七十八
 
 千佳子と睦子が二階に上り一家が解散した。
 ふっくらと温かい手。カズちゃんと手をつないで則武の家までの道を歩きながら、自分がホームランを打てる理由を考える。たぶん独特のコツが備わっているのだろう。習って身につけたものではない。宮谷小学校の生垣、千年小学校の三階校舎。コツは鍛錬なしで身に貼りついたもので、だれでも獲得できるというものではない。このコツは野球全般の技能とは無関係のようだ。優秀な選手たちのほとんどがあまりホームランを打てないことからもわかる。楽譜なしで演奏できる天賦のようなもので、技術的に高級だというようなものではない。しかしこのコツがないと、どれほどすぐれた技能を持っていても、どれほど独創的な鍛錬をしても、ホームランは打てない。
「結局、なぜホームランを打てるのかわからない。からだが勝手に打つ」
「え? なに?」
 カズちゃんがびっくりして立ち止まる。
「どうしてホームランを打てるんだろうって考えてた」
 カズちゃんは安心して歩きだす。
「ほんとになぜかしらね、あんなに美しいホームランを。……何も疑問に思わないキョウちゃんが、自分の才能だけには疑問を持ち、理屈をつけて納得しようとするのね。……そのままでいて。キョウちゃんは天才なのよ。天才であることからもらえる利益は素直にいただくことよ」
「ぼくのホームラン、好き?」
「大好きよ。でも私が愛してるのは、キョウちゃんの天才じゃないの。それはそれで驚いて楽しんでるけど、愛してるのはキョウちゃんそのもの。十歳でも、二十歳でも、百歳でも、キョウちゃんでありさえすれば、私は恋しさでいっぱいになるの」
「何もしないで、生きてるだけで?」
「何十回も言ったわね。生きてるだけでいいの。……知識をもとにした〈考え〉じゃなく、感覚をもとにした〈思い〉がありさえすれば」
「思い……」
「人間の本能的な感覚よ。たいていの人は、たとえば男女関係などというものは、心身の束の間の欲望を満たすだけのくだらないもので、その結果はだいたい嘆かわしいものになるって〈考え〉てる。それは真実じゃないわ。反対の考え方を取り出してみても同じ。男と女の関係は欲望を求める束の間のものではない、その結果はだいたい喜ばしいものになる。これも真実じゃないでしょ。折衷案はどうかしら。恋愛にかまけることもそれなりにけっこうだが、芸術家が言うほど人間の一大事じゃない、能力に見合った仕事に精を出すとか、社交や遊山で息抜きをするとか、家族との団欒を大切にするとか、身分の上昇と経済的な安定を図るとか、人間として大事なことはいっぱいある。―でもそれもやっぱり真実とは言えないでしょう? あれかこれかは真実にならないの。でも、ある人を愛してるという絶対的な〈思い〉は残るわ。それだけが真実よ。その真実だけを見つめて生きてるのがキョウちゃん。そういうキョウちゃんを私は愛してるの」
「ありがとう。でも人間は複雑だ。それを分析するのを徒労だと思わないようにしたい」
「そうね。じっくり考えながら、コツコツ生きていきましょ」
「うん。コツコツね」
 則武の家に着く。カズちゃんはダイニングの隣の寝室に床をとると、浴槽に湯を入れにいった。戻ってきて、キッチンでフィルターコーヒーをいれる。ダイニングテーブルに二人で安らぐ。
「うちに田中勉という実力のあるピッチャーがいるんだけど」
「おとうさんに聞いたことがあるわ。去年西鉄からきた選手でしょう? 完全試合もした人だとか」
「うん、なんか金で困ってるみたいで、怪しげな男がよく彼を球場の廊下で待ち構えてるんだ」
「……ギャンブルね。プロ野球選手の賭博問題は戦前からのことなの。追放された選手は何人もいたのよ。戦後の南海の監督の山本一人や阪神の監督の藤本定義といった人たちは、八百長をする選手たちの扱いに心を砕いて、根絶やしにしようと努力したの」
「なぜ賭博なんかやるんだろうね」
「プロ野球選手がもともと遊び人気質だからということもあるけど、理由の一つは戦後の貧困ね。当時のプロ野球界は就職先として恵まれてるとは言えなくて、生活保障のない選手たちの不安にヤクザがつけ入ったのね。これに見かねて選手の生活の安定を目指して選手会が作られたの」
「選手会発足の経緯には賭博問題も関わってたのか」
「選手が賭博にかかずらう二つ目の理由は、強く取り締まれない球界の自浄作用の低さがあるわ。戦時下のころは、公にしちゃったら野球界解体の危険があったけど、戦後はその心配がないのに強く取り締まれなかったのはなぜかと言うとね」
「うん―」
「リーグ戦開始後、各球団が選手集めに躍起になっていたからよ。戦前に追放されていた選手も次々にプロ野球界に復帰してきたの。ゴールドスターの石田光彦、毎日オリオンズから巨人と渡り歩いた長島進、太陽ロビンスの岩本義行なんかね。選手兼任監督だった山本さんは一塁を守りながら選手の八百長の監視をしていたらしいし、藤本監督はある主力ピッチャーを疑って先発から外そうとしたら、オーナーに反対されたり、ヤクザにピストルで脅されたりしたんですって」
「戦争のせいで若い男がぜんぜんいない時代だったしね」
「クリーンさよりも球団利益ね。連盟がする八百長対策は内々処分くらいのもの。やっと野球協約は作ったけど、選手たちに教えることはしなかった。そういう内向きな体質のプロ野球界は暴力団にとってありがたい環境ってわけ。去年も東京目黒区の碑文谷署で野球賭博組織の一斉検挙があったんだけど、大物政治家とやらに警察が圧力をかけられて、捜査終了でチョン」
「なぜ」
「プロ野球は公営競技でないからよ。さ、お風呂入りましょ」
 二人で風呂場にいく。一足先に帰ったメイ子が浴槽を磨き立ててある。遠慮して離れに引っこんでいる。服を脱いで、湯殿に入り、からだに湯をかけ合う。抱き合って湯に浸かる。
「公営競技じゃないってことは?」
「単に金をもらっただけでは罪にならないし、暴力団と共謀した事実がはっきりしないと逮捕できないの」
「マスコミは騒がなかったの」
「野球界のスポンサーは大手マスコミだもの。疑惑があっても、事実を究明することはなかったのよ。癒着ね。でも今年、月刊『現代』が近鉄の賭博問題についていろいろ書いてたわよ。球団広報課長が八百長を仕組んで永久追放になったとか、土井正博が常習賭博の容疑で大阪府警に取調べを受けたとかね。来年三原監督はクビみたい」
「……八百長は叱りたくなるけど、ギャンブルはどうなんだろう」
「公営ギャンブルは合法よ。競馬、オートレース、競輪、ボート、パチンコ、宝くじやお年玉つき郵便はがきも。主催者か客に不正がないかぎり罰せられないわ」
「ねえカズちゃん、きょうも北村席でそうだったけど、ぼくがしゃべるといつも座が静まるね。暗い冷気が流れるんだろうね。ぼく特有の暗さだと思う。暗い気持ちなんか持ってないのにね」
「言葉の厳密さよ。キョウちゃんがとても正確にしゃべろうとするから、理解するのがたいへんなの」
 長いキスをする。
「なんだかカズちゃんとするセックスの仕方を忘れてしまったような気がする。ご指導よろしく」
「私もそんな感じだけど、どうにかなるでしょう。だいじょうぶ……ほら、立派に勃ったわ。これを入れればいいだけよ」
 勃起したものをしっかり握っている。
「緊張する」
「ほんと。愛し合ってるからよ。心から愛し合ってることがこのごろわかってきたの。これまでは少し引け目があったけど、もうそんなもの、カケラもないわ」
「何の引け目?」
「キョウちゃんの人生に対する責任感のようなものかしら。……責任を取らないことに決めたの。キョウちゃんが死んだら死ぬ。それだけにしたわ」
「外に出す?」
「中に」
 立ち上がって、尻を向ける。カズちゃんは屈みこんで湯殿の床に両手を突き、尻を高くして、性器がよく見えるようにする。尻の割れ目に鼻を当てながら舌を使う。アクメで腹がきつく縮んだところを見すまして、深く挿入する。瞬間、さらに強い絶頂に達し、膣を何度も収縮させながら私をやさしく包みこむ。
「イキッぱなしになるわ」
「いつものようにね。ぼくもすぐイクからね」
 動きだすと、五回、六回と達しつづけ、膣の緊縛が極点に達したとき、私の変化を察してカズちゃんが、
「ちょうだい!」
 と叫ぶ。両乳を握り締めながら勢いよく吐き出す。律動して搾り出すたびにリズミカルな収縮に包まれる。カズちゃんは顔を振り向け、私の口を求めながら懸命に子宮を押し出すように痙攣する。引き抜き、抱き合って湯に浸かる。しばらく唇をつけ合ったままでいる。
「ありがとう、キョウちゃん。すっきりしたわ。ぜんぶ足りた感じ。キョウちゃんに私の快楽を感じてもらって、キョウちゃんの快楽も独り占めできてうれしい」
「ぼくも」
「……さっき、キョウちゃんの言葉は厳密でわかりにくいって言ったわね」
「うん」
「大して意味のない世界を、一所懸命表現しようとするからなの。正しい行いだけど、なかなかわかってもらえないわ。私はわかってるから安心してね。そして、キョウちゃんのしゃべり方も大好き。だれがわからなくても、しゃべりたいときにしゃべってちょうだいね。どうしても通じないときは、私が通訳してあげる」
「ハハハ、ぼくの言葉は外国語なんだね」
 湯の中でカズちゃんは、手でひそかに私の性器のぬめりを落としている。どんな女もまねのできない心遣いだ。
