四

 飯場の事務所に西田さんという日大出の新入社員が入ってきた。眼鏡をかけ、キリギリスのように痩せている。彼は小山田さんに、
「ポン大、ポン大」
 とからかわれながら、うれしそうにしていた。
 ある日彼は、朝飯を食べている私の足もとを見下ろして、
「でっかい足だな」
 と言った。純粋に驚いた感じだったけれど、いやな気分になった。ごつごつした指は野球選手としてどうにか納得のいくものだったけれど、二十四センチもある足はがまんできなかった。阪神の四番バッター藤本勝巳が、足の小さいせいで(彼の足は二十四センチだった!)下半身の故障が多いとよく話題になっていた。でも、百六十一センチで二十四センチの私には、藤本の大きなからだにくっついている〈小さい〉足が羨ましかった。このままいけば、二十六センチ、二十八センチ、ひょっとしたらジャイアント馬場のような三十センチ以上の足になるかもしれない。そばで聞いていた吉冨さんが言った。
「いいんだぞ、大きくて。長嶋や王は、二十八、九センチもある。足が大きければ、からだ全体が安定するし、これからもっと背が伸びるという証拠になる」
 それでも私はがっかりして自分の足を見ていた。
「おい西田、大選手に向かってくだらないことを言うんじゃない。おそれ多いぞ。おまえなんか、ただのアンポンタン大学出の、〈たわけ〉の小足だろ」
 クマさんの言葉に西田さんは、へーい、と言って頭を掻いた。サンダル履きの西田さんの足を見ると、たしかに小さな足をしていた。不思議なくらい小さなその足も、私には羨ましかった。
 この日から私は西田さんと仲よくなった。日大理工学部出身の西田さんは、私が数学の問題を考えあぐねて尋きにいくと、よく詳しい説明をしてくれるのだった。おかげで私は、抜き打ちに行われる数学の小試験で満点を外さなくなったし、これまで国語と英語以外には聴かなかった『中学生の勉強室』も、ちゃんとテキストを買ってきて、中学三生生向けの数学を聴くようになった。とはいえ、二学年も上の数学の内容は、まったくちんぷんかんぷんだった。
         †
 分団のない通学は気楽だった。学生カバンを手に勉強小屋を出て、商店の雑じる家並を歩き、クマさんの社宅を左に見てゆるい勾配を登り、大楠のある加藤雅江の家の庭を過ぎる。藍色の堀川を見下ろしながら、大瀬子橋を渡る。木之免町から東海通りを横切り、本遠寺前の信号を渡って、白井文具店の横丁に入る。堀川端の柳並木の向こうに宮中がそびえている。塀沿いの葉桜のあいだから校舎を仰ぐ。毎日大勢の中学生が私の前後に立って通学しているのにちがいないけれども、いつも一人きりの感じで快適だった。
 下の校庭から石段を登って、上の校庭に出る。グランドを横切り、プレハブ校舎にたどり着く。簡易庇の下に据えられた下足箱にズック靴を入れ、上履に替える。教室にはたくさんの窓が開いていた。右の窓際の席に後藤ひさのと並んで座る。桑原以外はまだだれも話しかけてこない。もちろん、仲良くやっていけそうな顔は一つもない。それでも、とうとう中学生になったのだという気がする。
 下の校庭に集まり、朝礼。月曜日だけ校長先生の訓話があり、そのほかの曜日は校歌斉唱。十五分で解散。授業が始まる。
 中学校の授業には、小学校とちがって何か緊張するものがある。特に数学。先生の説明が秘密の呪文のように聞こえ、謎を解いてやろうという義務感に冒される。先生が解答を出し、自分の解答が正解だとわかると、ひどく安心する。質問を受けると、緊張感が高まる。だれもが周りの連中に自尊心を傷つけられまいとして、細心の注意を怠らない。
 きょう気づいたのだけれど、清水明子の瞳は茶色くて、夢見るように翳っているのがわかった。だれにも焦点を当てない冷たい眼だ。彼女の大きな胸は新鮮で、見ているとなんとなくいい気持ちになる。
 昼食になる。みんな色とりどりのハンカチに包んだアルミの弁当箱を出す。教室が騒がしくなり、すぐに静まり返る。大勢の口が動く。なんだか不気味だ。にぎやかにめしを食う飯場とぜんぜんちがう。後藤ひさのも静かにあごを動かしている。
「きょうも食べんの?」
「うん」
