六十一

 またペラペラとめくり、
「阪神いきます。江夏、四十一年ドラ一で入団。百七十九センチ、九十キロ、肥りすぎですね。左の本格派、去年三振奪取四百一の日本記録樹立、同時に沢村賞」
「江夏の球が少しお辞儀してくるように見えるのは目の錯覚?」
「いえ、江夏の球速も百五十キロ前後なんですが、重いだけで浮き上がらないんです。微妙なコース配分で三振を取ってます。頭がいいんでしょう。担ぎ投げなので、山なりに見えるんだと思います」
「沢村賞は金田も村山も獲ってる。最多勝と連動してるんだね」
「そうともかぎらないんですよ。昭和二十二年の第一回から、最多勝でない三人が受賞してます。小山正明、伊藤芳明、堀内恒夫です。江夏は今年から田淵とバッテリーを組むでしょうね。田淵は強肩ですけど、リード、捕球動作、送球コントロール等、辻に比べれば未熟だから、もう少し鍛えないと」
「肩がいいのは知ってる。六大学で戦ったからね。リードはおとなしい。ドンクサイ感じもする。打撃も大したことはない。高目が打てない。低目をふんぞり返って掬い上げるだけだ。永遠の二割バッターだね。ピッチャーはバカの一つ覚えで低目に投げることが多いから、ホームランはけっこう稼ぐと思う。……村山さんは偉大な人だ。見逃しは失礼だ。ストレートでもフォークでもどんどん振って三振するつもりでいく」
「俺もそうします。もう説明する投手はいません。厄介なのが出てきたら、また研究して報告します」
 明石駅から歩いて、七時前にホテルに着いた。部屋に戻り、太田と交代でシャワーを浴びる。サッパリして、テレビを点ける。ニュースで、おとといの試合のダイジェストが流れていた。なんと実況放送のゲスト解説者は鶴岡一人元南海監督だった。ホームラン合戦と銘打ち、アナウンサーが一人ひとりの名前を紹介していく。
「あ、俺も出てる」
「あたりまえだよ。ホームラン打ったんだもの」
「神無月さんのホームランは、もちろん〈すごい〉のひとことですけど、野村さんのホームランも美しかったですねえ」
「美しかった。軌道が芸術的だった。ダウンスイングでボールを遠くへ飛ばす日本一の人だね。小川さんに打たしてもらったと言ってたけど、百五十キロ近い高めの速球だったから、小川さんは空振りを取りにいったんだね」
「そう思います。ふつうなら空振りするボールでしたよ。小川さんのボールは手もとでホップしてきますから、ああいうふうにかぶせて打たないかぎり凡フライになってしまいます。すごいものを見ました」
「小川さんのからだってどうなってるんだ。機械でできてるみたいだ」
「一度いっしょに風呂に入ってあの人の全身を見たことがあるんですが、ハガネみたいでしたよ。寝転がって腕相撲したんです。手首が強くて、ビクとも動きませんでした」
「リストかあ」
「ええ、リストの使い方がすばらしいんですよ。軽く投げているように見えて、キャッチャーの手もとでボールがビュッと伸びる。名古屋の寮でも小川さんと同部屋の木俣さんが言ってましたが、ボールを捕る瞬間に、オオッとなるくらいだから、バッターが打てないわけだって。それを野村さんは打ったんですよ」
「つくづくすごいね。シンカーだったら打ち取れたかもしれないのに、勝負した小川さんもすごい」
「ピッチャーって練習であまり遠投はしないものなんですけど、小川さんは平気で木俣さん相手に遠投を繰り返してますからね。ワシのボールはだれにも打てんよっていつも言ってます。初速と終速の差がほとんどないからって。考えたら、三十歳でプロ入りして、十七勝、十七勝、二十九勝の人ですからね。ふつうじゃありません。三十歳までどこで何してたんだろうって感じです」
「軟式野球やったり、サラリーマンやったりしてたんだろう? ものすごい変わり者だ」
「そうなんですよ。肝の太い人で、よく競馬とか麻雀でスッテンテンになったって笑ってます。ホラもよく吹くんですよ。タオルを両手で引っ張る訓練を一日二時間やって手首を鍛えてるって言うから、ほんとですかって訊くと、嘘に決まってるだろうって」
「そういうの好きだな。いっしょにプレイできるのが誇りだ」
「はい。オープン戦は一軍への登竜門だからがんばらないと。そこでいい成績を収めることができたら、一軍で使ってもらえます」
「とっくに一軍確定じゃないか」
「いえ、島谷を追い抜かないと。俺はまだ、守備力がいまいちですから」
 七時に喜春の間へ集合がかかった。ナプキンを立てたテーブルが十も並んでいる。ひときわ大きいテーブルに、小山球団オーナーも含めて、きのうネット裏で見かけたおえらがたが五人、六人、水原監督以下ドラゴンズ首脳部と混じって座っている。席が指定されているので、太田と別れて首脳陣のそばのテーブルに座る。江藤と小川が同席する。全身を安堵感に浸され、思わず二人に語りかけた。
「いっしょにプレイできて光栄です」
 素直な言葉だった。江藤が、
「何ば言いよったい、金太郎さん、ワシらに言葉をなくさせんとけや」
「そうたい。ワシも江藤もまあ〈すぐれもん〉やが、あんたはその上の鬼やからな。口はばったいこと言うのはやめんね。めしが進まんごつなるばい」
 小川は江藤に合わせて九州弁を丸出しにする。
「はい、すみません」
 江藤の肩口から首脳の大テーブルを眺め、
「水原監督って、どこに住んでるんですか」
 小川が、
「なんじゃ、やぶからぼうに。東京は目黒区の、緑ヶ丘ちゅうところばい。豪邸やなか。趣味の家たいね。電気スタンドもソファも西洋ふうでサッパリしとる。一度何人かで呼ばれていった。金太郎さんの電撃入団のすぐあとやなかったかな。利ちゃん、慎ちゃん、モリミチ、俺」
「正式に監督に就任する直前やったろう。東海テレビの顔合わせの何週間か前。水原さんは徹底的な洒落者たい。すべて一流品。帽子はボルサリーノ、時計はロレックス。付き合う女も一流品」
 小川が目を大きく開いて私に顔を寄せ、
「田中絹代よ。有名やろう」
「こんなこと言うとった。俺が惚れたんじゃない、向こうが俺のファンだったんだ、電話で会いたいと言うんでね、まあ、俺も若かったし―」
「同い年やったらしか。水原さんに惚れたのは女ばかりやない。歌舞伎の六代目尾上菊五郎が、あの慶應の三塁手は鍛えればまちがいなく日本を代表する舞踊の名人になるち言うたらしか。三塁のコーチャーズボックスに立っとる姿、格好ええやろう」
「はい、惚れぼれします」
 江藤が、
「ベルトに手ばやったり、ポケットに手突っこんだり、うつむいて腕組みばしたり、手ば拍ったり、とにかく絵になる。ホームランば打った選手と、どういうコンタクトとるか知っとうや?」
「頭の上で手を叩いて、三塁を回るときにタッチします」
「それは金太郎さん用たい。ふだんは帽子ば脱いで振って、打者が三塁回るときに握手ばして、ホームへ向かう背中に拍手するったい。そう決まっとる。金太郎さんのときはもっとシンプルやが、かならず笑いかける。あげんことは俺たちにしてくれん。勝負にこだわる人間やけん、審判に食ってかかるときは率先する。ばってん、あきらめも早か。スッと引き退がる。見習わんといけん。金太郎さんが入団したころ、水原さんが村迫代表と話ばしとうのが耳に入ってきたことがあるったい。神無月は華麗で、悲しい、惚れた、てな。あそこに並んどォんな、水原さんば支持する中京地区の財閥連中ばい。自動車、石油、ガス、銀行、商社。水原さんと金太郎さんが中日にきたことで、バックについたんやと。今年の中日はどんどん金ば使うばい」
 小川が標準語に戻り、
「とかくこの世の中じゃ、莫大なカネさえ持っていれば、善いことだろうと悪いことだろうと、人をアッと言わせるようなことができるし、才能のあるやつの実力を存分に発揮させて途方もない権力を与えることもできる」
 江藤が、
「水原さんと金太郎さんのこったい」
「監督とぼくが、権力……ですか?」
「そうたい、思い切り才能を発揮できる野球人は一種の権力者ばい。もの言わんでも人をひれ伏させるけんな」
 派手な和洋の料理が出てきた。人参、ポテトを添えたサイコロステーキ、刺身盛り合わせ、てんぷら盛り合わせ、鯛のムニエル、伊勢エビ一尾焼き、茶碗蒸し、スパゲティ、サラダ、鯛のアラの吸い物、何杯でも食えるように大きな飯櫃。
 小山オーナーが水原監督たちとごちゃごちゃしゃべっている。沢村とか小鶴とか長嶋とか聞こえてくる。そのオーナーが不意に立ち上がり、しゃべりはじめた。賑やかに食事にかかっていた座が聞き耳を立てるために静まった。
「また陣中見舞いにきたよ。きみたちの顔を見るのが趣味なので勘弁してください」
 拍手。
「じゃ、いつものしゃべりでいってみようか。……がんらい野球は華やかなスポーツだということなんだ。というわけで、今年のテーマは〈華麗なるベースボール〉。優勝、優勝とやみくもに謳い上げても、昨年の状況を考えれば非常に困難なのはまちがいない。まずはAクラス。そりゃ、目指せAクラスというのはパッとせんが、焦っても仕方がないでしょ。しかし、有力な人間が二人きたからね。水原茂と神無月郷。二人の影響は甚大だ。彼らがとつぜん火を点けた気がする。実力を伴ったスター性というやつだね。とりわけ格好よさ。スタイルね。形から整えていこう。一人ひとり意識して、スター性を発揮してほしい。プロなんだからさ。実力はもともとあるんだ。心配いらん。おとといの南海戦ではそれが遺憾なく発揮されていた。先天的なホームランバッターの金太郎さんはもちろん、地肩の強い沢村賞の健太郎も、闘将かつ首位打者の慎一も格好よかった。リードオフマン・セリーグナンバーワンキャッチャーの木俣も、球界の宝である中も、守備の名人高木と職人一枝も、有望新人の太田や島谷も、新人らしからぬ熱血漢浜野も、怠け者の大器菱川もみんな格好よかった。菱川がまじめになったのは金太郎さんの影響だと聞いている。とにかくドラゴンズにスターが勢揃いして、将来性がくっきり見えてきた。きのうはいい船出だった。格好いいものにファンはつく。ファンがつけば選手は張り切る。そうなるとおのずと優勝は近くなる。スタイルを確立しなさい。格好良くあれということだよ。実力は形についてくる。以上」
