百九

 田代がポンと膝を叩き、浜中の横顔を見ながら、
「浜さん、いかに神無月ファンの支援がすごいものか、ほら、特集記事を読んだという一ファンから寄付があったでしょう」
「ああ、先月ね。名古屋の熱田区の人だったね。二百万円。寺田さんと言ったかな」
 コーヒーを入れてきた山口が、私の袖をさりげなく引いて、あらぬほうを見つめた。この話に反応するなということだ。
「無料の定期購読契約書をお送りしましたが、純然たる寄付にサービスで返すのはおかしいと、きちんと年間購読料を送ってよこしました。今回の特集記事も喜ばれるでしょうね。神無月さんのファンというのはグレードがちょっとちがうんですよ。おわかりでしょう神無月さん、悪口屋が天下を取りたがっても、どうにもならないんです」
「なるほど。しかし天下を取りたければ勝手に取ればいいんで、社会に何の影響も与えない遊びのじゃまはしてほしくないですね」
 山口が恩田に、
「青森で中日戦は年間にどのくらいあるの」
「神無月さんが活躍した合浦の市営球場は、もうプロの試合は行いませんが、おととしできた県営球場では、去年大洋広島戦が二試合行なわれました。残念ながら中日戦はありません」
「じゃ、試合そのものの取材は、東京か名古屋に出かけるしかないんですね」
「はい。うちはスポーツ紙じゃないので、神無月さん絡みでないかぎり、出張費は出ません。それも年に二回ぐらいじゃないかなあ。よほど天下分け目の試合でないと」
 浜中が、
「うちの売り上げが急上昇したのは神無月さんのおかげなので、もう少し出張させてもらえると思います」
「そうですか。うれしいですね。神無月、そろそろめし食いにいこうか。吉祥寺の街の撮影をしがてら」
 恩田が、
「そうだった。話に夢中になって、予定をスルーしちゃってた」
 吉祥寺の街へ出る。風景に味がない。美しい風景の大切な要素である都電が走っていないせいだ。かつて新宿から荻窪まで青梅街道を杉並線が走っていたが、七年前に廃止された。東京の都電は、オリンピック以来の車両の輻輳や地下鉄の台頭もあって、横浜の市電の衰退と並んで激減の一途をたどってきたけれども、まだ完全には撤廃されていない。新宿や池袋や早稲田、渋谷、銀座、赤羽あたりは走っている。
 青森には市電はないので、浜中たちに市電の話はしない。似たような形のビルのあわいに食い物屋を探す。私は山口に、
「自分の意志で何を食うかというアイデアは、ぜったい湧いてこないものだね」
「ああ、出されたものを食う、あり合わせのものを食うというのが九十パーセントだな」
 私と山口の会話に田代が入りこみ、
「残りの七、八パーセントが、これを食いたいからこれを作る、これを食わせたいからこれを作るというやつですね。いわゆる自炊と家庭料理。他人の作ったものから食いたいものを選ぶという贅沢は、日常では二パーセントもないんじゃないですか。サラリーマンの昼めしは贅沢じゃなく、安上がりな店屋物の習慣的リピートでしょう。金額を心配しないでほんとうに食いたいものを食ってるわけじゃない」
「生命維持に肝心なことは、人間にとって大した関心事じゃないという証拠だね。そんなことじゃ食っていけないとか、食うや食わずの生活とか、関心もないことを人は口に出し合って生きてるんだね」
「そう言えば、いつか神無月言ってたな。生理的なことを引き合いに出して人を説得するのは実効性がないってな。食わなきゃ生きていけないなどと言うのは、ウンコをしなくちゃ生きていけない、小便をしなくちゃ生きていけない、寝なくちゃ生きていけないと言うのと同じだってな。それがなくても生きていけることこそ人間の希望だってな」
 丹生が、
「深いなあ……」
 恩田が、
「深いというより、それが正解だろ」
「食事も大小便も睡眠も、生命維持のための権利と義務を兼ね備えたイベントでしょう。その中でも一番楽しいのが食事です。楽しくやりましょう。山口、あそこ、ラオス料理ってあるけど、楽しんでみないか」
「いいな!」
 緑とオレンジの縞模様の看板にサーンと書いてある。セドラから一本駅寄りの道だ。へんに照明の明るい店にどやどやと入る。
「イラシャイ、マセー」
 顔の丸い引っ詰め髪の中年女が片言の日本語で迎える。客は二人。でんと石の象が店の真ん中に飾ってある。圧倒される。六人がけのテーブルがないので、四人がけを二つ引き寄せてゆったり座る。
「まずビール」
 山口が指を立てる。
「わかりました。ダークね、ラオスのビール」
「それ、六本」
「あとは、コースで六人前、お願いします」
 恩田が盛んに店内を撮りまくる。黒ビールの小瓶が六本と小ジョッキが六つ出てくる。
「乾杯!」
 浜中が、
「お、キレがいいですね。うまい」
「南国のビールはふつうボンヤリした味だけどな」
 山口が言う。グリルしてぶつ切りにしただけの鶏肉を載せた皿が出てくる。
「ガイヤン、でーす」
 もう一人の若い女が動員される。よく似た顔だ。姉妹だろう。
「これにつけて、食べる、ね」
 つけて食うと、甘いチリソースだった。噛んでいるうちに味わいが出てきた。山口が、
「こりゃ期待できそうだ」
 恩田がパチリ。店内を見回すと、あちこちに大小の象が飾ってある。サーンというのは象の意味らしい。
「コーイパー、〈コッソ〉のサラダよ」
 意味不明。魚肉を混ぜたかなり大盛りの香草サラダ。コッソ、なるほど香草(コッソ)か。浜中が、
「ラオスは周りに海はないんですが、メコン川で魚がよく獲れるんです。これは雷魚ですね」
「え、あの雷魚! 食べられるの? 名古屋じゃ怖がられてたけど」
「寄生虫の宿主だからですよ。生(なま)食をしなければまったく害はありません。とくに養殖物はだいじょうぶですし、美味です」
「うーん、酸っぱくて辛い。いける」
 恩田がうなずきながら、パチリ。年増が活気づいてやってきて、
「これも、いしょに、飲んで。おコメの焼酎、ラオラオ」
 グラスに半分ほど。青梅が入っている。丹生が、
「香りがよくて最高ですね!」
 女が三人に増え、深皿に持ったスープを運んでくる。小さな竹籠に入ったライスも添えられる。スッとした顔の男が説明に出てくる。日本語が堪能だ。
「ケーンノーマイというラオスのタケノコスープです。ケーンは汁、ノーマイはタケノコです。とろみスープに、胡椒、塩、ニンニクたっぷり、唐辛子少し入ってます。このごはんはラオスの主食、カオニャオダム。黒米入った、もち米蒸したもの。手で摘まんで食べてください」
「グッド、日本語、グッド」
 田代が指で丸印を作る。パチリ。水煮をしたタケノコ以外にも、カボチャ、ウリ、タマネギ、ナス、骨付き豚肉などが入ったごっちゃりスープだ。
「こりゃ、いい味だ。テクダンほど辛くもない」
「このライスにぴったりだね」
「米が香るなあ! うまい!」
 みんな満足し合ってビールを飲み干す。全員の顔をパチリ、パチリ。
「デザートでーす。メンラッサイロンターン」
「なんだこりゃ、蛙の卵か」
 山口が仰天する。たしかにそう見える。
「ノーノー、バジルの種ね。黄色のは、椰子の実の砂糖ヅケ」
 スプーンを入れると、練乳がふんだんに入ったカキ氷だった。
「おー、甘!」
「でも、さっぱりしてますね」
「さあ、引き揚げだ」
 浜中がいち早くレジにいって支払いをすました。
「いやあ、満足、満足。食事は楽しくだ」
 みんなふんぞり返って帰り道を歩く。歓談しながら帰り着く。田代が、
「一人で街を歩いていたら、一生入ろうと思わない店でしたね」
「ぼくもですよ。大勢でないと勢いがつかない」
 浜中が、
「名古屋西高の土橋校長から、青森の本社に直接お電話がありまして、先月二十日、西高の軟式野球グランドのネット裏に、神無月郷顕彰碑を建てたので、神無月さんに伝えてほしいとのことでした。これがその文言(もんごん)です」
 浜中は大きなバッグから一枚の紙を取り出して私に渡した。山口が覗きこんでいっしょに読む。

