九十

 ホテルの部屋に戻って、シャワーを浴び、ブレザーに着替える。荷物をまとめる。ユニフォーム二着、ジャージ二着、スパイク、運動靴、帽子、使った下着、タオル類などを段ボール箱に詰め、グローブ、眼鏡、本などをダッフルに入れる。
 水原監督が無礼を働いた浜野を無礼者と叱りつけずに、逆に過大な褒め言葉を与えて大目に見た真意はすぐにわかった。……懇々と説き、期待しているように見せかけて、じつは大目に見ていなかったのだ。無理難題を課して自省の縁へ追い立てたのだ。スピードを増せ、変化球の切れをつけろ、二十勝できる投手になれ、まったく無理な要求だ。三本柱に代わる中日の大黒柱? 才能あふれる華やかなプレイ? むろん、それは吼え声のことではないだろう。天才の魅力? まったくもってどれもこれも夢物語だ。水原監督は浜野の放逐を計ったのにちがいない。それなのに浜野は何も理解せずにうれしそうに笑った。
「中さん、今回はほんとうにありがとうございました。野球をやれるかぎり努力しつづける覚悟ができました。心から感謝します」
「こちらこそ。……いつまでもついていくよ。左肘に痛みは出てない?」
「出てません」
「ゆっくり鍛えていってね。関節のリハビリは焦っちゃだめだよ。あと三年は慎重にね」
「はい、訓練を再開したのが今年ですから、のんびり回復を待ちます」
 握手して別れる。段ボール箱とダッフルにバットケースを添えてフロントに差し出す。
「あしたの夜までに届く特急便でお願いします。着払いで」
「承知しました」
 ロビーのラウンジで夕食前の歓談をしているチームメイトに別れを告げた。みんなで手を挙げて応えた。江藤が、
「金太郎さん、きょうで何本ね?」
「西鉄戦までで二十四本だったので……二十八本です」
「あと三試合か。三十二、三本いくやろうな。永遠に破られないオープン戦記録になったばい。プロ野球が千年つづけば、千年破られん」
「ありがとうございます。じゃ、あさって、中日球場で」
「おう」
 あらためてみんなで手を振った。
 赤坂見附駅の公衆電話から、荻窪の雅子の自宅へ電話を入れる。雅子はすぐに出て、
「神無月さん! おひさしぶり」
「勉強してる?」
「もちろん順調です。今夜こちらへいらっしゃいますか」
「いや、名古屋の試合のスケジュールが詰まってるので、次回にする。トシさんも元気?」
「バリバリです。菊田さん、きれいになりましたよ。水泳教室のおかげです。私もすっかり若返りました。上板橋の河野さんもつづけてらっしゃるようです。菊田さんを電話に呼びましょうか」
「いい、様子を知りたかっただけだから。トシさんによろしく言っといて。元気でやってるからって」
「伝えます。もう少しお話してもいいですか」
「うん、いいよ」
 私は百円球を投入した。
「このあいだ和子さんから百万円も送られてきました。どうしたものかと悩んでます」
「どうもこうもないよ。ぼくが送るように言ったんだ。初めての給料だ。じょうずに役立てて。年に何回か送るからね」
「いいえ、これきりにしてください。神無月さんのふところをあてにして生きてるわけじゃないんですから」
「わかった。困ったときは遠慮しないで言って」
「ありがとうございます。五月六日に後楽園に観にいきます。林さんのお誘いで、山口さんもいっしょ」
「林はそのあとアメリカへ武者修行にいく」
「そうなんですか。……今月の八日にも菊田さんと後楽園にいってきたんですよ。ネット裏の年間パス券で。神無月さんが看板に当てた二本のホームラン、花火みたいにきれいでした。それから、この日曜日に菊田さんと、本郷の第二生協へ白川恭介写真展というのを見にいってきました。球神・神無月郷の春秋。東大の一年間を撮ったもので、すごい迫力でした。葉書も売ってて、全種類買ってしまいました。会場で詩織さんに遇ったので、菊田さんに紹介しました。彼女もやっぱり葉書をたくさん買ってました」
「白川さんも有言実行の人だな。うれしいね」
「三人で赤門前の喫茶店でお話しました。詩織さん、さびしそうに、睦子さんや千佳子さんは神無月くんのそばにいて学問をする道を選んだわけでしょ、私は遠くで揺れてるって言うんです。私、ときどき帰ってくる船を待つなんて、私たち年寄りにまかせておけばいいんですよ、東大を出るなり中退するなりして、名古屋へいって生活の手段を得て、そうして神無月さんとときどき逢いながら一生そばにいればいいじゃないですか、何も難しいことはないでしょうって言いました。菊田さんも、福田さんと私はキョウちゃんの港になるって決めたの、もう齢だし、長く住んだ土地に慣れてるし、仕事も手離せないし、二人で港になるしかないの、あなたはちがうわ、若いし、能力もあるし、しがらみと無縁とは言わないけど、うまく付き合えるでしょうし、前途洋々よ、安心してキョウちゃんのそばにいって、どんな形でもとりなさい、って」
「ありがとう、雅子」
「あたりまえのこと言っただけです。そしたら詩織さん、なるべく中退しないで、名古屋で就職することにする、卒業までに職種をじっくり決めますって」
 話がとりとめなくなってきたので、電話を切ることにする。
「じゃ、そろそろいくね。これ公衆電話だから」
「あ、ごめんなさい、引き止めてしまって。からだに気をつけて野球がんばってください」
「うん、がんばる。トシさんによろしく」
「ちゃんと伝えておきます」
 赤坂見附から銀座線に乗る。青山一丁目、外苑前、表参道、渋谷。とっさに眼鏡をかけてドアぎわに立ったことと、薄暗くて狭い車内のせいで、だれにも注目されなかった。井之頭線口の公衆電話からサッちゃんに電話する。サッちゃんは悲鳴のような声を上げて喜び、愛してると何度も言う。私が公衆電話からかけていると告げると、言いたいことだけをすぐに話しはじめた。
「名古屋大学と南山大学へ打診してみたの。東京外大のかつての担当教授の紹介状を添えてね。どちらの大学も、中国語系では当分講師職を入れる予定がないということで、当面見送ることにしました。で、方針を変えて、立教大学に通訳翻訳理論の大学院があったので受けてみることにしたわ」
「そう。受かるね」
「百パーセント受かると思います。試験科目は口頭試問だけ、試験日は七月六日、九月から授業開始。そこで二年間、コミュニケーション全般の腕を磨いてから、あらためて進路を決めます。二年後には英語の教職の免許もとれるそうだけど、高校教師には興味がないから、就職先はたぶん名古屋の外資系企業になると思います」
「そう。晩年が少し忙しくなったね。励ましてあげたいけど、きょうはこれから名古屋に帰るから上板橋に寄る時間はないな」
「いいの、さびしくないわ。いつもキョウちゃんのスクラップブックと睨めっこしてるからだいじょうぶ。シーズンに入って東京遠征のとき、寄れたら寄ってね」
「そうする」
「ケガのないようにがんばって。立教の結果は福田さんに連絡しておきます」
「わかった。じゃ」
「さよなら」
 夜の新幹線で帰るつもりだったのが、サッちゃんに電話し終えると、今夜は詩織のマンションに泊まって、あしたの朝名古屋に帰ろうという気持ちになった。詩織に電話する。詩織も狂喜した。
 井之頭線で渋谷から一分の神泉で降りて、詩織のマンションを訪ねる。詩織は玄関に出て待っていた。馴染み顔の管理人に挨拶して階段を昇る。私を知っている中年の管理人は直立して見送った。
「夕飯、用意するね。荷物は?」
「手ぶら。あしたの昼ごろ新幹線に乗る」
「わかった」
 少し日焼けしている横顔に、
「焼けたね」
「はい、沖縄キャンプで」
 フィギァの人形のような白いワンピースを着て、じつにかわいらしい。ドアを入ると詩織は私に飛びついてきた。唇を吸う。万年布団のそばのテーブルに向かい合う。ガスストーブの暖房が効いている。
「きのう神宮で、横平さんが、神無月くんのスコアボード直撃のホームランを見て、神無月は遠くへいってしまった人じゃなく、最初から遠い人だったんだって、しみじみ言ってました。みんなうなずいてました。鈴下監督なんか、神無月くんがピースサインをしたのを見て、俺たちみたいな下界の人間になあ、って涙を流してました」
「勘ちがいだ。どこでも、世話をする人が天上人だ」
 詩織は新聞を持ってきて、紙面の一箇所を指で示し、
「この白川くんの発表会、いってきました」
 知らないふりをする。
「そう。白川さんは義理堅いね」
 厚手の写真集を持ってくる。東大グランドに汚れた硬球が一つ落ちている表紙だ。ペラペラ見ていく。写真よりも白川の添えた一言を読んでいく。
・野球が好きで好きで、ホームランが好きで好きで
・あたりまえのことを本気でやるやつ
・熱! 熱チチチ!
