百五

 試合開始五分前、バックネット前で水原監督と三原監督が、ベンチ入りする出場メンバー表を交換する。ネット裏最前列に五、六人フロント陣の姿がある。一塁スタンド上方に二軍選手たちが私服で居並んでいる。野球選手であることはそのガタイからわかる。
 トンボが入る。ドラゴンズのスタメン発表の声を聞きながら、全員守備に散る。中とキャッチボール。浜野がマウンドに登り、投球練習を始める。投球練習のときは、ふんぞり返りが目立たない。その分、コントロールのいいボールが木俣のミットに収まる。七分の力で投げている。それでも百三十五キロは出ている。ミットがいい音を立てる。一番センター中、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番ライト菱川、七番サード太田、八番ショート島谷。たぶん、理想に近いメンバーだ。
 正二時、試合開始。露崎のプレイボールのするどい声が青空の下に響きわたる。三万五千人の大観衆が期待に燃える拍手をする。小さい三原監督が三塁ベンチ脇に立った。三塁側内外野に近鉄の応援団はいない。たっぷり人を湛えているが静かなスタンドだ。
 安井が右打席に入る。一人ひとりの簡単な情報は、スターティングメンバー発表のときに太田から聞いている。去年の盗塁王、低打率、犠打が多い。このふた月、いろいろなチームと対戦して、プロと名乗って恥ずかしくない選手はほんの一握りであることを知った。それぞれ草野球にでも混じれば突出した存在なのだろうが、プロ野球のグランドではスジコの一粒にすぎない。それでもレギュラーなのだから、たしかに二軍というのはスカウトの眼鏡ちがいで選ばれた人たちの集まりなのだ。
 初球真ん中高目の速球。絶好球。打ち損じ、私へ高いフライが飛んでくる。難なく処理して、島谷へゆるいボールを返す。
 二番山田、俊足、低打率、長打力あり。初球これまた真ん中高目の絶好球。ジャストミート。センターへ伸びていく。中ジャンプ。
「抜かれた!」
 菱川が右中間に転がるボールを処理し、強肩で二塁へ返球。セーフ。クロスプレイにスタンドが沸く。胸が躍る。三番永淵。送りバント。
 ―え? 三番打者が初球をバント?
 ランナー三塁へ。ツーアウト。近鉄ベンチの連中が拍手している。なぜ三番にバントをさせるのか。敵の大量点が予想されるのに、一点を取りにいってどうするつもりだ。四番土井、頭上に掲げたバットをクルクル。意味のない動作だ。初球、しゃもじ打法で三塁側スタンドの最奥へ大ファール。どいつもこいつも早打ちだ。浜野のボールを研究しようとしない。二球目、外角カーブ、見逃し。
「ストラッキー!」
 オーとスタンドがざわめく。きょう初めての露崎の絶叫コールだ。三球目、外角低目のストレート、しゃもじで強引に引っぱって三遊間を抜く。私の前へ強い打球が転がってきた。腰を落として捕球し、二塁へあわてず低い返球をする。山田ホームイン。一対ゼロ。近鉄ベンチが鬼の首を取ったように騒いでいる。バントしたことが正解だとでも思っているのだろうか。それとも先取点は効果が大きいという先入観か。持ち分というものがある。三番はきちんと打って、ダプルプレーでも喰らったほうが観客は納得できる。チームにとっても、たとえダブルプレーでも積極的な攻撃の姿勢がそれ以降の士気に影響する。一点取ったのに三塁側スタンドが静かだ。たしかに拍手のしようがない。
 浜野の顔が紅潮する。エンジンがかかった。首と肩を回している。たぶん近鉄の得点はこの一点で終わりだ。左打席に小川が入る。中肉中背。からだを屈め、バットを一握り短く持つ。太田の話だとホームランバッターだそうだ。初球内角高目速球、空振り、ホームランバッターの振りではない。二球目、内角低目カーブ、ストライク、三球目内角胸もと速球、見逃し。三球三振。
「ストラッキー!」
 露崎が跳び上がって正拳突きをする。派手で愉快なパフォーマンス。ダッシュ。中に声をかける。
「いきますよ!」
「おお、いくぞ!」
 きょうの試合も中日の乱獲で終わりそうだ。
 先頭打者の中がベンチ前で片膝突き、鈴木啓示の投球練習を見つめる。高木もネクストバッターズサークルから見つめている。江藤が、
「速かなあ! あれでフォーク落とされたらおしまいやぞ」
「中盤までフォークはないはずです。序盤から疲労したらたいへんですから。ストレートとカーブだけ。ぜんぶストレートだと思って振ります」
 美しいフォーム。しかも速い。力み返った投げ方ではないので、ストレートに伸びがある。なぜかコントロールは悪い。スムーズに見えるフォームのどこかに力が入っているのだろう。水原監督が、
「理屈ばかりのヘナちょこチームをかわいがってあげなさい。きのうと同じように、一人長打を打ったら、後続の打者は難しいコースに手を出すんですよ。それで長打がつづくならそれでよし、凡打でもそれでよし。バッティング技術を磨くと同時に、ゲームを早く終わらせることが眼目です」
 と言って、悠々と三塁コーチャーズボックスへ向かった。長谷川コーチが一塁コーチャーズボックスへ。
「プレイ!」
 中がバッターボックスで低く構える。
「さ、利ちゃん!」
「いこ、いこ!」
「ヨ、ホー、ホェ!」
 初球、あごのあたりの速球。ひっくり返ってよけた。ヘルメットが飛ぶ。中はベンチを見て笑いながら尻の土をはたいた。鈴木はほんとうにすまなそうに帽子を取った。中は手のひらを振って応える。これは冗談ではなく私もヘルメットが必要だ。外角へ低いカーブを二球つづけて、スリーボール。一、二の、三で投げてこない。二と三のあいだに微妙な間がある。
 ―なるほど、あのタイミングでバッターを翻弄するわけか。
 水原監督がバットを握る格好でこぶしを打ち合わせる。ノースリーから打てという意味にちがいない。中はうなずくともなくうなずき、高めの速球を二球連続でバックネットへファールした。江藤に、
「これですよ。わくわくする」
「おお、これこれ。水原さんはオトコたい」
 六球目、内角ぎりぎりに低目のストレートがきた。中、見切って、ボール。フォアボール。
「このフォアボールは大きかよ」