「通じにくいという意味ではそうね。どうして正しい行いかというとね、自分の幸福を目指してないからよ。たとえしゃべることをわかってもらえたことでキョウちゃんが幸福を感じたとしても、それはラッキーな偶然ね。キョウちゃんは詩人よ。この上なく大きな価値がある芸術は、人に謙虚や、寛容や、英知や、度量を教えるの。そういう芸術の大きな価値は、美しいことじゃなくて正しいことにあるわ。いつかはわかると思って、解こうとしたり、表現しようとしたりすることは、まちがいなく正しい行いよ。でも、世の中には解けないことや表現できないこともたくさんあるの。予測できないこと、解くことができないものがね。そういうふうに考えられるようになれば、それこそが人生の魅力だと思うようになれるわ。そういうふうに、いつかキョウちゃんが人生を解決して、表現してくれることを祈ってる」
 感激してうなずく私に、カズちゃんはニッコリ微笑み、
「いざ芸術となると、正しさよりも美しさに価値があると思われがちね。絵画のような芸術じゃなく、文章芸術で美と見なされてるのはどういうものかしら? かつて愛したとか、時間の経過で感傷的な気分を誘うとか、そういう人、もの、場所を思い出させるものを美しいと見なすわ。見覚えがあるので美しいと芸術家が思うからね。すべて過去の幻。現在の美もあるわ。よくキョウちゃんが美しいっていうもの」
「めずらしさに驚くものだね。人格、肉体、自然」
「そう、ぜんぶ個人の心の中で、何かの類似を連想することに関係してるわね。そういう美しいものだけに終始する芸術は底が浅いわ。人を導く〈正しさ〉は絶対な価値を持ってる。それがキョウちゃんのこだわりだし、思想なの。キョウちゃんはほんものの芸術家よ」
 よく干して叩いてある蒲団にもぐりこみ、抱き合って寝る。
「こんなにすばらしい人間を、周りのつまらない人たちに殺させないわ。もちろんキョウちゃん自身がいつ殺されてもいいと思ってることは承知よ。その気持ちでゆったり構えていてちょうだい。私が大きな精神を守ります。キョウちゃんの精神を軽んじる人を、こつこつ取り除いていきます。だいじょうぶよ、取り除くと言っても、おとうさんみたいに人の力を借りて恐いことをしようとは思ってないから。新聞記者であれ、北村席の女の子であれ、こんこんと説き聞かせるだけ」
「心当たりがあるの」
「……いまのところそんな人はいないけど」
「あまり神経尖らせないで。ぼくはカズちゃんと暮らしていければ、どうなったっていいんだから」
「キョウちゃん……」
 唇を寄せ合って眠りについた。


         七十九

 三月二十四日月曜日。ぐっすり眠ったので、七時少し前に目覚めた。起きぎわに田中勉と、カズちゃんが、ギャンブルね、とすぐに言い当てた遊びについて考えた。八百長はただの不正であって、ギャンブルではないと思ったので考えなかった。
 あんな無意味な遊びになぜ人は心奪われるのか。東京競馬場や名古屋競馬場の群集の熱気に触れても、理由はわからなかった。身をもって試すしかないと思って、麻雀もやってみた。私の興味を引くのはゲームをする者たちだった。煙草をくゆらす陽気な男、必死の形相をした男の手は雀卓の上を幽霊のそれのようにさまよっていた。別の雀卓に玄人集団の男たちがいて、中の一人が、衣食住に金を使うのは素人だというようなことを言っていた。金の目的はただ一つ、運を買うことというようなことも言った。金が尽きたときにギャンブラーは死ぬという意味だろう。作家の書いたギャンブラーの本も読んだことがある。言葉など助けにならないと書いてあった。逃げ道はただ一つ、ギャンブルの場から去ること。近くの駅から電車に乗ること。しかし駅までが遠い。電車賃があったら賭けをしたくなる、金がなくなりゃ帰れないと。
 ―今朝、しかもいま、ハタと賭けへの情熱を理解できた。金を手にする官能的な喜びだ。金という〈権力〉を手にする感覚は、愛より心地よいのだ。私の本能とはまったく逆の感覚だ。私の官能のふるえは力ではなく美に誘発される。私は彼らとは種を異にする人間だとわかった。今朝の思索は有益だった。
 カーテンの明るさから快晴だとわかる。タイメックスはぴったり零度。窓辺に立ってカーテンを開ける。メイ子が廊下に掃除機をかけ、カズちゃんが味噌汁の具を刻んでいる音が聞こえる。カチカチに勃っている。尿意勃ちではないけれども、とにかく、くの字にからだを折って小便をしなくちゃいけないと思っているところへ、カズちゃんが入ってきた。
「おはよう。八時からランニングね。そろそろ起きて。あら!」
 パンツを突き上げている股間を見て両手を口にやる。私はパンツを脱ぐ。
「すごーい! お天狗さん! どうしましょう。メイ子ちゃーん!」
 廊下に声をかける。
「はーい」
 パタパタ走ってくる。
「ワ!」
 カズちゃんがニコニコして、
「ほしいでしょ?」
「ほしいです!」
「どうぞもらって。キョウちゃん、よろしくね」
「うん」
「じゃ、朝ごはん用意してるから」
 カズちゃんが去ると、メイ子は急いでパンティを脱ぎ、スカートのまま跨ってきた。尻を深く落とす。ふるえはじめようとするメイ子に言う。
「干した蒲団、気持ちよかったよ。ありがとう」
「どういたしまして。私の仕事です」
 微笑みながらいつもよりもしっかり達した。私も腹の底から微笑んだ。
         †
「いい具合に漬け上がったわ」
「あ、白菜の浅漬けだ。ついに出た! 味の素と醤油!」
「はい、どうぞ」
 メイ子が恥ずかしそうにやってきて、
「すみません、痺れが取れなくて、身動きが―」
「ひさしぶりのときは、あせってしちゃだめよ。感じすぎちゃうから」
「はい、とつぜんで舞い上がってしまって。これからは気をつけます」
「さ、ごはん食べましょう」
「はい」
 浅漬けでめしをくるむ。
「キョウちゃん、むかしからそうやってごはん食べるの好きだったわね。私たちも食べてみましょ」
 二人、味わいながら食べる。
「おいしい!」
「ほんと、おいしいです!」
「これに丸干しがあれば最高だね」
「あ、買ってあったのに焼くのを忘れてました。あしたの朝、焼きます」
 カズちゃんが、
「きょうは西高ね」
「うん、十一時。きちんとお礼を言ってくる。北村席にもスーツ何着か置いてあるよね」
「あるわよ。トモヨさんの離れに五着くらい。焦げ茶がいいかも。ベルトも靴も茶色」
「そうする」
 八時を回って菅野がやってきた。庭のケージで百八十本の素振りをしてから、牧野公園へ走った。則武からだと約四百メートル、三、四分かかった。
「わあ、桜がきれいに咲いてる。けっこう見映えがいいね」
 シーソーの片側を斜面になるように支えてもらい、腹筋を五十回した。うつ伏せになって同じように背筋を五十回。地面に手を突いて、桜の下で両腕立てを百回やった。片手腕立てとシャドーはやらなかった。
「ほら、もう、北村席の前に報道陣がちらほらきてるんですよ。則武にはいきませんでしたか」
 記者たちが二人の練習風景をパチリパチリ撮っている。
「いや。いまのところあっちの家は知られてないから。新居ができたという情報が回ってるだけで、お父さんたちが秘密にしてくれてる。まさかあんな近くだなんて思わないだろう」
「クラウンで西高へいきましょう。市電でいったら、記者たちと押しくらでたいへんなことになります」
「お願いします。土橋校長が連絡しちゃったんだね」
「西高の名誉ですから、しょうがないです」
 数奇屋門の前に二十人ほどの記者たちが集まった。路上に車が縦列する。フラッシュが光る。マイクが伸びてくる。
「名古屋西高校で講演なさるそうですね」
「講演? そんな予定はありませんよ。土橋校長先生に会いにいくだけです。すみません、中へ入れてください。支度がありますんで」
「生徒、教師、一般を合わせて、五、六百人ほど集まると聞いておりますが」
「え―」
 菅野が両手で平泳ぎのように掻き分けた。主人が私たちを導き入れ、門にカンヌキをかけた。次々と車が去っていく。西高に向かったのだろう。カズちゃんやトモヨさんたちが心配そうに玄関に出迎えた。
「西高の広報係という人から電話が入ったわ。校長先生とお話したあと、懇親会を予定してますって。講演してくれということね。予想はしてたけど、校長先生もヤンチャね」
 トモヨさんが、
「適当に切り上げたほうがいいですよ」
「うん。なんだかおもしろそうだ」
「またァ」
 素子が背中を叩く。菅野が、
「来年、西高の競争率、上がるでしょうね」
 私はトモヨさんに、
「直人は保育園いった?」
「はい、いま送り届けてきたばかりです」
「カメラはついてった?」
「郷くん以外には近寄りません。だれの子かわからないでしょうから」
 耳掻き天童が寄ってきて、
「朝から腕章が垣根の外でうろうろしてました。家を取り囲んでる感じでしたけど、さっきやっといなくなりました」
 カズちゃんが、
「このぶんだと、校長室もたいへんそうね。一日じゅう揉みくちゃになるわ」
 主人が、
「神無月さんがマスコミ嫌いということを知っとるわけだから、校長の許可が出たとなると、ここぞとばかり押し寄せるんやな。ほんとに早く切り上げて帰ってきてくださいよ」
「はい」
 千佳子と睦子がコーヒーを持ってきて、
「朝ごはんにしますか?」
「食べた。菅野さんはどうする?」
「私も食べてきました。そろそろ着替えたほうがいいですよ。私はどうしようかな」
 主人が、
「菅ちゃんも背広を着たほうがええ。車の中を覗かれるで。待っとれる駐車場あるか」
「西郵便局の駐車場で待ってますよ」
「向こうのスケジュールに合わせなくちゃいけないので、時間の無駄です。引き返してください。市電で帰ってきます。……講演か。どういう聴衆が集まるんだろう」
 睦子が、
「教職員は招集をかけられるでしょう。いま春休みですよね。大学に合格した人も在校生も集まっちゃうんじゃないでしょうか」
