七十
 
 正三時、玄関におとないの声がした。返事をして出る。法子母子が立っている。アッと思い出した。時間は神と似ている。生きているかぎり、いつまでも周囲に存在し、死ぬまで終わりがない。生きているあいだ、どんなものも敵わないほど強大で、そびえる山も屈強の軍隊も太刀打ちできない。そして時間は命のすべてを忘却の棍棒で均す。痛みをつくろい、苦難を消し去り、喪失をとぼけて受け止める。時間が神なら、記憶は悪あがきをする反逆者にちがいない。
 いつも鷹揚な立ち居をする母親が、いまは恥らってうつむいている。
「とつぜんきてごめんなさい。でも神無月くん、約束してたでしょ?」
「うん、忘れてないよ」
「あれからすぐおかあさんに提案したんだけど、笑い飛ばされちゃって、それで話が終わったものだと思ってたら……。きょう一日悩んでるふうだったから、どうしたのって訊いたら、急に言い出したの、どうしても一度神無月くんに抱かれたいって。それじゃ一人でいきなさいって励ましたのに、どうしてもついてきてって頼むから。おかあさん、私お仕事終わったら夜中過ぎにきてあげる。じゃ、うんとかわいがってもらってね」
 母親の肩をやさしく叩き、戸をカラリと開けて出ていった。私は心中大あわてで、それでもニコニコ笑いながら手を差し出す。母親も手を差し出し、私が握るままにする。まさかと思ったことが現実になっている。神の時間の中で、反逆者が活動しはじめる。均されるために。一度の反逆ならばすぐ均される。
「ほんとにお母さんが言い出したんですか?」
「……はい」
「デートとか、会話とか、ロマンチックな手続なしでいいですね」
「はい」
 彼女の顔をこれほど間近で見たことことがなかった。化粧を落とした顔が、頬のたるみを除けばシミひとつないのに気づく。うつむいた目が法子と同じ大きな二重だ。儀式張らないことにした。
「寒かったでしょう。日中でも十度あるかないかですからね。お風呂に入りましょう」
「え……」
 彼女は一瞬息を呑んだが、女らしい笑顔を作ってうなずいた。
「お風呂に浸かって、ゆっくり話せば、緊張もほぐれます」
「はい……」
 式台に上がると、背は私の肩ほどまである。百六十センチに足りないくらいだろう。脱衣場に連れていき、モスグリーンのオーバーを脱がし、スカートを脱がす。それに合わせるように私もジャージの上下を脱ぐ。パンツとランニングシャツだ。当然のことにまったく勃起していない。横を向いて立っている母親の厚いツーピースの上着を脱がし、ブラウスとシュミーズを脱がす。パンティストッキングとブラジャー姿になる。ストッキングの下に尻の半ばまでしかないパンティが透けている。大きな尻だ。しかし、外から見るほど贅肉がついていない。吉永先生と同じだ。若作りのパンティが似合っている。思わず脂肪のついた下腹をさすった。
「あ……」
 柔らかくて性的な魅力にあふれている。
「きれいなからだですね」
 抱き寄せ口づけをする。小刻みにふるえている。少し煙草くさい。最初のころのユリさんがこのにおいだった。彼女はむかしの記憶が回復したかのように舌を入れてくる。応える。右手でブラジャーの胸を揉み、左手でパンティストッキングの股間を丁寧にさする。からだが硬く緊張しているせいで、ほんの少しの声も洩らさない。パンストを脱がし、ブラジャーを外す。垂れて大きい乳房だ。唇を離して胸を隠そうとした。
「隠さないで」
 親指大の乳首を含む。かすかな吐息が洩れる。ようやく勃起が始まったので、私は片手で自分のパンツを脱ぎ落とした。彼女のパンティの中に指を入れ、襞を探る。熱湯のようになっている。こんな熱い襞は初めてだ。
 ふたたび唇を求めてくる。舌を絡め合いながら、襞をこすり上げる。手触りに関心はない。早くすませようと思っている。かわいらしい声が出た。パンティを引き下ろし、彼女の手をとって私のものを握らせる。一瞬夢中で握ったが、サッと離した。見下ろす。小さく叫んで、両手で顔を覆った。しかしすぐに手を外して両膝を突き、血の入りかけた性器を口に含んだ。
「さ、お風呂に入りましょう」
 風呂へいき、沸きはじめた湯に母親を沈ませ、顔の前に私のものを突き出す。自分のした行為をつづけたいだろうと思ったからだ。
「好きなだけ見て、触ってください」
 抑制していたものが急に取り払われたのだろう、すぐに含もうとした。怒張の度合いを増しているので、歯に当たって入らない。法子よりも小さい口だ。しかしとうとう含みきり、懸命に舐めた。ハアッと言って吐き出す。それで羞恥心が一挙に崩壊したようだったので、いっしょに湯船に浸かった。
         †
「まだイカないでください、まだイカないでください」
 女との褥で初めて聞く言葉だった。法子の母親は、若いころから感覚を中途半端にしていつも男に裏切られてきたようだった。〈そこ〉で彼女はいつも終わっていたのだ。
「イカない、安心して」
 私は抽送を速く激しくして、うねりの気配を待った。ゆるい膣なので射精する心配はなかった。
「ああ、気持ちいいです、すごく気持ちいいです、まだだめよ、だめよ!」
 こう言いながら彼女はいつも裏切られてきたのだ。法子の笑顔を浮かべながら、それから三分も私は励んだ。
「あああ、うれしい! きました! 熱いい! いくう、いくう、イク!」
 両脚でウンと突っ張った。私のものが外れた。私は〈誠意ある〉射精をするために、彼女の腹を抱えて後ろ向きにし、硬直している尻を割って突き入れた。ゆるいなりに激しく脈動していた。三十秒も突けば私にも高潮が訪れる。猛烈に速く抽送する。
「も、だめ、神無月さん、ああいい、ああいい、熱い、イッちゃう、またイッちゃう、ああーん、イク!」
 一瞬固く迫った壁にこすりつけて射精した。
「あ、うれしい! イクイクイク、あ、あ、大きい大きい、大きい! イクウ!」
 律動もしっかり伝えた。両手を中空で拡げたり握ったりしている母親を抱えて蒲団に横たえる。もうするべきことはない。
「むン、むン、気持ちいい! あああ、だめ、イク! ふんふん、イク!」
 いつ止むともなく痙攣する。私は、してはいけないとわかっていても、指を立ててみぞおちをそっと撫ぜたり、胸を揉んだりして、快感に拍車をかけた。どこまでアクメの余韻がつづくものか興味があった。腹が跳ねる動きが少なくなるのを辛抱強く待った。それは数分つづき、やがて落ち着いた。母親は顔を挙げ、ほてったほほに輝く笑みを浮かべた。口を吸うと全身を預けてきた。
「ありがとう、神無月さん。長年の滓(おり)がぜんぶ流れ出していきました。ごめんなさい、はしたない声を上げてしまって」
「よかったですね」
「……法子が命がけで愛している理由が〈からだ〉の底からわかりました」
「ハハハ、心の底じゃなく」
「心の底は、神無月さんに遇ったとたんに感じました。法子は私の〈からだ〉にプレゼントをしたいと思ったんです。いただいてよかった。あんたに悪いって言ったら、神無月さんに抱かれたらそんな気持ち吹っ飛んじゃうからだいじょうぶよって笑うんです。ほんとにそうでした。生まれてきて、こんなにうれしかったことはありません。法子には女の歓びを当然知ってるみたいに振舞ってましたけど……」
「いつも中途半端なところで放り出されてたんですね」
「はい。イカないでって夫に叫んだら、夫は努力して長くしてくれたこともあったんですけど、そうしてもらっても私のほうがどうしても最後までいきつけませんでした。というより、イカないでと夫にお願いしたのは、ただ気持ちのいい感じを長つづきさせたかっただけのことだったんです。それがセックスだと思ってたんです。女はこういうふうになるものなんですね。こうならないから……夫は外で遊び歩くようになったんだわ。きょう初めてわかりました。そのギリギリのところを押して喜ばせるには、神無月さんのような根気と技術と、それから、生まれながらのやさしさが必要だって」
「これからは、少しでも心の動いた男性とセックスしたほうがいいですよ。もう、ちゃんと最後まで感じられるからだになりましたから」
「ほんとですか!」
「ほんとうです。ご主人はこらえ性がなかったんですね。ぼくはやっぱり法子を大切にしたいので、お母さんとはこれっきりにします」
「はい」
 母親はしみじみと私の萎えたものを握って、
「法子がここにくるとき言ったんです。神無月さんに抱いてもらえるチャンスは、いつもほんの少ししかない、抱いてもらえるときに抱いてもらわないと後悔する―よくわかりました。ほんとうにありがとうございました。今夜のこと、一生の胸の中の宝にします」
 二人、シャワーで局部を清潔にし、身なりを整え、夕暮れの公園に散歩に出た。
「神無月さんが野球選手だということをフッと忘れてました。不思議な人。何かをしてる人に見えないんです。法子は、ただそこにいる人って言ってましたけど」
「何も学習しない人間だということです。趣味以外は」
「ええ、世間の枷を感じてはいるけど、その枷を学習もしなければ、怖がってもない。いつ世間に殺されてもいいと思ってる。だからいつも死を背負ってる。簡単に死んでしまいそう。みんなそれを感じるから、神無月さんをちょっとした油断で殺さないようにしてる―法子はそう言うんです。全身全霊で愛した女以外は感じられないことですね」
 吉祥寺通りを渡って緑地帯に入り、井之頭公園の裏手から、丸太を土に埋めて段にしてある階段を降りていく。降りきるまでかなりの距離がある。階段を降りきって平地の遊歩道に出る。夕方だが、まだ大勢の散歩者がいる。首からカメラを提げた老人、両手に子供を連れた夫婦、自転車に乗った小学生。乳母車がやってくる。
「かわいいなあ」
 男の子の顔を思わず覗きこむ。
「お子さまがいらっしゃるとか」
「はい、名古屋の駅西の北村席というところに。いま高円寺にいる北村和子さんの実家です。トモヨさんという、三十九歳の女の人に産ませた子です。直人といいます。カズちゃんのお父さんがトモヨさんを養子縁組してくれたおかげで、まだ認知はしてませんが、世間に恥ずかしくない母子として暮らしています」
「ものすごい人間関係ですね。神無月帝国……私も郊外の一員になったんですね」
「これからはそういう表現はしないでください。帝国でも城でもない。個人的な秘密の関係です。帝国ほどの強制力もないので、いつでも足抜けできます」
 母親は愉快そうに笑い、
「少なくともユートピアなので、足抜けなんかしたくならないでしょう。あら、茶店が」
「団子でもたべていきますか?」
「はい」
 ベンチに腰を下ろし、みたらし団子を注文する。すぐに茶といっしょに出てくる。母親は横齧りにして口もとを汚す。私は指で拭い取ってやり、舐めた。
「なんて隔てのない人……。いるんですね、こういう人がこの世に」
 私は灰色の池の面や、ざんばら髪のような木立を眺めながら、
「人が鬱蒼とたくさんいるのに、物さびしいですね。大勢の人がみんな独りで生きてるみたいだ。人は小ぢんまり寄り添っていればさびしくないのに。……この公園ともしばしのお別れです」
 母親もあたりの人や景色を眺めながら、
「あの家には、一年にどのくらい帰ってくるんですか?」
「不定期に、ひと月くらいじゃないかな。遠征のときはほとんどホテルに泊まるから。ところで、酔族館の契約はうまくいったんですか」
「はい。オーナーさんがいい人で、純利の三十パーセントを入れてくれればいいと言ってくれました。何もしないで泥棒みたいなものだが、店舗料もあるし、山本さんの買取りの口約束に期待してたところもあったから、その違約金のつもりでお支払いください、と言うんです。法子の店は中央線沿線でも一、二を争う有名店になったので、再来年の一月にほかのママさんに引き継いでもじゅうぶんにやっていける、とも言ってくれました。いまは月に最低二千万は売り上げる店ですけど、波があるので少なく見積もって千五百万として、給料、諸経費、税金を引いて千二百万、オーナーさんに三百六十万、法子に八百四十万残ります。そこから生活費、衣料費を引いても八百万。最低でそれだけの見積もりですから、法子は一億円以上のお金を手に名古屋に戻ってきます。二、三千万を新しい店を出す資金に回したとして、七千万円残ります。私も援助しますから、確実にそれだけのお金は残るんです。ぜんぶ神無月さんのまんいちに備えてとっておくお金だと法子は言っています。まんいちというのは、たぶん野球をやめたときという意味だと思います。病気とかケガとかいうことではなく……」
「焼肉でも食べましょう」


