百十一

  見上げてごらん夜の星を
  小さな星の 小さな光が
  ささやかな幸せを歌ってる
  見上げてごらん夜の星を
  ぼくらのように名もない星が
  ささやかな幸せを祈ってる

 指笛と喝采。
「信じられんたい!」
 御池が叫んだ。節子を見ると、いつものように唇だけで、キョウちゃんと呟いていた。

  手をつなごう ぼくと
  追いかけよう 夢を
  二人なら 苦しくなんかないさ
  見上げてごらん夜の星を
  小さな星の 小さな光が
  ささやかな幸せを歌ってる
  見上げてごらん夜の星を
  ぼくらのように名もない星が
  ささやかな幸せを祈ってる

 山口が顔を斜めにうつむけ、五本の指で絃を叩きつける。最後の一節をはじき終わり、しばらく沈黙した。彼は尻ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭った。
「ふう! 神無月の発声は明るくなく、纏綿(てんめん)としていて、音調は得体が知れない。メリハリの効いたオペラふうの声じゃない。なぜ発声が明るくて予想のつく音調は涙腺にこないのか、俺の考えを言います。明るさは感情の襞がなく無味で、予想のつく音調は意外性がないからです。いまの歌は神無月にしては明るいほうなんですよ。ただ感情が入り組んでいて音調が複雑だ。すごいとしか言いようがない。歌は彼のほんの一部の才能です。文章はボルテールあるいはスイフト並、野球はおそらく世界ナンバーワンでしょう。それなのに、どれもこれも自然すぎて、偉大に思えない。そこが神無月の偉大なところだ。すぐれた才能というのは、苦心の跡を留めないものです。生み出されたものが、幸運な偶然で出てきたように見えるんですよ。俺は神無月を尊敬しているけれど、それ以上に愛しています。彼のどんな才能も俺を泣かせるからです」
 カズちゃんが、
「山口さん、しばらくカラオケをやってもらってつないだら」
「山口、飲もうか。少し腹が減った」
 カラオケ教室組が率先して立った。ラジオの女が寄ってきて私たちにビールをついだ。
「バットを振ってるとき、高田恭子の歌がこの人の部屋から流れてきたんだ。何さん?」
「丸です。丸信子。来年で年季明けです」
「変わった苗字だね。いくつ?」
「二十九。素ちゃんと同い年。年季明けたら、寮のほうの厨房に入れてもらうことになってます」
「高田恭子はパンチがありすぎる。神無月が唄うために作られたような歌だ」
 カズちゃんたちがコップを持ってやってきて、
「聞いたわよ、丸ちゃん。寮の厨房に入っても、ここで寝起きすればいいじゃない」
「はい、居座ります」
 丸はにっこり首をかしげ、
「お嬢さんたちは、こんなすごい人に愛してもらって、いつもどんな気持ちなんですか」
「簡単よ。恋心と感謝。そうね、恋心のほうが強いわね」
「うちも同じ気持ちやよ、お姉さん」
 素子が言った。よしのりが、
「神無月、最近俺、また本を読むようになってさ。週刊誌じゃないぞ。いま梅崎春生を読んでる。彼の最高の作品は?」
「ぜんぶいい。……特にいいのは、庭の眺め、かな。このごろ本を読んでないなあ」
 素子が、
「じゃ、世界最高の長編は? あたし、長編読んだことがないんよ」
「最高かどうかわからないけど、十九年の読書経験の範囲で言うと、エリ・ヴィーゼルの夜。大長編としては、デュマのモンテクリスト伯」
 山口が、
「トルストイの戦争と平和はどうだ」
「聖書みたいにコツコツ読み進めるにはいいね。ところどころに秀逸な描写がある。アンナ・カレーニナも」
「まだ読んでいない本に未練はないか」
「書物ごときに、まったく未練はない。読みさした本にもね」
「たとえば?」
「ゲーテのファウスト、ダンテの神曲、マンの魔の山、源氏物語、エトセトラ。読みさした本のほうが圧倒的に多い。いやになって読みさしたから、未練はない」
「思い切ったな。俺は未練があって、戸山高校時代に読んだよ。鑑賞じゃなく、試練だった。さすがに源氏は読む気がしなかったなあ」
 浮かれたカラオケをバックグラウンドに、よしのりが、
「なあ神無月、たしかにおまえは歌がうまい。しかし、歌手なんかになるつもりはないんだろ」