 ゆっくりと一塁へ走る中の背中を見送りながら、高木がバッターボックスに入る。江藤がバッターズサークルに向かう。高木は背中を丸め、バットを腰のあたりに低く引く。無理のない美しい構え。まさにプロ野球選手という感じがする。初球、外角低目の直球を見送り、ワンボール。二球目、内角カーブを空振り、ワンエンドワン。ストレートも変化球も速い。中日ベンチが固唾を呑む。高木は次の真ん中のストライクをわざと見逃した。球速とミートのタイミングを計ったのだ。私も見切った。一、二、の~、三で強烈な振り下ろしだ。ツーワンからの四球目、積極的に内角高目のストレートを力で叩きにいく。フラフラと左中間の浅い位置にフライが上がった。ポテンヒットになるとすぐわかった。中、快足を飛ばして三塁へ華麗な滑りこみ。ノーアウト一塁、三塁。半田コーチの、
「ビッグイニング!」
 江藤がめずらしくブンブン素振りをしてバッターボックスに入る。私はベンチで球筋の観察。
「ヨ、ホ、ヨー!」
「さあ、慎ちゃん!」
「いけ、いけ!」
 江藤は初球からいく構えだ。太田コーチが呟く。
「いっちゃいそうだね」
「いきますね」
 入ってくるカーブを打つと踏んだ。初球、ものすごいスピードボールが膝もとにきた。ヘッドアップして空振り。すぐに故意の空振りだとわかった。内角を待ち構えるかのようにオープンスタンスに変える。二球目、外角へ遠くカーブを外した。それも江藤はオープンスタンスのまま空振りした。江藤の意図がわかった。何でもかんでも振りにくるやつだと鈴木に思わせることだ。そうすれば次にかならず、小細工なしで、いちばん自信のあるボールを投げてくる。高目に伸びる速球。それで空振りを取ってボールの威力を確認したいはずだ。江藤は鈴木がそうするだろうと思っている。彼は並行スタンスに戻した。いつもより五センチほど高くグリップを構える。叩きつけるつもりだ。一塁ベンチは何かを予感して静まり返った。水原監督が腰に両手を当てて江藤に注目している。
 三球目、力まかせの速球がきた。コントロールが悪いので高低やコースはわからない。顔のあたり以外はぜんぶ振るだろう。真ん中低目だ。江藤は最短距離で左グリップをボールに向かって引き下ろし、両手首を絞って振り抜いた。少し詰まったが、芯を食った打球が左翼ポールに向かってラインドライブしていく。
「よっしゃ、よっしゃ、よっしゃー!」
 田宮コーチが叫ぶ。
「いったー!」
 私はバットを握ってベンチから飛び出した。打球を見つめる。白球はポールの裾を巻いて内外野の仕切りの隘路に飛びこんだ。大歓声と拍手の中、江藤が肩に首を埋めてのしのしとダイヤモンドを回る。球場じゅうで大旗や小旗が振られる。水原監督に尻を叩かれながら、中、ホームイン、私とタッチ、高木ホームイン、私と中とタッチ、江藤、バンザイをしてホームイン、私と中と高木とタッチ。あとは仲間たちに揉みくちゃにされる。浜野が肩を冷やさないようにブルペンへ走った。一対三。
「バッターラップ!」
 露崎に促されてバッターボックスに立つ。怒涛のような喚声。フラッシュの嵐。ヘルメットを忘れた。ボールボーイに手振りで求めると、走って持ってきた。しっかりかぶる。
「フラッシュをお控えください、フラッシュをご遠慮くださいませ」
 もう山口は北村席に着いて、テレビを観ているかもしれない。
「神無月ィ!」
「金太郎さーん!」
「キンタロー!」
「さ、金太郎さん、いけ!」
 バッターボックスに立つ。手に息を吹きこむ。ホームランを打つこと。私を見守る人びとのために。
 初球、外角低目のカーブを打って三塁線へ強いファール。速い。このとき初めて、鈴木は振りかぶらずに、胸にグローブをセットするだけで投げるピッチャーだと気づいた。頭上に腕を振り上げてワインドアップしない。顔のあたりへセットポジションのように構えたグローブを振り下ろし、その勢いで投げ下ろす。フォームがおとなしく見えるのはそのせいだったのだ。静かなフォームのうえにタメが効いているのでボールが速く見える。二球目、胸もとへ速球がきた。簡単なボールだ。長打を放った打者の次打者は難しいコースを打てという水原監督の言いつけに背く―一瞬そう思ったが、本能的に手を出してしまった。まともに当たった。
「すみませーん!」
 と叫びながら、全力で走り出す。あっという間に低い打球がライトスタンド中段に突き刺さった。長谷川一塁コーチとタッチ。
「すみません!」
 叫びつづけながらベースを蹴る。近鉄の内野手たちがキョトンとしている。喚声に喚声が重なる。三塁を回って水原監督にヘルメットを取る。
「すみません! 簡単なボールを打ってしまいました」
「いいんだ! ホームランはいいんだ!」
 ポーンと尻を叩いた。
「ホームイン!」
 露崎がホームベースを指差す。揉みくちゃにされる。ヘルメットをパンパン叩かれる。江藤の力が一番強い。引きずられるようにベンチへ。きょうはきちんと半田コーチのバヤリース。半分飲んで、菱川に渡す。菱川はすぐに飲み干す。一対四。つづく木俣、サードライナー。菱川レフト前ヒット。太田一、二塁間ヒット。島谷左中間へ大アーチ。もう止まらない。水原監督は島谷の尻も叩かず、ニヤニヤしながらお辞儀した。浜野セカンドゴロ。中、ショートライナー。一対七。これでは浜野の肩が冷えてしまう。ゲームも早く終わらない。
 二回の表、阿南センター前ヒット。浜野が赤くなる。児玉三振、浜野がこぶしを引いて吠える。鈴木の代打大男の松原良明(よしあき)三振。浜野がまた吠える。鎌田サードゴロ。浜野、走ってブルペンへ。
 二回の裏、鈴木に代わって、なんとあのバッキーが出てきた。百九十一センチ、九十一キロの巨人。村山とともに阪神の二枚看板だった男だ。昭和三十九年には外国人選手初の沢村賞を獲っている。去年、危険球まがいのデッドボールで長嶋の指を砕き、三冠王の夢を奪った。これも去年、王への危険球騒ぎで、荒川コーチを殴って親指を骨折した。傷が癒え、復活を期しての近鉄移籍だった。背番号4はそのままだ。クネクネした投げ方が法政の江本とそっくりだ。
 高木、七球粘ってセンターフライ。おかげで投球内容がかなりわかった。百三十キロそこそこのストレートと、よく切れるスライダー、ときどきナックルを落としてくる。できればスライダーとナックルを打とうと決めた。
 江藤真ん中低目のカーブを打ってレフト前ヒット、私はスライダーを素直に引っぱってライト線の二塁打、ワンアウト二塁、三塁から、木俣左中間を深く破るスタンディングダブル、二者生還。菱川右中間二塁打、木俣生還。太田フォアボール、島谷サードゴロゲッツー。一対十。


