二十

 睦子はちびりと猪口を含んだ。
「山口くんの言うとおりです。せっかく同じクラスになったのに、神無月さんは、振り向いてもくれませんでした。野球部のマネージャーなっても同じでした。気に入るということが、たった一つ、神無月さんが人間に関心を持つ動機なんです。何を気に入るんでしょう? 神無月さんが気に入るのは、勤勉と誠実さだったんです。それのない私は『あの味噌っ歯が』で一蹴されていたんです」
 私は赤くなった。山口が笑いながら、
「神無月、聞いたか」
「ああ、見透かされてたんだね」
 睦子は薄っすらと微笑し、
「一年半という短いあいだでしたけど、教室や野球部で神無月さんのそばにいて、神無月さんを深く知れば知るほど、いいえ、そればかりじゃなく、周囲の人たちを知れば知るほど、神無月さんがどれほどすごい人かよくわかりました。女の人はみんな神無月さんに気に入られるために必死で努力して自分を高めていたんです。外見も、中身も。私は、外見を高める努力をしてこなかったことに気づきました。もともと外見のいい人は、そんなことに気を配らずに中身を高めることに没頭できます。歯をしっかり治そうと決心しました。虫歯というのは精神的怠惰から生まれます。走ってきた人とぶつかって折れたというような不可抗力じゃないんです。日ごろの怠惰のせいで酬いを受けたせいなんです。そんなみっともない結果を神無月さんが許してくれるはずがありません。それがわかった以上、治して再出発するしかなくなりました。神無月さんが名古屋にいってしまったあと、私は半年も歯医者にかよって、しっかり歯の治療をしました。父が大金を出してくれました。怠惰の代償は大きかったんです。でも治ってみると、それだけのことで、自分の容姿のことをすっかり忘れて勉強にも読書にも没頭できるようになりました。そういう生活をしているうちに、周囲の反応で自分が人並以上の容姿の持ち主であることもわかってきたんです。二重の喜びでした。これで身も心も一人前の人間として神無月さんに恥ずかしくなく会える。その気持ちでいっぱいのまま、猛勉強して東大に受かりました」
 私は睦子に言った。
「ぼくは自分がゲテモノで、一品作りの高級品じゃないってことを小さいころから知っていたんだよ。だから、誠実な人間以外好きじゃなかったし、人一倍まじめに生きようとした。まじめで明るい睦子に自然と心が動いた」
「そして……とうとう抱いてもらえたときには、天にも昇る心地でした。でもここからこそ、うんと努力して自分に磨きをかけなければと思いました」
 山口は呼吸を整え、
「鈴木、神無月のゲテモノって言葉に慣れろよ。呼吸みたいにしゃべるからな」
「慣れてます。神無月くんにとって自己卑下の言葉は酸素なんでしょう。いっしょに吸って、血の巡りに役立ててます」
 山口はようやく笑い、
「おもしろいことを言うなあ。……神無月、人間の価値は、ソクラテスのように自己改善の厳しい認識ができるかどうかじゃなくて、人に自己改善を促すほどの存在感を放射できるかどうかなんだよ。おまえには生まれながらにそれがある。しかしおまえにはいつまでもそのことはわからない。自分に対するそういう恐ろしいほどの無頓着を俺は愛してるんだ。おまえの自己卑下の言葉は、愛があれば酸素にできる。おまえに愛を感じてないとおぼしき人間の前では語るな」
「彼らがぼくを褒めないと約束すれば語らないけど」
「約束できるわけがないだろ。褒められても、ただ笑ってろ。やつらはおまえの卑下の言葉を酸素にすることはできないんだからな」
 自分の猪口を私の猪口に打ち当てた。睦子が、
「きょうの新聞に、江藤選手の不満が載ってました。心配です」
 山口が、
「ああ、背番号譲渡の件だな。入団以来十年もつけてきた背番号8を新人に譲れとは何ごとだってやつね。どうしても譲れと言うならトレードに出してくれと言ってるらしいな」
「ぼくは何番でもいい。打ったり投げたりすることとは関係ないから。むかしの東京六大学には背番号はなかったんだ。長嶋茂雄が卒業して二年後の昭和三十四年に、六大学に背番号が採用された。それからまだ十年しか経っていない。長嶋がプロに入るまで無番だったというのは痛快だね」
 山口は、へえ、とため息をつき、
「初耳だな。言われてみればたしかにそうだった」
 睦子が、
「こんなことも書いてありました。電撃契約に違法な点はなかったとしても、球界の暗黙の規約である研修会や定例会への不参加、シーズンオフの合同練習不参加など、神無月選手のみに特例を認めれば、これからのプロ球界の統率は崩れていくだろうって」
「崩れないね。特殊な個人がいて、初めてプロだ。特例を認められた個人を臨機まとめて率いるのが首脳部の力量というものだ」
「金田はね、何人かに連続でヒットを打たれると、マウンドにグローブを叩きつけて勝手にベンチに下がった。ぼくはそこまでわがままじゃない」
「鳴り物入りの人間に対するヤッカミだ。これからは、ああでもないこうでもないとイチャモンをつけられるだろうが、おまえの天然にやられて、そのうち静かになるよ。さ、いつものように、俺は退散するよ」
 最後にもう一度グラスビールを頼んで、三人で乾杯した。
 店を出ると涼しい風が吹いていた。山口は紀伊國屋で楽譜を漁って帰るというので、私は睦子と二人、山手線で馬場に出た。東西線に乗る。
「さ、吉祥寺の家にいこう。ひさしぶりに、睦子とゆっくりしたい」
「はい」
 隅の席に座ることができた。睦子はビニール袋とランチボックスを膝に置いた。中野から地上に出た車窓に紫色が拡がる。
「すばらしい人ですね、山口くんて。情熱的で、正直で、凛としてます。神無月さんの大きな惑星。みんなにときどき会いたいですけど、考えてみたら、会う必要もないんですよね。神無月さんの周りを回っていれば、いつもお近づきですから」
 吉祥寺で降り、繁華な街並を素通りして新居に帰り着く。公園のほうに夕照がある。それを背景に、家という無機的なものを美しいと感じた。
「きれいなお家。……おじゃまします」
 睦子は玄関戸を引いて、土間に入りこみ、立ち尽くす。
「すっきりしてる……。何もない。すてき」
「名古屋にも一軒建つよ。カズちゃんのお父さんがもう取りかかってる」
「フランチャイズですね。この家はアウェイ。名大に受かったら、真っ先に北村席を訪ねます」
 居間で、ワイシャツとブレザーを試着してみた。しゃれたカンガルー皮のベルトも買ってあった。胴をしっかり締めあげた。
「いいなあ! こういうの。でも、ぼくにはもったいないな」
「いいえ、紺がやっぱり映えますね。色が抜けるように白いから」
 そう言って、睦子はガスストーブを点けた。それから、試着したブレザーを衣桁に吊るし、ジャージの上下を取りまとめ、まるで勝手を知っているように風呂場へいく。あとを追う。ジャージを洗濯機に放りこみ、洗剤をプラスチックのスプーンで落とし、ノブをひねった。ついでに風呂の湯を埋める。
「少し熱めに入れますね」
「手慣れてるね」
「間取りも電気製品もお風呂も、青森の実家とよく似てますから。居間に家具が少ないのがほんとにすがすがしい」
 音楽部屋を覗く。
「あら、テクニクス」
「ステレオ、わかるの?」
「実家にJBLの中型スピーカーを置いてます。4312」
「アンプは?」
「ジェフ・ローランド。ジャズを聴くには最高の組み合わせです」
「とうとう爪を出したね。話が合いそうだ」
 フフと首をすくめ、
「名古屋の新居にプレゼントします」
「もう立派なのがある」
「そうですか。それなら、ジャズばかりですけど、レコードをぜんぶ送ります。名大に受かったら一度荷物整理に家に戻りますから」
「聴いてみる?」
「神無月さんの声ほど美しい音楽はありませんから、いいです。お風呂見てきます」
 すぐに戻ってきて、やかんをレンジにかける。
「挽いた豆があるので、コーヒーいれますね」
 こまめに動く。
「冷蔵庫がきちんとしてますね」
「朝八時と夕方六時に賄いさんがきてるから」
「それなら、今夜は私のアパートに泊まればいいですね」
 すべてを悟ったように微笑む。沸いたやかんから直接フィルターに回して注ぐ。いい香りが立ち昇る。山口の部屋で初めてこの香りを嗅いでから、ちょうど三年が経った。早回しのフィルムのコマのような、あわただしい三年間だった。コーヒーがはいる。見つめ合って飲む。
「うまい」
「おいしい」
 立っていって、口づけをする。手を下着に這わせる。
「ああ、いつもこの瞬間を待ってるんです。幸せ」
 すぐに風呂にいき、熱めの湯に二人で浸かった。口づけをして、見つめ合う。
「愛してます。名古屋にいったら、少し落ち着ければいいですね。あまり出歩かず、余計な人たちも訪ねてこずに」
 小声で言った。彼女の言葉をむさぼるように聞き取ろうとしていなかったら、おそらく彼女が肩に掬ってかける水音のせいで聞き漏らしたにちがいない。
「うん。落ち着こうと思う」
「……そうしてくださいね。神無月さんと顔を合わせているだけで、つくづくありがたい気持ちになります。神無月さんに愛されてるってわかりますから。でも、私たちは……きっと同じ気持ちだと思うので私たちと言いますけど、私たちは神無月さんを愛しているだけでじゅうぶんなんです。愛されたいなんて願いません。神無月さんが、自由に、のびのびと、私たちの知っている場所で生きていてくれれば、それだけでうれしいんです」
 睦子はにっこり笑った。抱き合う。湯と肌が心地よく融和する。勃起してくる。睦子はいとしそうに片方の手で茎を、もう片方の手で亀頭を握る。
「興奮します……」
「女にはこういう、みなぎってくる感覚はないんだろうね」
 愛する女とは掛け値なしのどんな卑猥な会話もできる。
「クリトリスがピンと張ってくる感じはあります」
 愛する女も掛け値なしで答える。
「いまは?」
「張ってます……」
 指で触れるとたしかに固くなっている。
「大きく硬くなってる」
「ああ、うれしい……痺れてきます」
「イキたい?」
 こくりとうなずく。唇を合わせ、指を使う。すぐに睦子のからだが離れ、唇が呼吸するだけの器官になる。すぐに高潮に導かずに、指を膣に入れ、往復させる。
「ああ、だめです、強くイッてしまいます、恥ずかしい」
「がまんして」
 湯船に立ち上がらせ、屈みこんで両手を洗い場の敷板につけるように言う。
「足を拡げて」
 しばらく見つめている。赤く割れた陰裂から、湯とはっきり区別のつく濃い液体が滲み出してくる。クリトリスから肛門に向かって丁寧に舐め上げる。たちまち太腿がふるえはじめる。
「だめ、イク……いいですか?」
 尻をもどかしく振りだしたので、
「いいよ、イッて」
「イク……」
 慎ましいアクメの呟きに反して、腹が激しく折り畳まれ、膣口が盛り上がったり引っこんだりする。そこへヌルッと押し入れた。
「あああ、神無月さん、イク!」
 ゆっくり、滑らかに抽送をつづける。
「愛してます、神無月さん、愛してます、イクー! もっともっと、ください、イク!」
 私にも迫った。
「あ、いっしょに、いっしょに、大好き、愛してます、ああ、イクウ!」
 射精し、引き抜くと精液が浴槽に噴出した。背中から倒れこんできたからだを抱えて、しばらくあぐらをかいている。睦子は私のものを後ろ手に握りながら、気を失ったようにうなだれている。やがてこちらを向き、私の肩で体重を支えて立ち上がった。