  
天童神無月郷君顕彰の碑
 全国高等学校野球選手権青森大会において昭和四十年、四十一年と二年連続三冠王に輝き、北の怪物と称された神無月郷君は、やむなき事情から同四十一年夏、突如野球を中断し、天馬のごとく当愛知県立名古屋西高等学校に渡りきたった。のち一年有半ひたすら雌伏して勉学にいそしみ、驚くべき好成績を残した。昭和四十三年当校を巣立って東京大学教養学部に進み、雌伏中の思惑どおり、中断していた野球を再開し、わずか春秋二シーズンで東大を有史以来の優勝に導き、自らも二季連続三冠王という偉業を達成した。同年十一月東京大学を中退し、これも積年の思惑どおり中日ドラゴンズに入団した。当校在校時は奇人の批判かしましく、理解する者こそ少なかったが、同じ翼を持つ仲間が待つ異なった時空へふたたび天馬の如く翔(か)け昇り、飛び去っていった。かの地で心おきなく遊弋の翼を広げることを祈るとともに、当校に一瞬のきらめきに満ちた時間と末永い誇りをもたらした神無月郷なる天童を永遠に忘れぬよう、この碑を樹て、その奇跡の功績を顕彰して後進の師表とするものである。
   昭和四十三年十二月二十日  建立者愛知県立名古屋西高等学校校長 土橋元治


 山口が泣いている。
「土橋校長はこのことを友人の青高校長の小野真一氏に連絡したところ、青高も今年中に記念碑を建てるということが決まったそうです。先日、西沢、相馬、石崎お三かたが本社を訪れて、建立責任者として東奥日報社社長である楠美隆之進を懇請し、建立者として小野校長を立てることを提案いたしました。楠美社長は快く引き受けてくださいました。これまで東奥日報紙は、昭和三十八年に『国有林を見直そう』という連載記事で新聞協会賞を受けた程度の目立たない地方紙でしたが、神無月さんの特集記事や追跡記事を掲載して以来、全国に名を馳せる新聞となりました。そのことへの感謝もこめて、建立費用は当社が全額負担することにいたしました。神無月さん、まことにありがとうございました」
「あれ、お礼はぼくのほうが言うんじゃないんですか?」
 山口が、
「黙って頭を下げて、どうも、と言ってればいいんだよ」
 六人で大笑いになった。
「山口さん、東大のコンバットマーチをお作りになったということが、朝日か毎日に載っていましたが、それこそすばらしい功績ですね」
「いやあ、青高の『選手を送る歌』からの本歌取りです。古関裕而のようにはいきません」
 私は、
「山口、古関は昭和二十五年にドラゴンズの歌を作ってるよ。ドラゴンズの入団式で聴いたけど、冴えない歌だったな」
「球団歌は不得意みたいだ。巨人軍の歌、闘魂こめてもな。何てったってすごいのは―」
「わかるわかる、メロディの複雑さと抒情は一級品だ。紺碧の空、愛国の花、暁に祈る、名曲とんがり帽子、最大級の名曲栄冠は君に輝く」
「長崎の鐘、フランチェスカの鐘、ニコライの鐘」
 と山口。
「イヨマンテの夜、君の名は」
 と私。
「黒百合の歌、ひめゆりの塔、高原列車はいく」
 と山口。
「とどめは?」
「オリンピック・マーチ!」
 ワーッと拍手が上がる。私は山口と握手し、
「こういうゲームは山口としかできないよ」
 浜中が、
「東大のマーチは、紺碧の空よりずっとよかったですよ」
 私は、
「黙って、どうも、と言ってればいいんだよ」
 また大笑いになった。


         百十

 三時半を回ったばかりなのに、福田さんがやってきた。
「賑やかなこと。楽しそうですねえ」
 恩田がフラッシュを焚いた。福田さんは満面の笑みで、
「山口さん、来月からこの家は散らかしっぱなしで使ってください。二、三日にいっぺんお掃除に参りますから。入用のものがあったら遠慮なくお申しつけください」
「ありがとう。そうさせていただきます。風呂掃除と蒲団干しはだめですよ。俺がやります。音楽部屋に譜面が散らかりますが、それは放っておいてください」
「わかりました」
 恩田が、
「何ですか、譜面というのは」
「ああ、九月にイタリアのアレッサンドリアで行なわれるミケーレ・ピッタルーガ国際ギターコンクールというのがあるんです。ギターコンクールの最高峰です。去年の九月が第一回でした。優勝者は国際的なプロとしてデビューできます。そこの三位までに入賞できれば、じゅうぶん日本でも表舞台に立てます。五月あたりから、日本のいくつかのコンクールに出場して、できれば優勝するなどしながらピッタルーガに挑もうと思ってるんですよ。その練習場として、この家を勝手に使ってくれというのが、福田さんのおっしゃったことです。この家を提供してくれた菊田さんが神無月に諮り、神無月が快く了承して、福田さんに伝えたということです」
 丹生が、
「ここにも力強い協力関係があるということですね」
「はい。神無月と人生を送ってると、棚からぼた餅ばかりですよ。ただいっしょに道を歩いてるだけでそうなるんだ」
 私は笑いながら、
「気をつけて。山口の脚色が始まりましたよ。ぜんぶ彼の自力で切り開いたことです。まあいいや。好意的な潤色をし合うのがぼくたちの友情ですから。脚色と言っても、悪質なホラは吹きません。きょうは楽しく法子の店で飲みましょう」
 田代が、
「騒がれませんか」
 山口が、
「法子さんは、従業員教育を徹底させて、酔族館を神無月が騒がれないで飲める店にしてるんですよ。神無月が騒がれると、ほかのお客さんにも失礼だってね。恩田さん、カメラの類は置いてってください。記憶すべきことがあったら、目と頭の中に入れてください」
 私は山口に、
「酔族館のあとは、グーッと寝て、またあしただ。飲んだあとは家に帰って、多少はギターをいじるんだろ」
「そうする。五分でもやっておかないと指がナマる」
 田代が、
「あしたは、そのギターが聴けるんですね」
「神無月、林という二人の天才の声もね。丹生さんは初めてなのでちょうどよかった」
 浜中が、
「私どもも、その林さんというかたにはお目にかかってませんよ」
「そうでしたね。とにかく驚きますよ」
「福田さん、あしたは火曜日だ。トシさんも誘ってグリーンハウスにおいでよ。新宿区役所通りのグリーンハウスと言えば、タクシーが連れてきてくれる。五時から六時までのあいだにくれればいい」
「はい、参ります。また神無月さんの声が聴けるんですね。菊田さん、驚くと思います。そろそろお茶漬けにしましょう。茶碗一杯だけでも食べてってください」
「俺、法子さんに電話入れるよ。神無月、寒いから靴履いてけよ」
「オッケー」
         † 
 男六人で玄関を出る。
「法子さんて、今陽子に似てませんでしたか」
 田代が浜中に北村席での記憶を言うと、
「もう少し妖艶だね。大人の安心感がある。女の媚びはない。いくらでも甘えさせてくれるけど、ぜったいこっちを向いてくれないって感じかな。冷たい人ではないけど、遠い人と言うのかなあ。ひとことで言うと、手に入らない人ということだね。和子さんも、素子さんも、節子さんも、キクエさんも、みんなそうだね。どうしてなんだろうなあ、あれは」
 山口が、
