六十六 

 三人で和気藹々と箸を動かしていると、菅野が玄関から声をかけた。
「きょうのランニングコース決まりましたよ。星ヶ丘。椙山女学園と東山公園を走ってきましょう」
「え、椙山? 待って待って、私もいく。案内してあげる。十五年も経ってるから変わっちゃってるだろうなあ。案内できるかな」
「だいじょうぶですよ。いきましょう。車よりも電車のほうが速いです」
 メイ子が、
「いってらっしゃい。お蒲団干しておきます。お嬢さんが帰ってきたらいっしょに北村へいきます」
「わかった。一応、私もジャージ着てく。十一時までには帰ってこないと」
「製本屋さんですね」
「そう」
「いま七時半ですから、ぎりぎりでしょう」
「間に合う、間に合う」
 カズちゃんははしゃいで一階の自分の寝室へいき、紺のジャージに着替えてきた。
 曇り空。二・一度。名古屋駅のコンコースから正面玄関に出て、きのうとは逆に左へ折れる。交通公社のバスターミナル前の階段を降りて東山線の改札へいく。一番線。
「二十分で着きます。車だと一時間近くかかりますよ」
「八時に着くわね。余裕、余裕」
 腹に黄色い帯を引いた銀色の車体に乗りこむ。発車してずっとトンネル。地下鉄であることを思い出す。車輪の音がうるさい。
「菅野さん、ジム器機、ありがとう」
「やってみました?」
「はい、もう慣れました」
「さすが。最高のものを入れました。二百万近くかかりました。と言っても、お嬢さんが買ったんですけどね」
 一駅目、伏見。
「一区間が長いのはここまでよ」
「しかし、うるさいな」
「便利さと引き替えね」
 栄、新栄町、千種、今池、池下、覚王山。
「椙山はもとの校舎は、この覚王山にあったのよ。移転したのね」
「とんでもなく遠くまで移転しましたね」
 朝の下り電車はあまり人が乗っていないが、ぺちゃくちゃやっているジャージ姿三人組に目を惹かれる人がチラホラいる。本山、東山公園、星ヶ丘。下車。
「ちょうど十個目か。おお、きれいなホームだなあ」
「栄からここまで開通したのはおととしですからね」
 カズちゃんがホームでキョロキョロしている。
「私はいつも名古屋駅からバスで覚王山までいって、そこから山添(やまぞえ)まで十五分くらい歩いたの。地下鉄なんてなかったから。昭和三十二年に栄まで開通したのよね」
「そうでした」
「三十二年といったら二十三歳よ。大学出ちゃってる」
「大学の制服は?」
「着物に袴」
「へえ! 袴の下は?」
「長いズロースの上に白長襦袢、その上に黒っぽい着物、それから臙脂の袴。パンティなんかない時代だから」
「ズロースってどんなもの」
「綿のメリヤス性の半パンね」
「ズロース引き下ろして、後ろからしたい」
「ふふふ」
「自然児だなあ、神無月さんは。中年のご婦人たちが見てますよ」
「ほんとだ。カズちゃんがきれいだから、ぼくのことを羨ましがってるんだね」
 椙山女学園方面の階段を上って地上へ出る。
「わ! これ都会じゃないの」
「新興都市です」
「コンクリートの街だ」
「歩きましょ。方向はわかってる?」
「はい。タクシーで何度かきました」
 三百メートルばかり緑の少ない街をいく。それほど遠くない前方に、緑がかった丘が見える。早足の菅野についていく。丘のふもとに体育館のようなものが見えてきた。何棟かのビルの一つの屋上に、椙山女学園大学という看板が出ている。
「外塀がぜんぶツタで覆われてる。美しい」
「でもむかしとは別物。あの当時の校舎の面影もないわ」
 道を隔てて雰囲気のちがう三階建の建物が連なっている。
「何、この隣の建物」
 菅野が、
「菊里高校です」
「ああ、もとの第一高女ね。とにかく入ってみましょ」
「坂を昇ったところに正門があります」
 坂にかかると、塀ではなく、樹木の生垣がつづく。大学生らしき女たちが坂道をいく。
「何だかみんなきれいじゃないな。だらしない感じがする」
「失礼ね。お嬢さま大学よ。私はヤンキーだったけど」
「カズちゃんのほうが品がある」
「ほんとです。美しさも百倍上だ」
「ありがとう。いまの言葉で五歳は若返ったわ」
 ジャージの大きな尻が頼もしい。石のアーチの架かった門をくぐる。ウロウロしていた女学生たちに注目される。やはりジャージ姿は目を惹く。
「走るところはなさそうですね。帰りにジョギングして星ヶ丘駅まで走りましょう」
 ビルの群れの中に学園センターという高い建物がある。カズちゃんが見上げながら、
「軽薄な感じ。なんだか母校に突き離されたよう」
 カズちゃんは通りかかった学生に、
「管理栄養学科って、まだあります?」
「はい、生活科学部管理栄養学科です」
「そう、よかった!」
「中部地区トップクラスの難しい学科です。南山くらい難しくて、椙山では最高です。私も一浪して入りました。先輩ですか?」
「そう、昭和三十一年卒業。十三年前ね」
「わあ、握手してください」
 ぞろぞろ集まってきた。
「いまは栄養士の仕事をなさってるんですか」
「資格があるだけで仕事はしてないわ。名古屋駅裏にアイリスという喫茶店を四月からオープンするの。ついでがあったらきてちょうだいね」
「はい! その格好は?」
「覚王山のむかしの椙山近辺なら走れるだろうと思って、地下鉄に乗ってきたの。ジョギングが趣味だから。でも、このあたりじゃ無理ね」
 一人の学生が気づく。
「神無月選手よ!」
「ほんとだ!」
 彼女たちが叫んでもだれも寄ってこない。女子大生は野球選手に関心がないとわかる。
「神無月選手とこちらのおじさんは、ジョギング仲間なの。神無月選手が名古屋にいるときは、いっしょに走るのよ」
「学生センターに上ってみませんか。名古屋港が見えますよ」
「ごめんね、走りにきたから」
「生協でいっしょに食事して、写真を撮ってくれませんか」
「急ぐので、ほんとにごめんなさい。ついでがあったら、駅西のアイリスにきてちょうだい。神無月さんもときどき見えるから」
 走り出す。さようならァ、と学生たちが手を振る。カズちゃんの走りがサマになっている。尻の揺れがなまめかしい。追い抜いて坂道を下りきる。自動車学校を右手に折れ、閑散とした並木道を猛烈な勢いで走る。星ヶ丘駅に到着。スタミナ切れでよたよた走るカズちゃんに菅野が寄り添ってやってくる。
「なあに、あの速さ。陸上選手みたい」
「東大でも、ドラゴンズでも、短距離はナンバーワンだ」
「でしょうね。動物みたいに速かった」
 カズちゃんが腕時計を見る。
「九時十五分。ゆっくり戻っても十時過ぎね。駅裏からまた少し走ればいいわね」
「お嬢さんは無理しないで歩いて戻ってください」
「そうする。走ったことなんてなかったから、これ以上はギブアップ」
 星ヶ丘郵便局の裏から地下鉄への階段を降りる。人工灯で明るんだホームから電車に乗りこむ。
「ずっと暗いトンネル。でもホッとする。明るくても椙山は殺風景だったわね。何もかも新しくなっていくわ。つまらない」
「思い出の場所がちゃんと残ってたとしても、それだけじゃ足りないよ。人も残ってないと。でもそういうことはまず叶わない。―現瞬」
「現瞬! そうね、それがすべてね。でも、キョウちゃんのセンチメンタルジャーニーは大好き。場所というより、心の旅だから」
 菅野が、
「それはいつも感じます。……ゲンシュンて何ですか」
「キョウちゃんの造語。現在の瞬間がいちばん大切ってこと」
「北村にくるとき、書きかけの原稿用紙持ってきて。シャワーを浴びたら、少し机に向かう」
「はい。筆記用具はトモヨさんの離れにもあるわね」
「うん、原稿用紙もたっぷりある」
 駅裏からカズちゃんは則武の家へ戻り、私と菅野は北村席までスピードを乗せて走った。門を入り、玄関まで走る。
「きょうはほとんど走らなかったね。このまま筋トレやって、バット振るよ。先にシャワー浴びちゃって」
「わかりました。じゃ、私、昼めしまで帳簿部屋に入ってますから」
「うん、ぼくはバット振ってから、離れで机に向かってる」
 玄関の下駄箱に立てかけてあるバットを持ち出し、池のそばで百本振ってから、腹筋、背筋、腕立てにかかる。片手腕立て二十回ずつ、ゆっくり。やりすぎか? 門のほうからカズちゃんとメイ子がやってくる。
「すごーい。サーカスみたいです」
 メイ子が拍手する。カズちゃんが、
「じゃ、ごはんのときね。いまからメニューの色決めだから」
「オッケイ」