 盛んな拍手のなかオーナーが腰を下ろすと、またみんながやがやと食事に戻った。
 壮観な眺め―右も左も野球人がひしめいている。天井からシャンデリアの光の輪が降り注ぐ。その下の陽気なざわめき。楽しげな烏合の気分が私の心の中の恐怖といき交う。愁傷顔や空涙の葬式よりはマシかもしれないが、何か恐ろしい。
 ホームランの興奮は神経を最高の高みにまでふるわせる。しかしそうした感激もようやく鎮まりかけている。夢の中にしか存在しなかった名望の国から、少しずつ現実の完全な幸福の国へ降りていかなければならない。ホームラン王? 優勝? 名望の高みに鎮座する国に幸福は待っていない。ひたすら幸福をなつかしみ、息を切らせて降りていこう。
 あの夜山口は、生きろと叱咤した。私は蘇生し、その叱咤を深い感謝をもって受け取った。あれから何度私は、ああ生きていると思ったことか。いまは―懸命に生きていきたい、と思っている。ただあまりにも明るい、身を焼くような光のもとでは、〈ああ生きている〉と思えない。その明るさが、命を祝福する光源から発していると感じられないからだ。
 ―産湯に浸かるからだに射してくるような、小さな窓からの穏やかな光。
 十歳で出会ってから十年というもの、私はカズちゃんに愛されつづけてきた。まるで一冊の書物ででもあるかのように私の前に開かれた彼女の言行に、私は人間としてのあらゆる美徳を読み取ることができた。私はカズちゃんに愛されたことから、広大無辺な、いままで知らなかったような幸福、この世のものとしてあまりに大きすぎる、あまりにも清らかな、あまりにも完全な幸福を得た。そしてそういう幸福が彼女以前のほかの女から得られなかったことを思えば、もし彼女がいなかったら、私には絶望以外の何ものも残らなかったことになるのだ。早くカズちゃんに逢いたい。私の命を祝福する光源は彼女から発している。
「おい、ぼんやりしてるな。食え、食え」
 小川が声をかける。江藤が、
「きついっちゃろう。こんな会合、疲るうだけばい」
「いえ、夢のように感じてます。夢というのは、なんか恐ろしくて、しみじみとした幸福感がありません。幸福は現実の中にあります」
 小川が、
「何またわけのわからんこと言ってるんだ。現実とはなんだ? 金太郎さんはスターだぞ。スターにとっては夢も現実だろが」
 江藤が、
「幸せでないちゅうんな、わかる気がするばい。ワシも野球ちゅう単純な趣味に熱中でけんごつなったことがあったけんなあ。プロに入ることで、金ができてしもうたけんな。金があると、いろんなことば考ゆるごつなる」
「金太郎さんはそういうことでなかろうもん。カネに興味のなかけん。どっかネジが外れとるんやろう」
「何もかも捨てとるんやろう。ブレイザーとのやり取りでわかった。野村が毒気抜かれた顔ばしよったが、欲に取りつかれとる人間には、金太郎さんは近寄りがたか人間ばい。ワシも欲を捨てるわ」
「捨てられるかい!」
「小川さんの球種はどういうのがありますか」
 話をほかの水路へ流す。
「またまた、やぶからぼうやな。コケ脅しするなよ。ストレートとカーブとシンカーだ。何でか?」
「ほんものですね。尾崎もストレートとカーブだけでした」
「剛速球といっしょにするな。尾崎に悪い。カープゆうても、杉浦みたいに独特の軌道を描くわけじゃないしな。俺はストレートの伸びと、あとは意表を突くコースどりだけだ。内側を突いて外へカーブ、なんてありきたりなことはせん。予想されたら、勝負球でも何でもないだろ」
「健太郎はとにかく度胸がよかばい。バッターが打たんと見るや、ど真ん中にスッとゆるいストレートを投げてきよる」
「おととしくらいまで左バッターが苦手やったんやが、シンカーに磨きをかけてどうにか克服した。おかげで二十九勝できた。去年十勝しかできんかったのは、左バッターが進化したせいや。シンカーいうんは、見逃せばボールになる確率が高い。そこを慎重に見極める左バッターが増えてきよった。特に王は蛇や。今年は何か対策を考えんといけん」
「対策はなかと思うぞ。ホームランさえ打たれんばよか、ヒットならオッケー、カウントが悪うなったら歩かせる、それしかなかばい」
「ザッツライト。金太郎さんも、おんなじふうにやられるぞ。打撃チャンスが減るだろなあ。それだけじゃない。厳しく内角を責められて、デッドボールが増える」
「ぼくは当たりません。小学校から一度もデッドボールがないんです。最悪、かする程度でしょう」
 江藤が、
「それでもヘルメットはかぶるごつせえや。左ピッチャーのすっぽ抜けの速球がエズか」
「はい」
 幸福とは言えないが、楽しい会話だ。江藤が、
「華麗なるベースボールか。生まれつき美男の金太郎さんなら、何やったっちゃ美しゅう見ゆるやろうばってん、ワシはな……」
「どいつもこいつもブオトコたい。プレイを美しく見せるいうことやろうが。顔はスタンドからほとんど見えんのやけん」
「わかっとうよ。たやなあ、金太郎さんのごつすべて恵まれて生まれてくるゆうんは、ほんなこつうらやましかのう。ウハウハの人生やろ。……理屈はな。この顔つき見たら、そう単純なことも言うとれん。……年はだいぶちごうばってん、ワシはこの顔についていこうと思うとる」
「ドラゴンズを追い出されなけりゃな」
「水原さんに泣きを入れて、借金払うてもろうたばい。借金取りはもう球団に押しかけん。会社は潰したわ。社員ゆうても身内だけやったけん、なんとか涙ば飲んでもろうた。これからは野球一本たい。太田とワシとで、ハッカイ、サゴジョウばい」
「孫悟空は? 俺か?」
「幻術使いやからな」
 二人で声を合わせて笑う。水原監督がにこやかにこちらを見つめている。小山オーナーが私に向かって手を上げた。高円寺のフジのマスターによく似ていた。私は頭を下げた。


         六十二

「どうしたの。トルコにいくのにその格好はないだろ」
「少しでも〈華麗に〉―球団の方針です。神無月さんが寝るころに部屋に戻ります。じゃ、いってきます」
 九時過ぎに太田はおしゃれをして出かけた。首にネッカチーフなんか巻いてニヤついていた。私も少し町を散歩することにする。十時半にジャージを着て出ようとすると、どこかの部屋のルームサービスから戻るボーイのワゴンに出会った。礼儀正しさに思わず反応して、ご苦労さまです、と一声かけて出る。
 いざ玄関に出てみたが、いきたいところがない。明石は港町だが、漁船が出払っているときは港へいってみてもただの寂れた岸壁だ。ウォンタナ商店街へ紛れ入るとファンがうるさい。城址公園を歩いたらどうだろう。じっくり歩いてみよう。
 もういちど部屋に戻り、ブレザーに着替え、革靴を履いて、ロビーの玄関から夜の道に出る。夜空が晴れている。ホテルの周囲にカメラを手にした記者たちがウロウロしている。声はかけてこない。
 外堀沿いの入口から入る。遊歩道にチラホラ人がいるが寄ってこない。眼鏡をかけ、きちんとブレザーに身を固めているので、野球選手には見えないようだ。第一球場の門を見る。入りこみ、スタンドに登って眺め下ろす。薄闇の中で枯れ芝がにぶく光っている。眼鏡の縁を指で直しながら全体を見回した。ギョッとした。闇の中で二軍の選手たちが三々五々、ランニングをしたり、素振りをしたりしていた。一軍が使わないときに二軍が第一球場を使うことは知っていたが、こんなに夜遅くまで利用していることは知らなかった。選手たちの顔はほとんど見えず、コーチたちの影も見えなかった。知り合わないまま別れていく人たち。
 球場を出て、園内の道なりに歩いた。園灯がある。明石城のかわいらしいヤグラが夜空に浮かんでいる。ポプラ、ツゲ、しだれ柳が広い敷地内に密集して植わっている。ポプラは葉の落ちた箒木形の姿を曝し、しだれ柳は茶色い紐になって垂れ、ツゲは常緑を保っている。敷地全体に色彩がなかった。花や樹を見るのにいちばんさびしい季節だ。
 剛ノ池の岸辺の遊歩道に出る。あらためて井之頭池の数倍の大きさだとわかる。五、六人乗りの遊覧ボートが五艘繋留され、その周囲に水鳥が群がっている。池が大きすぎてさびしい。井之頭池ぐらいがちょうどいい。遊歩道が、池の周囲の住宅地に通じている。眺めながら公園の外に出る。自動車が走っている。ヘッドライトが明るい。人工の明かりに安らぐ。
 ―山口はきっと東京にいたいんじゃないのか。
 名古屋を拠点に全国の都市のリサイタルを飛び回るというのは、かなり無理がある。山口が私のそばで活動したいことはわかっている。これまでもそうやって生きてきたのだから。たとえ仕事に不都合が起きてもできればそうしたいだろう。しかし、人は余儀なく忙しくなっていくものだ。東京という芸術文化の中心にいて、芸術家の彼は余儀なく忙しくなる。スポーツは文化の中心ではない。私の忙しさなどほとんどスケジュールの変更のない一定のものだし、過剰に忙しい状況はいつでも拒絶できる。