         百六

 三回表、安井詰まったサードゴロ、バウンドが変わり太田めずらしくハンブル。一塁間に合わず。浜野赤くなる。山田五球で三振、永淵三球三振、土井レフトライナー。浜野がうるさいくらい吠える。どうにかならないものか。野球を上品にやれというのは身勝手な要求だけれど、度を超えて品がない。一人でドラゴンズの穏やかなイメージを傷つけている。
 三回裏、浜野ファーストゴロ、すぐブルペンへ。欲か熱意かわからないが、これほどまじめな彼の姿を初めて見た。中ピッチャーライナー、高木センターフライ。初めての三者凡退。
 四回表、小川ライト前ヒット、阿南三振、児玉キャッチャーフライ、バッキー三振。バットを叩きつけて浜野のように吠える。何を残念がっているのか見当がつかない。
 四回裏、高木ショート内野安打、盗塁。高木の内野安打をこれで三本見た。すべて足の速さがなせる技だ。ホーバークラフトの中が内野安打で塁に出るのは、意図的にセーフティバントをするときだけだ。ペナントレースに入ったら頻繁に見ることができるだろう。江藤センター奥へフライ、高木三塁へ。私、ライトフライ、高木タッチアップで生還。木俣レフト前ヒット。菱川レフトへツーランホームラン、太田レフト線二塁打、初球に三盗アウト。一対十三。
 五回表、鎌田セカンドゴロ、安井レフト線二塁打、山田一、二塁間のヒット、安井俊足を飛ばしてホームイン。二対十三。永淵三振。浜野が吠えなくなった。投球の工夫に頭が忙しく回りだしたのだ。木俣がタイムを取ってマウンドへいき、何やら打ち合わせ。土井センターへ大飛球。浜野ブルペンへ。ベンチで木俣に訊く。
「浜野さん、どうしたんですか」
「永淵を三振に取った球が、ほとんど真横にスライドしたんだけど、握りが思い出せないって言うんだ。俺はカーブを要求したんだけどさ」
 中が、
「偶然スライダーの握りをしちゃったんじゃないの」
「俺もそう思うんだ。次に投げた球はふつうのカーブで、危うく土井にセンターへホームランを打たれるところだった」
 五回裏、島谷ショートゴロ、浜野サードフライ、中ライト前ヒット、高木三振。点差が大きくついてほぼ勝敗は決しているけれども、このまま打線が萎んだらスタンドが退屈してしまう。もう二、三発花火を打ち上げないと締まらない。
 六回表、小川ライト前ボテボテのヒット。代走飯田幸夫。阿南右中間を抜く三塁打。飯田生還して三対十三。三塁側スタンドが賑やかになってきた。ベンチ上方のあちこちで『いてまえ猛牛打線』という横幕が上下している。
 児玉セカンドフライ。バッキーの代打相川ライト犠牲フライ。阿南生還して四対十三。安井セカンドゴロ。
 六回裏、バッキーに代わって、佐々木宏一郎という背高のピッチャーが出てきた。菱川より大きい。アンダースロー。武器はシュートとスライダー。特にシュートが切れる。ボーッと温厚な感じで、打ち崩しやすそうだが、一筋縄でいかない雰囲気もある。江藤、難しいシュートを叩いて痛烈なレフト前ワンバウンドのヒット。四度目の打席が巡ってきた。かしましいシャッターの音。スタンドの歓声が爆発する。これほどホームランを見たい人たちの前でしっかりホームランを打って見せるためには、ミートの技能があるだけではどうにもならない。ミートに頼りすぎず、空振りを恐れず虚心に強打すること。肝心なところで失敗するのは、身に備わった技能に過剰な自信を持つからだ。
 初球、浮き上がるカーブ。九点差をあきらめていない力のこもった投球だ。ただ杉浦ほど曲がらない。見逃す。ボール。次はスライダーでもシュートでもない。直球でボールの威力を試そうとするはずだ。試したいなら、バッターが手を出してくる真ん中か内角の高目にくる。高低に関わらず叩こう。ピッチャー寄りに前に出る。ナチュラルに変化しないうちに打ちたい。
 佐々木は大きく振りかぶり、上半身を斜めに倒すと右腕を高く引き絞った。まちがいなく強いボールがくる。腕が地面と並行に投げ出される。スピードの乗ったストレートが少し外へ流れようとする。踏みこむ。叩く。心持ちバットの先だが芯を食った。ワッと歓声が上がる。飛距離の少ないホームランになる。低い弾道でセンターへ一直線に伸びていく打球を見つめながら走り出す。一塁ベースの長谷川コーチが、
「よし、いった、ゆっくりでいいよ」
 ボールはバックスクリーンの上端をこすって姿を消した。速度を落とさず長谷川コーチとタッチ。コーチの言葉に逆らっておのずと全速力で走る。江藤があわててスピードを上げる。場内に爆笑が湧き上がる。水原監督が抱きついてきた。また爆笑。心地よいポマードのにおいがした。
「ホームイン!」
 露崎の声も明るい。四対十五。たぶんこれで終わらない。コーチ陣を先頭にベンチはドンチャン騒ぎだ。三塁側ベンチの前で三原監督がしょんぼり立っている。江藤が木俣に呼びかける。
「達ちゃん、一本開幕戦にとっとけ!」
「無理、無理、一本いっちゃう」
 そう言いながら、みごとに空振り三振をした。今度はベンチが大笑いになる。菱川ライト線に流し打ってスタンディングダブル。太田センター前ヒット。菱川還って四対十六。島谷セカンドゴロ、ゲッツー。
「浜野、あと五点取られても代えんぞ!」
 長谷川コーチがブルペンに向かって叫ぶ。
「一点も取られんわ! あと三回とっとと終わらせたる」
 七回表、浜野が走ってマウンドへいく。ストレートだけの投球練習に力が入る。
 力みすぎて先頭打者の山田にフォアボール。永淵ピッチャーライナー。山田危うく一塁セーフ。土井がバッターボックスに入る。頭上でむだなクルクル。内角に投げればドアスイングのウチワ打法は効かない。私はレフトから大声で叫ぶ。
「内角、内角ゥ! 高目、高目ェ!」
 島谷が聞きつけ、マウンドにいって私を振り返りながら耳打ちする。浜野がうなずいて木俣を呼んだ。江藤と太田も寄っていく。浜野は私にグローブを振った。露崎の右手が挙がる。浜野は土井に三球連続で内角高めのストレートを投げ、さんざんファールを打たせた挙げ句、バットをへし折るサードゴロに仕留めた。山田フォースアウト。飯田、一塁ベースに当たるシングルヒット。阿南フォアボール。児玉、私への浅いフライ。
 七回裏、浜野の代打に葛城が出る。代えられて当然だ。内容がなし崩しに悪くなっている。三原監督が露崎にピッチャー交代を告げる。鈴木、バッキー、佐々木。次はだれが出てくるのだろうと興味津々で待っていたら、板東というピッチャーが出てきた。ベンチの隅に座って徳武とわいわいやっていた板東が、
「なんや? 漢字まで同じやないか。でかい男やな。ワシより十センチは高いわ。知らんぞ、だれや」
 太田コーチが、