 左腕シャドー百回。やりすぎか? だいじょうぶ、ほかのプロ野球選手に比べたら、やらなさすぎだ。たっぷり汗をかいた。
「ただいまー!」
 あらためて玄関で声をかける。
「お帰りなさーい」
 おトキさんとソテツが迎える。直人は保育所。トモヨさんは直人の見送りから戻っている。母親は帳簿部屋、父親は午前の見回り。お城のマンションへ自転車で出かけた睦子と千佳子の姿はない。廊下に雑巾がけの足音。裏庭のいくつかの洗濯機の音が重なって響いてくる。カズちゃんが、
「書きかけの原稿、トモヨさんの離れに置いといたわ」
「サンキュー」
 シャワーを浴び、さっぱりした頭で離れの机に向かう。窓の外、離れ専用の中庭に蒲団が干してある。母子の衣類や下着も干してある。
 五百野、父を訪ねていった冬の夕暮れの陽射しから。保土ヶ谷への道。映画館。裕次郎の看板。ポリスボックス。自転車屋。もう何度目の手入れだろう。夢中で書く。涙で文字が見えなくなる。
「郷くん、ごはんよォ」
 渡り廊下からトモヨさんの声がする。
「はーい。きょうの昼めしは何」
「エビ天丼です」
「製本屋は?」
「いま帰りました」
 私は涙を拭い、原稿用紙を机の抽斗にしまう。
 主人と女将が直人にじゃれつかれている。天丼が用意される。トモヨさんに、
「直人、半ドンで戻ったんだね」
「ええ、土曜日は隔週でお休みと半ドンなんです。お休みにしてもいいんですけど。菅野さんにいってきてもらいました」
「学生カバンない?」
「あります。中村高校にかよってたときの」
「それちょうだい。原稿を持ち運びたいから。則武とここの机で書くことにした。引き出しに入ってる原稿をそれに詰めといて」
「はい、納れておきます」


         六十七

 千佳子と睦子が帰ってきている。睦子が、
「お城の周りって広くてすごいんですよ」
 千佳子が、
「シャトー西の丸からお堀沿いに名城公園へいって、公園の中をぐるぐる回って、大津通から出来町通りを通って西の丸に戻り、美濃路を通って環状線に出て、名駅通をずっと走って、亀島に帰ってきました」
「三時間。心細くなるくらい長い距離を走りました」
 おトキさんが、
「お腹すいたでしょう。天丼どうぞ」
「いただきます!」
 みんなで箸を使いはじめる。主人が、
「さっき水原監督から電話がきて、四月十日の木曜日に、小山オーナーと村迫総監督といっしょに遊びにきたいそうや。あくまでも〈遊び〉のつもりなので、堅苦しいもてなしはなしでということで、と言うとった」
「ちょうど、山口たちが東京へ帰ったころじゃないの? 水原監督、残念だろうな。山口に会いたいって言ってたから」
 おトキさんがうれしさを隠せない顔で、
「山口さんは三月三十一日から四月の四日まで、五日間滞在するそうです。法子さんはあまり休んでいられないので、四日の金曜にきてここに一泊したら、土、日と神宮に泊まって、月曜の昼過ぎに東京へ戻られるそうです。横山さんは三十一日だけ一泊して、四月一日の夜に帰ると言ってました」
「山口は五日間いられるんだね。よかったね、おトキさん」
「はい! 五日間、おそばでお世話できることがうれしいです」
 イネとメイ子が手を叩いた。
「よしのりは何をあせって帰るんだろう」
「永遠の伴侶ができたと言ってました。宝川温泉というところで知り合ったんだそうです。もう東京に出てきて、法子さんのお店で働いてるそうです」
「ふうん、相変わらず忙しくしてるな」
 トモヨさんが、
「三月三十一日の夜は、音楽会になりますね」
「そうだな! ワシらの喉を聞いてもらわなくちゃ」
 カズちゃんが、
「お父さんたちカラオケ組は、山口さんのギターで歌うのは一曲だけにしてね」
「わかっとる。神無月さんの歌がメインだ。一曲、これはというやつを練習しておかんとな。演歌はギターに合わんしな」
「お父さん、もともと演歌はギター流しの曲ですよ。山口がうまく演奏します」
「そうか、じゃ、やっぱり演歌にしよう」
 千佳子が笑いながら、
「水原監督のことがどこかにいっちゃったみたいですね」
 女将が、
「畏れ多くて、考えられんかったんでしょ」
 千佳子が、
「私、サインもらっとこうっと。リンゴ事件の水原茂だもの」
 主人が、
「おお、千佳ちゃん、リンゴ事件なんてのをよう知っとるな。それを監督に言ったら喜ぶぞ。日本シリーズ三原と遺恨の対決なんてのは知っとる?」
「知りません」
「そうか、アハハハ。彼らは大学時代からライバルだったんだよ。慶應が早稲田の三原のホームスチールで敗れて以来ね。戦後、水原を巨人の監督に就任させるために、巨人をやっと優勝させたばかりの三原が切られた。で、西鉄にいった」
 菅野が、
「昭和三十一年から三十三年の、巨人対西鉄の日本シリーズは巌流島の戦いと言われたんです。結果は三原の三年連続日本一」
「どちらが宮本武蔵ですか? 水原監督は三原監督のほうだと言ってましたけど」
「これがわからないんですわ。後づけで解釈するなら、勝ったほうの三原じゃないかなあ」
 座敷から店の女の一人が、
「ほんとに水原監督がくるんですか」
「おいでになると言いなさい」
 主人の口まねをして菅野が、
「ご来駕(らいが)なさると言いなさい」
「三、四人お酌についてもらうよ。志願者は手を上げて」
 だれもいない。女将が、
「堅苦しくせんといてくれとおっしゃっとるんやから、隣の者同士の自然な差しつ差されつでええんやないの」
 ソテツが、
「私、お酌します」
「あんたはいいの。十六歳がお酌したらたいへんやわ」
 ソテツが、
「私、昭和二十七年五月十五日生まれで、もうすぐ十七歳になります。立派な大人です。このあいだからみなさん、十六歳、十六歳としつこくおっしゃってますけど、十六歳は法律的にお酒の仕事だって何だってできるはずです」
 主人が、
「十六歳どころやなく、十三、四歳の顔しとるから、おトクも気を差したんやろう」
 女将が菅野に、
「法律ではどうなっとるの。最近勉強しとるんやろ」
 菅野が得意そうに、
「労働基準法違反は、十六歳未満です。お酌オッケーですよ」
 女将が、
「へえ、知らんかったわ。じゃ、十五歳までは女中もあかんゆうことやないの。ほうなの、千佳ちゃん」
「私、まだ法律の勉強をしてないので……よくわかりません」
 主人が、
「じゃ、菅野ちゃん、未成年とは?」
「満二十歳に達しない者」
「禁止事項は?」
「飲酒、喫煙、風俗営業接待。水原監督へのお酌は営業じゃありません。労働だとしても十六歳に達しているので問題ありません」
「立派な次期社長や。副社長は女房のまま。菅ちゃんのいまの専務職はトモヨに譲るからな。専務言っても形だけやから、実権は菅ちゃんと女房にある。がんばってや。従業員と店員の充実。松葉さんの力も借りて、それをしっかりやらんとあかん」
「は、がんばります」
「羽衣とシャトー鯱の営業成績が、名古屋市の風俗業界の中でナンバーワン、ナンバーツーになった。松葉さんは頑固に断ったけど、五百万を上納させてもらった。これまでのキャプテンの中から六人を、菅ちゃんクラスの部長職に昇格させた。その中に二人、東京本部から出向してきた松葉さんのインテリ組員が含まれとる。彼らの顔で一店舗に一人ずつ税理士を雇ったし、弁護士も一人年間契約した。金計算や法律の心配はもういらん。来年は各店舗を増築して部屋数を合計六十にし、従業員寮を拡充して、預かり保育施設を一棟立てる。十人乗りのハイエースを二台買って、遠距離通勤の女の子の送り迎えの運転手を別に雇った。チェーン店は作らん。手を拡げすぎると墓穴を掘るからな。菅ちゃんは、いままでどおり二店舗の営業管理と神無月さんの送迎だけに精を出してくれればええ」
「はい」
 ソテツが、
「じゃ、お酌していいんですね」
「おまえは目の力が強いからやめとけ。もう少し、しとやかになる練習をしてからや」
 店の女たちが膝を叩いて笑った。ソテツは懲りずに、
「江藤さんや太田さんたちがきたときはいいですか」
「ええよ。選手たちならな。その圧力に負けん」
「よかった。私、太田さん、好きです」
 女たちがドッと笑った。菅野が、
「神無月さんを好きだったんじゃないのか」
「どちらも好きです」
「俺もか」
「いいえ」
 私は思わず噴き出した。腹を押さえて笑う女も出てきた。
「年季明けに近い人が、順繰りここに入ってくることになってるんですか」
 私が問うと主人は、
