第三部


一章 中日ドラゴンズ入団





         一

 十一月三日日曜日。七時起床。晴。十二・八度。
 七時半、ジャージを着て運動靴を履く。井之頭公園へいく。標示板に井之頭池周回ランニングコース一・五キロとある。五周することにする。人はほとんどいない。七井橋のたもとから時計回りに走り出す。水門橋を渡り、反対岸へ回る。遊歩道を一直線。弁財天を右に見て曲がりこみ、ふたたび七井橋へ。これを五回。四日ぶりなので息が切れてくる。
 公園口の階段を登り、小汚い焼鳥いせやの前からふたたび走り出し、御殿山へ。
 排便、シャワー、歯磨き。このコースはコチョコチョしていて、思いついたときにスピードを乗せられないので、後日あらためて考え直そう。
 九時、カズちゃんから革張りのソファが届き、九時半には山口から角テーブルが届いた。ソファは音楽部屋に、角テーブルは居間に置いてもらった。四つの部屋の細かい片づけをし、掃除機をかけた。八坂荘のときに買った掃除機をまだ使っている。
 十時少し前、村迫代表から電話が入った。
「正午に吉祥寺のお宅にお伺いします。昨日、東大側に中退届が受理されたことを確認いたしました。きょう以降めでたく自由交渉に入れます。そちらへは、中日ドラゴンズの来季新監督就任予定の水原茂氏、球団代表のわたくし村迫晋(すすむ)、スカウト部長の榊竜二、中日スポーツの記者二名、中日新聞の記者二名、計七名、タクシー二台で参ります。この入団契約の記事はきょうの夕刊および号外等に載りますので、あすあさってあたりからしばらく身辺が騒がしくなると思いますが、他球団の関係者はじめ、諸紙関係者、ラジオテレビ記者、芸能レポーター等、門前払いをしてくださるようご尽力をお願いいたします。友人知人等で玄関を守らせるという手もありますが、留守番を置くなどして雲隠れなさるのがよかろうと思います。本人との直接対応が期待できないとわかれば、一週間ほどで騒ぎは沈静するはずです。ちなみに、この電撃契約は他球団を出し抜くことにはなりますが、違法ではございません。お気遣いは不要です」
 ―水原茂?
 巨人と東映の監督を合わせて二十年近く務めた大監督だ。幼いころテレビで観た。小柄で、頬のこけた顔が思い出された。三塁のコーチボックスに立って、静かにグランドを眺めたり、空を見上げたり、ボックス内を往復したりしていた。体内に静かな感情をたたえた、温和な雰囲気の人だった。尾崎がフライヤーズに入団した年に、彼は監督二年目で優勝した。私にとって、ゲンのいい監督になるかもしれない。
「わかりました。一週間、知人宅に雲隠れします」
「その知人宅の電話番号をお教えください」
「××の××××、高円寺の北村和子宅です。女性三人暮らしの一軒家です」
 メモを取っている間があり、
「了解しました。では正午に参ります」
 フジに電話する。事情を話し、きょうから一週間居候すると告げる。
「わかったわ。でもここ一カ所にいるのは危ないわ。ときどき女の人のところに泊まりにいきなさい。菊田さんのところもね。みんなに連絡しておくから。最初の試練よ」
 真剣な声で言った。
 風呂を立てて入る。起きがけのシャワーで洗い切れなかった髪をしっかり洗う。後ろ髪が首にかかるほど伸びている。
 風呂から上がり、紺のブレザーを着てソファに座り、ボビー・ソロを二曲聴いた。ほほにかかる涙、君に涙と微笑みを。上京してからかなりレコードが増えた。クマさんからもらったレコードを加えれば、五百枚を超えている。買い足したもののほとんどが、十歳から十五歳までに聴いたアメリカンポップスの落穂拾いだけれど、女性ジャズボーカルがちらほら加わり、日本の歌謡曲も相当な枚数になった。むかし気に入っていた島倉千代子や、フランク永井や、橋幸夫、西郷輝彦といったところはそれぞれ一枚ほどしかなく、弘田三枝子、岸洋子、伊東ゆかり、和田アキ子あたりが揃っている。この付近の住宅は塀を接していないので、耳に心地よい大きな音量で聴ける。
 受験書類を書いたときカズちゃんが注文して作ってくれた実印を用意する。必要ないかもしれない。十一時半に玄関戸を解放した。当然のことだが、新聞記者は一人もいない。すがすがしい風だけが吹いている。
 十二時少し前、垣根の門の外に二台のタクシーが到着した。門から出てボンヤリ立っている私に向かって、一台目の車の後部座席から村迫が手を振った。私はお辞儀をした。村迫につづいて、榊スカウト部長、水原監督が下りてきた。二台目からカメラやデンスケを抱えた男たち四人が降りてきた。七人全員が最敬礼する。監督は静かに歩み寄り、私の目を見つめながら手をとり、硬く握った。フラッシュが四発、五発と光る。
「大きくて、いい手だ。握力は?」
「昨年計ったときは、右七十二キロ、左五十九キロでした。いまはもう少し増えているかもしれません」
「とんでもない数字だね。先天的なものでしょう。ホームランは握力で打つものじゃないが、きみの場合握力も長打の要素の一つかもしれない。上がらせてもらいますよ」
「どうぞ」
 届いたばかりの角テーブルに七人を案内する。
「座布団はありませんが」
 村迫が、
「お気遣いなく。―八坂荘以来一年、ついにドラゴンズの念願が叶いました」
 深々と頭を下げる。四人の記者たちがテーブルの両脇に控え、私に向き合うように、水原監督、彼の左右に村迫と榊が坐った。あらためて彼らは膝を引いて端座し、私に向かって叩頭した。平伏しながら榊が、
「年来念願としてきた、神無月郷選手のわが中日ドラゴンズへの入団要請に参りました。本来、村迫が先日お電話をさしあげて以来、入団会見までの口頭および文書の契約は仮契約となりますが、今回はドラフトとの兼ね合いもあり、本日の契約を本契約とさせていただきます」
 デンスケが回り、フラッシュが連続で光る。三人がふたたび卓に着きあぐらをかいた。テーブルの上に、私に押し出すように三枚の名刺を置く。私はそれを見もしないで膝の脇に置いた。
「それでは、入団契約書にサインいただきますが、よろしいでしょうか」
「喜んで」
 水原監督が、
「この家は?」
「ファンが改築して、ただ同然で無期限に貸してくれた家です」
「かなりご年配のかたですな」
「はい。六十二歳の、この地で不動産屋をなさっている人です」
「私は今年六十歳です。そういう話を聞くとホッとしますよ。きみが年長者との相性がいい人間だとね。神無月くん、きょうはね、私、あの怪童尾崎くんを高校中退で引っ張ったときよりも興奮しておるんです。きみはおそらくベーブルースにも匹敵するホームランバッターになる。百三十試合、少なくとも王くんの五十五本は超えるだろう。七十本、いや八十本以上打つかもしれない。それで興奮しているということもあるが、ケガなく大事に使っていきたいという決意で興奮してるんです。超のつく天才の行く末には大きな不安がつきものだ。酷使されるからね。尾崎くんは入団六年目の去年の六勝を最後に、実働年数を終えてしまった感がある。今年は一勝もできなかった。そろそろ引退だろう。ピッチャーだったという不運もある。きみはバッターだ。肩や肘を壊す心配はまずない。百三十試合出ずっぱりでも、健康管理さえ怠らなければ長保ちするでしょう。それから、きみの言動を逐一振り返ってみると、東大生でありながら、小利口ではなく、性格的にも信頼できる人間だとわかる。内野ゴロでも全力疾走し、ホームランを打ったときも怠慢な走り方をしない。そうして、試合にはかならず勝とうとする。私が待望していた人間だ」
 村迫代表が、
「じゃ、監督、中野への移動もありますし、このへんで本契約のほうに」
「すまん、すまん、年をとると、どこで話をやめていいのかわからなくなる」
 高い品格の持ち主だと思った。私はおのずと監督に微笑みかけた。彼は笑わなかったが目が湿っていた。村迫が、カバンを探って、七、八十ページにわたるような分厚い書類を取り出した。
「入団契約書です。お改めください」
 表紙に《日本プロフェッショナル野球協約1968》と銘打ってある。総則とかコミッショナーとか実行委員会とか、細かく箇条書きしてある。
「読む必要はないですね。サインだけします」
 フラッシュ。榊が万年筆を取り出して私に渡した。
「字がへたなんですけど」
「いっこうにかまいません」
 最終ページに、住所・名前・印の欄が鉛筆で薄く囲んであった。書きこむ。フラッシュが激しい音を立てる。捺印する。三人と握手。記者四人が拍手する。
「ありがとうございました!」
 また三人で端座し平伏する。私は、
「これでぼくは、中日ドラゴンズの選手になったんですね」
 村迫が、
「そのとおりです! 私どもも大願成就です」
 水原監督が大きくうなずく。榊が、
「押美氏にも同席を勧めましたが、畏れ多いと断られました」
「くれぐれもよろしくお伝えください。それではきょうの写真撮影と食事会のあと、雲隠れします」
 村迫が、
「きょうの夕刊とあしたの朝刊に大々的に発表します。当然、各球団に知れわたるわけですが、これを仮契約と思って押しかけると思うんです。ドラゴンズと本契約をしたと言ってくだされば、雲隠れなんかする必要はないんですが、いちいちそう言って退去を願うというのも面倒でしょうから、雲隠れが最善策だと思います」
「一週間したら戻ってきます。それまでの連絡は高円寺の北村さんへ」
「わかりました。それでは中野の青少年会館のほうへ移動いたしましょう」
 あらかじめ伝えてあったのだろう、タクシーが大型三台に増えていた。最後尾の車に水原監督と村迫と三人で乗った。村迫は助手席に乗った。監督が、
「きみは母一人子一人だったね」
「はい」
「いろいろ話を聞きました。波乱に富んだ十九年だったね。私も幼いころに両親が離婚して、父の婿入り先についていく格好になった。そこの苗字が水原だったんだ。毎日くしゃくしゃしてね、野球しか気晴らしがなかった。高松商業から慶應に進んで、きみと同じスター選手として活躍した」
「どこを守ってたんですか」
「サードとピッチャー。スターと言っても、ピッチャーのほうでね、十三勝八敗。ホームランは一本も打ってないよ。打率も通算二割五分。客席にリンゴの芯を投げ返したリンゴ事件、知ってるだろ」
「はい」
「その後、マージャン賭博で野球部追放さ。実業団野球を経て、巨人に入った。十五年やったけど、ホームランはたった十二本、デッドボールより少なかった。打率は二割四分。戦争にもいった。シベリア抑留の試練も経験した。戻ってきてからはずっと監督業だ。巨人を八回もリーグ優勝させ、四回日本一にした。選手稼業より統率役のほうに適性があったようだ」
「いま監督のおっしゃったこと、リンゴ事件以外何一つ知りませんでした」
「中程度の山あり谷ありだ。きみの波乱万丈な野球人生は特筆物だ。比べられるような人間はこの世に一人もいないよ」
 村迫は黙って聞いていたが、
「この先、神無月くんの野球人生に、谷だけは作りたくないですね」
 とポツリと言った。監督が、
「今後は、ほぼ恒久的に、神無月くんに対するマスコミ対策が肝要だ。神無月くんは、人からチヤホヤされたり、担ぎ上げられたりすることを極端に嫌悪する体質だ。有名病の対極だよ。それが彼の自尊だ。このことをコツコツ、マスコミ人に伝えるようにしなければ」
「おっしゃるとおりです。これまでどおり顔を上げ、目つきも生きいきと、両手を大きく振りながら、幸福な男として活躍させてやりたいですね」
「ああ、それが球団の至上命令だ。よろしく頼むよ」
「はい!」
 村迫が助手席から振り向き、
「契約金のことですが、少ないと思われるでしょうが―」
「いりません。契約金の存在のことは知識として知っていますが、現実味がありません。もらっても、どうせ人にくれてやる金です。もらわなくてもいいです。規約上払わなければならないというなら、最低限の相場にしてください。給料だけいただければじゅうぶんです」
「なんということをおっしゃるんですか……。先日の電話でも申し上げましたが、そういうわけにはいかないんです。きみは何億払っても損のない選手です。六千万でも心苦しかったほどですよ」
 水原監督がギュッと私の手を握った。
「最高の人間についに出会った。ありがとう」
 私も握り返し、照れくさくなって、村迫に尋いた。
「中野では何をするんですか」
「朝日、読売、毎日、大手三紙にあらかじめ連絡してあります。その三紙と中日新聞、合わせて十人程度の記者団の簡単なインタビューを受けるだけです。質問もなるべく控えるように言ってあります。カメラが三十台ぐらい入ります。それから会館内の和食料理店で食事会。それで散会です。あしたからわれわれは、監督ともども十二日のドラフトの準備にかからねばなりません」
「ぼくのようなドラフト外の選手は?」
「もちろん、ドラゴンズでは神無月さん一人です。これからもドラゴンズはこの方法を採らないでしょう。ふつうドラフト外というのは、ドラフトにノミネートされても指名がかからなかったプロ志望選手を拾う方法で、一種の救済策ですから、この方法自体、諸方から非難を浴びることはないんですが、今回はプロ志望も表明していない、しかも異常な時期に中退した選手と電撃契約するというもので、ドラフト外とは正式に呼べない〈自由交渉〉という窮余の一策を用いたことになります。しばらく世間からの非難は免れないでしょうが、違法性はまったくございません」
 榊が、
「中退はふつう、年度終わりの三月か四月ですからね。この時期の中退、本契約には、各球団、腰を抜かすでしょう」
 水原監督が、
「私もそんな場に進んで赴いたということで、しばらく非難囂々ですよ。そんなもの、蜂に刺されたほどの痛みでもない。きみを採るためなら、腕一本でもくれてやる」
 今度も私は彼に微笑みかけたが、やはり水原監督は笑わずに口を引き結んだ。


