四十三
  
 バットケースを肩にかけ、もう一方の肩にダッフルを担ぐ。足もとは運動靴。ホテルから全員ユニフォームを着て九時に出発する。ホテル前の群衆が取り巻きながらあとに従う。きょうも警官が出ている。
 朝の冷えこみが和らぎ、とんでもない上天気になった。フラッシュがひっきりなしに光る中、紅白のチーム固まって信号を渡る。公園の周囲に警官に制されて入園者の人垣ができている。入口に歩み入ったとたん、すさまじい歓呼が上がる。ほぼ全員にかかる声援がうれしい。広大な芝生に囲まれた遊歩道を歩きながら、二つの三層の天守閣を右手に見上げる。中が、
「あれは巽櫓(たつみやぐら)、坤櫓(ひつじさるやぐら)と言って、天守閣の形をしたミニチュアなんだよ。明石城はむかしあったが、天守閣はもともとなかったようだ。天守台までは造られたけど、天守閣は建てられなかったというのはおもしろいね」
 この十日間、いき帰りの遊歩道や、練習しているとき三塁スタンドの上方の森に見えたのは、明石城ではなく天守閣形の櫓だったことを初めて知る。おもちゃのように見えたはずだ。なるほど明石〈城址〉公園か。
「天守台跡はどこにあるんですか」
 中に訊くと、
「あの櫓のあいだに天守閣のない平城が建ってたそうだ。あの小ぶりな庭園は、宮本武蔵が明石城主に招かれて設計したらしい」
 その庭園を左手の小池越しに見ながら、子供用広場という標示板のあるだだっ広い芝生に沿って歩く。観客も満員の締め出しを喰らうまいと急ぐ。キャンプの単なる紅白戦と思えない盛況だ。高木守道が、
「感激だなあ。三十五年に入団以来九年、キャンプがこんなに人だかりになるなんて初めてだ。金太郎さんさまさまだね」
「高木さんはおいくつですか」
「昭和十六年生まれの二十七歳だ」
「ご出身は?」
「岐阜。県立岐阜商出身。俺も金太郎さんと同様、小っちゃいころから大のドラゴンズファンでね、当時は名古屋ドラゴンズと言ってた。二十九年の優勝の年から中日ドラゴンズと呼ぶようになった。十歳の夏、生まれて初めて中日球場に連れてってもらったとき、たまたま球場が大火事になって、バックスクリーン横の通路から必死で逃げた」
「え! 火事があったんですか」
「うん、巨人戦の三回裏だったな。たしかバッターは西沢道夫さん。巨人のピッチャーは忘れたけど、中日は杉下さんが投げてた。ネット裏から火が出て、風にあおられてアッという間に燃え拡がった。木造だったから火の回りが早くてね、四、五人死んで、何百人もケガをした」
「すごい経験ですね」
「三カ月で再建して、いまの球場ができた。ドラゴンズは立ち直りが早い。俺も懲りずにそれからもよく観戦にかよったよ。野球をやると決意して、昭和三十二年に県岐商に入った。長島が六大学で大騒ぎされてたころだ。その年、立教大学四年生の長嶋さんが岐阜商に指導にきてくれて、ショートの補欠だった俺をセカンドのレギュラーとして使うようにと、監督に進言してくれたんだ。それ以来、俺は長嶋ファンなんだよ」
 デンスケを持った男たちが二人、三人と寄ってくる。観戦よりも選手目当てのファンたちも寄ってくる。私たちは彼らに取り巻かれながら歩いた。スポーツ選手はふつう口数が少ない。その彼らがしゃべっている。ふだんは口数が少なくても、いざ口を開いたらくだらないことはぜったい言わないはずだとでもいった面持ちで、報道関係者も一般の人たちも高木の言葉に耳を傾けている。
「甲子園にいったんですよね」
「ああ、三年の春にね。決勝まで進んで中商に負けた。プロの誘いがなければ早稲田に進学する予定だったけど、中日からオファーがきたので入団した。金太郎さんと同じ十九歳だった。それで、期待してることがあるんだ」
「何ですか」
「入団した年の五月に俺は大洋戦でデビューした。代走だった。そのままプロ第一打席に立って、なんとホームランを打った。新人第一打席ホームランは史上四人目だった。……ただそういう選手は大打者には成長しないというのが定説だ。大打者は初打席に三振してる。野村、長嶋、王、張本。金太郎さんは俺の心配とは関係なくホームランを打っちゃうだろう。そして定説を崩す。期待してるのはそれなんだ。金太郎さんはそういうジンクスとは無縁だろう」
「その中間を取って、ヒットか凡打というのもありですね。きょうは打ちまくります」
 話を聞いていた選手たちがワッと笑った。ファンやデンスケたちも笑った。
「高木さん、宇野コーチっていつも物静かな雰囲気ですが、どういうかたなんですか」
「水原監督の慶應の後輩で、もと巨人の選手。長嶋の一代前の三塁手だよ。昭和二十年代に、青田、川上とクリーンアップを打った。国鉄に移籍して四番を打ち、そのあと国鉄の監督、大毎の監督を歴任した。この七、八年ラジオの解説者をしていたけど、今年水原監督に誘われて中日にきた」
 私はため息をつき、
「聞いてみると、だれもかれも華々しい球歴があるんですね。圧倒されます。ぼくなんかついこのあいだまで、ただのクラブ活動アンチャンですよ。よくこの場に立っていられるもんだと恥ずかしくなります」
「みんなそうだったんだよ。恥ずかしがることはないさ。球歴なんてあとでできる」
         †
 超満員だ。スタンド、芝生席、一万二千人が肩を寄せ合っている。ネット裏最前列にはビデオやカメラを携えた記者団、村迫以下ドラゴンズ首脳陣、他球団の偵察隊、地元の名士たち。中段にあの三人家族がいた。最上段と、十列目あたりと、両ベンチ上、スコアボード下にテレビカメラが据えられているのに気づく。
 あらためて球場全体を見回す。ネット裏から各ダッグアウトの端までが二十数段の幅の広い内野スタンド、ファールグランドの途中まで十数段の幅の狭い内野スタンド、そこからはすべて芝生席になる。ファールポールは黄色。高さ十メートル足らず。そのポールと同じ高さで場外弾防止網がぐるりと張られている。網の向こうは森。バックスクリーンはなし。センター芝生の奥に中型のスコアボード。いただきに旗が三本。バックネットの裾には、ダッグアウトの天板と同じ高さで仕切り部屋が連なり、金網つきの縦長の窓がずらりと並んでいる。各窓に二つ以上の人影がある。
 晴れ上がった午前の空の下で、五分ほど時間をもらってフリーバッティングをする。きのうバッティングピッチャーを頼んでいた太田はすぐに要領を会得して、緩急つけたボールを小さなテークバックでどんどん投げこんできた。最も至近距離で投げたときはファールチップが多くなったけれども、最終的に腰の始動を早くしてホームランを打てるまでになった。ラスト三球はすべてホームランだった。フラッシュがしきりに光り、スタンドが沸きに沸いた。レギュラー陣も興奮し、控えピッチャーを相手に、われもわれもとケージに入った。至近距離のときにはコーチ陣もピッチャーとして参加し、空振りさせては明るく笑った。江藤が、
「速球対応に、ほんなこつよかばい」
 中が、
「素早くフォームを作るのにいい訓練だ」
 私は、
「バッティングは思うように打てないことのほうが圧倒的に多いとわかりました。ファールチップや空振りは、眼が離れるのが原因ですね。あたりまえのことですけど」
 高木が、
「ふだんのフリーバッティングだと、打者のタイミングにピッチャーが合わせてくれるから自分主導で間合いがとりやすい。でも、試合で自分主導なんてことはあり得ないからね」
 木俣が、
「なんか、実戦にめちゃくちゃ近い感じだよな」
 水原監督がうれしさをこらえきれないように笑っていた。
 紅白合同でふだんのフリーバッティングになり、太田と菱川が率先してケージに入った。先日公園で口を利いた伊藤久敏と、初めて見る門岡信行が、ふつうの距離から三十球ほど投げた。松本忍というサウスポーと外山博という右腕のバッティングピッチャーが、マウンドの五メートル手前から投げた。菱川はレギュラー顔負けの打球を連発した。太田は空振りが多くいま一つだったが、打球のするどさと飛距離はまぎれもなくスラッガーの片鱗を窺わせるものだった。田宮コーチが、
「地元テレビ局が、試合開始から終了まで中継するそうだ。紅白戦では初めてらしい」
 と胸を張った。幼いころから新聞やブラウン管の向こうにしかなかった世界に、いま立っている。あるときに百パーセント確信し、あるときに百パーセントあきらめた世界だ。
「神無月!」
「江藤!」
「中!」
「高木!」
 四人に声援が集中する。紅組ブルペンの田中勉と白組ブルペンの伊藤久敏を傍目に、菱川と太田につづいてバッティングケージに入る。バッティングピッチャーは浜野。大歓声が上がる。水原監督が、
「十六人、順繰り五本ずつ。金太郎さんはトリもやって!」
 アットランダムに打ちはじめる。私は二本のライトフライを打ってすぐ退き、つづく江藤が弾丸ライナーで一本打ちこみ、あとの四本は凡打。葛城、木俣、高木、太田、江島とすべて内野ゴロ。変化球で打ち取ろうと浜野がやっきになっている。これではバッティングピッチャーの務めを果たしたことにはならない。水原監督が不機嫌になる。私のトリの番になった。浜野の目が燃える。私に向かってボールを突き出す。
「ライトフライじゃかわいそうだ。ストレートだけにしてやる!」
「オッケー!」
 一球目のインハイでバットにヒビが入った。ライトのポール下にポトリ。内外野の仕切り目のない芝生席だ。人垣がポールの左右で波打つ。浜野が口惜しがる。バットを替え、内角をしつこくせめようとする気持ちを読んで、クローズドスタンスに構える。このほうがファールになりにくい。外角低目に速いカーブがきた。踏みこんでしっかり叩く。左中間の芝生席に突き刺さる。浜野の顔がゆで蛸のように赤くなる。球場じゅうホームラン、ホームランの合唱。浜野はなりふりかまわずスライダーを内角に落としてきた。思い切り掬い上げる。
「オオオー!」
 青空高く舞い上がり、ネットを越えて場外へ消えた。浜野が水原監督に呼ばれた。走ってマウンドを降りる。何やら叱責されている。バッティング練習ごときに躍起になるとは何ごとだと言われているにちがいない。マウンドに駆け戻った浜野は、素直な直球を真ん中に投げてきた。私も素直にバットを出す。センターに真っすぐ伸びていってスコアボードを直撃した。歓声が爆発する。田宮コーチが、
「金太郎さんのバッティング練習もテレビに映してるそうだぞ」
 浜野は最後の球をスリークォーターから投げてきた。真横にスライドした。あわててレベルスイングをする。ライナーのファールが場外へ消えた。タイミングをもう少し遅くすれば打てるなと思った。浜野がマウンドから走ってきて、
「どうだ、いまのボール。初めて試した」
「もう少し速ければ勝負球にできます。ゆるくてもファールでカウントを取れますね」
「そうか! もう少し改良してみよう」
 扱いづらい男だ。褒めないと臍を曲げる。
