十三

 直人がよちよち起きてきて、トモヨさんの手に牽かれて歯を磨きにいく。
「歯を磨けるんですか?」
 女将に訊くと、
「子供用の歯ブラシで磨いてやるんよ。いやがるんでたいへんやわ」
 うまい朝めし。シイタケの炊きこみごはん、煮豚、肉ジャガ、目玉焼きとウィンナーソーセージ、カボチャ煮、たらの芽のスパゲティ、レタスとトマトのサラダ。二膳しっかり食う。
 歯を磨き終わった直人が女たちの膝を渡り歩く。カボチャを野放図に手で握り、口にもっていく。主人が苦笑いしながらやってきて、膝に抱いて食べさせる。
「こいつ、ぼくの子ですよね」
「ほうや。神無月さん、何かおもしろいことを言って、笑わそうとしてませんか?」
「いや、信じられないなと思って。かわいすぎる」
 女将が、
「ソックリやがね。顔の形はトモヨやけど、中身はおんなじや」
 菅野がジャージ姿で入ってきた。賄いの一人に、
「コーヒーちょうだい。神無月さん、きょうはアッと言う間に終わってしまいますよ」
「走りをキツくします。短くてもバテますよ。じゃ、いきましょう。あ、その前に直人を保育園に送らなくちゃ」
 トモヨさんが、
「だいじょうぶよ、郷くん、今週は少し遅れていくって連絡してありますから。いってらっしゃい」
「いってらっしゃい!」
「いってらっちゃい」
 みんなの声を背に受けて玄関を出る。
 門の前からヨーイドンで走り出す。広い道、古い家並。小学生が分団登校している。ランドセル。黒、赤、ピンク。たちまち市電通りに出る。笈瀬通の停留所を左に見て信号のない太閤通を渡る。いっそう古い家並に入る。スピードを上げる。空が真っ青だ。三百メートルばかり走って、目についた小さな公園に入る。足踏みをしながら百メートルほど後ろの菅野を待つ。
「すみませーん!」
 公園口で彼が呼吸を整えるまでのあいだ、腕立て百回。公園に入ってこようとする彼を手振りで先へいかせて、ゆっくり追いかける。三百メートルほどで追いつく。道を突き当たり、広いT字路を右折する。迷った感じがする。
「道、合ってますかあ!」
「合ってまーす! あ、そこ左でーす」
 平池保育園に到着。そのまま走りつづけて線路端へ出る。ここまで二キロくらい。足踏みをして菅野を待つ。
「往復三キロじゃなかったですね!」
「はい、ナメてました!」
 線路端の景色はごみごみしていて独特だ。どんな都会も同じ色調になる。何線かわからないが、通過する電車を眺めながら走る。やがて線路が隠れ、壁のようなひとつづきのビルに仕切られた道になる。高円寺や阿佐ヶ谷の景色と同じだ。大通りに突き当たるまで走る。太閤通に戻ってきた。笹島のガードをくぐり、駅前を目指す。伏見通りを信号の右手に見る交差点に出る。市電が名古屋駅へ曲がりこむ。
「歩きましょう! なつかしい路だ」
 ビル街を菅野と並んでゆっくり歩く。
「西高の通学路だったんですよ。自転車でね。ああ、名鉄百貨店! 何度見てもなつかしい。この百貨店に枇杷島青果市場から野菜を届けたっけなあ」
「八坂荘のころですね。私も八坂荘にいろいろ運んだっけ。人間もね」
「ハハハハ、菅野さんには大活躍してもらいました。あれからもう一年が経つんですね」
「たった一年ですよ。なんだか十年ぐらいに感じるほど充実してました」
 コンコースを通って椿町に出る。
「ラストスパート!」
 区画整理された路を走り出す。牧野小学校を曲がりこんで帰り着いた。
「こうして走っていろいろな家を見ると、北村席は大邸宅だな」
「たしかにバカでかい家ですね。三十人所帯ですから」
「シャワー浴びますか」
「浴びましょう。そのあとで、女将さんと帳場で勉強です」
 トモヨさんたちに迎えられて玄関を上がりながら、
「どんな勉強ですか」
「主に受付業務です。客に料金とかサービス内容とかの説明をするときの応対の仕方、女の子やスタッフの出勤管理、店内掃除の点検、売上金の管理、それから、広告の打ち合わせ、従業員の面接、接客の教育などですね」
「目の回る忙しさだな。面接なんか毎日あるんじゃないんですか」
「はい。でも適当にサボります。私も旦那さんも接客教育なんか大の苦手なので、ほとんど松葉さんのスタッフにお願いしてます」
「教育のときに、映画やテレビでよくある〈本番〉もしてしまうんですか」
「しません。松葉さんは清潔です。あの手この手を教えるだけです」
 菅野は主人夫婦と帳場部屋に引っこんだ。トモヨさんやおトキさんたちと歓談する。直人は女たちにいじられて喜んでいる。
「あれ、保育所いかなかったの?」
「きょうは休ませました。おとうちゃんといっしょにいたいって言うから」
 たぶん直人はそんなことは言っていないと思った。直人もトモヨさんも、私がいるときの家内の雰囲気が楽しいのだ。
 私はにやにやしながらバットを持って庭に出た。顔の高さのボールを打つ素振りを五十本。右手をしっかり握り、バットを放り出すように左手の力を抜かなければ、両手首の筋をやられる。ショートバウンドを打つ素振りを百本。ゴロのヒットをイメージしながらゴルフスウィングのように。これは左手の押し出しが重要だ。この素振りをしているやつはまだプロ野球にいないはずだ。背筋、腹筋、腕立て五十回ずつ。グローブにグリースを塗り、スパイクを磨く。薄い靴下を穿いて、二十七・五センチと二十八センチと二十八・五センチの試し履きをする。まだ二十七・五センチの履き心地がいい。
 シャワーを使う。着物に着替え、縁側であぐらをかく。帳場から主人もやってきて並びかける。
「去年の新聞の選手名鑑です」
 直人が走ってきて主人の膝に乗る。賄いの一人がコーヒーを用意する。中日ドラゴンズを除いて記憶にある名前を拾っていく。直人もいっしょに覗きこむ。
 読売ジャイアンツ、監督川上哲治。一軍コーチ藤田元司ほか。藤田が現役を退いたとは知らなかった。投手、天皇金田正一、中村稔、城之内邦雄、八時半の男宮田征典、古参はぜんぶ知っている。高橋一三、知らない。昭和四十年入団とある。青高に入った年だ。覚えたばかりの堀内恒夫、ドラフト元年の四十一年入団。捕手、森昌彦。小学生のとき、中日球場で試合前のランニングをしているずんぐりした姿を見た。背番号27の美男子ぶりを忘れない。内野手、長嶋茂雄、王貞治、小太り黒江透修、枯れ枝土井正三。外野手、引っ張り屋の高田繁、赤手袋がみっともない柴田勲、森永勝也、広島にいたんじゃなかったか? 国松彰、福原さんの家のテレビで観たとき、いちばん印象の強かった選手だ。眼鏡の背番号36、彼の軽いスイングが好きだった。末次民夫、足もとのファールが多くて不器用にしか見えなかった。背番号19の坂崎一彦はどうなったのだろう。
「坂崎という選手は、いまどうしてます?」
「昭和四十年に東映に移籍して、おととし引退しました。高校時代は坂崎大明神と言われるくらいの大スラッガーでしたけどね」
「スイングはきれいでないけど、長打のイメージが大きかった」
「天覧試合でもホームランを打ってますよ」
「そうでしたか」
 阪神タイガース、監督後藤次男。知らない。コーチはオミット。投手、ザトペック村山実、西松建設のテレビで観た。あの投球フォームは好きだ。三振奪取王江夏豊、名前と四百一個の奪三振記録しか知らない。長嶋の三冠王をデッドボールで奪ったバッキー、内角高目のボールが右手の指に衝突した瞬間を鮮やかに憶えている。懸河のドロップ権藤正利、出っ歯で骨皮筋衛門(ほねかわすじえもん)のサウスポー。内野手、眼鏡の鈍くさそうな肥大漢遠井吾郎、見覚えあり。藤田平、知らない。四十一年入団、背番号6、写真は仏像顔。外野手、カークランド。知らない。去年入団。全試合出場して、三十七本塁打。写真は爪楊枝銜えた黒人。左バッター。
 広島カープ、監督根本睦夫。知らない。去年監督就任。ギョロリとした目。投手、外木場義郎、知らない。四十年入団。その年にノーヒットノーランで初勝利を挙げている。竜憲一、知っている。リリーフ専門のピッチャーだ。覚えたばかりの安仁屋宗八、聞き覚えあり。しゃくれ顔。内野手、衣笠祥雄、知らない。四十年入団。写真はいかつい黒人顔。古葉竹識、知っている。小さくまとまった守備の人。興津立雄、知っている。大男の強打者。三村敏之、知らない。シュアなバッターと書いてある。外野手、言わずと知れたシュート打ちの名人山内一弘。山本一義、うーん、かすかな記憶。背番号7、迫力のないスイングとしか憶えていない。
 大洋ホエールズ、監督別当薫。眼鏡顔と名前は有名だが、現役時代のプレーを見たことはない。桑田との不仲の印象が強すぎて好感を持てない。投手島田源太郎、森中千香良、知っている。二人ともカツギ投げ。覚えたばかりの平松政次、知らない。大洋には秋山登というピッチャーもいたのでなかったか。キャッチャーには土井淳がいたはずだ。
