三十一

 廊下で続々と首脳陣と遇った。しっかり頭を下げた。水原監督が、
「薄暗い廊下でも青白く光ってるね。鬼火のようだ。太田くん、神無月くんは奇人だから疲れるかもしれないが、よろしくね。きみのバッティングは見どころがあるよ。もっと前を大きく取りなさい。ファームのできしだいでは、一軍スタートもありうるよ」
「……はい」
 いま私に言われたばかりのことなので、太田はぽかんと私を見つめた。長谷川二軍コーチが、
「二階の喜春(きはる)の百人部屋のほうです。一、二軍総勢六十五名。あしたからは二軍三十二名とは顔を合わせません。よく見ておきなさい。神無月くんと同じ東大の井手というのも二軍だ。来年からバッターに転向させようと思うが、果たして……」
 本多コーチが、
「ニュース見ました。周りを圧倒してたね。太田もいい味を出してた。あんなふうに記者たちを扱えるなら、何もマスコミを嫌うことはないんじゃない? ドラゴンズのすばらしい宣伝をしてくれました。関西地区のファンを増やしたね。ありがとう。太田、ほれ、傷用の大きい絆創膏。朝貼っとけ。テレビに映ってたぞ」
 小さなビニール袋を差し出す。
「はい、ありがとうございます」
 太田は押しいただき、スーツの内ポケットにしまった。村迫代表が頃合を見計らったように榊といっしょに出てきた。
「まいりますか。五分ほど遅れましたかな」
 喜春の間で名札のとおりに着席した。テーブルの同席者は、太田、田宮一軍コーチと長谷川二軍コーチだった。入団式と同様、首脳たちの席にいちばん近いテーブルだった。彼らの賓席は十センチほど高い壇に据えられていた。水原監督が壇上のテーブルからキャンプ開始の檄を飛ばした。檄といっても穏やかなもので、
「個々の努力はチームの戦果に結びつく。目標はもちろん優勝です。一歩でもそれに近づけるように鋭意奮闘してほしい。諸君たちを信じている」
 それだけだった。長髪問題で青高が揺れたときの小野校長の言葉を思い出した。雰囲気まで同じだった。賓席の榊が立ち上がり、
「あしたから、一軍、二軍、席を同じゅうせずの生活になります。この機会におたがいを見知っておいたほうがいい。個々の努力と監督はおっしゃったが、あこがれがなければ人は努力しない。この機会に一軍選手の輝きを目に焼きつけておくことです。一軍選手も不調になれば、その輝きが失せる。それゆえ一軍諸君も、自球団であれ他球団であれ、自分のあこがれの選手を高く目標に掲げて、精いっぱい努力をしてほしい。それでは、村迫球団代表に乾杯の音頭をとっていただきます」
 村迫が立ち上がると全員立ち上がった。
「中日ドラゴンズの優勝を祈願して、乾杯!」
「乾杯!」
 酒の強くない私は、もっぱら料理に専念することにした。幸いなことに和会席だった。刺身、エビと野菜の天麩羅、茶碗蒸し、しいたけの焼き物、蟹の爪、各種おひたし、めしと赤味噌。
「太田、エビやカニを剥くと手がかゆくなるんだ。剥いてくれる?」
 図々しいと思ったが頼んだ。幼いころ野辺地でカニを剥いていて、手の甲が赤く腫れ上がったことがあったからだ。以来甲羅や殻に触れたこともない。
「アレルギーですね。わかりました」
 鋏を使ってせっせと蟹を剥く。報道陣が入ってきた。フラッシュがほうぼうで光る。女のレポーターが各選手に遠慮なくマイクを向けている。大手のテレビ局も混じっている。こちらにこないことを祈った。その表情を見かねて、榊が寄ってきた。
「むこうも怖がってるよ。きょうのニュースみたいに気楽に、気楽に」
 そう言って、ほかのテーブルへ移っていった。太田が鋏の手を止めて、
「神無月さん、ふつうにしてればいいんですよ。神無月さんのふつうは、〈へん〉ですから、彼らも笑っちゃいますよ」
「秋季練習サボったのか、とか訊かれたら困ってしまうなと思って」
 長谷川コーチが田宮コーチと顔を見合わせて笑い、
「自主トレしてたんだから、困ることないじゃないか」
「はい、このふた月、しっかりやってました。ほとんど毎日、四キロから十キロ走り、二百から三百の素振りをし、腹筋、背筋、 腕立ては欠かさずやりました」
 長谷川コーチは笑いだし、
「わかったわかった、合同キャンプのやつより、しっかりやってるよ」
「ダッシュはやってません」
「それはあしたからだ。遠投、気をつけてな」
「はい、田宮コーチにも注意されました。たった一本残った腕ですから大事にします」
 報道陣も選手もだれも近づいてこない。胸を撫で下ろしたとたん、江藤が近づいてきた。竿マイクとレポーターが便乗して走ってくる。武者顔がギョロリと目を剥き、
「初めまして、江藤です。昭和十二年生まれやから、きみより一回り上やの。もうロートルばってん、まだ三十本はいけるばい。きみが敬遠されたときのために、今年は五番を打たせてもらうよう進言しとる。正直なところを言わしてもらうと、ワンちゃんのホームラン王ば奪取してきみが三冠王になるのは確実たい。しかもダントツのな。プロのバッターならそぎゃんこつだれでんわかる。打率は五割以上いくんやなかね。ホームランは、百本は確実たいね。打点はわからん。それがいちばんの難関ばい。きみだけの責任じゃなくなるけんな。せいぜい足を引っ張らんようにやるけん、いっしょにがんばろう」
 握手を求める。私は立ち上がり両手で握って礼をした。ストロボが焚かれる。
「彼が三番を打ちますよ」
 太田を手で示す。
「うん? ああ、太田くんね。本多さんから聞いとるばい。たぶん島谷くんとデッドヒートになるやろ。期待しとるよ」
 江藤は太田とも握手する。フラッシュ。水原監督が賓席から降りてきて、何人かベテラン選手を手招きした。中、高木、木俣、板東、小川、一枝、若生、五年前大毎からきた葛城、去年サンケイからきた徳武、去年大洋からきた小野。
「ご存知だろうと思って顔見世が遅れたが、わが中日ドラゴンズの不動の四番バッター神無月だ。しっかり力を合わせて、優勝を勝ち取ってください」
 私が頭を下げると、みんなにこやかにうなずいた。板東が、
「プロの球を打ったことあるんか」
「一度もありません」
 水原監督の眉がピクリと動き、
「神無月がどの程度の力か、あした〈プロ〉のみんなで投げて確かめてくれ。箸にも棒にもかからなかったら、その日のうちに本人が退団すると思うよ」
 一同を恐ろしい目で睨んで賓席へ戻った。木俣が、
「バンちゃん、失言やったね。あした、フリーで投げる?」
「肩やられてまうわ。エースの健太郎と勉ちゃんが投げるやろ」
「勉ちゃんはまだ二軍やで」
「そうやった。土曜の紅白戦で投げさすまで二軍に置いとかれるんやった。小野の親分の速球でも見せたるか。手も足も出んで。とにかくプロの洗礼受けさせんと、慎ちゃんに申しわけないがな」
 江藤がギョロ目を剥いて、
「バンちゃん、ふつうの感覚でものしゃべったらいけんぞ。神無月くんはアマチュアからプロに成長するゆう器やなか。生まれつきの天才ばい。頭下げんば」
「天才がなんぼのもんや」
 へらへら笑って、自分のテーブルへいってしまった。ついに始まったと思った。わくわくした。NETテレビという腕章をはめたレポーターが蒼白になっている。田宮コーチがレポーターに、
「プロは自分の目で確かめないと納得しないものなんだよ。神無月は打って見せるまでは一日でも二日でもこういう目に遭う。しかし、しょうもないやっちゃ。慎ちゃん、あしたのフリーは一軍のピッチャー全員投入して、板東に思い知らせんとあかん」
 エースの小川健太郎が、
「つまんないトバッチリ食っちまったな。打たれるに決まってるだろ。みんなビデオ見たよな。バットの初動がカメラでもつかまらないんだぜ。電光石火のスイングだ。なんとか抑えられるのは江夏ぐらいだろ。それも十回のうち二回だ。八回は打たれる」
 トレードで大毎からきた小野正一が、
「ぼくは遠慮しますよ。トレード二年目の今年に賭けてるんだ。自信を失ったらたまらない。同じチームでよかったと安心してたのに、御免こうむる。打たれるのはほかのチームのピッチャーでいいでしょ」
 江藤が、
「神無月くん、ごらんのとおりだ。勘弁してくれ。主軸のピッチャーを滅多打ちされるわけにはいかんのよ。ふつうのバッティングピッチャーでフリーをやってくれ。それでも一応、一軍のプロやから」
「わかりました。ただ、ぼくは実際、プロのボールを打ったことがないんです」
「……きみの手首のコントロールは人間のものでなか。最初は目がプロのボールのスピードと変化に戸惑うやろが、秒速で見切ってしまうやろうもん。謙虚なことを言わんでよか。みんなわかっとるけん。板ちゃんもわかっとる」
 江藤の印象が紳士的なものに変わりはじめた。長谷川コーチが、
「二軍から回そうか」
 田宮コーチが、
「いや、いい。伊藤と門岡と山中に投げさせる。そのあとで板東に投げてもらう」
 中が、
「バンちゃん、去年一勝だろ。ヤケになってるんだよ。神無月くんの恐ろしさを知らないわけじゃないんだ」
 徳武が、
「常人のバッティングじゃないからなあ。プロとかアマの問題じゃない。俺、自分がいやになっちゃったもの」
 若生が、
「私も去年一勝です。私は投げたくないです。全球打たれると感じましたから」
 高木守道が、
「だれが何と言おうと、言いだしっぺの板東さんに投げてもらうしかないでしょ。これは冗談ではすまされないですよ」
 かつての大毎のスラッガー葛城が、
「神無月くん、いま中日ドラゴンズは血が古くなってる。ぼくも含めてトレード組はほとんどロートル集団だ。生え抜きの江藤や中や高木や一枝は真っ盛りだが、残りは過去の栄光にすがって生き延びてる選手ばかりだ。きみほどじゃないが、みんな野球の天才なんだよ。それだけにプライドが高い。勘弁してやってくれ」
 みんなそれぞれのテーブルに戻っていくと、毎日放送の女レポーターがマイクを差し出し、
「合同練習を控えて自主トレをなさった神無月選手にとって、きょうは初顔合わせの新歓コンパみたいなものですね。先輩にとんでもない洗礼を受けたわけですけど、だいじょうぶですか」
 長谷川コーチが上を向いて目をつぶっている。田宮コーチが、
「爆弾発言したら、カットしてくださいよ。神無月は変人だからね」
 マイクの女はうなずき、
「神無月選手の爆弾なら、受けてみたいです」
 私は、
「爆弾なんてもの搭載してませんよ。合同練習を回避したわけじゃありません。ぼくは幼いころからスタミナが課題なんです。短期の集中訓練では効果が薄い、長期の継続訓練こそトレーニングの本質だと信じてるんです。特訓というものに信仰がない。あしたからは肺活量を増すために、ダッシュをまじめにやろうと思ってます」
「わ、ほんとですね、じつに正直なご意見でした。今年の目標は?」
「ホームラン八十本。プロでがんばれる体力づくり。大勢の人にホームランの美しさを知ってもらうこと」
 浜野がやってきた。
「百本と言え。百三十試合、一本ずつ打てば百三十本だろう。どんなスランプがあったって、五十本はいくさ。とにかくおまえに打ってもらわないと、中日の優勝はないよ。おい島谷、こっちこい!」
 背広姿の島谷が走ってくる。
「何ですか。ぼくにインタビュー?」
「胴長短足のおまえに女子アナウンサーがインタビューするか。太田、おまえと島谷にフロントはとんでもなく期待してるんだ。徳武さんと葛城さんの穴をおまえら二人に埋めてもらおうってな。江藤さん三番、神無月四番は不動だ。一番中さん、二番高木さん、このへんも不動だ。木俣さんと一枝さんは五番か六番だろう。とするとおまえと島谷が七番八番を打つわけだ。準クリーンアップだ。責任は重いぞ。打てなきゃ、即、徳武さんと葛城さんに交代だ」
 ペラペラしゃべる男だ。準クリーンアップ? そんなものあるはずないだろう。徳武と葛城を新人の控えかなんかのように言うのも失礼だ。太田が、
「そこまで話がいってるんですか。俺、まだ二軍ですよ」
「ピッチャーやめて、バッティングに慣れさせるためだ。ですよね、長谷川コーチ」
「…………」
「そのために神無月と同部屋にしたんだよ」
 田宮コーチが苦笑いしながら、
「浜野はいつも聞き耳立てて私たちの背中にいるからな。オープン戦から交代で二人に八番を打たせる。ま、このひと月の辛抱だ。開幕からは六、七番だ。そのつもりでいろ」
         †
 いつのまにか記者たちが集まり、あわただしくメモをとっている。女子アナウンサーが田宮コーチにマイクを向け、
「神無月選手は、三月のオープン戦からフル出場ですか」
「そうだ。彼のホームランを日本中の人たちに観てもらう。さあ、インタビューは終わりだ。ゆっくり飲み食いさせてくれ。浜野、オープン戦は、五試合は投げてもらうぞ」
「まかしてください。神無月、俺の投げる試合はかならずホームラン打てよ」
「だれの投げる試合でも打ちます」