         七十一

「なんだか、いままで生きてきた毎日が嘘みたいです。食べて、寝て、お仕事して、結婚して、子供を産んで……ぜんぶ自分がしてきたことじゃありません。人まねか、本能かのどちらか。でも、きょうからはちがう。自分がしたくてすることです。嘘でない、ほんとうのことです」
 吉祥寺駅のガードをくぐりながら母親が言う。
「そこまで自信を持つのは考えものですよ。きちんとあきらめてないと」
「もちろんです」
 五、六分歩き、少しさびしい通りへ右折する。
「このあたり、法子のマンションのそばでしょうか」
「もう少し右手へいった吉祥寺図書館のそばです。うん、焼肉屋があった。李朝園。うまそうだ」
「いくらでも食べてくださいね」
 ハンドバッグを叩く。
「お金は、連れていった人が払うものです」
 店内に入ると、小さな公園ぐらいの大箱の造りで、整然と長方形のテーブルが並んでいる。二十卓もあるだろうか、換気が強力なせいで煙が立ちこめていない。繁盛している店だ。席に案内され、ハンドバッグを詰めるようビニール袋を渡される。脂のハネよけの紙エプロンをする。特上リブロース、特上カルビ、鶏もも、カルビクッパ、半ライス。テーブルに埋めこんだ大きな七輪に炭が熾(おこ)っている。その上にこれも大きな丸い金網が載せられる。母親はトングで肉を載せていく。手慣れている。
「肉は苦手と聞きましたけど」
「最近ではだいじょうぶです。よく焼けば」
「これだけいいお肉だと、サッと焙るだけでいいんですよ」
「いや、焦げ目がつかないと……」
 ホホホと笑う。彼女は自分の分もよく焙った。
「あらほんとだ、おいしい! よく焼くと香ばしい」
「ね。じゃなきゃ、〈焼〉肉とは言わないでしょう?」
「何でもおっしゃるとおりだわ。これからはよく焼いて食べなくちゃ」
 肉と半ライスを平らげると、店員の手で網が替えられ、出てきた鶏もも肉を焼いて食う。
「これもうまいな。柔らかくて、パサパサしていない」
 すぐに食い終える。カルビクッパは大鉢できた。韓国雑炊。このめしもスムーズに腹に入った。
「よし、終了!」
「終了!」
「スタミナ、充填!」
「充填!」
 声を出して笑い合う。小グラスの生ビールを一杯ずつ飲んで、店を出る。腕を組んでくる。
「ああ、幸せ!」
「まだまだ。ジャズを聴きましょう。腹ごなしのつもりで、またうろうろ探しましょう」
「はい!」
 真っすぐ吉祥寺通りへ戻り、信号を渡って東急百貨店沿いに歩く。
「新宿の伊勢丹もそうだけど、こういう百貨店裏の路地に掘り出しものの店があるんですよ。ジャズ喫茶がなかったら、コーヒーだけ飲んで帰りましょう」
「はい」
 ゴチャゴチャと商店やスーパーが雑然と並ぶ小路に入り、百貨店の裏手へ回りこんで何ほども歩かないうちに、ヘンリーの店というジャズ喫茶があった。
「ほら!」
「ほんとだ、信じられない!」
 法子とソックリな笑顔で、からだを左右に振りながら喜ぶ。縦長の格子ガラスのドアを押して、花柄の布壁に沿って階段を昇る。三階まで昇る。といっても短い階段なので、昇り切ってもふつうの家の二階の高さだ。店内に入ると澄んだ楽器の音色にからだを包まれた。薄紫の縦縞の布ソファ。磨き抜かれたテーブルが六卓。壁に洋書がギッシリ並んでいる。店の奥にJBLの大型スピーカー、カウンターに置いてあるプリメインアンプはラックスマンの真空管アンプ、プレーヤーはマッキントッシュ。
「いまかかっている曲は、マイルス・デイビス。ミュートを効かせた押し潰すようなトランペット。協演のサックスはジョン・コルトレーン。ピアノはビル・エヴァバンス。カインド・オブ・ブルーというアルバムの中の、ブルー・イン・グリーンという曲だね」
「そうなんですか?」
 ヤスコはうれしそうに目を瞠る。
「ふうん、本がたくさんあるな。スタディって、書斎の意味だったのか」
 長髪の律義そうな青年が、カウンターの中でグラスを拭いている。私たちのほかに三つのテーブルが埋まっている。ソファに座って青年に注文する。
「ジントニック、二つ」
「はい」
「あら……」
「名前だけ知ってるものを確認してみたくて」
 文庫を読んでいる中年の男、腕組みして目をつぶり一心に聴いている男、なぜかオムライスを食っている男。ぜんぶ店の雰囲気に溶けこんでいる。
「男の音楽という感じですね」
「小夜子さんが好きだった音楽」
「あの子は男だから」
 ジントニックが出てきた。ふつうのタンブラーに透明な液体、氷のかたまりが底まで沈んでいる。タンブラーの縁にライムを飾ってある。母親はクイと飲んだ。私はチビリと飲んだ。サイダーから甘みを取り除いた味。松の葉の香り。母親が、
「おいしい!」
 と褒めた。私はよくわからないので微笑する。
「ああ、何もかもすばらしい。ぜんぶ極上。連れ歩いてくれる人は超極上!」
 すさまじく率直な人間だ。がんらいこういうタチなのだろう。
「法子がかわいらしい人だって言った意味、きょう一日でよくわかりました。とにかくヤスコさんは精いっぱい生きてるんですね。そういういじらしい人間しか、人はかわいらしいと感じないものです」
「あら、名前を呼んでくれた」
「法子が教えてくれたんです」
         †
 とっぷり暮れた。母親を居間のテレビの前に残し、庭へバットを振りに出る。母親は炬燵にあたって、NHKドラマのアヒルの学校を観ている。ガラス戸越しにときどきこちらを眺める。奇妙な図だが、私が習慣どおりに生きることで彼女の肩の荷は軽くなる。私のこの姿を見てきっと彼女はこう思うだろう。
 ―自分のしでかしたことは大した不徳ではないわ、この青年の習慣を変えられない程度の日常的なことよ、ホッとするわ、私は彼とすれちがったただの通行人、法子だってきっと私の荷が軽いことをわかっていて孝行心を振舞ったのね。
 むろん彼女にはそんな気持ちの欠けらもないだろう。しかし私は彼女にそう思われることを期待して一心にバットを振った。
 区切りがつくと、バットを置き、居間に笑いかける。キッチンにガスストーブを焚き、コーヒーを飲みながら、あえて世間話をする。母親はノラの話をした。
「最近、カラオケを入れたんです。みんな歌ってばかりで、むかしみたいなシッポリした会話ができなくなってしまいました。で、二日ぐらいやめてみたら、さっぱりお客さんがこないんです。仕方なく、結局カラオケ復活」
「きょうの喫茶店はよかったですね。レコード一本。夜はもっと客がくるだろうから、あれできちんとした商売になってる」
「バーやスナックは頑固を通せないところがあるんです。女相手に自己主張したくてくる客が多いから、歌のうまい人は歌自慢がやめられなくなるんですね。結局、客質が悪いということですけど、法子は頑固を通して、客質を上げることで成功したみたいです。パプやクラブだとそういうことができるから、名古屋の店もその線でいくでしょう。スケベな客や、自己中心的な客より、じつはまじめに飲んでくつろぎたいというお客さんのほうが圧倒的に多いんですよね」
