九十六

 別の女が、
「本質のところって何ですか」
 私は微笑み返し、
「プロは自分の頭で考える集中度が高くて、才能が並外れているのが大前提だとよく言うけど、そんなやつはアマチュアにもたくさんいる。それが本質。何かの幸運でそれを見こまれ、たまたまプロになった人間が、えらそうに、プロ、プロと言ってるだけだね。将棋も、ゴルフも、相撲も、書道も華道も、歌も、文学もみんなそうだと思う。たまたまプロになるんだ。ただ、プロはマスコミが採り上げるので有名人と呼ばれるけれど、アマはマスコミがほとんど採り上げないので無名のままだ。それだけのちがいだね。実力には何の差もない」
 素子が、
「そういうすごい力を持ったアマチュアが、どうしてプロになれんことが起こるんやろ」
「大きな組織が引き上げて、有名にしてやらなかったからだよ。そういう人のほうが圧倒的に多い。引き上げてやるほどの庶民性がなかったか、嫉妬が原因で排斥される人生の不幸があったかどちらかだ。簡単に言うと、プロとは庶民にもてはやされる有名人のことなんだ。もう一つ。プロとアマとのちがいは歴然としてるなんて言うやつにかぎって、実力がない。アマチュアよりひどい。そんなやつがプロとしてごろごろ生きてる。タナボタで有名になったことだけが財産なので、有名自慢に全精力をかける。ほんとうに有能な人間は、プロとかアマとかの仕切りなんか頭にない」
 主人と菅野が盛んに拍手をした。女が、
「じゃ、神無月さんはアマでもプロでもなくて、ただの野球の達人ですか」
「そう。才能に恵まれた野球好き。でも、大きな組織に引き上げられて有名にしてもらったから、肩書はプロ。たとえ引き上げられてプロにならなかったとしても、いまでもグランドで遊んでたろうね。みんなにびっくりされながらね。でもプロじゃないから、心の底で軽んじられながらね。それが有能なアマチュアの悲しみだね。ほんとにぼくはラッキーだった。いまでも、なぜ遊んでるだけの人間が金をもらえるのかわからない。まじめに働いてる人に申しわけないと思う。たぶんプロ自慢をする人は、そんな正体不明の金を疑問に思わない人格破綻者だろう。お金というのは、遊んで稼ぐものじゃなく、料理の一皿、バスや電車の運転の一往復、鉄骨の一担ぎ、ドサ回りの一舞台、トルコの一客―身を削って稼ぐものだ。そうだ、大したこともしてないのに、世間がこぞって金をくれてやりたがるやつもプロと言う。さっき言った、アマチュアよりもひどいやつも、一般の人の何十倍もの金をもらえる。どうしてそういう仕組みになってるのか、ぼくにはわからないし、わかりたくもない。世の中の水面下で動いてる醜いものを知りたくないからね」
 菅野がビールをグイと飲み、
「神無月さんがもらうお金は、疑わしいものじゃないですよ。プロである以上は、その能力は金で評価されるべきものです。いくら言っても神無月さんにはそのことはわかってもらえないから、もう言いません。ただ、神無月さんはプロになる以前から、桁外れの才能で有名だったんです。プロになったから有名になったんじゃありません。そうしてプロに引き上げられてもっと有名になったんです。有名であることや大金を稼ぐことを、申しわけなく思わないでください」
「ありがとう、菅野さん」
 いちばん恐ろしい告発者は、私の心にある良心だ。褒めたたえる人には素直に感謝しよう。女将が、
「ほんとに、神無月さんて、何者なんやろね」
 文江さんが、
「何者でもええわ。私たちのキョウちゃんや」
 節子とキクエがにっこりうなずく。
「おかあさん、あした私たち、キョウちゃんの野球を観にいってくるの。プロのキョウちゃんの才能を、お金を出して観てくるの」
「ええなあ、私は夜の試合しか観にいけんわ」
 カズちゃんが、
「そのうちナイターが始まるわ。そしたらいっしょに観にいきましょ」
 胃袋が満足したので、直人を膝に抱き、チンジャオロースのピーマンを箸で口に含ませた。直人は唾液といっしょにベーと吐き出した。おトキさんが笑い、
「まだそういうものは無理ですよ。あと一年くらい経たないと。お刺身や、蕎麦、生野菜もだめですね」
 文江さんが抱き取り、直人の顔を不器用に大きな胸に押しつけた。直人は文江さんの胸を手で突いて、ほかのテーブルの女たちのほうへ逃げていった。私は笑いながら、
「ほんとに源氏と女御の世界だな」
 千佳子が、
「四つぐらいまでは、何も憶えてないんですよね」
「原始的記憶があるけど、何も憶えてないのと同じだね」
 菅野が、
「何だかさびしいですね」
 人は死ねば雲になるとか星になるとか人は言うが、彼は高みにはいない。ここにもいない。それだけは確かだ。どこかへいってしまったのだ。でも、一つ、これだけははっきり言える。人が死ねば彼の未来が消えるばかりでなく、彼を愛する者の未来も消える。
         †
 トモヨさんの離れではなくイネの部屋で寝た。節子もキクエも、きょうは危ないと言ったので、安全日だったイネが二人の横に仰向いて私の射精に備えた。こういう形でセックスする経験が初めての節子とキクエが、何の抵抗もなく肩を並べて横たわったのがうれしかった。もちろんカズちゃんに先触れされていたにちがいないし、あるいは武蔵境のたがいのアパートをいききし、性的なこととは関わりなく同衾して会話し合い、親しみを増していたのにちがいない。二人の仲のよさが偲ばれた。
 数カ月逢わなかった節子とキクエの豊かな胸を丁寧に揉んで、舐めた。性器そのものは、挿入するときに自分の亀頭といっしょにしか見なかった。小陰唇やクリトリスの姿よりも、反応だけをなつかしみたかった。一度しか私との経験のないイネは、神妙に、そして好奇心に満ちた目で私たちの合体の様子を見つめた。
 イネに吐き出すことだけを考えて、ひたすら節子とキクエの膣を往復し、二人のアクメの声をイネと二人で聞いた。温かく緊縛する感触をなつかしみながら、同時にイネの股間に指を這わせ、アクメを与えようとする。イネは達しまいとする。自分が主賓でないと思っているからだ。絶え間なく二人の真率な声が八畳の部屋に響く。二人の膣が限界を告げたので、安心して抜き去り、イネの膣に放出し、律動した。イネは二人に遠慮して発声を殺しながら、大任を果たした安堵感から数秒で強いアクメに達した。
「よくやったよ、イネ」
「……ありがとごぜました」
 小声で言った。からだの交接が終わると、何かから免れた気分になる。節子が、
「キョウちゃん、ありがとう。すっかり生き返りました。からだの細胞がぜんぶ新しくなったみたい」
「私も。これで心置きなく仕事に精が出せます。イネさん、ごめんなさい。すごく乱れちゃって」
「とんでもねです」
「イネさんのイキ方って、とても上品」
「そたらこどねです。すみません、まんだ慣れなくて、みっともねす。お二人、うだでぐめんこがった」
 四人で深夜の杉風呂に入った。
「とうとう帰ってきたのね」
 キクエが言うと、節子が、
「うん。どんなにキョウちゃんと長く逢わなくても、名古屋なら、いつもそばにいるって感じられる」
 イネが、
「わがります。みんなそんです」
 キクエが、
「抱かれると破目を外しちゃうけど、心が満たされる感じのほうが強いわ。包みこんでくれるの」
 節子が、
「包まれてるのに、所有されてる感じがしないのよね」
 イネが、
「広くてやさしい心のふとだはんで、神無月さんは」
「つらい経験をしてきたからよ。私もその経験に一役買ってるの」
 節子が申しわけなさそうにうつむいた。
 風呂から上がり、女たちにからだを拭いてもらう。彼女たちの幻想がさせる行為の一つだ。わかっていても幸福の源になる。
 イネを端に、節子とキクエに挟まれ、あしたの朝のランニングのことだけを考えて眠りに就いた。
         †
 三月三十日日曜日。七時起床。女たちは一人も蒲団にいない。小雨。十二・八度。風がかなりある。こんなに強い風はひさしぶりだ。
 七時半。腕時計を見ると、気温が十一・九度に下がっている。ジャージ姿で菅野を待ちながら、居間で女将たちとコーヒーを飲む。かたわらで早起きの直人がトモヨさんの胸に吸いついている。主人は新聞を切り抜いている。居間から廊下越しに座敷を見る。カズちゃんたちがさざめきながらめしを食っている。店の女たちはまだ起きてきていない。縁側のガラス戸の外に細かい雨が降っている。中止の電話はかかってこない。厨房の百江に呼びかける。
「きょうはユニフォームが汚れそうだよ」
「下洗いしてからクリーニングに出すので、好きなだけ汚してください」
 主人がスクラップブックに目を落としながら、
「きょうの阪急戦は実質上の日本シリーズと書いてありますよ」
「監督は三原さんじゃないですよね」
「西本幸雄」
「どういう人ですか」
「昭和二十五年に三十歳で社会人からオリオンズに入団した変り種ですわ。五、六年しか在籍せんかったな。左利きの一塁手で、目立った活躍もせんと引退しました。それから五年くらいコーチをやって、三十五年に南海の鶴岡の推薦でオリオンズの監督になって、その年に優勝して、一年かぎりで辞任しました」
「鶴岡さんとオリオンズって、関係あるんですか」
「オリオンズのオーナーの永田と鶴岡が知り合いだったみたいです。当時の鶴岡は、南海の一監督というだけでなく、パリーグ全体の親分的存在でしてね、人間的なふところの深さや面倒見のよさから、頼り甲斐のあるドンだったんです」
「優勝して、すぐ辞任というのは……」
「日本シリーズ第二戦、一点ビハインド、ワンアウト満塁でスクイズ失敗、ダブルプレー」
「スクイズを命じられた人は?」
「強打者谷本稔です。そのせいで、ミサイル打線が三原大洋にストレート負けしました」
「スクイズ失敗のせいというよりは、監督の臆病のせいですよ。弱気の雰囲気に選手たちが飲みこまれちゃったんでしょう。辞任じゃなく、解任のようなものですね。臆病すぎるとニワトリの口にはなれても、牛の頭にはなれない」
 臆病者は策略家よりもタチが悪い。消極的に周囲の人間の運命を変えてしまう。
「そのニワトリの口ですがね、たしかにリーグ優勝はできても日本一にはなれないんですよ。三十八年に阪急の監督になったその年は最下位。二位、四位、五位ときて、おととしとつぜんリーグ優勝。去年も優勝。新米時代からいろいろ修羅場をくぐり抜けて、経験のあるタフな監督になったってことでしょう。三原監督のような魔術と呼ばれるほどの派手さはないものの、じゅうぶんな補強費を出さない球団フロント相手に、西本は五年という歳月をかけて地道に若手選手を鍛えて、阪急を万年Bクラスから、優勝を狙えるチームに育て上げたわけです。そういう手腕から、監督としての評価も高いものがあるんですよ。でも日本シリーズで勝てない。大舞台で弱気が出る」
 朝食を終えたアイリス組が、めいめい私に声をかけて出かけていった。入れ替わりに菅野がやってきた。
「きょうはやめましょう。雨に濡れて風邪でもひいたらたいへんだ」
「いや、いきます。もうすぐ上がりそうな霧雨でしょう。電車の遠出はしませんけど、日赤まで走ります」
 合羽を着る。
「わかりました。雪でもいきますね」
「いきます。槍が降ったらいきません」
「アハハハ」