「大洋の秋山と土井は?」
「明治大学の同期ですね。秋山はおととし、土井は去年引退して、いまは二人とも一軍のコーチです」
 内野手、不器用なコネコネバッター松原誠、知っている。小柄な近藤昭仁、知っている。北なんとか典子という女優の亭主だったはずだ。外野手、ブラブラ打法の近藤和彦、もちろん知っている。冴えないポパイ長田幸雄、知っている。江尻亮、知らない。左バッター。四十年入団。プロ野球に関する私の記憶は三十九年の春で中断している。
 サンケイアトムズ、監督別所毅彦。たしか巨人にいた。ドスドスした、ぶっといからだのピッチャーだった。晩年、重苦しいフォームで重そうなボールを投げていたのを福原さんちのテレビで観たことがある。投手、巽一、左だったとしか憶えていない。渋谷誠司、知らない。いつか葛西さんのご主人が言っていた青森県出身のプロ野球選手だな。浅野啓司、投球フォームの美しい眼鏡のピッチャーだったという記憶がある。河村保彦、主人に球歴を教えられて、中日でバタバタしたピッチングフォームで投げていたことを思い出した。内野手、武上四郎、知らない。四十二年入団。城戸則文、なぜか知っている。おやじ面のヒョロリとした男だったような気がする。外野手、高山忠克、知っている。いまの長池のような叩きつけるスイングだった。広島の興津と同様、アベレージの低いスラッガーではなかったか。
 名前とイメージを重ねていって、プロ球界でやっていけそうな気がした。パリーグのほうは、記憶のかぎりでは、選手層が厚そうで恐ろしい感じがした。思い出せる名前を選手名鑑から拾っていくと、予想以上にゴロゴロ出てきた。幼いころから自分がパリーグのほうにより強い関心のあったことがわかる。
 西鉄、監督中西太、ピッチャーが投球した瞬間、タコのようにくにゃくにゃ動いていたからだがピタリと静止して、インパクトの一点に向かって高速のバットが振り出される。スライダーで有名な稲尾和久、かつてのテレビの画面では威圧感はなかった。
 南海、天性のパンチショットの野村克也。みごとという印象がいまなお消えない。努力家というのはまちがいだろう。浮き上がる魔球杉浦忠、皆川睦男、これまた威圧感がなかった。俊足広瀬叔功、あの中日球場のファールに尽きる。ブレイザー、記憶になし。
 東映フライヤーズ、プロ野球史上最速の剛速球ピッチャー尾崎行雄、言わずもがな。広角打法の張本勲、ホームランの飛距離が印象深い。喧嘩ハチの異名をとる山本八郎、知らない。
 東京オリオンズ、フルスイングの榎本喜八、小粒の印象だが世間評価は高い。紳士と言われるアルトマン、知らない。キャッチャーの醍醐猛夫なども憶えているが、印象の強さはそれほどでもなく、新旧の記憶が入り混じって定かでない。
 阪急ブレーブス、飄々とした左の速球ピッチャー梶本陸夫、名前が怖い毒島章一、大エース米田哲也、みんなみんな幼いころに目と頭に焼きついた選手だ。しゃがんで構える大男スペンサー、給料に不満で今年退団間近。振りが強すぎるという記憶がある。あそこまで強く振る必要はない。長池徳二になると、飛島寮のテレビで観た記憶が新しいので印象が強くなる。いずれにせよ今年のオープン戦から彼らと野球ができるのだ。
 主人がじっと私の横顔を見ていた。
「どうですか?」
「ベテランが引退したり、衰えたりしたので、憶えている選手がかぎられます。昭和四十年以降の選手は知りません。長嶋と、王と、有力新人だけのプロ球界という印象を持ちます。どの世界でも、プロはちがうぞと人はよく脅しますが、ぼくは小学校のころからバッティングに関しては高い自意識を持ってましたから、そういう口車には乗りません。きっとそれがわかっているんでしょう、水原監督はじめ、ドラゴンズの首脳部からプロは厳しいぞと言われたことはありません」
「神無月さんは別格ですからね」
 新聞を主人に返して、庭を眺める格好でゴロリと横たわった。直人が腰に乗った。


         十四

 トモヨさんが、
「文江さんによく説明しました。わかってもらうも何も、もともとそのつもりでいて、ふだんから郷くんに話していたらしいんですが、気持ちの底では欲の張ったところがあったから、それを郷くんに見抜かれたんだろうということでした。都合よくおたがい忙しい毎日になっていくのがうれしいそうです。きょうは、一区切りのデートをしたいと言ってました」
「わかった。何時ごろいけば都合がいいか訊いてみて」
「はい」
 電話をしてすぐ戻ってくる。
「きょうは、仕事をお弟子さんにまかせて、一日休みをとってるそうです」
 女将が菅野を帳場に置いて出てきて、
「すぐいってあげてや。生き返った人だで、深く付き合うほど運がもらえるがね」
「もらうと文江さんの運が減りますから、あげるようがんばります。じゃ、いってきます」
 直人を抱き上げてキスをし、紺のブレザーを着て出る。
 文江さんは玄関に出て、薄紫のワンピースに襟の小さい高級そうな赤いオーバーを着て立っていた。少し膝を屈めた格好がいつもながら節子にそっくりだ。
「さあ、デートをしよう」
「はい! キョウちゃん、紺の上下がよく似合うがね」
 通りに出て、文江さんは慣れたふうにタクシーを拾った。
「夜やと思ってたから、うれしいわあ」
 栄の『いば昇』という鰻屋に連れていかれた。文江さんは置き看板を見て、
「きょうは月曜日やけど、第二、第三月曜が定休やったから、ついとったね」
「ほんとだ、ついてた」
 ふた月に一度ほどこの店に弟子たちとくるのだと言う。ヒツマブシは遠慮して、吸い物付きの上鰻丼と肝焼きを食べた。瀬戸と同じように、焼きすぎなくらい焦げていて、味つけも濃かったが、好みの風味だった。
「うまい、ぼくはこういうどっしりした味が好きだ」
「私も」
「きょうはわざわざ休んでくれてありがとう。たしか月水金は大人の部、火木土は小中学生の部だったね。きょうは月曜だから、あの家で五時から八時まで十五人の成人を教える予定だったわけだ。あの二人に頼んだの?」
「そう。気持ちよう引き受けてくれたわ。細かいこと、よう憶えとるね。頭のデキがちがうんやろね」
「ぼくたちのことは、もう言ったの?」
「言わん。これからもずっと言わん。信じてもらえん。五十と十九なんて、気持ち悪う思われる。気持ち悪がられたら、キョウちゃんが気の毒やし、人の口には戸を立てられんから、マスコミに寄ってこられたらたいへんや。ぼくたち、なんて思わんでええんよ。私が思っとるだけのキョウちゃんなんやから」
 生ビールを注文する。
「子供ほしかったね、トモヨさんみたいに」
「それもいらん。キョウちゃんしかいらん。三月末からの女中さんの話な、おトキさんもなかなか探しきれんゆうて、新聞広告出すことになっとったらしいけど、六十歳以上の条件決めて広告しても、集まるかどうか心もとないゆうてな」
「うん」
「あのお弟子二人に心当たりを探してもらったんよ。そしたら、六十七歳のお婆ちゃんが見つかって」
「へえ。どこで」
「丸い顔をしたほうのお弟子さんの伯母さんやが。ユウショウさんてゆうんやけど、ぜひやらせてもらいたいって。ピンピンしとるらしいよ」
「優勝? 縁起のいい名前だね」
「そのユウショウやないの。友に松って書いて、友松。来月の二十五日からあの家にくるって。よかったね」
 ジョッキを打ち合わせた。
「お父さんに報告しないと」
「もうしたわ。女将さんも喜んどった」
「ありがとう。これでカズちゃんも安心して働ける。少し歩こう」
 あしたの朝食にと、蒲焼の折を一つ買ってレジをすます。表の通りに出て、ごみごみしたビル街を栄のほうへ歩く。高層ビルの看板を見上げる。すべての階に食い物屋や飲み屋がひしめいている。舗道のいたるところに自動販売機が立っている。
「映画館も本屋もないね。文化が死にかけてる」
 さらに高層ビルの通りに出る。
「大津通。これが錦通。右へいけばテレビ塔。左へいこ」
「道が広い。真っすぐいけば名古屋駅だね」
「そう。このあたりが呉服町」
「呉服なんか売ってないね。食い物屋、飲み屋、銀行のビルばかりだ」
「都市計画って何やろね」
「〈発展〉の仕組みがよくわからないから、恐ろしくて、空しいね」
「お金やろね。商売。街が変わっていくのは」
 長者町、桑名町とビルの谷間を抜けていく。
「駅に近づくと、ホッとする風景になる。ビルの隙間が広いからだね。広い通りになった」