「叱られたんですか?」
「肩を大事にしろと言われた。きょうは気温が低いからってな」
 嘘だろう。まちがいなく勤めを怠けたことを叱られたのだ。
 先発メンバーの守備練習開始。これも紅白合同でやる。ストロボの閃光、フラッシュのまたたき、シャッターの音。私は二塁への送球二本、バックホーム一本でやめた。それだけでスタンドがどよめく。フィールドの男たちがグローブを叩く。老いも若きも、一度あきらめた世界の仲間たちがグローブを叩く。少し外股の江藤がぎこちなく一塁守備にいそしんでいる。あの大選手江藤慎一が、いま私のチームメイトとしていっしょに守備練習をしている。もの思わないわけにはいかない。しかし、ものなど思わずに早く慣れよう。
 ケージが三塁側スタンドと芝生席の切れ目へしまいこまれ、濃紺の制服を着た審判員たちが走り出てきた。彼らの制服が球場の鮮やかなアクセントになる。ぱらぱらと拍手が上がる。なんとなく田舎じみたアクセントのウグイス嬢がスターティングメンバーを発表する。一人ひとり名前が呼び上げられるたびに、いちいち大きな拍手が上がる。江藤と私のところで大歓声が爆発した。水原監督は三塁のコーチャーズボックスに立っている。この静かな姿をむかしテレビで何度も見た。
 私たち白組が守備に散る。レフト芝生席の子供たちを見つめながらグローブを振る。ドッと歓声が弾ける。彼らの目に私の顔はとてつもなく美男子に見えているはずだ。身に覚えがある。巨人の森でさえ、小学生の私の目に美男子に映ったのだ。
 十五年選手の中とキャッチボール。予想していたよりいい肩をしていることを今回も目と掌で確かめる。受験の名門前橋高校出身。太田が言うには、エース、中軸打者として群馬県大会に出場、優勝して注目され、東大受験かプロ野球かで迷った挙げ句、ドラゴンズに入団したらしい。百六十八センチ、七十三キロ、スッとした好男子。おととし首位打者を獲った。セーフティバントの鬼。去年は眼病でほとんど休んでいる。
 ―一番、センター、中。
 小六のころに見た彼の三塁打が目に鮮やかに浮かぶ。二塁から三塁へ方向転換するスピードがネコ科の動物のように速かった。三塁打が異常に多い選手だった。ホームランは一度も見たことがない。しかし、今年バッティング練習で何本も目撃した。低く伸びていってスタンドに突き刺さるホームランだ。ウグイス嬢の口まねでしか実像を甦らせられなかった中利夫と、いま私はキャッチボールをしている。感激が胸に迫った。


         四十四 

 左の速球派伊藤久敏が投球練習をする。試合前の選手紹介のアナウンスが流れる。出身高校や出身大学や出身企業、獲得したタイトル。多くの選手の、観客をざわめき立たせるほど輝かしい実績が告げられる合間に、数少ないふつうの選手の名前が静寂をもって迎えられる。私もその一人だった。これがプロ野球だ。
「プレイ!」
 球場が喚声の坩堝になる。背番号7の伊藤竜彦が打席に入った。水原監督考案のユニフォームが美しい。白地のユニフォームに濃紺のアンダーシャツとストッキング、襟と袖に二本、ズボンの脇に縦に一本走る濃紺のライン。伊藤竜彦の男性的な青白い顔色との対照で、すべてのラインが驚くほどクッキリと浮き上がる。ビジターのときはこのユニフォームの白地が、東大のユニフォームとそっくりなスカイブルーになる。青森高校もそうだった。深い因縁を感じる。踵を上げ守備姿勢を取る。
 伊藤久敏が振りかぶり、投げ下ろす。初球内角低目のストレート。ダウンスイングで叩いた。するどい当たりだ。サードゴロ。島谷がしっかり腰を下ろして捕球し、リズムよく千原へ送球する。オーバースローのぶれない球筋だ。華麗ではない。アウトを宣する塁審の手つきのほうが美しい。紅組ベンチの野太い声が上がる。何を言っているのかわからないが興奮する。こんな叫び声を幼いころよく中日球場で聞いた。観客は静まっている。フラッシュも光らない。水原監督は尻ポケットに手を入れてボーッと立っている。
 二番江藤省三、背番号28。江藤慎一の弟。ひ弱そうな短軀。伊藤竜彦と同じように彼もヘルメットをかぶっていない。伊藤久敏初球、外角ストレート、ストライク。速い。二球目、三球目、ボールになる内角外角のカーブを見逃し、ワンツー。四球目、同じコースのカーブをコンパクトに捉えてライト前へ痛烈なヒット。伊熊博一がワンバウンドで抑え、中継に出た高木へ返球。一瞬のうちにショートの一枝が二塁ベースのカバーに入ったのに目を瞠った。レフトのバックアップの復習を頭の中で短時間のうちにした。ランナー一塁、次打者に右中間ヒットが出て、ランナーが三塁まで走ってきたら、外野からの送球をサードが後逸した場合に備えてバックアップに走る。それは理屈で、ほとんどショートかピッチャーがバックアップに走っている。ピッチャーは送球が三塁ベンチに入らないようにベンチ前まで走るのがふつうだ。送球がベンチに入るとテイクワンベースになるからだ。外野手にバックアップやベースカバーの仕事はほとんどない。二盗、三盗のときにキャッチャー送球のバックアップをセンターとレフトがするぐらいか。
 三番葛城、背番号5。これもノーヘルメット。大毎ミサイル打線の五番バッター。中西と打点王を争って二度奪い取った男だ。バットを少し寝かせ、腋を締め、背中を丸める。力強さを感じる。初球外角シュート、筋骨逞しい上半身がつんのめる。ストライク。二球目真ん中高目のストレート。失投!
 ―うわ、きた!
 フェンスに向かって全力で背走する。打球が速すぎるので間に合わない。振り向いてジャンプ、抜かれた。フェンスの上の金網を直撃する。クッションボールを拾って、振り向きざまノーステップで二塁の高木へ低いショートバウンドを投げる。高木掬い上げてタッチ。塁審がしばらく逡巡し、
「アウトォ!」
 歓声が逆巻き、江藤弟が三塁を回りかけて戻る。水原監督がうなずいている。ツーアウト三塁。犠牲フライはなくなった。センターの中から声が飛んできた。
「グッド・アーム!」
 グローブを上げて応える。
 四番江藤。しっかりヘルメットをかぶっている。尻ポケットに突っこんだ帽子が格好いい。私もかぶることにした。初球、外角高目カーブ、豪快な空振り。ヘッドアップして尻餅をつく。スタンドがドッと沸く。中が何かを察したように、わずかに右中間の浅い位置へ移動した。ヒヤッとした。右中間に打つと踏んでいるのだ。伊藤が調子に乗り、つづけて外角高目の速球を投げる。江藤は少しタイミングをずらして叩きつけた。右中間へ猛烈なライナーが飛んでいく。
「オーライ!」
 中がダッシュしてジャンプ、みごとにキャッチした。ふつうなら右中間を真っ二つに割る打球だった。打った江藤もみごとだが、その意図を見破って長打を防いだ中はもっとみごとだ。
 ―何者だろう。
 グランドに逼塞している天才たち。彼らの仲間としてプレイできる喜びに胸が締めつけられる。
「中さん、ファインプレー!」
 叫びながらベンチに駆け戻った。三塁コーチスボックスの水原監督が両手を叩き、
「中くん、ナイス!」
 と声をかけた。何もかもが新鮮でめずらしい。白軍監督の田宮コーチがベンチの中でみんなに、
「知らないやつに言っておく。田中勉は西鉄からうちに移って二年目だ。去年は十一勝あげた。やつのフォームは少しギクシャクしてるように見えるが、力強い理想的なフォームなんだ。三年前に南海相手に完全試合をやってる。江夏にも匹敵する剛速球ピッチャーで、三振を取る率も高い。おととし肘を痛めたが、それでもトレード前に十二勝した。衰えたりと見られて、うちの広野と交換トレードできた。毎年二軍で調整して、紅白戦から一軍に入るんだ。打ち崩してみろ。去年は六回ビシャッと封じられた」
 私は、
「投げられないほどの肘の故障じゃなかったんですね。それとも、痛みをこらえて投げてるんですか」
「トレード後、三カ月ほどボールを持たずにギブスで固定したんだ。成人の選手はだいたいそれで八割方快復する。子供は悲惨だ。金太郎さんみたいにな。肘の故障は投球フォームが関係してるから、いいフォームで投げてれば大事に至らないですむんだよ。金太郎さんは怖がってるが、いまのフォームならその右腕はだいじょうぶだ」
 ダイナミックなフォームで投球練習する田中を見つめる。左脚を高く上げるところは権藤に似ている。極端に右手を低く下ろすテイクバックがめずらしい。一枝に訊ねる。
「一枝さんは、権藤投手と同期ですよね」
「同期じゃないが、バッターに転向してからの権藤さんはぜんぶ見た。俺の入団前、三十六年、三十七年と三十勝した」
「はい、知ってます」
「その二年でつぶれた。俺が入った三十九年まで投げたことは投げたんだが、ぶっ壊れた肩じゃ無理だった。六勝十一敗。それを最後に、ピッチャーをやめた。木俣の話じゃ、全盛期は百五十キロ近いボールだったと言ってる。権藤さんは四十年から三年間、バッターとして三塁を守った。あの伊藤竜と争ってね」
「そのころの権藤さんは知りませんでした。ぼくの島流しの時代です」
「悲しい時代だね。権藤さんも悲しい目を見たよ。泣かず飛ばずでさ、と言っても、バッティングがいいから、ホームランの数は俺とドッコイドッコイだったけどね。ピッチャーで選手生命を終えたいと上に言って、去年一年ピッチャーをやって引退した。九試合登板して、一勝一敗だった」
 涙を浮かべている。雨、雨、権藤―。
 一番センター中が打席に立った。初球真ん中高目、うなるようなストレート。バックネットへファール。バットを寝かせ、からだを低くして構える小柄な中はまるで子供のようだ。
「いま権藤さんはどうしてるんですか」
「球団の上級職で残るようにオファーされたんだけど、断って野球解説者になった。そのうちかならず中日に帰ってくる」
 中が三振して駆け戻ってきた。
「ストレートも速いけど、ドロップがすごいぞ。大洋の権藤よりすごい」
「金田は?」
「あれはドロンカーブ。するどいことはするどいけどね」
 私が憶えているのは、天から落ちてくるすごいスピードのドロップだ。それを中に言うと、
「うん、そういう時代があったね。いまはそれほどでもない。まんいちそんなのがきたら打たなきゃいいのさ。カーブは見きわめられる。思わず手が出てしまうフォークが怖いんだよ」
 なるほどと思い、頭の隅に収めた。
 高木がバッターボックスに入った。ヘルメットをかぶっている。バットを腰に引きつけ、わずかに倒れこむような特徴のある構えだ。またまたうなるような真ん中高目のストレート。見逃す。ボール。さすがは高木だ。きちんとボール一つ見切っている。バットを低く後方へコックし、パンチショットを予測させる。
「ヨ、ホ、ハー!」
 田宮コーチの得体の知れないかけ声。二球目、顔のあたりから落ちてくるドロップ。見逃し。
「ストライーク!」