 給食のない中学に入って以来、私は昼めしを食ったことがない。もとはといえば母が弁当を作らないせいだけれど、別に腹はへっていないし、夜にどんぶり飯を二杯も食えば満足するので、そのことに不満はない。食事のあいだじゅう、いろいろなイージーリスニングが流れつづける。
「これは?」
 後藤ひさのが尋いてくる。
「ベルトケンプフェルトの愛の誓い。真夜中のブルースもいいよ」
「これは?」
「パーシーフェイスの夏の日の恋。クリフ・リチャードもこの曲を唄ってる」
「よう知っとるね」
 スカートの窪みに手を差しこんで以来、ひさのは腿を摺り寄せてくるようになったけれど、私は無視している。どうせ親しくしたって、京子ちゃんみたいなものを触らされるだけだ。
 この時間は眠くなる。机にうつ伏せになりたいが、昼食どきにそんな格好をしたら、みじめったらしい感じに映るかもしれない。腹もへっていないのに、それは心外だ。表へ出て、下の校庭に降りていく。正門から堀川端へ出る。川沿いに何往復か走って、ベンチに腰を下ろす。浮いている材木の群れを見つめる。眠くなるのは、小学校とちがって昼休みに校庭に出て遊ぼうとするやつらがいないのを退屈に感じるからだ。
 ―野球部に入ったら、この時間を利用してバットを振ったり、ランニングをしたりしてみようか。
 康男が近づいてきた。顔色がふだんより白い。なんだか疲れているようだ。
「やっぱり神無月やったか。外へ出ていったで、びっくりしたわ。走っとったな」
「退屈だからね。顔色悪いよ。寝てないみたいだね」
 康男は軽くあくびをしながら、
「徹夜麻雀や」
 事情は話したくなさそうだ。
「……康男も昼めし食わないの?」
「パンあるで。ほれ」
 ポケットから取り出してビニール袋を破り、メロンパンを半分に割って差し出す。
「ありがとう。でも、腹へってないんだ」
「俺もや。かあちゃんは昼まで寝とるでよ、弁当なんか作れせん。菓子パン買って、バスで食いながらくる。これ、その残りや」
 康男が私をじゅうぶん理解していることから出てくる話題だ。私以外の仲間と交わしても何の値打ちもない、二人だけの友情から出てくる類の話だ。二人とも、ほかの生徒にはそんなことを口にしないほうがいいとわかっている。
「腹へっとらんでも、食っとこうや」
「うん。卒業式のときはジャムパンだったね。ぼくは甘食がいちばん好きだ」
「へそパンか」
「そう。横浜でよく買って食べた」
 二人してメロンパンを齧りはじめた。ほかの生徒たちが何かをしゃべるとき、それはきまって、毎日の習慣や、勉強の方法とか、切手集めみたいな趣味とか、テレビ番組や漫画といったものが話題になる。中には岩間のように、自分に押しつけられた将来についておとなっぽく不満を言うやつもいるけれど、結局はどれもこれも世間話にすぎない。要するに、彼らはどうでもいいことに深い関心を抱いているのだった。彼らに比べれば、私も康男も、二人の友情から紡ぎ出される事情以外のことには上の空で生きているようなものだった。
 そんなわけで、康男と私は新しい環境の中で、二人がいっしょにいるのを見かける者の目には、ひどく緊密に結び合った異端者に見えたにちがいない。もちろんだれ一人として私たちにちょっかいを出したり、悪く言ったりする者はなかった。私と康男の不思議な交友について仲間同士で語ろうとすると、どうしてもその値打ちを下げるようなことを言いたくなるので、口をつぐんでいるしかなかったのだ。康男はヤクザ者の身内だったし、私は飯場の息子だった。そんな境遇の生徒はほかに見当たらなかった。
「野球部に入ったら、昼休みはランニングでもしようかなって思ってる」
「かえって腹へるがや」
「だいじょうぶ。朝めし腹いっぱい詰めこんでくるから」
 午後のチャイムが鳴った。走って正門を入り、上の校庭で群れている連中にまぎれこむと、二人それぞれの校舎へ早足で戻っていく。
         †  
 土曜日の放課後、十五人の新入生が学生服のままバックネット前に集合した。レギュラーの上級生の前で緊張し、だれから飛んでくるとも知れない指示を待っている。岩間の言ったとおり、千年小学校からの入部志願者は、私のほかに関一人だけだった。驚いたことに、いつか康男に喧嘩を売りにきた日比野小の番長が、ふてぶてしい態度で混じっている。彼が野球をやるとは知らなかった。康男に教えたら吹き出すだろう。