「国道19号線。四日市や豊橋へつながっとるてタクシーの運転手さんが言っとった。ここらあたりは伏見やね」
「土地っ子になっちゃったね。車の免許を取ってもだいじょうぶだ」
「今年か来年か、節子といっしょに取るつもりです。軽自動車をトロトロ運転してみたいんよ」
「名古屋は道が広いから安心だ。お、下園公園だ」
「何もないです。サラリーマンの休憩所」
「名古屋観光ホテル! ここで入団式をやったんだよ。入ろう」
「でも、顔を知られとる」
「そうだね。自重しよう」
「もう、キョウちゃんはどこも迂闊に出歩けんようになったんよ」
「肝に銘じないとね」
 名古屋観光ホテルをやり過ごした。二筋ほどいった道を左折して、チヨダホテルという小振りなホテルに入った。眼鏡をかけた。
「お金の心配はせんで」
「ぼくに払わせて」
 フロントの宿帳に滝澤文江・節夫母子とした。住所は東京の御殿山にした。
「観光で名古屋にきたんですが、少し休んでから、夜に守山のほうへ出発したい」
 と適当なことを言うと、デラックスダブルのデイユース一万二千円というのを勧められた。午前十一時から午後八時まで九時間利用できるプランだと言う。ホテル内にある専門店の派出テナントで靴を磨き、夕食はルームサービスで四千円というプランだった。ちょうど正午だった。八時間いられる。
「それでお願いします」
 六階の一室に案内される。内装の豪華なのに驚いた。
「すてき!」
「何時にお靴をお預かりしに参ればよろしいでしょうか」
「いま、持ってってください。六時にルームサービスをお願いします。そのときに持ってきてください」
 靴を脱いでスリッパに履き替える。
「承知しました」
「ルームサービスは、アメリカンクラブハウスサンドウィッチ、ピザマルゲリータ、ステーキセットとございますが。ステーキセットの場合、三千円増しでございます」
「それにして」
 ボーイが去ると、文江さんをベッドに押し倒した。パンティを引き下ろす。脚を広げるとしっかり濡れていた。しゃぶりつく。
「あああ、愛しとるよ、キョウちゃん、愛しとる、ああ、イク、イッたらすぐ入れて、イッとるうちに入れて、あああ、イクイクイク、イク!」
 愛液が鼻の頭にかすかにかかる。痙攣しているうちに挿入する。
「ああ、幸せやわあ! 気持ちええ! 奥まで、だいじょうぶやから奥まで入れて、あああ、イッてまう、イクよ、イク、イク!」
 歓喜の単語を連呼しながら腹を収縮させる。四つん這いにし、尻側の壁をこする。愛液がシーツにほとばしる。
「愛しとる、愛しとる、ウググ、イックウ! あ、あ、大きなった、キョウちゃん、いっしょに! 愛しとる、イク、イク!」
 射精する。両手がシーツを引きむしり、尻が硬直する。愛液が飛ぶ。ふるえが止まないうちに表に返して抜き去り、びっしょり汗が噴き出している乳房のあいだに頬を預ける。呼吸が整うのを待って口づけする。
「すごかったよ、文江。オンナ真っ盛りだね」
「うん。……私のキョウちゃん」
 ティシューを何枚も引き抜いて股間に当ててやる。
「東京から和子さんたちがきたら、私、遠慮する。一年、二年にいっぺんでええ。ほんとはキョウちゃんがそばにおるだけで胸がいっぱいなんよ。いつもそう思っとるのに……ごめんね。キョウちゃんの女はみんなそうやと思うわ。勝手に濡れるオマンコなんか放っとけばええんよ。いっしょに歩いたり、お話したり、食べたり飲んだり、ただそうしたいだけなのに、女という生きものはどうにもならんね」
 そう言いながら、もう一度新しいティシューで股間を拭い、トイレへ捨てにいく。小走りの尻がなまめかしい。女の心が安らかでいられないのは女だけの罪ではない。男が女の尻をなまめかしいと感じる生理にこそ罪がある。戻ってきた文江さんを抱きとめ、抱擁する。この形にいちばん安らぐ。すべての女がこうあればいい。私の性器は極限まで鎮まっている。私の性欲は淡い。この形がいちばんいい。
「幸せ……。こんないいお部屋で抱いてもらって。……忘れんわ」
 私の胸に耳を当てる。
「ドクッ、ドクッていっとる」
 夕方の六時まで二人熟睡した。風呂に入り、服を着て、届けられたピカピカの靴を二人ときどき眺め下ろしながら、ルームサービスのステーキを食った。ロビーに出てコーヒーを飲み、八時少し前にチェックアウトして、黄昏の錦通りを駅前まで歩いて帰った。文江さんは手に鰻の折を提げている。
「節ちゃんのことを思い出すことは?」
「ほとんどあれせん。連絡はするけど。……思っとるのはキョウちゃんのことだけ」
「お金なんか、送ったりするの?」
「せん。節子は高給取りやから、無心してこん。キリストはキリシタンたちに養われたんよ。ほんとはうちらがキョウちゃんを養わんと。……このままやと、キョウちゃんに養われてまう」
「養われなくちゃいけないときがきたら、お願いするよ」
「いつでもお願いして」
「うん」
 私は簡単にうなずく。うなずいていいはずがない。文江さんの答えのきっかけになった一瞬前の自分の言葉も忘れかけている。文江さんの横顔を見ると、こだわりのないさわやかな表情をしている。心に秘めた理屈を言おうとしたのでないとわかる。文江さんの靴音を聞きながら、人間はさびしい生きものだとつくづく感じた。野辺地の囲炉裏から始まった私の時間をすべてさびしく感じた。このさびしさを生きる糧にしているのがつらかった。
 駅のコンコースに入って、大時計を見上げた。文江さんも見上げる。彼女は何を見てもすぐに私に視線を戻して微笑する。見上げた理由は何もなかったけれども、文江さんはその理由を追及しなければいけないと感じたようだった。
「このコンコースを通って青森にいったんよね」
 文江さんは私が見上げた理由らしいことを推測して言ってみる。私は肯定のしるしに笑ってうなずく。文江さんはホッとした顔になる。
「そういえばキョウちゃん、オーバーを着んね。葵荘に初めてきたあんな寒い日でも、学生服しか着とらんかった」
「ロシアじゃあるまいし、オーバーなんて着るものか」
「女子供の着るものやね。私もしっかり着とる。プロ野球選手か……明るい未来が待っとるね」
「いまがいちばん明るいよ。これ以上明るいと目をやられるから、うつむいてないと」
「キョウちゃん―」
「毎日、テレビや新聞で採りあげられるぼくの姿が、みんなが望んでる明るい未来像なのかな。ニチボー貝塚の連勝がストップしたとか、ヘンシーンとか、百円札廃止とか、鼻を掻きながら『モウキミヲハナサナイゾ』とか、サルトルとボーボワール女史が来日したとか、そんなものといっしょくたに放送されるぼくの姿が、明るい未来像と言えるのかな。むかしからこの国の文化のにおいは、ぜんぶ、新聞やラジオやテレビから居間に向かって放射されてる。放射されるのは、人から人に伝えられる愛じゃない。ぼくは家庭の居間の未来像にはなりたくないんだ。ぼくの明るい未来は、愛情に恵まれすぎているいまこのときだ。これ以上に明るい未来なんてないよ」
「ああ、耳に気持ちいい。キョウちゃんの口からしか聞けん言葉やわ。自分が生きとることがキョウちゃんを喜ばせとるわかって、気持ちが晴れ上がるようや」
 光沢のいい靴の革底が足の裏を気持ちよく押してくる。
「このピカピカの靴で明石にいくぞ」
「私は、次のデートのときまでこの靴を履かん」


         十五        

 椿町口に立つ。
「中学や高校のころの蜘蛛の巣通りはよかったなあ。古くて、艶(あで)やかだった。むずむずした。たった二年か三年で、影も形もない。日本人はほんとに古いものが嫌いなんだな」
 書道塾の生垣門を入る。八時半。弟子も生徒も帰って、玄関のガラス戸は真っ暗だった。
「練習して。ぼくは蒲団で待ってる。枕もとにコーヒーいれて。何か、本ある? 最近のでいい」
 吉屋信子の『徳川の夫人たち』という四巻本を渡された。一冊持って二階へ上がる。枕もとにスタンドを置いてうつぶせになる。文江さんがコーヒーを持ってくる。一時間ほどで上がってきます、と言って降りていく。玄関で電話が鳴った。弟子からの連絡のようだ。
 本を開く。資料で書いた本。緻密な時代考証らしきものを埋め草にした、側室と女中の精神的レズビアン物語。将軍と女たちとのあいだのセックスの〈存在の事実〉は書くけれども、想像を逞しくして〈褥の事実〉を描写することはない。生ぬるい。
 主人公二人、お万の方、藤尾ともにセックス拒否症の知識人。性欲をバカにした卑怯千万な小説。モテない学者肌の人間が好みそうな柔らかい学術資料本。キーワードは〈知性と教養〉。資料作家やノンフィクション作家のモットーでもある。
 ―いつの時代もそれかい!