         九十七

 太田に電話をして試合のあることを確認。
「一時試合開始、九時四十五分ロッカールーム集合、バッティング練習は十時から。外野の守備コンディションが悪いので、滑らないように気をつけてください」
「わかった。きょうはスタメン?」
「たぶん―。きょうあすの二試合が開幕のスタメンになると思います。島谷がショートで、俺がサード、ライトは菱川さんでしょう。田宮コーチがダイナマイト打線と言ってましたから」
「爆発しなくちゃね」
「はい。―フォックスが切られるって話ですよ」
「アメリカから帰ってこないの?」
「そうなんです。影も形もありません。このまま退団だと思います」
 ユニフォームを着、尻ポケットにタオルを畳んで入れ、洗濯したての帽子をかぶり、富沢マスターから贈られた新しいスパイクを履く。おトキさんから握り飯二個とイナリ寿司四個の弁当を持たされる。バット二本と、グローブと弁当とバスタオルを詰めたダッフルをトランクに納め、クラウンに乗りこむ。直人がトモヨさんとおトキさんに手を引かれて門まで出てきたので、笑いかけながら手を振る。
「おちょうちゃん、てらっちゃい!」
 野球しかできない、いつまでも小学生のまま成長しない男。この愛らしい子のどんな父親になろうという展望もない。自身、どんな人間になろうとも考えていないような人間が子供を育てているという底冷えのする気持ち。
 助手席に私、後部座席に主人と節子とキクエが座る。直人の背後に立つ女将と賄いたちが手を振る。九時十五分出発。主人が、
「スペンサーがいなくなった阪急は、あまり恐くないな。ピッチャーはふつうの球威のヨネカジと、石井、足立だけやし。山田は出んやろなあ」
 菅野が、
「梶本は外角のパームと、フォーク、ストレート」
「手投げやから怖ないやろ」
「そう言えば、手投げでしたね。大きな口といっしょに思い出しました」
 昭和四十年、葛西さんのご主人に誘われても観ようとしなかったオールスター。西高時代図書館で調べた記録によると、そのとき梶本はたしか第二戦の勝利投手だった。米田が三戦とも出ていなかったのは、その年にファン投票で選ばれなかったからだ。だから、二人を見たのは西松建設の白黒テレビでということになる。菅野が、
「米田の得意球はフォーク」
「フォークですか。じゃ、腰から下のフォークを見切らないと」
 知識でしゃべっている二人には、私の言う実践的なことは理解できない。私は話題を変え、
「水原監督は選手たちを放任しているように見えますけど、一人ひとりの能力をじゅうぶん引き出すためのルールが存在してるように思えるんですよ」
 主人が、
「何ですか、それは?」
「選手自身が、プロで通用する体力と、自分なりの目的意識と、技術的な向上心を持っているのはあたりまえのこととして課題にはしません。ルールというのは、上層部が才能のある選手を贔屓する徹底した実力主義です。巨人が水原監督時代に採用していたスター主義ですよ。それで長嶋も王も育った。いまの巨人はそういう選手をかわいがらずに、努力してる人間なら味噌もクソもいっしょに重視する悪しき平等主義を採ってます」
「それが優勝の原動力だと川上監督は常々言ってますな」
 菅野が、
「水原さんの形見の長嶋と王からこっち、神無月さんのような並外れた才能の選手を新たに獲得したことがなかったからでしょう。三原監督はその折衷案を採っていて、実力、努力、どちらも重視する小才団結主義、水原監督は実力ある選手を重視して他の選手を発奮させる天才主義です」
 主人が菅野に、
「天才を贔屓して、ほかの選手の能力も引き出すわけやな。たとえば贔屓する方法を具体的に言うと、どうなるかな?」
「平等な練習時間を与えません。たとえば試合前の練習で、神無月さんや江藤さんがフリーバッティングをしていると、時間の長短に関わらず納得するまで打たせます。実力で等級分けしてるわけです。神無月さんが言ってたでしょう? 観客にホームランを打って見せろと命令することがあるって。試合は打つべき人が打たなければ勝てない。それなら貴重な練習時間は、打つべき人に優先的に与えるべきだというのが水原監督の考え方です。そういう差別的な待遇は野球の技術だけに関わるものじゃありません。生活環境を含めたあらゆることが対象になってます。一軍二軍の差別などが最たるものです。二軍選手はたまたま才能が花開いた選手しか一軍に昇れません。いくら努力家でも昇れない。そこが巨人とのちがいです。二軍の生活に甘んじるような選手は、もともとプロ野球には向いてないので、チームには必要ないという考え方でしょう」
 節子とキクエはじっと興味深げに聴いている。私は思い当たり、
「そう言えば、外野からコンバートされた江藤さんの一塁守備を、納得のいくまで練習させてましたね。おかげで彼は、一塁ベースを踏んで手の届く範囲内なら、どんな難しい送球でもミットにスッポリと納められるようになった。頭をはるか越えていく悪送球でさえなければ、ワンバウンドであれ何であれ、みごとに捕球するようになった。いまでは蠅捕り紙と呼ばれてます。もともと江藤さんに才能があったということです。そのうえに彼はとても研究熱心な人で、これまで遠征した各球場の土質をノートにとってます。バウンドするボールをうまく捕るには、跳ね方がわからなくちゃいけないって言うんです。江藤さんの守備が名人になれば、内野手のあいだに絆が生まれます。送球の心配がなくなればそれだけ捕球に専念できますし、余分な神経を使わなくてすみます。中日の内野陣はまったくエラーをしなくなりました。最初のころ島谷さんや太田のような新人は、エラーしちゃいけないという意識が強すぎて、どうしても送球のとき腕が縮こまってワンバウンドになりがちだったんだけど、そのせいで江藤さんの捕球もおろそかになって、ときどきエラーもしました。江藤さんがじょうずになってからは、萎縮した送球も減って、二人の守備は安定してきました。水原監督が彼らの才能を信頼して放任したおかげです。江藤さんはいつも言ってます。ミットが届くとこはぜんぶ捕ってやる、安心して投げろって」
 主人が、
「新人がエラーしたら、川上監督なら当分一軍の試合には出さないやろな。西本監督もたぶんそうや」
「太田はもともと守備がうまいやつだったけど、さらに自信をつけました。いずれ打撃にもいい影響が出ると思います。打線の一翼を担ってくれるはずです」
 菅野が、
「巨人や阪急の大型打線には、超大型打線で対抗するしかないですものね。長嶋や王みたいな爆発力を持った選手が出てくると、やっぱりそれに対抗できる打力を持った打者が撥ね返していくということにならなければ、一試合一試合を勝ち進むことは難しいです。コツコツ稼いだ得点を一挙に失って負けてしまうなんてゲームの仕方をしていると、いずれ士気が阻喪してしまいます」
 主人が、
「ドラゴンズには継投策が効かん。それでも、どのチームも継投でくるんだよな。五番に菱川、二番と六番に太田か島谷がおってみィ、長距離打者が四枚も五枚も揃ってガバッと大量点を前半に取ってまうぞ。中距離打者の多いチームでは取り返せん。先発ピッチャーは五回までが責任回数やとよく言うが、五回まで一、二点で抑えられるんなら、そのまま中継ぎを出さずに九回までいける。けど、早いうちに五点も六点も取られたら継投策の意味がないわな。どのチームもドラゴンズにはピッチャーのむだ使いをしとる。気の毒なことだわ」
 私は、
「何人出してもめった打ちされるわけですからね。負け試合に何人もピッチャーを使うのはもったいない」
「そういうことです。ドラゴンズに足りないのはピッチャーです。シーズンを通して、あいつが投げればぜったい勝つと信頼されるエースが二人しかいない。神無月さんたちの調子が悪いとき、心配なのはそれです。とにかく打ちつづけなくちゃいかん」
「打棒発揮も毎日というわけにはいかないですからね」
「そりゃそうですよ。バッターたちが気の毒だ。劣勢のときは、なんとかリリーフが活躍して打線の巻き返しを期待しないと」
 菅野が、
「浜野、伊藤久敏ですか? もう一人いないとね」
 キクエが、
「ピッチャーがよくないと優勝は難しいんですか?」
 主人が、
「そう。点を取られるからね。いくらバッターがよくても、取られて取り返せる点には限度がある。正直なところ、中日の投手力はギリギリのところやね。神無月さんが五割バッターの三冠王でもな」
 私は、
「だいじょうぶですよ。監督以下、みんな野球を楽しむだけでなく、ペナントレースはきっちり勝ち抜く気でいますから。……みんなここぞというときはかならず打ちますよ。まちがいなく七勝三敗以上のペースで勝ち進みます」
 九時四十分。中日球場の一般駐車場に報道関係者が蝟集している。白い空を見上げる。雨が上がっている。雲の切れ間が美しく輝いている。凄まじい数のフラッシュが光る。トランクを開けて二本のバットを取り出そうと思ったが、ロッカーに何本も立ててあることを思い出してやめた。
「じゃ、神無月さん、帰りはここで待ってますよ」
「はい、いってきます。すぐにぼくたちのバッティング練習ですが、開場まで一時間近くあります」
 主人が、
「開場が早まることもあるで、とにかく正面ゲートにいっとくわ。予約席は早く入れてくれるかもしれんで。入れんかったら、喫茶店で時間を潰すわ」
 ダッフルを肩に、関係者入口に向かう。フアンとカメラがギリギリまで追ってくる。江藤と太田が入口で待っていた。太田が、
「あの二人の女の人、初めて見る顔でしたね」
「東京から戻ってきた最後の二人。看護婦さんたちだ」
「最後は山本法子さんになるんやないか?」
「そうでした。ニューオータニで会いましたね」
「会った。やさしい、いい目をしとった。看護婦さん二人もいい目をしとる」
「来月、彼女たちの顔を確かめにきてください」
「おお、かならずいくばい。さあ、きょうも暴るっぞ」
「オス!」
 中や高木たちとタッチしながら、ベンチからグランドに出る。開場三時間前。ガラガラのスタンドを見回す。水気を含んだ芝生が光っている。ライトを守ることになっている菱川が並びかけ、
「芝の根がゆるいので、スパイの爪を引っかけないように気をつけてください」
「わかった。とくにスライディングのときに気をつけないと、足首をやられちゃうね」
「スライディングは、うまくケツで滑れるときだけにしましょう」
 水原監督がベンチ前に登録二十八人を集め、
「先発は健太郎くん。この試合だけは勝っておくよ。総力戦になってもかまわない。健太郎くんが打たれたらベンチのピッチャーを全員出します。パリーグの覇者が相手だ。胸を借りるのじゃなく、こちらもセリーグの覇者のつもりでいってほしい」
 それだけ言って、ケージの後ろにいる西本監督と懇談をしにいった。
 ドラゴンズのバッティング練習開始。私と江藤が左右のケージに入ると、両監督を取り囲むように阪急の選手たちがケージの後方に集まった。フラッシュがうるさく光る。特別に板東と山中が出てきてバッティングピッチャーをする。
「板東さん、十球お願いします。低目の直球だけ」
「よっしゃ、けっこう速いのいくで」
「タツミ、ワシも十本。ストライクなら何でもええ」
 田宮コーチが、
「花火打ち上げろよ!」
 私はまず、ライトの看板へ二本ぶつけ、場外へ一本、バックスクリーンに二本、スコアボードに四本、左中間看板へ一本、レフト場外へ一本。江藤は左翼場外へ一本、看板へ三本、バックスクリーンへ一本、バックスクリーン越え二本、ライトスタンドへ三本。二人とも一本のミスもなくホームランを打ち終える。ドラゴンズの破格の強打が、阪急ベンチばかりでなくスタンドにも伝わって、大歓声が渦巻いた。ケージの後ろの長池たちも拍手を惜しまなかった。
 太田、菱川、島谷とつづく。太田はセンター中心に左右に三本ずつ打ちこみ、菱川十本中四本すべてレフトスタンドへ、島谷は十本中、レフト上段へ一本、センターバックスクリーンへ二本打ちこんだ。ドラゴンズの切れ目のない破壊的な打撃力に、驚嘆を超えてひたすら畏怖する表情が阪急ベンチに蔓延した。西本監督は天を見上げ、唇を一文字に結んでいた。ホームランは知性でも人間性でもない。もちろん人類の歴史を変えるものでもない。メンコやビー玉と同じ遊びの才能だ。その純粋な安堵感に選手も観客も浸る。
「すてきなデモンストレーションよ」
 半田コーチがはしゃぐ。水原監督が、
「中日ドラゴンズは六割強の勝率で、楽しみながら優勝するよ。小川くん、きょうは一回だけ全力で抑えてくれ。うちは一回で決めるつもりだから」
「五回まであっという間に終わらせます」
 小川はグローブにこぶしを叩きこんだ。


