三十一 

 三月十二日水曜日。七時起床。ザーザー降り。三・五度。日中でも十度まで上がりそうもない。暖かい寝床の中にぐずぐずカズちゃんといる。
「止まないなあ。あしたも危ないかな」
「江夏投手と対決するのは、ずっと先のことかもね。対決の日はすごい騒ぎになりそう」
「勝負したい相手には直球しか投げないって噂だ。村山といっしょだね。真剣勝負だ」
「ひと月以上先ね。さ、朝ごはんの支度をするわ」
 新居の初の朝食は、きのこ中華雑炊大盛り、大オムレツ、白菜とベーコンのコンソメスープ。満腹。深煎りコーヒー。美味。
「レストランの味だ。アイリスの将来は安泰だね」
「ちゃんとしたコックを一人置くのよ。その助手に北村の賄いから一人きてもらうことにしたわ」
「カズちゃんはコーヒーをいれるので忙しいからね」
「そう」
 雨の中を菅野が合羽を持って迎えにきた。カズちゃんが、
「きょうも走るの?」
「当然ですよ」
 その透明な厚手の合羽を着て、桜通経由でテレビ塔を目指した。ガワガワ合羽を鳴らしながら雨を呼吸して走るのは気持ちがいい。雨の桜通にはほとんど人影はなく、車しか往来していなかった。菅野の呼吸の乱れはもうまったくない。
「菅野さん、二週間余りで長足の進歩ですよ」
「まだまだ!」
 帰りは、一筋北にある杉ノ町通を走った。
「巨人戦、敵の顔を見ないまま、ぼんやりとすごしてしまいました。後楽園球場の印象が残ってません」
「いつになくうつむいてプレイしてましたね。渋い顔をして……。江藤さんたちも声をかけられないようでした。それでホームランをパカスカ。敵さんの印象はすごいものがありますよ。いやなものはいやと、そうやって生きていてください。私たちは安心します」
 北村席へ帰ると、もうカズちゃんが則武からきていて、千佳子や素子といっしょに台所で動き回っていた。主人の新聞が待っていた。
「神無月さん! ヤンキースが、五百万ドルで今シーズンオフの移籍の申し入れをしましたよ。小山球団オーナーは移譲金一千万ドルでも神無月は出さないと明言しました。三十六億円でも出さないと言ったんです。オトコだなあ」
「ぼくは英語がしゃべれないので、アメリカへいきたくありません」
「いや、そういう話じゃなく」
 ワハハハと菅野が笑った。
「神無月さんには、そういう話ですよ。永遠に大リーグにはいかないということです。ドラゴンズに骨を埋めるんですよ」
「うれしいなあ。神無月さんもオトコだ」
「直人は保育所ですか」
「はい、降っても照っても、朝は母子で歩いていくことにしたようです」
「阪神チームはホームへ帰ったのかな」
「こっちへこなかったようですよ。さあ、冷えたでしょう、二人で風呂入って」
 雨なので、女たちは菅野の出勤をあてにしていたようだ。菅野は座敷を覗きこみ、
「十時から出る子は何人?」
 四人パラパラと手を上げる。
「うん、いっぺんに乗せていける。じゃ、風呂入りましょう」
 ザンブと二人で飛びこみ、からだを暖める。
「雨でも出かけるなんて、たいへんだね」
「男どもの性欲は、天気関係ないですからね」
「言えてる。菅野さんもちゃんとやってる? ぼくは帰ってきてから連荘(チャン)だよ」
「おかげさまで、二週間にいっぺんほど。四十歳の平均です」
 頭を洗う。髪が伸びている。
「風呂上がったら、床屋にいってこよう」
「このへんなら、牧野公園を抜けて太閤通に出るとすぐに、ネジリ棒もないこじんまりした店がありますよ。女の子を送って帰ったらいっしょにいきましょう。私も伸びてきた」
 風呂から上がると、トモヨさんが帰ってきていた。
「元気にいった?」
「ええ、保育所に着いたとたん、私なんか見向きもしないでみんなに混じります」
 菅野はメイ子がいれたコーヒーを飲みながら女たちの食事が終わるのを待ち、四人のために車を出した。メイ子がごめんなさいというふうに、もとの仲間たちの背中に小さく辞儀をした。メイ子が四年間私を見つめてきたということは、もろにトモヨさんの件を目撃していたことになり、素子の件を又聞きしていたことになる。それで厨房に入れてくれと言い出せば、柳の下のドジョウを狙っているのかと邪推されるだろう。けっしてそういうわけではないという気持ちを、私や周囲の人間に潔癖に示そうとしているのだ。カズちゃんが台所の後始末を終えて素子といっしょに出てきて、
「メイ子ちゃん、十七日から則武の家に入ってちょうだい」
「え!」
「十六日の日曜日が厨房の仕事納め。四月からはアイリスの仕事も覚えてもらうわ」
 カズちゃんと主人夫婦とのあいだで何ごとか諮られたようだ。主人が私に、
「神無月さんの新宅に女中を入れるゆう話がなかなかうまくはかどらんでな、来週の月曜からメイ子にいってもらうことにしましたわ。まじめな女やから、四月からアイリスと則武と、両方うまくやるやろ。しばらくは雑用しながら、和子にいろいろ叩きこんでもらわんと」
「そうですか。ぼくとしてはありがたいです」
 素子が、
「よかったなあ、メイ子ちゃん。三十過ぎて、いつまでもトルコ風呂のナンバーツーもないやろうしなあ。トモヨさん、うち、メイ子ちゃん。これで足抜け三代目や。キョウちゃんに拾われんかったら、みんな泥の中やったんよ」
 千佳子が眼を潤ませ、
「ほんとによかったですね」
 素子が、
「アイリスの厨房に入る子が決まったもんで、うち、ちょっとライバル意識燃やしとる。―あの子や」
 指差した先で、丸顔のドングリ目の小柄な少女が立ち働いていた。おトキさんが肩を押してこちらによこした。とことこやってきて主人夫婦と私たちに頭を下げる。女将が、
「三月から住込みで入ったソテツちゃん」
「ソテツ?」
「そう、赤いソテツの実も熟れるころ。奄美からこの三月に集団就職で出てきたんよ。五月がくると十七歳」
 太い眉毛の下に白目の少ない大きな瞳があり、かすかに皮肉っぽい閃きがある。意志の強そうなあご、小さく真っすぐな鼻、突き出た赤い唇をしている。黒い髪はオカッパだった。姓を問うと、
「キャン」
 と答える。女将がホホホと笑う。
「キャン?」
「喜ぶ、屋根の屋、武士の武。キ、ヤ、ブ、で、キャンと読みます」
 おトキさんが、
「料理は名人級ですよ」
「ユー・キャン・クック・ベリー・ウェル、か。赤いソテツの実は食べられるの?」
「毒があります。大正の戦争中はみんな飢えて、ソテツを食べて、ころころ死んだそうです。ソテツ地獄と呼ばれました」
 主人が、
「煮ても焼いても食えん、か」
 カズちゃんが笑って、
「からかっちゃだめ。かわいそうよ」
 みんな、ワッと笑った。菅野が帰ってきた。
「雨脚がだいぶ弱くなってきましたよ。あしたは快晴というから、社長、いよいよ出陣ですね」
「出陣は神無月さんや。おトキ、うまい弁当頼むで」
「はーい、ソテツちゃんたちに作らせます」
「集団就職なら、青森からきた賄いさんはいませんか」
 女将が、
「七、八年前に大湊からきた子がおるよ。イネちゃーん」
「はーい」
 大湊は陸奥湾を挟んで野辺地の対岸だ。距離にして五十キロぐらいだろう。車でマサカリ半島を回っていけば二時間ほどだ。顔を出した女は、驚くほど素朴な、それでいて妖艶な顔をしていた。いままで何度か見かけていたが、じっくり顔を見たのは初めてだった。
「田所(たんどころ)イネです。大湊(おみなど)中学校出てがらずっとこぢらさお世話になってます。神無月さんがセイコで活躍してだころは、わだし、青森にいねがったので、野球だなんたらってこどはナも知りませんでした。五年前(め)神無月さんがこの家さ遊びにきたとぎに、初めでそういう人が青森にいだって知りました。すみません、もう八(はぢ)年も名古屋に暮らしてるのに、訛りが抜げません。あんまりしゃべらねよにしてるんだども」
 千佳子がポカンとした。私は、
「どんどんその調子でしゃべればいいよ。耳に快適だ。この千佳子もきみとドッコイにしゃべるよ」
「千佳子さんはどちらですか」
「青森市」
「都会ですね」
 千佳子が笑った。カズちゃんが私にウインクした。抜けるように色が白く、大きな二重まぶたをしていたが、頬が赤くて田舎くさかった。私好みの女が二人ぐらいいると常々言っていた中の一人だろう。もう一人はだれだろう。きたばかりのソテツは好みではない。
「カズちゃん、ぼく好みの女が二人いるって言ってたけど、もう一人は?」
「かよいの子にいたんだけど、結婚して辞めたみたい。イネちゃんのほうがずっときれいよ」
 素子が、
「あんた、ほんとにかわいい顔しとるね。恋人おるん?」
「いません」
「処女?」
「……はい」
「二十二、三にもなって、まずいんでにゃあ?」
「そうでしょが」
 カズちゃんが、
「素ちゃん、そんなのは個人の自由でしょ」
「ほうよね」
 主人が私とイネの顔を見比べてニヤつきながら、
「そりゃ神無月さんに開通してもらえりゃ言うことなしだが、神無月さんは村の酋長じゃないんやからな。世界レベルの野球選手なんやぞ。開通の道具に使うなんてのは失礼もいいとこだ」
 素子が自分の下唇を指でプンと弾いた。イネが去るとカズちゃんが、
「ソテツちゃん、アイリスが軌道に乗るまでしばらく手伝ってね」
「はい、喜んで」
「料理メニューはおトキさんに渡したから、あれで工夫してもらえれば助かるわ。ときどき私や素ちゃんも手伝うから」
 ソテツはいったん台所に去り、メニューを手に戻ってきて、
「スパゲティナポリタン、ミートソース、たらこスパゲッティ、オムライス、ハヤシライス、ハンバーグライス、海老マカロニグラタン、ホットケーキ、コーヒーゼリー、パフェ各種、サンデー各種、ベーコンサンド、ハムサンド、たまごサンド、野菜サンド、ミックスサンド、バタートースト、ジャムトースト、フレンチトースト、小倉トースト」
「チャーハンやカレーライスやハヤシライスみたいな一般家庭で作れるようなものは、出さないことにするわ。ピザトーストも出さない。ピザを作る釜を入れるのがたいへんだから。日替わりで一品、丼ものを出して名物にする。玉子丼、カツ丼、親子丼。ジュースとかソーダとかの飲み物類はぜんぶカウンターで作ります。アイスクリームやケーキ類は外注するわ。コーヒー豆を販売できるように、二十種類ぐらいガラスケースに展示置きします。千佳ちゃん、あなた手先器用だから、手作りのメニュー表、一部作ってくれる? コーヒー豆の種類の表もね。二つ折りのものと、一枚のもの。一週間かけていいわ。あとはコピーして、業者に同じように作ってもらうから」
「わかりました。がんばります」
 女将が、
「男の料理人も一人でなく二人ぐらい入れたほうがいいと思うがね。ソテツちゃん一人にいくら手伝ってもらっても、その品数だともたんよ」
「おかあさん、心当たりあるの?」
「あるわいね。店じまいしたお茶屋さんにいた板前さんを二、三人知っとる。さっそく昼から出かけてくるわ。ちょっと年いっとるけど、仕事はすぐ覚えると思うで。五十人は入れる店やし、あれだけ立派な厨房なんやから、腕のいい人を置かんとな。カウンターは飲み物作るんで大わらわやろ」
「そうねえ」
「最初が肝心やからね。品出しが遅れたら評判悪くなるよ」
「そうしてくれれば、カウンターはコーヒーとパン類に打ちこめるわね。ありがとう、ぜひそうして」
「お給料、はずんであげてな」
「いまのサラリーマンの相場ってどのくらいなの」
「五万円にちょっと足りないくらいやろう」
「そっか。フジの給料が七万五千円だったから、そんなものね。従業員の時給は相場より百円高い五百五十円で考えてるから、六、七時間交代で働けば、税金引いて八万から十万円。ソテツちゃんのお手伝いに七万、料理方の男の人に十二万出します」
 女将はニッコリ微笑むと、厨房に電話をしにいった。
「おトクはむかしから仕事が早いんや」
 主人が頼もしげに言った。素子が、
「うち、そんなにもらえるん。うれしいわあ」
「それに社員手当てを二万円つけるわ。保険のことは税理士さんに考えてもらいましょう。アルバイトも時給はいっしょ。社員手当はつかないけど」
「アタマがややこしくなるね。考えたくないな」
 私が言うと、菅野が、
「神無月さんは何も考えなくていいですよ。あしたのホームランのことだけ考えていてください。さ、床屋へいきましょう」