「神無月しか愛していないからですよ。女としての媚びや色気は、ぜんぶ神無月にくれてやる。おたがい競争し合ってくれてやってるんじゃない。一人ひとりが自分なりに持ってるぜんぶを与えてしまう。ところが一人ひとりが和子さんと一心同体だと自覚してるので、与えてるという自覚がない。だから同じ雰囲気なんです」
 恩田が、
「福田さんも同じ雰囲気だったな。まあ、こっちに欲気を与えない分、安心して近づいて話ができるというわけですね。あんなに美人ぞろいなのに疲れない」
 山口はうなずき、
「法子さんのそういう媚びのない清潔さという不思議な距離感が客に気に入られて、酔族館は中央線沿線で評価ナンバーワンの店になってるわけなんですよ。ホステスたちも心して法子さんの雰囲気に倣ってます」
 夕方の帰宅ラッシュの電車に乗る。吉祥寺から西荻窪、荻窪と二駅上る。
「青高の野球部連中、どうしてるかな。あのときグランドに入っていかなかったら、いまぼくは野球をしていない」
「おまえが飽きずに言う話だな。たしかにそのとおりだろう。……彼らはあれからどうなったかな。俺たちは青高を〈脱藩〉してきたから、仲間の消息なんかわかりようがない」
「阿部キャプテンが明治の野球部にいったことは知ってるんだ。東大の入部のときに、どこかの新聞記者から、彼が一軍に登録されたことがないとは聞いた。それからたまたま文Ⅲのクラスに山内ってやつがいて、センターをやってた山内さんの弟だとわかった。山内さんは県内の社会人野球にいったらしい」
 浜中が、
「阿部くんは今年新四年生で、外野の控え選手に登録されましたよ」
「そうですか! よかった。……青高でまた野球をやりはじめたころ、褒められるのが恥ずかしかったな」
「どうしてですか?」
「それまでのぼくは、褒められるといつも鼻の穴がふくらむような気分になったものでしたけど、あのころはちがってたんですよ。たとえば年をとって頭が禿げ、すっかり腹の突き出た男が、人生の花とも言うべき青年時代の写真を人に見せるときに感じるような後ろめたさを感じました。もう一度野球ができるようになるまでの長いあいだ、何かがぼくを悲しませ、何かがぼくを怒らせてきた。ぼく自身にもそれが何かわからなかったけど、野球をもう一度できるようになったとき、自分が何に怒り、何に悲しんできたかはっきり気づいたんです。それは、とつぜん野球ができなくなった自分が、かつては野球に飛び抜けて有能だったといういびつなプライドでした。その醜さに気づいて、後ろめたくなったんです。悪しきプライドを捨てて野球をできるということだけに感謝して生きるべきだ、褒められることに生甲斐を感じてはいけないって。それなのに、阿部さんたちはぼくを褒めつづけて、その後ろめたさを吹き飛ばし、よりよきプライドを復活させてくれた。優越感も劣等感もない、ただ自分の才能だけに純粋なプライドを持った野球人にしてくれた」
「野球人としての魅力に重みが増したはずですね。私たちには光に感じました」
「テルヨシ―憶えてますか」
「は?」
「小笠原テルヨシ、彼は来年早稲田のエースだそうです。なんだかうれしいな。彼にも励まされた」
 山口が、
「ああ、小笠原な。新品の学生服がかえって哀れな感じのするやつ。健児荘にもきただろ」
「うん、農家の長男でね。一度、山の中腹の彼の家に遊びにいったことがあって、キャッチボールをした。いい肩してた。中学ではエースだったらしい。健児荘の部屋に泊まりにきて、うれしそうに押入で寝てた。ときどき思い出すんだ。あの素朴な顔。大学で数学を勉強しながら、趣味で野球をやりたいって言ってたのに……」
「いまじゃ野球どっぷりか? 適所ならいいだろう。数学なんかあいつに似合わないよ」
「小笠原さんの動向にも注目しておきます」
 荻窪駅に降り、酔族館の階段を昇る。すでに妖艶な今陽子と忠実な僕(しもべ)の古沢が出迎えの姿勢で立っている。古沢が、
「いらっしゃいませ。きょうも一番客です。ありがとうございます」
「こちら東奥日報の」
「はい、浜中さま、田代さま、恩田さまですね」
 法子が、
「あら、新顔」
「丹生です」
「ニュー?」
「はい、そういう読み方もあります。丹後の丹に生きるです」
「どうぞどうぞ、いちばん奥のテーブルへ。××くん、案内して」
「はーい!」
 二十代後半のボーイ頭のような青年が先に立つ。先回は見かけなかった顔だ。ミドリと同様、これまたヘッドハンティングというやつだろう。恩田が、
「うわ、でっかくてきれいな店だなあ!」
「ありがとうございます。来月で、おかげさまで開店六カ月目を迎えます。どうぞ今後ともよろしくご贔屓のほどを」
 ボーイ頭が律儀に礼をする。三人の女がやってくる。千夏も雑じっている。山口が関心なさそうに一瞥する。一人は先日のサブママ格のミドリ、もう一人はやはり先日のミハルだった。
「ミドリです」
「千夏です」
「ミハルでーす」
 ミドリが四人の中ではいちばん年配の浜中に、
「いらっしゃいませ。ようこそ東京へ。いま青森は雪なんでしょう?」
「大雪です。昼も夜も零下です」
「こちらは雪が降ったり零下になったりすることはめったにないですよ。二月はたまにそういうこともありますけど」
 ビールが五本、乾き物とチーズの盛り合わせが大皿で運ばれてくる。ミドリが二人の女に、
「この席は、独酌でお願いね。瓶が空になったらすぐ補充して。おつまみは、このあと春巻、野菜餃子、エビチリと出してもらうけど、それがなくなったら、焼きそばと焼きうどんを大皿でね」
「はい」
 千夏が殊勝な感じで、
「神無月さん、あと十日ほどで東京とお別れですね」
「はい」
「東大と同じようにドラゴンズでもがんばってくださいね」
 ミドリが口に人差し指を立てる。私は千夏に頭を下げた。
「応援ありがとうございます」
 千夏は山口にはあえてからだを寄せない。他人行儀な口の利き方をする。
「人の目やマスコミを警戒してるのはわかりますけど、そんなに神経質にならなくてもいいんじゃないかしら、ね、山口さん」
「法子ママに釘を刺されてるんじゃないの。スターが酒を飲む場所で女に囲まれているという図は、ふつうの図でないでしょ。目立つ。スターというのは、日々努力して本番に備え、自宅で粛然としているのが完璧な図で、それこそ彼らの本質なんだ。ファンやマスコミはその本質よりも外面(そとづら)を見たがる。完璧でないスターも愛でるという矛盾した感情を持ってるからさ。完璧でない証拠らしきものがちらつくと、騒ぎ立てて喜ぶ一方で、やっぱりそういうやつかと攻撃したくもなる。へたすると、自分を裏切りやがってと追放したくなることもある。とどのつまり、スターの身の回りがうるさくなる。そういうことすべてが、騒ぎを好まない落ち着いて暮らしている人の害になる」
「そういうものなんですか?」
「ママからそのように教育を受けてるはずだ」
 千夏は黙った。山口と彼女とのあいだには何の親しい関係も結ばれていないと、一瞬のうちにわかった。ツマミがドンドン出てきた。女三人で、皿に取り分ける。千夏は、
「私、名古屋に帰らないと思います。東京で一旗上げるつもりです。法子ママもそうしなさいと言ってくれたので」
 自分のことしかしゃべらない。私たちは黙殺した。