         九十八         

 十一時。開場。スタンドが瞬く間に満員になる。ベンチの奥に座って、おトキさんの握りめしとイナリ寿司弁当を食いながら、阪急のフリーバッティングを見つめる。きょうは気分で早めしにした。まだだれもめしを食いにいかない。十二時の自軍の守備練習の直前か、十二時十五分の敵軍の守備練習の最中に、ロッカールームで取り寄せの麺類か持参の弁当を食う。
 長池と背番号23が外野席にポンポン打ちこんでいる。
「江藤さん、あの23番は?」
「矢野清。百八十センチ八十キロ。三十三年に入団したんやが、十年間芽の出きらんままきて、去年初めてレギュラーになった。三割、二十七本打って、十年目の新人と呼ばれたばい。典型的な遅咲きたい」
 長池がバッティングケージから出てきた。
「ちょっと長池さんと握手してきます」
「おお、いってこい」
 弁当を食いさしたまま走っていき、長池に握手を求める。カメラがワッと寄ってくる。
「きみが天馬神無月くんか! 写真よりもいい男だなァ」
「長池さんこそ、外人みたいですよ。お会いできて光栄です」
「それはこっちの科白だよ。きみにこうやって会いにきてもらえるかどうか、どのチームの選手もドキドキして待ってるんだよ。天使のように近寄ってくるという噂だったけど、そのとおりだね。やあ感激だ。ありがとう。新聞にもぼくの名前を出してくれてたね。うれしかった」
「四十二年のオールスターから、独特のバッティングに注目してました。いずれ野村さんを抜いてホームラン王ですね。あごを肩に乗せるのは、ピッチャーと正対するためですか」
「いや、苦手な外角のカーブやスライダーを打つためなんだよ。そしたら正対する格好になった。内角打ちは、いま日本テレビの解説をやってる青田さんがここのコーチをしてたころに徹底的に教えてくれたから、どうにかマスターできたけど、いまでも外角の変化球が苦手でね」
「見切りがたいへんですからね」
「きみには打てないコースがないようだね。凡打するときも、研究のためにわざと難しい球を打ってるとわかる」
「基本的に、一打席一打席、そのつど考えて打ってます。振り出すときに躊躇しないためです」
 すぐ傍らの西本監督がチラチラこっちを見ている。水原監督に、
「大砲が棚から落ちてきて、よかったやないの」
「はあ、大砲と言うより国宝の爆弾です。大リーグも何チームか動いてるようなので、しっかり囲いこまないと、国の宝を失ってしまいます」
 三、四人の阪急コーチ陣もまぶしそうに私を見ている。眼鏡をかけたかなり年配の背番号62は、鉄腕二百勝投手野口二郎、その横の63は西鉄黄金時代の五番打者、カーブ打ちの名人関口清治、若い顔をした77は去年引退したばかりの名ノッカー中田昌宏、かつて野村とホームラン王を分け合った男でもある。どこからともなく背番号23が近づいてきて、
「ぼく、矢野です。握手してください」
 矢野と握手していると、阪本です、大熊です、住友です、アグリーでーす、新人の福本です、とピッチャー以外の選手が続々とやってきて握手を求めた。その様子を苦々しげに見守っていた西本監督が、
「ちゃんと準備せんかい!」
 と怒鳴った。私はあわててベンチの江藤のもとに戻った。水原監督が笑っている。大男のアグリーが、ウインクして手を振っている。長池は丁寧に素振りを始めた。
「あれ、大洋にいたアグリーですか?」
「ほや。からだはでかかばってん、中距離ヒッターばい」
「右投げ左打ち。背番号19をつけてますけど、大洋時代は10でしたよね」
「ほやったな。握りめし一個もらったぞ」
「どうぞ」
 私はイナリ寿司四個を平らげた。
 十二時。ドラゴンズの守備練習十五分。外野陣は練習を回避して、内野守備を見やりながら、鏑木コーチの指導で濡れた芝生を走った。ストッキングが濡れてふくら脛にずっしりまとわりついた。ベンチへ戻る。上空に青空が拡がり、強い陽射しが落ちてきた。
 阪急の守備練習十五分。ベンチのほとんど全員がめしを食いにいく。阪本と山口との二遊間コンビの完成度は高いが、高木一枝コンビの華麗さには敵わない。どのチームを見ても常に同じ感想を持つ。サングラスをして口ヒゲを生やした長髪の三塁手が目立った。小柄のくせにバッティング練習では大きな当たりを飛ばしていた。太田から、森本という名前を確かめた。センター大熊、ライト長池、レフト矢野。外野手にさほどの強肩はいない。場内アナウンスが流れる。
「本日は中日スタジアムにご来場くださいましてまことにありがとうございます。ただいまより中日ドラゴンズ対阪急ブレーブスのオープン戦を開始いたします。プレイ中のストロボ、ならびにフラッシュ撮影はご遠慮くださるようお願い申し上げます。なお、ファールボールにはじゅうぶんご注意くださいませ。先攻阪急ブレーブスのスターティングメンバーを発表いたします」
 相変わらず美しいウグイス嬢の声だ。
「太田、情報よろしく」
「はーい!」
 太田がヘルメット棚から厚手のパンフレットをとってくる。
「一番センター、大熊、背番号12。浪商、二十五歳、百七十一センチ、プロ入り六年目、特徴なし」
「何かないの」
「浪商が尾崎で優勝したとき、二番サードでした。この二年間の阪急二連覇の貢献者です。ホームランは十本前後、二割五分」
「了解」
「二番ショート、阪本、背番号4。平安高校、二十五歳、百七十センチ、三年目、俊足。三番ライト、長池、背番号3、百七十五センチ、八十二キロ」
「説明いらないよ」
「四番レフト、矢野、背番号23」
「これもいい。江藤さんに聞いた」
「五番ファースト、アグリー、背番号19。ハワイ出身、二十九歳、百八十五センチ、大洋、西鉄、大洋、阪急ときて、八年目。特徴なし。六番サード、森本、背番号9。二十六歳、百六十八センチ、五年目、小さいけど飛ばし屋」
「ヒゲでサングラスで長髪か。めずらしいね」
「森ヒゲと呼ばれてます。森繁のシャレですね。七番セカンド、山口、背番号1」
「まったく知らないな」
「高松商業、二十六歳、百七十センチ、七年目、特徴なし」
「しかし、アグリーと矢野以外はほとんど小柄だ。西本野球が見えてきたね」
「八番キャッチャー、岡村、背番号29。高松商業、二十八歳、百七十五センチ、八十キロ、九年目、低打率の一発屋」
「ずんぐりしてるね。見るからに一発屋だ」
「九番ピッチャー、米田、背番号18。鳥取境高校、二十八歳、百八十センチ、十四年目、人間機関車、十四年間一度も肩肘を壊したことがないらしいです。バッティングよし」
 重装備を終えた木俣が、
「太田、おまえ、スコアラーやったほうがいいんじゃないか」
「冗談言わないでくださいよ。将来ドラゴンズを背負って立つ大スラッガーですよ」
「ふざけろ!」