「うん。なるつもりはない。じつはプロ野球選手にも〈なる〉つもりはなかった。なれるだろうと思っていただけだ。しゃかりきにプロ野球選手にはなろうとしていた精力的な時期がたしかに五年ほどあった。小四の秋から中三の秋までだ。その後は、野球そのものをどんな形でもいいからやりたいという気持ちを持ちつづけていただけで、プロ野球選手になろうではなく、運がよければなれるかもしれないというぼんやりした希望を抱いて野球をやってきた。だから、プロ野球選手になろうとしてなったとは思ってないんだ。何かになろうとする人間はみんな、ぼんやりとした希望にすがってるんじゃなくて、より具体的な実現を目指すことに精力を使ってきた人たちだ。計画を地道に立ててね。ぼくのような人間とは精神構造がちがう。地道というのはぼんやりした意識からは生まれないし、精力を軽蔑しても得られないからね。いまぼくはそういう人たちの中にいる。彼らは野球選手になるために、精力的に、根気強く生きてきた人たちなんだよ。いまそんな人たちの中にいて、とんでもなく毎日が充実してる。まるで薄暗かった部屋の照明がとつぜん点いた感じだ。ぼくが彼らの集団に参加させてもらえる資格は、たとえ五年間でも、精力的な時期を経験したことだ。……いつも少し申しわけない気持ちでいる。その気持ちが、野球をやりつづけるエネルギーになってる」
 山口が、
「腹をくくったんだな。上昇志向の希薄さを、野球魂をぶつけることでカバーしようってな。神無月にその気があれば、歌手にだってなれるさ。特殊な声だから金になる。しかしそのためには、コンクールに出たり、勝ち抜いたり、デビューをマスコミに宣伝してもらったりといった面倒な手続が必要になる。その筋の専門家が、人目につかないこの座敷で神無月の声をたまたま聴いてるなんてことは考えられないからな。腹をくくるチャンスがない。野球の場合は、人目につく野球場で遊んでたら、たまたま専門家に目をつけられて引き上げられたということだろう。自分では〈なる〉つもりがなくても、実際のところ他人の手でプロ野球選手に仕立て上げられたというわけだ。で、腹をくくれた。野球場で野球をするようにただこの座敷で唄ってるだけでは、だれも引き上げない。要するに神無月は歌手に〈なる〉ことはできないんだ。芸術にしても同じだ。なりたいという精力と、七面倒くさい手続きが要る。神無月はただ存在するだけの人間だから手続なんかしない。机で苦労したり楽しんだりしながら、ただ書いてるだけだ。つまり芸術家にもなるつもりはない。……俺は、野球選手になりたかった時期があったのかどうかも、このごろ疑ってるんだ。ただ、神無月が没頭するすべてのことが、神無月にとって大切だということがわかるだけだ」
 よしのりは、
「ふん、野球も、歌も、文学の格下なのにな。どれほど才能があっても、一国の文化的要素の中では格下だ。格上の才能があるなら、きちんと手続をとって、格上のものに属するべきだろう」
 山口はよしのりをギロッと睨んで、
「どうしようもない考え方だな。本当に格下とか格上とか考えてるの? もし横山さんが考えるような格差があるのなら、きっと神無月は格差の階段を上ろうとする手続に美を感じないんだろう。そういう手続は、青高、西高、東大で最後だ。しかもその手続は、野球をするためにやった最後の手続だった。学校の受験はコンテストに参加するというのとはちがう。まじめに勉強した成果は、ミス・ユニバースや文学賞みたいにコンテストにかけられるわけじゃないし、合格したって世間に売り出されもしない。精神の雑なあの母親を満足させるために、面倒な手続をとって回り道をしたんだ。つまり野球を取り戻すためにとった手続だよ。東大はその結果手に入れたすぐれた隠れ蓑だったというわけさ。自由に生きるためには隠れ蓑が要る。なかでも最大の隠れ蓑は世間が価値とみなしているもののふところだ。神無月の手続というのは、そのふところに守られて自由を獲得するための術だよ。時代を泳ぐ理性的なやつもそのふところを利用する。自由のためじゃなく損得のためにな。理性は損得の判断をするし、自己防衛の最大の味方だ。利点より不利な点が多いとわかれば、自由なくつろぎの場所じゃなく、理性で寄り合うパーティ仲間に戻るだろう。神無月は時代を泳ぐ理性の人間じゃないから、自由にたどり着いたら、損得も危険も省みずそのふところを捨てる」
 睦子が、
「横山さんはどうして、そんなに芸術的な名声にこだわるんですか」
 彼女を見ているとなぜかやさしく降る綿雪をイメージする。しんしんと降る真冬の冷え切ったツブ雪ではなく、春先に隙間だらけになってぬかるむ泥雪でもなく、踏むとざらめのようにザクザク音を立てる氷雪でもなく、そこからところどころ枯れ草が立ち上がっているこんもりとした深雪でもなく、まだ一面凍った根雪のある寒いうちに春の訪れのように落ちてくるボタン雪だ。