「あの神宮小路は、永遠に小路のままなんですか」
「ノラのある通りは、有名な神宮小路の一本手前の道なんですよ。道幅は神宮小路の二倍あります」
「そうか、たしかに踏切に近い小路が一本ありましたね。人が横に並んで三人ぐらいしか通れない道でした。あの小路には一度も入ったことがない。ノラは広い道のほうですか。あの通りは、入り口の左に少し駐車空間があって、甘味屋があった」
「はい、そうです。あの通りでお酒を飲ませない飲食店はそのたった一軒で、入口右の夕月さんからずうっとオール飲み屋さんです。飲み屋でないのは、ノラの左隣のパーマ屋さんと、目の前の神宮日活と、その横のお風呂屋さんだけ。ノラの道も世間では神宮小路と呼ばれてますけど、ほんとうは名のない通りです。ノラの住所は熱田区神宮三丁目。あ、住所と電話番号書いときますね。あと一年は営業しますから」
 バッグから手帳を出して書きこみ、引き破った。それから立ち上がって電気釜を覗き、
「ごはんが余ってますね。豆腐は?」
「冷蔵庫にあるはずです」
 母親は冷蔵庫を開け、
「半丁残ってますね。ワサビの端っこもあるわ。豆腐の混ぜごはんを作りましょう」
 フライパンに一膳のめしと、ちぎった豆腐を入れて炒め、擂りワサビを溶かした醤油をかけてでき上がり。
「どうぞ」
 掻きこむと、美味だ。
「うまい」
「でしょ? 小夜子や法子が小さいころ、風邪をひいたときにかならず食べさせてたんですよ」
 明るい。私という荷は、担ごうが、下ろそうが、彼女にとって厄介なものではなさそうだ。きょう一日の彼女のでき心が鎮まれば、私たちは〈母親〉と〈子供〉としてつつがなく長い付き合いができるだろう。
 居間のテレビの前に肩を並べ、スポーツニュースを観る。ヤンキース、神無月に食指を伸ばす、国際スカウトは慣行により本人と直接交渉禁止―と言っている。何のことやらわからない。小山オーナーがマイクの前でしゃべっている。
「私は神無月選手を日本国民の誇りと認識している。その認識には莫大なプレッシャーが伴う。プレッシャーに耐えて国民に応える責務を私は了解している。この種の話は今後何度も繰り返されるだろうが、日本国民のために、われわれはけっして神無月選手を手離さない」
         †
 十二時を少し回って玄関の戸が開いた。
「こんばんは!」
「あら帰ってきたわ」
 母親が式台へ出ていき、
「お疲れさま。寒かったでしょう」
 と労いの言葉をかけた。私も出ていき、お帰り、と笑いかける。法子は輝くような笑みを返した。紺のオーバーを脱いで私に渡し、ハイヒールを脱ぎ揃えながら、
「急いできたわ。十一時に閉めて、ミーティングなし。スタッフを送り出して、レジ伝票と売り上げを照らし合わせて。……あらあ、おかあさん、きれい! 大切に抱いてもらったのね」
 涙目になって母親の手を握る。母親も泣きださんばかりになっている。
「神無月さんが、じょうずにリードしてくれて……。どんなプレゼントよりもうれしいプレゼントだったわ」
 二人キッチンの椅子に腰を下ろし、肩を抱き合った。
「よかったわねえ、ほんとにほんとによかった」
 母親は新しい涙を流し、
「神無月さんをいっときでもあなたから奪っちゃって、ごめんなさいね。許してね」
「私はいつでも、好きなだけ神無月くんから愛してもらってるから平気よ。おかあさんはとうとう神無月くんに愛してもらったのよ。神無月くんは気持ちの動かない女とはできない清潔な人なの。私、うれしい」
 ヤスコは指で涙を拭い、私に向かって微笑みながらうなずいた。私はどう応えていいかわからず、ただうなずき返した。
「法子はいつもこの調子ですか?」
「いつになく、はしゃいでます。ほんとにうれしいんでしょうね」
「法子……ぼくは……リクエストを受けて女の人を抱くのは、ヤスコさんを最後の女にするよ。……と言うか、ぼくは、長いあいだぼくに人生を捧げてきた女の人を大切にしたいんだ」
 母親は深く私にお辞儀をした。二人は見つめ合って話を始める。
「おかあさん、わかった? 大切な思い出にしてね」
「……ええ。身に余る幸せだったわ。大切にする」
「大好きな人と一度っきりというのは残念でしょうけど、神無月くんは決意の堅い人なの。おかあさんはかわいくて女っぽいんだから、これからまだまだ恋愛のチャンスはあるわよ。男の人の観方も変わったと思う。もっと余裕のある目で男の人を見れるようになったと思うわ。私は、おかあさんがいっときでも幸せになって、女を取り戻してくれればそれでよかったの。差し出がましいことをしたと思わないでね」
「いいえ、法子、感謝してるわ。ほんとにありがとう。おかあさん、これから生きていくのに大きな張り合いができたの。ばりばり仕事をするわ。神無月さん……これからも長くお付き合いしてくださいね」
「もちろん! 機会があるときはかならずお会いしましょう」
 母親はふと私の横顔を見つめ、
「不思議な人ですね。こんなに好きなのに、ここにいることを忘れちゃう」
「神秘的でしょう? ホッとするでしょう? だからそばにいてもいなくても、焦らないで深く愛せるのよ。神無月くんの周りの女の人のことも自然に見つめられるの。私、小学校の校庭で神無月くんを初めて見たときから、その気持ちぜんぜん変わってない。贔屓なんかしなくても、ぜったい離れていかない人」
「……雅江さん、いまどうしてるの」
「私や和子さんがいつもお願いしてたから、とうとう神無月くん、抱いてくれることになったわ。来年の春。リクエストじゃないのよ。いま神無月くんの言った、長いあいだ人生を捧げてきた女だから―。訓練で脚がだいぶよくなってたんですって。もうだいじょうぶ、神無月くんの女として人生を送れるわ」
「よかったわねえ。いつもあの子のことを思い出してたのよ。思い出すと胸が痛くなって」
「神無月くん、杉山啓子さんて、憶えてる?」
 首筋が冷たくなった。
「うん、死んだんだよね。雅江から聞いた。西洋人形のような顔して、ひどく内気で、一度も話しかけてこなかったし、話しかけたこともない。バックネット裏からときどきぼくを見てた。六年生のとき、雅江といっしょに、風邪の見舞いにきたことがある。ほんとに物陰にいるみたいな子だったけど、一生忘れられない」
「喘息で死んだの。高校二年のとき」
「あのゲゲッて……喘息だったんだな」
「そう……。神無月くんのこと大好きだったのよ。どんなに体調が悪いときも学校に出てきたし、二日に一度はバックネットに貼りついて神無月くんを見てた」
 母親が泣いている。
「雅江さんや杉山さんだけじゃない。そんな子はたくさんいたわ。私、その子たちの分だと思って、うんと神無月くんに甘えるようにしてるの。神無月くんは、いつもみんなの神無月くんよ」
 法子は私の胸にぴたりと寄り添った。私は彼女の温もりを、私に心を寄せる女たちすべての温もりとして肌に記憶した。
 母子で風呂に入ったあと、蒲団を敷いて川の字に寝た。眠りに就くまで二人の手を握っていた。法子だけに愛情を感じた。