         二十一

「だいじょうぶ?」
「ええ、少し頭がクラクラします。腰が抜けたみたいです」
 睦子はうつむいたまま自分を鎮め、やがて洗い場に上がって、湯船の中に私を立たせた格好で私の全身にシャボンを使いはじめる。頭髪も指先を立てて洗う。シャワーで洗い流す。シャボンが浴槽に拡がる。
「赤ちゃんの皮膚のよう。海水浴にいったらたいへんなことになりますね」
 全身にシャワーを当てる。ふと気づくと、じっと私の顔を見ている。
「どうしたの?」
「あんなにいろいろなことを……天才、天才ってみんなにもてはやされて、それをいちいち謙虚に否定する気持ちが悲しくて……。これからは気にしないで胸を張って受けてください。正真正銘の天才なんですから」
「―これで最後にするから、言わせてほしい。ぼくは、幼いころから野球だけしか能のない人間だった。その野球にしても、この先、肩とか肘とか壊したら一巻の終わり。何の能もない人間に後戻り。東大の威力は大きい。どんなに能がなくても、頭がいいと思われちゃう。―勉強は、小学校五年生あたりから、ようやくやりはじめた。マグレも手伝って少しばかり形になった。でも、そこ止まり。マグレを期待しながら、薄ボンヤリと勉強をつづけた。大学にきても、学問全般がわからない。つまり、だれとも学問的な知識に関して話ができない。外国語をまともに一つも駆使できない。碁も将棋もチェスも麻雀もポーカーもできない。文学―専門家が気に入るような、資料に基づいた論理的な文章が書けない。数え上げたらキリがないよ。これを要するに、知者としての未来はいっさいないということになる。知者どころじゃない。武道の一つもできない。つまり、根本的に心身ともに平凡な人間だということだ。まちがっても天才じゃない。野球小僧オンリー。後ろめたくて、穴があったら入りたいくらいだ」
 睦子は私をギュッと抱き締め、強く口づけした。
「さ、上がりましょう」
 睦子は私のからだを拭き、自分のからだも拭いた。全裸の睦子は全裸の私の手を引いて渡り廊下の外れの離れへいった。寝起きのままの万年蒲団が敷いてある。彼女は私を横たえ、自分も横になった。
「私も最後にしますから言わせてくださいね。きっと神無月さんの気に入らない褒め言葉になると思いますけど。―大学というのは、いわゆる能才がいくところで、天才がいくところではありません。和子さんや山口さんの言うとおり、自意識過剰で傲慢な〈プリティ・グッド〉の人たちいる場所では、〈モスト・グッド〉の天才は暮らせません。謙虚というのは、天才しか持っていない気質なんです。天才を愛する人の目にだけ、謙虚さは美しものに映ります」
 フランス語の講師や、イボ男や、早稲田の高畠を思い浮かべた。睦子はこれ以上ないほどやさしく私を抱き締め、
「気質と言うと、奥の深い、複雑な感じがしますけど、もっとシンプルなものです。天才特有の社交術なんです。神無月さんのことが天才とわかっている私たちの前では、まったく必要のないものです。もっと私たちを信頼してくださいね。私たちには、神無月くんの知らない神無月くんがわかってるんですから」
「ぼくはどんな人間なんだろう。それが知りたくて生きてるようなものだ」
「私たちがわかってることを言いますね。神無月さんの心の底には、深い絶望が潜んでいます。これまで生きてきたどこかで、とんでもない不運に遭い、自尊心と、個人的な達成の希望のすべてを放棄したんです。一時的だったにせよ、棄てたのは、おそらく野球だけではないだろうと思います。自尊心と希望も棄てたんです。それからは自分のことをとても矮小な存在と思いはじめました。望んでいないものに関して個人的な手柄を挙げた場合には、すべてマグレで片づけ、能力だと褒められると、目くじらを立てて否定する。それがあれば絶望しなくてすんだはずの、自分に欠けていたと信じる愛情や共感といったものを、取り戻そうとやっきになりました。その気持ちは、偶然取り戻せた野球にも影響しました。自分を愛する者の幸福のために野球をするという考え方です。そしてとうとう、自分は愛のために野球をやる人間だと規定してしまいました。病気になってしまったんです。野球は自尊心(プライド)と記録達成の希望のためにするものです。山口さんのギターも同じです。才能の発露というのはそういうものです。遠慮しないで自分のためにだけ野球をやってください。それは神無月さんの大きな才能の一部なんです。ほかにどんどんいろいろな才能を開花させていってください。一般の人になど気を使う必要はないんです。……どんな説得をしても神無月さんを変えることはできません。ヤマイコウモウに入ってしまったのでもう治りません。一般の人に対する神無月さんの心の持ちようはまちがいなく病気です。神無月さんを愛する私たちがそばにいて、看病してあげないと、神無月さんは彼らに気を使いすぎて死にます。私たちがわかっているのはそこまでです。……女の人の中で、いつもだれをいちばんなつかしく思い出しますか?」
「汽車に轢かれて死んだけいこちゃん」
「ほら、そうやって私を慰めようとするんです。生きている女じゃないから生身のおまえに対する愛情には関係ないって。私たちに愛情を注ごうとする必要はないんです。私たちにこそ神無月さんの愛情は関係ないんです。神無月さんがそこに生きていてくれるだけで、私たちはこの上なく幸せなんです。目の前に生きている神無月さんがなつかしくてなつかしくて仕方ないからです。みんな神無月さんのことが死ぬほど好きなんです……。甘えたい女がいたら、どこにでも飛んでいけばいいんです。そうでなければ家にこもっているか、グランドで遊んでいればいいんです。私たちの務めは神無月さんを命賭けで愛することです」
「ありがたいことだけど、ぼくはまちがいなく、異常だ」
「愛は手に入りにくいものです。いき過ぎた愛情はあやまちを犯すもとですけど、どんな形であれ、ありがたいものです。私には神無月さんを愛してる女の人たちの気持ちが痛いほどわかります。神無月さんは、私たちのからだから切り離されたものじゃなくて、私たちのからだそのものなんです。神無月さんが生きていれば生きているし、死んだら死んでしまいます」
 私は思い切り睦子を抱き寄せ、口を吸った。彼女は上になり、私をからだの奥にしまいこむと、いとしそうに見下ろしながら、
「もう一度したら、私のアパートにいきましょ。ビーフシチューを仕こんであるんです」
「うん」
 睦子は動きはじめた。
「ああ、もったいない、すぐイッてしまう」
 睦子は腰を止めた。
「荻窪の不動産屋さんの菊田トシさんという女が、ぼくにこの家をくれた」
 睦子は柔らかい眼で私の額を見つめた。アクメをこらえているのが膣の脈動の具合でわかる。
「彼女が死ぬまで、表向き三万円の家賃で貸してくれるということになってる。吉祥寺の一戸建の家だから、三万円なんて、ただみたいな金額だ。それも払わなくていいと言ってくれてる」
「あああ、いくつぐらいの人ですか?」
「六十二歳」
「その女の人の気持ち、よくわかります、神無月さんを愛したんです、その人が私でもこんな家あげてしまいます、あ、あ、セックスしたんですね?」
「うん」
 少し下から動く。
「あ、だめ……その人、ちゃんとできました?」
「睦子と同じくらい感じてくれた」
「幸せだったでしょうね」
 大きく動きだす。睦子も合わせる。
「ああああ、郷さん、あん、あん、イク、ウン!」
         †
 手を取り合って電車の座席に座り、手を取り合って南阿佐ヶ谷への夜道を歩いた。紺色のブレザーがからだを快適に包みこんで、自分がめったになく颯爽と歩いている感じがする。
「六十二歳の人の話を聞いて、とても希望がわいてきました」
「男はきっと五十ぐらいで終わりだよ」
「いま終わってもいいです」
 握る掌に力をこめてくる。仏像のような笑顔を見せる。
「十一月の日程は?」
「十二、十三、十四と秋季新人戦、十六日に六大学選抜チームとサンケイアトムズとの親善試合」
「プロと!」
「はい、横平さんが出場する予定です。二十三、二十四、二十七と秋季オープン戦、三十日に日通と練習試合」
「けっこうハードだね」
「私は当日に駆り出されるだけですからラクです。それ以降は駆り出さないと監督が約束してくれました。十二月から二月の下旬まではまったくのオフです。受験勉強に打ちこみます。神無月さんは?」
「十二月十五日に名古屋で正式の入団発表、二月一日から春季キャンプ。場所は兵庫の明石。カズちゃんが調べたところだと、長嶋の初めてキャンプ地らしい。水原監督のお気に入りのキャンプ地で、いままで何度もいってるって。練習場の明石公園第一野球場は、照明のない球場みたい。その質素な感じがなんだかうれしい。二月の末から三月いっぱいはオープン戦、四月の上旬から十月までは公式戦、十一月から一月まで休暇。名大の受験日は?」
「三月八日と九日の土日。発表は二十日です」
「名大は鶴舞のそばだ。あの近辺は閑静だから、家探しもそこだね」
「その予定です。合格してから、アパートを決め、入学手続、いったん帰省して引越し荷物の整理、また名古屋に戻って、引っ越し荷物の受け入れ。ぜんぶで十日を見てます」
「合格してすぐアパートを探すのはたいへんだ」
「手順の問題です。合格したら北村席さんの家に何日か泊まって、二十一、二日に家を決め、入学手続を終え、帰郷して引越し準備と配送の手配、青森の親戚回り、東京に戻って東大野球部に挨拶、名古屋に戻って二十七、八日までには新しい家に落ち着けると思います。家探しは千佳ちゃんといっしょに歩きます。このことはもう千佳ちゃんと電話で話し合いました。十二月一日の最後の模試も彼女といっしょに受けます」
 石油ストーブをつけて、キッチンテーブルに落ち着く。
「……神無月さんといると、こうして生きてるのが自然で、いつ生まれていつ死ぬかなんて問題じゃなくなります。寝て、起きて、食べて、セックスをして、オシッコやうんこをして、そんなふうに、とっても自然な感じになります。さ、ビーフシチューを仕上げようっと」
 いつものジャージに着替え、エプロンをかける。
「とても自然に、神無月さんを愛してます。神無月さんが、草や花と同じくらい自然だから。いつもそこにいて、そこを動かないって感じだから。だから長く離れていても平気なんですね。逆に言うと、自然が人間を突き放してるのと同じくらい、神無月さんは私たちを突き放してる。でも、それは冷酷というのじゃないんです。草や花が冷酷のはずがないですものね。神無月さんの説明はいつも難しくてよくわからないけど、ずっと考えてきたんです。このごろやっと自分なりに神無月さんのこと、納得がいきました。納得したとしか言葉では表現できませんけど……」
「さっき言葉を尽くして説明してくれたふうにだね」
「はい」
「睦子―」
「はい」
「出会ってくれて、ありがとう」
「私こそ」
 鍋が音を立てはじめ、いいにおいがただよう。睦子はコーヒーをいれた。
「めしは冷やめしがいい」
「ほんとに?」
「大好きだ」
 熱々のビーフシチューと冷やめしがテーブルに載る。スプーンで肉のかたまりを掬い、口に入れる。
「柔らかくて、うまい! いい味つけだ」
「ありがとう。ほんとだ、おいしい!」
「うん、冷やめしに合う」
「ほんと、冷たいごはん、おいしい!」
 私は睦子と心を解け合わせて笑う。
「名大の文学部はどのくらいのランクなの?」
「さあ、難しいでしょうけど、最上ランクじゃないと思います。文Ⅲは文学部系では日本一でしたけど、名大の文学部は上位十位から二十位くらいじゃないかしら。よほどの失敗をしなければ受かります。心配しないでください。十一月三日の電撃入団の主要新聞の記事は、青高気付で西沢先生と相馬先生に送っておきました」
「喜んでくれるだろうね。ありがとう」
「もしよければ、コピーが何部もありますから、どこかに送りましょうか」