        三十二

 さっぱりと慎太郎刈りにして戻ると、昼食の真っ最中だった。女将の姿はなかった。
「おお、ますますいい男になりましたね」
 菅野が、
「私は?」
「菅ちゃんは現状維持。いまカラオケ教室の申込みにいってきたよ。水金八時から九時まで。今夜からだよ。今月六回ある。来月八回。二、三回サボったとしても、山口さんがくるまでには多少声が出るようになってるやろ」
「よっしゃ、張り切ってやりますよ」
「あたしも!」
 素子が声を上げると、百江と二人の中年の賄いもうれしそうに、
「私たちもお願いします」
 と言った。
「球団からハガキが届いとりますよ。大阪と福岡の宿泊先のお知らせのようやが」
 ありがとうございますと言って受け取り、チラと目を通し、目に焼いてまた主人に返した。
 メバルの煮つけとホタルイカの刺身、肉豆腐、カボチャの煮物、小松菜と油揚げの煮びたし。どんぶり一膳のめしを食った。
「江夏は近鉄戦で投げとったので、きょうは登板予定でなかったようですよ。中止でよかったですね。試合は流れたけど世紀の対決は流れずにすんだって、CBCニュースでやっとりました」
「そうですか。よかった」
「十四本のホームランを全部見せました。あんまりスイングが速いんで、スローで見せたんやが、バットが鞭のようにしなって、左手がかぶさらずに空手チョップみたいに水平になっとるんです。専門家がチョップスイングゆっとたかな、力学的に最高やそうです」
「よかったですね。ありがとうございます」
「自分のことですよ、神無月さん」
 食卓が爆笑になった。千佳子が、
「さあ私、メニュー作りにかかろうっと」
「ぼくは映画を観てきます。三船敏郎の風林火山。三時間ぐらいの映画らしい。夕方までに帰ります」
 主人が、
「せっかくの雨だし、遠征前に骨休めしておかんとね」
 トモヨさんが、
「きのうメモに書き出してた本、帰りに買ってきたらどうですか」
「そうだね、揃うものだけでも」
 離れにメモを取りに戻る。渡り廊下の屋根が大きいので、ニスを塗った床が雨で濡れていない。大したものだ。則武の新居にも同じような離れが造ってある。トモヨさんの四、五部屋が三、四部屋になったというだけのことで、ほとんど造りは同じだ。
 玄関でカズちゃんに傘を渡される。
「おととしできたばかりの名鉄東宝って映画館が、バスターミナルのメルサの六階にあるわ。あとは栄の名宝シネマ。名鉄のほうは三百人ちょっと、名宝はその三倍くらい。風林火山はどちらでもやってる。好きなほうで観てきて。土日じゃないから空(す)いてると思う」
「うん。近いほうにいく」
 駅からメイチカを通り、階段を上って、磨きこまれた石タイルの切符売場に出る。壁に何枚ものきらびやかなポスター、その下に待合の椅子が十脚も並び、立派な映画館だ。半券をもらい、ドアを押して暗闇に入る。野辺地の銀映よりも少し小さくて清潔だ。二時間ほど経っているので、最後列のゆったりした椅子に腰かけ、次の開映まで寝てしまってもいいつもりで目をつぶる。三船敏郎や中村錦之助の声が聞こえる。この声は? 目を開けると、なんと石原裕次郎だった。上杉謙信役をしている。髷(まげ)姿が似合わない。目をつぶる。志村喬、月形龍之介の声は目をつぶったままでわかる。錦之助に似た声は中村賀津夫だろう。春川ますみ以外の女の声はいちいち目を開けないとわからない。久我美子、大空真弓、佐久間良子。いつのまにか寝入った。館内が明るい。休憩時間だ。一時間ほど眠って頭がスッキリしている。じっくり映画に没入できそうだ。球団から届いたハガキの内容を思い出す。大阪は大阪ロイヤルホテル、福岡は西鉄グランドホテルとなっていた。村迫代表の一行が添えられている。
 ―どこまでも高く、いつまでも高く。遠くて近き親愛なる友・神無月さんへ。
 映画が始まった。一介の浪人三船は武田家にとり入り奉公することになる。とり入ることのできた理由がぼんやりしている。彼の腹案どおりに作戦が展開するが、なぜ諏訪城をむごたらしく攻略しなければならないのかわからない。攻略先の姫を慕う。思い入れの表現がつまらない。脚本に情熱がないので、話の運びが速く、心理描写もおざなりで、しっくりした満足感を得られない。三船も裕次郎も性格俳優でないことはわかりきっている。椿三十朗や用心棒や嵐を呼ぶ男の叩きつけるような演技がすべてだ。
 もう出ようかなと思っていると、肩を触られた。メイ子が鉄の手すりに凭れて立っている。館内で口を利くわけにいかず、立ち上がってロビーに出た。椅子に腰を下ろす。
「小さいほうの映画館にちがいないと思って、こちらにきました」
「アイリスに勤めながら、うちのお手伝いするのたいへんじゃない?」
「ぜんぜんだいじょうぶです。厨房の仕事納めは十六日からですけど、きょうの夜から則武のおうちのほうにいって寝泊りすることになりました。離れをくださるそうです」
「荷物は?」
「神無月さんたちが床屋さんにいっているあいだに、羽衣に詰めている松葉会の男の人たちが席の部屋から運んでくれました。お掃除、洗濯、料理のお手伝い……そうなったらもう神無月さんには抱いてもらえるチャンスはほとんどありませんし、もちろん、お嬢さんがいらっしゃるのにそんなことをするのは人間としてはしたないことですから……。せめて一度、表でデートだけでもしていただこうと思いまして、お嬢さんに断って出てきました」
 私は笑い、
「もう抱いてもらえないなんて心配する必要はない」
「はい……」
「せっかくきたんだ、とにかく出よう。まだ明るいから、百貨店で買物でもしていこう。本を買う予定だったからね。メイ子は何かほしいものない?」
「ありません」
「本を買ったら、めしでも食って帰ろう」
 霧雨に相合傘を差した。メイ子は遠慮して腕を組まない。人目を気遣っている。 
 名鉄百貨店の五階に紀伊國屋書店があった。メモに記した本はほんの数冊しか見つからず、目につくままいろいろな出版社の文庫本を何冊も小脇に抱えていく。メイ子は私のあとをついて歩く。
 書物―こんな死物が生身の人間の上位に立っているのが不思議だ。文字ではなく口頭で文化が伝達されていた時代、才ある語り部が神話や集落の歴史を口承した。それは伝承者がみずからの表現の才能を歓ぶ行為だったにちがいない。彼らは今日のように顕彰されることもなく、権威者ともなり得なかった。文字の時代になって、皇族に上奏する語り部の権威が増していき、やがてその権威は民間の語り部に降りた。歌手とか文芸家とかいう名の人びとに。現代では芸能人やタレントと呼ばれる族(うから)も彼らに含まれるようになった。
 私は権威願望からではなく、ただ表現の歓びのためにだけ書きたいのだけれど、悲しいかな、その希望はこの現代ではどこかで権威と暗い水脈を通じている。
 ふと周囲の書棚の景色が色褪せ、急速に興が醒めていった。私は魂の書であるヴィーダのフランダースの犬と、ゴールズワージーの林檎の樹のほかは、すべて書棚に戻した。私が書棚に戻せなかったこのような作品を終生かけて一つ二つ書けたら、私を愛する者たちに見せ、彼らが生きているあいだだけ楽しんでもらおう。ただ、書くという行為、唄うという行為は、遠く権威につながる行為だということは忘れないようにしよう。
 八階の工芸品コーナーにいき、肥後象嵌を見て回る。
「ぼくの生まれた県の特産品だ。メイ子が喜ぶものを買おう」
「そんな、私、何も……」
「子供にプレゼントなんてのは、あたかもだからね。いまはメイ子にしか関心がない」
 黒が基調の製品を眺めていく。純金細工の手鏡と、涙の雫のようなペンダントを買った。メイ子ははらはらと涙をこぼした。
「散財させてしまって……一生大切にします」
 ガード下のきしめん屋へいき、オーソドックスなきしめんといなり寿司を食った。メイ子はあふれる涙を何度もハンカチで拭った。
「こんなデートでよかったかな」