「そうやね。神無月さんを見れるゆうんで、入居の希望が多いんですよ。回転をよくするために、年季の明けるのが半年以内の女に絞りました。売れっ子が入りたいゆう希望があれば、ぜんぶオーケーすることにはしてます。若い売れっ子でないかぎり、年季明け間近の四十あと先のおばさんが多くなります。ワシはそういう雰囲気が好きですからな。毎日の生活の動きが柔らかくなる」
「賛成! 直人のためにもいいわね。女は年寄りにかぎる、ね」
 カズちゃんが大部屋に向かって声をかけると、大きな拍手が上がった。いつのまにか直人は、一人の女の膝に抱かれて、天丼のタレの滲みためしを食わされていた。私は玄関の式台にいって、昇竜館の太田に電話した。太田はすでに大分から戻っていて、私の電話を喜んだ。
「三月三十一日から四日の夜まで、例の山口という男がくる。よかったら江藤さんと遊びにこないか」
「いきます。四月二日の夜に決めちゃいましょう。二、三人増えてもいいですか」
「いいよ。料理の予定もあるから、前の日に人数を教えて」
「わかりました。お誘いありがとうございます」
 居間に戻り、
「四月二日にドラゴンズの選手が五人ほどきます。このあいだの江藤さんと太田、たぶんほかには、菱川、高木さん、中さん」
「ほんとですか!」
「ええ、たぶん」
「おい、色紙用意しとけ。アイリスに飾るぞ」
 カズちゃんが、
「壁の隅にまとめて貼っちゃうわよ。アイリスはドラゴンズ御用達のお店じゃないんだから。キョウちゃんのだけは貼っておきたいけど」
「じゃ、うちの玄関に飾るよ」
「そうしてちょうだい。この家もキョウちゃんの写真だらけよ。壁の掃除をちゃんとしないと、タバコのヤニでまだらになっちゃうわ」
 おトキさんが、
「だいじょうぶです。ちゃんとやってますから」
 カズちゃんが穏やかな声で座のみんなに語りかけた。
「キョウちゃんは犬が靴を咥えてくるみたいに有名な人を連れてくるけど、みんなにただ喜んでほしいからなのよ。みんなへの感謝の気持ち。みんながはしゃぐのを見てうれしいのね。有名ということ自体に罪はないし、有名な人にも、有名な人を尊ぶ人にも罪はないわ。みんなに言いたいんだけど、キョウちゃんがだれを連れてきても、堂々としててほしいの。キョウちゃん以上の野球選手なんているはずがないし、キョウちゃん以上に魅力的な人だっているはずがないでしょう。だからふつうにしててくださいね。水原監督も、江藤さんも、みんな心からキョウちゃんを尊敬してるのよ。そのキョウちゃんの前で有名人扱いなんかされたら、恐縮しちゃって穴にでも入りたい気持ちになるわ」
 女将が、
「和子、そんなに固く考えることあれせんよ。おとうさんだって、山口さんと演歌を唄う話をしとるうちに、水原監督のことを忘れとったくらいやもの。何もそんなこと気にしとらんのよ。キョウちゃんの気持ちは、みんなわかっとるよ。腹の底から澄みわたった人やからね。逆にな、みんなキョウちゃんに喜んでほしくてはしゃいどるんよ。キョウちゃんを喜ばせたいんよ」
 カズちゃんは、
「そうなの? おとうさん」
「あ? ハハハ、ワシは神無月さん以外、じつは関心ないんや。この菅ちゃんもそうや。ただな、神無月さんに寄ってくる人は大事にしてやりたい。それだけや。ちゃんとサインをもらってあげることも、大事にすることの一つやと思ってな」
 菅野が眉を掻きながら、
「こんなときになんですが、神無月さん、色紙を持ってきました。息子が画帖のサインを見せたら、ニセモノだと言われてひどく傷ついて……」
「けしからん! 嘘つきにされたんですか。息子さんの名誉を回復しなくちゃ。楷書でキッチリ書こう」
 菅野はサインペンと色紙を差し出した。私は丁寧にゆっくり書いた。
「たしか茂樹くんでしたか?」
「秀樹です」
 菅野秀樹くんへと書いた。菅野はおしいただき、
「お嬢さん、すみません。これは軽っこい色紙じゃないんです」
「キョウちゃんの大声が聞こえたわよ。息子さんが嘘つきにされるはけしからんて。とにかく、有名な人のサインで壁を飾るのはよしましょう。アイリスだけはそういうお店にしたくないの」


         六十八

 イネが、
「旦那さん、お嬢さんはすげ人だなァ」
 主人がニコニコうなずき、
「トンビにタカだよ。和子の大手柄は、たとえて言うと、神無月さんというジャングルの王者ターザンに出会って惚れて、どこまでも追いかけていって、とうとうものにしたことや」
「ジャングルってどこだべ」
「神無月さんが快適に住んどったところや。飯場だな。和子はそこに紛れこんだ。平和の園のジャングルだ。文明人が入りこんできて仕切ろうとした。ターザンはジャングルを荒らしにくる文明人と戦い、ジャングルを守る。北村席もジャングルやが。原始人しか暮らせん。和子のあとで続々集まってきた原始人どもは、平和の民や」
 カズちゃんが、
「ターザンて、原始人じゃないのよ。身体能力は原始人みたいにものすごいんだけど、貴族の血筋で、頭も飛び抜けていいのよ。貴族夫妻がアフリカに向かう途中で船の反乱があって、そのせいで海岸に置き去りにされ、その海岸に二人で建てた小屋でターザンを産んだの。やがて二人は死んで、ターザンは類人猿に育てられた。そのあいだに出会った文明人のおかげで数カ国語を話せる能力を身につけ、ジャングルの王者として君臨したの。孤独な人じゃなく、妻も家政婦も、子供も孫も、親友や部下までいたのよ」
 千佳子が、
「神無月くんと重なるところが多いですね」
「ハハハ、どこも重なってないよ。象徴的にも重なってない。あえて重なってるところを言うと、飯場と北村席が平和の園というところと、おかげでぼくは孤独でないというところかな」
 睦子が、
「イメージは神無月さんそのものです」
 昼食を終え、トモヨさんとカズちゃんが直人を散歩に連れ出した。千佳子と睦子も同伴した。主人夫婦、菅野、賄い、トルコ嬢、それぞれが持ち場に戻ってから、私はまた離れへいった。トモヨさんの用意した学生カバンから原稿用紙を取り出し机に向かう。
 文章を書く以前の私に、どんな天賦の才、どんな独自の資質があったかを知る必要はない。ただ、私には文章を平易に書く勘があるようだし、活字で創り出した会話も自然に流す力があるようだ。書くことが精緻な技術だということは、書きそめたころすぐに気づいていた。意図することを書こうとしてもなかなかうまくいかないという経験をして、否応なく気づいた。意味を通す―それは不可能に近い技だと気づいた。文は独学だと確信した。だれからも学べない。おまえには適性がないからムダだと諭せる人間は、その独学を否定する不遜の輩となる。
 以前三島由紀夫を読んだとき、文章が痩せていると思った。凝った優美な文の背後にあるのは、痩せた人間だと直観した。音調のいい修飾語がふんだんに使われていて、意外に感傷的な語彙に満ち、新鮮な大気、激しい衝動がなかった。人びとが汚い言葉でしゃべったり、命知らずの馬鹿らしいまねをしたり、女にかまけたり、酔っ払ったりしている現実に背を向けていた。着物の名前とか、建物の様式とか、官能的な〈感じ〉を書き留めていた。たぶん、こつこつノートに書き留めた言葉を使って精巧な文章を練り上げていた。平衡感覚の豊かさには気づいた。
 私は言葉ノートをとっくのむかしにどこかへなくしてしまった。ほとんどたわごとだったから。私は模範としての彼らを捨て去った。
 五百野は、私が捨て去らなかった言葉によって書かれる。模範を好む人間が読めば、死ぬほど退屈するだろう。基調に哀愁が流れ、表現が直接で、ゆとりがない。語彙に恥じらいがなく、卑猥で、野蛮人のにおいがする。華麗な文とか、突飛な語句とか、大げさなイメージはない。余分な企(たくら)みで人を驚かそうとする意図はぜんぜんない。登場人物も洗練されないまま書きつける。洗練された人間などこの世に存在しないからだ。

 〈父との再会の項〉
 階段の薄暗い小止まりに灯りの気配がして、痩せこけた長髪の顔が覗いた。その顔は数秒のあいだ、すがめるように階段の下を見下ろしていた。私はよく見えないその顔に笑いかけた。心臓の轟きが耳に昇ってきた。
 髪を垂らした細身の影が、躊躇せず、ゆっくり階段を下りてくる。髪に隠れた神秘的な目もとが、けっして私を見ようとしない。私は、いやに太いズボンが一段、一段近づいてくるさなかに、すぐさま、その熱のない足どりに気づいた。
 男は、三和土で立ち尽くしている息子の前に立った。そして、髪を掻き揚げ、何の感情もない涼しい黒目で、