 太田やコーチたちとビールをつぎ合った。幹部席では、水原監督を中心に笑顔でビール瓶のやり取りがなされていた。私はまた宇賀神の姿を探した。どこにもなかった。彼に会いたい気がした。
「あしたの練習開始は何時ですか」
 榊スカウト部長が、
「おーい、宇野さん、あしたからのスケジュール発表して」
 賓席の下の段のいちばん端のテーブルにいた宇野ヘッドコーチが立ち上がり、
「最初にプリントで配ったのより少し細かくなった。八時にこの会場で朝食、各自の部屋でユニフォームに着替えて、九時半に球場入り、ウォーミングアップ、キャッチボール、十時半から、ピッチャーは屋内練習、野手はトスバッティング等自由に、フィールドは外野手がランダウン」
「ランダウン?」
 新人たちがざわめく。
「二、三塁間の挟殺だ。十一時から内外野ノック、外野は十本セカンドへ。三本はホームへということになっているが、肩がまだできあがっていないと思うやつは無理をしないようにしてくれ。内野は三十本、さまざまな形でダブルプレー。十二時から二階レストランで昼食、一時からフリーバッティング、レギュラー十八名、五本ずつ五周り。四時から、コーチが指定した選手のみ特打、特守。その他の者は引き揚げてよろしい。六時からこの会場で夕食。七時半ミーティング。八時解散」
 太田が、
「俺は二軍だから、ちがうスケジュールでしょうね」
 長谷川コーチが、
「あたりまえだ。もっときつい。巨人の練習ぐらいだ」
「巨人て、そんなにきついんですか」
「球界ナンバーワンだ。いわゆる、内野の猛ノック。たいていのやつが吐く」
 私はすかさず、
「無意味ですね」
「ああ、でき上がってる人間の技を鍛えても無意味だ。精神修養を旨とする川上さんの方針だから仕方ない」
 太田はびっくりしている。
「……無意味なんですか」
「そうだ、疲労骨折や肉離れといったケガのもとになる。優勝は猛練習のおかげだと信じこんでるんだな」
 太田は不安そうに、
「俺、内野ですか……」
「レフトだ。一軍にきたらライトを守らせる」
 笑顔がこぼれた。
「あしたあたりから一週間、朝方零下になるそうだ。からだを冷やさないように気をつけろよ」


         三十二

 離れたベッドに仰向けになり、自動販売機で買ったジュースをちびちびやりながら太田と長いこと話した。
「あれから五年ですね。こうしているのが嘘みたいだ」
「人間の感想なんて、そんなものしかないもんだ。それですべてなんだね。ぜんぶ嘘みたいなもんだよ。それを信じて生きる。楽しいね」
「俺、神無月さんとこうしているのが信じられないし、ものすごく楽しいです」
「……太田、キャンプを打ち上げたら、名古屋のぼくの家に遊びにこいよ」
「はい、いきます。スポンサーの家に下宿してるんですよね」
「そんなことまで新聞に載ってるのか」
「はい、調べ尽くされてる感じですよ」
「尽くされてはいないな。家にくるとなると、当然、新聞に載ってないことを知ることになる。太田は偶然同じ釜のめしを食うことになったむかしからの知り合いだ。奇遇なんてものじゃない。ぼくはそういう人間には特別な思い入れをしてしまう。ショックを与えないように、いまのうちに言っておきたい。このことは、おのずと知られるまではおまえ以外のだれにも言わない。……じつは、ぼくには女がたくさんいる」
「…………」
「驚くには当たらないよ。たとえば太田は、夜の女と何人ぐらい寝た?」
「うーん、四、五十人ですかね」
「それよりずっと少ない。半分もいない。出会いを大事にしたい女と付き合いつづけてると考えたら、別に驚くほどのことじゃない」
「はあ―」
「恋人になった経緯は割愛するよ。とにかく四、五年のあいだに大勢になったんだ。みんな、ぼくが死んだら死ぬ気でいる。実際死ぬかどうかわからないけど、それほどの覚悟でぼくのそばにいる。もしこの先彼女たちに顔を合わせることがあったら、そういう目で見てほしい」
「わかりました」
「初めての女は、その中の三十四歳の北村和子という人だ。通称カズちゃん。三月がくると三十五になる。だれとも比べられない、いちばん大切な人だ。彼女の実家は名古屋駅の西口にある置屋さんだ。つまりむかしの売春婦斡旋所。北村席と言って、いまは名古屋ナンバーワンのトルコ風呂を経営してる。そこのご主人、つまりカズちゃんのお父さんがぼくの大ファンで、家まで建ててくれた。三月に完成する」
「―つかみました」
「北村席にトモヨさんという賄いさんがいる。もと売春婦で、直人という男の子の母親だ。彼女は北村のご主人の養子で、ぼくの女でもある。つまりその子はぼくの子だ。直人が生まれたので、親切なご主人は、直人の将来に不都合が出ないようにトモヨさんを養子にしたんだ」
「つかみました」
「ほかの女たちのことはいずれわかってくる。その北村席に遊びにきてほしい。ぼくの新居は三月末に完成だから、そこにもいつでも遊びにきてくれ。太田のことは家の人たちによく伝えてある。女たちはこのことを社会的に知られてはいけないと警戒して、けっして口外しないようにしている。だれにも知られてはいけないと思っている。だから、知っているとにおわせないでとぼけてくれ」
「……つかみました。要するに、神無月さんの知られざる世界ですね」
「知る人ぞ知るの世界だ。東奥日報の親しい記者連中だけが一部を知ってる。ぼくを青森からずっと追いかけてる人たちだ。彼らの記事を基にして、大手の新聞社も記事を書いてるところがある。中の一人の浜中という記者は、ぼくの引退後、伝記を書く準備をしてる」
 太田は掌を枕にし、
「神無月さんは奇跡の人です。何を聞いても驚きません。俺だけに話してくれたんですから、秘密も守ります」
「それだけじゃない。ぼくは寺田康男の親友だ」
「知ってます。番長……彼は元気ですか」
「いま松葉会の中堅どころにいる。あの八カ月の見舞いに、松葉会の若頭がいたく感動して、ぼくを後援するようになった。ついでに、ぼくを後援する北村席をバックアップするようになった」
「はい」
「ぼくの背中には、幸か不幸か純正のヤクザがついてるわけだ。しかし彼らは、自分たちに近づいちゃいけない、近づくと社会的に葬られる、と常々警告する。つまり彼らはぼくを遠ざけることで、自他ともに自粛を強いているので、この関係が公になることはぜったいない。どういう形でぼくを後援してくれてるかというと、一つにはボディガード。新人入団式のときも、ぼくを会場に無事に導き入れ、無事に連れ出してくれた」
「ああ! あのとき、神無月さん、急にいなくなりましたね」
「北村席の周辺も暴漢が侵入しないように衛ってくれてる。自発的にね。キャンプ期間のひと月も、そこらあたりにいて目を光らせてくれていることはまちがいない。球場内でも客に紛れて見張っているだろう。太田がぼくの親しい人間だとわかったから、その報告は若頭にいってるはずだ。太田もこれからは安全だ。好きなように行動してくれ。マスコミ対策も万全だ。だれかのやっかみで窮地に陥れられることはない」
「つかみました」
「もう一つは、折々の多額の義捐金だ。何かのイベントごとに送金してくれることはもちろん、ぼくの記事を載せつづけている東奥日報に一般人の名前で二百万も寄付した。ぼくに見返りを求めることはない。松葉会は野球賭博とは無縁なので、その方面も心配しなくていい。この先そういう噂が出たら、それは大阪以西の暴力団の仕業で、松葉会とは関係ないと理解しておいてほしい。松葉会は、ある意味、むかしふうの義俠を重んじる清潔な集団だ。ふところがさびしい様子を見せると関西系につけこまれるから、いつも財布が重いふりをしているのがいいよ。球団内にも賭博のウィルスは潜んでいるはずだから、ぜったい風邪をひかないように」
「はい! しっかり、つかみました」
         †
 二月一日土曜日。曇。室内の簡易温度計は九・九度。キャンプ初日。みなぎるものがある。枇杷酒でうがい。太田と交代でシャワー。ランニングは、三週間球場でやることにする。球場以外では、ジャージで通すことにした。廊下を歩くたいていの選手がそうしていたのでまねすることに決める。監督、コーチまでその格好をしていた。
 八時半、朝のバイキング。おかずよりもめしをたくさん食うよう心がける。今朝はカレーを二杯食った。
 二軍の練習は開始時間が早いので、太田は私より一時間ほど先に出た。
 ゆっくりユニフォームを着こみ、運動靴を履き、机の脇の姿見の前に立つ。胸に英語で Dragons の臙脂の装飾文字と小さな番号8、袖と首に臙脂の一本線、左肩にデフォルメした金の竜、東大とよく似たコバルトブルーのアンダーシャツ、ストッキング、帽子。額に白くCとDが重なったマークがついている。
 北村席から届いていたダッフルに、スパイク一足とグローブとタオル三本を納れ、バットケースに久保田バットを二本収めてホテルの玄関に出る。選手たちと合流する。玄関前に報道陣は十人ほどしかいない。ほとんどの記者たちは球場にいるのだろう。すでにユニフォームとウィンドブレーカーに着替えた水原監督とコーチ陣が、ドア前の空間にたむろしている。彼らも運動靴を履いている。選手みんなで挨拶する。
「おはようございます!」
「おはよう」
 水原監督が先頭切って歩き出しながら私たちに言う。
「記者連中は球場のほうに詰めかけてる。気を散らさないようにね」
「ウス!」
 明石駅に向かって歩く。公園の入口に立ち、振り返ると、電車の高架から陽が真っすぐ顔に射してくる。宇野ヘッドコーチが公園の正門右手の堀端にある銅像を見上げ、
「この銅像は、大洋漁業の創始者である中部幾次郎だ。漁船のエンジンを発明したりして、豊田佐吉みたいな男だよ。彼の次男が大洋ホエールズを設立した」
 遠い無縁の人。人びとの知識の中にだけいる人。
 入ってすぐ右手に薬研堀、美しい城垣と潅木と芝と小池に挟まれた小砂利の遊歩道を進む。明石公園には堀や池があり、芝生があり、樹木があり、明石城の遠景がある。あらためて美しい公園だとわかる。道をいく選手たちの白地のユニフォームがまぶしい。一対の美しい天守閣を見やりながら球場の正門に到る。二層の背の低い球場。セコイアの足もとに丸い石杭が十本ほど並べてあるだけの小さな通用口だ。見上げると、バックネットの上端が見える。照明塔は立っていない。
 監督、コーチが廊下から右と左のベンチへ散っていく。選手たちは室内投球練習場の脇のロッカールームに入った。江藤の9番が真っ先に目に飛びこんできた。申しわけない気分で運動靴をスパイクに履き替える。太紐をしっかり締める。しっかり締めておかないと捻挫などのケガをしやすくなる。ふくらはぎの半ばまでズボンをたくし上げ折りこむ。野球選手の美の原点だ。江藤が寄ってきた。
「気にしとる顔よのう。背番号なんぞ大した問題でなか。神無月くんは皮膚に貼りつくごてユニフォームが似合うとるよ。野球の申し子たいね。きみを見るためにホテルをとった人も相当おるらしか。さあ、やるばい。なんかからだが軽か」
 江藤につづいてベテラン選手たちが次々と私の前にやってきて、笑顔で握手を求める。立ち上がり、握り返しながら礼をする。中が、
「ようこそ、中日ドラゴンズへ」
 それがみんなの代表意見だった。胸に迫った。
「よろしくお願いします」
 ベンチに入る。フィールドに選手と新聞記者が入り乱れている。子供のころ中日球場で見たとき、あんなに華麗なユニフォーム姿に映っていたのに、彼らの着こなしが意外に無骨であることがわかった。特にズボンの折りこみに気を配っていない。ストッキングのブルーが見える割合にまったく無頓着なのだ。へたをすると、ブカブカの股引を穿いているようにも見える。スパイクも平べったくて、まるでチャプリンだ。私が似合っているのではなくて、彼らが似合っていないのだ。
 グランドへ飛び出す。内野の観客席が野球ファンでびっしり埋め尽くされているのに驚く。トレンチコートを着たサラリーマンふう、私服の小学生、詰襟に学生帽の中学生や高校生。女性はほとんどいない。おもちゃのような明石城を控えた三塁側芝生席も観客で九割方埋まっている。背広姿の球場関係者や、きちんとユニフォームを着たトレーナーたちが外野でボンヤリ日向ぼっこをしている。
 フェンス沿いのランニングに混じる。十人余り。ウィンドブレーカーを着た水原監督が腕組みをして見守る。
「神無月イ!」
「江藤!」
「中ァ!」
「モリミチ!」
「木俣ァ!」
 大歓声に背中を圧されるように、フィールドにあふれていた五十人に余る報道カメラマンが左右スタンドの前列に席を占め、キャンプ初日の選手たちの写真を撮ろうと身構える。カメラ、ビデオカメラ、ストロボカメラ、フラッシュカメラ。シャッター音。光。一万人に近い観客は、地元民や、あるいはわざわざ遠方からやってきた人びとだ。古びたバッティングケージ、マウンドの前の打球防御ネットが目に涼しい。ついにプロ野球人としての生活が始まった!