 寄ってたかって頭を叩かれる。ドラゴンズのメンバー発表が始まると同時に、九人が守備に散る。大歓声が沸く。一番センター中、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番サード太田、七番ショート島谷、八番ライト菱川、九番ピッチャー小川。
 主審手沢、塁審一塁斎田、二塁岡田、三塁露崎、線審レフト沖、ライト井筒。ほとんど見知った顔になった。あしたの近鉄戦も同じメンバーだろう。線審はそのままで、斎田か露崎が主審に回る。大好きな露崎さんのパフォーマンスを見たい。彼はパリーグ審判員なので、四月からあの〈ストラッキー〉を聞けなくなる。さみしい。
  どんな場所にいても、私は好きな人間を追いかけている。成長すれば強くなれると人は言う。しかし、人に依存する弱さを認めることこそ成長というものだと思っている。生きるというのは弱くあることだ。そうでなければ人が愛し合えるわけがない。
 小川のストレートがこのひと月でいちばん走っている。彼も私と同様、きょうが開幕戦のつもりでいる。私はきょうから自分のホームランばかりでなく、仲間たちのホームランも、勝利投手も記憶するつもりでいる。
 きょうの小川は好調だ。ビュンビュンいくだろう、と思ったとたん、上手投げでふざけたようにスローカーブを投げ、スタンドの笑いを誘っている。中と顔を見合わせて笑う。腿を交互に上げて足踏みし、芝の水気を測る。どんどん乾いていくようだ。レフトスタンドがやかましいので、振り返って帽子を上げる。ドッと歓声が上がる。露崎が三塁から振り向く。微笑しているようだが、はっきりとはわからない。
「プレイー!」
 大熊が打席に入って足の位置が定まると同時に、手沢のするどい声が上がった。初球サイドスローからズバリと胸もとに速球。空振り。すごい伸びだ。シャットアウトだな。二球目、蠅がとまるようなスローカーブ。これまたヘッドアップして空振り。スタンドの拍手。笑い。三球目、外角の速いスライダー。空振り。あれは打てない。三球三振。私はグローブを叩いた。
 二番阪本、初球真ん中速いカーブを強打、サードライナー。太田拝み捕り。小川が首をひねる。いい当たりをされたのが納得できないのだ。マウンド上で屈伸運動。
 三番長池、初球内角高目のカーブ、バックネットへファールチップ。叩き下ろす豪快なスイングだ。二球目、真ん中高目の速球。くそボール。空振り。あごをしっかり肩に乗せ直す。三球目、外角へゆるいスライダー。引っかけてショートゴロ。背番号3が一塁からUターンしていく。あっという間にチェンジ。ダッシュ。
 芝生に陽炎が揺らめいている。空が真っ青になった。綿のような雲がところどころに浮かんでいる。米田のオーバースローの投球練習を眺める。投球間隔が笑いを誘うほど短い。キャッチャーからの送球を受けるとすぐに振りかぶって投球動作に移る。スイスイという感じだ。それでも優に百四十キロは出ている。しかも重い。外角のシュートは手こずりそうだ。最終打席までシュートには手を出さないと決める。江藤が、
「やばいな、シュートは」
「はい、重いです。でも芯を食えばなんとか。コントロールはあまりよくないですね。好きな球がきたら打つ。それでいいでしょう」
「オッケー」
 ベンチ全員が、
「オッケー!」
 と応じる。中、ファールでさんざん粘ってフォアボール。
「ヨ!」
「オエ!」
「ホ!」
 きょうもコーチたちのかけ声が上がる。この声はだいたい初回に集中する。中に走る気配はない。チャンスの芽を摘まないためだ。高木初球を引っ張り、サードへ強烈な打球が飛ぶ。森ヒゲが高く弾く。サード強襲内野安打。ノーアウト一、二塁。一塁スタンド前段の客席から、でんでん太鼓、ラッパ、笛の音が降ってくる。球団旗が振られている。上半身にきちんとドラゴンズのユニフォームを着こんだ中年男二人、青年一人。今年初めて見た。青年は白手袋をはめている。目に清潔だ。
 江藤、外角のストレート、外角のカーブと、二球つづけてストライクを見逃す。ツーナッシングからシュート、ヘルメットのてっぺんをかすめるデッドボール。米田謝る気配なし。江藤はまったく怒らず、黙々と一塁へ走る。ノーアウト満塁。爆発的な喚声。金太郎コールが始まる。内外野のテレビカメラがいっせいに動く。私がバッターボックスに入るまでフラッシュが瞬きつづける。
 米田セットポジションから何の躊躇もなく初球を放ってくる。外角するどいカーブ。ストライク。打てば微妙にバットの先だった。一歩ピッチャーに寄る。二球目、これまた無造作に外角へ切れのいいシュート。ストライク。捕っては投げ。三球目、外角に同じシュート。チョンと水原監督の背中へライナーのファール。監督はひょいと身をかわし、パンパンと手を拍つ。いけという合図だ。
 もう一球外角へくると判断し、キャッチャーに気づかれない程度にクローズドに構える。四球目、外角低めにフォーク。ボール。ストレートを投げてこない。今度こそ外角低目へ速球だと確信し、勢いよく踏み出すために少しボックスの後方に下がる。五球目、外角低目へ渾身の速球がきた。踏みこみ、思い切り押しこむ。芯を食い、キン! と反撥する。すぐホームランだとわかり、大歓声の中で打球を見やる。左中間センター寄りにグングン上昇していく。走り出し、打球の行方を見定める。アグリーがポカンと見上げている。場外照明灯の柱に打ち当たった。グランドスラム。怒涛の喚声。中、高木、江藤が私に向かって拍手しながら次々とホームインしていく。三塁を回るところでスピードを緩め、水原監督と握手してからホームベースを走り抜ける。歓迎の腕の中に飛びこむ。ゼロ対四。宇野コーチが叫ぶ。
「つづけ、つづけェ! ヨォーオ!」
 またバヤリースを忘れて半田コーチが叫ぶ。
「ビッグイニング!」
 主人たちが顔をくしゃくしゃにして拍手している。江藤が固く私を抱き締める。
「ちかっぱ美しかホームランたい。ちかっぱ美しか」
 五番木俣。江藤と同じように外角低目のカーブを二球見逃す。ワンエンドワンから三球目、内角のシュート、バットを折ってレフト前へ運んだ。歓声でスタンドが揺れる。すぐに太田の打球がセンターに上がった。大熊がバックする、バックする、入ったか? グローブの先をかすめてフェンスに当たって右中間へ転がった。木俣三塁へ、太田は二塁に滑りこむ。江藤の怒声。
「十点取るばい!」
 阪急の大エースが少しそわそわして、投手板後方のロジンバッグを拾い上げ、しきりに掌でもてあそぶ。ノーアウト二塁、三塁。島谷初球をライト前へ痛打。木俣生還、長池バックホーム。鈍足太田、水原監督に止められて三塁ストップ。五者連続得点。外野スタンドが波のようにうねる。八番菱川、ストライク、ストライク、バックネットへファールチップ、三塁線ファール、すべてカーブだ。五球目内角シュート、読み切った。ジャストミート。白球が左中間を低いライナーで抜いていく。太田ホームイン、島谷三塁へ、菱川は二塁へ滑りこむ。