「キョウか?」
 と訊いた。しゃがれたさびしい声だった。
「うん」
 私は笑顔を崩さず、大きくうなずいた。
「そうか。……帰れ」
 まったく予想しなかった言葉が男の口から吐き出された。
 しかし私は、その命令が何かしら崇高な、自分の世界観などではとても窺い知れない境地から出てきたもののように感じて、あわててうなずいた。それに応える男の視線は、力なく打ち下ろす鶴嘴に似ていた。
「帰りなさい。……これをやるから」
 彼はポケットを探ると、私の手を取って硬貨を握らせた。穴の開いた五十円玉だった。私はその硬貨を握りしめるとき、かすかにさもしい心持ちがした。私がそんなもので心を制されたり誘惑されたりしない子供なのだということを、男は知らない。一瞬、ひょっとして彼は、母の言うようなつまらない人間なのかもしれない、という想いがよぎった。
「もうくるんじゃないぞ」
 男は、私がひとことも発しないうちに、そう念を押して、ふたたび同じ速度で階段を戻っていった。私はあきらめ切れず、男の心変わりを願いながら、その姿が階段の奥に隠れるまで、ずっと視線を当てていた。
 男とすれちがいに、二階の手すりから、姿勢のいい太った女が身を乗り出した。彼女は、男とはちがって、私から眼差しを逸らさなかった。そうして、男をやりすごす格好で小走りに階段を下りてきた。
「キョウちゃんね!」
「はい」
「お父さんからお手紙でも……」
「ううん」
「そう。ごめんなさいね、せっかくきてくれたのに」
「ぼく、なんともないよ」
 私は強がりを言った。
「……出ましょう」
 女は私が男の音信によって呼び寄せられたのではないとわかると、少し安心したふうに私の手を引いて表にいざなった。私は彼女に手を引かれながら、地面に吸われるように落胆していた。
 道に出ると間もなく、彼女は私の手を離し、先に立って歩いた。私はあてもなく彼女の大きな背中についていった。胸の高鳴りはなかなか鎮まらず、私は夜の路にはっきりと目を見開き、あこがれていた男に愛を与えられなかった絶望を噛みしめていた。
 私は悲しんでいる心をなんとか励まそうとして、無理に女の背中に話しかけた。
「これ、いらないや。母ちゃんに叱られちゃうから」
 女は振り向き、心底困ったという表情をした。
「ほんとに、いけないお父さんね。きっと、どうしたらいいかわからなかったのね。……でも、おばちゃん、受け取るわけにいかないわ」
 女は私の差し出した手を包みこんで、やわらかく押し戻した。
 不思議にも、父をおとしめる感情は湧いてこなかった。それどころか、彼がつまらない男かもしれないと一瞬疑った心はいつのまにか消え失せ、そうして、彼の静かな立ち居を、ひっそりと暗がりに息づく美しい昆虫に重ねて思い返した。すると、急に、もう二度と〈父〉には会えないだろうというさびしさが、からだじゅうに沁みわたった。


 そこまで書いて、私は机に突っ伏して泣いた。そっと暖かい手が後ろから私を抱き締めた。カズちゃんだった。いっしょに泣いていた。
「すばらしい人……」
 私は振り向き、涙まみれの頬をすり寄せ合って口づけをした。
「ずっと見てたのよ。足がふるえて、しゃがみこみそうになっちゃった。……キクエさんが合格したって電話があったわ」
「よかった―」
「ほんと。来週中には、節子さんといっしょに引越しをすませるって。東京から戻ったら逢えるわよ」
「うん。忙しくなるぞ……いろいろ」
「せいぜい栄養つけなくちゃ」
「わかりました、栄養士さん」
 私は原稿用紙をもう一度学生カバンにしまい、立ち上がった。
「西高に電話する。土橋校長に会いたい。アポをとろう」
「そうね、早いほうがいいわね。忙しい人でしょうから」
 式台へいって電話をした。トニー谷らしい女職員の声で、三月は年間スケジュールのない期間なので校長は自宅にいる、という返事が戻ってきた。名前と電話番号を問われたので答えた。
「あ、神無月選手! いつも校長からお話を伺っております。わかりました。さっそく伝えておきます」
 電話が切れた。
 主人と菅野は夕食前の外回りに出、遅番の女たちと素子が座敷でくつろいでいた。千佳子は部屋で新学期の計画でも立てているのか姿がない。トモヨさんといっしょに直人の積木の相手をしていると、折り返し校長本人から電話がきた。
「神無月くん、一年ぶりだね! ぜひ会いましょう。きみのスケジュールはどうなってるの?」
 二十五日の昼に、オープン戦のために東京に出発する、二十八日の夜に戻って翌日から中日球場で三十一日まで二戦すると答えると、
「あさって、二十四日の午前十一時、校長室でということにしましょう。待ってます。きみを顕彰する記念碑を建立しましたよ」
「ひそかに拝見しにいきました。立派なものでした。ありがとうございます」
「青森高校のほうでもすでに建立が成って除幕式が行なわれたと、小野さんから連絡がありました」
「すみません、本人が出席もしないで」
「忙しい身なんだから、参加できないのは仕方のないことですよ。みな了解しておりますから、ご心配なく。では、あさって、十一時にお待ちしております」
 居間にいき、カズちゃんに報告した。
「時間が指定されたということは、新聞社がくるということよ。気にしないことね」
「うん。なんだかドッと疲れた。耳クソ取ってくれる?」
「あら、ひさしぶりね。何年ぶりかしら。溜まってるわよォ」
「ときどき遠征先で取ってた」
「そうなの? はい、膝に頭載せて。おトキさん、耳掻きちょうだい」
「はーい。気をつけて取ってくださいよ。浅いとこだけでじゅうぶんなんですから」
「わかってるわよ」
 素子が、
「あ、深い、深い、危ない。もう、お姉さんたら」
「じゃ、あなた取ってみる?」
「うちも怖いがね」
 百江もイネも、私はだめと手を振る。
「私がやりましょう。よく父にせがまれてやってましたから。名人だねってよく言われたんですよ。神無月さんこちらにきてください」
 座敷で花札をやっていたスカート姿の豊満な女が声をかけた。三十半ば、いつもうつむいているせいか、これまで一度も目に留めたことのない女だった。じっと見ると、どことなく睦子に似ている。おトキさんが、
「天童さんは旦那さんのお耳係なんですよ。お膝が柔らかいんですって」
 カズちゃんが、
「やってもらいなさい。私もやっぱり怖い。ベテランにまかせるわ」
 居間の大テーブルの傍らにいき、膝枕をする。たしかに柔らかくて暖かい膝だ。
「わあ、溜まってますね!」
 ワンピースの胸ポケットからティシューを出して四つ折に畳み、私の掌に載せる。そこに出して見せるということだろう。こそこそと耳掻き棒の先が動き、私はブルッとからだをふるわせた。カサリと掻き、スルッと引きずり出した。
「ほら!」
 と言って、ティシューに載せる。岩塚の杉浦がいつかピンセットで引っ張り出した耳クソとほとんど同じ大きさだった。みんなで寄ってきた。
「わ、すごい、大きい!」
「おトキさん、綿棒あります?」
「ありますよ」
 持ってくる。奥までごそごそ掻き回す。引き抜く。びっしり細かいカスがついている。
「はい、こちらの耳はオシマイ」
 顔を逆向きに返す。同じように耳掻き棒の先がこそこそと動く。ブルッとふるえる。じっと耳掻き棒を見ているカズちゃんに言う。
「耳掻き棒は気持ちよくないのに、どうして耳は気持ちいいんだろうね」
「ま、キョウちゃん、優子さんを刺激するようなこと言わないの。手が止まっちゃったじゃないの」
 素子が、
「イキそうな顔しとる」
 みんなでゲラゲラ笑う。おトキさんまでからだを折って笑う。真っ赤になった天童優子が、
「耳掻き棒って、気持ちよくないんですか」
 と切り返した。
「気持ちいいよ。耳がよがってくれればね」
 カズちゃんがにっこり笑った。エイッという感じで二つ目のかたまりが引きずり出される。ティシューの上に置く。
「こりゃ大きい!」
 綿棒でごそごそ奥を掻き回す。同じように綿の表面に白や黄色のカスがこびりついている。
「はい、終わりました」
 私の頭を抱え上げるようにする。
「ありがとう」


         六十九

 私はティシュの上の二つのかたまりに目を凝らした。不定形な薄っぺらくて長い不用物。聞こえの悪い右耳から取れたほうが大きい。奇跡的に聞こえるようになった気がして、左耳を指で塞いで右耳の聞こえ具合を確かめてみるが、遠い物音しかしない。左耳の耳鳴りがかすかだがハッキリと聞こえた。カズちゃんが、
