。
「あ、気持ちいい……キョウちゃん、ああ、イク、ごめんなさい、キョウちゃん、イク!」
 片手を突き出して、空中に指を広げる。落ちようとする腰を抱え上げ抽送をつづける。緊縛が格段に強まってきたのを見はからい、奥を強く突きながら射精を呼び寄せる。
「強すぎる、キョウちゃん、強すぎる、グ、グ、イグ!」
「トシさん、イク!」
「キョウちゃん、イク!」
 瞬間、股間に手のひらを差し出すと、やはり愛液が数度かなりの圧力で掌を打った。リズミカルな陰阜の前後運動が亀頭を快適にこすり、律動のたびに異様な快感を覚える。
「あああ、ああ、イキッぱなし、キョウちゃん! ずっとイキッぱなし、あああ、もうだめ、だめだめ!」
 そのままの格好で、私はトシさんの腹を抱えて湯船に沈みこんだ。あぐらの上でトシさんは痙攣しつづける。


         二百三十九

 夕方の縁側で、トシさんの膝枕で耳をほじってもらっている。彼女はこんなことは初めてのようで、入口をこそこそいじるだけだ。
「トシさんて、とてもウブだったんだね」
「海千山千のつもりだったけど、こちらの道はカラキシでした。キョウちゃんはベテランだったのね」
「お坊ちゃんだと思ってた?」
「ううん、子供の仏さま」
「仏さまは悟りを開いてるよ。ぼくはさっぱりだ」
 十畳間の和室のテーブルの上に、手形銘柄とか、決済場所とか、銀行名、金額、期日といった難しそうな項目に手書き文字で書きこんだ書類が置き散らかしてある。ほかにも何束もの得体の知れないリストが積んである。トシさんは込み入った世界に生きているのだ。
「トシさんの顔にまったくシミがないね」
「お部屋の中ばかりにいたせいでしょうね。そのうち、どっと老けます」
「化粧でごまかせばいいさ」
「あら、ご親切な忠告、ありがとうございます。キョウちゃんは、昼は野球、夜は何をしてるの?」
「夜というものは、女と寝るか、机にへばりついているものと決まってる。きょうは一夜かけて、エリ・ヴィーゼルの『夜』を読み返すつもり」
「夜?」
「十五歳の少年のナチ収容所体験。内容の真実味にもふるえるけど、その文体の透明さににもふるえる。初めて読んだとき、しばらくふるえが止まらなかった」
「ふうん、中学校以来、本なんて読んだことがなかったわ。もう遅いかな」
 不意に彼女の、もう遅い、というひとことが、小さなトゲになって胸を刺した。
 ―もう遅い? 何もかももう遅い?
「ぼくは八十歳からでも読むよ。からだが動けば野球もするし、チンボが起てばセックスもする。ただ、好奇心の持続の問題だけど、野球やセックスからは案外早く身を引きそうな気がする。最後は人に愛を感じさせる言葉を創り上げることだけに没頭したいんだ。自分と他人のからだを喜ばせ、最後に心を喜ばせる」
「……お姉さんが言ってたけど、キョウちゃんはこれまでいろいろなものを失ってきたけど、光を失わなかったって。キョウちゃんて、ほんとに何百万人に一人の天才なのね。家をあげるなんて失礼なことだったけれど、大好きな人へのほんのささやかなオゴリだと思ってちょうだいね。そうそう、吉祥寺の家の台所に冷蔵庫、居間にガスストーブ、風呂場の脱衣場に洗濯機を入れたわ。庭には物干しの道具も置いといた。野球をしながら毎日自炊するのはたいへんだから、なるべく早いうちに、だれか女の人と暮らすようにしたほうがいいと思う」
「うん、そういう人ができればね」
「たくさんいるでしょう?」
「……うん。でも、どんなに生活が不便でも、一人暮らしをしたいんだ。草はらに寝転がっているみたいに。それに、ぼくは外食が嫌いじゃないから、その点では不自由だと思わない。性欲にしても、女にその気がないと湧いてこないし。……トシさんは悦びを知ってしまったから、これからはきっと性欲がどんど高まると思う。純粋にセックスをしたいときは電話してね。家にいて、翌日に都合がないときはすぐ駆けつけるから」
 トシさんはぽかんとして、
「仏さまが出張してくるの? そんなことしてもらったらバチがあたります。電話をしてキョウちゃんの都合を尋いて、おばさんがいきます。迷惑をかけないように、三十分ですぐ帰りますからね。お姉さんが言ってた。キョウちゃんの時間は、自分たちの命より貴重だって。時間を自由に使わせてあげないと、死んでしまう人だって。だから、キョウちゃんを心から愛する人しか近づけないようにしてるって。……おばさん、キョウちゃんとセックスして、心から愛してるってわかった。お姉さんに見抜かれてたのね。ほんとにありがとう、キョウちゃん。さあ、あしたからがんばろうっと。すごくファイトが湧いてきちゃった。他人の人生の分まで生きてあげようとしてる、そんな人がいるってことを知っただけで、いままで以上にがんばれるような気がしてきたわ。あと八年で七十、十八年で八十。精いっぱい生きなくちゃ」
 私はトシさんの顔をじっと見て
「……お姉さんというのはね」
「いいのよ、言わなくて。お姉さんが弟をどこかのおばさんにあてがうはずがないでしょう? 新聞や雑誌でちゃんと読みました。キョウちゃんは、母一人子一人。お姉さんなんかいない。お姉さんは、キョウちゃんを命懸けで愛してる人。北村和子さん。いつもキョウちゃんと駆け回ってる人。新聞にも雑誌にもぜったい出てこない黒子ね。そういう女の人が何人もいて、キョウちゃんを厄介ごとから護ってる。それって、とても大事なことよ」
「何人もいるって、カズちゃんが言ったの?」