         二

 二時。勤労青少年会館の大広間に私が入場していくと盛んな拍手が上がった。記者団やテレビカメラがギッシリ詰めている。突き当たりの壁沿いに三つ並べ合わせた長テーブルにマイクが数本用意してあった。尋常でない数のストロボやフラッシュが焚かれ、何台ものビデオカメラが回った。
 私を中心に、右に水原監督と村迫球団代表、左に榊スカウト部長と白井文吾中日新聞社社長が座った。記者の数は十人ではなく、五十人くらいだった。折畳み椅子がガタガタ鳴り、進行役の男に紹介されて村迫がしゃべりはじめた。
「本日はわざわざ多くのマスコミ関係のかたがたにお集まりいただき、まことにありがとうございます。神無月くんの神経が疲労しないよう、てっとり早く会を進行させていただきます」
 好意的な笑いが湧いた。
「本日、吉祥寺御殿山神無月郷宅でつつがなく、神無月郷中日ドラゴンズ入団の本契約を完了いたしました。契約金六千万円、年棒三千六百万円、契約金に関しては歴代プロ野球選手ナンバーワンであります。年棒にしても、神無月くんにはそれに数倍する価値がありますが、他球団を牽制する意味での契約金高であり、三千六百万という金額もこの先の昇給を見こんでの決定であります。いずれ年棒数億円プレーヤーになることは確実です。キャンプには二月の一日(いっぴ)から参加していただき、ケガのないかぎり、四月の開幕には一軍登録選手として出場していただくことになります。なお、数カ月五番を打っていただき、その後江藤選手に代わって四番を打ってもらう予定でおりますが、オープン戦の成績しだいでは変更があることも大いに考えられます」
「開幕から四番を打つということですか」
「そのとおりです。背番号は8。これまで8番をつけていた江藤選手は9番に変更し、9番をつけていた菱川選手は10番に変更いたします。もちろん本人の了解を取りつけてあります。以上」
「では、中日新聞社取締役社長白井文吾氏からひとこと」
 右端の半白頭の男がマイクを手に立ち上がった。
「中日新聞の白井でございます。数年以前よりわが中日ドラゴンズ球団は、野球神の降臨と讃えられている神無月郷選手十九歳の動向を暗々裡に見守ってまいりましたが、十月二十八日、本人の意思による東京大学中退の事実を情報筋より入手、確認し、つづいて、神無月選手と親交の深い東大野球部監督鈴下氏より、本人にドラゴンズ入団の意思ありと知らされ、三十一日ついに入団交渉に乗り出し、まず電話による本人の言質にて仮契約をいたし、本日午前、本人自宅にて入団本契約まで漕ぎつけることができました。いや、漕ぎつけたと申し上げたのは、球団の労多しと誤解される過言(かごん)でありました。ひとえに、きょうの入団契約は、神無月選手本人の十年にわたるドラゴンズへのラブコールの賜物です。じつのところ私どもは、入団交渉にさほどの苦労もしていないのであります。彼は小学生のとき、中日球場の外野スタンドで森徹のホームランボールを素手で捕球した瞬間、わが中日ドラゴンズでプレーすることを心に誓ってくださったのです。中日ドラゴンズにとってまさに僥倖中の僥倖であったと申さざるを得ません。森徹の件は、本人からではなく、元中商スカウトの押美氏より仄聞(そくぶん)いたしました。彼は、神無月選手が小学校六年生のときから八年間にわたり、不遇でありつづけた同くんを陰に陽に絶えず励ましてきたかたです。さて、神無月くんの希望は、驚くことに、ドラゴンズに入団したあかつき、中日球場で一本でも多くホームランを打つこと以外にございませんでした。一軍ベンチ入りとか、レギュラー獲得とか、まだるっこい途中過程を眼中に置かない天真であります。まさに降臨した天馬と言えるでしょう。われわれは天馬の天真を裏切らず、その羽ばたきを球団あげて見守りたいと思っております。ファンのみなさまも、空高い天馬の飛翔を期待し、天馬とともに天(あま)翔ける夢を見ていただきたいと思います。以上ご挨拶とさせていただきます」
「では、今年度末より監督就任が決定している水原茂氏よりひとこといただきます」
 水原監督が立ち上がった。
「きたる十二月の正式会見以前にこの場に臨席できたことを光栄に思っております。神無月郷くんはかならずや、中日ドラゴンズばかりでなく、プロ野球界を担う大黒柱になります。とんでもない一年を私もみなさんも目撃することになります。逸材と呼ぶのもおこがましい、別次元の大天才です。彼は一年間ホームランを打ちつづけます。どうか声を嗄らさぬよう、一年間応援のほどよろしくお願いいたします。加えて、彼は球界の異物とみなされることは必定ですので、諸方からの批判もかしましくなるでしょうが、まんがいちそれがもとで、繊細な彼に精神的なスランプが訪れたときには、温かい気持ちで激励してやってください。以上です」
 榊は発言しなかった。進行役が、
「記者団のかたがた、ご質問があったら手短にどうぞ」
 と声高に言った。ハイ、ハイ、と手が挙がり、新聞社やテレビ局の名前を告げてから、順に質問していった。
「神無月選手、いまのお気持ちは」
「野球人生最大の区切りがつきました。小学四年の秋、DSボールを三階校舎の屋根まで飛ばしたその向こうに、きょうの日がありました。感激です」
「中日ドラゴンズにどんな印象を持っていますか」
「印象はありません。あこがれのみです。中日ドラゴンズに入団することで長い夢が終わり、二月のキャンプからひたすらホームランを打ちつづける現実が始まります」
「どんな選手になりたいですか」
「三冠王、ホームラン八十本、打点二百五十、打率五割」
 オオー! と会場がどよめく。
「プロ野球界に尊敬する選手は?」
「サンフランシスコ・ジャイアンツのマッコビー、大毎オリオンズの山内一弘、東映フライヤーズの尾崎行雄。すべてぼくの心の神棚に飾るべき人で、ライバルではありません」
「山内一弘選手は三十九年に阪神に移り、来期は広島に移ることが決まっています。大毎オリオンズは現在存在せず、東京オリオンズになっています。天上翔けて遊んでおられたあいだに、下界のプロ野球も様変わりしましたよ」
 大きな笑いが起こり、私は頭を掻いた。
「対戦したいピッチャーは」
「自分にとって打つのが難しいと思われるピッチャーです。尾崎選手と杉浦選手と江夏選手と金田選手。この四人とはぜひ対戦したいです」
「名将水原監督を目の前にしたご感想は」
「温かく、静かで、誠実な勇者。それはこれまでかつて観たテレビの印象であって、きょうお会いした水原監督のたたずまいには、文字通り偉人の気風がありました。一年じゅう叱られる気がします。ぼくは父のない子ですので、父親として甘えたいという気もあります」
 オオー! とふたたびどよめく。
「得意不得意のコースや球種は? もし発表してよいものならお教えください」
「不得意コースはありません。最も得意なコースは内角低目です。落ちる球は不得意ですから手を焼きます。打席の中で対策を思いつかないときは凡打に甘んじます。速球は得意です」
「一月中旬からの合同自主トレ、および来年度の秋季キャンプには参加しますか」
「二月のキャンプ以外、トレーニングには参加しません。その分が年棒に入っているなら、引いてもらいます。十一月から一月までの三カ月は自主トレを兼ねた休息の期間と考えていますので、休暇をとらせていただきます。特殊な会合にはけっして参加しません。オープン戦はもちろん参加します。この最低ラインを拒否なさるなら、たとえ参加しても、過剰な練習を極力拒否する姿勢を保ちつづけようと思っています」
 会場がざわざわした。榊が、
「きょうはそのへんにしておいてください。神無月くんの過剰練習に対する持論が展開されそうな気がしますので」
 ドッと沸いた。テーブルの全員が立ち上がったので、私も立ち上がった。笑顔を求められる。パシャパシャとかぎりなくフラッシュが光る。これが村迫の言っていた記念写真のようだ。
 記者たちがすみやかに引き上げていく。私たち五人は、廊下を黙々と歩いて、館内の会席料理店の座敷に入った。紫檀の角テーブルに、鈴下監督、西樹助監督、仁部長、岡島副部長が控えていた。互いに挨拶し合う。監督以下四人が低頭し、鈴下が代表して言った。
「名将水原監督にお会いできて光栄です。神無月くんから常々、ドラゴンズに入団したいという心中を聞かされてきましたので、こうしてようやく契約が成就し、心底安堵いたしました。あっけらかんとしておりますが、ここまでくるのは、金太郎さんにとって、いや神無月くんにとって、長く曲折した道のりだったんです。まことに、今回の中日ドラゴンズさんの時宜を得た即断、慣行を振り捨てての尽力、感謝に耐えません。心よりお礼を申し上げます。神無月郷は天馬でもあり、天使でもある男です。ある種、神がかりの人間と言っていいので、かなり扱いづらいところもあるでしょうが、それも愛嬌と考え、かわいがってやってください。かならずドラゴンズに貢献する男です。四月より七カ月間ともにすごし、とつぜんこうして別れてみると、異常な野球能力よりもその人品骨柄がなつかしくて、さびしさにいたたまれなくなります。じつにいとしい人間です。バトンタッチいたします。どうか爾今(じこん)、面倒見のほどよろしくお願いいたします」
 ビールと料理が次々と運ばれてくる。村迫が、
「球場で何度も聞きましたよ。金太郎さん、金太郎とね。プロ野球界でも、すぐにそう呼ばれるようになるでしょう。実際、よろしくお願いされたいのはこちらです。ドラゴンズ三十二年の歴史上、初めて降臨した野球神ですからね。ドラゴンズにもし何百年の歴史があるなら、その何百年に一度の幸運です」
「ま、ま、箸を動かしてください」
 榊は、酌を辞退した私以外の全員のコップにビールをついだ。仁部長が、
「先ほど会見をじっくり聞いておりました。神無月くんにとっては、あれで最大の譲歩なんです。これほどの天才にとって、合同トレーニングは無益だと肌で判断しているんです。彼が要求した十一月からの三カ月の休養期間にしても、彼はその間たゆまず、自分なりに理に適ったハードな自主訓練をするはずです。その成果は春のキャンプを見ていただければわかります。練習嫌いの風評は根も葉もないデマで、彼ほど練習好きの選手はおりません。不定期の烏合を嫌うんです。東大でも、春季キャンプに参加しませんでした。そういう約束だったからです。ふだんの練習にも出なくていいという約束でしたが、彼は週に少なくとも三日は出てきて、孤独に黙々と自主トレをしておりました。そのトレーニングたるや、バッティング練習も、守備練習も、走りこみも、ランニングも、ウェイトも、人の何倍もやるんですよ。一週間ぶっ通しで練習しているチームメイトより、はるかに筋力や持久力を保っておりました」
 料理をつついていた白井社主が、水原監督とうなずき合いながら、
「あらかじめ承知しております。むろんドラゴンズ側としても特別待遇を考えておりました。春季キャンプとオープン戦ならびに公式戦に出てもらうだけでじゅうぶんです。二月いっぱいのキャンプは、四勤三休です。月水金の三休は完全休日です。家族を呼び寄せる選手も多いです。三月のオープン戦は十五試合前後。二週間ほどの休みのあと、公式戦に入ります。それらにケガなく出場していただければ万々歳で、それ以上申し上げることはございません」
 水原監督がグラスを傾け、
「学生とちがって社会人はヤッカミが強いんだ。よく練習するやつの人格がいいとはかぎらないからね。神無月くんは私のことを父親とまで言ってくれた。父親である以上、どんなつまらない迫害からも護ってやるつもりだ。長嶋は単独の自主トレが大好きだった。伊豆のヤマゴモリって有名だろう? 金太郎さんとよく似ている。彼も合同自主トレには参加しなかった。キャンプでは人の二倍も三倍も練習していた。きょうから金太郎さんと呼ばせてもらうぞ」
「はい、うれしいです」
 村迫が、
「まあ、みなさん食べながら話しましょう」
 いっせいに箸が動きはじめる。水原監督が、
「愛されていたんだね、チームメイトに。金太郎さんには、におい立つような円満な性格が窺われるからね。東大のスタッフのかたがた、ご安心ください。きっちりバトンは受け取りましたよ」
 和やかな歓談になった。私は、めしのない皿料理を所在なくつついた。榊が、
「東京の家は確保できたとしても、名古屋では、ドラゴンズの寮に入らなくちゃいけないね」
「名古屋駅の西口に、二月か三月から、これもファンのかたが家を提供してくれることになっています。そこからかようのはまずいですか」
「まったくまずくありませんよ。寮費もかからないし、そのほうが経済的です。しかしファン層がひろいですね。それはファンのかたの寄付ですか」
「はい、素封家のご夫婦です。中学時代からぼくを応援してくれている野球狂です。高円寺の北村和子さんのご両親で、みずからタニマチと言っています。ぼくが青森へ流されて以来、同情してこまごまと世話を焼いてくれています」
 鈴下たちは聞かないふりをして、ビールをつぎ合っている。私の女性関係は彼らの勘に響いているにちがいない。水原監督が、
「高円寺の北村さんはじめ、お三かたというのは―」
「北村さんと、彼女と仲のいい友人の兵藤さんと、東大野球部のマネージャーの鈴木睦子さんの友人で名古屋大学受験生の木谷さん、その三人がぼくのファンという絆のもとに暮らしています。北村さんと兵藤さんはきちんと仕事を持っています。彼女たちを統率しているのが、名古屋の北村夫婦と思ってくださればまちがいありません。彼女たちも来年には名古屋にもどります」
「兵藤さんはもともと名古屋のかたなんですか」
「そうです。木谷さんは、鈴木睦子さんとともに青森高校の同級生で、野球部のマネージャーでした」
 説明というのは面倒なものだ。西樹助監督が、
「神無月くんの賛助者には女性が多いですからね。もちろんご母堂は例外ですが。信じがたいでしょうが、いま名前の出た東大野球部のマネージャーである鈴木睦子くんも、今年度で中退して名古屋大学を受験することになっています。中退届もすでに提出しています。賛助というよりは、惚れこんだうえの献身ですな」