・いつでもどこでも最高のパフォーマンス
・まあいいか、のない男
「神宮でもパチパチ撮ってたのよ。『球神・神無月郷の春秋』は日本写真協会賞を受賞するらしいわ」
「おめでとうと言っといて」
「はい」
 詩織がキッチンに立っていったあいだ、寝転がって詩織のスクラップブックをぼんやり眺める。私を愛するほぼ全員の人間がこれをやっている。底知れない感謝の気持ちが湧いてくる。キッチンを見やると、一途な背中が動き回っている。
「お食事、仕度できました。キッチンテーブルはいやでしょう」
「うん」
「じゃ、運びます」
 テーブルが整っていく。
「初ガツオの刺身か。季節の魚をメインに考えたんだね」
「はい。野菜も旬のものです」
 長いも、春キャベツの炒め物、からし菜のおひたし、新じゃがとミョウガの味噌汁。電気釜を持ってきた詩織の尻を思わず撫ぜる。
「ズン」
 と詩織はおどけた調子で口に出し、笑いながらワンピースを脱いで、ブラジャーだけの裸になった。私もズボンとパンツを脱いだ。じゅうぶん力を得たものを突き出す。
「わ、すごい! じゃ、挨拶代わりにお願いします」
 詩織は傍らの万年布団に肘を突いて尻を向けた。
「セックスしたら、ごはんにしましょう……」
 挿入したとたん、
「ああ、ひさしぶり、感じる、あ、すぐ―」
 私はふくよかな腹をさすりながら抽送する。
「あああ、愛してます、ン!」
 伸び縮みする背中をさする。
「だいじょうぶ? ひさしぶりで感じすぎてるんじゃない?」
「はい、だいじょうぶです、あああ、気持ちいい」
 私は離れて蒲団に仰向けになり、詩織を掌で招いた。詩織はブラジャーをつけたまま、その手を握って跨り、ゆっくり腰を下ろす。
「うーん、神無月くん、愛してる」
 感覚を確かめるように上下し、
「あ、あ、好き、大好き、イク、イク、イク!」
 反射的にゾロッと離れ、蒲団に横になって痙攣する。ふるえる尻を見ているうちに射精したくなってきた。
「めしはあと!」
 一声上げると、大きな胸に倒れこみ、挿入してひたすら往復する。
「ああ、大きくなった、神無月くんイッて、私もイク、あ、あ、イク、イク!」
 緊縛に抵抗しながら引き抜き、腰を抱えて四つん這いにした尻を割って挿入する。何度も引き絞られる尻たぼを抱え、射精した。律動しながら亀頭を往復させる。引き抜き、仰向けになる。テラテラ光る亀頭が前後に動く。


         九十一

 ひさしぶりの解放的なセックスのあと、楽しい食卓になる。二人ともシャツもブラジャーも脱ぎ捨て、全裸になっている。電気釜から盛っためしが進む。
「けっこうお料理が得意になったけど、福田さんほどはおいしく作れないわ」
「年の功だよ」
 食事を終えて、茶、みかんとせんべい。
「福田さんはぼくにいつ求められてもいいように、下着を穿かずにゆったりしたワンピースを着てた。もちろん一人きりのときは下着を穿いてたみたいだけど」
「いつでも入れてもらえるなんて、すてきな生活。そんなふうに暮らしてるカップルなんか世間にいないでしょう。でも、神無月くんとじゃなきゃ、そんな生活、逆にいやだわ」
 と言って声を出して笑う。 
 九時。会話のバックグラウンド用にテレビを点ける。いちばん静かなNHKニュースに落ち着く。ヤクルトが実質経営権を握るアトムズ球団の松園尚巳社長がオーナーも兼任する、という話題がチラと流れる。
「あれ、どういうこと? アトムズの経営は産経新聞でなかったの」
 詩織が、
「経営権はヤクルトにあるんだけど、表面上は産経と共同経営にして、球団名をアトムズに、運営会社名をアトムズ球団にしたの。来年はヤクルトアトムズになると思うわ」
 よくわからないのでそれ以上訊かない。
 そのまま九時半からNHK劇場。『ふるさと』。都会からUターンした傷心青年。家族の戸惑いと喜び、そして波紋。埼玉秩父の農村と町並を背景に、青年とふるさとの人びととの交流。青年は新たな一歩を踏み出す。ありきたり。
「あーあ、映画には敵わないな。映画なら、坂本九だって、浜田光夫だって絵になる」
「私、映画はほとんど観ません。テレビも神無月くんのニュースを見るくらい。神無月くんの教養って、本も映画も音楽もすごいけど、どこにそんな時間があるのかしら」
「飯場みたいな大勢の人の中で育つと、何かを教えられるチャンスが多くて、いろいろと多趣味になるんだ。個性的な大人たちに影響を受けて、ふつうの人みたいにしっかりした一本道を歩かなくなる。……野球だけでも一本道を歩けるようになってよかった」
 姿見に詩織の裸体が映っている。私は指差し、
「見て、詩織のきれいなからだ。胸が大きい。グラマーだ」
 詩織が胸を持ち上げて揺すってみせる。私は近寄って胸を吸った。
「三カ月、半年にいっぺんでも、ときどき神無月くんに舐めたり吸ったりしてもらわなければ、こんなものクサレてしまいます。神無月くんが東京遠征のときは、かならず御殿山にいくようにします」
「御殿山に寄るとはかぎらないけど、寄るときはかならず連絡する」
「お願いね。たとえ三カ月、半年にいっぺんでも、からだの喜びを確かめることで、神無月くんを思い出すよすがにしたいんです」
 二人で床に就いた。寝物語に、水原監督のことや、首脳部のことや、ドラゴンズの選手たちのことを語った。詩織は私が幸福な環境にいることを知り、心から喜んだ。
「よかった。東大球場からそのまま抜け出てくれて」
「うん。野球をやりつづける覚悟が固まった。中さんの、一年でも長くいっしょに野球をやろうねという言葉が大きかった。野球はあすをも知れない仕事だ。きょう一日健康であるかぎり、とにかくその一日をあしたにつなげようと思う。おトキさんという山口の恋人が名古屋から東京に出てきて、彼らがアパートを借りたあとは、御殿山はぼくの別宅になる。大切な逢瀬の場だ」
「……マスコミに知られないように気をつけないと」
「知れてもいい。野球界を去らせるのが惜しいほどの選手になっていれば、追い立てもゆるくなる」
「神無月くんはオトコね。惚れて後悔させないめずらしい人間」
 うとうとしてきた。
「神無月くん、もう寝て。試合のあとで疲れてたのに、きょうはほんとにありがとう」
「だいじょうぶ、疲れてないよ。もう一戦交えてから寝ようと思ってたんだ」
「もういっぱい」
 やさしく言う。
「……唐突だけど、東大で学者を目指すことに疑問が湧いてきたの。東大のスポーツ科学は身体理論ばかりで実践的でないんです。名古屋のほうの大学を調べてみました。名古屋大学にはスポーツ科学部そのものがなかったけど、中京大学にはありました。電話で尋いてみたら、やっぱり一年生から入りなおさなければいけないってわかった。おまけに女はスポーツ部の現場仕事に携われるわけじゃなくて、労務職に就くしかないんですって。学校の保健婦さんみたいに。挫けちゃった。と言うより、神無月くんのそばで生きるためにあえてトレーナーになる必要があるのかどうか疑問になってきたんです。プロ野球選手の周りにはそういう男の人がたくさんいるわけだし、私が無理に目指して例外になろうとする必要はないんじゃないかって」
「どうせ事務職に就くなら、球団関係の仕事がいいかもしれないね。東大だから出世するよ。ぼくのそばにも、ドラゴンズのそばにもいられる」
「それ、すてき。……じっくり考えてみます」
 急にしなだれかかってきて、
「神無月くん、もう、私……」
「そろそろ回復してきたんだね?」
「はい。すっかり……。お口で大きくします」
 詩織は勇んで私のものを咥えこんだ。〈もういっぱい〉ではなかったようだ。強く血が入った。
         †
 三月二十八日金曜日。曇。朝から暖かい。腕時計は十二・九度。風がある。マンションの前庭の木の枝がかなり揺れている。めしを頬張りながら詩織に尋く。
「実際、御殿山にくる暇なんかあるの?」 
「春、秋のリーグ戦の合間ならいけます。ほかの期間は、黒屋さんとチームにつきっきり」
「しっかりマネージャー業に務めてるからね」
「はい。でも、マネージャーは今年かぎり。いま大学のほうの授業は停止してるけど、スケジュールが正規に戻ったら、勉強に精を出すことにします。勉強しながら、きのうの球団職の話を煮詰めていきます」
 私は白菜の浅漬けでめしをくるむ。
「フフ、神無月くんの大好物」
 詩織も白菜でくるんだめしをうまそうに食う。
「これから何年もかけて、神無月くんのことを一つ一つ知っていくつもり。これまでは何も知らなかったみたいな気がする」
「ぼくに人並の〈何か〉があればの話だね。知るほどのこととは関わりのない人間だと思うよ」
「そうかも。睦子さんなら言うでしょうね、何も知らなくていいんじゃない? このままの人だからそれを眺めてあげるだけで。何かあると思えばありすぎるし、ないと思えばぜんぜんない、って」
「言うだろうね。わかりやすい肩書みたいなものが一つある。野球選手」