「言わないわ。言わなくたってわかります。和子さんは、そういう女の人を代表して、ときどき私に会いにきては、さびしいやもめ女を慰めてくれてるの。たぶん、私に会いにいけとキョウちゃんに言ったのも、和子さんとその女の人たちね。菩薩さまのような人たち。仏さまには菩薩さまがたくさんつき従ってるわ。キョウちゃんが死んだら、和子さんたちはかならず死ぬでしょう。代表者の和子さんに私がしてあげられるお礼は、悲しいことにやっぱりこの家しかないの。でも、この家をお姉さんにあげることは私が死ぬまで内緒にしましょう。キョウちゃんと、キョウちゃんの〈お姉さんたち〉は私の守り神ですよ。大切にしますからね。さ、きょうはおばさん、これから書類仕事がありますから、キョウちゃんもアパートに帰って、あしたに備えて。読書はほどほどの時間で切り上げること。目を悪くしちゃうから」
「今週は水木金と練習。シーズン中の定休日は、月曜日か火曜日だけ。トシさんの定休日は?」
「不動産業界は水曜日と決まってるのよ。契約が水に流れるという縁起担ぎ」
「じゃ、ゆっくりできるのは火曜の夜だけだね」
「そう」
「きょうは火曜日だ。お昼をサボっちゃったから書類仕事が残ってるんだね。いつもゆっくりできる夜が台無しになったね。ぼくの都合が悪くなくて、気持ちが怠けていないときは、火曜の夜にこの家にくるようにする。いい?」
「もちろんですよ。うれしいわ。でも、都合のついたときだけにしてくださいね。それも吉祥寺に引っ越すまでにしてください。かよってくるのがきっときつくなるから。それから先は、さっき約束したとおり、おばさんが電話していきますね」
「うん。じゃ、帰ります。天津丼ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
「このあたりで、どこかいい銭湯知ってる? いつもいき当たりばったりで見つけてるから」
「井荻の井草湯が有名よ。でも、遠いわね。野球選手は毎日汗をかくからたいへんでしょう。よければうちにいらっしゃい」
「毎日くるわけにもいかない。今度井草湯へいってみるよ。さよなら」
「さようなら」
 トシさんは、玄関の折り戸まで送って出て、手を振った。急に机と本が恋しくなる。駅前から吉永先生に電話を入れた。
「慶応戦が終わったら二週間の中休みに入るから来週いくね」
「うれしい。天王山ですものね。がんばって」
「うん。来週も中番?」
「そう、五時上がり」
「わかった、じゃね。勉強がんばって」
「はい。愛してます」
「ぼくも」
         †
 十三日の降雨中止を挟んで、十二日、十四日と慶應戦を二連勝した。八勝零敗。私は初戦に二本、第二戦に三本のホームランを打ち、十八号に達した。まだ立教戦を残しているので、二十本はまず確実だろう。二位はだれだか知らないが、四本と聞こえてきたから田淵だと思う。打率六割三分、打点三十九。谷沢が十九打点だから、今季も三冠王はまちがいない。
 法政はここまで六勝二敗、早稲田は法政に二連敗して優勝から遠ざかった。第七週の明治戦に法政が二勝零敗でも、東大は二十六日の第二試合の立教初戦に勝てば優勝が決まり、二十六日に負けて二十七日に勝っても優勝が決まる。二連敗すれば、法政と同点決勝となる。法政が一敗でもすれば、やはり東大の優勝だ。鈴下監督の胴上げの直後に、優勝セレモニー、パレード、優勝祝賀会と立てつづけに行なわれる。
 報道陣の動きがとてつもなくあわただしくなった。《史上初・東大優勝》の見出しが彼らの頭の中で踊っている。インタビュー合戦に巻きこまれてはたまらない。私は慶應戦二戦とも、鈴下監督の仰せのとおり、『みんなと力を合わせてがんばります』とか、『最後の最後まで油断しないで戦います』といったようなマスコミ殺しのひとことを残して、グランドからこそこそ逃げ出した。このごろ、チームメイトも私に倣ってそそくさとグランドをあとにするようになった。監督と克己はいつもスポークスマン役を引き受けることになって気の毒だが、まかせておけと胸を叩いてくれている。
 二週間後の最終戦には、山口やカズちゃんたちはもちろん、東奥日報の浜中さん一行も、ドラゴンズの村迫代表もくるにちがいない。場外ネットを越えていくようなドデカイやつを打ちたい。
 それにしても、各大学の選手たちがベンチ前で衆目に曝されながら、監督にすみませんと平謝りしている姿をよく見かけるけれど、実際にプレーをしていない試合運行係に四の五の言われて平身低頭している自分に不甲斐なさを覚えないのだろうか。プロ野球もそっくり同じに見える。ただ、さすがにプロともなると、監督に叱られても、唇がわななき、瞳が揺れたりして、多少反抗の姿勢を見せることがある。それでも蒼白になったその顔からやがて怒気が抜け落ちていき、別の打算的な感情が入りこんでくるのがハッキリわかる。
 野球選手など地位も名誉もない平社員のようなものだ。もともと、野球バカ、もっと悪く言えば世間知らず、せいぜいよく言っても勘定高くない人間。そんなできそこないに地位も名誉もあるはずがない。もともと馬鹿だったやつが、安全志向の打算を働かせて名誉や地位を求めても空しい。馬鹿は馬鹿らしく生きるべきだ。馬鹿の長所は、部外者の無責任な横槍に、腹を立て、反抗するところだ。ケガをしたり、格下げされたり、排斥されたりして、人生の大半を損ばかりして生きてきた連中には、腹を立て、反抗する以外にやることはない。初心に帰り、もっと居直って、地位や名誉に凭れかかっているやつらなど蹴散らして、一匹狼の気概で野球に打ちこむべきだ。それでクビになったら、スッパリ野球を卒業して、馬鹿なりに生きられるような別天地を見つければいい。
 山口は土曜出勤、カズちゃんと素子は土日出勤だったので、今週はだれも応援にこなかった。それでかえって、顔を知らない観客だけを眺めながら、伸びのびとグランドを駆け回ることができた。応援団とバトンガールの乱舞と後ろ手の静観は、そろそろ東大の名物になってきた。山口の作曲したコンバットマーチも、これまた名物となったようだ。
 十四日、バスで本郷へ戻ると、全十学部がストライキに入った静かな構内に、意味不明のタテカンが立ち並んでいる。