 明石駅のほうへ歩き、吉祥寺駅に架かるようなガードをくぐって繁華な西口に出る。道ゆく中年の女性に、このあたりにお好み焼き屋はないかと尋ねると、
「お好み焼道場。十二時までやってますよ」
 と言って指差した。その方向へ人に道を尋ねながらいき、五分も歩かずに着いた。モルタル一階建ての店のガラス戸を覗きこむ。鉄板の敷いてある四人がけのテーブルが三脚、畳の小上がりに二卓、小ぶりで清潔な店だった。客はかなり立てこんでいる。店の戸を開けたとたんに、ウオーという喚声が上がった。
「神無月だ!」
「神無月!」
「神無月さん!」
 私はあわてて引き返そうとした。
「入って、入って、神無月選手!」
「背番号8!」
「いい男!」
 あちこちのテーブルで声が上がる。仕方なく、一卓だけ空いていた小上がりのテーブルにつく。心配していたマヨネーズと洋がらしがちゃんと置いてある。客たちは親しげな呼びかけをするだけで、サインを求めてこない。人嫌いという私の噂に気を差しているのだろう。上気した顔で注文をとりにきた白髪の男に、
「二千円のコース一人前。中ジョッキの生一つ。それから、ケチャップを小鉢に盛って一つください」
「わかりました。……あの、ぶしつけなお願いですが、サインをいただけないでしょうか」
「いいですよ。あとは放っておいてくれますね」
「もちろんです。ごゆっくりなさってください」
 生ビールを運んできた女将がからだを折りながら、色紙とサインペンを差し出す。すらすらと、る、ゆ、キと書いた。お好み焼道場さんへ、S44・2・17。ふと壁を見上げると、長嶋茂雄のサインが飾ってある。昭和三十三年二月十七日。奇しくも同じ日付だ。
「ありがとうございます。すばらしい記念になりました。長嶋さんと並べて飾っておきます」
「並べて飾ってくれるんですか。光栄です」
 伸びてくる見知らぬジョッキと乾杯。みんな明るく笑った。新鮮な枝豆をつまむ。おつまみのキャベツも出てきた。パリパリ齧る。女子店員がまずトン平焼を焼く。高円寺よりも生地が厚い。
「うまい。東京のトン平焼とは別物ですね」
 客たちがニコニコ見つめている。
「エビのガーリック焼と、鶏のせせりです」
「せせり?」
 品物を持ってきた女店員に尋く。真っ赤になって答える。
「首の後ろ側です。首の骨の後ろに、右と左、細い筋肉があるんです。いつも運動している筋肉なので、とてもおいしいですよ」
 調理係の男の店員が簡易カメラを持ってやってきて、
「お願いします!」
 女店員といっしょに客たちが畳に上がって、私の背後に居並ぶ。男子店員がシャッターを切る。おのずと店内に笑い声が満ちる。主人と女将もやってきて、四人の男女の従業員を呼んで加わり、客たちがシャッター役に回る。
「申しわけありません、神無月選手。はい、これで終わりです、みなさん終わり! すみませんでした。今度こそどうぞごゆっくり」
 客と店員がそれぞれの持ち場に帰った。注文もしないのにジョッキのお替りがやってくる。店主が、
「ぜんぶサービスです。サインのお礼にはぜんぜん足りませんが」
「いけません。ビールだけおごられておきます」
 だれからともなく、むかしの巨人軍明石キャンプ時代の話がでる。王は畳の部屋に等身大の鏡を置き、夜中の二時、三時まで素振りを繰り返したので畳が磨り減り、巨人軍が引き払うとすぐに張り換えたとか(聞いたことがある。いろいろな旅館に残っている有名な伝説のようだ)、キャンプ中のバレンタインデーには、チョコレートを持った長嶋目当ての若い女たちが旅館の玄関に行列したとか、王はサインをどう書いたらいいかわからずいつも戸惑っていたが、長嶋は大学野球で慣れていたようでスラスラ書いたとか、ジャイアント馬場は明石で妻となる女を見初め、プロレス転向後も妻と明石を訪ねてボーリングをやったとか(なぜボーリングを?)、話は尽きなかった。
 フライドポテト、野菜焼、豚キムチ、そしてついにタコエビ豚のミックス玉。店員が慣れた手つきで焼く。しっかり焼いてソースを塗る。分厚い。切り分けて小ベラといっしょに押して寄こす。絶品の味。瞬く間に平らげた。〆にイカそばと、そばめし、デザートにバニラアイスが出た。十一時半を回り、
「満腹になりました。これで帰ります。あした早いですから」
 店の人や客たち全員に見送られて表へ出る。彼らはしばらく路上で見送っていた。あとを追ってこようとはしなかった。振り返りながら手を振った。
 ―これはたいへんだ。私はいったい何様になってしまったのだろう。これは夢の光でもなければ、現実の安らぎでもない。過剰な歓待だ。イベントの日でもないのに、沿道で絶えず人びとが旗を振っている。球場のパフォーマンスでもないのに、たえず人びとが戸口や窓から歓声を送っている。これは人間の成功ではない。あしたからは球場以外へは外出せず、じっと部屋に閉じこもっていよう。
 日々の歓待に疑問を抱かなくなってしまった芸能人やスポーツ選手の、ふてぶてしい面つきを思い出した。広い牧場を歩き回るたった一頭の牛。好き放題。拠りどころは特技という名の才能だけ。思い出した。人混みに囲まれて、街なかの噴水の下で悠々と新聞を読んでいた男、長嶋茂雄。
 ホテルに戻ると、玄関にタテカンが出してある。私の写真だ。南海戦でホームランを打ったときのものだろう、フォロースルーを終えた形で打球の方向を見据えながら、走り出そうとして口を少し開けていた。その写真を真ん中に据え、江藤や中たちを丸囲みの写真で脇に配したポスターだった。下のほうに浜野や太田や島谷たち七、八人の選手の写真も散りばめてある。斜めに太く墨字ふうに、

  
昇れ ドラゴンズ! 

 と書いてある。『燃えよドラゴン』の地口だろう。看板を見ている私をどこかで宇賀神が見張っているような気がした。
 部屋に戻ると太田が帰っていた。スパイクを磨いている。抱き締めたくなったが、こらえた。
「お帰んなさい。どこをうろうろしてたんですか。めちゃくちゃ心配しましたよ」
 親身な顔で言う。
「ごめんね。明石公園を散歩してから、駅の西口でお好み焼を食ってきた。サービスされちゃって、帰りにくかった。もう出歩かない。アメリカ製のスパイク、知り合いに頼んで注文してあげようか」
「俺たちみたいな下っ端は、球団支給のスパイクでじゅうぶんですよ。バットを振っておきたいな。休むと不安なんです。部屋で振るのもいいんですけど、気がすむまで振れなくて」
「なんだか狭っ苦しいしね。付き合うよ。駐車場へいこうか」
「たまには屋上で振ってみたいですね」
 二人でバットを持って屋上へつづく階段を昇る。最上階の踊り場の出口の戸に鍵がかかっていた。ガッカリして部屋に戻る。
「さっきロビーを通ったとき、けっこう選手たちがいたんでびっくりした。記者もいた」「飲みにいったり、家族サービスから帰ってきた人たちがロビーをうろつくからですよ。休みの日は真夜中でもそうです。駐車場でもバット振れるんですけど、ロビーを通るのが気詰まりで」
「したくない会話をしなくちゃならないからだろ」
「はい。板東さんと浜野さんはしつこいですからね」
 ベッドに入って、野球の話をする。
「明石は寒いのに、なんで巨人はここでキャンプしたんだろうね。水原監督は思い出の土地だということで、気持ちはわかるけど」
「巨人は最初の一週間でからだを絞り切るために、ほとんど走ってばかりいるんです。猛練習ができれば寒さなんか関係ないと考えたんでしょう」
「それとも、少し寒いくらいでちょうどいいと考えたかだね」
「最初は何気なく瀬戸内という暖かいイメージに惹かれたんだと思います。寒いのはやっぱりいやですよ。昭和三十四年から巨人はキャンプ地を宮崎に移したんですが、明石が寒いから移ったんです。宮崎の食い物がよかったからだという話は眉唾ですね。明石のほうがうまいに決まってますよ。それまで宮崎で腰を据えていた近鉄が四国の今治にキャンプ地を移したんで、その後釜に入ったんです。水原監督は明石に拘ってたんですけどね。自然の寒暖の中でゆっくりからだ作りをするのがいいと言ってた人ですから」
「猛特訓は水原監督の考えじゃなかったんだね」
「ヘッドコーチの川上や中尾たちの考えです。練習のラクな中日は球界では特殊な部類でしょうが、理屈に合ってます。最初から軽いピッチング練習をしたり、フリーバッティングをしたり、紅白戦をやったり、ちゃんと(野球)をやりながらノンビリとからだを作ります」
「寒さもしっかり感じながら、うまいものも食ってか。水原監督の考えだね」
「少し寒すぎますけどね。兵庫の明石は瀬戸内海に向けて開けてるんですけど、北に山があってとても寒いんです。空気は地面から暖まりますけど、山は冷たいので、せっかく暖まった空気が冷やされちゃうんですよ」
「なるほどね。寒さを感じるほうがからだを労わる練習ができるから、シーズンを通して考えれば、いいことかもしれないな。だいたい、一週間でからだなんか作れるはずがないものね。野球生活のあいだじゅう作っていかないと」
「そのとおりです。とにかく、キャンプ地はふつう、暖かいイメージで適当に決めるんですよ。それなら沖縄がいいだろうということですが、沖縄は天気がよくないのが定説になってますからね」
「天気も自然のうちだよ。明石は天気が悪いもの。なんといっても、ゆったりした環境がいちばんだね」
