七 

「神無月さん―」
「ん?」
「心からお慕い申し上げています」
「だから抱かれたんだよね」
「はい。もう神無月さん以外の男には抱かれません。決めました」
「そういうわけにはいかないだろう。仕事がある」
「とにかく決めたんです。お嬢さんにお話して、それから旦那さんに相談します」
 肩にそっと手を置くと、
「……むかし付き合ってた男とのあいだに子供が一人います。八歳の女の子です。浜松の実家に預けてあります。バンスを返したうえに月二万の仕送りがたいへんで、この仕事をやめるわけにはいきませんでした。でも、百江さんのように厨房に入れてもらうことにします」
「実家が困ってこの道に入ったというわけじゃなかったんだね」
「はい、男に捨てられて……。だから実家には内緒にしてありました。お嬢さんにバンスの残りを立て替えていただければ、そのお金をお嬢さんに月々お返ししながら厨房のお給料でじゅうぶんやっていけます」
「五年前のバンスは?」
「教育費を一括して実家に送るために百万円お借りしました。毎月三万ずつ返済して、ときどき滞らせた月もありましたけど、残り十五万ぐらいです。このまま羽衣にいてもすぐ返せますけど、もう戻りたくありません」
 メイ子は私の萎れたものに気づき、両手で包むと丁寧に舐め、何度もいとしそうに含んだ。
「四年越しの恋が実りました。いまも信じられません」
 ふたたび体積を増した私のものを見つめ、
「たいへん……腫れてしまってます」
「こういう形なんだよ。もう一度しよう」
「はい」
 メイ子は仰向けになった。
「さっきより感じると思うけど、苦しくてもがまんしてね。ぼくの手を握って」
 挿し入れる。アクメの余韻で固くすぼまっているので、射精まで二分もかからなさそうだ。放出を早めるために素早く動く。
「あ、も、イ、イ、イク」
「がんばって、がまんして」
 私はしっかりメイ子の手を握り締める。
「で、でも、すみません、もう、だめ、うううん、イク!」
 メイ子に合わせてグンと射出する。何度か律動して引き抜く。
「クク、イク! あああ、気持ちいい!」
 私はメイ子の引き攣る腹を掌でさすりながら、ティシュを何枚も取って股間に当てる。
「よくがんばったね」
「……つくづく女は底なしですね。すごく恥ずかしい」
 胸にしなだれかかってくる。
「私、四年前、神無月さんに遇うまでは、何か予定があるような気がしていても何もありませんでした。神無月さんに出会って予定ができました。神無月さんといっしょに神無月さんのために生きるという予定です」
 メイ子はむっくり起き上がり、パンティを手に取った。
「お嬢さんとお話してきます」
 下着をつけ服を整えると廊下に出ていった。
 一分もしないうちにメイ子はパジャマ姿のカズちゃんと戻ってきた。カズちゃんはメイ子の傍らに膝を折った。
「メイ子さんたら思い詰めた顔して、何も言わずに引っ張ってくるんだもの」
 明るい表情をしていた。
「私、バンスを一括返済して、賄いさんのお仲間に入れてもらっていいでしょうか。四年も思いつづけていた人に尽くしたいんです」
「厨房はどうにかなるけど、バンスはあと半年だったわね。いくら?」
「十五万円です。貯金でお返しします」
「お子さんは? そのあとどうするの。貯金がほとんどなくなるでしょう」
「もし私のそばにきたいと言うなら、こちらに呼び寄せて、いっしょに暮らします。それでも貯金は少し残ってますし、賄いの給料で何とかなります」
「そういうつもりなら、バンスを返し終わってから、もう少し稼いでおいたほうがいいんじゃない? 思った以上に教育費がかかるでしょう」
「はい。でも、神無月さんのほかの男に抱かれるのがもういやなんです」
「やっぱりそういう気持ちになったのね。……じゃ、四月からアイリスで働きなさい。月八万。ボーナスも出すわ。お家も、アイリスの二階の二部屋が空いてるし、いままでどおり北村の一部屋にいてもいいし」
「ありがとうございます! そうさせていただきます。じゃ、お嬢さんに月々お返ししがてら、アイリスに勤めさせていただきます。あした旦那さんにお許しをもらいにいきます」
「おとうさんには私から言っとく。その十五万は貯金したままにしておきなさい。バンスは私がぜんぶ払っておくわ。〈神無月郷〉に就職するんだから、その支度金よ。お子さんにはこれまでどおり送金すること。子供の環境を変えちゃだめ。いずれ高校でも出たらこちらでいっしょに暮らせばいいじゃない。ご両親もね。あしたから来月まで厨房に入りなさい。もう、キョウちゃんの女として、身持ちをよくしてね。道で顔見知りのお客さんに遇っても、無視すること」
「はい」
「これからは、大人同士、自由な逢瀬を楽しみなさい。でも、キョウちゃんにはたくさん女がいることや、それから、プロ野球はとても疲れる仕事だということを忘れないでね。私たちだって、ひと月、ふた月にいっぺんなのよ。セックスが愛情の中心じゃないってことも全員わかってるわ。だから肉欲に溺れることはないの。抱いてもらえるときは、思い切り愉しむことよ」
「はい……きょうは自分の部屋に戻ります。あしたは朝から厨房に入ります。ほんとにありがとうございました」
 メイ子は畳に両手をついて辞儀をし、廊下へ出ていった。背中にカズちゃんが声をかけた。
「ご主人は?」
 振り返り、
「六年前、女を作って出ていきました。離婚届が送られてきたので、判を捺して送り返しました。それきりです。いまはどこにいるかもわかりません」
「問題ないのね?」
「はい、静岡の農家同士の結婚で、遊び人の三男を押しつけられた格好でしたから。子供は私の実家で引き取りました」
「事情はよくわかったわ。お休みなさい」
 メイ子はお辞儀をして廊下へ出ていった。カズちゃんは彼女の背中を見送りながら、
「何時? あら、もう十一時」
「もう一回風呂に入ろう。からだをきれいにして、グッスリ寝よう」
「素ちゃんと二人で入ってらっしゃい」
「このシーツ、替えないと」
「あしたでいいわよ。私の部屋で寝ましょう。お蒲団三つ敷いておくから」
「ぼくはカズちゃん以外の女に恋ができないようだ」
「死んだけいこちゃんが初恋だったから、彼女にそっくりな私に恋をし直したのも仕方ないことね。と言うより―キョウちゃんの初恋は野球だったのよ」
 素子と二人で湯船に浸かる。窓を開けて、三月の夜気を入れる。温かい湯の中で顔を冷気になぶられるのが快適だ。素子の柔らかい裸体に押されて性懲りもなくいきり立つ。
「日中の最高気温がきのうは七度、きょうは八度、朝方零下になった日が去年の十二月の末から三十日もあったんやて。三月の半ばまで冷えこみがもう少しつづくらしいわ。寒うて、大工さんがたいへんやが。八日がアイリス、九日が新居の新築祝いやよ」
「どんなことするの?」
「八日はお昼どきにアイリスに大工さんや北村の人たちを呼んで、軽い食事会。九日はお昼どきに則武の新居に呼んで以下同文。アイリスではスナック菓子にビール、新居ではお鮨をとるわ」
「ぼくは、東京から九日の夜に帰る」
「忙しいキョウちゃんとは関係のないことやよ。四月の初旬はゆっくりしてね。東京にいく準備はもうできとるの?」
「グローブと特殊眼鏡、それから本を何冊か当座の手荷物で持っていく。それ以外は、あしたホテルのほうに送ってもらう。ビジター用のユニフォーム二着、バット三本、新品のスパイク一足、新品の帽子一つ、一キロのダンベル二個……」
「うちもそういうのだいぶ覚えたよ。野球選手の女房やもん。お姉さんも言っとったけど、ユニフォームやアンダーウェアーは、いちいち家に送り返したり、ホテルに送りつけたりせんでもええみたいやが。試合のあとで専門の業者に出せば、次の試合前の練習開始までにはロッカールームに届いてるんやて」
「味気ないからそうしてないんだ。帽子もクリーニングできないしね。面倒でも、いまのままのほうがいい。用具に愛着が湧く」
「わ、キョウちゃんのオチンチン、ギンギンやが」
 素子はギュッと握ると、断りなく跨ってくる。
「くたくたになるよ」
「うち、回復が早いから、お姉さんのお蒲団でもだいじょうぶ」
「もっとする気なんだ」
「えへ」
 べろべろと私の唇を舐める。舐めながらブルッと達する。何度も繰り返す。
「も、あかん!」
 抜いて、私の胸にもたれかかる。
「ほんとに、やんちゃだな」
 痙攣する背中を撫でる。すぐに回復し、湯船の縁をしっかりつかみながら立ち上がり、尻を向ける。
「……中で出したらあかんよ。出そうになったら抜いてね。飲むで」
 そう言いながら勝手に尻の動きを激しくる。
「愛してる、あ、あかん、すぐイッてまう、あかんあかん、大きなってきた、抜くわ!」
 真っすぐ立ち上がって抜きながら、
「ああああ、イク!」
 放り出された私のものから精液が高く噴いた。素子は振り向いてすぐに咥えこみ、懸命に飲みこもうとする。苦しげに痙攣する背中をさすってやる。
 その日のセックスはそれでようやく終了した。
 カズちゃんと素子と三人、川の字になって熟睡した。
         †
 三月三日月曜日。朝七時半起床。庭に出て素振り百八十本。三種の神器五分。空が真青に晴れわたっている。ふつうの排便、シャワー、洗髪。みんながテーブルにいる座敷へいく。直人を膝に抱く。室温○・四度。静かにしていない直人を女将に預け、主人が読み差した新聞を畳の上で開いた。なぜか早朝出勤をしてきた菅野が覗きこんでくる。

     
天馬弾丸ライナー 看板直撃二本!

