百二十一

 遅い午後の客が徒党で入ってきた。たまたまギターケースを提げた山口がつづいた。
「よう!」
「こっちにいるって聞いてな。素子さん、今夜はご馳走になるよ。あ、ポートのみなさん初めまして。神無月の友人、山口勲です。東京残留組の一人です」
「東大コンバットマーチの作曲者です。法学部、若干十九歳」
 浜中が紹介すると、私のファンになったと言った客が、
「あ、あれ、大傑作ですね」
「ありがとうございます。恩田さん、本郷の撮影はどうなりました」
「撮るべき風景はありませんでした。焦げた安田講堂と、意味不明の落書きや貼紙ばかりでしたね」
 丹生が、
「君もまた覚えておけ。藁のようにではなく、ふるえながら死ぬのだ―」
 山口は首をひねり、
「藁……お産のしとねかな? 乾燥した死体? やはり意味不明ですね。あ、俺もコーヒーください」
 私は、
「藁のように枯死した人間としてありつづけるのじゃなく、魂を活性化させたうえで討ち死にするのだ、感激にふるえて生きた証を残せ、ということかな」
 山口が、
「なるほど、死に方の問題だな。あくまでも視点を自分に向けた滅びの美学だ。人への愛がない」
 するどい男だ。心底満足する。素子が何人かの新客に水を出して注文を聞く。肥り肉(じし)で化粧っ気の薄いママが、
「神無月さんは山口さんのギターでしか唄わないって素ちゃんから聞いたけど、思い出に一曲唄っていただけないかしら」
「いいですよ」
 私が応えると、山口がケースからギターを取り出す。
「神無月の喉はすぐ疲労するので、一曲だけ。ママさん、ちょっと有線切ってください」
「はい」
 それまで流れていたプロコル・ハルムの『青い影』が切られた。さっきの客たちが、歌も唄えるのか、と驚いた。
「プレンディ、クェスタ、マノ、ジンガラー!」
 私がとつぜん叫び出すと、一瞬店内が静まった。奇妙な叫びに驚いたのだ。山口が指をギターの腹にたんたんと打ち当てて拍子をとりながら、
「ボビー・ソロの『涙のさだめ(ジンガラ)』です。まず予行演習します」
 フラッシュが二発、三発。私は、
「ちょっと喉を作ります。怒鳴りながら唄うと、喉ができあがりますから。うるさいですけど、気にしないでください。ディミ、プレ、ケ、デスティノ、アブロ、パーラ、デル、ミ、アモーレ!」
 拍手と歓声がいっせいに沸騰した。ママと素子が激しく拍手している。新客たちは目と口をまるくし、恩田と田代は唇を得意そうにゆがめて店内を見回した。引き継いで山口が大声で唄いだす。
「イオ、ノ、ホ、プーラ、ペルケ ロ、ソ、ケ、オラマイ、ノン、マパルティエンネ!」
 私も唄いながらつづく。
「グァルダ、ネイ、ミエイ、オッチ、ジンガラー! ベディ、ロロ、デイ、カペリ、ソイ、ディミ、セ、リカンビア、パルテ、デル、ミオ、アモーレ」
 さらに大きな喝采が店内に満ちる。素子がオシボリを両手で振っている。二人の合唱で締めくくる。

「すごーい!」
 ママが私と山口の手を交互に握り締める。山口が、
「ジンガラというのは、占い師のジプシー女のことです。俺はイタリア語はわからないんだけど、男が自分の恋の行方を占ってもらうという内容らしい。このジンガラは、去年のサンレモ音楽祭の優勝曲だ。さすが世界は、きっちりした曲を優勝させる」
 先客の一人が大声で、
「お二人ともなんという声ですか! 胸が痛くなりましたよ」
 山口が、
「俺のは本番声で、神無月のはほんの予行演習です。驚くのは早いですよ。神無月、じゃ何を歌う?」
「学生運動歌」
「よし、アカシアの雨が止むときだな。福田さんが聴きそこなったやつか。その前にちょっと休んどけ」
 山口がコーヒーをすする。店内のざわめきが止まない。
「裏声か?」
「いや、地声だろ」
「口、あまり開いてなかったみたいだけど」
「腹話術かもね。とにかくゾワゾワする声だ」
 素子が、
「このあいだお姉さんとラビエンいったらね、横山さん、役職つきになったって。カウンターチーフ兼副部長。これで、足抜きできなくなったゆうとった」
「天職だ。足なんか抜く必要ないよ」
 相変わらず客たちが感激覚めやらずざわめいている。山口がしみじみと遠くを眺めるような眼で私を見た。出会ったころの日々を思い出しているのにちがいない。
「あの一年はとんでもなかったな、山口」
「ああ、そのことを考えてた。あのころの気持ちがいまもつづいてる」
 山口の頬がふるえだす。
「毎日、おまえのことを恋い焦がれてたよ。こんなに幸福になれると思いもせずにな。……アカシアの雨が止むとき。むかしはいい編曲をした。樺美智子、ときは昭和三十五年、岸内閣、安保の嵐が吹き荒れる巷か。東大闘争なんかクソだな」
 山口がカウンターに席を移し、膝を組んでギターを爪弾きはじめた。私は彼の傍らに立った。店内が静まった。

  アカシアの雨に打たれて
  このまま死んでしまいたい
  夜が明ける 日がのぼる
  朝の光のその中で
  冷たくなった私を見つけて
  あの人は 涙を流してくれるでしょうか

 指笛が鳴り、爆発的な歓声が上がる。
「すげ、すげ、すげー!」
「なんだァ、その声は!」
 ぽつんと隅の席にいた白髪の客の眼鏡が柔らかく光る。何人か若い男たちがカウンターにやってきて、勝手に間奏のコーラスを始めた。どこかの大学の同好会か合唱部だろう。ギター以外の音はじゃまだと思ったが、かまわず私はつづけた。

  アカシアの雨に泣いてる
  切ない胸はわかるまい
  想い出の ペンダント
  白い真珠のこの肌で
  さびしくきょうも暖めてるのに
  あの人は 冷たい眼をしてどこかへ消えた

 やんやの拍手の中で、山口と私はお辞儀をして席に戻った。
「悲しいなあ!」
「悲しいぞ!」
「泣けた! なんで泣けたんだ?」
「どっから声出してるの。手品でしょ」
「ものすげえ声だな。ほんとに声だろうな」
 合唱隊が、
「三番は?」
 と訊いたが、私は、忘れちゃった、と答えた。彼らは、私たちの肩を叩いたり手を握ったりしてから、自分の席へ戻っていった。有線がふたたびかかる。浜中が、
「野球が神無月さんのすべてではないということが、意外な方向から実証されたようですね」
「こんなすてきなアカシアの雨がやむときを聴いたの初めて。西田佐知子よりずっといいわ」
 そう言ってママはハンカチを目に押し当てた。山口が、
「東奥さん、追加サービスでしたね」
 田代が、
「はあ、もうけものでした。神無月さんの声は神がかりなんですよ。どこから出ているのかわからない」
 山口はうなずき、
「そう。小ざかしい歌唱の技術もなければ、ガラスをふるわせるほどの声量もないのに、からだのどこからか湧き出して上のほうへ昇っていって、悲しい響きで降ってくる」
 恩田が、
「その表現、ぴったりですよ」
 素子が客たちに、
「びっくりしたやろ」
「ああ、とにかく驚いた。まだからだが痺れてるよ。歌声にここまで感動したのは生まれて初めてだ」 
「あたしはキョウちゃんがすごい人だってわかってるから、どんなことに出遭ってもたいがいのことには驚かんけど―」
 素子はまた目頭を拭い、
「この声を初めて聴いたときには、腰が抜けたわ。キョウちゃんが特別な存在だってことを思い知らされた」
 客の一人が、
「プロ歌手にはならないんですか」
 山口が、
「なれないでしょう。この声はナマで聴かないと、音色も、天から降ってくる感じも伝わらない。鈴虫やマツムシの声が夜のしじまに鳴り響くのと同じです。まあ、その空間性はあきらめるとして、この異様な声を録音したとしましょう。声質だけですばらしいものですから、とんでもなく売れるでしょう。もし根気よく二、三曲ずつ録音していく会社があれば、大儲けですよ。しかしそのうち、やれテレビだラジオだコンサートだと引っ張り回されることになる。二、三曲しか喉のスタミナがないのに無理な話です。おまけに神無月は野球で忙しい。物理的に不可能でしょう」
 ママは、
「この声が野球でつぶれないうちに、録音しておいてほしいわねえ」
「それはしないほうがいい。録音の声が浸透して、この声が一人ひとりの神話でなくなります」
 若者の客が、
「あのホームランも、一人ひとりの神話でなくなっちゃうかもしれない。報道されすぎると単なる現実の見世物になる。なんだかそんな気がしてきた」
 山口が、
「大いに考えられますよ。浜中さんたちもそれを肌で感じて、こうして野球以外の取材に躍起になってるんじゃないのかなあ」
 浜中が、
「そのとおりなんです! 現実の見世物になってしまわないうちに、せいぜい神話的な事柄を記録しておこうってわけで、青森からやってきたんです。神無月さんの足跡そのものが奇跡ですから……。一歩一歩の記録はぜったい欠かせません。神無月さんがとつぜん球界を去ることは大いに考えられます。それを想定内に、いつも痛切な気分で取材してます」
 私は明るい声で、
「倒れてのちやむ。そういう気持ちでやってますから、ご心配なく。十年もやれば、もう神話ではなくなるでしょう」
 山口が、
「おまえの十年は、一般の百年だ。五年も夢を見させてくれれば国民はじゅうぶん満足する。神話のままね」
 途中で店を抜け出た何人かの客が色紙を買って戻ってきたので、すべてにサインをした。眼鏡を光らせていた白髪の老人が、
「ここまで楷書体というのも、妖しい魅力だね。この世に一人だ。どんな律儀そうな有名人もサインはへたくそな象形文字だからね。百人が百人そうだ。読めない。あなたのサインは読める。博物館に残るね。―すばらしい歌だった。あなたという人間に心から感動しました。六十五年生きてきて、こんなに感動したことはない。ほんとうにありがとう」
「いいえ……とんでもない」
「これからはずっとあなたの野球を見守らせていただきます。神話として」
「ありがとうございます。いいプレイをするよう精いっぱいやります」
 握手をした。色紙を買ってきた若者が、
「崩し文字を覚えないでくださいね。神無月さんが穢れるような気がします」
「はい」
 文江にデザインを頼んでいたことを思い出した。頑固に楷書にこだわらずに、時宜にかなった使い分けをしようと思った。私は立ち上がり、
「じゃ、ママさん、みなさん、しばし失礼します。五月以降、こちらに立ち寄れる機会がありましたら、かならず立ち寄ります。どうか遠くから応援していてください。がんばります。山口の応援もよろしくお願いします。イタリアのギターコンクールで入賞するか優勝すれば、もうクラシックギターのプロです。引き立ててやってください。じゃ、きょうはこれで、さようなら」
 客たちが私を抱き締めたり、握手したりする。フラッシュが何発も光る。山口に肩を守られるようにドアを出た。