「スポーツで一時代の寵児になったって、体力測定の数値みたいなものなんか文化史に残らないからだよ。芸術は数値で表わせないし、更新される記録でもない。生まれつき勝利してるか、敗北してるかのどちらかだ。神無月は生まれつき勝ってる。かならず文学で有名になる。だからちゃんと手続をとるべきだ」
 私は、
「芸術というのは、勝ち負けとか、価値の格差とか、有名無名とは関係のない〈宿命〉なんだよ。父と子、母と子、祖父母と孫。生まれながらの絆は永遠の宿命だ。枷だね。芸術もそのくらいカッチリしたものなんだ。生まれたときから芸術家はそうなるべく枷をはめられてる。宿命づけられてる。おまえが本を読む人間ならわかるだろう。宿命的な芸術作品が身の周りにあふれてる。ぼくにはそう見える。でも、その宿命の枷を知らない人たちには、芸術は手続を踏んで階段を昇っていけば到達できそうなものに思えるだろうね。ぼくが芸術家の道を歩むように宿命づけられてるなら、勝負や手続と関わりなく、ぼくはすでに芸術家だということになる。まったく心配いらない。野球をやっていようが、ヒモをしてようが、道路工夫をしてようがね」
「無名でもか」
「それはいま言ったとおり、芸術は有名無名とは……」
 菅野が、
「和子お嬢さんや山口さんがしょっちゅう言ってきたでしょう。神無月さんは、自分の格にまったく関心がないんですよ。神無月さんは上昇志向を持たないことに美を感じる人です。それにしても、スポーツの有名と芸術の有名と―有名にレベルがあるんですかね」
 馬鹿じゃないのとでも言いたそうな口吻だ。
「ある。ギリシャ、ローマのオリンピック選手は歴史に残ってないが、同じ時代の詩人や文学者は残ってる。スポーツ選手は巷で遊んでたやつから選ばれたが、文学者はコンクールに出場する手続を経た人間から選ばれたからな」
 山口が受けて、
「遊んでいて選ばれたレベルと、手続をとって選ばれたレベルと、有名の度合いがどうちがうんだ? 運動選手は、馬かチーターのレベルか? そんなふうに肉体より脳味噌のほうが高級だと考える悪い癖があるから、人類はアタマの卓越のほうを歴史に残そうとしてきたんだ。遊んでいてオリンピックに選ばれたやつのほうが〈すごい人間〉に決まってるのに、せこせこ手続を踏んで、アタマを見せびらかしたやつのほうが歴史に残るという仕組みも、いかがなもんかなあ。芸術家も作曲家も学者も、国王や政治家も、からだを使うスポーツ選手じゃないから歴史に残るという仕組みは、いかがなもんだろう。悲しいと思わない? ……横山さん、何ごとも生まれつき勝ってるやつなんていないんだよ。好きで努力したことをやってみたら勝ったというだけのことだ。神無月はそのことを直観で知ってるから、勝利を見せびらかす手続をとりたがるようなコセコセしたやつに遠慮して、自分のあらゆる才能をわざと見くびって見せるんだよ。俺から言わせれば、そういう擬態自体が不必要なヨロイだ。そんなヨロイで身を護らなくたって、世間は神無月に手を出しゃしない。もともと手続をとって争おうとしてないんだからな。参加しないやつを相手にする物好きはいない」
 カズちゃんが、
「そう。横山さんには気の毒だけど、キョウちゃんはぜったい芸術で世に出ないわ。キョウちゃんが手続を踏まないからという理由も当然あるけど、たとえ手続を踏んだとしてもだれもあえて引き上げようとしないからよ。キョウちゃんが書くものは、専門家を打ちのめしてしまうんだと思う。芸術家の直観とはこういうものかって突き放されるような感じにさせちゃうんじゃないかしら。きっと野球もそうね。よしのりさんが言うとおり、どんなに華々しく活躍しても、やっぱり文化の歴史には残らないでしょう。山口さんが言うように、知性を重んじる世の中では、肉体の才能なんて無力な脇役だから。でも、キョウちゃんはそんな背比べとはぜんぜんちがう世界に住んでる。背比べに勝って名を残したい人間だらけの世界とは、ぜんぜんちがう世界に」
 私を慰めるためにだけ、カズちゃんはどんなに遠くからでも飛んでくる。そして永遠に私を慰めつづける。
「オーライ、わかったよ。根本的に考え方がちがうんだな。いつも話が食いちがってもの別れになる。いまのところ、野球の名声でがまんしとくさ」
 私はホッとして、
「旗色が悪いな、よしのり」
「まちがったことは言ってない」
「どちらもね。……友というものについてひとこと話しておきたいんだ」
「おう、何でも言ってくれ」
「人間の根本的なことはわかりやすい言葉で言える。だから話はすぐ終わる。友情は信頼の上に成り立つ。たがいに信頼し合う。信頼し合うためには正直であるべきだ。正直さはぶつかることもある。対立したときは、ちがいを認め合い、相手を許す。真の友なら仲直りできる。以上だ」