「どうしたの?」
「右耳が聞こえるようになったかと思って。同じだった」
「そうよ、鼓膜の欠けらしか残っていないんだもの」
 イネが、
「え! そんだったんですか。かわいそう」
 なぜそうなったかをカズちゃんは話す。みんなしんみりした顔をして聞く。
「キョウちゃんの不幸のほんのカケラよ。左手の甲を見てごらんなさい。薄っすらとケロイドがあるでしょう。これもお母さんの不注意。鼻のところの小さい傷は破傷風。これはキョウちゃんの不注意。左肘の手術跡。これは友だちのいたずらのせい。ぜんぶ運命ね」  
 主人と菅野が外回りから帰ってきた。ときを合わせたように、女将が帳場から、トモヨさん母子が座敷からやってきた。さっそく女たちが、耳クソ取りの話や、私の聞こえの悪い耳や、ケロイドや破傷風のことを話す。主人が、
「和子から聞いて知っとったわ。そんなもん神無月さんはドッコイこらえて生きてきたんや」
 千佳子が睦子といっしょに二階から降りてきた。菅野が、
「どれほどのハンデを与えられても、神無月さんには関係ないんです」
 主人が、
「神無月さん、優子の膝、柔らかかったやろ」
「はい、うとうとしました」
「ワシもよう寝てまうんや」
 座が和やかに笑った。話が肉体に近いと、醸(かも)し出される雰囲気が緊張する。話が肉体から遠ざかっていくと和む。子供は緊迫感の中で作り出され、肉体から遠ざかった姿で人びとを安堵させる。睦子たちがぺちゃぺちゃ上機嫌にしゃべっている。おトキさんが、
「ソテツちゃん、食材の整理をして。四時半を回ったらお釜に火を入れてね」
 四時が近づくと厨房が動きだす。千佳子と睦子が、
「さあ、お料理覚えようっと」
「私も」
 トモヨさんと素子にくっついて厨房へいった。カズちゃんが両親に、西高時代の土橋校長の長話をする。主人が、
「ええ人やなあ。神無月さんがお礼したなるのもわかるわ。ぜったいマスコミくるぞ。記念碑の前で写真撮られるな。一般紙やろうから、写真が小さいでスクラップがたいへんや」
 女将が、
「朝日や読売でなかろ。中日新聞やと思うよ」
「ねえ、カズちゃん」
「なあに?」
「山口のイタリアのコンテストが終わるまで、おトキさん、御殿山の家でいっしょに暮らしたらどうだろう。山口にしても、仕事のある雅子やトシさんにときどき食事を作ってもらうのも心苦しいだろう。半年程度のことだよ。北村席にとっても不安はないさ。半年もしたら、おトキさん名古屋に戻ってくるんだから」
「いい考えね! 善は急げよ。すぐ山口さんに連絡してみる」
 電話へ飛んでいった。三分もしないで戻ってきて、
「もしそういうことになったら、これほどうれしいことはないですって。御殿山はキョウちゃんの遠征のときに泊まる家だから、もしおトキさんが出てきてくれたら、愛の巣を借りるんだってうれしそうに言ってたわ」
 主人が掌をこすり合わせながら、
「おトキの人生、最高のときを迎えたな」
 女将が、
「厨房の留守をちゃんと守ってくれる人はおるからね。早くおトキを呼んでやりなさい」
「おトキさーん! それからトモヨさんも」
「はーい」
 二人を座らせ、カズちゃんはいまの話をした。
「山口さんが、ほんとうに?」
「これ以上うれしいことはないって」
 おトキさんは思わず両手で顔を覆った。トモヨさんが肩を抱き、
「よかったわねえ。こっちのことは心配しないで。ちゃんとやりますから。みなさん、おトキさんのおかげでベテランになってきてるのよ。私もきちんと責任を持って、留守をお預かりします」
 カズちゃんが、
「じゃ、おトキさん、四月に山口さんといっしょに東京へいきなさいね。何か不都合があったら、かならず知らせるのよ」
「はい、ほんとにありがとうございます」
 カズちゃんはまた電話へ走ってダイアルを回した。荻窪のトシさんと話しているようだ。久闊を叙すような長話をして、十五分ほどで戻った。
「菊田さんとっても喜んでた。山口さんの愛の巣が見つかったら見つかったで、また福田さんと二人で御殿山のお留守番をするって。とにかく、はしゃいでたわ」
 厨房のみんなが食材の前仕度の手を止めて集まってきた。
「おトキさん、おめでとう!」
「おめでとう!」
「よかったですね。ちゃんと山口さんを連れて帰ってくださいね」
 おトキさんはただただ感涙に咽んでいた。カズちゃんが、
「八月のイタリアコンテストの期間は、こちらに戻ってもいいし、菊田さんたちと仲良くすごしてもいいし、好きにしなさい」
「数日のことでしょうから、東京で待ちます」
 千佳子が、
「山口くんはいつも、おトキさん一筋って自慢してました。ほんとに誠実な人です。山口くんはもう中退したから大学にかよう必要がないので、おトキさんは彼をじっと見守りながら暮らせると思います」
 みんな暖かく笑った。カズちゃんが、
「千佳ちゃんとムッちゃんとキョウちゃんと山口くんは、高校一年のとき四人とも同じクラス。奇縁てことよね。人はどこか小さな場所で知り合って、縁を結ぶのね。いまその場所は北村席。みんな縁を結んだ場所からここに集まってきて、もう一度縁を結んだの。離れないでいましょうね」
「はい!」
 また菅野が掌で顔を拭っていた。だれもかれも異様な人格をしている。この人たちは道徳家でない。深く感動する涙の人たちだ。だから遠慮も恥らいもなくしゃべりかけることができる。私は常に、彼らに対する自分の感激を知らせる必要がある。怠らないようにしよう。
「少しバットを振ってきます」
 おトキさんが、
「あの、神無月さん」
「なんですか?」
「ありがとうございました。ご恩は一生忘れません」
「ぼくはアイデアを出しただけですよ。すべてお父さん、お母さん、カズちゃんの力添えです。ぼくはその結果を、親友の山口と、その恋人のおトキさんのために純粋に喜んでるだけです」
 私は池のそばへいってバットを振りはじめた。千佳子と睦子がやってくる。
「今夜夕食をいただいたら、ムッちゃんといっしょにお城のマンションにいってきます。お部屋の細かい整理を手伝いたくて」
「いいことだね。……睦子もうれしいだろう」
「はい、すごくうれしいです」
「みんなよく気が回る。……ぼくは野球しか取り柄がない男だから、それにしか気が回らない。軽い荷物しか背負えないので、だれの荷物も背負ってやれない。そんな男をみんなで愛してくれる。どうしようもなく感謝の気持ちが湧いてきて、泣きたくなる。トモヨさんを見てごらん。あんな形でしか家庭というものを作れない。それなのにぼくを愛してくれてる。ぼくは自分の非力に甘えるだけの冷酷な人間だ」
 言った瞬間に、つまらないことを言ってしまったと思った。睦子が、
「神無月くんは底なしに温かい人です。トモヨさんもおトキさんもわかってます」
「そう? それは勘ちがいだ。とにかく、こんな人間でも人を愛せるんだ。だから愛する人たちから離れたくない。千佳子も睦子も離れないでほしい」
 千佳子は、
「離れません! 死ぬまでそばにいます。神無月くんのそばにいられないなら、生まれてきた意味がないわ」
「生活のない、ときたまのセックスだけの人生だよ。それも大勢の中の一人だ。いずれ空しくなる。空しくならない根拠(わけ)がない」
 千佳子はしゃがんで、池の金魚に向かって、
「金太郎さん」
 と言った。
「あのいちばん大きい金魚。ムッちゃんがつけた名前です。……神無月くんは疲れてるんです。重い荷物ばかり背負ってるからです。いままで軽い荷物なんて背負ったことがないでしょう? どれほど力持ちの神無月くんだって、重すぎる荷物を背負えば疲れます。……愛情の本質って、重い荷物を背負うことだと思うんです。私も、和子さんも、ムッちゃんも、みんな、みんな、重荷を背負って生きてる神無月くんを背負って、力を合わせて生きようとしてるんです。神無月くんが大好きだし、愛してるから」
 睦子が、
「……私たちを一人ひとり切り離しても、肩の荷は軽くなりませんよ。私たちが郷さんの重荷じゃないから。重荷は郷さん自身なんです。疲れたら休みながら、私たちといっしょに暮らしましょう。私たちの生甲斐はそれしかないんですから」
 足音が動いたので振り返ると、カズちゃんが立っていた。
