五十五

 田宮コーチが腕組みをして、横にいた一枝に、あいうえおと言った。初球、太田が真ん中高目のストレートを空振りし、江島が走った。豪快なストライドだ。野村が懸命な送球をしたが悠々セーフ。
「妨害、妨害!」
 野村が叫んだ。空振りした勢いで太田が前のめりになり、たまたま野村の送球のじゃまをしたのだ。
「妨害なし! ボールデッド!」
 露崎がマスクを振って、江島に一塁へ戻るよう指示した。
「カウント、ワンストライク。プレイ!」
 私はすぐ中に説明を求めた。
「バットや手で送球を妨げると守備妨害なんだ。盗塁のランナーがアウトになると、アウト優先で守備妨害は取り消される。セーフだと盗塁は無効、バッターはアウトになる。いまの太田のように空振りでよろめいたくらいでは守備妨害にならない。ボールデッドでランナーは戻され、カウントはストライクです」
「ボールデッドって?」
「タイムがかかった状態になることだよ。空振りした時点でプレイが止まるということ。つまりワンストライクで、盗塁は無効」
「なるほど。緻密なルールがあるんですね」
「どんなスポーツにもね」
 江島はもう走らなかった。太田は外角のシンカー、外角のストレートをつづけて空振りして三振した。八番一枝、二球空振りのあと、キャッチャーフライ。当たった、と言ってうれしそうに戻ってきた。
 偉人杉浦忠は三回で交代し、地元淡路島出身の西岡三四郎という勇ましい名前の大男が四回、五回を投げた。拍手喝采の中で西岡は二回を三安打無失点に抑えて降板した。驚くほど速くはないが、重く沈んでくるストレート、切れるスライダーが有効だった。去年のドラ二もうなずけた。三安打の内訳は、太田の代打島谷の三塁前当たり損ねの内野安打、高木のライト前ヒット、江藤の左中間二塁打だった。私はといえば、小さな曲がりのスライダーに詰まってバットを折るセカンドゴロだった。
 六回には去年の最多勝投手皆川睦男が出てきた。めった打ちにした。ノーアウトからセンター前ヒットで出た菱川を置いて、島谷三振、一枝がレフトオーバーのツーランホームラン。自分でもめずらしいとベンチではしゃぎまくった。一対九。小野が三振に倒れてツーアウトになったあと、中がライト線の三塁打。
「渋いヒットを打ってくる」
 と言ってボックスに向かった高木が、レフトポールぎわへ目の覚めるようなライナーのツーラン。一対十一。つづいて三遊間ヒットを打った江藤を一塁に置いて、私はスコアボードを越えるツーランホームランを叩き出した。四の三。一対十三。ベンチウォーマーの徳武が、
「百五十メートルは軽くいってるぞ。あんなでかいホームラン見たことないよ」
 と言って、スコアボードの彼方をじっと眺めた。
 木俣サードゴロでチェンジ。六回を終わった。試合も終わったろう。
 小野が三回から七回まで二安打に抑えた。一本は小池のレフトオーバーのソロホームラン、もう一本は広瀬の右中間二塁打だった。
 二対十三で七回の裏になった。パームボールの渡辺泰輔が登板した。打順は島谷からだったが、田宮コーチは温情で井手を出した。もう一人のベンチウォーマーの葛城が言った。
「杉浦が小野ぐらい長いイニングを投げたら、こんなに大差はつかなかったろうな」
 私はうなずき、
「確実に負けてたでしょうね。あのボールは鍛錬によって打てるようになるボールじゃないです。物理的に不可能です。目の錯覚じゃなく、現実に浮き上がったり沈んだり、曲がってきたりするわけですから。変化する前のある一点に打つポイントを決めないと、変化したあとはきりきり舞いです」
「言いたいことはわかるけど、並の眼力じゃその〈一点〉を見つけられないよ。血管移植の手術までしたらしいが……確実に限界がきてるって話だものなあ。さびしいね」
 バッターボックスの井手を見つめる。いつ一軍に上がって、いつベンチに入ったのだろう。きょうベンチにいたことすら気づかなかった。フリーバッティングをしていた姿を思い出せない。百七十五センチ、六十五キロ、ヒョロリとしている。バットが重そうだ。そのバットを重そうに振って、ツースリーまでファールで粘る。必死の形相だ。結局、内角のパームを打って詰まったショートゴロ。無我夢中で一塁まで走る。小学校のクラブ活動を見ているようだ。空元気を出してベンチに走り戻る。後ろの隅にひっそりと控えた。そうか、きょうはそこにいたのか。
 ホームランを打っている一枝にもピンチヒッターが出る。
「ドラゴンズの選手交代をお知らせいたします。八番一枝に代わりまして、菱川、背番号10」
 大歓声が上がる。そもそも鳴り物入りで入団した有名な男なのだ。歓声が上がるのも不思議ではない。紅白戦でホームランを二本かっ飛ばして、その存在をあらためてファンに思い出させ、ついでに〈不まじめな新人〉の汚名も返上した。甲子園三年連続出場、三年生のときには選手宣誓までしている。昭和四十年に高校を中退して中日に入団、それから伸び悩んだ。この四年、三試合に一試合の割合でしか出場できず、打率は一割台、ホームランも四本しか打っていない。紅白戦の二本を入れても六本だ。太田に、
「菱川さんはたしか倉敷工業高校だったね」
「はい。あの有名な奇跡の報徳の相手。そのとき彼はまだ中学三年生だったそうです」
「延長十一回表に六点入れて」
「その裏に六点入れられ」
「十二回裏にサヨナラ負け。勝ったほうも負けたほうも、すごいな」
 吉冨さんの得意顔が生きいきと甦ってきた。
「菱川さん、一発!」
「おう、いくぞ!」
 菱川は笑顔でバットを掲げた。彼の場合、肝心なのは、期待されている長打力を見せつけることよりも、まじめな姿勢を感じ取ってもらうことだ。まじめにやっていれば、出場機会も増え、機に臨んでおのずと適時打が出る。その中の何本かは長打だろう。私の手を握りながら目を潤ませた日から、彼は粛然と練習に打ちこんでいる。きょう私がホームランを打ったときも出迎えを差し控えて、遠くのほうで跳びはねていた。
 渡辺は初球から内角へシンカーを落としてきた。パームよりは速い。菱川はピクリともしないで見送る。見えている。
「ヒシ、かましたれ!」
 江藤が叫んだ。二球目、パームが外角にふわりと落ちる。見逃し。ツーボール。
「ナイスセン、ナイスセン!」
 江藤弟の声だ。彼は小野のピンチヒッターに出るのだろう。ベンチ前で張り切ってバットを振っている。太田に、
「高低はわからないけど、次の球は内角のストレートしか考えられない」
 肩を痛めている〈終わった〉ピッチャーなので、大して球速はないだろう。菱川が少し左足を引いてオープンに構えた。読み切っている。三球目、内角低目のストレート。棒球だ。ボールだったが、菱川は躊躇なく掬い上げた。快音が響きわたった。ドッとスタンドから歓声が上がる。白球があっという間にポールを巻き、ネットの上端に当たって落下した。菱川はバットを放り出し、右手を突き上げながら一塁へ走り出す。森下コーチとタッチ。三塁コーチャーズボックスの水原監督が拍手している。全員ベンチから飛び出し、菱川を迎える準備をする。江藤弟がホームベースに出迎えた。あとのメンバーはベンチ前に飛び出して居並ぶ。並ぼうとしない連中がベンチの中に二、三人いる。井手もその一人だった。
「ホーム、イン!」
 露崎のこぶしのパフォーマンスが楽しい。
「神無月さん、きっちり読んだよ!」
 菱川は両腕を広げて私に抱きついてきた。江藤が頭を叩く。木俣が尻を蹴飛ばす。太田が握手し、高木が菱川の両頬をこぶしでごしごしこする。野球選手の至福のときだ。半田コーチがバヤリースを差し出した。野村が大きな歯を出して唖然としている。ハンデもクソもない。大言壮語の酬いだ。ベンチで杉浦が無表情に眼鏡を押し上げた。二対十四。ピンチヒッター江藤省三が告げられる。
「ドラゴンズ、九番小野に代わりまして、江藤省三、背番号28」
 二十六歳。百七十二センチ七十キロ。兄よりふた回りも小柄だ。顔も狸のようにクシャッと小さい。昭和四十一年に慶應から巨人に入団した。中商の同期に山中巽、一年下に木俣がいる。慶應時代には、さっき菱川に打たれた〈五千万円〉の渡辺泰輔を擁して、リーグで三度、大学選手権で一度優勝している。今年中日から放出された広野は、彼と大学の同期だったはずだ。省三の打率はゼロに等しく、これまで三年間で十七試合に出て三本しかヒットを打っていない。巨人ではサッパリ使ってもらえなかったのに、今年中日に移籍できたのは、慶應の先輩の水原さんの引きがあったからだと言われている。兄の顔も大きかったにちがいない。
 初球、外角の遠いカーブ。もう手を出した。ファール。初球打ちは悪くないが、打てそうもないコースに無理に手を出すのは愚かだ。兄も呆れて声をかけない。ネット裏で村迫と榊が顔を寄せて囁き合う。テレビカメラが見下ろしている。一塁側と三塁側のスタンドからもテレビカメラが見下ろしている。
「ショウちゃん、がんばって!」
 半田コーチが叫んだ。兄も気を取り直して、
「省三、バッといけ!」
 と大声を上げた。二球目、バカのひとつ覚えのパーム。弟はゆるいスイングでバトミントンでもするようにコーンと打った。ピッチャーライナー。弾いた。一塁前に転がる。トーマスが拾い上げたが立ち往生。省三は一塁へ駆けこんでセーフ。