         百十一

 ミハルが、
「神無月さん、ローリング・ストーンズ聴いてくれた?」
「まだ」
 山口が、
「ミハルちゃん、ストーンズのどういう曲が好き?」
 煩わしいのを引き受けてくれた。田代が期待に満ちた顔になる。ミハルは指を折りながら、
「ストレイ・キャット・ブルースでしょ、タイム・イズ・オン・マイ・サイドでしょ、サティスファクション、ペイント・イット・ブラック、それからジャンピング・ジャック・フラッシュ」
 山口は鷹揚にうなずき、
「どれもこれもやかましくて、ロックの雰囲気をかもしてるだけの曲だな。ビートルズに対抗してるつもりなんだろうけど、歌はへただし、メロディラインがなってない。少し聴けるのは、アズ・ティアーズ・ゴー・バイと、ルビー・チューズデイのみ。彼らはこれからこの二曲レベルのいいバラードを目指すしかないね。賑やかさとリズムばかりで、メロディを失ってしまったら、音楽は死ぬよ。ミック・ジャガーが、ポール・マッカートニーくらい作曲能力があって、歌がうまかったら、ローリング・ストーンズももっと飛躍できるのにな。ん? 作曲はほとんどキース・リチャーズだったかな。ロックは芸術だよ。ビーチ・ボーイズぐらい美しくないと」
 ミハルはシュンとしてしまった。田代が大きく笑った。ミドリは何の関心もなさそうだった。あっという間に客が立てこんできた。ボーイたちがあわただしく動き回る。法子が戻ってきた。
「聞こえてきたわよ、山口さん、うるさい音楽も若い人の心をつかむことがあるのよ、きっと」
「だろうね。それは否定しない。ワーグナーなんか、ロックどころじゃなくうるさいから。しかし荘重で美麗なメロディを持っている」
 恩田が、
「ミハルさん、山口さんは意見したんじゃないんですよ。山口さんにとって、メロディこそ音楽だと主張したんです。山口さんの主張がすばらしいのは、網羅的に聴いたうえで判断していることです。ビートルズもビーチ・ボーイズもね。ミハルさんは、ローリングストーンズの一部しか聴いてないんじゃないかな。ちがいますか?」
 ミハルはそうだとうなずいた。
「神無月さんも山口さんも、昭和一ケタからこちらへずっと邦楽、洋楽全般を聴いてきて、ほとんど記憶しているんです。そういう人に、ちょっと聞きかじっただけの曲を勧めたのはうかつでした。もっとたくさんのジャンルを聴いたうえで、ローリングストーンズを最高のものと認めるなら、人に勧める言葉にも迫力が出てくるでしょうし、自分だけで大切に聴くようにもなると思います」
 法子は笑いながら、
「ミハルちゃん、わかった? いい勉強になったわね。お席替わる?」
「ここにいたいです」
「そう、じゃきょうはここにいなさい。深い話が聞けるわよ。ミドリさん、××さんのテーブルについてあげて。それから××さんのテーブルにも回ってね」
「はい。二席回ったら戻ってきていいですか。私もここにいたいんです」
「いいわよ。浜中さん、きょうはいい写真が撮れました?」
 恩田が、
「撮りまくりました。神無月さんはすべて絵になります。今年のプロ野球界はフィーバーしますよ。紙面はほぼ毎日神無月さんの写真で飾られるでしょうね」
 浜中が、
「まちがいないですね。神無月さんの美しさが私たちの手を離れてしまうんですよ。ちょっとさびしいですけど」
 山口が、
「浜中さん、あんたそういうこと、青高のころから書いてましたよ。本望でしょう」
「はい。そのとおりです。本望です。法子さん、たしか神無月さんと出会ったのは小学校のころと聞いてましたが、どんなふうに出会われたんですか」
 法子は微笑み、
「衝撃的。神無月くん、転校してきた日に、学校の番長を投げ飛ばしたの。神無月くんのお腹を蹴った番長をつかんで、引き寄せて、パーッと投げ飛ばしたの。真っ白い校庭で」
「真っ白い?」
「伊勢湾台風のあとだったから、消毒薬が撒いてあったの。神無月くんは校庭よりも白く輝いてたわ。喧嘩という感じがしなかった。ちょうど下校のときで、みんなでそれを見てた。だから、出会ったんじゃなく、一方的に私が見たんです。からだが痺れるみたいになって、この人と生きていきたいって思った。その日からきょうまで同じ気持ち」
「何歳のときですか?」
「十歳です。もう一人前の女です。ほかにもいろいろな女の子が見てました。女には二通りあるんです。海のものとも山のものとも知れない男を選ぶ女と、地位と富の確立した男を選ぶ女です。……あ、ごめんなさい、少しテーブルを回ってきます」
 ドレスを揺らして去っていった。ミドリが、
「いいお話。地位と富というのは、でき上がった肩書きということね。そういう女が九十パーセント以上かも……。私も正直なところ、その当時の神無月さんに近づかないタイプの女です。いまなら近づきますけど、人間的な魅力を覚えて近づくような近づき方じゃないので、どこかしっくりしません。結局近づかないでしょうね。そういう女が九割もいるということは、神無月さんは女にモテないタイプだということになります。神無月さんを愛する女は一人ひとり、ダイヤモンドのように貴重な人です。これからは私みたいな女が打算的に近づいてくるでしょうが、神無月さんは歯牙にもかけないと思う。幼いころからダイヤモンドしか相手にしてこなかったから。だからママも、神無月さんのことをちっとも心配していないんですよ」
 丹生が、
「なるほどねえ。神無月さんが、自分に心底惚れる女をけっして裏切らないことがよくわかりますよ。私なんか、新聞記者だっていう肩書だけで、けっこう女が寄ってくるもんなあ。モテた気になってたけど、空しいなあ」
 ミドリが、
「ちゃんとモテたんですよ。ただ、そういうモテ方しかできないということです」
 千夏が図々しく、
「私はダイヤモンドかしら」
「ママみたいにひっそりしてればね」
 ミハルが、
「私、自分がどっちかわからない。医者や弁護士とは結婚したくないけど」
 山口が、
「俺みたいに将来が見えない男と、神無月みたいに将来が見えた男と、どっちを取る?」
「どっちも取らない。頭のいい人、苦手だから」
 浜中が笑い、
「そういう選択の仕方もあるんですね。この世の男はすべて救われるようになってる」
 恩田が、
「俺たちは全員独身だ。生活の基盤になる女房はダイヤモンドであってほしいけど、ただの石ころでも不満はないな」
 山口が、
「ダイヤは結晶物でしょう。自力で結晶できるわけじゃない。結晶するほどの強い力を与えるのは俺たちの義務じゃないですかね。石のまま放っておけば石のままですよ」
 私は、
「山口、義務と思うとぎこちなくなるよ。ダイヤを囲む土も砂も石も自然体だ。その自然体に力や熱があれば結晶するだろうし、力も熱もなければ結晶しない。がんらい、結晶させる必要がないよ。力があろうとなかろうと、結晶しようとしなかろうと、おたがい自然体でありさえすれば、和やかに生きられる」
 浜中がうなずき、
「和合がいちばんですね」
 ミドリが感心したように、
「神無月さんて、先天的に海のものでも山のものでもないのね。空のダイヤかしら。神無月さん、あなた自身がダイヤモンドなのよ。女がどんな種類だろうと、ダイヤは美しいものだから、だれにでも愛されるわ。小学生であっても、プロ野球選手であってもね。いるのねえ、そういう人が。なんだか信じられない。ダイヤなら私だって欲しいわ。でも、やっぱり人が思うほど神無月さんはモテないのよ。どうしてかと言うとね、空に浮かんでるから、手が届かないの。ふつうの人間には遠くから眺めて愉しむだけのダイヤ。翼のある人だけが飛んでいって触れることができる」
 山口がうなって、
「空は自然そのものだ。そこに雲のように浮かんでるダイヤは自然の圧力でできた変成物だ。地上から空に昇ったんだな。それに手が届かないとなったら、地上の人間に残されたものはあこがれだけだ。翼があればつかめる―か。和子さんも、法子さんも、みんなみんな大きな翼を持ってるからな。俺もがんばって―」
 浜中が、
「山口さんはだれよりも大きくて力強い翼を持ってますよ。名古屋でもおっしゃってたじゃないですか。神無月が死んだら自分も死ぬと。それ以上の金剛力を持った翼はないですよ」
 田代が、
「神無月さんがほとんどの人間にモテないという話、神無月さんに惚れてる人間はホッとするでしょうね。俺思うんだけど、神無月さんは遠くにあるだけじゃなく、危険な感じがするんじゃないですかね。遠い危険なものに手を出す人間がそんなにいるとは思えないなあ。せいぜい百万分の一。それでも多いような気がするな。法子さんたちは奇跡の集合体じゃないですかね」
 恩田が、
「俺もそう思う。俺たちは神無月さんに惚れて取材しつづけてる。おそらく一生取材しつづけるだろうな。俺たちこそ、そういう人間でなければならないし、そういう人間であるはずだ。自信が湧いたよ」
 ミハルが、
「神無月さん、あなた、だれ?」
「よくわからないんだ。つけられた名前と、野球の才能に恵まれたこと、百万人に一人の人に愛されること、わかっているのはそれくらいかな」
 焼きそばと焼きうどんが出てきた。
「これがうまいんだ!」
 と言って山口は自分のふた皿にごっそり盛った。ミドリがめいめいに盛り分けているうちに法子が戻ってきた。
「どう、勉強になってる? でも神無月さん相手に勉強はできないわよ。学ばないで、感じるだけにしてね。ぜったいしちゃいけないことは、嫉妬。いくら信じられない存在だからといって、嫉妬したとたんに二度と姿を現してくれなくなるから。どうしてかって言うとね、嫉妬すると人は意地悪になるの。意地悪は小さいころから神無月さんの天敵。天敵を無視できずに真剣に相手しちゃうから、命取りなの」
 浜中が、
「あの意地の悪いサンスポの××が、一度目の質問で神無月さんのことを山下清扱いしてこき下ろしてたんだけど、神無月さんがヒーロー扱いされてるのが癪だったんだろう。そこで、あなたにとってヒーローとは何か、と訊いたんだね。そのとき、神無月さんは真剣にこう言った。何十回もメモを読んだから暗記してしまった。―暴虎馮河とは正反対の人。まさにあなたのおっしゃった山下清のように、自分に愛を与える人に素直に従い、その人とともに生き、どんな妨害にあっても耐え抜き、自分の才能を開発する努力を継続する強さを持ったふつうの人。……かろうじて涙を抑えましたよ」
 山口が天井を向いて口をへの字にした。
「だれにでも真剣にぶつかるんだ、こいつは! もしそのとき、神無月ががっかりして自殺でもしてたら、そいつを地の果てまでも追いかけて、手足千切って、舌抜いて、目玉抉り出して、ナブリ殺しにしてやった! ちくしょう、神無月をいたぶるやつがいたのか。 ちくしょう!」
 法子がしきりに山口の背中をさする。恩田たちもあわてて山口の手をとった。ミドリとミハルは呆気にとられていた。
「こいつの心はたしかにダイヤモンドだ。しかしな、ある針点をカチンとやられたらすぐにパリンだ。死んじまうんだよ! ちくしょう。気が弱いんじゃない。意地悪な人間に絶望しちまうんだ。生きててもしょうがないと投げちまうんだ。おまえたちで勝手に生きていけと全身分解しちまうんだ」
 ミドリが冷静な顔で、
「それが世の中じゃないのかしら。そういう人もいれば、親切な人もいる」
 山口は涙目でキッと睨みつけ、
「そんな合理的な判断をする天才が地上にいるか! そんな世の中は、神無月の世の中じゃないんだよ。神無月はな、善もあれば悪もあるという聞いたような科白で取りまとめられる世の中を認めない。意地悪と親切を同じ価値で肩を並べさせるような世の中をぜったい認めない。そんな十人十色式の金言を認めるような脆弱な魂じゃないんだ。深い一色なんだよ。その一色の底に絶望が沈んでる。命懸けの絶望は強靭だ。そういう強靭な魂にこそ俺たちは救われるんだ。俺たちがその一色に染まれるからだよ。魂に応用編なぞいらない。俺たちはいつも一色の魂を強靭にしておかなくちゃいけないんだ」
「賛成!」
 田代が言った。
「大賛成!」
 法子が言った。ミハルがパチパチパチと拍手した。田代が、
「すみません。隠しレコーダーで録りました。神無月さんがいかに周囲の人びとに愛されているかの証言を取りました。飛び出してきた名前などを伏せて、いずれ記事に上げさせていただきます。ちょっと小便いってきます。あっちですね」
 丹生が立ち上がり、
「私もいってきます。これか、こういう世界か!」