 ウォーミングアップ開始。田宮コーチが、
「レフト芝生でキャッチボールのあと、ライト芝生で五十メートルダッシュ三本、十数名ずつ、十五分で交代。どちらも柔軟体操をやってからだぞ。サードのファールグランドでトスバッティング、トスは半田さん。目を慣らしたいやつはやっておけ」
 私はレフトのポールまで走り、その下で柔軟と腕立てをやった。芝生席から轟音のような喚声が上がる。つづいてドッという笑い声に振り向くと、フィールドに入りこんだ小学生ファンを江藤が背負って、おどけたふうに走っている。
「荒法師!」
「闘将!」
 二十メートルほど走って背中から下ろし、尻を叩いて帰らせる。スタンドが温かい笑いに満たされる。小学生はからだじゅうを喜びでいっぱいにして、内野フェンスをよじ登り一塁側芝生席へ戻った。
 キャッチボールは後回しにしてライトに回り、一枝と浜野と三人で五十メートルダッシュ。ライト芝生席の喚声。フラッシュの閃光。私の五十メートルは速い。二人を三、四メートル引き離す。バック走でライトポールへ戻る。
「神無月ィ!」
 ひっきりなしの声援。高木と、鈍足の木俣が私に挑戦する。高木を二メートル、木俣を五、六メートル引き離す。笑いの混じった歓声。バックステップで戻る。高木が輝く歯を見せて笑う。
「いいストライドだ」
 最後は俊足の中と本気で走る。一メートルほど離した。大歓声。ベビーフェイスの木俣が、
「恐ろしく速いなァ!」
「盗塁王獲るか!」
 中が叫ぶ。
「そこまでは―。塁に出たら貢献しようと思います」
 見回すと、両腕を回しながら塀沿いのジョギングをしている連中、腿を高く上げ、からだをねじりながらジョギングをしている連中、ひたすら柔軟をやっている連中。さまざまだ。自由のにおい。
 レフトへ戻っていき、強肩江藤とキャッチボール。二十メートル、四十メートル、六十メートルと伸ばしていく。江藤のボールがグローブに重く刺さる。プロの重みだ。私は肩に力をこめず、手首を利かせて投げ返す。十月末以来のキャッチボールなので、肩を使うのはまだ怖い。江藤のグローブがパーンと鳴る。ウオーという喚声。
「強かボールたい! ギューンと伸びてくるのう」
 思わずもっと強いボールを投げたくなるが、がまんする。徳武が、
「慎ちゃん、神無月くんは全力で投げてないよ!」
「なんやと!」
 走り戻ってくる。
「腕見せろ」
 シャツをまくって見せる。
「うへ! 前腕が丸太ばい。何じゃこりゃ、手首の骨がムゴー発達しとるわ。マシンやな」
「江藤さんの肩もすごいです」
「オタメはよかよ。ようし、ランダウンたい。内野、ベースにつけ。千原、時夫、新宅、ランナー適当にいけ。水原さん、ノックよろしく!」
 白い帽子をかぶった水原監督みずからノッカーに出る。江藤と葛城がライト、中と江島がセンター、バカでかい菱川という黒人のような男が私といっしょにレフトの守備についた。背番号10。丸顔のスッとした顔をしている。カシアス・クレイに似ている。背番号37の江島と、背番号10の菱川の名前を知ったのはつい一分前だ。田宮コーチが守備位置を指定するとき、大声で呼び捨てにしていたからだ。二人のことは知識になかった。セカンドは高木、ショート一枝、サード徳武。
「あなたは、外人ですか?」
「遠慮のない野郎だな。見てのとおり、黒人とのハーフだ。生粋の日本人だよ」
「よろしくお願いします。神無月郷です」
「知ってるよ。自己紹介は嫌味だろ」
「…………」
「どうした、じっと見て。みっともない顔か?」
 昭和四十年二月、青高受験直前、じっちゃの新聞。
「いえ、かなりの美男子です。……あなたは、新人のとき、グランドで大の字になっているところを写真に撮られたことはありませんか。昭和四十年二月のキャンプのときです。大型新人堂々の昼寝、と書いてありました」
「ああ、あれか。撮られた。猛練習でアゴが上がっちゃってな。寝ていたわけじゃない」
「やっぱり。そのころのドラゴンズは猛訓練だったんですか」
「俺にとってはね。中日の練習がラクなのは球界ナンバーワンだ。それでも俺にはきつかった。俺は菱川章(あきら)。二十一歳。背番号を江藤さんに盗られた」
「―ぼくのせいです」
「そうだ。迷惑なお客さんのせいだ。しかし、キャンプでこんだけ騒がれるやつもめずらしいな。長嶋さん以来じゃないか。カメラがおまえばっかり撮ってるよ。俺も江島も、今年は出番が減るな。江島は強肩強打だから、江藤さんがファーストに回れば、右翼でレギュラー獲れる。あの野郎、去年新人でスタメン出場して、三試合連続ホームランなんか打っちゃってさ。シャクだけど、なかなかの逸材だ」
 あなたは、と訊こうとしたがやめた。からだ全体に怠惰のにおいがしたからだ。
 するどい打球音が響いた。水原監督がすばらしいスィングでライト定位置へフライを上げる。一塁走者高木時夫と二塁走者千原陽三郎がタッチアップする。一塁走者は形だけのスタートなので、すぐに帰塁し、二塁走者は三塁へ全力疾走する。セカンドではなくショートへノーバウンドで中継の送球をすれば、二人とも進塁できない。江藤の送球はセカンドベースに直接返ってきただけだった。二塁進塁は当然阻止。三塁進塁は許した。葛城も同じだった。レフトへ深いフライが打ち上がったときはどうなるだろう。やはりショートの定位置へ矢のような送球をすればいいのか。ちがう。三塁ベースで一人タッチアウトにするしかない。二塁進塁は許すかもしれない。センターのフライは、セカンドへ送球するだけで二人とも動けない。だからセンターの練習は、センター前ヒットの打球を捕球したあとの本塁突入を防ぐバックホームだけになる。中継を入れてもいい。
 そう思っていたところへ、深いフライが飛んできた。一度だけ肩を使って、あとは自重しよう。ワンステップし、肩と手首をじゅうぶんに使ってサードへ低いノーバウンドの送球をする。ゆるゆるアウト。ふたたび轟音の喚声。
「ウッホー! すげえ!」
 菱川がグローブを叩く。内野スタンドの大歓声が外野席へ感染していく。次、菱川への深いフライ。やはり三塁へ低い送球をするがワンバウンドで、間一髪セーフ。歓声が静まる。しかしいい肩の片鱗を見た。
 センター前ヒットを二本。中、バックホーム、低いワンバウンド、二本とも木俣タッチしてアウト。盛んな拍手が湧き上がる。意外な肩のよさだ。江島バックホーム、ノーバウンド送球が大きく逸れて、タッチすらできない。肩がいいだけでノーコンだ。
 ライト前ヒット二本。江藤も葛城もホームでアウトにできない。江藤は強肩だがキャッチャー式の投げ方なので、ボールが弾んでから滑らない。葛城は少し肩に衰えがある。
 レフト前ヒット二本。からだの勢いをつけて捕球するので肩の負担が少ない。上半身の回転と手首だけで木俣へ一直線に投げ返す。走者滑りこむが、アウト。グワン、グワンと反響する喚声。うるさすぎる。バッティングになったら、歓声で小さな球場が揺らぐのではないか。菱川、懸命に低い返球。ツーバウンド。いい肩だが、ランナーは走り抜けている。太田コーチが、
「神無月、中、上がれ! あしたから守備練のときは二人で外野を走ってろ。江藤、いまからファーストの練習に回れ」
「オーライ!」
 私たちは昼めしに引き揚げずに、外野の球拾いに回った。内野、外野とり混ぜたノックになった。ノッカーが半田コーチに代わる。江藤が一塁に回り、徳武と葛城が三塁の守備についた。水原監督がベンチでコーチたちと何やら話し合いながら、ギョロギョロ目を光らせている。彼は選手たちにこと細かく練習方法について指示することはしない。各自の自主性にまかせている。とりわけ外野の守備とバッティングについてはノータッチだ。選手の自主性を重んじるという姿勢は、逆に言えば、プロと名乗る以上水準のレベルに達していることが前提で、それ以下の場合は容赦なく切り捨てることを意味している。彼の考える選手の自主性というのは、徹底した自己管理を求めるきびしい実力主義と同義だ。


         三十三 

 私はプルペンのそばで腹筋や背筋をやりながら一人ひとりの選手の動きを眺めた。高木のグラブさばきが精妙な機械のようだ。職人だなと思う。一枝とのコンビネーションも寸分の狂いもない。中は私のそばに寝そべり、両足を上げて自転車漕ぎをやっている。
「去年までファーストはだれだったんですか」
「千原。慎ちゃんのコンバート決定だね。千原は控えに回る」
 外野をうろうろしていた宇野ヘッドコーチが私と中に寄ってきて話しかける。彼がかつて巨人の選手だったことは知っている。
「水原さんは巨人時代とは野球に対する取り組み方がまったくちがうなあ。巨人の監督時代の彼はすごかった。殺気立っててね、声をかけるとか話をするなんて雰囲気はぜんぜんなかった。恐くてそばに寄れなかった。あのころとちがって、あまりガミガミ選手に言わなくなったし、ほんとにやさしくなった。ただ、目つきは相変わらずきついな」
 水原監督が休憩を告げに外野へやってきた。私をやさしく見つめながら、
「神無月くん、きみは特殊な才能の持ち主だ。毎日、基礎体力訓練と打撃だけをやりなさい。あんなすごい返球を十球もつづけたら肩と肘をやられる。そうなったら私たちの後悔はとんでもなく深いものになる。右腕を健全に保ってきたのは、きみの人知れぬ節制のおかげだろう。そんな貴重なものを私たちが奪うわけにいかない。実際の試合でもバックホームなんてのは、一本あるかないかだ。バッティングをやりたまえ。さあ、めしを食ったら、三十本でも、五十本でも、思い切り打ちまくってくれ」
 みんなぞろぞろ引き揚げる。宇野ヘッドコーチがメガホンで観客に向かって、
「昼食のあと、二時から午後の練習です。二時間ほどフリーバッティングになります。レギュラー陣全員打ちます。楽しいですよ。乞うご期待」
 ほとんど大道芸の口上だ。そうかもしれない。プロ野球選手の技芸は庶民にとっては曲芸に見えるだろう。
 室内練習場からピッチャーたちも出てきた。喉は渇いていないが、ひどくコーヒーが飲みたい。スパイクを運動靴に履き替え、明石公園の遊歩道を通ってぞろぞろホテルへ戻る。道の両側に立木が密に植えられていて緑にあふれている。ところどころ美しく剪定された潅木がまばらに植わっている。緑を抜けると土の庭園が展け、とてつもなく広い。散歩者が多い。葛城が、