「千佳ちゃんとムッちゃんの言うとおりよ。私たちは重い荷物みたいな人しか信用しないの。信用できない人には、力を貸す気にもならない。本気で愛することもできない。いつか私、キョウちゃんの生まれてきた意味と価値を、雷に打たれたように発見したって話をしたことがあったわね。山口さんがそうだったって。私は山口さんから影響受けたって。背負うというのは、荷物の数じゃないの。心なの。小さいときから考えつづけ、想いつづけてきた時間の量なの。私たちを全員遠ざけても、キョウちゃんの背負う心の量は変わらないのよ。キョウちゃん自身が重たい荷物なの。私たちが何人いたって、ちっとも変わらない。私たちが愛してるのは、その重くて豊かな心の量なの。―生活のない、セックスだけの人生? 上等じゃないの。キョウちゃんの重たい心といっしょに生きられるんだもの。ムッちゃんも千佳子さんも、その心といっしょに生きていきたいのよ。自分たちが荷物だなんて考えてもいないわ。そんなふうに考えてたら、抱いてくれなんて言えなくなっちゃうでしょ?」
 私は思わず笑った。
「ムッちゃんは、将来、万葉集の研究者になろうと思ってる。自立してキョウちゃんと共存するためにね。千佳ちゃんも専門家を目指したらどうかしら。ムッちゃんといっしょに勉強したら? 思う存分そうするために、私や北村の人たちにおんぶにだっこで、ちっともかまわないのよ」
「甘えるつもりはありませんけど、このごろ考えてました。せっかく大学に入ったんだから、しっかり勉強しようかなって。法律家になるというんじゃなくて、四年間みっちり大学の勉強をしてみようかなって。専門家になれるかもしれませんから。今度みたいに瓢箪から駒というもことありますし」
「キョウちゃんもそのほうが安心ね」
「うん。人の営みには、適材適所というのがあるからね。適材が適所にいてくれれば安心する。法子は水商売に、素子は喫茶店に、文江さんは書道教室に、トモヨさんは子供の扶育に、節子とキクエは病院に、睦子、千佳子は机に」
 カズちゃんが、
「私、北村和子の適所は?」
「祭壇」
 千佳子が拍手し、
「女神ですもの!」
「そんなところに安住させようとしてもだめよ。私がいる適所は私しか決められない。キョウちゃんも無理。個人の心の中の優先順位は、長く生きるにつれて変わっていくわ。おしゃれ、趣味、冒険、出世、社交、恋愛、セックス、子供、天職。心の中で優先順位は変わっていっても、現実には一つところを根城にして、少しだけそのあたりをうろつくだけ。キョウちゃんは天職、私は恋愛を根城にしてうろうろしてる。祭壇に安住したらうろつくことができなくなるでしょ」
 睦子が、
「すばらしい知性ときれいな容姿……和子さんは、どうして年をとらないんですか」
「……三十歳でキョウちゃんに出会ってから、ぐんぐん若返りはじめたの。理屈はわからないんだけど、たぶん、キョウちゃんの全体から出る若返りのオーラのおかげ。あなたたちが少女みたいに若いのも、キョウちゃんのオーラのおかげよ」
 私は思わず、
「祭壇に祀られて、うろつかずにオーラだけ出していたいね」
 と言った。三人の女が声を上げて笑った。
「さ、おやつ食べましょう。天ぷらよ。胸焼けするから食べ過ぎないでね」
「ぼくはもう少しバット振ってうろついてからいくよ。先に食べてて」
 枯れ芝の上で素振り二百本。腹筋、背筋、腕立て、シャドー。満足する。


         七十
 
 居間へいき、
「お父さん、アトムズのピッチャーの豆知識をお願いします」
 私は山と盛られた野菜てんぷらに箸を突き出し、まず紫蘇のてんぷらをおろし醤油に浸す。
「ほいきた。菅ちゃんも頼むよ。そうだ、神無月さん、あしたの日曜は一日じゅう快晴だそうです。花見の前哨戦で、お城をブラッと歩きますか」
「いいですね。いきましょう。だれだれですか」
 トモヨさんが手を挙げる。
「前哨戦だから、トモヨ親子とワシですわ。直人に桜を見せておかんと。四月は、適当に三々五々いくことにしましょうや」
「わかりました」
 カズちゃんが、
「トモヨさん、もう無理に歩いちゃだめよ。休みやすみね。桜の季節は春の嵐が吹いたりするから、転んだりしたらたいへんよ」
「はい。保育所通いで鍛えてますから、だいじょうぶです」
 ふと、嵐という言葉と連絡して記憶が頭をよぎった。昭和三十四年九月二十六日。あの日からだ、と思った。一生忘れることのない福原さんの家の白黒テレビ。名古屋の広小路通りのヤナギの木が、強風で大きく揺れながら撓(しな)っているシーンが映っていた。その季節に台風がくるのはめずらしいことではなかった。大型台風と聞かされても、毎度の年中行事程度に感じながら浮きうきしていた。翌朝また福原さんの家にいくと、名古屋で相当な被害が出たらしいという話だった。そのときも、そりゃ台風だものな、と思ったくらいだった。
 あの日からだ、私の記憶が彩色されていくのは。オレンジに緑の準急東海一号。午後一時二十分。熱田駅到着を告げるアナウンスが流れた直後、列車は高架橋を徐行運転で渡った。目を覆うような泥の海の光景が眼下に展がった。外壁が崩れて全壊した家、窓ガラスがことごとく割れている家、寸断された道路、吹き寄せられた材木、焦げ茶色の水に浸かった豚の死骸。十歳。私は克明な記憶を開始した。
「お父さん、アトムズの前に、ちょっとお訊きしたいことがあるんですが」
「なんですかな」
「伊勢湾台風のときの中日球場はどんなでしたか」
 座敷の女たちが興味深げにこちらを見た。主人は天井を見上げ、
「球場全体が水に浸かったと聞きました。材木が浮いてたらしいですな」
 菅野がナスのてんぷらをつまみ、
「スコアボードが骨組みだけになったニュースフィルムを観ましたよ。海が遠くないんで、満潮になると海水がグランドに流れこんできたそうです」
 女将が直人のてんぷらをスプーンでほぐしながら、指でつまんで与える。
「愛知県で五千人以上の人たちが死んだんよ。つらいこと」
 カズちゃんが不思議そうに、
「どうしてそんなことを訊くの?」
 私はネギのてんぷらをつまみながら言った。
「春の嵐でフッと秋の嵐を思い出してね。ぼくが名古屋にきたのは伊勢湾台風の数日あとだったんだ。横浜から乗ってきた東海一号が熱田の陸橋を渡った。あのときから、頭が晴れ上がったように記憶が鮮明になる。伊勢湾台風を記念にしちゃいけないけど、記憶の節目になった……」
 みんな不得要領に私の顔を見る。
「もちろん野辺地のころや横浜時代も克明に憶えてるけど、熱田の陸橋から明るく晴れ上がったようになるんだ。よく観透せるけどたしかに張っていたビニールの幕がストンと落ちて、煩わしさがなくなったという感じ。眼鏡を外した感じと言えばいいかな。人生の視界が変わった……ぼくに人生の明度を与えてくれたのは、伊勢湾台風だったということなんだ。それ以前の名古屋を知らないし、もちろん記憶にもない。それで、少なくともぼくの人生の分岐点で、伊勢湾台風が名古屋の生活に、特に野球生活にどんな影響を与えたか知りたいと思ったわけ。それを野球の記憶の出発点にできる。ぼくはそれまで素振りの練習さえしたことがなかったのに、一生野球をやっていこうって決めたんだ」
「そういうこと……。でも、伊勢湾台風そのものは影響してないと思うわ。キョウちゃんが子供なりに、人生をひとつの方向でやり直したいと決意したからじゃないかしら。その気持ちに伊勢湾台風のドラマチックな雰囲気が重なった……」
 女将が、
「中日球場のほかのことも、暇なときに追々話してあげましょうわい。ここにいるみんなが、ようけ伊勢湾台風の思い出を持っとるからな。いずれ話してくれるやろうけど、急には話し切れんわね」
「そうですね。カズちゃんの言うように、ぼくの気持ち―いやな過去を捨てたいという気持ちが、伊勢湾台風という大事件に意味を持たせようとしたんだな。ほんとうの事件はとつぜん野球を始めたことだ」
 菅野が、
「横浜では野球をやってなかったんですか」
「不定期にソフトボールで遊んでただけ。いっとき、学校のソフトボールクラブに入ったこともあったけど、バッティングをへんに褒められたくらいで、ぼく自身、野球にそれほど情熱を持ってなかった。キョロキョロ母子の生活の周囲に目を配るのに忙しかった」
「それから名古屋にきて、目を配る心配がなくなって、とつぜん野球の本能が首をもたげてきたと―」