 要するに毒にも薬にもならない読み捨て本。著者のテーマはたぶん、知性と教養による女権伸長だ。
 寝巻に着替えた文江さんが上がってきた。
「友松さんが断ってきたわ。人に聞いたらあの有名な神無月選手やとわかって、粗相をしそうで自信がなくなったって」
「ぼくは彼女たちの明るい未来像だからね。畏れ多いとオーバーに考えるのも当然だ。だれでも肩が凝るのはいやだからね。いいじゃないか。まだ二カ月もある。ゆっくり探せばいいさ。ユウショウという縁起のいい名前は惜しかったけど」
「ほうやね。どうやった? 徳川の夫人たち。私は難しくて読めんかった。去年おととしのベストセラーやけど、ようみんな、こんな難しい本読めるわ」
「ベストセラーというのは話題そのものが好まれるだけで、中身が好まれるわけじゃないんだ。一部のインテリの学術趣味に合うものを出版社が喧伝して作り上げる。主語述語修飾語文法を読み取ろうとする人間には理解できない代物だよ。いまは芸術がエセ学問化している時代だ。芸術と呼べる代物じゃない。そんな本、もともと芸術なんかに興味のない俗人にしか理解できない下世話なものだ。いずれそんなものばかりがベストセラーになる時代がくるよ。とにかくこんな本は、情のある人格者の文江が読む本じゃない」
 着物の裾に手を入れる。腰がくねる。
「まだからだが落ち着かない?」
「ううん、落ち着いとる。キョウちゃんに心が雁字搦めになっとることを確かめるには顔を見るだけでじゅうぶんやけど、からだも雁字搦めになっとることを確かめるには、やっぱりオマンコするしかあれせん。ぜんぶ雁字搦めになって、やっと生きとるって気がするんよ。逢えるときはいくらでもしてほしいわ」
 裾をまくって、顔に跨ってきた。
         †
 一月二十八日火曜日。きのうの暖かさがつづいている。風呂、歯磨き。
 鰻の蒲焼二切れ、キュウリとキャベツの塩もみ、シラス大根おろし、厚揚げとこんにゃくのピリ辛炒め、フノリの味噌汁。文江さんの作った極上の朝食をすませて、八時に曇り空の下を北村席に帰った。
 なんとなく気持ちが親しくなってきた賄いたちに迎えられる。これから長い付き合いになる。名前はともかく、顔だけは覚えておこうという気になった。目見当で五十代はおトキさんの一人のみ、四十代が二人。目立たない顔だ。二十代が一人、おとなしそうな丸顔の美形だ。イネちゃんと呼ばれている。彼女たち四人はほぼ一日じゅう見かけるので、住みこみだとわかる。あとはかよいで、三十代が多い。近所の主婦だろう。みんなほんのり明るいのがうれしい。彼女たちの顔を見つめているとトモヨさんが出てきた。
「お帰りなさい」
「ごはんはすませてきた。バット振ってから、ランニングに出る」
 片腕に直人を抱いた主人が、朝日新聞を持ってきて差し出した。
「十八日の東大闘争のまとめみたいなものが載ってますよ。あれはすごかったですな。テレビの実況中継で観ましたよ」
「その日はたまたま友人の家に遊びにいってて、ちょうど留守をしていたんで、さっぱり知りません」
「仙人神無月郷ですなあ。実態はこんなもんじゃなかったんでしょうが、要領よくまとまってますよ。まあ、読んでごらんなさい」

 昨年来大学紛争は各地で起きているが、その原因はまちまちである。
 東京大学では、昨年一月二十九日、登録医制反対、青年医師連合を認めよと医学部がストに入った。これが発端となり、六月十五日、医学部の急進派が安田講堂を占拠、十七日機動隊導入によってこれを排除したため事態が急激に悪化し、全学共闘会議が結成されることになって、安田講堂はふたたび学生たちに占拠された。
 今年一月十日、秩父宮ラグビー場で七学部集会が開かれ、紛争解決へ踏み出した。最後まで安田講堂を占拠して居座る全共闘系学生を排除するため〈残念ながらやむを得ぬ措置〉として機動隊が出動。一月十八日午前七時から十九日午後五時四十六分まで激しい攻防戦が展開された。この模様はテレビでも実況放映された。
 読売新聞(一月二十日付)の「編集手帳」は『機動隊出動は〈残念ながらやむを得ぬ措置〉どころか当然至極のことで、独善的な自治の拡大解釈に冷水を浴びせた効果さえある』としている。
 東大の被害総額およそ四億円。その内訳は、安田講堂施設一億二千百八十万円余、設備・物品三千五百七十万円余、法学部研究室五千九十万円余、工学部列品館九千九十万円余、などとなっている。これを契機に各大学とも、学内への機動隊導入の是非が焦点の一つとなった。


 山口や睦子に聞いた話を詳しくメモしただけのものだった。社会事象とやらは実際現場で何が起こっているかわからないものだ。こうしてまとめてもらわないと、私には太刀打ちできない。でも私には太刀打ちする力量がないので、せっかくまとめてもらっても、核心部分に理解の太刀を揮えない。とにかく、これまで聞いていた話よりわかりにくかったし、こんなうるさい大学で自分がぬくぬくと野球をしてきたことが信じられなかった。
 ひさしぶりの快便。耳鳴り平常どおり。シャワーを浴びて、爪切り、耳垢取り。耳鳴りはしないがほとんど聴力のない右耳からゴッソリ取れる。ジャージに着替え、庭で素振りを百八十本。いつのまにか菅野が縁側に立って眺めている。
「相変わらずすごいですねえ。高速大型扇風機みたいだ。そろそろいきますか」
「いきましょう。きょうは西高まで」
「よしきた」
 てらっちゃい、と直人が玄関に立つ。トモヨさんと女将が寄り添っている。頭を撫ぜてやりながら、
「きょうも保育所いかないの?」
「おちょうちゃん、ちゃった」
「郷くんと菅野さんがいってからと言いたいんですよ」
 トモヨさんと女将がうなずく。
 則武のガードへ出て、那古野町に向かって走る。低いビルのあいだを縫ってひたすら走る。菊ノ尾通りを曲がりこんで榎小学校へ。
「私の母校です。地元のマンモス小学校です。実家はこの裏手にあります。このへんの家並もガラリと変わりました」
「高校時代の英文で、日本人は変化を嫌う民族だと習ったけど、日本人くらい変わることが好きな民族はいないね。どんないいものでも古いものは破壊していく。古きよき花屋でコーヒータイム」
「おっしゃ、休憩!」
 徒歩や自転車で登校する西高の学生たちが通り過ぎる。花屋に飛びこむと、
「あらあ!」
 女将が抱きついてきた。お婆さんも腕に取りすがる。朝の客がけっこういるが、おかまいなしだ。主人が厨房から覗いて、
「やや、中日の四番神無月、ご来駕か! お客さん、そこに飾ってある神無月選手だよ」
 オオーとどよめきが上がる。
「ええ顔やなあ」
「背がたか!」
「がたいもええわ」
 女将さんがそばの客に、
「真っ先に引き立てられるという様子じゃないでしょ。静かな感じで。でも、いつも真っ先に引き立てられるのよ」
「静かでも、目が生きてるからなあ」
「目の力が並じゃないね」
 ほかの客が呼応する。菅野が奥のテーブルにつき、こっちこっちと招く。ソファに座ると、女将が、
「きょうはランニング?」
「はい、毎朝です」
「もうすぐキャンプでしょう」
「金曜の朝に出発します。この人、ぼくの名古屋の寄宿先の菅野さん。駅西の竹橋町。いっしょに走ってくれてるんです」
 菅野がお辞儀をする。
「そんな遠くからここまで!」
「ええ、毎日コースを変えてるんですよ」
 主人が大声で、
「走るのが基本だものね」
「はい。ソーダ水二つください」
 女将さんが、
「吉永先生とよく飲んでたわね、ソーダ水。先生、元気?」
「はい、三月から中村日赤に勤めます」
「へえ、出世したわねえ。みんなの運命を変えちゃう人なんだろうな、神無月さんは」
 菅野が、
「そうなんですよ、神無月さんのおかげで、私、タクシーの運ちゃんから家付きの運転手になれたんですから」
 サインを求める客が二人、三人寄ってくる。金釘でサインする。主人が、
「そこまで、そこまで。サインしてもらうチャンスはまだまだあるから。神無月さん、電撃入団が合法でよかった。冷やひやしましたよ。考えたら、巨人を蹴って中日にいったんだから、マスコミもケチつけられないわな。巨人蹴った人って、プロ野球史上、神無月さんが初めてでしょ。今年は熱狂的なファンがつくよ。法政三羽烏なんか、巨人に蹴られてゴショゴショ言ってるんだもの」
 客の一人が、
「浜野もね。よっぽどじゃないと、ありゃファンつかないよ」
 出てきたソーダ水を二人とも一息で飲み干す。
「じゃ、ランニングの途中ですから。二月の末と三月の末にまた顔を出します」
 お婆さんが、
「ボールにサインをほしがる人もけっこういるんで、面倒でしょうが、そのときはよろしくお願いしますね」
「わかりました。じゃ、失礼します」
「お代はいらないよ」
 カメラを持った主人が出てきて、女将さんとお婆さんといっしょに私に並びかけ、菅野にシャッターを頼んだ。パチリ。
「これも飾らせてもらいますわ。いつもテレビ観てるからね、がんばって!」
 主人の声に店じゅうが拍手になった。吉兆。
 郵便局、西高正門、天神中、天神山公園、天神山交差点。
「こっから三キロ弱だね」
「帰って九時半。また経理の勉強です」
「将来の後継者ですよ。がんばって」
「後継者というか、右腕ですね」