         百十二

「ふん。……ところで、アイリスにはサントスも置いてるんだって?」
「そうよ。知ってる人は少ないけど、一度味わうとファンになるわね」
「サントスは雨の日にも合いそうだ」
 よしのりが思いつきを言うので私は、
「どう合うんだ」
「なんとなくさ。雨の日、人生にくたびれた男が、ぼんやり窓の雨を眺めながらサントスをすすっている。残りの命をすするように」
 私は茶々を入れる。
「それ、雨の日でなくてもいいし、サントスでなくてもいいんじゃない? ある風の冷たい夜、人生にくたびれた女が、窓の外で揺れる木の枝をぼんやり眺めながら、焼き芋を食っている。これを食ったらもうこの世に未練はないという顔で」
 カズちゃんたちがウフフと笑い、山口がアハハとふんぞり返り、女将と文江さんはサントスの意味がわからず微笑み合った。女将が、
「コーヒーの話をしとったんやろ。アイリスのコーヒーの味はどうなん?」
 素子が、
「どえりゃうまいがね」
「じゃ、うちらもそろそろいってみんと。あしたは江藤さんたちがくるし」
「江藤って、だれ?」
 よしのりが訊くと、山口が、
「そうか、プロ野球と言えば長嶋と王ぐらいしか知らない人だったな。中日ドラゴンズのスラッガー、江藤慎一だよ。横山さんの認める文化人じゃない。横山さんいわく、文化的に格下のスポーツ選手だ。俺は江藤とか水原なんて聞いたら、素朴にびっくりするけどね」
「格下でもリアルタイムの有名人ならオーライだ」
 千佳子が、
「そこまでくると、もう病気ですね」
 睦子が眉をしかめる。
「有名病」
 カラオケのステージから戻ってきた主人が、
「はいはい、みんな仲良く。考えが浅いのは横山さんの愛嬌なんやから。最高の有名人が神無月さんだと、どうしてもわからんようやからな」
 菅野がケラケラ笑った。法子が、
「私、あしたの朝帰るので、江藤さんたちとは会えませんね。来年を楽しみにしてます」
 法子はすでに赤坂のホテルで水原監督以下レギュラーたちに会って、親しく口を利いている。そのことを言おうとしない。よしのりと別の意味で、彼らのことを特殊に思っていないか、もし特殊だと思っているなら、人に話して自慢に聞こえるのがいやなのかもしれない。
「会えるチャンスはこれからいくらでもあるよ」
 御池が、
「付き合い、たいへんでしょうね。やっぱりゴルフなんかもするとですか。新聞とか週刊誌に、野球選手やら芸能人やらのゴルフコンペの記事がしょっちゅう載っとりますが」
「ぼくはやらない。仕事以外の集団行動はしないという口約束を最初に交わしたんだ。十一月から一月にかけての合同自主練習、上層幹部との不定期な食事会、芸能人とのパーティ、ゴルフ大会、ラジオテレビの出演といったものは、ぜんぶ辞退するという約束だ。と言っても、合同練習以外、まだ実際に断ったことはないんだけどね。誘ったときのぼくの反応がわかってるから、一度も誘ってこない。水原監督や江藤さんのような気に入った人たちと、私的な付き合いをするくらいだ」
 よしのりが、
「もったいないな。俺ならウハウハ参加しちゃうぜ」
 カズちゃんが、
「そんなことばかり言ってると、よしのりさん、ほんとにキョウちゃんに見かぎられちゃうわよ。せっかく岸壁の母で名誉挽回したのに」
「小物だからね俺は。俺だってじつは、文学的名声と縁のない神無月を認めるのにやぶさかではないんだ。ただこのままだと、悔しくてさ」
「作り物の芸術よりも、作り物でない人間そのもののほうが信じられる。生きいきと動き回って、生きいきと考える人間はすばらしい。人間の美徳は行動力と思考力だ」
 よしのりは唇を噛み、
「学歴のあるやつの行動力と思考力は愛でられる」
「悲しいな……おまえが肩書や名声のような人間の外ヅラを求めるのは、学歴がないことを恥じてるせいだ。そんなに行動力と思考力があるのに。……文明社会の典型病だよ。世界じゅうがそうだ。オックスフォード、ハーバード、そんな大学見たこともないだろ。……いつから世界はこんなふうになっちゃったんだろうな。学歴を中途にした人間に社会が寄ってたかって劣等感を押しつける……。理性的な人間が喧嘩の弱さを肩書でごまかすようになってからだろうな。ま、いいや、そんなくだらないこと、考える時間が惜しいや。よしのり、おまえは典型的な文明人だ。原始人になれば、病気も治る」
 少し酔ってきた。よしのりは、
「その病気ときちんと戦って勝利して、ケツをまくった人間は最強だよな。どんな理想論だって言える。……おまえだって、中卒はいやだろ」
