百二十七

 文化村のアパートを二、三軒遠く近く眺めながら、
「たしかにあれはアパートというより、学校の分教場だな。鹿鳴館ふうの建物もある」
「な、金のあるやつらの集合住宅だよ」
 御池がポケットから出した一万円札のかたまりを思い出した。その握りつぶし方に、紀尾井雄司の腰縄や新聞折込紙のノートとはちがう、てらいのない自然さがあった。
 小屋に戻る。水野はまたインスタントコーヒーをいれた。
「さあ、ここから七時間だな。早くて朝の五時。付き合わないぞ。適当に寝ちまうからな」
 水野は机に向かい、いっさい沈黙した。図形、十問のうち三問白紙。解答時間に制限はなくても、東大の入試問題にそっくりの四角錐の斜面角度などやりたくない問題があった。計算問題五十題完答。文章題十問完答。夜中の三時前にすべての課題を終えた。守隋くんと角テーブルに向き合って勉強した日々が浮かんだ。鉛筆を置いて、寝入ったばかりの水野に声をかけ、背中に守随くんの話をした。彼は大儀そうに振り向き、
「人生の恩人と言えば言えるか。お勉強に興味を持つきっかけを与えてくれたわけだからな。しかし、そういうきっかけがなくても、おまえほどの天才なら、いずれお勉強はもちろん、なんやかや、独りで学びはじめたろう。その男は時期を早めてくれただけだ」
「恩人にはちがいない」
 両親の神頼みと同伴喫茶とシャブシャブのことは語らなかった。
「しかしさすがだな。十一、二時間の予定を休憩挟みながら八時間弱でやっちまった。尋常ならざるスピードだ」
「白紙も何カ所かある」
「相変わらず潔いことですな。採点は、ひと眠りしてからゆっくりやる。結果はあしたの夜、電話で知らせる」
「三時か。やっぱり帰って、自分の部屋で寝る。いつ、だれが訪ねてくるかわからないからね」
「鍵は開けっ放しか」
「そう」
「なら帰らなくてもいいんじゃないか。勝手に入るだろう」
「在宅して出迎えたいからね」
 水野は眠そうな目で山手通りまで送って出て、タクシーを拾ってくれた。
「またきてくれ。いろいろ話をしよう。おまえは遠慮して、自分のことをほとんど話していない。聞いていてわかる。自慢話になってしまうのがいやなんだろう。俺はそんな耳で聞かないからだいじょうぶだ。そんじょそこらの小説より、おまえの話のほうがずっとおもしろい。……これからはどうやって会えばいい」
「本拠地は名古屋だから、おまえの里帰りのときでも会えるチャンスがあるだろう。あの北村席にきてくれ。運よくぼくがいたら、一献酌み交わそう」
「そうだな。また、身になる話が聞きたいからな」
         †
 一月十九日日曜日。福田さんに声をかけられて十時半起床。それでも六時間寝た。蒲団の温もりに未練が残る。柔らかい便をひねり出し、シャワーで尻を洗い、歯磨き、洗髪をし、湯に浸かり、半徹夜の脂汗をシャボンで落とす。
 清潔なジャージを着てランニングに出る。井之頭公園内を適当に何周かして帰り、素振り、三種の神器、もろもろ適度に。
 トモヨさんから便箋一枚の手紙。直人の写真が何枚か同封されていた。カズちゃんに似て、下唇の厚い異国風の面立ちをした美しい子だ。目の大きさと垂れ具合は私にそっくりだった。

 前略
 もうすぐ郷くんに会えますので、長い手紙は書きません。二十五日、元気でお帰りくださることを北村席一同心より祈っております。ユニフォーム、野球道具などはすべて揃いました。ご安心ください。
 菊田さま、福田さま、ほんとうにお世話になりました。お礼の申し上げようもございません。おふた方には、今後末長くご交誼のほどよろしくお願い申し上げておきます。
 今月から直人を社会勉強のため保育所に預けています。かわいい写真でしょう? この子の顔にいつも郷くんの顔を重ねて眺めています。毎日が幸せいっぱいです。
   昭和四十四年一月十六日 夜半
   いとしい郷くんへ                      智代かしこみ


 テーブルに手紙と写真をいっしょに出して、福田さんに見せた。
「ホワァ、きれい!」
「北村のお父さんは、光源氏って言ってる」
「ほんとに、それがピッタリです。こんなすばらしい子を保育所に預けるのは……」
「反対?」
「はい。保育所って、よく死亡事故が起きるって言いませんか」
 不安そうに言う。
「最悪のことは針小棒大に報道されるからね。まんいちそうなったら、運命としてお受けするだけだ」
「お受けできるんですか?」
「反射的にね。不可抗力か、管理者の怠惰のせいでそういうことは起きる。不可抗力はお受けする。世間の人たちの怠惰にはつけ入る隙がない。抵抗してもむだだ。彼らの中で暮らしている以上、お受けするしかない。最悪でなければ、つまりケガをさせられた程度のことなら抵抗の余地があるけど、命を取られたら何も言えない。……自分の怠惰が最悪の事態を引き寄せることだってある。いずれにしても、最悪のことはその二つが原因で起こる。コトが起こったあとでそれらを悔やむ方法はない。そんなことをやるのは、新聞やテレビだけだ」
 福田さんはにっこり笑い、
「人の怠け心は改善できないということですね。それが原因の最悪の事態はお受けするしかない、でも自分が怠けていない生活をしてれば、自分が原因の最悪の事態はまず避けられる、それだけでもほんの少し救いがある、ということですね。そうですね、たしかにそう考えるしかないですね。わかります。でも……そこまで割り切れるかしら」
「割り切らなくていい。こだわりながら、思ったとおり育てればいいんだよ。本来、学校なんかかよう必要がないってことを忘れないようにしてね」
 福田さんはもう一度つくづく直人の写真を見て、
「……和子さんにも似てますね」
「トモヨさんはカズちゃんにそっくりなんだ。瓜二つと言っていい。雅子もかなりカズちゃんに似てる。グリーンハウスでそう思わなかった?」
「思いました」
 うれしそうに言う。
「上板橋のサッちゃんも、カズちゃんに似てるんだ。もちろん、カズちゃんタイプの女もいれば、まったくちがったタイプの女もいる。でも、少なくとも痩せ型の女は一人もいない」
 恥ずかしそうにうつむき、
「……あそこは?」
「雅子らしくない質問だね。そうだな、タイプと関係なく、感触はみんな最高」
「じょうずな答え。だれも傷つけないように」
「みんな自分が最高だって知ってるから傷つかない。傷つく人がいないから同体化できる。傷つくような面倒な女は御免こうむる。みんな最高でなければ、差別感が出てきて、愛せない」
「ありがとう、神無月さん」
 女の肉体には、もうカズちゃんでさえ特別な関心は動かない。顔と心にだけ深い興味を覚える。
 女に対する肉体以前の〈好み〉は、私の中でどうやって決まったのだろう。性欲を抱えた〈適齢期〉にある男ならば、肉体にだけ興味を湧かせて一人ひとりの女との交接の感触を分析し、快味を得られる満足の点数をつけて決めることもあり得るかもしれない。それは肉体以後の感覚の満足であって、その女に対する原始的な〈好み〉ではない。その証拠に、女の肉体を経験したいまでさえ、自分の深いところに問いかけると、交接という限定的な感覚に対する興味は薄く、〈好み〉の範疇には入らない。
 原始的な〈好み〉という感覚は、たぶん、顔やたたずまいといった何らかの外的な刺激を与えられた結果、これだという自覚なしに決定するのにちがいない。解明できない自分の生まれつきの性質に、外的な刺激の快適さが加わって、予定されていた好みに一致する。私がカズちゃんや睦子や素子に魅かれたのは、ただその顔や、性向や、たたずまい全体が私の好みに一致したからだ。
 好みの女だった滝澤節子から奇妙な経緯で離れることになったとき、私にとって女は深い謎に感じられた。カズちゃんほど未練のなかった女を失っただけのことなのに、強い喪失感を覚えたからだ。好みの女を失ったからだろう。それからの私は、カズちゃんという好みの参考書から、執拗に、熱心に、女というものの正体を究めようとした。カズちゃんは女の肉体に関するいっさいの知識の総覧だったし、女の精神に関しても万般の書であり万華鏡だった。もちろんその色彩豊かな参考書は暗示的で遠回しな言葉で書かれていたので、手がかりを捉えるためには、そして、ページを貫くあの燃えるような電光を見出すためには、まったくの没我を必要とした。その没我を節子に対して滑らかに果たせなかったせいで、彼女に罪悪感の混じった深い喪失感を覚えたのにちがいなかった。
 なぜ好きになるかの理由を極めなければ愛せない、と考えたらどうなるだろう。もうだれ一人愛せなくなるにちがいない。やってはいけないことは、好きになるべきだという理屈で好きになることだ。美しさや人格を〈認めて〉好きになることだ。そんなものは、のちのちの発見にゆだねればいい。呼吸を意識的に行なうのが不毛であるのと同様、人を好きになることも、話すことも、セックスも、本能を棄てて意識的に行なうことほど不毛なものはない。
 女以外の書物は、その行間から、意識を華々しく刺激する精神が何十羽の鳥のように飛び立つ。読み取るべきものは、その一羽一羽の精神的な飛翔だ。それをあわただしい作業の中でつかまえることは、既存の精神を素早く置き換える自己放棄ではなく、それを栄養にした新しい自己の増幅になる。
 しかし、女という書物―彼女たちのやさしく巣籠もりする肉体と精神のなんという奔放な相関! 飛び立つことなく地表に肉体を安住させる彼女たちの精神の奔放な動きは、一つひとつ、まるで品行方正な理論を軽蔑するかのように恣意的だ。万華鏡―何千年何万年もむかしから、あたかも彼女たち自身、肉体との避けようもない無秩序な相関を知り尽くしてきたかのように自在に思考する。頭の悪い私がこの無秩序に誠実に対処するには、完全な自己放棄をもってするしかない。精神を増幅させることなく、彼女たちといっしょに地表に安住すること。そうして初めて私は、女の精神と肉体の何たるかを究明することができる。
 カズちゃんと出会って以来私は、女のそばに腰を下ろし、女の願いを自分の言葉に組み立て、行動に発現させようとしてきた。しかしそんな努力に汗している私を笑って、彼女たちのほうからやさしく手を差し伸べてくれたのだった。素早く、深い眼差しで、そんなことをする必要はないと言いながら、温かい巣へ引き入れてくれたのだった。
「雅子、さびしがらないでね。元気で暮らすことを祈ってるよ。そうでなければ、ぼくはここを去れない」
「だいじょうぶですよ。〈怠けないで〉生活してればさびしくなんかなりません」
         † 
 雅子と晩めしを食っていると、水野から電話があった。
「驚くべき結果が出たぞ。おまえの知能は、一六〇・オンコンディション・プラスマイナス一〇だ。世界にも稀少な知能だよ。平時一六〇で、体調その他の条件によって一七〇から一五〇まで推移するというものだ。幼時には二〇〇なんて知能もたまに出ることがあるが、成人ではだいたい最高レベルでも一四〇に落ち着く。おまえはそれを上回ってるということだ」
「そうか、ありがとう」
「何がありがとうだ。こちらこそ興奮させてくれてありがとうと言いたいよ。今度こそ測りまちがいはない。むかしのことは忘れて、誇り高く生きてくれ。俺がおまえの知能を測った世界で最初の人間だと思うと、感慨無量だ。ほんとにありがとう。頭にデッドボールを喰らうなよ。大事な頭だからな。じゃ、いつか名古屋で会えたら会おう」
 いまさら、という気がした。中学一年生の一日が、悲しみに近い感情を連れて鮮やかに甦ってきた。スモールティーチャーが暗い顔で飯場に訪ねてきた夕方からきょうまで、私は自分に〈大切な〉十字架を背負わせてきた。人が私を馬鹿と思いたいなら、私が自分を馬鹿と信じればいちばん心の負荷が少ない、という素朴な信念―それこそ大切な十字架だった。水野の調査記録など、私がバカでないという証拠にはならない。やはり、このまま十字架を背負いつづけているほうが安らかに生きられる。