  
全学スト実に結集せよ! 4じ 10ばん 斗いの圧殺を許さず

 スト実? スト実行のことか。

  
試験ボイコットで勝利へ突き進め! 東Cスト実行委

 東C? 彼らだけの符丁だろう。

  
全学部の学友は本日の××(崩し字が読めない)

  
文学部完全ストライキ突入に××(崩し字が読めない)

  
工学部遂に封鎖支持無期限スト突入

  
学外勢力のセクト的介入反対 機械系大学院

 棒に打ちつけた看板を肩に担いでうろつく白ヘルたちがいる。構内をいく学生や教員たちにひっそりとビラを配っている。赤いヘルメットをかぶった別セクトのやつらもビラを受け取っているのはどういうことだろう。

  
ゲバルトは敗北 封鎖阻止 見物は許されん

 という看板を高く掲げて歩いているやつもいる。みんなヘルメットをかぶり、タオルを口に巻いている。何者だろう、この前衛集団は。書いてあることが隠語のようでさっぱりわからない。スパイクを鳴らして彼らのそばを通り過ぎる。だれも私たちを見ようとしない。中介が舌打ちしながら、
「俺らのことを極楽トンボみたいに思ってるんだろうな。それはおまえらだってェの。東大の体質がどれほど腐ってるか知らないが、その腐ったにおいが好きで東大にきたんだろう。団交? いまさら、学問は何のためにするのか、なんて学者に問いかけて、何を聞き出したいんだ。学問は自己達成のためにするな、社会のためにしろってか? 超弩級の偽善だな。学問も、野球も、自己達成のためにやるんだよ。それがたまたま社会のためになることだってある。だいたい、まちがって学生の首を切った医学部のおえらがたの権威体質に、医学部の学生が騒いだまっとうな闘争だったんだろう? 全学部の体質を見直すなんて暇なことやりだしたら、当然娯楽になっちまうぜ。おまえらこそ極楽トンボだ」
 水壁が、
「あいつらは遊び人だ。東大と関係ないやつまで安田講堂の占拠に参加してるんだ。十本ぐらいダッシュさせて、根性叩き直してやりたいな」
 大桐が、
「総長も、どうせ大学の自治なんて幻を潰したかったら、機動隊より、ヤクザ雇ったほうがよかったんじゃないの。警察以上の最大権力だろう。お礼参りが怖くて、いっぺんに学生は黙っちまうぜ」
 詩織が、
「それ、危険な考え方です。機動隊は排除しようとするだけですが、ヤクザは殴りこんで壊滅させるわけでしょう」
「排除をもくろんだ機動隊だって殴りこんできたんだから、ドッコイドッコイだよ。きっちりヤクザだってわかる連中を殴りこませたほうが、暴力に容赦がない分、学生を黙らす効果は大だったろうな」
 会話を聞きながらニヤニヤしている鈴下監督を横目に、仁部長が、
「どうも来年の入試は本式に中止のようだ。噂だが、来月早々大河内総長の代行に加藤一郎さんが立って、その首のすげ替えを機に、文部省が強制執行でも何でもやって学生を排除できなければ、入試は中止だというお達しを出すらしい。加藤さんは政界とつながりが密だからね。このありさまじゃ、あと一、二カ月で排除するというのは無理だろう」