         七十二

 十二月二十一日土曜日。目覚めると十時に近かった。二人の姿はなかった。キッチンのテーブルにメモが置いてあった。
 ―ほんとうにありがとうございました。何もかも、ほんとうにありがとうございました。名古屋でまた逢える日を一日千秋の思いでお待ちしています。
 ……時間の神の反逆者、記憶が均されはじめる。何度、希望や恐怖や願いの記憶を見えないものの手にゆだねたことだろう。私には見ることも聞くことも、感じることもできない神に、何度反逆の心は届いたのだろうか。もしこのメモを書いた女から離れることがあれば、私はその見えないものの打擲を言いわけにするだろう。たとえそうだとしても、人はみずから道を選ぶものだ。ときには、自分やだれかのために愚かな道を選ぶ。またいつか私は時間の神に反逆し、この女に逢い、抱き締めることがあるだろうか。……しかし法子の母は希望や恐怖や願いではない。反逆以前の存在だ。彼女の記憶は均されることもなく、ただちに霧消するだろう。
 軟便。シャワーを浴び、ジャージを着た。八・九度。ジムに出かけていく。体重を量ると、八十三キロになっていた。腹や腰を見ても脂肪がついているわけではないので、筋肉が増えたのだと思った。二時間ビッシリ鍛錬し、ジャグジー風呂に浸かって戻った。
 公園口通りに寄り道をし、満員のいせやの縁台で皮(シロ)を齧りながら、爽快な気分にまかせて冷酒をチビリチビリ飲む。店の隣家の庭にマンサクの鮮やかな黄色の紐状花が咲いている。だれにも話しかけられないのがうれしい。運動靴を履いた足もとを寒い風が吹き抜けていく。
 あと五カ月で二十歳になる。若くして逝った人びと。レイモン・ラディゲ二十一歳、北条民雄二十三歳、樋口一葉二十四歳、立原道造二十四歳、石川啄木二十六歳、ミハイル・レールモントフ二十八歳、中原中也三十一歳、中島敦三十四歳、芥川龍之介三十五歳、有島武夫三十五歳、正岡子規三十六歳、ジョージ・ゴードン・バイロン三十七歳、宮沢賢治三十八歳、アルチュール・ランボー三十八歳、太宰治三十八歳、アレクサンドル・プーシキン三十九歳……むかし心にするどく留まったことが、いまは何の意味も持たない。顔を間近に覗きこまれる気配がして、見上げると、サッちゃんだった。
「サッちゃん―」
「ふふ、ぼんやりお酒なんか飲んじゃって。オヤジって感じね。キョウちゃんには似合わないわよ。お家を訪ねたら留守だったから、公園でも見て帰ろうかなって思いながら、ふらふら歩いてきちゃった。よかった、会えて。……泊まっていっていい?」
「いいよ、当分逢えなくなるからね」
 少女のようなピンクの肩掛け、彼女の好みの菖蒲色の厚手のワンピース。スカートは黒で、ミニに近い。黒いバッグを抱えている。肌色のパンティストッキングから膝頭の傷が薄っすら透けて、かわいらしい。
 いせやから公園への階段を降りていく。真っすぐな脛とふくらはぎ。どう眺めても、カズちゃんより二つ三つしか上に見えない。団子屋を過ぎ、観客のいない野外ステージを眺める池沿いのベンチに並んで腰を下ろす。ジャンバー姿の禿頭の男がギターを弾こうとしてスツールに腰かけたところだった。足もとが寒い。禿げ男は調弦などをしながらなかなか弾きださない。サッちゃんが目の前の公衆トイレにいってすぐに戻ってきた。聴衆は通りがかりの私たち二人。
 男がアルハンブラの思い出を弾きだし、背中がぞわぞわした。
 ―光夫さん! 
 十五歳から身動きがとれない。とつぜん涙があふれた。すぐに指でこそぎ取る。
「どうしたの?」
 サッちゃんが涙に気づいて訊いた。
「アルハンブラの思い出。中学三年の春、牛巻病院のロビーで寺田康男のお兄さんが弾いてくれた曲だ」
「……たしか、光夫さん」
「うん。光男さんは松葉会という暴力団の組員だ。すてきだね。そんな人が、山口に肩を並べるくらいギターがうまかったなんて。ああ! ぼくの首根っこをいつも押さえつけているのは、もの心ついてから十五歳までのたった十年間の思い出なんだよ。何もかもすべてが、そのあいだに起きて、何もかも終わったんだ。運よくまた始まったように見えるけど……終わったんだ」
 サッちゃんが私の手を握り、人目もはばからず抱きしめる。
「終わってない! キョウちゃんがそう思いこんでるだけ。私がその十年間から解放してあげる」
 私はサッちゃんの手の甲を押さえて言った。
「そんな大げさなこと言っちゃだめだよ。気持ちが重くなる。帰ろう、サッちゃん」
 私が立ち上がると、ギターの男が残念そうな顔でこちらを眺めた。
「みんな観客がほしいんだね。ぼくはちがう。だからぼくに会いにきても意味はないんだよ。空しいだけだ」
「徹底して自分を貶(おとし)めるのはキョウちゃんの悪い癖。キョウちゃんはすごいわ。闇夜の閃光よ」
「サッちゃん、ぼくは褒められたとたんになぜか竦(すく)んじゃうんだよ。褒められるほどの人間じゃないから。ぼくは―」
「いいのよ、説明なんかしなくて。私も人を褒める人間じゃないわ」
「みんなそうやってぼくを持ち上げることが生甲斐なんだね。それで充実して生きようとしてる。身近に光り物がほしいのはわかるけど、ぼくは馬鹿だ。馬鹿というのはふつうの知恵じゃ理解できないから、とんでもないものに見える」
 サッちゃんは私の顔を見つめ返した。
「―キョウちゃんの馬鹿の定義を教えてくれる?」
「好奇心を持って万事を追究できないできない人間のことだ。たとえばだね、読み方を知らないから地面に書くよ」
 私は小枝を拾って、友引、先負、赤口と書いた。
「壁の暦にこういう言葉が書いてあるとする。みんなその読み方や意味を知りたがるよね。ぼくは知りたくない。だから人から教えられても馬耳東風だ。永遠にそのまま。知識が自然と身につくなんてことはない。名言集に、愛されたいなら愛しなさい―セネカ、なんてあると、セネカとはだれなのか知りたくなるよね。ぼくはならない。永遠にセネカがだれだかわからないままで、何の不安も抱かない。政治も経済も法律もしかりだ。それがぼくの馬鹿の定義だ」
「それにしちゃ、歌の歌詞とか、作家の名前とか、草木の名前とか、野球選手のこととか、しっかり頭に入ってるわよね」
「そういうものは好みの方向だからね。漢字が書けるとか、英語が達者だとか、いつかサッちゃんが不思議がってたような、東大に受かるなんてのも、もともとの好みの方向で勉強をこなしてきただけのことだ。少しも馬鹿を解消したことにならない」
「やっとわかった! キョウちゃんの言う馬鹿って、関心のないことに無駄な好奇心を働かせない人のことね。つまり、一本気な人のことね。そういう意味で自分を馬鹿と呼んでるとするなら、自分は天才だって自慢してることになるわよ。そういう理屈、あまり人に言わないほうがいいと思うけど」
「天才というのは、好奇心の幅の広い、しかも一つの道にすぐれた人のことだとぼくは思う。だからぼくは天才じゃない。でも、こういうことを話して傲慢だという誤解を受けるなら、シャクだから、これからは自分のことを馬鹿と言わないようにするよ。これまで何度もしてきた決意だけど。―短気で、やさしくて、強い。そういう評価なら馬鹿でも受けられるから、喜んで受ける」
「キョウちゃんて……。ごめんなさい。私、キョウちゃんのこと、ただ、ここにいるだけの人だと思ってるの。……それだけで私はじゅうぶんだから」
「またそれか。いろんな女から、何度も聞いた。そんな人間、存在価値はない」
「私、キョウちゃんに遇った瞬間から、ふつうでない崇高な魂を感じ取ったの。そういう人が馬鹿なら、馬鹿ってあこがれるな。知恵なんて、だれでも、黙っていても、自然と身につけられるものだけど、魂の輝きは無理だもの」
「サッちゃんばかりじゃない。女たちはみんな馬鹿が好きなんだよ。ありがたいね。馬鹿の魂は宝石のように無垢に見える。馬鹿を商売にして生きていける」
「……歩きましょう」
「うん。公園を一回りしよう」
 うずたかく溜まった落ち葉が黒く固まって、午後の林を暗くしている。何組かのアベックがのんびりいく。暗い林から樹間を見やると、二十メートルも離れていないところに二階建ての民家がある。見下ろすガラス窓が夕映えを反射している。
「キョウちゃんのことを亭主に電話したの。……離婚だァ! って怒鳴ってた」
「たいへんなことになったね」
「いいえ、向こうにしても渡りに船って感じだったんでしょう、怒鳴り方に迫力がないの」
「別れないですむの?」
「とっとと離婚することにします。子供たちもとっくに父親には愛想を尽かしてるし、離婚してもだれにも不都合はないわ。子供たちにも電話をしたんだけど、私の雰囲気を察して、大人の事情だってわかったみたい。それ以前に、親のことなんかぜんぜん関心がないのかも。離婚のこと、若い女神さんたちに言わないでね。年とった私だけの楽しい問題だから一人で愉しみたいの。ああ、どんな人生になるのかしら。ほんとに楽しみ。あとは計画どおり名古屋へいくこと」
 私は思わず、
「愛してる、サッちゃん」
「私も、心から愛してます。キョウちゃんに愛される人生。うれしくて泣けちゃう。……私とこんな話してうれしい?」
「とても」
「そのうれしさだけは、私、キョウちゃんからなくさないようにするわ」
 御殿山の家に戻る。あらためて豪邸だとわかる。トシさんの恋の証―。彼女の心に自分の心を重ね合わせるのは重労働ではない。
「みごとな家ね」
 サッちゃんは風呂を入れる。
「お風呂が入るまでのあいだ、ちょっとお掃除させて」
「台所でコーヒー飲んでるよ」
 廊下や部屋部屋の畳に濡らした新聞紙をちぎって撒いて、箒で掃除を始める。
「掃除機では隅々の埃が取れないのよ。あら、ぜんぜん汚れてない」
 この女の心にもうまく私の心を重ねられる。掃除が終わり、二人で風呂に入る。広々とした湯船。胸を接して抱き合っているうちにサッちゃんがおねだりをする。すぐに強く気をやると、死んだ魚のように湯船に伸びる。私は射精しない。みずからの神経の反射を求めて女を抱きたくないこともある。法子の母親に無理に射精することで困憊した。
「出さなくてだいじょうぶ?」
「午前中に一度出したから」
 サッちゃんはその手のことには頓着しない。
「夜にはちゃんとくださいね」
「うん」
 私は先に風呂から上がり、サッちゃんは浴槽と壁を洗って出る。
「お風呂はすぐにカビちゃうのよ。でも、隅々まできれいにしてあったわ。そうか、お手伝いさんがいるんだった。でも毎日くるわけじゃないんでしょう?」
「毎週土曜日はこない。今週はこの何日か名古屋にいってたから、掃除と洗濯だけ」
「長くこないときは、かならず自分で浴槽と壁を洗うようにしてね」
「うん」
 サッちゃんは冷蔵庫を覗き、ありあわせの食材で夕飯の支度にかかる。
「まず、ご飯を炊いてと。白菜、シーチキン、人参、生姜、ごま油で中華丼を作りましょう。うどんとベーコンで焼きうどん。ふわふわの玉子スープ。夜食はコブとお新香でお茶漬けね。味噌汁だけは腕によりをかけなくちゃ。といっても、キャベツとワカメしかないわね」
 サッちゃんは私がぼんやりしているのを見とがめ、
「……心配しないで。あしたからは、名古屋いきの計画を実現するまでご迷惑をおかけしません。キョウちゃんの人間嫌いはわかってますから」
「心の狭さは矯め直せないものだね」
「幼いころから重荷を背負う背中が疲れちゃったのよ。心を狭くしなければ生きていけないわ。……どんなキョウちゃんでも、私はキョウちゃんから離れないから、今後ともよろしくね」
「うん」