 ホームベースからライトスタンドの看板まで曲線が二本、矢印で書いてある。おとといは場外ホームランを打っているのだから、看板までの距離を取り立てて云々するまでもない。ツーアウトランナーなしからの二打席凡退のことは書かず、キャンプの紅白戦から五戦を終えてフォアボールゼロと、三振ゼロ、シングルヒットゼロの記録を異様なものとして載せている。五試合二十三打数十五本塁打、二塁打一、凡打七、打率六割九分零厘。シーズンに入って調子を崩さなければ、八十本、五割を打つことは確実だと断言している。

 水原監督談―苦難多き雲間から降(くだ)った野球神は、地上の白球を通して安らかな新しい棲家を見つけたんです。新しい棲家に安住する新しい自分を見つけたんです。安らぎを得れば、雲間の見え方も変わります。ただなつかしいものにちがいない。しかし戻ることはない。音信はするでしょう。地上を棲家にした天馬神無月郷はみずからの放つ白球が、かつて苦難に満ちていた天空の故郷へ幸福の音信を抱いて飛び立つのを常に見届けようとしています。私たちは悲しみを抱いて地上を翔ける蒼い馬の安らかな追い風になって、彼の追懐の役に立てればと願っています。
 不吉な談話だ。この別の国から降った蒼く輝く馬は、ドラゴンズの優勝を見届けたのち、いずことも知れない苦難に満ちた雲間へ去っていくのだろうか。思わず恐怖感を抱く。水原監督の言うとおり、ほんとうに戻ることはないのだろうか。そうであることを祈る。天上の母国を忘れ、一年でも長く日本プロ野球界に留まってくれることを心から願う。


         八

 千佳子の早い朝食。受験日だ。台所も居間も座敷も、みんなそわそわしている。私もそわそわする。
「菅野さん、これで早くきたの?」
「はい、何かあったら名大まで送っていこうと思いまして」
 女将が、
「なんもあれせんよ。大雨も地震もあれせん」
 親しい者の受験は、たかが受験と思えない。合否に無関心でいられない。ましてや今回は、千佳子も睦子も自分のためというより、私のために合格しようと願っていることがわかっているのでなおさらだ。受験ごとき落ちたっていっこうに構わないし、落ちて私との関係が崩れるというわけでもないのに、どういうものか受かってほしいという気持ちで頭がいっぱいになるのだ。奇妙だ。
「九時四十分試験開始ね? 忘れ物ない? もう一度確認して」
 式台に腰を下ろして靴を履いている千佳子にカズちゃんが言う。千佳子はカバンの中を確かめる。
「筆記用具、受験票、財布、ハンカチ、ちり紙、お弁当、腕時計はしてる。あ、これ、和子さんへのプレゼント」
 薄くて小さい箱を渡す。
「何かしら」
「神無月くんのヒントどおり、スカーフです。めずらしい柄じゃありません。あとで開けてくださいね」
 門まで一家で見送る。菅野、百江、トモヨさんと直人までいる。口々に、
「焦らずじっくりね」
「はい、直人、お姉ちゃんにがんばってって」
「がん、ばっちぇ」
「全力を尽くせ」
 と主人。素子が、
「難しい問題にはこだわらんことよ。みんなできんのやから」
 おトキさんが、
「お弁当は味わって食べてください。消化にいいですから」
「キョウちゃんの笑顔、思い浮かべてね」
 これはカズちゃんだった。私はだだ笑ってうなずいた。千佳子はうなずき返した。
 千佳子の背中が角を曲がって消えると、女将が、
「心配やねえ、和子のときはこんなに心配せんかったのに」
「どうでもいいと思ってたからよ」
「そりゃないわ。椿さんに願懸けにいったんやから」
 居間に戻って、朝食が始まる。おさんどんの中に、百江に付き添われたメイ子が混じっている。きのうまでのトルコ仲間たちが羨ましそうな目で見つめる。祝福の握手をする女もいる。メイ子はいちいち頭を下げて強く握る。菅野が、
「東大と東京教育大の入試が中止になって、ほかの国立大の入試が難化したそうです」
 カズちゃんが、
「それは関東、東北の一期校の話で、東海以西の一期校は、京大、阪大を除いてはそれほど影響受けないでしょう。二人ともラクラク合格よ」
 朝食がたけなわになったころ、文江さんもやってきて、早々とカズちゃんの誕生祝いの宴になった。家じゅうの者が大テーブル六脚に居並んだ。バースデイケーキは用意されない。カズちゃんが断ったようだ。その代わり全員にショートケーキが配られる。直人がさっそくかぶりついた。トモヨさんが、
「おめでとうございます!」
「ごじゃいまちゅ!」
 主人の膝で直人がはしゃぐ。きょうは保育所をお休みにしたようだ。メイ子はトルコ仲間に挟まれてニコニコ笑っている。ビールで乾杯。
「めでたくもないのよ。三十五歳だから」
 菅野が、
「年とればとるほど、ますますめでたくなるんですよ」
「しかし、おまえ、ヘンに若いな。素子と変わらんやないか」
 素子が、
「あら、お父さん、それうちに対する侮辱やわ」
「あんたは、どう見ても二十二、三だよ」
 素子は納得したようなしないような顔で笑う。トモヨさんが、
「みなさん、とんでもなくおきれいです。名大の試験が終わったら遊びにいらっしゃる鈴木睦子さんも、千佳子さんに負けず劣らず、妖しいくらいにおきれいなかたです。神宮球場で、ベンチからバックネットに向かって手を振ったときの顔かたちの美しさは忘れられません。もう齢の話はおしまい。私、十一月で、四十になるんですよ」
 おトキさんが、
「私も、百江さんも今年じゅうに五十になります。この家に十八の年から奉公して三十二年になりますけど、齢のことを思い出したことは一度もありませんでしたし、これからも思い出したくありません」
「俺も十月でトモヨ奥さんと同じ四十になります。神無月さんに遇ってから、齢のことを考えんようになりました。神無月さんには年齢がないから。さっきも新聞に、別の国からきたって書いてありましたけど、ほんとにそう思います」
 主人が、
「たしかに北村に年齢無制限を持ちこんだのは神無月さんや。そうでなけりゃ、この家はいまもじめじめした中古の置屋やぞ。和子、ええ男に惚れてくれてありがとうな。太陽が射しこんだみたいやわ」
 女将が私に深々とお辞儀をした。私も深々とお辞儀を返した。メイ子をはじめ店の女たちもお辞儀をした。
「キョウちゃんが戸惑ってるわ。さ、食べましょ」
 いつものように文江さんと素子が私の脇についた。メイ子が羨ましそうにした。素子が唐揚げを食いながら、
「メイ子ちゃん、こっちきや。いっしょにビール飲も」
 文江さんがメイ子の仕草から悟って、私に訊く。
「抱いてあげたん?」
「うん」
「ええからだしとった?」
「うん」
 メイ子が真っ赤になってうつむいた。文江さんが、
「からだがすべてやないよ」
「わかってます。みなさんを見ていればわかります」
 ひとしきり隣席同士の雑談になった。明るい笑い声が上がる。カズちゃんが、
「あら、上品なスカーフ! 千佳子さん、趣味がいい。スカイブルーよ」
 首に巻いてみせる。
「青森高校と東大とドラゴンズのユニフォームカラーだ。ぼくはその色のユニフォームばかり着てる」
 カズちゃんが、
「ホームもアウェイも白地でしょう?」
「そう。帽子とロゴとアンダーシャツとヘルメットがスカイブルー。ちがうのは、ホームだと胸のロゴが英語でドラゴンズ、アウェイだとローマ字で中日。イメージはどちらもスカイブルーなんだ」
 菅野が、
「千佳ちゃん、考えましたね。それにしても、お嬢さんにピッタリの色だ」
 直人がカズちゃんにすがりついてスカーフを舐めようとする。トモヨさんが抱き寄せて、自分のハンカチを与える。直人はベチャベチャやる。主人が、
「千佳ちゃん、いまごろやっとるな。だいじょうぶかな」
 カズちゃんが、
「心配してもしょうがないの。一科目が終わってるころよ。睦子さんと会えたかしら」
 文江さんが、
「睦子さんて、どういう人なん?」
 カズちゃんが、
「青森高校で千佳子さんといっしょに野球部のマネージャーをしてた人。人間的に不思議な美しさを持ってる子よ。キョウちゃんを追いかけて東大にいって、キョウちゃんを追いかけて東大をやめてきたの。キョウちゃんに迷惑をかけないよう、いつもちゃんと自分の居場所を決めようとする子。今回は名古屋大学を受けることにしたのね。当然、名大模試は一番。人一倍情熱的な子なんだけど、慎ましくて、いつもキョウちゃんのそばにいて見守ってる感じね。あしたの試験が終わったらここに訪ねてくるわ。キョウちゃんといきちがいになるわね。一晩ここに泊まって、あさってアパート探しをするみたい。それが決まったら、東京と青森に順繰り帰って荷物整理。たいへんなスケジュールよ」
 菅野が、
「追いかけると言っても、押しつけがましい追いかけ方じゃないですね」
「キョウちゃんの女はみんなそうよ。百人で見守ろうと、一人で見守ろうと、見守るテンションはまったく同じなの。自分を独立させて、一途にキョウちゃんに寄り添うの」
 店の女の一人が、
「神無月さん、そういう人間関係はうれしくてしょうがないことのはずなのに、あまり喜んでる顔をしてませんね。これから先、そういう信頼関係が崩れて、一人ひとり周りの人間が離れていったら、どうします?」
 主人が、
「××子、それは神無月さんのことを心配して言っとるのか? だとしたら、そういうことはぜったい起こらんで。離れるとしたら、神無月さんのほうや。ワシらに気兼ねしてな」
 私は答えた。
「どんなときもぼくのほうから離れることはありません。でも、人がぼくから離れる離れないといった行動は、ぼくの力ではどうにもなりません。どうにもならないことは考えないようにしてます。考えても、仕方ないですから。見守られるのはこの上なくうれしいことですが、見守られなくなったときに、どう気持ちの折り合いをつけるかは考えたことがない。もともとだれの身の上にも興味がなかったはずだ、自分の身の上にも―そんなふうに考えて折り合いをつけますか? そんなことができるはずがない。興味を持って近づき合ったんですから。それを信頼して何も考えないのがいいです。お父さん、ぼくは感謝こそすれ、気兼ねはしません。気兼ねしていたら感謝できませんから。だれの心も煩わせたくないんです」
「どんな質問にもまじめに答えるんですね。人間を信じてるから?」
「自分の誠実さを信じてるからです。ぼくを信頼して語りかけてくれる人に対して、心の狭い、不誠実な人間になりたくないからです」
 一同が静かに聴いている。
「いい子ちゃんなのね」
 女将が××をするどい目で見たが、私がしゃべろうとしたので視線を落とした。トモヨさんは直人をあやしながら微笑していた。
「いい子ちゃんは心の狭い不誠実な人間です。自分がかわいくていい子ちゃんにしてるからです。気兼ねの究極ですね。そう言う人間は、気を使う分、社会から重宝に扱われて大事にされます。ぼくは八方破れですけど、誠実な人間です。そういう人間は人に重宝されないので、もてあそばれて追放されるという罰を受けます。ぼくのそういう哀れな運命を予感して、親切にかくまってくれてるのが、ぼくの周囲の女性や友人や北村席の人たちです。その人たちに報いなければ、ぼくは人非人になります。だから相手がぼくを求めるうちは、自分も興味を持って求めますが、求めないならいっさい興味はありません。ただ逃げ出すことはしませんけど」
「何に興味があるんですか? 自分が求められること?」
「自分を人から求められるような大した人間と思ってないので、自分が求められることには興味ありません。こんな人間を求める人の人間性と、心に興味があります。その人たちにご恩返しをすることと、持って生まれた自分の才能の行く末にも興味があります」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんをどう突っついてもむだよ。他人が自分に関心を持っていることを奇妙に思って、それをまじめに表現したがってる人だから」
「私が何を言っても、神無月さんの〈取材〉の種にされちゃうということですか?」
「そこまでハッキリした意思はないでしょうけど、少なくとも突っつかれても腹は立てないわね。突っつかれることを〈大したことのない人間〉の当然の報いだと思ってるから。……まったくプライドのない人なのよ」
 トモヨさんが、
「うんと突っついて、納得しておいたほうがいいですよ。郷くんという人がどういう人か百分の一でもわかると思うから。ぜんぜんわからないより、そのほうがいいです」