         二百四十

 鈴下監督が、
「来年は、新入生は一人も入ってこないことになる。野球部員も入ってこない。そこで六大学連盟が、東大にかぎり、大学院生を除いた五年生以上もリーグ戦への出場を認めるという特別措置を出した。おい、だれかわざと単位を落として留年するやつはいないか」
 企業内定者以外の連中がバラバラと手を上げた。克己が、
「俺はどうせ東京外大を受けようと思ってたから、一年ぐらい浪人期間を増やしてもいいですよ。でも、金太郎さんと野球がやれるという条件つきになります」
「俺もだ」
 臼山と台坂の司法試験組が手を挙げる。大学院進学組の横平、磐崎も手を挙げる。鈴下監督が、
「そんなに要らないよ。それじゃ今年と変わらないじゃないか。東大が不正を働いたと見られるぞ。準レギュラーの未来も危ぶまれるしな。大学院生は出場できないから、わざと院にいくのを遅らせるとなると、それも厄介だ。院試はタイミングを失すると多浪することになるんでな。院志望者はやめとけ。練習にくる分は拒まないが。克己と台坂と臼山に残ってもらえればじゅうぶんだ」
 克己が、
「ですから監督、金太郎さんがいなくなるんだから、俺は残りませんよ」
「俺も」
「俺も」
 台坂と臼山が手を上げる。監督が、
「結局は、四年生は出てっちまうわけか」
 白川が、
「マネージャーで残るのは、黒屋と上野。鈴木は名古屋の大学に再受験するそうです」
 水壁が、
「このあいだ言ったこと、本気だったんだな」
 詩織が、
「私も本気だったんですよ。でも、東大に残ってスポーツ科学系の専門家になって、裏方として神無月くんを支えることにしたんです。院にいくまでは、神無月くんの育てた東大野球部とともに歩むつもりです」
 一年生の那智が不思議そうに、
「裏方として神無月さんを支えるというのはどういう意味ですか」
「スポーツ選手のケガの研究をしたいんです。鍼灸や科学療法の」
 西樹助監督が、
「なるほど、それなら金太郎さんばかりでなく、大勢のスポーツ選手の裏方になれるな」
 詩織が仁部長に、
「全学ストに入って、二月の後期試験はどうなるんでしょう」
「なしだね。前期で不可をとってない科目は、全員スルーだな。卒業試験もないんじゃないの」
 詩織は私と見交わして微笑んだ。どうせもうすぐ中退してしまうのだから、後期試験など関係ないと言えば言えるのだが、多少でも机に向かわなければならないというくだらない心配がなくなってなんだかうれしい。横平が頬をふくらませ、
「歴史的な東大優勝の騒ぎは、どこへいっちまったんだ。俺たちだけか、騒いでるのは」
 西樹助監督が、
「メディアは泣き笑いで、東大闘争と優勝の二つを追っかけてるよ。ある意味、これは東大の青春だね。将来、小説にも書かれるだろう」
 監督、スタッフ、選手全員部室に入り、肌寒さを感じながらミーティングになる。温度計は十三度。二週間の中休みを前のカツ入れだ。
 グローブとスパイクを磨きながら耳を傾ける。鈴下監督が、
「信じられないことに、東大の優勝が決まりかけている」
「オース!」
「構内を歩いてもキャーキャー寄ってこられないのが奇妙だね。まあ、学内は騒がなくても、全国的な騒ぎになってる。私たちは東京大学の歴史的事件に立ち会ってるんだ」
「オー!」
「トリャー!」
「法政が二連勝して、うちが二連敗しないかぎり、優勝決定戦はない。九仞(じん)の功を一簀(き)に欠くなよ。二週間後の第二試合で決めよう。胴上げのときは、私を地面に落とさないように気をつけてくれ」
「ウィース!」
「パレードは十月二十六日か、二十七日の試合終了後、午後四時から行なう。トルネイド級の騒ぎになる。神宮球場から赤門まで、九人乗りのオープンカー五台で縦走する。最後尾には応援団とバトンの代表が乗る。連盟杯は克己が受け取り、優勝旗は中介が受け取る。受け取ったらそのままオープンカーに乗って持ってろ。神宮を出るまではしばらくのろのろ進むが、湯島聖堂前で待機している応援団、バトン、ブラバン、補欠選手、東大OB等と合流して、本郷通りを赤門まで三十分ほど行進する。交通整理には警視庁のほか、一般学生もかなり協力してくれる。祝賀会は中央食堂で六時から八時まで。この混乱時にも関わらず、坂本義和法学部教授が祝辞を述べてくださることになった。彼は執行部の一人だから、話が東大闘争に及ぶかもしれないが、がまんがまん。金太郎さん、五分でもいてくれよ。めしだけでも食って帰れ」
 ドッと笑い声が上がった。白川が、
「二十六日の試合開始は、たぶん一時四十五分から二時のあいだです。後攻で、ベンチは一塁側です。法政対明治の第一試合は十時から。二時間以内に試合が終わると想定して、十二時十五分から立教、東大両チームのフリーバッティング二十分ずつ、一時から両チームの守備練習十五分ずつです」
 黒屋が、
「東大側一塁スタンドはもちろんギッシリになります。内外野四万人以上の観客で埋まることが予想されています。十一月第一週最終クールの早慶戦以上です。ものすごい歓声でしょうが、いつものとおり平常心で臨んでください。冷蔵庫に絞りタオルを五十本用意しますので、適宜お使いください。水甕はいつものとおりです。二連勝で完全優勝することを願っています」
 仁部長が、
「ピッチャーとバッターが対決中はフラッシュを焚かないよう、各新聞社の報道部に申し入れた。安心してプレーしてください。これからの二週間の練習期間は、われわれスタッフはじめマネージャー連は昼前にかならず出るようにするので、用具、ユニフォーム等リクエストがあったら申しつけてください」
 克己が全員を起立させ、
「エー、イグゼ!」
 と張り上げた。
「オッシャー!」
「優勝するぞ!」
「オーシ!」
「よし、解散!」