「このひと月は公園が賑やかだよ。紅白戦になったら、縁日みたいになる」
 顔を知らない控え選手がトレーナーらしき男といっしょに近づいてきて、
「捕球も肩も別次元の守備でした。感動しました。午後からバッティングを見るのが楽しみです」
 そのまま通り過ぎていく。背番号7。江藤が、
「ワシと同期の伊藤竜彦たい。ええセンス持っとるばってん、なかなか伸び切らん。神無月くんに刺激されて、打撃開眼のきっかけばつかんでくれるとよかけんが。伊藤といっしょにおったのは、チーフトレーナーの池藤さん。親切な人ばい」
 一人ひとり記憶していく。レギュラー以外まだほとんどのチームメイトの顔を知らない。この二日間私に寄り添っている太田がそばにいない。いつ練習から戻ってくるとも知れない。紅白戦まではこの調子だろう。
「江藤さん、控え選手で主だったところを教えてくれませんか」
「よかよ。ピッチャーからいくと、準エースどころは、田中勉、伊藤久敏、水谷寿伸。リリーフは門岡信行、山中巽、若生和也。勝ち星とほとんど関係せん敗戦処理は、外山博、松本忍、大場隆広。今年入った水谷則博はどうなるかわからん。内野の控えは、千原陽三郎、島谷金二、金博昭、日野茂。日野は一枝の隣で練習しとったろう。キャッチャーの控えは、新宅洋志、高木時夫、今年中日に戻ってきた吉沢岳男。外野の控えは、菱川章、太田安治、伊熊博一、堀込基明、佐々木孝次、今年巨人からきた江藤省三、ワシの弟たい」
「太田の控えは決まったんですか!」
「おお、田宮コーチが進言しおった。もうしばらくしたら一軍にくる。大抜擢たいね。三好真一は当分出てこんやろのう。控えの中には、ずっと使ってもらえんやつもおるやろうし、退団が決まっとるやつもおるやろう。二軍となったら、ほとんどそればい」
 私は沈んだ気持ちになった。高木が私の表情を見て、
「神無月くんにだれかが弾き出されたというわけじゃないから、気にすることはないよ。きみにはライバルというものはいないからまったく関係ない。最初からプロの水がきびしいやつはいるんだ」
 プロのきびしさというものに実感が湧かなかった。こんなすぐれた人びとの中にも、木田ッサーがいるのだ。
         †
 明石駅を左手に見る正門に出る。キャッスルホテルの看板を見上げながら右折して、柳の並木道をグリーンヒルホテルの茶色い建物に戻っていく。宇野ヘッドコーチが、
「はい、ごめんなさい、昼めしだからごめんなさいよ」
 記者とファンの群れを押し分けてロビーへ入る。食堂の間にいき、いっせいにテーブルにつく。コーヒーを注文して一杯飲む。太田の姿がチラリと見えた。ぐったり疲れている様子だったので手を上げなかった。
 カツカレーとコーヒー二杯の昼食を素早くすませて球場へ急ぎ、一塁ベンチ裏の室内ブルペンへ投球練習を見にいった。小野、浜野、小川が投げている。太田ピッチングコーチとトレーナーたちが、ピッチャーの背後の壁に貼りついて見守っている。彼らの食事時間が気になった。練習場に出前でもとったのかもしれない。
 ベースが三つ据えられ、それぞれにプロテクターをしていないアンパイアがついている。彼らはキャッチャーの後ろの床几に坐り、一人ひとりの球筋を見つめている。手ぶりなしの声だけでコールをする。プロ野球では、キャンプ地にも審判員がついてくるのか。私は小川の後ろのネットについて、審判がコールする一瞬前に、球筋だけでストライクとかボールとか小さい声で呟いてみた。審判のコールとちがったりすると、勉強になったと喜ぶ。一ミリでもベースをかするとストライクになる。どこからか水原監督が現れ、
「お、金太郎さん、感心だね。勉強になるか?」
「はい。ベースの三メートル前くらいからのボールの伸びに迫力があります。わくわくします」
「キャンプで、ブルペンまで足を運ぶ野手はめずらしい。むかしはけっこういたんだがね。バッティングは、ただバットを振っていればうまくなるというものじゃない。球筋をしっかり見きわめる目を養わないとね。いい心がけだよ、金太郎さん」
「ありがとうございます。ラインを見きわめたあとは、ボールの芯を食うように、バットを打ち当てるんです。そうすればボールは勝手に飛んでいってくれます」
「簡単に言うね。しかし、それには相当の動体視力が必要だぞ。先天的に見きわめられる金太郎さんは別格だよ。金太郎さんのバッティングをフィルムで見たところだと、真ん中から内角に対しては、球筋を最後まで見きわめる前に直感で振り出す。外角はしっかり見きわめて、バットのヘッドを遅れ気味に振り出し、そのしなりを活かして、最後にドンとヘッドをぶつける。そんなことができるのは、スイングスピードが飛び抜けて速いからだ。ワンちゃんでさえ、バットスピードとインパクトのするどさを極めるために、天井から吊るした短冊の新聞紙をほんものの刀で切る練習をしたんだからね。今年はワンちゃんとホームラン競争になる。天才金太郎と努力家ワンちゃんの闘いだ。私は金太郎さんがワンちゃんの二倍以上打つと踏んでる。じゃ、バッティングを見せてもらうよ」
 監督と二人でグランドに出る。あとを追うように屋外ブルペンの椅子に一軍のピッチャーが勢揃いした。肩を怒らせて進み出る浜野百三を止めて、ニヤニヤしながら小川健太郎が一人目のピッチャーを買って出た。プロテクターに身を固めた審判がついた。江藤たちレギュラー陣がケージの後ろに控える。カメラやビデオが彼らの横で構える。小川が、
「結局、俺がやって見せるしかないだろ。打たれるなら早く打たれちまおう。まず、ストレート五球な。シュートしちゃうかもしれんぞ」
 小川が大きく見える。心臓がドクドクドクと音を立てる。プロ野球のピッチャーと生まれて初めて対戦する! 
「お願いします!」
 足場を固める。構える。周囲が息を呑んだのがわかる。スタンドが静まった。初球。小川はサイドスローから軽く腕を振った。手首が利いているのだろう、球筋を見きわめる前に意外に速いストレートがきた。外角高目にスパンと決まる。
「ストライーク!」
 スタンドの失望のどよめき。私はケージの天井を見上げながら、外角高目の軌道を目に焼きつけた。二球目、外角低目、ボール。記憶する。苛立ちのどよめき。私がバットを振らないからだ。記憶する途中だが、二球で目が慣れた。三球目内角低目、わずかにシュートしてきた。得意のコースだ。思い切り掬い上げる。フラッシュが連続で光る。
「ウオオオ!」
 一直線にライトのネットに突き刺さった。小川が帽子をかぶりなおす。四球目、初球と同じ外角高目のストレート。手首をかぶせて振り抜く。芯を食った打球がグングン上昇し、左中間の場外へ飛び出ていった。怒涛の歓声。フラッシュの嵐。小川がジャンプしながらスパイクを打ち合わせる。五球目、極端に低い真ん中のシュート。しっかり見きわめ、両手首を絞りこむ。軽い衝突音。小川が一瞬ジャンプしようとしてやめた。打球はそのまま昇っていき、バックスクリーンにぶち当たった。沸き返る喚声。小川が肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをした。私は振り返り、江藤を見つめた。江藤はうなずき返し、
「文句なか! 怪物!」
 ずっと酔っていよう。すべてここにある。通り過ぎたもの、悲しかったこと、肩にのしかかり、私を地面に引き倒してきた時間の重みを忘れるために、いまこそ酔うときがきた。私は江藤に笑いかけ、
「きょうから金太郎と呼んでください」
「どうとでも呼んじゃる。足柄山の力持ちという意味やな」
「はい」
 浜野が走ってマウンドに上がった。
「ストレートを打っただけで四の五の言うな。プロはな、ボールの変化なんだよ。俺のスライダーが打てるか!」
 プロに成り立ての男が怒鳴る。初球、膝に当たりそうなスライダーがきた。なぎ払ってファールにした。二球目も同じコースだ。十センチほど後ろへ跳んでなぎ払う。一塁ベースの脇を抜けていった。
「どうだ、ホームランどころかヒットも打てないだろ」
 二球ともボールだ。せこい男だ。三球目も同じコースと踏み、一歩前へ出て、曲がりハナにヘッドをぶつけて強いスイングをした。ラインドライブした打球はあっという間にライトの芝生席に飛びこんだ。怒号が怒号を呼び、拍手が轟きになって球場を揺るがした。板東が立ち上がった。
「ひよこ、引っこめ!」
 胸を張ってゆっくりマウンドに登る。浜野が板東に帽子を取って辞儀をし、ブルペンに走り戻る。私は、
「ぼくばかり打ってられません。交代します」
「ふざけるな。俺の球を見てから交代しろ」
 江藤が大声で、
「金太郎、ぜんぶブチこめ!」
 高木が、
「ブチこめ!」
 と呼応する。一球目、顔のあたりにきた。百四十キロはあるストレートだ。下り坂でもこのスピードか。さすがはプロだと思いながら、しゃがみこんでよける。百五十キロだったら危なかった。球場に怒りのざわめきが走った。
「バンちゃん、何やっとんだ!」
 宇野コーチが叫んだ。私はすかさず、
「だいじょうぶです! ぼくはデッドボールを受けたことはこれまで一度もありません」
「こなくそ!」
 板東は真っ赤になって胸もとに投げこんできた。ボールが迫ってくる軌道から、速いカーブだとわかった。このまま立っていたら胸に当たる。私はからだをねじってよけた。両足は動かさなかった。
「ボー、トゥー!」
 審判が英語の発音で叫んだ。ケージ裏で日系二世の半田コーチが見ているからかもしれない。
「この野郎!」
 田宮コーチの怒声が聞こえた。入団式のとき、浜野に謝罪させると言った好人物だ。本気で怒っている。水原監督は笑っていた。次はどんな球がくるか胸が高鳴った。板東は空振りを取りたいのだ。バットにかすらせたくないのだ。それならば窮屈な内角高目のストレートしかない。渾身の力で投げてボールをホップさせるつもりだ。それがプロの面目というものだろう。大根切りでいくことに決めた。
「いくぞ! 打ってみい!」
 三球目、思ったとおり高目の速球だった。初球のスピードを超えている。胸もとだが腕を畳めば芯を食う。球の勢いから見てホップしないと見切った。右腋をきつく締め、左掌を押し出すように払った。 
 ―いった! ファールか?