「ようし、並べ。俺はキャプテンの与野だ。三年生で、ピッチャーをやっとる」
「二年の本間。センター」
「三年、キャッチャー、笹岡」
「三年の轟、ピッチャー」
「三年の里中、サード」
「二年、ショート、高須」
「二年の崎山、ピッチャー」
「三年、神保、セカンド」
「二年、ピッチャー、今」
「三年の泉谷、ファースト」
 自分の守備位置と名前だけを次々と告げていく。三年生六人、二年生八人。覚えきれない。本間と与野という最初の二人の名前だけは記憶できた。この何日か練習の様子をネット裏から見ていたとき、下手投げのピッチャーが投げこむ速球を、大柄の生徒がポンポン打ち返していた。それが、与野と本間だった。本間は、一重まぶたが切れ上がった、気位の高そうな顔をしていた。
「オス!」
 と先輩たちの声が上がった。下の運動場からノックバットを担いだトレパン姿の先生が上がってきた。新入生をギョロリと見回し、
「よし、気をつけ! 俺は岡田だ。二、三年生の数学を担当している。今年は巨人のベロビーチキャンプにあやかって、とくにバッティングパワーの強化を目指す。もともと宮中は守備力の充実したチームだが、そのさらなる強化も含め、春から夏にかけて、私なりにビシビシやっていくつもりだ。じゃ、新入生、挨拶!」
「よろしくお願いします!」
 岡田先生と、一列に並んだユニフォーム姿の先輩たちに向かって、新入生が深々とお辞儀をする。与野が、
「じゃ、自己紹介。手短に!」
 一年生が順に名前と出身校、いままでの守備位置や打順などの短い自己紹介をしていく。
「太田です。白鳥小。サード。肩に自信があります。三番を打ってました。タコと呼んでください」
 真四角な顔に円くすぼんだ口がついている。漫画でよく描かれる王貞治の顔だ。
「千年小、関。ファースト。一番バッター」
「中村高志。白鳥。キャッチャー。四番。白鳥ではデブシと呼ばれてました」
 これもなるほど肥満体とまではいかないけれども、かなり堅肥りの丸いからだをしている。中村は太田と顔を見合わせて微笑し合った。二人で申し合わせた売りこみのつもりだろう。
「神無月郷。千年小学校。レフト。四番」
「御手洗(みたらい)です。日比野。内野ならどこでも。六番」
「高田。白鳥。だいたいセカンド。一番」
 上級生たちの眼がいちいちあなどったふうに見下ろす。例の番長の順になった。彼は野球をしたことはないと告げ、
「山中。日比野。セカンドをやらせてほしいんや。ラクそうだで」
 と、眉一つ上げずに言った。
 ―こいつ、山中というのか。
「ちょい待ち草。きみは野球をなめてるのかな。経験がないのは仕方がない。しかし、ラクそうだなんてのは、野球に対して失礼じゃないか」
 岡田先生がギョロ目をさらに大きく剥いた。
「おまえらが声かけてきたんで、きてやったんやで。ありがたく思えや」
 山中はだれでも自分を批判するやつは殴りつけてやるという心構えのようで、それはたぶん、彼自身が自分をあまり高く評価していないからだろう。言葉は乱暴で、言いたい放題、すべて抑えきれない感情の赴くままだけれど、腹いせにしてはどこか臆していて、みじめっぽい調子がただよう。
 彼の態度に上級生たちは怒り狂った。
「なんやと!」
「いてまうぞ!」
「ケツにバット突っこんだろうか!」
 中でも本間はひどく腹を立てたらしく、くそったれ! と叫んで山中の顔をすごい形相で睨みつけていたが、無理に自分を落ち着かせた声で、
「トッポイこと言うな。おまえは野球をやったことがないんで知らんやろが、セカンドは守備のカナメやで。いちばん難しいんや」
 山中は拗(す)ねたようにフンと横を向いた。その不貞腐れた頭へ岡田先生がコツンとバットの先を載せた。
「未経験者は、最初は球拾いだな」
 山中は急に勢いを失い、うつむいて、タワケ、とか、コロスゾ、などと呟いた。


         五

 十五人全員の自己紹介が終わると、岡田先生はきわだって濃い眉の下の目を私の顔にちらと走らせ、予定の行動のようにバットで私の足もとを差して、
「おまえたち、ラッキーだったな。この御仁が、有名なスラッガー神無月だよ。名古屋市のホームラン記録を二度も塗り替えた男だ。うちみたいな公立中学にくる器じゃない」
 オーッ、とレギュラーたちがどよめいた。十五人をあなどっていた視線が、たちまち賛嘆のそれに変わった。