「板ちゃん、中学は板東中学校だろう」
「おう、ワシと同じ名前の中学校や。あのあたりは板東ゆう苗字が多いんですわ」
「その中学の一年後輩だ」
「へえ! 高校は? まさか徳商じゃなかろう」
「鳴門高校だ。板ちゃんが中日に入団した年に、地区予選でノーヒットノーランをやってる。翌年に近鉄に入団して、もう九年目だ。去年十二勝してるぞ」
「知らんかったわ。けっこう球走っとるやないか。ワシは十年で引退やゆうのに、バリバリやな」
「板ちゃんほど使われてなかったからな。三原さんの好きな発掘というやつだ。七年間で七勝しかしてなかったピッチャーが、おととし小玉監督のもとでとつぜん八勝したのに目をつけたんだな。去年どんどん使って十二勝させた。コントロールもいい。遅咲きの花は手ごわいぞ」
「ワシ、八回からいくわ。板東、板東でおもろいやろ」
「田中でいくことになってる。板ちゃんは開幕戦のリリーフでいってくれ」
 ブルペンを見ると田中勉が投げている。
 葛城がバッターボックスでどっしりと構える。小学校のころの記憶に焼きついている構えだ。稲尾殺しで有名だった。西鉄時代の三原監督は、葛城に打順が回ると稲尾を外野へ回して、次の打者でまたマウンドに戻すということをした。シュート打ちの山内と外角に強い葛城。そんな全盛時代を知らないはずがない板東なのに、児玉のサインどおり初球に外のカーブを投げてきた。早打ちの葛城は、円盤ノコギリのようにバットを回転させた。数秒で打球がライトスタンドに突き刺さった。ゾクッとした。ベンチや観客の反応が遅れるくらい滞空時間の短い、目の覚めるようなホームランだった。葛城が一塁を回るころにスタンドの歓声がやってきた。みんなでベンチを飛び出す。葛城は水原監督とタッチしてゆっくりホームに戻ってくる。まだこんな力があるのだ。私は葛城の胸に突進した。彼はビックリして私を抱きとめた。さすがに葛城のヘルメットを叩く仲間はいない。尊敬されているのだ。十七点。
「もう点はいりませーん!」
 半田コーチが悲鳴を上げる。葛城が、
「バヤリースもいりませーん」
 ベンチの笑いに重なって、スタンドにウォーと歓声が上がった。中がジャストミートしたところだった。レフト前へライナーで飛んでいく。高木が、
「やー、困った。徹底的にいくか!」
 あえなくファーストフライ。江藤が、
「口ほどにもなかな!」
 のしのし出ていって、かなり杜撰に初球を打つ。高く上がった浅いレフトフライ。
 私は水原監督の要求を律儀に考えながらバッターボックスに向かう。学習できるコースは? 確実な振り出しを期待できないのは、内角高目か外角高目。しかも変化球なら打ち損じがある。そこだけを狙おう。四球は時間がかかる。いや、コースを狙ってヒッティングを待っているほうがかえって時間がかかるかもしれない。初球を振ろう。
 考えがまとまらないうちに、ショートバウンドしそうな真ん中低目がきた。実際にショートバウンドしたところを、地面をこするほどすれすれに振った。心地よい手ごたえで当たり、バットに軽い衝撃が残った。セカンドの鎌田が横っ飛びにグラブを差し出して転がった。みごとに捕球した。スリーアウト。
 ドラゴンズの攻撃は八回裏を残すのみとなったので、もう私に打順が回らない可能性のほうが高い。一部の客が席を立ちはじめた。ネット裏最上段とベンチ脇の記者席の動きがあわただしくなる。フラッシュがほとんど光らなくなる。近鉄の逆転が考えられないからだ。スコアボードの時計が四時五分を指している。
 八回表。場内の色彩と輪郭がぼんやり淡くなったので、大急ぎでロッカーへいき特注の眼鏡をかける。ベンチへ戻ると、半田コーチが、
「ひゃ、火星ちゃん!」
「タコかイカって感じですか」
「ごめんなさーい、だいじょぶ、似合ってまーす」
 田宮コーチが笑いながら、
「初めてかけたな、噂の眼鏡。うん、イロ男はそのままだ」
 ダッシュで守備につく。サードに入った葛城が、
「よ、眼鏡くん、サマになってるよ」
 ニコリともせずに言った。視野がはっきりとして頭の中が晴れ上がるようだ。きのうもこの時刻にかけたかったのだが、鮮やかな視界に目が適応してまうのが怖いのでがまんした。線審の沖が不思議そうな表情で私を見ている。遠くからだとほとんど目立たないはずだが、目もとが光ったのかもしれない。目ざといシャッターの音がいくつか響いた。
 田中勉がマウンドで五球も六球も力をこめた投球練習をしている。ときどきチラリと三原監督のほうを見るので、力の入っている意味がわかった。彼を西鉄から追い出した中西太監督の義父にあたるのが三原だからだ。つまらないルサンチマンに思えた。復讐はある種の情熱だけれど、純粋なエネルギーにはなり得ない。一、二点取られそうだ。
 板東に代打が出た。伊勢。江藤と同じ背番号9をつけている。レフトスタンドから、
「大明神!」
 と声援が飛んだ。田中がエイ、ヤ、と投げた。真ん中高目のストレート。スピードがない。見逃し。
「ストラッキー!」
 二球目、真ん中低目、ストレート。これまたスピードが乗っていない。乾いた金属音がして、ものすごいライナーが左中間を抜けていった。中がクッションボールを捕り、振り向きざま二塁へ強い正確な送球をする。ほんのわずかの差でセーフ。近鉄ファンのいてまえの旗が内野スタンドで上下する。レフト側の外野席でも三つほど揺れている。
 鎌田、一塁前へバント。江藤機敏に処理して、三塁に進んだ伊勢を見やりながらファーストベースを踏む。場内がざわつく。
 ―十三点負けている八回に、バント!
 三原監督の姿がベンチの奥に隠れた。勝負をあきらめ、試合を犠打の練習に切り替えたということだ。安井、菱川へ犠牲フライ。五対十七。彼にとっては一点を取ることが重要なのだろう。そして奇跡を待つ。考え方はまちがっていない。ただ、プロ野球選手の才能を無視し、フアンを軽んじている。山田に代わって外人の肥大漢が出てきた。ジム・ジェンタイル。通称ジムタイル。背番号44、左バッター。野球の神さまベーブ・ルースを小型にしたような体形だ。初球内角高目、空振り。中へ走り寄って訊く。
「だれですか」
「今年大リーグからきた助っ人。マリスと争って打点王獲ったこともある」
「あのスイングだと、センターフライかレフトフライです」
「オッケー」
 走り戻る。踵を上げで構えたとたん、高いレフトフライが打ち上げられた。ドライブもせず頭上から落ちてくる。しっかり捕球した。チェンジ。ここぞとばかり、フラッシュが連続して光る。
「眼鏡金太郎!」
「メガネちゃん!」
 中とベンチへ駆け戻りながら、
「浜野さんは上がったし、もう三点入れちゃいましょう」
「オッケー」