         九 

 別の女が、それならばという顔で、
「追放されるって、どういうことなのかしら。毎日、新聞やテレビで騒がれて、追放なんかされずに重宝されてるじゃないですか」
「それは、ぼくに野球の才能があるからです。一時的な特殊状況です。それを取っ払ったらぼくがどう日常生活を送るか考えてみてください。すぐに追放です。働きもせず、飲み食いさせてもらって、大勢の女といちゃついて、歌など唄ってヤニ下がっているわけですから。あんた何さまということになります。遠くへ追いやられるでしょうね。それでもカズちゃんのような人たちが褒めちぎり、匿(かくま)い、守ってくれるんです。その形は追放されたあとの隠遁というもので、社会から重宝されている形ではありません。いまは野球があるから、かろうじて、カズちゃんたち以外の人びとに表立った形で重宝してもらってるんです。野球選手でなくなったら、ぼくは重宝されなくなります。重宝されないぼくを庇ってくれる人に、ぼくはかならず報います。底知れない興味がありますから」
 百江が涙を拭きながら、
「神無月さんを愛すれば、おっしゃってることがよくわかるし、疑問は何もかも解決すると思いますよ」
 メイ子がしきりにうなずいている。菅野が、
「女というのは難しいものだなあ。男の目から見て満点の人間でも、疑問が湧くんだな」
 女将がため息をついて、
「女は道徳で生きてるからやよ。こういう仕事についていても、男の不道徳を憎んどるんです。神無月さんのお母さんがそうでしょう? お父さんの女関係を許せんかった。それでお父さんの代わりに神無月さんをいじめた。神無月さん本人の才能もやさしさも眼中にあれせん。この子たちも、神無月さんに入れこまんかぎり、神無月さんのよさは見えてこんやろね。ま、神無月さん、こういう会話も楽しみなさいや。あんたの経験の足しになるやろ。みんなあんたのことが好きなんよ。出会って四年やもの。気の置けない恋人のように思っとるの。でも思い切って近づけんから、憎まれ口利いとるんよ」
 文江さんが、
「憎まれ口利くゆうんは、ふつうの人間に見えてまうゆうことやろね。私も最初、そう思ったもの。仏像さんをじっと見てて、自分と同じ人間やと思いたくなることがあるやろ? あれやわ。キョウちゃんもこういう話をして、人からどう思われているかわかったやろから、油断がなくなるわな」
 主人が、
「それはあかん。油断しとってください。野球に打ちこめんようになる」
 おトキさんが、
「あんたら、不思議がるだけにしときなさい! なに失礼なこと言ってるの。ただ不思議がって眺めていればいいだけの人間がこの世にはおるの。ケチつけるなんて、とんでもない話ですよ」
 ピシャリと言った。
 賄いたちも混じって午前のおやつになった。おトキさんが、
「四月一日から、市営地下鉄の東山線がこのあたりを通ることになったんですよ。亀島駅ができました」
「ふうん、東山線て、どこからどこまで?」
「中川区の高畑から千種区の星ヶ丘までです。中村日赤にも、東山公園にも一本でいけるようになります」
「名古屋の大動脈ができたわけだね。名古屋大学は何駅だっけ」
 菅野が、
「本山駅です。名古屋駅から東山線で八つ目、十六分。そこから徒歩で十五分」
「三十分程度でいけるのか。それなら、睦子はわざわざ大学のそばにアパートを借りる必要はないな」
 女将が、
「ほうよ、北村で暮らせばええんよ」
 カズちゃんが、
「だいじょうぶ、あの子は結局そうなるわよ。それまで思いどおりにさせてあげましょ」
 文江さんが仕事に出、主人と菅野が一回目の見回りに出た。素子も、水仙の手伝いにいってくる、と言って出かけた。私は庭に出て、きょう二度目のバットを振る。直人を抱いたトモヨさんが見守る。片手腕立て、腹筋、背筋、タオルのシャドー。
「ああ、この花きれいだな。スケッチして直人にあげよう。クレヨンとスケッチブックある?」
 塀ぎわの白い花房を垂らしている低木を指差す。
「あります。何の花ですか?」
「アシビ。馬が酔う木と書く。枝や葉っぱにアセポチンという毒があるから、馬や鹿が食うと酔っ払ったようになって、足が萎えちゃうんだ。死なないけどね。一度食うと、学習して食わないようになる」
 阿佐ヶ谷一番街のアシビのママを思い出した。
「クレヨンとスケッチブック持ってきます」
 トモヨさんから直人を抱き取り、馬酔木の花を見せにいく。白いつぼ形の小さい花が総(ふさ)状に垂れている。直人が握ろうとするので、
「葉っぱが毒だからね。触っちゃダメだよ。木の皮も、枝も毒なんだ。白い花はだいじょうぶ」
 直人は私の言っている意味がわからないので、手を伸ばす。怖いので指で触っただけで引き離す。二人で芝に座る。直人の関心が地面の草に移る。美しい子だ。美しいものを見ていると、不安になる。不安なほどの愛情が胸を満たす。母の顔を思い浮かべる。
 ―ぼくを嫌うのはいい。ぼくはそれを背負って生きていくから。でも、あなたも早く味方を得て、現状を抜け出すのがいい。ぼくとあなたの平和のためじゃない。あなたが壊れないためだ。
 トモヨさんといっしょに女たちが庭にやってくる。素子も混じっている。あぐらをかいてスケッチを始める。女たちが横坐りになって馬酔木を眺める。素子が膝前で直人を遊ばせる。トモヨさんが馬酔木の毒の説明をしている。上天気だ。
 庭石を伝って主人と菅野が戻ってきた。二人の姿が小さく見えるほど庭が大きい。芝を踏んでこちらにやってくる。主人が、
「スケッチですか。おお、うまいもんやなあ! このアシビは虫除けに植えたんですわ。十メートルおきに塀に沿って植えてあります。年じゅう農薬と同じくらい効果がありますよ。あー、いい日だなあ」
 伸びをする。玄関からカズちゃんとおトキさんがこちらを眺めている。菅野が、
「羽衣の松葉さんの手下(てか)が言ってたんですが、寺田執行の弟さんが六月に帰ってくるので、神無月さんに伝えてくれということでした。康男さんですね」
「うん、暇を見てこっそり会わないと。マスコミを気にしてくれてるからね。いまでも門の外にカメラがいることがある?」
「毎日です。時間帯はまちまちですが、一日に何時間かは、かならずいます」
「そいつらの隙を狙って、みんなで一挙に押しかけたほうがいいな。菅野さんの車とボルボで」
「そうしましょう。六月に試合が雨で流れた日なんかいいですね」