         百二十二

 ビールを差し交わす賑やかな食卓で、田代が丹生に言う。
「神無月さんと時間をすごすのは麻薬だ。常習性がある」
「ちょっとヤバイですよ。ほっぺたつねりたくなることばかりですから」
 山口が、
「神無月の野球しか知らないやつが、いかに気の毒かということですよ。すべて神無月を拒否した結果だ。生理的拒否、嫉妬からの拒否、劣等感からの拒否、愛を捧げて報われないことからくる拒否、そんなものはすべて自分で作り上げた壁だ。ただ神無月を甘受すれば簡単に崩れる。ある意味、神無月の〈人間性〉に無関心になれば、見えてくるものがある。この男に人間らしさなんか感じたことないでしょう?」
 恩田が、
「はあ、そういう曖昧なものは感じませんね。良心も悪(お)心も感じません」
「究極的に天真だったり、純粋だったり、究極的に寛容だったり、やさしかったりするのは、もう人間らしさとは言わないんですよ。人間性に無関心になれば、そこが見える。人を救うのは人間らしさじゃないってね。人は純粋な絶対物に救われるんです」
 アスパラとキュウリのポテトサラダを皿に取り、醤油を垂らす。これで一膳食える。千佳子が、
「神無月くん、偏食はだめよ」
 骨付き鶏肉のソテー、牡蠣と三つ葉の茶碗蒸し、シメジ、エリンギ、ピーマンと豚ヒレの炒め物、ホタテと車海老のホイル焼き、コーンスープ、ベーコンとタマネギとレタスのにんにくサラダ。少しずつ、箸とフォークをつけていく。男たちは上機嫌だ。とくに山口が饒舌だ。
「何千年のむかしから男の生き方なんて決まってますよ。出世が基本だ。敷かれたレールをコツコツと進みながら叩き上げるか、身分や肩書のドスを利かせるか、有力なコネを頼るか、かぎられた道が何本かあるだけです。そこを外れたらスジコの一粒として俗塵に埋もれる」
「まさにそのとおりですね」
 浜中がうなずく。山口はサラダを音立てて咀嚼しながら、
「神無月はそんなもの、とっくに捨てて社会的な自殺をしたんだな。スジコの一粒になろうとしたんじゃなくて、あろうとしたんだ。結果、周りが放っておかなかっただけのことで、神無月の気組みは何ら変わらない。社会的な上昇を図った挙げ句、挫折してつまらない自殺をする人間は多い。彼らは、もし神無月に会ってたら死ななかっただろうと思いますよ。なぜなら、だれもが最終的には、自分の存在を認められたくてアクセクしてるわけでしょう。ところがそんなものに価値を置かず、上昇しようと下降しようと、すべて引き受けて自分の足で歩いていく、社会的有象無象の期待を背負わない、自らを持している姿勢をただ示すだけ、という人間がいたらどうします? そして、それだからこそ心ある人びとに愛される人間がいたらどうします? そんなの見たら、羨ましくて死ねなくなっちゃうでしょう」
 浜中が、
「ハタと気づくわけですね。自分たちが死のうと思った原因を思わずせせら笑ってしまう瞬間が訪れる……」
 恩田が、
「神無月さんに触れることができなかったら、それも不可能でしょう。神無月さんみたいな人がほかにいるとも思えない」
「触れなきゃ触れないで、彼らの幸福は崩れませんよ。集団の中でアクセクして、生きて死んでいけばいいだけのことですから。彼らはそれを人生と定義してるはずですよ」
 丹生が、
「訊いてはいけないことなんでしょうが、やはり納得しておきたいんです。神無月さんの女性関係なんですが……。もちろん、倫理的な非難をしてるんじゃありません。どこへいっても、そのことはみなさん、口を閉ざしてるようなので」
 カズちゃんが丹生にビールをつぎ、
「口を閉ざしてるんじゃないのよ。みんなまちがいなく道徳的に驚いてるの。でも、驚きがいつか崇拝に変わってしまったのね。そうでなければ口は閉ざさないわ。キョウちゃんしか愛せないと思い定めた女が崇拝するのは当然のこと、崇拝は公言することじゃないから口を閉ざしてあたりまえ。そういう人たちの数が、こんなに増えたことはキョウちゃんの罪じゃない。キョウちゃんに愛を注がない人たちまで口をつぐんでるのは、キョウちゃんの生身を愛する私たちとちがって、崇拝に宗教的な要素が加わったからでしょうね。私たち、自分のことをキョウちゃんの女の中の員数と思ったことはないんですよ。そのせいで周囲の人たちに私たちは、神秘的で宗教がかったものに見えるかもしれません」
 千佳子が、
「周りの人たちは性的に誤解してるみたいです。神無月くんの場合、艶福とか絶倫ということはないんです。性欲も不思議なほど淡いもので、ふつうの人以下だと思います。神無月くんに抱かれることはとてもうれしいし、天にも昇るほどの歓びですけど、神無月くんのほうから自分の性欲を満たしたくて抱くことはまずありません。いつもこちらの気持ちを察して抱いてくれるんです。ほんとうに神無月くんが抱きたいときに抱かれたいと、心底思ってます。でも、私は平凡な人間ですから、性欲のにおいを発してしまうし、積極的な行動をとってしまうんですね。平凡な人間なので反省しても仕方のないことです。一般の人は形だけを見ますから、まず数に驚いてしまうんでしょう。神無月くんは、私もほかの女の人も、和子さんだと思って抱いてます。私たちもそのことはよくわかっていて、そして何の不満もありません。私たち自身が自分を和子さんと一心同体だと思ってますから。こうやってお話しないかぎりわかってもらえないことだと思います」
 山口が、
「話さなくてもわかってるよ。俺も浜中さんたちも〈世間〉じゃないからな。何の誤解もなく、自然と口を閉ざしてるんだよ。俺たちに説明する必要はない。神無月の気質の異常さも、才能も、生理的な淡白さも実感してる。世間には話しちゃいけない。間抜けな世間は口を閉ざさない。好意的な世間なんてものは存在しないからな。そういう世間に恐怖を感じて、警戒を怠らないようにするべきだ」
 田代が、
「丹生がわかってなかっただけなんですよ。千佳子さんは丹生に言ってくれたんです。丹生もこの三日間で身をもって理解したでしょう」
「理解しました! 私たちの義務は、神無月さんを世間の手で殺させないようにすることです」
 浜中が、
「そう。だから、寺田さんのことを神無月さんの周囲ににおわせてはいけないし、子供の存在もにおわせてはいけない。それどころか、たった一人でも女性の存在をにおわせてはいけないんだよ」
 山口が、
「そのとおり! 神無月郷は北の怪物で、六大学の三冠王で、中日ドラゴンズのスラッガー。ときどき飲みにいき、人と対話し、練習の日課をこなす。そこまでだ」
 素子が、
「あたしのことなんか嗅ぎつかれたらたいへんやわ。もとストリートガールやで」
「そうだったんですか。―すばらしい世界だなあ!」
 丹生が頬をふるわせて嘆息した。浜中たちが笑った。あらためて箸やスプーンやフォークが動きはじめた。恩田が一人ひとりの女の顔をカメラに収めていく。浜中が、
「一日一日神無月さんも目の回る忙しさになるでしょうから、あしたの午前の神無月さんに対するインタビューの予定は、きょうに回しましょう」
 女たちが後片づけに立った。素子がコーヒーをいれる。田代がデンスケとマイクをテーブルに据える。カメラの恩田がテーブルの脇に立って構える。丹生がビデオをテーブル越しの正面に据える。準備が整うと、山口たち全員丹生の脇についた。
「じゃ、ぼちぼちまいります。一新聞社の非公式的なものなので、神無月さんはなるべく杓子定規でなく、思ったとおりにお答えください」
 浜中は表情を整えてしゃべりはじめめる。
「青森県立青森高校入学以来、希代のホームランバッターとして北の怪物と称され、全国高校野球地区予選二季連続三冠王、大学入学後も全日本大学野球連盟傘下、東京大学野球部創設五十一年目にして東京六大学リーグ初優勝に貢献し、これまた二季連続三冠王をはじめ、最優秀選手、ベストナインを含めてほとんどの賞を独占された神無月郷選手に、ここ東京は高円寺の知人宅において、ついにインタビューできる機会を得ました。インタビューアーは、私、東奥日報スポーツ部の浜中でございます。周知のように、インタビューの類を不得手になさっている神無月選手ですので、負担のかからぬよう手際よくいきたいと思います。運命の電撃入団から二カ月余り過ぎましたが、スーパールーキー神無月郷の周辺は騒がしくなるばかりです。中日ドラゴンズ球団史上最高の契約金が用意され、早くも開幕スタメンまで決定しています。青森、東京、名古屋では、異例のスピードで後援会結成が本決まり。球団側でも初の同選手関連商品の製作・販売をこの春から行なうことを検討中です。まさにとどまるところを知らない神無月フィーバーです。喧騒の中でプロの第一歩を踏み出そうとしている黄金ルーキーに、胸の内を語ってもらいましょう。それでは、さっそく一つ目の質問にまいります。電撃入団以来、落ち着く暇はありませんか?」
「落ち着いてます。ふつうこんな騒ぎになると、ほとんど毎日取材が入ったりして、自分の時間が持てないと聞いてましたが、ぼくの場合だいじょうぶです。マスコミ嫌いという前宣伝がだいぶ効いたようです」
「神無月選手にそんな様子はまったく見えませんよね。マスコミにはかなり好意的に接していらっしゃいます。さて、入団が決定した瞬間はどういうお気持ちでしたか」
「ついにたどり着いた、それだけでしたね。ホッとしました。東大の鈴下監督や仲間たちも同じ気持ちだったでしょう」
「水原監督が直接自宅に訪れましたね」
「高く評価していただきました。うれしかったです」
「巨人というチームに対するイメージは?」
「プロ野球界を代表する球団。ただぼくは中日ドラゴンズのファンなので、好きという感情はありません」
「神無月選手はほんとうによくホームランをポンポン打たれますね。その秘訣は?」
「軟式野球のころはポンポンというほどでもなかったんですが、硬式野球に切り替わってから、ポンポンになりました。まさか自分がこんなに打てると思っていなかったので、秘訣といったものはわかりません。硬式ボールとぼくのバットスイングの相性がよかったんじゃないでしょうか。心がけていることはフルスィングです」
「プロでやっていく自信はございますか?」
「自分の力を信じた時期は中学校までです。それ以降はありません。常に、並以上の力を得ようとする鍛練と、情熱と、その結果に賭けてきました、プロ野球人となっても、その思いは変わりません」
「その鍛練と情熱がもたらす好結果をいつもマグレとおっしゃってきましたね」
「はい、理由のない自己信頼をする前に、まず鍛練と情熱がなければなりません。その結果、幸運、つまり能力以上のマグレがもたらされます。おみくじの当たりのような、純粋なマグレはどの世界でも起こり得ません」
「鍛練と言えば、一月の上旬から新人合同自主トレが始まっていますが、参加されていませんね」
「はい。みんな通ってきた道だから、という理屈に価値を置いていません。メディアの注目と期待になびいて行う過剰な鍛練は故障のもとです。全力プレイのできる故障のないからだで試合に臨み、なるべく長保ちしてファンの期待に添うことこそ、プロ野球選手の務めだと思いますから」
「キャンプのメニュー表は見ましたか」
「見てませんが、合同でやるべき練習やイベントは合同して行い、メニュー以外のこともしっかり自主的にやるつもりです」
「背番号8に決まりましたね」
「野球ができるなら、背番号は関係ありません」
「よく楽しい野球とおっしゃいますが」
「手軽で娯楽重視の〈楽しい〉ではなく、鍛練と情熱の結果を期待どおりに出すことが難しいからこその〈楽しい〉です。自分を追いこむ楽しさですね」
「野球と日常生活の切り替えはどんなふうにやっていますか」
「正確には切り替えません。食事と睡眠と趣味が自然に挟みこまれるだけです。なかでも生きるエネルギーとして欠かせないのが、気心知れた人たちとの会話です」
「モットーは?」
「挫折を前提に行動すること。負のイメージトレーニングは活力につながります」
「口惜しさをバネするということですか」
「いえ、口惜しさをバネにするときはすでに挫折しています。これまで挫折の経験が多すぎて、挫折しても口惜しさは感じなくなってるんですが、少なくとも挫折を快適とは感じてきませんでした。不快は行動の枷になる。特に絶望と憂鬱が怖い。挫折を前提に行動すれば挫折して不快になる可能性を少しでも減らすことができる、挫折するまで多少でも長引かせることができる、そう考えるようになりました。そう考えて努力するとファイトが湧くんです」
「非常に参考になります。考えさせられました。入団当面の目標は?」
「シーズン百本のホームランです。公約したのは八十本でした」
「目標達成のために心がけていることは?」
「工夫のある鍛練と、やると決めたからにはやるという決意です」
「キャンプ開始に当たっての抱負をお聞かせください」
「じゃ、ぼくもまず模範回答でいきます。チームに熔けこむことに、とりわけベテラン選手と和合することに最大限の努力を払います。プロで結果を残して、ベテラン選手になったかたがたですから。彼らと一丸となるための一つの細胞になれたらと思っています。新人選手とはだいじょうぶです。入団式で和合しました」
 記者のみんなが明るく笑った。