「そうです。せっかく移った宮崎は、宮崎駅前のひどく狭いグランドで、そこへ見物客が押し寄せて、そのやかましさたるやたいへんなものだそうです。そばを通る蒸気機関車が巨人軍に挨拶するために汽笛を鳴らしたりするそうですから。そこで、すぐに宮崎の青島にキャンプ地を移した。やっぱり環境がいちばんです。水原監督の考えは正しいです」


         六十三 

「今度休みのときは、バッティングセンターでもいってみようか」 
「このへんに、バッティングセンターありますかって、フロントに訊いたことがあったんですけど、四軒ほどございますが、歩いていける距離ではありません、どちらへもタクシーで十分ほどかかります、ってね。バッティングセンターへいくってのも、なんですかねェ。百二、三十キロののろい軟式ボールを打っても何の訓練にもならないでしょう。トスバッティング程度の強さでしか打てませんしね。……もう出歩かないというのは?」
 私は大きく笑い、
「野球だけしていれば文句を言われない身分になったのが信じられない。サインとか握手なんかに浮かれる暇はできるだけ省かないと、そういう身分にしてくれた人たちに申しわけがない。ま、実際からだを動かさなくても、とにかく野球の話をしてるのは楽しいね」
「神無月さんは野球の話なんかしないで、プレイをしていればいい人ですよ。このあいだのルール説明もそうでしたが、打って走って守る以外のことはほとんど知らないでしょう。ベースとベーのあいだが二十七・四メートルだって知ってました?」
 太田も大きく笑う。
「そのくらい知ってるよ。マウンドからホームベースまでは、十八・四メートル。各球団のチーム事情とか選手は知らないけど、野球の基本的なところは知ってるよ。このあいだ教えてもらったような細かい知識以外は知ってる。野球について考えることも多い。ぼくは可動域が大きい守備範囲が好きなので外野を守ってるけど、あんな狭いマウンドで孤独に戦ってるピッチャーも尊敬してるんだ。特に速い球を投げられる能力を尊敬してる。左利きだった小学生のころは、速い球を投げられなかったからだろうね。あたりまえのことだけど、速球を投げるためには、腰のひねり、腕のしなり、手首の叩きが必要だ。太田のサードの守備がきれいなのはその叩きのせいだ」
「はい、叩きですね」
「本題はそこじゃない。それは技能だから熟達していくことができる。そのひねりやしなりや叩きを思いどおりに行なうためには、肩と肘と手首が強くなければいけない」
「はい」
「強いというのは、実際に力が強いということもあるだろうけど、丈夫だということのほうが大事だと思うんだ」
「はい、たしかに」
「酷使に耐えるほど異常に丈夫でなければいけない。その飛び抜けた丈夫さがないと、せっかくの強い肩も肘も使えなくなって、野球をやめるしかなくなる。大勢のピッチャーや野手がその運命をたどってきた。尾崎行雄も、杉浦さんも、あの偉大な金田でさえやられた」
「ピッチャーの使いべりというのは避けられないんでしょうね」
「痛みの出ないゆるやかな減り方ならいい。減ったという意識もなく、自分の能力を疑わずに投げられる。ぼくはピッチャーではないのに、左肘をとつぜんやられた。痛んだらもう投げられない。右もいつやられるか怖い。それで肩や肘を護る筋肉を鍛えて、異常に丈夫にすることに決めたんだ。関節はもちろん、からだ全体にも筋肉をつけてアンバランスをなくす。その努力は、プロにいるあいだずっとつづけようと思う」
「遠投百二十メートル以上の肩は、大リーグ級ですからね。あの強烈な肩を見られなくなるのは悲しすぎます。ぼくは神無月さんが左利きだったころも知ってますけど、右と遜色がないくらいいい肩でしたよ」
「でも、鉄砲じゃなかった。右は自分でも鉄砲だという自信がある。中一のときから大人の草野球の選手より速かった」
 そんなことを話しているうちに、二人いつの間にか眠りについた。
         †
 二月十八日火曜日。七時半起床。曇。八・一度。相変わらず寒い。
 太田と喜春の間へ急いでいると、民放局のレポーターが、マイクを握ってこわごわ近づいてきた。
「神無月選手、おはようございます。明石テレビです。少しだけお時間いただけますでしょうか」
 二人無言で立ち止まった。
「どうかお願いします」
「二分」
「ありがとうございます! 聞いたところによると、きのうの夜は、老舗のお好み焼道場へいかれたとか」
「いきました。あそこ老舗だったんですか。すごい歓迎でビックリしました。出るものぜんぶうまかったです」
「サインを書いたら、十一年前の長嶋さんとまったく同じ日付だったんですよね」
「はい、光栄に思いました」
「大型新人同士のえにしですね。めぐる星というものでしょうか。紅白戦や南海戦を拝見すると、打てばホームランという感じですが、ペナントレースでも同じような調子でホームランを打てると思いますか」
「無理じゃないかな。ときどき量産できたとしても、均すと二試合に一本程度になると思います。各チームのエースの球は、そう簡単には打てません」
 広間は騒音に近い賑やかさだ。レギュラーたちが続々入っていく。太田が、
「すいません、食事の時間なんで」
「はい、どうもありがとうございました。またときどきインタビューさせていただけますでしょうか」
「どうぞ、時間があればですが」
「はい、よろしくお願いいたします」
 真ん中あたりのテーブルにつく。メニューは海鮮丼とアナゴ丼。両方食べてもいいことになっている。木俣と新宅が隣のテーブルで笑い声を上げながら声高に話している。二人とも入団五、六年目の二十代半ばの青年だ。新宅のほうが年上だが、木俣の入団が二年早い。木俣が言っている。
「捕手は打てんとあかん。野球の素人の評論家が、キャッチャーはアタマだとよく言うだろ。それは現実を知らんやつの意見だ。実際のところ、インサイドワークがなんぼできたところで、評価に結びつかん。盗塁阻止率がよくて、ボーンヘッドが少なくても、打てんキャッチャーは、いつもベンチから叱られて、ピッチャーの尻拭いをさせられるだけだ」
 新宅が、
「達ちゃんは毎年十本、十五本とホームランを打ってたけど、おととしあたりからホームラン二十本以上、三割近く打てるようになったんだよね。そのことで周囲の対応は変わったかい?」
「おう、ベンチが何も言わんようになった。それまでは負けると、ぜんぶキャッチャーの責任にされてた。どんなにうまくリードしても、ピッチャーがコントロールミスして打たれれば、何であんなところに放らせたとキャッチャーが叱られるんだ。俺はスイマセンと言うしかない。ところが二割七、八分、ホームラン二十本以上打つと、何も言わんようになる」
「野村さんなんかがそうですね」
「うん、あの人はむかしから肩が悪いなんて言われてるが、あれだけ打てば、だれも何も言えんよ。とにかく打てるキャッチャーになると、ベンチを気にしないで大胆なリードができるようになる。スタメンを外される不安がないからな。打てないキャッチャーは、失敗したら外されるという不安があるから、思い切ったリードができない。敵と戦う前にベンチと戦ってる」
「たしかに……」
「とにかく打てるようになれよ。つづけて試合に出ないと、キャッチャーは成長せん」
 どうやれば打てるようになるかと、新宅は質問しない。打撃は才能だとわかっているからだ。入団三年目の新宅は、木俣の控えとして四、五試合に一回ぐらい出場し、打率は二割そこそこ、ホームランは年に数本しか打てない。東都リーグのナンバーワン捕手として入団し、結局、木俣にライバル心を抱かせる起爆剤にしかならなかった。江藤が私たちのテーブルにつき、
「表の宣伝看板、じつによかもんやのう。金太郎さんが総大将の図ばい。ワシらに必要なんはあの図やて、モリミチや利ちゃんも言うとった。金太郎さんば扇の要にして、打って一丸、それで敵なしてな。ドラゴンズちゅうチームは、これまで陽の目ば見てきた生え抜きの連中が多かばってん、戦に敗れて流れてきた平家の落人ごたる気分でおるけんな。隠れとる部落から引きずり出して戦わせるためには、とつけんのうやる気んある背中ば見せて、引っ張っていく総大将が必要ばい。金太郎さんは人の何倍も能力があるのに、自分の力を誇らん、真剣で謙虚な人やけん、ますますみんながついていくやろ。ポスターはそれをよう表わしとったっち」
「丸写真が……」
「だれも気にしとらん。当然の序列たい。ワシらは金太郎さんの家来やけん」
 遠く離れた四方のテーブルのだれも彼もが笑っている。浜野は豪傑笑いをし、島谷も八重歯を剥いてうれしそうに笑っていた。監督やコーチは基本的に選手と会食しない。同じようなものをルームサービスで食っている。太田が、
「江藤さん、きょうの夜、バット振りませんか」
「おお、おまえらがやりたい言うなら、振ってもよかぞ」
「このホテルにはバットを振る練習場がないんですよ」
「ジムもないしな。野球選手にはあまり設備のいいホテルでなか」
 私は、
「ぼくは名古屋に帰ったら、駅近辺のジムを見つけて筋トレします」
「健太郎のゆうたごつ金山にもいくつかジムはあるばってんが、昇竜館にはなか」
「あそこは、寝て食って風呂に入るだけの寮ですよ。俺も金山のジムにかよいます」
「ま、とにかくめしだ。今夜の第一球場やが、頼めば常夜灯をいくつか点けるらしか。ランニングや素振りに不便はなかろうもん。七時半、玄関前集合」
 足木マネージャーが各テーブルを回って、コピーした紙を渡している。