「もう、何と言っていいか……大切な思い出になりました。ありがとうございました。それじゃ、則武のほうへ戻ります。後片づけがありますから。今夜から則武のおうちに勤めます」
 傘を差し紙袋を持ったメイ子の背中を見送り、彼女に少し遅れて、雨の中を晴ればれとした気分で北村席に帰った。
 四十代後半の男が居間に二人きていた。私が式台を上がって廊下へ出ると、カズちゃんが手招きした。居間に入り、頭を下げた。それぞれ、島です、森ですと漢字一字の名を名乗って畳に平伏した。アイリスの厨房に入る料理人だと女将が言う。私も膝を折って、頭を下げた。
「どうぞ力になってやってください」
 森が、
「北村席さんに神無月選手がお住まいになってらっしゃるとは聞いておりましたが、こんな身近でご挨拶できるとは思っておりませんでした。緊張します」
 また頭を下げた。島も並んで頭を下げた。主人夫婦や菅野やカズちゃんたちが声立てて笑った。主人が、
「堅苦しいのは苦手なんですよ、神無月さんは」
 そう言われながらも二人でトドメの頭を下げた。
「じゃ、ちょっと失礼して、あちらの部屋で腕立てなどをしますので。カズちゃん、バスタオルちょうだい。畳が汗で濡れちゃうから。直人、おいで、おとうちゃんの筋肉見せてやる」
 居間の卓袱台に二冊の文庫を置いて大座敷に入っていった。トモヨさんが直人を抱いてあとにつづいた。主人と菅野もやってくる。バスタオルを持ったカズちゃんがあとにつづく。私は音楽部屋に入ると、パンツ一枚になり、カズちゃんが敷いたバスタオルに仰臥して腹筋を始めた。素早く五十回。トモヨの腕に抱かれた直人が目を丸くして見下ろしている。主人が、
「すごいなあ、その腹の筋肉」
 うつ伏せになって背筋に移る。
「カズちゃん、ふくらはぎに座って」
 カズちゃんを支えの重石にして、上半身がほとんど四十五度になるまで反り返る。五十回。菅野が、
「うわ、これもすごい筋肉だ。いつもいっしょにシャワー浴びてたのに気づかなかった」
「サンキュー、もういいよ」
 両腕立てを五十回、スピードを乗せてやる。最後に、右手腕立て二十回、左手腕立てゆっくり二十回。バスタオルを二つに畳んで左腕のシャドー、少し考えてから、五十回。痛まない! 主人が、
「何ですか、その最後のやつ」
「手術をした左腕のシャドーピッチングです。これだけのことが怖くて、七年間できなかったんです。明石キャンプでやってみて、痛まないことを確認しました。これからは鍛え直していくだけです。どうだ、直人、おとうちゃんの筋肉をしっかり目に焼きつけたか? いましかないぞ。あと十年もすれば衰える」
 直人は怖がってトモヨさんにしがみついた。千佳子と素子が絞ったタオルを持ってきてからだじゅうを拭く。カズちゃんが汗だくのパンツを脱がせて、新しいパンツを穿かせた。
「キャー!」
 と女たちが黄色い声を上げた。
「ね、見た見た?」
「コブみたいなものついとったんやない?」
 菅野が、
「名刀だ。伸びたらおまえらでは太刀打ちできんぞ」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんはオチンチンも手か足みたいに考えてるから、へんなものを露出してるつもりはないのよ。こういう人だって覚えといてね」
「はーい」
 トモヨさんは笑いをこらえ切れないふうに、直人を抱いて居間に戻っていった。直人は走り戻ってきて、座敷の女たちの胸にじゃれついた。
「やあ、変わったおかたですねえ」
 森の声が聞こえた。主人が、
「あんな人がうちの大将だとわかって気が楽になったんとちがいますか。ラクな気持ちで勤めてくださいや」
 島が、
「私ども職人には変人が多いので多少のことには驚きませんが、まったく変わり者の雰囲気のないアタリのいい人間が、とつぜんパンツ一枚で腕立て伏せをやりだすなんてのは肝が潰れますなあ。愉快です。新聞に超変人と書かれとったのもうなずけます」
「驚かせてすみません。明石から戻って二週間ほど基礎訓練を休んでたもので、思わず突発的にやってしまいました」
 トモヨさんが笑いながら、
「新聞に超変人と書かれたのは、こういう行動のことじゃなくて、郷くんのすごく純粋な人間性とか、お金に対する無頓着とか、それこそだれも太刀打ちできないやさしい性格のことでしょう」
 カズちゃんが、
「おとうさん、うちの大将は北村直人よ。キョウちゃんはお客さん。お店の経営とは関係ないの。そのことを忘れないでね」
「ほいほい、わかっとりますよ」
 島と森は三度目の叩頭をして帰っていった。カズちゃんが、
「キョウちゃんに忠誠を誓うって感じね」
 女将が、
「神無月選手の店だって言ったんやけど、まちがったこと言ってまったかな」
「いいのよ、おかあさん、どこもまちがってないわ。でも、内輪ではそれでいいけど、マスコミにはそんなふうに言わないでね。キョウちゃんが商売してるように受け取られてしまうから。水原監督はそういう選手が大嫌いなのよ。江藤選手を叱ったのもそのせいよ。江藤さん、赤字になった整備工場を維持するために自転車操業して、球団にだいぶ迷惑をかけたみたいだから」
「迷惑って?」
「借金取りが球団事務所にまで押しかけるようになったんですって。店を手離して、借金取りから解放されて、ようやく許してもらったのよ」
「ほうかね、そりゃ重々気をつけんといかんね。ひょんなことで野球ができんようになったらたいへんや」
 主人が、
「ま、とにかく、いい料理人がくることになってよかたやないか」
 カズちゃんが大きくうなずき、
「ありがとう、おとうさん、おかあさん。これで安心して船出できるわ。あと三週間、みっちり忙しいわ。菅野さん、あしたキョウちゃんを中日球場へお願いね。ボルボを使ってちょうだい」
「ガッテン。あのボルボ、少しエンジンの調子が悪いですね。あしたはクラウンでいきますから、代理店に取りにきてもらいますか」
「そうしてちょうだい。中古はやっぱりだめね」
「中古にかぎらず、外車は長保ちしません」


         三十三

 トモヨさんの持ってきたジャージを着て居間に戻ると、千佳子がフランダースの犬を開いてじっと読みこんでいた。素子が覗いている。
「生涯に三冊はと訊かれたら、その二冊と、エリ・ヴィーゼルの夜だね。あげるよ」
「ほんと?」
「ああ、それ二人にあげる。夜は売ってなかった。注文して買えばいい。十五日から二十七日まで、大阪、九州、東京と遠征だ。何か本を読もうと思って持っていっても、なかなか読めない。こないだの遠征では藤村を読んだけど、つまらなかった。流行りのベストセラーもつまらないし、これからはノートだけ持っていくことにするよ」
 カズちゃんが痛々しそうな眼をした。私の心の動きを直観したのだ。
「……キョウちゃん、焦らないでね。書き出す日まで、三年でも、五年でも、のんびり野球をしてて」
「焦ってなんかいないよ。詩や小説は競争のために書くものじゃないからね。心配無用」
 主人夫婦や菅野は私たちの会話を訝しげな表情で聞いていた。
 トレパンを穿いたおトキさんとメイ子と百江が明るい顔で居間に入ってきた。百江が、
「新築の家って、細かい埃がすごいんですね。しっかり拭き掃除してきました」
 メイ子が、
「家の周りの削りクズもたいへん。ぜんぶきれいに片づけました」
 おトキさんが、
「きょうの夜からメイ子ちゃんが離れに詰めます。掃除洗濯で午前中はつぶれるでしょうから、四月からのアイリスの仕事はほとんど遅番ですね」
 カズちゃんが、
「その予定にしてるわ。都合がつかないときは、アイリスのほうは休んでくれていいのよ」
 女将が、
「神無月さん、ハガキきとったよ。青森の美代子さんゆう人から」
 手渡されたハガキを見ると、

 無事青森高校に合格いたしました。一歩前進。机の神無月さんの写真の前に受験票を置きました。涙が止まりませんでした。四月から白百合荘に入ります。とりあえずお報せまで。