「小さいが、均整のとれたからだをしてるだろ。全身これバネだぞ」
 岡田先生は、私の小さく締まった野球選手らしい容姿に大いに満足している様子だった。関を除いた新入部員たちも驚いて、私をしげしげと眺めた。山中は私に目もくれなかった。
「スカウト、こんかったのか?」
 与野が訊いた。
「中京中学からきましたが、母が追い返しました。ぼくに勉強させたいんだそうです」
「狂っとるんか……」
「三年生になったら、中商が誘いにくるかもしれませんし、もしこなければ、いつか、テスト生でいくつもりです」
 みんな無言だった。岡田先生は首を振って、呟くように言った。
「こういうのはタイミングの問題やで、遠大な構想立てたらあかん。お母さんは大失敗したな。この三年が勝負や。かならずスカウトはくるで、安心しろ」
「身長は?」
 私より十センチほども背の高い本間が尋いた。
「春の身体検査では、百六十一センチでした」
 先輩たちの中にはもちろん、新入部員の中にも、私より背の低い者は何人もいなかった。山中が、へっへっ、と蔑むように笑った。岡田先生は山中を睨みつけ、
「だから野球はおもしろいんじゃないか。こんなに小さくても、とてつもなくボールを飛ばす人間がいる。エンゼル球場で見たときも、一人だけ目立った飛距離だった。野球で肝心なのは上背(がたい)じゃないってことだ。知っといたほうがいい」
 ―エンゼル球場まで見にきてくれたのか、それじゃあのホームランも見たんだな。
 関が言った。
「神無月くんは、千年では金太郎さんと呼ばれてました」 
「ほう、金太郎さんか。そりゃいい。金太郎さんには一年から四番を打たせることにする」
 岡田先生のギョロ目が光った。
「オス!」
 いっせいにうなずく先輩たちに、私は深く頭を下げた。
 ―一年生から四番か! 自信はあるけど、コンスタントに先輩たちより大きな当たりを飛ばせるだろうか。
「新入生は仕事が多いぞ。部室の掃除、グランド整備、バッティングティーとベースの支度、球拾い、あと片付け、ぜんぶおまえたちの仕事だ。いいな」
「はい!」
「あしたから練習に合流すること。無地のユニフォームを着てこい。なければ部のほうで適当なやつを貸してやるが、なるべく早いうちに買ってくれ。勝手に背番号をつけるんじゃないぞ。小中学生は公式試合の準決勝からしか背番号をつけられない。おととしは惜しくも準々決勝までだった。去年は二回戦敗退。今年こそベストフォーまで進めるようがんばってくれ」
「オス!」
 岡田先生は新入部員だけに解散を命じた。私は彼の前に進み出て尋いた。
「居残って練習していいですか」
「お、いいぞ。熱心だな」
 と目を細めた。
「ユニフォームは持ってきてるか?」
「ぜんぶ持ってきました」
「よし。着替えはあの小屋でしろ」
 岡田先生はバットでライトのスレート屋根を指した。
「守備はレフトだったな。きょうは足立の後ろで球拾いでもしとればいい」
 ユニフォームを入れた紙袋と通学カバンを提げ、小屋めがけて走った。レギュラーがかけ声を上げながら守備位置に散っていく。二、三年生の補欠選手たちがきびきびと、一塁側と三塁側のファールグランドに列をなして並んだ。総勢二十名近くいる。新入生を合わせると五十人ほどになる。広いグランドとはいえ、それだけの人数がいると壮観だった。
「イグゼー、イグゼー、イグゼー!」
 仲間を鼓舞する声だ。これだけは小学校と同じだ。私はあわただしく着替えをすまし、全速力で駆け戻ると、左翼手の後ろについた。一年B組の教室のすぐ前だった。私はレギュラーに混じって入部の初日から野球ができることに興奮していた。
 岡田先生のノックが始まった。内外野無差別に打ってくる。ときどき足立の取り損なったボールや、頭を越されたボールが転がってくる。私はそれを掬い上げ、柔らかくセカンドへ投げ返した。握ったとき凹凸の多いボールが掌にシックリ収まり、一回り大きい感触だった。
「ええ肩しとるなァ」
 足立が振り返って褒める。私はうれしくなった。
「ずっとレフト守っとったのか?」
「はい」
「じゃ、俺はお払い箱やな」
 どう応えていいかわからない。それきり足立は一度も後ろを振り向かなかった。