 呼吸正しく走りながら菅野の横顔にしゃべりかける。
「日本のプロ野球でいちばん美しいものは」
「?……」
「長嶋茂雄が一塁めがけて送球する姿と、そのボールのスピードです」
「ああ、わかるなあ。あれは革命ですね」
「職人技じゃないので、後継者がいない」
「はい。考えると、プロ野球って、そういう人ばかりですわ。……神無月さん、へんな質問をしますけど、神無月さんは女好きですか? 私にはそう思えないんですよ。とつぜんすみません」
「ああ、菅野さんからその手の質問をされたことがなかったですね。ぼくの心の中に、無差別じゃなく、気に入った女のにおいに応えて挨拶するものがあるんです」
「挨拶、ね。やっぱり女好きじゃないわ」
「気に入った女は飽きがきません。何度でも抱きたくなります」
「私も女房を気に入ってるんだけどなあ。どうしてもご無沙汰になっちゃう。私思うんですけど、この手のことは才能じゃないですかね」
「そう言えばそうかもしれません。性欲じゃ保(も)ちませんからね。最近、心なしかその才能に翳りが見えてきた気がします。野球に打ちこめということでしょう」
 人混みのコンコースを歩いて帰る。八時に席を出て一時間半。花屋に寄った時間を差し引けば一時間だ。意外と短い時間で周ることができた。


         十六

 北村席の広い庭を初めて巡る。生垣の藪椿をはじめとする草花は次回に回して、木を見ていく。菅野も興味深げについてくる。門の板垣を覆うように数本のクロマツ、イロハモミジとオオモミジ、ヤマモミジ、小池の傍らに数本の梅の木、クマさんが勉強小屋の笹庭に植えてくれたアオダモ。菅野は名指ししていく私の呟きに耳を立てる。
「菅野さん、塀と庭というのはテリトリーの象徴です。テリトリーを隠すために塀の内外を飾るんです。すべて無意識の行動ですけどね」
 屋敷の周囲に、シラカシ、桜、楠木、エゴノキ、よく公園で見かけるヤマモモ、二棟の離れの裏塀に沿って、夾竹桃、そのあいだを埋める潅木は、薔薇、ユキヤナギ、山茶花、ヒュウガミズキ、沈丁花、ドウダンツツジ、厨房と風呂場と客部屋の窓辺に、ミツバツツジ、ヤマツツジ、ヤマボウシ、大きな庭石の周囲に点在する紫陽花、ハナカイドウ。菅野に訊かれると、その都度声を高くする。
「この赤い可憐な花は?」
「シモツケ。白く咲くのもあります。宝石のような粒状の花が何とも言えないですね」
「植木屋と相談して庭を色とりどりにしたのは、トモヨ奥さんです。新築のころは、のっぺらぼうの庭だったんですよ」
「そうでしたね」
「あの鮮やかな青い尖った花は、遠くから見るとまるで絨毯に見えますけど」
「アジュガ。塔のように立ち上がって、青紫の花が何段も咲くんです。地下茎でどんどん増えるので、踏まれてもだいじょうぶです。塀の裾に敷きつめている紫の花はシシリンチウム。丈夫で手間がかかりません」
 菅野は首を振り、
「すごいなあ……。いつもながら、感服しますよ。どうやって覚えていったんですか」
「小さいころに祖母の知識に刺激を受けたのがきっかけで、こつこつ図鑑などに照らしながらです。道端の草の名前まで知っているばっちゃにはとうてい敵わなかったけど、自分なりに意識して、折に触れて覚えていきました。幼稚園まではばっちゃの知識を盗んだな。小学校時代は子供用の植物図鑑、中高のときは図書館の図鑑を暗記しました。図鑑で調べきれないような、目立たない、名も知れない花もあります。幸い、人はそういう草花の名を訊いてきません。ただいま!」
「おかえりなさい!」
 座敷でいっせいに声がする。
「シャワー、シャワー」
 風呂に駆けこんだ。二人でシャワーを浴びていると、直人が丸裸で飛びこんできたので、石鹸を塗りたくって洗ってやる。
「チャワー、チャワー」
 とはしゃぐ。直人は私と菅野の陰嚢を両掌で下から大事そうに押し上げる。二人で大笑いする。脱衣場にトモヨさんを呼んで直人のからだを拭かせる。私たちもサッパリしたからだに新しい下着ををつけた。焼き魚のにおいがする。おトキさんが、
「みなさん食事終わってしまったんですけど、お二人に土佐のレンコ鯛の一夜干をとってあります。ごはんと相性抜群ですよ。味噌汁はアサリです」
 鯛の大きさと厚さに驚く。ふっくらと柔らかく、脂もよくのって美味だ。アサリの味噌汁もうまい。菅野は朝めしをすましていたけれども、うまいので別腹になった。
「おトキさん、図々しくてすみません。ごちそうさまでした。神無月さんにご相伴させていただきました」
「いいえ、あしたはジャンボハンバーグにしましょう。朝ごはんは抜いてきてください」
「ありがとうございます」
 女将が、菅ちゃん勉強、と呼びかける。
「ほーい」
 主人の姿がない。店の見回りにいったのだろう。
 あしたの夜は飛島寮だ。滅入りそうになる気持ちを所長や社員たちの笑顔を浮かべることで吹き払った。
         †
 店回りから帰った主人が直人を腹に乗せてじゃれはじめる。賄いたちの何人かは廊下の拭き掃除と洗濯にかかっている。洗濯場は裏庭の離れの反対側の外れにあり、大戸を立てた立派なモルタル小屋の水場になっている。八枚の引き戸が雨の日以外は開放され、洗濯機が五台も六台も並んでいる。その小屋と屋敷に挟まれた空間が、かなり広い物干し場になっている。トモヨさんとおトキさんは二棟の離れの掃除にいった。
「神無月さん、門の外の道に、新聞社の車二台と、テレビ局のワゴン車一台が停まってましたよ」
 主人が腹の上の直人を抱き上げながら言う。菅野が、
「ランニングしてるところでも録るつもりかな。きょうはもう外出しないから、無駄足なのに。……そろそろそうなってきましたか。オープン戦に入ったらたいへんなことになりますね」
「あしたの夕方は飛島へいくんでしょ? まさか追っかけていかんやろな」
「それはないでしょう。そんなものニュース種になりません。取材してもボツですよ。朝のランニングだけ録って、夜遅いスポーツニュースにでも流すんじゃないかな。ぼくはインタビューさえされなければ、どんなふうに取材をされてもいいんです。あと三日で明石だ。あわただしい毎日になります。乗り切ります」
 主人は胸の上で直人を高い高いする。直人の笑い声がかわいらしい。
「お父さんになついてますね。ぼくは預けられっ子で、爺さん婆さんに五つまで育てられたんだけど、二人を親だと思いこんでた時期があって、でもしばらく経って親じゃないと気づいたんですけどね。母がいることを思い出したから」
 私の身の上話に惹かれて、遅出の女たちが集まってきた。賄いと同様、彼女たちの顔を記憶しようとする。四十代はいない。三十代が四人、二十代が一人。彼女たちに向かって話す。
「この世に父という存在があることを知ったのは、かなり遅くて、小学校一年生のときです。父という種類の親があることを初めて知ったんです。五歳のころ、自分には母がいると意識し直したとたん、大恩ある祖父母を軽く感じはじめました。不届きな人間です。母と絶縁状態になったいまでも、祖父母の重さが戻ってこない。母親って、何なんだろうなあ」
 主人は深刻な顔で、
「そこだけは、本能的なものやろね。子供がいちばん特別に思っているのは母親ですよ」
「それがぼくにはわからない感覚なんですよ。その人のおかげでこの世に出てきたわけだから、少なくとも永遠の引け目があるということですよね」
「そう言われると、ワシにもそんな気持ちがあったかどうか自信がなくなりますが、まあそんな感じですかね」
 店の三十代の女の一人が、
「ふつうは母親って、慕うのにそういう理屈が要らない人種なのよね。神無月さんは、お母さんを無理に理屈で捕まえようとしてるみたい。愛してないということよ」
 私はうなずき、
「理屈抜きで母親を愛している人はすごいな。この世はそんな人ばかりだし、そんな歌や文学ばかりだ。……母がぼくを引き取ったすぐあと、三沢の国際ホテルというところでホステスのような仕事をしていたことがあったんだけど、ある夜、酔っ払って部屋に戻ってきて、ベッドで息も絶えだえに苦しんだことがあった。ぼくは、かあちゃん死なないでと泣きながら何度も呼びかけた。その一回だけだな、理屈抜きで母恋しの子供になったのは。もちろんそれ以後も何度か呼びかけた。でも母はぼくからは遠く遠く離れていった。やがて母以外の人間しか愛せなくなった。いまは、母だけは愛せない。……直人がそういう情の薄い人間になりそうもないって、こうして毎日様子を見てるとわかる。うれしい。この子は幸せな人生を始めたんだね」
「でも、どうしてそんなふうになっちゃったの?」
 主人が、
「それ以上訊くんじゃない。神無月さんは親の悪口を言いたがらない人間だ。と言うより悪く言うほどの関心がないんだよ。愛してないって事実でじゅうぶんだろ」
 女がやるせなさそうにうつむきながら呟いた。
「わかんない、どうしてかなあ」
「なぜ愛さなくなったか、話しておかなくちゃいけないと思います。事実だから悪口にはならないでしょう」