 すぐにカズちゃんに見せた。彼女はあたりにいたみんなに説明し、飾りつけるように水屋のガラス扉の内側にハガキを立てた。
「なるべく早く合格祝いのハガキを書いてあげてね」
「うん」
 台所で米を研ぐ音やら皿のぶつかる音やらがしだしたので、女たちがいっせいに厨房に入った。主人と菅野は車で出かけた。メイ子は居間のテーブルに残って、手帳に何やら書きこみはじめた。女将が、
「何書いとるん?」
「女中さんの仕事の中身です。部屋の片づけ、掃除、洗濯、衣類の整理、食事の準備と後片づけ、買い物、留守番。このくらいですか?」
「電話、接客、なんかもあるかな。犬猫飼うかもしれんし。ま、やっとるうちに、いろいろ増えてくると思うわ。和子はいくらくれるん?」
「八万という約束でしたが、きょう十万と言われました。もらいすぎです。おまけにアイリスで働いた分まで時間給までくれるそうです。いいんでしょうか」
「ええに決まっとるがね。和子の〈あっち〉の都合が悪いときは、あんたが代わりにせんといかんし」
 女将がメイ子の肩をポンと叩いた。メイ子は真っ赤になってうつむいた。
         †
 夕食が終わるころに主人と菅野が帰ってきた。菅野はそのままあわただしくめしをすますと、
「十五分で帰ります。カラオケ教室にいく準備をしといてください」 
 と言って、遅出の女を連れてまた出ていった。主人はゆっくりめしを食い、カラオケ教室に出かける予定の女たちは、めいめいおしゃれをした。素子、百江、賄い一人。後部座席に納まる人数だ。主人が、
「ぜんぶで五人か。上客やな。きっちり教えてくれるやろ。とにかくサブちゃんを歌えるようにならんと」
 私は、
「しっかり大声を上げるのがコツですよ。人に聴かせるんじゃなく、自分に聴かせるように唄えばいいんです」
「はい、心がけますわ」
 菅野が戻ってきて、カラオケ組がガヤガヤ出かけていくと、居間も座敷も厨房も静かになった。千佳子がテーブルで文庫を読みつづけている。おトキさんとソテツとイネが居間と座敷に茶の用意をした。トモヨさんが直人にのんびり乳を与え、カズちゃんとメイ子が女将のそばについた。賄いたちも座敷のテーブルに混じった。トモヨさんが、
「どうしてもお乳を吸いたくなるみたいなんです。吸いたければ五歳まででも吸わせておけばいいって書いてある本もありますけど、二歳までにはやめてほしいわ。吸う力が強くなるから、乳首が伸びたままになっちゃって」
 千佳子が文庫から顔を上げて、
「見せてください」
 ほら、とトモヨさんは言って、空いている乳房を見せる。
「ほんとだ、長い!」
 千佳子は上着のボタンを外して自分の乳房を出して見せる。メイ子もソテツもイネも出して見せた。みんなでぼろぼろ出して比べるので、座敷の女たちが声を上げて笑った。女将が、
「こんな調子っぱずれな生活も、神無月さんがおらんようになったら、ぜんぶなくなってまうんやろね」
 カズちゃんが、
「そうよ、だからキョウちゃんを逃がさないようにしないと」
「どうすればいいんかね」
「放っておくのよ。こちらが遠慮して振舞うとキョウちゃんも遠慮するから、私たちも自由にしゃべったり動き回ったりしていればいいの。簡単なこと。キョウちゃんは複雑なことや、複雑ぶったことが大嫌いだから」
「いままでどおりでええゆうことやね」
「そう。北村席はもともと遠慮がなくて自由だから。キョウちゃんが私たちに持ってきてくれたプレゼントは、もちろんとても楽しいことばかりだけど、いちばん大きなプレゼントは、世間でどう思われようと、人間にとっていちばん大切なのは思いどおりに生きる気持ちだと教えてくれたこと。だから私たちは幸せになれたのよ」
「ほんとにそうやね。うちの者みんながそうなったものね。神無月さんが学者面して気難しい面倒くさい人やったら、この家はむちゃくちゃになっとった」
 千佳子が、
「そんな人を和子さんも私たちも好きになりません。思いどおりに、それでいてわがままでなく生きることって、とても難しいことです。だからこそいちばん大切なことなんじゃないでしょうか。嘘でない姿を正直に人に見せて、それで人が幸せになるなんてこと、人の心をだれよりも知っていないとわからないでしょう? 嘘でない姿を人が見たら、幸せになるということに気づいてる人はほんとうに少ないと思います。嘘で苦しめられた人しか気づかないことだと思います。だから、それを教えてもらうと、目が覚めたような気持ちになるんです」
 おトキさんが、
「目が覚めない人は一生覚めないですよ。そういう人たちから神無月さんを守るのも、私たちの仕事だと思いますよ」
 ソテツが太い眉を上下させながら、
「目の覚めない人って、私みたいな人間のことでしょうか? 私、女の幸せは、自由より安定した生活を手にすることだって、むかしから思ってきたんです。ちゃんと世間さまのしきたりに従って、働いたり、結婚したり、子供を育てたり。……まだここにきて十日ぐらいにしかなりませんけど、神無月さんはただの変人にしか見えませんし、そういう神無月さんに対するお嬢さんたちのいきすぎた気遣いも、異常に感じます」
 カズちゃんが、
「やっと北村席にまともなことを言う人間が現れたわね。言ってることが嘘じゃないのは気に入ったけど、つまらないわね。でも、そうやって遠慮なく意見を言うことが、思いどおりに生きるってことよ。だれにもじゃまされないでしゃべってるとき、ソテツちゃん幸せでしょう。どうして幸せかっていうと、キョウちゃんや私たちがあなたのことを認めてるからよ。腹を立てないし、言い返しもしない。ただニコニコしてる。あなたがキョウちゃんや私たちに疑問を持ったということは、ふだんのキョウちゃんや私たちの言動にハッとしたからなのよ。ふだん考えたこともなかったから。私はソテツちゃんの言うことにハッとならない。だれでも言うことだし、考えることだから。だから、つまらないなって思うけど、腹は立たない。目覚めない人は、キョウちゃんや私たちをおかしいとも思わないで、ただ反感を持つの。ねえ、ソテツちゃん、変人を見ることは人生のバラエティになるわ。せいぜい観察して、疑問を持ちなさい」
 みんなニヤニヤしているだけで、おろおろしている人間はいなかった。ソテツは、
「神無月さんがすごい野球選手だということはわかります。自由な考え方をする人だってこともわかります。でも神無月さんのしてることは女の人に対する蹂躙です。取っ替え引っ換え、ちがった女の人を抱いて……自由というのはそういうものじゃないと思います。それは不潔でわがままな色漁りです」
 メイ子がやってきてソテツの前に膝を折り、
「ソテツちゃん、こんな仕事をしてる私たちのような女にも、ほんの少し常識みたいなものは残っててね、私も最初のころはソテツちゃんみたいに感じてたの。でも、神無月さんがどれほどすばらしい人か、折につけ見せつけられるようになって、毒気が抜かれて、すっかりからだの血が入れ替わっちゃったの。ソテツちゃんも、私たちみたいな泥んこの生活をしたことがあればすぐわかったんでしょうけどね。あの座敷にいる女の人たちもみんなそう。私たちみたいな生活をしたことのない和子お嬢さんたちが、神無月さんのすばらしさを見抜いて、命まで捧げてるのは驚きです。世間の目を気にしながら自分の幸福ばかり大事に思ってる人には奇妙に映るでしょうけど、私たちみたいなどん底を経験した人間には、神無月さんのことがお嬢さんと同じくらい神々しく見えるのよ。あ、これも私の〈自由な〉意見だから気にしないでね」
 イネがメイ子に並んで座り、
「ねェ、ソテツちゃん、この厨房にもソテツちゃんみてな考え方する人がいると思るすけ、その人たぢにも聞いてもらうつもりで言うね。トモヨ奥さんも、二十年以上もこういう世界にいだ人だよ。その人の子供は汚ね? 世間のしきたりに従って結婚したわげでもねし、きちんと夫婦暮らしてて、世間のママさんと付き合いながら子育てしてるわげでもね。だども、おがしく感じねよ。……神無月さんはへんでもなんでもねぐ、赤ちゃんみてにきれいだ人だよ。その人の子供を産めて、トモヨ奥さんはほんとに幸せなのせ。だがらおがしくねの。どこから見ても安心してるでしょ? だれもちょっかい出してこねもの。安定って何だべなあ。大事な少しの人に認められねで、大事でもね大勢の人に認められるこど? わだしはそういうのおっかなくてやんだ。とてもでねけど、安心した気持ちでいられね」
 千佳子が拍手した。ソテツは千佳子をキッと睨んでからうつむき、
「やっぱり、ここを辞めさせていただきます。長くは勤められない気がしますから」
 カズちゃんが、
「いいのよ。そうしなさい。出でいくまで、何日でもいいからおトキさんの下で腕を磨きなさい。そしてここを出て、ほかで腕を揮えばいいわ。いつか手伝ってくれる気になったら、戻ってきてちょうだい」
 おトキさんがソテツの身代わりのようにカズちゃんに平身低頭した。
「申しわけありません! 許してやってください」
 女将が、
「あらあら、ソテツ、どうしてまったの。アイリスを手伝うことになってたんじゃないの? さっきまで張り切ってたでしょう」
 カズちゃんが、
「おトキさん、だれもソテツちゃんを責めてるんじゃないのよ。責められるはずがあるもんですか。ソテツちゃんの考え方のほうがまともだし、十人中九人はそういうふうに考えるわ。つまり、大勢の人にとって正しい考え方をすれば大勢の人に認められる。そういう人がたくさんいなければ、この世はスムーズに動いていかないと思う。ソテツちゃん、私たちはね、そんな考え方を捨てても何とも思わないくらいキョウちゃんに魅かれたの。そのせいで、世の中に入りこんだら大勢人たちと噛み合わないようなおバカさんになっちゃったの。……私たちと仲良くなんかしないで、二、三日動物園みたいに私たちを見物してみたらどうかしら。それから出ていっても遅くないでしょう? おバカさん見物はおもしろいし、気持ちが慰められると思う。まじめな人には、遠くから眺めてもらっているほうが、私たちは気楽なの。それでもどうしてもがまんできないなら、一日もがまんしないで早く離れたほうがいいわ。おかあさん、そのときはソテツちゃんの新しい仕事先を責任持って探してあげてね」
 私はほのぼのとした気分になり微笑した。母親は天井を眺めて首の脇を掻いた。
「神無月さんを大事に思っとる私たちばかりしゃべるのは一方通行やないかね。変人に思われとる神無月さんの意見も聞いてみましょうや」
 私は不まじめに受け取られないように笑いを納めた。
「ぼくのふしだらな行動は一応棚に上げてしゃべります。あとで棚から下ろしますから。十六、七歳なら、世間というぼんやりしたものに希望をうんと持ってるだろうと思う。ぼくも持ってた。世間で認められ、表彰されて、出世していくこと。でも、その希望を十五歳で捨ててしまった。そして世間の外にいつづけようって決意した」
「なぜですか。野球もできるし、勉強もできるし、人からも好かれるし、希望でいっぱいだったんじゃないんですか」
「ソテツちゃんがそう言ってくれる〈ぼく〉を好まない人たちから、すべてを奪われたからなんだ。ぼくの能天気な人間信頼も、野球に対する情熱も、友情も、愛情も、彼らには気に食わなかったんだ。そういう人が世間のかなりの部分を占めているということはまず知っておいてね。大事なものって簡単に奪われるものなんだなって思った。で、そんな簡単に奪われるものならいらないや、という思うようになった。遠く流された土地で、ぼくはぼんやり暮らした。カズちゃんがやってきて、まず、人間信頼が回復した。彼女に励まされて、世間的な希望なんかいらないから、ほかのぜんぶを回復しようと決意した」