 みんなで着替えにかかる。監督、スタッフ、マネージャーたちは、応援団やブラバンやバトン部との打ち合わせがあると言って去り、選手たちは一杯やろうということで群れ集って赤門に向かった。数十人の報道陣に取り囲まれた。激しいフラッシュ。克己たちは私を護るように人混みの外へ押し出し、
「走れ!」
 と叫んだ。ダッフルが重いので、競歩のようになる。横平と臼山がいっしょに地下鉄の駅まで走ってくれた。
「じゃ、練習でな! 俺たちは軽く一杯やって帰る」
「ありがとう。さよなら!」
 横平たちは走り戻っていった。
 通りがけの新聞店で売れ残りの夕刊を買って、電車の中で読む。東大優勝確実の記事が一、二面と最終面を派手派手しく飾っている。
 三面に巨人対阪急の日本シリーズ第二戦までのダイジェストが載っていた。東大明治戦と同じ日程で行なわれていた。十二日の第一戦は五対四で阪急、勝利投手米田、敗戦投手金田、第二戦は雨天中止のあと、きょう月曜日に行なわれて、六対一で巨人の勝ち、勝利投手城之内、敗戦投手足立。来年の準備のために、巨人の打順と選手名を暗記した。一番レフト高田、二番セカンド土井、三番ファースト王、四番サード長嶋、五番ライト国松、六番センター柴田、七番キャッチャー森、九番ショート黒江。一、二戦ともこの打順だった。巨人はピッチャーを八番に置く。ものすごい違和感がある。次にホームラン記録を見た。第一戦、金田から矢野(知らない選手だ。今年急に活躍しはじめたので十年目の新人と呼ばれているらしい)がツーラン。長島が石井(これまた知らない選手だ)からソロ。ピッチャーの大石清が高橋明からソロ。第二戦、柴田が足立からツーラン、長池が城之内からソロ。長池が第二戦にしか出場していないのが解せない。肩にあごを埋めてピッチャーを睨み据える彼の独特のバッティングスタイルは、私が日ごろ感服しているものだ。必然的にダウンスィングになるが、ボールの捉えどころがいいので打球はぐんぐん舞い上がる。長池の彫りの深い顔に、四戸末子の顔が重なった。節子以上によく似ている。気に入っていたのはバッティングスタイルのせいばかりでなかったようだ。
 長嶋は二戦合わせて七打数三安打、一ホームランだった。ホームランはライトに打っていた。王は六打数二安打、レフトオーバーの二塁打、レフト前のシングル。金田がヒットを九本も打たれて四点を失っている。晩年を感じた。
 池袋からカズちゃんに電話して、二連勝したことを告げた。
「おめでとう! マスターがラジオをかけてくれて、フジのお客さんたちといっしょに聞いたのよ。あと二連勝すれば完全優勝ですって?」
「そう」
「夢みたいね。……去年のいまごろは、まだ高校生だったのに」
「うん、人生は予測がつかないね」
 うれしい気分で紋切りを言ってみる。
「ほんと。これからもどんなふうに変わっていくのかしら」
「流れるままだね」
「ええ。でも、キョウちゃんはぼんやり流されるんじゃなくて、その流れを受け入れて努力してるわ。すばらしいことよ」
「カズちゃんもね」
「うん、素ちゃんたちも、みんなよ」
「それこそ夢のようだ。みんな努力する人だなんて」
「キョウちゃんを見てれば、みんなそうなるわよ。おとうさんおかあさんから電話があって、すばらしい五日間だった、くれぐれもキョウちゃんと山口さんにお礼を言っといてくれって」
「こちらこそだよ。高尾山にいって、楽しかった」
「らしいわね。山口さんがたくさん写真送ってくれたから、家じゅうに飾ったって。トモヨさんもマンションに飾ったらしいわ。菅野さんも一枚、文江さんまでキョウちゃんの写真を一枚もらっていったんですって。きょうは寄るの?」
「きょうあすは本を読んで、あしたの練習帰りに吉永先生のところに寄る」
「いってらっしゃい。汚れたユニフォームは?」
「来週中に、二着持って帰る」
 大学の春秋リーグ戦は、うだるような夏日に行われることはない。だからユニフォームは大して汗を吸っていない。それでも私は常に新しい乾燥したシャツをつけ、真新しいユニフォームを着、洗濯したてのストッキングを穿く。身ごしらえをしっかりすると、野球というスポーツが驚くほど神聖なものに感じられる。
「……先週、菊田トシさんを抱いた」
「まあ! よかったわね。菊田さん、喜んだでしょう」
「とても。あんなに喜んでくれると思わなかった」
「ときどきいってあげてね。きっと長生きしてくれるわ」
「うん、ときどき逢う約束をした。でもあまりいってあげられないと思う。今月の最終月曜に中退届を出す」
「あわただしそう。キャンプは二月からだから、オープン戦も含めて三月いっぱいまではとても忙しいわね。おとうさんに連絡しとく。自由交渉が長引いても、四月の公式戦には間に合いそうね。そのころまでには名古屋への引越しを完了させて、キョウちゃんのお家を整えておきます。荻窪の洗濯物溜まってるんじゃない?」
「うん、紙袋に押しこんで押入に放りこんである」
「今週中に取りにいってあげる。洗濯した下着を替わりに置いておくわ。キクエさんにお家探しの日程が決まったら連絡するように言って」
「わかった」
「来月は二人きりで温泉旅行だよ」
「とうとうね……。楽しみ。まず吉祥寺に引越しして落ち着いてからよ」
 素子が出て、
「再来週は応援にいくよ。何時から?」
「土曜日は一時半、日曜日は二時。二十六日か二十七日の、優勝が決まったどちらかの日にパレードをして、そのあと優勝祝賀会」
「ふうん、帰りにはここに寄るんやろ」
「うん」
「節ちゃん、呼んどこうか」
「今週か来週にぼくのほうからいってあげる」
「わかった。チーズケーキ作れるようになったんよ。食べてね」
「うん。どんな味かな」
「お姉さんのお墨付き」
 ふたたびカズちゃんに替わって、
「無理しないでね。からだが資本よ」
「わかってる」
 荻窪のアーケードで菓子パンを何種類か買ってアパートに戻る。