「となると、五、六百人というわけか。しゃべりにくいな」
「キョウちゃんは相手が何人でもきちんとしゃべるわよ。心配なのは、東大の優勝のときみたいな失礼な人がいることね。懇親会がクセモノ」
 女将が、
「細かいこと訊くかもしれんね。北村席とはどういう関係かとか」
「スポンサーの家と正直に言います。そのほかのことは伏せます。野球をしばらくやりたいので、その点、保身に徹します」
 主人が、
「西高の前まで乗ってって、様子見てくるわ。揉みくちゃになるようだったら、抱えて門の中へ入れたる」
 カズちゃんが、
「私もいきたいけど、女は顔を出さないほうがいいわね」
 女たちがうなずいた。
 菅野と二人で背広に着替えた。いまから出かけます、と西高のトニー谷に電話を入れた。
         †
 西高の正門前にセダンやミニバンが五、六台列をなし、カメラやマイクを持った報道員たちがびっしり立ち並んでいた。クラウンを降りたとたん、父親の言ったとおりすごい圧力でマイクが押し寄せてきた。
「天から降臨したそうですが、何という星から地球へやってきたんですか」
 さっそく意地の悪い質問だ。どういう意味があっての意地の悪さかわからない。ウイットで返すことを期待しているのかもしれない。
「馬の骨」
 と答えると、うれしそうに笑う記者たちがいる。
「すごいホームラン数ですね。相手チームのピッチャーや審判に好かれてるんじゃないですか」
「大いに考えられます。エコヒイキがつづいてほしいです」
 きょう一日が思いやられる。彼らにとってホームランは感動の対象ではない。
「大リーグでも同じくらいホームランを打てると思いますか」
「激減すると思います」
「ご親族にあげた契約金の残りは、西高には寄付なさらないんですか」
「もう残ってないんです」
 どれもこれも度を超えた無礼な質問だ。
 ―ドン百姓、クニへ帰れ。
 なぜか浅間下に戻ったような気分になる。彼らの群れの中を土橋校長が迎えに出た。握手し、肩を抱かれる。教頭はじめ教師たちが背後にずらりと控えている。ギラギラとフラッシュが光る。
「どいて、どいてや!」
 主人と菅野が報道陣を押し分けて、玄関まで私と校長を送り届けた。
「じゃ、神無月さん、がんばってな」
 二人はまた報道陣を押し分けて帰っていった。校長室ではなく、会議室のような広い応接ルームに入った。こんな一室があることを知らなかった。記者たちは壁に貼りついて、手帳を出したりカメラを構えたりした。私は校長に深く頭を下げ、
「卒業以来、お礼を申し上げに伺うのが一年も遅れました。申しわけありませんでした」
「礼を言いたいのはこっちだよ。名古屋西高の名を世間に轟かせてくれた。とにかくよくきてくれました。ま、おかけください」
 ソファに腰を下ろし、あらためて握手した。フラッシュ、フラッシュ。あの教頭も手を差し伸べた。教師たちが教頭の背後に立ち並んだ。二年生の担任松田、古文のガンジー、英語のテチャニック、尻向け日本史教師、金原たちと映画に連れていってくれた政経の安中(異動にならずに留まったようだ)、見覚えのある顔がほとんどいた。私は一人ひとりに目礼した。
「めったにないことなので、マスコミ各紙、テレビ各局に連絡しました。青森にもこのことが伝えられるようにと思ってのことなんです。都合のついた在校生や卒業生たちも、数百名が講堂に集まっている。ぜひ講演してほしい。出し抜けにお願いして申しわけないが、きみの人となりを大勢の人たちに知ってもらいたくてね」
「とんでもないです。先生が野球をやれと言ってくださらなければ、ぼくの今日はありませんでした。講演でも何でもいたしますが、うまくしゃべれるかどうか自信がありません」
「神無月くんは演壇に立てばそれだけで絵になります。それに、きみは言葉の魔術師だ。何をしゃべってくれてもかまわない。期待してます。いやあ、それにしても、好男子がますます好男子になったね。野球をやらせておくのがもったいない。映画俳優にでもしたいくらいだ」
 連続のフラッシュ。

         八十 

 居並ぶ教師たちにも声をかけなければ礼を失すると感じた。
「松田先生、お子さんはお元気ですか」
「はい、もうすぐ三歳になります。ありがとうございます」
「信也先生は残念でした。いい人でしたが」
「ええ、あんなに若くしてお亡くなりになってしまって……」
 ほかに感慨を示さない。信也に対してあまり思うところがないのだろう。たぶん、自殺した横地のことは話の接ぎ穂にもならない。
「お母さんと疎遠なことがよく新聞に載ってますけど、罪悪感はありませんか」
「罪悪感? 世間が罪と規定するなら、背負って生きます。石黒先生、足の具合はいかがですか?」
「少し高級な義足に替えたんですよ。黒板に凭れることが少なくなりました」
「有意義なお話が減ったんじゃないですか」
「いやあ、相変わらず雑談ばかりです。有意義かどうかわからないけど」
「すばらしいものでした。安中先生、まだ異動なさらなかったんですね」
「一年間昭和区のほうの高校に勤めて、この三月にこちらに異動になりました。うれしいです」
「いまも学生を映画に連れてってますか」
「あの印象深い冬だけですね。その後は一向に」
「サウンド・オブ・ミュージックはすばらしい映画でした。あのときいっしょに喫茶店にいた鷲津さん、どうしてるかな」
 斜視の、とは言えなかった。また松田が、
「ああ、あの子は愛教大にいきました」
「鴇崎くんは?」
「立命館」
 安中が、
「金原さんは、名大の数学科にいったそうです」
「本人と駅前で出会って、聞きました」
 松田が、
「それにしても、まさかあなたが野球選手になると思わなかったわ」
「まさか野球をやるために東大にいくとも思わなかったでしょう。他人というのは、思わぬ道を歩むものです」
 土橋校長が、
「しかし、よかったね、神無月くん、いちばん望んだ形で出世できて。わがことのようにうれしい。きみの名誉を碑に刻むことで、指導者としての大任も果たしたしね」
 私は大勢の人の見ている前で、どうやって校長に感謝するような次の言葉に結びつけていいのかわからず、少しヘドモドした。
「もちろん野球選手になることはぼくの本来の望みでしたが、校長先生が望んだ形でもあったので、何か大任を果たした思いです。この高校でぼくの野球への情熱を理解し、野球選手になるために東大へいけといったのは、先生お一人でした。母との角逐をじゅうぶんご存知だったからでしょう」
 壁から声が飛んできた。
「土橋校長が唯一の理解者だったということですか?」
「理解という意味では、唯一というわけではありません。ただ、母との角逐とを考え合わせて、野球をやるために東大へいけと言ってくれた唯一の人でした」
「東大よりも野球を取った理由は? 東大を卒業しておいたほうが、長い人生においては有利だったと思うんですが」
 次々と別の記者から質問がつづく。
「ぼくは母に野球への道を二度断たれました。一度は中京商業のスカウトを追い返されたとき、一度は青森へ追放されたときです。罪なき者が石を投げよ―という言葉があります。罪ありと認識した者にもう一度石を投げさせないためです。やはり母はもう石を投げません。要するに、東大へ進み、すぐさま中退したのは、母に罪を認識してもらい、これ以上妨害を受けないための苦肉の策です」
 女性記者が、
「野球はお母さんに対する復讐の手段ですか?」
「復讐ではなく、覚醒を促したということです。母のような人びとに対する、と包括してください。しかし、人間がそんな単純な動機で動くものでないことはおわかりでしょう。結果的には復讐の形をとっているとしても、野球のグランドは、ぼくの適所であり、ぼくはそのグランドの適材です。適所に適材でいることは幸福をもたらします。自分が望めば幻想の世界に生きられるという幸福です。遺恨を忘れ、幸福に暮らしたかったというのが最大の理由であったと思います」
「幻想の世界というのは、偽りの現実ということでしょうか」
「はい。偽りの現実のほうが生きやすいということもあります。本来の目的を隠すことも可能ですから」
「本来の目的とは何ですか」
「何の妨害も受けず、人と愛し合って生きること」
 土橋校長が、
「きみたち! 彼が妨害をものともせずに、適所に属することを遂行し得たことのみを賞賛したまえ。動機なんてものはいかなる人間も持っている。単純なこともあれば複雑なこともある。当事者でないわれわれは、彼が好ましい結果を引き寄せた才能だけを褒め称えていればいいんだ。彼は東大という日本を代表する大学に受かることによって母親の名誉の子になり、中退することによって日本を代表する野球選手になり、図らずも、ふたたび母親の名誉の子になった。どこにそれを復讐ととる親がいるものかね。復讐なぞ、きみたちの言葉の綾だ。……そう思いたいところだが、驚くべきことに、神無月くんの母親は彼が名誉の子になることを望んでいない。じつは東大に合格することも、もちろんプロ野球選手になることも、彼女の望みではない。息子が世間に登用されることは、彼女にとって腹立たしいことなんだ。彼女にとって最大の願いは、息子が出世して社会的な名望を得ることではなく、ひたすら自分に孝養を尽くすことなんだ。その証拠として、人づてに聞いた話だが、彼女は、親孝行でない人間がたとえノーベル賞を獲っても何の価値もないと言ったそうだ。そうなると、なぜ東大より野球を取ったかという質問自体、間が抜けていることになる。彼はどちらを取っても母親の意に沿わなかったからですよ。それでも野球を取ったのは、東大より野球のほうが本人にとってすばらしい価値があったからに決まってるじゃないか。神無月郷という人物が、学歴に依存するがごとき、長い安全な人生を重視するような輩に見えるかね。彼の清澄な人格を中傷するような失礼な言葉は今後慎みたまえ。さ、神無月くん、せっかくの機会だから、きみの後輩たちにひとこと話してやってくれ。おっと、その前に顕彰碑の前で記念撮影だ」