 母を愛さなくなったきっかけをいろいろ話した。虫歯の痛みで苦しんでいるときに傘の柄で打擲されて学校へいかされたこと、目的が不明のサーちゃんの唾のウソ、スカウトを追い返したこと、肘の痛みを疑われたこと、強制下宿、遠流、連れ戻し、東大……。そのすべてが暗誦できるもっともらしい〈事実〉で、人の耳にわかりやすいものだった。いまでは、私もカズちゃんたちも、そんなことが絶縁の理由とは思っていなかった。でたらめで冷やかな言動の似合う鷹の眼、あれが説明できない理由のすべてだった。それが的を外れていようと外れていまいと、思ったことをやり遂げる眼―。彼女が生きているかぎり私たちを金縛りにする眼だった。主人や女たちは神妙な面持ちで聞いていた。女が、
「それって、神無月さんがほとんど無視されてきたってことじゃないの。よくがまんしたわね。新聞に書いてあったのは、お母さんが神無月さんの進路を妨害したことだけだったけど、そういう胸の悪くなるような細かい鈍感さは、進路の妨害と関係ない日常的なイジメみたいなものね。こんなに枉(ま)がらないで育ったのが不思議」
 起きた事実はいずれ脚色されて虚構になるが、鷹の視線は厳として、彼女が死ぬまでそこにある。私は、
「イジメと言うより、ぼくに対する嫌悪感でしょう。虫酸が走るというやつです。蠅みたいに叩きつぶしたくなる」
 主人が、
「親というのは、ふつう子供がいとしくてしょうがないものですよ。どこかおかしいんだな、神無月さんのお母さんは。ワシならグレとる」
 女将が主人から直人を受け取り、
「周りの女たちに神無月さんが痛ましいくらい感謝するのもわかるわな。そんなお母さんに比べりゃ、女はぜんぶ観音さまに見えるやろ」
 主人が、
「いやちがうな、神無月さんはお母さんと比べたりなんかせんと、素朴に感謝しとる。気持ちの動き方がふつうじゃない人やからな。ふつうなら、母親に照らして、女というものを憎むか軽蔑するかしとるよ」
 別の女が、
「あたしは父一人子一人だけど、あたしも父親にそんなふうに扱われたら、男不信になってしまうわ。男というものに復讐するかもしれない。神無月さんは、やたらにお母さんに遠慮してるから、マザコンじゃないかと思ってたけど、とっくに見放してたんですね。そうでもなきゃ、そこまでいじめられて、じゃまされて、プロ野球選手になるなんて離れ業できないわ。お母さんもかわいそうだけど、仕方ないわね。自業自得じゃないの」
「母に感謝できない分、愛してくれる人に感謝することで、人間的に手遅れにならずに生きてこれたんだと思います。よくあるでしょう? 人生を変えるような大きな瞬間にめぐり遭うことが。―何が大切か気づく瞬間です。休まずやってきては去っていく瞬間なんだけど、往々にして、気づいたときには遅すぎる。復讐なんか考えているうちに手遅れになる。絶望や悲しみに浸ってるあいだに手遅れになる。そんな気持ちを味わいたくないんです。愛されることにすぐに感謝しなければ、かならず遅すぎる瞬間がやってくる」
「すぐに感謝か。胸が痺れますよ。そのとおりだ」
 菅野と女将が戻ってきて、話に混じりたそうな様子をした。
「何やの、みんなで真剣な顔して」
 私は、
「直人がすくすく育ってくれてうれしいって、この家は最高の環境だって話してたんです」
 女将が、
「ほんとに、大病も大ケガもせんと、大助かりやわ」
 はぐらかされたような顔をしている菅野に、
「菅野さん、勉強はかどってますか」
「努力してます。きょうは、置屋の仕組みみたいなものを教わりました」
「おトクはそういうことは詳しいからな」
「ふうん、置屋の仕組みか。聞きたいな。復習するつもりで教えてください」
 女たちは輪を小さくして菅野を囲む。掃除を終えたおトキさんやトモヨさんたちもやってきた。トモヨさんが、
「なになに、菅野さんがおもしろいことを話すの?」
 主人がホホと笑って、
「菅ちゃん、こういう古い世界はほとんど終わってしまったんだよ。仕組みを勉強しても空しいぞ。懐古趣味だ」
「いや、旦那さん、これからトルコをやっていくうえで、何かの参考にはなりますよ」
「ほう、話してみい」
「はい。まず名古屋には遊郭が四つあります。港区の港陽園、中川区の八幡園、それから北区の城東園、そしていちばん大きい中村区の中村遊郭。みんなこの十年で廃れてしまったので、必要のない存在だと思われがちですが、必要がなければ何百年もつづくはずがないんで、現代のいきすぎた公序良俗の風潮に殺されたというのが実情でしょう」
 私は、
「風潮を作るのは庶民ですから、庶民に必要とされ、ついに必要とされなくなって殺されたということですよね。何百年も長つづきしたなら、長つづきするだけの美点があったということでしょう」
「はい、そうなんです。協力体制、連携体制です。客の遊びは料亭が中心になります。料亭を予約するときは、芸者を座敷に呼ばなければなりません。戦前はきっちり役割分担ができていて、料理を作る仕出し屋、料理を取り寄せて宴席を張る待合、芸者を置くプロダクションの置屋、この三者を取り次ぐ見番というシステムが確立されていました。戦後になって、条例で待合が廃止され、仕出し屋と待合を合わせて、料亭と呼ぶようになりました。つまり、料亭が芸者遊びの舞台になったんです」
 主人が、
「えらい! よう覚えたもんや」
 女たちが拍手する。
「いまでは料亭も見かけなくなりました。だから、置屋も見番も料亭への取次ぎ業務をほとんどしなくなって、廃業するか、トルコに商売替えして、風俗組合の一員として寄り合ってます。北村席もいまでは芸者や妓娼はいなくなって、トルコ嬢がいるだけです」
「色街商売が、取次ぎなんか要らんトルコに一本化されたということやな。枕芸者やパンスケはトルコ嬢になった。相変わらず芸のできる芸者はおるけど、独立して三味線や踊りのお師匠なんかをしとるわ」


         十七

 女将が、
「うちや塙さんはトルコの寮を建てたで、まだ置屋っぽいことをやめとらんゆうことやから、組合の中でもめずらしいわ」
 主人が、
「で、菅ちゃん、そのことがいまの商売にどう役立つんや?」
「旦那さんが先鞭をつけたところですよ。取次ぎ業務の延長、つまりトルコ経営者同士の連絡網です。いまのところ、うちと塙さんだけの連絡ですけど、営利が独占状態です。少なくとも中村区の同業者同士で、客層の特定や、配分や、女の子の融通など、いろいろ助け合わないと、いずれ摩擦が起こります」
「菅ちゃん、みんな仲よういうのはたしかに響きはええが、トルコは商売やぞ。商売敵に勝ち抜いてなんぼのもんや。利益を分け合うなんてことは、無理のまた無理。勝ち抜いてくれた従業員に相応の賃金も払われん。塙さんと助け合うにしても、商売を助け合っとるわけやない。馴染みの深い同業さんだったから、寄生虫が寄ってこんように手助けしただけや。だいたい摩擦の起こるんが競争というものやろ。うちと塙さんはいま、むかしながら置屋の役目を果たしとるけど、連絡はし合っとらん。とにかく菅ちゃんは、競争に勝てるようなアイデアをどんどん出してや」
 分は主人のほうにあるようだった。菅野はしばらく考えて、うなずき、思い直して、
「……たしかにそうですね。商売はなかよしクラブじゃないですもんね。築き上げた優位を崩さんようなアイデアを考えるのが肝心なんだな」
「ほうや」
 菅野の考え方は、プロ野球のドラフト制や、球団内のチームプレイに照らしてみて、痛いほどわかった。球団勢力の平等化、集団内の一致団結、個を均して全体勢力の向上を目指すという考え方だ。共存共栄という思想に意義を感じる情熱が、和合の清新な気分をもたらしたのだろう。それでは商売にならないと主人は言うのだ。
 なるほど彼の、品のいい共存共栄のイデオロギーはよく理解できたけれども、主人の言うとおり、イデオロギーとほとんど無縁の現実世界で、孤独に〈才能〉を発揮しながらがんばった構成員に対する利益の分配はどうなるのだという疑問が残る。彼らを重視するためにも、ライバルと平等であってはならないという企業主(ぬし)的な理屈のほうが、私にはよく理解できた。ライバルに勝ち抜くことは、父祖伝来の生業を維持するという荷を担った主人には切実なものだろう。プロ球団もトルコ風呂も営利を目的とする以上、勝ち抜かなければ傾く。勝利をもたらした有能な戦士集団の報酬が敗者の集団とヒトシナミなら、才能の意義はなくなる。敗者がいなければ、勝者の存在理由はなくなるのだ。ともあれ、菅野は同業者和合のギルド精神で、適度な利益を上げながら、品よく店を切り盛りしていくという考え方をすぐに撤回した。主人が、
「菅ちゃんが言うのも一理ある。業界全体に足並みを合わせんで利を貪ったらあかん。基本的はところは周りと似たようなことをせんとあかん。休日を合わせる、設備の種類を合わせる、特に女の子の接客技術のレベルを合わせるのは重要や。そういうことは目立つと圧力がかかる。品よく、和を乱さんようにせんとあかん。この手の商売に必要なのは、下品さを上品さのオブラートでくるむことやからな。しかし、それはあくまでも勝つためや。その制限の中でアイデアの質を上げていくようにせんとあかん。当然、才能のある女がおることが肝腎になる。そういう女には高給を払わんとな」
 静かな、力のある声で言った。
         †