 いや、切れない。伸びる、伸びる。板東が振り返りボールの行方を追う。打球はオレンジ色のポールのはるか上方へ舞い上がり、ネットの向こうの森へ消えていった。場内が一瞬しずまり、ふたたび沸きかえるような歓声になった。江藤が叫ぶ。
「金太郎さん、おみごと! 神技たい」
 私は打席を退き、半田コーチに、
「ストライクでしたか」
くーそボールね」
 板東が一転すがすがしい表情になり、肩を回しながらマウンドから降りていった。肩を痛めたのかと、ふと心配になった。水原監督がやってきて、
「身内で切磋琢磨はいいが、いがみ合うのはみっともない。胸がスッとしたよ。みんなもそうだろう?」
 と言って笑った。興奮冷めやらぬスタンドのざわめきの中で、次々とレギュラーが打席に入る。一軍の控えピッチャーが総出で投げる。中の掬い上げ打法がすばらしい。二本に一本はスタンドに入る。
 木俣、片手離しのフォロースルーが気にかかる。しかし、ポンポンとスタンドに入る。一枝、するどい打球の合間に、ときどきポン。
 高木―グリップを深く奥へ引いた大好きな構えだ。振り出す直前にバットをかすかに前に倒し、左中間のライナーを連発する。
 江藤がケージに入った。大きな喚声が上がる。人気者だ。直立したからだをわずかに前に屈め、グリップを耳もとに掲げる。形容できないほど美しい。きっちり両手を離さず振り切る。まず左中間のヒット。それからはホームランの連発になる。これが最下位のチーム? 何かのまちがいじゃないか。
 控え選手のバッティングに入り、私は外野の球拾いに回った。菱川の打球がすごい。ほとんど芝生席の仕切りネットに当てる。私はしばらくのあいだ見惚れた。葛城の飛距離と確実性もさすがだった。徳武はたまに長打を飛ばすが、ほとんど当たり損ねだった。そのほかの選手は見どころがなかった。百メートルのフェンスもまれにしか越えない。バットが波打っている。
 ネットから水原監督が大声で、
「次の五本、金太郎さん打ちなさい! それで〆だ!」
「はい!」
 歓声が沸き上がった。ホームに走り戻る私目がけてフラッシュが光った。この寒い季節にアイスクリーム売りの声が聞こえる。
 いつのまにか、小野がマウンドに立っている。彼はきちんと私と勝負し、五球のうち四本のホームランを打たれ、一本をライトフライに打ち取った。打ち損なったのは内角で、ふところから曲がり落ちるカーブだった。
 集合をかけたあと、水原監督は、
「金太郎さん、あしたからも豪快なバッティングをお客さんに見せてやってください。ひと月間、満員になりますよ。紅白戦は有料です。明石市のふところも潤う。昭和三十三年に、新人の長嶋が春季キャンプを張ったのもこの球場です。私は監督でここにきた。何かの因縁だと思っています」
「長嶋さんもこの球場で場外ホームランを打ちましたか」
「当時はネットがなくて、すぐ森だったからわからんが、たぶん何本か打っただろうね。金太郎さんほどは飛ばなかった。二、三十メートルはちがうね。その年は川上さんが四番を打ってたんだが、八月から長嶋に交代した。みごとに優勝したよ。チーム力がほかとちがってたからね。ホームランを打てるバッターが何人もいた。長嶋の二十九本を筆頭に、十本以上打ったバッターは、広岡、藤尾、五本以上打ったバッターは、与那嶺、川上、宮本、土屋、坂崎。ピッチャーもすごかった。二十九勝をあげた藤田を筆頭に、十勝以上あげた安原、堀内庄、五勝以上あげた別所、義原。向かうところ敵なしだった。……選手諸君、今年の目標は優勝です。しっかり狙える戦力だと確認しました。悪くてもAクラスという考えを捨てましょう。ひと月間、焦らずゆっくりと体力づくりをするように」
「オース!」
「それに関して少し食事会でもお話します」


         三十四

 村迫球団代表と榊と足木マネージャー、トレーナーたちを交えた夕食前のミーティングで、水原監督から五分程度の訓話があった。
「練習はすべて自分の潜在能力を発揮して、それを期待していた人びとに示して喜んでもらうためにするものです。常に賛助者や支持者の喜びがイメージにある。諸君たちは人を喜ばせるために才能を持って生まれてきたのです。おのれをいじめて他人の練習量を凌駕するため、つまり求道的な精神を満足させるためではない。自分を喜ばせようとしてする練習は自己破壊のもとになる。簡単に言うと、故障してオジャンです。自分の力量に見合った練習こそ、潜在能力の開花に結びつく。ラクにやれということではけっしてない。自分の能力内できびしくやれということです。筋肉や肺活量の増大を図る単純な肉体訓練ではなく、絶えず頭脳と感性を活性化させて工夫すること―工夫のない練習にはきびしさのかけらもない。工夫してグローブを出し、工夫してバットを振るきびしい練習をしなさい。賛助者を喜ばせるうえで大切なのは、野球の技術や理論を示すことではなく、衆に抜きん出たプロ野球選手としての華麗な才能を示そうとする心意気です。それこそ賛助者の喜ぶものであって、その喜びの果てに訪れる勝ち負けの結果は、彼らは潔くかつ快く受け入れるでしょう。……少し食事会でもお話すると言ったのは、これに関連することです。どういう仕組みのものかわかりませんが、諸君たちの練習態度と心意気が、いま私が叱咤した内容をクリアしていたということなのです。まったく前評判とちがっていて、別の集団を見ているようでした。このまま進んでください。勝敗にアクセクしなくとも、おのずと優勝するでしょう。優勝という言葉を出したのはそういうわけでした。突飛なことを言ったつもりはありません。このままただ進んでいきましょう」
「ウオォォォー!」
 プロ野球の監督のだれもがこんな混じりけなく澄み切った言葉と知性で、しかも逞しい訓話ができるとは思えなかった。すばらしい先導者を得た。いやすばらしい〈肉親〉を得た。この人のためなら全精力を注ぐことができる。
 次に太田ピッチングコーチに促されて、ブルペンキャッチャーの吉沢岳男が黒板の前に立った。卵形のヌーボーとした顔だ。
「今年近鉄から古巣に戻ってきた吉沢です。よろしくお願いいたします。昭和二十八年にドラゴンズに入団し、二十九年の優勝の年に一軍に上がって、二試合に出て四打席、三打数一安打、犠打一というデビューでした。それから三十六年まで主力キャッチャーを張らせていただき、三十七年に近鉄に移って七年間、メインのキャッチャーを務めてきましたが、この二年コーチ兼任に回されて出場機会が減り、ついに今年古巣に出戻ってまいりました。そして、さきほど水原監督からお話があったとおり、十五年ぶりに優勝のチャンスが巡ってきていると知り、個人的な因縁を感じています。ぜひともこれまで経験を生かして、全力で貢献したいと思います。―きょうは走塁について気づいた点を一つだけ申し上げます。ドラゴンズは、中くん、高木くん以外はあまり走りませんが、他チーム、とりわけジャイアンツ、カープはよく走ってきます。盗塁を阻止できるかどうかは、投手のモーションの速さしだいで決まります。俊足の走者がリードしてスタートを切ってから二塁まで達する時間は四秒。投手がモーションを起こしてから捕手が捕球して二塁に送球する時間は四秒一か二。その時間差があるかぎり、投手がふつうの投球をしていたらすべての盗塁はセーフになります。足の速い走者が一塁にいるときは、投手は適宜モーションを素早くして投球し、捕手は二塁へストライクを送球することが肝要です。ピッチャー陣はクイックモーションをかならず練習してください」
 クイックモーションは野村が開発した方法だ。パリーグでは常識なのだろう。吉沢がつづける。
「最後に、神無月くんに感動しました。一挙にチームの和が成ったのは、恐らく彼の守備とバッティングをまともに目にした瞬間でしょう。だれの顔にも希望に満ちた驚きがありました。―優勝は確実だと思います」
「ウィース!」
 田宮コーチに交代し、
「じょうずの手から水を洩らさない細かい話をする。三塁線から十五度以内の地点で、つまりラインぎわでサードが前進守備をせずにバント処理をしても、まず一塁は間に合わない。送球しないのがよい。悪送球などのアクシデントが生じて、さらに進塁を許しかねないからだ。逆に、こちらがバントヒットを狙うならば、三塁線ぎりぎりにプッシュバントをするのがいちばん確率が高い。以上」
 そのあと、板東がみずから黒板の前に進み出て、からだを直角にして私に礼をした。
「吉沢さん同様、驚いたわ。すまなんだな、神無月くん。ほんとに悪かった。あんたは正真正銘の天馬やわ。人間やない。そういうことは信じたくないもんやし、予測もつかんもんや。人間の頭の中身は、ほとんどは常識でできとるでな」
 私も立ち上がって礼をし、
「正直ふつうでない緊張感でした。プロのピッチャーのボールは、近づいてきてからが速い。面喰らいましたが、そのスピードの乗り方を記憶しました。ありがとうございました」
「頭の低いやっちゃな。慎ちゃんの話だと、金太郎と呼んでくれと言ったそうやな。あんたがそう呼ばれとるゆう新聞記事、たしか読んだことあるわ」
「小学校以来そう呼ばれてきたので、金太郎と呼ばれるとファイトが湧くんです。それどころか、生きててよかったという気持ちになるんです」
 村迫が、
「私は神無月さんと呼ばせてもらうよ。私なりの敬意を表したいんでね。チームスタッフ同士は、愛称を呼び合うことで和気が保たれると思う」
 水原監督が、
「畏れ多いが、私は金太郎さんと呼ばせてもらうことにする」
 私は腰を下ろした。板東が席に下がりながら、
「ワシもそう呼ばせてもらうわ。どのチームのやつらも、初対決のときは、俺みたいなちょっと見くだした気持ちで金太郎さんに立ち向かうやろうと考えてほしいんや。しかしどう思われても、金太郎さんはわれ関せずやろ。飄々としとるでな。畏れ入ったで。あんたは遠からずプロ野球界に君臨するやろな。あんたみたいな超弩級の天才と同僚になれてワシはうれしい。もうそろそろワシも引退やけど、最後にいい夢を見さしてもらうわ。ただ金太郎さんだけ打ちまくってもチームは順調にいかん。みんなもがんばらんと。金太郎さんを生かす責任は重大やで。たとえ優勝が見えとっても、死ぬ気でがんばらんとな」
「ウオース!」
 浜野が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。江藤が、
「ワシは五番でのうて三番の予定らしいから、出塁率にこだわることにするばい。金太郎さんの前にランナーを貯めることにこだわる」
 中や高木が、
「私も!」
「俺もだ! 金太郎さん、お掃除してくれよ」
 田宮コーチが、
「よーし、キャンプ初日は大成功に終わった。市民にすばらしい娯楽と活気を与えてくれたと、明石市長から感謝の電話が入った。この調子で二十三日まで乗り切ってくれ。二試合予定している紅白戦は、芝生席までギッシリになるぞ。ところで、こういうミーティング時間は、私たちにもきみたちにもかなりの拘束になる。のんびりできない。あすの活力のための支障になる。これからはよほどの反省点がないかぎり、ミーティングはしないことにする。もちろん監督やコーチはそれが仕事だから適宜やる」
 と言って締めた。がやがやと解散になる。
 宇野ヘッドコーチが色紙を持ってやってきて、
「金太郎さん、サインくれる?」
「コーチに?」
「もらってやると甥っ子に約束したもんでさ」
「……わかりました。書かせていただきます」
「××くんへ、でよろしく」
「はい」
 太字のマジックペンできちんと楷書のサインを書いた。酔いさめやらず、と添えた。水原監督が潤んだ目でそれを見つめていた。
         †
 夕食のあと、太田、島谷と三人でホテル裏のガードをくぐり、散髪をしにいった。ヤマシタという小ぎれいな大ぶりの店だった。椅子が五台あった。店主夫婦と女の従業員が三人いた。彼らは、いらっしゃいませと言ったあと、すぐに私たちがドラゴンズの選手だと気づき、ひどく緊張した様子で髪をいじりはじめた。髪型の希望を尋かれる前に、
「角刈りで」
 と言うと、太田が、
「裾はこのままで」
 島谷は、
「慎太郎刈り」
 と言った。彼らは、ハイ、と応えて、無言で刈りはじめた。店主の男が、
「神無月選手、すごかったですねえ。ライト、センター、レフト、ホームランのオンパレード」
「それしか能がないんで」
 島谷が、
「あれは能力じゃなくて、神技です」
 太田が、
「神無月さんは、中学校以来三振をしたことがないんですよ」
「五年生のとき、旗屋小との試合で、一回だけ見逃しの三振をしたことがある。顔の高さをストライクと言われた。ボールだと叫んだら、審判に睨みつけられた。あとで監督から大目玉を食らった。それ以来、ツーストライクからは、ストライク、ボールに関わらずバットが届くかぎりすべて手を出すようにしてる」
「……十年前に一回ですか。島谷さん、どう思う。神技どころじゃないでしょ」
「神技の上は何だ? 宇宙技か?」
「超神技」
「なんじゃそりゃ。おまえ、二軍の練習はどうだったんだ」
「フリーで二十本打って、三本いきました。ぜんぶ場外だったけど、両翼八十メートルだから自慢にならんです。百二十メートルくらいのホームランだな」