 フリーバッティングが始まった。私の頭を越えてプレハブ校舎の屋根まで飛ばす選手がいる。ときどきセンターオーバーの打球も飛ばす。右バッターだけれど、グリップを低く構えるフォームは、阪神の左バッター並木に似ている。本間だった。
「おおい、神無月、打ってみろ!」
 岡田先生が大声で呼んだ。
「はい!」
 初日から打たせてもらえるとは思っていなかったので、少し声が上ずった。ホームベースまでダッシュしていく。
「ホームラン王の貫禄をみんなに見せてやってくれ」
 本間は複雑な笑いを浮かべながらバッターボックスを譲り、守備位置のセンターへのろのろ走っていった。補欠たちがいっせいにライトへダッシュし、新人の打球に構える態勢をとった。私はホームベースのあたりに投げ出してある何本かのバットのうち一本を取り上げ、手首で重さを確かめた。次々に確かめていく。どのバットもいやに軽くて、先のほうに重心がない。おまけにいつも使っているものより何センチか短い。いちばん長くて先の太いやつを二、三回素振りしてみた。それでも軽い。片手で振れそうだ。しっくりこないけれどこれでいくしかない。
「お願いします!」
 あしたから自分のバットを持ってこようと思いながら、打席に入って構えると、心なしかグランドが千年公園のように狭く見えた。
「与野、いけ!」
 ハイと応えて、サブマリンのピッチャーがマウンドに立った。二、三球投げこんでくる。岩間よりずっと速い。
「じゃ、十本ぐらい打ってみろ」
「はい!」
 初球は顔のあたりの高目だったけれども、私は一球でも見逃すのがもったいない気がして、ふんぞり返った格好で真上から叩きつけた。
 ―先っぽだ!
 しかし打球は意外にするどいライナーで伸びていき、ライトの頭上を越えて更衣小屋の入り口にぶち当たった。
 ―先っぽに当たった分、お辞儀しちゃったな。
「うひゃー! やるなあ、さすがホームラン王!」
 岡田先生につられて、
「ナイスバッティング!」
「ナイスバッティング!」
 レギュラーや補欠たちが歓声をあげる。
 ―打ち損ないなのに、あんなにびっくりしている。もっと飛ばしてみせたら、腰を抜かすかな。
 いつもの誇りが回復してきた。二球目は私の好きな膝もとの低目だった。思い切り振った。グンと芯を食った手応えを残して高く舞い上がったボールが、あっという間に小さくしぼんで平屋校舎の向こうの住宅地へ消えていった。
「おいおい、百メートルはいってんじゃないのか! 軟式で飛ばす距離じゃないぞ」
 岡田先生が叫ぶ。思ったとおり今度はだれも喚声を上げずにシンとしていた。レフトの定位置を奪われることが確実になった足立が、プレハブ校舎の前から淋しそうにこちらを眺めていた。補欠の一人が岡田先生に命じられて、塀の向こうへ様子を見に走った。
「民家の窓ガラスでも割ってたら、弁償しなくちゃならんからな」
 一瞬、センターの本間の険しい顔が目に入った。彼はすぐにとぼけた様子で素振りの格好をしはじめた。夕方の陽射しが上下の校庭を仕切る桜の樹のあいだから洩れてきて、一塁側のファールゾーンに美しい模様を作った。セカンドライナーとファーストフライ。その二本を除いて、すべて校舎の向こうに打ちこんだ。一本は体育館の屋根に当てた。幸い右中間の窓ガラスは割れなかった。
「ようし! 名古屋市最強の四番バッターだ。いや、その年齢だと、日本一かもしれんな」
 岡田先生はホクホク顔で守備練習を再開した。私はまた思い切りダッシュして、足立の後方へ回った。ポツリと彼が言った。
「おまえ、天才だな」
 最後のベーランまで、連係プレーや滑りこみの練習が休みなくつづいた。私は足立の後ろから、その風景を奇妙な優越感を抱きながら眺めていた。足立のしおれた背中が気の毒だった。これからの彼は、僕が故障したときの要員となるのだ。
 六時を過ぎて岡田先生が退きあげると、私は率先して補欠選手たちといっしょに後片づけをし、トンボでグランドを均(なら)した。更衣室で私が学生服に着替えているとき、みんな沈黙していた。あしたからの四番バッターにだれも声をかけてこないのは、悪意や嫉妬からではないようだった。ひたすら畏れ入っている雰囲気なのだ。
 私は彼らに深々と礼をして、夕暮の校庭に出た。心地よい風が吹いている。未来から吹いてくる希望の風だった。
 ―二年後に、きっと中商はやってくる!