 午後からいい陽射しになった。昼食のあと、菅野は洗車にかかり、私はトモヨさんと直人を連れて散歩に出た。すでに取材の車は去っている。散歩と言っても、北村席の周辺を離れないようにうろうろするだけだ。それだけで直人はじゅうぶんうれしそうだ。道端の小石を拾ったり、草に屈みこんだりする。草の周囲も見る。この季節、蟻や団子虫は冬眠しているので、土くれの凹みや出っ張り具合でも見ているのだろうか。と思ったら、土をうずたかく積んだ巣穴の周りに一匹の蟻がいた。直人に並びかけてしゃがむ。
「クロナガアリだよ。冬でも少し暖かいと動き回る。一匹ずつで動くんだ。小さな草の実を穴に運びこむんだよ。踏まないようにね。蟻さんも直人と同じように生きてるから」
 トモヨさんもしゃがみ、
「キャンプのスケジュールって、どういうふうになってるんですか」
「ぜんぶ入団式で耳に入れた話だけど、中日は月金休みの五勤二休らしい。月水金や月金を完全休にするチームもあるって、コーチのだれかが言ってた。朝めしのあと、十時くらいからウォーミングアップ、と言っても、たぶんバック走を混ぜたきついランニングだろうね」
「後ろ向きに走るんですか?」
「そう。ぼくはゆっくり走るつもりだ。肉離れが怖いから。それからキャッチボール、トスバッティングをやったあと、シートノックとフリーバッティング、その二つがメインだね。シートバッティングなんかをすることもあると思う」
「専門的でよくわからないんですけど、シート……」
「ハハハ、ぼくもよくわからないんだ。特打は特別打撃練習、特守は特別守備練習、毎日その繰り返し。そこへ食事が挟まるという具合だね。特打と特守は、バッティングや守備に穴のある選手に課されるものだから、ぼくは関係ないだろうと思う。バッティング練習のあと早めに上がって、のんびりするつもりだ。長丁場だから無理をしたらだめだ。食事は贅沢で、休みの前の日には食券が配られる。その食事で暇を潰してもいいな」
「やっぱりたいへんそうですね。郷くんはごはんを食べてのんびりするような暇の潰し方はしないと思うから」
「うん。たぶん練習するか、散歩するかだね。高校、大学と野球の名門校に属してこなかったから、からだが疲労してない。いまとなってみれば、中学時代にスカウトを断ってもらったことが吉と出たね」
「ほんとですね。名門校にいってたら、きびしい練習のほかに、主力選手として使われっぱなしだったでしょうから、ボロボロになってましね」
「うん、野球選手は消耗が激しいからね。何が幸いするかわからないものだ。プロの五年分くらいは肩と肘と腰を儲けた。その分、観客にちゃんとした才能を見せられることになる」
「才能ある人は、才能を百パーセント人に示す義務がありますものね」
「うん」
 立ち上がり、二人で直人の手を引く。年季の入った家並、手入れのいい庭、晴れ上がった高い空。子供の視線がほとんど地面に向くのがおかしい。人の住むよそよそしい納れ物や、立ち入ることのできない仕切られた空間よりも、開放的な地面。手の触れられない空よりも、手の触れられる地面。あたりまえのことだ。直人を犬か猫のように抱き上げて顔を見る。愛らしく美しい。
「そっくり―」
 トモヨさんは毎度の確認をあらためて喜ぶように、声を上げずに笑う。こんな美しい顔に自分が似ていると言われるのがうれしく、私も笑う。直人はいろいろな形や彩りの小石を手に握っていた。汚れを洗い落として、枕もとに並べてやろうと思った。
         †
「これが、中日球場年間予約席のパスです。ネット裏真後ろ上段、三人分、七十五万円」
 父親が見せる。意外と小さい吊り下げ式のカードで、かえって迫力がある。女将が、
「コカコーラやコーヒーやビール、お好み焼やたこ焼きも出してもらえるんよ。交代交代で、必ず三人いくようにせんと」
 菅野が、
「車でいくので、毎回私はいけます。ビールは飲めませんけど」
 うれしそうに言う。主人が、
「ワシも寄り合いのないときはぜんぶいくぞ。あとは、だれかかれか順番決めていけばええやろ。直人はまだまだずっとあとやな」
 直人を連れて風呂場にいき、小石を洗う。石に魂が吹きこまれる。タオルで水気を取って手渡す。直人はみんなに見せにいく。大人たちが宝石のように見入る。女の一人が私に訊く。
「ホームランを打ったときの気持ちって、どんな感じ?」
「……まず、ボールが遠くへ飛んでいく軌道の美しさに対する驚きですね。次にからだじゅうの感覚がスッと凍りつく感じ。打球を見ながら一塁へ走り出すと、輝く光の中に観衆がいて、凍りついたぼくを温かく抱き締めるように両手を差し伸べる。何もかもが現実とはちがって見え、すべてが理想的な世界」
 直人がトモヨさんの胸で眠りこんだので、賄いの一人を文房具屋に使いに出して、画帖と4Bの鉛筆と電動鉛筆削り器を買ってきてもらった。みんなで茶飲み話をしているあいだ、十五分ほどかけて母子像をスケッチした。
「じょうず!」
 女将が嘆声を上げた。ほとんど写真のようにスケッチできた。菅野が覗きこんで拍手する。主人がトモヨさんや女たちに掲げて見せる。
「これも額に入れて飾っとこ」
 雨上がりの土方以来、何かをスケッチしたのは初めてだった。スケッチしたいと思ってスケッチしたことも初めてだった。直人はまだ眠っていた。トモヨさんが、
「コピーをとって、私の部屋にも飾ります」
         †
 夕食は高円寺以来のチャンコ鍋だった。鍋が二卓に二つずつ載った。ニラ、白菜、ニンジン、キャベツ、三つ葉、いろいろなきのこ、豆腐、鶏団子。うまい、箸が止まらない。小鉢が空になると、トモヨさんがどんどん盛り足した。主人が直人を卓上ガスコンロの火に近づけまいと抱き寄せて、箸で砕いた豆腐を含ませる。
 食事を終え、室内の明かりに照らされる庭を眺めていたとき、不意に夜の熱田神宮を歩きたくなった。
「……熱田神宮にいってきます。夜の境内を歩いて、牛巻の夜空を見て、それからタクシーで帰ってきます」
 菅野が、
「神宮まで送っていきましょうか」
「名鉄でいきます。菅野さんは勉強に精を出してください。あしたも走りますよ。飛島の送迎はお願いします」
 トモヨさんが目を潤ませ、
「いつも思い出といっしょにいるのね……」
 おトキさんがエプロンで目を押さえた。女将もまぶたを拭って、
「ほんとによかったねェ、名古屋で暮らせて。名古屋さんもふるさと冥利に尽きるやろ」
 主人が、
「不思議な執着やな」
 菅野が強くうなずき、
「不思議じゃないです。あそこに神無月さんの魂が住んでるんですよ。いっしょに歩くとピリピリ感じます」
 ラフな茶のブレザーに革靴を履いて、八時近くに席を出た。小ぎれいな、車内の広い赤い電車に乗る。名鉄神宮前まで金山橋を経て二駅。七分。
 神宮前駅のロータリーから信号を渡り、東門を入って、ゆっくり無作為に歩く。白く浮き上がる玉砂利を踏む音がひんやり乾いている。本殿と手水舎を眺め、節子と歩いた道へ曲がる。黒い木群れから灰色の夜空を見上げる。鬱蒼とした林の底知れない闇。道が明るいのは参道のまばらな路灯に反映する玉砂利のせいだろう。
 南門まで歩き、小道を通って国道一号線に出る。右折して伏見通りを進む。みささぎの坂道に出、宮中へ登って、裏門から暗い校庭を眺める。仄かな校舎のシルエット以外何も見えない。本遠寺へ。松葉会の前を通り過ぎる。竹林の奥から灯りは漏れてこない。しばらくたたずみ、ふたたび一号線を横断して大瀬子橋へ。ここから先はいい。雅江の家と千年小学校しかない。渡らずに引き返す。
 右折して、宮の渡しを右に見ながら内田橋のほうへ歩く。左に石田孫一郎の家。人の姿の絶えた道を神宮前へ引き返していく。伝馬町。粟田くんの電器店。東門。神宮前のロータリー。
 踏切を渡り、商店の灯りの絶えただらだら坂を上る。灰色の空がすっかり見える。白い雲が動いている。坂のいただきの小橋から牛巻の交差点へ下っていく。牛巻の信号を渡らずに、牛巻外科を見やる。ここにきた意味を考える。思い当たらない。死の色が押し寄せてくる。引き返す。踏切を渡って、神宮小路に入る。ノラの丸窓が明るい。
 ―おかあさんに逢いにいってあげて。
 法子の声が耳に蘇った。半間のガラスドアの前から引き返す。すぐにヒールの走ってくる音が背後にして、するどく、
「少年!」
 と声をかけられた。振り返ると、
「やっぱり! 何恥ずかしがってるの。会いにきたんでしょ? いま名古屋?」
 小夜子がはしゃいだ声を上げる。路の上に母親とヨシエの姿はない。
「はい。金曜日にキャンプに出発です」
「忙しいのはわかるけど、せっかくここまできたんだから寄っていきなさい。すぐ帰してあげるから」
「はい」


         十八

 店内に入ると客は一人もいない。ヨシエもいない。母親が両手を胸の前に組み合わせて泣き出しそうな顔をしている。
「また逢えましたね……どうぞこちらに坐って……」
 小夜子がオシボリを出す。
「きょうはどうしたの。ここまできて、引き返すなんて。見覚えのある大きな影が見えたから、出てみたら少年なんだもの」
「金曜の朝、明石キャンプにいきます。もう東京を引き払ってこっちへ出てきて、いまカズちゃんの実家に泊まってるんです。夜の神宮の見納めにきて―」