         百二十八 

 納豆おろし、ひらめの塩焼き、ボタンエビの刺身に箸を戻す。福田さんが、
「知能検査の報告ですか?」
「うん。ぼくの知能はとても高いそうだ。だから何だろう? それで〈頭がいい〉ということにはならない。自分の馬鹿さかげんは、自分がいちばんよく知ってる。ぼくには学習能力がないし、知的なことに対する好奇心もない。ビー・マイセルフ。ぼくは、ぼくでありつづけなくちゃいけない。ぼくは野球が好きで、ホームランが好きで、意地悪な人間が嫌いで、人間同士の愛情に価値を置いていて、世間的肩書に価値を置いていない」
 声が上ずっているが、素朴な信念でしゃべっている。自分を馬鹿だと断言する気持ちに少しの濁りもない。大切に背負ってきた十字架なのだ。簡単に手離すわけにはいかない。福田さんは箸を止め、まじまじと私を見つめた。
「事実を知って、悲しくて仕方がないんですね。知能検査と聞いたとき、いやな予感がしたんです。いいじゃないですか、これからも好きなだけ自分を馬鹿扱いしていれば。神さまの考えですもの、きっとほんとうのことです。神無月さんが馬鹿でなければ、私たちは愛せません。ここまでくるのに、なぜ自分をこんなにいじめた、なぜこんなに枷をはめたって腹が立つでしょうけど、がまんしてください。知能がすごく高いとわかってたら、お母さんも、担任の先生も、神無月さんを信頼して放っておいたと思いますか? 野球も友だちも恋人も失わなかったと思いますか? 相変わらず不完全な人間として、好きなだけ干渉してきたと思いますよ。どうしても世間的な枠にはめたかったんですよ。神無月さんの知能が低いと出て、その人たちはみんな本音のところでは喜んだんじゃないでしょうか。公に認められた評価をくつがえすことはどんな世界でも不可能だとか、事実がわかってさえ不可能だなどと知ったふうなことを口にするのは、世間に反感ではなく好感を抱いてる証拠です。そういう世間的評価をやっと神無月さんにくだせたんです。それはうれしかったにちがいありません。怒って見せたお母さんでさえ、心の底ではホッとしたことと思います。……そういう無念さがいっぺんに押し寄せてきて、神無月さんがおかしくなってしまうんじゃないかって、とても怖かった。事実って恐ろしい。あんなに穏やかな神無月さんがいま怒り狂ってます。胸が苦しくていたたまれなくなります」
 福田さんに言われて、私は平常心を失っているのだと気づいた。ふと、自分が水野の言うとおり、世間をコケにするプライドの高い真性の分裂病者なのかもしれないと思った。
「つい興奮してしまった。知能が高いとわかったんだから、うれしい事実として素直に喜べばよかったんだ。みんなに誤解されていただけだったって。誤解が解けてよかったってね。いったい何に腹を立てちゃったんだろう。みっともない」
「それが神無月さんですよ。子供のように純真で、やさしくて、理屈に合わないことを嫌う神無月さんです。でもよかった、すぐ自分を取り戻してくれて。もういつものお顔に戻ってます。これからは野球のことだけを考えて生きてくださいね」
 私は福田さんにキスをし、
「ジャージと運動靴と久保田バット二本、それから机の上に置いてある特殊眼鏡、そのぜんぶをぼくが出発するころに北村席に送って。そのほかのものはここに置いていく。山口に勝手に使わせて」
 福田さんはしみじみと、
「……はい、あと一週間。いろいろあわただしくなるでしょうね。火曜の夜に菊田さんがいらっしゃいますけど、ほかのかたの予定は?」
「二十四日の夜に上板橋のサッちゃんがきて、たぶん夜のうちに帰る。詩織には当分逢えなくなるから、きょうの夜にでも呼ぶつもり。ほかの予定はない」
「わかりました。金曜の夕食を作ったら、おいとまします。長いお別れになりますね」
「菊田さんがきたとき、心おきなくしておこうね」
「はい。じゃ、あしたの朝にきて、詩織さんの分もお食事を用意します。お風呂は用意しておきました」
 雅子が玄関を出ていくとすぐ、詩織に電話をした。
「今夜御殿山にこれる?」
「もちろん!」
「土曜日に出発だ。名古屋にいってからも、チャンスがあるかぎり逢おう」
「うれしい。一年に二、三回かしら」
「だと思う。それでもかならず逢いにくる」
「一年じゅう、待ってます。こちらからも名古屋を訪ねるつもりだし、一年に五回は逢えると思う」
「きょうが詩織とすごす東京で最後の夜だ」
「かならずいきます。福田さんは?」
「いま帰ったところ。きょうは二人だけ。今夜したら、もうしばらくできなくなる」
「……うんとしなくちゃ」
「子供はほしい?」
 本筋をわきまえない質問だとわかって言った。世間で暮らす女が本来抱えている問題に立ち向かう段になると、私は解決をあせって平凡に流れ、そこから早く逃げ出したいという怯懦な考え方をするタチだったので、心にあったことを素直に訊いた。露骨な物言いにぶつかれば、驚いて気が塞ぐのではないかと思ったが、
「三十歳ぐらいになったら、考えるわ。産んでもいいかなとは思ってる」
 詩織は明るく言った。子供を産むか産まないかの決意は、規範的な生活と異端の生活との境界線上で揺れる。どれほど性愛の形態が異常でも、子供を産めば生活は規範の中に取りこまれる。早くハッキリさせなければならない。詩織はまだ十年は異端の生活を送りたいということだ。トモヨさんは、異端を捨てる決意をした。彼女は子供が成長するにつれて、おのずと私から離れていくだろう。その自然な気持ちを刺激しないように、なるべくそっとしておかなければならない。
「きょうは危険日?」
「はい。外に出してくださいね」
「わかった」
 六日後、東京から名古屋へひかりでいく。都会から都会へ、鄙びた景色がほとんどない移動であることに安堵する。都会から田舎へさしかかった列車の窓はさびしすぎる。青黒い山は無数の谷川に断ち切られていて、陽射しの奥にふだんよりもっと蒼く冷えびえとした森と山がある。
「とうとうプロ野球選手としての生活が始まるんですね。気心知れない専門家たちのあいだで暮らすんですね」
「うん、天才たちとね。プロ野球チーム―か。高給をもらうからには、多少の軋轢という税金を納めるのは仕方がないことだ。たしかに彼らの気心は知れないだろうけど、摩擦よりも感動のほうが大きいと思う。集団生活の変革を目指す立場にないので煙たがられることはない。集団の一員には内部の角逐を防ぐ力も、秩序を変える力もないからね」
 電話を切り、テレビを点ける。ナボナはお菓子のホームラン王です。さっそく王貞治。去年の王はホームラン四十九本、打率三割二分六厘で二冠、打点と最多安打は長嶋に持っていかれた。十一、二打席に一本、つまり五試合で二本というホームランのペースが、日本もアメリカもホームラン王の最低条件だ。二試合でホームラン一本、ヒットを三本打てば、八打数三安打で、百パーセント本塁打王も首位打者も獲れる。百三十試合、ホームラン六十五本、打率三割七分。打点は計算できない。チャンスに打席が回ってくるとはかぎらないからだ。ただ六十五本も打てば、ソロ以外のホームランもかなり含まれるので、八十から百二十のあいだの打点王も獲れるだろう。小鶴誠の百六十打点はラビットボールの時代なので、昭和二十一年に現代のボールになってからの八十五打点という記録が正当な数値と見ていい。三冠王は何年も連続で獲れそうだ。あとは短気を起こして球界を去らないこと。二十五歳を目途に、それ以前に中日が優勝したら、連覇しつづけるべく努めながら、二十五歳のシーズンオフに引退しよう。
 一時間もしないで詩織が駆けつけた。
「神無月くん、また逢えた!」
 抱きついてくる。キッチンテーブルでコーヒーをいれながら、詩織の顔を記憶しようとする。しっくり記憶できない。美しい。首まで髪を伸ばし、目は大きく、形のいいあごをしている。唇も艶めかしい。それなのに記憶できない。
「すぐする? テレビ観る?」
「すぐ!」
 私はテーブルの前で全裸になった。詩織も倣って全裸になる。音楽部屋にいき、蒲団に入った。胸を吸いながら話をする。
「きょうが日曜日だから、あと一週間もない」
 指を使う。
「東京暮らし、短かったわね」
「……三月の受験から、十一カ月住んだ」
 詩織が細い愉悦の息を吐きながら、
「そのあいだに、春の準優勝、秋の優勝、ドラゴンズ入団、バトンの導入、山口さんのコンバットマーチ作曲」
「パレード、優勝祝賀会」
「最後の紅白戦の応援団長の送辞もすばらしかったわ。いろいろありすぎて、頭がまとまらない。神無月くんに絡んだあのいやな新聞記者も、なんだかなつかしい」
 切迫した声を聞いたとたんに屹立してくる。詩織は私の指から離れて正座をすると、背中を丸くして私のものを含む。それから私の腹に手を置きながら跨る。上下動が始まる。アクメをこらえながら私を見つめている。息が弾んでくる。膣ががまんの脈動をする。
「あ、だめ、イキそう」
 下から突き上げてやる。詩織の上下動が激しくなる。詩織が高く叫ぶと同時に離れたので、私も精液を噴き上げる。詩織の陰毛に命中する。ふるえる尻をつかみ、律動しながら尻の前後運動を支える。詩織は中腰のまま、強く痙攣しながら何筋か私の腹に愛液をかける。私は手を差し伸べて彼女の腿を撫ぜる。愛液は力強く飛び、一筋みぞおちにかかり、一筋陰茎に命中して止む。偶然なのだろうが曲芸のようだ。それがすむと詩織は陰茎をわしづかんで口中深く挿し入れる。睾丸を揉み最後の律動をさせ、微笑しながら残液を飲みこんだ。私の律動に合わせて自分も残りの痙攣をする。私の傍らに横たわってかすかにふるえる腹に掌を置く。私は義務を履行したような充足感に満たされた。
「心中する前のような乱れ方だったね。心中したことはないけど」
「恥ずかしい」
 私の胸に顔を埋める。もう欲望はまったくなかった。大きな乳房が脅迫的に映る。
「今夜はもう無理かも」
「私も」
「お風呂入りましょう。からだじゅうベトベト」
「うん」
 すぐに風呂場にいき、シャワーで全身を洗い流す。福田さんの用意した風呂を温め直して二人で肩まで浸かる。
 詩織はさびしそうな表情になり、
「私が名古屋にいかなければ、このまま逢えなくなっちゃうなんてことも……」
「逢いたくなったら逢いにくればいい。いつでも歓迎するよ」
「ドラゴンズの何かのイベントに、バトンを連れてくって手もあるわ」
 詩織は自分でなるほどという顔になり、
「東京の試合で顔を売っといて、名古屋のイベントに遠征。東大のバトントワラーが全国区になるわ。とにかく私は、一度でも多く神無月くんに逢えるチャンスが増えればいいの。あと三年間はそれしか方法がないわ」
 詩織ははうなだれ、
「神無月くんみたいな人には、もう二度と遇えない。もうこれきり逢えないような気がしてしょうがないの」
「それはドラマ好きなやつの潜在願望だ。ドラマは紙やフィルムの上のものだよ。現実世界では、人間がほかの人間を思惑どおりに駒として動かすことはできない。そうしたいと願うところで終わり。ドラマにするには意志の力が必要だ。自分が価値ありと認めた人に二度と逢えないというのは、たしかに格好いいドラマかもしれない。ぼくはそんなこと格好いいと思わないけどね。詩織がそういうドラマにあこがれてるなら、その意志に力添えしてあげるよ」
 詩織はあわてて、
「神無月くん! 私さびしいだけなの。別れたいなんて思うはずがないでしょう」
「そうかな。別れるのは、別れをにおわす人間だけだ」
 詩織は私にすがりつき、
「ごめんなさい、神無月くん、神無月くんが離れていくのが怖いの。……長く逢わないと忘れられてしまうような気がして」
「詩織がぼくを忘れなければいい。そうすればぼくはいつも詩織のそばにいることになるだろ。自分を存在させようとするから、忘れられるのが怖くなる。ぼくはいつも自分の存在をなくそうとする。そうすればいつも人を忘れないでいられる」
「……ごめんなさい。愛してるんです。どうしようもないくらい」
「さあ、上がろう」
 詩織は寝室のシーツを丸めた。もう一度脱衣場にいき、丸めたシーツを洗濯機に放りこむと寝室に戻ってくる。新しいシーツを敷き直す。私は、
「別れるとか別れないとか、ちゃんちゃらおかしいことだよ。世間から外れた人間に、ハナから一般的なドラマなんて起こりようがないからね。それでも強く愛し合っていなければ、すぐに月並みなドラマにやられてスクラムは崩れてしまう。絆の強さを確信したら、もうおたがいとぼけて、自分の好きなことだけをやってればいいんだ」
「そうですね―」
「破綻しそうな関係を修復してまともになれる素養をもともと持っている人間は、ハナからこんな風変わりな関係にのめりこまないよ」
「……周りに丸めこまれて結婚する破目になっちゃったら、どうしようかなァ」
 安心の言葉がほしくて、考えてもいないことを言う。安心の言葉を返す。
「ぜったい別れないと思っているかぎり、一般のしきたりに繰りこまれて結婚してしまってもちっとも絆は緩まないさ。世間に溶けこんで暮らしたければそうすればいいし、そうしたくなければ世間から外れた絆の中で遊べばいい。とにかくぼくたちは別れを考えるのはよそう」
「はい! どんなことがあっても結婚しません。神無月くんとぜったい別れたくないから。独身ならさもありなんと人が思うような仕事に就けばいいんです。私は学者になります」
 抱き締めてくる。
「肉親との別れ、恋人との別れ、友との別れ、この世は人生の中断ばかりだ。こうして抱き合っているかぎり、中断の予感すらない。でもぼくは、いつ中断してもいいと思ってるんだ。スクラムは奇跡だと感じてるから。……ところで、ぼくはこういう関係を異常だとか風変わりだといつも口にしてるけど、それは世間を代弁してるだけの話で、自分ではそう思っていないんだ。正常だと思ってる。肉親も友もふつうは一対多の関係なのに、親交を保っても不道徳に思われない。男と女だけは一対一の関係が正常だと教えこまれる。一対多になった男女関係だけを異常視するのは、胸にスンナリ納まらない」
「セックスという次元のちがう感覚の経験が媒介するからじゃないかしら。そういう感覚を分かち合うのは、一対一以外は異常だと……」
「男女のセックスだけが次元のちがった経験じゃない。友人同士でも啓発という感覚の飛翔があるし、親族同士でも骨肉相食(は)むという感覚の嵐がある。セックスと同様複雑な感覚の高揚だ。でもそういう感覚はふつうに起こり得る正常なものだ」
「何であれ、感覚が高揚することは正常だということですか?」
「うん。芸能人やスポーツ選手と知人でもなければ親しくもないファンとの関係には、あこがれと崇拝があるだけで、感覚の飛翔なんてものはないし、大勢の無関心な者同士のあいだにもない。もし彼らが感覚の共有をすれば異常この上ない。たがいに関心のある少数の者同士の関係には、理解と角逐と高揚が起こり得る。だから、一対一であろうと多対一であろうと、感覚の飛翔や嵐があるかぎり、正常だと言える。セックスの多対一だけを異常という意見は、社会の常識を頼りに性欲を独占したがるわがままからきてる。独占欲こそ異常な心理だ」
 詩織はまた強く乳房を寄せてきた。