 たまらずピッチャー交代。長谷川コーチの言ったとおり、敗戦処理で泉が出てきた。選手名鑑で見た選手がおもしろいように登場する。泉嘉郎、二十三歳。中背。下積みの長い投手だ。五年間一勝もあげたことがない。サイドスロー。皆川とソックリな投げ方だ。指導を受けたのかもしれない。皆川とちがって球威がない。実績がないのに五年も生き延びてきたのは、おそらく性格がいいか礼儀正しいかして、鶴岡監督や先輩たちにかわいがられてきたからだろう。皆川がマウンドに走っていった。肩を叩いている。木俣が、
「チョロッと曲がるカーブ、あれクセモノだぜ。中さん、気をつけてくださいよ」
 そういう見どころがあったのか。
「引っかけないようにしないとね」
 そう言って中は打席に向かった。露崎のプレイのコールがかかり、試合再開。野村が中に何か話しかけている。いい年してあまり張り切るな、ホテルに帰って休んだほうがいいぞ、とでも言っているのかもしれない。私にはもう何も話しかけてこなくなった。初球、内角低目のスライダー。中はセーフティバントの格好でボックスを飛び出るが、バットを引いてストライク。野村がまたゴショゴショ言う。うるさい、という押し殺した中の声がかすかに聞こえた。二球目も同じコースのストレート。強いゴロが一塁に飛ぶ。3―6―3のダブルプレー。チェンジ。
「アチャー!」
 と言いながら中が駆け戻ってきた。
「何を言われたんですか」
「東大なんか受けんと中日きてよかったな、受けたら落ちとったわってね。痛いとこつく」
 井出がベンチの奥から、
「俺は彼に、東大で学者になっても落ちこぼれとったやろな、と言われました。ほんとに痛いところをつくんですよ」
 そう言って暗がりで自嘲の笑いを洩らした。野村は陰湿な気持ちからではなく、チームのためを思ってそうしているのだろう。ただ、一人ひとりの選手の人生模様を頭に入れて語りかけるのは、別種の暗いエネルギーが要るにちがいない。三冠王の品格がもったいない。守備に散る。
 中日は八回表から江島と菱川が守備を入れ代わり、ライトに菱川が入って、ショートの一枝に代わって江島が入った。のびのびと菱川が中とキャッチボールをしている。江島のショートはぎこちない。マウンドには小川健太郎が上がった。いつも感心するのは、素軽い投球フォームから繰り出すストレートのスピードだ。確実に百四十五キロ以上出ている。よほど手首が柔軟で強靭なのだろう。
 小川はいつもの硬軟とり混ぜた人を食った投球で、九番の泉から二番のブレイザーまで、三振ひとつ、内野ゴロふたつに封じた。速球は投げるまでもなかった。三十九年に中日に入団して、四年目に二十九勝をあげ、沢村賞も獲った男だ。太田の話だと、それまでの人生がじつにおもしろい。福岡の高校を出て東映フライヤーズにテスト入団し、一軍に上げてもらえないことに業を煮やして二年で退団。それから海運会社の軟式野球部に入り、それもすぐ辞めて、リッカーミシン、学研と社会人野球を渡り歩く。サラリーマン生活をしながら野球をやるのがいやになり、すっかり俸給生活を棄てて、休日に草野球をやりながらぶらぶらしていた。そうしているうちにまた本格的に野球がやりたくなり、立正佼成会の準硬式野球部に入った。それにも飽きたのだろう、三十歳という高齢で中日にテスト入団、三十三歳で沢村賞。―おもしろすぎる。そのせいか、チームでも一部のレギュラー以外には敬して遠ざけられている浮いた存在だ。私が疑問なのは、素人野球部は彼の存在をありがたがったのは当然のこととして、東映フライヤーズがなぜ彼を等閑に付したかということだ。


         五十六

 八回裏、泉の続投。あと六点取って二十点にしようと太田に言うと、ニヤリと笑って、
「それ、やりすぎですよ。二人凡退して神無月さんのソロ、そして一人凡退。それがいいとこでしょ。とにかくもう一本見せてください」
 高木、外角のスライダーを二球見逃し、ツーナッシング。野村もすっかりあきらめておとなしくリードしている。三球目胸もとにふわりときた。めずらしく高木が空振りした。
「ストラック、アウト!」
 露崎は正拳突きを一度したきりだった。
「太田の言うとおりかも」
 江藤が打席に入り、クローズドスタンスを取った。いけると思った。初球、外角へ曲がっていくカーブを踏みこんでしっかり叩く。
「ほら、一点!」
 痛烈なラインドライブがライトへ伸びていって、オレンジのポールを直撃した。またかという食傷気味の喚声の中を〈闘将〉が肩を怒らせながら回る。水原監督に尻をポーンと叩かれる。ホームベースで揉みくちゃの歓迎。ベンチ前に立ち並ぶメンバーと、タッチ、タッチ、タッチ。二対十五。
「江藤さん、泉のボールは重いですか」
「重い。遠くまでは飛ばん。もう一本いってこい」
「はい」
 轟然と声援が立ち昇った。私のホームランには食傷していないようだ。遠慮なくストロボが焚かれる。野村が私に話しかける。
「きょうは惜しかったな。ここで四本目を打っても、西岡にやられとるから、王の四打席連続ホーマーの記録に届かん。交流試合やから記録に残らんし、ホームランにこだわらんでもええやろ。ビギナーズラックがペナントレースまでもてばええけどな」
 私は、
「ぼくは一生ビギナーズラックです。小さいころからそうでした。そういうマグレの人生には意義を感じます。マグレをほんものと受け取ってくれる親切な人びとに巡り会うことができたので、ひどく充実してます」
「本気で言っとんのか。おかしなやっちゃ。気ィ悪うせんといてや。マグレやない。あんたはほんものの天才や」
 野村の陰険な印象が淡くなった。じっと聴いていた露崎が、
「プレイ!」
 とコールした。初球、何の変哲もないカーブが真ん中低目に入ってきた。重いということを念頭に置いて、バットを投げつけるように叩いた。
「はい、おめでとう! 四本目!」
 と野村が叫んだ。江藤とソックリの弾道で伸びていき、ポールのほとんど同じ箇所に当たった。笑いの混じったどよめきがライトスタンド起こった。トーマスが私の尻をファーストミットで叩いたのを励みに全力疾走に入る。嵐のような拍手がスタンドを覆い尽くした。ブレイザーが、
「エクセラント! エクセラント!」
 小池が、
「怪獣!」
 国貞が、
「ありがとう、いい日だった!」
 と声をかけた。水原監督とロータッチ。露崎のきょう四度目の、
「ホーム、イン!」
 チームメイトにからだじゅうを叩かれる。二対十六。木俣が、
「またヘルメットを忘れてたな。オープン戦に入ったら、かならずヘルメットをかぶれよ。狙われるぞ」
「はい、かぶります」
 半田コーチがきょう四本目のバヤリースを差し出した。
 木俣、江島の後続二人は、木俣の言った〈ほんの少し曲がる〉カーブを打たされ、高木と同様ブレイザーへのセカンドゴロに終わった。
 九回表、三番トーマス。このやさしい外人に一本打たせてやりたい。小川は情け容赦なく内角高目のカーブでツーストライクに追いこんだ。ネクストバッターズサークルの野村はスコアボードのほうを眺めているが、旗がないので風の具合はわからない。おそらく無風だ。トーマスの立ち姿が一瞬輝いた。
 ―マッコビー!
 トーマスの構えがだれかに似ていると一日じゅう思っていたが、サンフランシスコ・ジャイアンツの四番打者、ウィリー・マッコビーだった。バット一閃、四打席四場外ホームランのあのマッコビーだ。昭和三十五年、十一月、中日球場。
 ―小山田さん、吉冨さん! いっしょに日米親善野球を観ましたね。キョウちゃんもかならずああいう選手になると言ってくれましたね。少しずつ近づいてきました。もっともっと近づきます。
 私はとつぜん流れ出した涙を拭いて、爪先立ちに構えた。
 ―マッコビーのホームランが見たい!
 祈りが通じた。小川が超スローボールを投げた。顔のあたりへ落ちてくるボールをトーマスは冷静に引き寄せ、独楽のようにからだを回転させた。弾丸ライナーがあっという間にライトの観客席に突き刺さった。一塁を回ったトーマスは、私と同じように全力疾走に入り、二塁を蹴るとき、レフトの私に向かってこぶしを突き出した。私もグローブを上げて応えた。水原監督が口メガホンを作って小川に声を投げた。はっきり聞こえた。
「キッチリ締めろ!」
 小川は照れ隠しに、一塁の江藤に速い球を送った。気のいい江藤は、ドンマイと言いながら強く投げ返した。
 ネクストバッターズサークルで野村がすごい素振りをしている。ハンマーを振り回しているようだ。小川を威圧しているのだ。のしのしボックスへ歩いてきた。ヘルメットをかぶっている。バットを短く持ち、猫背の特徴ある構え。全身をピタリと静止させる。まちがいなく打つ。三対十六。十三点差を返すためにランナーを溜めようと思うスラッガーはいない。負け試合とあきらめ、ホームランを狙ってくる。打てる球を待つ。彼が初打席で一本ホームランを打ったあと、小野と小川に三打席やられているボールはすべて外角の変化球だ。ツーストライクまでは変化球に手を出さない。早いうちにストレートを打つだろう。三割二分、四十二本、百十打点。三冠王を獲ったのは四年前だ。五十二本打った年は百三十五打点あげているが、打率は三割を切っている。もともと打率のバッターではないので、ノーアウトで単打は狙わない。記憶にあるかぎりでは、高目にめっぽう強く、レベルスイングで叩きつけてホームランにする。感動的なパンチショットだ。
 小川、第一球、ふりかぶってスリークォーターから外角低目のストレート。速い! 