         三十四 

「世間的な希望はいらないってどういう意味ですか」
「上昇する気持ちを捨てるということだろうね。破滅思考ともちがうよ。何も奪われない状態のまま、足し算しないで生きていたいというのがいちばん近いかな。そういう心で回復作業をすると、とても矛盾した心持ちになる。心を世間の外に、からだを世間の内に置きながら、結局回復という足し算をしていくことになるわけだからね。回復というのはマイナスをゼロに戻すことだから、足し算の作業を必要とするんだ。その矛盾した行為がぼくに変人のレッテルを貼ることになった。おかげでぼくは、カズちゃん以外にも変人を好む人びとから愛されるようになって、愛の足し算が過剰になった。あまり気は進まなかったけど、あとは野球と友情をゼロに戻せればいいなと思った」
「それも足しすぎになったんですね」
「そう。ぼくは、捨てたはずの世間的希望を予期せず取り戻して、いや、取り戻しすぎて憂鬱になった。実際、世間的に上昇しているくせに、それを憂鬱に感じている人間は、往々にして変人好みの人びとの目にはとても魅力的に映る。彼らはぼくをいままで以上に誠心誠意愛した。彼らの愛情がぼくの足し算をますます過剰にしていくことも意識しないでね。ぼくは世間的希望を無理やり押しつけられたまま、強すぎる上昇気流に乗ってしまったわけだ。野球も、友情も、愛情もすべてね。そして、どんどん世間で名をなしていくという矛盾の中で、どんどん憂鬱になっていった」
「成功がうれしくなかったということですか?」
「そう、まったくうれしくなかった。ぼくの世間的成功よりも、ぼくが才能を発揮してることを喜ぶ人たちの心はうれしかった。その人たちに心とからだで過剰に恩返しをしはじめた。単なる好色に思われるほどね。単なる好色に見られることはちっともイヤじゃないし、そういう気持ちもあったことは否定できないけど、自分を奮い立てて好色になっていた面もあったことは、できるなら理解してほしい。これで棚に上げてたものを下ろしたよ。とにかく、世間で出世していく自分の姿を見るのはさびしかった。世間のしきたりを捨てた自分の姿ではなかったから、醜いとも感じた。いまは、早くこういう世界からはサヨナラしたいと思ってる。一年後? 二年後? あした? 問題は、それがいつのことであれ、十五歳のころの徒手空拳に戻ったあとの身の振り方だ。ぼく自身、世間の制度の外にいつづけるのは勝手だ。でもぼくを愛する人びとを引きずりこんではいけない。彼らを世間の安らかなしきたりの中へ返してあげなければいけない。そのためには彼らと別れなければならない。これまで何度もそう決意した。ぼくといっしょにいるために彼らが陥るかもしれない世間的不幸を考えると恐ろしかった。別れようとは宣告しないで、じっと彼らの決意を待っていた。別れを言い出す卑怯な人間にはなりたくなかったから」
「言い出さないほうが卑怯だと思いますけど」
 私は首を振り、
「言い出さないことが彼らの不幸になるならばね。やがて、世間的な幸福は彼らの幸福じゃなく、世間的に不本意でもぼくといっしょに生きることが彼らの幸福だってわかってきた。我田引水の考えじゃないと思う。彼らは去るどころか、命懸けで別れない決意をしてるってわかってきたからね。彼らが命でくるなら、ぼくも命で応えるしかないと思った。ぼくは彼らの決意に殉死することに決めたんだ。これまでは、世間の外で憂鬱に生きるという自分の哲学に殉死しようと思っていた。これからは、世間の外で彼らと生きられるだけ生きるという哲学に殉死しようと決心した。そしてそれがぼくの幸福になった」
「なんだか言ってることが……」
 女将が、
「ようわからんでしょう? 私はようわかるんよ。人って大勢の人に認められたいのがふつうやよね。神無月さんは、いっしょに生きてく顔見知りの人にだけ認められたいんよ」
 千佳子が、
「ソテツさん、あなたの言う理想の男性像を作りあげてみましょうか。つつがなく教育課程を終えました、つつがなく会社に入りました、つつがなく結婚しました、保険に入りまくりました、子育てしました、定年まで勤め上げました、退職金と貯金で妻と仲良く老後を暮らしました、社会に逆らいませんでした、だれも不幸にしませんでした」
「立派だと思います。どこかおかしいでしょうか」
「おかしくないわ。ただ、この美しい顔と、神々しい雰囲気と、すぐれた言葉と、ものすごい才能に満ちた神無月くんに似合っていないだけよ。ほんとはあなた、神無月くんのそういうところは大好きなはずです。あなたが疑問を感じるのは、きっとセックスのことだけだと思うんです。そこだけが許せないんです。とても平凡な考え方で、そんな考え方をここにいる大天才に押しつけちゃいけないわ。神無月くんの神がかりなところは、あなたのような平凡な人にでも、結婚してくれと言われたら、ニコニコ笑ってその場で結婚してしまうというところなの。そのとたんに、天才の人生は終わりますけど」
「だからみなさん、結婚してくれって言わないんですか」
「ちがいます。神無月くんから結婚してくれと言われても断ります。私が結婚してくれと言わないのは、天才は一人の所有物じゃないからです。才能のない人は一人の女に慰めを求めればいいでしょう。才能のある人は、その才能を大勢の人に分け与えるべきです。あなたのような不満は、ふつうの男に向けるべきです。私は、あなたにまじめに受け答えしている神無月くんを見て、底知れない度量を感じて、泣きたくなりました」
 おトキさんが、
「ソテツちゃん、この世にはね、自分の器では推し量れない人がいるのよ。神無月さんはもちろんのこと、お嬢さんも千佳子さんも素子さんも、このあいだいらっしゃった睦子さんも、旦那さんご夫婦も、山口さんも、菅野さんも、あの横山さんでさえ、みなさん常人じゃありません。私のように五十年も生きてくると、それがわかるの。そういう人たちに囲まれて暮らしていることが、しみじみと幸せになるの。あなたの常識なら、こっそりこの家の人たちのこともよからず思ってたんでしょう。あなたの配膳の態度が悪いって、よく苦情が出てたから。たしかにこの家は汚れたナリワイについている人をお世話する場所です。でも事情あってのナリワイが不如意だからと言って、人格まで不如意ということはないんですよ」
 ソテツは太い眉を上下させ、
「……トモヨ奥さまは、こんなところでお子さんを育てながら、神無月さんを待つだけの生活に何も不満がないんですか」
 トモヨさんは女将に直人を預け、膝を進めた。
「何を諭されてもあなたは世間常識一点張りなのね。こんなにすごい人たちの親切にすがって暴れまくって、何さまなの、ソテツちゃん。ふだんから厨房でも理屈っぽい子だなって思ってたけど、人の見境がない子だとは思わなかったわ。十六歳だから許される、五十歳だから許されないなんてことは、この世にはないのよ。許されないことは許されない。郷くんはだれでも許します。私は許しません。あなたは直人の父親を、私の伴侶を、すぐれた女の人たちの伴侶を、そして郷くんの伴侶を平凡な理屈で侮辱したのよ。料理がうまいうまいって褒められて、天下を取った気になってたのね。あなた程度の料理の腕の人ならいくらでもいます。あなたの希望どおり辞めていただきます。お給料をもらったら即刻出ていってください」
 ソテツは一挙に結論がやってきたことに驚愕して目を剥いた。賄いの女たちが厨房の戸を引いてこちらを覗いた。おトキさんが、
「それは奥さま、もう少しこらえてくださって。ソテツちゃんにも家の事情が」
「ソテツちゃんが自分の口で、ここにいられないと言ったんじゃなかった? 次の職場をちゃんと用意します。旦那さんや塙さんと相談して」
 女将が、
「ソテツは責められとると思って、つい逆らうような口を利いてしまったんよ。ソテツも反省するチャンスがほしいやろう。もう少し様子を見たらどうや」
 カズちゃんがクスクス笑っている。
「トモヨさん、怒っちゃったわね」
「当然ですよ。郷くんがこんな目に遭うなんて信じられない」
「キョウちゃんは何とも思ってないのよ。見てごらんなさい。心配してくれてる千佳子さんの手を撫ぜてるわ。流れてる時間がちがうのよ」
 大勢で歌う声が飛び石のほうから聞こえてきた。五人上機嫌で玄関に入ってくる。居間にドスドスなだれこむ。
「やあ、しっかり教えてもらった。神無月さん、声を張るゆうのがいかに大事か、おっしゃったとおりでしたわ。きょうはドレミのアーアーアーだけでしたが、喉がだいぶ拡がりました」
 うなだれて端座しているソテツを見て、
「どうしたんだ、毒の実」
 女将が、
「悪気はなかったんやろうけど、神無月さんに向かって毒を吐いてまったんよ。大ごとにしたないんやが、トモヨが辞めてくれゆうてな」
「変人とでも言ったか? 世間知らずとでも言ったかな。それだけじゃ神無月さんはビクともせんぞ。周りのやつらを悪く言ったんやろ。それやったら神無月さんはしゃべりだすからな。抱いてもらいたい気持ちの裏返しやろ。自分じゃ意識しとらんやろがな。せっかくここに慣れたんやから、ほかにやるのもかわいそうや。女にしてもらい」
 ソテツが真っ赤になった。座敷の女たちが、
「ええなあ、ええなあ」
 と言いながら寄ってきた。私はカズちゃんに耳打ちした。
「勃たない」
 カズちゃんがうなずき、
「おとうさん、そんな極端な話をしないで。キョウちゃんは何も気にしてないからって言ってるわ。いい話し合い手ができたって。女にしてもらえなんて、ソテツちゃんもいい迷惑よ。ますます腹を立てちゃうわ」
 じょうずな脚色をした。ソテツがキッと顔を挙げ、
「私、神無月さん、好きです」
 主人が、
「なんや、なんや」
 私は手を振りながら、
「きみは何が何かわからなくなってるんだよ。好きだなんてことを言ってしまったら自分でも引っこみがつかなくなるよ。言ってしまったことに遠慮して、もうだれにも疑問をぶつけなくなってしまう。ストレスのもとだ。そんなふうだと安心して暮らせなくなる。トモヨさん、ぼくのことなんかどうでもいいから、伸びのびソテツちゃんに仕事をさせてあげてください。ほんとうにいたくなくなるまで、いてもらうのがいちばんいい」
「……わかりました」
「申しわけありませんでした!」
 ソテツが畳に額を突いた。イネが彼女の背中をさすりながら、
「いがったねえ、ソテツちゃん、みんなで仲良くやってこ」
「はい、ご迷惑をおかけしました!」
 おトキさんが、
「神無月さん、ありがとうございました。この子も神無月さんのやさしさを一生忘れないと思います。お嬢さん、やっぱりアイリスのほう、手伝わせてやってください」
「もちろんよ。ソテツちゃんの修業にもなるし、私たちも助かるわ。ソテツちゃん、それでいいの? もやもやしてない?」
 ソテツは、
「はい、ほんとうに申しわけありませんでした。みなさんのお言葉、ほんとに身に沁みました。……引き返せなくなってしまって」
 菅野が、
「ソテツ、十日間何を見てきたんだ。アタマ悪いなあ。天下の神無月郷だぜ。海千山千の人間がハハアッてひれ伏す男だ。だれに向かって口利いてるんだ」
「ほんとうにお詫びのしようがありません。途中でとんでもないことしちゃったって気づいたんですけど」
 女将が、
「菩薩みたいなトモヨが怒るなんて、よっぽど腹が立ったんやろね。初めて見たわ。あらら、直人が寝とる。寝かしてくるわ」
 直人を抱いて廊下へ出ていった。カズちゃんが、
「好きだなんて、そういうことをうかつに言っちゃだめよ。キョウちゃんは言葉どおり受け取るからね」
「はい、でも好きだというのはほんとの気持ちです」
 菅野が、
「どういう話の展開でそういうことを言ったんだ。取ってつけたみたいじゃないか。神無月郷に簡単に抱いてもらえると思ったら大まちがいだぞ」
「……そんなこと思ってません」