 校門のところで関が待っていた。
「あ、帰らなかったの」
「ネット裏でおまえのバッティング見とった。先輩たち、ショック受けとったが。体育館の屋根まで飛んだ打球な、あれ、百メートルをはるかに越えとったで。なんか、神無月、ますますスゴなったな」
「腕立てと懸垂で、だいぶ力をつけたからね」
「筋肉つけてバッティングがようなるなら、だれだって毎日やるわ。そういうことやないやろ」
「腰の回転と、手首の返しかな」
「ふうん……。岡田先生、はしゃいどったな」
「足立さんは、さびしそうだった」
「仕方ないやないか。どうあがいたって、神無月に勝てせんも。ピンチヒッターぐらいはさせてもらえるやろ」
 私には関のような勝ち負けの感覚はなく、ぼんやり満足しているだけだった。
「尾崎が浪商を中退して、東映フライヤーズに入団したらしいで」
「みたいだね。張本や、暴れん坊の山本ハチも浪商出身だから、のびのびやれるんじゃないかって、新聞に書いてあった。西鉄にいったら稲尾がいるし、南海の主力は皆川や杉浦だし、阪急には米田がいる。そんなチームに入ったって、すぐに出番が回ってこないから宝の持ち腐れだよ」
「セリーグでも同じやろ。中日に権藤、国鉄に金田、阪神には小山と村山」
「そう。だから、東映に入ったら即戦力になれる。水原監督は、これで初めてリーグ優勝できるって喜んでるらしいよ。ぼくもそう思う」
「契約金六千万円やて! 信じられんけど、あたりまえかもしれんな」
 遠い世界の話をしていると思わなかった。それは何年かしたらやってくる自分の未来の現実だった。


         六

 昼休み。堀川端をランニング。五百メートルほどの距離を二度往復してグランドに戻り、桜の樹の下の草に横たわる。ツツジの斜面へ、何匹か蝶が気持ちよさそうに舞い下りていく。草の中にところどころタンポポの白いかたまりが見える。空から降ってくる光がぬるま湯のように温かい。眠くなる。
 午後一限目。書道の時間。国語の青山先生は、三十歳ぐらいの、からだの動きがロボットのようにカクカクした先生だ。しゃべりながら長い前髪をしきりにかき上げる。書道の授業は週にたった一回だが、私には拷問だ。六週つづけて不合格の判を捺されている。クラスの中で不合格者は私だけになった。題字は水。
「きみの字は、どこかおかしいんだよね。大きく書くのは悪いことじゃないし、きみの取り柄でもあるんだけど、バランスがなってない。この分じゃ、今学期中の合格は無理かもしれないぞ。国語の成績はいいのに、なんで字はうまくいかないのかな」
 桑原でさえ合格しているのに、ほんとに私の字はだれが見ても不細工なのだ。後藤ひさのや河村千賀子なんか、もう四段階も先の初志という課題にいってしまった。清水明子は習字が不得意らしく、最初の課題に合格したきり、まだ第二段階の空で悪戦苦闘している。
 入学して四カ月。勉強は思ったほど難しくはない。英語なぞ子供だましだ。
「ディス・イズ・ア・ペン」
 とか、
「アイ・ハブ・ア・ブック」
 とか、スモールティーチャーが何度も唱和させるのには驚いた。そんな馬鹿みたいな会話がこの世に存在するはずがない。曜日の単語にしても、
「〈モンデ〉ー、〈チュー〉シテー、〈サーシ〉テー」
 などと知ったような連想に結びつけて暗記しようとしているやつがけっこういる。もちろん私の英語の成績はいつも百点だけれども、こんなに簡単だと、なぜか満点を取るのがあたりまえすぎて、恥ずかしい気さえする。
 国語はもともと得意科目だったので問題はない。勉強をしたことさえない。青山先生は何か質問があるときはいつも真っ先に私にあてる。ただ実際の試験となると、わずかの差でトップはかならず清水明子だ。
 小学校より難しくなったとみんなが言っている数学に、私は小学校のときとはちがった深い関心を持つようになった。考え方の道筋に理屈があって、解き終えたあとの満足感がいままでとまったくちがっている。小学校の鶴亀算や植木算よりすっきり納得できる。だから、小テストはクラスの一番を通している。もちろんそれは西田さんのおかげでもある。
 暗記科目の地理は徹底して不得意だけれど、ヒグマのようにずんぐり肥えた渡辺先生がやさしい人で、なんだか安心して、悪い成績のことを忘れてしまう。彼は授業開始前にいつも民謡を唄う。このあいだは『波浮(はぶ)の港』という伊豆大島の民謡を唄った。

  磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
  波浮の港にゃ 夕やけ小やけ