 土橋校長は私と教師連を引き連れて校庭へ出た。記者たちが追ってくる。ものすごい人だかりだ。ほとんどが学生たちのようだ。熱いあこがれの視線で私を眺めている。
「ほんとに何百人もいますね。彼らに声をかけるのはたいへんだったでしょう」
「広報を使って、上下級生、卒業生、主だった生徒に電話をかけまくってもらったよ。渉外費でね。ハハハハ。父兄はもちろん、噂を聞きつけた一般からの出席者も多い」
 新米らしい一人の記者が紋切り型の質問をする。
「あなたにとって野球とは」
「幸福な道草です。人生のすべてだと言ってほしかったですか?」
 マスコミという低劣な知性が社会の木鐸とは思えない。ほかの記者が、
「勝敗に淡白なように見受けられますが、ファンとしても張り合いがないんじゃないでしょうか」
「一般ファンのプロ野球に対する本音は、いいプレーを観たい、おもしろい勝負を見たいというところにあると思います。極端なことを言うと、彼らの本音は、結果に淡白であっていい、要はおもしろく楽しい野球でありさえすればいい、というのが偽りのないところじゃないでしょうか。水原監督もチームメイトも同じ気持ちでいます」
「常勝巨人が羨ましくありませんか」
「ありません。どんなチームもスポンサーの動く広告塔の意識を捨てなければ、ファンが気に入るようなパフォーマンスはできません」
 またさっきの新米。
「いまの大活躍をだれに知らせたいですか」
「新聞を読める人で知らない人はいないと思うので、あえて知らせるなら、新聞を読めない金魚の金太郎です」
「?……」
 バックネットの背後に立つ顕彰碑の前で、土橋校長と私を真ん中に、教師たちを後列に並べて、写真屋が記念写真を撮る。目の前にバックネットを望む奇妙な図だ。
 トニー谷が校庭の学生たちに呼びかける。
「講堂にいきますよォ。みなさん、講堂へ移動してください!」
         †
 演壇脇のポツンと独立した椅子に座らされた。聴衆が千名定員の講堂の九分近くを埋めている。意想外の大人数にたじろいた。田島や金原たちと歌を唄ったときとはまったく異質な緊張感がある。当然、校長や教師たち以外に顔見知りは一人もいなかった。顔見知りは演壇の左右の端に席を占めた。日本史の教師の名前をどうしても思い出せない。教頭が演壇裾のマイクでむにゃむにゃしゃべる。
 土橋校長が中央の演台に登ると、聴衆が椅子をいざらせて据わりを整える音が驟雨のように聞こえた。校長は私を慈愛のこもった眼で返り見ながら紹介した。
「三年前、青森県の高校からこの名古屋西高校にふらりとやってきた、知る人ぞ知る、知らない人も知っている風の又三郎さんです」
 ドーッと笑いと拍手が上がる。稲妻のようなフラッシュ。
「たとえ彼の人となりを知らない人でも、その業績は知っています。西高の英雄であるのに留まらず、いまや日本の英雄です。顕彰碑にも詳しく刻んでおきました。きょうは彼の言葉を聴いてもらいたい。きみたちに人間信頼が芽生えるでしょう。前置きはよろしい。午前早くから詰め掛けたみなさんは、とっくに痺れを切らしておるでしょうから。では神無月郷くん、どうぞ」
 私は拍手の中で一礼をし、しばらく演壇の机にうつむいた。気楽にしゃべろうと思った。
「……人の人生を変える言葉があります。それは、自分に向かって他人が発してくれるイエスです。ぼくはその肯定の言葉を信用しないで、人生の岐路では、自分の直観、すなわち心の声を信じてきました。心の声はプラスの結果をもたらしてくれると思っていたからです。心の声が味方と敵を教えてくれると思っていたからです。だれと距離を置き、だれに胸中を預けるか、それを教えてくれると思っていたからです。他人がかけるイエスにばかり喜び、心の声に耳を貸さないと、迷いが生じます。なぜならイエスは多種多様で、心の声は確固としていますから。イエスに守られているとき、人はぼんやり見果てぬ夢の中に遊び、心の声、つまり敵味方の弁別の信念に基づいて行動するとき、人は苛烈な現実の中をさまよいます。……もうぼくの話が見えたと思います。夢は見果てぬうちにすみやかに覚めるけれども、たとえ短くとも、マイナスの結果をもたらす危険があろうとも、ぼくはその夢の中で遊ぶことに決めたのです。苛烈な現実には敬意を払いますが、少し食傷しました。……水原茂監督、江藤慎一、中利夫、高木守道、小川健太郎、木俣達彦、一枝修平、太田安治、菱川章といった、イエスと言ってくれる人たちといっしょに、覚めるまで見果てぬ夢を見ることに決めたのです。夢の中で遊ぶことはぼくの体質に合っていませんが、これまでイエスに応えてこなかったことに対する贖罪です」
 私は演台に用意してあった水差しの水をコップについで一息に飲んだ。
「贖罪とは自己犠牲のことです。罪を償うために自らを罰することです。自分を肯定してくれる人に応えない罪は重い。罪が重いほどに、背負う苦しみも重くなります。死をもって罪を償うことも実行しましたが、救出され、果たせずに終わりました。ぼくの犯した最大の罪は、すべてのイエスに対してひっくるめてノーと言い、自殺を図ったことです。暗い森の首吊りの現場からぼくを間一髪で救い出した男の名は、山口勲と言います。この名を覚えておいてください。いずれ世に出るギタリストの名前です。ぼくは天馬ではありません。地上で死にぞこなった凡夫です。そして、優秀なみなさんの希望です。分不相応なことで、光栄に思っています。邪悪な人間には事実の露見は恐怖でしかありません。しかし、ぼくは善良な人間です。善良な人間にとって、事実が発覚するのはじつに喜ばしい瞬間です。こんなことを人に知らしめるために甦ったからには、これからは、どんなに淡いいっときの遊びでも、それを緻密に作り上げる努力をし、贖罪という名の喜びに隠された真実を探っていこうと思っています。もしそういう生き方や、贖罪そのものに矛盾を感じれば、風船に針を刺すように一瞬でその幻想を棄てようと覚悟しています。贖罪が成功裡に完了して初めて過去は清算できるのですが、贖罪を果たせずに幻想を放棄したその後の行動で清算しようと思っています」
 もう一杯水を飲んだ。フラッシュが激しく焚かれた。
「その後の行動も決めてあります。夢でも現実でもない宙ぶらりんの場所、権利も義務もない無責任なヨタロウだけの住む場所に引越しして、今度はぼくが、夢と現実をいききする人びとにイエスと言いつづけながら、彼らを夢の中に引きこむという生き方です。……しかしそれはあまり覇気のない生き方です。自分が夢の中に遊ぶのではなくては何の危険もない。―先の話はどうでもいいです。いまぼくは贖罪のための再出発にかかりきっているところです。夢の真っ最中なんです。土橋校長先生は声高にイエスを与えてくれた一人です。これから当分、先生の与えてくれた夢の中で遊びますので、ご安心ください。以上で終わります」
 会場が静まった。土橋校長や教師たちがハンカチで目を拭っている。フラッシュを焚くことを忘れた記者たちがさざ波のように拍手し、つづいて爆発的な拍手が起こった。土橋校長が演壇に立った。
「これほど自分を貶めることに巧みな人間を私は知らない。もう少しで騙されるところだった。彼が天才であることを忘れるところだった。しかし、泣きました。神無月くんの醇雅な真心が伝わってきたからです。みなさんも、言葉の魔術を越えた彼の人格を堪能していただけたものと思う。こんな人格者が誤解され、虐待を受けた時期があったという、この世の切ない現実を再考してほしい。才能は貴重な贈り物です。天才一人のために多くの凡人が才能を奪われる。だからこそ、偉大になればなるほど天才は人びとを思いやるべきだ。神無月くんはその決意をしたのです。謙虚な贖罪という言葉を隠れ蓑にして、才能を使って人に尽くそうと決意したのです。良識とプライドを持った凡人が才能を持っていてもむだです。身勝手に孤立したらそれはケダモノと同じです。イエスを受け入れなかったころの神無月くんはケダモノだった。いまから彼は凡夫の心を捨てて、命懸けで天才の夢の中に戻ります。きょうかぎり二度と会えない人だと思って、よく眺めておいてください」
 割れんばかりの拍手になった。一人のユニフォーム姿の学生が挙手して立ち上がった。
「軟式野球部でピッチャーをしている××といいます。ぼくのボールを五球、打ってください! まともなボールを五球です。全力で投げます。神無月さんも軽く打ち返さず、全力で打ってほしいんです。神無月さんの遊んでいる夢のレベルを知り、その夢に近づく階段を昇っていきたいんです」
「わかりました」


         八十一

 記者たちが講堂の外へ走った。土橋校長が私の先に立ってバックネットへ歩いていく。私は振り返りながら、ガラス窓が打球の方向にないかどうかを確かめる。ない。ライトの渡り廊下を越えると道へ飛び出てしまいそうなので、体育館の屋根を狙って打つことにする。いつの間にか野球部員が守備に散って待ち構えていた。その後方にビッシリと人びとが取り囲んでいる。校長と教師連と何十人ものカメラマンが、ネット裏やファールグランドや外野のフィールドに集まった。その後方も学生たちや一般の人びとが埋め尽くした。部員の用意した軟式バットの中からいちばん重そうなものを選び、裸足になってバッターボックスに立つ。体育館の裾まで百メートル強とわかっている。