「肩書きのない、得体の知れない才能は恐ろしいほどあるわ。とにかくいつも思い出しながら、できるだけたくさんそばにいること。神無月くんを忘れている時間はもったいない」
 白菜と海苔をいっしょに巻いためしを食う。豆腐とアゲの味噌汁をすする(めずらしい味噌汁だ)。醤油をたっぷりかけた目玉焼きの白身だけを切り離してめしに載せ、板海苔でくるんで食う。
「十年いっしょに生きてきた和子さんが、神無月くんのそばをいっときも離れようとしない気持ちがよくわかるわ。神無月くんを忘れる時間がもったいないの。神無月くんのお母さんは和子さんの倍も神無月くんと生きてきたのに、神無月くんを忘れるのがもったいないと一度も感じたことがなかったのね」
 言いながらキュウリのおしんこをパリパリと噛む。
「そういう気持ちは、恋人や親友以外は無理だよ。親子関係というのは世間が言うほど愛にあふれたものじゃないからね。ぼくは母の顔を見るとおぞましさが先に立つので、なるべく遠く離れて暮らしたい。世間のどんな親族同士も、血の濃さが気持ち悪さに結びつくというのが正直なところじゃないのかな。彼らが口に出さないから断言はできないけどね。ぼくに対する母の嫌悪感はそういう血を忌み嫌うのとはかなりちがう。子供という血縁に対する生理的な嫌悪感と言うより、父と似た〈男〉によって心が傷つけられたこと対する嫌悪感だ。数年前までのぼくは、ぼくの顔や、姿かたちや、振舞いが生理的にいやなんだと誤解していた。そう考えるほうが、理不尽さの説明がつくような気がしてね。でも、生理的にいやな人間は遠くへいってほしいものだ。相手が勝手に遠ざかっていくならそれは好都合だということになる。ところが母は、彼女から遠ざかろうとするぼくを引き止めながら、進む道を妨害した。そのせいで、これは生理的な反発じゃなく、父に対する復讐だとハッキリわかった。つまり母はぼくの意外な離反に驚きあわてて、長年かけた復讐を完遂するために、ぼくをまず追放して、そのうえで簒奪したとわかったんだ。ところがぼくは野球選手として成功してしまった。追放も簒奪もむだだったわけだ。復讐が完全な失敗に終わったいまは、たぶん無意識に自分のしたことを忘れようとしてると思う。……だからいまのぼくは、母が忘れたい人間の筆頭になる。母はもうぼくには悪さをしてこないよ。ぼくを見れば、父への恨みと自分の挫折を思い出すからね。東大受験に失敗したり、野球選手になれなかったりしてたら、母は立派に復讐をやり遂げたことになってた。そうなっていればよかったかなと、ときどき思うことがある。復讐を成し遂げた相手に、母はやさしくなっていたはずだからね」
 詩織が目に指を当てた。
「悲しいですね……」
「うん、悲しいね。母は、ぼくがどんなに人並以上のことをしても、ぼくに感動することはぜったいない。父がそれをやっていることになるから」
「和子さんがグリーンハウスで言ってました。キョウちゃんの〈ふつうの母親〉になるって、そういう母親は何人いてもいいって。こういうことだったんですね。……私も神無月くんのお母さんね。うんと甘えさせてあげる。……神無月くんのお母さんは何歳?」
「大正十一年生まれ」
「……四十七歳ね。恋人にそのくらいの齢の人がいる?」
「北村席の百江という女が四十九、節子の母親の文江さんが五十、青森高校の学生アパートのユリさんが五十、雅子が五十三、上板橋の河野幸子が四十九、菊田トシさんが六十二」
「そんなにいるのね。やっぱり神無月くんはお母さんがほしかったのよ。それが女にはわかる。だからどの女も、年齢に関係なく神無月くんのことを赤ちゃんみたいに扱えるんだと思う。たしか、十五、六歳の子もいたわね」
「うん、今年青森高校に合格したミヨちゃん。この六月で十六歳」
「その子も、睦子さんも、千佳子さんも、みんな神無月くんのお母さんのつもりよ」
「母親のつもりで、セックスはできるものかな」
「血のつながりはないから、それは別。道徳的な拘束はないの。愛しい者を護ってあげたいという意識しかないわ」
「よくわかる説明だ」
「母親の気持ちで、ありのままの神無月くんを眺めていればいいっていう和子さんの言葉も、これでよくわかったわ。たしかに私も、赤ちゃんみたいにかわいいっなていつも思ってたから。青森のお祖父さんやお祖母さんからその十六歳の女の子まで、同じ気持ちなんじゃないかしら。そんなふうに愛しいと思ってる男の人に抱かれたら、ものすごく感じてしまうのもあたりまえね。心は母親でも、からだが道徳から解放されているという安心感があるし、赤ちゃんを相手にこちらからは求めるものは何もないし、求められれば応えてあげたくなるし。だから長く抱いてもらわなくても、不満を感じなかったのね。謎がぜんぶ解けたわ」
「ぼくも解けた。赤ん坊野郎だから、触れ合うわずかな人を信じるんだね」
 詩織はニッコリうなずいた。
「好きなように生きてね。いつもそばにいるわ。さあ、そろそろご帰還の時間よ。新幹線のホームまで送ってく」
「いまからだと十時過ぎの新幹線だね」
「ちょっと待って、時刻表を調べるから」
「ひかりにしてね」
「はい。ええと、東京駅十時三十三分のがあるわ」
「それにする。渋谷から東京まで山手線で一本だね」
「ええ。ここから三十分くらい」
         †
 すいている山手線の車中で隣り合って座る。
「荻窪に訪ねたことがあったわ」
「なつかしいね。ふぐちりを食べたっけね」
「ええ、おいしかった。店員さんがいい人で。……私たち、知り合って、もうそろそろ一年ね。正確には十一カ月」
「たった? 五年も付き合ってる感じだけど」
「濃い時間だったから。東大グランドでも神宮のベンチでもずっといっしょにいたし」
「きょうも東大球場だね」
「そう」
「小笠原のことが新聞にぜんぜん載ってないんだけど、どうなってるのかな。もちろん東大のことなんか一行も載ってない」
「小笠原くんて、早稲田のピッチャーね。ずいぶん期待されてるようなことがしばらく新聞に載ってたけど、このごろ名前を見ないわ」
「春のキャンプでまた肘か肩を故障したのかな」
「さあ。またってことは、去年も痛めたのね」
「そうらしいんだ。早稲田に入ってから無理して投げすぎたんだろう。でも終わってしまったとは思わないな。速球ピッチャーになっていずれプロにくると信じてる」
「そんな簡単にプロなんかなれるものじゃないわ。今年六大学で騒がれてるのは、早稲田の谷沢選手、荒川選手、小坂投手、阿野捕手、法政の山中投手。東都大学では、東海大の上田投手と日大の佐藤投手ぐらいかしら。でも新聞はいつも、神無月くんのことで持ちきりよ。神無月くんが大学野球に残した遺産は大きいわ。六大学野球の人気が戦前のレベルにまで復活したんだもの。東大でさえ、対抗戦やオープン戦のスタンドがいつも満員になるようになったのよ。観客はずっと神無月くんの幻を追いかけてるの。あんな奇跡、二度と起こらないのに。これからの東大は最下位の定位置に落ち着くでしょう」


         九十二

 新幹線ホームに二人で立つ。停車しているひかりの車内を緑色の作業服姿の女たちが動き回る。だれにも注目を受けずにまじめにやれる理想の仕事だ。
「今度の東京遠征はいつですか?」
 売店で新聞を買って私に渡しながら詩織が尋く。
「ひと月後。四月二十九日からの大洋三連戦。とんぼ返りで名古屋に帰って、五月三日から北陸三連戦。試合終了直後、東京へ飛行機で飛んで、五月六日から巨人三連戦。憶えてるのはそこまで。五月八日の夜に逢おうね」
「はい。八日は帰らなくていいんですか?」
「うん」
「無理しないで。もし都合がついたら御殿山にいきます。そのときの状況しだいということにしましょう」
「そうだね、ホームの試合が詰まってるかもしれないし、無理はしないことにしよう。三カ月にいっぺんなんてこともあるかもしれないね」
「仕方ないです。もう神無月くんは〈社会人〉だもの。私も十月までマネージャーの活動だけに打ちこんで忙しく暮らすことになるわ」
「そしてあと二年は勉強か」
「そう。来年からはたっぷり時間を使える」
「何をやるの」
「わかりませんけど、スポーツ科学をやりつづけます。それに見切りをつけたら、ほかの学生と同じで、やりたいことなんかないから。卒業のための教養とやらを身につけるしかなくなってしまう。それはいや。東大さえ出てれば日本という国は何とかしてくれると見こんで勉強するなんて―。きちんとスポーツ科学を修めて、ドラゴンズに就職して、神無月くんに安心してもらう態勢を作らないと」
 清掃の終わったひかりに乗りこむ。ドア口で握手する。
「愛してます。心から」
「ぼくも」
 ドアが閉まった。詩織が無心に微笑む。微笑に向かって手を振った。
 座席に落ち着いて開いた新聞に、人類初の有人飛行士ガガーリンの死後一年の記事が載っていた。一年前三十四歳の彼が飛行訓練中に墜落死したことを初めて知った。地球は青かった、神はいなかった、などの言葉で有名な男だ。ボストーク一号の機内は非常に狭かったので、最終的に身長百五十八センチの彼が選ばれたということも初めて知った。