「オープン戦の予定表たい。ワシャいらん。対戦相手も球場も、あとでコロコロ変わる」
 足木がこちらのテーブルにやってくる前にみんなで立ち上がった。
         †
 大観衆に見守られながら、一枝と背中を押し合って柔軟体操をやる。昨夜見かけた二軍選手の話をした。
「常時出場できる選手になるためにがんばってるやつらだ。たいていのやつが鳴り物入りでプロに入ってくるんだけど、芽が出ずにそのまま去っていく。プロにくる九割のやつらはそうだ。あいつらを信用してないと断言するほど確信があるわけじゃないけど、やつらは〈がんばってる〉ふりをしてるだけのサボリ屋だ」
「努力はすべて快適な作業です。だから、だれもが努力してます。その量が多いか少ないかで、努力家とかサボり屋とか言っているだけなんです。努力は才能に比例します」
「まあね。とにかく負け犬だよ。負け犬は少しでも上にいきたくて、代打でも代走でも喜んでやる。利用価値がある。それで飼われてる。虐げられて世間を怨んでるから、詮索好きで情報通だ。二軍コーチの隠してる事情を一軍コーチが聞き出すこともできる。その価値もないと判断されたら、クビを切られる」
「気の毒に。やめたあとはどうなるんですか」
「幸運なやつは、高校野球の監督になったり、プロ野球の審判員になったり、大企業のサラリーマンになったり、自分で店を出したりする。不運なやつはヤクザの用心棒とか、詐欺師、トルコ嬢のヒモといったような転落の人生をたどる。うちの健ちゃんみたいな才能のあるやつはもう一度プロに戻ってくるなんて芸当ができるけど、万に一人だ」
「高校野球の監督や、プロの審判員は、野球への情熱を断ち切れずという感じがしますけど―」
「まあね、サボリ屋じゃなく、単に才能がなかったというだけかもね」


         六十四

 江藤が声をかけたのだろう、夕食後十人くらいがジャージ姿に運動靴で玄関に集まっていた。ぞろぞろと球場に向かう。中に訊く。
「プロ野球出身者じゃない審判員て、だれだれがいます?」
「もとプロボクサーの露崎さん、もと銀行マンの福井さん、そのくらいしか思いつかないな。露崎さんは、日本で初めてインサイドプロテクターを着用した人だ。審判員というのは、肩や肘を壊してプロ野球を数年で断念した人たちばかりだけど、落ちこぼれと思っちゃいけないよ。ぐずぐず二軍にいないでスパッと辞めた人ばかりだからね。球界を去っても、野球への情熱を断ち切れずに拘りつづけたという点が、ただ単にクビを切られてグランドから去ったやつらとは大ちがいだ」
 きょうグランドで一枝と話したばかりの内容だ。
「露崎さん……。プロ野球を経験していようといまいと、クロコみたいな仕事なのに熱心に打ちこんでいる姿がすばらしいと思いました。ほかの審判員の人たちにしても、早くに現役をやめたことに何の臆するところもなく、溌溂と動き回っていました。とにかく服装と立ち姿がキリリとしている。彼らがいないと試合がダレてしまいます」
 服装に拘る高木が、
「審判員というのは、少しでもジャケットやズボンやスパイクが汚れていたりすると厳しく注意されるようだぞ。ヒゲもご法度だ。一年じゅう東奔西走、選手よりもきつい仕事だ」
「キャンプにくるのも決まった仕事ですか」
「そう、公式戦審判の予備練習をするわけだね。ブルペン捕手の後ろに立って判定をしたり、シートバッティングなどに参加する。十二月、一月は長期の休みらしいけど、ほとんど全員、金太郎さんみたいに自主トレしてるんだ。二月から十一月まで。たった一度の休暇は、一週間のオールスター休みだけ。でも、球宴はだれにとってもあこがれの舞台だから、できることなら、休みを取るよりは、オールスター戦の担当をすることを願ってるんだよ」
 一枝が、
「審判員は根っからの野球キチガイばかりだぜ。試合に出てないときは、何千個もニューボールを土で磨くという仕事もしてる。ニューボールは滑るからね。ピカピカ光沢があるだろ。あれが滑りのもとだから、土でこすって削り落とすんだ」
「試合用のニューボールの姿を見たことありませんけど、どこにあるんですか」
 中が、
「各球団が保管してる。試合前に、ホームチームから審判控え室に五ダース運びこまれる。これを審判員が黒土と砂を混ぜたもので磨く」
 高木が、
「とにかく野球が好きで好きでたまらないんだな。選手としては力が足りなかったかもしれないけど、それでも野球に関わっていたいというので審判員になる。難しい試験を突破してね。契約金なんかもちろんない。そのうえ、選手と同じ一年契約だ。とんでもない野球バカの集まりだよ」
「バカがバカに見守られて野球ができるなんて、最高の幸せですね。露崎さんはこの目に収めましたけど、福井さんという人はまだ見ていません」
「まだ入局して十年にもならないセリーグ審判員だ。優秀な人だよ。アウトサイドプロテクターにこだわっていてね、本人が言うには、インサイドプロテクターだと、肩に打球が当たるのを恐れて右打者左打者によって立ち位置を変えなくちゃいけなくなるし、身を守るために自然と捕手に近づいて構えるから、一貫性のあるジャッジができなくなるということらしいんだが、露崎さんなんかインサイドなのに堂々と真ん中後方に構えてる」
「打球も何度か肩に当てて、しゃがみこんでましたね。そう言えば、線審がついたりつかなかったりするのはどうしてですか」
 中が、
「審判四人制の試合は小中高までだね。高校でも公式戦になると六人つく。プロ野球はたまに昼の非公式な試合で四人になることがあるけど、それでもカクテルライトが点くと線審を加えることになってる。キャンプの紅白戦は研修審判ばかりだから、みんなを参加させてるんだ。ボールの重さと大きさどのくらいか知ってる?」
「さあ」
「太田は?」
「知りません」
 菱川が、
「百五十グラムくらいじゃないですか」
「当たり。でも意外といいかげんでね、百四十二グラムから百四十九グラム、外周二十三センチから二十三・五センチ」
 私は、
「もう一つ、ベンチの中に背広を着ている人とジャージやトレパンを着ている人が混じってますけど、どういう人たちですか。まだ一度も口を利いたことがないんですけど」
 江藤が、
「ええ質問や。背広を着とるのは、マネージャーの足木さん、通訳、広報一人やな。広報は球団用の新聞記事なんか書いとる。通訳は足木さんが兼ねとるけん、いまのところおらん。ジャージ着とるのは、トレーナーの池藤さんと助手一人、それからスコアラーたい。スコアラーはネット裏に控えることもあるばい。どういう仕事をしとるかは追々わかってくるやろ」
 第一球場に着く。数を増やして点けたのに常夜灯の効果はほとんどなく、思っていた以上にフィールドが薄暗い。選手たちがシルエットで動いている。江藤が、
「走りとうなったり、バット振りとうなったら、ここにくればよか。スタンドの階段を昇り降りして足腰を鍛えるのもよかぞ。巨人がようやる方法や」
 ストレッチをしてから、太田と右翼ポールへ全力ダッシュ五本。全力バック走五本。へたって横たわる。素振り百八十本。太田はさらに百本。おたがい、ブッ、ブッ、という風切り音が短くするどくなったのを確かめて終了。三種の神器、限界まで。持参したタオルでシャドーピッチング百本。ふと閃いた。
 ―やってみよう。
 左腕でシャドーピッチングをしてみる。痛まない! 十本、二十本、痛まない。片手腕立てを敢行して痛まなかったときよりうれしい。ただタオルを振り下ろしてみて、肩周りの筋肉が貧しい気がした。左前腕も右より明らかに細い。三十本のシャドーでやめる。これを毎日十本ずつ増やしていこう。七年間放っておいた左腕の筋肉を引き締め直そう。
「よし、上がるぞ!」
 江藤の声。中日ドラゴンズは十二球団で唯一、キャプテンという地位の選手を作らないチームだ。音頭をとるのは、適宜、主力選手になる。私は太田の耳もとに、
「ホテルまで走るぞ」
「オッケー!」
 失礼します、と先輩たちに声をかけ、球場の外へ走り出る。園路から街道に出て、ゆっくり走る。
「見てましたよ。さっき左でシャドーをしてましたね。目が熱くなりました。手術した腕を三角巾で吊るしてグランドに上がってきたことがあったでしょう、デブシにもう投げられないと言ったんですよね。みんなに内緒にしてくれって。デブシは内緒にしなかったんですよ。あのときも、みんなで泣きました。関なんか、倒れこんで地面叩いて泣いてました。だから神無月さんが何カ月もしないうちに右投げに替えて戻ってきたときには、みんな驚いてポカンとしちゃって、俺なんか、この世に神はいるんだと信じたくらいです。それなのにまた災難が降りかかって……。青森で怪物になってるって新聞で見たときは、俺、関みたいに畳叩いて泣きました」
「ありがとう。七年放っておいた筋肉を鍛えなおそうと思ってね」
「肘は痛みませんでしたか」
「ちっとも。肩の回転の具合が重いから、追々慣らしていくよ」
「立派だなあ。人の百倍も才能がある上に、並でない努力をしてる。ドラゴンズが優勝しなかったら、ぜんぶ俺たちの責任です」
 優勝……忘れていた。思い出すと同時に、これまで心の隅に希望の形で潜んでいた思いがとつぜん確信に変わった。いや、潜んでいたのは希望ではなく、もともと確信だったことを思い出した。
 ―今年中日ドラゴンズは優勝する。
 ホテルの玄関で、冷たい夜気を深呼吸する。部屋に戻り、ユニフォームと下着を脱いで紙袋に詰め、
「風呂! ぼくが先! まずウンコ!」