「ストーライ!」
 微動だにせず見逃し。ふと南海ベンチを見やると、富田が食い入るように見つめている。六大学屈指の三塁手、三割打者。話しかける同僚を振り向いて返事を返す背番号5がさびしい。
 少しぐらいの外角は引っ張ってくると踏んで、左中間へ移動する。少しこちらへ動いて左中間を狭めた中と眼を合わせ、うなずき合う。二球目、小川は投げてはいけない胸の高さの速球を投げた。野村にとってそこはボールでない。バットが上から叩きつけるように回転した。左中間へ白球が舞い上がる。私と中は腰に手を当て、はるか上空を過ぎていく弾道を見送った。打球はバックスクリーンと穴のような通路とのあいだの、だれもいない芝生に着地した。野村は緊張した顔でダイヤモンドを回っていた。してやったりという顔ではなかった。白い虹のような美しい弧が目に鮮やかに残った。
「ノムラー!」
「三冠王!」
 野村がスタンドに手を振ると、大歓声が応える。
「ホーム、イン!」
 露崎の声が高らかに立ち昇る。仲間に包まれて野村がベンチへ戻っていく。飯田監督と握手。
「中さーん、いいもの見ました!」
「プロ野球にきてよかっただろ!」
「はい!」
 二者連続ホームラン。四対十六。しかし、たぶんこれでほんとうに終わった。観客もそう思っているにちがいないけれども、去りがたく肩を寄せ合っている。何本ホームランが出たのか忘れてしまった。野村がベンチに姿を消したあとも、何に対してかわからないがスタンドの拍手がやまない。振り返って客席を見つめると、私にも大拍手がきた。私は帽子を取って振った。拍手の意味がわかった。きょうの試合に感動しているのだ。そう理解した中も、菱川も、私も、観客の歓呼に応えてスタンドに礼をした。内外野からふたたび大歓声が湧き上がり、収拾がつかなくなった。水原監督まで帽子を取って回している。小川は江藤とキャッチボールをしていた。
 歓声とフラッシュの中、次打者の柳田が高いショートフライを打ち上げた。ワンアウト。ふたたび大歓声。国貞の代打富田、初球、サードゴロ。ツーアウト。大歓声。樋口に代わって去年中日からトレードされた島野が出てきた。これも初球、大きなセンターフライを打ち上げた。中がゆっくりとバックし、両手で捕球した。スリーアウト。怒号のような歓声が湧き起こった。露崎がバックスクリーンに向かって、ゲームセットの手を挙げた。試合の結果をウグイス嬢がアナウンスしている。よく聞こえない。水原監督と飯田監督が握手している。私は走っていって、南海ベンチに杉浦を見つけると、無理やり入りこんでいって握手を求めた。杉浦は堅く握手をしてくれた。
「興奮しましたよ、神無月くん。昭和三十四年の巨人との日本シリーズ以来です。私も衰えたりとはいえ、あのボールをホームランしたのは、きみが初めてです」
 野村が寄ってきて、
「ええ勲章もらったやないか、天馬くん」
 とポツリと言った。私は野村のゴツゴツした手とも握手し、
「野村さんの二本、すばらしいホームランでした。生まれてきてよかったと思いました」
「浜野と小川が打たせてくれたのよ。二本目なんか、バッターインザホールでもないのに、ど真ん中に投げてきよったろ。見てみい。うれしそうに笑っとるやないか。ホームラン打たれたピッチャーの顔やないで。オープン戦ではこうはいかん。たぶん小川に牛耳られるやろ」
 杉浦が、
「小川くんは今年、二十勝あげますよ。彼がいて、きみがいて、中日は優勝かもしれませんね」
「そりゃないわ。総合力がまだまだや。Aクラスがやっとやろ」
 そのとおりだと思った。
「試合のあとは仲良くグランドを歩くことになっとる。いくぞ」
 大歓声の逆巻くグランドを南海チームと周回する。お祭り騒ぎのようだ。水原監督と飯田監督が穏やかな顔でスタンドに手を振っている。江藤と浜野と話しながら歩いていた広瀬が私に気づいて、
「あんた、足速いな。まじめにやれば盗塁王が獲れる。でも、チャンスメーカーなんか目指さないで打撃に専念したほうがいいな。百年、二百年に一人の逸材だからね。期待してるよ。じつはね、足そのものは私より杉浦のほうが速いんだよ。私はベーランが得意なだけだ」
 南海の選手たちが次々握手を求めてきた。皆川が言った。
「富田から聞いてたが、聞くのと見るのとでは大ちがいだ。腰を抜かしたよ」
 小池が、
「俺も一本打ったんだよ。憶えてる?」
「はい、バックスクリーン横へ」
「ありがと。同僚からも忘れられてたんだよ」
 樋口が、
「きみほどの選手なら、だれかにあこがれるなんてことはないだろうね」
「もちろんあこがれの選手はいます。シュート打ちの名人山内さん、出たとこ勝負の長嶋さん、パンチショットの野村さん、四打席四場外ホームランのマッコビー。マッコビーはトーマスさんの姿を見て、きょう思い出しました。小五か小六のときに中日球場で目の当たりに見て、永遠のあこがれになりました」
「マッコビー!」
 野村が聞きつけて杉浦の肩を抱きながらやってきた。中日のメンバーもなんだなんだとやってくる。場内の歓声と拍手がしだいに穏やかなものになってきた。
「三十五年、サンフランシスコ・ジャイアンツ、四勝十四敗一分のあの親善野球だな。あのときの三冠王はマッコビーだったんだが、MVPはメイズがさらった。格がちがうとでも言うんだろうな。しっくりしないものを感じたよ。日本側の最優秀選手は、俺と杉浦だった。なあ、杉浦、あの年おまえ大リーグに誘われたんだったよな」
「そんな、畏れ多い」
「これだ。ホワイトソックスから申し入れがあったろ。鶴岡さんがパスポートまで用意したのに、球団がストップかけたんやないか。口惜しかったやろ。いずれ俺が監督になったら、おまえは助監督だ。待ってろ。それほど先の話じゃない」
「いや、しばらく休みたいな」
 水原監督が全員に、
「さあ、オープン戦で対戦するまでおたがいお別れだ。わざわざ明石まできてくれた南海さんは、これからバスと電車と飛行機を乗り継いで、審判員のかたたちと高知県のキャンプ地までお帰りになる。ホテルの前まで見送ろう」
 飯田監督が、
「水原さん、ロビーで三十分ほどコーヒーを飲んでいきますよ」
「ああ、いいですね。そうしてください。報道陣はどうします? 軽く百人はいますよ」
「ホテルの係員に言って、ストロボ、フラッシュは禁止してもらいましょう」
「そうですね。インタビューは各社自粛しているのでだいじょうぶです」
 南海チームはスタンドに手を振りながら、内野と外野の仕切りの通路から出ていき、ドラゴンズチームはベンチ裏から正門へ出た。ファンが群がっていたが、水原監督は、
「ごめんなさい、きょうはごめんなさい、サインはあしたにしてね」


         五十七

 人混みを切って進んだ。目がくらむほどのフラッシュが光り、ストロボが焚かれる。いずれ目を傷めるのではないかと思われるほどだ。
「公式戦の何十倍もいい試合やったぞ!」
「感動したわ! 息子はうれし泣きしとった」
「神無月! おまえのホームランの写真はぜんぶ撮ったぞ。家宝にするからな!」
「みなさんがんばって!」
 腕や肩を触られ、手を握られる。よくわからない感覚に戸惑う。どう応えればいいのか要領を得ないのだ。とにかく笑いかけながら歩く。太田や浜野もそうしている。キャーキャー女学生の声が上がる。いつもはいないはずのファンたちだ。少年どもが尻や腰に触る。高木が私の顔を見て、
「ファンは、歩いているうちにだんだん退いてくから心配しなくていいよ。高校野球や大学野球で慣れてるだろう?」
「なかなか慣れないんですよ。慣れるようにします」
 田宮コーチが、
「島野が挨拶にこなかったな」
 長谷川コーチがうなずき、
「去年のシーズン中に放り出されたから、腹に溜まったものがあるんだろ。自分は南海で活躍してるし、トレードでうちにきた堀込はサッパリだから、それにもむかついてるんじゃないか?」
 半田コーチが、
「堀込さんも、南海でカツクしてただけに、キノクね。中さんが長いお休みから帰ってきたら、出番なくなっちゃった」
 話の内容がさっぱりわからなかった。
 ホテルに近づくにつれ、高木の言ったとおり、自然と人波は退いていき、ホテルのドアでは一握りになった。彼らはドアのところで締め出された。
 喫茶部だけでなく、大ガラスの前のテーブルつきのソファにも、ユニフォーム姿の南海の選手たちがたむろしていた。男女の記者たちもほうぼうに緊張した顔で寄り集まっている。インタビュー禁止なので、盗み聞きしてメモするのだ。フラッシュなしのカメラのシャッターを切る音が絶えずする。私は太田、江藤、中、高木と同じテーブルについた。どのテーブルにもコーヒーとショートケーキが運ばれてくる。記者たちがメモ用紙を手に少し離れて立つ。太田は一口に頬ばって飲みこんだ。私はコーヒーをちびちびやった。半田コーチがブレイザーと野村と杉浦を連れて隣のテーブルにきた。野村が、
「ブレイザーが、あんたの頭の良さに驚いた言うんでな、連れてきたわ。半田さんに通訳してもらうで、遠慮のうしゃべってや」
「あなた、あたま、いね。ソートフル、マン」
「ノー、アイマ、フール。イツ、ジャスタ、フルーク。マグレの人生です」
「ノーノー、ユア、オルウェイズ、シンキング、……」
 ペラペラと私に向かってしゃべりはじめた。半田はうなずき、
「一回から九回まで、金太郎さんは、バッター一人ひとり、守備位置を変えてたソーデス」
 中が、
「そうだ。私も驚いた」
「ポールの下まで一直線にいったあのプレイは、最高の頭脳プレイ。守備だけではありません、バッターボックスの中でも、一球ずつ足の位置を変えてました。杉浦さんのアウトサイドのボールを捕らえたのは、ノー、フルーク、マグレじゃありません。すばらしい推理の結果です」