         †
 夕方から小雨が降りだした。夕食どきの北村席に、ニューオータニで打ち解けあった中から電話が入った。
「仮設バラックからですか」
「そう。きょうの午後から寮に詰めてる」
「群馬から帰られたんですか?」
「いや、それは実家。私の家は名古屋の東山だ。この齢だからね、女房子供がいる」
「お子さんが」
「うん、八歳の娘だ」
「東山から球場にきても大差ないでしょう。お子さんがさびしがる」
「屋内練習場があるからね」
 子供はすばらしい、子供のためなら何でもする、とよく言う。そしてそう言うと正しいように感じるが、結局自分の人生が大切になる。
「今夜あたりから雨が強くなるらしいよ。いま本多コーチから連絡が入った。夜のうちは内野にシートを敷いてしのぐらしいけど、あしたの午前も降ってたら中止だ。このあいだの阪神戦と同じ」
「わかりました」
「またあしたの午前に電話するよ。近鉄戦は三十一日だから、阪急戦は順延して三十日にやるだろう。小雨ぐらいなら強行だね」
「了解です。連絡ありがとうございました」
 主人に告げると、
「残念! 神無月さんと米田の勝負、見たかったのになあ。阪急は二年連続リーグ優勝ですからね。日本一は巨人だけど」
 菅野が、
「あした米田の予定で中止なら、あさっても米田でしょう。私としては、ドラフト七位の福本の足と、あとは長池のバッティングを見られればオッケーだな」
 主人が、
「小川健太郎はおととしのオールスターで長池にスリーラン打たれてるよ。水原監督はわざと小川をぶつけていくんでないの? ワシはドラ一のアンダースロー、山田久志も見たいな」
 私は主人に、
「第一回のオールスターって、憶えてますか」
「ぼんやり憶えとりますよ。セパ分立の翌年、昭和二十六年の七月上旬やったですな。甲子園、後楽園、後楽園の三試合。ぜんぶデーゲームやった。三試合とも大入り満員。甲子園は四万八千人以上ですよ。選抜方法はファン投票で、一位は、セリーグ、ピッチャー別所、キャッチャー荒川、ファースト川上、セカンド千葉、サード藤村、ショート……ええと平井、レフト青田、センター小鶴、ライト岩本。巨人五人、松竹三人、大阪一人」
「荒川という人と平井という人は知りませんね。岩本という人は中日二軍の岩本コーチじゃないですよね」
「それは岩本信一(のぶかず)さんで、義行さんじゃありません。信一さんは義行さんの弟で、戦後活躍したサウスポーのピッチャーです。南海や大洋で五年プロをやったあと、去年までアマやプロの審判をやってました。二十八年ごろ南海の鶴岡監督に皆川獲得を進言したのも彼です。義行さんは戦後豪打で鳴らした大選手ですが、残念なことに戦前の八百長疑惑に引っかかってます。荒川というのは、いまの巨人の荒川博じゃなく、昇治です。足の速いキャッチャーでした。パリーグの出場選手は、ピッチャー火の玉左腕荒巻淳、キャッチャー土井垣、ファースト飯田、セカンド山本一人、いまの鶴岡さんです、サード中谷、ショート木塚、レフト大下、センター別当、ライト飯島。毎日三人、南海三人、阪急、東急、大映それぞれ一人。ほとんど知らないでしょう」
「はい、鶴岡、大下以外は。中谷という人も初耳です」
「阪急の中心選手の中谷順次です。いま阪急のコーチをしてます。肩を痛めていた荒巻はオールスター三戦を通じて、一試合も投げませんでした。セリーグの二勝一敗。ホームラン、第一戦はなし、第二戦でセリーグ一本、金田の代打で出た名古屋の西沢だったのはうれしかったですね。第三戦セリーグ一本、千葉、パリーグ三本、飯島、中谷、飯田。MVPは杉下さんだったんですが、どの賞も記念品はお粗末でね、豚とか自転車とかトロフィー一個とか。それでもプロ野球選手はいいなあと言われとったのを憶えとります」
 縁側の戸を開けて、草のにおいに満ちた冷気を嗅ぐ。雪と混じり合った下草に覆われたあの暗い森のにおいだ。とつぜんシャーと耳鳴りがし、目まいのようなからだの痺れを感じた。私はいま、あの森の中ではなく、人の中にいる。彼らの役に立つ人間になる。できるだろうか。たぶんできるだろう。長い道のりになる。どんな難業でも、がんばってやってみせる。カズちゃんが台所に向かって、
「トモヨさん、具合悪いの治ったァ?」
「はーい、おトキさんさんにレモン絞ってもらって飲んだら、すっかり」
 主人たちに混じってテーブルにつく。素子と千佳子が盆に載せて私に玉子スープを運んできた。
「おいたしちゃだめよ、直ちゃん、ヤケドしちゃうわよ」
 指を突っこもうとする直人を百江がたしなめると、女将が抱き寄せた。
「直人にも玉子スープ、ぬるくしてあげてや」
 おトキさんが、
「はい、重湯を入れてクッパみたいにしてみます」
 直人の横顔に未来の長い時間を感じる。自分が死ねば短い過去が消えるだけだが、直人が死ねば長い未来が消える。
 主人が杯を含みながら、スクラップブックを見ている。
「中日ドラゴンズの新人選手で、開幕試合で四番を打つのは、昭和三十三年の森徹以来だそうです」
「プロ野球歴代だと何人かいるでしょう」
「はあ、名の知れたところでは、大洋の桑田武。桑田は新人王とホームラン王を獲っとります。森徹は外野手でベストナインになっとる」
「開幕四番にかぎらず、新人で何かの賞を獲ってる人は?」
「たくさんいます。まず新人王だと、巨人は二十九年の広岡、三十二年の藤田、三十三年長嶋、三十五年堀本、三十七年城之内、四十一年堀内、四十三年高田。中日は三十六年の権藤のみ」
「巨人オンパレードですね。いやな巨人贔屓を感じるな」
「まちがいなくそのとおりでしょう。新人の首位打者は一人もおらん。長嶋の二位が最高です。新人でホームラン王は、長嶋、桑田、古いところでは鶴岡、大下の四人。打点王は長嶋一人です。三冠王とMVPはゼロです」
「新人の三冠王は一人もいないんですね。それがわかればじゅうぶんです。新人王やベストナインやMVPなんてのは、新聞記者の気分が決めるものなので、もらっても何の価値もない。文学の賞にめったに傑作がないのと同じです」
 菅野が、
「でももらっちゃうんだろうなあ」
「三冠王以外もらうのは不名誉です。野球そのものの実績から離れた〈雰囲気〉を曖昧に判断するわけでしょう。できればもらいたくない。拒否できないんですか」
 主人が、
「できるでしょうが、なぜそこまでと思われるでしょうね」
 菅野が、
「神無月さんはマスコミには〈いい雰囲気〉に思われてませんから、三冠王以外は何も獲らないような気がしますけどね」
「だといいんですけど。将来ぼくのような〈まじめな〉考え方をする人間に、なあんだ、大衆賞ももらっちゃったのかって思われたくないから」
「考えすぎじゃないですかねえ。もらったとしても、賞賛こそすれ、軽蔑する人はいないでしょう」
 私の中には頑なな我を持ったコドモがいる。そのコドモが私の過去ばかりでなく、現在と未来を構成する。コドモの我を捨てて、オトナの現在と未来を受け入れなければ、コドモは粘度の高い羊水の中で溺れ死ぬということか。羊水の中で暮らしつづけることはできないか? 私の延命の秘訣は、破水して大気へ飛び出し、人生がもたらすすべてのものをオトナらしく無条件に呼吸することだと? 主人が、
「ほんとに不思議なくらい神無月さんにはマスコミが近づいてきませんよね。ふつうのプロ野球選手とまったくちがうからです。おっしゃるとおり、まじめなんですよ。そのまじめさがマスコミを遠ざけているんです。ものの本で読んだんですが、西鉄ライオンズが野武士軍団と言われてたころの話です。彼らをそう呼びはじめたのは、彼らに好んで近づいた新聞記者たちなんですよ。選手たちも喜んで近づけた。三原監督という人は、プライベートなことについては何も言わない。プロの選手にとって大切なのは、グランドに出てどれだけやれるかだけだと考えてた人ですからね。稲尾みたいに自己管理のきいた選手たちは、試合の前日にはぜったい破目を外さない。たとえ同僚や記者たちと飲んでも、きちんと宿舎に帰って寝て、朝早く起きてランニングで汗をかいてアルコールを抜く」
「記者といっしょに飲むということがあったんですか」
「いまでもスター選手のほとんどがそうですよ。空気扱いしてるんです。いっしょに飲んだ記者たちが宿舎までついてきて、選手たちの部屋に泊まるなんてことはしょっちゅうです。選手がランニングしているあいだは寝腐ってる。目覚めると、選手はもう球場へいく仕度をしてる。いっしょに酔って寝ていたと思ってるから、ホームラン打ったり、好投したりすると、ゲロを吐きながら完投とか、フラフラの二日酔いでダイヤモンドを回ったなどと書くわけです。春季キャンプなんか、レギュラーの練習は早く終わったでしょう?」
「はい」
「そのあと、自由行動が許されてたでしょう?」