「うん、それがいいね。カズちゃん、トモヨさん、素子、千佳子や睦子もくるかもしれないな。いやあまり連れていっても迷惑になる。やっぱりカズちゃんだけにしよう」
「はい、それがいいです」
「さあ、でき上がった」
 トモヨさんに渡す。
「わあ、すてき!」
 菅野が覗きこむ。
「ほう! このまま売れますよ。私に売ってください」
「だめよ。私の離れに飾るんですから。ちゃんとした額縁を買わないと。さ、そろそろお昼よ」
 女たちがポンポンと尻や腿の草を叩き落とす。さっき質問した女たちも混じっている。主人が、
「ワシはもう少し日向ぼっこして、庭木の具合を見てからいきます」
 じーじ、じーじ、と直人が甘えかかるので、主人は立ち上がり、手を引いて池のほうへ歩き出した。結局菅野がついていく。トモヨさんに、
「ちょっと散歩してくる。名鉄百貨店の中に丸善あったね」
「はい」
「そこで立ち読みしてくる」
「いってらっしゃい。あまり長居をしないように」
「三時までには帰る」
 下駄のまま、数寄屋門を出る。新聞社の車はいない。牧野公園を右折し、牧野小学校の塀沿いに直進して、ガード下の食堂街の入口に出る。ガードに沿って歩き太閤通口へ。すっかり開けたもとの蜘蛛の巣通りに、もう遣り手婆やギュウたちの姿はない。それでもなつかしい。
 大時計のあるコンコースを抜け、駅前に出る。壁時計のある駅舎の向こうに電波塔が見える。コカコーラ、リンゼイガス器具といった看板。市電道を見ると、左手に名鉄バスターミナルのある日本交通公社、その並びに中央郵便局、市電道を渡って左正面に、アドバルーンつきの森永キャラメルの球形看板を載せた大名古屋ビルヂング(ビルディングではなくビルヂングだ)、たしかこの建物は東京オリンピックのころにはなかった。
 一筋隔てた小ぶりなビルの屋上にナショナルの広告塔が載っている。緑と肌色のツートンカラーの市電が走り、バスが走り、トラックが走り、オート三輪が走り、自家用車が走っている。小学四年。初めてこの街にきたころの景色とどこか変わっているだろうか。右手に鉄矢を掲げた青年の裸体像も、桜通入口の噴水も変わっていない。映画館がぎっしり詰まっている毎日新聞のネオンを載せた毎日ビル、その隣には豊田ビル。どれもこれもまったく同じだ。道ゆく背広姿、学生服やセーラー服姿も変わらない。しかし、どこか違和感がある。やっぱり大名古屋ビルヂングか? いや、車の密度のようだと気づく。
 屋上に名鉄と書いた短い円柱と、名鉄百貨店・名鉄電車というネオン看板、そのほかゴチャゴチャ塔を乗っけた建物に向かう。舗道の角地に、自転車の荷台から二、三本の幟を突き立てて、何やらぶつぶつ呟いている名物おじさんがいる。警告と大書した幟には、びっしり細かい漢字が書きこんである。きっと庶民を叱る文言だろう。
 名鉄ビルの壁面時計の下に、EXPO ’70 万国博まであと×日×時間×分、というカウントダウンのネオンが光っている。隣に近鉄ビル、その隣に名鉄バスターミナルビル。このビルは、名鉄グランドホテルや、名鉄百貨店の新館メルサという意味不明の建物で構成されている。市電で出かけた昭和区の英夫兄さんの家から、何度か母といっしょに車内の薄暗いバスに乗ってこのビルのバスターミナルに帰ってきたことを思い出す。不意に涙が湧いた。底なしの侘びしさ―あのころもいまも、なぜ自分がそのバスに乗っていたのかわからない。だれと話しこむでもない母は、なぜ折につけ私を連れてあんな遠くまで出かけていき、泊まらずに、さびしいバスで帰ってきたのだろう。
 笹島の交差点をひさしぶりに連接市電が通るのを眺める。建物の疎らな灰色の街並に大きなビルがいくつか突き出している。あの方向へは菅野の車でしかいったことがない。左へいけば広小路のビル街。幼いころの名古屋の印象はこの通りの印象だった。
 ―あと五分、坊やのおみやげ名鉄で。
 そんな宣伝フレーズをなつかしく思い出しながら名鉄百貨店に入る。館内案内嬢に書店のある階を尋いてエレベーターに乗る。丸善の専門書コーナーを見て回る。洋書、語学辞典、経済学書、医学書。専門的すぎて、興味が湧かない。それでも客がけっこういる。洋書コーナーにいく。新宿の紀伊國屋で買ったハマトンの原書を一ページも読まずに中介にくれてやったことを思い出した。一般の文学書コーナーへ移動しようとすると、肩をツンツンとつつかれた。振り向くと、金原が立っている。
「よう! 金原小夜子」
 呼びかけて、法子の姉と同じ名前だったことに初めて気づいた。
「野球選手がなんでこんなところでブラブラしとるん?」
 平面的だった顔がふっくらしている。そのせいか、細い目が奥二重になっていた。
「あしたからオープン戦の遠征だから、本でも持っていこうと思って」
「野球しながら読書か。相変わらず天才くんやね。私、本なんかぜんぜん読まんよ」
「本なんてのは、ものを書かないやつのさびしい麻薬だ。ものを書くやつにはただの食前酒だから、飲んでも飲まなくても結局はものを書く。ものを書かないやつがいくら麻薬を打ったって、薬効なんかないよ。中毒になるだけだ。ぼくは中毒者だ。つまり麻薬を買いにきた」
「何も私、そんなこと言っとれせんが。アタマ回しすぎやわ。……憶えとる?」
「何を?」
「偶然遇うことがあったら、抱いてくれる言ったやろ」
「ああ、言った。いますぐいこう」
「やった! 自分の家はいやや」
「十二時を回ったところか。旅館にいこう」
「連れこみ?」
「そのほうがエロチックでいい。世話になってる駅西の家に、三時までに帰らなくちゃいけないし、近いところがいいね」
「駅西の家って?」
「北村さんというタニマチの家だ。そこが名古屋での根城。トルコを経営してる置屋さんの家。いつか花屋で会ったろう、カズちゃんに」
「ああ、神無月くんのすてきな恋人」
「その人の両親の家なんだ。そこから中日球場にかよったり、遠征に出たりする。金原は名大の数学科だったね」
「うん、きょうも数学の本買いにきた」
「法学部と文学部だけど、後輩が今年二人できるよ。いずれ会わせる。大学で親切にしてやって」
「二人とも恋人?」
「そう。詳しい話はいずれするよ」
「詳しい話は聞きたないわ」
「することはちゃんとしてるよ。遠慮はしない。遠慮したら女にすまない」
「女はそういう生きものでもないんよ。でも神無月くんのそういうとこが好き。ゾクッてする」