         百十二

 浜中がミドリのビールをゆっくり受けながら、
「のっけから別世界へ入りこませてもらいました。この興奮があと三日もつづくかと思うとうれしくてしかたありません」
 ミドリは、
「つまらないことを言ってすみませんでした。ごめんなさいね」
 と私に頭を下げた。私はまじめに、
「つまらないことじゃないです。生理的なことは曲げようがありません」
 山口は法子からハンカチを借りて目を拭き、
「ふだんはみんな静かに暮らしてるんだよ、ね、法子さん」
「そうですよ。神無月さんが湖のように静かな人ですから。ときどき怒りますけど。ふふ」
 山口が、
「へんなところでな」
 と笑いを合わせて、名古屋の鰻屋の話を始めた。
 九時過ぎまで飲み、電車に乗った。私はビール一本程度しか飲んでいなかったので、多少の酔いを感じるくらいのものだった。
「あしたは八時から、風呂、食事、机、と撮影します。フジ、ポート、グリーンハウス。けっこう忙しいですよ」
「だいじょうぶです。山口がついてますから」
「まかしとけ」
 いい顔色になった山口と浜中たちは西荻で降りて手を振り、私は吉祥寺で降りた。福田さんが首を長くして待っているような気がした。
         †
「あ、やっぱりいたの?」
「心配で帰れませんでした」
 福田さんはキッチンテーブルに姿勢を正して座っていた。
「あしたの夜のグリーンハウスのこと、電話で菊田さんに連絡しました。とても喜んでました。帰りも二人でタクシーで帰ることにしましたから」
「そう。がやがや大勢だとわずらわしいものね」
「いいえ、ゆっくり取材してもらうためには、少しでもスッキリしてたほうがいいとおっしゃって」
「奥ゆかしいね。疲れたから寝るよ。きょうは裸で抱き合って寝よう」
「はい……」
 蒲団に入り、温かいからだに後ろから寄り添って乳房を抱く。
「手が冷たい」
「暖かいね、雅子は」
「ああ、幸せ、愛してます」
 雅子はじっとしていたが、やがて尻を突き出し、片脚を上げて太腿に絡ませてきたので亀頭が滑って入った。ビクリと腹がすぼみ、尻が揺れた。
「ああ、動かさなくても、イ……」
「もったいない。抜こうか」
「いえ、抜かないで、ああ、すぐイッてしまいます、愛してます、愛してます、神無月さんんん、イク!……」
 尻がすぼんだので自然と外れた。私はホッとして眠りにつこうとした。雅子は私を仰向けにし、跨ってきた。
「だめだよ、雅子、くたくたになるよ」
 私は福田さんが尻を深く落とさないために下から支えた。女の過剰に乱れた振舞いを見ることで冷めた気分にならないように警戒する。
「出してほしいんです」
 動きはじめている。私の胸に掌をついて、福田さんも早く達しないように膣口だけで上下するよう努めている。ひさしぶりなので感覚がするどくなっているらしく、輪ゴムのように締めつける。
「すごくいいよ」
「がまんしてるんです、神無月さんがふくらんでくるまで、ああ、でもだめ、ものすごく気持ちいい! あ、だめ、イキます、ああああ、イク!」
 深く腰が落ちないよう手で尻を持ち上げてやる。膣口だけで切なそうに締めつける。同じように動きだす。
「もうすぐだよ、もうすぐ」
「ああ、うれしい、ふくらんできました、あああ、あ、あ、いっしょに、いっしょに」
「イクよ!」
 思わず手を離して両乳を握った。尻が深々と落ちた。
「あああいっしょにイキますゥゥゥ!」
 射精して、律動を与えないようにすぐに尻を持ち上げて抜き、抱えて横たえる。それでも福田さんは激しく痙攣する。顔を抱えて口に亀頭を含ませ律動を吸わせる。両足を突っ張りながら懸命に吸う。いとしい。引き攣る背中をさする。ふるえが止むと、ようやく口を離し、口角から精液を流しながら微笑む。
「愛してます。心から」
「さあ、寝よう」
「はい。きれいに拭いてから」
 風呂場へいき、タオルを絞って持ってくる。拭かれているうちに眠りに落ちた。
         †
 六時半に起きた。台所で音がしている。声をかける。
「起きたの?」
「はーい、六時に」
 頭がスッキリしている。洗顔し、庭に出る。久保田バットを握り締め、軽く百本。
「八時からカメラがくるよ」
「はい、お風呂と朝食を撮影するんですね」
「そう。文化園、二周だけしてくる」
「いってらっしゃい。熱いお風呂入れておきます」
 いつもより倍のスピードで走り、汗を出そうとする。この一年で肺活量が増している手応えがある。苦しくない。キャンプではどれくらい走らされるのだろうか。この肺の具合ならじゅうぶん耐えられるだろう。鳥獣舎を眺めながら二周して戻る。玄関にたどり着くと、ちょうど男五人が道の向こうからやってくるところだった。山口がギターケースを提げている。
「おはようございます!」
「おはよう! 風呂入りまーす」
 式台に上がってジャージを脱ぎ捨て、裸で廊下を急ぐ。
「オーッ!」
 笑い混じりの喚声が上がる。背中から裸の尻を録っている。湯船に飛びこむ。小窓を開けて湯気を出す。膝までズボンをまくった丹生が湯殿に入ってきて、湯船の中で歯を磨いている私に向かってビデオを回す。デンスケ担いだ田代が戸を開けてマイクを突き出す。
「往復五キロ程度のランニングから帰ると、すぐ素振りをして、三種の神器をやったあと、風呂に入ります」
 湯船の中で首にタオルを使って見せる。
「三種の神器とは?」
「腕立て、腹筋、背筋のことを自分でそう名づけてるんです。片手腕立ても混ぜることが多いです。風呂場でやることもありますが、やってみせますか」
「いやけっこうです」
 彼らはぞろぞろキッチンへ移動した。丁寧に頭を洗って出る。エプロン姿の福田さんと山口がにこやかに笑って話しているショットを写している。浜中が福田さんに訊いている。福田さんが答える。
「ええ、バラエティよりも栄養に気をつけてます。プロ野球選手の食事は量が多いと聞いてますが、神無月さんは、量はあまり食べません。どんぶりごはんを一膳がふつうです。二杯食べることもありますけど」
 私はコップで水を飲みながら、
「プロ野球のランニング練習はきついと聞いてます。どなたかご存知ですか。初日からあごを出したくないんですよ」
 丹生が、
「大学の陸上部がよくやる、インターバル・ランという練習をほとんどの球団がやってるようです」
「何ですか、それは」
「はあ、五十メートル全力走、そこからバックで全力走、四十メートル全力走、バックで全力走、三十メートル、二十メートル。それで一セット、計二百八十メートル。これを五セットから八セット。まったくやらない球団もあります」
「バック走をやらない往復なら、東大球場でしょっちゅうやってました。バックを入れるとなると肉離れが怖いな。往路全力、復路細心の注意で五分の力でいかなければ、何セットもつづけられない。乗せられないようにしよう。強要するコーチとは喧嘩になるかもしれない」
「ごはんです、どうぞ、みなさん」
 山口が、
「お、いただきます!」
 と箸に手を伸ばした。浜中が、
「旅館でいただいたので、私たちはけっこうです。それより、写真!」
「はい!」
 ベーコンエッグ、ホウレンソウのおひたし、いわしの煮つけ、フキノトウのてんぷら、豆腐とホウレンソウの味噌汁、どんぶりめし。山口が、
「福田さん、板海苔ください」
「はーい」
「山口も、海苔と納豆があれば一膳いける口だな」
「おう、おまえは」
「白菜の浅漬けと、キュウリの塩もみ」
「だめですよ、そんな箸休めで食事しちゃ。納豆はいいですけど」
 山口が、
「福田さん、きょうのグリーンハウス、俺はバンドと打ち合わせがあるから五時に入るけど、神無月たちは五時半から六時のあいだにくると思うよ」
「わかりました。五時半過ぎに菊田さんとお伺いします」
「一回目のステージは六時、林に歌ってもらう。第二ステージは七時半、神無月が二曲歌ったあと、俺とバンドのイージーリスニングで流す。第三ステージは九時、ほとんど林と俺が弾いたり歌ったりする。そのステージの最後に神無月の一曲。大テーブルをとっとくからね。恩田さん、写真はなるべくストロボなしでお願い」
「はい、小型のフラッシュカメラでいきます。二十枚程度にしときます」
 コーヒーが出る。福田さんがメモ用紙を差し出し、
「私も東奥日報を年間購読したいんですが。これが住所です」
 浜中が、
「わかりました。二月から今回の特集記事を載せはじめますから、二月一日分からお送りします。一日遅れぐらいになりますよ」
「はい、けっこうです。よろしくお願いします」
 山口が、
「浜中さん、フジとポートはまずいと思うんだ。微妙なところから神無月の女性関係がばれちまう。それに、神無月を知ってる人間がごっそり集まって、対処できなくなる」
「ですね。練習で手いっぱいのはずの人間が、暇を作ってときどきいく店というのも、ちょっとへんですもんね。どうせ、グリーンハウスで華々しい絵が録れるわけだし、店巡りがトピックじゃありませんしね。それより、風呂場で撮れなかった三種の神器の絵をいただいておきましょう。神無月さん、よろしくお願いします」
 音楽部屋にいって、ビデオの前で腕立て腹筋背筋を三十回ずつやった。人並の量なので、スピード豊かにやった。片手腕立ても十回ずつやる。
「神無月さんは野球をやる姿が静かなので、筋力体力といったものがイメージできないんですが、どんなものなんですか」
「五十メートル走はきわめて速いです。持久走は高校時代まではからっきしでした。懸垂もだめ。高校二年のときは十回もできませんでした。それ以来あまりやってないのでわかりませんが、間断なくまじめにやるとしても、せいぜい五十回じゃないでしょうか。東大の体力テストではそのくらいでした。この山口は高校一年のときに、すごいスピードで四十回もやって見せましたよ。まだ余力があったのに途中でやめたという感じだったな。マラソンは一位です」
「山口さんはスポーツマンでもあるんですね」
「そ、ただの運動マン。さ、音楽部屋だ」
 音楽部屋にいき、ステレオ装置やレコード棚を一とおり撮影したあと、離れで机に向かう姿を写し、もう一度音楽部屋に戻って、サンレモ音楽祭の二枚組LPを聴いた。福田さんも聴いた。
「音楽との付き合いは長いです。もの心ついたときからと言っていいかな。本格的に始まったのは、飯場のクマさんに出会った小学四年の秋から。ケーシー・リンデンの悲しき16才。そこから何千曲。これからも何千曲。そのぼく以上に山口は知ってる。きょうグリーンハウスで驚きますよ。楽しみだな。ぼくの知らない名曲を唄うに決まってる」