         百二十三 

「ライバルと目する選手は?」
「チーム内には設けません。チームで切磋琢磨すれば、人間関係がぎくしゃくしてしまいますから。王さんと長嶋さんは、ぼくにはどこかぎくしゃくしてるように見えます。仲良く見えません。チームの外にしても、いまのところ皆目見当がつきません。記録を競うという意味でなら、既成の記録保持者が全員ライバルになりますが、ホームランしか頭にないので、王さんだけがボンヤリ浮かんできます。ピッチャーは対戦するすべての人がライバルになります」
「尊敬する選手は?」
「ウィリー・マッコビー、山内一弘、尾崎行雄」
 田代が、
「私、大リーグに詳しいんです。サンフランシスコ・ジャイアンツのマッコビーは、昨年のナショナルリーグのホームラン王、かつ打点王です。神無月さんにしては新しい情報ですね」
「いえ、ぼくの言うマッコビーは、昭和三十五年に日米親善野球で見た背番号44のマッコビーです。四打席四ホームランでした。打った瞬間、すべてライトライナーに見えましたが、ぜんぶ中日球場の場外へ消えていきました。あの衝撃は生涯忘れません」
「マッコビーがデビューしたてのころですね」
「そうなんですか。当時最盛期だったメイズのことはよく憶えていません」
「たぶん、その日はホームランを打たなかったからでしょう」
「そうかもしれません」
 質問に戻った。
「特に対戦してみたいピッチャーは?」
「尾崎行雄、江夏豊、金田正一」
「江夏以外はそろそろ引退ですね。尾崎との対戦は難しいと思いますよ。登板がほとんどないうえに、パリーグでもありますしね。狙いたい個人タイトルは?」
「イの一番にホームラン王です。二試合に一本は打ちたい。八打席から十打席に一本。それで王さんの記録は抜けます。次に打率。四割打ちたいですね。打点は水物です。ソロホームランが多ければ稼げませんから。でも、プレーをつづけるかぎり、毎年三冠王を狙います。初年度は猶予期間としてホームラン王だけに絞りますが、二年目以降はあとの二冠も外さないようがんばります」
「新人王は」
「くれるなら、もらいます」
「引退の時期は考えてますか」
「考えてません。仲間たちやファンたちにジャマっけにされないかぎり、しつこく居座ろうと思ってます。デッドボールやフォアボールをわざと投げられるようになったら、出場を辞退しようと思います。バッティングをするためにプロにいったのに、バッティングをさせてもらえないのなら、バッターとして甲斐がないですから。それでクビになるなら仕方ありません」
 女たちが真剣な目でうなずいた。
「昨年度セリーグの覇者、巨人軍に対する思いは?」
「長嶋選手を幼いころから敬愛していたということ以外、何の思いもありません。吉祥寺の家にせっかく勧誘にきていただいたのに、わざと留守にしていて申しわけなかったと思っています。あのときはドラゴンズ入団が喫緊の問題だったので、やむを得ずああいう形になりました。あれ以来どの球団もモーションをかけてこなくなったので、さすが巨人の影響力はすごいものだと思いました」
 恩田と田代がゲラゲラ笑った。
「ドラフトのとき浜野百三投手が、巨人に指名される言質を水面下でもらっていたのに、いざ蓋を開けると島野修が指名されたことは有名ですが、浜野はそのとき、浜と島を読みちがえたのじゃないかと発言しました。以来、巨人に裏切られて中日にくることになったと怒りの胸の内を明かすようになり、巨人キラーになってやると息巻いていますが、そういう彼の気持ちをどう思われますか」
「ほんとうに戦いが好きなら、弱い者の胸にぶつかるより、強い者の胸を借りたくなるはずです。裏切られてかえってよかったと思わなくちゃいけない。つまらない遺恨を捨てて、強者を倒そうとすればいいだけです。そういうファイトならよくわかりますが、強者に属して弱者を見下ろしたいという欲望はよくわかりません。そんなに親方日の丸に未練があるのなら、今後中日でいい成績を上げて巨人軍へトレードされるのが最善の策だと思います。去年のドラゴンズは最下位でしたので、全チームが〈強い者〉になります。巨人だけでなく五球団キラーになったらどうでしょうか。それが本物のエースですし、トレードもされやすくなります」
 これには東奥日報連中が腹を抱えて笑った。
「天才という評価に対してどう思われますか」
「自分は天才ではない、努力家だと、よく反論する真の天才がいますが、端から見ていて気の毒な気がします。人は万能にはなれませんが、たまたま一芸に秀でていることはあります。そんな偶然を自慢したり謙遜したりするのは人間としてみっともないのは当然のことなので、それならあえて謙遜などせずに、高く評価されるままにしておいたほうが野球生活の励みになると思うんです。どんな天才でも、胸の内に自分より高い次元の天才を思い描き、いつも敬意を払っています。バッターであるぼくの場合、ベーブ・ルース、ミッキー・マントル、ロジャー・マリス、ウィリー・マッコビー、山内一弘です。いったんそう見定めたからには、ただ一つ言えることは、ぼくはこの先も一生彼らには敵わないだろうということです。たとえ野球技術上の卓越の度合いが彼らを超えていると讃えられようとも、敵いません。すべてにおいてぼくは偉大な彼らの追随者だからです。そのことがわかっているかぎり、自分が天才と呼ばれることも、時代時代の一つの相対意見だと考えてエネルギーにすることにします。とにかくぼくは野球が好きなんです。天才と呼ばれることは、呼ばれないよりも励みになります」
 全員がマイクの前で拍手した。十時を回った。浜中は取材ノートを閉じ、
「ありがとうございました。今回の取材はこれで終えることにします。十一月の取材で名古屋にお訪ねするまでお別れになります。こっそり周囲の騒ぎに紛れて取材していることは、何度かあるかもしれません」
 浜中と握手する。恩田、田代、丹生とつづく。丹生が、
「麻薬をしばらく断ちます。すばらしい経験をありがとうございました」
 浜中が、
「ちょうど十一月まで四十週くらいの連載記事が書けるでしょう。二月からリアルタイムの打撃データを挟んでいけば、とんでもなく充実したものになります。毎回エピグラフとして神無月さんの詩を載せたいのですが、よろしいでしょうか」
 山口が、
「地方紙にひっそりと毎週神無月の詩を載せるか。グッドアイデアだな。こいつの詩は一人でも多くの人の目に触れてほしい。和子さん、ノート何冊かあるでしょう」
「あるわ。三冊。コピーをとったら送り返してくださいね」
「はい! ご心配なく」
