第三部


二章 明石キャンプ




         一

 一月二十五日土曜日。
 朝、天井に横ざまに射してくる冬の暖かい光を見つめた。そして、野球が手で触れられる距離にあることを思い、しみじみと幸福感に浸った。私はこの暖かい光にくるまれて生きてきたと思った。野辺地に届いた加藤雅江のたった一通の手紙を思い出した。愛しています……。橋のたもとの楠木が堀川を見下ろしている。夏も冬もユニフォームを着てあの川をよく渡った。私は暖かい光にくるまれて野球をしてきたのだ。
 いつも都合をつけて女たちの顔を見にいこう。私がくるむ番だ。彼女たちの原始的な生命力に暖かい光を添えよう。精神と肉体にもそれぞれ延命のための質的な振幅がある。社交辞令と愛情。その振幅に素直になろう。
 シャワーを浴び、下着を替える。ワイシャツ、紺のブレザーを着る。靴下も紺。
 七時四十五分、福田さんとトシさんがやってきた。二人とも着物を着ている。目を瞠るほど美しい。霧雨。生垣の裾に露が光っている。二人の着物姿に目を戻す。
「きれいだなあ」
 トシさんが笑いながら、
「おたがいに手伝い合って着たんですよ」
 福田さんは平鉢に入れた温かいめしに鮭の切り身をほぐして載せていた。たちまち塩鮭の茶漬けができあがる。三人で掻きこむ。
「和子さんたちも着物を着てくるそうよ」
「支度してくる」
 ボストンバッグに下着とワイシャツそれぞれ三組、いのちの記録、抽斗の隅に寄せてあった手紙やハガキをバッグの脇ポケットにしまった。東京の輪郭を目に残すために、眼鏡をかける。
 山口がきて、コーヒーがはいる。すぐに着物姿のカズちゃんたちがやってきた。みんなで肩の水気を払う。カズちゃんが、
「天気雨ね。名古屋のほうは本式の雨みたい」
「千佳子は振袖めいた着物だね。みんなまるきり正月衣装だ。どうだい、山口」
「ゾクッてくるな。みんな原型がいいから映える。秋に名古屋にいったら、おトキさんにも着てもらうよ。負けてないだろ。俺も着る。着物姿でギター弾くのもオツだな」
 山口は目頭を押さえた。千佳子も押さえる。
「どうした?」
「木谷も同じ気持ちだよ。青高の教室でポツンと悲しそうにしていた男の行く末がしっかり定まったんだからな。うれしいさ。本人はどんなときも定まったと思わないから、相変わらずおぼろな顔をしてるがな」
 カズちゃんが、
「この顔でバッターボックスに立つのよ。すばらしいわね」
「いまはプロでもヘルメットをかぶるやつがチラホラ出てきたが、神無月はどうするんだ」
「かぶらない」
「頭を狙ってこられたらまずいな。かぶったほうがいい。安心して見ていられない」
「じゃ、かぶる」
 素子が私の頭をしみじみなぜる。山口が、
「望遠でその顔を撮られるわけだ。すごい数のファンがつくぞ」
 福田さんが、みんなに鮭茶漬けを作る。素子が、
「菊田さん、福田さん、来月の末、何度かお別れ会しよまい」
「何度もですか?」
「別れがたいやろ」
「だめだめ素ちゃん、菊田さんは忙しいし、福田さんは勉強中よ。千佳子さんも追いこみ真っ最中。一度だけ、しっかりとね」
「ほやな」
「俺も忘れずに呼んでくれよ」
「ガッテン。節ちゃんたちはどうしよ」
「病院の引継ぎでてんやわんやでしょ。法子さんは一日も手を抜けないし。きょうも寝てるころよ」
 私はコーヒーをすすりながら、
「みんな忙しいなあ。キクエは国家試験だし、山口はギターコンテスト。ぼくは野球をしながら報告を待つだけだ」
 千佳子が、
「神無月くんがいちばんたいへんよ。休みなしだもの。きょうからしばらくお別れになるけど、ほんとにがんばってくださいね」
「うん、小学校のころから野球で本式の努力したことがないから、意識してやってみる」
「おまえの口から努力という言葉を初めて聞いたな。それでフルに努力したら、どんな選手になっちまうんだろう。努力目標なんてものがあるのか」
「うん、高目のストレートの見切りと、変化球の先叩き、それと飛距離かな。なるべく遠くへ飛ばしたい。百八十センチちょい、八十キロちょい。この体格では、平均百四十メートルくらいだろうけど、百六十メートルは数本達成したので、これから体重を八十五キロまで増やして、目標を百八十メートルに置く。大リーグではたしか一人飛ばしてるからね」
「ベーブルースか」
「いや、ニグロ・リーグがあったころの黒人だったな」
 カズちゃんが箸を置き、
「ご馳走さま。さ、そろそろ出かけましょう。はい、キョウちゃん、ひかりの切符。一等席よ。十一時五分。あと二時間あるわ。早く着いたらコーヒーでも飲みましょう」
 吉祥寺の街を草履すりつつゆく女五人の着物姿が人目を引く。男二人は添え物のようだ。みんな革のバッグを小脇に抱えている。カズちゃんに訊く。
「そういうバッグには何が入ってるの」
 カズちゃんは愉快そうに笑い、
「女の服にはポケットがないから、男の人のポケットだと思えばいいのよ。まず財布、家の鍵、ハンカチ、ティシュー、ちょっとした化粧品、手鏡、生理用品、頭痛薬、手帳とペン、以上」
「男のポケットはそんなに入らないよ」
 女たちが笑う。眼鏡を通して街並を見上げ、しばしの別れを告げる。
 吉祥寺駅から中央線で東京駅へ向かう。車窓の風景を記憶する。ビルの壁が迫って見にくい。高架の上から西荻窪を見納める。山口も見ている。女たちは話している。大勢の客が私たちに注目している。建物の隙間にたまに人工の緑が見える。荻窪を見納める。トシさんと雅子と酔族館の街。ビルが窓から離れると、線路端の景色が少し拡がる。群がる民家、商店街、公園、無数の電信柱、電線。阿佐ヶ谷。東京で最初に生活した街。車窓からは見えない土屋家、永島慎二の家、一番街のアシビ。高円寺。生涯思い出すだろうやさしい街。車窓からは見えないフジ、都丸書店、寿司孝、順天苑、沢、ポート。一瞬トリアノンが見えた。見納める。景色が展ける。中野。一、二度この街まで走った。見納める。新宿、四ツ谷、御茶ノ水、神田と見知らぬ駅を過ぎて、終点東京。
「まだ十時前ね。喫茶店に入りましょう」
 八重洲地下街のアロマという大きな店に入る。山口が、
「俺と林からの餞別だ」
 と言って、白い小さな封筒を差し出すと、申し合わせたようにカズちゃんが、
「これ私たちから。菊田さんと福田さんの分も入ってるわ。平等に一万円ずつ。形だけのものだから、遠慮しちゃだめよ」
「ありがとう」
 内ポケットにしまう。
「お財布、うちに放り出してあったわ。持ってきたけど、要る?」
「いらない。山口にあげて」
「おう、お守りにもらっとく。牛革だな。長もちしそうだ」
「万年筆、二本、なかった?」
「あるわ。パーカーとモンブラン。思い出の品でしょ? 私がとってあるからだいじょうぶよ」
「千佳子のスタンド敷きは?」
「私とムッちゃんで使ってる。神無月くんにはそのうち新しいのを作ってあげます」
 ウェイトレスが注文をとりにくる。ホットココア。山口はブレンド。女たちは紅茶。客たちが目を丸くしてこちらを見ている。どこへいっても彼女たちが特級品だとわかる。
「イタリアのコンテストで入賞すると、レコードが出る。そうなると、ステージで食っていける。外国のステージまである。まず東京で名を売って、いずれ名古屋を根城にする。名古屋に移住するのは、早くて二、三年後だな」
「じっくり、急がずにね。ぼくもじっくりやる。東京で活躍したっていいんだよ。戸山高校と名古屋西高みたいな泣き別れも味なものだ。おたがい飛び歩く身分になっちゃうんだから」
 千佳子が、
「プロ野球のホームゲームと遠征ゲームの割合はどうなってるんですか」
「半分はホームでやることと規約で決まってる。六十五試合だね。残りの六十五試合を五で割ると、十三。遠征試合は十三かける五。関東地方の遠征試合の相手は巨人、サンケイ、大洋だから、三十九試合。年間三十九回はこっちにくる計算になる。少なくとも三十九日は東京に宿泊する。正確なところはわからないけど、団体行動を外れて、年間十日ぐらいは吉祥寺にこれると思う。そのときは菊田さんか福田さんに連絡する」
 女二人が、
「お待ちしてます」
 トシさんが、
「季節ごとに一度逢えれば、七夕よりマシです。御殿山は、遠洋航海からときどき帰ってきてくつろぐ寝床だと思ってください」
 カズちゃんが、
「うまいこと言うわね、菊田さん。私たちも同じだけど、菊田さんや福田さんよりずっと幸せね。広島と阪神遠征で十三試合かける二だと、東京遠征以外は二十六日。とにかくあわせて六十五日。三百六十五日から六十五日引くと、三百日はキョウちゃんのそばにいられるのよ」
 素子が、
「ほんとや。でも、それは計算上の話で、実際逢える回数は菊田さんや福田さんに毛が生えたくらいやと思う」
 山口が、
「神無月が勤め人になってしまったということだよ。あきらめよう」
 みんなさばさばした笑顔でうなずいた。
 午前十一時五分、六人の男女に見送られて、新大阪行きのひかりに乗りこんだ。ドア口に立つ。駅構内で買った土産の紙袋をカズちゃんが手渡す。
「チョコレートの詰め合わせ。トモヨさんに渡して」
 山口が、
「キャンプの様子は新聞とテレビで追っかけてるからな」
「おたがい、努力がすべてだ」
「わかってる。手を抜けない人生になった」
 握手する。
「愛してる!」
 千佳子が言うと、みんな同じ口の形をした。目の奥が痛くなった。別れていくことに冷静になれなかった。山口も目を真っ赤にしていた。眼鏡を外し、胸ポケットにしまった。一人ひとりと握手していき、握り合う手に力をこめながら近視の目で見つめた。みんな泣きはじめた。
 ベルが鳴り、ドアが閉まった。みんなが手を振った。私は敬礼をした。瞬く間に六人の姿が消えた。私はしばらくドアのそばに立ち、彼らへの切実な思いがふくらむのにまかせた。ここまでの長い旅路を思った。痛む歯を抜き終えたような複雑な感激が沸き立ち、からだがふるえた。前途に待っている新しくつらい経験に期待が募り、静かな心で立ち向かえるようにと祈った。