 アンパイアの右手の二本指がピシピシッと鞭のように振られる。高木が首を振っている。よほどの変化なのだ。ブルペンの浜野が食い入るように見ている。三球目、真ん中低目の速球、ショートバウンド。木俣が軽く掬い上げる。ワンツー。好みのコースにきた球を打つのが私の信念だけれども、そうではない外し球を見逃したあとは必死で考えるようにする。次は内角、高目、ストレート。思わず口に出る。中が、
「そう思うか?」
「はい」
「私もだ」
 そのとおりにきた! ハシッと打った。サードライナー。
「ナイスバッティング!」
 私は田中勉に聞こえるように叫んだ。田中は、何を、という顔を振り向けた。私はネクストバッターズサークルに近づきながら、ホームベースに向かおうとする千原の背に、
「初球はかならず真ん中高目です。速いですがそれほどキレはありません」
 小さい声で言った。千原は振り向き、指で丸印を作った。選手名鑑で調べたところ、彼は私の高校二、三年時とまったく同じ身長体重だ。百七十七センチ、七十六キロ。親しみが湧く。ピッチャーからバッターへ転向した彼は、去年ようやく花開いて十四本のホームランを打った。今年打てばまちがいなくレギュラーだ。打てなければ、江藤に一塁を奪われる。もとピッチャー特有の撫でるような振り方が感心しないけれども(王も一本足で打つようになるまではそうだった)、ミートがいいので当たれば飛ぶ。巨人の国松と似ている。国松もピッチャー出身だ。私はネクストバッターズサークルに膝を突いた。
 初球、胸の高さのストレート。撫でるように打った。詰まったふらふらしたハーフライナーだ。ファースト江藤ジャンプ、届かない。オーッという喚声。葛城ラインぎわまで必死に前進して捕まえ、二塁へ送球。悠々スタンディングダブル。ツーアウト二塁。
 ついに私の番だ! グリップを顔の前で握り締めながらバッターズサークルを出る。ベンチとスタンドが大騒ぎになる。二度ゆるいアッパーの素振りをしてバッターボックスに入る。胸が早鐘に打つ。田宮コーチのダミ声。
「ビックリさせてやれ!」
 初球を叩こう。内外野のスタンドがドンチャン騒ぎになっている。
「ヨーッ! ホ!」
 田宮コーチの相撲取りのようなかけ声が聞こえる。シャッター音が激しくなる。プロ野球選手になって初めての打席―こういう気持ちを感無量と言うのだろうか。足に震えはない。
 ゆったり構え、ピッチャー田中勉を見る。いかつい貌(かお)ではないが、美青年でもない。眉が太い。思い直して初球を打たないことにする。プロの速球投手のスピードを見たい。ランナーがいるのに田中はセットポジションをとらず、大きくふりかぶる。左脚が胸まで上がる。右手を下へ引き下ろすとき、一瞬緊張した横顔が見えた。胸を張り、グローブを膝に添え、投げ下ろしに入る。一連の動作がスローモーションのようにハッキリ見える。ど真ん中高目だ。浮いてくるか? 浮かない。木俣が腕をわずかに差し上げる。バシン! という音。よし! と木俣の声。
「ボー!」
「なんだ!」
 木俣がアンパイアを振り返る。高いという手のひらのジェスチャーが返ってくる。たしかにボール一つ高いが、最初から打たないと決めていたので見切ることができた。百五十キロ前後。速いが、切れない。打てる。次はドロップにちがいない。見よう。二球目。案の定するどいドロップ。
「ストライーク!」
 観客が固唾を飲んでいるのが伝わってくる。両ベンチも声を出さない。シャッター音だけが響く。三球目内角高めの速球。バネのように田中のからだが跳ねる。見逃す。
「ストライーク! ツーワン、ツーワン」
 テレビカメラを振り返りながら考える。こんな素直な速球を投げているのに肘を壊すはずがない。おそらく彼が肘を痛めた原因はシュートだ。それが得意の決め球だからだ。ドロップではない。次にかならずシュートがくる! 
 クローズドに構え、少しピッチャー寄りに右足を進める。ふと、ヘルメットをかぶっていないことに気づいた。次はかぶろう。サード太田の四角い顔が青白くなっている。四球目、外角へ逃げようとするシュート。百四十七、八キロ。踏みこんで手首を絞る。ほんの少しバットの先だ。だいじょうぶ、いった! 田中がショート伊藤竜の頭上を振り返った。
「ウオオォォ!」
 歓声が全身を殴りつける。江島と菱川が左中間へ疾走していく。それから顔を見合わせるようにして走りやめた。芝生席を越えて左中間の防御網に打ち当たる。浜野がブルペンからボールが網に弾んで落ちてきた観客席を見ている。太田コーチとタッチし、ファースト江藤のナイスバッティングの声を背に聞きながら一塁を回る。いつもよりゆっくり走る。歓声に歓声が重なる。三塁を回る。水原監督と片手でタッチ。ホームインして、前走者の千原とハイタッチ。親子三人連れが立ち上がって拍手している。フラッシュの光が滝のように降ってくる。白組のメンバーがこぞって出迎える。プロ野球にはこれが許されているのだ。田宮コーチと握手。ベンチの前列と順繰りロータッチ。
「神無月選手、紅白戦第一号のホームランでございます」
 ここまでウグイス嬢がアナウンスをつづけていたことに気づかなかった。東大のようにベンチ内でべたべた抱きつく輩はいない。賞賛の言葉だけだ。
「ナイスバッティング!」
「ナイスホームラン!」
「スゲエ流し打ちだな」
「流し打ちでないだろ。レフトを向いてふつうに打ったんだよ」
「なんだ、それ!」
 子供のようにはしゃぐ。堀込が黙々とスコアブックをつけている。


         四十五

 池藤トレーナーが伊藤の肩に氷を入れたビニール袋を当てている。私がめずらしそうに見ていると、一枝が、
「最近の研究によるとね、疲れた筋肉や腱は温めてはいけないそうなんだ。権藤さんのころまでは知られていなかった。むかしのピッチャーは気の毒だったな」
 池藤は、
「まだ冷やすには回が早いんですけどね、オープン戦で故障するのがいちばん怖いですから、念を入れてます」
 木俣が入団して以来、シーズン通して控えに回ることの多くなった新宅が、
「左手の押し、すごかったなァ。あそこまで伸びるか! フェンスぎわで落ちると思ったんだけど、防御ネットまでいっちまった。あの打力があれば俺も……」
 キャッチャーボックスの木俣をじっと見つめながら言う。吉沢が移籍した近鉄から今年ドラゴンズに戻ってくるまでのあいだ、新宅は木俣と主戦キャッチャーの座を争ってきた。ホームランと打率の差が歴然としていたので、出場試合数は半減した。しかも、試合の後半に交代して、一打席かそこら立つ程度だ。高木が、
「人間技じゃない。打った瞬間、背番号8が光ったからな。どういう凡打を打つのか早く見てみたいよ。……金太郎さん、頭や顔面のデッドボールは選手生命に響くよ。次からはかぶりなさい。油断は禁物だ」
「はい」
 葛城が、
「モリはさんざんやられてるからな」
 事情を訊く暇がないうちに、次打者の島谷は高いセンターフライに終わった。上半身を使ったパンチショットだった。
 二回表。木俣の大根切りのレフトライナーが飛んできた。これまで目にしたことのない火の出るような当たりだった。捕球するとき一瞬目をつぶった。響きのいい打球音から真芯だとわかった。真芯はこれが多い。もう二、三ミリボールの下を叩いていれば場外ホームランだった。もったいない気がした。
 つづく菱川は、アウトコース低目のカーブをみごとにレベルスイングで叩き、滞空時間の長いホームランをライト芝生席に落とした。葛城がジャンプして差し出したグローブの先を越えた。呑みこみの早い男だ。太田のライバルは島谷ではなく、この菱川だとあらためて確信した。菱川は三塁を回るとき水原監督に背中をポーンと叩かれた。太い首筋がうれしそうだった。
 つづく太田はファールで粘ったあと、センター前へゴロで抜けるヒットを打った。同姓の太田一塁コーチと握手。相変わらずバットが波打っていたけれども、友人の手柄はうれしい。江島、田中勉、伊藤竜彦と凡退。伊藤久敏はストレートのコースが甘く、早い回で打ちこまれると感じた。一対二。
 二回裏、田中勉は伊熊、新宅、一枝と三者三振に切って取った。シュートは使わず、低目のストレートとカーブだけで打ち取った。紅軍白軍とも二回でピッチャー交代し、一対二のまま、小野正一と山中巽の投げ合いが四回裏までつづいた。
 紅組三回表、江藤弟セカンドライナー、葛城センターフライ、江藤が私の前へゴロのヒット、木俣三塁ファールフライ。ノッポの山中巽の豪快なフォームの投法が心地よい。彼は中商で江藤弟と同期で木俣とは一年先輩の関係なのに、練習のときも親しく語り合っているふうはなかった。プロ野球では同窓会的な親近感は御法度なのかもしれない。八年選手の彼にベンチで語りかけた。
「山中さんは中商、甲子園のエリートですよね」
「神無月くんにエリートと言われると、入る穴を探したくなる」
「尾崎と投げ合ったんでしょう?」
「うん。昭和三十六年の夏の甲子園でベストエイトまでいって、彼の剛球を目の当たりにした。ゼロ対十四で負けた」
 そう言ったきり、ブルペンへいった。彼は入団後、板東を押しのけて権藤なきあとの中日のエースの座につき、十五勝ピッチャーになった。最高勝率も二度獲っている。ストレートは百四十二、三キロ。フォークを決め球にしている。去年八勝八敗。中日のリリーフの大黒柱だ。
 三回裏白組、伊藤久敏の代打金(こん)、小野の速球にバットを合わせられず三振。金は初めて見る選手だ。高木が言うには、立正佼成会というノンプロのチームで小川や若生と同期だったらしい。練習では見かけなかったが、外野の片隅にでもいたのかもしれない。
 中サードゴロ、高木ファーストフライ。江藤が一塁手用の長いグラブをポンポン叩いて捕球した。プロ野球選手は、ちょっとした仕草にも華がある。私も観客の目にそんなふうに見えているだろうか。
 四回表紅組、菱川、私の前へライナーのヒット。怠惰な雰囲気がすっかり消えている。これが本来の彼だろう。シーズンに入ったらクリーンアップを打つかもしれない。太田キャッチャーフライ、江島ショートゴロゲッツー、小野三振。〈プロ野球〉に目が慣れてきた。最初感嘆した高度な技術が、高度なまま統一されているからだ。深い安堵感の中でプレイできる。その安らぎに慣れてきた。
 四回裏、千原ファーストゴロ、私も意外に伸びてくる小野の内角速球に詰まって、ぼてぼてのファーストゴロを打ち、ベンチに戻ってみんなに冷やかされた。
「見た見た、金太郎さんの凡ゴロ初めて見た。凡打はさすがに俺たちと変わらないなあ」
 一枝がカラカラ笑う。高木も笑いながら、
「いや、変わる。ふつう、沈む球なら凡ゴロになるけど、浮いてくる球はポップフライになる。浮いてくる球をとっさに上から叩ける視力があるからゴロを打てたんだ。ランナーがいたら進塁打になるぞ」