         九十九   

 西本監督が球審に声をかけながら早足でいく。ゼロ対六。まだノーアウト二塁、三塁。ピッチャー交代。コーチ兼任投手梶本の登場だ。百八十六センチの巨漢なのにそう見えない。ゆっくり投球練習にかかる。お辞儀をするボール。しかし、速い。笑っているような大きな唇が不気味だ。佐藤製菓のボッケをグロテスクにした顔。
「小川さん、レベルスイングすると、上から叩いちゃいますよ」
「パームもあるしな。ぜんぶ掬い上げるわ」
 小川は初球のカーブを難なく掬い上げて、レフトへ犠打を打ち上げた。島谷ホームイン。ゼロ対七。菱川を二塁に置いて、中が得意のレフト線二塁打。ゼロ対八。中を二塁に置いて、高木一、二塁間のゆるいヒット。中生還してゼロ対九。小川が、
「そろそろ打ち止めにしてよ。あとはさっさと片付けるからさ」
「あかん、あかん」
 と江藤が出ていき、初球の内角カーブを打ってレフトスタンドへツーランを放った。ゼロ対十一。私はパームボールを打ってファーストゴロ、木俣は外角のカーブを打ってセカンドライナーだった。二十五分もかけた攻撃だった。
 二回表。小川は矢野、アグリー、森本の三人を、センターフライ、三振、サードゴロに打ち取った。二回裏の攻撃前に水原監督が円陣を組んだ。
「ここからは、なるべく自分がいちばん難しいと思うボールに手を出してください。凡打になってもよろしい。工夫の気持ちが一瞬でも芽生えれば、苦手意識がなくなります」
 太田が外角シュートに詰まりながらライトオーバーのソロホームラン。ゼロ対十二。島谷三振。菱川内角シンカーを掬い上げて左中間の大きなフライ。小川ピッチャーゴロ。
 三回表。山口ピッチャーライナー、岡村私への深いフライ、梶本ショートゴロ。
 三回裏。中、外角低目のパームをバットの先で捉えてショートライナー、高木内角パームに詰まってショート内野安打。きょう二本目の内野安打。二人とも低目のパームボールを打ちにいっている。江藤、内角低目のクロスファイアーを掬い上げてレフト中段へツーラン、ゼロ対十四。私フォアボール、木俣、6―4―3のゲッツー。
 四回表。大熊ファーストフライ、阪本センター前ヒット、長池私の前へヒット、矢野セカンドフライ、アグリー三振。
 四回裏。太田レフトフライ、菱川左中間上段へソロ、ゼロ対十五。小川三振、中、セカンドライナー。
 五回表。森本ライト前ヒット、山口4―6―3のゲッツー、岡村センターフライ。小川責任回数終了。続投だろう。
 五回裏。高木右中間へ二塁打、江藤ライトへ大きなフライ、タッチアップで進塁した高木を三塁に置いて私がライト場外へツーラン、三十号到達。ゼロ対十七。木俣キャッチャーフライ、太田ファーストライナー。
 六回表。小川続投。梶本の代打早瀬ファーストゴロ、大熊三塁ファールフライ、阪本センターライナー。
 六回裏。梶本に代わって出てきた十二年選手の石井茂雄から島谷がバックスクリーンへソロ。かなりのスピードボールだった。中が、
「四本柱の一本だ。変化球が切れる。特にシンカーが落ちる。シゲボールと言われてる」
 四本柱というのは米田、梶本、足立、石井のことだろう。
 ゼロ対十八。菱川、そのシゲボールを打ってレフトライナー、小川レフトフライ、中の代打の江島が外角スライダーを叩いて右中間の三塁打、高木の代打の一枝が速球を叩きつけてセンター前ヒット、江島還ってゼロ対十九。江藤内角カーブをからだの回転で打ってレフトスタンド上段へツーラン、ゼロ対二十一。私内角低目のスライダーを打ってライトスタンド中段へソロ、オープン戦五度目のアベックホームラン。ゼロ対二十二。木俣レフトスタンド上段へ、二者連続ソロ、三者連続ホームランでゼロ対二十三。太田センターフライ。なかなか打ち止めにならない。
 七回表。長池私へのライナー、矢野私へのフライ、アグリーライトフライ。
 七回裏。島谷ショートゴロ、菱川サードゴロ、小川ショートゴロ。
 八回表。森本センター前ヒット、山口左中間の大飛球、ランニングキャッチした。岡村ショートゴロゲッツー。
 八回裏。石井を継投した水谷孝から、江島が外角低目の難コースのストレートを打ってソロホームラン、ゼロ対二十四。一枝の代打徳武ライトフライ、江藤の代打葛城サードゴロ、私の代打千原ライトフライ。全員が時おり混ぜる超スローボールにわざとらしく手を出して凡退し、全攻撃を終えた。
 九回表。石井の代打八田私へのフライ、大熊ショートライナー、阪本三振。
 敵の短い攻撃でリズムのとれた小川は、長池のレフト前ヒット、阪本のセンター前ヒット、森本のライト前とセンター前のヒット、単発四安打を打たれただけで完封した。ゼロ対二十四。だれがヒーローかもわからない圧勝だった。
 試合後、フラッシュに炙られながら、西本監督が中日ベンチにやってきて、
「サーカスを見とるようやった。これじゃシリーズで相まみえることになっても、うちにまず勝ち目はないやろう。が、半年のペナントレースでコツコツ力をつけて、恥ずかしくない戦いができるところまでもっていくつもりですわ。神無月くん、三十一本おめでとう」
「ありがとうございます」
「きみの記録は、前人も未踏、後人も未踏ですよ。人間やない。神ですな。神が竜を率いとる。神がいなくなるか竜がいなくなるかせんと、当分ドラゴンズは恐いもの知らずでしょうな。ところでみなさん、もしシリーズで対戦したときは、どうかきょうのように後半で力を抜かないでいただきたい。本来ならバスケットスコアになっていたことはチームの全員が承知しております」
 インタビューを受けている水原監督をチラリと見て、
「虚心に言えばやな、最多得点記録を作ってほしかったですな。昭和十五年の阪急対南海戦で、二対三十二という記録が残っております。そのくらい取れたはずなのに、水原さんが温情を出して、七回八回に力を抑えよった。小川くんのコンディションのことも考えたんやろ。いずれにせよ、うちも長池を中心に追いつけ追い越せの覚悟でがんばります。爾今(じこん)、よろしくお願いします」
 そう言って西本監督は帽子を取った。コーチ陣初めベンチの全員が帽子を取った。
 一人でインタビューを終えた水原監督は、最後に代打に出た三人をベンチ内に呼び、最終近鉄戦の先発を言い渡した。サード徳武、葛城ライト、千原センター。中と菱川と太田は控えに回ることになった。たぶん島谷は一枝の控えに回るだろう。
「金太郎さんと江藤くんと木俣くん以外は固定しない。二軍にも目配りする。自己管理をきびしくして、余分なライバルを排除する努力をするように。来年はどんな有力な新人が入団するかわからない。気を引き締めて精進しなさい」