         百二十九

 一月二十日月曜日。七時起床。晴。五・九度。詩織と井之頭公園を散歩。黙って手を握り合ったまま歩く。ときどき立ち止まり、二人で池に向かって深呼吸する。ベンチに座る。
「こっちでの試合日程はわかってる?」
「はい。こちらで試合があって、吉祥寺に立ち寄るときは連絡くださいね」
「うん」
 八時前に福田さんがきて、三人で朝食。二人が歓談しているあいだに、私は自然文化園を五周。御殿山に戻って素振り、基礎鍛錬。
 詩織は一杯のコーヒーを飲み終わると、帰り支度をした。福田さんと二人で駅まで送っていく。
「山口さん一人きりの練習場には遊びにこれませんから、神無月くんが吉祥寺に寄ったときだけお訪ねします」
「はい、お待ちしています。そうしょっちゅうではないでしょうけど、そのときはぜひいらしてくださいね。学業とマネージャー業、がんばってください」
「はい、福田さんも不動産の試験、がんばって。じゃ、神無月くん、また」
「うん、また」
「ほんとにケガに気をつけて。手紙は書きません。神無月くんの消息は、新聞やテレビで細かくわかりますから」
 詩織は狭苦しい改札の中へ入ると、手を振りながら階段を昇っていった。
         †
 二度の食事を挟んで、手もとにある詩稿ノートの整理をした。いままで書き貯めた中で気に入ったものをじっくり選びながら、原稿用紙に清書する。この数年、折を見て継続してきた作業だ。
 いまの私には、失意も、恨みも、願いもない。それに拘った計画こそ人間が生きる手がかりなのに。―つくづく自分はこの世に要らない人間だと確信できる。その要らない人間に、この数年かけて需要が出てきた。これから何年かわからないけれども、私を必要とする人びとのために全力で生きよう。それで彼らが、いまいましいほど不本意な人生の一瞬でも幸福に感じてくれるなら、私の終生の生甲斐になる。
 でき上がった原稿は、薄い菓子箱にしまう。手もとに残っているノートは二冊しかなったので、昼前にやり終えた。書きかけの小説は、それぞれ別々の封筒にしまった。
「雅子、ちょっときて!」
「はーい」
 エプロンを外しながらやってくる。
「この菓子箱と角封筒も、このあいだ頼んだ荷物といっしょに北村席に送っといて」
「わかりました。バットと運動靴、ジャージ、眼鏡といっしょに送っておきます。……お約束の冬物の着物ができ上がりましたので、それも送ります」
「え、ほんと! 見たいな」
「向こうで荷物を開けたときに見てください。ピッタリのはずです」
 きょうはトシさんと福田さんとの最後の夜だ。ぐっすり眠るために、午下がりからもう一度走りまくり、筋トレしまくり、素振りしまくった。
「お金が届きました」
 大沼所長の名前を表書きにして、分厚い現金書留が届いた。留守中私宛てに判子を必要とする郵便物が届いたときのために、福田さんに印鑑を預けてある。それくらいのことで彼女は張り合いのある気分になる。中を開けると二十万円のほかに、便箋が一枚入っていて、細かい字で寄せ書きしてあった。