「なるほど。ポップフライは何にもならないもんな。金太郎さんて、ボックスで眠ってないかぎり凡打なんか打たないんじゃないか」
 千原が、
「眠ってても機械のように動くんじゃないですか。俺、さっきネクストバッターズサークルの素振りを見てたんだ。腰と腕の連動がどういう関係になっているのかわからない。見えないんだよ。機械って、そうじゃない?」
 高木が、
「それは振り出してからだろ。振る前の判断力が異常なんだよ」
 新宅が、
「研究しないほうがいいぞ。ガッカリするだけだ。東大野球部の連中もかわいそうだったな。理屈で考えたろうから。紅組のアンカーは浜野だろうけど、紅白戦で自信なくさなきゃいいがな」
 高木が、
「なくさないよ。金太郎さんのことは例外だと思ってるだろう。よそのチームのピッチャーは戦々恐々だね」
 伊熊は感に堪えたように腕組みをしたまま沈黙していた。中商時代にライト、四番打者で甲子園春夏連覇して、ドラ一で中日に入った男だ。長身の美丈夫だが、華がない。わいわい話をしているあいだに、島谷が粘りに粘って小野から左中間の二塁打を放った。しかし伊熊があっけなく三振、チェンジ。
 五回から白組は板東が登板した。初回からブルペンのベンチに坐ったきり、ダッグアウトには近づいてこようとしなかった。伝説の延長戦男。長嶋が巨人に入団した昭和三十三年、四国大会で、高知商戦延長十六回、高松商戦延長二十五回、同じ年夏の甲子園、秋田商戦九回、八女高戦九回、ついに肩と腰を痛めたが、腰に麻酔を打ちながら、魚津高戦延長十八回引き分け、再試合九回、勝利、対作新学院戦九回、勝利、決勝の柳井高戦で九回投げて敗戦。八試合百四回を投げ抜いた。鋼鉄の肩を持ったバケモノだ。二十九歳、百七十センチしかない。去年右肘のネズミを手術した。今年で引退だと囁かれている。
 両手を翼のように広げて投げる板東の球は切れる。肘を庇っているのか、初日の練習で私に投げたような速球は投げない。変化球の切れで、伊藤竜彦を三振、江藤弟の代打堀込をセカンドゴロ、葛城をキャッチャーフライに仕留めた。
「ワシ、肘休めるでな。六回から健太郎いけよ」
 ブルペンの小川に声を投げる。水原監督が苦い顔をした。
 五回裏、さっき高木の話に出た金と同期の若生和也が登板した。投球練習を見ると、踵を弾ませながらゼンマイが弾けるような投げ方をする。本格派だが、弾み方が大洋のサイドスローの秋山に似ている。百四十キロそこそこのストレートと、シュート、カーブ、スライダー、何でもござれだが、どうにか打てそうだ。
 新宅、左中間にポトリと落とす。一枝三遊間を抜くヒット。ノーアウト一、二塁。板東の代打に大男の外人がベンチ裏からのっそり出てきた。みんなギョッとした。半田コーチが、
「おとといの夜、羽田に着いたフォックスくんね。どうぞ、みなさん、よろしく」
「スティーブ・フォックスでーす。日本で野球やるの夢でした。どうぞよろしく。がんばりまーす」
 片言の日本語で挨拶する。そしてすぐに打席に入る。場内が沸き立った。フラッシュがしきりに光る。半田コーチの説明では、アリゾナ大学を中退して、去年の十一月、中日にテスト入団したという。きのうまで里帰りしていたようだ。次打者の中が、
「二軍のホテルのほうに泊まってるらしいね。外人がくるって話はチラッと聞いてたけどね。お父さんが水原監督の知り合いらしいよ。たぶん縁故入団だと思うな。開幕まで様子見だろう」
 そう言ってネクストバッターズサークルに向かった。見かけなかったはずだ。でかいだけで不器用そうなフォックスは左打者だった。観察する。初球からボールのコースや種類と関係なくひたすらブン回して、三球目にセカンドゴロ、ゲッツー。水原監督が天を仰いだ。フォックスはまたサッサとベンチ裏へ逃げていった。みんなフォックスの毒気に当てられポカンとしてしまった。笑う気にもならない。高木が、
「なんじゃありゃ! 監督が気の毒だ」
 ツーアウト三塁。中が片手でバットを振り回しながら打席に入った。一回以降静まり返っていた観衆が、ようやくやかましくなってきた。フォックスが一陣の爽快な風を吹かせたのかもしれない。バックネット最前列に他球団の関係者がいつのまにか勢揃いしている。彼らのほとんどがビデオカメラを回している。フォックスのことなど気にも留めなかったという雰囲気だ。若生の初球、中がバットをサッと左手で押し出す。
 ―やった!
 太田の前にセーフティバントを敢行した。あっという間に一塁へ駆けこむ。新宅ホームイン。一対三。水原監督が両掌を猿の玩具のようにパチンパチン叩いている。彼も気を取り直したようだ。応援団もコンバットマーチもなく、バトンガールも踊っていない。喚声だけの野球場が新鮮だ。コーチ陣の得体の知れないダミ声。それもすがすがしい。
 高木、二球目、スライダーを叩いてライト前ヒット。中のすばらしい走塁! 風のように二塁を回り、数歩で三塁へ滑りこむ。観客が狂喜する。白軍ベンチも拍手喝采だ。ツーアウト、一塁、三塁。ペナントならここでピッチャー交代だろう。予行演習なので続投になる。若生は顔色を失っている。紅軍の長谷川コーチが何やら叫んでいる。若生を励ましているようだ。
 私はヘルメットをきちんとかぶった。そろそろ真昼だ。陽は照っているが気温は低いままだ。風はない。冬場の打球は芯を食えば伸びるし、手も痺れない。
「千原さん、一発!」
 ネクストバッターズサークルで叫ぶ。千原が緊張している。さっきのようにOKサインを出すほどの余裕がない。このランナーを残塁させるのは惜しい。ヒットかホームラン。初球、外角に落とすシュート、ストライク。千原はやるせなさそうに首を振りながらバッターボックスを外す。去年、オールスターファン投票二位で出場しているほどの選手が、どうしてこんなに自信がないんだ。当たり損ねとはいえ、さっきは二塁打を打っているではないか。いや、プロ野球選手というのはこういうものかもしれない。いろいろな利害を考えると、腰が引けてあたりまえなのだろう。キャンプで打てなければ、オープン戦に望みを託す。オープン戦がだめなら、公式戦の出場機会はグンと減らされる。そのストレスに満ちた戦いはキャンプの紅白戦から始まっている。詰まった一塁ゴロを打っても不気味な褒められ方をするような私とは、どだい野球生活の土俵がちがうのだ。うかつに能天気な檄など飛ばせない。
 千原は二球目を撫で打ちしてライトフライに倒れた。観客の落胆の声を聞きながら一塁から駆け戻る姿が哀れだ。彼は徳武と交代させられ、ベンチの後列に下がった。もと三塁手の徳武はサードの島谷とジャンケンをして負け、千原のあとのファーストを守ることになった。

        四十六

 六回表、板東のあとを継いだ小川は飄々と投げ、江藤兄、木俣、菱川の四、五、六番を内野ゴロに切って取った。飄々と言っても、アンダースローから繰り出す彼のストレートは百五十キロ近くあるように見える。細身だが全身がバネ式のゴムでできているようで、投球のたびにピョンと弾む。ベンチに戻ると、小川は、
「金太郎さん、俺の本領はシンカーなんだぜ。浮かんでから沈む魔球だ。今度練習で投げてやるからな。板ちゃんのせいで、あと三回も投げんといかん。どんどん打って俺をラクにしてくれ」
 江藤と同様九州出身だが標準語だ。江藤が私と初対面のときから訛りを出してしゃべっていたのは、最初から打ち解けた気分になったということなのだろう。
「小川さんも九州なんですよね」
「福岡たい。中日は愛知が多か。地元やけんな。九州もちらほらおる。濃人が九州で固めようとした時期があったばってん、失敗しよった。うーん、伊藤久、葛城、田中勉、江藤兄弟、新人の太田も森下コーチも九州やろ。東京は徳武と千原と井手ぐらいやな。ワシャ九州弁は慎ちゃんにまかせとる。じゃ標準語に戻るぞ」
 そう言って明るく笑った。
 六回裏。私からの打順だった。紅組は若生の続投。大歓声が上がる。打とうと、打ち取られようと、若生の初球を振る決意をする。
 島谷が、
「これ、紅白戦の雰囲気じゃないですね。紅白戦というのは、おたがい打たれたり、打ち取られたりして、未熟な技術を改善するためのものでしょう。どんどん打たれればいいし、どんどん三振すればいい」
 高木が、
「島谷金二くん、そうもいかないんだ。キャンプで成果をあげないと、オープン戦の出番がグンと減る。となると、公式戦はもっと減る。給料もらってる以上、みんな必死だよ」
「バッターラップ!」
 審判の大声。プロのボールはめったにお辞儀をしないし、変化球のキレがするどい。アマチュアとのちがいはその二点だ。ストレートが伸びてくる分、ボールの上を叩いてしまう心配はほとんどない。胸から上だと見切ったストレートには手を出さなければいい。ストレートも変化球も、膝から腹までのあいだでボールを捕らえ、手首のひねりを入れながらバットを放り出す。この作業はだれにでもできるものではないことをプロになって知った。つまり、とてつもなく打ちにくいピッチャーにぶつかるまでは、小さいころから身につけてきた芯を食わせるスイングがそっくり有効だということだ。ベンチから、
「それいけ、金太郎さん!」
「さ、二本目!」
 金太郎の連呼と歓声で盛り上がるスタンドを見やる。テレビカメラをしばらく見つめる。この映像は実況と同時に録画もされている。晴れてプロ野球選手として活躍している姿を、西松や飛島の社員たちに見せたい。カズちゃんたちにも。
 若生が断頭台の前に立たされた罪人のようにうなだれて、懸命にボールをこねている。新宅が野次る。
「いくらこねても小さくならんぞ。金太郎さんにはソフトボールだ」
 若生が独特の短いワインドアップからスリークォーターで投げ下ろした。外角へ浮き上がって逃げていくシュート。キンタマの高さだ。両腕を真っすぐ伸ばして絞りこみ、ぶつける。いい手応えだ。
 ―よし、レフトオーバー。
 沸騰する喚声。フラッシュの火花。菱川が最初から追わない。両手を腰に当て、ふんぞり返るようにして打球を見上げる。防御ネットをすれすれに越えていった。
「ナイスバッティング! 百四十メートルはいったばい」
 ファースト江藤の声。
「ありがとうございます!」
 まるでランニングホームランのように、一人きりの疾走に入る。スタンドもベンチも驚きの喚声を上げる。水原監督と強いタッチ。快適だ。一対四。ピッチャー若生から浜野に交代し、変化球攻めで後続三者凡退して、チェンジ。
 七回表、小川、オーバースロー、サイドスロー、アンダースロー、自在な投球術を駆使して、七、八、九番をすべて凡打に切って取る。ショートゴロ、セカンドゴロ、三振。ネット裏の偵察隊に見せつけるように、速球、スライダー、シンカー、スローボール、すべて披露した。ショートゴロを打った太田は一塁ベースを駆け抜けながら首をひねり、セカンドゴロの江島は腰に手を当てて天を仰ぎ、浜野は三振してすごすごとベンチへUターンした。