         百十三

「福田さんは大正五年生まれですよね。その時代の歌って、どんなのがあるんですか」
 山口が尋くと、福田さんは恥ずかしそうにうつむき、
「大正と言うと、さだめし古い歌を知ってるように思われるでしょうけど、それほどじゃないんですよ。私の生まれる前の、松井須磨子のゴンドラの唄や琵琶湖周航の歌や、生まれてすぐの藤原義江の波浮の港などはあとあと知ったので、唄った記憶はありません。十代のころの東海林太郎と松島詩子のデュエット金色夜叉はよく唄いました」
「あ、波浮の港は、中学校の社会科の先生が唄ってくれた。磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃ帰る、波浮の港にゃ、夕焼け小焼け」
 私が唄い上げると、山口が、
「まだ福田さんさんに声を聞かすな」
 あわててたしなめた。すでに福田さんは大きく開けた口を手で覆っていた。
「それからどんな曲があった?」
「はい。津田塾から二十代半ばにかけてでしたか、藤山一郎さんの丘を越えてや、影を慕いて、酒は涙か溜息かが流行りましたし、奥田良三さんの城ヶ島の雨が流行りました」
 バス旅行の西沢先生だ。山口が、
「昭和十年前後だな」
 恩田が、
「古賀メロディですね。好きだなあ」
 山口が、
「城ヶ島の雨は、古賀ではなく、梁田貞(やなださだし)です」
「そうですか、すみません」
 福田さんはつづけて、
「ほかに、関種子の雨に咲く花、ディック・ミネの二人は若い、児玉好雄の無情の夢、楠木繁夫の緑の地平線などですね。それからしばらくは戦歌ばかりになりましたが、その中に淡谷のり子さんの雨のブルースや、灰田勝彦さんの燦(きらめ)く正座や鈴懸の径、小夜福子さんの小雨の丘、高峰三枝子さんの湖畔の宿、小畑実さんと藤原亮子さんの湯島の白梅などが混じってました」
 丹生が、
「福田さんもまた、すごい記憶力だなあ! 津田塾をお出になられたんですか」
「はい、津田英学塾と言って、三年制でした。それからは戦後ですから、みなさんご存知の歌ばかりになります」
「たとえば?」
 山口が首を伸ばした。
「自分の好きな曲を挙げていくと、藤山一郎さんの長崎の鐘、岡本敦郎さんの白い花の咲く頃、大津美子さんのここに幸あり、島倉千代子さんのこの世の花、西田佐知子さんのアカシアの雨が止むとき、北島三郎さんの函館の女」
「ここに幸ありを最後の曲にするよ」
「そうか。もう、想像しただけで目が痛くなってきた」
         †
 福田さんが玄関で現金封筒を受け取った。村迫球団代表からだった。交通費と書かれたメモといっしょに一万円が同封されていた。

 前省 これをキャンプ前最後の音信といたします。キャンプ開始まで二週間余りとなりました。怠りなく調整は進んでおりますでしょうか。万全な体調で明石キャンプに合流なされますよう、首脳部一同心より祈念しております。キャンプ参加に必要な用具類を羅列しておきます。
 ・ユニフォーム一式 こちらで三組取り揃えてございます
 ・バット      久保田氏より三十本届く予定です
 ・グローブ     ご持参またはホテル宛郵送してください
 ・スパイク     三足取り揃えてございますが、ご自分用を持参なされるか郵送なされてもけっこうです 誂えのために先日受け取ったユニフォームとスパイクは北村さまに返送いたしました
 ・普段着、靴等   ご持参またはご郵送ください
 ・日用品、文具等  ご持参またはご郵送ください
 ◎ 宿泊場所  グリーンヒルホテル明石 明石駅から北西へ徒歩三分 
 兵庫県明石市大明石町二―一―一 (電)×××―×××―××××
  トイレ、風呂、テレビ、冷蔵庫、自販機あり 駐車場50台        
 ◎ キャンプ地 明石公園第一野球場 収容人員一万二千人 内野土 外野天然芝両翼百メートル 中堅百二十二メートル(ネット五メートル)
 ホテルのチェックインは一月三十一日(金)午後一時以降、チェックアウトは二月二十三日(日)午前十一時。一軍は二人部屋、二軍は別宿舎にて三人部屋、神無月さんは太田くんとの相部屋になります。かなり広い洋間です。監督、コーチ、一軍二軍選手総勢六十七名で二つのホテル全体を占拠する形になります。
 なお二軍のキャンプ地は明石公園第二野球場。チェックインの日の六時より、水原監督、コーチ陣、私と榊が出席するミーティングを兼ねた一軍夕食会がございます。
 それではスタッフ一同再会を楽しみにしております。
   親愛なる神無月郷さま           中日ドラゴンズ球団代表 村迫晋