         二

 名古屋駅の新幹線ホームに北村一家が出迎えた。一段と美しくなったスカート姿のトモヨさんが、これも輝くように美しい直人を連れている。心なしかトモヨさんの腹がふくらんでいる気がする。ホームに雨が流れこむ。主人が、
「お帰りなさい、神無月さん! お元気そうで何よりです」
「お父さん、お母さん、菅野さんも、トモヨさん、直人も、みんな輝いてます」
「おかげさまで。家の者もみな元気です」
 ほんの少しでもあいだを置いて会うと、高齢者は著しく変化していることが多いものだが、この北村夫婦はまったく変わらない。肌がツヤツヤとして肉付きもいい。菅野が、
「神無月さんはいまや日本じゅうで話題の人です。忙しい一年になりますよ」
 直人が、
「おちょうちゃん、おかえりなちゃい」
 と進み出る。ただいまと言って頭をなぜてやる。手を握って離さない。菅野が、
「あいにくの雨で、鬱陶しいですね」
「向こうは、新幹線に乗るころには晴れてました」
 歩きだす。トモヨさんにカズちゃんの土産の紙袋を差し出しながら話しかける。
「お腹の子供は順調に育ってる?」
「はい。二週間にいっぺん日赤で診てもらってます。とても順調です」
「保育所はどう?」
「毎日十二時まで預けて、お昼ごはんどきに連れて帰るんですけど、泣きもせずにみんなと仲良くすごしてるようです。連れにいくと、あまり帰りたがらないんです。遊び相手ができてうれしいんでしょう。そのままお昼を食べてくることも多いです」
 女将が、
「家で遊ばせるよりは、環境がええからね。昼に帰りたがらんのなら、昼ごはんもお友だちといっしょに食べるようにして、二月からは二時まで預けようと思っとるんですよ」
「朝は何時からですか」
「八時からやよ」
「早いなあ!」
 菅野が、
「社会生活のリズムに合わせてるんですね」
「夜は四時半まで。七時までの延長保育もあるんよ」
 主人が、
「野球用具とジャージはちゃんと届いとりますからね。菅ちゃんが、あしたからいっしょに走るんだって張り切っとる。それから縫いのしっかりした着物も入っとりました」
「吉祥寺の家のお手伝いさんが縫ってくれました」
 女将が、
「腕がええよ。おトキとどっこいや」
 駅前の駐車場から車に乗り、二分で牧野公園前の北村席に着く。門前におトキさんの率いる賄いや、トルコ嬢たちが勢揃いで迎える。知らない顔が増えている。
「おトキさん、ひさしぶり。山口がんばってるよ」
「はい、電話いただきました。神無月をよろしく頼むって」
 座敷に落ち着く。女将が、
「ここにはもう、トルコの子は十人もおらんの。ほかの子はほとんど寮に入ってまった。自分でアパート借りられる子も増えたで。素ちゃんと千佳ちゃん、それから睦子さんゆう子を迎えるのに、ちょうどいい具合になったわ」
 素子が、
「うちはアイリスができたら、二階に入る。ムッちゃんは名大のそばにアパート借りるらしいで」
 菅野が、
「二店舗の見回りも含めて、やっと働いてる気になってきましたよ」
 おトキさんが、
「お腹すいてるでしょう。きしめん作りますね。お稲荷さん三つぐらい。それで夕食までもつでしょう」
「ありがとう。じゃ、賄いさんの数も減ったわけ?」
「いいえ、三人ほど増えました。寮のほうも五人ほど増やしました」
 主人が、
「トルコは女の子が入れ替わり立ち代りやったが、羽衣と鯱を合わせてようやく百二十人くらいで落ち着いたな。松葉さんの紹介で今池から腕のいい店長を二人入れて、羽衣と鯱を見てもらっとる。その人たちに菅ちゃんを半年ぐらい見習いでつけたんです。肩書だけ副社長でも、店長代理ぐらいできんとあかんからな」
「社長と副社長ですね」
 菅野が照れくさそうに頭を掻く。
「そろそろ本格的に経営にもタッチしてもらおうと思っとる」
「私は器じゃないんで、運転手のほうが気楽なんですけどね」
「そっちももちろんやってもらう。女の子の送り迎えより、神無月さんの送り迎えで忙しくなるで」
「トルコの男性社員も決まったんですね」
 主人は、
「はい。両店、男のスタッフは五人ずつ。これも松葉さんの声がかりで、半年かけて優秀な人材を名古屋じゅうから集めてもらいました。ヤクザ者は一人もおりません。むかしのヤンキーもおらん。全員サラリーマン出身のトルコ経験者。腕っこきや。おかげで女の子もピシッと働きよる。すべて、神無月さんのおかげです」
「はあ? 関係ないように思いますけど」
 女将が、
「相変わらずホンワカやね。神無月さんがおらんかったら、この仕事つづけられんかったんよ。ほんとにありがとう」
 きしめんと稲荷ずしが出てきた。しっかりと味わいながら食う。主人と菅野も催促の手を挙げた。その場にいた二、三人のトルコ嬢もほしがったので、トモヨさんを含めた賄いが全員で作ることになった。トモヨさんが、
「郷くんがあんまりおいしそうに食べるもんだから、直人までちょうだいって言ってる」
 主人が、
「食わせろ、食わせろ。うどんは消化にいいんやろ」
 いつものとおり賑やかな団欒になった。女将が、先日届いたという福田さん手製の着物を持ってきて、女三人ででき具合を検分する。
「いい腕です」
 おトキさんが言う。トモヨさんが、
「一針一針に愛情がこもってるわ。東京の港は安心という気がします」
 主人が、鴨居に立てて巡らした報道写真やら記念写真やらを眺め、
「こう並べてしまうと締まりがないですな。記念写真だけにして、新聞写真はワシらの離れの鴨居に移しましょう。居間は直人の写真でいっぱいですわ。それもいずれ離れへ移すかな」
 トモヨさんが、
「私の離れに飾ります」
 母親が、
「トモヨの離れがようやっとできあがったんよ。八畳の寝室、八畳の書斎、六畳の子供部屋、十畳の居間、台所、お風呂、お便所。渡り廊下で母屋とうちらの離れとつながっとるけど、離れの裏玄関は別仕立てにしたわ。お客さんが気楽にこれるようにな」
 菅野が、
「マンションの引越しはすっかり終わりましたので、神無月さんはいつでも離れでお休みになれます」
 トモヨさんが恥ずかしそうにうつむいた。主人が笑いながら、
「ナオが寝入ってからにせえよ。あんまり早よう世之介になられても困るでな。店の子を総なめにしてしまうかもしれん」
「いやですよ、お義父さん。直人には素人さんで初体験してもらわないと」
「責任とれなくなるぞ。寄ってきすぎて」
「そうですね、郷くんの苦労がわかります」
 私は、
「素人だろうと、トルコ嬢だろうと、直人に惚れた気持ちのきれいな女なら、直人に迷惑はかけないだろう。トモヨさんやカズちゃんみたいにね。トルコって、朝からやってるんですか」
「好きな時間から何時間勤めてもええんやけど、だいたい十時から三時、十二時から五時、七時から十二時までやね。五時間勤務が基本です。ここにいる連中は、かならず三食のどれかのテーブルにつけるようにスケジュールを組んどる。残りの二食は寮でとればええからね。十二時から五時まで勤める女の子がいちばん多いな。羽衣やシャチの寮のほうはどうなんやろ、おトキ」
「朝の十時から出る子が多いです。夕方五時までの七時間。それと夜の七時から十二時まで五時間の子が次に多いですね。五時間の子はほとんど売れっ子です。北村席の厨房に入ったトモヨ奥さんと、しっかり足抜けをした素ちゃんは、そういう子たちの中でも出世頭です」
「おトキさんは?」
「私はカシラでなくていいんです。山口さんのお世話を一生できれば」
「そういう心意気がとても大事だと思うな。トモヨさんも素子もそうです。たまたまぼくがいま野球選手だから、出世頭なんて言われるんでしょうが、山口も近いうちに世界的なギタリストになりますよ。でも、女のすばらしさは女自身の価値で決まるもので、男の出世では決まりません」
 菅野が、
「相変わらず神無月さんは、言葉が一粒一粒、真珠ですね。この齢になって女を見る目ができたのも、神無月さんのおかげです」
 主人が、
「菅ちゃんの見る目ができたゆうのは、まちがいなさそうや。面接でええ子ばっか入れよる」
「このところ打率は高いです。ホームランは千鶴ちゃんでした」
「さすが素ちゃんの妹や。バンス一年で返してまうで」
 菅野が、
「神無月さん、あしたは何時から走ります?」
「直人を保育園まで送っていって、八時から一時間ほど走りましょう。雨かな」
「上がるでしょう」
 トモヨさんが、
「あしたは日曜日だから、保育所はないんですよ。週日はいつ休みをとってもいいんですけどね」
「そう。月曜日からのことも考えて、やっぱり八時出発にしましょう」
「わかりました」
 トモヨさんが水屋から通園手帳を出してきて見せる。日程表の升目に色とりどりのシールが貼ってあり、欄外にちょっとした感想などが書きこまれている。
「おえかきよくがんばりました、か。直人に新しい人生が始まったんだね」
「はい、自分以外の新しい人生を生み出すなんて、この私が……」
「ぼくも手伝ったよ。少しは手柄をくれる?」
「ごめんなさい。私は郷くんのお手伝いをしただけでした」
「冗談、冗談。直人をこの世にしっかりと生み出したのはトモヨさんだ。やっとぼくも新しい人生のそばにこれた。これからはずっとそばにいて、どうなるか見守らなくちゃ」
 主人が、
「バット三十本届いとりますが、大事なものですか」
「はい。ミズノの久保田さんというバット職人が、ぼくだけのために作ってくれたものです。年間百本ほど作ってくれることになってます。ここに三十本、キャンプ地に二十本、中日球場のベンチに五十本届きます。ちょっと振って見せますね。トモヨさん、直人を近づけないようにして」
 トモヨが直人を膝に抱き寄せた。主人の持ってきた包みを解いて、音楽部屋にいく。みんな隣の控え座敷に集まってきた。靴下を脱ぎ、拝むように握り締めると、腰を落として素早く十回振った。ため息がまとまって上がる。
「見るのはこれで二度目ですけど、やっぱり速すぎて、目にも留まらんですな」
「音がおっかない。首出したら、ぶっちぎれますね」
 菅野が首をなぜた。あぐらをかいてバットを置くと、直人が寄ってきてグリップを触った。彼の視線をじっと見つめる。
 ―この子は野球に興味を持つだろうか。
 私が初めて野球を見たのは横浜の浅間下だった。七歳。サーちゃんたちとやったソフトボール。バットとボールの衝突の美しさに胸が騒いだ。軟式ボールは千年小学校で初めて見た。DSボールはバットと衝突すると信じられないほど遠くへ飛んでいった。その距離に驚愕し、バッティングに病みつきになった。ゴロやライナーよりも、飛ぶ距離に関心を深めた。そして、遠くへボールを飛ばす才能が自分に賦与されている喜びに浸った。
「お父さん、グローブもお願いします」
 グローブも持ってきた。
「これがバット、これがグローブだよ。お父ちゃんの大事な商売道具だ」
 手にはめてやろうとすると、怖がって母親のもとに走り戻った。
「じゃ、これも見てください」
 腕立てを三十回、腹筋を三十回、背筋を三十回、間断なくやってみせる。大拍手。菅野が、
「信じられない筋力です。この上に持久力をつけるために毎日走るんですね」
「はい。プロ野球選手の一人ひとりがこういうからだでグランドに立ってると思えば、球場にきたときの声援にも力が入ると思います」