         三

 村迫代表が、
「それにしても、お母さんという堅牢な牙城が切り崩せたのは幸いでした。親の同意がないかぎり、未成年のプロ勧誘はできないことになっております。お母さんに関しては、間接的な方法しかスムーズにいかないと鈴下さんに言われましてね」
 私は鈴下監督に、
「回りくどいことをさせてしまって申しわけありません。母はむかしから、権威ある立場の人の言うことしか聞かないんですよ。中商が私立だというだけで、押美スカウトを二度も三度も追い返した人ですから」
「飛島建設の大沼所長という、東大出の権威あるおかたがお母さんを説得してくれました。たとえ東大中退でも球団の上層部に残れるのかというお母さんの質問に対して、大沼所長は独断で〈残れる〉と明言して押し切ったそうです。契約金のほうは、二十九パーセントの税金を引いて、四千二百六十万円のうち、半額の二千百三十万円をお母さんの口座に振りこむことを大沼さんというかたを通して伝えました。残りの半額をお祖父さんお祖母さんにしっかり手渡すために、球団上級職員が小切手を携えて野辺地に向かうことになっております。なお、年俸は同税率によって、手取り二千五百五十六万円を十二回に分割して、来年一月より毎月二百十三万円をお支払いさせていただきます」
 白井社長が、
「契約金すべてを親族にくれてやるとは、思い切ったことをしますなあ。お母さんにはたいへんな迫害を受けてきたわけでしょう? 私なら、涙金しかあげませんよ」
「祖父母には恩返し、母には縁切りのつもりです。世間並の親子の美談はぼくに関してはいっさい当てはまりませんから、きょう以降、親子の親睦話は馬耳東風にいたします」
「まあ、そういう気持ちになるのも当然だが、プロ野球選手の九十九パーセントは親孝行ですよ。そういう人たちとうまくいくか心配ですな」
 水原監督が、
「何ということもないでしょう。プロ野球選手は才能にひれ伏します。親不孝だろうが親孝行だろうが関係ない。……私は親不孝だった。不思議なことに、親不孝な人間はわがままじゃない。精神的に禁欲をモットーとした生活を送るものです」
 鈴下監督が、
「金太郎さんの精神的な禁欲は太鼓判を押しますが、肉体面は保証のかぎりじゃないですよ。と申しましても、彼がチームに迷惑をかけたことは一度もありませんが」
 水原監督は初めて笑い、
「若者にとって悩ましい問題だが、私の基本は解禁ですな。女性が頻繁に電話をかけてきたり、宿泊所に押しかけたり、選手自身が練習やゲームの集合時間に遅れたりして、チームの統一に支障をきたさないかぎり、そうした面に口を出すことはありません。金太郎さんほどの玲々躍如たる美男子になると、ファンは騒ぎ、取り巻きも多くなると思うが、そこは自戒して撥ねつけないとね」
「はい。ぼくはがんらいその種の瞬発力は希薄です。一ときの取り巻きに目がいかないんですよ。男であれ女であれ、時間をかけてぼくに目をかけ、歴史を作り上げてくれた人にしか関心を抱かない。必然的に、かぎられた人びとになります。その人びとに対しては友情乞食、愛情乞食ですけどね。スキャンダルを起こせない体質です」
 村迫が、
「たしかに、一度もそういう記事を見たことはなかったですね。しかし、実質的に皆無ということはないんでしょう?」
「はい、適当にやっています。歴史ある人びとと」
 白井社長が豪快に笑った。
「そこいらへんをつつくと藪蛇になるぞ。われわれにも〈歴史ある〉人びとは数えられないほどいるだろう」
 東大四人衆まで、みんな頭を掻いて笑った。榊が、
「私の場合、数えるほどですけどね。神無月くんにそういうなつかしい歴史をタネに話し合える仲間がいるといいんですが。入団するとすぐ、ほとんどの新人たちは、どういう車を買うか、肉のうまい店はどこかなんてことを話題にします。神無月くんの古色豊かな話しぶりに付き合えるかどうか」
 鈴下監督が、
「ほら、金太郎さんのことを心配しはじめたでしょう。年じゅうそうなりますよ」
 榊は首をさすり、
「たしかにそうですね。まあ、新人選手なんてのは、思わぬ大金を手にして、バクチ打ちになったみたいな気分になってるんですよ。そういうやつらは、自分の持っているものを失うだけならまだしも、持っていないものまで失くすというのも大してめずらしいことじゃありません」
「借金してまで身を持ち崩すというやつですね」
「そのとおりです」
 水原監督が、
「金太郎さんのように、金銭に興味のない奇特な若者もいてくれないと、われわれも殺伐とした気持ちになるよ。才能も人間性も特級の新人を見つけるなんて骨だぞ」
 村迫が、
「どうのこうの言っても、成功は人品に比例しますからね」
 写真屋ふうの男が黒布に包んだカメラと脚立を持って現れた。これが記念写真だったのだ。男の指示で私たちは水原監督を中心に居並んだ。監督の右隣に私、左隣に白井社主が坐った。背後に村迫代表を中心に、鈴下監督以下四人と榊部長が立った。涼しいシャッター音がした。村迫が、
「ドラゴンズ会報用の写真です。みなさんには後日お送りします。あ、白井社長、そろそろ社へ戻る時間です。それじゃ、榊くん、ドラフトの準備に帰ろうか。忙しくなるぞ」
「はい」
 私の皿にはほとんど箸がつけられていなかった。食欲どころではなかったのだ。鈴下監督が、
「われわれもグランドに戻ろう。新人戦で惨敗でもしたら、金太郎さんに申し訳ないからな」
 白井社長が、
「金太郎さん、シーズンが落ち着いたら、水原監督といっしょに一度うちに遊びにきたまえ。女房の手料理を食べさせてあげます。名人だぞ。なあ、村迫くん」
「はあ、プロ級です。特に中華は絶品です。ではあらためて、東大スタッフのかたがた、きょうは貴重な時間を割いていただき、まことにありがとうございました。おかげさまで無事入団契約および入団発表を終えることができました。ヨダレが垂れるほどほしかったボタモチが棚から落ちてくるのと同時に、水原茂という球界ナンバーワンの大監督をその受け皿としてつつがなく招聘できたという按配で、社主ともども手の舞い足の踏むところを知らず、ただただ喜ぶ以外に為すすべがないというありさまです。水原監督、神無月選手、今後ともなにとぞ中日ドラゴンズのためにご尽力ください」
 村迫はしっかり二つの手を握った。白井社長と榊も鈴下監督たちといっしょに手を重ねた。それから中日ドラゴンズの四人の首脳陣は膝を畳み、深々と辞儀をした。私たちも倣って辞儀を返した。村迫が、
「十二月十五日の正式な入団発表会は、中区の名古屋観光ホテルの中宴会場にて、正十二時からです。前日から同ホテルに宿泊してくださってもかまいません。前日に新人希望者のみ、同ホテル五階のジムにて体力測定を行ないます。握力、跳躍力、反応速度などを測定しますが、あくまで自由参加です。じゃ、玄関までお送りします。タクシーを二台用意してございます。鈴下監督、西樹助監督、仁部長、岡島副部長四かたには、いずれ後楽園球場の年間優待証を送らせていただきます。また、神無月くんとお約束したとおり、飛島建設寮にも中日球場の年間優待証を五人あて送付させていただきます。本日はまことにありがとうございました」