         十

 コンコースを歩きながら、
「男ひでり?」
「あたりまえやがね。去年の二月の十五日、神無月くんと最後に寝てから一年と一カ月」
「よく憶えてるね! たしか、図書館にいく途中だったね」
「それは忘れたわ。親に言われて結婚でもするまでは、一人の男だと決めとる。それまではだれにも許さんよ。私を女にしてくれた男に操を立てんと。―大学で、神無月郷と寝たゆうたら、だれも信じんかった」
「帰りに写真屋で写真撮ろう。きょうは危ない?」
「危なくない。……法子さんは元気にしとる?」
「東京の荻窪というところでお店をやってる。とんとん拍子に出世して、いまや大ママさん、かつ経営者だ。今年いっぱい商売したら、店を売って名古屋に戻ってくる。神宮前に自分の店を出すんだって」
「みんなすごいがね。私もがんばって大学院くらいいかんと格好つかんわ」
「だれのために格好つけるんだ。勉強が楽しければそれでいいじゃないか」
「相変わらずやね。ホッとするわ」
 蜘蛛の巣通りの裏路地のほうへ歩く。二、三軒それらしき旅館が並んでいる。
「神無月くん、むかしより明るなったね」
「新しい何かが進行中だからだね」
「チームの中心選手になってまって、責任が重くてメランコリックにならん?」
「そうでもないな」
「なってほしい。神無月くんに合う言葉だから。……でも陰のある表情は変わらん。もちろんいい意味でやよ。トラウマの美学というのかなあ」
「そんなに深手を負った覚えはないんだ。自分に深手を負わせたいと思いながら、死というものに真剣に興味を持ってた時期はあるけどね。川上眉山、有島武郎、芥川龍之介、牧野信一、太宰治、田中英光、原民喜、火野葦平……自殺した作家のことを考えているうちに、死が単なる生の無意味な途絶と思えなくなってね。どうして死って、あれほど生きてる人間に影響を与えるんだろうね。伝染病みたいだ」
「風邪よりはきつい病気やよ。もう治ったん?」
「全快だ」
 休憩八百円と看板の出ているいちばん粗末な宿の玄関に入る。出てきた老婆に、
「空いてますか」
 と尋いて、千円札を渡した。
「お釣りはいりません」
「空いとるよ。二階の奥。きれいな部屋やで」
 老婆は金原の顔を見もしなかった。よれよれの上着のポケットに千円札をしまうと、帳場に引っこんだ。
 階段を上って奥の部屋に入った。隣近所が建てこんでいるせいで、窓から光線の射してこない落ち着いた部屋だった。ティシュもちゃんと枕もとに置いてある。
「きっと、ここがいちばんいい部屋なんだね」
「チップあげたね」
「うん。いい部屋に入れてもらえるかなと思って。ああいう人は、そういう実入りで食べてるにちがいないから」
「……こんな部屋でええの? お風呂もないよ」
 蒲団が敷いてあるきり、調度らしいものは鏡台とテレビと小型冷蔵庫だけだった。金原が胸を寄せてきた。
「うれしい、ようやっと逢えた」
「あれ? 少し胸が育ってる」
「うん。肥ったで。……ぜったい逢えると思っとった。丸善で見かけて、信じられんくらい嬉しくて、目まいがしたわ」
 下着に手をやると、
「あ、やば……トイレいってくる」
 金原はあわてて廊下の奥の便所へいった。
 …………
 下着を引き下ろし、一年前より豊かになった腹をさする。くっきりとした割れ目が目に涼しい。すでに包皮からはみ出して濡れているクリトリスに舌を寄せる。金原が両手を伸ばして私の頭をやさしくさする。感激が強いせいか、私の舌の気配を感じただけでたちまち達してしまった。果てて硬くなったものを含む。確かな含み心地だ。腹の収縮がやまない。起き上がって、私のものを咥える。
「夢に見たオチンチンやわ。すぐ入れて」
 四つん這いにして、強く突き入れる。
「熱!」
 そうだ、金原はかならず熱いと発声した。初めて彼女と交わったときの記憶を呼び戻しながら、尻を抱えて腰を動かす。子宮にぶつける。
「熱う、すっごくええ! まだイカんで、まだイカんで!」
 放出の予感があまりにも急なので、奥を素早く突く。子宮周辺の壁も収縮して意思があるように性器全体を握り締めてきた。金原の声が大きくなる。
「やばい、やばい、気持ちよすぎる、神無月くん、あたし、イク、強うイク、イクイクイクイク、イク!」
 放出した。
「うれしい! いっしょにイッた! 神無月くん、好きや、好き好き、愛しとる、死ぬほど愛しとる、イクイクイクイク、イクウ!」
 思い切り律動すると金原は、
「ヒー!」
 と叫んだ。離れようとするので、腿をつかんで引き戻し、さらに奥深くで律動する。もう一度ヒーと叫び、腹と腿と蒲団に突いている両腕まで引き攣らせる。
「またイク、またイク、やばいやばい、あかん、イク!」
 私を奥深くしまいこんだまま、背中を反らせたり腹を縮ませたりする。金原は四つん這いになったままついにぐったりした。私をつかんで離さない膣からそろりと抜いた。ピクンと腹が縮んで、ゆっくり蒲団にうつ伏せに横たわった。仰向けにして口を吸う。泣いていた。
「何十回も夢に見たんよ。今度逢ったらぜったい離れんて、何百回も思った。もう離れん。私、ブスやけど、そばにおってええ?」
「うん、みんなそばにいるよ。しょっちゅう顔を合わせられるわけじゃないけど」
「しょっちゅうでなくてもええ。抱いてくれんでもええ」
「手帳ある?」
 金原は動きの鈍いからだでいざって、バッグから手帳を出した。北村席の電話番号を記して返した。
「それ、お世話になっている北村席という置屋さんの電話番号。十一月までほとんど暇なしで野球してる。どうしても会いたいときは電話してみて。うまく休みの日に当たってるかもしれないから」
「ありがとう」
 そう言うと金原は、私の股間にからだを屈めて、萎れかけた性器を舐めはじめた。いとしそうに懸命に舐める。ようやく精液が流れ出してきた自分の股間にもティシュを当てた。
         †
 人けのない玄関を出た。
「お寺の境内でオシッコジョージョーは野生的だった」
「恥ずかしい! いい気になっとったね、私。神無月くんにあんなことさせて」
「あれがあるから、金原を忘れられないんだよ。愛情というのはそういうものだと思う」
「……死ぬほど好き」
 メイチカの写真館に入り、記念写真を撮る。一週間後に金原が受け取ることにする。
「しばらく、東京、関西、九州と遠征になる。今月末の土日は中日球場だ。時間があれば観にくればいい」
「うん、いってみる。信也先生死んだの知っとった?」
「うん、紀尾井に聞いた。あいつ、名工大を中退してね。早稲田を受験しに東京に出てきて、吉祥寺のぼくの家に寄った。横地も自殺したらしいね」
「うん。かわいい子やったね。―失恋やったらしいわ」
「よっぽど惚れたんだね。惚れて別れたら、死ぬしかない。女が殺したんだ。ぼくは一人の女も殺さない」
「私も神無月くんを殺さん」
 盃形の台座に立つ青年像の前で別れた。私がコンコースの人混みに消えるまで、金原は手を振りつづけていた。
 ちょうど早番の女たちが出払い、遅番の女たちは部屋でくつろいでいる時間帯だったので、賄いも手空(す)きで主人夫婦と菅野と菓子などつまんでいた。
 遅い昼食を菅野ととった。鮭の切り身とウィンナー炒めとケンチン汁。主人が、
「巨人が近鉄に二連敗ですよ。大洋が西鉄に二連勝」
「ロッテは?」
「阪神に一勝一敗」
「ロッテの主要なピッチャーをザッと教えてください」
「いつもの予習ですな」
 主人は天井を見上げ、
「坂井、アンダースローの速球派。成田、人間じゃ打てん言われとる高速スライダー。小山、阪神からきたコントロール抜群のピッチャー」
「あの小山か。芥川也寸志にそっくりの」
「はい、あの小山正明です。もう三十五歳ですが、まだまだいけるでしょう」
「天覧試合の先発ピッチャーでしたね。七回、王に同点ツーランを打たれて、四対四になったところで村山に交代した」
 私は小山をマウンドに立ててイメージする。
「そうでしたね。昭和三十四年六月二十五日。ちょうど十年前か。金田は国鉄時代の十五年で三百勝を達成してますが、小山は阪神十一年間で百七十勝。五年前に阪神から東京オリオンズに移って以来百七勝。三百勝が近いですね。昭和三十九年に山内一弘との世紀の大トレードでオリオンズにきたとたんに、三十勝、二十勝、二十勝だもの」
 菅野が、
「おととしのドラフトで、すごく球の速いやつ採ったでしょ。福山電波から」
「ああ、村田兆治か。今年、調子いいって噂だな」
「木樽もいますよ」
「忘れとった。銚子商の木樽。シュートピッチャー。去年は故障で冴えんかったが、今年はバンバンやるやろ。プロ球界ナンバーワンの美男子と言われとるけど、神無月さんにお株奪われたな」
 玄関に、ただいま! と声がした。二階からダダダダと地響き立ててカズちゃんが降りてきた。
「どうだった!」
「数学ほとんどできました!」
 離れで茶を飲んでいたトモヨさんとおトキさんも、直人を連れて出てきて、
「よかった、よかった」
 と言いながら抱き締める。私も菅野も握手した。
「機動隊がいたんで、ビックリしちゃいました」
 主人が、
「全国の国立一期校の入試にいっせいに出動したみたいやで」
「そうだったんですか。東大入試中止の影響ですね。私、法学部の受験会場だったんだけど、お昼にキャンパスでムッちゃんと遇って、いっしょにお弁当食べました。きょうは数学と国語と理科。ムッちゃんは三科目ともブッちぎりみたいだけど、私は数学がのできがよくて、国語と理科はまあまあでした」
 カズちゃんが、
「睦子さん、さすがねえ」
「ムッちゃん、文学部に特待申請できる成績で受かると思う。たぶん一番じゃないかな。あしたは英語と社会。油断しないでがんばります」
 おトキさんが、
「ヒヤムギ食べなさい。エネルギーすぐ溜めないと」
「いただきます」
 ヒヤムギをすする千佳子を主人夫婦がやさしい微笑を浮かべて見つめる。
「わが家に名大生が誕生するんやな」
「まだわかりません」
 カズちゃんが、
「わかってるわよ。ムッちゃん、あした遊びにくるんでしょう。三時過ぎにキョウちゃんが出発だから、ちょうどいきちがいね。残念ね」
「三月末に逢えます。本人もそう言ってました」
 直人が、オショバ、オショバと要求する。はいはい、とトモヨさんが直人の分を仕度する。小皿に五、六本、タレを少しかけてやる。小さなフォークに巻きつけて口に含ませる。
「ごちそうさま。社会科の見直しをしておきます」
 千佳子が去ると、カズちゃんが、
「用具やユニフォームをぜんぶ宅配でホテルのほうへ送っておいたわ。あしたの午後には届くって。新幹線で大荷物なんか持っていくことないわよ」
「ありがとう。助かった。素子に聞いたよ、専業の用具配達業者がいるって。でもいまの形がいちばん不安がなくていいんだ」
「わかってる。私も素ちゃんに聞いたわ。慣れてしまえば、席の女の人たちの励みにもなるし、いままでどおりにしましょう」