         二十二

 私は手帳を出し、祖父母の住所と、葛西家、白百合荘の住所を書きつけた。
「ここへお願い」
「わかりました。実家は納得できますけど、ほかの家の住所をよく覚えてますね」
「下宿先だったから」
「ふつう引越ししたら忘れるものです。そうだ、ジャージはあした洗濯機から取り出して干してくださいね」
「うん。ぼくがいなくても、女中さんが午前のうちにやってくれる」
「そのかたとも?……」
「ありえない」
「いいかたですか?」
「とてもいい人だ。三人の子持ちの独身、五十三歳」
「そうなったら、その人もせいぜいかわいがってあげてくださいね」
「菊田さんと同じことを言ってる。みんなカズちゃんの影響を受けてるね。よほど暇なときしかそうならない。ぼくに暇はない」
「心にもないことを言ってます。相手が求めれば、自分の都合など考えずに時間を作ってしまう人です。神無月さんに打たれる人間にとっては、山口さんの言うとおり、ここで遇ったが百年目の人ですから、どうしてもそうなります」
 食事を終え、二人で勉強部屋へいく。専門書は取り片づけられ、受験参考書が机の上に積んである。ノートと、きれいに削った鉛筆と、消しゴムが置いてあった。椅子の足もとに蒲団が敷きっぱなしになっていて、傍らにジッドの『贋金つくり』が伏せてあった。表に返すと、

 家庭の影響に負けまいとする子供は、それから逃れるために新鮮なエネルギーをすり減らす。しかし、一面、彼の気に食わない教育は、彼に迷惑がられながら、彼を逞しく成長させる。

 という行に赤鉛筆で腺が引いてあった。
「ぼくのこと、だね?」
「はい。ここも見てください」
 文庫の後ろのほうを開ける。線の引いてある行を読む。

 人によっては感情の自己抑制を得意にする者があり、そういう連中は、その自己抑制がしばしば性格の強さというより、情緒の貧しさによるものであることを認めようとしないのだ。

「感情の自己抑制を得意にする者というのは神無月さんのことじゃありません。抑制のない自由奔放な感情を肯定している部分です。神無月さんは、知性は抑制しますけど、感情は抑制しません。豊かな情緒のせいで感情を自己抑制しない人間を肯定してるんです。どんな文学書も、神無月さんの全体を肯定しています。神無月さんは芸術書の中に理想として描かれる人です」
 唇を合わせた。
         †
 十一十一日月曜日。睦子と二人で七時に起きた。寒いので、睦子のからだを湯たんぽのように温かく感じた。目覚めの唇だけのキスをし、歯を磨き、順に排便をし、湯を埋めて抱き合って風呂に入り、コーヒーを一杯飲んで出た。睦子は私に合わせて濃紺のパンタロンとベストだった。その上に暖かそうなウールの赤い半オーバーをはおった。
「きょうはトモヨさんの誕生日だ」
「わあ、直人くんのお母さんでしょう?」
「うん」
「贈り物は?」
「そんなものしない」
「電話も?」
「うん、しない。いい大人だから。直人と睦子と千佳子の誕生日には何かプレゼントしようと思ってる。子供だから」
「立派な大人です。プレゼントなんかいりません」
「映画を観にいこうか」
「いいえ。お手伝いさんがかわいそう。そのために、コーヒーだけにしたんです。私もいっしょに朝食をいただきます。私のようなまじめな女が神無月さんの女だということを実際その目で見ておいてもらうためです。覚悟ができるでしょうから。それからあらためてこの先のお世話をお頼みします」
 菩薩のような笑みを浮かべる。
「私や和子さんや千佳ちゃんや法子さんのような、家族のある女は、家族間で起こるいざこざの影響を神無月さんにも与えることになります。そういう女は神無月さんに迷惑をかけないように、細心の注意で家族の動きを警戒します。それに、私たちには神無月さんを東京に追いかけてくるほどの情熱があるので問題ありません。夫を中心にした保守性の強い家庭の主婦は、もともと神無月さんに働きかけないのでだいじょうぶです。夫がいなくて、子供と母親だけというのはいちばん厄介なことが起こる可能性が高いんです。男に依存しようとしますから。そういう人はそのお手伝いさんだけ。その人にどれだけ自分を捨てる情熱があるかです。情熱がないのなら、いちばん厄介な人になります」
「ぼくのことをほんとうに心配してるんだね」
「信頼し合う者同士のあいだで秘密を持たない主義の和子さんが、リアルタイムで教えてくれます。自分を含めて郷さんの女性関係は、外へ洩らさない秘密としてみんな理解しているはずです。少しでも危険が身に迫ると、信頼し合う者たちは協力し合うんです。和子さんが危ないかもしれないと言ったのは、そのお手伝いさんだけです。和子さんの考えが杞憂かどうか、それを自分の目で確かめます」
 護るというのはこういうことなのだろう。私の生活から厄介ごとの芽を摘んでおく。そんなアイデアは私には思い浮かびそうもなかった。
 御殿山の家に着いた。台所に物音がしていた。
「ただいま!」
 福田さんが走り出てくる。
「おかえりなさい! ジャージ、干しておきました。あら、恋人と朝帰りですね。お腹すいてるでしょう。もうすぐごはんできますよ。みんなで食べましょう」
 思わず睦子は警戒のない表情で笑った。キッチンのテーブルにつき、
「鈴木睦子と申します。神無月さんとは青森高校時代の同級生です。野球部のマネージャーをしてました」
「それじゃ、東大でもマネージャーを?」
 睦子は赤い半オーバーを脱いで椅子の背にかけながら、
「はい。ずっと神無月くんを追いかけてる人生です」
「まあ、一途な人生。なんてすてきでしょう。……おきれいなかた」
「あなたこそとてもきれい。神無月さん好みの顔をしてます」
「そんな、神無月さん好みだなんて、畏れ多いです。でも、ありがとうございます。そう言ってもらえてうれしいです。私、福田と申します」
 睦子は電光のように素早い一瞥を、辞儀をした福田さんの横顔に送った。
「一月の末に、神無月さんは名古屋に帰ります」
「はい、中日ドラゴンズに入団なさるんですよね。ご出世を心からお慶び申し上げます」
 転がるように急いでレンジの前に立ち、塩鮭を焼きはじめた。
「福田さんは、こちらのお育ちですか?」
 背中に話しかける。
「はい、荻窪で生まれて、荻窪で育ちました」
「ご結婚も?」
「はい。二十二のときに、日産に勤めていた主人と見合い結婚をしました。年子を三人なしましてね。男、女、女。二十五の長男をカシラにもうすっかり手を離れました」
 背中で応える。
「大正ベビーブームと言われた時代ですね。私や神無月さんは戦後ベビーブームです」
 福田さんは三つの陶製の箸置きに箸を載せながら、
「昭和二十三年ごろから三、四年、世界的なブームでしたね。進学率が高くて、受験がたいへんだったでしょう」
 大柄の睦子は立っていって、小柄な福田さんの脇で、焼いている途中の三人分の鮭を少しいじってから、三枚の皿に載せ、シジミの味噌汁を盛った。小皿に板海苔を載せ、醤油の小瓶を添える。福田さんはめしを盛って、三人の箸の前に置いた。二人と一人、向き合って食卓についた。私が箸をとると、二人も箸をとった。
「食べましょう。わあ、おいしそう! 福田さん、私、このあいだ中退届を出しました。名古屋にいくためです。いま神無月さんの周りにいる女性は、全員神無月さんの東大入学に合わせて上京した人たちです。四年先を考えていたドラゴンズ入団が、こんなに早く実現してしまったので、みんな揃って名古屋へ引き揚げることになりました」
「東大をやめてまで―」
「女性たちの気持ちはみんな同じです。神無月さんのそばにいられる幸せを考えたら、いっとき親しんだ環境など惜しくありません」
 私は茶碗を差し出し、
「福田さん、お替わり」
「はい!」
「福田さんは神無月さんのこと好きですか?」
「好きって……どういうことでしょう。私はただの……」
 福田さんはじっと睦子の顔を見つめていたが、ハッと息を呑み、
「……まあ! 神無月さん、このすてきなかたを心配させるようなことをおっしゃったんですか?」
 睦子は、
「神無月さんはそんなことひとことも言いません。私がそう思っただけです。私たちと同じ気持ちかなって思って。そうならおたがいすごしやすいでしょう。他意はないんです」
 福田さんはじっと黙って箸を使っていたが、
「……慕わしいおかただと思ってます。あ、申しわけありません、神無月さん、分もわきまえず……年甲斐もなく」
 睦子が、
「分だなんて。人を好きになるのに何の分も年齢もありません。安心しました。これでおたがいくつろいで暮らせますね」
「この数日、その気持ちに折り合いをつけようとして、とても悩んでました。……鈴木さんのおっしゃるとおりです」
「神無月さんのこと、大切に思ってるんですね。よかった」
 福田さんは箸を握ったまま、お辞儀しながら、小さい声でもう一度、申しわけありません、と言った。
「その気持ちがわかればいいんです。私たちは同じ立場の女です。……神無月さんは純潔な人です。その神無月さんが、あなたのことをとてもいいかただと言ってました。神無月さんに見こまれた人は、男も女も信用できます」
 福田さんは涙を浮かべて、
「……ありがとうございます。……この家にいつでも神無月さんが帰ってきてホッとできるように、家守の仕事をつづけていきたいと思ってます」
 箸を止めてぼんやりしている。
「さ、福田さん、食べましょう。悪趣味なことを言ったと思わないでくださいね。私は神無月さんの眼力を確かめにきたんです。まちがいありませんでした。……神無月さんは何も壊しませんし、何も拘束しませんし、何も改善しません。そこに自由にいて、人の心を慰めるだけの人です。そんなにシャチこばった気持ちになることはないんです。安心して神無月さんをおまかせします。ああ、おいしい。お魚も丁寧に焼いてあって、おつゆの味噌加減もバッチリ。すばらしいお料理ですね。私にもお替わりください」
「はい。鮭は鈴木さんが最後に手を入れたんですよ」
 福田さんは睦子の茶碗にたっぷりめしを盛った。
「来年の一月まで、神無月さんの健康な生活を守ってあげてください。それが福田さんの歓びにもなるはずです。神無月さんが名古屋にいったあとは、神無月さんに会える日を心待ちにしてくださいね」
「はい、鈴木さんにお会いできてほんとうによかったです。とても気がラクになりました」
 福田さんは箸の動きが少し元気になった。