  明日の日和は ヤレホンニサなぎるやら

 目をつぶり、まん丸いからだを前屈みにして朗々と唄うのだ。みんなその真剣さに打たれて、しんみり聴いた。
「吉永小百合という十七歳の女優さんをごぞんじですか? 『キューポラのある街』という映画に出ています。とても考えさせてくれる映画です。ぜひごらんになってください。彼女は歌も上手で、最近はマヒナスターズといっしょに『寒い朝』を唄っていますね」
 授業の終わりにはかならず、そんな雑談をする。渡辺先生の地理だけはいい成績をとりたいと思うけれども、うまくいかない。英語はよく憶えられるのだから、暗記する力が生まれつき弱いとは思えない。社会科という科目の内容が乱雑に感じられるせいかもしれない。小学校のときからそうだった。
 音楽や保健体育や、美術、技術家庭といったサブ教科は、まずまず普通なみというところ。とにかく習字だけが努力のしようがなく、何ともならない。
 守随くんのおかげでせっかく身についた向学心が、あのスカウトの件にがっかりして以来、中学に入学するまでの数カ月、なんとなくしぼんでしまっていた。将来に希望のないまま勉強なんかする気にならなかった。でも中学にきてからは、人が変わったように勉強の虫になった仲間たちに刺激されて、ぐんぐん勉強意欲が湧いてきた。毎日きちんと努力していればきっといいことがあるさ、と明るく割り切った気持ちになれた。ぜったい野球で生きてやるという野心も、それにつれてふくらんできた。
 六月初旬の中間試験は、英語と数学は満点、国語は九十四点、それでも総合はクラスの十二番、全校五百十三名の中で九十五番だった。九科目のうち二、三科目にすぐれていても、総合的にはふつうの成績になるということがよくわかった。でも、私はこれでいいと思った。理科と社会科まで成績を伸ばす時間の余裕などない。ここまでがせいぜいのところだ。私は野球をやらなければならないのだ。
 午後の最終授業の技術家庭が終わった。この授業だけは下の校庭の教室でやる。上の校庭のプレハブに戻って、帰り支度をする。更衣小屋へ向かう途中、テニス部がネットの用意を始めている下の校庭を見下ろすと、守髄くんがつまらなそうに校舎の塀にもたれて日向ぼっこしている姿が目に入った。何か考えふけっているようだ。その様子があまりにしおれているので、何ごとだろうと思ったとき、彼の頭上に帯状に紙が貼り渡されているのに気づいた。なぜかドキンとした。そのままライト側の石段を降り、守随くんのほうへ近づいていった。足が止まった。
 五月の下旬に行なわれた第一回実力試験の結果が貼り出されていた。年に三回だけの大きな試験。クラス内の順位を決める中間や期末も大事な試験だけれど、全校の五十番まで発表されることになっている実力試験は、正真正銘、学年の序列を決めるテストだ。だから成績優秀者は校舎の塀に大々的に貼り出されることになっている。私はあらためて守随くんの沈んだ顔を見つめた。
 ―きっと、成績がよくなかったんだな。一番以外とったことのない人だから、もし五番や十番に落ちたらガッカリしてしまうだろう。それとも、鬼頭倫子に負けちゃったのかもしれない。五十番にも入れっこないぼくが、守随くんみたいな贅沢な悩みを持てるのはいつのことだろう。
 実力試験の日、教壇で山田先生が何か難しそうなことを言っていた。
「愛知県は全国でも有数の教育県なので、一年中試験ばかりしているみたいですが、じつは愛知県ばかりでなく、どこの県も似たり寄ったりなのです。ベビーブームに生まれたきみたちの宿命だと思って、あきらめてください」
「イエス、アイ、ドゥー」
 桑原がおどけた声をあげた。もうだれも笑わない。そこで彼は、
「スットン、トロリコ、スチャラカ、チャンチャン」
 と、藤田まことの声色をまねて『てなもんや三度笠』のテーマソングを唄った。これにもだれも反応しなかった。
「スクールという言葉には、ギリシャ語でスコラ、スコレ、つまり、もともと娯楽という意味があります。勉強そのものは楽しいはずのものなんです。前言を撤回します。宿命だなどと消極的な気持ちではなく、試験そのものを楽しんでくれれば先生はうれしい」
「楽しめるかい。奥歯ガタガタいわしたるで」
 今度は少し笑いを取った。それで桑原は気がすんだのか、まじめに姿勢を正した。
「三年生になると、実力試験の代わりに、年に六回の中部統一模擬試験、いわゆる〈中統〉という県下いっせいの試験を受けることになります。三年生までの予行演習だと思って、これから二年間にわたる実力試験を真剣に受けてください。高校入試までまだまだ先の話ですが、中統模試はそのときの進路指導の参考にされます」