 七回裏、浜野、内外角低目への速球が小気味よく決まって、八、九番を凡退させる。一番中は三遊間へ渋いヒット。高木サード頭上へライナー、太田がタイミングよくジャンプして捕球した。着地の足つきがドスンという感じで、島谷と同様、少し鈍(どん)くさい感じがする。二人とも江藤と同様、ストッキングと調和しないズボンの折りこみ方のせいでそう見えるのかもしれない。三塁手は長嶋のように均整のとれたからだと、プレイの華麗さが眼目だ。菱川がいちばん合っている。彼は体形がよく、ユニフォームの着こなしも完璧だ。
 八回表、一番伊藤竜彦から。中肉中背、二割二、三分の低打率とはいえ、去年十本もホームランを打っているパンチ力のあるバッターだ。ナメてはいけないとわかっているだろうに、小川はおちょくるようにスローカーブを顔のあたりに投げた。大根切り一閃、グイグイ伸びたボールがあっという間に私の頭上を越え、レフトの観客席に突き刺さった。軽やかにベースを回り終え、ホームベース上でひと跳ねする大先輩の足もとを、入団四年目の新宅がさびしそうに見ていた。彼の打率は伊藤竜より悪い。打撃力不足のせいで四年間も木俣の黒子に徹してきた彼のさびしさが胸に沁みた。小川は股割りの屈伸をして気を取り直し、二番から四番まで、慎重にかつ奔放に打ち取った。二対四。
 八回裏。客席がそよとも動かない。私の最後の打席が残っているからだ。三番、千原と交代してファーストの守備についていた徳武が打席に入る。背丈は百七十七、八センチなのに、太くて、重そうなからだつきをしている。
「三番、ファースト徳武、背番号11」
 アナウンスがあっても声援が高まらない。もと国鉄の四番バッター。観客も私もそのカンムリしか知らない。実際の話、国鉄時代に彼がどんな活躍をしたのかまったく記憶にない。徳武定之。じつに変わった名前だ。一度聞くと耳に残る。シャワーを浴びてサッパリした板東がベンチにひょいと顔を出し、
「あいつは、板東殺しと言われるくらい俺を打った男や。中日が俺の勝ち星を増やしたくて去年獲った男やが、当の俺がこうまで衰えたら獲った意味がなかったなあ。島谷や太田も出てきよったし、もう出番はないやろ」
 徳武はゆるいゴロでショートの右を抜いた。板東が、
「お、徳ちゃん、やるやないか。悪アガキやな」
 すぐに代走が出るかと思ったら、九十キロもあろうかという巨漢がそのまま一塁ベース上に立っている。金太郎いけ、などと手を拍ちながら叫んでいる。スタンドの歓声がワンワン響く。田宮コーチのダミ声、一枝の甲高い声。マウンドの浜野が考えている。二点差の八回でツーランを打たれたら、まず紅組の勝利はない。内野が浜野の回りに集まる。紅白戦で敬遠はないだろう。三塁コーチャーズボックスの水原監督が両手を腰に当ててマウンドを見つめている。
 私はライトへ場外ホームランを打つ気でいる。そのためには内角低目を待つ。しかし浜野は私が低目を得意にしていることを知っている。外すつもりのボール球以外はぜったい低目に投げてこない。それを狙う。キャッチャーボックスの木俣が、
「金太郎さん、もう勘弁してやれよ。や、誤解すんなよ。俺は金太郎さんのホームランが見たいんだけどさ」
「ぜったいホームランにならないというコースと球種を要求してください。フォアボールはなしですよ」
「よし! フォアボールなし」
 浜野は一応セットポジションの構えをとったが、徳武は一メートルもリードしていない。初球、高目の外角ストレート、構えた格好のまま見逃す。ボール。木俣は速いボールを浜野に返す。浜野は依然として何かを考えている様子だ。ファーストの江藤が、
「レッツゴー、レッツゴー、レッツゴー!」
 と叫ぶ。
「ホームラン、ホームラン! 金太郎!」
 観客の声援に押されるように、外野手が三人ともギリギリまで守備位置を下げる。二球目、外角、ボールのコースから曲がり落ちてくる高目のカーブ、ストライク。
「欲出すな、欲出すな、丁寧にいけ!」
 木俣は叫びながらボールを一直線に投げ返す。
「ホームラン、ホームラン! 金太郎!」
 観客のコールがいよいよ高くなる。
「浜野がんばれ!」
 という声援も混じる。太田が守備位置の土を足で均す。水原監督はこういうまじめな作業を見落とさない。太田をじっと見ている。私はバットを高く掲げた。内角高目に備えている格好だ。浜野はどう考えるだろう。
 ―だれが内角高目に投げるか。
 それとも、
 ―ようし、いってやろうじゃないか。
 いや、結局、内角低目に地面すれすれのボール球を放ってきて、空振りを取ろうとするだろう。ストレートでもカーブでもいい。低目のクソボール、こい!
 ランナーの徳武も一塁手の江藤も次の体勢をとるのも忘れて熱心に眺めている。観客の気分になっているのだ。三球目、ボールが離れる瞬間の指の格好で変化球だとわかった。低い。ワンバウンドになるかもしれない。爪先のあたりで弾みそうだ。前方へ素早く右足をずらす。足首のあたりへスライダーが曲がり落ちてきた。全力で振り出し、両腕を絞りこむ。食った! 
「アッチャー!」
 木俣の叫び。徳武と江藤が振り仰いだ。伸びていく。歓声が渦巻く。浜野が膝を突いて半身をライトスタンドへ向けている。徳武がおざなりにフェンスに向かって走り出す。願ったとおりネットを越えて緑の中へ消えた。一塁を蹴る。
「神さまばい!」
 江藤がグローブで背中をしばく。すがすがしい孤独が押し寄せる。無理やり笑顔を作る。
「ありがとうございます!」
 徳武が遅いので速力を上げられない。内外野のスタンドでフラッシュが連続で光る。三塁ベースを回る私に水原監督が謹直な顔でうなずく。徳武ホームイン。木俣が私のホームインを確かめながら、キャッチャーミットで尻をポーンと叩く。
「あんな低目、ふつうは上に飛ばんぞ」
 徳武は私を待ち構え、ハイタッチして、いっしょに出迎えの選手たちの中へ飛びこんでいく。二人で揉みくちゃにされる。スコアラーの堀込に背中をしばかれる、伊藤竜にしばかれる、意外な二人だ。太田とは握手をした。二対六。
「神無月選手、紅白戦第三号のホームランでございます」
 二本目のときもアナウンスしていただろうか。田宮コーチが、
「おお、いい笑顔だ。野球も顔も特上だな。四番バッター、ベンチで休んでよろしい。佐々木、九回の守備はおまえがいけ」
「はい」
 胸番号48の男が返事する。一度名前は聞いた覚えがあるが、初めて見る顔だ。高木が私の顔をジロジロ見て、
「金太郎さん、ヒゲは生えないの?」
「十日にいっぺんぐらい電気カミソリを当てます。毛はチンボの周りだけ生えてます」
 ベンチが笑いさざめく。島谷、痛烈なファーストライナー。一枝が拍手する。
「ナイスバッティング!」
 伊熊、また三振。しおれた様子もなくベンチに戻ってくる。いつのまにか忘れられていく選手の一人だ。次打者の新宅も同じだろう。木俣の陰に隠れてフェイドアウトしていく。新宅は力強いスイングでレフトフライを打ち上げた。
 佐々木がレフトの守備につくと、外野の客席から失望の声が上がった。スタンドの人波が動きはじめる。帰宅の動きがあわただしくなる。佐々木は懸命に中とキャッチボールしている。佐々木孝次、入団六年目、二十四歳。小柄。守備要員。佐々木のほかに、控え選手に抜擢された二軍のメンバーが二人入れ替わった。入団式で顔を合わせた三好真一が一枝に替わってショートに入り、一塁へ達者な送球を見せている。華麗さがない。無性にさびしい。その一塁手も徳武から日野という小さな選手に替わっている。彼らの真剣な顔つきから、高木の言ったとおり、たとえ紅白戦でも彼らにとっては生活のかかった本舞台なのだとわかる。私も同じ舞台にいる。孤独になることも、さびしがることもない。私は私のまま進めばいい。
 九回表、紅組は五番の木俣から。菱川、太田、江島とつづく。小川はこの回も持てる球種をすべて投げるつもりのようだ。内角の速球を見せ球に、外角スライダーで木俣をセカンドゴロに打ち取る。
 唇が分厚く眉の太い大柄な菱川が打席に立つ。きのうまではその表情から怠惰がにおい立って、どことなく不貞腐れた、野球そのものを見つめていない雰囲気をただよわせていた。その印象がガラリと変わっている。一枝が、
「こいつは今年、レギュラーを取れるかどうかの瀬戸際だ。江藤が目標だと言って入団してきたが、このままだと未完の大器で終わっちまう」
 退(さ)げられてからベンチの後ろのほうに潜んでいた千原が、
「カネが誠意だなんて口を叩いた野郎は、大物になれないよ。金太郎さんの契約金六千万は、五、六年前に比べれば慎ましいものだ。五千万を超える選手はいくらでもいたんだよ」
 私は驚きもせず、
「契約のとき史上最高額と聞きましたけど、ぼくも信じていませんでした。でもそんなもの、どうでもいいんです」
 一枝が、
「フロントは小躍りしただろう。たとえば尾崎行雄、山崎裕之、渡辺泰輔、池永正明なんてのは、何年も前に五千万を超えてる。菱川もいくらか知らないが、父親がその程度の大金を要求してるはずだ。山崎の父親も金の亡者だった。そんな風潮のところへ、清潔な金太郎さんの登場だ。ドラゴンズはまんまと廉いエビで鯛を釣ったんだよ。巨人だったら一億でも出したと思うよ。でも金太郎さんは金なんか見向きもしなかった。だからどの新聞も、その件では金太郎さんを叩かなかった。世情を知らないということで、褒めもしなかった。水原監督が人格的に惚れこんだのもうなずける。俺たちも惚れこんだ。東映の尾崎は五千万以上の活躍をして潔く玉砕したけど、オリオンズの山崎は大した働きもしないで、このまま中堅どころで生きていくんだろう。南海の渡辺は終わった。菱川はこのありさまだ」
 長谷川コーチが一枝に、
「修ちゃん、菱はありさまが変わったよ。今年はレギュラーだ」
 田宮コーチが黙って聞いていたが、
「中日の首脳部に海老で鯛なんて悪意があったとは思えないな。神さまに金は不要だと考えたんだろう。そう思わないか、千原」
「はあ、たしかにそう思います。しかし、首脳部は神無月くんにうんとお礼をしないとね」
「同感だ」
 一枝が、
「そうだ、いろいろツケ届けをしないとな」
「じゅうぶんいただいてます。これ以上何もいりません。自由な練習時間と休暇をいただけたのは、たぶんプロ球界でぼく一人でしょうから、それだけで数億円に値します」
 田宮が、
「これでAクラスにでもなれたら、エビでマグロを釣ったことになるぞ」
 千原が、
「神無月くんはマグロごときじゃないでしょう。最初からクジラですよ」
 私はベンチからじっくり菱川の打席を観察した。両肘を開き、腰を引いて前屈みになり、頭の後ろにグリップを掲げる豪快な構え。ユニフォームの着こなしは美しく整っている。初球外角にシンカー、踏みこんで見送り。ストライク。踏みこむときにかなりグリップを下げる典型的なヒッチ打法だ。長嶋、王、ベーブルース、ゲーリック。