         七十三

 夕食を終え、二人でぼんやり七時のニュースを観る。退屈ではない。こういうおもしろ味のない時間に無聊を感じるかどうかで、女に対する愛の強さがわかる。私はサッちゃんを気に入っている。アナウンサーがしゃべっている。
 ―昭和四十年に不況から抜け出して、日本経済がふたたび高度成長の軌道を歩みはじめると、GNPの順位は急激に変化しはじめます。四十一年にまずフランスを抜いて四位に、四十二年にはイギリスがポンド切り下げで脱落したせいで三位、今年四十三年にはついに西ドイツを抜いて第二位の座を獲得しました。本年度のGNPは約千四百十九億ドルで、西ドイツの千三百二十二億ドルを七パーセント以上上回っています。
 サッちゃんが手を握ってきたので語りかける。
「国の稼ぎが世界の二位になったということだね。そう言えばいいのに。だれも国名や金額なんか聞いていないよ」
 アナウンサーがしゃべりつづける。
 ―ただし、経済規模では第二位とは言っても、一人当たりの国民所得でみると、まだ二十位前後です。このことから、二位と二十位の矛盾とか、見せかけだけの二位といった非難めいた論調も、国内では少なくありません。
「社員のおかげで儲けたけど、社員にはやりたくないという、資本家の強欲のことを言ってるだけだろ。これは、富の分配を渋るか渋らないかという企業体を含めた国家上層部の性質の問題で、心理学か何かで研究すべき分野だな。政治経済とは関係ない。おそらく日本以外の国はGNPと国民所得が比例してるんだろう。例外はきっと、世界広しといえども日本だけなんだろうね。ニュースはそのことをみごとに隠蔽してるね。矛盾? 見せかけ? 強欲と言え、強欲と。笑えるね、サッちゃん」
「笑えるわ。キョウちゃんの解説が明解すぎて。でも、こんなつまらない世間話に、キョウちゃんは腹を立てなくていいのよ」
「ぜんぜん腹なんか立たない。何年か経てば、どんな愚行にも学者たちが意味づけするからいずれ実態が知れるとは思うけれども、とにかくいつものとおり、この世で起きるものごとを説明するやつの意図するところが胡散臭くてかなわない。こんなコメントは一時間も聞かされたら、十年分疲労する」
 理屈のわかる人間といると饒舌になる。しかしそういう人間と長時間すごすことは私の持分ではない。たとえ相手がカズちゃんでもほんの少し煩わしい気分になる。どんな気分もすべて身から出た錆だ。削り落とさずに、生涯くっつけていくしかない。
 深夜、今度は快適な射精をした。そのせいでサッちゃんは褥の中で足腰が危なくなっている。よろめくように台所にいって湯を沸かした。私は昆布とタクアンのお茶漬けを二杯も食った。サッちゃんも一膳食べた。
「なんてすてきな夜食かしら。こんな幸せをいつも味わっていたい。……無理ね。遠征でキョウちゃんが東京にきても、自分から進んで逢わないようにする。連絡も控えるわ。キョウちゃんがきたいときだけ上板橋にきてね」
「うん。でもサッちゃんが逢いたければ、御殿山に連絡すればいい。お手伝いさんがぼくに電話くれるから。都合がつくかどうかわかるよ」
「そんなプライベートなことを伝えてもだいじょうぶってことは……」
「うん、そういうこと」
「……キョウちゃん、冗談でなく、本気で背負う荷物のことを考えないと。もうプロ野球選手なんだから」
「いつかピタッと止むときがくるよ……」
        †
 二十二日日曜日。雨。八時半に福田さんに起こされる。サッちゃんはいない。さよならも言わずに別れたことが悔やまれる。
「さ、ランニングの時間ですよ」
「バットを振ってから出かける。朝めしは九時半から」
「わかりました」
 しゃきしゃきしている。
 小便が尿壺に落ちるとき、左耳に耳鳴り。たった一合の酒のせいで下痢。歯を磨きながらシャワーを浴び、ジャージに着替えて、コーヒー一杯。気温七・五度。久保田バットを七分の力で百回振ってからランニングに出る。サッちゃんのおかげで熟睡できたので、からだが軽い。
 きのうより少し温かく感じる。自然文化園でパスを出し、五周する。園内の空地で三種の神器。十時帰宅。素振り百八十本。ジャージを洗濯機に放りこみ、シャワー。
 高知のメヒカリの丸干し、オニオンスライス、スクランブルエッグ、板海苔、豆腐と麩の味噌汁。どんぶり一膳。
「夕食の材料買ってきます」
 福田さんが玄関を出ていった。気分を換えるつもりで、洋箪笥に吊るしてあった着物を着て机に向かう。五百野の最終章を先に仕上げることにした。父とのつかの間の邂逅と別れ。ここを書き終わったら、細かい充填と、全体の推敲にとりかかろう。あと一年かかるかもしれない。併行して、牛巻坂にも着手しなくては。牛巻坂に関しては、節子と康男に呼びかけるような作品にしようといつも考えているけれども、意気ごみがあるばかりで二枚ほどから先へ進まない。
 買い物から戻った福田さんが、離れまでよもぎ大福と、マヨネーズをかけた茹でたてのブロッコリーを届けにくる。私の着物姿を見て、
「あら、きれい。だれの仕立てですか?」
「この春、おトキさんという人がぼくのために仕立てて、カズちゃんに送ってよこしたものだ。これ、夏物なんだよ」
 おトキさんという名は初耳のはずなのに、それ以上は詮索してこない。サッちゃんと同じだ。
「山口の恋人だ。いずれ会うことがあると思う」
 聞いていないわけではない証拠にニッコリ笑う。
「山口さんにお会いできるのを楽しみにしてます。冬物は一月中に、私が仕立てておきます。名古屋に持っていってください」
「作れるの!」
「学生のころ、二年間和裁を習いましたから」
 人に頼まれれば仕立ててやれるほどの腕なのだろう。むかしの人間は底知れない。
「夏の初めまでに紺絣(こんがすり)を作ります。ブロッコリーはからだにいいですから食べてくださいね」
「うん、わかった。つまみながらやる」
「いろいろ冷蔵庫に詰めておきました。土曜日などにだれかきたら、料理してもらってください。じゃ、お掃除とお洗濯、蒲団叩きをします」
 シーツの状態で昨夜女がきたことはわかっている。
「夕食はいいよ。夜はいっしょに阿佐ヶ谷のパブに飲みにいこう。名古屋にいく前に、男の友人二人に会わせとく」
「はい、お一人は山口さんですね」
「うん。黒系統のスカート、セーター、オーバーがいいな。雅子は色が白いから」
「はい、そうします」
「じゃ、六時に吉祥寺駅改札」
「はい!」
 山口に電話をする。
「ラビエン、六時十五分。お手伝いの福田さんを連れてく。ギター頼む」
「バンドいるぜ」
「山口のギターでないと歌えない。東京で最後の飲みだ。付き合ってくれ」
「最初でも最後でも付き合うよ」
「コンテストに続々と出るそうだね。優勝しろよ」
「日本のはな。イタリアはどうかな。まあ、がんばるよ。早くプロになって落ち着きたいからな」
         † 
 改札に美しい福田さんが立っている。薄茶色のオーバー、ネイビーブルーのセーターに同じ色のフレアスカート、スカートの裾には青高の学帽を縁どっていたような二本の白線が入っている。セーターに小ぶりな真珠のネックレスを垂らしていた。白いボックス型のハンドバッグを提げている。足もとは黒のパンプス。私は白のワイシャツ、法子の買ってくれた空色のブレザーに黒のローファーだ。
「とんでもないね。いまここでスカートを捲り上げたくなる」
「この服セクシーなんですね、神無月さんの目に」
「だれの目にも」
 中央線のいちばん前の車輌に立って、運転手の肩越しに線路を見つめる。蒼い夕暮れの奥へ線路が延び、その先に死がある。観念の遊びが始まる。
「この線路のずっと先に、死が待ってる気がしない?」
「死? ……そう言われれば、そんな気がします」
「線路が好きだ。どんな子供もここからじっと線路を見てる」
「子供は希望を見てるんですね」
「そうだね、未来の希望だね。死を見てるはずがない。野心を見てるんだって、詩に書いたことがある」
「……会うたびに新鮮な言葉が聞けてうれしい」
 ラビエンに入ったとたんに福田さんは、
「私、この店、好きです」
 と言った。
「いらっしゃいませ! 神無月さん。中日ドラゴンズ、入団おめでとうございます!」
 部長が私と福田さんに最敬礼した。顔を上げ、福田さんをまぶしそうに見つめる。
「きれいでしょう。この人」
「はい、じつに。高円寺のかたがたに引けを取りませんね」
「吉祥寺の福田さんです。留守宅の面倒を見てもらうことになりました」
「よろしそうなかたが見つかってよかったですね。きょうは歌っていただけるそうで、ありがとうございます。どうぞ、遠慮せずに何なりと飲んで食べて、ごゆっくりなさってください」
 よしのりの立っているカウンターにいく。すでに山口がビールをやっている。白ワイシャツに薄茶のスーツを着ている。よしのりは例のごとく、どこかのカップルを相手に、身振り手振りを交えて熱弁をふるっている。私たちがカウンターに近づくと、カップルがよしのりに促され席をずれて譲った。
「いらっしゃい! 最後の飲みらしいな。おまえ酒弱いから、好きなだけ飲めと言うのは酷だ。つまみをどんどん出してやる。こちら、どなた?」
「福田さん。年上の女(ひと)」
「森進一か。きれいだなあ。カズちゃんに似てるな」
 似ていない。
「五十三歳です。私に似ていたら気の毒です」
「五十三! どう見ても四十そこそこ。いや、もっと若い。ま、齢なんかどうでもいいや。カクテル? ウィスキー?」
「福田さん、こいつは横山。中三以来の腐れ縁。こっちは山口。いつも話してるとおり、青森高校と東大の同級生で、ギタリスト。よしのり、カクテル何種類か振ってあげて」
「山口さん、私、福田雅子と申します。お噂はかねがね神無月さんから聞いておりました。お会いできてうれしいです」
 よしのりが、
「じゃ、まず、カサブランカの、きみの瞳に乾杯」
 福田さんが、
「シャンパン・カクテル!」
「ご名答」
 山口がスーツの襟を物慣れたふうにしごきながら、
「津田塾出の才媛だとは聞いてたけど、映画も詳しいの?」
「詳しくありません。偶然若いころにその映画を観たので憶えてたんです。映画好きの夫に長男といっしょに連れてってもらいました。三十歳の六月でした」
 私は、
「息子さんは何歳だったの?」
「五歳でした」
「よく騒がなかったなァ」
「映画のあいだじゅう、私の膝で眠りこけてました」
「娘さんは?」
「三歳と二歳でしたので、ご近所の人に預けました」
「カサブランカは昭和二十一年日本公開の映画だ。福田さんはいま五十三歳、大正五年生まれだから、一九四六から一九一六を引いて……ほんとだ、ピッタリ三十歳だ。人の記憶というのは恐ろしいな」
 よしのりはシャンパングラスに角砂糖を入れ、何かを一滴振りかけ、シャンパンを注いだ。
「なんだい、それ」
「アンゴスチュラ・ビターズ」
「舌を噛みそうだ」
 山口と私にはビールをつぐ。客席から、神無月だ、神無月だ、という囁きが聞こえてくる。
「カサブランカは政治的背景がよくわからない映画なんだ。よしのり、教えてくれ」
「俺は映画もテレビも知らないよ。知ってるのは酒だけ。山ちゃんに訊け」