         二十三

 三人食べ終わり、女二人並んで食器を洗う。福田さんはしきりに洟をすすっている。睦子は福田さんの肩に手を置いてにっこり笑うと、
「じゃ私、これで帰ります。私は二月まで精いっぱい受験勉強です」
「名古屋へは大学生になるためにいくんですね」
「ええ、そして学問をしながら細々と生計を立てて、神無月さんのそばで一生暮らすんです。福田さんとはしばらく会えなくなると思いますが、遊びにこれたらまたきます。ほんとうに郷さんのことよろしくお願いします」
「はい! 一月まで、精いっぱいお世話して、そして元気なからだで送り出します」
「よろしくお願いします」
 睦子は福田さんの手を両手でやさしく握ると、私に視線を移し、
「じゃ、神無月さん、また。何かあったら電話くださいね」
 玄関に降り、見送る福田さんに笑いかけた。それからカラリと戸を引いて出ていった。福田さんは式台からすぐシンクに戻り、恥ずかしげに背中で語りかけた。
「不思議なかたですね。力んだところがぜんぜんなくて。神無月さんと同じです。菊田さんも、鈴木さんも、細かい世間の約束ごとに遠慮したところがないんです。過去のことや未来のことに拘っていません。いまだけを見てます。……エマーソンという人も言ってます。過去や未来は些細なこと。いま自分の内にあるものが大切だ」
 私の顔を見上げ、切なそうに言った。
「いま自分の内にあるものは何ですか」
「それは……」
「言わなくていいです。福田さんがそういう気持ちだとわかりましたから。……ぼくが忙しそうにしてないときならいつでも声をかけてください」
 福田さんはハッとわれに返り、
「はい」
 と応え、
「心は決まっています。私だけの一方的な気持ちだということはわかっています。……いまは仕事をして帰ります。……きょうの夜……夕食のあと、時間を少しいただけませんでしょうか」
「わかりました」
 福田さんはいそいそと風呂場へ洗濯にいった。やがて福田さんは洗い終えた洗濯物を入れた籠を持って、上天気の庭に出て下着やシーツを干した。もう一度風呂場へ戻り、きょう買ってきたのだろう、ビニール紐をステンレスの物干棒に平行に架け渡して、大小のタオルを一枚一枚干した。縁側に座ってその様子を眺めていると、やはり背中で語りかけてくる。
「主人を愛していたことは確かですし、裏切りたくないと思ってきたことも確かです。でも、貞操というのは、たぶん長年の習慣のようにからだに貼りついてきた道徳観念だと思うんです。身を清潔に保たなくちゃいけないという道徳。……でも、神無月さんと契った人は、そんな義務感もなく、ただただ神無月さんに夢中になったんだと思います。それがほんとうの人間じゃないでしょうか。私も生身の人間です」
「そういう言い方は自分を追いこんでしまいますよ。あなたが誠実な人であることはわかってます。鈴木さんは、まんいちのときに福田さんが傷つかないような心遣いをしたんです。慈母のようにやさしい女ですから」
 福田さんが振り返った。目が潤い、まなじりに赤味が増している。
「……主人は亡くなる前、二年ほど寝たきりでした。膀胱癌が全身に転移して。……私が三十三歳から三十五歳にかけてです」
 二十年前から十七年前にかけてということか。
「ご主人を思う一心だったんですね」
「当然のことです。……でも、たとえ私が死んで主人が生き残って、ほかの女の人とそうなったとしても、私は主人の幸せを願います」
「いずれにせよ、これから三カ月の付き合いがぎくしゃくせずにすみそうですね」
「はい」
         †
 福田さんが帰ると、私はすぐ離れの机へ引っこみ、二枚ほど五百野のつづきを書いた。五時前に福田さんがやってきた。台所でいそいそと立ち働き、きょうも魚料理に時間をかけた。
「ごはんですよゥ」
 渡り廊下から声をかける。
「はーい」
 テーブルにつく。福田さんは皿を並べながら、
「ボラの切り身の塩焼きです。川や湖でなく海で採れたボラですから、臭みもなく、脂が乗っていておいしいですよ」
 しっかりした食感で、じつにうまかった。ヤリイカの刺身も出て、甘みはないが、上品な味わいがあった。麩とワカメの味噌汁もうまい。めしをふつうの茶碗で三杯食った。福田さんは向かい合った席でうれしそうにうなずきながら、一膳のめしを食った。そして聞き取れないほどの声で、
「初めてお顔を見たとき、何かがからだを走ったんです。胸のシコリを溶かすような、生まれて初めての感じです」
 頬が小刻みにふるえている。しかし、すでに心を決めている私はもう聞いていなかった。
「すみません、つまらないお話をしてしまって」
「怖いんですね。……何年ぶりですか?」
「三十三のときからですから、二十年です」
「そのあいだ一度も性欲は湧かなかったんですか」
「それはちがいます。……心とからだは別なんです。……ほてったことが何度かあります。でも、触ったことも、本気でセックスをしたいという気分になったこともありません」
「いまは?」
「……もちろんそうしたい気持ちになってます」
 私は立っていって、スカートの下の下着をさすった。意外と素直に脚を開き、長いため息を漏らした。
「三人も子供を産んでいるんですから、セックスをすれば自分のからだがどうなるかも思い出せますね」
 弱々しく首を横に振る。
「すっかり忘れてしまいました。二十年です……どういう感じだったか、少しも思い出せないんです」
 パンティの湿った溝の上から陰核を探る。すぐに触れる。大きかった。薬指の先ほどの感触だ。さすると呼吸を詰めてあごを引いた。私は正体を確認したくなり、下着のあいだから直接指を入れて触れた。ウッと喉を鳴らした。
「思い出しました?」
「はい……」
「離れでくつろぎましょう」
「はい」
 浮き立つ思いが湧いてきた。福田さんの腰を抱えて渡り廊下を歩き、離れの敷居を跨いだ。蒲団に横たえると、大事な荷物を解くように服を脱がせ、下着だけにする。太くて形のいい腿が目を惹いた。小柄なからだの腹に柔らかい肉がついている。堅肥りの吉永先生に脂肪をつけた感じだ。サラシ状の白い清潔なブラジャーをしている。キクエと同じくらい大きな胸だ。背中のフックを外すと、豊かな乳房がこぼれ落ちた。白いシンプルなパンティをゆっくり引き下ろす。私は声を呑んだ。
 ―陰毛がない!
 麺棒のような形をした溝の縁に、私の唇に生えているようなニコ毛が生えている。溝は頂点で左右にわずかに広がり、挟みこんだ陰核の先を覗かせている。やはり薬指の先ぐらいあった。すぐに思い出した。金原。彼女のクリトリスも大きかった。
 ふっくらとした大陰唇を両側に引く。色濃く茶ばんだ小陰唇がきれいにクリトリスの包皮と繋がっている。金原よりもはるかに美しい。小陰唇を左右に広げると、処女のように凹凸がない淡いピンクの前庭が現れた。同じように出産経験のあるサッちゃんとちがって膣口がしっかり閉じていた。肛門は皺のないすべすべした窪みで、ここにもまったく陰毛が生えていない。大便をしたことがないようにさえ見えた。
「きれいだ―」
「そんなふうにじっと見られたことありません。恥ずかしい」
「クリトリスが大きい」
「そうなんですか? 人と比べたことがないのでわかりませんが、中学一年生のとき、手鏡で見て驚きました。触るとつらくなるほど感じたことを思い出しました。もう四十年近く触ってません」
 指で触れると、ウッと腿を引いた。
「膣も感じる?」
「え? 中のことですか?」
「うん」
「わかりません……感じるものなんですか」
 この質疑応答はこれまで何度繰り返されたことだろう。よほど大勢の女性が膣の快感の恩恵に浴していないことが痛感される。膣の話はもう例外的な幸運として封印し、めったに口にしないほうがいいのかもしれない。
「まれな女だけね……福田さんも少しだけ感じるかもしれない」
 何も知らないほうがいい。期待を抱かせる必要もない。包皮から頭を覗かせた陰核の周囲にしか愛液が滲み出ていないことに気づいた。クリトリスだけが遠いむかしの滑らかな愛撫を待っている。おそらく膣は、交わりを歓びとするほど潤ってはいないだろう。そういう条件の中で福田さんはセックスをし、子供を三人も産んできたのだ。
「セックスは苦痛じゃなかった? ただ棒切れが往復する味気ない感じで……」
「苦痛じゃありませんでした。夫が最後に出してくれるのがうれしくて……気持ちが満たされました。それも主人を愛した原因です。神無月さんも出してくださいね」
「もちろんそうなるよ」
 奇妙な会話だ。
「男のものを握ったことは?」
「はい、主人のを……」
 私は全裸になって、彼女の顔の横にひざまずいた。腰を突き出す。福田さんは目を丸くして見ている。
「大きい……」
「胴体の長さは並です」
「先が……」
「握ってみて」
 おそるおそる二本指を添える。
「もっと、手のひらぜんぶで、ギュッと」
 言われるとおりにしながら、不安気に亀頭を見つめている。含もうとする様子はない。そういう本能がないようだ。
「お顔とぜんぜんちがいます」
「福田さんもそうですよ。それが飽きないので男女関係が永遠につづくんですね」
 手を離させ、乳首を交互に吸う。福田さんは私の肩を抱いて、ふるえはじめる。乳首を含んだまま、ぬるついたクリトリスを指先で刺激する。中指を膣に入れる。挿入に少し抵抗がある。
「とても気持ちいいです……」
 小さな声で言うが、寒さにふるえるように下腹と太腿をふるわすだけで、それ以上の変化はない。気持ちいい、と本人が言うほどのものではない。私は決意した。彼女の意識を好色なものに変えて、肉体を解き放たなければならない。
「ぼくの言うとおり、繰り返して」
「はい」
「オマンコ」
「……オマンコ」
 抵抗がある様子だ。
「はっきり発音して。クリトリス」
「クリトリス」
 これには抵抗がないようだ。表情に肉体に対する関心が動いた。いまはそのふたことでじゅうぶんだ。屈みこみ、小陰唇からクリトリスのほうへ舐め上げる。
「これは?」
「してもらいました」
 膣に指を挿し入れる。少し水気が増している。
「気持ちいい?」
「はい……」
 根気よく同じ作業を繰り返す。ふるえはじめる。クリトリスを舌先で舐めながら、中指の腹でクリトリスの裏側をこする。これでアクメに達すれば、膣を〈連れて〉いく習慣が甦る。指に力をこめ、クリトリスを吸い上げる。一瞬ふるえが止まり、尻を引いた。陰丘が跳ね上がる。うめくだけで決して発声しない。これでは心が解放されない。
「イクって言って」
「イク……」
 ときすでに遅い。挿入する。達した直後なのに、それほどの緊縛感はない。しかし潤っている。
「神無月さん! うれしい!」
 交わりの感激が強いのだ。時間をかけることにする。もっと濡れないとアクメは訪れないだろう。ゆっくり押し入れ、素早く引いて上壁を引っ掻くようにする。
「おかしくなったら、イクッて言ってね」
「は、はい、とっても気持ちいい」
 温い湯が膣内にあふれてくる。
「ぼくのものを自分のオマンコが握り締めてるってイメージして」
「はい、ああ、気持ちいい」
「ほんとに?」
「はい、とてもいい気持ちです」