 私はまったくヒッチしない。二球目、外角低目へカーブを落とす。ボール。しっかり踏みこんでいる。菱川は一塁ベンチの私を見てニヤリとし、グリップをさらに右肩の上に引き上げた。彼の読みがわかった。内角高目に速球がきたらホームランにしてやるということだ。たぶんそうなるだろうという予感があった。
 三球目、ふところを抉るシュートがきた。菱川は長嶋のように左足を引き、ヒッチせずにガシッと振り下ろした。左中間に舞い上がる白球が大空に直線の糸を引いて鮮明に見える。帰りかけていた客の足が止まる。ボールは防御網に当たって、人のまばらになった芝生の上に落ちた。
「ナイスホームラン!」
 私は手を叩いて叫んだ。きょう二本目だ。菱川が肩をそびやかしてダイヤモンドを回る。彼を褒めた長谷川コーチを先頭に紅軍総出で菱川を迎える。私も加わろうとベンチを出かかると、一枝が、
「それはいかんよ。金太郎さんは白組だろ」
 と笑いながら止めた。田宮コーチはじめベンチじゅうが大笑いになった。


         四十七

「太田、ホームラン!」
 と叫ぶと、
「こらこら!」
 田宮コーチが私にヘッドロックをかけた。太田は真ん中のカーブを叩いて、レフトへ大きなフライを打ち上げた。徳武が、
「いったか?」
 一枝が、
「いっちゃったな」
 佐々木が塀ぎわでジャンプした。地面に着地して転がり、グローブを差し上げた。
「おお、捕った!」
 田宮コーチが拍手する。帰り損ねた客たちが拍手する。佐々木の面目が立った。紅軍ベンチへ走り戻っていく太田に私は声をかけた。
「太田、こすったな!」
「こすりました!」
 手のひらをサッとこすり合わせるような仕草をした。
「おいおい、なかよしこよしはホテルだけにしとけ」
 田宮コーチが微笑む。つづく江島がセンターへライナーを打った。すばらしい当たりだ。
「ああ、中さんの守備範囲―」
 中は左中間へ走りながら難なく捕球した。
 審判がホームベーで右手を掲げ、ゲームセットを告げた。学生野球のように両軍ともホームベースに整列しない。審判団も三塁側の屋内通路へ走り戻っていく。観客の満足げな拍手が球場に立ち昇る。思う存分ストロボやフラッシュが瞬く。試合のあいだじゅう三塁のコーチャーズボックスに立っていた水原監督がトコトコ歩いてきて、三塁側ベンチに、それからまたトコトコ歩き、一塁側ベンチにもナイスゲームの声をかける。
「自発的に特打特守をする有志は、仕出し屋から弁当が出てるから、ベンチで食ってから練習にかかってください。それ以外の者は、ホテルに帰ってランチ。そのあとは自由に休んでよろしい。全イニング出場した選手は、ランチのあと、疲れてないようだったら練習に加わりなさい」
 コーチが全員残り、私と江藤、葛城、徳武、中の五人以外は〈残業〉に精を出すことになった。きょう投げたピッチャーたちが残ったのには驚いた。
 拍手喝采するスタンドに手を振りながら、球場をあとにする。五人でホテルまで歩く。竿マイクとビデオカメラとファンがぞろぞろついてくる。葛城が、
「去年のノースリーブユニフォームにはまいったね。アンダーシャツとストッキングも赤。みっともないったらありゃしない。廃止してくれてよかった」
 江藤が、
「特にワシは似合わんかった。うすとろかったばい」
 葛城が笑いをこらえながら、
「慎ちゃんの腕がたくましいからというんで、採用されたんじゃなかったっけ?」
 徳武が、
「帽子もひどかったろう。本体濃紺で鍔が赤。アンダーシャツの首周りも赤。杉下監督なんか、まるでピエロだった。最下位にもなるよ」
 三人で私を見て、
「―似合ったろうなあ!」
 しばらくすると、太田がドタドタ追ってきた。
「やっぱり帰ることにしました。水原監督に、神無月といてやれって言われて」
 徳武が、
「おまえは将来、菱川と二人で金太郎さんの左大臣と右大臣になる男だ。スイングを見ればわかる。もっと下半身を安定させろ。距離が出る。とにかく練習だ」
「はい!」
 ホテルの玄関で、数十人のファンに取り巻かれた。江藤が無言で二、三人のノートにサインをして、さっさと逃げる。徳武と葛城も倣った。私は早書きの訓練のつもりで、十人ほどに文江サインをし、
「早く汗を流さないと、肩や腰が冷えちゃうから。ごめんね」
 と言って、太田とロビーへ入った。従業員たちが拍手で迎える。何人かの警備員が腕を広げて群衆を中へ入れないようにした。
         †
 太田と交代でシャワーを浴び、さっぱりしてラウンジに出る。喫茶ボンジュールに江藤たちがいた。一枝も高木も戻っている。太田が、
「めし食いましたか」
 高木が、
「これからだ。今朝の食事はミートソースと生野菜だけだったろ。腹ぺこだ。会食堂の昼めしの看板は肉うどんと握りめしだった。しっかりステーキでも食いたいのにな。太田たちは夜間練習に出るのか?」
 太田がはきはきと、
「俺、出ます。下半身を鍛えないと」
「夜間練習? 球場に照明設備ないでしょう」
 私が一枝に言うと、
「ホテルのミニバスで大蔵海岸公園までいって、ピッチャーはシャドーピッチング、バッターは素振りだ。二軍は全員いくんじゃないか。金太郎さんはいく必要ないよ」
「いきます」
 江藤が、
「ワシもいくばい。金太郎さん、いっしょにいってバット振ってくれんか。見たか。特に手首の返しば見たか」
 高木が、
「俺も研究したいな。よし、いこう。とにかくめしだ」
「監督たちは?」
 高木が、
「ルームサービスで食ってるよ。うどんなんか食いたくないだろう。キャンプの昼めしって軽いんだよね。ホテルの弁当のほうがましだ」
 会食堂の喜春には、私たち以外に人はいなかった。ほぼ選手全員が第一球場の食堂で昼めしをすませて、すぐに練習に出たのだろう。
 白服のウェイターが、鳥の唐揚げとライスと生野菜、最後にうどんを持ってきた。半熟卵、チクワの切り身二つ、蒲鉾、ワカメ、ネギが載っている。軽いと思えなかった。江藤がうどんをすすりながら、
「まず、口で説明してくれんね。右手首はどう使っとる」
「絞りこむとき以外使いません」
 太田がニヤつき、唐揚げにかぶりついた。江藤は、
「もちろん左手首も絞りに使うんやろな。振り出しから送りへもっていくとき、右手で引いて叩き下ろすんか、それとも―」
「一瞬左手首を外へ返して地面に並行にします。それから送り出します。そうして絞りに入ります」
「……それはできんな。一回手首を返す動作ができん。並行にするちゅうのは、見逃すときにバットを下ろすあの動作やな。それが金太郎さんの柔らかか対応のもとやろうばってん、できん。左バッターの場合、左手首は右腕の引きで自然に返すもんやなかか」
「内角を打つときは、もちろんそうしてます。……思い出して言ってみただけで、実際のところ、意識したことはありません」
「うん、見た感じやと、話とはちがうな。何もせんと、スーッとバットが下りてきて、ものすごいスピードで手首が内へ返る」
 太田が笑いを納め、
「俺も何度もやってみました。同じ形になりません。手首のところがよくわからないんですよ。あきらめました。神無月さんより二、三十メートル短いホームランが打てれば、それでよしとします」
 高木が、
「俺は百二十メートルも飛ばしたことないよ。江藤は百三十メートル級のやつをけっこう打つが、金太郎さんのは百四十メートル越えだ」
 一枝が、
「大学野球では、百六、七十メートル弾もよく打ったと聞いたぜ。慎ちゃん、手首の返し云々じゃ金太郎さんの飛距離は解明できんぞ」
「うーん、ガタイはワシより少し大きゅうくらいばってん、二、三十メートルも遠くへ飛ぶゆうんはなあ……。どうなっとるんやろのう」
 情熱を持って努力している人には、いつも頭を支配している一つの考えがあるものなのだろう。そうした考えは最後の最後というときまで頭を去らず、夜寝て朝目を覚ましたとたんに、いの一番に頭に浮かぶものなのにちがいない。私は彼らほどバッティングのことを考えたことはなかった。
「小学校のころから遠くへ飛んだんです。なぜなのかは自分でもわかりません」
「ケロッと言いよる」
 一枝が、
「金太郎さんは悪びれないのがいいところだ」
 太田が、
「中学校のときから神無月さんは、考えられない距離を飛ばしてました」
 遅い昼めしがすみ、
「さあ、晩めしまで仮眠ばすっと」
 私もそうするつもりだった。解散する。太田は自主練に出ていった。
         †
 夜の六時。シャワーの音で起こされた。頭をバスタオルでゴシゴシやりながら太田が風呂場から出てくる。
「やっと起きましたね。神無月さんはいつも極端に疲労してるんですよ。俺たちの疲れと比べものにならないくらいにね。寝てる顔を見て、よくわかりました。気の毒なくらい疲れた顔でした。どんなことも全力でやる。……生きてること自体が無理をしてる感じですからね。七時からめしですよ。夜間練習は八時からです。疲れにいきますか」
「うん」
 歯を磨く。簡易机に向かう。五百野の原案の練り直し。野辺地、三沢、横浜となぞり、保土ヶ谷で止める。名古屋以降は別仕立ての牛巻坂という小説にし、野辺地への北帰行で止める。頭の中でぶつかり合っていたそうした一群の考えの中から、一つの決意が湧き上がってきた。小説はその二つしか書かないということだ。野球を引退してから詩集一冊をまとめ、その後の人生を読書に当てる。詩の題名は全(まった)き詩集。
 ワラビと油揚げとイトコンの煮つけが食いたい、クジラの大和煮が食いたい、と思いながら、太田と喜春のホールにいく。コーチ、選手、トレーナー入り混じってわいわいやっている。メインディッシュは豚肉の生姜焼きだった。太田はたっぷり腹に溜め、私は軽く一膳ですまして、二人で部屋に引き揚げる。
 八時。バット一本を持ち、ジャージ姿で二台のバスに乗りこむ。運転手はホテルの送迎係。その男が言う。
「明石テレビで完全放送しましたよ。プロの選手というのはすごいものですね。紅白戦でこれなら、オープン戦や公式戦はどうなることやら」
 江藤が、
「ワシらにもどうなるかわからんたい。金太郎さんが夏場までに日本初の六十本ば打つやろ。ワシも夏までに三十本ば目指す。そぎゃんこつは相乗効果やけん、二十本以上打つやつがたぶん続出ばい。問題はピッチャーやな。それ以上に打たれたらオジャンたい」
 小川が、
「計算できるのは、俺と小野さんで三十五勝。ここに田中勉、浜野で二十勝、水谷寿伸、伊藤久敏、門岡あたりが足して十五勝してくれれば、自然と優勝だな」
 彼らのだれも水原監督ほどは楽観していないとわかった。ましてや、ほかの選手たちはなおさらだろう。私は野球ができれば楽しいだけで、楽観も危惧もしていなかった。その胸の内は口に出すことはできない。