         七十四

 山口が話しだす。福田さんも聞く態勢をとった。
「カサブランカはモロッコ最大の都市だ。当時のモロッコはフランス領。モロッコで政権を握ってたのはヴィシーというやつだ。第二次大戦末期の五年間、そいつがドイツと親しくしてた。フランス人は頭にくる。フランス本土はドイツに占領されてたからな。これが背景のぜんぶだよ。ヴィシーの太鼓持ちがペタン。ペタンがどんどんレジスタンスを殺していくわけだ。モロッコの反独派は身の危険を感じてアメリカへ逃げようとする。ここからがアメリカ映画らしいところで、レジスタンスの頭領の妻がナイトクラブの経営者に助けられてアメリカに飛び立つ、その二人はかつて恋人同士だった……」
「ぼくはああいう女は嫌いだ。夫が死んだと思ったから浮気する、生きているとわかったから新しい男を捨てる、そんな者同士が再会してどうなると言うんだ。何がきみの瞳に乾杯だ。おまけに夫を逃がすためのパスポートを用意してくれとは何ごとだ。女のやりたい放題じゃないか。たいていの恋愛映画は女にぬるい。女は一途に、男のためにあらゆる事情を黙殺して死ななければならない。男もそういう女のためにだけ死ねる」
 山口が、
「俺は、そういう考え方をする男のために死ねる」
 福田さんはわなわなふるえて、
「そのとおりです。女という生きものは甘えてます。甘えは愛のない証拠です。命懸けで愛する相手には、女は甘えません。自分の過ちを許してもらえるとは思いませんから。いちばん質の悪い過ちは、命を惜しむことです。命を惜しめば、都合や事情といったものに振り回されることになります。神無月さんがおっしゃった、女は一途に男のために死ななければならないという言葉は、一方的で、わがままに聞こえるかもしれませんが、そういう女のために男は死ねるとちゃんと言い添えてます。ぜんぜん一方的じゃありません。人が人のために死ねる、それがほんとうの愛だと言ってるんです。女はそういう気持ちが男よりも弱い生き物です。女を強くするのは愛情だけです。私は夫が死んでも、子供とか世間とかいう事情に拘束されて命を惜しみました。……いまはちがいます」
 山口が福田さんの肩を抱いた。席をずれたカップルの女のほうが感激して拍手した。福田さんの恋人を山口だと誤解したのかもしれない。その女が、
「神無月選手、握手してもらっていいですか」
 私は握手した。片割れの男も握手した。ゾロゾロと、五、六人の男女がボックスやカウンターからやってきて、
「がんばってください」
 と言いながら、次々に握手した。よしのりが、
「お忍びだからさ、ごめん、きょうは放っといてあげて」
 と言って彼らを引き取らせた。最初にいたカップルだけがもとの席に残ってうれしそうだった。つまみがどんどん出てきた。野菜てんぷら、唐揚げ、ピーナッツ、ボテトチップス、枝豆、冷奴、赤身の刺身、ホッケ焼き、焼き鳥、サラミ、ソーセージ。
「食って、食って」
 よしのりが促し、私は福田さんだけでなくカップルにも勧めた。彼らは笑って手を出さなかった。女が、
「横山さんて、田舎の家が神無月選手のすぐ近くなんでしょ?」
「斜向かい。家が近いというだけ」
「でも、小さいころからのお友だちなんですよね」
「友だちと言うより、追っかけ。雲の上にいっちゃったから、もう追っかけられない」
 別れの夜に感情を出すまいとして力瘤を作っている。山口が、
「この人間嫌いの天才を追っかけるには、相当の根性がいるぞ。物好きぐらいじゃすまされない」
「追いかける価値のある男だからね。山ちゃん、追加勤務、悪かったな。飲み食いタダで勘弁して」
「店のためにきたんじゃないよ。神無月の伴奏をするためだ」
 カップルの女が、
「神無月さん、歌が唄えるんですか?」
 山口とよしのりが一瞬不機嫌に沈黙したのを見て、私が唄うことを知らない福田さんは、期待に満ちた瞳を輝かせた。
「うちが超満員になるのは、山ちゃんがくる月四回の土曜日だけだからな。見てくれよ、日曜なのにきのうの客足の半分だ」
「きょうこなかった客は、痛恨の失策だ。もう神無月は東京で歌わない」
「そんなにすごいんですか」
 女が楽しそうに身を乗り出し、山口とよしのりは苦笑いした。私はよしのりに、
「ステージ周りがますます整ったね。アンプもドラムも入れたのか」
「山ちゃんの言いつけどおり、ボックス席を一つ取っ払った」
 スピーカーとマイクと楽譜スタンドが、天井からの淡いスポットライトに照らされている。奥にドラムセットが鎮座している。ドラマーに呼び出しをかけたのかもしれない。私は福田さんに、
「山口は類のないギターの天才だ。発見者はぼく。逆にぼくは、彼に喉を発見してもらった」
「神無月、きょう何曲いく?」
「一曲だけ」
「よし、サッサとすませよう。拍手喝采のパターンも飽きたろう」
「飽きた」
 よしのりが福田さんとカップルの前に顔を突き出して、
「聴いてびっくりだ」
 ギターケースを提げた山口が、つかつかとステージへ歩いていって、二段の階段を上がった。日曜に演奏があると思わなかった客たちが、戸惑ったふうに拍手をし、指笛を鳴らした。山口はスーツを着ていて本格的なギタリストという感じだった。部長がステージに向かって深く辞儀をした。山口は私を手招きした。私はステージに向かう前に、
「よしのり、スミノフ、グラス半分。喉を広げなくちゃ」
「あいよ」
 受け取って、ぐいとあおる。福田さんは相変わらず目を輝かせたまま、カクテルで赤らんだ頬を両手で挟んだ。
「福田さん、腰を抜かすぜ。一生忘れられない声になる。こいつを人間だと思えなくなるからな。神無月、さっそくかましてくれ」
 私はステージに上がった。山口に、
「さよならだけが人生ならば。知ってる?」
「もちろん知ってるさ。カルメン・マキ。寺山の詩だ」
「キーを二つぐらい上げてね」
「オーケイ」
 山口はステージに上り、椅子に腰を下ろす。私は彼の左前のマイクに向かう。ぱらぱらと拍手が上がる。山口が、
「今年デビューしたカルメン・マキの歌をいきます。きょうの神無月は、これ一曲でオシマイです」
 客席から、
「ときには母のない子のように!」
「いや、それは曲調が平坦なので、盛り上がりのある『さよならだけが人生ならば』を唄ってもらいます」
 パチパチパチと静かな拍手。あまり知られていない曲のようだ。山口は笑って会釈すると、かすかに、愛撫するように、絃を鳴らしはじめる。私は深く息を吸い、イントロの節目をつかまえる。