         三十五

 主人が、
「おトキ、一本つけて」
「はい」
 素子が、
「あんた、キョウちゃんの好みとちゃうよ。キョウちゃんはな、まず顔で勃つか勃たんか決まるんや。人間ができてくると勃つこともある」
 百江がうれしそうに、
「素子さんはいつもモロですね。ソテツちゃんはキツい子だけど、ふだんから神無月さんのことを悪く言ったことはなかったんですよ」
 トモヨさんがやさしい顔で、
「お義父さんの言うとおりかもしれないわね。ほんとにそういう気持ちがあるなら、郷くんがその気になるまで辛抱強く待ちなさい」
「はい」
 よかったわね、とメイ子がもう一度ソテツの背中をさすった。ええなあ、ええなあ、とまた店の女たちが言う。イネが身をくねらせて、
「ワダシもソテツちゃんと同じ処女なんですけど、いつかお願いしてもいいですか」
 トモヨさんが、
「あなたは差し迫った問題ね。あなたが真剣なら、そのうち郷くんも考えるでしょう」
「はい!」
 店の女の一人が、
「ええなあ、私も処女よ」
 主人が、
「××子は朝起きたら毎日処女だろ。物忘れがひどいからな」
 座に和やかな笑いが拡がった。おトキさんが調子を二本持ってきた。
「ソテツ、ついでくれ」
「はい」
「菅野さん、あしたは一時試合開始だから、則武の家を九時半に出ます」
「了解。荷物は玄関の外に出しといてください。朝のランニングは?」
「七時半から牧野公園で柔軟だけ。その前に則武でめしを食ってください。ランニングは球場でやります」
「わかりました」
 菅野は主人と晩酌に入る。女将が戻ってきて大座敷で女たちの雑談が始まった。賄いたちもソテツを含めて全員混じった。千佳子は、
「読書します」
 と言って、文庫本二冊を手に自分の部屋に去った。
 十一時過ぎ、カズちゃんとメイ子と三人で夜道を戻った。カズちゃんはメイ子に、
「あなたの新しい蒲団はぜんぶ離れの部屋の押入に入れといたから、心配ないわよ」
「ありがとうございます、何から何まで。……自分の幸運を考えると、ソテツちゃんは気の毒です」
 と言った。カズちゃんはただ笑っていた。
 話をしながら寝るといって、二人は離れに引っこんだ。私は二階の八畳の勉強部屋に一人で寝た。手足が伸びた。
         † 
 三月十三日木曜日。朝〇・二度。快晴。六時半に起床すると、すでにカズちゃんとメイ子が食卓を整え、私が席につくのを待ちながら雑談していた。
「あら、キョウちゃん、おはよう」
「おはよう」
「おはようございます。よく眠れました?」
「ぐっすり。夜中に車の音がしてたね」
「二人でお城まで深夜のドライブをしてきたの。ついでにムッちゃんのお部屋も掃除してきた。ボルボのエンジン、たしかにちょっと調子が悪いわね。やっぱり整備に出したほうがいいみたい」
 広い脱衣場で歯を磨き、洗顔する。白木の板を敷いただけの二十帖の板の間にいき、初めて素振りをした。五十本。快適だった。食卓につく。ステーキが一枚。
「無理にでも食べておかなきゃいけないね」
「そうよ。名古屋での試合の日は、ときどきステーキかチキンを用意するわね」
「味つけは赤ワインとウースターソースだけです。けっこうおいしいんですよ」
 メイ子が買ってきてあった中日スポーツを眺めながら、柔らかい肉を噛む。きょうの広島戦に関する田宮コーチの事前インタビューが載っている。

 外木場対策と言っても、他の好投手と同様、あくまでも基本的なものしか考えていない。甘いコースを一発で仕留めるということ。外木場は四年目の去年とつぜん開花したピッチャーだったので、昨年コーチ就任一年目だった私が泥縄で講じた対策は、速球ピッチャーの特徴である高目に伸びるボールには手を出さずに、ベルト付近の高さのボールを狙っていけというものだった。しかし、画一的な指示は効果が薄い。今年の選手たちは、神無月の選球とバッターボックスでのさまざまな工夫を目の前で見ることで刺激を受け、急激に技術を向上させている。だから、一打席ごとにどういうバッティングをするかは、そのつど選手の自覚と工夫にまかせ、取り立てて作戦は立てていない。外木場にかぎらず、無理をせず打てるボールを打ち、選ぶボールは選んで、打線をつなぐ意識が重要だ。

 寮暮らしの江藤の電話インタビューも載っていた。

 各チームのエースピッチャーは、チャンスボールをなかなか投げてこん。外木場も同じです。内外角のきわどい球ば捨てて、ストレートが真ん中あたりへ浮いてきたところを打つのが理想やろう。めったにうまくいかんがね。結局、臨機応変に甘い球ば狙っていくしかなかろうもん。フォアボールが増えて、打点を挙げるチャンスが減ってもかまわん。好球がこんかったら潔くフォアボールば選ぶ。主軸へ回すのがワシの役目やからな。ワシは金太郎さんとともにクリーンアップの一翼ば担っとるちゅう意識しか持っとらん。