 三人に送られて会館の玄関に出た。鈴下監督が、
「金太郎さん、東京遠征のときは、可能なかぎり東大グランドに姿を見せてくださいよ。きみが置いていったユニフォーム一式とスパイクとバットは、いつまでもあのロッカーに入れておきますからね。あのロッカーは8と表札をつけて〈永久欠番〉にしました」
 仁が、
「プロ野球での大活躍を祈っています。東大も〈またふたたびの夢〉を見られるようがんばるからね。遠くで見守っていてください」
 岡島が、
「もう一度、笑顔と手の感触を記憶させてください」
 固い握手を交わした。西樹は何も言わず静かに私を抱き締めた。
 彼らが乗りこんだ二台のタクシーに向かって、残された私たちは頭を下げた。私一人のためにもう一台タクシーが呼ばれ、ぎこちなく後部席に乗った私に、水原監督と村迫と榊スカウト部長と白井社主が角張った辞儀をした。私は窓越しに深く頭を下げた。そしてそのタクシーで高円寺へ向かった。
         †
「あした、たぶん、すべての新聞にきょうのことが載るよ。何が何だかよくわからないうちに終わってしまった。契約金はしっかり二つに分けて手続してもらった。交わされたすべての話が大げさで、自分のことでないようだった。なんだかきょうから、ホームランが一本も打てそうもないような気がしてきた」
 素子が、
「わかるゥ! 実感はないけど、わかる」
 千佳子が、
「入団交渉の実態って、どういうものなんですか。ほんとにいろんな条件なんか話し合うんですか」
「ぼくの交渉の仕方は、いままでにない特殊なものだから、説明のしようがないんだ。ドラフトの選考会で指名されなかった選手は球団が直接交渉できるけど、ドラフト拒否のぼくがどうやって〈交渉された〉のか見当もつかない。自由交渉と言うらしい。あした以降吉祥寺に各球団が攻勢をかけてくる可能性があるんだって。仮契約と誤解してやってくるそうなんだけど、そのときにぼくの立場が苦しいものにならないように、ドラゴンズ側は本契約を結んでくれた。結局、小難しいことはよくわからないけど、とにかく中日ドラゴンズの選手になれたことは確かだ」
「契約書に名前を書いて、判子を捺したんですか」
「うん。七、八十ページもあったから、中身は読まなかった」
 千佳子が、
「だいじょうぶでしょうか? 弁護士まで立ち合わせる人もいるそうですけど。あとで厄介な―」
 カズちゃんが、
「いいの、いいの、プロ野球の球団は悪徳金融業者じゃないんだから。借金の保証人になったわけでもないし。長いあいだキョウちゃんをほしがってきた、キョウちゃんも入りたがってきた球団が、キョウちゃんをどん底に突き落とすようなことはしないわよ」
「それもそうですね」
 私はコーヒーをすすりながら、
「カズちゃん、クリーニングから戻ってきたユニフォーム二着と、アンダーシャツ類とストッキング、それに帽子は、記念だから北村家のほうに送っといて。スパイクとバットとグローブは、二月のキャンプの練習用に持ってくから残しといてね」
「ぜんぶ送らずにここに置いとけばいいんじゃない? どうせもう使わないものだし、キョウちゃんが名古屋へいくときに追っつけまとめて送るから」
「そうか、たしかにそうだね。名古屋に送られてきたドラゴンズのユニフォームを持ってキャンプに出かけるわけだしね。この一週間は素振りのためのバット一本でいいや。一キロのダンベルもあるし、オッケー。それから、一週間いろいろ渡り歩くのやめるよ。トレーニングに響くし、十日のソフトボール大会もある」
「ほんとだ。でも、できるだけ、一人でも多く回ってきなさい。一つところにいるとぜったい危ないから」
 素子が、
「一週間ぐらいトレーニングせんでもだいじょうぶやよ。積み重ねたものがちがうもん」
「そうはいかないよ」
 夕食は、私の入団祝いと素子の合格祝いも兼ねて、豪華なすき焼きになった。ビールで乾杯。
「キョウちゃん、中日ドラゴンズ入団おめでとう!」
「サンキュー!」
「素ちゃん、合格おめでとう!」
「ありがとう。簡単に受かるって言ったやん」
「試験はどんなものも簡単じゃないよ。真剣にコツコツやったからだ。勉強をしてるときの素子は、いい顔してた」
 素子が、
「キョウちゃんも横になって本を読んどるとき、ええ顔しとるよ。初めて大門で遇った夜、ボンヤリ暗そうな顔をして道を歩いとったやん? あれって、もう青森で北の怪物と言われるようになったあとやったんよね。野球のヤの字も言わんかった。なんで?」
「ぼくはね、日々新しく、一瞬一瞬、あきらめたり、希望を持ったりするタチなんだ。たとえば、押美スカウトが西松の飯場から去っていく背中を見たとき、ああこれで野球人生が終わったとあきらめ、青高のグランドに野球をやりたいと告げにいったとき、ああまた野球ができると希望を持つ。青高で最後の野球が終わった日に、ああもう野球はできないとあきらめ、東大で最初のバッターボックスに立つと、ああこれからは野球をやっていけるんだと希望を持つ。常に目先のことに心が浮き沈みして、遠大なことを考えられない」
 カズちゃんが、
「村迫さんが連絡してきたとき、ああこれでプロにいけると希望を持った……」
「そのとおり」
 千佳子が、
「野球さえできれば契約書なんかどうでもいいってことがよくわかりました。東大が優勝して中退届を出したときも、ああもう野球ができなくなるってあきらめたんじゃないんですか?」
「そのとおり」
 素子が目を細めて私を見つめ、
「深いなあ……」
「深くものを考えてるならね。でも考えてない。ただの動物だよ。犬取りにやられて収容所に入れられてたときのシロだ。コンクリートの檻の片隅に寝そべって、ボンヤリあきらめてた。思い出すと涙が出てくる。ぼくが動いたり、しゃべったりするのを見て、みんなが涙を流すのも同じ気持ちだろうね。ほら、みんな泣いてる。ぼくは、希望を持って跳ね回ってるときは、みんなの心が明るく満たされる存在だけど、ボンヤリあきらめてるときは泣きたくなる存在。……いつまでも野球をやってようと思う」
 カズちゃんが、
「いまのキョウちゃんはぜんぜんあきらめてないのに、それどころか希望に燃えてるのに、私たちが泣いたのはなぜかしら。みんなキョウちゃんの感情の動きで泣いてるんじゃないからよ。キョウちゃんの言葉と存在そのものに泣いてるの」
 素子が、
「ほうよ、泣きたくなるんよ。バッターボックスに立ってるのを見て泣いたこともあったし、自転車牽いて暗い顔で歩いてるときも、胸がグッとなった」
「オッケー、もう食べていいわよ。千佳子さん、ドンドンお肉入れてって。素ちゃん、ときどき野菜を切ってちょうだいね」
「アイアイサー」
 賑やかに箸が動きはじめた。