「俺は一本だ。金太郎さんは十打数、八本打った。ほとんど百四十メートル越えだったぜ」
「だから超神技」
 男の従業員が、
「打席でほとんど動いてる感じがしないのはなぜですか」
「それは内角だと思うけど、踏み出しを小さくして回転で打ってるからですね。外角はしっかり踏みこむので、動きが大きくなります」
 島谷が、
「それでもほとんど静止してるように見えるよ。構えから、振り出し、フォロースルーまで、コマが回るみたいだ」
 太田が、
「中学校のころから打撃フォームがほとんど変わってないんですよ。信じられないです」
 店主が、
「それってすごいことですよね。すでに完成してるってことじゃないですか」
 サッパリ髪ができあがると、太田は七三になっていた。二人で大笑いした。
「長髪が夢だったんで、この一年、ずっと伸ばしてたんですよ。野球帽の首筋の髪がなびくというのが理想です」
 ホテルの喫茶ラウンジでコーヒーを飲んだあと、島谷と別れた。太田を先に部屋に帰し、ロビーの青電話から高円寺のカズちゃんに電話した。きょうの大観衆とホームランのことを話し、板東や江藤のこと、島谷や太田のこと、水原監督のことなどを話した。
「かわいがられてるのね。よかった。とにかくからだに気をつけて、元気でひと月乗り切ってね」
 素子とも話した。素子は、自分たちは万事順調だから、何も気にしないで野球に専念するように、と励ました。千佳子は勉強部屋に籠もっているということだった。最後に、
「愛してる」
 と二人に言われた。受話器を持って立っているふくらはぎに、快い張りを感じた。
         †
 二月二日日曜日。薄曇。朝方三・六度。八時に起きると、すでに太田の姿はない。うがい、ふつうの排便、シャワー、歯磨き。
 バイキングは、スクランブルエッグ、ウインナー三本、ベーコン二枚、ポテトサラダ、キンピラゴボウ、筑前煮、温泉玉子、どんぶりめし。江藤と菱川と食う。二人とも味のある顔だ。江藤は豪快な武者面、菱川は明らかに黒人とのハーフでツルッとした好男子だ。髪はほんの少し縮れている。三人ほとんど口を利かなかった。
 明石第一球場にきのう以上の観客が詰めかけた。微風。明るいうちはなるべくストロボとフラッシュを使わないようにと場内放送が流れた。ネット裏に、村迫に混じって、兵庫県の要人とおぼしき人たちや、他球団の偵察員たちが居並んだ。
 肉離れを警戒して、二日連続のダッシュは控えた。肩を作るために、レギュラーと順繰りにじっくりキャッチボールをする。自分のフリーバッティングはいちばん最後に回してレフトの守備にいそしんだ。ノッカーではなく、バッターのさまざまな打球を受けてみたかったからだ。江藤と菱川の打球がいちばんするどかった。二人合わせて、ライナーで頭を五本越された。太田の第一のライバルは島谷ではなく菱川だと感じた。
 伊藤久敏、山中、浜野の三人を相手に、三十本しっかり打った。バッターボックスの後方に立って流し打ちを二十本、うち九本がホームランになった。ピッチャー寄りに立ちセンターへ五本、うち四本がホームラン、一本はスコアボードを越えた。ボックスの最前方に立ち、引っ張りを五本。すべてホームラン、三本は場外弾だった。私の三十本のときだけ、観客は沸きっぱなしになった。田宮コーチが、
「課題を設けて打ったわけか。みんなにもまねしてほしいな。どいつもこいつも、きた球を適当に打ってるだけだからな」
 レギュラーたちが聞いていて、江藤や、中、高木までが素直に反省の色を浮かべた。
 四時で練習を上がる。オレンジ色した雲の帯が球場の森の上空に横ざまに刷いていた。
「あしたはいい天気だな。金太郎さんのおかげで、俺たちのハードルもきりがなくなっちゃったね、利さん」
 高木が中に言った。
「それがプロの本来あるべき姿だよ。私も最後のひと踏ん張りをして、ホームランを二十本打てるバッティングを工夫してやってみようと思うよ。バントヒットや流し打ちの工夫ならだれでもやる。遠くへ飛ばす必要がないからね。ホームランを打つにはバッティングの総合的な工夫が必要だ」
「ですね。構え、振り出し、インパクト、ダウン、アッパー、スイングスピード、足の位置。俺もいろいろ工夫して三十本狙いますよ。明石のフアンたちの喜びようで、なんかプロ意識が一皮剥けたな。チーム野球というのは味気ないですね。フアンを忘れてます。水原監督の言った賛助者の喜びというやつです。フアンが胸躍るのはやっぱり長打なんですよ。しかし長打は難しい。総合力か……コースや球質の見きわめ、振り出し前のタメ、インパクト、絞り、スイングスピード、うーん」
「一つ一つ工夫して鍛錬しだしたらきりがなくなる。守備だって走塁だって同じだ。でもやらなくちゃね。プロは、豪快で、かつ華麗でないと。先天的なものを少しでも超えるためには、工夫にキリがあっちゃいけない」
「はい」
 背番号10の菱川が二人のそばでじっと耳を立てていた。


         三十五 

 練習の引き揚げのとき、村迫の要請で、バックネット前で、私だけ明石市長はじめ要人たちから握手を求められた。撮影のためだった。しっくりこないものがあった。テレビ明石のアナウンサーが、
「毎日すばらしいプレーを目の当たりにして、明石市民は大喜びです。見学にも熱が入ります。神無月選手はこの伝統ある明石球場のキャンプに参加なさり、初めてプロの先輩たちといっしょにハードな練習をしているわけですが、この二日間の感想はいかがですか。ひとことお願いします」
 要人どもを前にご当地礼讃を交えた感想を言ってほしいのだろうと考え、
「ひとことで言うと、小学生のときスタンドから眺めた大選手たちと野球をすることができて、このうえなく幸せだということです。ハードな練習もその幸福の一つです。ただ無意味にからだを痛めつけるほどハードとは思えません。適度です。何よりも、一人ひとりの選手の緻密な技を見せつけられて、感動しっぱなしです。自分がプロ野球人としてヒヨッコだと感じる心地よい感動です。鍛錬に磨きをかけようと決意を新たにしました。ところで、明石市は市制施行五十周年の節目に当たると聞いています。町並の古さを残した新生都市というアンバランスが新鮮です」
「ありがとうございます。大正八年より市制を施行してからちょうど五十年になります。源氏物語の舞台ともなっている歴史ある町なので、新旧混淆のほどよい調和がなされているんです。プロ野球について申しますと、昭和十五年以来ほぼ二十年にわたって、ジャイアンツやホエールズ、そしてドラゴンズさまがここでキャンプを張ってきました」
「はい、長嶋選手の初キャンプが当地だったことは有名です。そういう伝統ある明石市で、プロ野球人として初めて本格的に野球を始められたことをラッキーだと思っています」
「当地の自然はいかがでしょうか」
「少し名古屋より寒いですが、空気がとても澄んでいます。街路も公園も植生が豊かですね。明石公園のユキヤナギの遊歩道は目に涼しかった。桜は当然のこととして、城を見上げる場所にラクウショウの巨木がありましたが、秋の紅葉はみごとでしょうね。巨木と言えば、クロガネモチもあったな。ナワシログミの不思議な実。熟すとうまそうだ。タンポポの黄色、椿の赤、キランソウの紫。石垣の赤いツタをめずらしい気持ちで眺めました。池の鳥もよかったな。アオサギとカモ。きれいな茶と黒のトラ猫が歩いているのにもホッとした。あ、すみません、とりとめなくて」
「すばらしい動植物の知識ですね」
「原始人ですから。そうだ、それから、きのう到着早々、町なかを食い歩きました。海のものはもちろんうまいし、明石焼きというとんでもなくうまい名物もありました。町なかでも球場でも、ファンの暖かさが印象的です。声援と拍手に励まされます。―すべてにわたって、すばらしいキャンプ経験をしています」
 要人たちが拍手した。精いっぱいのリップサービスだった。これでマスコミ嫌いの噂は払拭されるだろう。
         †
 分厚いステーキの夕食を終えたあと、太田と港に出かけた。満月を見上げながら歩く。
「……聞きましたよ、一軍エース級との対決。しかし、板東さんもバカの一つ覚えみたいに、なんで内角ばかり攻めてきたんでしょうね」
「そこがアマとプロのちがいなんだよ。アマはアウトコースだけを投げていても投げ勝てることが多い。でも、プロでは思い切ってインコースに放らなくちゃ勝てない。だからプロのピッチャーは、とっさのときにインコースを投げられるよう習慣づいてる。アマはそういう習慣がないので、どんなときもアウトコースでしか勝負できない。板東さんは最初からぼくをプロの選手と認めてたんだよ」
 鷹匠町の交差点のところで、黒塗りのセダンが近づいてきて、サングラスをかけた男が窓から顔を出し、
「夜に出歩くと危ないですよ。乗ってください」
 胸に喜びが湧いた。宇賀神だった。太田が立ちすくんだ。
「彼が、きのう言ったぼくのボデーガードだよ。宇賀神さんと言うんだ。怖がらなくていいよ」
 後部座席に乗せられる。
「だめですよ、夜はホテルにいなければ。ホテルのほうにも二名ほど常駐させてます。昼間は三人でネット裏にいます。おとといも、だいぶ歩かされましたよ。気ままな人だ」
「すみません。きょうの夜、北村席から、洗濯物を受け取るという名目で新庄さんというおばさんがきます。夜中に廊下を動きますが、心配しないでください」
「聞いてます。四階が選手の部屋、五階が神無月さんたちほかスタッフの部屋です。二、三、六階が一般客用。新庄さんは三階五号室に予約を取ったそうです。神無月さんに伝えるよう北村さんのご主人から電話を受けました。もともと私どももその種の女を用意するつもりでしたが、神無月さんはお年を召したかたが趣味のようですから、北村さんの仰せのとおりにしました。太田さんにもだれか差し向けましょうか。女が部屋を訪ねるのはあたりの目があるでしょうから、太田さんが上か下の階に向かわれるという形で」
 太田はすぐに察して、
「俺は二軍の練習でへとへとだから、けっこうです」
「そうですか。もし必要に迫られたら、二階の×号室に連絡ください。私の部屋です。神無月さん、今夜はどちらへいかれる予定でした?」
「港を見たくて」
「ただの漁港ですよ。殺風景なものですけど、いってみましょうか」
 車を出す。左折してガードをくぐり、すぐガード沿いに右折して、コンクリートの堤に出る。学校を左に見て川沿いに左折する。
「明石川です。これは大観小学校。創立六十年の古い小学校です」
「でかいなあ。野球場ぐらいの校庭が別に設けてある」
「野球設備はないみたいですね。おとといの午前、道を覚えるために走り回りましたが、赤帽子かぶった子供たちが整列して体操をしているのを見かけました」
「ご苦労でしたね。ありがとうございます」
 大観橋を左折し、すぐに右折する。夜空の下に道が真っすぐ延びている。ときおり広い児童公園がある。
「ここいらへんは、寺や神社ばかりです。右手に見えるのが戒光院。この道の突き当たりに、読めない漢字の神社があります」
 魚網店などというめずらしい商店がある。道の広い漁村にちゃんと喫茶店もある。宇賀神が、
「これですよ。読めないでしょう?」
 太田が、
「い、なんとか、さつ、神社」
「伊弉冊(いざなみ)神社だね。いざなみは国産みの女神で、いざなぎとのあいだに森羅万象の神々を産んだということになってる。火の神を産んだせいでオマンコにヤケドして死ぬけど、そのときに出した小便やウンコやゲロも神様になった。馬鹿らしいね。研究したがるやつの感覚は飛び抜けて異常だ」
 宇賀神が、
「学問なんて、似たり寄ったりですよ」
「そうですね、詐欺師的な感覚がないと学者になれない。しっかり真理を求めて孤独に遊んでいるという意味では、理科系の学者だけが本物だ。文系学者は人をたぶらかして金儲けをしようとしている姑息なヤカラだ」
「言い過ぎのような気がしますけど、私としては快哉を叫びたいですな」
「宇賀神さん、東大でしょう」
「いえ、日大です。秘書止まりの人間ですよ」
「御池という友人が、日大を出たらS文部大臣の秘書になる予定です」
「Sさんか、熊本だな。大物だ。清廉潔白な人でね。うちの秋月もそうです。気質はヤクザですが」
 水産工場とアパートの建ち並ぶ界隈に入りこむ。建物のあわいに黒い海が見える。海のほうへ曲がりこむと、入り江にたくさんの船が停泊していた。立入禁止の空地に、ブイや船舶資材が山と積まれている。車を降りる。潮のにおいがする。野辺地のにおいだ。太田が、
「暗くて、恐ろしいですね」
「そうかな。ぼくは海辺で育ったから、なつかしい。もっと灯りを期待してたけど。市街地も見えないな。空はきれいだ」
「ほんとだ! 星がきれいですね」
「南の空の真上にひときわ光ってる星があるだろう。シリウス。全天でいちばん明るい恒星だ。次に明るいのがカノープスで、はるかに下の山ぎわに赤っぽく見えてる」
 指をさす。太田は感心してうなずきながら、
「山に見えるのは淡路島ですね」
「うん」
「いちばん明るいのは金星と木星じゃなかったですか」
「それは惑星」
 宇賀神が、
「カノープスは淡路星とも言われてます。新潟市から福島の相馬市を結んだ線より北では見られらません」