         三

「トモヨさん、保育所を見ておきたいんだけど」
「はい」
 トモヨさんが立ち上がり、
「笹島の向こうです。文江さんが最初に引っ越したお家から一キロほど歩いたあたりです。ここからだと女の足で十五分くらい。平池保育園という公立の施設です。お義父さん、ちょっと直人をお願いします」
「お、いってこい」
 トモヨさんは浮きうきとオーバーをはおった。
「下駄あるよね。ぼくも荷物に入れて送ったけど」
「玄関に出しておきました。別に二足、大きいのを買いました」
「じゃ、そっちを履き慣らそう」
 菅野が、
「本降りになってきたんで、私もぼちぼち仕事にかかりますわ」
 菅野が三時上がりの女たちを迎えに出ていった。雨の日にかぎり、北村席から送迎したり、職場から自宅に送り届けたりするのだと女将が言う。主人が、
「天気のいい日の送迎はしないことにしたんですわ。何せ人数が増えてしまいましたから、やってられんのです。菅ちゃんもいろいろ経理の勉強でいそがしくなったし、女の子も通勤退社を自分でできるくらいにならんと、自立心が身につかん」
 トモヨさんと二人、傘を差して出る。空いた手をつなぎ合い蜘蛛の巣通りを歩く。
「あの長屋がなくなっちゃったね。さびしいな」
「私はうれしいです」
「そうだね、いい思い出がないから」
「郷くんとすごしたこと以外、思い出というものがありません」
 新幹線のガードに沿って進み、笹島の交差点を渡る。太閤一丁目の市電停留所から民家のほうへ曲がりこむと、ひっそりとした住宅地になる。西高時代このあたりの自転車屋によく自転車を預けたが、見当たらなかった。
「郷くんはどこまできれいになるのかしら。直人よりも底光りしてる。店の女の人たちもぼんやりしてました」
「これ以上女は増やさないよ」
「はい。お義母さんも、お手つきは出んでも手を出されることはあるやろうって言ってました。若いからだに障りが出ないようにするのが大事だと、お義父さんもおっしゃってます」
「どういう意味?」
「キャンプのひと月間です」
「つまらない心配しなくていいよ」
 家並を左右に眺めながら歩く。
「ふうん、本通りをそれると、何の工夫もない住宅地になるね。公園でも見つかれば、毎朝こっちを走ってもいいな」
 武蔵野日赤の四分の一ほどの病院がある。住宅地に挟まるビルはそれ一つだ。
「東京のみなさんはお元気ですか」
「しっかりやってる」
「みなさんこちらに戻っていらっしゃいますね」
「うん。東京一年在留が決まった法子を除いて、カズちゃん、素子、節子、キクエ、お馴染みの四人と、受験組二人が、二月の末から三月にかけてやってくる。よろしくね」
「はい、みなさん、郷くんの大切な人たちですから。法子さんの在留というのは?」
「仕事をもう一年つづけて、名古屋で開店する資金を貯めるそうだ」
 牧野神明社というタテカン標示のある目立たない神域の前を過ぎる。道に面して小ぶりな丸太の鳥居が立っている。石杭でぐるりを囲まれた林の隙間に古びた社らしきものが見える。鳥居前から細道へ曲がりこむ。たちまち寂れた家並になる。家自体が少ない。
 壁に水色の親子象のタイルを貼り付けた建物の金網垣にやってくる。
「ここか。テレビドラマで観るような保育園だな。小ぶりで親しみが持てる」
 園舎の壁に花飾りのタイルが貼られ、童話の世界をそのまま取りこんだような、遊び心たっぷりの保育園だ。大小の滑り台、もぐり遊びをする小屋、砂場にブランコ、鉄棒。安全を図っているのか、ジャングルジムのような背の高い遊具はなく、園舎の窓下に花壇ぐらいしかない園庭だ。建物も遊具も庭も濡れている。園舎自体は大きな二階建てになっている。一階の広間で子供たちが遊んでいる。二階のベランダの引き窓が大きいので、室内にオムツが干してあるのが垣根の外から見える。引き返す。
「園長先生はじめ保育士さんがたも、面倒見のいい、やさしい人たちばかりです。誕生会や夏祭りもあるんですよ」
「理想的な環境だ。直人が帰りたがらないのもわかる。安心した。直人はいい子に育ってるね。うかつに卑猥な話はできないな」
「気にせずなさってください。郷くんには不潔感がありませんから。父親のザックバランさも知っておいてもらわないと」
「やっぱり直人の前では控えるよ。疼いてる?」
「はい! いますぐ入れてほしいんですけど、こんな場所では無理なので、夕食のあとお風呂でお願いします。それから直人が寝たら、お蒲団でもう一度。妊娠の心配がありませんから、うんとかわいがってくださいね」
「保育所で父親のことは、あれこれ訊かれない?」
「ぜんぜん。私と同じような事情のお母さんもチラホラいるんですよ」
 戻ると、菅野が、
「けっこう遠かったでしょう」
「道を知りたくてね。走るにはいいコースでしたよ。このコースも混ぜよう」
「なるほど、そういうことでしたか」
 女将は帳場部屋にこもって、算盤をはじいていた。おトキさんが、
「お嬢さんから到着を確認する電話がありました。さっそく散歩に出かけたとお伝えしました。ホッとしてました」
 トモヨさんが、
「お嬢さんの頭の中は郷くんのことでいっぱい。私といっしょ」
「同じ顔だからね。しかも、ザ・ピーナッツみたいなブスじゃない。和製クラウディア」
 おトキさんが訝しげな顔をするので、
「イタリアの女優のクラウディア・カルディナーレ。お父さんは?」
「直ちゃんをおんぶして、店の目安箱の中身を回収しに出かけました」
「傘差して?」
「はい。小一時間もすれば戻ります」
「目安箱って」
 菅野は、
「お客さんと従業員の投書箱です。苦情や提案や陳情のメモを入れる箱です。きちんと読んで、サービスなど改善できる点はきちんと改善し、わがままなお客さんの対処は松葉さんにお願いして、少々荒療治をしてもらうこともあります」
「怖いね」
「もちろん現場でやさしく注意したうえで、お引取り願うという形をとります。それ以上のことはしません」
「やさしく言われるほうがブルッとくるからね。用心棒みたいなスタッフが常駐してるってこと?」
「はい、一軒の店に二人ずつ。松葉さんがご好意で置いてくださってます。―謝礼を受け取ってくれないんです」
「ワカの気持ちなんだね」
「四人のスタッフを置くとき、若頭さんは一度ここに社長を訪ねてきて、男たちに挨拶させました。近づきがたい氷のような雰囲気の人で、ああ、こういう人も神無月さんに惚れるんだなあと思うと、感無量でした」
「客だけじゃなく、店の女も悪さすることがあるんじゃないんですか? そのための目安箱でしょう」
「はい、悪質な従業員には辞めてもらいます」
「悪質というのは?」
「お客さんに余分なお金を要求したり、よく休んだり、性病に罹っているのを隠して相手をしたりする人です。そういうことを調べるために、社長は週に一回ぐらい出かけていくんです」
「性病を隠してたらわからないんじゃない? サックをするんだし」
「あそこのにおいがきついという苦情が出たら、まずまちがいありません。癌ということもありますけど、その場合はお店が面倒を見ます」
「そこまで従業員や客を淘汰していけば無敵ですね。駅西にライバルはいないでしょう」
「はい。お客さんの噂では、うちと塙さんのお店は、栄や大須の一流店よりも繁盛してるそうです。清潔なお店にしたいと社長はいつもおっしゃってます。こんな商売でも神無月さんのような雰囲気を出せたらなあって」
 女将がやってきて、
「褒めるとスッと身を隠す人やから、褒められるときに褒めておかんと後悔するよ。褒めすぎということがあらへん人やからね。うちの人は、神無月さんが和子と別れてもワシは別れんゆうてます」
 トモヨさんが、
「神無月さんはお嬢さんのからだの一部です。死ぬときしか別れられません」
「ほやったね」
「……私もそうです」
 おトキさんとトモヨさんが台所に立った。女将が私に福田さんの縫った着物をはおるように言い、はおったものを形よく整えると、前をしっかり合わせ、角帯をきつく締めてくれた。
 やがて、直人をおぶった主人が帰ってきた。水屋箪笥の納戸から、
「一月の中日スポーツです」
 と言ってどっさり新聞の束を差し出した。