「本能……そうなんでしょうね。思い切り自分を解放して遊びたくなったんでしょう。そしたら野球しかなかった……。貸本も、映画も、ボンヤリした悲しみを埋めるためのもので、自分を解放するものじゃなかった。野球は何かを埋めるためのものじゃなく、心から没頭できるものだった。―見つけたんですね」
 主人が、
「いやあ、よくわかるなあ。ほんとの子供の生活が戻ってきたんですよ。やっぱり伊勢湾台風は、出発のドラの音のようにドラマチックだったんですよ」
 カズちゃんが、
「そうかも。伊勢湾台風にかぎらず、それ以前の名古屋やそれ以後の名古屋の話をうんとしてあげなくちゃいけないわね。根無し草だった自分がどういう土地に根を下ろしたのか知りたいでしょうから」
 菅野が、
「そう言えば、神無月さんはよく名古屋の詳しいことを知りたがりますよね」
「その知りたがりも、最近ようやくなんです。十歳で名古屋にきたころは、将来を見据えた野球をするのに忙しくて、名古屋のむかしのこともいまのことも考えたことがありませんでした。野球そのものに忙しくなりすぎて、中二のころからは、まったくと言っていいくらい野球中継のテレビさえ観なくなったし、球場にもいかなくなりました。名誉欲に満ちて野球にかまけると、視野が狭くなって、他人の野球を観なくなるというのはおもしろいものですね。あの思い出深いホームランボールの森徹が、球界からいなくなっていたことさえ知らなかった。島流しは、視野が拡がるいいきっかけだった。名誉欲が消えて、人間を見つめられるようになった。愛情の奥深さを知り、愛のある人間に感謝できるようになった」
 カズちゃんが、
「愛のない人間を避けられるようにもなったわ。生きていくうえで大切なエゴイズムよ」
「そうだね。とにかく、あのころ記憶しなかった球界のことを覚えなおさなくっちゃ。そのころの人たちといま野球をしてるから」
 天ぷらが片づき、賄いたちが洗濯物や蒲団を取りこみに裏庭へいった。おトキさんと千佳子と睦子の手でコーヒーが入った。主人が、
「森徹は満州生まれでしてね、大相撲の満州巡業のとき、中華料理店を経営していた彼の母親が、まだ新弟子だった力道山の面倒をよう見たそうです。そのころ森はまだ中学生だったらしいです。森の母親は力道山に結婚相手まで紹介したんですよ。そんな縁で、森と力道山は義兄弟のような関係を結んだんですわ。ドラゴンズ入団のときに力道山が森の後見人として立ち会いました。入団した年は、長嶋にホームラン王と打点王と、新人王も持ってかれましたが、翌年にはホームランと打点の二冠を獲ってます。森は長打力があるだけだけやなく、肩もよくてね。ライトの守備位置からの三塁送球が、ノーバウンドでスタンドに飛びこんだのを見たことがありますよ。神無月さんは、昭和三十七年は何歳でした?」
「十三歳。中一です」
「その年に森徹は大洋へ、井上登は南海へトレードされたんです。濃人と仲が悪くなってね」
「井上登、背番号51」
「そう。高木守道の前の二塁手」
 菅野が、
「そのあたりから中日に元気がなくなっていきましたね。六位の成績を二度挟んで、あとはぜんぶ二位ですから悪いというほどでもないんですが、元気がない。森のトレードの翌年の三十八年に力道山は刺されて死にました。悪いことはつづくものですね。そしてそれから五年、起死回生の水原招聘と神無月獲得。ドラゴンズファンにとって、水原監督と神無月選手は天からくだった救世主なんです」
「水原監督を強くバックアップしている中京財界って、どんな会社ですか」
「さあ、中日新聞、トヨタ自動車、中部電力ぐらいしか考えられんけどなあ」
 菅野が膝を乗り出し、
「まだまだありますよ。東海銀行、名鉄、松坂屋、CBC、東邦瓦斯。むかしの運転手仲間に聞いたんですが、水原監督はよく大物財界人と高級料亭に出入りしているそうです」
 主人が、
「魚ノ棚通りの河文(かわぶん)やろ。ワシらも年に二、三度いくな」
 私は、
「河文?」
「はい、ワシのオヤジの代から出入りしとる店です。イチゲンお断りで気取ってますよ」
 名古屋にもウォンタナがあるのか。
「どのへんですかウォンタナは」
 主人が、
「ウオノタナです。テレビ塔へ出る通りで、江戸時代からある古い街ですわ」
 トモヨさんが、
「おととしの冬、お食い初めで直人を連れていきましたね。食べさせるまねだけで、私たちが食べちゃいましたけど」
 菅野が、
「水原監督は河文にはよくいくみたいです。それから、八事の八勝館、徳川町の櫻明(おうめい)荘なんかね」
「神無月さんもいつか水原さんに連れていかれそうやな。肩が凝るぞ」
 菅野が、
「水原さんはサインを墨で書くそうです。じつに達筆だと言うので、いつか神無月さんにお知らせしようと思って、わざわざ河文にいって見てきましたよ。タクシーを転がしてるころから女将と顔見知りなんでね、快くメモさせてくれました。玄関の花鉢のそばに飾ってあって、ええと、ちょっと待ってくださいよ」
 手帳をパラパラやる。
「これだこれだ、梅、耐える、寒苦、発す、清香。梅、耐、寒苦、発、清香。梅は寒苦に耐え、清らかな香りを発す。四月に水原さんがここに遊びにきたら、この心境のよってきたるところを聞いてみようと思ってます」
 私は、
「寒苦の話は自然と出てくると思います。清香は願いでしょう。水原監督は願わなくてもじゅうぶん清らかで、いい香りを放ってます」
 カズちゃんが、
「熱田の陸橋を渡ったときから記憶が鮮やかになったということは、キョウちゃんは名古屋をふるさとにしたということね」
「うん。ふるさとができて、物心がついた。生きはじめたんだ。そしてカズちゃんに遇った。西松の飯場で」
「私もそっくり生まれ変わったわ」
 女将が、
「神無月さんに遇ったら、みんな生まれ変わるわいな」
 私は箸を置き、
「ごちそうさまでした。ちょっと直人と座敷でじゃれてきます」
 抱き上げて座敷へいき、仰向けになった腹に直人を乗せる。両手をとり、下腹の筋肉で跳ね上げる。どうやって遊んでいいかわからない。トルコ嬢の一人が、
「直ちゃん、困っとるがね。おいで、直ちゃん」
 直人は私の腹を降りて女の膝へいった。女は直人の脇を抱え、膝に立たせると目を見ながらやさしく語りかけたり、頭を撫ぜたりする。そして大げさなくらいニコニコ笑っている。直人はケラケラ笑う。抱き締める。素子がステージ部屋から積木を持ってきて、直人の前で積みはじめる。女将もやってきた。直人は女の膝を降り、素子から積木を奪って積みはじめる。私は寝転んでその様子を眺める。


         七十一  

「素子、お母さんはいまどこに住んでるの」
「市電の那古野の停留所のそば。立ち退き料を頭金にして、平屋のええ家建てて住んどるわ。左団扇で、しっかり男もおるよ。立ち退き料ゆうても、すずめの涙やったから、ローンは千鶴が払わんといかん」
「そう。挨拶にいこうと思ったけど」
「ええよ、そんなことせんでも」
「男って、ヒモ?」
 女将が、
「まじめなサラリーマンよ。お母さんより十も年下や。スナックかどこかで知り合ったんやろう」
 康男の母親の情夫を思い出した。
「千鶴ちゃん気まずうて、寮暮らししとるんよ。そのサラリーマンに自分の仕事がばれたら、お母さんに迷惑かける思って」
「娘より自分のむかしの仕事がばれるほうが一大事やろ」
 素子が鼻息を荒くする。
「ひどい話だな。何者かしらないけど、居座っちゃったんだね」
 素子は微笑を浮かべて、
「倉庫会社に勤めとるふつうの男。離婚経験者。気の弱い人で、出世しそうもないわ。割れ鍋に綴じ蓋、気の強いおかあさんとウマが合ったんやろな。おかあさんもさびしいんよ」
「ローン、何年?」
「八年」
 驚いた。家を建てる借金を返すのにそんなに長い年月がかかるのだ。
「それだと千鶴ちゃん、なかなか足抜けないね。この仕事やめたら、定時制いって、ふつうの事務員やりたいって言ってたのに。たしか、いま二十三歳だったから、足抜きするころには三十を越えてる」
「考えたらマシなほうやわ。トルコいっとらんかったら、八年どころか、六十ババアになっても借金返せんかった。お父さん、ありがとう」
 主人は、
「いくらの家や?」
「六百万。頭金百万。残金の五百万に利子がつくから、毎月八万ずつローン払っても、やっぱり八年かかる」
「月五十は稼ぐナンバーワンなんやから、毎月もっと返せるんやないのか?」
 メイ子が、
「ナンバーツーだった私でも、そのくらい稼いでましたよ。千鶴ちゃんなら、七十は固いんじゃないですか」