 意外な知識を開陳する。
「シリウスとカノープス。星はそのくらいしか知らないな。冬期限定。冬は星空がいちばん美しい。名古屋西高の水野ってやつに教えられた知識だ」
「北斗七星は?」
「さあ、知らない」
「こういう町からあれだけ観客が集まるのは不思議ですね」
「二月の娯楽は、プロ野球のキャンプだけなんだろう」
「もうよろしいですか。夜景の名所もありませんし、戻りますよ」
「街頭だけの場所でもいいですから、自然公園があったら連れてってください」
「自然公園か……あったな。いってみるか」
 宇賀神は十五分ほどかけて、私たちを大蔵海岸公園という海沿いの公園へ連れていった。車を降りて入りこむと、整地された松林の公園だった。松の植樹以外に何のこしらえもなかった。闇が濃いのは白色の園灯が二、三十メートル置きにしか点いていないからだ。道沿いの街灯もほとんどない。松原を抜けると傾斜した砂浜があり、防波堤のかなたに黒い広大な海が拡がっていた。車に戻る。道なりにカーブしながら新開地らしき街を抜けていく。宇賀神はバックミラーを見ながら、
「おっしゃるとおり、このひと月は、明石市民にとってドラゴンズのキャンプが最大の娯楽です。昭和十五年から三十三年までは、巨人軍キャンプが娯楽だったんです。で、ウォンタナ商店街はどうでした?」
「気に入りました」
「あれはすごいですね。私どもも明石焼きを買って帰って、部屋で食いましたよ」
「こっちにはキャンプのあいだじゅういるんですか」
「もちろん。それが仕事です」
 巨大な量販店と、広い駐車場を過ぎて、高円寺や阿佐ヶ谷に似たガード沿いを走る。車の姿はほとんどない。私は宇賀神に、
「ぼくを護らなければいけないほど危険なことって、何か予想されるんですか」
「具体的に予想はつきませんが、警戒するに越したことはありません。報道陣の混雑は心配するほどのことはないとわかりましたから、あとは一般の人たちから悪さする者が出てこないか見張るだけですね。中には変質者もいますから」
 見るかぎり明石には花街がない。そのことをポツリと口にした。
「桜町というのが歓楽街です。走ってみましょう」
 東仲ノ町という明石の一つ手前の駅から左折する。車をゆっくり走らせながら小路を覗く。スナック、バー、居酒屋、小料理屋、鮨屋、キャバレー、旅館。何と言うこともない街並だ。ひなぎく、白菊という名のシャトー鯱ふうの二軒の廃マンションがある。その並びの白亜の板作りの民家も×印の材を打ち付けて廃屋になっている。寂れているのはその一角だけで、あとは賑やかだ。
「ちょっと歩きましょう」
 車を停め、三人で小路を歩く。宇賀神の足どりが弾んでいる。太田も浮きうきとついてくる。宇賀神が、
「なるほど、突発的な散歩というのも気分が乗るものですね」
 しばらく歩く。右も左も小ぎれいな店ばかりで、ツヤのない軒並だ。
「名古屋の駅西と同じように、整備されたあとという感じだ」
 私が退屈そうに言うと、宇賀神はうなずき、
「たしかに。これじゃただの飲み屋街だ。歓楽街というのは評判倒れだな」
「ちょっとお茶でも飲んでむかし話を聞けそうな店があるかと思ったけど、一軒もない」
「健全な町という結論が出ましたね」
 弾んでいた足どりがのろくなる。車に戻り、明石駅に向かう。
「よし、あしたからはどこも見る必要はなさそうだ。野球に専念」
 太田が、
「何か神無月さんて、関心の方向がちがいますね」
「散歩が好きなんだ。散歩ついでに、自分がひと月も暮らす町を知っておきたかった。一週間ぐらいかけるつもりだったけど、宇賀神さんのおかげで、いっぺんにすますことができた。あしたからはホテルと球場の往復をするよ」
「私どももそのほうが安心です」
 宇賀神はグリーンヒルホテルの玄関から去っていった。九時半になっている。二時間余りのドライブだった。
「あしたから弁当を持って出ることにする。いちいちホテルに帰るのが面倒くさい」
「あしたは休日ですよ」
「そうだった。新庄さんがくるんだった」
「ほとんどの選手が出かけるか、一日テレビを観てます。家族が訪ねてくる人もいます。俺は休日返上で、特打をやります。森下さんがついてくれますから。……ボディーガードの話、ほんとうだったんですね。ふるえました。あの人はその筋の―」
「宇賀神さんは政治家秘書だよ。腕に覚えのあるね。大学の空手部かなんかで鍛えたんじゃない? 松葉会の若頭がその政治家に頼んで、宇賀神さんが派遣されたというわけ。配下の二人というのは、たぶん松葉会の組員だと思う。ぼくと顔見知りかもしれない。つけ回すわけじゃないから、気にしないほうがいいよ」
「ほんとに危険なことなんて起こるんですかね」
「ぼくもそんな大層なことは起こらないと思う。でも、彼らはどんなときでも警戒を怠らない人たちなんだ。一応ぼくは人に名前と顔を知られるようになった。人は有名人と言われるような立場になると、いつなんどき思わぬ災いに巻きこまれないともかぎらない。泥棒に入られたり、家に火を点けられたり、子供をさらわれたりね」
 電話が入った。宇賀神だった。
「新庄さんが一時間前に到着されてます。すぐいらっしゃいますか」
「いきます。三十分以内に」
「そう連絡しときます」
 太田の顔を見ると、
「いってらっしゃい。俺はシャワー浴びて寝ます。鍵閉めて寝ますから、泊まってきてくれたほうがいいなあ」
「泣かせること言ちゃって。太田、おまえはいいのか?」
「この一年間、さんざん遊びましたよ。きのう神無月さんの話を聞くまでは、刺激しちゃいけないと思ってとぼけてたんですよ。どう見ても、女遊びから遠い人に見えたから」
「遠いよ。女では遊ばない。真剣に接する。今回も、定期的な性処理のつもりはない」
「神無月さんの事情はつかみましたから、そういう付き合い方ができないことはよくわかります。俺は当分、女は性処理でいくしかないですね。最後に遊んでからそろそろひと月になるので、さすがに溜まりかけてます。でも、いまはそれどころじゃありません」
「一軍がかかってるものね」
「はい」
 風呂場にいき、シャワーで恥垢を洗い流した。それから三日分の汚れた下着と、汗と泥にまみれたユニフォーム、アンダーシャツ、ストッキングをホテルが用意したビニール袋に入れ、まとめて大きな紙袋に収めると、新しい下着をつけた。ジャージを着る。
「じゃ、いってくる」
「いってらっしゃい。めし前にはドアを開けときます」
 紙袋を持ち、ホテルのスリッパを履いて部屋を出た。暖房のせいで廊下がムッと暑い。初めて顔を見る女だ。できれば心動く顔であってほしい。階段で三階へ降り、五号室のドアをノックする。ハイと小声の返事があり、戸が薄く開く。垂れ目、丸顔、やさしげ、すぐそれがきた。私を見たとたんうつむいた。戸を押して入る。
「神無月です。新庄さんですね」
「はい―」
「これ、洗濯物」
 新庄さんは紙袋を受け取ると、恥ずかしそうに背中を向けたので、入りこむなり、黄土色のワンピースの肩をつかんで振り向かせた。
「神無月です。顔を見せてください」
 うつむいたままだ。薄い二重の大きな目、横幅のある厚い唇、下ぶくれの顔、形のいい耳たぶ、高すぎない鼻。安心する。
「目を逸らさないで」
 私は新庄さんのあごをつかんで上向けた。彼女は私の顔を見ると、口に手を当てて驚き、
「きれい……」
 と呟いた。
「新庄さんもきれいな人だ」
 もちろんカズちゃんには似ていない。いや、ほかのだれにも似ていない。ワンピースの全体を見下ろす。百五十七、八。ふくよかな、骨ばっていないからだをしている。女将の言うように肥り肉(じし)のタイプだ。枯れた雰囲気がなく、リビドーを発動させる上で何の問題もない。
「新庄さん、ここにきた意味は?」
 かすかに微笑みながらうなずく。
「じゃ、見せて」
 ギョッとしたようだったが、紙袋を置き、素直にワンピースとシャツを脱いでベッド脇の椅子の上に置くと、ブラジャーを外した。パンティ一枚の姿のまま立ち、胸を腕で隠している。私が黙っているので、ゆるゆるパンティを脱ぎ下ろして、ベッドに仰向けになった。異様に白いからだだ。淡い陰毛を見つめながら、両側へ太腿を開く。
「みんなと同じものがついてる。みんなと同じというのが不思議だね」
 舐める。キュッと腹が窄まる。少し愛液が滲んでくる。
「名前は百江さんだったね」
 小陰唇を含む。
「あ……はい、新庄百江です」
 硬くなりはじめたクリトリスを舐め上げる。
「はァァ……」
「齢は五十」
 おそらく長い関係の始まりだ。
「はい、うう……」
「どのくらいしてない?」
 クリトリスを吸い上げる。
「に、二年です、あああ、もうだめ、神無月さん!」
 クリトリスに舌を当て、オーガズム特有の勃起を待つ。極限まで大きくなっている。達する寸前に舌を離し、両乳を吸う。
「あ、すみません、イク!」
 別の刺激を引きこんで達してしまった。
「よし、みんなと同じ感度だ」
 何度も縮める腰を眺めながら、ジャージを脱ぎ、彼女の目の前に半勃ちの性器を差し出す。すがりつくようにつかむと口に含んだ。懸命に舌を使っている。しっかり屹立した。
「うぐぐ…」
 苦しそうな口から無理に抜いて、股間を押し開いて挿しこむ。たっぷりとした愛液に包まれる。
「あああ、か、か、感じる!」
 しばらく抽送するが、彼女の感覚がそこから先へ進まない。アクメまでは遠い。私も遠い。しだいに彼女の表情がもう満足したというものになってくる。亭主だった男は、この先に彼女に待ち構えている悦びまでたどり着けずに果てたのだ。そして彼女は〈感じる〉という状態のまま満足したのだ。もう一分もつづけて快感が上昇すれば、彼女は驚愕するだろう。
「あああ、神無月さん、出してください、もうじゅうぶん、おお、気持ちいい!」
「ぼくがイクときは、プーッてふくらむから、新庄さんにもはっきりわかるよ」
 抽送を繰り返しているうちに、うねりはしないが強く締まってきた。
「うう、気持ちいい、もうじゅうぶん、ううう、気持ちいい、ありがとうございました」
 思い切り上壁をこすって陰茎を引き戻した。
「やだ、イク、イク、イク!」
 腹が縮み、グンと跳ね上がった。尻を抱えてピストンを繰り返す。
「いやいや、イクイク、イクイクイク、イクウ!」
 陰茎を握り締めるほどになったので、射精を準備した。
「百江、イクよ」 
「はい、いただきます!」
 初めて言われる言葉だった。吐き出す。
「はああ、クウウウ!」
 新庄さんは縮めた腹を一気に跳ね上げた。もう一度腹を縮めるとき、性器が抜けた。あらためて胸をつかむと、手のひらに余った。乳首を吸ったとたん、私の背中を烈しく抱き締めてきた。その格好で長いあいだ腹を縮めたり陰阜を跳ね上げたりしていた。背中に回した腕がゆるみ、
「……名前を呼んでくださったんですね。ありがとうございました。信じられないほど気もちよくさせていただきました」
「よかったね。イカなかったらどうしようかと思ってた。何もかもほかの女と同じ敏感さだよ」
「恥ずかしい……。名前を呼ばれたのは初めてでしたし、中でイッたのも初めてです。こんなに気持ちのいいものとは知りませんでした」
「ご主人以外の男としたことは?」
「ありません。出発前にトモヨ奥さんに言われました。信じられないことになるから、覚悟しておきなさいって。トルコにくるような男は、二分もすればイッちゃうけど、神無月さんは十分も十五分もじょうずにしてくれるから、オシッコ漏らしそうになるくらい感じるって。私のものが反応しなければそうならないけどとも言われました」
「きつく締まるオマンコだったよ」
「ありがとうございます。……好きになってもめったに抱いてもらえないから、好きになっちゃったら、それなりに心の整理をしなくちゃいけないって」
「もう好きになったの?」
「はい、会ったとたんに」
「今月だけは確実にできるよ」
「はい、今月が終わったら、老人相手のお勤めが始まります。こんなうれしい思いをさせていただいて、北村の旦那さまにお礼の申しあげようがありません」
「見せろなんて、びっくりした?」
「いやらしい人だって思いました。……でも、もうそう思ってません。神無月さんにいやらしい気持ちがないからでしょうね。自分勝手でない男の人に初めて会いました」
「もう一度顔を見せて」
 百江は唇を引き締めて見上げた。
「うーん、だれにも似てないなあ」
「お多福ですから」
「いや、美人だよ。独特の顔だ」
 ハタと思い当たった。酒井頭領の飯場―宮本さんの奥さん! はっきりは思い出せないが、まちがいない。この顔だ。茫洋として、薄幸な顔。対面していてどこか充足感を覚えないのはそのせいだ。
「幸福にならなくちゃね。トルコ嬢なんかしないで……。北村のご主人に頼んで、新しくできあがるぼくの家のお手伝いさんをしたらどう? 稼ぎはとても少ないけど」
「いちばん下の子が大学を出るまでは、仕送りをしてあげたいし、あと十年は働いて、老後のための貯金をしたいんです」
「そう。それなら仕方ないね。トルコがいちばん稼げる。その子はいくつ?」
「二十歳です。同志社にいってます」
「あと二年か。がんばらなくちゃね」
「はい。大学を出て、会社にでも入ってしまえば、もう自分の老後だけですから」