         十一

 縁側に出て、早春の花を見つめる。うとうとしてきて、腕枕でごろりとなる。水仙から戻った素子がやってきて、膝を貸す。
「きょうは三時間ぐらいしか手伝わんかった。気の毒なくらいお客さんがこんの。バイト代いらんから特性カレー食べさせてって言って、ごちそうになってきたわ。帰りにアイリスの二階の自分の部屋見てきた。ブルジョアやわァ。六畳、八畳、きれいな流し、タブの風呂もついとる。こんなに幸せでいいんかなあって思う。キョウちゃん、出会ってくれてありがとう。―愛しとるよ」
 素子の手を握った。カズちゃんがやってきて、
「東京から帰ったら、則武の家の引っ越し終わってるわ。北村の納戸部屋から移すだけだから」
「いよいよやね。お姉さんたちの愛の暮らし」
「みんな愛の暮らしでしょ。みんなが出入りする家よ。十二日、十三日の阪神戦と広島戦は則武の新居から出かけてね」
「うん」
 菅野もやってきて、
「ランニングするときは、かならず声かけてくださいよ」
「うん、ホームで試合がある日の朝は、かならず」
「三月の末から四月の初旬にかけて、出かける予定はありますか」
「四月の第一土曜日に加藤雅江の家に一泊、曜日はわからないけど、ここに遊びにくる法子といっしょに神宮前の店に顔出しにいった日に一泊、睦子の新居に一泊、その三つを予定してる」
「わかりました。ぜんぶ送っていきます。中日球場への送り迎えもかならずやります」
「だいじょうぶ。名駅からたった一つとわかったから」
 居間から父親が、
「あかんあかん、電車の中でファンに囲まれて疲れてまうわ。菅ちゃんの新しい仕事は神無月さんの送迎と決まったんや。車でいかんとあかん」
「わかりました。感謝します」
「これだ。自分をだれやと思っとるんですか。国の宝ですよ」
「ね、黙ってまかせとけばいいんですよ」
 菅野は満足そうに笑うと居間に引き揚げた。
 口々にただいまと言いながら、早番の女たちが四、五人帰ってきた。女将が一人ひとりに、お疲れ、とねぎらいの声をかける。直人が大声で、
「おちゅかれ!」
 と言う。みんなに頭を撫でられる。何に疲れて帰ってきたかを知る年齢になれば、複雑な気持ちになるだろう。カズちゃんとトモヨさんがお茶の用意をする。賄いたちが腰を上げ、夕食の支度にとりかかる。
「お風呂、お風呂」
 トルコ嬢たちが固まってドヤドヤと風呂場へいく。さまざまな汚れがからだに貼りついているのを早く洗い落としたいのだろう。私に膝を貸していた素子が、
「ほうや! いますぐ千佳ちゃんとしてあげて。お姉さんに言われとったんや。試験に出かける前に、千佳ちゃん、お姉さんと約束しとって」
「なんて?」
「帰ってきたらすぐ抱いてくれるようにキョウちゃんに頼んでって。はしたないから自分じゃ言えないって。お姉さんからキョウちゃんに伝えるよう言われとったのを、すっかり忘れとったわ。千佳ちゃん、サッと部屋に帰ったでしょう。すぐいったげて」
 私は立ち上がり、急いで二階へ上がった。こういうことは連続するものだと認識を新たにした。
 二階の廊下は広いT字になっていて、六畳八畳とりどりに左右に四室ずつある。六畳には一人、八畳には二人住まっている。T字の突き当たりは二戸つづきの便所で、左は蒲団部屋を兼ねた大きな納戸、右は廊下を挟んで左右に三戸並びの六畳部屋だ。二階だけで納戸を含んで十五室ある。空き部屋も多い。千佳子はT字の首右の八畳に住まっていた。戸を開けると、蒲団が敷いてあり、机に向かっていた千佳子が立ち上がって抱きついてきた。
「何カ月も待たせたね。いま素子に教えてもらったばかりだ」
「キスして」
 舌を絡めてキスをする。
「朝から濡れてて、困りました。中に出してくださいね」
「うん」
 上着を剥ぐと、下着をつけていない。スカートを引き下ろすとこれも裸だった。
「しばらく、じっくり見たことがなかったから、よく見せて」
「はい」
 見るたびに、カズちゃんと瓜二つだと思う性器が目の前に展かれる。丁寧に舐めていく。片手を差し出すので、指を絡ませた。
「……愛してます。とてもいい気持ち。がまんします、強くイキたい、ああ、がまんできない、神無月くん、もうだめ、うーん、イキます、イク!」
 包皮を全開して膨張させる。痙攣しているうちに、私も全裸になり、気づかれないようにそっと挿入する。千佳子は瞬時に気づき、
「あああ、神無月くん、イク!」
 カズちゃんと同じように連続のアクメが始まる。三回、五回とつづくことがわかっている。カズちゃんの反応だと思いながら、一度一度をいとおしむ。
「好ぎだ、好ぎだ、愛してる、ああ神無月くん、もうイゲね!」
 痛みを伴う射精をした。千佳子は両脚を私の腰に巻き、陰阜を打ちつけながら烈しい反射をする。私は尻を抱き寄せ、口を吸い、律動を繰り返す。千佳子はそれに合わせて達しながら強い圧力で握り締める。すべての精液が搾り出される。すがすがしい。千佳子の尻の硬直が止み、反っていた胸が蒲団にゆっくり降りる。安らぎのときが訪れる。
「ありがとう。お腹も頭もスッキリしました。……お昼にムッちゃんと話しました。神無月くんは私の命です。神無月くんに遇わなかったら、高卒で働いて、だれかのお嫁さんになって、子供を作り、その子を後生大事に育てて、いっぱしに世の中を知ったような顔をして、年とって死んでいったろうって。才能の輝きとか、愛の言葉とか、人間の心の奇跡になんかぜったい気づかないで死んでいったろうって。神無月くんが死んだら生きる意味はないので、すぐに死ぬって誓い合いました」
 胸に強く抱きしめた。
「ありがとう。ぼくは死なないよ。みんなに長生きしてもらうためにね」
 すがりついてきた。
「もう一度できる?」
「……できません」
 恥らうように笑う。
「するときはいつも、二回って思うんですけど、いざ一度してしまうと、二度目はできません。満足し切っちゃうんです」
 カズちゃんと同じだ。カズちゃんと二度つづけてしたことはない。