  
打って 投げて 走って 六球団が新人合同自主トレ
 新人合同自主トレが一月八日、セパ六球団で始まった。広島ドラフト一位の法大出身山本浩司選手(22)は、広島福山市みろくの里神勝寺球場で学生時代からの独自の調整法を披露、持ち場の外野にはあまり入らず、内野手の練習を採り入れる調整で、軽目のトレーニング。


  
浜野一○三球! 居残り走! 思う存分野球
 中日ドラゴンズのドラフト一位、明大出身浜野百三投手(22)がいきなり自主的な追加練習をした。一月八日に昇竜寮に入り、九日は名古屋市の大幸球場で自主練習。ほかの新人たちとキャッチボール、ストレッチ、ダッシュなどでからだをほぐした。百球余りの投げこみ練習終了後、志願して居残り、ポール間走を追加。入寮時に口にした「思う存分野球ができる楽しみ」を体現して見せた。


  
巨人の五番打者漁り 
  
最後の標的 桑田武が初練習
 昨年、大洋・別当薫監督と自身の起用法で対立。バットを持って追いかけた末、取っ組み合いのケンカまでした桑田武(32)は、今年トレード要員として、巨人・大橋勲捕手と交換で移籍した。七年連続二十本以上の本塁打を記録し、昭和三十四年から十年間で二百二十三本塁打、ホームラン王・打点王各一回のスラッガーである。
 九十キロ以上あった体重を、箱根の山籠りのハードトレーニングで八十五キロまで落とし、さらに自主トレに入ってホームラン王になったルーキーイヤー三十四年時のベスト体重八十二キロにまで落とした。十三日、快晴の多摩川球場で移籍後初めて合同練習に参加、早朝から軽快な動きを見せた。「ぼくは巨人ではルーキー。早くくるのはあたりまえ」と主力クラスが球場入りする午前十一時より一時間半前には多摩川へ。志願して外野の特守を行なった。「あれが桑田さん? 別人のようだね」とはポジション争いをすることになった、中央大学の後輩で五年目の末次民夫外野手。周囲もその変わりように目を瞠った。
「桑田くんには五番・右翼の定位置を用意している」
 川上監督は、巨人戦で滅法強く、大洋メガトン打線の中心だったスラッガーに大きな期待をかけた。これだけ川上が桑田にリップサービスしたのにはわけがある。巨人、いや川上の五番打者探しの旅はもう五年もつづいているからだ。

  
長嶋 伊豆大仁で初の単独自主トレ
 昨年からここ大仁(おおひと)町で自主トレを行なってきた長嶋茂雄(33)は、今年も十二日同町にやってきた。雪景色の富士山が見渡せる旅館に到着すると、荷物を部屋に運び入れることもせず、車のトランクからおもむろにバットを取り出した。一○一○グラム、後輩柴田勲が素振り用に使っていたものだ。ビュン、ビュンと素振りのバットが寒風を切り裂く。
 「ひさしぶりにゴルフクラブじゃないものを振ったよ。いいフィーリングだ。去年のシーズン中と感覚は同じ。ベリーグッドだね。筋肉はまだまだ若いんだ」
 十二年目のシーズンを前に、全盛期と変わらないことを番記者らにアピールする彼なりのデモンストレーションだった。
 食事への投資は惜しまず、果物やミネラルウォーターのほかに、なんと牛肉など約三十キロの食肉を持参。
 「また一週間ぐらいしたら東京から届くよ。われわれはからだが資本。食べるものにはどんどんつぎこまないと。金田さんもそうだ」
 険しい山道をクロスカントリーのごとく走ると、真冬にもかかわらず滝のように汗が流れる。畳部屋にネットを張って真夜中までのティバッティングはまさに真剣勝負。からだをいじめ抜いて多摩川での二次キャンプ、そして宮崎へと調整はつづく。

  
水原監督明言 
 
金太郎さん明石キャンプから一軍スタート
 「勇猛果敢、守りではなく、攻めの野球人。おまけに天才ときては、われわれ余人に批判の言なし。一軍スタートなど当然のこと。ベテランたちも彼のビデオを観て、ふるえ上がっている。キャンプがじつに楽しみだ」

  
東京はさらに遠く……
   
打撃の職人・山内一弘 三球団目の一年生
 昭和生まれでは初の二千本安打達成者となった、十六年目のベテラン〈ヤマさん〉こと山内一弘外野手(37)は阪神から無償で広島に移籍、空路広島入りした。即日球団事務所で入団会見を開いた。
 「いずれは東京へ戻るつもりが、さらに西の広島へきた。三球団目の一年生だが、それも悪くない。ぼくをほしいと言ってくれるチームがあるのなら、どこへでもいく」
 バッティングを極めるための努力を惜しまず、日常生活も徹底して〈野球のために〉という姿勢で数々のタイトルや記録を残してきた打撃の職人。働き場所にはこだわらなかった。
 東京に本拠地を置く大毎(現東京)から関西の阪神に〈世紀のトレード〉で移籍してから四年。初年度こそ三十一本塁打、九十四打点でタイガースのリーグ優勝に貢献したが、その後の成績は年々下降線をたどり、二千本安打達成を潮に阪神は見切りをつけた。半ば解雇のような形となった山内に声をかけたのは、広島の監督に就任した根本陸夫(りくお)だった。「広島は未熟なチーム。若手の見本になってほしい」と頭を下げて獲得した。川上哲治の持つ多くのバットマン記録の更新を目標にしてきた山内にとっても、広島入りは錆びつきはじめた自分のバッティングを見直すよい機会となった。
 広島入り後は、趣味の狩猟を兼ねて野山を駆けずり回り、下半身を強化。自主トレでは徹底的な走りこみと特打でキレを重点的に作っている。「年寄り扱いするな。俺のからだには二十代の血が流れている」と、若手が驚くほどの練習量に加え、専属マッサージ師を雇ってからだのケアに努め、球場のいき帰りは車を使わず、自転車を漕いでトレーニングに代えている。


「お父さん、無償トレードって何ですか」
「ただで選手を譲ることです。選手を売るのは金銭トレード、選手を交換するのは交換トレードです」
 さびしい気がしたが、敬愛する山内一広の消息がわかったことはうれしかった。