「はい」
「そうなると、ふつうの選手はひたすら麻雀ですよ。翌日練習に出かける前まで徹マンというのもよくあったと書いてありました。新聞記者を引き入れる、宿舎の人間を引き入れる。野武士か何か知らないが、ユニフォーム姿で麻雀というのは正気の沙汰じゃない。でも、球団関係者のだれもそれを咎めないわけです。新聞記者とのあいだに妙に親しい関係ができ上がる。記者たちは旅館を引き払って宿舎に移ってきて、寝起きを供にするようになる。だれの部屋にいこうが止める者はいないし、選手側も喜んで迎え入れる。取材は自由で、格段にラクになる」
「選手たちはグランドの外でラクにしていられなくなりますね」
「私生活や日常生活にまで図々しく入りこんでくるやつも出てきますからね。飲酒、夜遊び、家族関係。選手の中には、夜の女を宿舎にまで引き入れるやつもいる。記者たちは破天荒と言って喜ぶ。そうやって野武士のイメージを作り上げたんですよ」
「イメージが一人歩きしたんでしょうね。さすがに現代はそういうことはないでしょう」
「そういうことだらけですよ。野武士軍団にしたって、高々十年ほど前の話ですよ。いまもプロ球団の事情は変わらないでしょう。巨人にしたって同じです。マスコミと親しく丁重に付き合うので、川上さんの紳士的方針とやらがマスコミに大きく採り上げられているだけです。そういうことがないのは、神無月さんのような選手たちだけですよ。それで記者たちは頭にきて、無視しはじめる。ドラゴンズがいまとんでもなくまじめな球団なのは神無月さんの影響です。このまじめさは十二球団一でしょう。マスコミが遠ざかっていった理由です。……そのまじめさを貫いてください。ただ、くれるものはニッコリ笑ってもらっておきましょう。しばらくしたら、チャリティにでも出せばいいですよ」


         九十三

 私は食事を終えて箸を置き、
「話はよくわかりました。まじめを通す自信が湧きました。くれるものはぜんぶもらっておきます。ニッコリ顔は作れませんけどね。そのうえで優勝すれば、かえって本式に遠ざかってくれるでしょう。……しかし、どんなにまじめでも、一年の長丁場を乗り切って優勝することは、とても難しいと思います。具体的に言うと、まず生活態度のまじめな選手の割合が多いことは基本条件として、連投の利く二十勝級の投手が一人いること、完投できるピッチャーが三、四人いること。ほかに―」
 主人が、
「バッティングですな。野球というのは打たないと点が入らないですからな。日本人は大リーガーとちがって馬力がないので、ピッチャーを含めた守りをしっかりやって、一、二点取っては守り、また取っては守りというゲリラ野球です。いまの巨人の野球やな。水原監督はそれに物足りなさを感じて改革をしようとしとる。自分のやってきた巨人流の野球をつぶしてしまおうゆうことやね」
 菅野が、
「かつて水原監督は、在任中の、昭和二十六年、二十七年、二十八年、三十年の四回、日本シリーズで巨人が南海に一度も負けなかったことに満悦だったようだけど、それは巨人と似たような野球をする鶴岡南海だったからと気づいた。その南海を破ってリーグ制覇した三原西鉄に、三十一年から三年連続でこてんぱんにやられ、三十四年にはその西鉄を押さえてリーグ優勝した南海にもこてんぱんにやられたのが証拠です。それを経験してからは、水原監督はすっかり考えを変えました。小技の小次郎は負ける、武蔵対武蔵にならなければ対等の勝負はできない、大砲を揃えてドンドン打ちまくり、打ち砕く野球でないとだめだとね。しかし、ただ単に、神無月さんのような大砲を一基、二基備えているだけでは足りない、打順を工夫しないとうまく打ち砕けない。重量打線の阪急が日本シリーズでどうしても巨人に勝てないのを見れば一目瞭然です。四月の開幕までに水原監督は、打順をビシッと決めてくると思いますよ」
「なるほどなあ、工夫のない阪急のような重量打線には巨人の小技でも勝てるが、西鉄のように工夫の利いた重量打線に勝つには、小技ではだめだゆうことやな」
 私は、
「控え打線の充実に、水原監督はとても気を使ってます。どの打順からもホームランを打てなくてはいけないって」
 二人の野球狂は強くうなずいた。雨脚が強くなってきた。
「こりゃ、いよいよ中止だな」
 カズちゃんが、
「このところ三日間、模擬開店は大車輪。ソテツちゃん、このがんばりでお願いね」
「まかせてください」
「キョウちゃん、あした試合中止なら、午後にでも顔を覗かせてみたら」
「うん」
 千佳子が、
「緊張します。素子さんと制服を着てみたけど、格好よすぎて、なんだか自分じゃないみたいでした」
「まず食べてみたいのは、ミートソースだな」
 素子が、
「研究し尽くしたわ。メイ子さんもかなりやるで。でも、作るのはソテツちゃん。だいじょうぶ?」
「何度も味見しました。ミートソースは完璧です。ほかにも十種類のスパゲティを作れます」
「ナポリタンは?」
「バッチリ」
 女将が、
「江藤さんたちもくるんかいの?」
 私は、
「こないでしょう。約束した四月一日にドッときますよ。水原監督が主だった選手に、北村席へ順繰り顔を出すようにと勧めてました。ぼくの周囲の人間を知るように、そのうえでぼくの秘密を守るようにと念を押してました。江藤さんがもういってきたと得意そうに言うと、私よりも早くいったのかと監督は残念そうでした」
 女将はケラケラ笑い、
「何を競争しとるんやろね。おかしな人たちやわ」
 カズちゃんが、
「みんなでキョウちゃんをまるごと獲得する競争をしてるのよ。キョウちゃんの周りの人間をぜんぶ自分の知り合いにしたいのね」
 主人が、
「ありがたいことやな。ほんとに……」
「そういえば、千佳子、大学の科目登録は?」
「今月は学費の払いこみだけで、科目登録は四月の第二週の金曜日までです。払いこみはムッちゃんといっしょにすませました」
「いくら?」
「入学金が四千円、授業料は年間一万二千円です」
「タダみたいなものだね。履修科目の予定は?」
 素子が、
「関心ないこと尋いとるわ」
 カズちゃんが、
「関心はないけど、ちょっとなつかしいのよね」
 千佳子が、
「あ、その気持ちわかります。新学期って、教科書のにおいがしますから。じゃ、わざと詳しく言いますね。法学部と工学部は、体育と保健講義がどちらも一般科目との選択で、そのほかの学部は二つとも必須です。私は保健講義は一般科目で代替して、体育はソフトボールを選択しましたけど、必須のムッちゃんもそうすると言ってました。必須の文系基礎科目は、文学、哲学、社会学、心理学の四つを選択して、文系教養科目は、生と死の人間学、人間と行動、開発の光と影、ことばの不思議の四つを選択しました。名前に興味を惹かれたから。理系教養科目は、食と農の科学、健康増進科学の二つ。専門科目は、民法親族法、法学、憲法。ぜんぶで十三科目です。語学は英語とフランス語をとりました」
「それを入れると十五科目か。一週間ピッチリだね」
「一日三、四科目にして、休みのウィークデイを一日入れるようにしました。ムッちゃんも合わせるかもしれない」
 トモヨさんが眠りこんだ直人を肩に抱えながら、
「なんだかおもしろそうですね。青春という感じ」
「届出すれば、聴講できますよ」
「いいえ、自分には手の届かないことだから、聞いてておもしろく感じるんですよ。千佳ちゃんは私にとっては子供。子供の青春は見て楽しむもの」
 母親の微笑みを浮かべる。私は、
「自分には手が届かない、か。ワーズワースのすばらしい詩があるよ」
 カズちゃんが、
「あ、あれね。かつてのあの輝きは……」
「うん、それ」

 かつてのあの輝きは 永遠に奪われてしまった
 取り戻すことはできない
 草原の輝きも 花の栄光も取り戻せない
 だが悲しむことなく
 残る力を見出そう


「トモヨさんも私も、残る力は人の青春を見て楽しむことに捧げるのよ」
 菅野が、
「自分のことを言われてるみたいだな。神無月さん、あしたはどうします? 雨の走りは懲りたでしょう」
「もとオリンピック選手の鏑木という人が、今年からランニングコーチできて、走ることの重要さを説いた。走ります」
 カズちゃんが、
「キクエさんと節子さんが、正看の合格発表を確認したその足で、午後には名古屋に着くって。いっしょにアイリスに顔を出せばいいわ。一日早まって、三十一日の月曜日から出勤みたい」
「荷物は?」
「四月の二日か三日に届くらしいわ。それまではトモヨさんの離れで寝泊り」
「これで、みんな古巣に戻ってきたことになるね」
「ほんと、揃い踏み」
         †
 トモヨさんの部屋で寝た。妊娠中期のからだに負担をかけないようにという名目で、カズちゃんが私たちのセックスに付き添うことになった。
「フフ、ほんとは私も愉しみたいんだけど、トモヨさんに負担がかからないようにと思って。出すのは私にね。射精するとき、どうしても腰を突き出して子宮を突いちゃうから」