 母親は納得したようにうなずく。
「スケジュールがいっぱいなんですね。それで寄ろうと思っても寄れなくて」
「はい」
 小夜子がビール瓶とコップを出す。
「あまり飲めないんだったわよね」
 そう言いながら、コップにつぐ。口をつける。
「少し飲んで帰ります」
 母親は頬を紅潮させ、
「無理しなくていいんですよ。……ひと月ぶりですね。一年も逢わなかったよう」
 握手する。じっとり湿っている。
「おかあさん、恋人と再会したみたい。真っ赤になってる。あの家はどうなったの?」
「ずっとぼくの家です。東京の港。いま友人が使ってます。そいつも何年かしたら名古屋に出てきます」
「法子も来年ね」
「はい」
 ビールをクイと空ける。もう一杯つがれる。空ける。
「じゃ、これで。お客さんが入ってきたら、賑やかになりますから」
 案の定、客が入ってきた。中年の二人組だ。小夜子のファンのようだ。
「お母さん、少年をタクシー乗り場まで送っていってあげて。もうすぐヨッちゃんがくるからだいじょうぶ」
 わざと私の名前を出さない。
「じゃ、ちょっとお見送りしてきます」
 母親は客に頭を下げて玄関ドアを押して出た。
「少年、またね。明石から帰ったらゆっくり寄って」
「はい、ごちそうさまでした」
 外で母親が待っていた。
「いきましょ!」
 並びかけてくる。
「神宮を歩いて伏見通りに出ましょう。そこで車を拾いますね」
 東門から腕を組んで歩きはじめる。別れがたいように肩を寄せる。哀切な思いが湧き上がる。
「毎日、思い出さない日はありませんでした。法子もときどき電話をくれて、神無月さんが名古屋へ移ったら、年に何回か逢えるわよって励ましてくれて」
「中日球場は金山だから、神宮前と近い。ときどき逢えるかもしれないですね」
「ほんとに、偶然そういうチャンスがあったときだけでいいんです。……愛してます。どうしようもないほど好きです。逢える日をいつも、いつも待ってます」
「何かの機会というのは、意外と多いものですよ。ぼくも心がけます。……法子を大切に思うのと同じくらい、大切に思ってますから」
「信じられない言葉……」
「ぼくも、言ってる自分が信じられない。でもほんとうです」
 伏見通りに出て、きょう歩いた道をなぞるように白鳥橋に向かう。
「来年の一月には法子が帰ってきます。内田橋の旧東海道沿いに手ごろな空き店舗が見つかったので、いまのお店を居抜きで売って、そこの店舗を取り壊してお店兼住居の二階建てのビルを建てるつもりです。店の名前はまだ決めてません。土地を含めて三千万円ほどででき上がります。そのお金はもう用意しました。夏ぐらいからぼちぼち地面の普請に入ります」
「法子も送金してくれてるんですね」
「毎月四百万円から五百万円送ってよこします。それでも何百万円か残るらしくて、神無月さんとの将来のために貯金してるそうです」
「あと十カ月もしたら、忙しくてたいへんなことになりますね」
「はい、これから二十年ほどは景気も右肩上がりらしくて、上級サラリーマンからの収入が見こめるんです。水商売はしばらく安泰じゃないでしょうか。でも、どんなことにも波はありますから、いつ引退してもいいようにお金を貯めておきます」
「ぼくも十年がんばろうと思います。十年も一本道を歩けるなんて、考えただけですばらしいですね。でも、全盛期は五年とつづかない。そのあとの五年は、技術的な貯金で流すだけでしょうね。そういう生き方は趣味じゃないので、五年もしたらぼくは引退を考えだすでしょう。それからどうするか、皆目見当がつきません」
 ……たとえ野球以外の人生の流れに飛びこんだとしても、その流れの中で自分なりの泳法を守ること。その自戒を貫けばおそらく、それほどぶざまではなくしばらく生き延びられるだろう。
「そんな心細いこと言わないでください。一日でも長く野球に打ちこんで生きてください。私たちが神無月さんの消息を見失わないように」
「そういう言葉には励まされます。野球を恋人にして長生きしろってことですからね」
「野球は恋人じゃなく愛妻です。野球以外の恋人は、ときどき訪ねてあげればいいんです。そうやって長生きしてください」
「ふうん、野球と結婚ですか。でも、野球以外のものと結婚して、世間並みの安心感の中でときどき野球と浮気するというのが長生きの秘訣かもしれないですね。でも、ぼくは浮気できないタチだからなあ。野球でないものといっしょに朽ちていくでしょうね」
「ラクな選択をすると、ほんとにそうなってしまいますから、野球以外のものと浮気してはいけません。神無月さんの野球の才能を心から愛する人たちが許しません」
「ぼくは長嶋や王ではないですよ。許さない人なんて数えるほどでしょう。いまはいっとき騒がれてますが」
「自分のことがわかってないようですね。神無月さんは大勢の人に愛されるように生まれついたんです。野球でないものは神無月さんにとって危険物です。野球よりラクでも危険です。危険に飛びこむだけが勇気ある選択肢ではありません。飛びこみたい誘惑に耐えて自分の道を進むにも勇気が要ります。……人は五十年も六十年も生きてくると、平凡と特殊の区別ができるようになります。神無月さんは特殊な人です。特殊すぎるほど特殊な人。すごいのは、その特殊さをひけらかすどころか、平凡な人たちに対して申しわけなさを感じているところです。平凡な人たちのために死んであげようとまでするところです。ときどき、中日球場へ応援しにいきます。いつも、いつも見守っています。プロ野球は長丁場のスポーツです。くれぐれもおからだに気をつけてね。クエ鍋のようなお食事会を、またいつかみんなでゆっくりしましょうね」
「そうですね」
 肩に手を置いて話しかけようとすると、
「何も約束しちゃいけません。お気持ちはわかってますから。神無月さんは心が澄みわたっているんです。そういう人を女はどうすればいいと思います? ただ振り仰ぐしかないんですよ。振り仰いで、そばに降りてきてくれたら、ありがとうと言って抱き締め、去っていくときはありがとうと言って送り出す。待っていることさえ不謹慎です。一人を目指して降りてくるんじゃなく、気まぐれにその場所に降りてくるからです。……神無月さん、生まれてくれて、ほんとうにありがとう。私たちのためにいつまでも、いつまでも生きていてくださいね」
 白鳥橋のたもとから神宮へ戻り、伏見通りの坂道でタクシーを拾った。
「さようなら」
「さよなら」
 私は握手してタクシーに乗りこんだ。母親が手を振る姿が視界から消えるまで、私は手を振りつづけた。
         †
 十一時に北村席に着いた。トモヨさんが起きていた。
「お帰りなさい。神宮はどうでした」
「じっくり歩いてきた。よかった。しみじみした」
「牛巻も?」
「うん、いってきた。宮中も、松葉会も。もちろん松葉会は訪ねなかったけど」
「お腹は?」
「へってる。ごめんね、夜中に」
「郷くんにならいつ起こされてもかまいません」
「それ、殺し文句だね」
「はい。こういうのはタイミングが大事です。言うときを見きわめないと」
「お礼をしないとね」
「いつもしてもらっています」
 すぐ食事の用意にかかる。
「直人は?」
「ぐっすりです」
 うまい夜食だった。黄身をつぶした目玉焼き、板海苔、キュウリとナスの浅漬け、豚肉にシイタケ、キャベツ、白菜、豆腐を混ぜたピリ辛炒め、とろろ昆布の赤味噌汁。めしを三杯食った。
 離れにいき、二人で風呂に入る。母屋よりもふた回り小さい杉風呂だ。
「お礼―」
 自然と唇を合わせて跨ってくる。
「ああ、幸せ……このままじっとしているだけでじゅうぶんなお礼です。あ、気持ちいい……あ……イ……あああ、イク、郷くん、イク!」
 自分の前後運動の反射で、それからは自動的に尻を動かす。胸を揉む。それはよほどうれしいことらしく、悶え、四回、五回と達しつづける。尻を引き寄せて射精し律動する。
「郷くん! イク! ググ、イグ!」
 抜いて抱き締める。湯船が波打ち、からだが跳ねる。湯の中で胸を抱き寄せ、子供を宿している腹に掌を置く。
「好き好き好き、死ぬほど好き!」
 トモヨさんは私の顔を両手で挟み、むしゃぶるようにキスをする。
 風呂から上がると、トモヨさんはぐったりして、下着をつけられそうもなかった。直人の寝室まで肩を貸して連れていき、すやすや寝ている直人と並べて寝かせ、下着を穿かせる。もう一度腹を撫ぜた。枕もとにいい香りがする。化粧品の香り。部屋を見回す。きちんと整っている。鏡台、洋服箪笥、和箪笥、大振りな書棚もある。料理本が多い。コーヒーテーブル。スポーツ新聞ばかり載っている。箪笥の上に、おそらく田舎の両親とおぼしいセピア色の写真が立ててある。その横に、私の小さなユニフォーム姿の写真も立ててあった。新聞から切り抜いたものだろう。十四インチの白黒テレビ。カーテンが花柄だ。床は散らかっていない。清潔好きの性格が偲ばれた。トモヨさんが薄く目を開けた。
「ごめんなさい。夢中になってしまって」
 川の字の真ん中に寝ている直人越しに見つめ合っているうちに寝入った。


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