         †
 送迎バスの中に板東と田中勉の姿はない。監督や一軍コーチ陣の顔も見えなかった。
 宇賀神に乗せられていった海岸公園を目指す。プロは昼も夜もひっきりなしで練習するとは聞いていたが、身をもって経験することになった。
 大蔵公園の薄明い園灯の下を選んで、打者はバットを振り、ピッチャーはタオルをするどく振り下ろす。江藤が私のすぐ目の前にあぐらをかいている。私のスイングを睨みつけながら、
「タコの言うとおりたい。手首が見えん。腰の動きはわかった。腰が正面向いても、握りが左腰の外に残っとる。そこからバットを思いのままに放り出すんやな。しかし手首が見えん。それにしたっちゃ、腰が柔らこうて強かなあ! 巻きゴムが回転するみたいやなかね……」
 ハッと江藤が顔を上げて、あわてて立ち上がった。
「どうしました?」
「金太郎さん、もともと左利きやったんよな」
「はい」
「左投げ、左打ち」
「はい」
「右投げに替えるまでは、左の腰はほとんど鍛えられとらんな。ちゅうか、リードするように引っ張って使う頻度が、たいぎゃ少なかった。右投げに替えて、左腰で引っ張る運動が増えて、反対側の筋肉も鍛えられるごつなった。どちらん回転にも耐えらるるほど強くて柔軟になった腰が、巻いたゴムが弾けるごつ強烈に回転するわけたい。おーい、太田!」
 二十メートルほど離れた灯りの下でバットを振っていた太田を呼ぶ。一同の目が太田に注がれる。
「はーい!」
 走ってくる。
「おまえの言うとおり、金太郎さんのバッティングはまねできん。利き腕を替えて、七年も八年もハードに野球をやりつづけとらんと、飛距離を出す腰のバネが作れんとわかったばい。左投げ左打ちのころの金太郎さんも飛距離を出しとった天才やったが、そのころのバッティングテクニックなら学ぼうと思えば学べたかもしれん。ばってん、右投げに替えて何年も経ってしもうた金太郎さんの腰の構造や、それを基本にしたバットの振り方はぜったいまねできん。つまり金太郎さんは、もともとん天才が災いを福に転じてでき上がった大天才ばい。ワシらは飛距離などちゅう贅沢ば言わんで、ただホームランば打つるごつ修練せんばな」
「はあ、俺はそこまで考えもしないであきらめちゃいました。神無月さんにはただコウベを垂れるしかないと思ってましたから。神無月さんは自分の技術のことなんか考えたことがないと思います。できちゃうんですよ。だから虚栄心がない。自分の才能に対する正当なプライドしかないんです」
 江藤はカラカラ笑いながら、
「金太郎さん、もうあしたから夜間練習に出てこんでもよかぞ。ワシらも出ん。時間を大事に使え。天才に必要なんな、精神の安定だけたい」
「いまからもう百本振ります。腹筋と背筋もやっていきます。このところ走りが足りてないので、あしたからしばらくランニングに力を入れます」
「オッケー。ワシも振っていくばい」
 素振りをする前方で、小川健太郎は二軍の水谷則博や竹田和史たちのシャドーを熱心に指導していた。そのシャドーの列に浜野百三がいないことに気づいた。板東も井手もいない。本多二軍監督以下二軍コーチ陣と、江藤と、小川と、高木、中、一枝はいる。紅白戦のメンバーがほとんどいない。新人では、一軍当確の太田と島谷がいるくらいで、バッターも参加者は十人に満たず、認識を改めはじめた菱川もいなかった。よほどの幸運がないかぎり、優勝はないと思った。
 
 
         四十八 

 太田とロビーを通り抜けようとしたとき、営業を終えた喫茶ラウンジ薄明かりの下で、板東と浜野が話しこんでいる姿が目に入った。十時を過ぎている。江藤や小川たちは無視して廊下を急いだ。私たちも倣った。板東が声をかけてきた。
「よう、天才さん、冷たいな。話をしようや。太田、おまえもこい。ただの四方山話だ。いじめんから安心しろ」
 一つ離れたテーブルに座った。
「高々十一年前やけど、なつかしゅうてな、浜野に聞いてもらっとったんや」
 私は、
「三十三年の徳島商対魚津高校ですか」
「それや。ワシも今年かぎりやろう。短かった野球人生の原点を思い出してな」
 太田が、
「大会通算奪三振八十三は、いまも大会記録です」
「おお、よう憶えとってくれた。ありがと。自動販売機でコーラ買ってきてくれ。話を聞かせてもらえるんやから、おまえらのおごりだ」
 太田は走っていって、ロビーで小銭を部屋ヅケで借りて、瓶コーラを五本買った。備えつけの栓抜きで栓を抜くと、彼らのテーブルに持っていった。浜野が礼も言わず口をつけ、
「再試合を含めて、大会六試合、六十二イニングを投げたんですよね。からだがボロボロになったでしょう」
 心のこもらない調子で言う。板東は褒められたと思っている。
「いま思えばたぶんそうやったんやろうが、そのときはなんも疲れんかった。甲子園のナイターは涼しゅうて、涼しゅうて、天国やった。ベンチに氷入りの麦茶があってな、飲んだことなかったもんで、ごちそうやった。このコーラよりうまかったで」
 浜野が、
「結局、再試合で勝ったんですよね」
「おお。三対一」
 太田が、
「そんなに投げたら、勝ちたい一心になりますね」
「勝ちたいゆうより、負けたら監督に怒られるのがいやでいやで、打たれる打たれない以前に、とにかく三振取らんと怒られる。ピッチャーはワシしかおらんのやから」
 みんなが黙っているので、私は、
「この世で一人しかできない経験をして、しかも大好きな野球で経験して、一生分の感動をしてしまいましたね。もう何も感動しないでしょう」
 板東に私の皮肉は通じなかった。
「何が感動するゆうたら、入場行進や。県立徳島商業高等学校ォ! アナウンスに合わせてみんなで、右! 左! やっとるのに、まちがうやつがいるからなあ。日章旗がポールに上がるのも感動的やった。ワシは小さいころから貧乏やったんよ。ほんとによくがまんした。それがあとあと生きた。満州で生まれて、日本に引き揚げてくるまでの苦しさはすごいもんやったで。徳島に住んだあとも、貧乏、貧乏。あの貧乏を乗り越えたのがワシの野球の原点や」
 太田と目を見合わせる。二十九歳の感懐と思えない。支離滅裂だ。何を言おうとしているのかわからない。野球人生の原点は、貧乏ではなく、魚津高校戦ではなかったのか。
「ありがと、みんな、よう聞いてくれた。ワシゃ、もう寝るわ。お休み」 
 浜野も、
「じゃ、あさってグランドでな」
 と一声かけてすたすたいってしまった。
「彼らといると楽しくないね」
「まったくです。こんなもんだとは思ってましたけどね」
 部屋に戻り、二人でグローブとスパイクの手入れをした。下着と、一週間着たユニフォーム一式を紙袋に詰めた。塩が固まらないうちに、風呂場で帽子を洗った。太田もめずらしがってまねをした。
「島谷さんより、菱川さんのほうが太田のライバルになると思うよ。今夜サボったのは感心しないけど」
「菱川さんは一日ぼんやり練習したあとは、一人っきりで飲みにいったり、女を買いにいったりしちゃうらしいんですよ。中さんが言ってました。長距離砲として期待されて入団したけど、根にちょっとグレたところがあって、まじめになりきれない。下手に忠告すると、関係のない新人に当たり散らすし、気に食わないならいつでも辞めてやるという姿勢でいるから、日々の練習にも熱がこもらない。ただ、同室の伊藤竜彦さんの話だと、菱川さんはこの一週間、部屋で熱心にバットを振ってるみたいなんですよ。その結果がきょうの試合なんじゃないですか。海岸公園に出てこなかったのは、いままでの態度をひっくり返すのが照れくさかったからでしょう」
「そう……。とにかく彼がライバルだよ」
 ふと、きょうは新庄百江がきているはずだと思い出し、少し気が重くなった。フロントに電話をして、百江の部屋を確認する。先週と同じ部屋だった。
「じゃ、下っ腹を空にしてくるよ」
「はい、俺はあした、しっかり空にしてきます」
「太田は好きな女の好みはあるの?」
「田舎っぽい女です。土のにおいがするみたいな」
「頭のいい女は?」
「カラッと開く戸より、建てつけの悪い戸が好みです。あんまり頭の切れない女がいいですね」
「ふうん……おもしろい表現をするね」
「そういう女じゃないと、安心できないんですよ」
 野辺地の四戸末子を思い浮かべた。この男は信頼できると思った。
「太田が好む女は貴重な種類だ。でも貴重な種類は、放っておけないので気持ちの負担になる」
「ですね。俺にしても、いま言った好みはあくまで手っ取り早い商売女を相手にしたときの話で、結婚となったらもっと気楽な女を考えると思います」
「何を考えるんだ。結婚する相手もそれでいいじゃないか。気持ちの負担と言ったのは、自分かわいさのことじゃない。貴重な人間に自分が見合わないという引け目だよ」
「はあ……」
「じゃ、いってくる」
 ビニール袋を持って百江の部屋へいき、クリーニングから上がってきたユニフォーム一式と、下着六組を受け取った。
「旦那さんに毎週同じ部屋を予約していただいてますから、日曜の夜に、あわてずにこの部屋にいらしてください。……失礼なことをお訊きしますけど、神無月さんは年寄りがお好きのようですけね。なぜですか」
 私は首をひねり、
「格好つけたことを言うと、齢のいった女は人間のノスタルジーの最たるものだと思うからだね。なつかしい過去をからだにしっかりしまってる。性的な魅力以上のものがあるんだ。もちろん性的にも熟しているから安心して抱けるけど、会話することでも馥郁とした過去を紐解くことができる」
「年寄りの命に意味をつけてくれるんですね」
「そんな高尚なことをしてるつもりはない。ただ、年のいった人間が抱えてる過去がなつかしいだけだ。現在というのはからだが生きる場所で、過去は心が生きる場所だ。長く生きてきた女はその両方を持ってる」
「神無月さんはまだ十九歳ですが、その両方を持ってるように感じます。と言うより、年齢を感じません。美しくて、なつかしくて……。みなさん、神無月さんのことを神さまと言います」
「原始的な外づらで脅されてるんだね。非常識な言葉を吐くせいで、人間離れしてるなんて思われるんだろう。原始人は文明社会に取りこまれたり、適応したりしなくちゃいけないのに、本能的に反撥してるんだね。ぼくのような存在は、利便と機能が支払った代償なんだよ。ノスタルジーという名のね。ぼくそのものが文明社会のなつかしいむかしの風景として存在してる。その実体は、あてのない骨なしの風来坊だ。天に昇らずにこの世でふらふらしてるやつは、神さまじゃなく風来坊って言うんだ。何も考えないほうがいい。何も持ってないから」
 否定を求める媚びのある口説に受け取られたくない。かならずそう取られるということが、私にはよくわかっている。
「何も持ってないなんて、あり得ません」