         四

 時分どき、文江さんが顔を出して夕食のテーブルに雑じった。文江さんも着物を着ていた。からだは一時よりもすらりとしているが、頬がふくらみ、ほとんど節子の顔になっている。
「キョウちゃん、おひさしぶりです。ちょこっとここにおったら、すぐキャンプやね」
「うん、でも北村にいるとあわただしい気がしない。のんびりする。しょっちゅう帰ってこなくちゃいけないな」
 女将が、
「飛島のお母さんのところにも、形だけでも顔を出さんとね」
 みんなで私の顔色を窺う。
「そうですね、門出ですから、やっぱり顔を出さないと。菅野さん、二十九日の夜、連れてってください。夜のうちにタクシーで帰ります」
「懲りずにいくんですねえ。迎えにいきますよ」
「いや、長くなるか短くなるかわからないので、迎えはけっこうです」
 文江さんはトモヨさんと並んで、タラの芽の天ぷらやブリ大根に箸を動かしながら、
「中村日赤の目の前に、二階建てのできたてのアパートが三軒ばかりあってね、そこの写真を菅野さんに撮ってもらって東京に送ったんよ。すぐに返事がきて、三月から節子も吉永さんも入ることになったわ。武蔵境と同じ感じや言うて。同じアパートに入るらしいわ」
「よかったですね、スンナリ決まって。何部屋あるんですか?」
「どちらのマンションも、八帖のキッチンのほかに二部屋、八畳と六畳の和室。風呂は四帖タイル貼り、トイレは洗面場を入れて三帖、ベランダは狭いんやけど、洗濯物を干せるぐらいはあるわ」
 トモヨさんが、
「じゅうぶん豪華よ。女の一人暮らしだもの、贅沢なくらい。お家賃は?」
「新築だで、二万七千円と管理費」
「適当なところね。看護婦さんの給料は十万円以上あるんでしょう」
「ほうみたいやね。一万五千円の住宅手当も出るらしいで、ま、苦しなったら、二人とも助けてやるつもりやが」
 直人が店の女たちのテーブルにやっていき、膝を渡り歩く。主人と菅野は私と向かい合う席で上機嫌に酌をし合いながら、イサキの刺身をつまんでいる。女将とおトキさんは賄いたちのテーブルにつき、笑い合いながら食事をしている。和やかな図だ。
「菅野さん、あした走ったあと、大瀬子橋へいってくれませんか。加藤雅江に、こちらにきたということを報せにいきたいんです」
「わかりました。あしたは朝から晴れの予報です」
 玄関におとないの声がして、二人の年配の男女が立った。男のほうが式台に主人と私を呼んだ。塙席の夫婦だった。
「おう、塙さん、まあ上がって」
「いや、ここでおいとまします。いろいろ忙しくてね」
 中年の男二人が駕籠のように一斗樽を担いで土間に入った。塙の亭主は辞儀をしながら熨斗袋を私に差し出した。
「神無月さん、このたびは、中日ドラゴンズご入団おめでとうございます」
 と頭を下げる。
「おめでとうございます」
 女房も頭を下げる。思わず礼を言って受け取った。主人が、
「塙寮ができあがってよかったですな」
「はあ、ありがとうございます。それで忙しいこともあるんやが……」
「あ、スタッフにタチの悪いのがおったゆうとりましたな。売り上げ金持ってトンコしたんやて?」
「そうなんですよ、きょうはその後始末の帳簿つけですわ。一日分の売り上げでも大きいですからね」
「そりゃそうや」
「松葉さんの配下が行方を探してくれとりますが、金の一部でも戻ればええから、見つけても手荒なことはせんようにとお願いしました」
「松葉さんは限度をわきまえとりますから、心配いらんですよ」
 塙の女房が私に腰を折り、
「いつもトモヨがお世話さまでございます」
 北村席の女将より少し痩せていた。対面は初めてだが、長い知り合いのようななつかしさを感じた。
「こちらこそ、世話になりっぱなしです」
 塙の亭主が、
「聞きしにまさる美男子ですな。着物がよう似合って、惚れぼれします。ご活躍をお祈りしとります。何かの折はうちにも寄ってくださいや。ドラゴンズの選手たちには大サービスしますよ。七割引のクーポン券を作ってもええな。この樽酒は、兵庫は西宮の白鷹大吟醸ですわ。みなさんでお楽しみください」
 男たちが樽を置いた。塙夫婦はお辞儀をし、走り出てきた直人をしゃがんで覗きこむ。
「きれいな子やなあ。目の窪が大きいところは、神無月さんそっくりだわ。鼻と唇はトモヨやな」
 北村の主人が、
「トモヨともども、わしらが責任持って引き受けとりますから、安心しとってください」
 直人が二組の夫婦を見比べるように見上げる。塙の主人が、
「わしら夫婦は子がなくてね。まるでこの直ちゃんが自分らの授かりもののような気がしとるんですわ」
 よく見ると、塙席の主人の眉に白いものが混じっている。北村夫婦は、自分たちの円満をひけらかしもせずに、もっともだというふうにうなずいている。おしめ替えやら授乳やら手のかかる時期なので目が離せない、と女将が言う。
「来年の夏に、もう一人生まれますから、目の回る忙しさになるやろな」
 おトキさんが顔を出すと、女房がまた深く礼をして、
「寮の食堂にいい人を紹介してくれました。頭目をさせとります。栄養士と調理師まで雇ったんやが、ここの台所や寮には敵わん」
 塙の亭主は、
「お、それから、来月からうちも東奥日報をとることにしましたわ。神無月さんの特集記事がいつも出とるゆうことでしたからね。頭に入れとかんと、北村さんと話ができんようになる。じゃ、きょうはとりあえずご挨拶ということで」
 四人深々と辞儀をして玄関を出ていった。トモヨさんが数寄屋門まで見送りに出た。女たちが直人を連れにきた。主人が菅野を呼び、二人で一斗樽の底を持って軽々と台所へ抱えていった。
「二月末にみんなが集まったときに鏡割りするわ」
 ふたたびみんな食卓に落ち着いた。私は、ニラと鶏ササミのトウバンジャン炒めと、白菜と卵の中華スープでどんぶり飯を食った。直人を抱いて乳児食を与えているトモヨさんに話しかける。
「直人が人を見上げる目には力があるね。大した男になるかもしれない。女親だけの手で育てられた子は行儀がよすぎるとか、大人しくて子供らしくないとか、女々しいとか、あれこれ人に陰口を叩かれるものだけど、北村席は全員が親代わりみたいなものだから安心だ。気分が円満な人たちばかりなので、気性の荒い子になることもないだろうし、やっきになって矯正しなくちゃいけないほど奔放な子になることもないんじゃないかな。自由闊達な人間に成長すると思う。ただ、あんまりかわいがられて、独りで出歩くチャンスがなくなると、冒険じみたこともしない貧弱な子になる」
 主人が、
「だいじょうぶ、神無月さん。猫っかわいがりはしませんから。もともとそういうことのできん環境ですよ。少し大きくなって、うちの家業はトルコだって、あっけらかんと言う子になってほしいな」
 トモヨさんが私に、
「私のむかしの仕事のことも話すべきでしょうか」
「それはよしたほうがいい。何でも話すのと誠実に話すのとはちがう。何でも話す人間は自分の正直さを褒めてもらうことを後生大事に考える利己主義者だ。つまらないことまで話して、人の感情や自尊心を傷つけるのは誠実とは言わない」
 菅野が、
「そのとおり! 隠し立てのない正直な人間は往々にして人を傷つける。正直というのは自己満足の一種で、他人のことはあまり考えない。子供を傷つけることを言って、自分をホッとさせちゃいけないでしょ。旦那さんが家業は置屋だと言って胸を張ったり、神無月さんが自分は馬鹿だと言って胸を張ったりするのとはわけがちがいます」
 おトキさんが、
「炊事婦でお通しなさい。家業はよしとしても、親の素性なんてものはこの世のすべての子供が知る必要のないものですよ。いずれ親の傘では雨風がしのげなくなるということを教えるためにも、つまらないことは言わないようにしなくちゃ」
 私は、
「人間はこの世に生まれてきたことこそ貴いんだ。親の氏素性なんか、偶然いただいた貴い命を生きていくうえでまったく関係がない。親には自分を産んでくれたことだけを感謝するべきです。そういう気持ちでいる子供に、構えて打ち明け話をするなんて、貴い命をあげた自分を恥じてる証拠になる。ぼくの愛する女がそんな暗い気持ちを抱えていてもらっちゃ困る」
「ごめんなさい……」
「理想論ですませるつもりだから、理想論のつづきを言うね。ぼくたちの過去の行動や考えや、夢見たこと、失敗したこと、あきらめたこと、すべてが他人に曝される―そうなると、人の口には戸を立てられないから、へんな耳打ちをするやつが出てくるにちがいないんだ。そのときに直人が、それがどうした、俺の人生に何か不都合があるか、と言い返せるような人間であってほしい。疑問を持ち、調べることをやめず、夢を見つづけ、失敗を恐れない行動的な人間であってほしい。でも、できれば人の口と戦うようなくだらない喧嘩はさせたくないんだよ。人生のむだだ。ぼくは、十六歳の自分が自殺して、死に損なったことは隠したい。直人にはぜったい言わない。影響が計り知れないからね」
 トモヨさんは顔を両手で覆い、菅野が目を拭った。主人が、
「そうか、口の軽いやつがいると、直人にいろいろ厄介ごとが起こりそうだな。ワシらのプライドなんざ屁の突っ張りにもならん。どんないやなことに出会っても、直人には自力でがんばってもらわんと。神無月さんのような、明るく察しのいい人間に育つよう祈るだけや」
 私は笑いながら、
「とにかく、独りで歩き回るような子になってくれないと張り合いがありません。世間道徳に外れるようなことを無理にやれとは言わないけど、本屋を漁ったり、映画館にかよいつめたり、スポーツ系のクラブ活動をしたり、思春期には、煙草でも吸ってみる、酒でも飲んでみる、人に誘われずに自分で女を買いにいってみる。そのくらいのことはしてほしいな。ぼくは小学一年から四年まで、貸本屋にかよい、映画館にかよった。一軒の貸本屋を征服したし、裕次郎映画を一本余さず観た。映画は土曜日ごとにいったんだけど、終映まで観て、家に帰ると十一時を回ってました。野球に夢中になったきっかけも、映画の始まる前に流れたスポーツニュースだったんです。ゴーデンルーキー長嶋が、国鉄の金田に四打席四三振を喰らったあの有名なニュース。よほどの事件だったらしく、まるで三振したことが手柄であるかのようにアナウンサーが興奮して叫びまくってた。マエハタ、ガンバレみたいに。もうすぐ九歳になるころだったなあ」
 女将が、
「それで野球選手になりたい思ったんやね」
「はい、あこがれというよりは決意でした。その瞬間、母や教師たちがそれまで口酸っぱく言っていた、いい生徒になりなさい、いい勤め人になりなさい、という励ましの声がとつぜん聞こえなくなった。ぼくの中に蓄えられてた別のエネルギーがぼくを動かしはじめたんです。自分だけのモーターが回転しだした。独りで歩き回った冒険の結果です。客観的で臆病な人間は、身の安全を図ることでモーターがくたびれてしまって、勢いよく回転しません。直人には、主観的な人間になってどんどん冒険してほしい。冒険に世間の中傷はじゃまだ」
 菅野が、
「世間の常識を受け入れるのも客観ですもんね。客観をやめたとたんに、すべて冒険になるってわけだ」
 文江さんが離れた席から声をかける。
「サインの崩し文字、うまいの思いつかんのよ」
「ああ、金釘でとおすことにした。楷書のサインは日本でぼく一人だから、価値があるらしくて」
 主人が、
「そのほうがいいですよ。みんな有名人を気取って、時間の節約だなどと言っとるが、結局格好つけたいだけのことですよ。一人二人にサインするときも崩しとるんですから」
「でも文江さん、一応考えといてね。二人、三人ならいいけど、いちどきに五十人も百人も押しかけられると、処理できなくなっちゃうから」
「はい」