「いやじゃない。才能と人間性だけを何のわだかまりもなく愛してもらえるなら、何者かになるための学歴も肩書もいらない。便宜のためとは言え、東大にいってしまったし、プロ野球人の肩書をつけてしまったので、おまえにとってぼくの話は理想論に聞こえるだろう。でもわかってくれ、こうしか生きられなかったんだ」
 それきり、文明人のよしのりは黙ってしまった。
「そうめんありますか」
 私が言うと、おトキさんがパッと立ち上がり、
「ありますよ。焼きそばも作りましょう。ほかに食べたい人は?」
 山口と主人と菅野が手を上げた。おトキさんにくっついて、節子と文江さんとトモヨさんが厨房へ立っていった。千佳子と睦子があとを追う。山口が、
「腹ごしらえしたら、もう一曲いくか?」
「うん。歌ったら、寝る」
「何時間か前まで試合をしてたんだからな。疲れただろう」
 そうめんが三つの大鉢に、焼きそばが三枚の大皿に山盛りで用意されたので、店の女や賄いたちもテーブルについてすすりはじめた。菅野がズルズルやりながら、
「神無月さん、いくら集団行動がいやだと言っても、サイン会みたいなものは出ていかなくちゃいけないんでしょ」
「はい、それはファンに対するお礼の行事ですから」
 主人が、
「そうそう、ドラゴンズの広報から葉書がきとったわ。九日の水曜日、ドラゴンズ選手サイン会、松坂屋特設ロビー、午後一時から三時まで。北村の連中はいきません。マスコミに絡まれたら厄介ですから。テレビやニュース映画までくるでな。こういうときはじっとしとらんと」
「翌日の十日に水原監督たちがきます。十一日の昼には、広島行きの飛行機ですね。年間スケジュール表は届いてますか」
「オールスターまでのやつがきとります」
 よしのりが焼きソバの皿に手を伸ばし、自分の受け皿に山と盛ると、周囲を窺いながら半分もかきこんだ。御池が目の前の男たちにビールをついでいく。
「今年のオールスター三戦は、どこどこですと?」
 カズちゃんが水屋の引き出しから封書を取り出して便箋を広げる。主人が先んじて、
「七月十九日土曜日、東京スタジアム、二十日甲子園、二十二日平和台」
 カズちゃんがうなずく。
「そのとおりよ。頭に入ってるわね、おとうさん」
「神無月さんが頓着せんから、ワシと菅ちゃんがしっかりせんといかんのです」
 菅野が、
「神無月さんのスケジュールはだいたい覚えてます。中日球場の試合はぜんぶで七十から八十試合あります。年間予約の席を三つ取ってますから、一年じゅう、北村席のだれかは応援にいくことになります」
 主人が、
「オールスターも、一試合は出かける予定でおります。たぶん、甲子園やろう」
 御池はボソリと、
「十九日の東京スタジアムは観にいけるばい。早いうちに予約券ば買わんといかん」
 女将が、
「うちら女はテレビやな」
 山口が、
「野球のシーズンが神無月の四季になったんだな。ようやく神無月がじゃま立てされないで暮らせるようになった。よし、みんな夢の中、いくか!」
 山口が立ち上がると、丸信子がパチパチ拍手した。釣られていっせいに期待に満ちた拍手が上がった。丸はいつの間にか清楚なワンピースに着替えている。耳掻き天童も黄土色のツーピースをきちんと着ている。山口がスツールに坐り、ギターを抱えてしゃべりはじめる。
「神無月が名曲を発見するアンテナはすごいものがありましてね。これ弾けるか、と彼が俺に訊いてくる歌は、百パーセント名曲です。小学生のころから彼が好んだ曲を尋いてみると、音楽的センスが抜群だったことがわかる。巷で流行った曲がほとんどないのに、音楽史に残る正真正銘の名曲ばかりなんですよ。俺は自分の趣味の関係で、その大半を聴いたことがあったから対応できた。この『みんな夢の中』は、つい先日たまたまラジオで聴いたばかりだったから助かった。これ、歌謡曲の歴史に残りますよ。神無月は別れの歌をよく唄う。別れが嫌いだからだね。別れの歌を唄って、ますます別れを嫌いになろうとしてるんだと思う。じゃいきましょう、リリースされたばかりの曲、高田恭子、みんな夢の中!」
 張り詰めた調子の前奏が流れる。私はマイクの前に立った。つい数時間前までグランドを走り回っていたことが信じられない。カズちゃん、トモヨさん、節子、法子、素子、キクエ、文江さん、睦子、千佳子。女九人がステージの控えの間のいちばん前に陣取っている。その後ろにおトキさん、百江、メイ子、イネ、ソテツ。その後ろに北村夫婦、菅野、よしのり、御池、天童、丸をはじめとする早番から戻ってきた店の女たち、そして厨房の女たち。