         二十四 

 十五分も汗して努力したが敵わなかった。十五分ものあいだ、福田さんは私に口づけをしたり、か細いあえぎを上げたり、私の背中や尻をさすったりして、高みに昇り詰めることはなかった。福田さんは交わりを歓びとするだけの聖母だった。えも言えぬ清潔感が湧いてきて、私は微笑みながら射精した。福田さんはその瞬間本当にすばらしくやさしい表情を浮かべた。
「雅子、イッたよ」
 名前を呼んでやる。
「神無月さん、幸せ!」
 私は胸を合わせて福田さんを抱きかかえ、できるかぎり律動を伝える。
「神無月さん、幸せェ! 気持ちいい!」
 口を口で塞ぎ、舌を差しこむ。激しく応えてくる。全力で抱き締めてやる。長く口を吸う。福田さんは呼吸するのがつらそうに口を離して、顔を横向けて激しく呼吸する。
「雅子、すばらしいオマンコだよ」
 耳もとに囁きながら、搾り出すように最後の律動をした。福田さんは首をぶんぶん横に振り、
「あー、幸せ!」
 からだじゅう密着させるようにして抱きついてくる。いつまでも私を抱き締めている。目が潤んだ。湧いてくる充実感はほかの女たちと比べるべくもないけれども、愛しいと感じる度合いには大差がない。
「神無月さんが私の中で感じてくれて、うれしくて仕方ありません。雅子って呼んでくれましたね」
「うん、これからもそう呼ぶよ」
「……たった一度抱いてもらっただけで、こんなこと言うのは図々しいですけど……愛してます」
 私を抱き締める腕に力をこめ、
「……セックスがこんなに……すばらしいものだと思いませんでした。いまも信じられません」
「そんなに気持ちよかったの?」
「はい、ビリビリしました。神無月さんの女の人たちも、同じように?」
 潤んだ目から涙がこぼれ落ちそうになったので、視線を逸らして言った。
「うん、みんなこうなる。神秘のきわみだね。カズちゃんは特に神秘的だ」
「和子さんですね。菊田さんに聞きました。とてもすばらしい人だって」
「うん、これ以上ないくらいね」
「すみません。和子さんに申しわけないことを―」
「心配いらない。カズちゃんは喜んでる。人の幸せしか願わない女だから。彼女の考えること、することにまちがいはない。ぼくも彼女の掌の上で遊び回ってるだけ」
「神無月さんを掌の上で遊ばせるなんて……」
「信じる信じないは自由だ。妊娠したら、子供の手前、たいへんなことになるね」
「はい。……ぜったいそういうことにならないので安心です。あっ……そんなふうにおっしゃってくださるということは、やっぱりこの一度きりじゃなく……」
「うん。でも、できるだけがまんしてね。ほかのみんなも、二カ月、三カ月にいっぺんだから」
「はい、いつでも、どれほどあいだが空いてもいいです。……これまでの私は何だったんでしょう。夢中で生きてきましたけど……何も知らなかったんですね」
 私は福田さんの肩を撫ぜながら、
「何も知らなかったわけじゃない。知ることが後ろめたかったんだ。立派な母親は、自分を犠牲にする。三人の子供を育てる生活の中で、自分の快楽のことなんか考えてられなかったんだね。ぼくに遇わなかったら、一生考えなかったと思うよ。結局、子供に申しわけないって気がするんだろうね。彼らも、セックスの歓びから子供が生まれることを理解する年齢になれば、少しは寛容になる。それでも母親だけは聖母でいてほしいと願う。父親の性生活にはそれほど不潔感を感じないけど、母親には感じる。父親はなまめかしくないけど、母親はなまめかしいからね。なまめかしいものが本領発揮すると、なぜか道徳の枠を超えたものに感じられるんだ。それが家庭の不和のもとになる。不和を避けるために母親は聖母をてらう」
 あなたはほんとうの聖母だと言ってやりたかった。
「……神無月さんて、とても頭がいいんですね」
 福田さんは丁寧すぎるほど丁寧に陰部を拭って下着を穿くと、私の性器の汚れをティシューでこわごわ拭い、それを丸めて下着の縁に隠すように挟んだ。私に寄り添う。
「そういう感想は、親しみを遠ざけるからやめよう。頭を褒めてもらいたがってる人ならほかにたくさんいる。……話をもとに戻そうね。聖母であるためには、結局、自分本来の行動を秘密にするしかない。聖なる母親の性的な衝動はけっして子供に目撃されちゃいけない。セックスはもちろん、男といっしょにいるところもだめ。話をしてるのさえ、子供は深読みして不潔に感じる。でも、ほんとうの自分を穢(けが)すような〈てらい〉は一つひとつ捨てていかなくちゃいけないんだ。それと同時に、愛する者同士共有する〈貴い秘密〉も一つひとつ増やしていかなくちゃいけない。一つひとつのてらいを捨て、一つひとつの大切な秘密を増やしていく。雅子も人生の中で何度も繰り返してきたことだろうけど、その覚悟を途切れさせちゃいけない」
「はい」
「この三カ月は、ぼくといる時間がほかの女の何十倍にもなるから、そういうチャンスも多くなると思う。でも、自重しようね」
「はい! 自重します。じゃ、あしたの朝七時過ぎにきます」
 立ち上がって服を着ようとする福田さんを呼び止め、
「愛してるよ」
「私も愛してます!」
 シャワーを浴び、深更まで机に向かった。
         †
 十一月十二日火曜日。七時半に福田さんの足音に起こされる。
 快晴。八・四度。庭に出て、目覚まし代わりに素振り、乾いた土の上で三種の神器。ふつうの排便、シャワー、歯磨き。この一両日、耳鳴りを忘れていた。ハムエッグと肉野菜炒めで朝めし。福田さんが掃除にかかると、一日がゆっくりと動く。
 掃除のあと、福田さんを誘って二人で湯船に浸かった。浴槽の水面が窓からの光を反射している。陽炎が天井で揺れる。光よりも一人の女がまぶしい。肌の色合がちがう。雪白だと思っていた福田さんのほうが私より少し茶がかっている。乳房はやはり吉永先生のほうが大きかった。女たちの中でいちばん慎ましく、しかも天真な睦子が、三十歳も年上の女を妹のように導いて、じゅうぶん〈淫奔(いんぽん)〉に振舞わせた。わずかでも常識の痕跡を残している女からぎこちなさを取り除くことで、私を喜ばせようとした。嫉妬じみたお節介からではない、素朴で大らかな気持ちからだ。福田さんが、
「……神無月さんに抱かれたことを菊田さんに話しました。セックスってあんなに清潔なものとは知りませんでした。感動したので、そのことを正直にお話しました。菊田さんはにこにこ笑って、心から祝福してくれました。女をとっくに終えた中古品を相手に、一所懸命努力して、この世のものとは思えない悦びを与えくれる親切な男がこの世にいるという奇跡に感謝しなさい、神無月さんがその気になるまで、自分からぜったい求めてはいけない、神無月さんは、どこで、何が原因で疲れてるかわからないからって釘を刺されました。……神無月さん、ほんとうにありがとうございました。どんなに感謝しても感謝し切れません」
「大したことをしてないのに、くすぐったいな。おいしいね。これ、何て魚?」
「アカムツです。ノドグロとも言います。一年じゅう脂が乗っていて、煮ても焼いてもおいしい魚です。冬の季節はお魚です。お魚はせっせと食べてもらいます」
 まだ話したりないというふうに、
「菊田さん、釘を刺したくせに、神無月さんの立派なものをお受けするとたいへんなことになるから、少し恐怖感があるけど、毎日でもしたくなるってケロリと言うんです。セックスをしてるときの神無月さんの清潔感が並大抵のものじゃないので、儀式的な雰囲気も出てきて快楽が強くなるとも言ってました」
「菊田さんの悦びかたは、それこそ並大抵じゃないから」
「まあ! なんだかうれしいお話ですね。ところで神無月さん、私、二人の娘の結婚を見届けたら、菊田さんのように不動産業で身を立てるつもりです。翻訳や通訳はシンネリした仕事なので、明るい気持ちになれません。不動産鑑定士の資格を取って、もっと生きいきと動き回ることにします」
「心の荷が下りたような顔をしてる」
「すばらしい世界を堪能させていただきました。これから神無月さんに求められたら、一度もむだにしないでぜんぶ抱いてもらいます。愛の結晶とよく言いますね。私の子供もそうだと思いたいんですけど、ちがうでしょうね。考えたら、勉強も仕事もセックスも、愛と呼べるほどものではありませんでした」
「雅子はまじめで、いつも愛に満ちてる人だ。愛は自分だけの快楽のことじゃない。ご主人もお子さんも幸せだったと思う」
 二人でからだを流し合った。福田さんはいつまでも涙を流していた。
 駅の売店に出かけ、ドラフトの速報と諸紙を買って帰る。離れに持っていって読む。

     
ドラフト会議 十二球団熱視線
         
田淵・山本・富田・浜野

 一覧表を切り抜いて、三位まで暗記するつもりで目を通す。知っている名前には傍線を引いた。たった四人しかいなかった。と言うより、三位内指名者の中に東京六大学出身者が四人しかいなかった。しかも彼らはまったく鳴り物入りではない。新入団の選手は、かつてはもっとしつこく騒がれていたような気がする。新聞を見ると、だれも騒がれている気配がない。鳴り物がないせいでかえって、プロ野球選手が違和感のない存在として世間に認知され、むかし以上の特権階級に昇ったような気になる。


  中日ドラゴンズ  一位 浜野百三 (投) 明治大
           二位 水谷則博 (投) 中京商業
           三位 太田安治 (投) 中津工業高
  サンケイアトムズ 一位 藤原真  (投) 全鐘紡
           二位 溜池敏隆 (内) 日本熱学工業
           三位 詫摩和文 (外) 照国高
  読売ジャイアンツ 一位 島野修  (投) 武相高
           二位 田中章  (投) 日本通運浦和
           三位 矢部祐一 (内) 常磐炭鉱
  阪神タイガース  一位 田淵幸一 (捕) 法政大
           二位 植木一智 (投) 龍谷大
           三位 猪狩志郎 (投) 佼成学園高
  広島東洋カープ  一位 山本浩司 (外) 法政大
           二位 水沼四郎 (捕) 中央大
           三位 山口喜司 (投) 陸上自衛隊西部
  大洋ホエールズ  一位 野村収  (投) 駒沢大
           二位 辻博司  (投) 熊野高
           三位 井上幸信 (投) 尾道商業高
  西武ライオンズ  一位 東尾修  (投) 箕島高
           二位 乗替寿好 (投) 若狭高
           三位 宇佐美和夫(投) 木更津中央高
  南海ホークス   一位 富田勝  (内) 法政大
           二位 緒方修  (投) 日本通運浦和
           三位 松井優典 (捕) 星林高
  東映フライヤーズ 一位 大橋穣  (内) 亜細亜大
           二位 加藤譲司 (投) 藤沢商業高
           三位 宮本孝男 (投) 竜ヶ崎一高
  東京オリオンズ  一位 有藤道世 (内) 近畿大
           二位 広瀬宰(おさむ)(内) 東京農業大
           三位 池田信夫 (投) 平安高
  阪急ブレーブス  一位 山田久志 (投) 富士製鉄釜石精錬所
           二位 加藤秀司 (内) 松下電器産業
           三位 長谷部優 (投) 府立岸和田高
  近鉄バファローズ 一位 水谷宏  (投) 全鐘紡
           二位 川島勝司 (内) 日本楽器
           三位 岡田光雄 (投) 松下電器産業



         二十五 

 なぜかぼんやりして、ランニングにも出ないまま昼下がりにかかった。一度帰った福田さんが戻ってきた。私はドラフト関係の何紙かを手に居間のテーブルの脇に寝そべり、福田さんは庭に出て、午前に干した洗濯物を取りこんだ。
「おやつを食いにいこう。まず映画でも観てから」
「ほんとですか! その前にお掃除をします」
 福田さんはせっせと掃除をし、蒲団のシーツを替えた。
 吉祥寺南町のオデオン座へいった。オリバー。フラストレーションを起こす孤児物だった。社会問題を絡ませたありきたりな政治映画。福田さんもつまらなそうに観ていた。つまらないものは世間受けするといういつもの伝だと、この映画は何かの大きな賞を獲るかもしれない。
「さ、おやつだ。オムライスが食いたいな」
「それなら喫茶店ですね」
 井之頭通りを御殿山のほうへ戻り、吉祥寺駅前の交差点を右折してぶらぶら歩く。商工会館のT字路をそのまま数分進むと、カヤシマという暖簾と提灯を垂らした老舗ふうの喫茶店があった。風変わりだ。夜は飲み屋になるのだろうか。
「ナポリタンもあります。迷うわ」
「二つ頼んで、分け合って食べよう」
「そうしましょう」
 入ってみると、広い空間にソファを八つも十も連ね、縦長の席やボックス席をしつらえている。壁にはメニューや色紙やポスターなどがビッシリ貼られているが、不気味に広い店内のせいで落ち着いた雰囲気がする。黒いエプロンをした中年の男と灰色のエプロンをした中年の女が、カウンターに出たり入ったりして立ち働いていた。夫婦だと一目でわかった。
「オムライスとナポリタン、一つずつください」
 壁のメニューを指差して言う。福田さんが消え入るように身を縮め、
「……じつは、私には捨てられないものがあるんです。三人の子供たちの行く末を見届けることです。……鈴木さんや、ほかの名古屋へお帰りになるかたたちのように、すべてをなげうつことができないんです。高望みはしません。このまま、東京でいつもこうして神無月さんを待っていることを、お許しいただけないでしょうか」
 私は笑ってうなずき、
「許すも何も、あたりまえの話だよ。人が抱えている大切なものの中で、子供は最たるものでしょう。ぼくにも子供がいるからわかる。どんなに伴侶を愛していても、受身の生き方になるだろうね。ちっとも引け目に思うことはない」
「神無月さん、お子さんが―」
「うん、名古屋にいる。二歳の男の子。直人って名前。母親はもと芸妓で、トモヨという名前だ」
「トモヨさんと直人ちゃん……」
「籍も入ってないし、認知もしてない。菊田さんはカズちゃんから詳しいことを聞いて知ってると思う。ぼくのように、女に自堕落な男は……雅子のせっかくの気持ちが報われないよ。未来に何の保証もできないだろうね」
「報いや保証など求めてません。私の一方的な気持ちです。……神無月さんは、いろいろと重いものを背負ってる人なんですね」
「重くなんかないよ。何ごとも無理せず、なりゆきのまま……。うん、このナポリタンはうまい!」
「オムライスもおいしいです!」
 当たりだった。歩いた甲斐があった。交互にスプーンとフォークを出し合って食う。福田さんの顔から笑いが絶えなくなった。見つめる。美しく、愛らしい。
「いつまでもきれいなままでいてね」
「はい。菊田さんの齢になってもあんなにきれいでいられるのを見ると、いつも励まされます」
「しかし鈴木さんはみごとに、面倒の起こらない関係にしてくれたね。もともと面倒なんか起こらないんじゃないか、心配しすぎなんじゃないかって思ってたけど、やっぱり予想どおりだった。ありがとう」
「こちらこそ、ほんとうにありがとうございます」
「ああ、おいしかった、ごちそうさま」
「ごちそうさま。……愛してます」
「離れないで生きていこうね」
「はい。いつまでも」
 吉祥寺駅の改札まで見送った。
「きょうは遅くきていいよ」
「はい。八時ごろ参ります」
 御殿山へ引き返した。ビルに縁取られたアスファルト道を歩く。暮色のせいで、路上を動く人びとや車の列が静物画のように見える。細い道が大通りに交差する。常緑と紅葉の混じった小道に入る。この透き通って薄暗い道は、どこかで見た覚えがある。遠いむかし……そうだ、保土ヶ谷日活へ通じる道、父を訪ねていった道だ。
         †
 十一月十三日水曜日。早朝の五時に起きて、シャワーを浴び、机に向かった。窓の外は快晴。九・五度。原稿用紙一枚。兎口の成田くんの項を丁寧に。六時に駅にいき、売店でスポーツ新聞数紙を買った。
 ドラフトで将来有望と注目されている選手の名前を銘記する。法政三羽烏以外は、
 西武 東尾修、太田卓司
 東映 大橋穣、金田留広
 東京 有藤道世
 阪急 山田久志、加藤秀司、福本豊
 中日 浜野百三、太田安治
 巨人 新浦壽夫、松原明夫
 大洋 野村収