         五

 文江さんは聞き忘れていたというふうに、
「明石へは何日に?」
「三十一日。午後一時にグリーンホテル明石というところにチェックインするよう村迫さんから手紙がきた。ここを何時に出発すればいいのかなあ」
 菅野が、
「小牧からの飛行機は、青森、花巻、山形、新潟、出雲、高知、福岡、熊本の八空港へしか飛びません。電車でいくしかないですね。新幹線で新大阪まで一時間十分、加古川行の山陽本線に乗り換えて一時間強。うまく急行があればもっと早く着くでしょう。ここを十時に乗れば余裕じゃないですかね。広島へいくよりずっと便利ですよ」
 私は、
「そのホテルに三十日までに、グローブ、スパイク一足、運動靴二足、下駄、靴下五足……」
 トモヨさんがメモを取る。主人が、
「そういえば、スパイク五足、東京の富沢ゆうかたから送られてきとりました」
「カズちゃんの店のマスターです。ぼくの熱烈な支持者なんです。二月の末に五足カズちゃんに持たせると言ってたんですが、ひと月早く送ってきましたね。その中に一足だけ二十七・五センチのやつが入ってるので、それも明石に送る荷物に入れといてください。アメリカ製の高級なスパイクですよ。それから、ブレザー一着、下着十組、以上、郵送をお願いします。靴は履いていくからよしと、カバンにノートと鉛筆を入れていくからよしと」
 菅野が、
「バットは?」
「久保田さんからホテルにも二、三本届いているはずです。キャンプ地は、明石公園第一野球場というところです。二月二十三日の昼にチェックアウトしますから、送ってくれたものをまた送り返さなくちゃいけないな」
 女将が、
「ホテルの人に段ボール箱をいくつか用意してもらって、忘れ物がないように詰めるんですよ。洗い残した下着はビニール袋に入れてね」
「捨ててきます」
「もったいないこと言わんの。質のいいパンツやシャツは、半年は着れるんよ。雑巾にするのももったいないくらいやわ」
「はい」
 雨が降り止まない。おトキさんが台所に立つ。トモヨさんがコーヒーを持ってきたのを潮に、女将は直人を抱いて離れへいった。菅野が夜出の女たちを送りに出る。
「じゃ、神無月さん、あした八時にジャージ着て門にいます。きょうは送迎でいろいろ忙しいので、これで失礼します」
「ランニングのあと、いっしょにシャワー浴びましょう。そのあと大瀬子橋へお願いします」
「了解」
 文江さんが腰を上げた。私は、
「またそのうちね」
「いつでも待っとる。無理せんといて。じゃ、お休みなさい」
 一年前までの〈生活〉が始まった。ちがうのは、私はすでにプロ野球の選手で、テレビや新聞でしか知らなかったプロ野球選手たちとキャッチボールすることができて、あと数日経てば、生まれて初めてプロ野球のキャンプ地に出かける予定になっているということだけだ。だけと言うのでは足りない。野球が一日の時間のすべてになる。本を読み、文字を書き、思索し、人と語らい、女のからだに触れる時間はほとんどなくなる。おトキさんがまだチビチビやっている主人に、
「旦那さん、お風呂どうぞ。離れのほうのを入れておきました」
「お。ひとっ風呂浴びて寝るか。直人は?」
 トモヨさんが、
「私の離れに寝かしてあります。朝まで起きないでしょう。郷くん、離れのお風呂沸かしてありますから、いっしょに入りましょう」
「うん」
 主人が、
「母屋の風呂は重油焚きの十人風呂やで、寒いやろ」
「あしたの朝、ランニングのあと菅野さんと使わせてもらいます。お父さんたちの離れのお風呂は広いんですか」
「ちんまりしとる。二人風呂。面倒なときは母屋のほうに入ってまう。おトクはかならず一人で立てて入っとる。トモヨの離れもワシら夫婦の離れもガス風呂だがね」
 女将が台所のトモヨさんに声をかけにいく。耳打ちしている。コーヒーを飲み終え、トモヨさんと離れへいく。
「お母さんに何を言われたの?」
「奥に入れすぎないようにって。流産を心配してくれてるの。浅くても深くても、だいじょうぶ。もう経験ずみ。……下着穿いてません」
 渡り廊下でキスをし合う。むしゃぶるように求めてくる。スカートの下に手を入れ、濡れ具合と陰核のふくらみを確かめる。はち切れそうになっている。
「あああ、愛してます、腰が抜ける……あ、あ、イイ……イク!」
 ほんとうに腰を抜かして私に抱えられる。尻を抱えて思う存分痙攣させる。唇を貪り合う。風呂までもちそうもないので、たがいに私はズボンと下着を脱ぎ、渡り廊下の手すりに片脚を乗せさせて挿入する。真綿のような感触で締めつけながら気をやりつづけるので、私にもすぐに迫る。突き立て、あっという間に発射した。痙攣する膣がヌルヌルと上下する。私は律動を繰り返し、トモヨさんは激しいアクメを繰り返す。女の生理的な反応に対するかすかな嫌悪感もない。カズちゃんと睦子とトモヨさん、そして素子とヒデさん。身も心も許容できる。
 しばらく窓から流れこむ雨の冷気に打たれながら、陰茎を心地よく揉みしだかれている。抜き取り、横抱えにして離れの風呂場へ運んでいく。自分の怪力が頼もしい。脱衣場に横たえて、上着を剥ぎ取る。下からトモヨさんも私に同じようにする。
「乳首がもとに戻ってる」
「乳首に生姜汁を塗ってなんとか乳離れさせたんです。そしたら自然にもとに戻りました。妊娠してるからお乳は出っぱなしですけど」
 豪華な杉風呂に入る。
「四帖の風呂か。浴槽は二帖。広いなあ。四、五人は浸かれる」
「お義父さんは、何でも大きめが好きなんです。お部屋も大きくてきれいですよ。八畳の書斎には、紫檀の机と腕付きの革椅子を置きました。書棚は二脚、抽斗にはノートと原稿用紙を入れてあります。いつでも書きものや考えごとをしてください。本は私のものが二百冊くらい並べてあります」
「ありがとう。いずれ子供部屋も同じように整えないと、直人が不満を言うよ」
「はい、そうするつもりです」
 寝室でもう一度丁寧に交わり、二人とも芯から疲れて、いつとも知れず眠りこんだ。
         †
 一月二十六日日曜日。曇。東京よりはよほど暖かく感じる。朝六時半。夜が遠のき、窓に薄い陽が射しこむ。トモヨさんの姿はない。直人の寝床も空だ。歯磨き、洗面、ふつうの排便。シャワー。頭髪を洗う。新しい下着とジャージを着て居間にいく。直人は女将の膝に乗っていた。
「おちょうちゃん、おうよう」
「ああ、おはよう」
 厨房の音が大きい。コーヒーを手に新聞を読んでいた主人が、おはようございますと声をかける。
「おはようございます。何か載ってますか」
「スペンサーが減俸拒否。退団しそうです」
 西松の飯場のテレビで何度か見た巨漢。危険なスライディング、体当たり。阪急にきて五年。スラッガーだが、まだホームラン王を獲っていない。野村とホームラン数を争った四年前、七打席連続敬遠で歩かされ、業を煮やして八打席目にバットを逆さまに構えて打席に立ったことで有名だ。九打席目に敬遠ボールを打って凡打、その次の二打席も敬遠された。外人にタイトルを獲らせないという風潮が徹底していたころだ。
 なつかしい朝食。大勢で食う。ヒジキと厚揚げのトロ煮がうれしい。味噌汁は豚汁。
 八時。六・一度。トレーニング日和。灰色のジャージを着た。紺のジャージに上下を固めた菅野がやってきた。
「いきますよォ!」
「おーす!」
 元気に応える。竹橋町の宅前を走り出て、牧野小学校沿いに椿神社の通りに出る。左折して、駅西銀座の看板。一直線の道路を見通す。
「昭和通りです」
 家並の低いありきたりの商店街だ。車の量が少ないので走りやすそうだ。
「先に立って、できるだけぼくを引き離すように走ってください」
 菅野の背中を見ながら彼のスピードに合わせて走る。乳母車を売っている自転車屋がある。瀬戸物屋、傘屋、判子屋、呉服屋、めずらしい店ばかりだ。ときおり雑じる民家が浅野の炭屋のような窓柵のある造りなので、この町の来歴が知れる。少しスピードを上げる。すぐに菅野の背中が迫ってくる。
「中村区は下町だったんですね」
「いまも名古屋屈指の下町地域です。もともと城下町を外れた笹島と呼ばれる湿地帯でした。岩塚からこのあたりまでは宿場町として栄えたんです。そこへ遊郭街が入りこみ、戦後はいわゆるドヤ街でした。古い建物はほとんど旅館ふうの造りです」
 銀座出口の看板をくぐって大きな通りに出る。家並は相変わらず低いままだ。信号を渡る。花屋の通りかと見まがうくらいの狭い路に入る。きのうまで東京のビル街にいたことが信じられない。一般住宅の中に、布団店、旅館、お好み焼屋、表具店、古本屋などが入り雑じる。目先を愉しませるジョギングができそうだ。並びかけた私から菅野が後退していき、遠く遅れはじめる。
「だいじょうぶー?」
「だいじょうぶでーす!」
 郵便局、生花店、時計店、アパート、かならず雑じる廃屋、酒屋、喫茶店、洋食レストラン、レコード屋、駐車場代わりの空地、煙草屋、クリーニング店、しもうた屋となった商店。正体不明の××商会というのも多い。
 走り出して十五分、振り返ると菅野の足どりが怪しくなっている。長嶋のクロスカントリーの運動量を思うが、不安はない。令嬢プール駐車場? パチンコ屋かトルコ風呂か。令嬢という名からしてトルコ風呂だろう。このあたりが大門の遊郭区域であることに気づく。節子母子が住んでいた葵荘はどのへんだったか? ほとんどの建物が窓に格子柵を立てた二階家で、艶(つや)めいた雰囲気がある。艶めきというのは、谷崎潤一郎の文学的な女体が持つ気品ではない。妓女の肉体が発する手入れの行き届いたにおいそのもののことだ。たぶん私の好むにおいだ。菅野に声をかける。
「休みましょうか」
「まだまだ」
「いい休憩の場所がないんですよ」
「そのままいってください」
 令嬢プールが見つかった。トルコ風呂だった。プールというのは浴場から思いついた和製英語のようだ。Bath か bathhouse と言うべきところだろう。しかし、一見それとわかる建物が、民家や商店のあいだに自然に入り混じっているのがおもしろい。逞しい感じもする。スピードを落として菅野に並びかけた。
「北村席のトルコはこのへんですか」
「もう一本南筋です。いつか神無月さんが、山口さんや東奥日報さんと歩いた通りです。見ていきますか」
「はい」
 左折して、夏に歩いた通りへ曲がりこむ。
「あのとき菅野さんはいっしょでなかったですよね」
「はい。見慣れた景色なもので、興味がなくて」
 羽衣があった。外装、ネオン、女の写真看板まで、人目を引かずにはおかない派手さがあって、しかも清潔な営業方針を感じさせる涼しげな店構えだった。道路を挟んだ目の前に、瓦を葺いた二階建ての、二十所帯も住めそうな大アパートが二軒あった。寮だ。駐車空間の奥に食堂らしきモルタルの堅牢な建物が立っていた。
「ここが寮ですね」
「はい、二軒ともそうです。奥の建物が食堂で、その裏手がシャトー鯱です。もう一本南筋になります。塙さんの『銀馬車』はこの通りのずっと先です」
 また走り出したとたん、車を三十台も置けそうな大駐車場があった。
「北村と塙共用の駐車場です」
 ほとんど民家とアパートが交互に並ぶ町筋になった。銭湯があるのが微笑ましい。ほとんど緑が見当たらないことに気づく。オアシスはトルコ風呂だけ。走りつづける。
「あ、銀馬車」
 思ったとおり店の造りもネオンの色も羽衣より品がなかった。女の写真も修整しすぎのせいで、看板に偽りありの雰囲気がした。喫茶『旅の宿』。秀吉時代の旅籠をイメージした瓦屋根の旅館ふう商家。入口は引き戸の四枚戸だ。
「休みましょう。ちょうど開店したところみたいだ」
「はい! 助かったァ。へえ、こういう旅館みたいな喫茶店もあるんですね」
 首に巻いたタオルでしきりに顔と頭の汗を拭う。店内はやたらに鉢植えを置いた居心地の悪い板の間だ。老夫婦がでてきた。コーヒーを注文する。厨房で何やらカチャカチャやっている。インスタントコーヒーをいれているのだとわかった。菅野と顔を見合わせる。出てきたぬるいコーヒーを二人で一気に飲む。菅野が苦笑いしながら百六十円を置いて出た。根性のゆるい商売だ。小金のある夫婦で老後を心配して始めたのだろうが、遠からず潰れるだろう。すぐに走りだす。また銭湯。《ゆ》という暖簾。葵荘を捜しながら走ったが、見つからなかった。