  恋は短い夢のようなものだけど
  女心は夢を見るのが好きなの
  夢の口づけ 夢の涙
  喜びも悲しみも みんな夢の中

「キョウちゃん!」
 節子が初めて声に出して叫んだ。山口の肩がとつぜん上下してふるえ、いったん演奏を中止した。
「山口さん、泣くな! 俺たちが泣くから!」
 菅野が叫ぶ。気を取り直し、演奏が再開され、爪弾く指に力がこもった。短い間奏のあいだ、山口の顔も、座敷の顔も、一瞬明るく輝いた。

  やさしい言葉で夢が始まったのね
  愛しい人を夢でつかまえたのね
  身も心もあげてしまったけど
  なんで惜しかろ どうせ夢だもの

  冷たい言葉で暗くなった夢の中
  見えない姿を追いかけてゆく私
  泣かないで 嘆かないで
  消えていった面影も みんな夢の中

 スタッカートが激しく打ち鳴り、トレモロの後奏が静かに消えていった。おトキさんが顔をハンカチで覆って前屈みになっていた。カズちゃんが激しく拍手し、睦子たちが抱き合い、主人が、
「すごい歌やなあ!」
 と声を上げた。山口がギターを下ろし、膝に両肘を突いて、からだを折るようにして泣いている。おトキさんがステージにきて、山口の肩を抱いた。私はテーブルに戻り、菅野のビールを受けた。
「神無月さん……」
 菅野は何も言えないようだった。女将が、
「ありがと。すばらしい歌やったわ。生き返りました。うちら、ぜったい神無月さんと別れませんからね。神無月さんもうちらと別れんといてね」
 よしのりが、
「おまえは常に〈いま偉人〉だな。総理大臣でもないのに」
 菅野が、
「いいかげんにしてくださいよ」
 機嫌が悪そうだった。
「じゃ、ぼくは寝ます」
 まだ十時前だったが、しばらく起きている様子の主人や山口たちにお休みを言って、一階の空き部屋にいった。カズちゃんがいっしょにきて床をとってくれた。
「よく寝てね。起きたらお風呂に入れるようにしておくから」
「うん。あしたのランニングは昼めし前にするって、菅野さんに言っといて」
「はい。遠出するなら、山口さんたちも連れてってあげて」
「うん」
「法子さん、少ししたらこの部屋にくるけど、いい?」
「いいよ」
 カズちゃんは自分以外の女との未来を教える。私の興味はその女との過去だ。私の条件反射。つづけられる。ぜんぶこなす。限界がきたら? 眠ろう。一晩ぐっすり眠ればすべてうまくいく。


         百十三
 
 隣に裸の法子が寝ているのに気づいたのは、三時間も眠りこんだあとだった。冷えこんできて目が覚めた。足の先から冷えこんでくるような、桜の季節とも思えない寒さだ。私は法子の体温を求めて抱き寄せ、なつかしい大きな乳房を握った。
「温かい」
 目覚めた法子は口を吸ってくる。