「どれもこれも考えた結果じゃないんですよ。勘とマグレの連続です。ふつうでないことに立ち向かう場合、ぼくにはその二つが必要なんです。幸いにも野球の才能に恵まれたので、ふつうのピッチャーには生来の才能だけで対処できますが、杉浦さんのようなとんでもない人には、そのほかに勘とマグレを動員しないと敵いません。野球以外のことには才能がないので、その二つをフル活用して生きてきました」
 半田がペラペラやっている。ブレイザーは、
「オー、ジーニャス!」
 肩をすくめた。半田にペラペラやる。半田が翻訳する。
「インテュッション、チョッンは最高の知性です。ジーニャスの特徴です。ジーニャスでない人には、シンキングが必要です」
「野球はさておき、ぼくは天才ではありません。もともと頭が悪いので、シンキングは無理です。勘と、マグレでしか生きられないんです。それをずっと天才と言われて生きてきましたが、ありがたいことです」
 野村が大きな歯を剥いて笑いながら、
「あんた、杉浦みたいなやっちゃな。そこまで謙遜なのはイヤミやで」
「謙遜はしてません。考える意欲がないので、考えられないんですよ。思考は意志の力です。精力が必要です。無欲な人間は精力のある人間に圧倒されます。野球の世界もいずれシンキングが大勢を占め、方法論がうんぬんされ、理論化されるようになるでしょう。頭脳プレイが主流になっていくでしょう。何の考えもない魔球ピッチャーやホームランバッターは、あまり褒め讃えられなくなるかもしれません。それでも、そういう選手こそ永遠の魅力なんです。人びとが永遠に待ち望む英雄なんです。ぼくは思考力ゼロのまま、やれるところまでがんばってホームランを打ちつづけます」
 半田が通訳すると、ブレイザーは少し長くしゃべり、
「イイト、ジーニャス……」
 と呟いて、私に握手を求めた。強く握手した。
「頭が悪いという意味がわからないそうです。日本人は、考えずにものごとをオコナウ生まれつきのテンイを、頭が悪いと思う民族なのかと言ってます。テンイがチョッンでオコナウことをふつうの人間はシンキングで補うのだそうです」
 私は笑いながら、
「日本では、頭のいい人の定義は、ブレイザーさんのおっしゃるものではありません。知性的な肩書を得た人のことなんです。頭のいい人は、学者や医者や法律家や政治家や役人や資本家上層部と決まっています。わが国のいわゆる知識人尊重の風潮は、歴史的に断固としたものがあります。ぼくはそのどれも目指す精力を持っていません。目指したくないものに精力を注ぎようがありません。つまりこの国では、頭の悪い人間に分類される存在です。その意味で頭が悪いと言ったんです。いずれわかります。ぼくと会話していると、あまりにも知識がないので空しい気持ちになりますよ」
 野村が、
「耳が痛えな」
 と笑う。
「だからぼくは、東大の優勝会のときにも、ある記者に馬鹿扱いされたんです。無理もありません。新聞記者というのは日本ではエリートですから」
 記者たちがざわついた。半田ペラペラ。ブレイザーペラペラ。半田の通訳。
「それはカンシンがないことをハイジョするテンサイ、トックユウの心理で、カンシンのないことでも、知識としてカクトクしようとすることは、オーディナリ・ピープルのトクチョウです、私たちがあなたをテンサイだと認めてしまえば、けっしてムナシイ気持ちにはなりません」
 野村が、
「つまり、馬鹿な俺たちこそ、よくものを考えて理詰めでいかんと生きていけんゆうこっちゃ。あんた、金太郎さん呼ばれとるんか。おもろいなあ。金太郎さん、この杉浦も天才や。野球を含めて、なんも知識がない。いとしいで。あんたもいとしがられとるやろ。わかるわ。わしゃ、努力の人や。ブレイザーもそこを見こんでいろいろ教えてくれる。このボンクラ頭も少しはようなったで。きょうはほんまにおもろい人間に会ったわ。じゃ、またな。オープン戦で会おう。江藤さん、高木さん、中さん、そこの新人、またな」
 ブレイザーがもう一度握手を求めた。杉浦が、
「もう一度対決したいけど、叶えばいいね。じゃ、さよなら」
 ぞろぞろと南海チームのメンバーが玄関ドアに移動していく。村迫たちの姿がない。こういう場所には顔を出さないものなのだろう。
 水原監督が全員に集合をかけ、南海チームをホテルの玄関まで見送った。ブレイザーと杉浦と野村が、いつまでもバスの窓から手を振っていた。江藤が後ろから私を抱いた。
「胸が締めつけられたばい」
 涙声だ。水原監督が寄ってきて、
「江藤くん、考えるところがあっただろう? 私も初めて金太郎さんに会ったときには天地がひっくり返るほど驚いたんだ。同じ人間とは思えなかった。楽しい人生になったね」
「はあ。いろいろ考えようて思うばい。ふつうん人間なりに」
「きみだけじゃない。私たちも、みんなだ。さあ、きょうは豪華な夕食だよ。一時間後に集合」
 半田コーチが、
「感動ね。グッときたね」
 私は、
「あんな難しい話の内容をよく二つの言語にできますね」
「金太郎さんの言葉、ジカルでわかりやすいね。ブレイザーさんも同じ。通訳しやすいよ。ほとんどの日本人の言うこと、わかりにくい」
 田宮コーチが腕組みをして、
「あの皮肉屋で慎重居士の野村が、金太郎さんの前で、恥ずかしげもなく殊勝なことを言ってたのには驚いたぜ。やつが大物だという証拠だよ。金太郎さんと握手しようとしなかったやつもけっこういたからな」
 太田が、
「杉浦さんは、ほんとうに引退間近なんですか」
 長谷川コーチが、
「微妙なところだが、長くてあと一年、二年かな。とにかく、右腕が限界なんだよ」
 私たちの動きに合わせて記者やカメラがごっそり移動する。グローブやバット会社の営業回りのような人たちも混じっている。選手がそれぞれ廊下へ散っていくと、彼らも散っていった。
         †
 二月十六日日曜日。雨。クリーニングずみのユニフォームが北村席から届き、ボーイが届けにきた。球団の用意した三着のユニフォームは、二日ごとの使い回しで、ぎりぎり間に合っている。太田や菱川や島谷のように一週間も替えない選手もいるし、高木のように毎日ホテルのクリーニングに出している選手もいる。
 野球選手は、朝かならず新聞を読む。私も朝めしのあと、ラウンジでコーヒーを飲みながら、彼らといっしょに読む。新聞記者が常に貼りついてパシャパシャやっている。このごろではあまり気にならなくなった。日常の生活風景と思えばいいのだ。

 
竜イケイケ鷹叩き
       神無月4ホーマー7打点

 兵庫県明石市発。
 プロ野球春季キャンプもいよいよたけなわ。明石市は明石城址公園内の明石第一球場において二月十五日午後一時から、中日ドラゴンズ対南海ホークスの交流試合が行なわれた。球場はスタンド席から芝生席の隅々まで立錐の余地もなく野球ファンで埋め尽くされた。詰め掛けた観衆の人数二万一千。十一年前の昭和三十三年、当時鳴り物入りで巨人軍に入団した長嶋茂雄が当球場で紅白戦に出場した際、非公式に記録された二万人を上回る入場者数となった。
 戦前よりプロ・アマの野球観戦を通して目を肥やしてきた明石市民が見守るなか、中日ドラゴンズの主砲神無月郷外野手(19)は、彼らを驚愕させるすさまじいばかりの存在感を示した。
 南海の先発は、昨年十八勝、最高勝率タイトルホールダーのマッシーこと大リーグ帰りの村上雅則。一回裏中日は、中、高木の好打好走で一点先取。江藤敬遠されて、ノーアウト一、三塁。ここで神無月は、村上の投じた三球目、外角のスライダーをするどく振り抜いた。左翼最前列に糸を引いて飛びこむスリーラン。四番の責務を果たすその一打で流れを一気に引き寄せ、直後の太田安治のツーランにつなげた。三回裏には、今年復活をかけるベテラン杉浦から、これまた外角に浮き上がるストレートを左中間の深いところへソロ、六回裏にはエース皆川からスコアボードを越える推定百五十五メートルの特大ツーラン、すでに大差のついた八回裏には、敗戦処理で出てきた泉からライトポール直撃のソロ。五打数四安打四本塁打七打点、セカンドゴロ一つ。彼のバットを折ってセカンドゴロに仕留めた西岡三四郎の名前が奇妙に印象に残るほどだった。
  神無月は守備でも超絶美技を見せた。三回表、広瀬のレフトポールぎわのラインドライブの打球を、いっさい振り返らず最短距離を走って、ジャストタイミングでジャンピングキャッチした。もし抜かれていれば、おそらく広瀬の足にかき回されて、その後のゲームがどう動いていたかわからなくなるところだった。
 一回から九回まで両軍ともによく打ったが、乱打戦とまではいかず、結局四対十六で中日の一方的な勝利に終わった。ちなみにホームランは、中日九本、南海四本の計十二本。内わけは神無月四本、野村二本、江藤、高木、一枝、太田、菱川、トーマス、小池それぞれ一本だった。なお交流試合一選手四ホームラン、一チーム九本はプロ野球新記録である。
 投げては、昨年大洋から移籍して六勝に留まった小野正一は、往時を髣髴とさせる力のある速球と大きなカーブで、南海打線を三回から七回まで二安打一失点に抑え切った。失点は小池のソロホームランだけだった。往年の三十勝投手小野の面目躍如たる好投だった。いっぽう小野のあと八、九回を継投した沢村賞投手小川健太郎は、九回にトーマス、野村に連続ソロを浴びたが、速球、カーブ、シンカー、超スローボールと硬軟取り混ぜて、二万一千人の観衆の前に小気味よい快投を披露した。九回野村に打たれたホームランもけっして失投ではなく、渾身のストレートを真ん中胸もとへ投げこんだものだった。