         四

 翌日の朝早く千佳子が駅前に出かけて、五、六紙一般紙を買ってきた。スポーツ新聞は中日スポーツだけ。
「うわあ、どの新聞も神無月くんのことばっかり。かっこいい! 神無月くんの髪、ビートルズみたい」
 カズちゃんが中日スポーツを熱心に覗きこんでいる。みんなで顔を寄せ合う。
 
   
神無月中日ドラゴンズと電撃契約!
               
東大中退後一週間自由交渉で
 十一月十二日のドラフト会議に先立って、三日、白井文吾中日新聞社主(40)、村迫晋中日ドラゴンズ球団代表(44)および諸紙関係者立会いのもと、中日ドラゴンズは東京大学野球部の神無月郷外野手(教養学部一年・19)と本契約を結んだことを発表した。神無月選手が名古屋西高等学校二年時より三年間にわたって、中日ドラゴンズとの直接交渉を望んできたことは、彼が東大に進学した事情と併せて知る人ぞ知る事実である。
 入学後、神無月選手は東京六大学野球に東大旋風を捲き起こし、みずから壮絶な記録を打ち立てるとともに、弱小東大を優勝にまで導いた。これを機に所期の目的を遂げるべく、自由交渉で中日ドラゴンズと契約したいと考え、去る十月二十八日に東大側に中退届を提出した。ドラフトにかかった場合の抽選漏れを恐れてのことである。神無月選手は高校時よりドラフト拒否を表明していたため、東大中退しかつ東大野球部を退部した時点であらゆる野球規約上の拘束から自由の身となり、本人さえ望めば、あらゆる球団と契約交渉が可能となった。来年十一月のドラフトにかかるまでの一年間をむだにしたくないという神無月選手の思いを受け入れ、中日ドラゴンズ側は監督就任直前の水原茂氏(60)以下首脳陣をともない、ある意味各球団を出し抜いて、積極的に契約に乗り出した。
 この強攻策にマスコミの批判が集中しているが、両者の一連の行動には何ら野球協約に抵触するものはない。中日側の対応が異様に早かったために、諸球団のヤッカミを買っているというのが実情である。神無月選手は幼少期より入団を懇望してきた中日ドラゴンズに向けて、東大を中退して誠心を表すというだれもが唖然とする愛のコールを送った。これに応えた中日ドラゴンズの疾風のごとき対応に対して、非難に値する要素は微塵もない。


 みんなめいめい一般紙をめくっていく。私も渡されては見る。どの新聞も概ね、好意的な書き方をしていた。毎日新聞の見出しは、

 
遥かなる天馬の呼び声

 だった。
「キョウちゃん、吉祥寺の家、カギ閉めてきた?」
「閉めてない」
「きょうあたりはまだだいじょうぶだと思うけど、フジの帰りに閉めてきてあげる。どこかの球団に上がりこまれたらたいへんだから。きょうはどこへ回るの」
「予定はないけど、いくなら菊田トシさん」
「昼間はお仕事でしょ」
「みんなそうだよ。自分の店持ってるのトシさんだけだから、客の応対の合間に話ができる。そのまま日が暮れたら泊まって、翌日、また考えればいい。昼間が空いたら映画でも見るさ。雲隠れには最適だ」
「試練やなあ。一週間も必要なん?」
「村迫さんの言うとおりにしたほうがいいわ。何十年もこういうことを経験してきた人だから。十日のソフトボール大会の前の晩に帰ればいいんじゃない? いついってもいいように、みんなに電話しといてあげる」
「次にどこに廻るかわからないから、電話しないで」
 ハムエッグ、キャベツの油炒め、辛子ナス、豚汁。私だけに作られたかなりの量の朝食をしっかり食べる。
「これ、菊田さんに持っていってあげて」
 写真のいちばん大きいスポーツ紙を手渡す。下駄を履く。
「じゃ、三人とも、勉強おさおさ怠りなく。いってきまーす」
「いってらっしゃーい!」
 電車に乗ってトシさんの不動産屋へ出かけていく。
 むかし電車に乗るとかならず考えたことがあった。きょうもあしたも、この電車、この窓のぼんやりとした景色。いまは? 少しだけピントが合ってきた。
 不動産屋の戸を開ける。
「あら、キョウちゃん、おいでなさい。また親切にきてくれたんですね。ドラゴンズ入団おめでとうございます。国民的英雄の旅立ちですね。あと二時間ぐらいお仕事よ。この鍵持ってお家にいっててちょうだい。夜はお祝いのお寿司とりましょう」
「赤貝、トリガイ、アオヤギをたくさんね。これきのうの入団契約の写真。持っていて」
「わあ、ほんとに、プロ野球選手になったのね!」
「うん。そもそも運まかせの人生だから、いざ幸運が手近なところにきたら、ときを移さずつかまえなくちゃいけないんだ」
「また奥ゆかしいこと言って。運じゃないでしょう」
「ぼくの場合は、すべて運。十二月十五日に名古屋で入団発表。二月一日から南の国でキャンプ。三月いっぱいオープン戦。四月から十月まで公式戦。十一、十二、一月は強引に休みをもらった。そのときも逢えるし、東京遠征も四十日くらいあるから」
「ほとんど名古屋ですね」
「うん、六十日から七十日。あとは広島、兵庫、その他いろいろ合わせて二十日ぐらい」
 白いシャツに赤のセーターを着、膝下までの紺のタイトスカートを穿いた姿が若々しい。鍵を受け取り、客がいないのを幸い、素早く唇にキスをする。トシさんは照れ笑いしながらうつむき、
「通りがかりのお客さんに覗かれちゃいます」
 新居に様子伺いにきたときとはまったく別の言葉遣いだ。
「トシさんの家に小説本ある?」
「海音寺潮五郎ならほとんど。いまやってるNHKの天と地と。だいぶ前の小説よ」
「じゃ、それを読んで時間つぶしてる」
 乾いた舗道に風がある。十一月なのに温かい風だ。北口商店街出口の信号を渡り、アーケードの切れ目から小路へ曲がる。ことぶき通り商店街という看板がかかっている。きょうまでこの看板に気づかなかった。排気ガスの少ない空気を呼吸しながら歩く。煙草屋の角を左折。キチキチの通りへ曲がりこむ。なないろこみち、と電柱に小さな看板を針金で巻いてある。茶ばんだ家ばかりで七色ではない。
 トシさんの家の庭に入る。生垣に鮮やかな色彩が踊っている。玄関の鍵を開け、土間に入る。下足台に置いた一輪挿しに、濃い紫のアネモネが一茎活けてある。廊下から明るい八畳の和室に入る。一帖幅に切れこんだ空間に掛軸が二本垂れている。どちらも菊の墨絵だ。切れこんでいないほうは、押入になっている。大テーブル。テレビ。隣の六畳に大箪笥二棹と書棚があった。時代小説がほとんどで、上二段に海音寺潮五郎の小説が埋まっていた。ぜんぶ厚手の本なので食指が動かない。書棚を見下ろしていくと、伊良子清白という見知らぬ名前にいき当たった。孔雀船。これも聞いたことがない。開いてみると詩集だった。

  故郷の山に眠れる母の霊に

 もうこれでだめだ。読むのを逡巡する。えいやと進む。

 つまらなく年老いてしまった私の光のない作品をだれか読んでくれる人があるか。

 問いかける序文もありきたりだ。肝心の詩は?