         六

 とつぜん日赤病院にぶち当たった。小中学校の敷地がスッポリ入りそうな広さだ。生垣沿いに左折する。敷地の周囲の広い道沿いに、二階建てのアパートや、四、五階建てのマンションの群れ。このうちのどれかに節子と吉永先生が入るのだろう。西高の通学路の鳥居通に出る。勝手知ったる環状線だ。法子ともこの道沿いの蕎麦屋で再会した。左折。緑が目立ちはじめる。
「大鳥居を目指しましょう」
「ほーい。神無月さん、さすがですね。息が少しも乱れてませんよ」
「いつもよりゆっくり走ってますからね」
「ご迷惑かけてます」
「いや、キャンプ前はこの程度でいいと思います。距離さえ稼げれば、じゅうぶんスタミナを作れます」
 鳥居下の交差点に出た。右へいけば飛島寮のある岩塚、左は笹島。肌色と緑のツートンカラーの市電が曇り空の下を走っている。レールに沿って灰色の街を走り出す。東海通りに似ている。康男の顔を浮かべながら走る。曇り空なのに高い。菅野が私の後ろを、力を振り絞るように走っている。竹橋町まできたので、左折する。
「あとは歩きましょう。四、五十分は走りましたから」
「ほーい、そろそろ限界でしたわ」
 菅野は安心してよたよた歩きだす。北村席の屋根が見えてきた。門の前に大きな牧野公園がある。老人たちが日向ぼっこをしている。ゆっくり外周を一巡りする。ブランコと滑り台がある。