         百七

 これまた大柄のピッチャーがマウンドに登った。オーバースローの本格派。コントロールが悪い。田宮コーチが、
「新人の岡田だ。肘やられてる投げ方だな。シュートの投げすぎだろう。馬鹿らしい。遠慮してたらペナントレースに響く。もう少し搾り取ろう。監督、いいですね」
「うん、取れるだけ取りなさい」
「勉ちゃん、九回表はクリーンアップだけど、チャッチャとすませろよ」
「まかせてください」
「よーし、いくぞ!」
 装具を外して身軽になった木俣がベンチから飛び上がってグランドに出る。水原監督がコーチャーズボックスに向かい、かわいらしい顔の木俣が打席に入った。
「プレイ!」
 岡田が振りかぶり、きれいなフォームで初球を投げ下ろす。ボールがお辞儀をする。低目いっぱいのストライク。たしかに本格派の投法だが、田宮コーチの指摘したとおり、腕を畳んでしならせずに肘を庇う投げ方をしている。次は打たれる。二球目、精いっぱいのカーブ。顔のあたりから落ちてくる。左足を上げた木俣が叩き切るようにバットをぶつける。グンと舞い上がる。みんな拍手をして、にこにこ打球の行方を見つめるだけで叫ばない。それでも勢いよくホームベースに迎えに出る。木俣が両手で私たちを追いやるようにして歓迎を拒む。
「そんなことやってる暇ないぞ。ドンドンいけ!」
「オース!」
 五対十八。菱川の代打に出た徳武がライト前に落とす。太田の代打に出た千原がツーナッシングから右中間の二塁打。ノーアウト二塁、三塁。島谷レフトへ犠牲フライ。徳武生還。五対十九。田中勉がわざとらしい三振。何か不快なものを感じた。点差に安堵するのは中日ドラゴンズの姿勢ではない。この人と野球をしていると、いずれいやな感じがつきまとうことになるだろう。水原監督が田中をきつい目で睨んでいた。開幕から先の起用は覚束ないだろうと感じた。
 中、十八番(おはこ)の三塁線二塁打。無理に三塁を狙わず二塁で止まる。千原生還。五対二十。ひさしぶりに高木のライナーのホームランが見られると思った。彼はお辞儀するボールが真ん中に入ってくるのを待ちながら、二球外角のストライクを見逃し、二球一塁線へファールを打った。バットが腰の後ろへ引き絞られる。きた! ど真ん中のシュート。内角へ切れこむ瞬間を左手一本で掬い上げる。山内一広の打ち方だ。
「おみごと!」
 田宮コーチが叫ぶ。まっすぐレフトの中段まで飛んでいった。歓声が轟々と響く中、細身の高木が心持ち背中を丸めて、うつむきがちにゆっくりダイヤモンドを回る。水原監督とタッチ。高木もベンチに向かって迎えに出るなと手振りをした。中と肩を並べてベンチに戻ってくる。五対二十二。ツーアウトランナーなし。高木はバヤリースをうまそうに飲み干した。
「まるでボルケーノね……」
 半田コーチがだれにともなく呟いた。ブルペンで投げている田中に一塁コーチャーズボックスの長谷川コーチが何やら話しかけた。田中はグローブでポンと太腿を叩くとベンチに引き上げてきて、そのまま不機嫌な顔でベンチ裏へ抜けていった。ピッチャー交代を命じられたのだとわかった。
「どうしたの?」
 中が宇野ヘッドに訊くと、
「開幕第二戦の先発を言い渡した。開幕戦に投げる予定の変更。御大の指示だ」
「なんだ、それでムクレてたのか」
 ガシュッという独特の音がして、みんなで振り仰いだ。江藤の打球が左中間上段に突き刺さるところだった。肩を怒らせた江藤が、のしのしダイヤモンドを回る。水原監督とタッチすると、江藤もベンチの出迎えを手でさえぎった。二十三点。三原監督はベンチからすっかり姿を消した。一枝が、
「三原がいねえぞ」
 太田コーチが、
「帰りのバスにでも籠もってるんだろう。三原はインタビューを受けたくないときは、ときどきあれをやるんだ。敵は監督不在だな」
 私はベンチに飛びこんでくる江藤とタッチして微笑み交わし、バッターボックスへ歩きながら、ネット裏の三人にヘルメットを振った。大歓声が上がる。秀樹少年が両手を振った。ベテランキャッチャーの児玉が、
「その眼鏡、高いんじゃないの?」
「さあ。東大の野球部の監督が特注してくれたものです」
「不思議にサマになってるよ。七回で帰っちゃったお客さん、もったいなかったなあ。この眼鏡を見るだけでも話のタネになったのにな。ね、露崎さん」
 児玉に見上げられた露崎は無言だったが、マスクの奥の目が笑っていた。
「天馬さん、日本シリーズはうちとやるかもしれないよ。うちは強くなる。きょう手応えがあった」
「監督はいなくなっちゃいましたね」
「ミーティングのノートを書いてるんだよ。きょうは締め上げられるぞ」
 初球、何の工夫もない内角低目の速球。見定め、腰を入れて強く振り抜く。打った瞬間に場外だとわかったので、全力疾走に入る。拍子をとるように拍手が追いかけてくる。怒号と喚声の渦に包まれる。オープン戦三十四号。たぶん五十年は破られない記録だろう。水原監督とハイタッチ。次打者の木俣が、ベンチのバーを叩いてはしゃいでいる仲間たちの代表で迎えに出る。二十四点。
「ホーム、イン!」
 キャッチャーの児玉が、
「大リーグ、いかないでよ」
 と小声で言った。次打者の木俣が、
「三十四本、ぜんぶこの目で見た。孫の代まで伝えてやる」
 ベンチから突き出された手にタッチしていく。長身の小野が最後にタッチする。
「ありがとう、打線のみなさん。最終回は三人で抑えますからね」
 木俣のマサカリが快音を発した。レフトライナーだった。奇妙な安堵感に襲われて、ベンチがいっせいに拍手した。ようやく攻撃が終わったからではなく、開幕からのドラゴンズの破竹の進撃を連想させるような、目覚ましい快音をチームの要の木俣が響かせたからだった。
 九回表。小野の剛速球がうなる。永淵、空振り、空振り、ボール、ファールチップの三振。土井、空振り、ファール、内角高めの速球を打たせてサードフライ。飯田、外角カーブ、外角速球、ツーストライクから、真ん中低目のドロップ、ボール、見せ球から一転して内角速球、私へハーフライナー。拝み取り。明石球場のような暖かい拍手がスタンドじゅうから降り注いだ。私は眼鏡を外して握り、前後左右の観客席へ手を振った。拝み取りしたボールを大切にグローブに収めてベンチに戻った。このボールを記念に持って帰って、秀樹少年にあげようと思った。
「ゲーム!」
 審判員が六人居並んだ真ん中で、右手を上げてゲームセットを宣告している露崎の前を走り抜ける。
「露崎さん、じゃまた!」
「お、また、いずれ!」
 思わず露崎が返した。報道陣が押し寄せる。フラッシュが絶え間なく光る。彼らを押し分け、水原監督のほうへいく。がっちり握手する。レギュラーやコーチたちも集まってくる。水原監督がみんなに向かって、
「キャンプ以来すばらしいふた月間でした。チームのみなさんに感謝します。四月からのペナントレースに向けて、明石キャンプ、オープン戦と、最高のホップ、ステップになりました。十日間、ゆっくり休養してください。記者さんがた、選手たちが疲れない程度のインタビューをお願いします」
 水原監督といっしょに私と浜野が引っ張り出された。
「まず監督、オープン戦ぶっちぎりの優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「巌流島対決は大勝利に終わりましたが、近鉄というチームに対するご感想は」
「ありません。きょうもつつがなく闘い終えることができたというだけのことです。近鉄にかぎらず、チームという巨視的な見方をすることはありません。個人を見ます。その意味だと、新生近鉄の打の核永淵、投の核鈴木等、すばらしい選手が揃っているので、パリーグの優勝を阪急と争うチームであることはまちがいないと思います」
 二人とも活躍しなかったはずだ。
「ドラゴンズの各選手は、このひと月、絶好調のようにお見受けしましたが」
「勝利の女神に取り憑かれてます。もちろん、取り憑かれるほどの容量が選手たちにあってのうえですが。神に憑依されて潜在的な能力を全開したということでしょう。プロというのは、深く悩み、考えて前進するものです。しかし、それが毎日のことになると、思考の疲労が肉体の疲労に加わることになって、とてもやっていけたものじゃない。学生野球やノンプロなら短期のことなのでそれもありでしょうが、プロはクヨクヨ考えすぎたら自滅です。ときおりの集中的な思考を交えながら、自己信頼のもとにアッケラカンとやっていく心構えが重要になります。じゃ私はこれで」
 背を向けてすたすたと去っていき、ベンチの連中と賑やかに話を始めた。レポーターは呆気にとられて水原監督とコーチと選手たちを見つめ、それからおもむろに浜野にマイクを向けた。
「では、浜野投手、きょうはすばらしい投球内容でした」
「いや、力んで、取られなくてもいい点を取られました。反省しきりです」
「ペナントレースへの意気ごみを、ひとつ」
「Aクラスを目指すしかないでしょう。俺は監督の信頼がいま一つなので、十五勝はできるという力を早いうちに見せたいですね。小川さんと小野さん、それから田中さんや伊藤さんを支えられるようがんばります」
 浜野は帽子を取って、じつにやさしい顔でスタンドに手を振ると、ベンチへ戻っていった。巨人という単語は彼の口から出なかった。野球に取り組む心持ちに何らかの変化があったのかもしれない。
「最後に神無月選手に伺います。ペナントレースに向けての抱負の中に、三冠王はもちろん含まれているのでしょうね」
「抱負と言われても……。かつてぼくは抱負のかたまりでした。プロ野球選手になりたいと思っていたころです。その抱負はある時期ずたずたにされました。きょう、飯田選手の最後の打球を捕って、暖かい拍手と歓声に包まれたとき、野球はぼくの運命だと感じました。運命をねじ曲げられた道で、また運命と出会ったと感じたんです。いま、ぼくは、計画した人生など捨て去るべきだと思ってます。人生のほうがぼくたちを待ち構えていてくれますから。優勝とか、三冠王とか、大言壮語と取られることに尻ごみして語らないわけじゃありません。未来を思い描くことに興味がないんです。待ち構えている運命に身をまかせようと思います。ぼくはいま、好きな野球ができて、野球をするぼくを愛してくれる人がたくさんいて幸福です。だから何も求めるものがありません。ほら、みんな帰らずにぼくを待っててくれてます。さすがにピッチャー陣は引き揚げてますね。葛城さん、徳武さん、千原さん、江島さん、島谷さん、そんなところでニヤニヤしてないで、みんなこっちへきてください! カメラさん、撮ってください。ぼくたちが生涯この瞬間を忘れないためにたくさん撮ってください。その中の一枚をあしたの新聞に載せて、睦み合いながら野球をすることがどれほどすばらしいことかを、日本中の人たちに知らせてください」
 名を呼んだ男たちが恥じらいの微笑を浮かべながらぞろぞろやってきて、私を取り囲んだ。シャッターが何度も切られた。引き揚げたベンチからもう一度上がってきた水原監督の手を握り、コーチ連や、江藤、中、高木、一枝、菱川、太田と握手し、鏑木ランニングコーチ、池藤トレーナーの肩を抱いた。かぎりなくフラッシュが光り、ストロボが焚かれた。彼らといっしょにスタンドに向かって手を振ると、帰路に着かずに見守っていた人びとが歓呼の声を上げた。四囲に波のような拍手が満ちた。
 選手出口もものすごいファンの群れだった。彼らは引きも切らず寄ってきて、肩や背中を触ったり手を握ったりした。松葉会の四人の男たちが懸命に人垣を分けて、球団バスに乗る寮組以外の帰宅組と私を駐車場まで誘導した。時田が横顔だけで、
「ラジオで聞いとりました。感激しました。寺田さんもテレビを観とったと言っとりました。若頭にはきっちり伝えときます」
「六月か七月に梅雨の合間を見てお伺いするとお伝えください」
「わかりました」
 時田たちは、水原監督以下帰宅組が自家用車に乗りこむのを確認し、私をクラウンに導いた。押し寄せる人混みの中で私を車に押し入れると、深々と頭を下げてすみやかに姿を消した。秀樹くんが赤い頬をしていた。私は硬球を彼に差し出し、
「最後に捕った球だよ。記念にあげる」
「ありがとうございます! ホームラン、すごかったです。場外ホームラン、こんなにちっちゃくなって、看板の向こうへ飛んでいきました」
 指で丸を作った。菅野が、
「すばらしいインタビューでした。監督や選手たちも感無量の顔をしてました」
 主人が、
「うちにいるときと同じことを言ってるんでしょうが、迫力がちがいましたな」
 菅野が、
「試合の途中で席に電話を入れたら、山口さんたちは一時ごろについて、それからずっとテレビを観てると言ってました。横山さんと、法子さんと、もう一人男の人がきとるそうです」
「だれかな?」
「大きな人だそうです」
「御池だ!」