 カズちゃんがノートを取ってきて浜中に手渡すと、田代がデンスケを止め、恩田がカメラをケースに納め、丹生がビデオ機器に蓋をした。
「じゃ、引き揚げます。和子さん、素子さん、千佳子さん、今夜はほんとにごちそうさまでした。神無月さん、山口さん、ごきげんよう。再会を楽しみにしてます」
 それぞれが深々と礼をする。山口が、
「俺もいっしょに帰るわ。二十五日、ここに朝の九時にくる。よしのりさんが起きるのは昼過ぎだから、涙を飲んでもらう」
 彼らは私たち四人を置いて引き揚げていった。私たちは玄関で手を振った。
「お風呂を入れるわ。キョウちゃん、泊まってだいじょうぶね」
「うん、ゆっくりしてく」
 素子と千佳子が手を取り合って喜ぶ。
「千佳子、勉強を二日削られたけど、いいの?」
「まだひと月あります。抜かりありません」
 素子が、
「お姉さんだけ危険日やないんよ。うちらで出さんようにして、お姉さんにあげてな」
「うん」
         †
 からだを洗うカズちゃんを湯殿に残し、二人、湯船の中で交互に跨ってくる。女神に気を差し、声を出さないように私の肩に唇をつける。彼女たちの熟し切った反応に射精をこらえているあいだ、それぞれ何度も気をやり、離れ、ぐったり私に抱きつく。カズちゃんが肩に湯をかけて石鹸を流しながら、
「何もそんなに遠慮することないのに。千佳子さん、どうしてキョウちゃんの性欲が薄いってわかったの? ふつうこんなふうにしてもらえたら、絶倫だと思うんじゃない?」
 千佳子はときおり腹をふるわせ、
「道を歩くときに女の人を見る視線です。ぜんぜん関心がないんです。ふつうの男は胸を見たり、尻を見たり、Vゾーンを見たりします。神無月くんはどんなときも、私たちの顔だけを見てる。好みの女にだけ勃起する清潔な性欲です。選択的な性欲なので、生物としては淡い本能の持ち主だって思ったんです」
「……私たちは幸せよ。少ない性欲を注いでくれる人に選ばれたんだから」
 ようやく痙攣の止んだ素子が湯船の縁にもたれ、
「うちと初めて遇ったときも、勃たんかった。本気になれって言われたけど、立ちん坊が本気になれるはずがないもん。そしたら、うちの汚いあそこを舐めて、無理やり本気にさせてイカしたんよ」
「それでやっと勃ったのね」
「そう! イクとき、うちが思わずキョウちゃんのこと好きやゆう顔をしたからやと思う」
 千佳子が、
「そういう複雑な勃ち方って、性欲がないのと同じです」
「……その晩から、オマンコ洗うようになったんよ」
「清潔な性欲には、清潔なからだで応えたいわけね。私も同じよ。いつもきれいにしてる」
 カズちゃんも湯船に入ってきた。素子と千佳子が、彼女の腕にすがりつく。私は追い焚きをした。女のからだは脂肪で冷たいので湯がぬるくなる。
「猫はこなくなったの?」
「もうすっかり。居ついてくれたら、名古屋に連れていこうと思ってたんだけど」
「小動物は車にやられるのが怖い。寄ってきたら頭を撫でる程度で止めておくのがいい。文明の凶器にやられると、ミミズまでかわいそうになる」
「直ちゃんに動物飼ったげる?」
 素子が私に訊く。
「本人が飼いたいって言い出したらね。生き物を愛する気持ちを養うのが大切なのは世間の言うとおりだ。でも、愛するものを失う悲しみを養うほうがずっと大切なんだよ。それよりも大切なのは、悲しみを忘れないことだ。愛したものの死後も、悲しみが自分を豊かにしていることを心とからだで学べるからね。野辺地のミースケや名古屋のシロを思い出すと、いまでも胸が痺れるほど悲しい。シロはまだ生きてると思うけど」
「私も会いたいな、シロに。……でも、きっと会えないわね」
 私は湯殿に出て頭を洗った。湯船の三人の話し声が聞こえてくる。カズちゃんがシロの話をしている。私は千佳子に尋いた。
「願書の提出期限は?」
「二月の十日までです。二十日ぐらいに受験票が送られてきます」
「私も素ちゃんも二十二日が仕事納め。お別れ会が二十三日だから、二月中には名古屋へいけるわ」
「わくわくするがや」
「しばらく北村席で暮らすことになるわよ」
 千佳子が、
「私はずっと北村席」
 素子と千佳子がからだを洗っているあいだに、カズちゃんと二人で寝室にいった。箪笥の上に、伊東で撮った二人の写真が飾ってある。あらためてカズちゃんが無類に美しい女だとわかる。
「あ、こっちの部屋にもテレビを入れたんだ」
 部屋の隅に大きなテレビが置いてある。
「展示してる中で、いちばん大きいのを買ったの。名古屋の新居用」
「向こうで買ってもよかったのに」
「衝動買い」
 スイッチを入れる。風呂から上がった素子と千佳子の会話の声に雑じって和やかな時間が流れる。
「お別れ会は、フジとポート合同ですることになったわ。寿司孝を五時から八時まで借り切ったの。千佳子さんもシンちゃんも参加するのよ」
「寿司孝のマスターによろしく言っといて」
「言っとく」
 廊下に足音がして、
「じゃ、お姉さん、キョウちゃん、お休みなさい」
「和子さん、神無月くん、お休みなさい」
「お休みなさい」
「お休み」
 二人で離れへいったようだ。カズちゃんと枕を並べて、イレブンPMを観る。満ち足りた時間が始まる。
「平畑の最初の飯場にいたころ、よくおふくろとカズちゃんが日本の横顔というドキュメンタリーを観てたっけね」
「そうだったかしら」
「水俣病のことを放送してたとき、二人ですごく怒ってた。チッソは死刑だって。なつかしいな」
「何でも憶えてるのね」
 飯場時代にはあれほど観ていたテレビを、いまはまったく観ない。
「カズちゃんは相変わらずテレビは嫌い?」
「そうねえ。嫌いというわけじゃないけど、コマーシャルがうるさくて辟易しちゃう。本を読みながらステレオを聴いてることが多いわね」
 抱き寄せ、唇を合わせ、胸を揉む。満ち足りた時間の密度が濃くなる。


         百二十四

 一月十七日金曜日。白々明けに起きて、カズちゃんの机で五百野の案を練り直す。けいこちゃんが汽車に轢かれる場面。原稿用紙に思いついた表現を羅列する。夜の色、雪、汽車の蒸気。
 カズちゃんが起きだし、机の私に微笑みかける。
「早く起きちゃったのね」
「まだ五時半だよ。寝てて」
「ううん、起きる。時間がたくさんあってうれしい」
 カズちゃんはトイレにいき、顔を洗い、歯を磨いている。彼女が立てるめずらしい生活の音だ。素子と千佳子が起きてきて、洗顔し、朝食の支度にかかる。台所に音が満ちる。私も鉛筆を擱き、顔を洗い、脱糞し、シャワーを浴びながら歯を磨く。きちんと服を着、新聞を取ってくる。