 うまく泳げよ。たまに中日球場にホームランを観にいってやる(山崎)
 きみは変わってる。きっと世界レベルの大物になるだろう(飛島)
 お母さんのことはまかせなさい(三木)
 郷くんを悪く思う人はいません。安心して野球に励んでください(佐伯)
 将来の面倒はきちんと見てやる。とにかくやり抜け(大沼)


 涙が落ちた。抽斗の中の数百万円とその二十万円を合わせて福田さんに預け、カズちゃんに届けるように頼んだ。
「こんなお金、怖いです」
「それじゃ、ぼくがあしたにでも届けるよ」
 夕方に、じっちゃの手紙と、ミヨちゃんの手紙が届いた。
 じっちゃの手紙には便箋二枚に崩し文字がびっしり書きこまれていた。遅ればせながら、と始め、プロ野球選手になったことを喜ぶ長い祝辞。過分な金を送ってもらって、爺婆ともに老後に心配のなくなったことへの深い感謝のことば。
 母から届いた小切手は、野辺地の青森銀行の責任者に相談してそのまま書留で母に送り返し、球団関係者がわざわざ野辺地にやってきて手渡した私からの小切手は、その人に付き添われて青森銀行にいき、全額現金化し(二千百三十万円)、私の気持ちを無下にしないために、爺にも婆にも九百万円の通帳を作った。残金の三百三十万円の一部を使って、合船場の傷んでいる箇所を順次手直しし、改装もした。家の前のドブ板、腐食した屋根のトタン、土間の戸板六枚と、居間はじめすべての部屋の戸障子と敷居、各部屋の窓と壁と壁紙と天井、居間と台所と各部屋の照明、畳の根太と畳二十四枚、神棚と柱時計、縁側の廊下板、台所の床と板、土間天井の納戸。土間奥の便所は水洗の浄化槽にし(野辺地で一軒であると書いてあった)、重油で焚く風呂は縁側から庭へ張り出すように新築した。ストーブも重油タンク式に替えた。大型のカラーテレビを勧められたが断り、必需品と思われる電話は入れた。蒲団を打ち直した。いつおまえが遊びにきても不便はない。
 すべて律義に細かく並べ立てて書いてあった。清潔好きのじっちゃらしい金の使い方だと思った。小切手が届いたばかりのときに、狼狽して出し損じたという手紙も同封してあった。

 前略 孫から法外な小遣いが届き、われもばばも腰を抜かさんばかりなり。プロ野球というのはどういう商売なのかと、空恐ろしくなれり。これほどの大金おいそれと手をつけられず、何かの折に利用するか、おまえに返還するか、思案の結果、特別に通帳を作って貯金しておくことに致し候。小切手を受領した青森銀行の話では、利子だけで爺婆二人一生暮らせるとのこと。その分は遠慮なく頂戴することに致し候。新聞ラジオ等でおまえの活躍、連日目に耳に入り来たれり。四年前の秋冬を顧みて、感無量なり。野球というめずらしきスポーツをあらためて近時研究しておる。有名な選手もいくばくか頭に入れり。愛しき孫が、いずれの路にあれ、元気でいるのはなによりのことなり。青森を出て以来、いろいろ変化の多い人生を過ごしてきたようだが、臨機応変かつ変哲なおまえのことゆえ、爺婆は悉皆(しっかい)心配しておらぬ。気が向いたら遊びにこられたし。いつでも待ち設けおり候。御身大事に、刻苦精励のこと。
 郷へ     祖父より


 ミヨちゃんの手紙は便箋五枚だった。女らしい几帳面な文字でこれもビッシリ書かれていた。

 なつかしい神無月郷さま。ひさしぶりにお便りをいたします。プロ野球の選手となって忙しい身なのだから、くれぐれも迷惑のないようにと母に釘を刺されました。もちろんお返事をいただこうなどとは思っておりません。その分長い手紙を書くことにいたします。
 私は十五歳になり、今年の三月青森高校を受験します。先日受験生のための学校説明会にいったとき、廊下で中島秀子さんを見かけました。お辞儀をするとにっこり笑って挨拶を返してくれました。言葉は交わしませんでした。あまりにもきれいで、どう言葉をかけていいかわからなかったからです。彼女は東奥日報模試の上位成績常連者で、東大にいくかもしれないという噂です。でも、私と同じように、きっと名古屋大学を受けると思います。
 おとうさんはいまでも、何かというと神無月さんのことばかり話しています。母は美しくなりました。近所でも評判です。羽島百合子さんとはふた月に一度くらいお会いします。休日には女同士デートして、映画を観たり、お鮨を食べたりすることもあります。羽島さんもとてもきれいです。四月一日がくると五十一歳になるそうですが、とてもそんな齢には見えません。からだもがっちりして、ハンサムウーマンです。薙刀教室にかよっていると言っていました。神無月さんの新聞記事は、きれいにスクラップしてとってあります。羽島さんの一途さは私を勇気づけます。四月一日から、中島さんにつづいて私も白百合荘に入ります。
 だんだん神無月さんに近づいてきました。あと三年。初めて会ってから数えると、八年後に神無月さんにようやくたどり着くことができるのです。神無月さんのそばにいるためには努力が要ります。自分の心に素直であろうとする努力です。そうでない人間を神無月さんは撥ねつけるからです。撥ねつけずに絶望することさえあります。素直な人間はここにもいるのだと主張しながら、私は少し焦った気持ちで神無月さんにだんだん近づいてきたのだと思います。
 花園町にいたときから、神無月さんには死のにおいがしていました。にせものに懲りてそうなったのだと感じていましたから、いつも神無月さんに会うのが恐かった。自分もにせものかもしれないと思っていたからです。にせものでいることは簡単ですが、ほんものになるには苦しい努力が必要です。いまは別の恐さを感じています。プロ野球選手になると決まって、いっとき心は晴れ上がるでしょうが、そういう人たちの中にもきっとにせものはたくさんいるはずで、そんな人たちに触れているうちに、死のにおいが最高潮に達してしまうのではないかと思うからです。神無月さんの姿が見えない遠くで、そんなことがじわじわ起きていたらと考えると、ほんとうに恐いのです。神無月さんの周りの素直な人たちに励まされながら、とにかく死なないでいてください。にせものがこしらえた罠にはまって死ぬなど犬死です。神無月さんのしもべに生まれた私がおそばにいくまでは、けっして死なないでください。
 キリがなくなりそうなので、このへんにします。おからだくれぐれもご自愛のほど。お怪我のない毎日を祈っています。折に触れてお便りいたします。
 愛する愛する郷さま     美代子


 やさしい人びとに、四月には名古屋の住所が定まるだろうと末に記して、当座の北村席の住所を書き添えた手紙を書いた。

 じっちゃばっちゃに救われた命で毎日生きています。生命のにおいのする場所で生を教わりました。ありがとうございました。この命と野球の才能一本で、どこまでこの世の人びとに許容してもらえるか確かめながら生きてみます。どうかぼくのことで心を煩わせることなく、のんびり暮らしていてください。じっちゃばっちゃがつつがなく日々を送っていることがぼくの願いですし、励みでもあるのです。
 春先にカラーテレビを送ります。それでぼくを観てください。巨人戦ならぼくを観られるはずです。高価なものを地元で買うのは遠慮があるでしょうから、孫から贈られてきたと言って、和田電気にアンテナ等取り付けてもらってください。
 晩秋から冬にかけてのシーズンオフに遊びにいきます。ご健勝で。
 じっちゃばっちゃへ     郷

 ぼくを、誇りに思い、敬意を払い、愛してくれる人間をぼくは全身全霊懸けて愛します。それがぼくにとっての生きる意味です。きみのやさしさにぼくはかならず誠実に報います。
 ぼくは死にません。愛されているのに死ぬはずはない。死神とは訣別しました。
 ミヨちゃん、きみはぼくに対してはもちろん、大勢の人びとに対しても価値のある貴い人間です。ぼくはとても貴いとは言えない危なっかしい人間です。自分の心に素直な努力家と見えるのも、たぶんその危なっかしさのせいでしょう。そんな人間といっしょにいたら、いつも守ってやらなければいけなくなります。気兼ねしなければいけなくなります。それはきみにとってむだな時間です。もし、どうしてもぼくのそばにいると言うなら、ぼくを守ろうとしないで、ただ愛するだけにしてください。世間の人びとがぼくの危なっかしさを非難することに、たとえ地団太踏みながらでも、彼らに許されているあいだだけのぼくの輝きを愛してほしいのです。危なっかしいぼくはいずれ彼らに許されなくなります。そうなったとき、ぼくと心中しないで、ただ愛してほしい。そのときこそ、ミヨちゃんは、彼らに許される貴い存在のままでいて、ただぼくのそばに寄り添っていてほしいのです。
 三年間、首を長くして待っています。お父さんお母さんに、いつまでもぼくを見守ってくださるようお伝えください。万全の注意をしてケガなく一年間を乗り切ります。遠くから応援していてください。白百合荘からの一報を待っています。お元気で。

 葛西美代子さま     神無月郷

 みなさまの温かいお言葉、胸に滲み、思わず落涙しました。一路野球に邁進いたします。生まれて初めて人生に目標ができました。つかまえて離さないようにします。義捐のお志、今後しばらくご休止ください。これからは私のご恩返しの番です。観戦に関することはできるかぎりの尽力をいたしますので、何なりとお申しつけください。
 西松建設の社員のかたがたと、偶然のことで再会を果たしました。友人が武蔵境の飯場でアルバイトをして、たまたまその会社が西松建設だったのです。なつかしい時間がたちまち戻ってきて、みんなで泣きました。彼らはいずれ札幌へ現場を移すそうです。再会を約したので、これからは機会あるごとに会えるでしょう。
 みなさまと会えるチャンスもこれからは増えることと思います。どなたか異動の節はかならずお知らせください。ところで、シロは元気ですか。もうよぼよぼでしょう。先の短い老犬の面倒見、どうかよろしくお願いいたします。懇親会はシーズンオフの十一月か十二月をご予定ください。なお、祖父から礼状がきたと、母にお伝えください。不尽。
 大沼所長さま     神無月郷
         