  さよならだけが人生ならば
  またくる春は何だろう
  はるかな はるかな地の果てに
  咲いてる野の百合 何だろう

  さよならだけが人生ならば
  めぐり会う日は何だろう
  やさしい やさしい夕焼と
  ふたりの愛は何だろう

「すげえ声だな!」
「声出してんじゃないだろ、何か鳴らしてんだろ」
 何人かの驚嘆の声につづいて、歓声と拍手が店内に響きわたる。よしのりの指笛が大きい。この図に食傷した。福田さんは両手で頬を挟んだままこちらを眺めている。目が濡れているようだ。部長がハンカチで目頭を押さえている。きょうも私の声が人を泣かせている。長い間奏につづけてまた深く息を吸う。

  さよならだけが人生ならば
  建てたわが家は何だろう
  さみしい さみしい平原に
  ともす灯りは何だろう

 ドドッと喝采が上がった。福田さんが顔をゆがめて拍手している。後ろから山口が、
「神無月、きょうも神の調べだった。一、二曲弾いてく」
 私がカウンターに帰り着くまで拍手が追ってくる。拍手が止むのを待ち、山口が静かなクラシックを奏ではじめた。仕事でもないのにステージを去らないのは、涙を乾かすためだろう。よしのりがひたすらうなずいて迎え、
「またまたぶっ飛んだぜ。この声ともしばらくお別れか」
 福田さんは両腕で胸を抱えながら、
「……鉄みたいに強い声なのに、綿のようにくるみこんできました。信じられない声」
「唄うと静かだった心が少しざわめく。喜んでくれる人も多いし、いいことをしたなって気になる。ホームランほどの高揚感はないけど、胸がざわめく感じは似てる」
 カップルの男が、
「あの声は、喉から出してるんですよね」
「もちろん」
 部長がやってきて、
「ほんとうにいつも、心に沁みる歌をありがとうございます。きょうも涙をこらえられませんでした。どうぞゆっくりしていってください」
 丁寧なお辞儀をして去っていく。何年もつづけてこのカウンターに坐ってきたような気がした。十年後もこの椅子に坐っている姿がありありと浮かぶ。十年は長すぎる。私にはいつも〈きょう〉が限度だ。毎日そう思いながらふと気づくと、五十歳、六十歳、へたをすると百歳になっているのかもしれない。
 ―きょうも寄り道している。早くグランドへいきたい。グランドではどれほどの喝采にも食傷しない。
 山口が何かを感じたような眼でこちらを見ている。
「はい、バレンシア」
 福田さんにオレンジ色の美しいカクテルが出てくる。もう五杯目ぐらいだ。
「わあ、きれい」
「アプリコット・ブランデーとオレンジジュースがベース。飲みやすいよ」
         † 
 よしのりとはカウンターで別れた。
「また逢う日まで」
「いずれな。からだをいたわって野球をやれよ。詩を忘れるな」
 西荻窪のホームにいったん降りて、山口と福田さんと三人でベンチに座った。山口が、
「福田さん、酔っていませんね」
「ちっとも」
「じゃ、近寄ってくる人たちと握手するときの神無月の悲しい顔に気づきましたね。こいつには野球以外の喝采は似合わない。俺や横山さんや福田さんのことを考えて一生懸命唄ったんだろうが、どうしても聴衆が集まっちまう。神無月、これからは俺たちのためだけに唄ってくれ。ほかのやつらに聴かせることがあっても、その反応に気を使うのはやめにしろ。俺たちに求められたときだけ応えればいいんだ。どんなビックリすることでも、興味本位の人間は慣れちまうと紋切り型の反応しかしなくなる。おまえの倦怠のもとだ。見るに忍びない」
 私の胸の内がわかっている。
「才能を伴った鍛練の輝きには、自分も他人も飽きない。鍛練のない、才能と呼ぶにはおこがましい突発的な特技には飽きる。輝きが見えないからね。おたがい披露して恥ずかしくないように、猛烈な鍛練で才能をきらめかせながら生きようね」
「おお! 純粋な赤子の決意だ。福田さん、神無月を追いかけるには覚悟がいるよ。こいつはいずれかならず俺たちを引き連れて世間から隠遁するか、何と説得しようと独りっきりで死ぬ。隠遁ならまだいい。俺たちが社会とのパイプラインになって神無月のそばで暮らせる。神無月の明るさに包まれて生きられる。死なれたら一巻の終わりだ。真っ暗で何もない。そのときに自分が生き延びるか死ぬか―早い時期に決めておかなくちゃいけないよ」
 福田さんは山口の話に耳を傾けながら、強くうなずいた。そうしてやさしく私の手を握った。自分からはひとこともしゃべらなかった。改札を出る山口に二人で手を振った。
 帰り着いて、福田さんは私を蒲団に横たえると、やっぱり泊まっていきます、と言って添い寝してきた。私たちはひとときも肌を離さずに、交わることもしないで朝まで抱き合って眠った。