         二百四十一 

 自転車で井荻まで遠出をして、トシさんの教えてくれた井草湯という銭湯にいった。四面道から広い一本道をひたすら北上し、清水三丁目という交差点に突き当たった先に、白煙をくゆらせる四角い煙突があった。二キロ弱、十分強。銭湯一つにかなりの遠出をしてしまった。
 あたりは薄暗い。柴山くんの裏木戸で嗅いだ薪の燃えるにおいが薫(かお)ってくる。古いマンションの一階が銭湯になっている。紺地に屋号を染め抜いた暖簾が掛かっている。玄関前の空間を飾る緑の群れ。大イチョウと棕櫚が景観のほとんどを占めている。東京にしては長閑な風景だ。
 花弁に平仮名でさくらと刻印された茶ばんだ下足箱が向かい合わせに並んでいる。ター坊の銭湯を思い出して、なぜかうれしい。番台に日焼けしたおばさんが詰めている。遠慮がちに沿革を尋いてみると、戦後すぐに木造で建てられたということだった。マンションに付属する銭湯に改築したのは昭和三十年代の半ばのようだ。
 脱衣所は三間に四間ほど。天井は高く広々としている。ロッカーはむかしふうのシリンダー錠。中央に畳張りの長方形の縁台、それを囲むように木組みの縁台が接している。客たちがそこに座って、入口脇のテレビに見入っている。ひょっこりひょうたん島。まだやっていたのか。アナログの体重計、十円で稼動するマッサージ器、大きな寒暖計。洗い場も三間に四間ほど。天井はゆるやかな蒲鉾型で白ペンキが塗られている。カランは二十以上ある。床はカドの丸い正方形を入れ子模様にしたタイル貼り。暖かく、清潔だ。浴槽は湖の絵のある奥壁に面した深浅二槽。湯は四十二度くらいか。カルキ臭が強い。
 頭を洗い、ゆっくりからだを流し、湯上りにサイダーを飲んだ。
 深更の二時半までエリ・ヴィーゼルの『夜』を読み返した。三度目だった。あまりにもからだがふるえるので、これを読み納めにした。
         †
 十月十五日火曜日。九時起床。晴。十七・五度。朝方大粒のにわか雨が降ったので、もともと予定のない本郷にはいかなかった。
 青梅街道を阿佐ヶ谷駅まで往復五キロほど走る。部屋に戻って全身をタオルで拭き、三時間の仮眠をした。
 三時半まで机に向かい、小説の章立てを何種類かノートに書き出す。時間ばかり食ってまとまらない。
 ワイシャツにブレザーを着、革靴を履き、傘を持って出る。雨はすっかり上がっているが、空が低い。荻窪駅前から花岡病院の吉永先生に電話をする。五時にいく、ビーフカレーが食べたい、と伝えた。案の定雨が落ちてきた。雨滴が顔に当たるのが好きなので、ときどき傘を横に倒して歩く。肩が冷えるのを恐れて、すぐに頭上に戻す。
 上板橋駅から晴れ上がった道を歩いた。気持ちを新たにするために左右の民家や庭や商店を眺めるが、たちまち記憶が消えてしまう。熱田神宮の夜空ほどの印象を残す風景はおいそれとは現れない。道端の草を見下ろしても、名前が浮かぶばかりだ。人は好奇心が衰えてくると、なんとかむかしのするどい感覚を取り戻そうとして自分を励ますものだ。周囲の人間にしか興味を持てなくなったのに、むだな発奮だ。
 植木をいじっていた大家に挨拶をした。素っ気ない挨拶を返された。年上の女をもてあそぶために訪ねてくる好色な学生、スポーツ選手らしくない秘密めいた立ち居、世に知られた人間の隠れた暗い生活。そんなものに接したときのふつうの人間の反応だ。負の反応をされることに心が安らぐ。
 吉永先生はせっせとビーフカレーを作っている最中だった。
「いらっしゃい! きょうは泊まっていけるのね」
「うん」
 部屋の中が勉強の色にしっかり染まっていた。医学専門書が書棚に増え、机の上に何冊もノートが乱雑に置いてある。文具も揃い、私の詩を清書した原稿用紙が机の左隅に厚く積まれている。
「合格のにおいがプンプンする」
「早く引っ越したいわ。節子さんが電話してきて、日程を教えてくれたの。来月の中旬に面接にいきます。採用されたら、中央線沿線に引越します。そこで、まず正看の資格をとってから、ゆっくり計画を立てるの。日赤の仕事が忙しくなるでしょうから、ヘルパーの講習はしばらく先延ばしにすることにしました」
「そうだね、まず名古屋に戻ることが先決だ」