         百八

 秀樹くんはボールを弄びながら、ぼんやり窓の外を見ていた。感激しているのだ。ネオンの少ない街並が黄昏の色に染まりだす。人びとが、時代と関係なく、生活のためにせっせと歩いている。こういうなつかしい風景をどう捉えればいいのだろう。
 ―時代に参加しなかった者は何かを永久に失ったのだ。
 と、ラビエンのカウンターで一人の学生運動家が口にするのを聞いたことがある。明石キャンプに出かける直前にふらりと、別れを告げに立ち寄ったときのことだった。彼はよしのりに語りかけていた。
「自分というもの、それに対峙する社会、その二つの頭上を覆う理想が確固として若々しかった時代は、もう存在しない。ぜんぶ形を失ったんだよ。言葉の固さと、言葉で築き上げることのできる世界の固さを失ったんだ。世界を変えなければならないという信念や言葉の挫折、人間の精神の体系の敗北。一九六九年一月のバリケードの残骸の跡に、これまでとはまったく異質な、何もない地平が開かれたんだ。その地平は、俺たちが決めこんだ真っ白い紙のような沈黙でできてる。沈黙の紙の上に高速道路や大量生産ラインが増殖している。その結果やってきたのは何だったか。ちょっとした違和感だけだ」
 おおよそそんなことを言っていた。わかりにくい言い回しだったけれど、言葉の縁辺をにおわせるという意味では、演説のうまい男だった。ただ考えが足りなかった。激動の時代に生きた自分や社会が静まっただけの状況を、〈形〉を失ったと表現した。しかし、若々しい言葉や信念を失って沈黙した自分が〈自分の形〉だし、鎮静化して高速道路やオートメーションを展開する社会が〈社会の形〉だ。その自分にも社会にも関心を失おうとしない彼らは、何の形も失っていない。自分が生きるどんな状況も捨てられないからだ。ちょっとした違和感ですむのはそのせいだ。
 いま車窓の外にあるような、こういうなつかしい風景はあらゆる時代の外にある。ちょっとした違和感に侵された状況を感知しない者に与えられた世界だ。もともと時代に参加しなかった者に与えられる絶景だ。菅野がポツリと、
「きょう写真に写った人たちの中からも、整理される人は出てくるんでしょうね」
「たぶん。だからこそ公の写真に残したかったんです。まだプロにきて四カ月にしかならないのに、どういう世界なのか薄々感じられるようになりました。選手の整理はマネージャーに諮って最終的に監督が決めるんですけど、ほんとうに竹を割ったようなドライなやり方になるみたいです。整理の理由は、年とって力が落ちたということに尽きるんでしょうね。その点は何の情実もなく、きびしいんでしょう」
 有能な人間から彼の馴染んだ生活を奪うことは、まちがいなく悪徳だ。悪徳を行なうなら、堂々と自信を持ってやるというところだろう。それは有能さの商業的価値を疑う臆病がもとで行なわれる。私は有能な人間の永続的な才能の輝きは確信できないけれども、有能ゆえの誠実さや、高潔さや、正直さを疑わない。がんらい無能な人間に対して苦痛を与える勇気がないせいで、衰えの見えた有能な人間に犠牲を強いる臆病な連中にがまんできない。寛大さをほかのだれよりも必要としているのは、有能な人間だからだ。彼らには手を差し伸べさえすれば、生き延びる道が多岐にわたってあるはずだ。水原監督は簒奪者ではないと私は信じる。
 数奇屋門にトモヨさん母子と千佳子と睦子が出迎えた。法子も、山口も、よしのりもいる。そしてやはり御池がいた。私と菅野は男三人とがっちり握手する。秀樹くんも山口に手を差し出されておずおず握手した。御池が私に、
「カッコいいっすね、ユニフォーム姿。やっぱり別世界の人ですばい」
「馬子にも衣裳だよ」
「天馬に馬飾りでしょう。会いたかったです!」
 と言って唇を引き結んだ。
「ぼくもだよ。これからも東京で世話になるよ」
「はい! どんなことでもお引き受けします」
 玄関に向かって歩きだす。トモヨさんと並んだ法子が、大きな胸に直人を抱いている。
「似合うね、子供を抱いてる姿」
「何年かして仕事が一段落したら、産ませてもらうかも。子供ってこんなかわいいって知らなかった」
「ホームラン」
 と直人が言う。頬を撫ぜてやる。
「未来を抱えてる子供を見習って生きるというのが、人間として最も正しい前進かもしれないね」
 菅野が歩きながら秀樹くんの頭を撫ぜた。
「見習いたいんじゃなくて、ただかわいいから。―神無月くん以外に翻弄されてもいいなって思えるのは子供だけ」
 かわいいだけの子供と保証のない約束をするのか。私のように。
「子供は神無月くんと同じ光よ。心が明るくなる」
 私に光が? また菅野が息子の頭を撫でる。
「あしたの朝、船方へ帰ります」
「うん、六日の日曜の夜にノラを訪ねる」
「はい、待ってます」
 よしのりが、
「俺はあしたの夜の新幹線で帰る」
「取りこみ中か」
「いろいろとな。店の責任者でもあるし」
 御池が、
「ワシも横山さんといっしょに帰ります。この時期は毎年、水戸の叔父の地元回りを手伝わにゃいけんもんで」
 山口が、
「そうか、御池くんは政治家一族だったな」
「恥ずかしながら。人間のクズにならんよう、日本の政治を更生せんば」
 私は笑い、
「相変わらずだな、御池は。……政治家はクズでも、政治はダイヤにすることができるということだね」
「そのとおりです。選挙をして政治家になるということと、政治家が議会で発言したり決議したりする結果としての政治は、まったく別の次元の事柄ですばい。市民や政治評論家が云々する外交や経済政策や政治理念とはまったく別の、何かまったくちがう力学と倫理で政治家は動いとります。特に選挙は、政治とは関係のないイベントです。俠客S先生でさえ、選挙の際には、もの言うことに目覚めた人びとを騙すために政治を捨てます」
 山口が、
「御池くんの言葉にはするどい切れ味が感じられて、気持ちがいいな。Sというのは熊本二区八代(やつしろ)の政治家だね。無派閥の正義漢、岸信介の更生大臣、去年は佐藤栄作の文部大臣を務めた。東大入試中止を決定したのも彼だ。彼の秘書ならやり甲斐がある」
「先生は、入試を中止したのは自分の人生の痛恨事になるかもしれないとおっしゃってました。よく意味がわからないので、追々訊いていこうと思うとります」
「彼なら、これからも連続当選しつづけて、二十年もやるだろう。どんなことだって訊けるさ」
 玄関灯の下におトキさんが立っていた。
「とうとう山口に逢えたね」
「はい」
 思わず目を潤ませたおトキさんと山口が、あらためて手を握り合った。なぜか千佳子と睦子も二人で握り合う。睦子が、
「菅野さん、この子、息子さん?」
「はい。きょうは贅沢させてやりました」
「これ、最後に神無月さんが捕ったレフトフライのボールです。宝物にするんです」
 硬球をみんなに示す。山口が秀樹の頭を撫ぜ、
「テレビで観てたよ。神無月は相変わらず天才やってるな。三十四本打ったらしいじゃないか」
「うん、十五試合だから、一試合二本以上のペースで打った」
 よしのりが、
「なんてったって、最後のインタビューが圧巻だろ」
 主人が、
「あれはたまりませんでしたな」
 式台に店の女たちが並び、お帰りなさい、と辞儀をする。百江やイネが厨房から出てくる。
「きょうはめしがたいへんだね」
 イネが、
「四、五人増えたくれで、いつもと変わらねじゃ。旦那さん、すぐお燗コつけますか」
「おお、そうしてや。ビール二十本くらい並べて」
 おトキさんが、
「おつまみは用意しておきました」
「店の女たちはもう飲んどるんやろ」
「はい、ステージを待ち構えてます」
「めしのあとのお楽しみや。トモヨ、まず直人にめしを食わせてしまえ」
「はい」
 トモヨさんは法子から直人を抱き取り、おトキさんが子供用の食事を仕度する。私は大座敷にくつろぐみんなを残して、風呂場へいった。脱衣場に湿っぽいユニフォームを脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。百江がユニフォームを回収にきた影が磨りガラス越しに見える。
「いつもありがとう」
「どういたしまして。新しい下着とジャージ、それから浴衣を置いておきます」
「カズちゃんたち、いないね」
「お客さんが退かないみたいで、やっぱり六時までやってくるそうです。節子さんとキクエさんは仕事帰りに寄ってくることになってます。スパイク、洗っておきましょうか」
「いや、時間があるときに靴底の泥を鉄ブラシで落して、革のほうは乾拭(からぶ)きしといて」
「わかりました」
 サッパリして浴衣姿で座敷に戻る。すでにみんなでビールをやっている。食卓が整っていく。山口のそばに千佳子や睦子や店の女たちが寄り添っている。盛んに山口の箸が動く。彼は玄人女に妙に人気がある。御池が私にビールをつぎ、
「松尾さんや中尾さんたちと平和台にいったとですよ。一本目から場外ホームラン! びっくしたばい」
 主人が、
「神無月さんのホームランは芸術品ですわ。スイングが速すぎてボールの打ち出しが見えんから、拍手を忘れて、ジーッと見てしまいますな」
 御池が、
「たしかにそうやったとです。あっという間に外野の上空にいっとる。松尾さんが見えんて嘆いとった」
「松尾は元気になったの?」
「ふつうに生きとります。酒量も減っとりまっせん。ペースメーカーちゅう装置は、病人ば自重させる機能はなかばいた。平和台では客ば一人打ちました」
「打ったって、喧嘩?」
「はあ、田中が絡まれたですけんね、黙らす程度に打ちました。そいつはずっと横たわっとりましたけん、試合のあとで病院に運ばれたと思います。や、その客はですね、神無月さんにだけ汚か野次を投げとったけん、田中が睨んだとですよ。したら胸倉ばつかんできたとです」
「それを見て松尾がパカーンだね。目に浮かぶよ。しかし、機械の力を借りてとは言え、奇跡的な快復だな」
 御池はビールを含みながら山口に、
「中退したそうですね」
「ああ、十一月の末に駒場にいって、学生課で届出用紙を受け取った。薄っぺらい紙切れ一枚だ。空き教室で必要項目を書きこんで、判子押して、さっさと提出した。事務員は文字どおり事務的に、ハイ、と受け取ったきり知らんぷりだ。中退届を出すやつはめずらしいはずなんだがな」
 よしのりが、
「仲良しこよしの東大だ。みんなで仲良くできない野郎なんか興味ないだろ」
 私は、
「高校の勉強でザッツ・エンドというわけだ」
「俺はおまえと同じで、受験科目以外は高校の勉強もまともにやってないよ。何の後悔もしてない。版籍奉還とか、カロッサの屈辱とか、ド・モアブルの定理なんてものを覚えるより、野球やギターに打ちこむほうが人生という名に値するだろ」
「たしかにね。いま山口が言った単語、聞いたことはあるけど思い出せないものばかりだな。教科書に封印された活字には一度も馴染んだことがなかった」
 菅野が、
「ほんとに二人とも、つくづく豪傑ですね」
 山口が長髪にした頭を掻いて、
「そう思うのは菅野さんたちだけですよ。ふつうは馬鹿野郎と言われます。鈴木や木谷はキッチリ学問しろよ。入学式はいつだ」
 睦子が、
「四日です。父兄は遠慮してもらうというのが名古屋大学の伝統らしくて、東大とちがってささやかな式のようです。千佳ちゃんといっしょにパッと出て、パッと帰ってきます。五日は山口さんとおトキさんが東京へいっちゃうでしょう?」
「うん、昼ぐらいに帰る」
 私は、
「御殿山を出たら、愛の巣はどこに作るんだ」
「三鷹あたりに二間ぐらいのアパートを借りようと思ってる。おトキさんのことをオヤジとおふくろに話した。びっくり仰天してたが、詳しく事情を話したら、意外な理解力を示してな、ぜひ紹介しろと言うんだ。おトキさんが彼らよりも年上だから、めずらしさも手伝ったんだろう。向こうへいったらさっそく会わせるよ」
「おめでとう!」
 千佳子が叫んだ。私も感動して、
「すてきな両親だね。一度会った雰囲気から、そういう感じはしてたけど」