 井之頭公園を五周。家の庭で一連の鍛練。排便、シャワー、歯磨き。やがて福田さんがやってきて、いっしょに朝食。福田さんはおいしそうに煮魚に箸を立てた。きょうはシログチという魚の姿煮だった。
 青木小学校の福田雅子ちゃんの話をした。二人の喧嘩の仲裁に立ったやさしい四宮先生の話もした。福田さんは首を傾け、柔らかく笑いながら聞いていた。
 福田さんが立ち動きはじめる。掃除、洗濯、蒲団干し、箪笥と衣料の整理。私はコーヒーを飲みながら腹がこなれるのを待って、ジャージに着替え、もう一度ちゃんとしたランニングに出る。
「汗まみれになるから、風呂抜かないでおいて」
「はーい」
 吉祥寺通りへ出て、ガードをくぐり、ビル街を真っすぐ走る。飽きないようにときどき商店の連なる小道へ曲がる。商店街からなるべく緑の見えるさびしいほうへ曲がる。むかしからやっていそうな自転車屋がある。しばらくたたずんで値段などを見ている。必要なし。先日新しい自転車を買ったばかりだ。
 走り出す。洋服屋、生花店、ポツンと植え込みのある民家、三階建てマンション、楽器店、駐車場。電信柱に中道通りと書いてある。準備中の札を垂らした焼肉屋、喫茶店、着物学院、医院、パン屋、家具屋、ブティック、緑がほしいので左折、仕立て屋、アートギャラリー、北欧料理店、道が広くなってきた。保健所ふうの平たい事務所、駐車場、女性服専門仕立て店、だめだ、飽きてきた。速力を増して戻る。道というのは目標を持たないと根気よく進めないものだとわかる。
「ただいまァ」
「おかえりなさーい。お風呂入れ直しました」
 ジャージを洗濯機に放りこみ、下着も放りこむ。きょう二度目の湯船に飛びこむ。
 パジャマに着替え、机に向かう。遡って、父の祖父母の章を書く。鉈豆ギセル―こういう〈抜け〉は、追々推敲のとき挟んでいくことにする。
 福田さんとコーヒータイム。十時を回って、福田さんがコーヒーをポットに詰めて帰る。玄関戸を閉める音が聞こえてから、また離れにいき、五百野のつづきにかかる。恣意的にさまざまな記憶の断片を書き出して、あとで貼り合わせる方法を思いつく。国際ホテルの項、浅間下の三畳の水屋から出てきた父の写真の項。きょうはその二つ。三時間ぶっ通しで根を詰めた。さすがに疲れてきて、鉛筆を擱(お)く。西洋椅子の上でしょっちゅう組み替える足が痺れている。受験時代はこんなことはなかった。長時間座るのに具合のいい椅子でないのかもしれない。
 いまごろ睦子は新人戦のダッグアウトの隅に立って、私のいないグランドに向かって声を上げているだろう。一人ひとりの選手に心を寄せて、無心に応援の声を上げているだろう。庭に出て、素振り百八十本。三種の神器五十回ずつ。何ごともやりすぎてはいけない。
 ランニングのとき商店街で目にした春木屋という家具店を思い出したので、椅子を買いに出る。自転車に乗るのを忘れて、歩いて出た。歩くと片道二十分かかった。
 春木屋の奥に、長時間机に向かっても疲れない感じの、座り心地のよさそうな黒革張りの中古椅子があった。ハーマンミラーというアメリカ製のものだった。四万四千円。
「元値は十一万円です。一生ものですよ」
 と店主が言う。その場で金を払い、一時間以内に届けてもらうように言う。先日、中年の女がアドロを歌っていた店の前を通る。看板を見るとセドラという名前だった。歌とよく似た名前だ。意味はわからない。
 椅子が届いた。古い椅子は納戸にしまった。思索にハカがいくように感じたが、関係ないだろう。
 六時前にトシさんと福田さんがやってきた。中肉中背のトシさんと小柄な福田さんが並んでお辞儀をする。トシさんは薄化粧をしていて、やはりすぐに美しさが目にくる女だった。二人とも沖縄ふうに髪を詰めている。どちらもシミがないのは、いつも室内にいる仕事をしているからだろう。トシさんの尻の白さが浮かんだ。
 三人でキッチンテーブルに落ち着いた。福田さんはやはり、私が買ってきたのと同じ新聞を差し出した。私は笑って、
「きのう、思わず駅の売店で同じ新聞を買ってしまった。ごめんね。気が急(せ)いちゃってね」
「いいんですよ。私がもらって帰ります」
 私はトシさんに、
「福田さんのおかげで、いつも家が清潔に保たれてます。埃一つありません」
「キョウちゃんが幸せにしてあげてるからですよ。幸せな女はこまめに動きますから。たっぷり話を聞かされてます。私もうれしいです。じゃ、福田さん、二人で晩ごはん作りましょう」
「はい。毎日朝夕、お魚を食べてもらう約束なんです」
「そうなの? きょうのお魚は?」
「アマダイです。薄く塩を振って焼魚にします。刺身と和え物も作ります」
「じゃ、私は野菜炒めとお味噌汁を作りましょう。キャベツ炒め、モヤシ炒め、タマネギ炒めをぜんぶバラバラに作るの。おいしいわよ」
「じゃ、ぼくはテレビを観てます。きょうのドラフトのコメントを聞きたいので」
 福田さんが、
「用意ができたらお呼びします」
 民放の三十分特番でドラフト会議の模様がダイジェスト放送されていた。アナウンサーが、
「本日一時より日比谷日生会館にて、第四回プロ野球ドラフト会議が行われました。去年までは非公開に行なわれておりましたが、今年からは主だった部分をマスコミに公開することになりました。予選抽選会で選択指令順位を決定し、一位、三位、五位などの奇数順位の指名順は、予選抽選の一番から十二番の順で、二位、四位、六位などの偶数順位の指名順は、十二番から一番へ遡る順をとりました。指名選手数は無制限とし、予選抽選の結果は東映―広島―阪神―南海―サンケイ―東京―近鉄―巨人―大洋―中日―阪急―西鉄、となりました。法政三羽ガラスと呼ばれた田淵幸一を筆頭に、山本浩司、富田勝、通算二十三勝ノーヒットノーラン一回の明治大学の浜野百三、通算二十本塁打の亜細亜大学大橋穣、全鐘紡のダブルエース藤原真と水谷宏などに注目が集まりました。田淵は阪神、山本は広島、富田は南海、浜野は中日、藤原はサンケイ、水谷は近鉄に一位指名されました。東京オリンピック、メキシコオリンピックの男子百メートル選手として話題を集めていた茨木県庁の飯島秀雄は、東京に九位指名されました」
 などと言っている。選択指名順というものの仕組みは意味不明なので意に留めない。法政三羽烏、全鐘紡のダブルエース藤原と水谷、東映四位金田正一の弟留広、などという言葉が聞こえてくる。田淵は巨人入りを希望していたが阪神が強行指名、四年前のオリンピック百メートル選手飯島が東京オリオンズに九位指名、今年のドラフトは空前絶後の大豊作、などと言っている。飯島はだめだろうと思った。足だけ筋肉まみれの人間は、走塁をスムーズに行うことはできない。
 ドラゴンズ三位指名の太田という男は、四角い顔が宮中のタコに瓜二つだったので、ひょっとしたらと思った。太田としか知らなかったので安治という名前が彼のものかどうか心もとなかった。入団式のときに確認してみることにした。