 榎本喜八 三十一歳 史上最年少2000本安打

 という記事が載っている。大毎の安打製造機の榎本だ。大毎、東京、いまはロッテオリオンズか。チーム名の味気なさ。入団十四年で二千本安打。すばらしい。山内と葛城がトレードで出されたあと、オリオンズで孤独にがんばってきたようだ。去年までの打撃成績が載っている。最多安打四回、最多四球四回、最多死球三回、首位打者二回。最多死球というのが気になる。低く屈んで力いっぱいバットを振る男で、不器用な感じが好きになれなかった。試合前に練習もしないで、ベンチで座禅を組んだり、試合後も自宅の庭で延々と深夜まで素振りをしたり、突然窓を叩き割ったり、奇行が目立ったと書いてある。ミサイル打線の一翼を担った男の裏話だ。千佳子が、   
「とうとうあと一週間ですね」
「うん、毎日やることは決まってるから、気分はノンビリだ。新幹線の切符は、土曜日の午前にカズちゃんから受け取るね」
「うん、十一時くらいの切符を買っておくわ」
 ハムエッグに白菜の浅漬け、オロシ納豆、わかめと豆腐の味噌汁、板海苔。
「ご馳走だ!」
 カズちゃんが、
「私たちも、この組み合わせ大好物になっちゃったのよね」
「ほんとほんと。最強の組み合わせやわ」
 千佳子が、
「北村席には、東奥日報が届きますか」
「だいじょうぶよ。一日遅れでちゃんときてるって。キョウちゃんの記事はみんな読みたいもの。おとうさん、少し寄付したみたいだし」
「東奥日報に寺田の名前で二百万円寄付があったって浜中さん言ってたけど、それ、康男じゃなくて、光夫さんかワカだよね」
「あら、そんなことがあったの。もちろんワカさんよ。光夫さんはそんな大金動かせないでしょ。すてきなことしてくれたわね。去年、碑文谷署事件もあったばかりなのに、ワカさんも東奥日報さんも勇気があるわ」
「何や、それ」
 素子が訊く。私も初耳だった。
「野球賭博組織のいっせい取締り事件よ。松葉会はぜんぜん関係してなかったのよ。小さな記事しか載ってなかったんだけど、暴力団と野球選手の八百長がらみの交際って、戦後からずっとつづいてるらしいわ。試合で本気を出さないようにとか、出場しないようにとか脅すんですって。もちろんお金を渡してね。巨人は今年から厳戒態勢を敷いたみたい。そんなことにキョウちゃんが関係してるなんて疑われたらたいへん。それなのにワカさんは勇気を持って寄付したし、東奥日報さんは一市民からの寄付として受け取ったのよ。寺田という名前は、キョウちゃんの思い出話に何度も出てきてるから、浜中さん、最初からピンときたはずだわ。恩田さんたちにも話したということは、松葉会を、つまりキョウちゃんを信頼してるということになるわね」
「なんで松葉会は野球賭博をせんの?」
「松葉会はもともと関東が本部のテキヤ系の暴力団で、場所代が収入の大半だから、博徒系のテラ銭取りのシノギはしないの。そういう賭博をするのはほとんど近畿以西の暴力団。そういう暴力団でさえ、飛び抜けて有能な人や、実直な人には声をかけないみたい。まんいちそんな人たちの息がキョウちゃんにかかりかけたら、松葉会が黙ってないでしょうけどね」
 千佳子が、
「運命ってすごいですね。神無月くんが人生懸けてお見舞にかよいつづけた人が、人生懸けてお礼をしてくれるんですから」
「ただのギブアンドテイクやないわ。背中がピンとなるわ」
 食事がすみ、コーヒーが出る。千佳子が、
「私、何だか自分が細かい勉強に向いてることがわかってきて、へんな感じです。文学より法律をやりたいなって思って、名古屋大学の難易度を調べてみたら、八つの学部のうち法学部がいちばん簡単だってわかりました。ラッキーでした」
「そう。文学というのもつかみどころのない学問だから、法律をやるほうがすっきりしてるかもしれないわよ。がんばりなさい」
「はい! ムッちゃんはあくまで文学部。万葉集をやりたいんですって」
「あの子は学者肌よ。ぴったりじゃないの」
「夕方から、二人でときどきアイリスでバイトさせてくれませんか」
「無理しないの。働かなくてすむ身分のうちは働かないこと」
「はい。キッチリ働いて学費を稼ぎたかったんですけど」
「それはだめ。たとえアルバイトをしても、臨時のお小遣いにしなさい。あなたたち二人の学費は私が出すわ。いいえ、キョウちゃんが出すことになるでしょうね」
「……勉強します。神無月くん、二十五日にね」
「ああ。がんばって」
「はい」
 千佳子が勉強しに離れへ去った。
「お姉さん、アイリス、そろそろでき上がるんやないの」
「あとひと月ぐらいかな。ちょうど私たちがいくころよ。おとうさんの頼んだ建築士が設計図を引いたんだけど、細かいところは喫茶店の専門家にコーディネートしてもらわなくちゃいけなかったみたい。仕上がりを見て、微調整してもらって、食器や道具をそろえるのに一週間ぐらいかかるでしょ。窓、照明、テーブル、ソファを入れて、看板出して、いろいろな仲介業者と契約して、さて店員の募集をかけるとなると、開店は四月ぐらいになっちゃうんじゃないかな。素ちゃんにもレジの扱いぐらい覚えてもらうわよ。細かい経理は専門家を雇うから」
「がんばる」
 カズちゃんは私を振り向いて、
「確認しておかなくちゃ。二十五日までに届くようにするものは、スパイクと、グローブと……」
「それとジャージと運動靴くらいでいい。久保田バットが一本届いたから、バットはオッケー。吉祥寺からもジャージと運動靴と特殊眼鏡を送ってもらうことにする。ユニフォームや東大で使ったバットやシャツの類は思い出としてまとめといて」
「わかった。あと、下着、ワイシャツ、ブレザーもぜんぶ送っておくわ。明石に持っていかなくちゃいけないでしょ」
「そうだね。お母さんにあらためて明石に送ってもらおう。考えると、いろいろとたいへんだな」
「たいへんじゃないわよ。明石で宿泊するホテルはいずれ知らせてくるんでしょ?」
「そうだった。もう知らせてきてた。ここに持ってる」
 胸のポケットから封筒を出す。カズちゃんは一瞥してから、手帳にホテルの住所と電話番号を丁寧に書き写した。
「今月の末日に届くようにここに送っておくわ。グローブもスパイクもね。バットはどうするの」
「二本だけだから、バットケースに入れて直接持ってく。いや、御殿山に置いたままにしとこう。こっちへきたときに素振りすることがあるだろうし、キャンプ地にも何十本か久保田さんから届くことになってるから」
 カズちゃんは村迫の手紙をもう一度じっくり読んだ。
「公式的なようでいて、心のこもった手紙ね」
「そうなんだ。村迫さんはいい人だ。この人に従っていればまちがいがない。水原監督もすばらしい人だよ」
「安心。さ、出かけましょ」
 カズちゃんと素子とフジまでいっしょにいき、なるべくさりげないふうに、マスターや金城くんやウェイトレスたちに最後の挨拶をし、ボックス席から伸びてくる手と握手をして、その場にいる人たちに別れを告げた。
         †
 御殿山に戻ると、福田さんが風呂を洗っていた。からだの大きさはちがうが、どこかばっちゃの背中に似ている。
 ―言葉にしたかったのは、これだ。
 白い羽毛を載せた無人の坂道が、きらきら輝きながら海のほうへなだらかに傾斜していき、青い海面は地面よりももっと固く締まっている。海を見納め、坂を登り戻る。ほの暖かい太陽は雪道の彼方の町の上をゆっくりとめぐっていく。町は視界から閉ざされている。すべてが静かだ。しかし、少しずつ言葉という知性から身を清め、からだの空洞に降ってくる感覚という原初の符号だけを拾い集めなければいけない。われに返り、福田さんの背中に声をかける。
「ただいま」
「わ、びっくりした!」
 ばっちゃはこんなふうに驚いたことはない。
「朝ごはんは?」
「食ってきた。雅子が食うのを見てるよ」
「はい、いただきます」 
 福田さんは遅い朝食を恥ずかしそうに食べはじめる。あごの動きが愛らしい。アジの開きと卵焼きとキャベツの味噌汁。ラビエンで証明したとおり肝臓も胃も強靭な福田さんは、お替わりをして二膳のめしをすみやかに平らげた。
「ごちそうさまでした。……いま机の上にある詩の原稿、いただけませんか」
「いろいろあるけど」
「……私は、私の家郷が、自分の心の中にしかないことを知る」
「あれね。いいよ。ノートに書いた原案があるから。―気に入ったの?」
「とても。光り輝いてます」
 光という言葉を聞いた私はまるで、光と暖かさをすっかり奪い取られたように感じて、一メートル、十メートルと暗い水底へ降りていく。そしてその圧力のもとで、どんなふうに姿態や血液の成分を変えようとも、自分の中に予定されている威光など何もないと感じる。
 自然文化園へランニングに出る。帰ってきて素振りをし、シャワーを浴びる。
 昼、福田さんと二人で向き合い、昆布と鮭で茶漬けを食べる。
「きょうの夕食はいらない。いまからゴロゴロテレビを観て、のんびりする」
「私はお掃除とお洗濯をしたら帰ります。干したものは夕方取り入れておいてくださいね。あしたは土曜日ですけど、朝からこちらにまいります」
「そう? じゃ、朝はおにぎり二個だけ作ってくれればいい。アサリの佃煮でね。それからジムの脱会手続をしたあと、夕方中井に出かけてくる。あさっての朝早く帰る。昼めしはカレーがいいな。来週はのんびりできるよ」
「きょうは曇ってて、お蒲団は干せません。あしたは天気がいいようですから、ジムにいらっしゃってるあいだに干します」
 福田さんが帰っていき、テレビは観ずに机に向かう。午後遅くまで、きのう考えた踏切の項だけ書く。
 女たちに愛されはじめたころから、いつも一つの危惧がある。
「いいかげんにつきまとうのはやめて! もう、あなたには用がないわ」
 そう罵られる瞬間にいつか遭遇するだろうという寂寥だ。女たちは荒唐無稽な不安だと言うにちがいない。しかし、もし彼女たちの一人でもそう言ったら、そのときは、そのとき私は、全員と別れる覚悟でいる。実際のところ、そのときにどうしたらいいかはわからない。そのときに野球や書物が私を救ってくれるとは思えない。こんな危惧を女たちのだれに語ればいいだろう。だれが耳を貸す?
 いつか瀬戸に向かう電車の中でだったか、ぼくに未来はあるかな、と素子に訊いたことがあった。
「もちろんあるに決まっとるがね。うちは何? キョウちゃんの未来やないの?」
 それは人の心を揺すぶらずにはおかないような、人生を軽々しく嗤う皮肉な感想を断ち切るような、苦しみの世界を生き抜いてきた女の声だった。その一途な声を、私は何の感激もなく聞いた。私の中に素子に親しく呼び返す言葉は用意されていなかった。
 鉛筆が止まり、どういう心具合か、押入から掃除機を出してかけはじめる。畳の境目や敷居の埃も爪楊枝でほじくり出して、きれいに吸い取る。八坂荘の自分の部屋でも気まぐれにこういうことをしたものだった。掃除機の音を聞きながら、飛島寮の勉強部屋に社員の目を忍んでやってきた母がよく言っていた言葉を思い出している。
「大吉とおまえはほんとうに似てるね。女好きで、みっともない貌(かお)して、金にだらしなくて、頭が悪い(浅間下ではたしか父のことを切れ者だと言っていたはずだ)。いずれおまえはオヤジと同じ転落の人生をたどるよ」
 机に向かう私の背中に、延々と、刺し貫くような調子でしゃべった。私は辛抱強くその言葉を首筋に受けた。そして、哀れな父を偲んだ。母は、愛ではなく計算の人だ。それだけにみごとに父の未来も、私の未来も言い当てていた。
 転落を宿命づけられた男に、やさしい女たちは祈りに似た愛を捧げている。祈りが有効かどうかさえも考えたことがないだろう。自分が祈りを捧げる〈純粋な〉私に比べれば自分のどんな行為も〈不純な〉ものだと信じている。彼女たちはときおり、私との幸福な逢瀬に酔いながら、基本的には棄てられて浮世を渡っている。そしていつか絶望して、ついにみずからを殺すことで永遠に身を引くだろう。けっしてそんなことはさせない。
 私は、女たちに会うたびに、自分が彼女たちと比べてどんなにちっぽけで取るに足らない存在か、自分をまるで地べたを這いずり回る虫のように感じ、それこそ彼女たちの足もとに身を投げ出して踏みつぶされたい気持ちになる。
 机に戻る。窓から、午後の空に真っすぐ立っているモクレンの木にポツンと白く季節はずれの花がさいている。私のいく先々の庭にはかならずモクレンの木がある。太い枝。たしか漱石の『草枕』だったか、モクレンは木の下にいる人の眼にうるさいほど細い枝は張らない、と書いてあった。文脈がよくわからなかったが、うるさいほど、というのは、うるさく感じられるほどは、という意味だと思った。  
 窓を開けて深く息を吸う。大気は乾いて軽く、あたりに暖気がうごめいている。
 夕方、上杉にいって、玉子丼を入れる。