 二回まで投げた期待の新人浜野は、一回を三者凡退で抑えて滑り出し好調と見えたものの、二回に野村に一発を浴び、国貞に二塁打を打たれた。つづく樋口の左中間のヒットを神無月がみごとなバックホームをして国貞を本塁に刺し、返す球で木俣が樋口を二塁に刺してことなきを得た。浜野にはまだまだ及第点はつけられない。今年の中日は当分、小川、小野の二本柱でいくだろう。
 打撃の怪人神無月のホームランは、紅白戦から合わせてこれで七本となった。二試合で七本という驚異的なペースだ。ペナントレースに入っても少なくともこの半分のペースで大アーチを量産するにちがいない。百号の夢がふくらむ。泰然自若のホームラン請負人が、昨年最下位のチームを天まで押し上げていく。



         五十八

「だれの談話も載ってないね」
 太田に言うと、
「監督、コーチはいつもこっそりインタビューを受けるんですけど。歩きながらの談話も載ってないですね。南海も載ってない。たぶん中日も南海も、オープン戦まではインタビューを控えてくれって、代表か監督が各紙に申し入れたんでしょう。俺、駅で新聞買ってきます。ここのところを切り抜いて、スクラップしておきたいんで」
「先に球場いってるよ」
「はい、すぐ追いかけます」
 そばで新聞を読んでいた小川に、
「小川さん、浮くストレートと沈むシンカーの球筋を、二十球ずつ見せてくれませんか。ぼく、グランド走ってますんで、いつでもいいですから」
「いいぞ、見せてやる。いっしょにいこう」
 一軍のレギュラーたちも興味が湧いたらしく、こぞって腰を上げた。太田一軍ピッチングコーチも立ち上がって、ラウンジにいた全員に、
「小川と神無月の練習が終わったら、浜野と門岡と水谷寿伸にシートバッティングのピッチャーを一日やってもらう。百球をメドに交代して、三人で三百球投げさせる。みんなしっかり打って守ってくれ」
「オイース!」
 新しいユニフォームに着替えて、七、八人で球場に向かう。雨が上がっている。ひさしぶりに板東が並びかけてきた。
「百球なんざ甘いもんだ。徳商にいたころ、明大出身の須本いうスパルタ監督に毎日千球投げさせられた」
「千球!」
「おお。最後には腕が痺れて感覚がなくなるんだ。地肩が強くないやつは肩を壊してどんどんやめていった」
「サドですね。虐待が好きだったんだな」
 千球は百パーセント、ホラだ。
「めちゃくちゃですね。その監督、もとは冴えない野球選手だったんでしょう。肩や肘が野球選手の財産だということを知っててわざとやってたと思います」
「東急フライヤーズゆうプロで二年やった内野手や。去年、四十そこそこで死におったわ。根性一本の人で、ワシャ恐ろしいだけやったけど、やっぱり死ぬと悲しいなあ。ワシを鍛え上げた人やからな」
「鍛えたんじゃなく、浪費させたんですよ」
 この種の話には付き合えない。太田が島谷、菱川といっしょに走ってきて、列に追いついた。太田に語りかける。
「上半身の基本的な筋肉が不安になってきた。キャンプがオフになったら、どこかのジムにバーベルを上げにいくよ」
「明石にはジムがないですからね。昇竜館にもないし、名古屋駅近辺で探すしかないですね」
 小川が、
「駅のそばには、たぶん二つ、三つあるんじゃないかな。だいたい朝十時から夜十一時だ。俺は金山近辺でやってる。慎ちゃんともときどきいっしょになる」
 江藤が、
「中や高木にもよう話すんやが、肩や胸や背中は鍛えんといけん、ばってん二の腕の筋肉は鍛えんほうがよか。腕は鞭やけんな。硬うなったらいけん。野球選手は腕相撲するわけやないし、重たか荷物ば持ち上ぐるわけでもなか。バットばするどく振るのに必要な筋肉だけ鍛えればよか」
「はい。肩と背筋が心配で」
「左を壊しとるけんな」
「はい。関節は筋肉で護りますから」
 ユニフォームの上を脱ぎ、スカイブルーのシャツだけでグランドを五周する。見物人がスタンドや芝生席の三分の一ほどを埋めている。いつもの腕立て、腹筋、背筋でウォーミングアップ。ダッシュ五本、バック走五本。睡眠が足りているのでからだが快適だ。小川が木俣と遠投している。私は太田と遠投する。八十メートルほどを十本でやめておく。板東は寝そべったままいつまでも足を高く上げている。ときどきペダルを漕ぐような格好をする。
「御大、そのうち筋肉しぼむぜ」
 板東に声をかけながら小川がマウンドに上がったので、バットを持たずにボックスに立つ。研修審判員がつく。まずストレートをじっくり見る。たしかに小さくホップする。腕だけで空振りしてみる。当たったか打ち損なったか、だいたい感覚でわかる。何本目かで急速に沈む。
「あれ?」
「ハハハ、シンカーだ」
 あわててバットを取ってくる。
「ストレートとシンカーを適当に投げてください」
 タイミングを合わせて、トスバッティングのように軽く内野に打ち返す。ファーストからセカンド、ショート、サードと繰り返す。シンカーがくると狙いをつけられない。適当に打つ。たいていショートに転がる。
「なんや、そんなことできるんか! ワシにもやらせろ」
 江藤がボックスに入り、トスバッティングふうに打ちはじめる。小フライになり、コースが定まらない。
「えらく難しかな。中、やってみい。金太郎さんのは手品ぞ」
 中がやる。どうしてもピッチャーゴロになる。
「打ち分けるのは難しいな。ストレートは速いし、シンカーの落ちは大きい」
 高木、太田、島谷、菱川とやってみる。小フライかピッチャーゴロになる。
「利き手の掌の土手をファーストやセカンドに押し出すようにするんです。二本ずつ打ちます。まず速球をお願いします」
 キッチリ振りかぶり、サイドスローから速いモーションで投げてきた。思い切り振る。高くライトへ舞い上がる。低位置よりも少し前に落ちてきた。なるほど。浮き切ってからでは遅い。
「もう一球!」
 さらにスピードが乗って浮いてきた。浮き切る前にかぶせて振り抜く。やはり高く上がった。塀ぎりぎりで落ちてきた。
「わかりました。もう一球!」
 かぶせずに速いタイミングでバットを左手で押して放り出した。スコンという感じで当たり、ライトフェンスまで飛んでいった。江藤たちがはしゃいだ。
「次、シンカーお願いします」
「おう、内角にいくかもしれんぞ」
 シュッと外角に落ちた。まず押し出す。ショートライナー。
「次、お願いします!」
 内角へ落ちてきた。掬い上げる。スコアボードの右横まで飛んでいった。高木たちが、
「おいおい、特大だな」
「もう一球!」
 かなり遠い外角へスッと落ちる。手首を絞って叩いた。ボールは例の左中間通路まで飛んでいった。
「シンカーは落ち切ってからでも長打にできます。やっぱり浮いてくるストレートが難しいです。イメージしながら素振りをします」
 江藤たちが順繰りで挑戦する。遠くへ飛ばすのは江藤だが、中と島谷がいちばんうまくミートしていた。太田は焦って凡打ばかりを繰り返す。高木はポップフライを打ち上げてはうなずいた。
 浜野たちがブルペンに現れ、レギュラーのシートバッティングに入った。一人ずつ控え選手と守備を交代しながら打っていく段取りだ。ヒットを打って塁に出ると、走者をピッチャーに交代して守備位置に戻ることになっている。板東は小川と並んでベンチにふんぞり返っている。レフトの守備の交代要員である菱川に、ベンチ前に控えている九人の走者の名前を確認する。
「井手、伊藤久敏、小野、山中、土屋、田中勉、若生、水谷則博、大場」
 知らない名前が一人混じっている。
「土屋?」
「紘(ひろし)。去年一回登板したきりです。十二点取られて降りました」
 水谷は同期だが、投げる姿を一度も見たことがない。田宮コーチが叫ぶ。
「足腰の鍛錬だ。しっかり走れ!」
 審判員も六人ついた。交代要員が先に守備につく。レギュラーが次々と打っていき、彼らと交代する。これを三巡りやった。
         †
 夜九時を回って百江から電話が入った。
「三階のいつもの部屋です。お風呂に入り終わりました」
「すぐいく」
 太田の笑顔に手を挙げ、汚れ物のビニール袋を詰めた紙袋を持って廊下をいく。ストッパーでわずかに開けてあるドアを入ると、ベッドに両肘を凭せて尻を突き出している百江の真っ白い尻が目に飛びこんできた。大胆な格好に驚いた。私はその場で全裸になり、臀(しり)の背後に立って両たぼを割く。
「思い切ったことをするね」
「はい、喜んでほしくて―」
 顔をねじって振り向く。キスをする。舌を絡めてくる。
「ああ、神無月さん、逢いたかった!」
 胸を揉む。硬く乳首が立っている。挿入し、ゆっくり感覚を味わいながら動かす。何ほどもしないうちに強い反応がきて、グイッと尻を押しつける。 
「ああ、いい気持ち、はあああ、も、もう一度、ああ、イク!」
 尻の反動のせいで摩擦が大きく、たちまち迫った。腹をつかまえて引き寄せ、深く打ちこむ。
「ク、イク! あ、気持ちいい、あ、あ、気持ちいいい、イク!」
 律動するたびに腹を縮めて、その反動で尻を前後に激しく動かす。
「ど、ど、どうしましょ、どうしましょ、あああ、イク!」
 乳房を握り締め、ゆっくり抜いて、枕もとのティシューを股間に押し当ててやる。ベッドに抱き上げ、並んで横たわる。まだふるえているからだを抱き締める。やさしい顔を見つめる。幸福な顔だ。口を吸う。
「愛してます。一週間ずっと思い出してました。私なんかとてもおそばに置いていただける女ではありませんけど、どんなご用にも、お役にも立つつもりでいます」
「放っておくことが多くなるよ」