         二十六

 盛りつけが終わり、三人で食卓につく。タイトスカートのトシさん、ミディスカートの福田さんが私に向かい合って座る。箸が動きはじめ、めいめいが味に関する感想を洩らす。私は一品一品褒めながら、彼女たちの美しい目を見つめる。トシさんが、
「福田さんのこと、ありがとうございました。私のこともほんとうに感謝してます。とりわけ私は先が短いからだですから」
 福田さんが、
「心細いこと言わないで菊田さん。私より若々しいのに」
 私は考えてもいないことを訊く。
「道徳心は痛まない?」
「この世で一番好きな人とすることはきれいなことです。道徳的に決まってます」
 私は二人の顔を交互に見つめ、
「そんなきれいなことを、なんで世間の人は不道徳だと思うんだろう」
 トシさんが笑って、
「きちんと感じてすがすがしい幸福に浸ったことがないからですよ。私もついこのあいだまで、セックス自体スケベな汚いことだって思ってましたから」
「私もです。汚いことだから、こっそりやらなくちゃいけないって思ってました」
 案外こういう会話で、三人とも食が進む。女二人二杯お替りし、私は三杯食った。
 片づけた食器を洗いながら福田さんが感心したふうに、
「野菜の単品の炒めものって、味わいがあっておいしいものですね」
「そうでしょ? 何種類か混ぜるときはお肉を入れるといいのよ」
「はあ、たしかにそうですね。単品のときは単品そのものを味わい、何種類かのときはお肉を隠し味にするということですね。勉強になります」
「タマネギと豆腐の味噌汁もうまかった」
 彼女たちの背中に言うと、トシさんが、
「ありがとう。アマダイは塩を振ると、ほんとに甘くなるのね。おいしかった!」
 後片づけにいそしむ女たちのほのぼのとした雰囲気がうれしい。食器を洗い終わると二人は水道の水を両手で掬って口を漱いだ。コーヒーがはいる。トシさんが、
「キョウちゃん、福田さんにしたみたいな尾籠なことをお話してくれない?」
 私は愉快になり、
「風呂の縁に坐って脚を開いた女の人のオシッコって、どう飛ぶのかな。ぼくが股のあいだで見ているとして」
 多少自分でも知っていることを訊く。トシさんが、
「わあ、すごく猥褻」
 福田さんが、
「そのままだと、両足を下ろしてるので踝(くるぶし)です。それだと神無月さんにオシッコの出どころも、飛ぶ道も見えません。開いた脚のふくらはぎを持ってもらえば、神無月さんのお顔に飛びます」
 トシさんが、
「そうなの? この齢になるまでそんなことも知らなかったわ」
「女の子を育てたことがありますから、自然と」
「神無月さん、私たちのものを見たでしょう? どんなふうですか?」
「小陰唇は長い人も短い人もいるけど、二人はちょうどいい長さ。色も正常に黒ずんだ茶色。オマメちゃんは、福田さんのはとても大きくて割れ目の外に出てる。トシさんのも大きめで、皮が花のように開いてる」
「……いつか見せてくれる? 福田さん」
「ええ、喜んで。私も、花びらみたいに開いているオサネさんを見たいです」
 気を差さない会話だ。こういう会話は異様だけれども、快適この上ない。多くの人びとの忌み嫌う会話にも、まぎれもなくこんなふうな別種の愉しみがあるのだ。たとえ異様でも、実際にこういう会話がなされるという事実に救済を感じる。
 ごく幼いころに私は〈母と私〉という最も小さな単位の家庭と質のちがう〈魅力的な家庭〉が外の世界にあるらしいと感づいた。やがてそれは現実のものとなった。魅力的な家庭というのは、クマさんや小山田さんたちの集合体であり、そしていまではカズちゃんのような女たちの集合体なのだ。ふたたび和んだ会話が始まる。
「キョウちゃんが名古屋へいってからのことだけど、福田さん、好きなようにここの家を使ってくれないかしら」
「私のにおいが滲みついてしまいますよ」
「月に何度か、空気を入れ替えてくれればいいわ」
「お掃除もします」
「私も月に一度ぐらいはこようと思ってるの。庭の草取りもあるし。キョウちゃんが使うときにきちんとしておきたいのよね」
「わかります。野球選手のお友だちが寝泊りすることもあるでしょうしね」
「ねえ、キョウちゃん、あなたどうしてオーバーを着ないの。これからはとっても寒くなるわよ。見つくろって買ってきてあげましょうか」
「いらない。このあいだ半オーバーを買ったばかりだ。いやしくも大人なら靴を履け、とよく言うけれども、革靴も嫌いだ。野球のスパイクは美しいから履いてる。ほんとうはシャツ一枚、パンツ一枚で歩きたいんだけど、人目がうるさくて行動しづらい。オーバーや手袋ぐらいなら、身につけてなくてもだれも見とがめない」
 二人で愉快そうに笑う。福田さんが、
「新聞や雑誌なんかで読むと、神無月さんは幼いころからお母さんが原因で、相当不幸な目に遭ってきたみたいですけど……こんなに明るく、自然に育って」
「いま思い返すと、それほど不幸だった気はしないんだ。ただ、忘れられない。思い出というやつはしつこくてね。離れていかない」
 自分のことを訊かれ、自分のことを話し、過去を分かち合える心の伴侶を持つという贅沢に全身で浸りながら、私は微笑している。トシさんは私を抱き締める。
「キョウちゃん、あなたはやさしい人だから、いろいろ無理なことを約束してくれるけど、そんなこといっさい私たち望んでないのよ。どんな都合が出てくるかもしれないし、ほんとに時間が空いたときだけ、声をかけてね。ふだん、そういう気持ちになったら、福田さんを抱いてあげて」
「うん。心配してくれてありがとう。……あと二カ月半だと考えるとさびしいね」
「ほんとに」
 二人、指で目もとを押さえた。
「距離が離れないというのはじつにいい考えだけど、だれもがそれを実現できるわけじゃない。忘れないことがぼくには大切なんだ。いちばん大きな意志だ。人間は忘れやすいからね」
         †
 翌十四日、朝から快晴。沿線沿いに西荻窪駅往復のランニングから戻り、音楽部屋で三種の神器を終えたころに福田さんがきた。
「新しい挽き豆を買ってきました」
 持参したキリマンジャロをいれる。キッチンテーブルで飲む。
「きのう帰りの電車で、菊田さん泣いてました。棺桶に突っこんだ片脚をなんとか抜いて、神無月さんに尽くし切らなくちゃって。私も泣きました。菊田さん、無理しないで、曜日をかぎらず神無月さんの都合のいいときだけ訪ねてほしいって言ってました」
「何が棺桶だ。あんなにきれいなのに」
 サンマのヒラキ、スクランブルエッグ、板海苔、赤カブ、豆腐と油揚げの味噌汁。
 おさんどんを終えた福田さんは、部屋や廊下の掃除、窓拭き、蒲団叩き、汚れたシーツの洗濯。
「落ち葉焚きは神無月さんがお留守の、よく晴れた日にします」
 私は素振り百八十本、右手の腕立て三十回、左手二十回! 十キロのダンベル、左右羽ばたくように二十回、腹筋背筋五十回。倒立腕立て七回。
 ベンチプレスをやりにいくジムを見つけなければならない。いまのランニングコースも飽きてしまったので開拓しよう。
「福田さーん」
「はーい」
「スポーツジムを見つけて。ほら、走ったり、重量挙げみたいなことをしてる体育館」
「ああ、道場みたいな。わかりました。なるべく吉祥寺で探してみます」
「見つかったら、二十三日の土曜日からふた月分予約してきて。土曜日は福田さんのこない日だからちょうどいい。はい三万円。余ったらおかず代にして」
「菊田さんからいただいてます」
「じゃ、ドライフラワーの会合のときのお小遣いにして」
「神無月さんの下着を買います。いくらあっても困るものじゃありませんから。でも、どうして二十三日から」
「あしたから十八日まで、カズちゃんと伊豆にいってくるんだ」
「まあ、そうですか。お気をつけていってきてくださいね。そのあいだは、お掃除だけしておきます。十九日の火曜日からくればよろしいですね」
「うん。それからはずっといる」
「和子さんにお会いしてみたいです」
「いずれ、ひょいと顔を出すと思うよ。……これからは、二人きり以外のときはいつも福田さんと呼ぶよ」
「はい、そうしてください」
 転居を知らせた私のハガキに、ヒデさんから封書で返事がきた。

  …………
 郷さんの電撃契約のことで、青高じゅう、いえ、たぶん、青森じゅうが沸き立っています。相馬先生が、神無月がついに念願を果たした、提灯行列をしたいくらいだと、授業中に言っていました。東奥日報の浜中さんという、いつも郷さんの特集記事を書いているかたが、この十日に青高の講堂で、神無月郷の軌跡および奇跡、というテーマで講演しました。もちろん私も出席しました。浜中さんは、東大優勝までの流れをザッと語り、あとは神無月郷物語に入りました。郷さんが青森にやってきたいきさつを話しはじめたとたん、手で涙を拭いました。やけどをした友人との友情という段にさしかかると絶句したので、私も思い切り泣きました。会場の学生たちも教師たちもすすり泣いていました。優勝インタビューの様子を話すときは、にやにやしたり、怒ったりしていました。ある記者に東大の山下清と揶揄されたそうですね。そのとき、ヒーローとは何かというその記者の質問に郷さんが応えた言葉を、浜中さんは正確に復唱しました。
「暴虎馮河とは正反対の人。まさにあなたのおっしゃった山下清のように、自分に愛を与える人に素直に従い、その人とともに生き、どんな妨害にあっても耐え抜き、自分の才能を開発する努力を継続する強さを持ったふつうの人」
 インタビュー会場と同様、青高の講堂にも拍手が渦巻きました。私は郷さんを愛したことを誇りに思いました。青森じゅうが郷さんを応援しています。これからは日本全国の人が応援してくれることでしょう。
 お祖父さんお祖母さんは、いまや野辺地の名士です。いろいろな新聞や雑誌の記者がやってきて、根掘り葉掘り、郷さんの生い立ちやら島流しやらのことを聞いていきます。取材料としてかなりの寸志が入るようです。お祖父さんは、どごさいってもジジババ孝行の孫だでば、と言い、お祖母さんは、いづでも仏さまだ、と言っています。奥山先生が、いずれ野中に神無月郷の記念像を建てる計画があるとおっしゃっていました。
 井之頭公園のそばの一戸建ての家に越したと聞いて驚いています。豪邸でしょうね。ふと家賃が心配になりました。でも、これで郷さんも名古屋に戻るまで伸びのびと暮らせますね。あの六畳一間のアパートは窮屈だったでしょう。私には一生の思い出の部屋ですけど。
 再来年、名古屋大学と南山大学を受験します。何よりも受かるための努力が肝心だと思っています。このごろ、校内のトップテンは外さなくなりました。受験の際にはホテルから出かけますが、合格したら、アパートを決めることとか、大学の履修科目選択のこととかで、いろいろと忙しくなるかもしれません。まだまだ先の話ですが、以上ご報告まで。一日として郷さんのことを忘れたことはありません。心から愛しています。
 大好きな大好きな郷さんへ                     秀子


 福田さんにその手紙を見せた。彼女はボロボロ泣きながら読んだ。
 夕方、福田さんは南町に総合スポーツクラブを見つけて、二十三日から土曜日八回分の予約を取ってきた。会員証を私に渡す。
「入会金千円、月会費が三千円。ふた月なので六千円。合計七千円でした。余った分は、下着や、風呂トイレキッチン用品などの補充に使わせていただきます」
 二人だけの和気に満ちた夕食をした。きょうの魚はメヒカリで、天ぷらと炙り焼きにして食べた。ほかにも、ゴボウ、ピーマン、タマネギ、シイタケも天ぷらにして食べた。汁物は豚汁。うまかった。
 フジに電話する。いまからいくとカズちゃんに告げる。
「ふつうの格好で、手ぶらできてね。やっぱり旅館を決めなかったわ。ぶらぶら探しましょう」
「楽しそうだね。ぶらぶら、のんびりしよう。じゃ、あとで」
 福田さんがニコニコ笑っている。
「あしたの朝出発だから、いまから高円寺にいく」
「いってらっしゃい。旅の仕度はいいんですか」
「カズちゃんがぜんぶする」
「お靴、磨きます。駅までいっしょにまいります」
 冬ものの下着に、ワイシャツ、海老茶のセーター、厚い生地の焦げ茶のブレザー上下を着た。クロコダイルの白靴下に黒のローファを履く。吉祥寺駅まで福田さんと歩く。
「いまどきの伊東は寒いでしょうね」
「ああ、朝夕は冷えるだろうね。おたがい湯たんぽ代わりにして抱き合って寝るよ」
「それがいいですね、ときどき温泉に浸かりながら」
「風光よりも、カズちゃんといっしょにいるのが楽しい」
「はい!」
 高円寺駅のホームまでいきます、と言って、福田さんは入場券を買う。改札を入り、手を握り合ってホームへの階段を上る。総武線にいっしょに乗る。がらがらの席に座って横顔を見る。
「恥ずかしい。シワやシミが……」
「そんなのどこにもないよ」
「薄く化粧してるんです。鏡台に坐って、窓から射してくる光で見ると……おばあちゃんです。神無月さんに申しわけない」
 涙を落とす勢いなので手を握った。
「好きな顔なんだ。自分で貶(けな)さないで」
「はい。ありがとうございます」
「少人数の英語塾を開いたらどうだろう。いつまでも楽しく働けるよ」
「人を相手にするのは苦手なんです。とにかく不動産鑑定士をとります」
 福田さんは、高円寺駅のホームから階段を下りていく私に手を振った。ションボリと肩を落としている。別れるとき、女はたいてそんな様子になる。そんなふうにして切なく別れる人びとも、いつか死ぬ。さびしさに胸を締めつけられる。