「たしかに、人を愛したいという気持ちだけは幼いころから人一倍持ってる。でもそういう気持ちを保つためには人を愛する能力がなくちゃいけない。自然に、何の疑問もなく湧いてくる愛情があれば問題ないけど、ぼくにはそれがない。それがないなら、何も持ってないということだ。何も持ってないなら、単純に、悩まずに生きるのが道理だ。自然に振舞うことは無理かもしれないけど、悩まなければ、エイヤッと愛することができる。悩みや疑問で心を縛ると、不毛な人間関係しか築けなくなる。好きでもない人間と付き合わなくちゃいけなくなる。ぼくは好きな人間と生きていきたい。だから心を解放することにした」
「好きな人とだけ生きるというのは、そう簡単なことじゃないと思います。この世は嫌いだったり関心がなかったりする人間のほうが多いんですから」
「社会に適応してる証拠を少しでも示せば、その人たちとやっていける。野球選手として世間的にビシッとした立場を通すのがその一つだ。野球のおかげで、とても生きやすくなった。……それから、好きな人間に寛容にならなくちゃいけないだろうね。いつ去ってもいいし、いつ近づいてもいいというふうにね」
「近づいたり、離れたりなんて、自由な心になれません。離れるなんて考えたこともありませんから」
「とにかく、ぼくを愛してるなら、ぼくの言うことやすることに疑問を持ったり、悩んだりしないことだ。さ、寝よう」
 ベッドに入って、一度交わると、目まいに襲われて、百江にしがみついた。百江もうれしそうにしがみついてきた。聞き慣れた金属質の耳鳴りを遠くに聴きながら、抱き合って眠りに落ちた。
         †
 二月十日月曜日。練習休みの日。
 百江と二人でバスタブに浸かる。見合いながら歯を磨く。からだを流し合う。
「私、ずっとおそばにいてよろしいですか?」
「いてほしい。野球や友だちを失って、くすみそうになったぼくを救ってくれたのは、カズちゃんの愛情と、そして山口の友情だった。いまこうしていられるのは、その二人の愛を受け継いだ人びとに磨かれたからなんだ。そばにいてほしい」
 抱きついてきた。
 もう一度ベッドで交わることになった。百江はこれまででいちばん解放的で、純粋な乱れ方をした。
 午前九時。
「きょうは早めに帰りますね」
 と明るく言う百江を廊下に見送ったあと、相部屋に戻る。太田の姿はない。喜春にいき、一般客に混じって和定食。遅い食事をしているのは伊熊と佐々木だけだ。頭を下げるだけですます。
 ジャージに運動靴で、第一球場に休日返上の選手たちの特打を見にいく。ダッグアウトのベンチに座る。二つのケージに森下コーチがついて、菱川、太田、江藤弟、千原、島谷のバッティングを見守っている。左腕の松本と右腕の外山が投げている。いつもジャージのポケットに忍ばせている新聞切抜きの選手名鑑で守備陣を確かめる。内野は日野茂、村上真二、三好真一、竹内洋、外野は金(こん)博昭、堀込基明、新谷憲三が守っている。菱川がケージの横で、外角低目の打ち方を太田に教えている。菱川はオッと私を認め、手招きした。
「内角高目の打ち方!」
 と叫ぶ。私は手近にあったバットを持って走っていき、菱川と太田の前でゆっくり振って見せた。
「こっちの肘を脇に寄せるように強く引いて、こっちの手のひらを喧嘩相手の頬っぺたを張るように押し出す」
 するどく十回ほど振り、ケージを譲った島谷に呼ばれてバッターボックスに立つ。森下コーチに最敬礼。彼は帽子を貸してくれた。サウスポーの松本に、
「得意球は何ですか?」
「カーブ」
「それを思い切り胸もとに投げてください。五球。すっぽ抜けてもだいじょうぶです。ちゃんとよけますから」
 頭の上を通過した二球を除いて、三球すべて、腹から胸もとに落ちる球だった。二本ホームランにし、一本ライトライナー。五人、声を失った。森下コーチがしきりに拍手する。
「サーカスやな。愉快、愉快」
 私は菱川と太田に、
「窮屈な打ち方に見えるでしょうが、芯を正確に食わせれば長打になります」
 森下コーチが、
「金太郎さん、ぜんぶボールやったで」
「規定のストライク以外も、当てていくファイトが必要です。選球眼なんて、何の自慢にもなりません」
「なるほどなあ。おっとろしい」
 太田が、
「昼めしまで見ていきますか」
「うん、外野の球拾いをしながら、適当に運動するよ」
 森下コーチに帽子を返し、菱川のグローブを借りて外野に回る。フェンス沿いに走りながら、飛んでくるゴロやフライを捕球する。いい運動になる。外野手三人がじっと見ている。二、三年で消えていく人たち。入団するまでは、いずれ劣らぬ俊秀ぞろいだったろうに。
 五人といっしょにグリーンヒルホテルの昼めしに戻り、喜春で餡かけうどんと太巻きのランチを食う。太田が、
「外角低目の打ち方と内角高目の打ち方、一週間かけてマスターします」
 菱川が、
「外角打ち、紅白戦でさっそく一本いきました。ただで教えてもらってすみません」
「どういたしまして。今年はみんなでホームランを打ちましょう」
 島谷が、
「足もとのファールが多いのはどうすればいいかな」
「ダウンスイングをしなければ、おのずと減ります。超低目以外は、レベルスイングで球の下をブッ叩く。球の下を意識しなくていいのは、速球ピッチャーだけ」
「超低目は?」
「ゴルフのように掬い上げる。ただの低目は、内角は掬い上げ、外角は踏ん張ってレベルスイング。練習が必要です。ぼくは屁っぴり腰打法と呼んでいます」
「それ、教わったんだよ。太腿がきついぞ」
 菱川がうれしそうに言う。太田が、
「高めの打法の名前は?」
「襟首引っ張り平手打ち打法」
「適当なんだからなあ」
 千原も江藤弟も笑った。
 五人が特打に戻り、私は仮眠をとるために部屋に戻った。
         †
 深夜、ガリバー旅行記を読み終える。いつもの飽きがきていたが読み通した。
 老醜と痴呆を抱えて永遠に生きる死なない人間ストラルドブルグの項は読ませたが、散る美に通底する悲しみを人間の最大の幸福と考える、つまり滅びを美と捉える日本ふうの哲学にはそろそろ食傷していたので、うなずくだけに留まった。馬の国では人間の救いがたい愚かさが語られたが、わかっていることはもう言うなと思いながら本を閉じた。
         †
 二月十一日火曜日。曇。八時起床。七・一度。すでに太田の姿なし。朝めしを早めにすませて第一球場へ出かけたのだろう。私は十時から出ることにしている。
 卵かけ納豆でどんぶり一杯、そのほかのバイキングのおかずでもう一杯食った。
 ロビーの新聞を読む。六大学の記事が小さく載っていた。今年は、谷沢と荒川を擁する早稲田の優勝が濃厚だと書いてある。テルヨシの飛躍のこともチラと書いてあった。小坂がドラフトで出ていけば、再来年からテルヨシは確実にエースになる。三年後に彼とプロのグランドで会えるだろう。
 百江の持ってきた新しいユニフォームを着、ベテランのチームメイトといっしょに、報道陣とファンの人垣の中を球場に向かう。ときどき文江サインをしながら、寄せては返すフアンの波といっしょに流れていく。驚きを少しずつ失いながら仕事人になっていく。さびしい気分で街路樹と道端の花を見る。大きな葉のトチノキ、もうすぐ白く群れる花の季節を迎えるハナミズキ、髪の毛のようなシダレヤナギ、芽吹きはじめた桜。公園の生垣の樹木に絡みつくように鮮やかな黄色のヤマブキが咲いている。ヤブカンゾウの長い葉、歌人定家の庭に咲いていたというテイカカズラ(まだ白い小花は咲いていない)、カンパニュラの下向きラッパ。ばっちゃと無心に指差し合いながら花の名前を言い合った日々は二度と戻らない。
 冷えびえとした快晴。空が青い。からだを動かすにはまずまずの日和だ。中が、
「明石球場は、神宮球場をモデルに昭和六年に開場した。兵庫県の高校野球の予選球場の一つだ。昭和三十三年の長嶋の紅白戦には、二万人が集まった」
「そんなに入るんですか」
「ビッシリ肩寄せ合ってね」
 江藤が、
「気にしたらいけんばい。長嶋と金太郎さんでは人気の質がちごうとる。地球と宇宙では地球のほうが人気があるのがあたりまえたい」
 第一球場到着。グランドに飛び出し、スピードを乗せずにフェンス沿いを周回する。息が上がるまで五周半。全員でじっくりやる。
 先着組の太田と江島とキャッチボール。二人ともいい肩だ。青高一年のときにカズちゃんが買ってくれたグローブが、五年目にして自分の手のように馴染んできた。わざとショートバウンドを投げ合って、逆シングルで捕る練習をする。太田も江島も私も外さない。頭上を越えるボールをむこう向きで捕る練習もする。
 外野の芝生で三十メートルダッシュとバック走五往復。太田と江島に菱川も加わってやる。三種の神器三十回ずつ。片手腕立て油断なく十回ずつ。左肘はまったく痛まない。側筋というのを江島に教えてもらい、横向きに寝て、上半身だけ〈く〉の字の形で起き上がる運動を左右二十回ずつ。足首を支えてもらい、倒立腕立て十回。これはきつい。自分で決めたきょうのノルマは終わり。東大時代の練習に少し色がついたくらいに感じる。体力が抜群につき、体型も定まってきた。
 屋内練習場にいって、ピッチング練習を見る。きょうから新しく公式戦レギュラー審判員がキャッチャーの後ろについてコールしている。やはり小川のボールがいちばん走っている。浜野のボールは速いがお辞儀をする。ふんぞり返って投げる投法は相変わらずだ。
 フリーバッティングに参加する。バッティングピッチャーは顔を見慣れはじめた門岡信行。八年目、二十六歳、長身、中肉。スライダーやフォークばかりを投げてくるのでうまく当たらなかった。ファーストゴロ二本と、ライトライナー三本、センター前へゴロのヒット二本、レフト前へゴロのヒット一本。場外ホームランが出た九本目でやめる。
 シートバッティングが始まったので、ランナーとして参加する。一時間。リードを三歩から四歩とり、二度盗塁を試みたが、木俣に二度とも刺された。
「金太郎さん、慣れないことをするな! 盗塁は利さんとモリミチにまかせとけ。膝を痛めるぞ!」
 木俣に怒鳴られた。
 昼めしをとらずに、特守の球拾いとして外野の後ろにつく。右中間と左中間をウロウロ走りまくる。腹がへってきたので三時に上がる。水原監督に帽子を脱いで挨拶する。
「上がります!」
「お、めしがまだだったろう。これからはちゃんと昼めしを食いなさい」
 江藤や太田やコーチたちに声をかける。上がったのは私だけだった。
 報道記者とファンに囲まれながらホテルに戻る。そろそろ見知らぬ人たちにまとわりつかれることに疲れてきた。しかし対処のしようがない。あしたは特打の始まる四時まで素振りを中心にやって、みんなと定時に引き揚げよう。



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