「正看をしているあいだに、もっと実地の経験を重ねて、スムーズに医師の手伝いができるようにがんばります。お食事終わったら、ちょっとお友だちのところへいっしょにいってくれる?」
「友だち?」
「患者さんで、仲のいい人ができたの。仕事帰りにちょっとお茶をごいっしょして、ついキョウちゃんのこと話したら、ぜひ会わせてって」
「うーん、苦手だな。ぼくのどこに興味が湧いたんだろうね。興味だけで見知らぬ人に会いたがるやつなんて、ロクな人間じゃない。うるさい人じゃない?」
「そんな感じはしなかったけど」
「ぼくの素っ気ない様子を見たら、イヤなことも言うかもね。でもいってみようか」
 先生は少し油断をした。あの大家では人恋しさを紛らすことができずに、より親密な友を求めたのだ。心配だ。しかしいってみるしかない。
 辛くてうまいビーフカレーをお替りした。レタスとトマトのサラダが食を進めた。先生もお替りした。女をさびしさの中に放置してはならない。
 雨の中を吉永先生に連れられて〈友人〉のアパートへいった。駅の向こう口の、二階建てのアパートだった。すぐ近くにサッちゃんと飲み食いした居酒屋があった。
「サインをしてあげてくれる?」
「いいよ、それだけが目的なら気がラクだ。独身?」
「ええ。何年か前、離婚したんですって。それがもとで胃潰瘍になっちゃって。あちこちの病院にかよって、うちにもけっこうかよってたんだけど、ようやく全快して、それでお茶を飲むことになったの」
「あちこちね。話し相手探しだな。そういう人は、自分を慰めてほしくて刺さってくる」
「そんな人じゃないと思うけど……でも、キョウちゃんの直観は当たるから」
 どうぞと言われて、ドアを開けて二人沓脱ぎに立つと、板床を軋ませて険相な女が出迎えた。四十そこそこの、からだの薄っぺらい女だった。逆三角の顔に尖った鼻がついていた。顔のどの一つの造作にも温かみがなかった。
「こちらが、有名な野球選手の神無月さん? いい男!」
 いらっしゃいも、はじめましてもない。礼儀のない女だと思った。不道徳は許せるが無礼は許せない。六畳の部屋は妙に明るかった。机や書架や食器戸棚は小ぎれいに整頓されていて、吉永先生の部屋と反対に、青い寒色系のカーテンが引かれていた。
 女は座布団を勧め、いそいそとインスタントコーヒーをいれた。流しに立つ後ろ姿が干物のようだった。テーブルの脇に、編み棒を二、三本角(つの)にした毛糸球が転がっている。満たされないときの女の手慰みだ。葵荘の節子が思い出された。女はテーブルにコーヒーを出して落ち着くと、
「こんなきれいな恋人がいて、うれしいでしょう」
「はい。私の命です」
 吉永先生は、ばっちゃが私を連れ歩くときと同じ誇り高い顔をしていた。女はその顔に同調するふうもなく、焦点を私の顔の一つところに留め、目を三角にして何かをするどく見据えようとした。その様子が母の仕草に似ていた。三人のあいだに沈黙があった。泡の立ったインスタントコーヒーをすすった。やがて、吉永先生が話しはじめた。
「全快して、ほんとによかったですね」
「ありがとう。男にはさんざん苦しめられたわよ。もうこりごり。神無月さんは吉永さんを苦しめてない?」
「と、思います」
 私は明るく答えた。
「吉永さんが、惚れて手を出したんだから、迷惑かけてるのは吉永さんのほうね」
 しゃべり口が図々しい。私は、
「先生は一ミリの迷惑もかけてません。あなたは、手を出されたほうなんですか?」
「そう」
 嘘だろうと思った。彼女は生活の苦労の果てに、たぶん男との角逐の果てに、結婚生活を手に入れたのだろう。そのおかげで、これまで男たちにないがしろにされてきた肉体に対する自信を得たかもしれない。おそらく最後の望みは愛だろうが、それは苦労で得られるものではない。人を愛しながら、愛される僥倖を待つしかない。
「先生には、ぼくが手を出したんですよ」
「いいえ、ちがうわ。私が誘惑したんです。教師としてほんとに言語道断のことをしてしまったけど、後悔はしてません」
「だめよ、いい気になっちゃ。そういうけなげな反省をしただけじゃすまないわ。とんでもないことをしちゃったのよ。十八歳の少年の将来を奪ってしまったんだから。神無月さんには未来があったのよ。もし、こんなふうに出世しなかったら、どう埋め合わせをするつもりだったの」