 書き終えて、真心のこもった言葉を書けなくなってきていると感じた。語彙自体が貧弱になってしまった。面倒くささを隠すために思わせぶりの表現をするばかりで、衷心の思いを言葉にできない。なぜ面倒くさいのか? 身分が確定したことが因だとすると、これはハシカではない。宿痾になりつつある。窮地だ。
 具体的にどんな窮地に陥るのかわからないけれども、とにかく人が異常だと感じることをひた隠しに隠して生きなければならないと思いながら暮らしているうちに、何かを表現しようと頭に浮かべる言葉からカドが取れてしまった。ツルリとした言葉で、思いの丈など表現できるわけがない。私に野球の才能があることは私の価値そのものとは何の関係もない。価値は人間性を伝える言語宇宙にある。私から才能をぜんぶ剥ぎ取ったとき、それでも私に残っている言葉と、それが醸す大気に価値がある。その言葉が貧しくなった。窮地だ。


         百三十

 台所をガスストーブで温め、福田さんとトシさんが食事の支度をする。トシさんも福田さんもいつものとおり、全裸にエプロンをして立ち動いた。後ろ姿にいっさい老いが見えない。私も全裸になり、尻やふくらはぎの動きを見つめる。屹立してくる。たまらず、ときどき後ろからトシさんだけに挿し入れては抜く。その都度トシさんは仕度の手を止め、ひざまずき、私のものを含んで清潔にする。ひた隠しにして生きる―そのせいで真摯な言葉が失われるなら、隠さなければそれが維持されるのか。そんなはずはない。言葉が失われるのは、身分的な安堵からくる怠惰のせいだ。安堵しなければいい。
 トシさんの太腿に愛液が垂れてきている。深く挿入する。気をやらせ、すぐに抜く。抜くときに強く亀頭を膣口につかまれ、思わず射精が迫った。前後するトシさんの尻を福田さんが宥めるようにそっと撫でる。撫でながら言う。
「こんなに気持ちのいいこと、女の身にならないとわかりませんよね。女に生まれてよかったですね、菊田さん」
「はい、ほんとうにうれしい」
「あら、神無月さんがプーってイキそうになってますよ。どうしましょう。菊田さん、もう一度がまんできます?」
「私はだめ、死ぬほど好きなキョウちゃんだもの、何だってがまんできるけど、いまはだめ、福田さん、入れてあげて」
 息も絶えだえに言う。下肢の引き攣りでままならないトシさんの代わりに、福田さんが尻を向けて私のものを収める。発射寸前のものを挿し入れ、吐き出す。ふるえる尻を離さないように何度も律動する。苦しそうなうめき声が上がりはじめる。素早く抜くと、トシさんがひざまづき、激しくふるえる福田さんの尻を横抱えにして崩れ落ちないようにする。
「福田さん、苦しい?」
 福田さんは首を横に振り、
「い、いえ、もう少し待ってください。からだが勝手に……ああ、気持ちのいいこと!」
 トシさんにつかまり、うめきながら尻をふるわせつづける。数分して尻が縦に痙攣しだした。四度、五度と腹を縮め、尻を揺する。快感の終息が近い。中腰になった股のあいだから精液が垂れてくる。
「神無月さん、ごちそうさま。……お食事の支度をしなくちゃ」
 空元気を出して動きはじめる。トシさんがタオルで床を拭く。福田さんは私が食卓につくとコーヒーを出した。
「土曜日は和子さんたち三人が見送りにいくそうです。私と菊田さんもいきます」
「なんか、派手だなあ」
「いいえ、神無月さんのめでたい門出ですよ。見送るぐらいあたりまえのことです」
「カズちゃんが切符を買ってくれる。たぶん、ひかりの一等席券だ。門出だからね」
 二人でうなずきながら笑う。
 たいら貝のステーキ、春雨入りカルビスープ、レタスチャーハン、どれもこれもうまい。食事中、トシさんは一度トイレにいってきた。裸のままだ。
「お腹が気持ちよくて、濡れっぱなしなの。拭いてきました」
「そこまで強い快楽って、ぼくが相手でなくても味わいたくなるものじゃないの」
 福田さんが、
「そういう女もいるでしょうね。愛する人にも愛さない人にも同じように反応する女。よく聞きます」
 トシさんは、
「そういうのって、セックス依存症という病気らしいわ。おかしなことに、セックスばかりすることに罪悪感があるのが特徴みたい。キョウちゃん一人としかしたくない私たちに罪悪感なんてないわ。そういう愛のない女は、キョウちゃんに近づかないんです。ただ大勢の男としたいだけだし、同じように感じたいだけだし、美しい心のキョウちゃんを見てますます罪悪感が激しくなるでしょうからね。私はキョウちゃんとできるなら、何万回でもしたいけど、ほかの男とは一回だってしたくないもの。気持ちよくないから」
「スープ温め直しましょう」
 二人が立ち動きはじめ、スープが整う。ふたたびうまい夕食に取りかかった。
「キョウちゃんとこんなことをしても何ともないのに、商店街やデパートでほかの男の肩が触っただけで、いやらしいって感じになるの。不思議ね」
「ほんとに。女特有の気持ちなんでしょうね。ふつうの男の人はそんなことが起こるとけっこううれしいみたいですけど、神無月さんはそういう反応の仕方をぜんぜんしない」
「ぼくは大勢の女とセックスするけど、だれとしても一人としてる感覚しかない」
「その感覚は、私たちにしかわからないでしょうね」
 トシさんがうなずき、
「でも、私たちは和子さんの代理品という感じはしないわよ。キョウちゃんがまったく同じ心でしてくれてるからね。そんなのだれにもわかるはずないわ」
「睦子が同じことを言ってた」
「あの人は心底神無月さんを愛してるすてきな女の子です。……神々しい。こういうセックスは異常でしょうけど、異常にならなければ見えてこないものがあるの。生活もからだも包みこんだ心の奥行きです。それが見えると、生きてるのがほんとにうれしくなるわ」
 福田さんが、
「人間関係が正常か異常かなんてことは、その種のことを考えたがる暇な人に任せておけばいいんじゃないでしょうか。お片づけして、お風呂入れますね」
         †
 三人で湯船に浸かった。福田さんが私やトシさんの腕にタオルを使いながら、しみじみと言う。
「この先、三人でお風呂に入ることなんかないでしょうね」
「あるさ。何度でもあるに決まってる。雅子、不定期の翻訳ぐらいで、生活費、だいじょうぶ? トシさんは大口の仕事が多いからだいじょうぶだろうけど」
 ふと私は、三十も四十も年上の二人の女を相手にこんなことを言う自分は、ほんとうに十九歳なのだろうかと疑った。福田さんが、
「心配しないでください。二月から菊田不動産の事務員ですから。それに、こんなに長く生きてると、それ相応の蓄えはあるんですよ」
「私もついてるし、何の心配もいらないわ。私は財産持ちなのよ。使い途のないお金だったけど、おかげできちんと使える」
 福田さんが、
「ありがとうございます、でも、よほどのことがないかぎり、お給料以外の助け船は出さないでくださいね」
「わかってます。でも、ときどきいっしょに食事くらいはしてね」
「よろしくお願いします。そういうことは大歓迎です。いっしょにお料理を作りましょう。これからは不動産の勉強を教えていただく機会も多くなりますから、ぜひよろしくお願いします」
「二人はすごいね。カズちゃんたちもすごいけど、二人はほんとにすごい」
「え? どうして?」
 福田さんがタオルの手を止めて私を見つめる。
「誉めてるわけじゃないよ。ほんとにすごいと思うんだ。人間て、そこまで助け合って生きられるものじゃない。足の引っ張り合いをするのがふつうだ」
 トシさんが、
「おたがい好きなんですよ。生い立ちからいままでのことを何度も話し合いましたし、キョウちゃんのおかげで、身も心もすっかり秘密がなくなりましたしね。親子以上の関係よ。助け合うのがあたりまえ」
 湯船を出て、雅子はトシさんの背中を流しはじめた。トシさんに話しかける。
「自分の人生の中で、いまはどんな時期に当たるのか、神無月さんに逢うたびにその大切さを痛感しますけど、同じように思っている人がこうして身近にいると、毎日張り合いを持って生きられます」
「あと七年で、福田さんは還暦、私も古希間近。これは人生の大冒険ね。年とってなんかいられないわ」
「はい」
「あれ、雅子、お風呂でするんじゃなかった?」
「……やっぱりお蒲団で、ゆっくり」
 蒲団に入って、二人ともう一度、トシさんとは後ろから、福田さんとは前からやさしく交わった。福田さんに射精した。幸福そのもので寝入ったトシさんと福田さんを残して離れの机へいった。
 窓に霧雨がへばりついている。抽斗から原稿用紙を取り出す。古い詩を整理し終わると、新しい詩が書きたくなる。
 立てつづけの射精のせいで、後頭部にかすかな頭痛がしている。それでも愛をこめた交合は自分の義務だと信じようとする。彼女たちの激しい反応がなければますますその思いは強まるのだが―。ホームランは不自然なものだ。だからこそ、幼いころの感動をいまに引きずっているのにちがいない。彼女たちの反応を嫌わないことが、私の報恩の完遂につながる。
 頭痛が、けだるい眩暈(めまい)になっていく。チィィという耳鳴りが加わる。その感覚を楽しもうとする。からだが健康であるという意識、その爽快さは、誠実に生きるための害になるという思いこみがある。精神の健康のためには肉体的な不健康が欠かせないと、頭のどこかで拘っている。不健康のゆえの徹底した憂鬱、そして感傷とは別種の深い悲しみ。それを認めず、それを見張ることを一瞬もやめない心。その先に詩がある。
  