         百二十五

 机に戻り、目の前の本立てからいのちの記録を引き出して、鉛筆を握る。たちまち虚しさに襲われる。これ以上何を書こうというのだ。いっぱしの詩人気取りか。野球をし、五百野を書くだけで手いっぱいだ。てらいにかまけて内省の機会を失えば、この先、生きていく適切な方法と不退転の決意まで失って、自分の可能性が空費される。しかし、野球から開放された時間、詩を書くのでなければ何をすればいい? 待てよ、詩人をてらうせいで、どんな内省と不退転の決意を失い、どんな自分の可能性を失うというのだろう? だいたいそんなものがもともとあったと思えない。そんなものをもって私は生まれてこなかった。考えれば私の生活は、いままでずっとこの得体の知れない〈自分の可能性〉とやらに近づくための、いきあたりばったりの行跡(ぎょうせき)の積み重ねにすぎなかった。甘えた沈滞から脱出する方針も見出せなかった。夢中で打ちこめる目標が見つかったか。愛し、愛されること? 自分が他人の愛情に値する人間だと信じているのか。まさか! 私はそんな人間じゃない。私はいつも、だれにも貢献しない自分の感覚にぼんやり没入しているだけの動物だ。知識もなければ、魂もない。どこから見ても、カスのような人間だ。私のような人間は、身に合わないえらそうな倦怠とやらを後生大事に抱えて、ただ独りで生き、独りで死んでいくべきだ。
 もっと詩が書きたい? 何を書きたいんだ。動物らしい意識か。そんなものを書いてどうしようというのだ。書いて生き延びたい? 中空の言葉の連なりを記すことで生き延びられると言うのか。そのために歩きつづけていると言うのか。生き延びてどこへいきたいんだ? 
 ―たぶん死の光のほうへ。自分にも死があるという喜び。光へ寄っていく。どれほどかすかでも、永遠につづくむだな感覚の闇の中で、死は輝かしい希望の光を発している。私はそのさびしく厳しい光を信じている。それに触れる喜びが自分に残っていると信じているあいだ、私は詩を書いて生きられる。書きたいのは、死への信仰だ。
 私はすでに、生きる苦しみを死という高次の段階へ昇華できるだけの力を得ているけれども、それに至るまでの孤独に耐えることを美徳とするような硬骨漢ではないし、愛情を注いでくれる人びとを理由もなく斥ける勇気もない。また、彼らの愛がたやすく自分にもたらされたことに調子づいて、その愛が人生で二度と得られないほどの値打ちがあると見分けられないほど、頭をやられてしまったわけでもない。ただ、十五歳の情熱で人びとを愛することは、もう、生涯にわたってできない。もちろん彼らに対するこうした冷めた思いが、いつも私の情緒に干渉しているわけではないけれども、一瞬の冷えた思いがたび重なるにつれて、彼らの脇目も振らない愛に神秘性を覚えなくなってきているのを否めない。彼らの心から流れ出してくる熱い思いが、自分のからだの周りをべとべと油のように取り巻くのを感じ、さっぱりと洗い流したいという気分になってきている。しかし、それと同時に、人が人を愛することの崇高さにも打たれるのだ。そういう崇高さの前では、もはや人生に必要なものは何もないと心から信じられる。
 涙が流れてきた。ノートに、なぜ死が希望の光なのか? と書き、破り取り、細かくちぎってゴミ籠に捨てた。玄関前に出て、墓場のように潤いのない空を見上げながら、目を乾かす。哀れな女たちが土くれのようにうずくまっているイメージが、物寂しい彩りで頭の中にひっきりなしにちらつく。
         †
 一月十八日土曜日。七時起床。晴。二・二度。福田さんが台所にいる。軟便、シャワー、歯磨き。井之頭公園内を五周。帰って素振り、三種の神器、片手腕立て、倒立腕立て、一升瓶。まだ胸が薄い感じがする。名古屋の新居に入ったら、基本的なウェイトリフティングの設備を数種揃えよう。
 福田さんの用意したアサリの握りめしと、豆腐と油揚げの味噌汁を食う。彼女は掃除洗濯から蒲団干しにかかる。ふと、本郷の銀杏並木の立て看に書かれていたおかしな簡略文字を思い出す。