 またここにも見当外れの意見を言う〈彼ら〉がいた。
「先生にも未来はありましたよ。先生にこそ、と言ったほうがいいかな。ぼくにはもったいないくらい真率な人です。そういう知ったような意見を、いろいろな人たちの口から聞いてきました。彼らはぼくを裏切りました。そのせいでぼくはけっこう、長旅をしたんです」
「あら、大人ぶって。まだ十九歳でしょ。私は神無月さんに同情して言ったのよ」
 吉永先生はうつむいた。〈友人〉に対する印象がいっぺんに変わったようだった。
「噂話で聞いたぼくをですか。考えられないなあ。それとも一般的に、ぼくのような年齢の人間をですか。いずれにせよ、偽りの同情でしょう」
 女は三角の目をいよいよ三角にして、
「じゃ、その未来ある吉永さんを、まだあなたは養っていけないでしょう。どれほど有名か知らないけど、まだ大学生じゃないの。吉永さんだって、いまさらおめおめと教職には戻れないし」
 一転して逆のことを言い出した。
「そのとおりですが、ぼくの社会的な責任と、いま問題にしている二人の関係の倫理性とはまったく関係がないですよ。あなたはどちらを非難しているんですか。吉永先生ですか、ぼくですか」
「何なの、その不貞腐れた言い方。吉永さんの話だと、あなた、文章も書いてるそうだけど、何かの賞でも獲らないかぎり、他人どころか自分の口も養えないわよ。野球がなかったらたいへんだったわね」
 ほとんどナンセンスになってきた。酔っ払いの会話だ。
「そんなものを目指して文章を書くつもりはありません。何も目指さない」
「じゃ、オナニー?」
「はあ? オナニーは射精を目指してますよ。芸術は社会的な何ものも目指さない非生産的なものです。それより、吉永先生は、あなたを親しい友人と信じてぼくを連れてきたんです。友人なら、彼女とぼくの事情をすべて認めなさい」
「友人だからこそ、認めちゃいけないことってあるでしょ」
「ありません。友人が精神に異常をきたしていないかぎり、殺人でも、火付けでも、どんな無軌道なことでも認めるべきです。まともに取らないでくださいよ、もののたとえですからね。あなたが認めたくないのは、自分以外の人間全般でしょう」
 吉永先生は顔を上げ、
「私が勝手に神無月さんの生活に入りこんじゃったの。この人に何の責任もないんです」
 腹も立てずに、お人よしなことを言う。
「あなたも焦ってたんでしょう。でも、男と女って、こんなあっけらかんとしたものかしら。関係ができたとたんに、責任もできあがるんじゃないの。子供のままごとじゃないんだから」
「……私、責任はとってるつもりです」
「それ、あんただけの領分かなあ。この青年も悪さしたんだから、この青年はもちろん、この青年の親の領分でもあるでしょう」
 私は叫び出したくなった。かわいそうな吉永先生。女は立っていって、水屋箪笥の抽斗を引いた。
「吉永さん、お金に困ってるんじゃないの」
「困ってません。無心にきたんじゃないんです」
 ここに至って、先生もこの女はおかしいとはっきりわかったようだった。
「これ、返さなくていいから、使って。いろいろ物入りでしょう。吉永さん、自分が教師だったことをいつも忘れたらだめよ」
 そう言って支離滅裂なこの狂人は、チロッと私の顔を見た。
「先生、帰ろう」
「そうしましょう」
「あらそう。また困ったことがあったらきてちょうだい。何でも相談に乗るから。きょうはごめんなさい。有名人にえらそうな口利いちゃって。ささやかな老婆心からなのよ」
 私たちはまずいコーヒーを飲み差したきり腰を上げた。訪れてからものの十五分と経っていなかった。
「あんたも、神無月さんも、おたがい大切なときなんだから、欲望に溺れないようにね」
 女は噛んで含めるように言った。欲望と言うときの彼女の口もとが残念そうに窄(すぼ)まった。
「二人の関係は、私以外のだれにも言わないことよ。いつでも相談に乗るから」
 女は腕組みをして、心配そうに戸口の外まで送ってきた。



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