「ええ、けっこうです。ただおそばにいさせてください。それだけでうれしいんです。北村席で働かせていただけるようになって、ほんとによかった。ときどき神無月さんがいらっしゃいますから」
「もうちゃんと勤めてるの?」
「はい、かよいで勤めてます。トモヨ奥さんとおトキさんにつきっきりでいろいろ教えてもらってます」
 私は紙袋を目で示し、
「あしたは持って帰るものが多いよ。汗を吸ったユニフォームは重いからたいへんだ」
「何でもありません。クリーニングに出せばいいだけですから」
「うん。アンダーシャツとストッキングは、下着といっしょに洗濯機に放りこめばいい。席のみんなは元気にしてる?」
「はい。旦那さんご夫婦はしゃきしゃき動き回ってます。直人さんもよく食べますし、女の人たちの部屋で寝たりして、とても活発です」
「やっぱり世之介だな。初体験は早そうだ」
「神無月さんに似たんですね」
 口づけをし、
「人は出会うと、出会った相手の人生を奪う。一生そばにいるというのはそういうことだよね。ぼくは百江の人生を奪ってしまった。喜んだり悲しんだりする前に、とにかくそれを許してほしいんだ」
「許せば、一生そばにいていいですか」
「うん」
「じゃ、許します。ふふ。……私も神無月さんの人生を奪ったんですから、おあいこです」
「ぼくも百江を許してそばにいるよ」
 これ以上言葉は不要だった。このまま話をつづけたら、今夜の二人の仲はひどく気まずいものになるように思えた。私はもう一度挿入し、いままでになくゆっくりと腰を動かした。
「あ、イク……」
「イキつづけて、十回でも、二十回でも」
 百江はほんとうに十回も二十回も達しつづけた。そして私の射精と同時に気を失った。
 ぐったりした百江の腹の上で挿入したまま眠った。いつのまにか結合が解かれ、たがいに横になり、抱き合って眠っていた。腹のふくらみや、胸の隆起、臍のへこみ、陰毛の手触りなどを指に確かめながら、うとうと半睡した。
          †
 翌朝ほとんど同時に目覚め、歯を磨いていないことを気にしながら唇をつけ合った。
「おはよう」
「おはようございます」
 シーツをめくり、全身を眺める。吉永先生を大きくしたような整った体形だ。陰毛も吉永先生とそっくりな逆三角形だった。そそり立った。
「うれしい―」
 乳房に唇をつけると、愛しそうに頭を抱いた。それからすぐに陰茎を握り、
「べとべとしてます。洗わなくちゃ」
「もう一度してから」
 足首を持って片脚を持ち上げ、挿し入れる。
「ああ、幸せ、うれしい!」
 五十歳の愛らしい痙攣が始まり、五度、六度と繰り返し、私の射精のあとも激しく繰り返す。収まるまで私は抱き締めている。
 バスタブでスポンジの泡をなすりつけながら全身を洗ってやる。百江は素手で私のからだに石鹸を塗る。
「こうして洗うようにとトモヨ奥様に言われました。……新幹線から中日球場のスコアボードが見えるんです。ああ、神無月さんがお仕事をする場所だと思って、胸がいっぱいになりました」
「中日球場は名古屋駅の近くにあるからね」
「……私、ほかの女の人に嫉妬されないでしょうか。こんなにあられもなく乱れるってわかったら……」
「みんな、それぞれそんな心配をしているかもしれないね。でも、精神的にはほかの女の人なんていないんだよ。みんなカズちゃんを心の底から尊敬してるし、彼女から一心同体だと諭されてるし、彼女自身もみんなと同じように気持ちよく感じると教えられてるから、すごい絆ができ上がってるんだ」
「和子お嬢さんですね」
「うん。女神。二月の末には会えるよ。カズちゃんたちがぼくを生き永らえさせるために命を懸けてる。百江もその一人だ」
「なんだかうれしいような、怖いような」
「怖くないよ。とにかくみんなセックスをコソコソしない。もちろん見知らぬ人の前ではしないけど、おたがい同士の前でなら堂々とする。ぼくに純潔を誓いながら、ぼくとだけセックスをするのは清潔なことだと思ってるから」
「わかります。お嬢さんが生きているあいだだけの絆だと思います」
「だからこそ、みんなでカズちゃんを大切にしてるんだ」
「はい」


         五十九

 百江といっしょに五階の自室に戻り、太田を誘ってバイキングに降りていく。百江が廊下を歩きながら初対面の太田に挨拶する。太田は照れくさそうに、
「神無月さんは変わってますけど、やさしい人だから、そばにいると楽しいでしょう」
「はい、とても。太田さんも?」
「もちろん。俺たちみんなそうです」
 百江は私に、
「食事が終わったら、荷物を取りに戻ってからチェックアウトします」
「うん。新大阪まで送っていくよ。電車に乗るのは好きだから」
「俺もいきます」
「ついでに映画でも観てこようか」
 休日の朝食には、選手たちはほとんどいない。いてもたがいに声をかけ合わない。一日の予定で頭がいっぱいだからだ。百江がいてもだれも気にしない。ただ目に留めるだけだ。
 中央線と変わらない沿線風景が過ぎる。家並のあわいに海が見えるのだけがちがっている。やがてまったく海だけになった。と、見る間にふたたび建てこんだ家並に入り、神戸駅に到着した。ホームに人が少ない。分岐点の駅でないかぎり、どんなに名の知れた駅も混雑していない。百江は灰色のスーツふうの服を着ている。太田が、
「宝塚のスターみたいですね」
「化粧してますから。最近シミが目立って」
「そういうことじゃなく、顔の造作がしっかりしていて」
「ありがとうございます」
「神無月さんの好みの顔って、どういうの」
「鼻が高すぎないこと、平べったすぎないこと。目が澄んでること。歯がきれいなこと」
「形は?」
「四角くないこと」
「吉永小百合ですか」
「あれは嫌いな顔だ。クラウディア・カルディナーレ、シルバ・コシナ、フランソワーズ・アルヌール、岩下志麻」
「岩下志麻しか知りませんよ。俺、映画なんかほとんど観ないから」
「私、その四人の映画、ぜんぶ知ってます。鞄を持った女、鉄道員、ヘッドライト、秋刀魚の味」
「へえ! 大したもんですね」
「年とってますから。折につけ映画もたくさん観てきましたし。岩下志麻は、秋日和、あの波の果てまで、好人好日にも出てます」
「ほかにもあるよ。切腹、五辨の椿、智恵子抄、馬鹿が戦車でやってくる、あねといもうと、紀ノ川、女の一生、エトセトラ、エトセトラ。六十本以上も出てる」
「すごいですね! そういえば、映画に出る前に、バス通り裏というテレビドラマに出てました。十朱幸代のお友だち役で」
「それは知らなかった。主題歌は知ってたけど」
「俺はそういう話はお手上げです。新庄さんもいっしょに映画を観ていったらいいじゃないですか」
「いいでしょうか」
「ぜひいっしょに観よう。どうせきょうじゅうに帰ればいいんだろう?」
「はい。迷惑をかけない程度にゆっくりしていらっしゃいと言われてます」
 一時間ほどで新大阪に着いた。ビルがまだらにそびえるだだっ広い街。映画館などありそうもない。ロータリーのタクシーに乗る。
「いちばん近い映画館へ」
「映画館は川向こうになってまうな。十六番線から乗って、大阪に出たほうがええで。五分もせんと着くわ」
 一駅戻ることになるが、運転手の言うとおりにする。タクシーを降り、もう一度切符を買う。太田が百江の紙袋を持ってやった。私は太田に、
「川って、淀川のことだよね」
「さあ、わかりません。何川でしょうね」
 すぐに大阪に着き、人と車がごった返す大阪駅前からタクシーを拾った。
「大坂城から通天閣へ。そのあと、適当に映画館街へ」
「観光ですか」
「そう。チャンスがあるときに何でも見ておかないとね」
 太田と百江が楽しそうに笑った。三十年配の運転手に一万円を渡す。
「その場所場所で待っててもらいたいんですが、それで間に合うでしょうか」
「待ち時間入れても、五千円もかかりまへんわ」
「じゃ、それでお願いします。ツリはいりません」
 運転手は驚き、上機嫌になって、
「よっしゃ、どこにでもいきまっせー」
 と言った。
「じゃ、大坂城から、通天閣、そっから食い道楽横丁、最後に映画館につれてってください」
「はい、オッケー。映画館は通天閣あたりに固まっとって、新大阪駅から遠いさかい、観終わったらタクシー拾うたらええ。大坂城がよう見えるんは、大阪城公園や。桜の名所やけど、まだ咲いてへん。わざわざ公園へいかへんでも、外堀に沿って走れば見えまっさ」
 数キロ走り、大手前学院高校の前の外堀沿いを巡る。薄緑色の天守閣が見えた。
「大阪城はこんなんです。なんちゅうこともあらしまへん。じゃ、通天閣、いこか」
 道頓堀という街道をまっすぐ南下し、通天閣がよく見える商店通りで停める。
「本通商店街や。歩いてきたらええ。ここらあたりを新世界ゆうんです。ここいらに映画館も固まっとるさかい、食いだおれのあとでもういっぺんきましょうわい。あのね、お客さん、食い道楽やなく、食いだおれでっせ。正しゅうは、なにわ食いしんぼ横丁ちゅうんです」
 思わず百江が高い声で笑った。私たちもつられて笑った。
「どっか駐車場を探して車を停めてから、あとを追いかけまっせ。ゆっくり歩いとってください」 
 車を降りて、三人でアーケードのある商店街を歩く。移動式の屋台がキナ粉団子やワラビ餅を売っている。たしかに映画館がいくつも軒を連ね、すべてが封切りだ。
「食いだおれ横丁で昼めしを食ったあと、もう一度ここにこよう。観る映画を決めておこうよ。簡単な映画にしよう」
 洋画は、マンハッタン無宿、まごころを君に、大侵略。食指が動かない。邦画は、喜劇駅前桟橋、愛のきずな。
「森繁は退屈だから、藤田まことと園まりにしよう。題名が浅いけど、役者の組合せに意外性がありそうだ。清張ものだから簡単なサスペンスだろう」