  表現の自由を奪い
  学生のゼミ活動をも規制する
  公選法改悪に反対する

 こんな吹けば飛ぶような哲学にかまけて暮らしている連中の顔を浮かべながら、福田さんの掃除機の音に愛を感じる。
 ジムに出かけていく。ふだんどおり一連の鍛練をし、ジャグジー風呂に浸かり、さっぱりしたからだで退会手続をして、帰宅する。雅子が布団を叩いている。新聞を見ると、東京オリオンズがロッテと業務提携して、チーム名がロッテオリオンズに改称するという記事が載っていた。
 机に向かう。遅々として五百野が進まなくなった。寄木細工をするような書き方なので、多すぎる木切れをうまく整頓できない。牛巻坂も数枚で止まっている。頭の中身だけを書けばいいと思っても、その中身に貯えがないので掬い取ることができない。
 ―私小説は難しい。
 想像だけで好きなように書ける詐欺天使を十五枚書く。かなりスムーズに書けた。
 昼、福田さんとおいしいカレーライス。
「カレーは牛よりも豚バラのほうがおいしいんですよ」
「うん、カレーうどんもね。肉が香ばしい」
「じゃ、私はきょうはこれで。あしたは朝から待っています」
 ふたたび五百野。寄せ木を増やす。
 四時を回って、ブレザー姿で出かけていく。上杉に寄って玉子丼を入れる。
 高田馬場から西武新宿線に乗り換え、二つ目の中井で降りる。駅のボックスから水野に電話をかけた。神田川のコンクリートの堰堤(えんてい)が電話ボックスから見える。浅い水面に自転車のハンドルが突き出ている。垢のかたまりのような灰色の滓(おり)に覆われた水面をかつて見つめた覚えがある。宮谷小学校の外塀に沿って流れるドブ川だ。あんなものをじっと見ていた心の在りか―いまもここにある。
「改札にいてくれ。すぐ迎えにいく」
 橋の欄干にもたれて待つ。十分もしないで水野が現れた。相変わらずあごの剃り跡が青い、目玉の大きな好男子だ。縮れ髪を短く刈って、七三に分けている。いつもの癖で分け目を指でいじっている。
「適当な調査でいいぞ。どうせ役には立たないからね」
「適当にはやらない。論文の資料だぜ。まじめに解答してくれよ」
「しかし、そんな大事な論文、どうしてぼくなんだ。頭のいいやつはいくらでもいるだろう」
 水野は歩き出しながら、
「頭のよさを調べるのがテーマじゃない。特定の気質の人間の知能を調べるんだよ。真性の分裂気質の人間はなかなか見つからない」
「真性?」
「ああ、十全に社会適合できない病人だ。いまのところ、それらしきやつに見当つけて六人調べたが、社会生活に不便のない分裂病気質というのに留まった。真性らしきやつじゃない。おまえは真性だ。社会に適合していない」
「うまくやってるぜ」
「おまえをうまくやらせてる連中も、アヤウイ。真性の主な特徴を挙げると、過去への異様な執着、適合者以外への極端な感情隠蔽、思考過多、内省過多、自閉に近い孤独癖、面倒くさがり、豊かな機知、並外れた知識欲」
「ちょっと待て。その最後の二つはないぞ」
「おまえがないと思ってるだけで、多分にあるんだよ。ほかに、世間的価値観の軽視、創造欲、などなど。こういった特徴は、ある種の狂気なんだ。ソクラテスが言うには、創造物の最も偉大なものは狂気を通じて生まれてくるらしい。彼はそれを神から授かった狂気と定義してる。そういう人間は幼児性も示す。気を悪くするなよ。それは万能感というやつなんだ。理由もなく自分を無能だと卑下する一方で、自分が特異な存在で、ある種の才能にすぐれていると信じている。その無能感と万能感が病的レベルに達する。創造に興味を示すのは、作品の中で自分の内的世界の重要性を図式化することで万能感を維持するためだ。なぜそうしたいかというと、嫌忌する世間に自分の内界の価値を認めさせようとする欲求があるからだ。じつに矛盾した意思だが、分裂気質なんだからしょうがない。一見社会適合している観を呈するが、創造という代償行為をすることが条件になる。知能検査は七、八時間かかるぞ。明け方までかかる。めしは?」
「玉子丼を食ってきた。しかし遠いな。電話してから十分できたのにな」
「途中まで走っていったんだよ」
 少し赤くなった。
「西高の同級生には目をつけなかったのか」
「一人だけ目をつけて計った」
「だれだ」
「金原小夜子。社会適合者だった。知能は百二十もあった」
「すごいのか」
「人口の上位十パーセントの知能だ。百三十以上は二パーセントしかいない」
「何を基準にしているのか知らないが、曖昧な感じがするな」
「方式によって確立された数字だから、たしかに人間の頭のよさをすべて測るわけにはいかないが、おおよその目安は出せる。知能指数が高いのにバカだったという逆の結果が出ることはない」
「……どうしてぼくなんかの知能を知りたいんだ? もう六人も調べたのなら、あと二年もあればじゅうぶんな母集団ができるだろう」
 水野は踏切を渡って、山手のほうへ歩きはじめた。
「―俺の見たところ、おまえは常人ではない。もし知能が異常に高いとすると、真性の分裂病か、虚言癖の可能性がある。あるいは、その両方の可能性が考えられる。この三年間の観察で、虚言癖ではないとわかった。ならば真性の分裂病だ。真性分裂病者の高知能の研究として参考資料にしたい。いまのところ、調べた中には真性は一人もいないので、ますます貴重だ」
「正常な人間にも金原みたいな高知能者はいるんだろ?」
「もちろんいる。ただ、俺の目におまえは正常に見えない。少なくとも、人格異常だ。一見馬鹿っぽく見えるのが特徴だ」
「見えるんじゃなくて、ほんとの馬鹿なんだよ」
「それも、分裂病者特有の口吻だ。おまえは自分以外の人間を評価してないから、いくらでも自分を低めて表現できる。神無月、おまえ、周囲の人や景色が紙のように無機質に見えることはないか?」
 首を振り立て、大きな目をギョロつかせる。
「さあ……」
「人が道具のように感じられることは?」
「うーん……周囲の人間を利用する結果になっている、ということなら」
「いや、結果的な状況じゃなくて、おまえの気持ちだ」
「それなら、ない。友人や女たちは、いろいろなつかしい感情の源になっている」
 水野は視線を中空へ逸らし、
「じゃ、虚言癖があるのかな……。野球のスカウトの話は? もうプロ野球の選手になってしまった人間を前にしていうのもなんだが、多少大げさに言ってないか」
「言ったとおりだ。ホームラン記録も」
「看護婦の話は? 島流しのもとになったという、あれは事実か」
「だれがどう思おうと、ほんとうのことだ」
 苛立ってきた。いつだったか、たしか八坂荘でこういった話をしたとき、水野がいまのように目を光らせたことがあったが、その理由がようやくわかった。私の話を頭から信じていなかったのだ。
「なるほど、天才かスーパーマンというわけだ。まあいいや。ただ単に、おまえの知能を測るだけでもおもしろいことになりそうだ。天才は天才でも、俺はおまえを真性分裂気質の天才だと思ってるから、そっちのデーターの一つとして使わせてもらう」
「好きにすればいい。ただし、知能が高かったらの話だろう。十中八九、ただの馬鹿だよ」
「そのときも、知らせてやるよ」
「ああ、よろしく。人生、もうショックを受けることはないから、だいじょうぶだ」
「たしか、むかし知能検査で馬鹿という結果が出たと言ってたな」
「ああ。担任の先生が飯場にやってきて、母と面談して、こんな低い知能で勉強の成績がいいのはおかしい、お母さん、あなたはひどいスパルタ教育をして、神無月くんを能力以上に苦しめていないか、まあ要約すればそんなことを言った。母が激怒した」
「それな、きっと、ごく平均的な知能が出たんだよ。俺の予想では、百前後だ。六十以下の知能だと、言語活動がやっとということになるから、すぐおかしいと気づくはずだ。おまえの行動や成績からして予想される知能というものがあって、それを大幅に、たとえば二十も三十も下回ったんだろう。ただし正常の範囲でな。それは病的に貧しい知能じゃなくて、ふつうの知能だったと思うぞ。学校の先生は日ごろおまえを見ていて、その知能じゃ低すぎると思ったんだな。その担任がおまえの言いわけを聞いて、それを教師間に伝えて、仲間内ではすぐ誤解は解けたろうし、さぼりながらやってもふつうの知能が出たというので、空恐ろしくも思ったろうし、記録に残っちまったことを気の毒にも思ったろう。ときすでに遅しで、手の施しようがなかったというわけだからな。おまえのおふくろさんが激怒したのもよくわかるよ」
 小暗い坂道を二十メートルほど登って、途中で細道へ折れた。道はすぐ、落ち葉の散り敷いた小庭につながり、その先に瓦屋根の小屋が建っていた。密に植わった樹木越しに本宅の二階家が見える。窓に明かりが灯り、玄関にも軒燈がぼんやり灯っている。小屋のあるこちらの庭は黄昏の光に不分明に沈んでいた。大家と店子に交流がありそうには見えなかった。
「この小屋は一応あの家の離れになる。六畳一間、賃六千円なり」
「安い!」
「大家がおやじの早稲田時代の学友らしくて、住銀の幹部だそうだ。家賃など払わなくていいと言ってくれたんだが、高三の息子の家庭教師をして相殺するということにした。そういう約束のはずが、家賃に倍する報酬をもらってる」
「オヤジさんは早稲田だったのか。叩き上げのパチンコ店主だと思ってた」
「祖父さんが戦後間もなく、経営不振の朝鮮人から買い取って始めた商売だ。家業というほどのものじゃない。俺は継がない」
 あらためて母屋の二階家を眺める。群がる立木に囲まれた裕福そうな家だ。家は富と遮断の象徴だ。家を持った人間が富を分け与えることはめったにない。友人関係が例外を作る。