  月に沈める白菊の
  秋冷(すさ)まじき影を見て
  千曲少女(おとめ)のたましひの
  ぬけかいでたるここちせる

  佐久の平の片ほとり
  あきわの里に霜やおく
  酒うる家のさざめきに
  まじる夕の雁の声


 自分なりにわかりやすく言い換えてみる。そうでなければ意味がわからない。秋の夜に月光に映し出されている白菊の影が冷えびえとしているのを見て、千曲の少女の魂が白菊から抜け出たような感じがする。佐久の平野の片田舎、あきわ(?)の人里の夜気が、霜が降るほど冷えこんできて、飲み屋が賑わっている。その声にまぎれるように夜雁の声が降ってくる。
 ひどい。中身が希薄すぎる。しかも、どこまでいっても七五調だ。七五調に詠うことで何かのメッセージが強調されるのか。ページを繰りつづける。あとがきへ一直線。京都府立医大卒。東京日赤勤務。日赤? 二十九歳孔雀船刊行。年老いてしまったというのは韜晦だな。三重の鳥羽で開業。安乗(あのり)の稚児が傑作と書いてある。それを目次で調べて読んでみる。

  志摩の果て 安乗の小村
  はやて風 岩をどよもし
  柳道 木々を根こじて
  み空飛ぶ ちぎれの細葉

  水底の 泥を逆上げ
  かき濁す 海のいたづき
  そそり立つ 波の大鋸(のこ)
  過(よ)げとこそ 船をまつらめ(ここの意味がわからない)

  とある家に 飯蒸(いひむせ)かへり
  男もあらず 女も出で行きて
  稚児ひとり 小籠に坐り
  ほほえみて 海に向かへり

  荒壁の小家ひと村
  こだまする 心と心
  稚児ひとり 恐れを知らず
  ほほえみて 海に向かへり

  いみじくも 貴き景色
  今もなほ 胸にぞ躍る
  若くして 人と行きたる
  志摩の果て 安乗の小村

  
 どうも学生時代に、たぶん一人旅をして通りかかった海辺の町で見かけた光景のようだ。男も女も荒れた海へ出かけ、子供一人が海辺で籠に坐って、かすかに笑いながら海を見つめている。とある家に飯蒸かへり、とあるので、めしを炊きっぱなしで出ていったのだろう。風がどよめき、木の葉が乱れ飛び、波がそそり立つ、と表現してあるからには漁には危うい天候だ。近場ならば、めしを炊きっぱなしで海へ出ることはあるにしても、遠出はあり得ないので、子供を置いて近くの荒れた海へ出た―逼迫した生活のにおう構図だけがある。この男は構図を歌う。
 母は不安に思い、たぶん子供には縄紐を打ち、海浜で海草を採るあいだも見守っている。父は近場の漁に出ている。生活のために。遠く荒れ海に出て死んでしまっては妻子が路頭に迷う。そろそろ危うくなってきた海から戻りつつあるはずだ。
 想像で詩を書かなければならないことに異論はない。しかし、感動を捏造してはならない。無垢な稚児の、環境に蹂躙されない微笑みなど、捏造以外の何ものでもない。感動の源だけは、リアルでなければならない。なぜ自分が身命を賭して愛する者のことを歌わずに、いきがかりにたまさか目撃した人間を歌わねばならないのか。
 彼ではない他人の書いたあとがきはくどくど言いつづける。
『この上ない格調の高さ、彫琢の深さ、響きのよさ、構成の確かさ。伊良子はこの詩集において、古典主義と浪漫主義とが最上の形で幸福な結婚を遂げた』
 伊良子は、という主語の述語はどれだ? 
 古典主義と浪漫主義。私はその二つの主義の存在も意義も知らない。岩波文庫を書棚に戻し、座布団を頭に寝転がった。この世はニセモノだらけだ。ニセモノでないのは、いきがかりの交情に絡め取られた人間の心だけだ。
「待ちましたァ?」
 トシさんが帰ってきた。
「寝転がって、庭を見てた。きれいだなあ」
 走ってきて、覆いかぶさる。舐めるようにキスをする。そして私のものを遠慮がちに握る。いつもの所作だが、それをする微笑みにえも言われぬ清潔感がある。安乗の稚児の微笑みよりも清潔だ。
「トシさん、肌が若くなったね」
「土日の夕方に、合気道教室にかよいだしたんですよ。私より年上の人が二人います。すごく若いの。最初は筋肉痛でたいへんでしたけど、もうだいじょうぶ。一回ごとにからだの毒が抜けていくみたい。仕事にも疲れなくなったわ」


         五

 風呂を入れて、抱き合って入る。トシさんはタオルで私の顔と首をやさしく洗う。
「七時にお鮨を届けるように頼んでおいたから。貝をたっぷり。お吸い物は、風呂から上がったら作ります」
「吉祥寺の家に暮らしたことはあるの?」
「ここを建てる前に少し。広すぎるから、こちらを建てたあと住友金属の課長か何かをしてる人に貸してました。三万円で。五人家族だったかしら。その人たちが家を建てて出ていったから、二年ほど空き家だったの。売っ払っちゃおうかなって思ってたところに、キョウちゃんが現れて……。遇った最初から、ただであげるなんて言ったら、頭がおかしい思われちゃうし、いずれと思いながらチャンスを狙ってたら、あんなふうに和子さんが相談にきてくれて」
 私はトシさんを強く抱きしめ、肌の弾力を感じながら、
「ぼくに二十人の女がいてもいい?」
「いいわ。五十人でも百人でもいい。生きてるキョウちゃんの顔を見ながら余生を生きられれば、何もいらない。キョウちゃんが名古屋にいったら、あの家は別荘になるわね。名古屋へいくまで二、三カ月暮らすことになるでしょう。それまで賄いさんといっしょに暮らして、そのあとその人を住まわせておくのがいちばんいいわね。家が傷まない」
「みんな名古屋に戻ってしまうんだ。とにかく、ぼくの別荘にする。そういう人が住むのもいいけど、トシさんもときどき風を入れにいってよ。家具はすべて、ステレオも机も置いていくから。ステレオは山口がほしいと言ってきたら、あげてね」
「そうします」
 トシさんは湯船から上がって、自分のからだを洗いはじめた。
「さ、キョウちゃんもきて。洗いますよ」
 頭から洗いはじめた。首、腋、胸、腹ときて、陰茎を丁寧に洗う。
「和子さんを大切にしてね。キョウちゃんのお母さんになれる人は、何十万人、何百万人に一人よ。そんな人が何人もいたら原子爆弾みたいなものよ。自惚れじゃなく、私もその一人。日本中からキョウちゃんの周りにそんな女が全員集まったようなものね。キョウちゃんの顔を見て、からだも心も疼く人じゃないとだめ。たぶん、もう何人も現れない。あの人たちと生きてくかぎり、キョウちゃんは安全よ。これ以上余計な人を受け入れちゃだめ」
 もう現れない、という言葉に真実味があった。トシさんは私にしたように自分も陰部を丁寧に洗った。私は目の前に彼女を立たせ、花びらを吸った。
「ありがとう、キョウちゃん、いい気持ち、はああ、ウン!」
 しゃがんで私の胸に凭れこんだ。尻をさすってやる。もう一度抱き合って湯船に浸かった。長い口づけを交わした。
 届いた鮨は二桶もあったが、ゆっくり二人でぺろりと平らげた。握りのやさしい、うまい鮨だった。タマゴもうまかった。
「高円寺にもおいしい鮨屋があるんだよ」
「寿司孝ね。もうひと月も前に和子さんに連れてってもらいました。そのとき、素子さんや千佳子さん、キクエさん、節子さんに会いました。みんな百万人に一人。キョウちゃんの城垣ね。長生きできたからあんなすばらしい人たちに会えたんですね。引越しのときに遇った男の人たちも城垣だった。見たとたんにわかりました。私も城垣の一つになれてよかった」
「いまから映画を観にいこう。三鷹オスカー。五百円三本立て。最終上映はたいてい八時半前後からだから、一本は観れるよ。ピアという映画雑誌に書いてあったんだけど、あの映画館は昭和二十一年にできたんだって。ぼくより年寄りだ。いまは名画ばかりやるリバイバル館だ。何をやってるかは、いってみてのお楽しみ。帰りに居酒屋で食事しよう」
 トシさんの顔が笑いでいっぱいになった。
「映画を最後に観たのはいつだったかしら。十五年くらい前かなあ。バカヤロー解散の年だったわ。たしか、雨月物語」
「溝口健二だね。大映か。京マチ子と森雅之。その年には、東京物語や、煙突の見える場所も上映されてる。……トシさん、やっといま気づいた。京マチ子に似てる!」
「やだァ、あんなきれいな人。お世辞にもそんなこと言うもんじゃないわ。京マチ子さんに失礼よ」
 ほんとに似ているのだが、私はそれ以上くどく押さなかった。