「お願いします。いきます!」
 暴投。笑う者がいない。二球目、ショートバウンド。だれも笑わない。彼が真剣そのものだからだ。
「ふだんどおりに!」
「はい!」
 自信に満ちた渾身のスピードボールが、お辞儀をしながら真ん中にきた。百十七、八キロ。乞われたとおり全力で振る。瞬間、フラッシュ、フラッシュ。ブシュッとゴムの潰れる音がして、一直線に体育館に向かって飛んでいった。上空で風の抵抗に押し戻され、屋根の上で弾んだ。
「オオオー!」
 グランドじゅうの学生服やセーラー服が拍手する。なぜかピッチャーがうれしそうな顔でバンザイをした。
「次、いきます!」 
 これも自信の変化球か、ほとんど同じスピードのカーブが膝もとに曲がってきた。思い切り掬い上げる。ゴムのひしゃげる音。失敗だ。ライトに飛んでしまった。職員校舎を越え、校舎塀の外へ飛び出ていったようだ。
「すげえええ!」
 学生たちが門の外へ走る。
「あそこは?」
 ネット裏の土橋校長に尋く。
「アパートです。ドアがぜんぶこちら向きなのでだいじょうぶでしょう。しかし目の当たりにすると、ものすごいもんだなあ」
 私はボックスの後ろに下がった。
「あと三球! ボールが破裂するから、ニューボールで」
「はい!」
 ど真ん中へお辞儀。レフトへ押し出す。硬くていい感触だ。テニスコートに向かって伸びていき、仕切りの金網のはるか彼方に落ちた。
「あと二球。ニューボールで。きみのコントロールに関わらず、打ってほしいところに打つよ。どこ?」
「体育館の向こう」
 青空を見やる。かぎりなく高い。
「わかった。百三十メートル飛べば場外だろう。校長先生、体育館の向こうは?」
「食べ物屋が三軒ほど並んでいる。ガラスを割ったら弁償しておきます。体育館越えはこの一球にしてほしい」
 教師や記者たちの笑い声。外角高目にノーコンのボールがきた。叩き潰すようにかぶせ打ちをして、逆回転を与える。小気味よくボールは伸びていき、体育館の屋根の向こうにフッと消えた。また学生たちが走った。野球場のようにこだまする拍手が、グランドの周囲から上がった。
「最後の一球だ」
「ピッチャーフライをお願いします。記念ボールにしたいんです」
「ぼくの顔を目がけて投げて」
「はい!」
 キャッチャーが立ち上がり、見物に向かって、
「ピッチャーフライ! ピッチャーフライ!」
 と叫んだ。顔のあたりにきたストレートの下ッ面を、ピッチャーに打ち返すようにこすりつける。高いピッチャーフライが上がった。
「オーライ、オーライ!」
 ピッチャーが空を見上げながら、よろよろ方向を探る。危うく捕球し、地べたに倒れこんだ。チームメイトが走り寄ってくる。抱え起こし、九人で私の前に整列した。
「ありがとうございました!」
 一人ひとり握手を求める。フラッシュがひっきりなしに光る。一人の選手がサインペンを差し出す。全員、ユニフォームの腰前にサインがほしいと言う。文江のサインを要領よく書きつけていく。ディンプルのせいで書きにくい軟式ボールにもサインした。
 石のベンチに腰を下ろし、足の裏をはたいて靴下を履いた。指ベラで革靴を履き、立ち上がる。男女の学生が押し寄せてきて、ひとしきりサイン会の様相を呈した。
「手帳やノートには書きません。サインペンと、画帳か色紙を持っている人だけにしてください」
 それでも五十人と言わずいた。校長や教師たちはほかの学生の会話の相手をしてやっている。サインをしているとき、野球と関係のない話題を仕掛けてくる学生がいる。
「いま恋愛中なんですけど、どうも片想い気味で。……人の心は変えられますか」
「自分になら革命を起こすことはできるけど、他人は変えられない」
「どうすればいいんですか」
「そのまま一方的に愛することだね」
 土橋校長と並んで歩きだす。カメラがまとわりつき、学生がまとわりつく。有名であることに抵抗がある。できれば行動が自由なまま、ひそかに記憶されているというのがいい。
「中日ドラゴンズはスターシステムだという批判がありますが」
「何ですか、それは」
「看板選手を厚遇するというシステムです。たとえば、レギュラークラスと控えクラスとの待遇に天と地ほどの差があるということです。遠征時での旅館の部屋にしろ、食事にしろ、移動手段の乗り物の等級にしろ、いろいろな面で待遇に差が設けられていると聞いています」
「ああ、そういうことですか。スター選手が金を儲ける、つまり彼らを目当てにファンは入場料を払って観戦にくるということですけど、それによって球団経営が成り立ち、球団職員やほかの選手たちも潤う、だからスター選手を大事にして当然だという考え方ですね。ぼくにはどうでもいいことです。ぼくのように野球をやりたいだけの人間が、野球で一人前になれない人間のことを考えてる暇はありませんし、それに、水原監督や経営フロントのプロ野球人に対する考え方をとやかく言うことはできません。大事にしてもらいたければ、それだけの力をつけろ、悔しかったら上へ昇ってこいという意見は正当です」   
 寄り添ってきた学生が、
「新聞で、ひっそり生きる、と神無月さんがおっしゃってる言葉を読みました。隠れていろということですか」
「主流に染まらない、ということです。たとえひっそりでも、独自に、果敢に生きる気持ちを失ってはいけないと思います。落ち着いてはいけないんです」
 学生は明るくうなずいた。土橋校長もうなずいた。学生が言った。
「もう自殺しようとは思わないですよね」
「思わない。死は盗人だ。一人の人間の過去と現在を奪っていく。死が人間を連れ去るとき、その人間の過去だけではなく、その人間を愛した周りの人間の思い出も奪う。人は生きて、耐え抜いて、耐え抜いたことを思い出にしてくれた周囲の人びとの愛を精神の肥料にしなくちゃいけない。愛することが彼らの生きる意味なのだから。……考え直して、生き延びた結果、ぼくは、キョウちゃんとか、金太郎さんとかいう初々しい名前を得た。その名前を得たことで過去から解き放たれ、夢見ることを覚えた。ぼくの強さと弱さを愛する人びとの中で生まれ変わったんだ。もう死なない」
 渡り廊下まできた。
「ありがとうございました!」
 いっせいに上がった声に振り向くと、部員たちが整列して最敬礼していた。これから練習に入るという雰囲気だった。石黒がかすかに脚を引きずりながら、
「彼らもプロとアマのちがいを思い知ったでしょう。天と地だ」
「西高の軟式野球は強いんですか?」
「去年はベストエイトでした。彼らなりに自信があるんですよ」
 校長がぞろぞろついてくる学生たちに、
「きみたち、きょうは集まってくれてありがとう。それだけのことはあったろう」
「はい、すばらしい思い出になりました。他人のイエスを疑って自分の直観で行動することは罪である、素直に受け入れイエスの夢の中で遊ぶべきだ、という考え方はほんとに新鮮でした。……神無月さんのような神がかりの人にも自殺の経験があったというのは、腰が抜けるほどのショックでした」
 土橋校長が、
「神無月くんは苦しんできた人間だからね。……よく正直に話してくれた。自殺はふつう武勇伝のように語られるものだが、まったくそうは聞こえなかった。心の叫びだった。山口勲くんという人はどういうかたですか」
「青森高校の親友です。同じアパートに暮らしていました。いっしょに示し合わせて東大へいき、いっしょにやめました。ぼくが、夜こっそりアパートから抜け出していった跡をつけて森へ入り、ぼくが意識を失う寸前に救出しました。救出が遅れたのは、森の中でぼくを見失ったからです。ぼくを助けたとき、彼はぼくを抱き締めて号泣しました。あの声を生涯忘れません」
 松田が、
「そういうことがあったあとで、勉強をして西高にきたんですか」
「はい」
「すごい精神力ね。……事情も知らず、申しわけない態度をとってしまって」
 ガンジーが、
「ただ生意気なだけの甘ちゃんに映ったんでしょうが、男の教師たちはそう見てなかったんですよ。一目も二目も置いていた。これほどの人物とまでは予想がつきませんでしたけどね。神無月くんに比べれば、われわれは何もない芥子粒ですよ」
 学生の一人が、
「ぼくもそういう経験ができたらなあ」
 私は強い声で、
「人の経験を思い焦がれちゃだめだ。羨まずに、健やかに、生きていくんだ。きみが思い焦がれる経験を持つ人は、いつもきみの心の片隅に置いておくだけでいい」
 一人の学生がヒビの入った黒ずんだボールを示し、
「ライトに飛んだボールです。割れてます。サインしていただけますか」
 私は笑ってサインした。ディンプルが磨り減ったツルツルのボールだったので書きやすかった。
「講堂を越えていったボールは?」
「民家の屋根に当たったようです。ボールはどこへいったかわかりません。軟式ボールって、百メートルも飛ばないものですよ。あの打球は百四十メートルは飛んでます」
「小学校のころから百メートル以上飛ばしてたんだ。理屈はわからない。自分でもよく驚いたものだ。これは一種の暴力だと思うよ。暴力にはだれもが惹きつけられる。そしてむやみに切望する。それを求めて競争が生まれ、勝者は称えられる。資格や肩書、金、ぜんぶ暴力だ。ほんとうに求めなければいけないものは、そういう暴力による勝敗じゃなく、人間の内に秘められている馥郁とした情緒だ。それは勝敗と関係がないのに、人に最も影響を与える。それこそ真の力なんだ。人はなるべく偽の力から離れて暮らすのがいい」
「でも、神無月さんの打つホームランは偽の力じゃ……」