「あしたの午後には大阪へ出発して、二十七日の夜までほぼ二週間帰れない」
 メイ子はしみじみと、
「神無月さんて、興味を持ったものをぜんぶ征服してしまうんですね」
「征服じゃない。感激を大切にしてるだけだよ。感激を大切にしない人たちは、アタマの喜びだけを重視して、感情の喜びを軽蔑してる。感情の悦びは束の間のものにすぎないと言ってね。でも、感情は人間の神秘としてお受けしなければいけない。束の間ということにしても、精神的であれ肉体的であれ、感激というのはすべて束の間のものだ。野球も勉強も歌も文章も、みんな束の間の感激だ。一瞬で消えようが、五十年つづこうが、人間の一生に比べれば短いあいだの喜びであることに変わりはない。ぼくは四年前の冬に生き返ったとき、なるべく多くの喜びを経験しようと決めたんだ。それが、ぼくを生かしてくれた人たちに対する感謝の気持ちの表れになると確信した。ホームランを打つ快感、勉強ですぐれた成績を収める快感、渾身の力で唄う快感、人間の真実を表現することに頭を悩ませる快感。快感を感じすぎることを恐れない。快感を感じすぎないと何ごともまっとうできない。中庸な人間は当座の欲望が満足すれば、それ以上の快感を恐れる。命の危険を感じるからだね。ぼくは命を惜しまない。過ぎたるは及ばざるがごとしとよく言うけれど、過ぎたことは、人が中くらいの喜びの習慣に堕落するのを防いでくれる。過ぎたことはナマっていたからだを強くして元気を回復させるし、元気な自分を感じることで心を癒してくれる。そういうぼくの姿がメイ子には〈征服者〉と見えるんじゃないかな」
 メイ子は大きくうなずき、カズちゃんと二人でシンクに立った。二人が洗い物をしているあいだに、キッチンテーブルでミヨちゃんに合格祝いのハガキを書いた。三年間首を長くして待っている、としたため、一年生の勉強で三年間の勢いをつけるようにと書き添えた。
「おはようございます!」
 玄関に菅野の声。
「あ、菅野さん、上がって。朝ごはん食べて。ぼくはもう食ったから」
「ほい。神無月さんに朝めしを誘われてると言って、食わないできました」
 メイ子の手で、アジの開き、納豆、目玉焼き、味噌汁が出る。ステーキは売り切れなので出ない。私はパジャマをジャージに着替えながら訊く。
「先発予想は?」
 菅野はめしを噛み噛み、
「やっぱり外木場じゃないですかね。じゃなければ、大石か白石」
「特徴を簡単にお願いします」
「まず外木場。入団の翌年の四十年はたった二勝、去年二十一勝、その二年間にノーヒットノーランを一度ずつやってます。去年のノーヒットノーランは完全試合でした。球種は百五十キロ台前半の剛速球と、縦にするどく落ちるパワーカーブ。堀内みたいなタイミングをずらすカーブじゃありません。次に大石ですが、カープ史上最速のストレートを誇ったあの大石清のほうじゃなく、その大石と交換トレードで阪急からきた大石弥太郎のほうです。三年連続二十勝、三年連続二百奪三振」
「ややこしいね」
「はい、手足が暴れるみたいなフォームから速球を投げてきます。タコ踊りと呼ばれてます。タイミングを合わせるのが難しいかもしれません。めちゃくちゃコントロールのいいピッチャーです。最後にサウスポーの白石。眼鏡をかけてます。オーバースローからの速球、切れるシュート、フォーク」
「わかった、ありがとう。城之内タイプのピッチャーが苦手だから、大石は厄介だな。歴代で球の速かったピッチャーってわかる?」
「アメリカでは、大正のころから銃器会社や陸軍弾道研究所がピッチャーの球速を測ってますが、セネタースのウォルター・ジョンソンが百五十八キロ、スモーキー・ジョー・ウッド百六十数キロなどが計測されてます。その結果、ピッチャーは百七十キロは出せないというのが常識となりました。軍用レーダーを応用して速度取締用の測定器が終戦直後に開発されてます。百五十キロ前後のピッチャーとして、コーファックス、ギブソン、マローニー、ドン・ウィルソン、バーバー、ドライスデールなどが挙げられてます。百六十キロ以上はあのノーラン・ライアン。その測定器から派生した野球用のスピード測定器を現在開発中ですが、あと二、三年で完成すると言われてます。大リーグなどのピッチャーと比較した目視から、これまで日本で百五十キロ以上を投げたピッチャーは、時代順に、沢村、スタルヒン、金田、稲尾、杉浦、村山、尾崎、外木場、江夏、ロッテの新人の村田です」
「最盛期の力で実際戦えるのは、江夏と外木場だけということだね」
「はい」
 カズちゃんがコーヒーをいれる。
「じゃ、私たちは北村のほうへいきますから、気をつけていってらっしゃいね」
「うん」
 菅野が、
「きょうはボルボで球場へいきます。もう一度試運転。あしたディーラーに出しときます。ほんの少しセルモーターの回転が鈍いので、エンジンのかかりが悪いみたいですから」
 メイ子に、
「球場からユニフォームのまま帰って、北村でシャワーを浴びる。汚れたユニフォームは百江に渡すから、新しいジャージを持ってっといて」
「はい」
 玄関の荷物をボルボのトランクに入れてから、北村席門前の牧野公園へ向かう。念入りに屈伸と柔軟体操をやる。ジムにかようという話が立ち消えになっているのに思い当たる。時間を作らなければいけない。
「ジム、まだいってないんだ」
「いかなくてもいいんじゃないですか。器械を二つぐらい二十帖に入れれば」
「肩と肘と胸と背中の筋肉を鍛えられる器械を入れようか」
「やっぱり二つでいいですね。肩と肘と胸をいっぺんに鍛えるのはチェストプレス、背中を鍛えるのはラットプルダウン。どちらも五、六十万で買えます」
「勉強したの?」
「ジムの話が出てから、ちょっと名鉄のフィットネスクラブにいって、荒々〈学んで〉きました。これからは、私は神無月さんのマネージャーということになるわけですから」
「遠征から帰ってくるまでに入れといてくれる? 使い方を教えてね」
「了解です」
 素振りを百八十本。三種の神器。スピードを乗せて一種五十回ずつ。菅野も初めて三種の神器。ふうふう言いながら三十回ずつ。ビッショリ汗をかき、則武に走って帰宅し二人でシャワー。ユニフォームに着替えて、コーヒーをもう一杯。
「……生きてます。うれしいです」
「ぼくもうれしい」