「あしたも油断しないでがんばってね」
「はい、社会科は得意科目だから、だいじょうぶです。神無月くんも、ぜったいケガをしないように」
「カズちゃん、プレゼントすごく喜んでたよ」
「和子さんが喜んでくれるのがいちばんうれしい」
 しっかり厚着をして机に着いた千佳子にディープキスをして、部屋を出る。台所の夕餉の準備が佳境に入っている。主人と菅野が出納簿に向かって女将の説明を受けている。トモヨさんも無理やり覗きこまされている。有り高とか、差引き残高とか、専門的な用語が聞こえる。菅野が、
「収入金額、支払い金額、差引き残高の三つですね」
「そう、それを計算して納税額をはじくのは税理士だから心配しなくていいの」
「文具、町会費、葉書、切手、印紙、ははあ、タクシー代、新聞代、トイレットペーパーなんてものも支払い金額に書くんですね」
「そう、何もかも。領収書もぜんぶとっておかなくちゃあかんよ」
「バス代、電車代なんか領収証がないでしょう」
「長距離は窓口で領収証を書いてもらい、近距離は金額を記入するだけでええんよ。トモヨもよく見といてな」
「はい」
 直人が女将の背中に這い上がって、両腕で首を巻く。
「ほいほい、直ちゃん、おとうちゃんがきたよ、いっといで」
 私が座敷に入ると、あとを追ってきたので、腋を抱え上げて高い高いをしてやる。キャッキャと言って喜ぶ。唇を寄せると、ブチュッとキスをしてきた。おトキさんが台所から覗いて、
「危ないですよ、だれにでもブチュッとやりますから」
 賄いたちがケラケラ笑う。百江が、
「いましか源氏の君にはキスをしてもらえませんよ。せいぜいいまのうちにおこぼれをいただかないと」
 またみんなでケラケラ笑う。炊事手伝いをしていたカズちゃんが、
「キョウちゃんより濃厚なキスをするわね」
 ドッと笑う。トンカツのにおいがただよう。大掛かりに何かを炒める音がする。ケチャップのにおい。
「ナポリタンだ!」
 私が叫ぶと、縁側で寝転んでモード雑誌を見ていた素子が私を振り向いて正座し、
「キョウちゃんの大好物やね。うちもや」
 夕食をとって出かける遅番組が、においに釣られて降りてくる。厨房から出てきたメイ子が素子に寄っていく。
「あらメイ子ちゃん、もう台所は慣れた?」
「はい。朝六時半から夕食の後片づけが終わるまで」
「たいへんやなあ」
「そうでもないんです。炊事、洗濯、掃除、とにかくからだがラク。毎朝起きるのが楽しみです」
「給料は?」
 素子の声が小さくなる。
「お嬢さんが旦那さんに口添えしてくれて、月八万円。四月から約束してくれたアイリスのお給料と同じです。おまけに、いままで払ってた食費と部屋代がタダ。じゅうぶん子供に仕送りできます。子供も高校出るまでは祖父母のもとにいたいと言うので、せっせと仕送りすることにしました」
「よかったねェ。うまくいったやないの。せいぜいキョウちゃんに逢えるのを楽しみに働きや」
「はい。ありがとうございます」
「うちも、アイリスの二階の部屋見てみたけど、ええでェ。御殿みたいやよ。はよ住みたいわ」
 私は磨くグローブもスパイクもないので、正座している素子に並んで横たわり、脇腹に直人を乗せて遊ばせる。
 夕食はナポリタンを二皿食った。トンカツは一人前七、八切れもあったので、カズちゃんや千佳子たちに分け、三切れだけ。それでめしを一膳食った。直人はまだトンカツは無理だ。ふりかけを散らしたオモユを主食に、スパゲティの麺を数本食べた。
 食後、主人と菅野が二度目の見回りに出かけ、直人を裸にしたトモヨさんといっしょに、女将もカズちゃんも素子も千佳子も風呂へいった。
 下駄を履いて散歩に出る。門の外に新聞記者も宇賀神もいない。旅先か、名古屋市内でイベントのあるときでないかぎり、宇賀神は現れない。東京には確実に出没することになる。雲のない空に満月が浮かんでいる。こんなきれいな月を見ることは年に何回もない。おのずと文江さんの塾の前にくる。
 五時で仕事じまいの文江さんは、前リボンの茶色いミディスカート姿で、庭木にジョロを傾けていた。
「文江……」
「わァ! キョウちゃん、きてくれたん? 週に二度も三度もきてもらえるなんて、これっぽっちも期待しとらんかった。ビックリしてまった。いつも年に一度の七夕さまみたいな気持ちで待っとるのに、調子に乗ってガッツイた気持ちになってまうわ。あした出発でしょう。今夜は早よ帰らんとね」
「まだ六時を回ったばかりだよ。月を見ながら散歩しよう。椿神社のほうへいこうか」
「すてきやね。いこ」
 文江さんはジョロを玄関脇に置いて、道へ出てくる。空を見上げながら、椿神社まで歩く。 
「文江さんの誕生日、尋いたことがなかったね」
「ほうやね。大正七年三月一日」
「え! カズちゃんの二日前?」
「はい。きのう五十一歳の誕生日をいっしょに祝ってもらったようなもんです」
「若いね。ぼくに吉祥寺の家をくれた菊田トシさんという人は、六十二歳だ」
「五十一は若くあれせん。あと何年もキョウちゃんと生きられん」
「病気をすると長生きするって言うじゃないか」
「長生きはいいんやけど、女としてってことやがね」
「そんなこと重要かな。このごろ、あまりセックスそのものを重要と思えなくなってきたんだ。生きてるかぎりきちんと肉体を活動させることが重要で、四十歳ぐらいまでの若い肉体は、単なる旬のものとしか思えなくなった。旬は華々しいけど、旬でなくても滋養がある」
「キョウちゃんの付き合っとる人はお婆ちゃんが多いから、そんなふうに年寄りを傷つけん考え方になったんやね」
「若い肉体か……。からだが萎びたって、若い精神があれば、一瞬の肉体に数十倍する永遠の人生が保証されると思うけどね。永遠と言っても、高々七、八十年ぐらいだろう。ぼくたちが出会ってから三年しか経ってないよ。八十歳まであと三十年もある。びっくりしない?」
「キョウちゃん! ありがとう。ほうよね、歩きつづけてればぜんぶうまくいくんよね」