 と叫んで便所へ飛びこむ。便意が迫っていた。数秒でいつもの柔らかい下痢便をほとばしらせた。風呂場へいって尻を洗い、からだにシャワーを当てながら、頭にシャボンを立てる。
 新しい下着をつけ、新しいジャージを着る。タオルでシャドーバッティングをしていた太田が風呂場へ飛びこんでいく。私は窓を開け、ベッドにあぐらをかいて彼を待つ。明石公園の暗い繁みと園灯が見える。風呂から上がってきた太田が、
「おお、さむ」
 と肩をすくめたので、すぐに窓を閉める。
「天然だなあ、神無月さんは。いちいちウンコなんて断らなくてもいいですよ」
「そのほうが、勢いがつくからね。何でもそうだよ、口に出すと勢いがつく。ぼくはぜったいホームラン王になる! というふうにね」
「たしかにそういう不確定なことを宣言して、自分を景気づける日本人はまずいないですね。神無月さんは最初から、ホームラン八十本と言ってましたからね。俺は百本いくと思いますよ。……どこへいっても神無月さんには俺たちのようなファンがいますけど、残念ながら少数派です。少数派が心配するのは、イのいちばんに世間のことです。桃太郎が鬼に殺されるという心配です。この世はお伽話のようにはいかないから、そういうことが起きるほうがふつうです。いくら神無月さんが平気な顔をしてても、俺たちがしつこいくらい心配したほうがいい。いつも江藤さんがそう言ってます」
「ふだんの言動を知られたら、異常者として確実に社会から葬られるということだね」
 太田は私の顔をしみじみと見て、
「ちがいます。葬られません。神無月さんとしては、葬りたいなら葬ればいいし、放っといてくれるならそのままそこにいてやるという気持ちでしょうが、それでは俺たちが困ります。俺たちとしては、できるかぎり、くだらない連中に葬られてほしくない。葬られたら、俺たちは神無月さんの存在を喜びつづけることができなくなります。たしかに神無月さんは異常でもなんでもないし、人に求められるから応えているだけのことでしょう。求められなければ応えない。きのうみたいに一日いっしょに行動すると、それがよくわかります。いつもそういう気持ちでいるので、女性関係にしても秘密を背負っているなんて考えてもいない。だからこういう状況は、神無月さんにとって重荷でも何でもないとわかります。ふつうの人間は秘密を抱えて生きるのは重荷なんですよ。心配いりません。プロ野球選手は神無月さんと同様、そんなことを重荷と感じません。プロ野球界にふつうの人間はいないんです。武者揃いです。しかし、その武者も〈その種のこと〉をあえて口に出して自分を景気づけることはしません。へたに世間を刺激するようなことはしないんです。だから神無月さんが〈その種のこと〉を俺たちにしゃべってるかぎりは、葬られることはないと言えます。―俺たちがしつこいくらい心配しなくちゃいけないのは、神無月さんの神がかりの人となりを支持する人びとが少数派だということです。多数派はイジメが基本です。あの手この手で神無月さんを生きにくくするでしょう。でも俺たちが守ります」
 私は強くうなずき、
「守ろうなんてしなくていいよ。障害はぼくのファイトのもとだ。意地悪くするとか、潰すとか、引き摺り下ろすなどというのは、一人のへんな人間より大勢の当たり障りのない人間に価値があるという考え方だよね。―そんなふうに俺たちとちがったことをするなら仲間に入れてやらない、出ていけ―ってね。じつにさびしい考え方だけど、伝統的な集団思考なので、太古からの最強権力だ。敵わない。なるべく多数派の彼らを刺激しないようにして、少数派の太田たちを喜ばせるようにするから心配しないで」
「はい、神無月さんの言動についてはもともと心配していません。たしかに、ほんとにさびしい考え方ですよね。ただ世間には、俺たちや神無月さんの周囲の人たちのように、〈逸れた〉人を偉大だと思う人間もいるので、その一部の人間のために神無月さんを世間の片隅の特別な場所に置いとかなくちゃいけないんです。その一つが野球場です。そこは神無月さんの安らぎの場所ですから。俺たちの中には、神無月さんの特殊な言動をわざわざ世間に知らせるやつはいないので、神無月さんはいつまでもその場所にいることができます。それが江藤さんの言う〈しつこいくらい心配してやる〉ということなんです」
 きょうの練習のことを思った。思いついたらかならず左腕のシャドーをしなければならないと決意した。そんなことぐらいで目を熱くする人間のいる場所に、私はしつこく心配されて安住させてもらっているのだから。


         六十五

 十九日水曜日。七時半起床。窓のカーテンが明るさで目覚める。前後不覚に眠った。寝覚めのときにひどく冷えた。それでも七・六度。
「キャンプもあと一週間です。がんばりましょう!」
 太田の大声ではっきり目覚めた。愉快だ。
「よし、がんばろう!」
 飛び起きる。
「キャンプに入ったばかりのとき、水原監督に、ぼくはスイングが速いから球筋を見極められるって褒められたんだけど、どういうこと?」
「異常にスイングが速いことを無意識に自覚してるからだと思うんですけど、何と言ってもボールの見逃しがすごいんですよ。なぜ見逃せるかといえば、ぎりぎりまで安心してボールを見られるからです。スイングスピードが速ければ、その分スイングの始動を遅らせることができるでしょう? できるだけボールを引きつけ、見極めることができます。並のバッターなら振りにいっちゃうようなボールでも、ぎりぎりまでがまんできるんです。俺たちとはとんでもない差ですよ。しかも神無月さんは、がまんして引きつけてる意識もバットを素早く振り出そうとしてる意識もないんです。先天的にただボールに向かって振り出すんです。足の位置を変えたりするのはたしかに考えてやってますけど、振り出しは何も考えていない。すごすぎる。森下コーチが、神無月さんのスイングスピードは中西以上だ、たぶん日本一だろうと言ってました。俺もそう思います」
 枇杷酒でうがいをし、歯を磨き、顔を洗って、バイキングにいく。納豆、生卵、大根おろし、板海苔、スクランブルエッグ、ウィンナー、肉じゃが、ワカメと豆腐の味噌汁、この具の味噌汁がいちばん好きだ。めしをどんぶりに大盛り。
「神無月さんは変化球を気にしてないですね」
「結果的に打てちゃうけど、気にはなるよ」
「野村さんが帰りぎわにボソッと、天才とは高い確率で変化球を打てるやつのことだって、神無月さんを横目で見ながら言ってました。俺が神無月さんを天才だと思うのは、飛距離でもスイングスピードでも変化球打ちでもなくて、打ちそこないが圧倒的に少ないことです。二十回に一回ぐらいしかありません」
「好球必打。打てないボールは打たないからだよ」
「大きく外れるボール以外、打てないと見きわめることなんかまず不可能です。見きわめができない以上、何千、何万と振って、バットスイングのスピードを増して、当たる確率を上げるしかないですね。神無月さんは一日に何本ぐらいバットを振りますか」
「だいたい、二百本。多くて三百」
「ふつうの人の四分の一くらいですね。だから、振って振って確率を上げたわけじゃない」
「内の低目、真ん中、高目、真ん中の低目、真ん中、高目、外の低目、真ん中、高目と九つのコースを、二十本から三十本全力で振る。たいていの選手は漫然と同じ高さをコースと関係なく何度も振ってる。回数で技能を高めるとでもいうようにね。それじゃ、千本振ってもだめだ」
「……そうか、コースなりに全身の筋肉を連動するように覚えこませればいいのか。スイングスピードを上げるのは限界があるけど、その連動で何十パーセントとかは増える。すごいですよそれ。いつからやってるんですか」
「小四から」
「ウヘェ! そんなちっちゃいころから、コースを考えながら何百回もバットを振ってたんですか。永遠のホームラン王ができ上がるはずだ。神無月さんに比べたら、王さんも付焼刃ですよ。小学校四年からそんなことはやってない。ぜんぶわかった! スイングスピードも速いはずだし、どのコースも飛ぶはずだ。千本も振る必要がない。練習量にかけては人後に落ちないなんて自慢してる人には、ぜったい理解できない」
「ぼくは野球に関しては人一倍努力家なんだ。データ収集などしないで、自分のからだを鍛えて、何の予測もなく、どんな変化にも対応できるようにする。だからぼくのほうに癖はないので、分析できない。データーなんてラクなもので分析されるような選手は一流じゃない。ぼくはその意味で一流だ。ぼくの相手も、一流選手の場合は癖がない。分析できるような相手はデータがなくても打ち砕ける。野村さんが自分でデータと思いこんでるものは、彼自身の直観による洞察力のことだ。あの人はデータなんか駆使していない。傾向を洞察しているだけだ。謙虚な人だから、自分の能力に気づいてないんだよ。それにしても南海戦は楽しかったな。杉浦さんや野村さんの頭の先から足の先まで観察できた。子供のころから知っている大選手と同じグランドにいるだけじゃなくて、戦ったんだよ。信じられなかったな」
「それは俺もです。……でも、いちばん信じられなかったのは、神無月さんがそういう大選手たちをものともせず、宮中のころと同じように楽々とホームランをかっ飛ばしたことです。いつでも、どこでも、同じようにホームランを打つ。きょうその理由がわかりました。俺、胸がいっぱいです」