         百九

 秀樹少年が硬球とサインペンを差し出し、
「サインしてくれますか」
「もちろん」
 すらすらと書く。山口と御池が覗きこむ。御池が、
「サインば書く姿が似合おうとります。会社勤めばせんでよかった。神無月さんが通勤鞄ば提げた姿は似合いまっせん。学生鞄も似合わん人やけん」
 直人がトモヨさんの膝で眠りこんでいる。山口が、
「幸せそうに眠ってるなあ、神無月二世は」
「うれしいことだよね。親子の絆という動物的な神聖な絆があるから、弱い者は守られるんだね。ぼくはそれでじゅうぶんだと思うけど、自分を動物だと思ってない人はそう見ない。人間社会の形式のもとに、この子を人間として正常な家庭の中に置いてやれと主張する。そうできないのは、ぼくが入籍という人間社会の正常な形式を嫌って、正常ぶった認知届という紙切れ一枚で動物的なエゴへ逃げたからだ」
 菅野が、
「それ以上言うと、また自己虐待が始まりますよ!」
「だいじょうぶ、すぐ終わります。―そのぼくを当の社会が赦したからなんだ。社会が見逃した動物の悪行だね。社会が赦した悪を善に修正してやることは善良な社会人には必要なんだろうけど、ぼくにはできない。ぼくは野放しの動物で、善良な人間じゃないからね。つまり、社会的な形式に囚われようという善良なあきらめがないからね―。あきらめることができるのは、トモヨさんやお父さんやお母さんのような人たちじゃなく、ぼくの周りにいる人たちでもなく、叶わぬ仮定の話だけど、正常なトモヨさんと一対一で出会った善良な男だけだ。ぼくの周りの人たちは手助けをするけれども、ぼくと同様ジャングルに棲む動物なので、直人に人間社会の契約に基づいた家庭を与えることはできない。……でも、それで直人が幸せに暮らせるのなら、ぼくはこのまま動物のエゴを通そうと思う。ぼくは動物として父親になる覚悟を決めたんだ。ジャングルの父親としてこの子を守ろうと決めた。直人も含めてぼくたちはみんな、ジャングルの住民だと信じてるから」
 主人がまぶたを拭いながら、
「神無月さん、そこまでにしましょう。神無月さんの苦しみはみんなわかってますよ。直人はだいじょうぶです。動物同士、枷のない手助けのおかげで、常識社会の形式だけの手助けでは得られない幸せを満喫してますから」
 じっと聴いていた店の女の一人が、
「入籍してしまったらどうなん? ほかの女の人たちのことを気遣って、神無月さんはそうしないでいるわけでしょう。形式にすぎんものに拘束される人が神無月さんの周りにおらんのなら、どんなふうにしたっていままでどおりでしょう? トモヨ奥さんが急にほかの女の人たちに邪険にすることなんか考えられないし、もちろん神無月さんだってそんなことをしないでしょう?」
 トモヨさんが、
「ま、浅い考え! だれのために入籍するの! あなた、どうかしてるんじゃない。世間に気を使って形を整えれば、たしかにそのとおりの結果にはなるでしょうよ。でも、郷くんにとっていちばん難しくて苦しい善人役を押しつけることになるんですよ。郷くんは、ヒーローや白馬の騎士役は苦手なの。もちろんそうなれば郷くんは私たちに心配をかけないように、妻がいて子供がいる無害で正直そうな、家庭的な男を演じながらアッケラカンと振舞うでしょう。七転八倒しながらね。そんなことになったら私が死ぬ苦しみを味わうことになるわ」
 睦子が、
「私たちもです。そんな話どおりにことが進んだら、神無月さんは、そうしよう、悪くないと思う、なんて言い出して、身を捨てようとします。遠からず、野球もやめてしまうかもしれない。ジャングルを出て、サラリーマンになって、妻子のために小さな団欒のための給料運び人になろうとします。神無月さんの糧になっていた破天荒な友情や、豊かな愛情生活や、知的な逍遥はどこへいってしまうんですか。この大きな才能は?」
 法子が、
「そんなことになったら、私は地獄」
 主人が、
「そりゃ―だれにとっても地獄ですな。神無月さんが、私たちのスターであることを忘れると、社会的に理に適ってることだけが一人歩きするようになる。ワシらの関係は理屈やない。子供や籍に雁字搦めになっとる関係をワシは正常なものとは認められん。自分らが正常なことをしてきたくせにな。神無月さんが現れたおかげで、ワシは自分がジャングルで暮らしとる自由な動物やとわかった。それがうれしい」
 千佳子が、
「妊娠すれば結婚する、父親になるだけでいいのに夫になろうとする、そんな愛のない結婚はだれも望んでいないと思います。ほんとうの愛が何かも知らないでどうしたら愛せます。……形式に頼るしかなくなるんです」
 女将が慈母のような顔でうなずくと、トモヨさんとおトキさんが小さく拍手した。直人がウッと目を開けて、また母親の膝の窪みで身を丸めた。
 私たちはたがいに心の内を知り尽くしている。そして常にそばにいる。この二つのことが果たされていれば、ほかに失うものはない。ただその二つのことを失えば、心に穴が開く。穴の新しい埋め方を学んでも、信頼できない。自分自身を塞ぎ栓にする? プッ! カズちゃんと睦子と素子とトモヨさん、そして千佳子たち……彼女たちに代替できるものはない。彼女たちは、私が人を信じないのをわかっている。彼女たちにはお見通しだ。私はいつも秘密をしまいこんできたから。私にしてみればそのほうが安全だけれども、荷が重かった。しかしカズちゃんたちとなら分かち合える。カズちゃんたちはそれに慣れている。
 兄弟姉妹……か。友を作り、恋人や子供を持つ。カズちゃんたちはそれを望み、望んでいることを演じてきた。一つの役を演じつづければ、それがほんとうになる。そのおかげで私の人生は満たされてきた。ほとんどの役者は無名のまま終わる。だが懸命に演じつづければ、生涯の役をつかめるかもしれない。
「ぼくはこれまで何かが起きるのを待ってた。それが何かもわからずに。……でもぼくたちは一つだと信じてる。どこにいても、みんなを感じる。……直人もいっしょだ。みんなと生きてる実感がある。ケーキを食べ、庭の木や草を眺め、グランドを走り回る。いっしょにいたいんだ。ぼくにはこういう日常が大事なんです。きっと直人もみんなもね。ぼくたちは運命共同体だ。死ぬまで離れない。うん、と言ってほしい」
 山口が大声を上げた。
「神無月!」
 御池もうなった。
「神無月さん!」
 トモヨさんが、
「郷くん、もうほんとに何も言わないで。私たちみんな心からわかってますから。直人を寝せてきます」
 トモヨさんと入れ替わりに、カズちゃんと素子たちが帰ってきた。
「疲れたァ!」
 とカズちゃんの声。ソテツとメイ子も疲れたァと声を合わせている。
「オムライス、めちゃくちゃおいしかったね」
「ほんとほんと、もう夕飯食べられないわ」
 節子とキクエの明るい声もする。
「初仕事、どうだった?」
「楽々。医局薬局の人たちに紹介されて、それで終わった感じ」
 節子が答えると、キクエが、
「オペの手伝いをしないかぎり、ほんとにラクなんです」
「あ、初めまして」
 山口たちと初対面のメイ子とソテツが、畳に手を突いて挨拶する。メイ子は山口やよしのりを何度も遠くから眺めたことはあるが、あらたまった対面という意味では初めてだ。
「先月の下旬から賄いに入った桜井メイ子と申します。どうぞよろしく」
「三月の一日からこちらにお世話になってる賄いのソテツと申します。アイリスでは厨房を手伝ってます。山口さんや横山さんや法子さんのことは、おトキさんからかねがね伺ってます。どうぞよろしくお願いいたします」
 山口と法子もあわてて頭を下げる。よしのりはコクリとうなずいたきり横を向いている。
「あの、こちらのかたは」
「あ、わたくし御池と申します。神無月さんの弟子ば自認しとります。よろしくお願いします」
 御池を知らない女たちが離れたテーブルからやってきて、あらためてみんなで頭を下げた。彼女たちの中には、よしのりはもちろん、山口や法子を知らない女たちもいる。ひとしきり挨拶のし合いになった。菅野が、
「秀樹も腹いっぱい食ったようなんで、家に送りがてら、社長と回ってきます。三十分で帰ります」
「ごちそうさまでした! きょうのことはぜんぶ、一生忘れません」
 秀樹くんはペコリと頭を下げた。
「これから何度も会えるよ。一回一回を忘れないようにしようね」
「はい!」
 主人と菅野と秀樹くんが三人で立っていく。カズちゃんが、
「おひさしぶり、山口さん。よしのりさんも御池さんも、わざわざ名古屋まできてくれてありがとう。法子さん、とってもきれいよ。商売、順調ですって?」
「はい、がんばってます。和子さんも喫茶店デビュー大成功のようで、おめでとうございます」
「ありがとう。スタッフの勝利よ。あなたもそうでしょう?」
「ええ。チーフはじめ、ボーイにいたるまで、精鋭揃いになりました」
 よしのりが、
「俺も酔族館に一人送りこんだよ。三十五歳。離婚経験あり、子供なし」
 カズちゃんが、
「足手まといになってるんじゃないの、法子さん」
「いいえ、溶けこんでくれてます。よしのりさんが群馬の温泉で仲良くなった仲居さんだそうです」
「情は禁物よ」
「わかってます。これでも商売にはシビアですから」
 素子が思い出したように、
「お風呂、お風呂!」
 と大声ではしゃぐ。カズちゃんたちは足音立てて風呂へいった。
「これで何人目だ、よしのり。このあいだもどっかの女を入籍したんじゃなかったのか」
「人には格好つけてそう言ってたけど、籍は入れなかった。ふた月で別れた。子供は残念だったけどな。それでガックリきて、二日休みを取って一人で山奥の温泉にいったんだ。俺はもう、押しの強い女とは付き合わないと決めてな」
「山奥の温泉では、おまえが押したのか」
「ああ、押した。チップを払ったときに、ビビッとくるものがあってさ、よかったら仕事帰りにでも寄って話をしてくれって頼んだんだ。二日目の夜にきてくれた。翌日の休みまで取ってな。……敦子っていうんだ。今回は正直に身の上もぜんぶ曝して、誠実に付き合ってる。法ちゃんがむかしいた樹海荘で暮らしてるんだ。あそこはバカっ広いからな。今度こそ、きちんと入籍して、子供も作って、いい家庭を築こうと思ってる。法ちゃんは敦子に、いつでも産児休暇をあげるから、思いどおりにするようにと言ってくれてるらしいけど、敦子はそれを恩義に感じて、法ちゃんの下で働くあいだはしっかり勤め上げたいって言うんだ。出会ったころは、早くほしいなんて言ってたくせにさ」
 山口が、
「また背骨がたわむわけか。よしのりさんは神無月みたいに飄々としてられないからな」
 おトキさんが、
「背骨がたわんでも、その人を離しちゃいけません。横山さんは枷をはめられることが好きな人なんです。どうせはめられるなら、ビビッときた人にはめられるのがいちばんです」
 そう言ってやさしく笑った。
 ひとっ風呂浴びたアイリス組が、あでやかな浴衣姿で戻ってきた。離れから戻ったトモヨさんといっしょにおトキさんたち厨房組がおさんどんをする。素子がトモヨさんに、
「直ちゃん寝ちゃったん?」
「きょうはテレビの前で、郷くんの動き回る姿を、ちょーちゃん、ちょーちゃん、てずっと観てて、子供なりに感動したのかしら、寝るときも、ちょーちゃん、ちょーちゃん、て繰り返すんです。すっかり疲れちゃったみたい。子供って、感動すると疲れるんですね」
 キクエが、
「あー、それわかります。私、キョウちゃんといるとものすごくうれしいんですけど、くたくたになります」
 節子が、
「でも、つらい疲れじゃないのね。ホワーンとしてるのに、くたくたになるの。ぐっすり眠っちゃう」
 睦子がしとやかに箸を動かしながら、
「それ、ギッシリ感というものじゃないでしょうか」
 千佳子が、
「私もそう思う。神無月くんのいない時間て、空っぽですから」
「山口もおトキさんがいなくて、そういう感じだった?」
「もちろんそうだ。東京なんか大して腰を落ち着けたい場所じゃないからな。心はいつもおトキさんのいる名古屋に飛んでたよ。そばにきたとたんに、もう心地よい疲労が始まってる」
 よしのりが、
「しかし神無月は、ほとんどだれのそばにもいないだろ。頭の先から足の先まで野球漬けだぜ」
 山口は首を振り、
「ずっとそばにいたら、おたがい疲労死してしまう。世の夫婦がそうならないのは、とことん愛し合ってないからだろう。野球をしてくれてて助かったんじゃないの。俺もデビューしたあとは、たぶんほうぼう飛んで歩くだろうな。それでおトキさんも俺もだいぶくつろぐことになるんだ」