「自分で驚くくらいだから、ニセモノだと思う。自分の手応えをはるかに超えて飛んでいくわけだから。ニセモノはミセモノになる。ただ観て楽しめばいい。ボクシングにせよ、相撲にせよ、やろうとなんかしないで、観て楽しもうとするんだ。せいぜい娯楽の種としてね。楽しむ人には暴力は魅力的だけど、当事者にはわけがわからないから、それほど愉快なものじゃない。……ミセモノではないホンモノの暴力がある。権力の暴力だ。それは誠実な者から奪い取る力だ。権力者は奪い取りながら生き方を選べる。でも、たいてい地に落ちる。権力を軽々しく行使しちゃいけない。かならず報いが返ってくる。権力者になればかならずそうなるので、そういうホンモノの暴力は見物どころか、近づかないほうがいい」
「お母さんのことですか」
「彼女も強力なメンバーの一人だね」
 私はしばらく沈黙しながら歩いた。私は母を軽蔑しながら、彼女の〈存在〉を恐れている。かつては崇拝の対象だったけれども、いまは私に命を授けたという強迫観念でしかない。力への信頼を失うと、その不信感は悲しみとして心に残る。悲しみは、信頼できない力を軽蔑する本能的な感情だろう。親の存在を崇拝しなくなった子供は悲しみの沼に足を取られ、身動きのできない焦燥に駆られる。そしてついに、授けられた命を継続する自信を失う。私は、母の具体的な力ではなく、私の生命を奪う抽象的な復活を恐れている。抽象的な存在が放射する圧力を恐れている。
 その人間特有の後天的な罪は、宗教の手では簡単にあがなえない。高島台のひろゆきちゃんの家の夜の集会。あんな場所になぜ母が顔を出し、なぜすみやかに撤退したか、いまではよくわかる。邪悪な心は形式的に烏合する人びとの中で悔い改められることはない。私は母の邪悪な心に苦しんできた。おそらくそれを自分の悲惨な未来や死に結びつけたからだろう。いまは未来と死と、その二つを考えない。あえて考えないのではなく、頓着しなくなった。だから、どんな邪悪な力も私に効力がない。私からは何も奪えない。
 私は学生に答えた。
「かつては憎んでいた人だ。でも、憎しみは愛に似てる。勝手に湧いてきて、自分では消せない。かつてはその感情を他人に向けて発散してきた。いまはいろいろな人びとのおかげで独立した人間になった。愛も憎しみも自分に向けて発散することができる。―受け入れるんだ」 
「なんという知性だろうね」
 石黒が言った。土橋校長が、
「じつにすばらしい……。懇親会はやめよう。きみと〈対話〉できる人間などいない。話してもきみが退屈するだけだ。早く帰宅して、東京への出発に備えなさい。ときどき会いにきてくれますか?」
「かならず」
「きょうの写真は何枚か新聞社のかたからいただいて、青森高校のほうへ送っておく。教師たちにいきわたるようにね」
 私は校長と堅い握手を交わした。教師たちが次々と握手する。フラッシュがしきりに瞬く。政経教師の安中は涙を浮かべていた。松田が、
「ごめんなさいね」
 ともう一度言った。


         八十二

 正門前で学生や父兄たちは、校長や教師たちに三々五々頭を下げて帰っていった。寄り集まったそれ以外の人びとは、好意的な笑いを見せながら去っていった。すっかり門前がはけると、土橋校長は記者たちに、
「あなたがたはお茶を一杯飲んでいってください。きょうは取材ご苦労さまでした。今夕以降のテレビ、新聞を楽しみにしております」
 土橋校長が記者やカメラマンたちに言った。石黒が、
「これからは、神無月くんに皮肉な質問を浴びせることもないでしょう」
 報道員たちはサワサワと笑った。私は彼らにも一礼して、足早に正門を出た。謹直な姿勢で立つ校長の周りで、いつまでも教師たちが手を振って見送っていた。
 天神山から市電に乗った。のどかな車内を見回したり、窓の外の街並を眺めたりしながら、心地よく揺られていく。一つ、気にかけていた荷を下ろした。
 名鉄百貨店の書店に寄る。少しでも五百野を書き進めるための刺激がほしい。漱石全集が書棚に並んでいる。江戸文学全集という叢書もある。西鶴、近松、馬琴、秋成、為永春水だの、柳亭種彦だのといった絵入りの軟文学もある。中を覗いてみたくならない本の群れだ。古典は自分の理解力に余るとわかっている。しかし、流行よりはマシだ。流行というのは寛容さの忌避のことだろう。流行の中に身を潜め、痛みや悲しみを癒やす気にはならない。結局何も買わなかった。
 食堂階に甘味処があったので入る。汁粉を食うか、アンミツにするか迷ったが、初めてのものを食うことにする。もともとアンミツというのは、芸者の下地っ妓(こ)が小遣い銭をもらったときに、一人でこっそり汁粉屋に入って食ったものだと、荷風か何かの本で読んだことがある。
「アンミツください」
「はい」
 すぐに出てきた。緑とピンクの求肥(ぎゅうひ)飴が、なんともなつかしい色合だ。寒天、赤エンドウ豆、ミカン、パイナップル、あんこ。その上に濃厚な黒蜜をかける。竹スプーンで掬って口に入れる。うまいものではなかっった。甘すぎる。直人より大きい子供を連れた夫婦がいる。かわいらしい男の子だ。自分の頬がゆるんでいるのがわかる。自分の生命力が希薄になってくればくるほど、小さき者の命がいとおしく思われるとよく言うが、嘘だろう。若くても老いても、かわいいものはかわいい。
「ただいま!」
 主人と菅野が走り出てくる。カズちゃんたちもドタドタやってきた。
「遅かったですね! 心配しましたよ」
「名鉄でアンミツを食ってきました。うまくなかった」
「あんなもの、女子供の食い物ですよ。神無月さんに似合いません」
 素子が、
「いっしょに食べたかったなあ」
 腕を組んでくる。主人が、
「名講演だったそうですね。千佳ちゃんとムッちゃんが後ろのほうで聴いて、ボロボロ泣いたそうです」
「なんだ、三人きてたの」
 睦子が、
「はい、素子さんに連れてってもらいました」
 素子が、
「水仙のバイト、最終日やったから、ムッちゃん誘って見にいったわ」
「いちばん後ろに座って見ました。ホームランも見ました」
 千佳子が、
「すごかったですねえ、ボールが割れてしまって」
「ワシもいきたかったな。菅ちゃんともぐりこもうか話し合ったんやけどな、新聞記者が多て腰が引けたわ。ま、あした新聞に講演の全文と、ホームランの写真が載るやろ。千佳ちゃんが神無月さんのしゃべったええところをほとんど暗記しとってな、イエスゆう言葉を受け入れて生きるゆうところや。和子たちに聞かせたら、みんなたまらんゆうて泣きよった。校長先生もええこと言ったみたいやな」
 睦子が、
「土橋校長先生が強調していた〈凡人〉というのは、この世には不可能なこともあると考える人のことです。そんなことをしたら自殺行為だと考える人のことです。命懸けで夢の中に遊ぶなんてことが立派な決断だと思ってるのかと問い、意志が弱いだけだと決めつける人のことです。他人に命を捧げても大した名声は得られない、世の中を生き抜くために自分ほど苦労している人間はいない、才能と志があっても家畜よりはマシだと思われるだけのことだ、私はノーと言いながら毅然と生きてきた、そのために払った代償は数々の中傷を受けたこと、でも見返りもあった、自分の意思を貫き思いどおりに生きた、それで成功した、勝ち目のない戦いにあえぐ負け犬どもが助けてくれとすがってきたら、全員見殺しにしてやる、それが強さだ、そんなふうに考える人のことです。でも神無月さんは他人に寄り添い、命懸けで生きる覚悟をしたんです。私も神無月さんに命を捧げます。いっしょに夢の中で遊び、神無月さんの人生の証人になります」
 ソテツが、
「命懸けでって……神無月さんがほんとに死んでしまったら、神無月さんの命に代わるものがあります? 睦子さん」
「あります。神無月さんの精神です。人びとの心の中に生きつづけます。いつも正しい人ですから」
 カズちゃんが睦子を抱き締めた。女将が私の手をとり、
「よう生き延びてくれました。山口さんに心から感謝やね」
「はい。山口が助けてくれなかったら、ぼくはいまここにいません。山口はぼくの首から縄を外してカズちゃんの家に担ぎこんだんですから。カズちゃんはぼくを裸にして、全身をお湯で拭き、雪を詰めたタオルで首を冷やすと、ニンニク粥を作って食べさせてくれました。そして、そして自分のオッパイの間に片手を置かせ、オマンコに指を入れさせて、この二つをいつも思い出して、死んでたら、この二つはもうここにはなかったのよと言いました。この話は演壇でしゃべれませんでした」
 主人は、
「そりゃそうだ、アハハハ、しゃべれるはずがない。ハハハハ、しゃべってもだれもわからん。ワシらしかわからん。ハハハハハ」
 笑いながら、喉を絞って泣いた。カズちゃんも千佳子も睦子も身を屈めて泣き、いつの間にか寄ってきていた賄いの女たちも泣いた。
「山口とカズちゃんはぼくに、意志と忍耐が人生の価値を決めるということを、身をもって教えてくれたんです。人生の勝算なんかなくても戦いつづける意志と忍耐が大切だとね。疲れ果て、苦しみに打ちのめされていても、強い意志を持って辛抱強く生きつづけなくちゃいけないということをね」
 おトキさんが鼻をすすりながら、ヒヤムギを持ってきた。
「好物のヒヤムギですよ。いま天丼も作ってますからね」
 菅野がごしごし目をこすりながら、
「ホームラン、見たかったなあ。あの表通りの家の屋根に当たったんですって? ボールが割れたんですか。あの圧力じゃ軟式ボールはひとたまりもないよなあ」
「うん、飛ばない軟式ボールをよく飛ばせた」
 カズちゃんと千佳子と睦子が私にキスをした。