「俺は何でもいいです」
 百江もにっこりうなずいた。あらためて通天閣を見上げる。いつのまにか運転手が背中に立って微笑んでいた。
「大正元年に建った初代通天閣が戦争で燃えてな、これは昭和三十一年に建て直したもんですわ。展望台まで九十一メートル。その上のトンガリが十二メートル。毎年百万人以上が昇ったもんやったが、この何年かは百万を切っとる。あの日立のマークを亀の子マークゆうんや。なんやら亀に似てるやろ」
 百江が額に手をかざして、曇り空にそびえる通天閣をしみじみ見上げる。亀の子の下に日立ポンプというネオンが貼りついている。ふもとの通りには、ふぐ料理専門店、大衆食堂、コーヒー紅茶、洋食、寿司といった看板がひしめいている。
「名古屋のテレビ塔より小ぶりだな。太田、テレビ塔は何メートルだったっけ」
「えーと、たしか百八十メートルです。展望台まではやっぱり九十メートルぐらいだったと思います」
「よし、食い道楽にいこう。運転手さんお願いします」
「ほいきた。食い道楽やなしに、食いだおれです」
 また百江が華やかに笑い、
「神無月さんといると、ほんとに楽しい」
 運転手がギョッとして、
「……あ、ほんまや、神無月や!」
 私は指を唇に当ててタクシーに乗りこんだ。車を出す。
「驚いたなあ。人が悪いんとちゃいまっか。そうならそうとゆうてくださいよ。もっと野球の話ができたでしょうが。わて、野球は詳しいんですよ。へへ、うっかり神無月選手を見逃してもうて、おっきなことは言えまへんが」
「野球の話はなるべくしたくないんですよ。毎日野球漬けですから」
「ほうやろなあ。ときどき阪神の選手を乗せることがあるんやが、何を訊いてもムッツリ右門やさかいね」
「キャンプは月曜が休みなもので、明石から大阪に映画でも見ようということで出てきたんです」
「休みの日ぐらい野球を忘れたいものやさかいな。そちらさん、太田さん言うてましたな。神無月さんと同じ新人ですか」
「はい。お見知りおきを」
「何かの縁でっせ。わて、お二人のファンになります」
 運転手はフロンドガラスの左右をキョロキョロ見ながら、
「狭ッ苦しゅうてゴチャゴチャしとりまっしゃろ。道頓堀川を挟んでキタとミナミちゅう地区になっとりまんねん。大阪駅近辺がキタ、難波近辺がミナミ。ミナミあたりを食いだおれの街ゆうてます。どの店もあほらしなるほど並びます。落ち着いて食いたいんやったら、本店にいったほうがすいてまっせ」
「本店?」
「新世界の『づぼらや』なんかは本店です。食いだおれ横丁は、車を駐車場に入れて見物だけしまひょか。どうせ映画を観に新世界に戻るわけやさかい、昼めしはづぼらや本店で食えばええで」
 駐車場の車に乗って道頓堀に出る。御堂筋の駐車場に車を入れ、四人で道頓堀商店街を見て歩く。戎橋を左に見て過ぎると、馬鹿でかいカニが蠢いている看板がある。直進する。たしかにづぼらやの支店がある。『くいだおれ』と書いた大太鼓背負ったピエロの人形が小太鼓を叩いている。
「くいだおれ太郎くん、いいます」
 意味不明。その三軒以外は、たこ焼き、ぜんざい、ラーメン、カレー、ただただ行列をなす店。右折してアーケード付きの細い通りに入る。五、六百メートルぶらぶら歩く。
「この自由軒いうカレー屋は明治時代からある店で、織田作之助ちゅう作家もかよった言われてます」
 一から十まで肌に合わない。
「新世界に戻りましょう」
「ほいきた」
 御堂筋まで引き返す。車に乗って本通の商店街に戻り、運転手も誘ってづぼらやで昼めしにする。広い店内に入って落ち着くと、こざっぱりと清潔な雰囲気だ。テーブルも椅子もゆったりしている。フグ会席をコースで四人前頼む。
「一人前五千円はしまっさ。生まれて初めてですわ。ええんですか」
「誘ったのはぼくです。遠慮なく」
 百江が、
「私も初めてです」
 運転手が、
「おたくさんはどういうご関係で?」
 ようやく百江に顔を向けて訊いた。私が代わりに答える。
「ぼくの名古屋の家の女中さんです。月曜ごとに洗濯物を取りにきてくれてるんです」
「ほう、おきれないなお女中でんな」
 新聞が置いてあったので太田が目を通す。
「新人評価が載ってますよ。土井垣っていう人が書いてます」
 運転手が、
「サンスポでんな」
 私はあの記者を思い出し、
「何て書いてある?」
「読みますよ。広島山本浩二―走行守三拍子揃っている。秋季合同キャンプで苦手のカーブも克服した。今年カープ主力の最有力候補。中日神無月郷―有無を言わさぬ強烈な打撃力。ホームラン製造機の観あり。守備、走塁ともに文句なし。島谷金二、太田安治、菱川章―江藤を凌げるかどうか。ただし、近い将来神無月に次ぐ準主力の予感あり。南海富田勝―ようやくプロのスピードに慣れてきた。まだまだ器が定まるのは先。阪神田淵幸一―外角に難あり。紅白戦でそこを責められてきりきり舞いさせられて以来、自分を見失い、どうにもならない状態になった。神無月や山本ほどの迫力もない。オープン戦ではお客さんを集められても、実力本位の公式戦では通用しない。一からやり直して、何年か苦しい思いをすべきだろう。……ひどい書かれようですね」
「これだけ長く書かれるのは、大いに期待されてる証拠だよ」
 出てきた前菜に箸をつける。
「これはうまいな!」
「うまいす!」
「おいしい。何でしょうか、ふぐの南蛮漬けかしら。ほんとにおいしい」
 刺身、焼き物、揚げ物と出てくる。すべてふぐだ。野菜てんぷらとエビのてんぷらも出る。ふぐ鮨、ふぐ鍋、ふぐ雑炊ときて、腹がはち切れそうになった。
「さすが野球選手は、酒をやりまへんなあ」
「いや、きょうはこれから映画を観るので、目がぼやけないように」
「せやけど、神無月さんちゅうことがバレへんもんかいな」
「バレたい人だけがバレるんです。ふつうにしてれば、だれも注目しませんよ。人は自分のことで忙しいものです」
 太田が感心したふうに、
「とりわけ神無月さんは、いつも気配を消してますからね。グランドではギラッと光りますよ。むかしからそうでした」
 百江が、
「みんな新聞やテレビの中の神無月さんには注目しますけど、道を歩いてる神無月さんには気づきもしないんです」
 茶を飲んで引き揚げる。店の外で運転手は、
「ほんまにご馳走さまでした。ぜったい王の五十五本を越えてくださいや」
「約束します」
 車のフロントボックスからサインペンを取り出し、
「この背広の内ポケットのところに、サインをいただけまへんか」
 私はすらすらとサインした。
「クリーニングに出さんと一生とっときます。こんなん、だれに言っても信じへんやろうな。息子が喜ぶやろ」
 三人に名刺を差し出し、
「大阪にいらっしゃったときには、そこにお電話ください。私は個人タクシーやさかい、いつでも出ていけます。じゃ、失礼します」
 運転席から手を振って去った。


         六十

 太田が、
「大枚使いましたね。だいじょうぶですか」
「いつもポケットに何万円か入れてるんだ。人におごられてばかりいるから、ちっともなくならない」
 新世界東宝という映画館に入る。開映まで十五分。待合のソファで園まりの話をする。
「三人娘では伊東ゆかりの喉が一番だけど、かわいさでは園まりだね。女としてのセクシーな魅力は、だんとつで中尾ミエに軍配が上がる。セクシーというのはかわいさのことじゃない。心もからだも同じレベルで愛せると思える性的魅力のことだ。ぼくは心を予想させない女とは寝ない。つまり、かわいらしく媚態を売るだけでセクシーでない女とは寝ない。そういう女は完全な女に見えないんだ」
 百江が薄く涙ぐんだ。私はつづける。
「園まりがどんな演技をするか見ものだ。たぶんイモだ。藤田まことに恋愛が演じられるかどうか。それも見ものだ。たぶん緊張感に欠けるサスペンスだろうけど、ひさしぶりに大画面を愉しみたい」
 ブザーが鳴り、幕が開いた。映画館で緊張する唯一の瞬間。
 ……………………
 むだな緊張だった。あまりにもお粗末なプロットで、これっぽっちの娯楽性もないドラマだった。義父の七光りで出世し、妻に冷遇されている藤田まことが、会社帰りの雨の中で出会った園まりに入れこむ。園はシャチこばった倫理観の持ち主で、藤田まこととの関係を貫くために夫と別れようとする。夫は傷害罪で投獄された粗暴な男らしく、いま刑務所にいる。そのことを藤田に打ち明ける。夫に正直に話してしっかり清算すると言う。藤田は夫が出所したあとの報復を恐れて猛反対する。園は藤田の意見を杞憂だと笑い飛ばす。
 馬鹿らしい。女が暴力的な夫を説得することなどできるはずがない。不倫を清算して新しい男とどうしても添い遂げたいなら、自分だけが抱えた問題として、藤田にも刑務所の夫にも告げずにひそかに男と逃げるか、それが自分の倫理観に反して納得がいかないとか、あるいは暴力亭主の追跡が怖いというなら、出所したあとじょうずに殺せばいいだろう。清算とはそういうものだ。たとえ藤田のような臆病で小物の愛人でも、愛したからには彼に迷惑をかけまいとするのが理屈だ。
 ところが―園が藤田に殺されてしまうのである! タナボタの社会的地位と、これまで築き上げてきた計画的な人生が崩壊するのを恐れて、安らぎのもとだった愛人を殺してしまうという桁外れの展開だ。ろくでもない家庭生活をそこまでしても失いないたくない男の心理が謎になる。社会的な立場ではなく、心を打ちのめすほんとうに危険な愛の喪失を知らない〈社会派〉清張の限界か。藤田の心をひしいでいた鬱屈のもとは、腑甲斐ない縁故出世に甘んじた自分の社会的立場だったはずだ。それを忘れさせてくれたメシアの女を殺す? 