 みんなに見せた。興味津々、覗きこんでじっくり読んだ。山口が、
「身が引き締まるなあ」
 浜中が、
「背番号8が飛び回る姿が目に浮かびます」
 福田さんが昼めしの仕度に立とうとしたので私は、
「鍋にできる?」
「できます。牡蠣を買ってきます」
「ぼくはタラがいい。鍋を二つ作ろう。タラの切り身は焼き物にもして」
「はい、そうしましょう」
 福田さんが玄関を出ていくと、ひとしきり彼女の話題になった。
「いまは翻訳の仕事をしてるんです。将来は不動産鑑定士の資格をとって、菊田さんと働きたいと言ってました。来月から菊田さんの不動産屋に見習いで入ります。小さな英語塾をやるという話も出ましたが、やめたようです」
 丹生が、
「どちらが幸せなんでしょう、英語の教養を活かして小さな塾を開き、ひっそり余生を送るのと、高齢で不動産屋をやりながら、書類を書いて走り回る生活と」
 浜中が、
「それは圧倒的に後者だよ。生活のハリがちがう。老齢にさしかかった女が、私塾でのんびり後進を育ててながら、細々と晩年を消費していくわびしさと比べるべくもない。客商売をしていれば、机や教室の勉学生活では得られない発見もあるだろうし、菊田さんという大先輩の同志とともに、仕事の成果を確かめながら働く喜びもある。どちらにしても神無月さんを待つ生活だ。待ちながら気持にハリを持たせる日常を正直に選んだんだ。当然の結果だね」
 恩田が山口に、
「たしかおトキさんは五十歳くらいでしたよね」
「はい。残り少ない人生です。したいようにしてもらいたいと思ってます。縛りつけず、じゃまをせず、幸福感に満ちあふれた生き方をさせてあげたい。そのために、とにかく自分の仕事を確立させます」
         †
「昼から鍋は贅沢だなあ」
 田代が牡蠣鍋に舌鼓を打ちながら言う。私はタラの焼き物をつつきながら浜中に、
「入団式には、チームメイトとしては、監督とコーチ陣と新人しか出席しなかったんですが、ドラゴンズの来年度の陣容のおおよそはわかりますか」
「はい、おおよそは」
 携行バッグから大学ノートを取り出した。
「レギュラーメンバーはおわかりでしょうから、バッティングオーダーの控えからいってみましょうか。キャッチャー吉沢、三十六年まで中日の正捕手でしたが、バッティングがいまいちなので近鉄へ出され、今年交換トレードで中日に戻りました。近鉄でも二割前後の打者でしたので、せっかく戻ってきても、木俣の陰に隠れて出場のチャンスはほとんどないでしょう。次に内野手。江藤慎一と同期の伊藤竜彦は、トレード間近と言われてますけど、ユーティリティプレーヤーでほとんど全試合使われてます。徳武もボチボチ使われてますが、いずれコーチですね。江藤省三は慎一の弟です。三年前、巨人にドラフト三位で入りましたが、出場チャンスゼロみたいなもので、今年中日にきました。コンスタントなバッターですけどホームランが打てません。代打専門でしょう。千原陽三郎、下り坂です。去年は狂い咲きで十四本もホームランを打ちましたけどね。外野手にいきましょうか。葛城、言わずと知れた大毎ミサイル打線の五番バッターでした。三十六年、三十七年と連続打点王。中日移籍後、去年まで中心選手として五番を打ってきました。ただ彼もホームランが少ない。神無月さんに追われる形になるでしょう。菱川章(あきら)、広島の衣笠と同じ、黒人とのハーフです。四十年に入団以来、泣かず飛ばず、将来性があるということでもう少し様子を見るでしょうが、何らかの飛躍がなければ長くはないですね。控えバッターは以上です。主軸はご存知でしょうから」
 丹生が同じようなノートを取り出し、
「ピッチャーは私が説明します。登録人数二十四人。このうちローテーションピッチャーは、小川健太郎、小野正一、田中勉、伊藤久敏、新人の浜野百三の五人。板東英二は敗戦処理。リリーフとして期待できるのは、水谷寿伸、門岡信行の二人のみ。神無月さんには申しわけないですが、この投手力では、優勝は数年先になるでしょう。なんとかAクラスを確保するようがんばってください」
「小野って、大毎の左腕エースでしたよね。ヒョロリとでかい」
「はい、百八十五センチ、本格派の速球投手です。三十五年に三十三勝を挙げましたが、その当時はいまの近鉄の鈴木啓示くらいのスピードはあったでしょう。まだじゅうぶん頼れるピッチャーです。水谷寿伸は変化球の切れだけで打たせて取るピッチャーで、今年もリリーフのメインでしょう。エースの小川健太郎、アンダースローの変化球ピッチャー。ストレートの伸びもかなりのものがあります。おととしは二十九勝を挙げ、最多勝利と沢村賞を獲ってます。田中勉、シュートピッチャー。三年前の西鉄時代に完全試合を達成した男です。伊藤久敏、左の変化球ピッチャー。ドロップがいい。使いでがあります」
 一瞬醒めた気持ちになった。このチームに私が情熱をかけて入団したのは、一人ひとりの選手に会うためではない。つまり、中日ドラゴンズというチームに属する人びと会いたいのではなく、中日球場にかよったあの日々に、身をよじるほどのあこがれを覚えた美しいユニフォーム姿に、彼らが走り回ったフィールドに会いたいのだ。
 二つの鍋があっという間に底をつき、雅子はタラ鍋でオジヤを作った。みんな腹いっぱいになって辞退したので、私はそれを一人で〈タラ腹〉食った。
「トシさんとパーマ屋さんへいく約束がありますので」
 と言って福田さんが帰った。
 私は男たちに、名古屋で建築中のアイリスと自宅のことや、お城のマンションのことや、新しい北村席のことを語った。
「そのマンション、俺が借りるかもしれないとご主人に言っといてくれないか。二、三年後」
「きょうカズちゃんに言えばいいよ。おトキさんもいっしょに暮らすんだろ」
「その予定だ」
 浜中が、
「私どもは、ストーブリーグ期間中に取材にいくことにします。たぶん、三冠に関わることが取材のメインになると思います。ドラゴンズのAクラスは厳しいんじゃないかな。プロ野球の話題は、リーグ優勝の動向よりも、神無月さんの個人成績に集中するでしょうね」
 男六人で散歩に出る。彼らは機材を抱えて歩いた。武蔵野にいく。マスターと頭を下げ合った。彼は私や山口の顔を見て、秘密の共有者のような和んだ目を向けた。カウンターから水を持って出てくる。
「サントス、六つ」
「かしこまりました。チョコレートケーキおつけしますか」
「つけてください」