「そうしないと出した感じがしないからだね」
「女もそうよ。最後にそうしてもらわないとしっかりした満足感がね。トモヨさん、出産までは我慢してね」
「いいえ、その前にわけがわからないくらい満足してしまいますから」
 カズちゃんがふと、
「このごろ、よく押美スカウトさんの顔を思い出すの。学者よりも、野球選手のほうがはるかにすばらしいといったときの顔。世間の常識と反対のことを言うときの顔って、とっても美しいものね」
「青森までわざわざきてくれた。あれ以来会ってないなあ。来年から中日のスカウトに引っ張られるみたいだけど」
「よかったわね。すばらしい選手を見つけてくるでしょう。専門家があそこまで真剣にしゃべってるのに信じようとしなかったお母さんや岡本所長の顔も、なんだか悲しい感じで思い出すわ。お母さんのことはこの数年ですっかりわかった気がするけど、岡本所長だけはわからない。あれは何だったのかしら」
「おふくろよりはわかりやすい。嫉妬だよ。自分や、自分の子供と比較したときの、こらえ切れない嫉妬。彼らは、人間なんてしょせん井の中の蛙にすぎないという強力な哲学を持ってるから、井の中から飛び出しそうな蛙は、くだらない幻想を見るんじゃない、分を知れ、と叱りつけたくなるんだ。プロ野球のすばらしい同僚たちを何人も見てきて、一つの共通点を見つけた。自分が井の中にいるとも、そこを飛び出すとも意識してないということなんだ。そしてその自由な無意識の中に、周囲の人たちが羽ばたかせてやってる。ただ野球をしてればいいってね。ぼくのように妨害を受けると、妨害の理屈を考えだす。そんなふうに思考して生きるのはある種の不幸かもしれないけど、野球以外の幸福な幻想に浸ることができる。愛のことや、芸術のことなんかね。幻想は、現実と同じくらい幸福に必要なものだよ」
 二人の胸を吸う。トモヨさんの乳首は少し甘い。
「節子さんとキクエさんは、溜まりきってると思う。あしたの夜すぐしてあげてね」
「うん。どちらも危険日だったらどうしよう」
「トモヨさんのお腹の上に出せばいいわ」
 トモヨさんはニッコリ笑い、軽くポンポンと腹を叩いた。
「……そんな役ばかりさせてごめんね」
「何言ってるんですか。こうしているだけでうれしいのに。入れてもらうだけで天に昇ってしまいます……フフ」
 カズちゃんが、
「深く入れても、強く突かないようにしてあげてね」
「うん」
 ピンと張って膨らんだ腹をさする。
「ほんとに郷くんて、やさしい。どうしてそんなにやさしいの」
 カズちゃんが微笑み、
「強い人だからよ。やさしさほど強いものはないし、ほんとうの強さほどやさしいものはないわ」
「ぼくは人に愛されたら、少なくとも同じだけの愛を用意しなくちゃいけないと信じてるからね。……カズちゃん、トモヨさんから抜いたらすぐ入れられるように、カズちゃんのオマメちゃんを最初にイカせとくね」
「はい、すぐイカせて」
 仰向けになったカズちゃんの乳首をトモヨさんが吸い、股間を私が吸う。
「ああ、じょうず、すごくいい気持ち、あ、だめ、もうイクわね、あああ、イクイク、イク!」
 カズちゃんの腹をしばらく撫ぜ、トモヨさんにかぶさり、口を吸いながら挿入する。
「トモヨさんのオマンコが熱いよ。妊娠のせいかな」
 ゆっくり抽送する。
「興奮してるせいです。帰ってきた郷くんの顔を見てからずっとなの。ああ、走る、電気! 好き好き、郷くん、愛してます、イキます、イク、イク!」
 あのにこやかで理性的なカズちゃんやトモヨさんが、一瞬のうちに本能に蹂躙されて快楽へ連れ去られる。抜いて、カズちゃんの口を吸いながら挿し入れ、抽送する。カズちゃんはできるかぎりこらえる。膣壁の収縮が彼女の限界を教える。カズちゃんは唇を離さない。うねり、締めつける。唇が一気に離れ、
「あああ、だめええ、強くイク、愛してる、愛してる、イク、イク、イク! あ、あ、だめだめだめ、イイイク!」
 私も迫ったので、抜いてトモヨさんに挿入し、浅いところで吐き出す。
「郷くん、ううーん、イク!」
 トモヨさんの腹をさすりながら膣口あたりで射精の律動を繰り返す。
「止まらない、止まらない、ビリビリビリ、走る走る、イククク、イクウウ!」
 愛液が陰茎の付け根に何度も当たった。水鉄砲のように出てくる。律動の収まった亀頭を彼女の内部に留めて、しばらく収縮を味わう。名残を惜しみながら引き抜く。もう一度愛液が低く飛び、とどめの痙攣をする。私はカズちゃんにすがりつくように横たわった。カズちゃんが私の後頭部を撫ぜる。魂から肉体への変化には物悲しさがつきまとう。次の魂に踏み出すには、そのつど肉体の人生を終えなければならない。
 ようやくふるえの止んだカズちゃんが私の表情を敏感に嗅ぎ、
「悲しいのね。女のからだはしょうがないものよ。どうにもならないの。悲しまないで楽しんでね。キョウちゃんがときどき痛いくらい強く射精するのと同じだと思ってね。それが五回も、十回もだから、女はズルいわよね。でもこういうものだと思って許してちょうだい。みんなキョウちゃんの手柄なのよ。喜んでね。さ、きょうは寝ましょう。あしたはゆっくり寝ててね」
 トモヨさんが自分の股間を拭い、起き上がって私のものを口で清める。二人が私の胸に手を置く。二つの静かな呼吸を聴いているうちに、意識が遠くなった。


         九十四

 八時。トモヨさん母子が傘を差して保育所へ出た。いきはかならず親子で徒歩で歩くという習慣を励行している。
 雨の中を菅野とテレビ塔まで走って戻る。往復一時間。シャワーを浴びて座敷に腰を落ち着けたとたん、玄関に明るいおとないの声がした。
「こんにちは!」
「ただいま!」
 一家で出ていくと、お揃いの白いハンドバッグを提げた節子とキクエがこぼれるような笑みを浮かべて立っていた。すぼめた傘から水滴が垂れている。三和土に下りて二人を抱き締める。
「お帰り!」
 二人とキスをする。
「やっと受かりました」
「やっとじゃないわよ」
 節子がキクエの肩をつつく。一家揃って、
「おめでとう!」
 おトキさんと女将が二人の手を引く。みんなで座敷に入った。顔見知りの女たちも含めてテーブルの周囲に大勢集まる。百江やイネがめずらしがって寄ってくる。メイ子とソテツはアイリスに出ている。節子が、
「和子さんは?」
 百江が、
「アイリスにいってます」
「あ、アイリス!」
「模擬開店の期間なんです」
「あとでいってみます」
 キクエが私の手をとって頬に持っていく。
「逢いたかった―」
 トモヨさんが、
「二人とも、寝ても覚めても郷くんだったんでしょう?」
「はい」
 二人でうれしそうに笑う。
「きょうは一日いっしょにいればいいわ」
 節子が、
「そうします。その前に、みなさんに挨拶しなくちゃ。女のかたたちの顔がだいぶ新しくなりましたから」
 節子とキクエは、畳に両手をついて、
「滝澤節子です。中村日赤の看護婦です」
「吉永キクエです。右に同じ。二人ともあさってから出勤します。今後ともよろしくお願いいたします」
 女たちも頭を下げる。女将が二人にくつろぐように言い、百江とイネがコーヒーを出した。新しい顔が次々自己紹介していく。百江が、
「神無月さんの恋人って、みんな賢そうな人ばかりですね」
 節子が、
「賢くなんかないです。そんなものにこだわってうろうろしてた時期もありましたけど。女は馬鹿でけっこう。動かないでじっとしてる人に引き寄せられてればいいだけ」
 キクエが、
「そう。うろうろしても、結局キョウちゃんの引力で回ってるだけだもの。動き回ってると知恵があるように見えますけど、ちがうんです。引力に引かれてるなら知恵がなくたって回れるでしょう?」
 イネが、
「振り回されてるってことだべか?」
 節子はイネの顔を見つめ、
「振り回されているというのとはちがうんです。調和してるの」
 イネが安心したようにうなずく。おトキさんが、
「節子さん、キクエさん、お腹は?」
 節子が、
「新幹線でお弁当食べてきました。アイリスにいったあとで、おかあさんのところに顔を出します」
 女将が、
「お師匠さんは河合塾の教室に出とるから、帰ってくるのは五時ごろやないかな。電話で呼んどいたげる」
「すみません」
 菅野が節子たちに、
「神無月さんが毎朝走ってるの知ってました?」
「え、ほんとですか。きょうも?」
「うん。合羽着て五キロほど栄まで走ってきた。菅野さんがいつもいっしょに走ってくれるんだ」
「私もからだを鍛えてるんです。もう二カ月つづけてます。若返りました。トモヨ奥さんほど若くはなれませんがね。私と奥さんは、昭和四年で同い年なんです」
「うそ! 十歳はちがう」
「もろにほんとのことを言わんでください。神無月さんにかわいがれてる女の人は別物ですよ」 
「ほんとは、きょう阪急戦だったんだけどね、雨で中止」
 私が言うと、主人が節子とキクエに、