  この・風景を・いつかは
  美しく・描けるときが・くるだろう
  幽邃(ゆうすい)の交わりを絶ち
  いさぎよいことばを退け
  ただ愛を思い、人を思い
  安らかならんことを―
         †
 一月二十一日火曜日。雨。七・三度。下痢。シャワー。トシさんは昼から仕事に出かけると言う。湿気た空から細かい雨が落ちている。蒲団は干せない。キッチンや部屋に暖房は効いている。私は福田さんに、
「夕方までいっしょにいよう。夕食はいい。五時ごろからカズちゃんに有り金ぜんぶ預けにいってくる。この一年で、どこからきたともわからない金が引き出しに貯まってしまった。みんな一方的にくれるだけで、使わせないようにするからね」
 トシさんが、
「もともとキョウちゃんはお金も物もいらない人だってわかってるんだけど、どうしてもあげたくなっちゃうのね。私はお金をあげる気にはならない。いつもお金を扱ってるから露骨な感じがするの。せめて、ものをあげれば役に立つと思って」
 福田さんが、
「お家まであげてしまうなんて、菊田さんしかできないことですよ」
「あなただって、余分なお家があったらキョウちゃんにあげちゃうでしょう?」
「はい、もちろん」
「霧雨だけど走ってくる。ランニングはきょうでおしまいにする。ジャージを洗えなくなっちゃうからね」
 トシさんが、
「ジャージなんか、名古屋でいくらでも買えるでしょう」
「着慣れたものがいいから。じゃ、いってくる」
 最後のランニングに出る。何もかも濡れている。道端の寒そうな緑が目に沁みる。青森とちがって厚みの少ない灰色の雨空がまぶしい。緑地の枝道の黒土に心魅かれる。土の道がアスファルトに変わりはじめたのはいつごろだったろう。むかし雨上がりの道には水溜まりがあった。野辺地の新道、宮谷小学校から保土ヶ谷へ通じる道、平畑から千年小学校への道、駅裏の蜘蛛の巣通り……まちがいなく土の道だった。
 文化園の門衛に挨拶する。コンクリートの獣舎も、まばらな立木もなつかしい。いまあるものがすべてなつかしい。じっくり眺めながら五周する。ここで人に遇ったことは数えるほどしかなかった。
 家に戻ると、山口がきていた。ギターケースが足もとに置いてある。
「よう! きょうは仕事?」
「三時から、午前中にラビエンで何組かオーディションがあるんでね。審査員だよ。その前にちょっと寄ってみた。出発前に神無月を一目見ておこうと思って。十八日から十九日にかけて、安田講堂で学生と機動隊八千五百人の大攻防戦があったんだが、おまえのことだから、知らないだろうな。テレビ中継されたんだぞ」
「うん、知らない。ちょうど西高時代の水野という同級生のところに遊びにいってた。チラッと連想ゲームを観た」
「ああ、牧舎の二階にいた早稲田生か。まじめそうなやつだったな。誘われたのか」
「うん。新宿線の中井までフラッといってきた。何カ月も前から遊びにいくって約束してたからね。西高のころの思い出話をして帰ってきた」
「積もる話もなく、聞き役さんでサービスしてきたんだろう。ご苦労さん」
 福田さんは私の表情を窺い、訪問の目的を話さない。
「高三のときのたった一人の友人だったからね。いっしょに多度山というハイキング山にいったこともある。牧舎で遇うまで忘れていた。で、どんな攻防戦だったんだ」
「時計台の上を飛ぶヘリコプターから催涙液が撒かれてな、地上の警備車からは大量の水が放水された。機動隊が催涙弾を何発も発射してさ。講堂の上からは敷石やら火炎瓶やら雨アラレだ。安田講堂を占拠してた全共闘学生は排除された。逮捕された学生は六百人」
「そんなことを言われても、何のことやらさっぱりわからない。逮捕された学生たちの覚悟や心情が知りたい」
「登録医制反対、青年医師連合を認めよ、なんてのが発端だったんだろうけど、最後はただ権力憎しの一念だったんじゃないか」
「聞く耳持たない権力者相手だ。今後も学生どもは語らず、権力者側も語らず、永遠の秘事になるだろうという予感がある。ぼくにわかるのは、制服に鎧をつけた警官、それはもう、人間じゃないということだ。耳も聞こえず、口も利かない、国家のまつりごとの飾り土偶にほかならないということだよ」
「だな。機動隊の催涙弾で下あごを吹き飛ばされた学生もいたらしいぞ。安田講堂の被害が四億円と強調しているのも、ことの本質から目を逸らさせる頬被りの報道にちがいないな」
「ことの本質って?」
「強い者が弱い者に悪さしてるってことだ。去年の暮れに安田講堂を見物してきた。いろんな学部が学生大会をやってて、おもしろかったぞ」
 山口は安田講堂前のタテカンの文句をいくつか記憶しているまましゃべった。
 ―歌を忘れたミンセイはヨヨギの森に捨てましょか。
 などという文句を聞いても、ミンセイとは何かも知らない私には、まったく意味がわからないのだ。ただ山口が天井を見上げながら暗誦した、いわゆる〈時計台放送〉の訣別の宣言を聞いて、思わず泣いた。
「われわれの最後の戦いのメッセージをお送りします。国家権力に支えられ、近代的装備を持った機動隊に対し、われわれが無防備に近い肉体によってなぜ戦いをやめないか。みなさんに真剣に考えていただきたい。……われわれの戦いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者のみなさん、われわれの戦いはけっして終わったのではなく、われわれに代わって戦う同志の諸君がふたたび解放講堂から時計台放送を行なう日まで、この放送を中止します」
「すばらしい……」


         百三十一

「一応事件は片づいた格好だ。今年の入試が正式に中止と決まった。二十日に佐藤栄作が決定した」
「政府が決めることなの?」
「国立大学だからな」
 福田さんが、
「……山口さん、ギター持ってきたのは、ここで唄ってくれるという意味?」
 山口はうんとうなずくと、足もとに立ててあったケースからギターを取り出し、
「しばらく神無月の歌を聴けなくなるから、一曲唄ってもらおうと思ってな」
「賛成!」
 トシさんと福田さんが拍手する。
「神無月はリクエストを受ければどんな歌でも唄えるやつだが、小学校のころから独りひそかに唄ってた歌は聴いたことがない」
 トシさんが、
「ええ。小学生のころ、飯場のお風呂でよく裕次郎の歌を唄ってたという話は、和子さんに何度か聞きましたけど」
「神無月、聴かしてやれ。愛しい者には自分の来し方をできるだけ見せておくんだ」
「うん、裕次郎は父親のイメージとかぶるから、よく唄ってた。実際会った男は裕次郎とは似ても似つかなかったけど。ちょっと、五分でシャワーを浴びてくる。雅子、最後のジャージ、洗濯機にぶちこんどくよ」
「はい」
 シャワーを浴び、頭を洗い、下着を替えて戻ると、じゃらん、じゃらん、と絃をいじっている山口にトシさんが話しかけていた。
「白魚のような指」
「残念ながら、白魚を見たことがないな」
 トシさんがホホホと笑う。私は、
「内臓まで透けてる十センチぐらいの細長い魚だよ。北海道、青森でよく獲れる。生は寄生虫がいるので、天麩羅で食うことが多い」
 コーヒーが出る。
「まったく、おまえってやつは、どうでもいいことはよく知ってるよ。とにかく、裕次郎いけ」 
「裕次郎弾けるの?」
「おまえの横浜時代の裕次郎はマスターした」
「そうか。じゃ、口笛が聞こえる港町」
「昭和三十三年か。いい曲だ。この曲だけは歌ができてから映画化されたものだ。歌が大ヒットしたんでな」
「赤い波止場だね」
「うん。めずらしいよな」
「昭和三十五年に小林旭の口笛が〈流れる〉港町って映画が公開されて、旭が同じ題名の歌を唄ってる。〈聞こえる〉とはぜんぜん別のね。映画はヒットしたけど、歌のほうはサッパリだった」
「旭は、十字路と、ギターを抱いた渡り鳥だけだな」
「そう」
 かすかな前奏の爪弾きを口笛が追いかける。涙が出かかった。歌いだした。