「ローンのほかに、おかあさんに生活費やお小遣いあげたり、自分の服や靴買ったりで、三十は飛んでくゆうとった。残りは貯金やと。人生何があるかわからんなんて、えらそうなこと言って」
 女たちが目をキョロキョロさせて感心している。私は、
「そのサラリーマンにも月賦を分担させるべきだね。二万でも、三万でも。千鶴ちゃんの分担金が多くなるのは仕方ない。自分の気持ちで家を建ててやったんだから、最後まで面倒見なくちゃ。毎月二十万は出してやるべきだ。三年で返せる」
 カズちゃんが、
「でもよかったわね、素ちゃん、これで完全にしがらみと手を切れたじゃないの。あとは自分のことだけよ」
「うん。こんな人生が待っとるなんて思わんかった」
 泣きべそ顔になる。睦子が肩を抱く。
「ごはん前まで、ちょっと寝かせてきます」
 トモヨさんが畳に転がって眠っている直人を拾い上げて、離れへ連れていった。主人が、
「さ、神無月さん、アトムズのピッチャー陣の話、始めましょか」
「よろしく」
 女たちは立ち上がって、台所の始末や、風呂掃除や、洗濯ものの取り入れに散っていく。カズちゃんが、
「メイ子ちゃん、もうここはいいから、則武の掃除洗濯に回ってちょうだい。お蒲団、一時間でも干して叩いといて」
「はい」
 おトキさんがコーヒーを男三人分運んでくる。
「まず、徳武と交換トレードでいった河村保彦からいきましょう。板東と同期です。突っ立ったようなへんなフォームで投げます」
 菅野が、
「マリオネット投法」
「ボールは遅いけど、変化球すべてを投げる業師です。次に、サイドハンドの酒飲み石戸四六」
「酒仙投手ですね」
「はい、秋田商業のエース。甲子園で板東の徳島商業に負けとる。金田なきあとの国鉄のエースで、二十勝投手。するどいシュートが持ち球。シンカー、ナックル、スライダーもあります」
「変化球投手、と」
「石岡康三。特徴なし。あえて言うと、低目のスローカーブ。背が高いんで、角度があるように見えるんです」
「藤原真(まこと)。まだ二十三歳。今年の新人ですわ。渡辺泰輔のあとの慶應のエース。変化球ピッチャー」
 菅野が、
「法大の田淵は藤原殺し。五本もホームランを打ってます」
「二年目、松岡弘(ひろむ)。倉敷商の浜野の一年後輩。ノッポ。快速球」
「フォームがきれいなので、威圧感がありませんけどね」
「こんなもんじゃないの、どう? 菅ちゃん」
「ですね。バッティングオーダーは四番までカチカチ固定です。一番武上、二番福富、三番ロバーツ、四番高倉」
「西鉄の?」
「はい、おととし巨人に移籍して、今年からアトムズにきました。オープン戦ではずっと四番を打ってます」
「高倉は小さいですよね。西鉄のころは不動の一番だったと記憶してるけど。ホームランバッターじゃない」
「左殺しでしたね。先頭打者ホームラン数も日本一です。十八本。アトムズのような弱小チームなら四番でいけるんじゃないんですか。五番から八番は不定です。西園寺、久代(くしろ)、奥柿、丸山……」
 一人として聞き覚えのある名前がない。
「城戸、中野、加藤、豊田」
「ぜんぜん固定してないんですね。豊田って、やっぱり西鉄の?」
「はい」
「ふうん……野球界の移り変わりってすごいんですね。その伝からすると、中日生え抜きのレギュラーはバケモノですね」
 主人がうなずき、
「長嶋、王もそうです。どのチームも、最初に入団した球団に根を張って、トレードにかからない看板選手はバケモノです」
「阪神生え抜き、足の小さい背番号5の藤本勝巳はどうなりました」
「遠井吾郎に追い出されて、おととし引退しました。一日素振り千本で有名でしたがね」
 菅野が、
「島倉千代子とも去年離婚しました」
 台所で女たちがワーッと沸き、愛のさざなみ、と口々に言った。
「背番号7、三番センター並木は?」
「二年前にオリオンズに移籍して、去年かぎりで引退しました。神無月さんの青春時代の思い出の選手たちが、この一、二年を境にほとんど消えていってます。神無月さんは、その過渡期にやってきたヒーローなんですよ。彼らの分まで、ホームランを打ちまくってください」
「精いっぱいやります」
 ふと、おととい文江さんを送ってさりげなく別れたことを思い出した。私は立ち上がって台所にいき、カズちゃんに、
「文江さんのところにちょっといってくる。すぐ帰る」
「あら、私も文江さんのこと気にかかってたの。でも夕食前よ。ちょっと時間が早すぎるんじゃない? あ、そっか、きょうは土曜日ね。ひょっとしたら午前の授業で終わりかもしれない」
 女将が、
「そうや、土曜は河合塾で半ドンや。昼からスイミングスクールにいっとるんやなかったかな」
「そうなの? とにかく電話してみる」
「なんなら来月でもいいんだ。そのうちいくって約束してたけど、土橋校長に会うことやら何やら、何だかあわただしくなる気がして」
「そうよね。ちょっと待って」
 カズちゃんは電話をしに玄関へいった。すぐに戻ってきた。
「いまちょうど、夕方からのスイミングスクールへ出かけるところだったって。すごく喜んでた。三十分でチョチョッとしてもらえればいいって。いってらっしゃい」
「いってくる」
 玄関へ降りようとすると、トモヨさんがやってきて、
「文江さんのからだが参らないようにしてあげてくださいね」
 主人が、ガラスのぐい飲みに真っ赤な液体を入れて持ってきて、
「師匠より神無月さんのからだのほうが心配や。これ飲んどきなさい。マムシ人参やから即効性や」
 菅野もやってきて、
「社長の言うとおりですよ。神無月さんのやさしい気持ちもわかりますけど、ほどほどにしないと。ほんとにからだをやられます。百人いたら百人とするつもりですか」
 私は笑いながら、
「計画立てて、するかもしれない」
 菅野は頭を抱えて、
「ああ、これだ―」
「じゃ、いただきます」
 異様なにおいでもするかと思ったら、わずかに生臭い焼酎だった。主人の気持ちを考えて、グッと飲み干した。カズちゃんがニコニコ笑いながら、
「心配ないわよ。きょうでしばらく打ち止めだから。山口さんが帰るまで、二週間の長期休養が取れるでしょ。最後のひと踏ん張り。はい、がんばってきて」
 女将が、
「和子ったら、神無月さんは生身の人間やよ。尻叩いたって、気が進まんときはあかんでしょ」
「はいはい、どんなに尻を叩いても、からだと気持ちが受けつけないときはだめなものよ。きょうは自分から言い出したんだからだいじょうぶ。女は自分から求めるのははしたないと思ってるから、常に待ってなくちゃいけないの。男がその気のあるときにしてもらわないと、ほとんどチャンスはないのよ」
「そりゃそうやけど、神無月さん、ほんとにええの?」
「はい。そんなに大げさに心配してもらわなくてもだいじょうぶです。その点では超人的ですから」
 千佳子と睦子がクスクス笑った。
「夕飯が始まるころまでには帰ってきます。腹へらして」
 おトキさんが門まで送ってきて、
「山口さんが私一人にかまけるのとちがって、これだけ大勢だと気が抜けないでしょう? お嬢さんのおっしゃるように、一人ひとりが同じように期待して全力で求めてきます。それに神無月さんは全力で応えます。女は満足すればそれで終わりですけど、神無月さんはまた次の女に……。やっぱり、こんなふうにつづけてるとからだを壊すと思うんです。ほんとに自重してください。和子お嬢さんのために」
「うん。わかってる。ありがとう、おトキさん。ぼくのいちばん大切な人は、もちろんカズちゃんだよ。そのカズちゃんがいつも文江さんに同情してるんだ。ぼくも同じ気持ちにならないわけにはいかない」
「……和子お嬢さんはみなさんに同情するんです。神無月さんもたいへんだと思ったら適当にサボってくださいね」
「サボろうとは思うんだけど、根がスケベなもんだから、何の抵抗もなくオマンコしちゃう。勃つうちはだいじょうぶだよ。男は黙って勃つ!」
 おトキさんは私の手を握り、
「ほんとにやさしい人ですね。山口さんが心中したがる理由がよくわかります。夕食はスタミナのつく料理を作って待ってます。いってらっしゃい」
「いってきます」
「あ、それから」
「なに」
「今回の東京行きの件、ほんとにありがとうございました」
 私はキザッぽく肩をすくめて、文江さんの家に向かった。



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