「さあ、練習にいこうか。きょうは、下の土が固いときのフット・ファースト・スライディングで、手をすりむかない滑り方を研究してみる。長嶋はフック・スライディングが得意だけど、あれは無意味だね。センター方向かショート方向へタッチから逃げるつもりだろうけど、足先にグローブを置かれたら、ただのアウトだ。ヘッドスライディングは、肋骨や首をやられる」
「柴田は手をすりむかないように手袋をしたらしいです」
「手袋はキザだ。美的じゃない」
「神無月さんは盗塁なんかしないから、スライディングに神経を使う必要はないんじゃないですか」
「ギリギリ二塁打や三塁打のときだよ。掌の土手をすりむくことが多い。両手を挙げようかな」
「それもいいですけど、うまく斜めに滑らないと、尻を痛めますよ。あえて滑りこまなくても、中学時代から二塁打、三塁打はスタンディングだったでしょう。ギリギリで走るとケガのもとです。そういうときは進塁しないようにしたほうがいいです」
 名古屋からクリーニング済みのユニフォームがフロントに届いていたので、受け取る。
「こっちでクリーニングに出せばいいのに」
「これをうれしがる人たちもいるんだよ。喜びは奪えないだろ」
「はあ……」
 部屋に戻り、すがすがしい気分で着替える。太田も新品を着る。
「関や、デブシはどうしてるんだろうなあ」
「俺は大分にいっちゃいましたから、あれっきりです。噂も聞こえてきません。やつらが新聞やテレビで俺たちのことを知ってるだけでしょう。そんなもんですよ。俺たちは遠く離れてしまったんです」
「名が出た人間だけが追跡されるのか。悲しいね」
「関は熱田高校で野球やるって言ってましたけどね。デブシは中商の一般入試を受けるって言ってたな」
「惟信高校にいって野球をやってたと和田先生に聞いた」
「とにかくいっさいその後はわかりません。……彼らは神無月さんという最高の野球選手と三年間をすごしたんですよ。それ以上野球をやる必要もないでしょう。振り返ってみれば、みんなむかしの知り合いというだけのことです。さびしいですけどね。俺にしたってたまたまこうして神無月さんとすごせてますけど、そうでなければ神無月さんは新聞やテレビで見るだけの、口も利けない遠い人だったでしょうね。彼らと同じ運命ですよ。あまりのラッキーに、ゾッとすることがあります」
 九時半玄関前に集合。曇り空。二軍から堀込が昇格している。太田に、
「いっしょに入団した三好と竹田の顔を見ないね」
「俺は二軍の一週間だけ見ました。本人なりに一生懸命やってましたよ」
「本人なりか……。アマチュア野球とせっかく訣別して野球漬けになったのに、そんなんじゃプロになった意味がないね」
 宇野ヘッドコーチが、
「あしたは雨だそうだ。きょうは練習のしだめをしておくぞ。球場までランニング!」
「オェース!」
 報道陣も走りはじめる。江藤が張り切って先頭に出る。私と太田が追いかけた。
 球場に着いて、まず左腕のシャドーを五十本。ほんとうに痛まなくなった。左片手腕立て二十本。これはもうすっかり痛まない。カリッ、という幻の音が聞こえる。
 どこまでも空が青い。ウォーミングアップ、ストレッチのあと、レフトポールからライトポールまでの扇形のフェンス沿いに半馬力でダッシュ。ピッチャーたちの走りこみのコースだ。先日バッティングピッチャーをやっていた顔が三人いる。外山博と松本忍と大場隆広だ。同期では浜野と水谷則博が走っている。田中勉と小川は姿が見えないので、屋内ブルペン三人の中にいるとして、グランドのブルペンで投げこみをしている二人を足せば、走っているのが九人だから、一軍登録の投手員数がわかる。十四名。則博に声をかける。
「一軍に昇格したんだね」
「ウエスタンの試合と掛け持ちです。一軍登板はほとんどないと思います」
 カメラマンと並んでぼんやり立っていたトレーナーの池藤に、
「ポールからポールの扇形は何メートルですか」
 と訊く。池藤は、さあ、と言って、中のところに走っていき、走り戻る。
「だいたい百八十メートルだそうです」
 中は柔軟をやっている。板東といっしょに前屈をしている浜野と目が合った。
「おーい、背中押してくれ」
「はい!」
 浜野だけでなく、板東の背中も押してやる。板東のほうが柔らかい。板東が、
「からだは負けんのやけどな」
 浜野が、
「未来のエースのほうをもっと押せ」
「天馬さまに何言うとる。罰が当たるぞ」
 菱川と遠投をしている小野が笑っている。ストレッチをしていた小川が走ってきて、浜野の頭をポカリとやった。
「エースになってから威張りくされ。エースは俺だぞ。金太郎さん、構わんと走れ」
「はい」
 水原監督と田宮コーチが笑って見送った。扇形をジョギングで五往復する。一・八キロ。内野に高木と一枝がいたので、スライディングの練習を申し出る。二人は快く引き受け、木俣に声を投げる。
「了解! 五本ぐらいやろうか。太田、マウンドで実際ボールを持って投球しろ」
「はい!」
「塁審、いってやって」
 一人セカンドへ飛んでいった。リード四歩から始める。もとピッチャー太田の投球は堂に入ったもので、百四十キロ近いスピードがある。私は投げ下ろしたとたんに走った。木俣捕球して送球。一枝タッチ。足がベースに届くはるか前で悠々アウト。五歩にする。高木タッチ。惜しい感じでアウト。六歩にする。一枝タッチ。かなり余裕でセーフ。木俣が大声上げて走ってくる。
「金太郎さん! 盗塁王獲れるぞ。ものすげえ速い。しかし、やっぱり二塁打三塁打以外は走るな。バッティングが疎かになる」
 高木と一枝がうなずく。木俣が走り戻る。もう一度六歩リードで走る。高木タッチ。セーフ。速度の陶酔感。調子づいて七歩にしてみた。太田が本気で一塁に牽制球を投げてアウトになった。スタンドに笑い声が立ち昇った。本番では、チャンスがあったら五歩リードで走って、すれすれ感を味わってみようと思った。
 二、三塁挟殺、いわゆるランダウンの練習のためにレフトの守備位置につく。菱川と二軍からきた堀込が仲間に加わる。去年シーズン中に島野という選手と交換トレードで移籍してきた十歳年上の左利き。南海ではレギュラーとしてかなり鳴らした男のようだ。
「南海からきた堀込さんですね。一軍昇格、おめでとうございます」
「試合に使ってもらってナンボです。まだ昇格とは言えません」
 そもそも中日から交換でいった島野という男は何者なのか。堀込がノックを受けているあいだに菱川に訊く。
「島野という人とはプレイしましたか」
「二年先輩です。三年間俺と半々で使われてました。打率は二割前後で同じくらい、ホームランも俺と同じ三、四本。俺より足が速かったです」
 守備から戻ってきた堀込が、
「私も南海では背番号8だったんですよ。ベストナインを一度獲りましたが、なんせホームランを数えるほどしか打てないもんで、出されました。今年が正念場です」
 菱川がニヤついている。大先輩に語調を改め、
「自分流の打撃を開眼させるんですね。俺なんか、毎年正念場ですよ」
 ランナーを置いてランダウン。残りの塁審も走り出てベースについた。左利きの田宮コーチの鋭い打球が飛んでくる。ランナーが二塁を回って三塁へ走る。中途半端な勢いだ。ゴロを掬い上げ、一瞬のうちに判断して三塁ではなく二塁へ送球する。ランナーが二塁へ手から戻って、アウト。
「すごい肩ですね!」
 堀込がうなる。同じようなゴロが菱川の前へ。ランナー回ってショートの位置までくる。菱川は逡巡して、私と同じように二塁へ投げた。ランナーそのまま走って三塁セーフ。同様のゴロが堀込の前へ。堀込何も見ないでセオリーどおり三塁へ送球。ランナー難なく二塁へ戻ってセーフ。また私へ同じゴロ。ランナーはショートの少し手前。私はショート目がけて走った。ランナーがセカンドへ戻ろうとする。渾身の送球。アウト。木俣がミットを叩いて喜ぶ。内野陣の、
「ナイスプレイ!」
 という声がいくつも上がった。
「ね、マネできないでしょう。野球の神さまですからね」
 それから二人はつづけてランナーをセーフにした。


         六十六

 センターとライトが同じランダウンをしているあいだ、私はベンチへ走り戻って、ピッチャーの室内練習を見にいった。板東と浜野と小野が投げていた。報道陣を背後に、水原監督と小川と伊藤久敏がネットについている。ストレートは浜野がいちばん走っていた。
 室内に入らせてもらい、浜野の背中についてスライダーを、小野の背中についてドロップを、板東の背中についてシュートを観察した。いずれもベースをかすめてよぎる一点を記憶した。外の一角をよぎるボールがほとんどで、最初からよぎらないものもあった。よぎらないものはベースをかする前に外れた。よぎるものは内か外の角をかすめて変化した。「監督、小野さんのバッターボックスに立ちたいんですが」
「おお、やりなさい」
 そばにあったバットを持ち、小野に言う。
「ドロップをお願いします。顔にぶつけるつもりで」
「本気でいくぞ!」
「はい!」
 初球、落ちずに鼻の先を過ぎた。私は少しだけあごを引いてよけた。小野が、
「それが危険球だ。ふつうはオーバーによけるもんだ」
 水原監督が、
「まったく球を怖がらないね。経験の後付けの恐怖心云々より、天賦のものだな。死ぬのが怖くないということだ」
 小川が、
「ピッチャーは攻めようがないな」
 二球目も顔のあたりにきた。するどいブレーキで落ち、真ん中低目でキャッチャーが捕球した。キャッチャーの顔を見ると、朝ホテルの玄関にいた老け面の吉沢だった。彼は立ち上がり、