         百十

 おトキさんとソテツとイネたちが、十人ほどの賄いといっしょにせっせとおさんどんをしている。テーブルの男女の箸がひっきりなしに動く。よしのりが、
「おたがい疲れるほどの充実感はよしとするさ。それは神無月の問題じゃないからな。問題は、野球ばかりやってて、文学の基盤を築けるかということなんだ。神無月が文学から離れるのが心配でしょうがない。プロ野球をやめたあとに文学をやるなんて、そういう壁に貼った計画表みたいに生きられるはずがない。芸術家が、日常的に作品を創る時間がないというのはおかしいと思うんだ」
 女将がまた始まったという顔で、
「神無月さんはどこかでかならずそういう時間を作っとりますよ。野球漬けになったって、いつも心にかかっとることをやめる人やないわね。だからこそ神無月さんなんやないの」
 山口が、
「俺にはギターしかないから、行動はずいぶん単純だ。青森で出会ったころからそうだったが、神無月はすることがいろいろありすぎるんで、忙しく暮らさないといけない。将来的に文学に落ち着こうとしている姿勢に横山さんは不満を覚えるかもしれないけど、芸術の目的は救済だよ。よしのりさんは、神無月が文学以外で人を救う手段はいろいろあるということを忘れてる。俺もかなり長いあいだそうだったが、文学も野球も人を救済する手段であることには変わりないと思い当たった。人を救済するのに個人の活躍の時期なんか関係ないんだ。野球は神無月の天賦の素質だし、おそらく世界に冠たる才能だ。しかも肉体が若いときしか発揮できない才能だ。芸術には旬がない。思考生活への専従に先行してふくらませた人間観察の質と量は、芸術の肥やしだ。四十、五十になったら、その肥やしのおかげで花が咲くだろう。それでいいんだ。その芸術さえ神無月の目標じゃないかもしれないぞ。八面六臂に生きて思索を継続することそのものが神無月の人生なんだよ。そう考えたほうがいい。凡人には送れない人生だ。好きなだけ忙しく生きるべきだ」
 睦子が、
「自分の全人生を芸術に捧げれば、ちゃんとした人間として完成するものでしょうか。古今の作品を読んでいて、よくそんなふうに感じます。山口さんのおっしゃるように、人生からできるだけ多くのものを得ようとすることが正解なんじゃないでしょうか。単に自分一個の理想を表現するというだけでは足りないと思うんです。表現手段という編み棒を使って、自分の人生の撚り糸にさまざまな人びとの人生の撚り糸を編みこんでいく……。そのでき上がった模様がその人の人生でしょう。野球であれ、文学であれ、ぜんぶが大切な撚り糸です」
 御池が、
「ワシも、平和台のホームランば見て以来、山口さんや鈴木さんと同じ気持ちになっとります。神宮でホームランを見たころは、相手チームがアマだったせいか、野球は神無月さんの天職じゃなかと何度か思い返しましたばってんが、プロのピッチャーから打った場外ホーマーば見た瞬間、神無月さんにとって野球は道草じゃなか、天職やとハッキリわかったとです。神無月さんが最終的に目指すものがあろうとなかろうと、進む道のどの風景も神無月さんにとって大事な人生の要素やろうもん」
 カズちゃんが、
「三人の言ったとおりよ。よしのりさんには、キョウちゃんが文学をやるための生きる方針を見失ってしまってるように思えるんじゃないかしら。失ってるんじゃなくて、最初からないの。もちろん野球をやるための方針もないのよ。キョウちゃんが求めてるのは、人の幸福な姿に感激して自分も幸福を感じることだけなの。野球も文学も人を幸福にさせるための手段。野辺地でそれがわかったときには、からだがふるえたわ。そしてすぐに理解できた。キョウちゃんは、生きている慈母観音なのね。生きている観音さまが求めるものは、祀られて放っておかれる静かな場所だけ。ふつうの人が求める、放っておかれないための騒々しい場所とはちがうものよ。……私たちがその場所よ」
 そこにいるみんなが真剣にうなずいた。メイ子が思い出したように、
「きょう、青森の睦子さんの実家から則武にレコードが届きました」
 睦子が、
「あ、ジャズレコード。山口さんがいるうちに一度聴いてくださいね」
「うん、聴く。掘り出し物があるかもしれない」
 山口が、
「ボーカルはある?」
「はい、百枚ぐらい送りましたけど、半分近くボーカルです。ジャッキー・パリス、ダコタ・ステイトン、キャブ・キャロウェイ、ヘレン・ヒュームズ、エタ・ジョーンズ、アル・ヒブラー」
「アンチェインド・メロディの?」
「はい。アーネスティン・アンダーソン、アビー・リンカーン、ジューン・クリスティ、ブロッサム・ディアリー、アニタ・オディ、ベティ・カーター、ニーナ・シモン」
「渋いなあ! ほとんど女性ボーカルだな。古いところで、ベッシー・スミスはある?」
「はい、一枚あるはずです。ほかにダイナ・ワシントン、エラ・フィッツジェラルド、もちろんビリー・ホリデイも入ってます」
 知らない名前ばかりだった。
 主人と菅野が文江さんを連れて帰ってきた。おトキさんが、
「文江さん、ごはんよそうから適当におかずつまんでね」
「ありがと。四時ごろお弟子さんたちと五目ラーメン食べたんよ。お腹いっぱい。気使わんといて。どしたん、みんな目が赤いがね」
 主人が、
「また神無月親衛隊に気分よく泣かされてたな。もっと泣くぞ。さあ、オンステージ!」
 山口が、
「何いく?」
「見上げてごらん夜の星を、もう一曲、最近覚えた歌、みんな夢の中」
 二階のラジオの女を見ると、胸に両手を当ててうなずいた。
「どっちも絶品だ。おまえの声で歌われたら涙が止まらなくなる」
 すぐに座敷の明りが落とされ、ステージのライトが灯った。みんなステージの控え部屋に移動する。
「前座やらせろォ!」
 よしのりがステージに飛び出し、千佳子を呼んでカラオケの機械をいじらせる。私は主人と山口と菅野とグラスを打ち合わせ、ビールを含む。グラスをあおる角度が三人とちがう。ビール瓶や徳利ではなく、つまみのほうに向かう手数が多くなる。不便な男だ。酒が弱いので、酒を飲み交わすことで生まれる心底愉快な気分を味わったことがない。酔いの増していく人たちを羨ましく眺めるだけだ。私より胃袋の丈夫な人たちは、ある程度酔うと周囲の人間を竹馬の友と思えるようだ。そこまで達する前に、胃が私を裏切り、具合が悪くなる。こういう事情は酒席では不利に働くけれど、自分ではどうしようもないので胃と相談しながら飲むしかない。飲めないとは言わない。そういうことを言うやつを私は軽蔑している。
「お耳汚しですが、岸壁の母」
 文江さんが、
「私、その歌、大好き」
 音楽がかかり、よしのりが浪曲調の渋い声で歌いだす。

  母はきました きょうもまた
  この岸壁に きょうもきた

 主人と女将が思わず拍手した。女たちが、ヨ! と相の手を入れる。いい声だ。耳を傾けたくなる。山口もじっと聴いている。
「ヒットだな。よしのりさんの面目躍如だ」

  届かぬ願いと知りながら
  もしやもしやに もしやもしやに
  引かされて

「よ、大統領!」
「雲右衛門!」
 菅野が音高く拍手する。思い入れたっぷりの科白が始まる。

 また引揚げ船が帰ってきたに、今度もあの子は帰らない。この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか。港の名前は舞鶴なのに、なぜ飛んできてはくれぬのじゃ。帰れないなら大きな声で、お願い、せめて、せめてひとこと……

 天井に視線を移しながら、片手を差し上げる。
「キャー!」
「すてきー!」

  呼んでください 拝みます
  ああ おっかさん よくきたと
  海山千里と言うけれど
  なんで遠かろ なんで遠かろ
  母と子に

「すごいな、よしのり!」
 文江さんが、
「よしのりさん、最高やわ!」
 女の一人が、
「今夜お部屋にきて!」
 よしのりが、
「ホフク前進でいくよ。文江さん、次の科白よろしく。忘れちゃった」
「おトキさん、いっしょに!」
 どたどたと文江さんとおトキさんがステージに上がった。掛け合いでせりふを言う。

  あれから十年、あの子はどうしているじゃろう。
  
  雪と風のシベリアは寒いじゃろう
  つらかったじゃろうと命のかぎり抱き締めて
  この肌であたためてやりたい

  その日のくるまで死にはせん
  いつまでも待っている

 不覚にも涙がこぼれた。山口も主人も泣いていた。みんな、黙って泣いていた。文江さんとおトキさんはデュエットで歌いだした。

  悲願十年 この祈り
  神さまだけが 知っている
  流れる雲より 風よりも
  つらいさだめの つらいさだめの
  杖ひとつ

 科白を途中にしてよしのりが二人の肩を抱いてうなだれた。二人もうなだれた。喉が詰まったのだ。女将が飛び出してマイクを握った。よしのりが、
「女将さん、キメ、お願いします」
 うなずいて、しゃべりだす。
「ああ風よ、心あらば伝えてよ。いとし子待ちてきょうもまた、怒涛砕くる岸壁に母の姿を―」
 やんやの喝采になる。千佳子と睦子がぽたぽた涙を落としている。私は感動でふるえていた。よしのりと女三人が晴ればれとした顔で戻ってきた。
「ああ、よかったよ、おまえ」
 耕三さんがおトクさんに言った。女三人はめいめいビールをついでもらってグイと飲んだ。私はよしのりについだ。
「おまえ、いい喉してたんだな」
「ばれた?」
 照れておどけた。御池が、
「まっこと、すごかァ、横山さん。見直したばい」
 千佳子が山口にギターケースを渡した。
「景気がついた。神無月、徹底的にいくか」
「うん、いこう。まず、見上げてごらん夜の星を」
 主人が拍手すると、座の全員がいっせいに拍手した。しばしの静寂のあと、すぐに前奏が流れる。鍛練を重ねた指使いのせいか、以前よりも力強く澄んだ音に聞こえる。安心して唄い出した。


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