  きみも憶えているだろ
  別れ口笛 別れ船
  二人の幸せを 祈って旅に出た
  やさしい兄貴が呼ぶような
  ああ 口笛が聞こえる港町

 保土ヶ谷の道がいっときに甦ってきて、涙を抑えられなくなった。その涙を見て女二人が目を押さえた。頬をふるわせながら山口はギターを弾き、間奏の口笛を吹く。

  二度と泣いたりしないね
  きみが泣くときゃ 俺も泣く
  二つの影法師を 一つに重ねたら
  月夜の汐路の向こうから
  ああ 口笛が聞こえる港町

 山口がうつむいて涙をこらえている。スタッカート、叩き下ろし、

  涙こらえて振り向く
  君のえくぼの いじらしさ
  思い出桟橋の 夜霧に濡れながら
  兄貴の噂をするたびに
  ああ 口笛が聞こえる港町

 短い後奏、口笛。二人の女が私に抱きついてきた。
「マイクがあってもなくても同じ声なのね。悲しい声」
「きょうこそ、泣かないでちゃんと聴こうと思ったんですけど……」
 福田さんが私の肩に頬を寄せる。
「神無月の声はマイクにぶつける声じゃない。天に昇るんだ」
 山口はしきりにまぶたを拭い、
「こんな歌を八歳、九歳のころから歌ってたんだぜ。黄色いサクランボやチャンチキオケサのころからだ。歌心を生まれつき持ってこの世に出てきたんだよ。それがなぜか泣けるんだ。空しくてさ。俺たちに聴かれなければ、まちがいなく道の上や風呂場で消えていってた。すげえ声だという自覚もなくな。野球も、詩も、歌も……みんな偶然発見されただけだ」
 コーヒーをすすり、
「俺たちが偶然見つけなれば、神無月は障子に影も映らずに、この世からひっそりいなくなってた。見つけたからには、くだらないテコで動かされないように、俺たちが重石になってズボンの裾を押さえこんでいないと、存在さえ知られないで消えてっちまう。―はかない男だ。泣くしかない」
 二人の女は私から離れて自分の椅子に腰を下ろし、しんみり私を見つめ、
「遇えたんですね……」
 トシさんが言う。福田さんが、
「きょうのギターを聴いて、山口さんがいつも神無月さんをどんなに大切に思っているかわかって……。そのことはいつもわかってましたけど、きょうはその思いに命を懸けている感じがして……。いつも神無月さんの歌だけに泣いてたんじゃないんですね」
「こいつを引き受けるのは荷が重いけど、俺ごときの命を懸ける分にはけっこう簡単にできる。命を懸けるのは最低限のことだな。存在を持続させるってのが難しい。命のほかに知恵が要りそうだ。その難しさを感じて、また泣ける。とにかく、菊田さんも、福田さんも、俺と同じように命を懸けてる。それが確認できてうれしかったよ」
 トシさんが、
「そういう気持ちって、女だけのものじゃないのね。肉体の関係がない分、男のほうが純粋で強いのかもしれないわ」
「俺は神無月が俺の汚いからだをほしいと言うなら、いつでもくれてやれる。ただ、ケツの穴は痛そうなんでな。ちょっと引くな」
「まあ!」
 女二人、手を取り合って笑う。私は、
「ぼくが生きていられるのは―」
 山口がするどい眼で私を睨み、
「ストップ! 金輪際と約束したはずだ。みんな人生のどこかで、間一髪で矢に射られる難を逃れた経験がある。理由は何であれ、踏みとどまる。覚えがあるか? 重大な危険に陥りそうになって、その手前で身をかわす。しかしそのとき、かわした矢は飛びつづけて思いがけないときにふたたび現れる。おまえの人生はその連続だ。生きているのはだれのおかげでもないし、そんなことを考えていたら次の矢を避けられない。口が腐るほど言ったはずだ。おまえが生きているおかげで、俺は生きていられる」
 女二人が和んだ真剣な目で山口と私を見つめた。福田さんが、
「山口さんは、二十六日の日曜日からここにお住みになられますか」
「住むのじゃなく、かよわせてもらう。コンクールに入賞したら、何年かかるかわからないけど、身辺のあわただしさが消えたあとで名古屋へいく。それ以降は、ここは神無月の隠れ家になる。菊田さん、ありがとう。帰る家があることで、エトランゼの神無月がどれほど安心したかわからない。感謝します」
「好きな男にネクタイか靴下を買ってあげたようなものですよ。それより、いま山口さんの言った存在を持続させるって、神無月さんの命を護るってことでしょう? そんなこと女の私たちにできるかしら」
「女は、裏切らなければ、じゅうぶん護ったことになるんですよ。男より簡単な仕事だけど、その簡単なことができる女はなかなかいない」
 福田さんが、
「私、生きられるだけ生きて、神無月さんに尽くします。もちろん裏切りません」
「私も残り少ない命をぜんぶキョウちゃんに捧げます。キョウちゃんが都合よく生きられるよう何でもします」
「それを聞いて安心した。しかしおもしろいね。いい大人が神無月のせいで子供のような気持ちになってる。高円寺の和子さんたちも、法子さんも、節子さんやキクエさんも、東大二人組もそうだ。それから名古屋のトモヨさん、文江さん、足の悪い加藤雅江さんもぜんぶそうだよ。年齢を問わないんだ。神の子ということなんだろうな。俺も早くギターのプロになって、神無月をホッとさせなくちゃな」
 福田さんが、
「山口さん、ときどきお食事を作りにきましょうか」
「そんな気遣いはいりません。俺は実家に寄食してる。御殿山はあくまでも練習場です。午後にきて、夕方帰ります。ほんとに気にしないでください」
 トシさんが、
「困ったことがあったら、私か福田さんに電話してね」
「はい、ありがとうございます。じゃ、そろそろいきます。三人でせいぜい名残を惜しんでください」
 山口が去ると、二人でしみじみと私を見つめた。トシさんが言う。
「私たちも偶然見つけた……てことね?」
「はい。でもどうしていままで大勢の人に見つからなかったんでしょう。飯場に入って野球をするまでは、だれも見つけてませんよね」
「子供だったからじゃないかしら」
「でも和子さんは見つけてます」
「あの人は特殊。私だって最初は、むかしの恋人に似てるという表づらで見つけたんだもの」
「私も、神無月さんが十歳だったら、オトコとして見つけられたかどうか自信がありません」
 トシさんはもう一度じっと私を見て、
「野球みたいに、才能で見つけられるというのはよくわかるけど、人間性に感動して見つけるというのはほんとに難しいことよ。とにかく遅ればせながら私たちはすばらしい人を見つけたわけ。手離さないこと。あ、そろそろお金を届けに高円寺にいってくるんでしょう?」
「やめた。土曜日までのんびりする。雅子は大金を怖がるから、お金に慣れてるトシさんに預ける。ぼくが名古屋にいったら、いつでもいいからカズちゃんに渡しといて」
「わかりました。お預かりします」
 福田さんが、
「よかった! 何百万円ものお金、持ち歩くなんてとても怖くて」
「ぼくも間抜けで落としそうだからね」
 離れへいき、抽斗から十万円と小銭を取り出して、小さなボストンバッグに入れる。ジャージのポケットの金も足して入れる。当座の旅費と名古屋での小遣いだ。残りの金を大きな茶封筒に入れる。万年筆二本はやっぱり見つからない。一度阿佐ヶ谷か荻窪の抽斗の隅で見つけた記憶があるが、それきりだ。御殿山に越すときに、なくさないように用心してカズちゃんが持っていったのかもしれない。キッチンに戻る。
「はい、トシさん。三百万円。四百万あるかもしれない」
「お預かりします。数えます」
 おおよそ半分に分けて、二人で数えはじめる。
「二百四万七千円」
「二百十九万九千円」
「合わせて……」
「四百二十四万六千円」
「トシさん、端数の二十四万六千円を、この家の管理費と、山口のときどきの世話代に使って。余ったら雅子にあげてください。これからいろいろかかるでしょうから」
「わかりました。四百万円は和子さんに届けます。あとはぜんぶ福田さんに預けましょう」
「そんな、私……」
「受け取って、ちゃんと使ってあげなさい。家の管理も、山口さんのお世話も、何もかもあなたにまかせてしまったほうが都合いいのよ。これはこれとして、ふだんのもろもろの費用のことは心配しないでね」
「はい。じゃ、神無月さん、いただいておきます。ありがとうございます」
 トシさんは茶封筒を折って、しっかりバッグにしまった。福田さんもおそるおそる買物袋にしまい、
「じゃ、私たち帰ります。金曜日まで、ふつうに朝食と夕食ですね」
「うん。土曜は二人とも見送りにくるんだよね」
「はい」
 二人うなずく。
「土曜の朝八時に、誘い合わせてここにきます。軽くお茶漬けでも食べて出ましょう」
 二人を吉祥寺駅の改札に見送ってから御殿山に帰った。あしたは水曜日だ。何の予定もない。基礎トレをやったあとは一日寝ていようと思った。夜、少し机に向かおう。ノートや文具をかなり忘れていきそうな気がした。野球をしにいくのだ。そんなものは忘れていってもいい。