 後日談。絞殺されたはずのその女が、じつは失神しただけで生きていた、しかも記憶喪失になっていたというのも荒唐無稽すぎて笑える。ついに女の記憶が戻り、偶然が重なった挙句、女に〈消極的に〉殺される―転落しそうなデッキから差し伸べた手を振りほどかれる―というのもあごが外れる。カズちゃんがこんな映画を観たらあっという間に寝てしまうだろう。
 しかし、一時間四十分の映画が終わったとたん、すべての不満を忘れ、大画面で映画を観たというすがすがしい気分だけが残った。
「おもしろかったね」
 百江が、
「はい。園まりの魅力ってどういうところですか?」
「……ないな。演技も思ったとおりイモだった。道徳的不正を働いたやつは生かしておかないという、いつもの清張の断罪も平凡でつまらかった。清張は宗教心の強い人間なのかもしれないね」
 太田が、
「藤田まことって喜劇役者だと思ってました」
「そうだよ、万人受けする喜劇役者だ。その効果で、破滅的なストーリーの暗さが半減してる。園まりのかわいらしさも陰湿なストーリーから浮いてる。河原崎長一郎と渡辺美佐子なんか組み合わせたら、こんなストーリーでももっとリアルでスリリングになっただろうな。ま、とにかくわかりやすくて、おもしろい映画だった」
 映画館の外に出る。百江が私の顔を見上げて、
「名残惜しいですけど、帰らなくちゃいけません。いまから帰れば、ちょうど夕方です」
 街道筋でタクシーを拾い新大阪駅に向かう。
「通りを歩いても、映画館に入っても、名古屋以外の街では落ち着かない。青森も横浜も東京も、住めば都とならなかった。青森に五年、横浜に四年、東京に二年、そして名古屋にあいだを置きながら八年暮らした。名古屋にいちばん長く暮らしたことはたしかだけど、根無し草が長く根を張ったという単純な理屈では名古屋の魅力を説明できないね」
「俺も大分に三年もいましたが、落ち着きませんでした。名古屋は不思議な街ですね。ほんとに落ち着く」
 運転手がバックミラー越しに私たちの顔をぼんやり窺った。それからあらためて私の顔だけ注視した。
「おたく、中日ドラゴンズの神無月選手でっしゃろ。お隣は太田選手。テレビで紅白戦の録画見ましたよ。すごかったですわ」
「すごかったのは神無月さんだけですよ。俺は……」
「いやいや、ええ振りしてました。放送でも太田と島谷は神無月に次ぐ期待の新人言っとりました。今年の阪神もやりまっせ。なんせ田淵が入ったさかい」
 さっきの新聞記事を思い出して、太田と顔を見合わせた。太田が、
「新人じゃないけど、菱川さんのことを忘れてますよ。心機一転、実質、新人になったみたいなものです」
「ほうでっか。そう言うたら、ホームラン二本打っとったな。ま、とにかく田淵はやりまっせ」
 大阪のタクシー運転手は野球選手慣れしているようだ。緊張もせず、底抜けに明るく話しかける。私は、
「対戦経験の長い浜野さんにがんばってもらいますよ」
「浜野で料理できますやろか。甘いんとちゃいまっか」
 新大阪駅に着いた。大阪駅とちがい、ひっそりしている。夕暮が近い。金を払ってタクシーを降りる。
「ドラゴンズ戦でお二人さんには野次飛ばさんようにしまっさ。ご乗車、ありあとあした。今度会ったらサインくださいや。いまもらったら不忠者になりますさかい」
 上機嫌で去っていく。百江を新幹線ホームまで見送る。始発列車が待機している。
「神無月さんの言葉って、とてもわかりやすくて、すてきです」
「頭が粗悪だから複雑な理屈がしゃべれないんだ」
 太田が、
「それがジーニャスだって、半田コーチが言ってたじゃないですか。ほとんどの日本人はしゃべってることがわからないって」
「過剰に褒めるのは精神的心中だね。人は知り合って気に入ると、その人の精神と心中したくなる。心中はとても大きい不幸だよ。不幸になってほしくない。でも気に入れば入るほど、忠告の言葉なんかうるさがられるだけだろうね」
 太田が、
「そうです、うるさいだけです。神無月さんは褒められすぎることが心苦しいんでしょうけど、そんなの相手の勝手なんですよ」
 百江が、
「ほんとに、勝手にさせておいてあげればいいんじゃないでしょうか」
 情のある人間の常として、相手の考えの中に自分の考えのスジを見つけることに気をとられて、相手の罪悪感と恐怖を理解しようとしない。大らかな大地のような理解力を示しているのにちがいないけれど、その大地は愛する者の毒を吸うのに敏感で、みずからの拒絶反応を相手に示すのに鈍感だ。百江が、
「神無月さんは、自分が生きているこの世をどういうふうに考えているんですか。思いどおりに振舞うための場所だとは思っていないんですか」
「礼儀正しくしなくちゃいけない鉄火場かな。そこにいるときは礼儀正しく挨拶し、正直に勝負をし、払うべき借金はきちんと払って出ていく場所。野や山みたいにはわがままに振舞えない場所。勝ち逃げも負け逃げもだめだ」
 太田がホーッと息をつきながら、
「あまりお目にかかれないくらい頭のいい人ですね、神無月さんは」
 発車のベルが鳴った。百江は乗りこみ、ドア口に立った。
「また来週。太田さん、神無月さんをよろしくお願いします」
「ご心配なく」
 ドアが閉まった。
 日の短い二月の空が薄紫になっている。夕暮れがきた。往きに見た海がビルのあわいに見える。海は紫を映さないで、キラキラ光る無色の鏡面になっている。雲間の太陽が火屋(ほや)の中で燃える炎のようだ。
「いい一日だったね」
 私に声をかけられるのを待ちかねて、太田は急いで答えた。
「はい! 野球よりドキドキしました。たいがいの人は自分の立場だけを考えて、他人の立場というものを考えません。神無月さんはまったく逆です。本能的にそうしてます。神無月さんが野球をしたり、ものを食ったりするのが不思議な感じがします。水原監督たちの気持ちがわかります。みんなが神無月さんにドキドキするのと同じように、俺もドキドキしました」
 一呼吸置くと、またしゃべりだした。
「神無月さんは人から慕われたら、ちくしょう、その恩返さずにはおかないぞ、と思って生きてるようですね。人にご恩返しをして自分も幸せになろうと思って生きてる。でも神無月さん、生きつづけるためには神無月さんを慕う人たちをしっかり信じてあげなくちゃいけませんよ。恩を着せてるなんて思われたら心外です。借金を払って出ていくなんて言わないでください。借りがあるのは俺たちのほうなんです。もともと逃げない人に、勝ち逃げも負け逃げもないじゃないですか」
 四角い顔が、山口の丸顔に重なった。
「ごめんね。理屈っぽくてさびしそうな口の利き方をするのは、ぼくの悪い癖なんだ。深い考えがあってのことじゃない。何も考えてないんだよ。あの島流しのころからついた癖だ。自分でもいいかげんにしろと言いたくなるんだけど、なかなか治らない」
「神無月さんはずっと苦しんできて、いつまでも苦しいんだと思います。人の何倍もの人生を歩いてきましたからね」
「ふつうの人生だよ」
「成功すると、どんな人生も大したものじゃなく思えてきますよ。……人から慕われることが、神無月さんがもらう報酬です」
 やがて赤々とした夕暮れの光が窓から車内へ射してきた。さっきよりも車内が明るさを増し、人や座席が明るい赤に染まった。
「野球の話をしよう」
「はい」
「さっきの新聞はバッターのことしか書いてなかったけど、新人ピッチャーはどうなってるんだろう」
「どのチームも新人には目ぼしいピッチャーがいなさそうです。巨人の看板どころは高橋一三と堀内、阪神は江夏と村山、広島は外木場と安仁屋、大洋は山下と平松、うちは小川さんと小野さん」
「みんな二枚看板だね」
「はい。でも、江夏と平松を除けば、どのピッチャーも危うい下り坂にさしかかっているような感じです。あと二、三年の活躍で終わり―」
「うちも?」
「たぶん。ただうちと巨人のレベルは下り坂の中でもいちばん高いところにいます」
「上り坂は?」
「江夏と大洋の平松」
「とにかく新人はだめなんだね」
「総崩れです。巨人のドラ一島野はカス、ドラ二田中章はチョイまとも、広島のドラ三の山口喜司は俺と同じ大分出身で贔屓目で見たくなりますけど、素直なストレート一本ではプロには通用しないでしょう。しばらく出てこないと思います。大洋のドラ一の野村収はいずれ出てくるでしょうけど、二、三年はないな。ドラ四の鎌田は速球だけのウドの大木で凄みがない。サンケイにいたっては、十勝できそうなピッチャーはベテランの浅野一人。新人の安木はカーブとシュートがするどいですが直球はだめだし、体力もありません。うちの浜野はいちばんマシですけど、五、六勝が関の山でしょう」
「詳しく分析できるんだね!」
「こんなことしか能がないですから。キャンプ情報はしっかり漁ってます。江藤さんに負けないくらい研究してます」
「ぼくの生き字引になってよ」
「お役に立てると思います。いつでも訊いてください。でも、神無月さんには下調べなんか要りませんけどね」
「それはちがう。細かい情報が頭のどっかにあって初めて、微妙な直観に結びつくんだ。まず巨人から、もっと詳しく教えて」
 太田は胸のポケットから手帳を取り出した。ペラペラめくり、
「自分も復習のつもりでいきます。高橋一三。四十年入団。身長百七十八、体重七十八キロ、イカリ肩。左の本格派。からだを極端に沈めて投げてきます。百五十キロの速球、速いカーブ、シュート。コントロール悪く、ワンスリーになることが多いです。堀内恒夫、同じく四十年入団。第一回ドラフト一位。百七十八センチ、七十三キロ、右の本格派、撫で肩。腰に持病あり。開幕十三連勝、沢村賞。百五十キロのストレート、ブレーキのあるカーブ、チェンジアップ、フォアボール多し。球が軽いので被本塁打ナンバーワン」



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