「とにかく、きれいだとだけ言っとくよ。いま京マチ子は四十半ば。トシさんと一回りぐらいしかちがわない。何の遜色もない。トシさんは白髪が生えない体質なんだね。ほんの数本出てる程度。オマンコの毛にも何本か混じってるけど、全体が黒々としてる。うれしいな」
「……また濡れちゃう。出かけましょう」
「うん、出かけよう。タクシー拾うよ」
         †
 オスカーでは、フェリーニの三本立てをやっていた。このあいだ山口との話題にのぼったばかりの8・1/2、それから、魂のジュリエッタ、道。二本目が終盤に差しかかっていた。
「8・1/2は難しい。男の魂の蘇生を前衛的に描いてる。科白はいいんだけどね。魂のジュリエッタはそれより少しマシだけど、浮気亭主に悩む内気で潔癖な女というありきたりな話だし、二時間以上の映画だから退屈だ。道は八時十五分からか。道だけ観て帰ろう」
「ええ、外国映画って戦前に観たっきり。ひさしぶり」
「何を観たの」
「スミス都へいく」
「フランク・キャプラという監督が撮った映画だ。すばらしきかな人生、という大傑作があるよ」
「出征が決まった日の晩、いっしょに観たの」
「……つらい思い出だね」
「ううん、キョウちゃんが現れたから、もうつらくなくなった。それにしてもよく知ってるわね。いつ映画を観る時間があるの?」
「小さいころからコツコツね。ぼくの人生はコツコツだから」
「練習の帰りとか?」
「そう、けっこう寄り道して帰るんだ」
 手を握り合って道を観る。全編を流れているテーマ曲を聴いているうちにハッと思い出した。古間木のどこかの映画館だ。横に座っていたのはサイドさんでなかったか。昭和三十一年、岡三沢小学校一年。七歳。三沢空軍基地のそばにある大ぶりの映画館で、駐留していた米兵向けの映画が(英語の場合は)字幕なしでよく上映されていた。看板が大きかった。たしかにこのイタリア映画を英語の字幕で観たが、内容はもちろん、人物や風景もまったく憶えていない。ひょんなきっかけで人は行動する。サイドさんもひょんな風の吹き回しで(たぶん英語の訓練のために)私を連れて入ったのだろう。三度ほど連れていかれた。天兵童子を一人で観にいったのは、たしか三沢東映劇場だった。十時を少し過ぎて道が終わった。トシさんは最後まで息を詰めて熱心に観ていた。
 映画の帰りに、太平というスナックに寄る。空いていたボックス席に座り、
「ビール、中瓶二本。食事できますか」
「ハヤシライスがあるよ。それしかないな」
「じゃ、それください」
「スナックでも食事ができるのね」
「ラッキーだったね」
 ハヤシライスをゆっくり食べながら、道の話をする。トシさんが、
「ジュリエッタ・マシーナって女優、いくつぐらいかしら。かなり老けてたけど」
「見た感じだと、五十少し前だと思う。あ、このパンフレットに書いてある。一九二一年生まれか。四十七歳だね。フェリーニの奥さんだって。初めて知った。道は昭和二十九年の作品。ぼくが観たのは昭和三十一年。三沢。観たと言っても、通訳の叔父さんに連れられて映画館に入って、ふだんは字幕なしの外国人向け映画館だから、何もわからず座っていただけのことだけどね。このパンフレットだと、昭和三十三年に日本で一般公開されたことになってる。アメリカの進駐軍専用の映画館だったから、いち早く英語字幕で上映したんだね。この年表を見ると、フェリーは翌年にカビリアの夜という映画を撮ってる。それはテアトル新宿で観た。少し知恵が遅れた内気の女の役をやらせたら、彼女の右に出る女優はいないね。ぼくは白痴の女に真実を感じるタチなんだ。白痴の男には感じない。ドストエフスキーの白痴は受けつけなかった」
 ハヤシライスを食い終わってからは一方的にしゃべった。
「乾いた風が土ぼこりを巻き上げる海辺の寒村、という出だしはあたかも不吉でさびしいね。旅回りの大道芸人ザンパノ、アンソニー・クインね、大道芸のアシスタント兼性処理役として彼に買い取られたジェルソミーナ、ジュリエッタ・マシーナね、彼女がオンボロ車で連れ去られるとき、出発! って明るい声を張り上げるのはとっても重要だって感じる。ザンパノはその声を聞いたとき、天の啓示に打たれたような眼で彼女を見つめるよね。彼の空っぽの魂へ愛が光臨したんだよ。〈出発〉はその意味でもあると思う。女を性の道具としか考えていない野人ザンパノは、自分の感覚の確認を無意識にしようとする。愛という感覚。でもわからない。だから、その啓示を拭き払うように荒々しく、唐突に、彼女のからだを求めるようになる。ジェルソミーナは抵抗しながらも受け入れる。愛を知らない男に光臨したので、彼女にとっては茨の〈出発〉になったんだね」
「それ、キョウちゃんだけの解釈ね」
「そう、自己流の解釈」
「おろしろい。もっと話して」
 ビールの大瓶を一本、イカゲソ炒めを追加する。カンパイ。
「荒くれ男の覚醒めいたものは二日とつづかない。ジェルソミーナの動作はのろくて、口にする言葉も人離れがしているから、短気なザンパノは彼女を役立たずと罵り、鞭で追い回す。ジェルソミーナは傷つきながら、大道のピエロ役と、おさんどんと、欲望のはけ口に甘んじなくちゃいけない。ジェルソミーナは、一日一日を夢見て生き、不自由な頭の中に貯えてきた知恵のかけらをつぶやくことを何よりも大切にしている。彼女の内気でこまやかな愛情は、胸で鉄鎖を切って大道の客に見せることしかできない、頭の空っぽなザンパノには届かない。しかしそんなことはジェルソミーナにとって大した苦痛じゃない。ザンパノを愛しているからね。それでも、旅の道でジェルソミーナは何度もザンパノの浮気に悩まされる。そのたびに持ち前の忍耐力で、愛を貫く心を新たにするんだ……」
 トシさんは割箸を止め、目を輝かせる。
「すてき……」
「食べながら聞いて。これ食べ終わったら、焼そばを頼みたいから」
 私はイカゲソを口に運びながら、しゃべりつづける。
「そんななかで、二人はサーカス一座に加わることになる。むかしザンパノの顔見知りだった綱渡り芸人、リチャード・ベイスハートね、彼は相も変らぬザンパノの無知と野蛮を毛嫌いするけど、健気なジェルソミーナにはやさしく接した。彼女の小さな頭に残してやるための旋律をバイオリンで奏で、道端の小さな石にも意味がある、と永遠の哲学を教えるんだ。ジェルソミーナを横取りされるんじゃないかと気を揉むザンパノには、二人の親密な様子がひどく気に入らない。彼はジェルソミーナの心の恩人であるその男を、嫉妬にまかせて殺してしまう。そして姿をくらます。この馬鹿野郎は、自分だけに光臨した天使を捨てて去っていくんだ。人の心を動かす者はいつも馬鹿野郎たちに蹂躙される。ジェルソミーナの魂はとうとう進む〈道〉を失って、狂気へと落ちてゆく。もともと少し狂った女だったけどね。大道芸を生活の糧にしながら放浪するザンパノはもう空っぽだ。空白の心を抱えてさまよう彼が、あの旋律を口ずさんでいる洗濯女の背中に語りかけたとき、振り向いた女がジェルソミーナであってほしいと願わなかった?」
「願う前に、てっきりその洗濯女がジェルソミーナだと思ったわ」
「だよね。洗濯女がジェルソミーナなら、ザンパノは狂おしいほどの幸福の中に再生して、後半生を彼女とともに生きただろうな。でも振り返った女は無慈悲にも、ここに流れてきて病気で死んだ女がいつもこのメロディを口ずさんでました、と答えたんだ。この映画をしっかり観たのは初めてだけど、一つのことを銘記させられた」
「何ですか?」
「愛の認識がかならずしも人を救済するわけではないということなんだ。この映画は未熟な人間を愛という高度の感情へ解放させてゆく典型的な教養ロードムービーだけど、それにもかかわらず、その高みに達した未熟者を救わない。ジェルソミーナの死を知ったザンパノは、夜の砂浜に倒れこみ、黒い空を見上げ、砂を握りしめて号泣する。でも、どこからも救いの手は降りてこない。天使の光臨をないがしろにした罪は、どれほどあがいても赦されることはないからだよ。ザンパノの慟哭は遅きに失したんだ」
「雨月物語も同じような内容だったわ。男がかわいそうだった」
「怪談という映画の第何話だったかな、三國連太郎の黒髪も同じテーマだった。もちろん人を愛するのに、先走りも手遅れもないさ。ただ、どの瞬間も、虚心に、魂のかぎり愛していなければならない。ジェルソミーナのようにね。そうじゃない人間は、どんな仕打ちを受けようと、かわいそうでも何でもない」