  
ここは公園です。ゴミを捨てないでください。

 というブリキ板の掲示がある。二人公園に入り、ベンチに腰を下ろす。首の汗をタオルで拭う。菅野がとつぜん訊いた。
「いまの神無月さんを見てると、とても信じられませんが、一度野球をあきらめたことがあったんですよね」
「三度です。一度目はスカウトが去ったとき、二度目は青森に送られたときです。一度目は怒りがもとになってヤケになったせいでしたが、二度目は催眠術にかかっているような状態に落ちました。ダメ押しを喰らった感じ。……無力感がひどくて、何をしても人生は変わらないと思ったんです。どれほどカズちゃんが催眠を解こうと励ましても、希望に絶望の幕がかかっているような感じでね。そうなると、ただその日を懸命に生き抜くだけになります。できるだけ明るく、楽しく、目先の欲望を満たしながらね。青高の野球部のグランドに足を踏み入れたとき、パチン、と催眠のスイッチが切れました。生き抜くだけじゃダメだ、やり遂げなくちゃという気持ちになったんです。野球が戻ってきて、忘れていた喝采も戻ってきて、視界が晴れ上がり、からだに力がみなぎりました。でも、その高揚感に止めを刺されて……」
「名古屋への連れ戻しですね」
「正確には連れ戻しの予告です。実際連れ戻しが完了したときには、新しい高揚が始まってました」
「予告ですか……」
「はい。またかと思うことが深々とした疲労を連れてきて、自分は高揚するに値しない人間だとくだらなく考えこまされ……。それが三度目です。野球どころか、命をあきらめました。そうして危うく生き延びて……人の真心を知った。愛される喜びを心の底から感じたんです。やり遂げなくていい、人の愛に感謝しながらシッカリ生き抜くだけでじゅうぶんだとわかった。そうしたら、野球ばかりでなく、人生そのものを取り戻せました。もう何も捨てません。野球もその一つです」
 菅野は私の手をとった。頬がふるえ、涙がこぼれ落ちそうになっている。
「泣きたいですが泣きませんよ。そんなことを神無月さんは望んでない。目撃者とか共感者を望んでいない。必要なのは同伴者だけです。私は同伴します。いっしょに生き抜いていきたいのでね。山口さんも言ってました―刎頚の交わり。おたがい、自分で自分の首を切らないようにしましょう。相手に切ってもらいましょう」
「菅野さん、サンキュー」
「ユア・ウェルカム!」
 二人、ベンチから立ち上がり、すぐ目の前の北村席に帰り着いた。菅野はクラウンのトランクから衣類の詰まった紙袋を取り出した。門を入り、庭石を伝って玄関まで歩く。
「ただいまア!」
「お帰りなさーい!」
 家じゅうで声が上がる。食事中だった女たちも十六畳から、お帰りなさい、と馴れたような声をかけた。直人もヨチヨチ式台に出てきた。
「おかえりなちゃい」
 トモヨさんが、
「はい、シャワー、シャワー」
 と促す。
「どやった、菅ちゃん」
 主人が笑って声をかける。
「ゆっくり走ってもらいましたが、死にもの狂いでした。神無月さんはフットワークがまったく乱れないんですよ。どこがスタミナ不足なんですかね」
「ほんとにぼくのスタミナは平均値です」
「プロの体力は素人じゃ考えつかないんだよ。あしたも走るの?」
「なんとかついていきます」
「あしたは保育園を中心に一周して帰りましょう。きょうの半分の距離だから、もう少しスピードを上げて」
「はい!」
 二人でシャワーを浴び、さっぱりする。主人が新聞を読んでいるテーブルで食事にする。おトキさんが、
「カレーうどんですよ。それと卵焼き。へへ」
 へんな笑い方をする。主人が、
「新聞も賑やかになってきましたよ」
 私と菅野に紙面を示す。

  
神無月・浜野二人のみ開幕一軍
 
合練納会ミーティングで水原監督・コーチ陣言明
 プレキャンプ新旧合同練習の最終日一月二十五日、練習終了後のミーティングで、水原茂新監督およびコーチ陣が、ドラフト一位浜野百三(ももぞう)投手(22=明治大)の開幕ローテーション入りと、ドラフト外神無月郷外野手(19=東京大)の開幕四番スタメン起用を発表した。他のドラフト指名選手たちは意地の見せ所となった。
 浜野はこの朗報に一瞬こぼれるような笑顔を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「巨人の島野選手を発奮材料にローテ入りを目標にやってきました。フロントの期待を裏切らないようにしたいと思います」
 と、大任を担った意気を感じているように言い切った。浜野は力投派の力強さを持つ一方、軟投型の冷静さも兼ね備えており、合練の紅白戦のたびに課題を見つけては、修正を繰り返してきた。最速百四十二キロのストレートと、打者の目先を効果的に狂わす切れのいいカーブ、スライダーに加え、
「もう一つするどいシュートが必要です」
 と、さらなる進化への展望を語る。太田一軍投手コーチによると、開幕カードの広島戦は避け、次の巨人戦で投げる可能性が高いようだ。
「ローテに入るためにがんばってきたんですから、これからは一年間ローテを守れるような信頼されるピッチングをつづけていきたいです」
 と緊張を隠さず宣言した。
 一方神宮の怪獣神無月郷は、プレキャンプにはまったく合流せずに、東京あるいは名古屋の自宅近辺で自主トレをつづけてきた模様。フロントの発表では、三十一日の午後に明石入りをし、その折にチームメイト全員に初顔合わせをするとのことだ。その他のことに関しては、球団側は口を閉ざしている。水原監督もひとこと述べたきりだった。
「彼は天馬ですから、どこかを飛んでいますよ。地上に降りてくるまでじっくり待つしかありません」
 宇野ヘッドコーチは語る。
「天馬が気分よく降りてこられるよう、私どもはまさに謹粛の思いで〈精神的〉環境を整えているといったところです。彼に対して神経を尖らせているという意味ではありません。まったくその逆で、天馬を緊張させないようノンビリ構えているんです。球団の基本方針は彼を〈放っておく〉というものなので、どうかメディアのかたがたもその点を寛容な心で酌(く)んでいただきたい。神無月はキャンプに合流してからもマイペースで動き回るでしょう。数年来の一連の言動から、たしかに奇人とは言えますが、けっしてわがままではなく、きわめて謙虚な人格を有する人物なので、全体の和を乱すことはないでしょう。独立独行で振舞う姿が一見破天荒な様相を呈することがあるかもしれません。たとえそういう場合にも驚かないでいただきたい」
 何も考えずに虚心に、ありのままの神無月を迎えてほしいということのようだ。
 いよいよ二月一日から明石キャンプが始まる。天馬・怪物・奇人・人格者。神無月郷をめぐるさまざまな風聞に煽られ、マスコミ、ファンの騒動は必至だ。


「こういう誇大宣伝に慣れなくちゃいけませんね。でも巨人戦で浜野さんを? ま、彼なら打たれても自信をなくさないか」
 菅野が、
「神無月さんをあごで使ったと、新聞で叩かれてましたね」
「その場で仲直りしました。巨人に恨みを抱いているので、案外、巨人打線をキリキリ舞いさせるかもしれませんよ」
「はい、できましたよ」
 四、五人でお盆を捧げ持ってくる。
「いただきます!」
 カレーうどんはよく煮こんだ牛スジの入ったうまいものだった。卵焼きはタコ焼きふうの変わった形をしていた。球形のふわふわの卵焼きの中にタコが入っている。
「これ、卵焼きですか?」
 おトキさんはトモヨさんと顔を見合わせ、
「明石名物、たこ焼きの鉄板で作った明石焼きです」
「明石焼き?」
「郷くん、明石にいくでしょう。明石はタコも名物なのよ。明石じゃほとんどの食べ物屋さんでこれを出すそうだから」
「それでさっきおトキさん、おかしな笑い方をしたのか。おかずにするのはもったいないな」
 菅野が、
「こりゃうまいや」
 母親が帳場からやってきて、
「あたしにもちょうだい」
「どれ、ワシにも」
 店の女たちもざわつく。結局、全員に作ることになった。おトキさんが、
「さっき、山口さんから電話が入りました。何も心配するな、早くプロの水に馴染めとだけ伝えてくれ、ということでした」
「それから、おトキさんを愛してるって?」
「はい」
 真っ赤になって台所へ戻った。トモヨが、
「そのあとすぐに、法子さんも電話をかけてよこしました。季節ごとに遊びにくると言ってました」
 うまい明石焼きを六つ食った。直人もタコを取って二つ食った。
         †
 直人と庭の芝に出て、しばらくゴロゴロ遊びをする。ただ抱き合って芝の上を転がるだけなのだが、直人は大喜びだ。腹這いの馬になって乗せてやる。匍匐前進。これも狂喜する。それが終わると、風船バトミントン。菅野も混ぜ、手で打ち合って遊ぶ。それでアイデアが尽きた。肩車をして庭を一周し、玄関へ戻った。
 一家揃っておやつ。おトキさんがフライドポテトを作る。食卓に一家が集まる。子供との生活。言葉が失われていく。心と感情だけになる。すばらしい。主人が、
「神無月さんは子供が好きなんやのう」
「好き以前に、感動します。存在がホームランですから」
 ステージ部屋に床をとり、一時間ほど直人といっしょに仮眠。直人は私の胸に抱きついて離れない。トモヨさんがしばらく直人の背中に寄り添う。
         †
 四時。直人が走り回っている。私は床を出て、シャワーを浴びる。
「じゃ、加藤雅江のところにいってきます」
 トモヨさんが、いってらっしゃい、と明るく言い、
「十一時くらいまで起きてますから、ゆっくりしてきてだいじょうぶですよ」
 柔らかく笑った。賄いたちもまちまちに、いってらっしゃい、と声を上げた。
 クラウンで大瀬子橋に向かう。菅野が、
「落ち着く間がないですね。神無月さんにとって人に思われるということは、その分、人を思い返さなくちゃいけないということみたいですからね。私なら身がもたないや」
「このごろ、もう、こうやって応えるのが本能じゃないかなと思ってます。強迫観念はないし、性欲でもなさそうだし、サガですね。そのサガもそろそろ長期休養だ」
「そうおっしゃると、私としては、ちょっとホッとします」
 錦橋から堀川沿いに一直線に南下して、三十分ほどで宮中前に出る。そこから五分で大瀬子橋に着いた。少し茶ばんだ大楠がこんもりと見える。
「神無月さんの始発駅へ戻る橋ですね。いつもここにくる」
「執念のような思いだね。何に惹きつけられるんだろう」
「加藤雅江さんじゃないですね。飯場でも千年小学校でも東海橋でもない。わからないでもないんですよ。この道を歩きながら、神無月さんはひっそりとした人間になっていったんでしょう。だれにも左右されない、きびしくて、やさしくて、ほんとうに静かな人間にね。それを思うと、ここにくるたびに……」
 菅野は深く息を吸い言葉を収めて、橋を渡ったたもとに駐車した。




(次へ)