「ウース!」
 監督、コーチ、チームメイトと回廊で別れた。別れぎわに水原監督が、
「すでに聞いているでしょうが、十日の木曜日に、小山オーナー、村迫くん、榊くん、私の四人で夕方五時に北村席にお伺いすることになった。気を使わないようにと、お家のかたがたには言っておいてください。じゃ、あした」
 監督、コーチらはもう一度監督控室に入ってミーティングをするようだった。
 駐車場に向かう道で群衆と報道陣に取り囲まれた。二人の背広姿が割って入り、私をクラウンの後部座席に押しこんだ。私は使用済みのバット一本と、グローブとバスタオルを詰めたダッフルを胸に抱えて節子の横にからだを縮めた。二人の男は、窓に貼りつくファンを押しのけ、クラウンの前方の人混みを分けて大通りまで導いた。通りに出ると、菅野に進めと掌で指示して、ふたたび人混みに姿を消した。ようやく車が帰路に着いた。主人が、
「毎度のこと松葉の人たちには頭が下がります。疲れるやろなあ。神無月さんも疲れるやろう。フアンに押しかけられるのは儀式みたいなもんや。がまんするしかない。三十一号おめでとうございます。やっぱり三十本超えましたな」
「西本監督にもおめでとうと言われました。思った以上に度量のある人でした」
 キクエが菅野に、
「さっきの人たち、だれですか?」
「松葉会の組員です」
 節子が、
「ヤッちゃんの仲間?」
「そう。明石キャンプのときからずっとガードにつきっ切り。ああいうときしか顔を出さないから目立たない。怖い人たちじゃないよ」
「北村席もいろいろな意味で守ってもらっとります。神無月さんのおかげです。ありがたいですよ」
 菅野が、
「ほんとは怖い人たちです。ただ、松葉会の若頭さんが、神無月さんをオトコと見こんで滅私奉公でやってることですから、私たちにはまったく怖い人たちではないんですよ。若頭さんが神無月さんはもちろん、神無月さんと親しい関係の人をすべて護ると決めたわけです。神無月さんにけっして迷惑をかけない形でね。その経緯を知ってますか」
 キクエは、
「はい、寺田康男さんのお見舞いですね。節子さんから少しばかり聞いてます。でもここまでとは知りませんでした。すごく感激しました」
 節子が、
「……じつは私、若頭さんにお会いしたことがあるんです」
 彼女は、四年前の三吉一家のボンの件を語った。みんな興味深げに耳を傾けた。あの夜の破天荒な経験が幻灯写真のように甦ってきた。ボンが投げ出された桜の根方や、ボンを相手の光夫さんの鮮やかな立ち回りが浮かんだ。主人が、
「その話、初耳や。神無月さんのぜんぶが見えてくるわ。たぶん和子も知らんことやろ。いつか教えてやらんとあかん」
 菅野が、
「若頭さんはいろいろな意味で、ぞっこん惚れこんだんですね。見舞いをつづけたことだけが理由じゃないですよ。十五歳の少年があらゆる状況で、人生を懸けて行動してるというのが驚きだったんです。ふつうは自分の小さな生活を守ります。大人でさえそうですよ。決定打は島流しですね。他人のために流されたんです。彼らは命懸けで神無月さんを護りつづけますよ」
「……ワシらもな」
 節子とキクエがうなずいた。私は、
「十五歳の憂鬱なんか、晴れてみれば嘘のようなものだ。いま考えると、何を大げさに悩んできたんだろうという気がする。憂鬱というのは、自分の生まれつきの心の狭さや怒りっぽさを和らげるん手段なんだ。あ、そうだ、水原監督とオーナーたちが十日にくるって念を押してました。気を使わないように家の人に言ってくれって」
 主人が、
「水原さんたちも、若頭と同じ気持ちですな。……神無月さん、あなたがどれほど苦しんできたか、掛け値のないところを知らない者はいないんですよ。あなたは硬くて大きな岩です。無理やり鑿(のみ)で削って、人並に小さく見せようとしてもあかんのです。自分は人に息を吹きこんでもらった風船みたいにふくらんだ人間だと思っとるでしょう。それならそれでええです。人間、一人で成長できんという面もありますからね。ただ、自分でわざと針を刺して、破裂させるようなことは言わんでください」
 北村席の門前に新聞記者やカメラマンが待ち構えていた。五台ほどの車が縦列をなして停車している。牧野公園の周囲にも何台か停まっている。報道と関係なさそうな人びとも寄り集まっている。額の奥に苛立ちが走る。車を門脇のガレージに入れて、恐るおそる降りる。記者たちが押し寄せ、フラッシュが光る。見物人に行く手を塞がれる。球場とは別の三人の男がタイミングよく群衆の背後から走り出てきて、
「道を空けて! どいた、どいた!」
「写真やインタビューは球場内にかぎってやりなさい!」
「神無月選手はあしたの試合のために休息しなくちゃいかん。はい、どいてどいて!」
 身分を感づかれないように、警備員めいたどことなく丁寧な言葉遣いをする。しかし行動は粗暴で、記者たちの肩をつかみ、引き倒すようにして道を作る。門の引き戸を開けて私たちを押し入れ、またすぐに門前に後ろ手して立った。門の内に北村一家が待っていた。直人がトモヨさんに手を引かれて不思議そうな顔で立っている。
「ただいま」
「お帰りなさい。たいへんね。一時間も前からこの騒ぎよ」
「中日球場でもワヤやった。あっちも松葉の人がきてくれたわ」
 主人は直人を抱き上げ、頬にキスをする。
「すみません、これからは、中日球場の帰りは電車を使います。一駅だから何てこともありません」
 菅野が、
「私たちの楽しみを奪わないでくださいよ。マスコミなんかどうってことないです。楽しいくらいだ」
「ほうだよ、神無月さん。ワシらは付き人や。インタビューは受けんでええし、松葉さんといっしょになって人混みを掻き分けるのも楽しみだがね」
 走り出てきたおトキさんがバットとダッフルを受け取り、下足箱にしまう。スパイクを脱ぎ、トモヨさんに渡す。
「少し内側が濡れてますね。干しておきましょう」
「雨だよ。芝生から滲みこんだんだ」
 濡れたストッキングも脱ぐ。菅野がスパイクのにおいを嗅いでいる。
「嘘のようににおいませんね」
 女将が呆れたふうに笑っている。おトキさんが、
「お嬢さんたちは六時まで残業だそうです」
「少し食材が余ってるということだね。客足落ち着いたの?」
「……きのうより食材をたくさん用意したんです。お客さんはきのうより多いそうです」
「そりゃたいへんだ。食材を一定にして、適当なところで店仕舞いするようにしないとね。さ、シャワーを浴びてくる」
 おトキさんが、
「ちゃんとお湯が入ってるので、ゆっくり浸かってください」
 その場でユニフォームを脱ぎ、パンツ一枚で風呂場へいく。