         百二十六

 幅の狭い濡れ縁から、ガラス戸を引いて畳に上がる。水野は蛍光灯の紐を引いた。六畳一間、板の間一帖の流し、机が一つ、十四インチの旧式のテレビ、本や紙類の積んである四角いテーブルが一つ、ほかには小ぶりな書棚しかない。書棚はすべて心理学関係の本だった。蒲団は律儀に部屋の隅に畳んである。枕もとにトランジスタラジオ。水野はすぐにガスレンジで湯を沸かした。
「文学書が見当たらないな」
「その種の本は才能のあるやつだけ読めばいい。俺みたいな凡俗な人間には道草になるだけだ。たまにはいいことが書いてあるけどな。人間は百もの皮からできている玉ねぎであるとか、人間は自然と精神とのあいだの危険な橋であるとか。耳ざわりはいいが、凡人にとっては、結局くだらない正論だ。そろそろ六時か。さ、やるか」
「七、八時間なら、途中休憩を挟めば、たしかに夜明けになるな。さっさと片づけちまおう。おまえと、今夜、ここで寝る気はない。つい最近、入団祝いをしてくれた早稲田の男たちと雑魚寝したことがあったけど、懲りた。女と寝るならどうにかがまんできる。男は遠慮したい。とにかく片づけたあとで、タクシーを拾って帰る」
 インスタントコーヒーが出る。
「しかし、水野も運がいいな。そんな大家に当たるなんて。ぼくと同じだ」
「おまえもいい大家に当たったのか」
「いいどころじゃない。家をくれたんだ」
「ちょっと待て!」
 じっと目を覗きこむ。
「うん、嘘じゃなさそうだ」
「いいかげんにしろよ。そんなに嘘ばっかり言って回ってたら、辻褄合わせに身がもたなくなるだろ」
「まあな。よし、何を聞いても驚かんぞ。だれがおまえに家をくれたって?」
 後藤がこういう態度でしつこく詮索したことを思い出した。
「奇特な不動産屋の老人が、と言ってもまだ六十二歳の美人のおばさんだが、吉祥寺の御殿山の一軒家をくれた。広い洋間と和室がいくつか、それと、渡り廊下でつながった八畳の離れ。風呂場もキッチンも、庭も広い。百聞は一見に如かず。一度見にくればいい」
 髪の分け目をいじり、首を振り立て、
「いかなくてもわかる。家賃はなしか? ないよな、くれたわけだから」
「一応ある。おばさんが死ぬまで三万だ。形だけの契約なので、払わなくていいと言われてる。電気水道ガスはもちろんこっちが払う。庭などの管理は、定期的におばさんが業者を入れる。おばさんは、自分が死んだらその家をそっくりぼくにくれる手続を取ったと言ってる。相続税の心配もしなくていいそうだ」
 妙な目の光り方をした。
「なぜ、くれたんだ」
「第一に、ぼくを気に入ったということ。第二に、彼女の死後、その墓を永代供養するという条件だ。それは、カズちゃんがきちんとおばさんに約束した」
「あの女傑か」
「ああ、この一年、生活費から、学費から、すべて出してくれた」
「この世の話じゃないな!」
「カズちゃん一人じゃない。何人かの女でスクラム組んでる。その中の一人に、西高の保健の先生だった吉永さんがいる」
「え、あの子豚ちゃん! いや失敬。参ったな。そのおばさんを筆頭に、おまえの異常な人格に結氷度の高い樹氷がまとわりついたようなものだな。ま、わからんでもない。大した野郎だ。神無月、気心許さない人間に、こういう話はするなよ。ぜったい信じない。それこそ嘘つきにされちまう。スクラムの意味を言ったら、嘘つきどころか、キチガイにされちまう」
 ふと、御池が中井に住んでいることを思い出した。
「目白の文化村って、どのあたりだ?」
「ここいらはみんなそうだ。下落合、中井の山手はぜんぶ文化村だ。なぜだ?」
「友人が住んでる」
「そうか。大金持ちだな」
「住んでるのは、アパートらしい」
「このあたりのアパートと呼ばれる建物は、みんなむかしの豪邸だ。大金持ちしか借りられない。社用族のようなケチな野郎たちには無理だ。県人会の子弟がタダで入ってることも考えられる」
「そっちのほうだな。熊本出身の文部大臣の第四秘書に内定してるそうだから」
「S文部大臣だな。超大物だ。東大にはそんなやつがけっこういるんだろう」
「日大だ。おまえに遇ったあの日、早稲田のやつとの飲み会で知り合った。ラッキーな出会いを感じる男だ」
「ラッキーなのは、おまえと出会ったその男のほうだ。今夜は強行軍になるぞ。Q&A方式の論理学の問題を十五問、およそ三時間、図形を十問、二時間半、これでもう夜中になる。ほかに基礎数学のいろいろな単純計算五十題、二時間、基礎数学の文章題十問、二時間半。計十時間。それは目安だが、二時間ほど余分にかけてもいい。朝の七時までが限度だ。二日かけたほうが頭は冴えるんだがな」
「ぼくはダラダラやると冴えない。早く終わらせよう」
「わかった。パンとインスタントラーメンでも買ってくる。論理学の問題を解きはじめとけ。一問十分強として、三時間は軽くかかる。俺は夜中の二時あたりから、三時間ほど寝る。やり終えたら起こせ」
「メロンパンはかならず買ってきて。アンパンもね。二個ずつ」
「よし」
 水野はテーブルをざっと整頓すると、下駄を履いて出ていった。テレビを点ける。連想ゲーム。江利チエミと小沢正一。江利チエミ。広がった鼻の三十女。癖のある唄い方が好きではない。歌い方はともかく、新妻に捧げる歌は名曲だ。高倉健と結婚し、妊娠中毒症が原因の中絶と、身内に騙された金がらみの苦労で、揉まれ揉まれていまここにいる。借金返済の日々だろう。小沢正一の『競輪上人行状記』という映画は絶佳なものだった。辻さんを彷彿とさせた。ギャンブルもあそこまでイレこめば芸術になる。
 テレビを消してラジオを点ける。太っちょキャス・エリオットの『私の小さな夢』が流れてきた。好きな曲だ。しばらく聞き耳を立てる。山口が歌えば百パーセントフィットする曲調だ。林には合わないだろう。
 ラジオを切り、十時間の自己鍛錬にかかる。論理学の問題を読む。どうも高級なナゾナゾのようだ。数分考えてわからない問題は白紙にした。二十分ほどで水野が帰ってきた。休憩。彼のいれたコーヒーを飲み、メロンパンを齧りながら、論理学を再開する。水野は机に向かい、自分なりの読書に入った。
「何読んでるんだ」
「マズロー、人間性の心理学。自己実現理論だ。低次のものからいくと、生理的欲求、安全欲求、社会的役割や愛情の欲求。そのあたりはわかるが、被尊重欲求となるとこれが複雑で、低次のものは尊敬・名声・地位・利得といったものの欲求、高次のものは自己尊重感、技能の習得、自己信頼、自立の欲求となる。最終的な欲求は自己実現欲求だ。自分の能力と可能性を自分がやりたいことで達成させたいという欲求だ。おまえが野球で達成させようとしている欲求だ」
 興味がない。そんな単純なものが学問なら、まったくやる必要はない。
 一時間ほどで、ふたたび休憩。知識人の水野が煙草を吸いながら語る内外の政治状況に一方的に耳を傾ける。
「〈象〉のアメリカが、核兵器以外のふつうの武器で〈蟻〉のヴェトナムに勝てれば、反戦運動なんてものは起きなかった。力を出し惜しみした結果の泥イクサは残虐なものになる。そこでフラワーチルドレン、つまりヒッピーの無礼講だ。ガンジーの非暴力の理論だな。自国が勝てないと、かならず平和運動が台頭する」
「どうしてアメリカは核を使わないんだ」
「そういうふうに無知を簡単に曝け出して省みないのも、分裂気質の特徴だ。米ソ間の代理戦争だからだよ。使ったら連鎖的な全面核戦争になって、ほとんど地球滅亡だな。米対ヴェトナム、ソ対ヴェトナムなら局地限定的に核を使うだろう。ヴェトナムもそのことはよく知ってて、いい気になってゲリラ戦を展開してるんだ。ふつうの武器はソ連からどんどん入ってくるしな。この戦争はまちがいなくアメリカの撤退でチョンだ。―おまえいま、核戦争で死んでもいいなと思ったろ」
「うん」
「自分の思考や感覚が理解されない世界で生き永らえても仕方ないと考えるのは、真性分裂病者の顕著な特徴だ。自殺を図ったことがあるな」
「ない」
「嘘つけ。見えてるんだよ。いまは押し留まってるだけだ。……死ぬなよ。おまえみたいな〈美しい〉人間が死ぬと、一生胸の傷が癒されない。それに、そのでっかい才能が死ぬのはあまりにも理不尽だ。野球があってよかった。しばらく遊んでられるからな。遊んでいれば、遊び癖がついて、しばらく死なない」
「水野」
「なんだ」
「ありがとう」
「気持ち悪いことを言うな」
 論理学再開。十時前にやり終え、水野の作ったモヤシ入りのインスタントラーメンをすする。腹ごなしに二人で近所の夜道を散歩した。
「おまえの部屋、イロ気がないな」
「部屋に女を連れてきたことはない。おまえといれば、自然、そういう話になると思ってたよ」
「いやなのか」
「そうじゃない。その種の話が出るのを期待していたところもある。……じつは、いま三年生の早稲女(わせじょ)と付き合ってる。しっくりいってない、というか、破綻してる。別れることになりそうだ」
「不本意か」
「そうでもない。少しさびしいけどな。おまえの中学時代の話をしてくれないか。例の看護婦の話だ。あの話がいちばん好きだ。むろん破綻の事情は俺とはちがっているだろうが、聞けば気持ちが安らぐし、気を強く持てる」
「語り尽くしたよ。注意しなくちゃいけないのは、語り慣れたせいで脚色が加わることだね。でも小心者だから、潤色できない。虚構にはしっぺ返しがあるからね」
「脚色が加わってもいい。聞きたいのは本筋だけだから」
 私は康男の火傷のことから話しはじめた。ボンと松葉会の立ち回り、旅館に節子が戻らなかったこと、野辺地で詩に目覚めたこと、節子から別れの手紙がきたこと、野球をもう一度始めたこと、大門で再会したこと……小一時間しゃべりつづけた。水野は目を輝かせて私の顔を覗きこんだり、怒りの形相になったり、口惜し涙を流したりした。私はそれ以上の話はしなかった。流謫のあとにつづいた苦しい再生の話も、水が器に従うような性的な経験の話もいっさい雑(ま)じえなかった。
「おまえが名西にきたのは、信じられない巡り合せだな。一年間同じ教室にいて、おまえのすごさに気づかなかった。……十五歳のおまえが、それだけのことに耐えたんだ。十九歳の俺が耐えられないはずがない」
「ほんとに別れると決めたのか」
「ああ、決めた。女が浮気した」
 私は笑って、
「生理的なことなら、許せる範囲だろう」
「いや、生理的なことだからこそ、これ以上、そばにいられない」
「わかるよ。水野は潔癖症だからな」
「ほんとにわかるのか。いま笑ったろう。笑うというのが驚異だ。異常な感覚だ」
「精神と生理は別物だ。そこに寛容にならなければ、人間は嫉妬だけで一生を暮らすことになる」
「……正しい思想だが、草木の心だ。しかし、そういうのが、おまえの持っている根本的な癒しの力かもしれないな。俺には到達できない境地だ」
「じゃ、こう言ったら草木でなくなるか。おまえはいい男だ。いずれもっといい女に巡り会うよ」
「紋切りは草木以下だ」



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