         百十四

 マスターは礼をしてカウンターに入った。暗い店内にストロボが一つ焚かれ、フラッシュが二回光る。
「いろんな女たちを連れてくるから、マスターも呆れてるでしょう。きょうはホッとした顔だった」
「尊敬の顔でしたよ」
 私はつくづく丹生の顔を見て、
「やっぱり注釈が必要ですね。平気でそういうことをするぼくが物騒な人間だとわかるからですよ。尊敬の表情と見えるのは、山口やカズちゃんたちに対するのとはちがう、恐怖の表情なんです」
「恐怖―」
「はい。マスターのような人たちはもちろん物騒な人間ではありません。この国の開闢以来の価値観を好意的に受け伝えてきた人たちです。平穏で中庸な道をいくことこそ、最も普及した国民的理想なんです。その道の先に博士か大臣がいます。平穏で中庸な道を通って博士や大臣の位階に登ることが日本人の経験の限界と思われているんです。平穏で中庸な幸福というものが彼らにとってどれほど大切で、いとしいかがわかります。この国でその平穏な道を登って博士や大臣になれないのは、ひたすらオリジナルな人間、つまり、道を逸れた物騒な人間だけです。だから人びとは物騒でない博士や大臣という理想像を求めて励むんです。ぼくにはその意志がありません」
「どうしてですか」
「ほぼ五年間考え抜いた結果、血のせいだとわかりました。ぼくはひとつの性質のために絶えず苦しんでいます。ぼくの意に反して、その苦しみに自棄が混じっています。血に対するあきらめです。あきらめという言葉は美しく聞こえますが、もろもろの徳性と正反対のものです。……不道徳とか、破滅思考というのは、血が命じるものではなく、程度の差こそあれ意思的なものです。執着しなければ失うものはないと言ったのは釈迦かスウィフトだったと思いますが、そんな立派な哲学を持っているからじゃなく、ぼくは先天的に人徳に欠けた意志薄弱で無欲な人間なんです。不道徳や破滅思考と見えるものは、理想を求めない血のせいです。多くの女性と難なく付き合えるのも、意思的なものではなく、運命づけられたものです」
 田代は首を振り振り、
「サンスポの××に聞かせてやりたいよ。よくぞこういう人間を馬鹿と言ったもんだ」
 浜中が、
「××には理解できない言葉だろうね。こういう言葉をしゃべらずに、あしたもホームランを打ちたいとしか言わなかったら、馬鹿と言いたくなるよ。こういう言葉が底にあると見抜けない人間はね」
 私は、
「そういうマイナスイメージの悪罵は、きのうも酔族館でミドリさんに言ったように、おおよそ直観に基づいた生理的なものです。ものごとをすべて後天的なものだと信じていることから出てくるんです。先天的にこういう人間だと知っていたら、近づいてきて罵るなどということはしません。恐ろしいですから」
「そのとおりだ!」
 山口が大声を上げた。私は彼に笑いかけ、
「ぼくを怖がらないのは、ぼくの心の底に言葉があるなしを問題にせずに、ぼくを愛して近づいてくる人間だけです。あなたがたもそうです。ぼくのにおいを嗅いだとたん、一瞬のうちに胸に落としました。恐怖の対象でなかったからです。山口もカズちゃんたちもそうです。ぼくの周りのほとんどの人間は、ぼくの属する集団に進んで顔を出し、歓待されます。そういう人たちは、愛があるので悪さをしません。それどころか、護ります」
 コーヒーとチョコレートケーキが出てきた。
「うまい! ここは山口が教えてくれた店です。日本一のコーヒー店です」
 浜中たちも口をつけ、目を丸くする。浜中が、
「護る……。その言葉で、いまふと思ったんですが、東奥日報社に寄付された二百万はひょっとして、ヤケドで長期入院されたという……」
 私は山口と目を見合わせてうなずき合い、
「そうです。寺田康男といいます。実際に送金したのは、たぶんその寺田康男のお兄さんの光夫さんか、その上層部の牧原さんです。康男の見舞いの一件から彼らはいたくぼくを気に入っています。康男はまだ組織内ではペーペーですからそんな大金は醵出できません。彼は経済援助ではなく、生涯懸けてぼくを護ることで恩義を果たそうとしています。だから、ぼくを遠ざけようとします。近づけば社会的に葬られると知っているからです。先月の入団式のときも、彼の属する集団に命じられた関係者が、ひそかにぼくの身を護り、入退場をスムーズにしてくれました。黒スーツのあたかもといった格好ではなくて、ふつうの目立たない服装でした。北村席の周りにも四六時中警護番がついています」
 山口が、
「神無月のむかしの善行がもとになっているとはいえ……ありがたいことだな」
「ああいう組織の気組みは、ピンからキリまであります。興行関係に手を出してくるのはキリのほうです。手を出される素人もキリの部類です。映画やテレビとちがって、ピンの人間には手を出しません。ボクシングや野球は、むかしから、黒い噂に満ちています。芸能、演劇、スポーツなど、客を寄せて金を取る商売には、江戸期のむかしからアンダーグラウンドの組織がつきまといます。興行である以上避けられないことです。しかし、そういうことをせずに、商売人の場所代を徴収するだけで生きていこうとする組織もあるんです。もちろんそれとて違法ですが、見返りにいま言ったような警察的な役目を果たすということで、たがいにギブ・アンド・テイクの付き合いになるわけです。寺田の組織はぼくに恩義を果たすために、ぼくとぼくの周囲の人間に関するかぎり、ギブのみに徹しています。ぼくが彼らにお返しできるのは、真剣なプレイだけです。北村席がお返しできるのはささやかなミカジメです。ぼくがダレた野球をしたら、彼らは泣くでしょう。それどころでなく、彼ら以外の組織がぼくに手を出してきます。ぼくは基本的に彼らに接近を拒まれている人間ですから、世に言う癒着はありません。寺田の組織はぼくの前にも、ましてやあなたたちの前にも姿を現すことはありません。どうか安心して取材してください。気に入るかどうかわかりませんが、あなたたちは球場のそばで取材するあいだは、遠巻きに護られています」
 恩田が、
「××は無事でいられるかな」
「ぼくの進退を危うくしないかぎり無事です。危うくしても、ぼくが唯々諾々として退くなら、無事です。つまり永遠に無事です。ぼくは退きますから。ただ、あの祝勝会以来、これまでぼくの身に何も起こらないところを見ると、何らかの穏やかな勧告を受けたものと思っています」
 浜中が、
「そうでしょうね、これまでとしつこさがちがいますから」
 山口が、
「そういう、他人が手を差し伸べる形でしか神無月は救われないからな。ここに、独創的で、頭もいい人間がいるとする。しかし人に誤解されつづけ、心を閉ざしている。長年除け者にされた結果、いまでは完全に及び腰だ。ふつうの会話にさえね。神無月がそこまでとは言わないが、似たようなものだ。腕のいい弁護士のようなやつが助けてやるしかない」
「とにかくぼくが真剣に生きてることが、すべてに影響します。真剣に生きることは、ぼくのサガですから、意思の力は必要ありません。天然の意志薄弱のまま生きればいいということです」
 丹生が、
「きょうから私の中で、意志薄弱の意味が変わってしまいそうだな」
 山口が、
「大船に乗った気でいないで、真剣に生きるということですよ。俺も神無月と和子さんといっしょに寺田さんの組を訪ねましたが、真剣な男たちの集まりでした。彼らは神無月のことを男の中の男と言ってました。意志薄弱であろうとなかろうと、つまり胸のうちに諦念やアンニュイがあろうとなかろうと関係ない。生き方が真剣であればね」
 丹生がうれしそうに、
「真剣な意志薄弱、ですよね」
 家に戻ると、電話が鳴った。カズちゃんからだった。
「四時半に上がって、仕度をしてから、ボルボでグリーンハウスに向かいます」
 私たちは三人ずつタクシー二台に分乗して向かうことにした。
         †
 六時十五分前にグリーンハウスについた。店前の看板に《セッション! 山口勲・林郁夫&ニューブリーダーズ 特別出演神無月郷》と青の墨字で格好よく大書してある。
「うわ、すごい店だなあ!」
 田代が感嘆する。店内はほぼ満員だった。レジに立っていた店主が丁寧な挨拶をし、席に案内するよう黒服に命じた。ステージの左前の、二十人も座れるテーブルだった。すでにカズちゃん一行とトシさんたちがソファに座って歓談していた。私たちが近寄ると、拍手で迎えた。拍手をした五人の女が顔を赤らめた。トシさんがいちばん激しかった。
「トシさん、いらっしゃい。三十分もすれば落ち着きますよ」
 福田さんが、
「素子さんと千佳子さんとは自己紹介も終わったんですよ」
 トシさんが、
「私はみなさんと何度かお会いしてます。新聞のかたたちにご挨拶しないと」
 四人が機材をソファの隅に置き、腰を下ろさずにトシさんに自己紹介した。浜中が丹生に、
「こちらが北村和子さん、お隣は友人の兵藤素子さん、その隣が青高のマネージャーだった木谷千佳子さんだ」
「丹生です。どうぞよろしく」
「いま素子さんといっしょに高円寺の和子さんのお宅にお世話になってるんです。来年名古屋大学を受けて、何とか合格して、名古屋に移住します。かならず受かります。もう一人のマネージャーの鈴木睦子さんも名古屋大学を受けます。彼女は百パーセント受かります。彼女のこともいずれよろしくお願いします」
「あ、はい、こちらこそ。鈴木睦子さんて、東大のマネージャーをしてましたよね」
「はい、神無月くんのそばで暮らすために、東大をやめました」
 丹生が、
「へえ!」
 と感嘆の息を洩らした。素子が、
「名古屋にいったら、あたしとお姉さんでお店をやるんよ。アイリスって喫茶店」
 恩田が、
「先ほど神無月さんから聞きました。商売繁盛をお祈りします」
 薄暗いステージに淡いライトが当たり、アンプやドラムが光っている。新聞記者四人が女たちに話しかける。北村席で私の歌を聴いたときの驚きを話している。山口はステージ裏へ向かった。店主がやってきてひざまずいた。
「ジェネラルチーフの葦原と申します。ご来店ありがとうございます。きょうは神の声の神無月さんが歌われると言うので、山口はじめ、バンドのメンバーたちも、もちろん私どももドキドキしています。急遽、林くんにも参加してもらい、特別な三ステージをプログラミングしたと山口くんから聞いてます。ごゆっくりお楽しみください。あ、申し遅れました。神無月さん、中日ドラゴンズご入団おめでとうございます」
 握手する。
「名将水原監督のもとでのご活躍、心より期待しております。それでは、お飲み物とおつまみをただいまお持ちします。あと十分ほどで開演です」
 頭を下げて去る。小暗いステージに六人の男が出てきて、チューニングを始めた。角刈りにした林が私に手を振る。閃光のようにライトが点き、まぶしく照らし出されたステージで、ダダダダとドラムが鳴った。ドラマーがしゃべる。
「山口勲・林郁夫&ニューブリーダーズです。四十五分、三ステージのお付き合いをお願いいたします。右手にでんと座ってアコースティックギターを抱えているのが山口勲です。東京大学法学部一年、クラシックギターの天才。東大は、イタリアの国際ギターコンクールで賞を射とめるまでの腰掛だと言ってます。真ん中にボーッと立ってる角刈りが林郁夫。東京大学文学部一年、魅惑のハスキーボイス、正真正銘の天才ボーカリストです。きっちり卒業して博報堂に入ることが念願だそうです。われわれ林郁夫&ニューブリーダーズは、ドラム私××、エレキギター××と××、ベース××。いい年こいたやつも混じってますが、林のために馳せ参じた悪友連中です。これでもプロの楽器弾きです。でしゃばらないようにしますので、ご安心ください。ジャニス・ジョプリンはバンドがでしゃばると、すごい剣幕で怒るそうです」
 ジャニスを知らない客がほとんどなので笑いが少ない。よしのりがいたら喜んで大笑いしただろう。山口は店の〈売り〉のために、まだ東大生で通しているようだ。
「アイ・ゲット・アラウンド!」
 とつぜんベースの男が叫んだ。すぐにわかった。林がビーチ・ボーイズをメドレーで歌いまくる趣向だろう。エレキギター二人、アコースティック一人、ベース、ドラム、ヴォーカル。すばらしい和音が流れ出す。ウオーッと拍手が立ち昇った。
「すごーい!」
 千佳子が叫んだ。狂いなく一体となった重厚な和音。ギル・ランランラン・ア・ギルランのリフレイン。雅子もトシさんもぼんやりし、東奥グループの口が開きっぱなしだ。
「イエア!」
 と山口が叫び、すぐにつづけてドラムの男が、
「ドン・ウォーリ・ベイビー!」
 山口が、
「神無月の望郷歌! 島流しの孤独を慰めた歌!」
 ダッタッタ、ダッタッタ、アーアーアー。林のファルセットのソロ。以前よりツヤが増している。和音が追いかける。客席の指笛が鳴る。ベースの切れが心地よい。浜中が、
「これはすばらしいものですね! プロ中のプロだ!」
 山口のピックの爪弾き。ファルセット、和音。フェイドアウト。東奥日報グループが喝采する。客席が揺れる。




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