         六

 カウンター席からするどい拍手が上がった。長髪の、二十七、八歳の男だった。
「すばらしい、じつにすばらしい! あんた、天才? そこまでわかりやすい『道』の解説を聞いたことがないよ。イタリア映画はわかりにくいものが多くてさ。特にフェリーニは難解だ」
 私は最後のイカゲソを噛みながら、
「フェリーニという男は、自分の人生の道しるべとして要所要所に、ヒューマニズムの極致とも言える難解な作品を散りばめて発表してるんです。まるで芸術神に捧げようとでもいうような骨の太い純朴な作品です。ルキノ・ビスコンティの静かで華やかな貴族色とちがって、フェリーニの庶民性の強い映画から発せられる色あいは、8・1/2に集約されるような、地面をのたうつ自責の暗黒色です。彼はたぶん、女にひどいことをしてきたんでしょう。映画は彼の罪滅ぼしです。だから胸に迫る。焼きそばください!」
 カウンターに笑いが湧いた。男はビール瓶を持ってボックスにやってきて、
「あんた、何者? 映画関係者? えらくいい男だけど」
「いえ、ただの学生です」
 トシさんは笑いながら黙っている。カウンターにいたバーテンが少し首をひねったが、まさかと思い直したふうに何も言わなかった。
「何大?」
「浪人です」
「あんたみたいに才能あるやつは、なかなか大学に受かんないんだよ。三浪も四浪もしちゃうぞ。受験勉強なんてすりゃいいだけなんだから、いいかげん夜遊びには見切りをつけて、しっかり勉強したほうがいい」
「はい、そうします」
「道の解説に免じて、ここはおごってやるから、もうふらふらしちゃだめだぞ。あなた親戚の叔母さんか何かでしょ。甥っ子かわいさに、つい付き合わされちゃったんだね。入試まであと何カ月もないよ。親族ならきびしくしないと。俺なんか映画観狂って、青学入るのに二浪もしちゃったよ。出るのに五年だ。ちっちゃな会社に入って、泣かず飛ばず、もうすぐ三十になる。マスター、じゃ、帰るわ。こちらの、俺につけといて」
 私たちのコップにビールをつぐと、手を振って出ていった。マスターが、
「あなた、東大の神無月選手ですね」
「……はい」
 ワハハハとカウンターがどよめいた。
「みんな気づいてましたよ。きょうの新聞読みました。中日ドラゴンズ入団おめでとうございます。根性と愛の人ですね。感動しました。プロにいってからもがんがんホームラン打ってください。さっきの××さん、新聞も読まないテレビも観ない映画キチガイなんですよ。将来、映画監督をやりたいなんて夢ばかり見てます。いい人なんです。勘弁してやってください。しかし、神無月さんも合わせることなんかなかったのに。有名人はつらいですね。××さんのおごりです。ゆっくり食べてってください。そちらの親戚の方も、ごゆっくりなさってください。今後ともご贔屓に」
 焼きそばを炒める音が聞こえてきた。トシさんはいつまでも微笑したままでいた。カウンターの客はみな、めいめい握手を求めたきり、私たち二人を放っておいてくれた。
 おごられずにきちんと料金を払って店を出た。
「ああ、楽しかった。キョウちゃんといると、いろんなドラマが起きる。キョウちゃんて自分を光らせないように、簡単に嘘をついてしまうのね。嘘のつき方がわかりました。自分の光を弱めるためにしか嘘をつかない。相手の光に関しては嘘を言わない。だからこちらがキョウちゃんに褒められたら、全面的に信用できます」
「あの人たち、サインを求めなかった。いい人たちだ。こちらの煩わしさを考えてくれた」
「キョウちゃんの気持ちを察してくれたんですね。また映画にいったら寄りましょ」
「あそこに灯りのない空地がある。あたりに民家がないからだいじょうぶ。あそこでしよう」
「え?」
「したくない?」
「まさか……キョウちゃんといるといつも濡れてます」
 暗い空地の外れへ二人小走りでいく。いまは使わなくなった公園のようで、寂れた公衆便所のあたりにはまったく明かりが届かなかった。トシさんはそこに入ってで用を足した。出てくると裏手に回り、下着を脱いで私のブレザーのポケットに押しこんだ。タイトスカートを捲り上げ、便所の外壁に手を突いて尻を向ける。夜目に白い尻が光った。私はズボンと下着を脱ぐと、少し離れたところへ置いた。
「声を上げていいでしょうか」
「だいじょうぶ、民家までかなり遠い。入れるよ」
「はい……」
 猛烈に濡れているので根もとまで入った。
「ああ、すぐイッちゃう、ああ、キョウちゃん……」
 膝がガクガク伸縮する。私は腹を支え、動きだす。
「あああ、すごく気持ちいい! どうしよう、もう……イク!」
 いつもの独特な往復運動とともに名残の小便が放たれたので、私はピストンを速めた。
「ああ、キョウちゃん、すごく気持ちいい、あ、あ、イクイク、イク!」
 前後運動する膣が亀頭を引っ掻く。たちま近づく。
「ああー、いっしょに、いっしょに、イクウ!」
 突き入れて射精する。固く勃起した陰茎をしまいこんだ膣が反射的に前後運動を繰り返す。律動が機械的に引き出される。
「あああ、苦しい、イキすぎ、イキすぎ、ああ、またイク、イック! ク、苦しい!」
 陰茎を引き抜く。尻が跳ね上がり、しゃがみこもうとするので、腹に手を回して支えてやる。白い尻の筋肉がすぼんだりゆるんだりしている。精液が滴り落ちる。トシさんは懸命にうつむき、かなり時間をかけて硬直を繰り返した。
「はあ、はあ、もうだいじょうぶよ、だいじょうぶ、ごめんなさいね、抜かせちゃってごめんなさい」
 トシさんは足もとに置いてあるバッグからハンカチを取り出し、広げて陰部と尻を拭った。畳んでバッグにしまい、振り向くと、中腰になって私のものを心ゆくまで舐めた。
「風邪ひくわ、キョウちゃん」
 私はパンツとズボンを穿いた。彼女はようやく立ち上がり、私のブレザーのポケットからパンティを取り出して穿き、タイトスカートを下げた。それから少女のように笑いかけた。長い口づけを交わした。
「すてきな人生がもう一度始まりました。何もないまま一生が終わるところでした」
 ぼろりと涙を流すと、トシさんはもう一度ディープキスをした。
         †
 一瞬どこにいるかわからなかった。藍色のカーテンが閉じている。柱時計が十時五分を指している。玉子の白身の焼けるいいにおいがする。廊下に掃除機の音がしだした。襖が開く。
「あら、起こしちゃった?」
「よく寝た」
「二時過ぎに寝たから、まだ八時間ぐらいですよ」
「たっぷりだ。トシさんは何時に起きたの」
「八時半。三時過ぎまで仕事をしてから寝たので、五時間は寝ました。年をとるとそのくらいで十分なんですよ。ただ、腰のあたりがモワッと重いの。きょうは、午前の仕事をお休みにしました。やっぱり、キョウちゃんに抱いてもらうのは、ひと月かふた月に一度でいいです。おばさんのからだはとても敏感になったけど、スタミナはまだまだです。もう少し、合気道教室で鍛えないと」
 昨夜のビールのせいで下痢。歯を磨き、朝風呂に入る。トシさんはインスタントコーヒーを石鹸の受け台に置いてくれた。
 居間の食卓につく。見慣れないものが皿に載っている。小指大の味噌が紫蘇の葉で巻いてある。齧ってみると、うまい。
「紫蘇味噌よ」
「初めて食べた」
「おいしいでしょ。仙台の老舗から取り寄せたものよ。少し甘いかな。横に並べたお肉は牛タンの燻製」
「舌? 気持ち悪いな」
「薄切りだから硬くないのよ。高級品よ」
 噛んでみる。香ばしい。
「うまい。でも、おかずにはならないな」
 トシさんは笑い、次々とおかずを持ってくる。厚切りハムを焼いたもの、小魚とアサリの佃煮、スクランブルエッグ、ワカメスープ、レタスのちぎりサラダ。お櫃に入ったごはん。
「さあ、食べて。からだが資本。まだ東大へ練習にいくの?」
「いかない。吉祥寺で走りこみだけ。冬場は肩を使わない。手のひらに響くキャッチボールやバッティングもしない。ひたすら走り、腕立てをやり、素振りをするだけ。商店を眺めたり、空を見上げたりしながら、のんびり走る。できればグランドでやりたいけどね」
「野球がほんとに好きなんですね」
「グランドの空を見ると、涙が湧いてくる。ぼくの歴史のぜんぶが見える」
 厚いハムを齧る。焼きが効いていて美味だ。アサリの佃煮。うまい。めしが進む。
「かよいのお手伝いさん、決まりましたよ。朝と晩だけいってもらいます。キョウちゃんがいなければそのまま帰るってことにしました。お給料は三万円です。このご近所に住んでらっしゃる福田さんというかた。大正九年生れの四十八歳。ご主人とは十三年前に死別なさって、ご子息三人はみなさん独立して家を出ています」
「ありがとう。カズちゃんたちはそれぞれの仕事があるから、定期的にはこられない。ぼくの生活は、女の人を気まぐれに訪ねる以外は、けっこう習慣的なんだ。名古屋でもそうしようと思ってる。この一週間は、他球団の干渉を避けなくちゃいけないってドラゴンズのフロントから言われてるから、九日までは高円寺にいたり、どこか女の人の家にいったりすることになる。だからまだそのお手伝いさんにきてもらうわけにはいかないけど、十日に御殿山に戻るから、十一日の月曜日からお願いしたいな」
「わかりました」
「法子にまだ会ってないね」
「え、だれ?」
「北口の酔族館のママ」
「あの有名な酔族館? 中央線で一番と評判のお店ですよ」
 三膳目のお替りをする。スクランブルエッグにたっぷり醤油をかける。めしにまぶす。スープに入っているワカメの歯ざわりがいい。トシさんはレタスをパリパリやっている。
「中学校の同級生だ。ぼくを追って東京にきたんだけど、ぼくが名古屋へいってからもしばらくこちらで商売することになった」
「いつか会えればいいですけど、女が飲みにいくわけには……」
「うん。いずれ、名古屋にいくまでに一度ぐらいチャンスがあるだろう」
「……キョウちゃんて、秘密を作っておきたくない人なんですね。でもだめですよ。だれのことも、だれにも言わないほうがいいです。女はみんなわかってますから。そんなこと秘密のことだとは思ってないんです。当然のこと。だれとそういうふうになっても、和子さん以外にはぜったい知らせてはいけません。和子さんが胸にしまえばいいことです。……今度紹介するお手伝いさんは、そうなってもいいように、かわいらしい知り合いの人に頼みました。妊娠の心配のない、かわいらしい人。もちろんあちらさんにはそんなこと言ってません。私が勝手にそう思ってるだけです。あのね、キョウちゃんは女の人とそういう関係になることを気兼ねしてるから、あえて人に教えようとするんです。若いからだでは仕方のないことなのよ。だれも咎めませんし、報告してほしいとも思いません。罪の意識なんか感じなくていいんですよ。キョウちゃんから働きかける必要なんかちっともありませんからね。そういうことになるとするなら、あちらさんのほうからそうなるようにするでしょう。まともな女ならだれでもキョウちゃんにフラッときてしまいますから。まんいちそうなったときは、かわいがってあげてくださいね」
「トシさんで打ち止めにしようと思ってたから、気持ちは動きそうもないな。……カズちゃんを最初の女に、もう何人になるだろう。五年間で十五人くらいかな。自分でも驚いてる。やりすぎだろうって」
「いいえ、とてもウブなほうです。世の中には百人斬り、千人斬りなんて下品な男はけっこういます」
「ぼくの人生のテーマは、野球と、人間の愛情だ。女のからだじゃない。それは人生のテーマを励ますものにすぎないんだ。六十二歳のすばらしいからだを経験すれば、さすがにもう激励は打ち止めだね」
「うれしい……そう言ってくれて。そのかたにも、そういう気持ちで接してくださればいいんです。福田さんという人です。ここから五軒先に住んでる奥さんよ。五十三歳ですけど、とっても若々しくて魅力的ですよ。二十五歳の長男は所帯持ちで、長野の多摩川精機って会社に勤めてます。二十四歳と二十三歳の娘さん二人はまだ結婚なさってなくて、自立して都内の企業で働いてます。十七年前にご主人が亡くなって以来、観光ガイドの通訳をしながら相当苦労して三人の子供を育てたの。いまは引退して、何か気楽な仕事を見つけたいって言ってたから、スーパーか何かのパートに出るくらいなら、お手伝いさんをしたほうがいいでしょって言ってあげたの。そしたら二つ返事。和子さんたちほど美人じゃないけど、小柄でほんとにかわいらしい人ですよ。大学出。津田塾」
「インテリぶらない?」
「ぜんぜん。三人のお子さんもみんな高校を出て社会人になりました。自分たちの意思で。それだけでわかるでしょう?」
「うん。会話しやすそうだ」
「善は急げよ、いまからいきましょう」
 五軒先へ二人でいく。トシさんの家より小振りな平屋の塀が、濃緑の西洋キズタでびっしり覆われていた。小さな門扉に、福田とある。玄関のチャイムを押す。ハーイ、という明るい声がし、茶色いゆるやかなスカートにサンダルを履いた女が現れた。
「あらあ、菊田さん、どうしたの。そっか、きょうはお休みなのね」
「いいえ、半日休んじゃったのよ」
「まあ。でもそれがいいですよ、たまには息抜きもしなくちゃいけないわ。菊田さん、働きすぎだから」


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