「あした、観にいきますか? 年間予約席で観れますよ」
 二人うなずき合い、
「いきます。勤めたらしばらく観にいけないと思いますから」
「車だから、三十分もかかりませんよ」
 吉永先生の卵形の顔と、節子の下ぶくれの顔を見つめる。美しさが増している。節子が私のジャージ姿を見て、
「からだ、だいぶ大きくなった?」
「うん、全体に筋肉がついた。身長も伸びた。これで打ち止めだね。足は二十八センチ。普通サイズになった」
 キクエが、
「……日本中で騒がれてる人が、すぐ目の前にいるなんて信じられない」
 女将が、
「うちらだけでも騒がんようにせんと、神無月さんがヘソ曲げてまうでね」
「はい」
「三十一日には山口さんたちがくることになっとる。賑やかになるわ。四日か五日までおるみたいやわ。おトキが山口さんと東京へいっしょにいって暮らすことになったんよ」
 節子とキクエはびっくりして顔を見合わせ、
「わあ、おトキさん、おめでとう!」
「ありがとうございます。向こうではお留守番ばかりになると思います。しばらく吉祥寺にいて、それからその沿線のどこかに引っ越します」
「東京に居ついちゃうかもね」
 私が笑いかけると、
「いずれ、こちらに戻ると思います。私は今年じゅうに、山口さんは何年か先じゃないでしょうか」
「みごとな人生だ。動機がすべて愛だというのが美しい。人生花開くというのはこういうことなんだね。おまけに、山口のほうが見初めたんだから鬼に金棒だ。来月あたりからコンクールがつづくよ。しっかり面倒見てあげてね」
「はい!」
 だれの言った言葉だったか。
 ―人は衝突する生きものだ。あらゆる衝突から復讐や攻撃を排除する方法がいくつかあるけれども、もっとも有効な方法の根底にあるのは愛だ。
 空しい金言だ。山口とおトキさんは、衝突などしたことがない。復讐や攻撃などもとよりなく、深い相思相愛だけがある。
         †
 昼食のテーブルで、主人が節子たちにしゃべっている。
「整備事業のためにこの土地改良区に交付された補助金の行く先は、結局のところ、県の土地連などの関係団体と、そこから工事を丸投げされた土木屋なんですよ。ワシらに入った金は微々たるもんです。北村席は運よく松葉さんの力も借りてうまく立ち回ることができたので、経営拡大が当てこめましたがな。花街のほとんどの店は景気が悪なって撤退しましたわ」
 女将が、
「困るのは女の子たちやよ。男なら遠洋に出て働くなんてこともできるやろが、身を売って生きてきた女はやりくりがつかん。うちらが助けてやるしかなかったんやが、ほんとにトルコがうまくいってよかったわ。うちと塙さんで、太閤通りの子たちをほとんど引き受けることができたでな」
「ちょっと早いですけど、直人を迎えにいってきます」
 トモヨさんが明るい声で言った。菅野が立ち上がり、
「戻ってきた足で、節子さんたちと神無月さんをアイリスに届けます。いまから店に出る女の子いる? 乗せてくよ」
 だれも手を挙げない。わざわざ雨の中を出かけていく気はしないのだ。メイ子が引退して以来、彼女たちは無理をしなくなった。女将が、
「神無月さんがおるもんで、朝から一人も出かけんが。菅ちゃん、かよいの子は出とるんやろね」
「ほとんど出てます。北村の子はしばらくホリデイですね」
「自分の首を絞める子もおらんしな。みんな年季明けが近いで。来年出てく子が五人もおる」
 女の一人が、
「出てかんと、ずっとおったらあかん?」
「ええよ。あんたさえよけりゃ。仕事はつづけるの?」
「うん。ええお金になるから」
 天童が、
「あたしも席に家賃と食費払って、ぼちぼち勤めます。旦那さんの耳クソ取ってあげたいから」
 主人が、
「ワシの? 神無月さんのやろ。ワシは女房に取ってもらうからええわ。好きなだけ神無月さんの耳ほじっとれ」
 菅野とトモヨさんが保育所に出かけた。主人が、
「阪神のドラ一田淵が二十六日のロッテ戦で、ようやくオープン戦第一号を打ちましたわ。東京球場、成田から」
「へえ、成田から! すばらしいですね」
「しかし、ここまで藤田平が四本、カークランドが三本打っとるんです。田淵はようやく十五試合目で一本です。今年は空前絶後の黄金ドラフトと言われとります。法政三羽烏、明大のエース浜野、亜細亜大学の大型遊撃手大橋、近大の強打者有藤、富士製鐵釜石のエース山田。巨人と密約が囁かれた田淵と浜野は、それぞれ阪神、中日に入団。スッンタモンダして、黄金にクマがかかりましたな」
「広島の山本浩司はどうですか」
「十三日に、因島初のプロ野球開催というのがあって、それもロッテ戦でしたが、五打数一安打、打点一、坂井からです。ほかのチームのドラ一はサッパリですわ」
「因島にも野球場があるんですね」
「因島出身のプロ野球選手はおりませんから、私も驚きましたよ。日立造船のグランドでやったようです。運動場みたいなものでしょう。周囲は桜の名所だそうですから。何百人しか坐れないスタンドがあるきりで、立ち見で四千人入ったというんですから、さすがプロ野球ですな。ところで神無月さん、ドラゴンズのサインてどうなっとるんですか。これまで見とるとこでは、サインを出しとる気配がぜんぜんないんですがね」
 女将が、
「野球の話になったら止まらんね。ちょっと仕事してくるわ」
 そう言って帳場に去った。おトキさんたちも晩めしの下準備に厨房に入った。
「水原監督やコーチは、基本的にはサインを出しません。水原監督は出してるふりをしてますけど、格好だけです。たとえば、ヒットエンドランをやりたければ、選手自らが次打者に出すようにしてるようです。このあいだまで、田宮コーチがたまたま隣にいるコーチか選手にしゃべりかけたら走ることになってたんですが、このごろはそれもやりません」
 主人が、
「何と言って話しかけるんですか」
「アイウエオ」
「ウハハハハ」
 ワッと部屋が沸いた。笑い声を伴奏のようにして、トモヨさん親子と菅野が帰ってきた。直人がオチョーチャンと言いながら座敷にヨチヨチ走ってくる。
「わ、かわいい!」
 節子が抱き止めた。キクエが、
「すごい、キョウちゃんそっくり! ミニチュアみたい」
 トモヨさんがうれしそうに抱き戻してキスをした。
「あと五カ月で二歳です。こっちのほうもあと五カ月で出てきます」
 大きくなりはじめた腹をさすった。節子が、
「今度は私とキクエさんが取り上げるわ。私たちみんなの願いがこめられた二人目の子供よ。北村席のシンボル。うんとかわいがってあげなくちゃ」
 主人が、
「頼みますよ。無事に取り上げてくださいや」
「直接取り上げるのは助産婦さんなんです。私たちはお手伝い。でもきちんとお手伝いします。まかせてください」


         九十五

「名前は決まってるんですか?」
 キクエがトモヨさんに訊く。
「男の子なら恵(めぐむ)、女の子ならカンナ」
「恵ちゃん、カンナちゃん。いいわね」
 私は、
「秋が立つころに生まれる子だね。カンナはいい名前だなあ。カンナは夏から秋にかけて咲く花だからね。いつか北村席の門のそばの塀に沿って、黄色い斑(ふ)入りのカンナが咲いてた」
 節子が、
「トモヨさんは神無月にちなんだんでしょう?」
「はい。北村に咲いてるなんて知りませんでした」
 主人が、
「ワシも知らんかった」
「三、四十センチもある大きい楕円の葉で、花弁は三つ、十センチくらいの大きい花ですよ。白、桃、赤、黄色。茎の高さは、放っておけば二メートルにもなります」
 女将が帳場から笑いながら、
「ほら、神無月さんの講釈が始まった。そろそろアイリスにいってらっしゃい。五、六台入る駐車場があったわよね」
 菅野が、
「表に五台、裏に十台停められます」
「ワシがあのあたりの土地を買い占めたからな」
 女将が座敷に出てきて、
「ほうやったの? そういえば、従業員の面接をしたとき、空地になっとったね」
「人気店になったら、遠くからくる人も多くなるやろうと思ってな。借り土地でもよかったんやが、根を下ろしてほしくてな」
「今度からは内緒にせんといてね。どんなにお金がかかっても、反対するわけやないんやから」
「おう」
 賄いの一人が座敷に入ってきて、
「あの、いま和子お嬢さんから電話があって、四時閉店なのにまだ満員だから、きょうはお客さんとして入店するのは無理ですって」
 主人が、
「ほうか、そりゃええことや。しばらく様子見やな。あしたも入れんかもしれん。そんなことより中日球場がまず第一や」
         †
 五時半を回ってカズちゃんたちが帰ってきた。料理人二人もいる。キャーッと叫んで節子とキクエがカズちゃんに抱きついた。直人がまねをしてカズちゃんの足に絡みつく。
「お帰りなさい! キクエさん、ほんとに正看受かったのね?」
「はい!」
「おめでとう。とうとう二人揃って日赤の看護婦さんね」
 カズちゃんは直人を抱き上げ、