「あらためて挨拶します。吉沢です。木俣の前の正捕手です。三十六年に近鉄に出され、今年戻ってきました。ブルペンキャッチャーとしてね。今年で引退します。一年間、よろしくお願いします」
 この人が入団式のとき、首脳たちにその消息をなつかしそうに囁かれていた伝説の吉沢だ。
「新米の神無月です。こちらこそよろしくお願いします。いろいろ教えてください」
「じゃ、いまドロップのことが問題になってるようなので、ひとこと。まず、ドロップは見切るだけにして、追いこまれたときのストライク以外は手を出さないようにしてください」
「はい」
 吉沢は、
「小野さん、外のスライダー」
「おし」
 板東と浜野がピッチングをやめて見ている。高低差のあるスライダーが外の角をよぎった。吉沢が、
「小野さんのスライダーは落差があるので、スラーブと言うやつです。いまのはストライク。あの角の一点以外ではバットが届きません。神無月さんは紅白戦でも南海戦でも、常にその一点でボールを捉えてレフトへホームランしてました。すごい動体視力です。でもツーストライクまでにこの球がきたら、手を出さないほうがいいです。打ちそこなう確率が高い」
「はい」
 ネット裏で左ピッチャーの伊藤久敏が見ていたので、吉沢は呼びかけた。小野が上がって伊藤と交代でネット裏についた。
「伊藤くん、速いシュートを頼む」
 左の本格派だ。
「膝、腰、胸と投げてみて」
 膝もとにシュートがきた。内側の角をかすって左ひざの近くを通る。得意のコースなので、一点を見切った。
「一点を見たでしょう。神無月さんのホームランコースです」
 次はベルトのあたりにきた。ど真ん中から急速に切れて内角に食いこんでくる。百パーセントホームランにできる。
「自信のコースでしたね?」
「はい」
 三球目、胸の高さ。真ん中から左肘に当たりそうなほど切れた。これは打ってはいけない。
「神無月さんが考えたとおり、打ってはいけません。右ピッチャーの外に逃げる高目のシュートも打ってはいけません。詰まったフライか、ボテボテのゴロになります。南海戦で唯一の凡打は、これと同じコースと高さでした。右ピッチャーの高目のスライダーかカーブです」
 水原監督がネットに近づいて、
「吉沢くん、金太郎さんはキャッチャーから見てどうなのかね」
 デンスケが二人ほどネットへマイクを差し出す。
「たぶん、高目のシュートやカーブもいずれものにしてしまうと思います。低目はすべて強いので、責めどころがありません。球の見切りがすごいし、シャドーで立っているのにグッと踏み出す初動のスピードが強烈です。高目の変化球や速球も、この初動でジャストミートされたら、ひとたまりもありません。フォアボールぐらいしか逃げどころがないですね」
「つまり、尻尾を巻くしかないね」
「はい。歴代最高のバッターだと思います」
 小川が、
「思うんじゃなくて、断定しろ。将棋やチェスの名人みたいなもんだ。野球の名人だよ」
 私は吉沢に礼をして、ネットの外に出た。水原監督と並んだところをシャッターが切られる。浜野と板東を十球ほど見、その二人と小川、小野が交代したところで、全員に帽子を取って挨拶してからグランドに出る。シートバッティングをしていた。順繰り投げているのは、水谷寿伸、田中勉、若生。いつの間にか観客が鈴なりになっている。レフトの守備位置につこうとすると、半田コーチが、
「金太郎さん、バティング、バティング!」
 と叫んだ。江藤がライト前へヒットを打って、ケージの後ろへ回った。一軍の控え選手がランナー役をしている。田中勉のボールを打つのは紅白戦に次いで二度目だ。ケージに入ると観客が活気づいた。帽子を取ってマウンドに挨拶する。田中勉は無愛想にうなずいた。紅白戦ではレフトの場外防御ネットへホームランしている。
 ダイナミックなフォーム。外角高目のシュートから入ってきた。吉沢が手を出すなと言ったところだ。軽く合わせてレフト前ヒット。観客が、アー、とがっかりした声を上げた。ケージを出て江藤の後ろにつく。
「スラッガーの宿命たい。ホームラン以外はがっかりされてしもうばい。ばってん難しかコースば打ちよったな」
「吉沢さんには打つなと教えられましたが、外角高目の変化球をホームランにできるまで、あそこがきたら打ちつづけます」
 田宮コーチが、
「そのコースは踏みこめないからな。あとボール一つ早く打って、センターへ打ち上げてみたらどうだ」
「それ、やってみます」
 中、セカンドゴロ、高木、ショートライナー、菱川、センター前ヒット、江島、左中間二塁打、一枝、ライトライナー、葛城、レフト前ヒット、太田、レフトオーバーのホームラン、島谷、右中間三塁打、徳武、サードゴロ、江藤、ライト前ヒット。
 若生の番に当たった。外角低目に落ちる変化球ばかりで高目がこない。ツーワン。四球目に遠く外す高目のシュートがきた。田宮コーチの言ったとおり、踏みこみを小さくして、ボール一つ早くセンター方向へフライを上げる感じで強振する。
「おお、いったネー!」
 半田コーチの声。センターの頭上からグングン伸びて、スコアボードにぶつかった。球場中が沸き返った。中が、
「くそボールをあそこまで飛ばすかね」
 田宮コーチが、
「俺のアドバイスだ。くそボールをどう打つのかをな」
 得意そうに笑った。太田が、
「俺も二の二です。さっきのは会心のあたりでした」
 島谷が、
「ぼくの右中間も忘れるなよ」
 江藤が、
「おう、糸を引くようやったのう。ワシャきょうはライト打ちを心がけとる。あと一本で上がるぞ。めしだ」
 江藤は順番を無視してバッターボックスに入り、ライナーでライトスタンドに打ちこむと、意気揚々とベンチへ引き揚げた。
「ようし、昼めしだ!」
 田宮コーチの号令で守備陣やランナーが駆け戻ってくる。場内アナウンスが、
「二時半より練習再開です。フリーバッティングのあと、中、高木、葛城、徳武選手の特打、江藤、太田、島谷選手の特守になります。球場は四時半閉門です。なお、来週二十二日の土曜日は、朝十時より紅白戦を行ないます。それをもってキャンプ打ち上げとなります。こぞってご来場くださいませ」
 ロッカールームにホテルの仕出し弁当が用意されていた。肉、魚、野菜のぎっしり詰まった重箱弁当だった。ほとんどのメンバーがロッカールームに入って食ったが、私はレギュラー数人とベンチの椅子でのんびり食った。中が話しかける。
「今年から東京オリオンズはロッテオリオンズに、サンケイアトムズはただのアトムズに名前が変わったんだけど、めまぐるしいね」
「ロッテは大毎オリオンズ、アトムズは国鉄スワローズというのが、いちばん語呂がいいですね。オリオンズミサイル打線」
 木俣が笑って、
「いつの話じゃい」
「昭和三十三年から三十八年までですね。六年間。九歳から十四歳。ぼくの野球の青春時代です」
「……そうか。三十九年から今年まで大毎は五年間、東京オリオンズだった」
「その五年間、ぼくはプロ野球界の動向をほとんど知りません。太田に聞いて勉強するようにはしてますけど」
 江藤が、
「……胸が痛むばい」
 高木が、
「オリオンズって言えば、榎本さんの変人ぶりがますますひどくなったそうだ。ベンチでずっと座禅組んでたり、試合前に客のいるスタンドに昇って叫んだり、試合後もバット握ったまま泣いてたりするらしいぜ」
 田宮コーチが、
「あの人は天才だからね。天才の気持ちはわからない。金太郎さんみたいにわかりやすい天才だったら何の問題もないのにな」
 江藤が、
「いや、コーチ、榎本さんの求道精神なんちゅうのはわかりやすかよ。禅の精神は合気道を基本とする荒川学校の教えやろうもん。王もその一人たい。金太郎さんは常人の理解を越えとる。なんたら精神ちゅうのがなかけん、わかろうとするといちばんわからんのとちゃうか」
 太田が、
「そうです。俺も理解なんてものは捨てて、ただ尊敬しながらついてってるだけです」
「ぼくは田宮コーチのおっしゃるとおり、単細胞の野球小僧です。ところで、榎本喜八という人は、田宮コーチ、山内、葛城さんと大毎ミサイル打線を担った人ですよね。安打製造機。異様にスイングの速い人で、打球がピュッとライト前に飛んでいく。屈むように姿勢を低くして、バットを寝かせて構えて、どのコースもフルスイングする」
 中が、
「そうそう、打球がラインドライブするんで、ホームランは多くない。十五、六本から二十本」
 江藤が、
「からだがこんまい。百七十ちょい。気持ちもこんまい。バッティングと、給料と、親兄弟のことしか考えとらん。三割打てんと給料が下がるけん、おばあちゃんにラクばさせてやれんちゅうてクヨクヨ気にしとる。そんなことやけん、チャンスに弱かバッターになるばい。個人的には高い打率ば残しとっても、チャンスに打てん。そうすっと今度は、チャンスに打てんのはなしてかと悩むことになる。そげんことで頭がいっぱいやっちゃん。守備にしてからが、捕れる範囲しか動かん怠慢守備になるったい。守備率歴代最高を誇っとるごたるばってん、あたりまえばい。捕れるとこしか捕らん」
 太田が、
「榎本さんは早実のころから荒川さんの弟子ですよね。荒川という人は、打撃精神は教えても、守備精神を教えなかったんですか。怠慢守備はピッチャー泣かせ、チーム泣かせですよ」
 ほぼ全員弁当を食い終えた。



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