「上の三人は?」
「二十一歳のときに初子を産んで、二十五、二十六と産みました。ぜんぶ女の子で、それぞれ二十九、二十五、二十四になります。みんな高校を卒業してすぐ働きに出て、もうお嫁にいきました。次女と三女は、夫が亡くなってからお嫁にいきました。夫の保険金はほとんど二人の結婚でなくなりました」
 親というのは、子供のためにこうして身を粉にするものなのだ。世の親子関係を羨ましいとは思ったけれども、心は動かなかった。
「子供たちに百江の仕事がばれたらまずいね」
「はい。北村席で賄いをしていると言えと、旦那さんに言われました」
「それがいい。子供は親のセックスには不潔感を覚えるものだから」
「はい。わかっています。隠し通すつもりです」
「貯金がある程度できたら、仕事をやめるの」
「やめます。椿町に夫が残してくれた家がありますから、そのあとの生活はどうにかなります」
 もう、彼女のからだに手を伸ばす気が失せていた。
「服を着て。一週間冷えこむらしい。風邪をひいてしまう。あした何時に出るの」
「日曜日に泊まって、月曜日の夕方にチェックアウトして帰るように言われてますけど、あした神無月さんに予定があるなら、午前の十時にチェックアウトします」
「一日休みだよ。昼の食事をしてから帰ればいい」
「はい」
「さ、きょうは寝よう」
 私は裸のまま、ベッドに潜りこんだ。百江は風呂場にいった。陰茎の付け根を触ると、気持ち悪くぬめっているので、私も彼女のあとを追った。彼女のからだを愛でるためではなかった。


         三十六
 
 七時に百江の横で目覚めた。睡眠は足りていた。百江もすぐ起きた。下着とシュミーズをつけて寝たようだった。こういう女も初めてだった。洗面所で並んで歯を磨いた。百江の髪型がトモヨさんと同じセシルカットであることに気づいた。彼女は歯をとても丁寧に磨いた。清潔な女なのがうれしかった。
 ルームサービスでジャムトーストとコーヒーを頼もうかと思ったが、やめた。
「いったん部屋に戻るから、三十分後に下のバイキングにいて」
「はい。……神無月さん」
「ん?」
「大好きです」
 私は微笑み返すと、抱き寄せて清潔な口にキスをし、股間をつかんだ。
「……大好きです」
 五階の七号室に戻った。ドアは開いていた。
「あ、神無月さん、お帰りなさい」
 太田が大股開いて屈伸運動をしていた。
「三十分後にバイキングいくぞ」
「オス。宇賀神さんたち、一度も見かけませんが、食事どうしてるんですかね」
「ルームサービスで食うか、外食をしてるんだろう。新庄さんもくるから、顔を合わせといて」
「新庄さんという人なんですか。どういう人ですか」
「苦労の多い生活をしてきた人みたいだ。いっしょに昼めしを食ったあと帰る。太田の練習風景でも見にいくかな」
「気が散ります。ホテルで静かにしててください」
「わかった」
 食堂の間へいった。監督、コーチ、レギュラー陣のほとんどはバイキングに顔を出していなかった。太田と窓際の明るいテーブルについた。離れたテーブルに島谷、菱川、江島がいた。黄土色のワンピースに白いカーディガンをはおり、紙袋を提げた百江が現れた。人目を引かなかった。私と太田のテーブルにやってきて、
「初めまして、新庄でございます」
「新人の太田です。まだ二軍ですが、四月から神無月さんといっしょにプレイするつもりでいます」
「がんばってください。私は野球のことはよく知らないので、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
 朴訥とした物言いに、私は太田と顔を見合わせて笑った。三人それぞれ好みの品を皿に盛るとテーブルへ戻った。百江はやはり宮本さんの奥さんによく似ていた。私は納豆をこね、大盛りのめしに載せた。スクランブルエッグ、ウィンナー、豚肉とトマトの煮込み、味噌汁。百江は、鮭、板海苔、ひじき、ロールキャベツ、味噌汁だった。太田はパンにパターを塗り、ベーコンエッグをドッサリ載せた。
「ほかの選手のかたたちは?」
 あたりを見回しながら百江が尋くと太田が、
「まだ寝てるか、きのうの夜のうちに里帰りしてるんでしょう。関西の人が多いからサッと帰れるんですね。監督は実家が高松だけど、船の往復は大儀だからホテルにいるんじゃないかな」
 島谷たちのほうは見なかった。
「水原茂というかたですか?」
「はあ、ご存知ですか」
「お名前だけは」
 太田は説明する顔になり、
「聞きしに勝る大監督です。正義漢で、一本気で、思いやりの深い人です。本を読んでだいぶ調べました。慶應の選手時代から、リンゴ事件、麻雀賭博、野球部除名など話題の多い人だったらしく、巨人の監督時代も、選手にビンタは喰らわすわ、カメラマンを殴るわで世間を騒がせたようです」
「ぼくもそのことは本で読んで知ってる。慶應の野球部除名のあと、何年かして巨人に入団し、三塁手で二割バッター、ホームランはほとんど打たない選手だったみたいだね。それでもなぜか後光を感じる選手だったと言われてる。七年後に太平洋戦争に応召され、八年のブランクのあと、昭和二十四年にシベリア抑留から帰ってきて、翌年から巨人の監督になった。後光のせいだと思う。二十六年から三年連続優勝はすごい。巨人の連続優勝の伝統を作ったと言っていいね。昭和二十九年に天知監督率いる中日ドラゴンズに優勝をさらわれた」
「それ以来、ドラゴンズは十五年間優勝していないんですよ」
「そうなんですか。お気の毒ですね」
 太田とまた顔を見合わせて笑った。胸がさわやかになり、私も説明口調で、
「その後水原監督は昭和三十年に日本一になったきり、リーグ優勝はさせるものの、日本一になれない監督として巨人を追われ、三十六年に東映の監督になった。二年目の三十七年に、日本シリーズで阪神を破ってとうとう日本一になった。その年のペナントレースでは尾崎行雄が活躍したけど、日本シリーズは土橋の独壇場だった。弱小東映に在任した七年間、ずっとAクラスを保ったのは立派だ。在任した各球団のロゴを作ったことからわかるように、アイデアマンでもあるんだ。ドラゴンズのスカイブルーのユニフォームも水原監督のアイデアだ」
「神無月さんもけっこう知ってますね。今度のミーティングでは、サインの講義をするらしいですよ。神無月さんとは関係ないですけどね。サインなんか出されないと思いますから。でも一応勉強しといたほうがいいです。彼は努力家が好きですが、それ以上に天才が好きです。神無月さんは、無茶苦茶かわいがられてます」
 百江はボーッとして聞いている。
「想像もつかない人たちの世界ですね、プロ野球って」
「この神無月さんは、その中でもいちばん想像もつかない人です。今年は六月ぐらいから神無月さんの三冠王が話題になります、まちがいなくね」
 太田は二枚目のパンをむしゃむしゃやる。百江は虚ろな視線を私の横顔に向けた。私と距離を置こうと覚悟する視線だった。食事が終わると、百江は私の紙袋を持って自室に戻り、私と太田は相部屋へ戻った。百江が、どうせもう一度部屋に持ち帰る紙袋を持って食事にきたのは、選手たちに声をかけられたときの口実にするつもりだったか、それともユニフォームや下着がよほど大切なものと思っていたからにちがいない。
「シットリした人ですね」
「うん。もっと親切にしてあげないと。なんか冷酷に扱っている気がする。派遣売春婦みたいに。ぜんぜんそういう人じゃないのに」
「いや、やさしい眼で見てましたよ。いつもの神無月さんの。ああいう眼というのはごまかしようがないんですよ」
 背番号40のユニフォームに着替えた太田をドアに見送ると、すぐにエレベーターで百江の階へいった。どこか気持ちに焦りがあった。ドアをノックしないで開ける。私を見ると百江はすぐにベッドで大胆に全裸になり、満面に笑みを浮かべた。
「きてくださると思ってました。思い切り抱いてください」
 溌溂としている。
「安心した。暗くなってるものだと思ってた」
 私も全裸になり、ベッドの脇から腰を突き出した。ダラリとしていた。百江はベッドに正座して屈み、陰嚢をたなごころに納めると、じっと陰茎を見つめた。
「不思議な形」
 ぺろりと先を舐める。裏側を舐め、スッポリ含む。舌を使って懸命に愛撫しようとするが、スムーズに口が動かないのであきらめて口を外し、胴を舐める。私は百江の肩を押してベッドに仰向けにする。
「私のはきれいですか」
「相当ご主人に愛されたことがわかる。ひっきりなしだったんじゃないかな。ビラビラが黒い。オマメちゃんはあまりいじってもらえなかったようだね。締まりもいいから、ご主人は満足して射精したと思う。きみはあと一、二歩だったんだけど、とても気持ちがいいから、それがセックスだと思いこんじゃったんだね」
「はい……」
「きょうは、すぐ入れてみよう」
 よく濡れている膣口にゆっくり入れる。
「あ、いい気持ち……」
 驚いたことに、きょうは最初から脈打っている。
「一日で別ものになっちゃったね」
 数回往復して止める。うねってきて緊縛する。
「ううっ、イク!」
 すぐに抜いて抱き上げ、風呂場に運んでいく。バスタブの縁に座らせ、脚を開き、両手をつかみ合わせながら、痙攣がやむのを待つ。百江はようやく目を開け薄っすらと笑う。そういう格好をさせられているのに戸惑っている。長い小陰唇がふくらんでしっかり開いている。陰核ははち切れそうだ。舐めながら両手をしっかり握ってやる。
「ああ、うれしい!」
 すぐに達する。縁からずり落ちそうになるのを抱きかかえて縁から下ろし、仰向けになった私の胸に載せる。百江は私の上で思う存分痙攣する。脚を開き、下から突き入れる。
「あう!」
「イキつづけて」
 三回も達すると、恐ろしいほど締めつけてきたので、脚を極端に広げて深部に射精した。
「ああああ神無月さーん、イクウウ!」
 トシさんのような腰つきで動物のように前後に尻を振る。トシさんほど強烈な刺激ではない。倒れこみ、口を強く吸ってきた。
「好きです、愛してます! トルコなんかやりたくない!」
 思わず彼女は言ってしまった。この瞬間から彼女の現在と未来は他人の手に移った。老後のために長い時間をかけて立てた緻密な計画も。人を操っているのは、〈私〉と〈私のもの〉という考え方だ。すべてのものごとは私を通して存在するにすぎない。私を通さないもの。それを見つければ、苦しみの大半は消える。しかし、だれも見つけようとは思わない。見つければ、すべてと無縁になって孤独になる。孤独に生きつづけると決めないかぎり、それに耐えられないだろう。人は常に〈私〉を通して考え、永遠の苦しみを背負いたいのだ。
「―賄いをすればいいじゃないか。おトキさんやトモヨさんといっしょにね。ときどきぼくの家の掃除や賄いなんかして、特別手当をもらうんだ。その足し算で、息子の仕送りは余裕でできるよ。帰ったらすぐ、いまの気持ちをトモヨさんに言うことだね。何とかしてくれるから」
「はい、そうします!」
 頬をさすった。百江は明るく歯を出して笑った。美しい歯だった。
「シャワーを浴びて、少しゆっくりしてから、昼めしを食おう。腹へったろう」
「はい……とても疲れました」
 私も明るく笑った。
         †
 レストランでビーフカレーを食べ、明石駅まで送っていった。カメラマンが三人ほど追ってきた。
「名古屋から洗濯物を取りにきてくれたお手伝いさんです。何の話題も提供できませんよ。撮影は遠慮してください」
 カメラマンたちはニヤニヤしながら去った。
「また日曜日の夜にね」
「はい。とにかく帰ったらすぐ、トモヨ奥さまと北村席のご夫婦に相談します」
「うん。ぼくもそう希望してると言えばだいじょうぶだ」
「……私は二十歳のときに見合い結婚をしました。夫は二十六でした。特に愛情を感じるというわけでもなくいっしょになったんです。夫はなかなかの働き者で、小さな工作機械工場から出発して、中堅の工作機メーカーまで会社を大きくしました。三年前胃癌で倒れて、一年もしないうちに亡くなってしまって」
「―若死にだね」
「はい、五十三でした。しばらくして会社は倒産しましたが、それまで私は金銭的には何不自由なく暮らしてきましたし、子供も育て上げ、孫もでき、はたから見れば幸せな人生を送ってきました。でも私は、愛してると真剣に言える男の人を持たないまま生きてきたんです。―私が好きになった人は……ほんのきのう出会ったばかりでこんなことを言うのは浮ついてるように思うでしょうが、神無月さんが最初です。女としての人生はもう何ほども残っておりません。この気持ちを大事に生きていきたいんです」
「痛いほどわかるよ。ぼくも百江の年齢なら、同じように思うだろうね。その気持ちを大事にしながら生きればいい。ぼくもいっしょに生きるよ」
「ありがとうございます。……遠い人ですけど……わがままは言いません。ただ愛していたいんです」
「ぼくは愛されることが大好きな人間だ。愛してくれた人にはかならず応える。安心してね。じゃ、九日の夜」
「はい、九日に。さよなら」
 明石駅の改札で手を振って別れた。


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