 トモヨさんが直人を連れて保育所から帰ってきた。さっそく千佳子と睦子に話を聞かされている。たちまち両手で顔を覆って泣いた。メイ子も百江もイネもトモヨさんの肩を抱いて新しい涙を流した。涙は彼らを浄化し、私を浄化する。カズちゃんがティシュで鼻をかみ、
「校長先生の言ったとおり、キョウちゃんの言葉は魔術を越えてるのよ。魂なの」
 私は死に関心がなくなったのではない。死に急がないようにと自分を律することができるようになっただけだ。自戒の熱はこの人たちとすごす時間とともに高まり、蒼っぽく冷めた倦怠を吹き払う暖かい風になった。ヒヤムギがうまい。天丼が出た。うまい。主人が一服深く吸いつけ、
「ほとんどの新聞社がきとったから、あしたの新聞はぜんぶ買ったほうがええな。中日やろ、毎日やろ、朝日、読売、ほかにスポーツ紙を三つ、四つ。菅ちゃん、頼むわ」
「ほい。さあ、いよいよ、あしたの昼に出発ですよ。また荷物の郵送ですね」
「様子がだいたいわかってきたから、極力荷物は少なくします。アトムズ戦と大洋戦で着るアウェイのユニフォーム二式と、下着三組、スパイクと運動靴それぞれ一足、タオル、帽子、眼鏡。それを段ボール箱一つに詰めてニューオータニへ送り、グローブと枇杷酒と本とノートはダッフル、それからバット三本はケースに入れる。ダッフルとケースは持っていきます」
 カズちゃんが、
「初日は神宮球場、次は川崎球場。川崎の試合のあともニューオータニに戻ることになってるから、まちがわないようにしてね」
「うん、球場への往復のバス移動はみんなといっしょだから、不安はないし、大儀でもない。帽子はクリーニングしてあるよね」
 メイ子が、
「はい、三つともきれいになってます」
「ありがとう。二つ入れといて。ところでお父さん、巨人のイメージがここまでメジャーになったのはいつごろからですか。長嶋より前ですか。詳しく知りたいんですけど」
 涙のあとはやはり野球の話だ。女たちは持ち場に戻れるし、男は時間を忘れられる。父親は腕を組み、遠いむかしをたどる目で、
「長嶋よりずっと前ですよ。和子が生まれた昭和九年に、日米野球がありましてね。日本選抜チームと大リーグ選抜チームが十六試合戦った。もちろん日本は全敗しました。読売新聞の正力松太郎が集めたメンバーで結成した大日本東京野球倶楽部が、まず十七対一で負け、それから日本選抜チームが十五連敗。大リーグチームはベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスなどのホームランバッターがズラリ、ピッチャーは速球王フレディ・ゴメスを中心に、カスカレラ、ホワイトヒル、錚々たるメンバーやった。日本選抜チームは、沢村、スタルヒン、三原、水原、苅田、中島、久慈、二出川なんかががんばったんやけどね。圧倒的な差やった。沢村も四戦四敗でした。こりゃいかんと、翌年大日本チームはアメリカ遠征に出た。引率していったのは、日米野球の親睦に努めとった裏方交渉役の鈴木惣太郎やった。彼はマネージャーとして、対戦相手、宿舎、食事、すべての手配をしたんですわ」
 父親はさらに詳しく思い出そうとする表情で、
「市岡忠男が総監督、監督は三宅大輔、助監督は二出川」
 菅野が、
「俺がルールブックだ、の二出川です。高千穂ひづるのお父さん」
 主人は、
「高千穂ひづるは隠密剣士大瀬康一の嫁さん。そんなことはどうでもいいよ、菅ちゃん」
「へい、すんません」
 睦子と千佳子はよくわからないという顔をした。トモヨさんが直人をあやしながら二人に高千穂ひづるの説明をする。お姫さま女優、清張映画などということを聞いても、二人には見当もつかない。直人は母親の腕を逃れて、座敷の女たちのほうへふんぞり返って歩いていった。
「遠征のメンバーは、ピッチャー沢村、スタルヒン、キャッチャー中山、ライト中島、ショート苅田、セカンド田部、サード水原ら十八人」
「水原監督!」
「はい、水原さんは草創期から日本のプロ野球をすべて見てきた人なんです。大日本東京野球倶楽部は、西から東へアメリカ横断、百二十八日間で百九試合やりました。背番号は漢字で縫いつけ、東京ジャイアンツという名前で戦った。三月から七月までマイナー相手に戦って、だいぶ勝ち越して帰国しました。七十五勝三十三敗一分けじゃなかったかな。沢村は二十一勝八敗。帰国して、昭和十一年に正式に東京巨人軍となった。日本最初のプロチームですね。この年に次々とプロチームが結成されました。つまり、いちばん歴史が古いということが、巨人軍の第一のステイタスでしょう。そしてプロ野球開始の年に初優勝。そして一にも二にも沢村栄治。昭和十二年に二十四勝四敗。プロ史上初のMVP。彼がその後の巨人イコール優勝のイメージを作り上げたんです。翌十三年には、本拠地の後楽園球場ができ上がりました。これもステイタス。そうしてそれから、優勝に継ぐ優勝」
 諳んじるように滔々としゃべる。菅野が感心して首を振っている。
「十三年には、川上、吉原、千葉ら〈花の昭和十三年組〉が入団して、強敵南海相手に三度優勝を逃がしはしたものの、十一シーズン中、八回の優勝を成し遂げました。三度のノーヒットノーランの沢村、年間四十二勝を挙げたスタルヒン、青田の入団なんかも大きかった」
「そのときの監督はだれですか」
「藤本定義。何度か応召を受けてはグランドに戻ってきた沢村は、とうとう手榴弾の投げすぎで肩を壊し、アンダースローに替えたりしてがんばったんですが、使い物にならなくて野手に転向しました。最後の試合は、なんとピンチヒッターで出て、三塁のファールフライでした。沢村は神無月さんと同じ右投げ左打ちなんですよ。それからまた出征して、戦死という悲しい結末です。ほかの選手たちも続々と戦地へいってしまい、プロ野球は一時的に解散したんです」
「恐ろしいほどの記憶力ですね」
「好きこそものの、です」
「おかげで、ぼんやり聞いたことのある名前が、順序よく頭の中に並びました。日米野球での沢村の活躍はよく聞くところですけど、日本チーム全敗というのが謎ですね。伝説の沢村はどうなってるんですか」
「日本人特有の過剰宣伝です。活躍したのは、プロ入り前の昭和九年、静岡草薙球場の零対一で負けた一試合のみで、そのときゲリンジャー、ベーブ・ルース、ゲーリック、フォックスと、二番から五番まで四者連続三振に打ち取りました。一にも二にも沢村栄治と言ったのは、これの印象がすごいからなんです。じつはあとの試合はめった打ちで、零勝四敗です。案外知られていませんけどね」
 菅野が、
「巨人に入ってからも、二十勝は一回だけですね」
「そうなんだ。戦争を挟んでコマ切れに使われたからね」
「とにかく、巨人イコール優勝だったんですね。長嶋が南海に義理を欠いて巨人にいった理由もわかりました。それにしても杉浦さんは人間的にすごい人だと痛感します。ピッチャーとしても天才だし……。それ以降の巨人の歴史も教えてください」


         八十三 

 主人がまた一服つけたので、私はその隙に天丼の残りを掻きこんだ。トモヨさんがお茶を出す。カズちゃんと素子と千佳子は座敷へ移動して、店の女といっしょに茶菓子を齧りだした。居間に女将と菅野とトモヨさんが残った。おトキさんが直人を呼んで、バナナを細かく切ったおやつを食べさせる。それがすむと素子と千佳子を連れて夕食の下ごしらえに台所に入った。数人の賄いたちが洗濯物や蒲団の取りこみをする。睦子が手伝いにいった。まったく生活のリズムが変わらない。リズムの一定な生活は落ち着く。私がここに安住できる所以だ。
 主人は煙草を揉み消し、
「戦後昭和二十一年にプロ野球が再開しました。巨人はこの年、中島治康監督で二位。優勝を逃がしてます。そこで翌二十二年、三原脩を監督に招きました。三原という人は、昭和九年にプロ野球契約をした第一号選手と言われてますが、大正九年に東京の芝浦に日本運動協会という日本初のプロ球団が設立されてますから、まちがいです。三原は戦争でケガをして、たった三年で現役を退いたんですが、頭がいいうえに、不思議に人望のある男でね。監督就任後は、川上、千葉、青田などが戦地から帰ってくると、南海の別所を金で獲得して戦力を充実させました。昭和二十二年から、五位、二位、ときて三年目の二十四年に、三原はポカリ事件を起こした」
「ポカリ? なんですか、それ」
「南海戦です。別所引き抜き事件で険悪な雰囲気になってたんですよ。南海の筒井という選手がダブルプレーになるのを避けて、ショートに組みついたんですな。三原が飛んでいって筒井をポカリとやった。これで三原は無期限出場停止。三原は人望が篤い。救済運動が起きて、百日後に監督に復帰しました。そして優勝。第二期黄金時代に入ります。この年のシーズンオフに、セパ両リーグ制の案が打ち出されて、二十五年から実施されることになりました。六対六じゃありませんでしたが」
「つまり、ぼくの生まれた翌年からだ」
「ほんとね! 両リーグ制は郷くんと同い年みたいなものですね」
 トモヨさんがうれしそうに微笑む。
「昭和二十四年に水原さんがシベリア抑留から帰ってきていたんですが、三原監督に冷遇されたんです。試合に出してもらえない。三原が水原さんの体力を気遣ってのことだったんですがね。それが原因で、水原さんを尊敬するレギュラー陣が騒ぎだし、上層部が乗り出してきて三原監督を総監督という閑職に追いやりました。当然、水原さんが監督に就任させられる。水原さんには何の下心もなかったんですよ。就任の昭和二十五年、三位。翌二十六年、三原は西鉄の監督に招聘されます。巨人には与那嶺要という有力な戦力が入団。二十六年、二十七年、二十八年と西鉄を下して三年連続日本一。翌二十九年はドラゴンズが優勝しました」