         百三十二

 一月二十二日水曜日、ランニングのあと、朝食を食べ終えると、福田さんは、
「きょうは夕方まで帰らないので、ゆっくり寝ていてください」
 と言い置いて、ジャージ、下足類、特殊眼鏡、久保田バット二本を北村席へ郵送しに出かけた。
 テレビを点けると、たまたま各球団のベテラン新人合同プレキャンプの様子を短いニュースでやっていた。巨人の新人島野が藤田ピッチングコーチに指導されて投げこみをしている様子や、王、長嶋、高田、柴田の守備練習の様子、チーム全体の走りこみや柔軟体操の様子などが映し出された。常に注目されるのは巨人だった。中日は浜野のキャッチボールがチラリと映ったくらいだった。ナレーターが言った。
「合同自主トレ不参加の神無月選手のキャンプ合流が遅れるのではないか、と危惧されています。報道陣やファンのかなりの騒乱が予想されるので、意図的に遅らせて到着することがあり得ます。水原監督は予定どおりだとコメントしました」
 水原監督の言うとおりだ。意図的も何もない。球団の了承を得て、規約外の合同自主トレのような余分なことはしないと私が決めているだけだ。
         †
 五時に福田さんがやってきて食事の支度をした。カズちゃんから電話。
「菊田さんからきちんとお金を受け取りました。土曜日は、キョウちゃんが駅でまごつかないように、九時にみんなで吉祥寺にいきます」
 福田さんと楽しく夕食をとった。刺身の盛り合わせとケンチン汁だった。
「……お便りはしません。神無月さんの野球生活に障りが出ますから」
「子供たちとうまくやってね」
「できるだけそうします。でも、みんな独立した人間です。それぞれの生活に没頭すべきです。娘たちが結婚することがあれば、親の務めはきちんと果たします」
 そんな話をしているところへ、カラリと玄関のドアが開いた。サッちゃんだった。
「二日早くきちゃった。出発の前の日だとあわただしいと思って」
 福田さんの顔色が変わった。それでも丁寧に出迎え、自己紹介をした。サッちゃんは驚きもせず、すぐに打ち解けた。
「お仲間さんね。この四日で、私、四十九になったんです。おたがいがんばりましょうね」
「はい。夕食は?」
「ぺこぺこ。おいしそうね、いただくわ」
 盛られためしを遠慮せずに食べる。雅子は微笑んで見ていた。
「旦那さんとお別れになったんですって?」
「ええ。浮気したって言ったら、一発でした。子供たちも呆れたみたい。みんな寄り付かなくなってせいせいしたわ。どうせ主人も浮気してたから、渡りに船だったんじゃないかしら」
「神無月さんのことは言わないんですね」
「もちろんよ。キョウちゃんの社会生活が沈没しちゃう」
「同じ気持ちでホッとしました」
「あたりまえじゃないの。きょうも顔を見にきたの。しばらくお別れだから」
「お別れのセックスは……」
「してもらえればうれしいけど。キョウちゃん、疲れてぼんやりした顔をしてるし」
「だいじょうぶだよ、バリバリだ」
「私も何度もしていただきました。思い残すことはございません」
「じゃ、私も遠慮しないで思い出を作らせてもらおうかな」
「私、お風呂を入れて失礼いたします」
 福田さんは廊下へ出ていった。
「いい人ね。きれい」
「どっこいどっこいだよ」
「私と似た感じ」
「ぼくの好みだね」
 サッちゃんはじっと私を見て、
「元気? なんだかさびしそう」
「いよいよ野球漬けになっちゃうのかと思うとね」
「ぼんやりしてしまう気持ち、なんだかわかる。野球も勉強も女も、ぜんぶ極めちゃったから、とんでもなくさびしいんでしょう。でも、さびしい気持ちでいちゃだめよ。息をするのもさびしくなるわ。ぼんやりでいいから、野球一筋に打ちこんでね。さびしくならないように」
「うん」
 それでは失礼します、と玄関に福田さんの小さい声がした。私は式台に出て、
「またあした」
 と言った。サッちゃんも出てきて、
「またいつか。―おたがい、いつまでも元気でいましょうね」
 とやさしく言った。福田さんは微笑んでお辞儀をすると玄関を出ていった。
 キッチンに戻ると、サッちゃんは服をすべて椅子にかけて下着姿になると、私の手を引いて風呂場へいった。脱衣場で私を裸にする。股間にぶら下がったものに向かって、おひさしぶり、と言った。湯殿に入り、自分のものを丁寧に洗う。それから私のものを口に含んで勃起させ、しばらく口中に味わった。二人で湯に浸かる。
「きょうは、うんとお話したい。いま思ってることは?」
「いつも思ってること」
「いいわ」
 私はじっとサッちゃんを見つめ、
「自分をないがしろにする人間だけが、人を愛せる……」
 サッちゃんも私をじっと見つめ、
「唐突ね。自分を愛せない人間だけが、人を愛せるっていうこと?」
「うん、自分を愛する度合いが極端に低い人がね。自己愛のどれほど強い人も、自分以外の人間を愛さなければ生きていけない。でも、自分を愛することで手いっぱいの状態で人を愛する。自分を愛してるのに、どういう愛の分配かわからないけど、他人も愛してるというのは大きな矛盾になる。ぼくには自己愛の機能がうまく働かないので、人を愛することで手いっぱいになる。愛された人は愛し返す。ぼくは、自分を愛せない自分を愛されるのはうれしい。奇跡だとも思う。自己愛に満ちた人間同士では、この関係は成り立たない」
「……わかるわ、理屈として。自己愛のない人間同士の愛は、片手間の感じがしない。でも、キョウちゃんが自分を愛せないのはなぜかしら」
「他人に感じるほど自分に愛を感じないからだね。―人びとが言うように、自分を愛せる人間だけが人を愛することができるというのが事実だとすれば、自分を愛せない人間の愛はニセモノということになる。彼らの理屈は、自己愛者こそ愛という人間の本質を知っているというものだからね。つまり、自己愛があって初めて、他人への愛が芽生えるとするなら、自己愛から発するおこぼれの愛が本物ということになる。ぼくはそんなセコい愛が本物とは思えない」
「いつだったかキョウちゃんは、自分を百パーセント愛してる人間が他人を愛してると口に出すのは大矛盾だって言ったことがあったわね。その愛が数パーセントのおこぼれじゃなくて、想像で作り出したものだからって。おこぼれなら本物だから多少はマシ。だとしたら、たしかにおこぼれでない本物の愛は、自己愛のない人の愛ということになるわね」
「うん。自分を無にして人を生き延びさせる愛こそ本物だ。……無私の愛をニセモノと言う心は、自分を失う恐怖心から出てる」
「世間の人たちはほんとにそんなこと言ってるのかしら」
「言ってる。たとえば、自分を愛せない人間は人も愛せない、とか、人のふり見てわがふり直せ、とか、芸は身を助ける、故郷に錦を飾る、命あっての物種、死んで花実が咲くものか、御身大切にご自愛ください、どれもこれも自分かわいさから出てきた金言だ」
 サッちゃんはにっこり笑って、
「キョウちゃんはその無私のせいで、ものごとに思いきり没頭できないから、ふと滅入っちゃうのね。他人を愛する心を少しでも自分に分けてあげて。キョウちゃんがほんの少しでもそんな気持ちになるのは、野球をするときと、ものを書くときだけ。グランドと原稿用紙にだけは、さびしく悲しいほんとうの気持ちをぶちまけるからよ。だから私たちもこんなに感動するの。キョウちゃんが生き延びてるのは、愛を与えたり与えられたりしながら忙しくしているからじゃない。野球と芸術があるからよ。つまりキョウちゃんは、さびしく憂鬱な自分を表現したい野球選手だし、芸術家なのよ。自分を表現することって小さな自己愛でしょう? キョウちゃんは、たまたま与えられた才能の人でもあるけど、そればかりじゃなく、努力して自己愛を取り戻そうとする人だったのよ。取り戻そうとしたのは、自己愛がないからじゃなくて、さびしさと悲しみのせいで自己愛を忘れるほど滅入っていたからよ。そういう懸命な気持ちが表されてなければ、グランドでも、活字でも、人を感動させられない。愛せない自分を懸命に愛そうとする人間しか人を感動させられないから。さびしがったり悲しんだりしない人は人を救うことはできないわ。……人ってさびしく悲しい生きものよ。それが本能でわかっている人しか人の力になれない」
「ぼくがいつもノートに書いているようなことを言うね。ぼくよりも上手に。なんてうれしいんだろう。うれしくなると、吸っている空気までさわやかに感じる。ありがとう、サッちゃん」
 ようやく股間に触れた。ピクンと肩が動き、
「うれしい。こんなあわただしいときに私がきたのを面倒くさく思ったでしょうに。つくづくやさしく生まれついちゃったのね。きれいな人……。それにしても、不思議な顔。生まれてすぐ成熟しはじめて、もう熟し終わったような顔。カラッポの不可侵性というのかしら―持っているものは、経験と傷ついた心だけ。でも、だれもその質量には敵わないから、道を空けるのが精一杯で、触ることも踏みこむこともできない。精神の部屋から出てきたときに作られた無意識の仮面ね。キョウちゃんの一代記を暗示するような仮面。経験と心の傷、それ以外に何もないカラッポ。そのカラッポのところに、キョウちゃんにとってどうでもいい才能がたくさん詰まってる。だから、異端と悲しみを普遍的にたたえた顔になるの。きれい。これ以上美しい顔にこの先めぐり合うことはないでしょうね」
「飾らないで言うと、バカみたい、だろ?」
「そういう白か黒かの顔じゃないの。現実味のない苦しみとか、見かけ倒しの知恵とかを着ている顔ってけっこう多いけど、キョウちゃんのはその逆。何も着てない。鼻のいい知恵者というのは、世間にはたくさんいるわ。でも、そういう功利的な人にはぜったいつけ狙われない顔。食べても栄養にならないから。いわゆる悪意のない人たち、自分で善人と思っている人たちには、けっこういたぶられる顔ね。嫉妬されるからよ。半人前しか頭が働かず、大した経験もなく齢をとっていき、一カケラの中身も作れないで死んでいく人間なんて腐るほどいるわ。そういう人に嫉妬される顔。悲しいけど、私の夫や息子たちもその仲間」
「うれしいなあ、頭の回る人たちに嗅ぎつけられないのは。……サッちゃん、言葉の洪水だ。もっとしゃべって」
 サッちゃんは湯の中に両腕を大きく広げて深呼吸した。
「うん、しゃべりたい。こんなにたくさんしゃべってるの、生まれて初めてよ。……キョウちゃんが生きつづけるためには、人生を人に委ねて、とことん思いやってもらう必要があるでしょうね。ぜったいキョウちゃんに疑問を持たない、ぜったいキョウちゃんに問いかけない思いやり。この先、一生、そういうとてもデリケートなやさしさに凭れかかる必要があるでしょうね。だれかの世話になるということじゃないのよ。キョウちゃんがいま安住の場を与えられているのは、たしかにだれかのやさしさに依存しているんだけど、それに対してキョウちゃんは無頓着で、世話になってると思ってないから。世話に対しては深い驚きと、かなりの後ろめたさを感じながら、あえて無頓着に、冷ややかに応じているわ。キョウちゃんにとって迷惑千万なのは、やさしくしてくれるのはいいんだけど、そういう思いやりと引き換えに干渉の請求書を突きつける人がいることね。そういう人を見つけたら、キョウちゃんに代わって追い払ってあげなくちゃいけない。キョウちゃんにとっていちばん愉快な人間は、ある種の軽々しさ、ある種の健康な無定見から、冗談まじりにキョウちゃんの仲間らしく振舞ってあげる人間」
「バカにはバカで合わせる」
「どうしてもそう表現したいなら、それでもいいわ。キョウちゃんは、栄養のにおいがしないから。……すてきなカラッポ……カラッポの中の最たるものね。ほんとの天才。こんなに長く生きてきて、私は天才というものに会ったことがなかった。うれしいわ。あと何十年生きられるかわからないけど、砂の上を歩いてきたような人生に緑の森を見せてもらった。ほんとにうれしいわ。……見て、この腕」
 腕をさすって見せた。粟立っている。
「感動してるのよ」
 しばらく見ているうちに治まってきた。私は粟のひいた腕を撫ぜた。もともと若々しい肌にしっとり脂がのっている。
「すごく張りがある。吸いつく」
「キョウちゃんに会うようになってからよ」
 サッちゃんは私の唇を吸った。
「ごめんなさいね。恋しくてどうしようもなかったの」
 膣に指を入れる。しだいに高まっていくお決まりの反応が気に障らず、落ち着いた気分になった。
「サッちゃんはこんなに敏感なからだをしてるのに、いままで開発されなかったのが不思議だ。長いこと、人生損しちゃったね」
「そんなことないわ。キョウちゃんに遇えて大儲け」
「だといいけど。……跨って」
 交合した。動かさない。サッちゃんは何度か軽くアクメに達した。彼女の余韻が退かないうちに、裸で風呂を出て、和室のテーブルに肘を突かせ、後背位で深々と合体する。サッちゃんは数度強いアクメにふるえた。それから蒲団へいった。一時間ほどのあいだに四度合体し、一度射精した。サッちゃんは数え切れないほど気をやった。彼女の顔が紫色になったのがひどく心配だったが、やがていつものように回復した。尻や背中に二人の体液の冷たさを感じながら、いつのまにか丸太のように眠りこけた。
 夜中の十一時過ぎに目覚めた。身づくろいしているサッちゃんを駅まで送ろうと起き上がると、
「寝てて。ピクリともしなかったわ。よほど疲れてたのね」
「夏あたりに逢えたらいいね」
「おたがい無理しっこなし。いつも新聞やテレビで見守ってるわ。私も勉強の日々よ。一日でも早く名古屋に出るために」
「からだに気をつけてね。習い事のしすぎも危ないよ」
「齢ですものね。ありがとう。都合のいいときに電話ちょうだい。どんなことをしても逢いにいくから。忙しければ、いつでもいいのよ。愛してる。一生離れないわ」
 玄関の戸をそっと引いて帰っていった。
 シャワーを浴び、テレビをつけて深夜映画を観る。リチャード・バートン主演の『いそしぎ』。チャールズ・ブロンソンが脇役で出ているのがうれしい。センチメンタルな主題曲は聞いたことがあった。シングルマザーと妻帯者の牧師との恋。よほど波瀾に満ちたドラマがほしいのか、すべてを捨てて男は独り旅立つ。なぜしがらみを断ち切り、なぜ独り旅立つのだろう。遠藤周作の『影法師』を浮かべる。牧師が女と逃げる。添い遂げる。胸を打つ。映画化されないものか。結局エンディングまで観た。



一章 中日ドラゴンズ入団 終了

第二章 明石キャンプへ進む

(目次)