         七十五

 月曜日の朝から福田さんは、覚悟に満ちた面持ちで立ち働きはじめた。私との別離の生活に慣れるためだという意気ごみが伝わってきた。ランニングに送り出し、朝食をいっしょに食べ、掃除洗濯をすませると、ポットにコーヒーを用意し、勉強部屋の私に声もかけずにさっさと引き揚げ、六時にきちんとやってきて夕食をいっしょに食べ、八時には引き揚げた。そういうことでしっかり自分なりに未練の心を律しているふうだった。
「二十五日、水曜日のお昼に、ひと月早いですけど自宅で送別会をするので、神無月さんを誘ってほしいと菊田さん頼まれました」
「いくよ。いっしょに食事をして、いっしょにテレビでも観ながら寝よう」
「それから……」
「もちろん、きちんとセックスもして」
「はい! 私、あちらにいって、菊田さんとお食事の仕度をしてます」
「うん、昼までにかならずいく。雅子……この何日か、触りもしなかったけど、ごめんね」
「いいんです。これからは、わがままは許されなくなります。長いあいだ禁欲するんですから、からだを慣らしておかないと。……だいじょうぶです。ただ神無月さんは出したいだけのときもあるでしょうから、がまんしないで抱いてくださいね」
「うん。名古屋にいくまであとひと月あるし、東京に遠征してくるのもそれほど先のことじゃない。おたがい禁欲の心がけなんか必要ないよ」
 福田さんは抱きついてきて、
「もともと神無月さんを愛しているだけで満足でしたし、セックスなんか何年に一度でもいいと思ってたくらいですから、これからは一回一回を大切に抱いてもらいます」
 福田さんだけでなく、私にも律儀な生活が始まった。十二月二十三日からひと月のあいだ(二十九日から元旦まで四日間の休園日を除いて)人けのない文化園で走りこんだ。
 夕食のあと福田さんが帰ると、深更まで原稿用紙に向かった。疲労しはじめると、描写の工夫や充実を図るよりも、事実の羅列へ流れていきそうになることが多く、そんなときは何時間も鉛筆が動かず立ち往生した。疲労の中で立ち往生することが楽しかった。
         †
 十二月二十四日火曜日。六時起床。晴。二・一度。年の瀬もあと一週間と迫り、すっかり冬の気配がただよいはじめた。
 朝の一連の鍛練のあとは、離れで三時ぐらいまで原稿に向かい、気分直しに井之頭公園を五周。離れで、書棚からアットランダムに選んで読書。
 夕食のあと、福田さんといっしょに井之頭公園を歩く。夜の井之頭池にボートの影はなく、淡く光る水面を何種類かの鴨が泳いでいる。御殿山の黒い雑木林を見返る。トシさんが気前よくくれた家。西松建設の労務者たちが飯場の小屋を作ってくれたときの喜びと懸隔がある。あのときは飛び上がるほどうれしかった。感謝というのとはちがう、原始的な喜びだった。
「一人きりで住むには大きすぎる家だね。三畳から六畳、それがぼくの棲むのにふさわしい広さだ。一人っきりだと気力が失せるけど、雅子のおかげで、毎日、からだと心に力がみなぎってる。ありがとう」
「私も。……このふた月でからだの細胞がすっかり生まれ変わったようになりました。菊田さんはいつも同じことを言います。家の一つ二つでは申しわけないくらいの幸せを得たって」
 福田さんはトシさんといっしょに高円寺までいって、カズちゃんたちとコーヒーを飲み、食事もしたと言う。
「あのかたたちとは幼馴染みのように感じるんです。何と言ったらいいんでしょう、とにかく驚くような人たちです。こちらに嘘がなければ、何でも受け入れてくれますし、認めてくれます。神無月さんのこれまでの苦労も、ぜんぶ聞かせてもらいました。涙が止まりませんでした。神無月さんが生きていられるのも、スーパーマンでいられるのも、山口さんと和子さんのおかげです。御殿山にきてくださった以外の女の人たちにもいつかお会いできればいいなと思います。神無月さんを愛する人たちが、神無月さんといっしょに生きるうれしさをおたがいに伝え合うことで、神無月さんを生き延びさせようとしていることがよくわかりました。神無月さんは、自分が喜びを与えられる人がいると信じられるときだけ、生きていこうとするんですね。自分を喜ばせてもらおうとする人じゃないんですね。お子さんを作ったのもその気持ちからだと聞きました。……私、息子が子供のころの玩具を捨てずに取ってあったので、和子さんに住所を尋いて、名古屋のトモヨさんに送りました」
「ありがとう。トモヨさんも北村家の人たちも喜んだろうね」
「早速お礼状をいただきました。ウイロウとエビセンも送っていただきました」
 鯉の黒い影が動くのを見下ろしながら夜の七井橋を渡る。紅葉はすでに終わって、池や散策道に落葉が散り敷いている。池沿いの道を歩く。
「植物博士なので、訊いてごらんなさいと言われました」
「そう? わかるものしか言わないよ。真冬なのに葉が繁って黒く見えるのは、杉やヒノキの常緑樹。枝だけになってるのは落葉樹で、ケヤキ、椎、樫、クヌギ。枝ぶりと木の肌で見分けるから、暗い夜は、木の名前はわからない」
 木の間を透かして黒い夜空を見上げる。雲の見えない漆黒の夜空はめずらしい。海辺か山奥にしかないだろう。
「花を教えてください」
 福田さんが道端を見下ろして言う。私は指を差しながら、
「花は足もとにあるから薄暗くてもわかる。アセビ、イソギク、寒椿、山茶花、福寿草。山茶花の白い大輪はバトンガールのポンポンみたいで派手すぎるけど、黄色い福寿草はいいなあ。こんなに地面に近いところで、懸命に咲いてる」
「ほんと、菊よりもひっそり咲いてます。冬にもこんなに花が咲くんですね」
 水辺を指差し、
「ラッパ水仙が黄色い星形の花を開いてるね。夜なのに色鮮やかだ」
「……木や花が好きなんですね」
「静かな植物みたいな人間だって、カズちゃんに言われたことがある。だから同類が好きなのかもしれない」
「ほんとに花みたいに静かな人。抱かれてるときも、そのせいでとっても興奮してしまいます。あら、私、へんなこと言って……」
「いいんだよ。初めて知った新鮮な感覚だもの、おかしくないよ」
「はい、天にも昇る悦びなんです」
「……年末と正月は子供たちが帰ってくるんじゃない?」
「はい」
「あしたのトシさんの家の送別会から、松の内まで休みを取っていいよ。二十九日から二日までは高円寺ですごすから」
「ええ、そうさせてもらいます。年末年始はまかせてって、和子さんが言ってました。でも、松の内ぜんぶはお休みしないで、四日の朝からきます」
「ありがとう。助かるよ」
         †
 十二月二十五日水曜日。どんよりとした曇り空。ふつうの排便、シャワー、歯磨き、耳鳴りかすかにあり。
 七時福田さんと朝食。午前中、五度前後。無風。七時半。吉祥寺駅から西荻窪駅まで寂れたガード沿いをランニング。二キロ見当。五日市街道に突き当たって南下。稲荷通りに出て北上。ふたたび中央線のガードにめぐり合い、ガード沿いを西荻窪駅まで。同じ道のりを引き返す。往復三十五分。庭で三種の神器、素振り百八十本、五キロダンベル蝶々開き三十回、一升瓶左右十回ずつ、音楽部屋で倒立腕立て五回。シャワーを浴び、下着とジャージを替えて離れへ。ポットに入れたコーヒーを足もとに、五百野二枚。
 昼からトシさんの家で送別会。下駄で出る。
 二つの和室と台所には、適度な温かさでガスストーブが焚かれ、きょうも二人は裸の胸にエプロンをかけて動き回っていた。隣の部屋には蒲団が二組敷いてある。
 宴を盛り上げるためだろう、トシさんと福田さんが料理をしながら、私に聞こえるように卑猥な話をしている。
「女って、恥ずかしいイキ方をしますよね」
「ほんとよねえ」
「恥ずかしいです。あられもなくて」
「腰が勝手に動くのよ、恥ずかしいわよねえ」
 きょうも心身ともに全解放しようとしているようだ。私は誘いに乗って彼女たちの裸の尻に声をかける。
「……だれにも訊けなかったんだけど、訊いていい?」
 トシさんは料理の手を止めずに、
「何でも答えますよ」
「女は、イクイクって何度も言いながら、最後にイク! ってなるよね。あの感覚を言葉で教えてほしいんだけど。男は、下っ腹のあたりに何か迫ってきて、ツーンと気持ちよくなって、腰を突き出したくなる快感の中で、勝手にチンボがゲロを吐くって感じ。イクと言うのも一度だけ。言わないこともある。イッたあとは亀頭を触るとヒリヒリする。それだけの、たった一回きりの単純なもので、百人が百人きっと同じだと思う。だからああいう激しい反応をする女が相手じゃないと、ぼくはセックスを嫌いになるだろうね」
 福田さんはニコニコ笑って、
「そうですね、うまく言葉で言えるかしら。きっと、男の感じはクリトリスそのものが軽くイッた感じだと思います。クリトリスが強くイクと、膣の半分ぐらいの気持ちよさになりますから、男は経験できないでしょう。ほんとに気の毒。膣がイクのってぜんぜんちがうんです。いまは神無月さんのおかげで、入れてすぐ、何も感じる暇もなくすぐイッてしまいますけど、神無月さんに会うまでは、入れたときにむずむず気持ちよかっただけなんです。快感てよく言われますけど、そんなのは快感じゃありませんよね。でもむかしの私は、男が発射するまでむずむずするだけで終わって、それで満足してました。セックスをしたという感じだけで満足してたんです。気持ちよさそうに発射する男って、女より快感が強いんだなあって思ってました」
「私もそう思ってた。ふつうそうじゃないかしら」
 福田さんは尻を向けたまま、
「ほんとの快感を知らない女から、男はスケベねって言われるのはそのせいだと思います。スケベは快感を知ってる女のほうです。開発された膣の快感は、男よりはるかに強いんですからね。むずむずの〈気持ちよさ〉が、ほんとの〈快感〉になって、どんどん強くなって、お腹が熱くなってくるところまでは、クリトリスがイクのにかないません。それで終わってしまう女の人がほとんどなので、それならクリトリスのほうがいいわってことになるんです。……でも、膣が目覚めてしまうと、クリトリスなんかいらないとまで思うようになります。もちろんクリトリスもイカせてもらったほうが、とても幸せですけど」
 トシさんが、
「……うーん、膣がイクというのはどういう感じかしら。膣がイク直前になると、お腹の熱さが全身に拡がって、それがゆきわたった瞬間、クリトリスと膣のあたりに、ちょうどドテのあたりに熱いかたまりができて、勝手にからだがふるえだして、とつぜん、そのかたまりがドテを直撃して、膣がギュッとねじれるように感じるんです。すごい快感です。その爆発が、神無月さんがイカないと四、五秒おきに起きて、もうたいへんなことになります。飛び離れたくなるのはそのせいです。私はなんとか神無月さんが射精するまでそのたいへんな爆発をつづけようとします。だって、耐えて耐えて神無月さんの発射を受け止めたときの快感はいっそうすごくて、からだが一分ぐらい爆発しつづける感じです。全身の痙攣が止まらなくなります。そのとき自分が何を言ったのか叫んだのか、ぜんぜん覚えてません」
「何を言うにせよ叫ぶにせよ、からだの感覚があるわけだから、言葉で表現する手間は余計なわけだね」
 福田さんが、
「そうです。私は、イクって言葉に出すのは神無月さんに教わったんです。若いころオナニーをしてたころは、うめき声を上げるだけで何も言いませんでした」
「みんなそうよ。オナニーでイクって言う女は一人もいないわ。セックスでだって、ぜったい言わない女の人もかなりいますよ。愛してる相手に告げようとしないかぎり、イクって言わないんです。神無月さんは女の頂点が近いことをオチンチンでわかるのでごまかしようがないから、ほんとは言う必要がないんですけどね。でもどうしようもなく愛してるので、もうすぐよとか、イキましたよって教えたくなるの。ずっとむかし男と付き合ってたころは、わざとイクって言ってあげてました。ふつうの男は女がイッたかどうか自分の感覚でわからないので、そうしたほうがうれしがって早く出してくれるので都合がよかったんです」
「よくわかった。でもぼくは、長さは十二、三センチでごくふつう、太さも長さもきわめてふつう。女の九十パーセントは、太くて長いものに感じると本で読んだ。なのになぜぼくのに感じるの? 福田さんやトシさんも含めて、四、五回突いただけで、あっという間にイッちゃうけど、あれはどうして?」
 トシさんが、
「神無月さんの形と長さが特殊にできてるからなんですよ。女がいちばん感じるのは入り口から五、六センチ入ったところのお腹側」
「うん、カズちゃんに教えてもらった」
「神無月さんのオチンチンは入ってきたときから、ピストンするときも、ふくらんでくるときも、最後の射精するときまで、ずっとそこを刺激しつづけるんです。だから十秒もしないうちにイッてしまって、爆発を繰り返すだけになるの」
「そう言えば、トシさん、よく、死ぬって叫ぶね」
「わあ、恥ずかしい。そういうの聞くと、いやになるでしょう」
「かわいくて、腰をもっともっと突き出したくなる」
「そんなこと……ほんとに死んでしまいます。神無月さんと三、四分したら、ほんとに命がけになると思う。十分したら、きっと死ぬでしょうね。福田さんも和子さんたちも神無月さんが早漏になるのを願ってると思いますよ。私もそうです。口には出しませんけど」
「あんまり苦しそうなのを見るのが忍びないから、なるべく早く出すようにがんばっているうちに、いまのように早く射精できるようになったんだ。いまでは、相手が締まってさえくれれば、自在に早くも遅くもできる」
 福田さんが、
「でも、最低三分はしてますよ。二分くらいで出してくれれば、爆発は十回ぐらいですみます。とにかく、カリの大きさと長さが奇跡的にピッタリなのが、私たちにとってうれしい〈悲鳴〉なんです」
「ほんとにうれしそうに悲鳴を上げるものね。あの声を聞きながら、グイグイ締めつけられると、生まれてきてよかったという気になる。まさにホームランを打った瞬間と同じだ」
「そう言われると、私も生まれてきてよかったって気になります」



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