         百

 湯船に浸かりながら、あしたの近鉄戦のことを考える。水原監督に勝たせたいということ以外には何も浮かばない。近鉄の選手はおろか、伝説の人三原脩のこともほとんど知らない。水原監督たちから何度か聞いたが、記憶できない。こじんまりとした丸顔しか浮かんでこない。
 ジャージ姿で座敷に落ち着き、店の女たちも交えてみんなでコーヒーを飲む。一人の女が、たぶんきょう一日の思いを懸けた質問をする。
「みんなでテレビを観てました。打てばホームラン、打てばホームラン。……神無月さんは、あんなにホームランを打つのに、どうして、いつも悲しそうな顔をしてるんですか? ホームランを打って戻ってくるときなんか、特にそうです」
「悲しそうに見えるのは錯覚だよ。四六時中ぼんやりしてるせいだね。ホームランを打つまでの緊張が並大抵でないので、打ったあとぼんやりしてしまう」
 おトキさんが、
「緊張というより、もっと静かな、もの思わない顔ですよ。その顔のままベースを回ってくるんです。バッターボックスに立ってるときや、ベースを回るときの神無月さんの顔がかならず大写しになります」
 心の虚(うろ)を持っていない人間は存在しない。ひそかに観察された顔にはかならずそれがある。私の虚は少しずつ埋まりはじめている。いずれ喜怒哀楽の感情に結晶するだろう。女将が、
「おトキの言うとおりや。悲しいとかさびしいとかゆうより、何も考えとらん、ありのままの顔やね」
 厨房の騒音が耳に心地よい。私は主人に、
「三原監督は去年近鉄にきたんですよね」
「ほうや」
「何位でした?」
「四位やなかったかな、なあ菅ちゃん」
「はい、四位です。Bクラス。ピッチャーで入団した永淵という選手を、目利きの三原が見つけましてね。百六十八センチで六十五キロのチビ。三原さんは、この二十六歳の新人のバッティングセンスを見こんで、二刀流で使ったんですよ。外野で先発させて、ショートリリーフで投げさせ、また外野に戻すということをつづけたんですが、どうしてもバッティングのほうが冴えてるんで、外野に据えて三番を打たしたんです。二割後半、ホームランもけっこう打ちました。パリーグのお荷物と言われた近鉄が、それだけのことで万年最下位から四位になったんです。今年は怖いですよ。なんせ三原マジックですから」
 主人が、
「三原はいつも騒がれるなあ。去年もオールスター前まで、西本阪急と鶴岡南海に割って入って、大洋優勝の再現かなんて期待させたり、娘婿の中西太が監督しとる西鉄戦では親子対決が評判になったりしてな。マスコミの関心が近鉄に集まったおかげで、近鉄の観客動員数が二倍になったらしいがや。菅ちゃんの言うとおり、今年の近鉄は怖い。たくさんお客さんがいる前でプレーする気持ちよさを選手たちが知ってまったで、勝負に対する意欲がいままでとぜんぜんちがっとる」
「三原監督の采配の特徴はどういうものですか」
 菅野が、
「西鉄時代の流線型打線というやつです。このあいだも遠心力とか求心力の話をしましたけど、命名はいいかげんなものでしてね。まあ、めりはりのある強力打線ということでしょう。一番に一発もある巧打者高倉、二番に強打豊田、三番に最強打者中西、四番、五番に長距離打者の大下、関口を置いて、五人で得点するという作戦です。昭和三十年代の三原西鉄はそれができる打者が揃ってたということですね。ほとんど三割打者でした。結局流線型の意味はわかりません。近鉄は弱小でそうはいかないでしょう。その当時の関口がコーチをしてるはずです」
「いや、阪急でコーチをしてます。きょうケージの後ろで見ました。しかし、近鉄はその永淵という新人打者一人の活躍だけじゃ、万年最下位から四位にはなれなかったと思いますけど」
 主人が、
「そのとおりです。もともと鈴木啓示という三振奪取王の二十勝投手と、土井正博という強打者が二枚看板でおるんです。しかし野球は二人じゃ勝てませんからね。永淵が加わって、やっと四位に漕ぎつけたというところですか」
「そういえば社長、近鉄の去年のキャンプ地は明石でしたよ。そのキャンプで三原監督は永淵を見つけたんですよね」
「よっぽどするどい目でな。ピッチャーのバッティング練習なんて、何本もせんやろ。ふつうは注目せんな。よう見つけたわ」
 私は、
「〈やっと四位〉でないかもしれませんよ。三原監督にとって、ひさしぶりに戻ってきたパリーグがすっかり様変わりしてたのも、四位になれた理由と思わないといけない。西鉄や南海が急に弱くなるなんてだれも想像がつかなかったでしょう。パリーグが新興の阪急だけの天下になってしまったとすると、目標は阪急だけでいいことになりますから、四位なんて簡単になれるし、優勝も夢じゃない。今年は二位から六位まで僅差でひしめき合いますよ。ひょっとすると今年の近鉄は頭一つ抜けて、阪急と優勝争いをするかもしれない。あしたは骨ですね。心してかからないと」
 主人が、
「三原監督は今年、初優勝を誓ったといいますからな」
「因縁の対決とか巌流島とか、ここまで言われるのはなぜですか。水原監督に聞いただけでは、いまひとつ奥がわからないところがあって」
 菅野が自信ありげにうなずき、
「いろいろ学生時代から歴史もあるでしょうが、最大の原因は三原さんの水原さんに対する悪口ですよ。水原さんは巨人の監督時代、八度のリーグ優勝、四度のシリーズ制覇を果たしてます。三原さんはその輝かしい栄光を評して、俺が巨人のために蓄えた貯金を食いつぶしてるだけで自分では何もしていない、とほうぼうで言った」
「それが遺恨の巌流島?」
「おおもとです。東映を優勝させたときは褒めたみたいですけどね。三原さんには、監督というものは、でき上がったチームではなく、自分でゼロから作り上げたチームを優勝させて一人前という信念があるんですよ。実際彼は、西鉄や大洋のような弱小チームを日本一にしてきましたからね。二流選手の能力を百パーセント以上発揮させること、というのが口癖ですから」
 私は、
「水原監督よりスタンドプレーくさいな。一流選手の能力を百パーセントのまちがいじゃないかなあ。三原監督は水原監督と同様、二流選手を使わないと思いますよ。その永淵にしてももともと一流の素質があったわけですから。凡打もホームランも、一流選手のミスと成功の結果だと考えれば何の矛盾もありません。一流選手とは、技術を磨いてミスを少なくした人のことです。どんな分野でも一流と言われる人の潜在能力に大差はありません。ほんの少しの天賦にちがいがあるだけで、それも磨けば大差になりますが、磨かなければ一律です。そういう人たちのあいだの勝負は、ミスの多少で決まります。きょうの小川さんの好投しかり、長池さんのショートゴロしかり。成功とミスの例です。ミスの多いチームが負けた。それが磨いた能力の結果なんです。プロ野球は一流選手同志で闘ってるんですよ。三原監督の言う〈でき上がったチーム〉というのは、一流選手があまりミスをしないチーム、〈ゼロから作り上げたチーム〉というのは、一流選手がよくミスをするチームのことでしょう。ミス以前の二流選手はどうしたって一流になれません。つまり二流選手を叩き上げることなんかぜったいできないんですよ」
「一流選手も磨かなければミスが増える……ですか」
「はい。でもミスを繰り返して痛みを経験しなければいけないと思います。鍛錬の重要さを理解できますから。理解は楽しいですが、実践に移すことは難しい。でも実践しなくちゃいけない。ぼくはいまでも難しいボールにあえて手を出して、理解の実践を繰り返してます。なかなかうまくいきません。力差のせいで抑えられて打てないことが二割あるのは避けられないでしょう。打てるのに打ち損じることが四割。その四割をできるだけ少なくすれば、四割以上打てます。そのためのミスの経験です」
「ごはんですよォ! テーブルについてください」
 おトキさんの明るい声。賄いたちが賑やかにいききし、座敷のテレビが点く。玄関のほうから、素子や千佳子や睦子たちのはしゃぎ声が流れこんできた。百江が、
「お嬢さんたちが帰ってきましたよ」
 ソテツがドングリ目を剥いて、
「ただいまァ! すごい一日でした。八時間で二百人」
 イネが惣菜の皿を運びながら、
「二百人ぜんぶ、食事したわけでねべ」
 メイ子がうなずき、
「食事の人数はきのうと同じくらいでしたけど、飲み物はほとんど全員でした」
 カズちゃんが私を見つめ、
「わあ爽やかな顔。きょうの試合のせい?」
「ゼロ対二十四。ほとんどの選手がホームランを打った。阪急の西本監督がわざわざベンチにきて、サーカスを見てるみたいだったって言った。去年の日本一のチーム相手に、こんな試合、ほんとのことかなって思う」
「野球そのものがサーカスみたいなものよ」
「そうだね。サーカスにホントもウソもないね。あしたは山口たちのくる日だ。文江さんも睦子もくるだろうから賑やかになるぞ。あしたの夜は少し飲もうかな」
「飲みつぶれていいわよ。蒲団に運んで上げるから。徹夜してもいいけど、山口さんを早くおトキさんに渡してあげなくちゃいけないから」
 おトキさんが、
「いえ、私はじゅうぶん時間があります。量を過ごさないように、気にしないでうんと飲んでください」
 人は一人で生まれ、生きて、死んでいくことはわかっている。でも、愛情と友情によってだけ、一人ではないという幻想を抱くことができる。箸の音がいっせいに立ち昇る。テレビの前で主人の声が上がる。
「お、神無月さん、金山体育館で前夜祭やっとるよ!」
「前夜祭?」
「水原監督と三原監督が出てますよ。千佳ちゃん、ちょっとテレビの音を上げて」
 みんなテレビに注目した。横断幕に、二大監督歓迎前夜祭と書いてある。オープン戦初対決をあしたに控えたイベントのようだ。主人と菅野が箸を置いて、テレビの前に陣取った。素子と千佳子と睦子も節子とキクエを挟んでチョコンと居並ぶ。
 ―二人の名将がリーグを分けてBクラスの球団に移ったことで、当分のあいだは巌流島の対決の可能性は薄いと思われていたところへ、最終オープン戦の対戦がひと月前に決まって驚き喜ぶ人たちがいた。
 と解説が入る。オープン戦はセ・パすべてのチームのトーナメントを組めるわけではないから、こういう組み合わせはまさに因縁の対決だろうと言う。となるとこの前夜祭は、手ぐすね引いて催されたイベントということになる。主催高松商業高校野球部OBとなっている。私は主人に、
「水原監督は高松商業、三原監督は高松中学。二人とも香川県なんですね。巨人には選手としていつごろいたんですか」
「二人とも昭和十年代の半ばまでです。水原さんはピッチャーと内野手、三原さんは内野手。同じ時期に活躍しました。水原監督の投手成績は八勝二敗、バッターとしてもホームラン十二本、二割五分前後の打率を残してます。三原監督は、打率は二割そこそこ、ホームランは一本も打ってません」
「選手としての力量の差は歴然としてますね」
「シベリアから戻ってきた水原さんを、三原さんが使いたくなかった理由もなんだかわかりますな。三原監督が言うには、水原さんの四十歳という高齢を考慮したからだということですけど、どうですかね。バッターとしてはじゅうぶん活躍できる年齢ですからね。その姑息さがアダになって水原派に巨人を追われた。それで水原憎しというわけです」
「三原監督は、器に対する認識や、才能に対する尊敬心のあまりない人のようですね。しかし、ここまで奇跡を起こすということは、そういう傲岸な態度がいいように誤解されて、選手たちの励みになったのかな。本当は自分たちを認めているやさしい人だ、というふうにね。そうして、どんどんクビを切られる。クビ切りに対する恐怖からがんばる……。高松中学OBの姿はないようですが」
「水原さんに関わる激励会はかならず高商OBが催します。水原さんに対する高商クラブの影響力は絶大なんですよ。東映の監督を引き受けるときも、水原さんはクラブの主要メンバーの了解を求めてます。高松中学が出てくるのは形だけです。高商主導がシャクなので、高中のOBは出てきません」