「天知監督ですか。あまりにも有名な話ですね」
「はい、それ以来十五年、中日は優勝していません。Aクラス半分、Bクラス半分。そのころ、お荷物球団高橋ユニオンズの問題なんかがあって、なかなか両リーグ制が安定しなくてね」
「その話、水原監督に聞きました。スタルヒンが巨人を追い出されてそこへいったんですよね。そして三百勝を達成したと」
「はい。あまりにも弱くて、ある意味感動的なチームでした。結局、六対六の二リーグに落ち着いたのは、ユニオンズの合併問題が落ち着いた昭和三十二年です。ほんの十二年前です。以来、水原巨人のリーグ優勝がつづきます。しかし、西鉄三原との日本シリーズ対決は三連敗。昭和三十三年は長嶋入団の年だったにもかかわらず、敗れました。翌三十四年もリーグ優勝したんですが、南海との日本シリーズで敗れました」
「それで川上監督に交代」
「いや、翌年も続投してリーグの覇を争ったんです。しかし、三原を監督に招いた大洋が優勝して水原監督は辞任しました」
「……三原って、大した男ですね。と言うか、執念深い」
「いろんな意味で、とんでもない男です」
「いまは何をしてるんですか」
「近鉄の監督です」
「そうでしたね。三十一日に中日球場で会えますね」
「はい、三原脩五十八歳。水原茂六十歳。オープン戦で早々と巌流島ですな」
「知恵のうえでも人格的にもふくらみを感じさせるこの二人に比べたら、川上監督など何ほどのものでもないですね。比べなければ何ものかでありますけど」
 菅野が笑いながら、
「お山の大将ってことでしょ? 笑えますよね。巨人軍は紳士たれ? 野球がうまいだけでなく、人としてもすぐれていなければならない? 現役時代、川上が水原監督に悪感情を持ってたところへ、水原さんが大リーグのスプリングキャンプに川上を推薦した。それで心を入れ替えたってんですから、ほんとに笑えます」
「権力というのは、基本が気取りですからね。かならずスーツ着用、私生活にも徹底的な管理の手を伸ばす。気取って支配するんです」
 主人がうなずき、
「その姿勢が、巨人は特別というイメージを世間に植えつけたんですな。ダメ押しでした」
「その分、他球団をマイナー、つまり弱小な敵役というイメージを植えつける効果も果たしたわけでしょう。だから巨人に入り損ねた浜野のような人間は、根拠のないコンプレックスを抱いて、他球団に負けても巨人にだけは負けたくないというような、いびつな反骨精神を掻き立てるわけです。メジャー、マイナーなんかどうでもいい。野球だけが好きな自分にいつも立ち返らなくちゃいけない」
「それでこそ、ワシらも野球を楽しく観られるという理屈ですよ。ワシは、神無月さんがいつも静かに野球を楽しんでる姿を見て、心から救われる気分になるんだ。もっともっとがんばろうという気にもなる」
 菅野が、
「私も同じです。大きなホームランを見て、気持ちがパーッと明るくなって、生きる力が湧いてくるんですね。巌流島対決なんかもそうですけど、村山と長嶋とか、江夏と王みたいに、個人的にライバル心を持てば切磋琢磨ということにもなって、選手の技術を向上させる効果もあるでしょうが、浜野みたいな、特定のチームに対する敵愾心というのは、たしかに向上心とは異なったスポーツマンらしからぬ気構えですね」
「寄ってたかって巨人に敵愾心を掻き立てたせいで、パリーグよりセリーグが発展したということもあるんやろう……。純粋に巨人を愛するファンの心も、巨人中心のセリーグ発展の大きな要因やね」
 私は、
「スポーツマン金太郎も、ちかいの魔球も、巨人を中心に描いてますからね」
 トモヨさんが主人に、
「巨人メジャーのイメージのお話は終わったんですか?」
「終わった。結局は、神無月さんが言うように、築き上げた伝統を誇る巨人の選手たちの気取りとか、その気取りを愛してやるファンが作り上げたものやな。築き上げた人たちの数が多いから、自然とそうなったんやろうな。いったんメジャーのイメージができ上がると、もう崩れん。ただ言えるのは、巨人の選手は勝つことだけを考えて、野球を楽しんどらんということや。ワシが選手なら、そんなチームとは戦いたくないし、戦うなら負けたくないな」
 私は思わず笑って、
「ぼくはプロ野球選手だから戦わなくちゃいけないけど、戦う以上は、ほかの球団に対するのと同じように、虚心坦懐に戦おうと思います。プライドの高い相手に本気で逆らうのは、なんだか格好悪くて。ぼくはプライドなど屁の突っ張りにもならないものだと軽蔑してる人間ですから、そこを誤解されたくない。日本の権力集団はみんな東大とそっくりです。一握りの偉人が築いてきた業績を自分の手柄にして、自分も同類に見てもらおうとする。それを洞察力のない周囲の人びとが褒めちぎる。そんな嘘っぽい連中と対等に扱われたくないですよ。ぼくが戦いたいのは、実力のある偉大な人たちだけです」
「ほうや、そのとおりや」
「平凡な選手が権威集団にこだわるのは、七光を求める弱者の悲しい性として理解できますけど、金田や長嶋ほどの天才が巨人にこだわったことが解せません。メジャーというイメージが、天才を動かすはずはない。でもそれはぼくの思いこみで、親方日の丸というのは、天才にとっても、われを忘れさせるほど魅力的だということかもしれませんね」
 直人をお腹で遊ばせていたカズちゃんが、座敷から声を投げる。
「どんな小さな権力でも、人は求めたがるものよ。キョウちゃんみたいに巨人のお誘いを断って雲隠れしちゃう人間は、まずプロ野球界に一人もいないわね。ジャイアンツはキョウちゃんのことを、この野郎って思ってるはずよ。特に権力大好きなオーナーと監督は」
 トモヨさんも直人を求めて座敷へいった。男たちの野球の話はつづく。父親が、
「中日は、権力というよりも野球だけが好きで、よく練習をサボるような天才肌が多いからね。神無月さんもグランドにいるのが楽しいでしょう」
「はい、文字どおり水を得た魚の気分になります。中日の選手たちは千本ノックなんてバカな練習はしませんが、規則的な練習をサボるような人はいないですよ。ん? フォックスがいた。今年きたフォックス」
「外人さんだな。クビが近いって新聞に書いてありましたよ。去年代理監督をやった本多さんは、いまヘッドコーチやね。何歳ぐらいかな」
「まだ四十前ですよ。彼は練習嫌いだったんですか」
「そう。練習サボって、犬山の桃太郎神社に犬山パラダイスを見にいっちゃったことがあってね。それ以来、パラさんと呼ばれとったんですよ。本多選手は中が入団する前のセンターです。ファインプレーの王者。俊足の盗塁王。バットをふた握りも短く持って、バチーンとヒットを打つ。天知さんの優勝のとき、大活躍しました。すごい美男子でね、女性ファンが多かった。目鼻立ちがすっきりしてて、体形も細身。私服になるとまるで俳優みたいやった。もてんはずがない。名古屋駅の改札で五十人くらいの女性ファンに取り囲まれていたのを見たことがありますよ。中日ドラゴンズはそんな選手ばかりです。神無月さんにはお似合いの仲間たちです」
         †
 三月二十五日火曜日。七時起床。晴。七・五度。ふつうの排便。シャワーで尻を洗ったあと、ジム部屋で一連の鍛練。マシンの扱いが板についてきた。ステーキの朝食。カズちゃんは模擬開店の準備にアイリスへ、メイ子は家事にかかる。
「お昼前にお手伝いにあがります」
「百人はくると思うから、よろしくね」
「はい」
「試運転は土日もやるけど、四月一日に開店したら日曜日はお休みにするわ」
 大鳥居まで菅野とランニング。二人でシャワー。
「ニューオータニは、どんなですか」
「内外装や設備の豪華なホテルです。中さんや江藤さんから聞いたむかし語りとちがって、いまどきのプロ野球選手のホテルは超のつく一流で、宿泊部屋も個室かツインが大半、大部屋に雑魚寝ということはまったくありません。飯場や下宿暮らしの長かったぼくは、フッとちがった階級に属したような錯覚を起こします。場ちがいな感じなんです」
「あっという間に慣れますよ」
 北村席にいき、保育所へいくトモヨさん母子を見送る。トモヨさんのお腹がもう少し目立つようになったら菅野が送っていくことになっている。
 昼過ぎ、主人夫婦と千佳子と睦子に新幹線ホームまで見送られる。おトキさんの作った弁当を渡される。
「きょうはムッちゃん、あしたは私がアイリスのお手伝いをすることになってます。大学に着ていきたいくらいきれいな制服です」
「開店してからも手伝うの?」
「大学がお休みのときだけです」
 主人が、
「ヘルメット着用!」
「了解」
 女将が、
「何かあったらかならず電話してちょうよ」
「はい」
 睦子と千佳子にチョンとキスをし、ひかりの一等車に乗りこむ。手を振って、しばしの別れ。静岡で弁当。筑前煮。美味。
 二時過ぎ、江藤たちより一足先に品川到着。私鉄を乗り継いで赤坂見附へ。女性客たちが距離を空けるようにして眺めている。私の不機嫌な雰囲気に恐れをなしているのだ。眼鏡一つでファンを避けるのは不可能なので、私は地の気分を隠さないようにしている。それでじゅうぶん効果がある。
 このあいだ太田が言っていた、私といっしょにいると騒がれない、というのは思いちがいで、むかしからファンは騒がない。ファンのほとんどが中年以上の男性だからだ。女性ファンはむかしもいまも騒いでいる。彼らが女性にも騒がれないのは、私のようなしんねりした男がいっしょにいるからだ。



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