「千佳子さんも睦子さんも、めでたく名大に受かったのよ」
 キクエがアイリスの制服を着た千佳子の手をとり、
「おめでとう。おたがい執念ね」
「はい、こうやって毎日をすごしてるのが夢みたいです。ムッちゃんはお城のマンションにいます。トモヨさんがプレゼントしてくれたの」
 節子が睦子の手を握り、
「二人ともよかったわね。みんなで仲良くやっていきましょう。あ、和子さん、私たち三十一日の月曜日からお勤めです。少し予定が早まっちゃった」
「荷物整理の手伝いにいくわね」
「いいえ、お店に集中してください。整理というほどのものでもないから。荷物は来月の二日か三日に届くので、それまでここでお世話になります」
「どうぞ、どうぞ。山口さんは三十一日にくるから、初出勤が早番だといいわね。夕食いっしょにできるわ」
「ひと月ぐらい、遅番勤務はないと思います」
「よかった。せっかくそばにきたんだから、お母さんの健康にいつも注意してあげてね。運命って、一つ二つの災難じゃ満足しないから、油断しないようにね」
「ありがとうございます。定期健診を欠かさないようにします」
「とにかく落ち着いたら遊びにいくわね」
「はい。キョウちゃん、おかあさんにいつも付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ感謝してる」
 トモヨさんが台所から、
「お風呂、用意できてますよ」
「はーい」
「しかし、ドラゴンズの連中は愉快なやつらばかりやなあ。ちょっと聞いてくれや」
 主人はカズちゃんたちにブロックサインの話をする。カズちゃんは笑いながら、
「ドラゴンズは、キョウちゃんには最高の職場になったわ。それよりおとうさん、食材がぜんぶなくなっちゃったのよ、信じられる? 二十テーブル、ずっと満員。毎日こんなにこられたら困るわ」
「贅沢言うな。そのうち落ち着くに決まっとるが。サービス期間が終わればな」
 素子が、
「そのあとが大事やね。固定客相手やから」
 ソテツが、
「料理人さんの腕のいいのには驚きました。ウエイターさんもテキパキして、動きにむだがないんです。女はまだまだですね。お嬢さんと素子さんだけは別です」
 料理方の森と島が恐縮して頭を下げる。手伝いにいった千佳子と睦子が、
「和子さんや素子さんのコーヒーを出す手際のいいこと!」
「私は、パンやケーキ出しの手伝いをしました」
 メイ子が、
「男子店員さんの動きがすてきなんです。垢抜けていて」
 島が主人に、
「実際のお客は百二、三十人でしたけど、待ちきれずに帰った人も数えれば、二百人はきました。あしたは百五十人ですね」
「そりゃ、うれしい悲鳴ですな。ほんとにご苦労さん。これからも末永くお願いしますよ」
「こちらこそ、拾っていただいて感謝しとります。精いっぱいやります」
 森といっしょに深く頭を下げる。
「オムレツ食うのはあしたも無理みたいやな」
「おとうさん、オムレツ食べたかったの? ちゃんとコーヒーも頼んでね。この混み具合だと、四月に一人か二人ずつきてもらうしかないわね。ドラゴンズの人たちもきてくれるし、かえってそのほうがいいんじゃない」
「だな。しかし、こんな駅裏によくそんなに人がいるもんだな」
 睦子が、
「千種のほうからきたっていう若い人たちもいました」
「あ、椙山の学生たちだ」
 私が言うと菅野が、
「約束どおり、きてくれたんですね。これからも友だちを連れくるでしょうな」
 カズちゃんが、
「とにかく大成功。さ、お風呂、お風呂」
 節子もキクエも、千佳子も睦子もいっしょになって、どやどやと風呂へいく。メイ子とソテツは台所に入った。菅野は中番で出勤した女たちを迎えに出る。出されたコーヒーを飲み終えた島と森が、
「じゃ、私どもはこれで。また、ときどき寄せてもらいます」
 女将が、
「給料が足りんと思ったら、いつでも遠慮なく言ってちょうよ」
 森が、
「じゅうぶんいただいてます。お心遣いありがとうございます。神無月さん、ご活躍、いつもテレビで拝見させてもらってます。いやあ、タマゲルというのはこういう感じでしょうね。うちは男の子二人で、どちらも高校生ですが、女房ともども野球を見ないので話になりません。神無月さんのすごさをしゃべっても糠に釘なんですよ」
「野球の好きな人だけファンでいてくれればいいんです」
 島が、
「うちは娘三人。プロスポーツというものはことごとく観ませんな。神無月さんのことは私一人で騒いでるだけで、へんなやつに思われてますよ。ただ、女房が娘のころから中日きちがいで、十日に一度は中日球場に出かけてます」
「うれしいなあ。これからも応援よろしくお願いします」
「はあ、もちろん。ときどき女房にくっついていくことにしますよ。じゃ、あした仕こみが早いので、これで失礼します」
 彼らが去ると、私は主人に、
「みんな興奮してましたね。よほど繁盛したんだな」
「ワシはそうなると思っとった」
 女将が、
「あたしのせいかしら」
「神無月選手の店、か? そういう人も多少おるやろうけど、だれもかれも野球選手を目指してはこんわな。サービス期間のせいやろ。四月一日からが一日一日勝負やな。百人もいらん。五、六十人でもきてくれたら、この先十年でも二十年でもつづけられるわ」
 女たちは風呂から戻ると、台所でおトキさんたちに入り混じって立ち働きはじめた。文江さんがスカート姿でやってきた。私に笑いかけ、主人の隣に坐る。節子が厨房から廊下越しに見やり、
「あら、おかあさん、いらっしゃい」
「お帰り。少し肥えたんやない? あら、吉永さんもぷくぷくして」
 カズちゃんが、
「ますます女っぽくなったのよ。ガリガリはキョウちゃんに嫌われるもの」
 主人が、
「そういえば、みんなプンとふくらんどるな」
 菅野が女を三、四人連れて戻ってきた。座敷が賑わう。直人が走り回り、声を上げながら女たちの胸に飛びかかる。賄いが十人も右往左往し、食卓が整っていく。便意を催したので、そっとトイレに立つ。ここにも新聞の切り抜き写真が額に入れて飾ってある。右手にフォロースルーのバットを掲げ、斜め上方を見上げながら走り出そうとしている。
 ―どこまでつづく大アーチ 天馬オープン戦二十一号
 私は教室や校庭から忍び出て、あこがれの場所にたどり着いた。心に添ったことをまんまとやり遂げたつもりでいて、それでも失敗した気分になる。私は産み出され、何ごとかの経験を与えられ、野球に没頭して生きられることになったけれども、そうする道々、何人もの人びとの人生をねじ曲げた。ねじ曲げることが必然だったと思えない。しかし、そうしない手立てがあったとも思えない。人は他人の人生をねじ曲げて生きるものだと思うしかない。
 ねじ曲げられただれもが、人生の曲折など気にかけずに生きている。何度ねじ曲げられても修復する。ねじ曲げられたことを感覚しなかったり、ねじれを感じて修復したりするなら、それは彼らの人生がねじ曲がらなかったのと同じだ。つまり、何も起こらなかったし、これからも起こらないということだ。眠り、目覚め、排泄し、食い、運動する。きのうも、きょうも、あしたも同じだ。私ばかりではなく、地上の人間ぜんぶだ。
 数カ月ぶりに蛇が抜け落ちていくような快便だった。柔らかかったけれども、形のある便が出た。尻を拭いたティシュにも便が付かなかった。ひさしぶりの幸福感。運動選手の健康なからだ……。便所を出て、廊下の壁の私の写真に向き合い、この健康なからだは私のために存在しているのか、周囲の人びとのために存在しているのかと思う。何を思っても、以前の私にも私と関係した彼らにも戻れない。私は野球の才能を彼らに捧げ、残りのすべても彼らに捧げる。
 石鹸で手を洗い、食卓に戻る。笑顔が揃っている。主人夫婦、カズちゃん、菅野、トモヨさん、素子、節子、キクエ、文江さん、千佳子、睦子、百江、メイ子、イネ、だれにも心を開くが、かぎられた人間にしか心を許さない人びと。そして彼らを敬愛する、羽衣やシャトー鯱の女たち、賄いの女たち。
 おトキさんにおさんどんをされて、好きなおかずをつまんでいく。ひさしぶりの餃子がうまい。チンジャオロースがうまい。ビールを飲んでいる女たちのあいだで、主人と菅野が笑っている。カズちゃんは素子や睦子や千佳子といっしょに、野菜サラダをもりもり食べている。百江やイネたちはソテツの話に聞き入りながら、楽しそうにキンピラごぼうを皿に盛りつけている。首筋に感動の粟を立てながら眺めている私に、店の女の一人が、
「プロで野球をする人は、アマチュアとどこがちがうんですか? 神無月さんもいままでアマチュアだったんでしょう?」
 私は咀嚼を止めずに、頭の外の話題に安心してしゃべりだす。
「そうだね。たぶん、本質のところでは何のちがいもないと思う」
「ほら始まった。楽しい話が聞けるぞ」
 主人がグラスを掲げる。


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