         三十六

 菅野は背広に着替え、脱いだジャージをボルボのトランクに入れる。
「うちの洗濯機にぶちこんどけばいいのに」
「それはいけません。じゃ、いきましょう」
 ドロドロとボルボの快適なエンジン音がする。馬力を感じる。セルモーターって何だろう。北村の主人とおトキさんを拾って、九時半出発。トモヨ母子が門に見送る。おトキさんを助手席に、主人と二人後部座席に座る。外人のような中高の顔をした主人は背広を着ている。
「スパイクまで履いてきましたか。少年野球のように新鮮ですな」
「初めての対戦相手なので、少し緊張します」
 菅野が、
「どんなときも緊張感を捨てないんですね。それが神無月さんのいいところです。きっと草野球をするときもそうなんでしょう」
「はい。西高や東大のソフトボール大会でも、全打席ホームランを打ちました。気を抜けないんです」
 主人が、
「いつもピーンと張り詰めて打席に立っとる。シビレますよ」
「緊張を解くことができないのは、きっとぼくが打ちたいように自在に打ってるからじゃないんだと思います。自分のぎりぎりの能力でやっと打ってるからでしょう。ぼくにとってバッティングに関していちばん大事なのは、打つことにどういう意味があるかということなんです。能力のかぎりを尽くしてボールにバットを当てる喜び、それが意味です。その結果を評価されることには関心ありません。ぼくは打撃の専門家でもなければ、理論家でもない。ただのバッターです。自分が吸収できない技術には無関心なんです」
 菅野が、
「もうじゅうぶんですよ、神無月さん。こんなに完璧なバッターが、こんなに謙虚で内気な人間だというアンバランスは、まずだれにもわからない。自分を軽く言うのはむだな努力です」
 おトキさんがキョロキョロフロントガラスの左右を見ている。楽しそうだ。
「おトキさんは野球を観るの、初めてですね」
「はい、東京でも観ませんでした。ドキドキします」
 十時、中日球場の一般駐車場に到着。ものすごい人だかり。ドアを開けて降りたとたん歓声が上がる。
「帰りもここで待ってます」
「はい。ミーティングがあれば少し遅くなります」
「それでも五時前でしょう。喫茶店で社長と煙草でも吸って時間を合わせますよ」
 主人が、
「四の四!」
「それはちょっと。でも最低一本は打つようにがんばります。おトキさん、楽しんでね」
「はい!」
 用具を担ぎ、ファンの声から逃れるように関係者通用口へ走る。廊下に球場係員がたむろしている。ロッカールームに入り、チームメートに挨拶。
「お願いします!」
「オース、いこう!」
 ロッカーのバットを一本取り出す。高木のロッカーにまだあのグローブが吊るされている。どのチームも内野手は股間に〈バイク〉という防具を当てるのが習慣だが、ドラゴンズのメンバーは、キャッチャー以外はつけない。高木にかぎらず、だれもが姿態の美しさと華麗さを重要視している。たしかに、他チームの選手がゴソゴソ股間をいじっているのは見るに耐えない。長嶋でさえそれをやる。あの瞬間、幻滅する。真下から睾丸に当たる危険はキャッチャー以外にまずない。何を怖がっているのだろう。
 ユニフォームのベルトと、スパイクの紐を締め直す。ストッキングの出し具合を調整する。ダッフルの時計を取り出して気温を確認。五・七度、湿度五十九パーセント。
 ベンチに入り、バットスタンドに自分用のバットを入れ、ヘルメットの場所を確認。ベンチの踏み段を上がる。とつぜん目の前にグランドが展ける。さんさんと陽光が降り注いでいる。心が躍る。風強し。旗が真横になびいている。うまい空気を吸う。すばらしい解放感だ。ところどころテレビカメラが光る。早めに開門したのか、すでに観衆は三万五千人の満員。きょうもすし詰めだ。
 菱川、太田、高木たちと連れ立ってライトフェンス沿いのダッシュに専念する。フェンスぎわの観客から、
「ここにぶちこめよ!」
 と励まされ、レフトフェンスぎわで、
「エラーしろ!」
 と罵られた。広島ファンと阪神ファンは気が荒いと聞いている。彼らの気分を宥めるような、誠実で熱のあるプレイをしよう。感動さえすれば罵声は飛ばさない。感動に反応する性癖は人に本来備わっているものだけれども、無気力や怠慢で気分を損なわれるとその情動が弱まり、馬鹿にされたと感じてソッポを向く。彼らの願いは、選手たちのプレイがホンモノだと納得することだ。それに加えて、予想外の、架空に近いようなプレイをして彼らを魅了しなければならない。
 一握りの広島の応援団が三塁ベンチの上方に陣取って、鉦や太鼓を鳴らしている。高校や大学の応援に比べれば慎ましいものだ。年間予約席に主人と菅野とおトキさんの姿を確認する。彼らのすぐ下の席に千佳子の姿もあった。電車で駆けつけたのだろう。ボルボの後部座席に座れたのに、妙な遠慮をするものだ。とつぜん思い立ったのかろしれない。オカッパがいつの間にか女らしい長い黒髪になっている。黒髪が風に揺れる。スコアボードを見る。旗が相変わらずたなびいている。
 両チームの練習が終わり、メンバー表の交換。トンボが三人駆け出してきた。快晴の午後の空にウグイス嬢の声が響く。
「広島カープのスターティングメンバーを発表いたします。一番、セカンド苑田、セカンド苑田、背番号34」
 知らない。太田の選手名鑑パンフレットを借りる。苑田敏彦、二十三歳、百七十三センチ七十三キロ、福岡三池工業出身。ホームラン年平均一、二本。二割前後のバッター。目立った点なし。
「二番、ショート今津、ショート今津、背番号6」
 今津? 聞き覚えがあるぞ。たしかむかし中日にいた選手だ。小さいショートという以外に印象はなかった。そのときも背番号6だったはずだ。今津光男、三十一歳。百六十七センチ、六十八キロ、兵庫尼崎高校出身。昭和三十二年から中日に八年在籍、昭和四十年から広島。ホームラン年平均一本。打率二割弱。
「三番、ファースト衣笠、ファースト衣笠、背番号28」
 飛島寮のテレビで観た混血児。五年目、二十二歳。百七十五センチ七十三キロ、平安高校出身。豪快なスイングをする男。去年からホームラン二十本台。スイングを見るかぎりでは、まちがいなくホームランバッター。やたらに三振する。死球と犠打が多い。二割五分以上。もともと注目していた選手なので多少の知識がある。父親は戦後沖縄に駐留したアメリカの黒人兵。その男は家族を捨てて帰国した。このデリケートな問題に関して広島球団は本人に気を使い、緘口令を敷いている。
「四番、レフト山内、レフト山内、背番号8」
 心の師匠。きょう練習のとき握手をした。大きくてゴツゴツした手だった。並んで写真を何枚も撮られた。
「お会いできて光栄です。コースを定めて素振りをする練習を何年もつづけてきましたが、もとはと言えば山内さんの内角打ちに刺激を受けたためです」
「私もあの振り方は何万回となく練習したんだ。シュートが落ちる前に、予測してボールの下へバットを差しこむ打ち方だ。きみの振り出しの速さと重心の溜めは、いつも感心して見てるよ。尾崎以来の天才だね。テレビで観たが、その尾崎から初打席でばかでかいホームランを打ったね。私は三振だった」
「バリバリのころの尾崎だったら、ぼくも三振でした」
 十八年目、三十六歳。百七十五センチ、七十七キロ。これまでホームラン三百七十本。打率三割弱。二塁打が異常に多い。
「五番、ライト山本一義、ライト山本一義、背番号7」
 山本一義、百七十七センチ、七十五キロ、左利き。構えもスイングもおとなしい。もの静かな打者の雰囲気で憶えている。法政大出身、九年目、三十一歳。信頼の篤い二割七分のバッター。
「六番、センター山本浩司、センター山本浩司、背番号27」
 プロ入り同期の、ドラ一、法政大出身、二十二歳。百八十三センチ、八十二キロ。なぜか大きく見えない。痩せたからだを丸くして構えるせいだろう。
「七番、サード興津、サード興津、背番号10」
 興津立雄。百八十一センチ、八十三キロ、十一年目、三十三歳。かつての四番バッターではなかったか? 昭和三十五年に二十一本の本塁打を打ち、阪神の藤本と一本差でホームラン王を逃している。となると、ホームランバッターの雰囲気を持っているはずだが、そうではない。二割五分のアベレージヒッターで、三十八年には三割を打っている。
「八番、キャッチャー田中、キャッチャー田中、背番号12」
 田中尊(たかし)。水原監督と同じ高松商業出身。エースキャッチャーのようだが、知らない。捕球がうまい。頭がいいという定評がある。昭和三十年、三十一年と南海にいたが、すでに野村がいたせいで出場機会はゼロだった。百七十三センチ、六十五キロ。十五年目、三十三歳。ホームランはこれまで七本、二割弱の打者。
「九番、ピッチャー外木場、ピッチャー外木場、背番号14」
 五年目、二十三歳。百七十五センチ、七十八キロ。剛速球とパワーカーブ。ブルペンの投球練習を見ると、スムーズなオーバースローだ。速い。小男なのにバネがある。わずかにスリークォーター気味で、カーブはするどく落ちる。ワインドアップから投球に移るとき、浜野ほどではないが少し反り返る。フォロースルーでからだを地面に屈めるので、反りが生きている。浜野はフォロースルーが突っ立っているので、反り返る意味がない。きょう外木場から一本打てるだろうか。  
 アンパイアは球審鈴木、塁審一塁林、二塁久保田、三塁平光、レフト線審丸山、ライト大里。すでに何人か見知っている。たぶん十二時から始まった試合の途中経過の表示が出ている。ヤクルト・巨人3―2、南海・西鉄0―9。
 ベンチから身を乗り出して、バックネット裏を見る。予約席の三人は気づかず、千佳子が手を振った。私の背後にいた水原監督が、
「どう? 打てそうかい」
「いえ。一本いきたいんですが」
「三本いきなさい。ヘルメットを忘れずに」
 監督はベンチの全員に、
「サインなし、帰りのミーティングもなし。ぶちかましてください」
「オース!」
 長谷川コーチが、
「強力打線だ。勉ちゃん、五点やってもいいぞ。五点取られたら代える」
「おっしゃ!」
 田中勉がめずらしく明るく応えた。田宮コーチが、
「十点以上取るぞ!」
「オース!」
 守備に散った。外木場ばかりではない。田中勉も三年前の西鉄時代に完全試合をやっている。例年防御率二点台のピッチャーで、最多奪三振も記録したことがある。弾むようなフォームから投げこむストレートが走っている。野武士のようないかつい雰囲気の彼も、フォックスと同様、ふだんその姿を練習場やグランドで見かけることはあまりなく、こうして先発ピッチャーで出場するとき以外は埃のように物陰に潜んでいる。
 中とキャッチボール。中から江島へ。
「プレイ!」
 一番苑田がしずしずとバッターボックスに向かう。中西二世と期待された男だったとベンチウォーマーの徳武が言っている。
「山本浩司の入団で、外野から内野へコンバートされたんだ。山本と外野を争いたい、コンバートはいやだってゴネて、契約更改のサインをキャンプまでしなかったらしい」
 小柄な中西二世。華麗なプロ野球選手たち。どんな選手にも伝説があるのだ。もうさびしい伝説は聞きたくないという気持ちになってきた。苑田は二球目の内角速球を窮屈そうに打った。詰まったセカンドゴロ。高木、軽快にさばいて江藤へ。ワンアウト。広島応援団の鉦太鼓が空しく鳴りわたる。ほかの観客は打てない選手にうんともすんとも言わない。
 二番今津、ストレートをつづけて二球空振り、外角カーブを見逃し。三球三振。中日ベンチのもと同僚たちも冷たい視線を送る。
 モミアゲの長い衣笠がブンブンとバットを振り回しながら打席に入った。腋を締め、少し猫背で立つ。山本浩司と同じ丸い構えだが、からだが大きく見える。こちょこちょバットを動かさないせいだ。初球ストレート、低い姿勢で踏み出し、すさまじい空振り。右足にウエイトを残した思い切りのいいスイングだ。惚れぼれする。全打席ホームランを狙っているとしか思えない。恐怖を感じたのか田中勉は、二球目を外角遠くへ外した。衣笠はいまにも振り出すかという格好で見逃した。ワンエンドワン。田中の不安を私も感じた。
 ―私に飛んでくる。
 三球目、真ん中低目速球、からだを沈めて踏み出し、渾身のスイング。食った! 衣笠が唾を吐きバットを放り出した。私は一歩も動かず打球を見送った。白球が私のはるか頭上を通過して、レフトの看板を直撃すると観客席に撥ね返った。衣笠は肩を怒らせダイヤモンドを回っていく。茶色い顔に白い歯が見える。素朴に喜んでいるのだ。チームメイトに手荒く祝福される衣笠の首がうれしそうにすくむ。一対ゼロ。
 山内が打席に入った。じつに美しい立ち姿だ。猫背になって首を突き出し、ゆるく握ったバットを真っすぐ立てて構える。初球、内角シュート。強気の田中なら、シュート打ちの名人にかならずこれを投げると思っていた。山内はバットを後方へ引き、アウトステップして、腰の回転だけで左手一本のスイングをする。食ったが、音が弱い。レフトの頭上に高く舞い上がったフライが時間をかけて落ちてくる。定位置より少しバックして捕った。もう少し早いタイミングでバットを出せばホームランだった。チェンジ。



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