 そんな説明を聞いたくらいでは、私をはじめとする中学生になりたての仲間たちには模擬試験や高校入試の重要さなどわかるはずがなかった。
 ―どんなやつが載ってるんだろう。B組の連中はいるのかな。
 しばらくその表を離れたところからぼんやり眺めていた。守随くんは私に気づかない。それとも気づかない振りをしているのだろうか。私は目をすがめて、首席の名前から見ていった。
「あれ?」
 自分の名前が載っている。もっと目を凝らした。
 一 C組 直井整四郎 八七三点 (平均九七)
 二 A組 鈴木尚   八四六点 (平均九四)
 三 G組 甲斐和子  八二八点 (平均九二)
 四 B組 神無月郷  八○一点 (平均八九)
 五 C組 井戸田務  七九四点 (平均八八)
………………
 ―四番? 中間試験でクラスの十番にも入らなかったのに? 何が起きたんだろう。
 雨上がりの土方のときと同じようなきまりの悪い昂ぶりがきた。心臓を鳴らしながら順に目を移していく。守随くんの名前がない。きっと守随くんは、私の名前が載っていたせいで、天地もひっくり返るほどあきれたのだ。鬼頭倫子は十七番、天野俊夫も河村千賀子も三十番以下だった。
 ―まぐれだ。あの金賞と同じだ。
 得体の知れない恥ずかしさで顔が熱くなった。これまでの得意科目は、英語と数学と国語の三つきり。大勢の勉強家の中でこんな好成績をとれるはずがない。
「あ、リサちゃんがいる……」
 三十九番のところに、酒井リサ、という名前があった。ついこのあいだ、音楽室の廊下で松葉杖をついている姿を見かけた。脚の手術はうまくいったんだろうか。もしうまくいかなかったとしたら、また一年中ズボンを穿いて登校する破目になってしまう。それにしても、リサちゃんがこんなに勉強ができるとは知らなかった。
 ほかに知った名前を探した。医者の息子の岩間はいない。関も杉山啓子もいない。杉山啓子といえば、大瀬子橋で一度、彼女が前を歩いている姿を見かけたことがある。腰を左右に振るたびに揺れるスカートに少し胸がときめいた。
 なぜか加藤雅江のことが気になり、彼女の名前を探していった。ぎりぎり四十八番に載っていた。私は、中学生になってみんながガサガサと音立てて蛹(さなぎ)から変身して、知的な本性を現しはじめたような、空恐ろしい気持ちがした。―守随くんの名前はどこにもなかった。そして、彼の姿は校舎の塀からいつのまにか消えていた。
 やがてほかのクラスの連中もぞろぞろやってきて、期待と不安に満ちた表情で成績表を見上げた。彼らの中に、山中の場ちがいないかつい顔があって、
「しごいとったらよ、急にガクンガクンてきて、びっくりしたで」
 大人びた顔で仲間に吹聴していた。まわりの連中はにやにやして、大きくうなずいている。ああ、あのことだな、とすぐにわかった。
「ガラにもなく、勉強ばっかしとるんか」
 康男が背中に立っている。
「オニアタマもカタなしだがや。守随や井上の名前なんか、どこにもあれせん」
 井上? ああ、生徒会長か。私は康男の目配りの細かさに感心した。錦律子や木下やホンベヨウコは? 彼らの姿は校庭や廊下ですら見かけたことがなかった。
「信じられないよ」
「くだらんことで目立ちやがって。俺なんかほとんど白紙で出したったわ」
 康男はもともと勉強なんか関心がないし、勉強をする時間だって見つけるつもりがないとわかっているのに、私は本気で、
「白紙で出すなんて……。本気でやれば、だれにも負けないのに」
 と言った。康男の目が光った。
「そりゃ、俺だってわかっとればバンバン解いたるけどな。さっぱりわからんかった」
 眼光を和らげて微笑んだ。
「たぶんドベは、伊藤正義やろ」
 と言ってくすくす笑う。
「あの色が黒くて、でかいやつ?」
「おお、ドンくせえアホ入道」
 少し知恵の足りなさそうなその生徒は、身の程も知らずに、入学早々康男に喧嘩を売って、たちまち地べたに打ち据えられた。それでも懲りずに立ち上がって、ちょうどそばにあった竹ぼうきをつかんで殴りかかったけれど、足払いで転がされ、首筋を思いきり蹴られた。
「からみついて、うるさいんだわ」
 スネまでしかない短いズボンを穿き、ベルトの端を腰にだらしなく垂らした大きなからだが康男の脇にじっと控えている―そんな構図を、私も何度か目にしたことがあった。



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