         二十七

 ボルボを横目に玄関戸を開けると、カズちゃんの声がした。
「キョウちゃんがきたみたいよ。素ちゃん、シチュー温め直して」
「オッケー」
 キッチンに顔を覗かせ、声を投げる。
「めしはいらないよ」
「シチューぐらい食べれるでしょ。千佳子さん、お風呂入れて。ごはん食べたらみんなで入りましょ。あしたの支度はぜんぶできてるから、あとは出発するだけ。あ、キョウちゃん、トモヨさんから手紙きてたわよ」
「ぼく宛てに?」
「私宛て。でも、キョウちゃんにも読んでほしい感じだった。妊娠が確実になったら、キョウちゃんにはあらためて書くつもりじゃない?」
 風呂を入れ終わった千佳子がカズちゃんの机から封筒を持ってきた。中身を取り出すと写真が五、六枚と便箋二枚。
 かわいらしいTシャツを着た直人のアップ、直人を抱いたおトキさんを賄いやトルコ嬢たちが和やかな笑顔で囲んでいる集合写真、ステージで直人がマイクを咥えている写真、主人夫婦と直人が寝転がって絡み合っている写真、主人が直人を膝に乗せてうれしそうに笑う横から女将が直人の柔らかそうな髪を慈しむように撫でている写真、皺一つないトモヨさんだけの写真など。四人で覗きこむ。

 ついこのあいだやっと歩けるようになった直人も、もう一歳六カ月。足どりもずいぶんしっかりして、体力もついてきました。いまでは、ちょこちょこ駆けだしたり、転んでも自分で起き上がるようになりました。私たちの前で、腰や手を振って、テレビで覚えたてのフラダンスのまねごとを披露したりもします。塗り絵もかなりできるようになりました。
 あれから生理がきませんので、たぶん妊娠したと思います。もうしばらくしたら、病院にいってしっかり診てもらいます。妊娠していれば、来年の七月か八月ごろ、四十歳で二人目の子供に恵まれます。安産だと思いますので心配しないでくださいね。子供の名前は、お父さんとお母さんが考えています。気の早いことです。
 後便で、お嬢さんと素子さんと千佳子さんに、秋から冬にかけてのブラウスと、セミロングのスカートと、パンティストッキングをお送りしました。お嬢さんは黒っぽい色、素子さんはライトレッド、千佳子さんは淡い水色のものを選びました。私の見立てですが、センスが悪かったら、家の中の普段着にしてください。郷くんの好物のういろうも送りました。
 時節柄、風邪などひかれぬよう、ご自愛のほど。
     和子さま御許に                         智代 

「おトキさんを中心にした写真は、きっとおトキさんから山口にも送られてるな」
「ぜんぶ送られてると思うわ」
 鮭の切り身のソテー、鶏肉の入ったクリームシチュー、サラダ。三人は食事をしないで私を待っていたようだ。せっせと盛りつけをする。
「じっと見とるね。どしたん」
「さっき晩めし食ったんだ。このサラダ、何?」
「シーザーサラダ。知らん?」
「知らない」
「ええと、刻みニンニク、塩、胡椒、レモン、オリーブオイルを混ぜたドレッシングをレタスの上にかけて、パルメザンチーズとクルトンをまぶしたものや。ほんとかどうか知らんけど、ジュリアス・シーザーが好きやったんやて。料理の先生が言っとったわ」
 カズちゃんが、
「私が本で読んだ話だと、五十年くらい前にメキシコの『シーザーの店』というレストランで、シーザーという名前の料理人が初めて作ったものらしいわ」
「そっちのほうが正解みたいですね」
 千佳子が笑う。
「とにかく素ちゃんが作った自信作よ。ちょっとビール飲みながらでもつまんでみて。レタスは手で食べるのよ」
「クルトンて?」
「食パンを賽の目に切って炒めたもの」
 クルトンとチーズをうまくよけて、レタスだけを食べた。うまいものではなかった。素子に見えないように横を向いて、ビールで口を漱いだ。
「どう?」
「うまいね」
「嘘。顔がうまい言っとらんが」
「どれどれ」
 カズちゃんも試食する。
「うん、女向き」
 千佳子も舌に載せ、
「ほんと。チーズとレモンが立ってます。もりもりは食べれませんね」
「でも、こういうものやよ」
 彼女たちもビールを流しこんだ。
「野球選手らしくないわね。ごはんはいいから、このくらいの量のシチュー食べちゃいなさいよ。鶏は筋肉を作るのよ」
 渋々口に入れる。
「あ、うまい」
 鮭のソテーもクリームシチューも美味だった。
「鶏肉が柔らかくて、くさみがない」
「お姉さんにはかなわんわ。勉強より実践やな。作って食べ、作って食べせんとあかん」
 彼女たちはめしを二膳ずつ食べた。相変わらずの健啖家たちだ。
「お姉さん、生理終わった?」
「とっくに終わったわ。安心して出してもらえる期間よ。旅が楽しみ。二人はきょうしてもらいなさい。ひさしぶりでしょ」
「お姉さんに悪い」
「いいのよ。あしたから好きなだけキョウちゃんを独り占めできるから」
 千佳子が、
「私は真っ最中なので、十日後ぐらいを楽しみにしてます」
 素子が、
「あ、いま、ジュッてきた。うち、すぐグロッギーになるから、大事にやってもらう」
「寝るときにすれば、グロッギーになっても何回かできるよ。風呂のあと、腹ごなしに散歩しよう」
 千佳子を除いた三人で風呂に入る。カズちゃんが、
「水原監督があした正式就任ですって」
「いよいよドラゴンズが動きだすね。胸が弾むな」
 素子が、
「キョウちゃんのホームランの滞空時間が載っとったよ。三・○一秒から、六・八八秒のあいだで、場外ホームラン以外は、ほとんど五秒以内にあっという間に飛びこむホームランですって。スイングスピードは時速百六十五キロから百七十五キロ、打球の角度は八十パーセント以上二十度から二十五度、打球スピードは時速百五十キロから百七十キロ。どれもこれも、大リーグでもナンバーワンクラスらしいわ」
「うーん、なんだか自分でも信じられないね」
「神さまは人が信じるものでしょ」
 下駄とサンダルで、灰色の夜空を見上げながら散歩に出る。商店街を抜け、南口のロータリーを横切る。中途半端な高さのビル街を縫って、中央ゼミナール、ポエム、末川神社と過ぎ、小さな公園に到る。
「千佳子はさっきのゼミナールにいつまでかようんだっけ」
「一月の末までです。十二月一日が最後の駿台模試。ムッちゃんといっしょに受けます」
「いっしょに勉強してるの?」
「わからないところは電話で訊いてます。和子さんの留守中、ムッちゃんもここに泊りがけで勉強しにくることになってるの。素子さんと三人交代で料理作り」
「楽しそうだな」
「二人にはしっかり勉強してもらって、料理はうちが腕揮うわ。一生懸命やってや」
「すみません。名古屋大学は、北大より少し難しいぐらいのレベルで、早稲田よりは簡単だろうって予備校の先生が言ってました」
「それでも気を抜かないようにせんとね」
「がんばります。神無月くんのそばで暮らすためだったら、何だってできます」
 明るく胸を張る。
「こんなとこまできたことなかったがや。けっこうええ場所やがね」
 墓地を過ぎて、豪壮な邸宅で行き止まり。引き返す。
「阿佐ヶ谷だけじゃなく、高円寺にもポエムがあるとは知らなかった。ポエムは長居できるんだ」
「それも流行る秘訣かしら。私はいやだな。学生に勉強なんかされたら図書館になっちゃう。おいしいコーヒー味わって、サッサと帰ってもらわなくちゃ」
「ほうよほうよ。仕方なく長居しちゃうならいいけど。長居しにくる客はあたしが追い出したる」
「その話しぶりだと、もう、喫茶店は着工してるんだね」
「そうなの、キョウちゃんの入団が決まってすぐ。則武の一等地に。おまけに角地よ。椿神社のすぐそば。閉店した寿司屋さんを取り壊して、二階建ての頑丈なビルにするんですって。二階は住まい。キッチン、風呂、水洗トイレがついて、六畳が三部屋もあるんですって。それでも二階の半分以上のヘーベーが残るらしくて、もう二世帯分作っておくから好きなようにしろって。余った空間は納戸にするらしいわ。店の道具をしまっておけばいいわね。キョウちゃん、何かお店の名前考えてくれる?」
 カズちゃんは手帳を取り出して構えた。
「二階がそれだと、相当大きな店だね。素子が勤めてた名古屋の水仙という名前もよかったけど。……アイリス、かな。看板は濃い紫。ファストフードの雰囲気がなくなって、老舗のたたずまいになる。看板は着て歩く洋服じゃないんだから、ドッシリ貫禄があるものがいい。赤や黄色はだめだ。軽っこい。店内はルノアールふうにゆったり。テーブルを置く間隔を広くして、カウンター以外の椅子は黒革の少し硬めのソファ。長テーブルに長いソファという一画も雑ぜる。カウンターの仕事場がそっくり見えるようにする」
「いただき! そのとおりおとうさんに伝えるわ」
「店員はウェイトレス五人、ウェイター二人。カウンター助手は赤いエプロンをした男二人。カウンターの中と外に男がいることで引き締まる。カズちゃんと素子は、ビシッと赤いベストを着てカウンターに入る。三人のウェイトレスは白シャツにラフな黒のスカート、ウェイターは白シャツにアイロンの効いた黒ズボン。蝶ネクタイはしない。不潔な従業員はドンドン切る。相場よりも給料を高くしないと不満が溜まる。採用の面接は慎重にね。髪型のトッポイ男や女はぜったいだめ。首とか胸とか耳にアクセサリーをつけてたり、ヒゲを生やしたりしてるやつもだめ。気取った雰囲気じゃなく、清潔な雰囲気を出すんだ」
「ドンピシャね! 私のイメージどおり」
「自分がいきたくなる店の雰囲気を考えただけだよ」
 千佳子が、
「天才ですね……。私とムッちゃんを、大学の夏休みや冬休みに、バイトで使っていただけませんか」
「たまにはいいけど、本業は大学生だってことを忘れないでね。アルバイトは楽しみの一つにしなさい。ぜったい受かるのよ」
「はい!」
「北口も歩いてみよう」
 ガードをくぐって出た北口もバスロータリーになっている。
「いまカズちゃんの家があるすぐそばの床屋の二階に、善夫という叔父が住んでて、東大を受ける前の日に挨拶にいったことは知ってるよね。幼いころに野辺地で兄弟同然に暮らした人だ。阿佐ヶ谷のアパートを借りるとき、保証人になってもらった。おふくろの妹の連れ合いでサイドさんという、小さいころからぼくに英語を教えてくれた人が埼玉の入間にいて、合格して報告にいったとき、善夫もついてきた。そこの息子で、むかしから小意地の張った従弟に、ぼくが島流し時代のことでいびられたのを見かねて、実(じつ)のある態度で庇ってくれた。それだけのことだけどね。思い出にもなっていないね」
「じゅうぶん、いい思い出よ。もうその床屋さんにいないのかしら」
「いないと思う。どこかの大病院の地下室でボイラーマンをやってるはず。住所も変わったんじゃないかな」
「あたしには、ええ思い出がなんもあれせん。暗い部屋のちっちゃな卓袱台、おかあさんがシミーズ姿で昼寝しとる格好、毎日洗濯させられたり、ごはんを作らされたこと、妹のおねしょの蒲団をしょっちゅう干したこと。学校のことなんか、ぜんぜん憶えとらん。成績はビリのほうやったし、駆けっこも遅かったし……」
「でも、美人だった」
「ううん、頭にシラクモの丸禿げ作って平気にしとったもんで、お乞食さんいうあだ名やった」
「いやな思い出だね」
「……初めて客とらされたとき、口惜しくて、トラックに飛びこもう思った。……いまは夢みたいやわ。このあたしが勉強して資格を取ったんよ」
 カズちゃんが肩を抱いた。
「夢でないわよ」
「あのときキョウちゃんが通りかからんやったら……」
「なんべんも聞いたわ。キョウちゃんを素ちゃんにプレゼントしたのは、節子さんよ。私も、キョウちゃんが節子さんにかまけて夜遅く帰るようになって、それがもとでキョウちゃんがお母さんと大喧嘩したおかげで、キョウちゃんと結ばれたの。ほんとに不思議な巡り合わせね」



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