         十二

 通りゃんせのメロディが流れる信号を渡り、則武の椿神社の入口に着く。音響信号機は十年前、名古屋で初めて設置されたと、いつか菅野が言っていた。メロディはほかに、故郷の空、赤とんぼ、お猿のかごやなどを聞いたことがある。
 椿神社の境内は少し細長く、桜の古木に覆われた鳥居をくぐると、その名のとおり椿が目につく。短い参道の正面が、左右に狛犬を据えた拝殿になっている。大石を穿った窪に水が溜まっている。小さな瓦屋根の社があり、柄杓も置いてあるので、おそらく手水舎だ。賽銭箱の上に蛍光灯が点り、薄暗い境内に猫がウロウロしている。見回して、坊のない無人の神社だとわかった。
「この近くに流れてた笈瀬川に河童がいたって伝説があるんよ」
「それって、笈瀬通りの笈瀬?」
「そう。この通りがむかしは川やったのね。西高の正門の前の通りも、ずっと笈瀬通りやよ。ここは伊勢神宮の外宮ということになっとるから、笈瀬は《お伊勢》の意味」
「はあ……。で、河童がどうしたの」
「子供に化けて子供といっしょに水遊びしたり、溺れそうになった子を救ったり、武士をからかって懲らしめられたり」
「かわいらしい伝説だ。文江がしゃべると似合う」
 エイを縦に泳がしたような大岩がある。何やら碑文が彫られている。
「松井石根(いわね)大将が、南京に入城したときに作った詩が彫られとるんよ」
「松井石根か。一九三七年、南京大虐殺……東京裁判……死刑。たしか、彼が指揮したわけじゃなく、部下が勝手にやったと日本史の教師が言ってたな。松井は虐殺の事実を知らずに、何十人かの兵士が婦女暴行という恥ずべき行為をした程度に受け取って、翌日演壇から部下たちの不謹慎を叱ったら、そいつらが笑ったらしい。恐ろしいね」
「松井大将はここの牧野村出身やと。裁判で戦犯扱いされるまでは、偉人の碑としてここに建てられとったけど、死刑判決が出たもんで、関わり合いになりたくない人たちが中村公園の池に投げこんだんやと。結局あとで引き上げて、ここにまた置かれたんやけどね」
「文江さんもすっかり駅西の住民になったね。なんだかうれしいな」
「聞きかじりやよ」
 腕を取り、引き返す。もときた道を歩く。円い月が空にある。
「もうぼくはずっとこっちにいるわけだから、なんだか気がラクだね」
「ほんと。お別れがない感じ。うちでそうめんでもすすってから帰ってね」
「うん」
 名古屋駅あたりのビルのネオンが夜空に浮き彫りになっている。浅野とこの道を往復していたころ、空を見上げたことはなかった。
 文江さんと二人でそうめんを一鉢食ったあと、見つめ合いながら、二枚の座布団を敷いて交わった。傷跡のあるすべすべした腹や、しっとり掌に吸いつく尻を撫で回しながら射精した。
「……ぜんぶオトギ話やわ。とっくに生理がおわっとるお婆ちゃんをこうやってかわいがってもらえる。……ありがと」
 九時に玄関に見送られ、月の下に出た。やっぱり北村席の門前まで送ると言って、文江さんが追ってきた。
「やることが親子そっくりだね。節ちゃんもよくそうやって送ってきた」
「節子も回り道したけど、幸せになれてよかったわ。何かのまちがいでキョウちゃんの子供ができたらええなあて思っとる」
「節ちゃんが望むなら、いいことだね。文江さんにもかわいらしい孫ができるし」
「うん。ただ、未婚の母やと、病院におれんようになる。私が稼いどるから、病院辞めても問題はないけどな」
「ぼくにも給料があるからだいじょうぶだよ。子供は認知する。ただ、ぼくはだれとも結婚しない」
「わかっとるよ。たくさんの女と結婚しとるようなもんやから。キョウちゃんからはぜったい援助してもらわんよ。キョウちゃんはもともと、一家を構えん人や。そこがたまらんほど好きなんよ。おかげで心もからだも満足させてもらっとるんやから」
「からだの満足は重要?」
「とっても」
「ぼくができなくなったら?」
「それはそれで別の愛情が湧くわ。ぜったい別れん」
 門の前で手を握り合って別れた。庭石を歩いていると、玄関までおトキさんが出てきて迎えた。
「長い散歩でしたね」
「うん。ごめんね。文江さんのところに寄ってきた」
「コーヒーを一杯飲んで。お風呂に入るなり寝るなり……」
「おトキさん」
「はい?」
「なんでぼくはこんなに精力があるんだろうね」
「精力じゃなく、若さからくる好奇心だと思います。山口さんも一晩に五回も六回も抱いてくれることがあります。でも一人の女に毎日そんなことしていたら、好奇心が枯れてしまいます。たまになので、そういう芸当もできるんでしょうね。神無月さんの場合は、ほとんどひっきりなしに何人も相手にしてるわけですから、一人ひとりの女のからだに飽きずに興味を惹かれてないと、いくら精力があっても無理です。一人ひとりの感じ方やイキ方がちがうでしょう? それに興味がなくなったら、急に醒めてしまうでしょうね。醒めないのは、精力があるからじゃなく、興味があるからですよ。とにかく、一人の女と一度に五回も六回もというのはいくら神無月さんでもできない相談です」
「カズちゃんとは何回でもできるよ」
「好奇心以上に愛があるからです。そこが神無月さんのえらいところです。もちろんみなさんを懸命に愛していらっしゃるんでしょうが、全身全霊かけて愛する人を一人、心の中にしっかり守り抜くことはなかなかできるものじゃありません。お嬢さんもそれがわかってらっしゃいます。神無月さんが自分だけを愛していて、だれにも奪われないということが。……お嬢さんは、神無月さんが死んだらすぐ死ぬでしょう。たぶん、山口さんも死にます。私はいつもそのことを覚悟しています。不思議なくらい明るい気持ちで覚悟してるんです。山口さんが死んだら、私も死にます」
 コーヒーを飲み終えた。
「あしたから九日まで六日間、東京遠征ですね。うんとホームラン打ってくださいね。十二日、十三日の中日球場の試合は、旦那さんにおねだりして十三日の阪神戦に連れてってもらうことになりました」
 十畳の納戸に寝泊りしているカズちゃんの戸を引いて入ると、パジャマ姿の彼女が乱雑に積んである段ボール箱の陰から出てきた。本を読んでいたようだった。
「私とセックスするつもりできた顔ね。うれしいわ。どこかに寄ってきた?」
「文江さんのところ」
「千佳ちゃんとしてからでしょう?」
「うん」
 金原のことは言えなかった。
「だいじょうぶ? 無理しなくていいのよ。ちょっと見せて。腫れてたらやめましょう」
 私を裸に剥いて、仔細に調べる。
「赤いわ」
 廊下の外れの洗面所にいき、濡らして絞った冷たいタオルを持ってきて、私のものを包みこむようにする。
「気持ちいい?」
「うん」
「ここはお蒲団まみれだから、適当に敷いてこのまま寝ましょう」
「うん」
 部屋の隅に蒲団をとる。裸になったカズちゃんがピッタリ抱きついてきた。たとえカズちゃんが相手でも、快楽に対する怠惰な気持ちがどこかにあり、ランニングや三種の神器といったからだの鍛錬ほど切実な希求感がなかった。それなのにカズちゃんの肌のぬくもりにひどく満たされていた。不思議な感覚だった。置きっぱなしの机や書棚やステレオ装置を眺める。
「しばらくステレオ聴いてないなあ」
「もうすぐ聴けるわよ。今度東京から戻ってきたら、新しい家の洋間にちゃんと置いてあるわ。電気屋さんに接続してもらっておくわね」
「うん、楽しみだ」
 脈絡もなくセドラのアヤを思い出した。顔が浮かばない。連続する幻灯画のように青森の港の薄暗い部屋の売春婦の顔が、阿佐ヶ谷一番街のアシビのママの顔がボンヤリ浮かんだ。どの顔も明確な目鼻立ちを思い浮かべられなかった。
「本もだいぶ読んでない。読書が生業(なりわい)じゃないのに、心のどこかで焦ってる。文章もまったく書いてない。いつ書き出すんだろう」
「厄介な問題ね。当分、机に集中する時間はないわ。新しい家で、何気なく机に向かえば解決する問題だとは思うんだけど。入団のころから、少し忙しすぎたわね」
「歯を磨くように本を読まなくちゃ」
「私もさっき焦って読んでた。忙しくしてると、本から離れてしまうわね。本どころじゃなくなるわ。音楽を聴くことも、映画を観ることも……」
「うん。関わらなければいけない人と関わることも忘れてしまう。身近にいないというだけでの理由で、名前や顔まで忘れてしまうんだ。人を惜しむ心って、暇な与太郎特有のものなのかなあ。だいたい、忙しさって何なんだろうね。暇なく忙しいなんてことがあるんだろうか」
「……勝手に忙しがっているだけのことかもしれないわね」
「ホテルに本を持っていって読むよ。あのジャイアント馬場も読書家だって聞いたことがある。音楽や映画は鑑賞する場所がかぎられるけど、本はちがう。時間と意欲さえあればどんな場所でも読める。書物に浸ってたころは、本の中に人生はないなんて考えたこともあったけど、人生なんかなくたっていい、思索の時間があるだけでじゅうぶんだ」
「忙しさって、団体行動のことね。鑑賞したりものを考えたりするのは単独行動」
「そう。大切な秘密の行動だ」
「お店が完成したら、また本を読むわ。キョウちゃん、本はほとんど吉祥寺に置いてきたんでしょう。遠征のときは私の本を持っていきなさい」
「うん、そうする。……お父さんたちに、これからは見送りや出迎えは玄関でしてほしいって言ってくれないかな。出かけたり帰ってきたりするのを自然にしたいんだ」
「わかった。言っとく。新居に入ったら静かな生活が戻ってくるって思いたいけど、なかなかそうはいかないでしょうね。気持ちはかなり落ち着くと思うけど」
「……誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
         †
 三月四日火曜日。きょうも零下になった。強い雨。カズちゃんのあとで起き出し、歯磨きをしたあと座敷へいく。みんなで千佳子の送り出しにかかっている。
「試験二日目、最終日だね」
「はい」
「発表は二十日か。ぼくは九州の平和台にいるけど、ホテルに連絡ちょうだい。試合開始は一時だ」
「はい。ムッちゃんといっしょに電話します」
 素子が千佳子に、
「この襟巻きしてって。お姉さんからのもらい物やけど、バーバリのカシミヤ百パーセント。暖かいで」
「ありがとう、素子さん。お借りします」
「あげるわ。それ学生ふうやろ。うちには似合わん。お姉さんからエルメスのピンクの大人っぽいマフラーもらったで」
「ありがとうございます! 初めてのブランド品です」
 おトキさんが千佳子に、
「これお弁当。トンカツと唐揚げ、卵焼き、シューマイ、かまぼこ、お漬物。ごはんは少なめにしときました。頭が回らなくなりますから」
「ありがとう、おトキさん。試験が終わったら、台所に立たせてくださいね。迷惑かけないようにしますから」
「はいはい、いろいろ覚えてください」
「いってきます」
「いってらっしゃい!」
「がんばって!」
 千佳子が傘を差して元気に出かけた。トモヨさんと直人が門まで見送った。女将が、
「学生時代の和子がおとなしなって戻ってきたみたいやわ。神無月さん、出発は何時やの?」
「ホテルに三時か四時にチェックインしますから、一時ぐらいのひかりにします」
 主人が老眼鏡をかけて時刻表をめくる。
「一時十二分のひかりがあります。新横浜、品川。二つ目やな。二時四十六分着。いま一等券を買ってきます。菅ちゃん、車出して」
「十時ぐらいになったら、直人を保育所に送りがてら買ってきますよ。タイメックスの時計が届いたという連絡があったので、ついでにそれも受け取ってきます」
 カズちゃんが、
「あ、菅野さん、そのとき私もちょっと乗せてって。本屋にいきたいから」
 素子が、
「お姉さん、私もいく」




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