         百一

 イベントもほとんどの演目が終了し、両監督の出身校の校歌が立派な楽団の演奏で流れた。水原三原が右と左の袖に分かれて腰を下ろしている。都はるみや北島三郎の顔も見えるところからすると、かなり盛大な会合だったようだ。クラブの会長のような男が司会として壇上に立った。
「三原氏も水原氏も、讃岐が生んだ最高の野球人です。それが犬猿の仲だとか宿敵だとかジャーナリズムの手で書き立てられるのは、あまり感じのいいものではありません。グランドでは宿敵でもけっこうですが、グランド外では同郷の人間です。反目し合っているという紋切りの考え方は、ふるさとの評判にとっても具合が悪い。ひとつ、お二人、この場で握手なさって、ともに球界発展のために尽力している姿をファンのかたたちの前に披露し、テレビを観ている全国のみなさんにも安心していただきたいと思いますが、いかがでしょうか」
 三原監督は二つ返事で引き受けた。水原監督は逡巡していた。三原の人格を好まない水原監督の潔癖な気持ちはよくわかった。ステージ中央のマイクを挟んで二人は立ち上がったものの、ダダダダとドラマチックなドラムの鳴る中で水原監督は顔を逸らして立ち尽くしている。司会者が意を決したようにマイクに向かって声を張った。
「郷土が誇る大監督、三原さん、水原さん、どうかお願いします。会場いっぱいのみなさまの前で、しっかりと握手していただきたい!」
 何の茶番だろう。指導者は孤独に決まっているのだ。引きずり出せただけでよしとしなければならない。水原監督が面倒くさそうに三原監督に向き直った。すると今度は三原監督が困惑の表情を示した。
「さあ、どうぞ、どうぞ」
 再度司会者の握手を促す声が出たのを潮に、二人はおずおずと手を差し出し、ぎこちない握手をした。これまでの二人の関係からは信じられない進展に見えた。水原監督は半ばヤケ気味に、結び合った二つの手を高く振り上げた。ステージの裾で決定的瞬間を捉えるフラッシュがいくつも光った。万雷の拍手が上がった。報道陣の一人が、
「あしたの先発は?」
 と二人に訊いた。水原監督は、
「浜野を予定してます」
 と答え、三原監督は、
「鈴木です。ダイナマイト打線にぶつけてみたい」
 と答えた。
「ペナントレース優勝の可能性は?」
 水原監督は、
「もちろんあります。ただし、優勝を狙うためだけのセコついた野球はしません。楽しい野球を期待しているファンに申しわけないですからね。選手には伸びのびと好きにやらせます。そのせいで、一年、二年、優勝が遅れたとしても仕方ありません」
 水原監督は含みのある言い方をした。会場が沸いた。それを受けて三原監督は、
「巨人と戦わなければならない中日さんよりは、うちの優勝する可能性は高い。私もセコい野球はまっぴらだが、選手の能力によってセコい作戦をとることもある。西本野球は川上野球とそっくりなので、臨機応変にいかなくちゃいけない。一年二年遅れるなどと悠長なことは言ってられない。かならず優勝するという心構えで全試合に対処しなければ、目的の半分も達せられない。去年あれだけやれたのだから今年もやれる、という自信はうちの連中についたと思うので、それを拠りどころにします」
 水原監督は、
「過信はいけませんよ。自信がチーム力を伸ばすんじゃなく、個々の鍛錬がチームの凝集力を伸ばすんです。スポーツと精神は関係ないとは言わないが、精神はもっと別のところに使わなくちゃ」
「そんなことはわかってます。うちは苦しい試合の連続の中を一歩一歩勝っていったんです。ラクに勝ったんじゃないということをみんな知っているし、自己過信になることはあり得ません。精神面から崩れることはあり得ないんですよ」
 噛み合わない舌戦になっている。最初から次元がちがっているからだ。しかし会場は拍手喝采だ。私は、
「二人は精神構造がまるでちがう。どちらも逆境の中を生き抜いた人ですが、逆境というのはまるで竜巻のようですね。剥がせるものはすべて剥ぎ取り、人の目にほんとうの姿を曝す。水原監督の顔には、野球を含めた人生の深い闇がにおうのに、三原監督には太陽の下の徒競争の一等賞しかない。闇を見つめる信念がないと、こういう、成功の明るい未来ばかり待ち望む薄っぺらい顔になる」
 千佳子が、
「闇って?」
「人間の深くて複雑な経験からもたらされる、深くて複雑な感情。闇を抱えた人間は、遊びの勝敗と魂の解放は別物だって見抜く力があるし、その闇の暖かさで人びとをやさしく包みこむ」
 節子が、
「闇という表現、よくわかるわ」
 キクエが、
「私もわかる。明るい成功主義者って、八方美人で、何も包みこまない感じ」
         †
 則武のカズちゃんの寝室で目を覚ます。朝方までカズちゃんが隣に寝ていたが、いまはシーツの皺が残っているだけだ。
 三月三十一日月曜日。六時半起床。五・五度。カーテンを引き、窓を開ける。曇り空。空気が乾燥している。部屋の白漆喰の壁がまぶしい。
 裸で渡り廊下へ出ると、キッチンで調理の物音がする。もう一度、渡り廊下の屋根庇から、青みがかった曇り空を見上げる。心の底に慢性の悲しみがある。生まれたときから悲しい人間だったと気づくことに驚きがない。悲しみに気づくのが新鮮でなくなってきている。それでも悲しみは確実にある。
 きょうも愛する人びとのために、そして自分のために野球をする。うれしい。心に喜びを見つけさえすれば、枯れ草になりかかっている悲しみを喜びの炎が焼き尽くしてくれる。たしかにほんの一時期、水っぽい憂鬱の沼の中で、遠い幸せな日々を思い出したこともあったけれども、あれは自分の人生の起伏を削って平坦にする作業を楽しんでみただけのことだ。私は生まれたときからただぼんやりと悲しい人間だった。その悲しみが、喜びを処方された時間の中で薄められつつある。
 カズちゃんを失えば、私は生まれて初めて、絶望という結晶した悲しみを経験するだろう。絶望の中でカズちゃんとすごした幸せなころを思い出すのは、私がするなかで最も悲しい経験にちがいない。その悲しみを時間が解決することはないだろう。
 庭へ出て素振りを百八十本。手首を痛めないように右打者の格好でゆるく二十本。慣れないスイングが関節に響きそうなのでやめる。ジム部屋で胸筋鍛練二十分。
 排便。肛門が痛むほどの吐瀉便。シャワーを浴びながら歯を磨く。新しい下着をつけ、キッチンへ出ていく。
「おはよう、天才さん」
「お言葉ありがたく」
「キョウちゃん、あなたは野球の世界を変えてるわ、着実にね」
「ありがとう。中日が優勝したら野球をやめようと思ってた気持ちが、コロッと変わってしまったのはいいことかな」
「いいことよ。気まぐれじゃないもの」
「うん、たぶん、いいことだね。カズちゃんたちに愛されながら球場にいることが大正解だって思えるわけだからね」
「うれしい。そうでないと、私、気が滅入っちゃう」
「どうして?」
「キョウちゃんの不正解の中で暮らしたくないから」
 メイ子が微笑しながらコーヒーを出す。
「新聞どうぞ」
 二部の新聞をテーブルに置く。
「ありがとう。きょうでアイリスのサービス期間は終わりだね」
「そう。きょうは十時から三時で終わり」
「山口さんたちがくる日です。早くお会いしたいです」
 まず朝日新聞から。

   
女性が焼身自殺
     パリ会談場の近く

  【パリ三十日発=AFP】
 三十日朝、拡大パリ会談の会場から二百メートルほど離れた路上で、三十歳の女性がシンナーをかぶって焼身自殺した。フランシーヌ・ルコントさんというこの女性は、ベトナム戦争やナイジェリア内戦に心をいため、自殺したときもビアフラの飢餓の切抜きを握り締めていた。ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙を書いたこともあるといわれるが、家族の話では精神科にかかっていたこともあるという。

「カズちゃん、これ読んだ?」
「ええ。国際会議場でベトナム戦争を終わらせるための会議を開いてたのよ。アメリカ、
 北ベトナム、南ベトナムなんかが参加してね。一月には、チェコのヤン・パラフがソ連の侵攻に抗議して焼身自殺してるわ。二十一歳よ」
「プラハの春だね」
「そう。一人の人間の焼身自殺で何が変わるわけでもないんだけど、いまどきの反戦ムードや、巨大権力に対する個人の生き方を考えさせるわね」
「美しく負けようということだろう」
「そう思う」
「玉砕が得意な国民て言われてるくせに、日本人にはできないだろうね」
「いいえ、ここ何年かで二人やってるわ。おととし、アメリカの北爆を支持した佐藤栄作が訪米するのに抗議して、由比忠之進という愛知県の平和運動に貢献した七十三歳の老人が、首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺したし、今年の建国記念日には、江藤新平の曾孫(ひまご)で二十四歳の江藤小(こ)三郎が、首相官邸前で焼身自殺してる」
「理由は?」
「天皇のもとに無私の国民が集うこと。そのうえで世界の万民を救うこと。遺書で、日本人のことを自然科学に侵されて地獄道に堕ちた民族って言ってる。安田講堂のあと、一部の学生たちは過激化したみたいだけど、ほとんどがシラケにはいっちゃってたけど、でもこれをきっかけに、また日本でも反戦運動が激しくなるんじゃないの」
 ものすごい記憶と思索力に感嘆するしかない。

 次に中日スポーツ。巌流島前夜祭の記事が一面を飾っている。なぜか三原監督のコメントだけが載っている。

 ものごとが進歩している時代だから、野球ももちろん、科学的な基盤の上に立って練習を積んでいくことは必要だろう。だが、これが絶対的なものだという、いわゆる野球理論があるとは思わない。ノーアウトのときの一塁走者は盗塁してはいけないというのが常識だが、チャンスがあるなら盗塁してもかまわないだろう。当然バントすべき一打をホームランに変えることも可能なのだから、良い悪いはそのときどきの判断によって決められるべきだ。これは自由にやらせていいというのと意味がちがう。選手の起用に関しても、その選手自体の能力をよく見極めて、その能力の範囲内において最大限の活躍を期待し、予想以上の結果を出した場合は幸運として認識すべきである。八の能力しか持たない選手に十の能力を求めるようなアドバイスをしても、伸びのびさせるどころかいたずらに選手を苛立たせるだけで意味のないことだ。

 表現がどうにも曖昧で、せっかくの理屈に脈絡がない。〈二流選手の能力を百パーセント以上発揮させること〉がモットーではなかったのか。それを意味のないことだと紙面を借りて訂正するつもりだろうか。水原監督の〈鍛錬〉と〈伸びのび〉を揶揄しているつもりにちがいないが、的が外れている。何よりも野球をする喜びが語られていない。西鉄や大洋のような弱いチームをいきなり優勝に導いたという事実の重さの前では、曖昧も支離滅裂も敬して黙さざるを得ないのだろう。彼のモットーはおそらく忍耐と成功だ。人はたしかに忍耐で成功することはあるけれども、解放で成功することだってある。
「人生は短い。野球をしながら楽しもう」
 水原監督はそう言っただけなのに、彼には伝わらなかった。水原監督はインタビューをハナから拒んで、さっさと引き揚げたのだろう。おしゃれでダンディな水原監督。そこから彼の深い精神性を嗅ぎ取る人は少ない。
 ―水原監督、生きているかぎり、ぼくはあなたに尽くします。
 私は新聞から目を挙げて二人に言った。
「ノスタルジータイプと、現実タイプだ。ノスタルジータイプは命を楽しませることを大事にするけれども、現実タイプは命を永らえさせることを大事にする。二人は犬猿の仲じゃなくて、別世界の人間なんだ。……ぼくたちのいちばんの絆は、なつかしさという温かい闇の中に暮らしてることだ。同じ温かい空気を吸い、おたがいの未来を心配し合う。そして、ぜったい死を恐れない」
 二人が私の両頬にキスをする。どんぶりめし、生玉子、おろし納豆、アジの開き、白菜の浅漬け、海苔、ワカメと豆腐の味噌汁。ごちそうさま。


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