「吉祥寺の部屋に独りでいるとね、どんなに神無月くんのことを愛してるかわかるの。だれもいらない、神無月くんだけがほしいってわかるの」
 口を吸い、柔らかい茎を握る。
「三カ月ぶり。いつも握っていたい。……来年の一月には名古屋に帰ってくるわ。どんなことがあっても、神無月くんが困らないようにしっかりと基盤を築くの。あと十カ月よ。ああ、硬くなった、うれしい」
 法子は上になり、唇を離さないまま、尻だけの動きで快楽を高める。なつかしい襞に包まれる。法子は微妙に陰阜を動かし、昇りつめていく。私の唇を噛み、首にむしゃぶりつく。尻を引き寄せ、律動する。法子も激しい反射で応える。
「ああ、大好き、私の郷さん!」
 痙攣が治まるまで抱き締めている。法子も応えて強く抱き締める。
「二カ月にいっぺん、名古屋にきます。毎日でも逢いたいけど、がまんするわ」
「ときどき遠征で東京へいくよ」
「一人きりのときだけ逢うようにします。おかあさんもときどき抱いてあげてね。齢とってから性欲に目覚めると、とてもつらいものらしいから」
「そうなの?」
「うん。どうしてこんなにたくさんの齢とった女の人が郷さんを求めるのかなって、あるとき疑問に思って、だいぶそういう関係の本を読んでみた。男の性欲のピークは二十代で終わって、あとは死ぬまで少しずつ衰えていく、女は四十前後がピークで、六十前後でほとんどなくなる、ときどき、五十代、六十代で初めて目覚める人がいて、そういう人は七十前後まで強い性欲がつづく。それを確かめたくておかあさんに訊いてみたの。……そうだって打ち明けてくれた」
「そういう性欲を目覚めさせたのはぼくなんだから、一生責任をとらないとね。六日の夜にいく」
「待ってます。私、来年名古屋の仕事が落ち着いて、お店をおねえさんたちにまかせられるようになったら、女の仕事に挑戦してみたいの」
「やっぱり、子供?」
「そう。トモヨさんを見てたら、郷さんに感じるのとはちがう、もっとふんわりした気持ちが湧いてきたの。二人でこんなに愛し合って生まれてくる子供に、郷さんを、そして郷さんの世界を見せてあげたいって。孫がほしいって言ってたおかあさんの願いも叶えさせてあげたいし」
「いつごろ産む?」
「……二十五歳ぐらい、かな」
「なんだ、まだまだじゃないか」
 法子は私のものを口で清めると、私の胸に両手を置いて眠りについた。
 私はこれまで、その表情や振舞いから、自分には女たちの深い思いを察することができると思いこんできた。溶けこむのは得意だ。自分をカムフラージュすればいい。思考方法をまねするのだ。しかし、どうまねしても彼女たちの心を察することはできなかった。何よりも深い謎は、母が私を産んだことだ。ほかの女とひとしなみに、子供のいる家庭生活を彼女が望んだとは思えない。母にとっても、私を産んだことは深い謎なのにちがいない。
 また四時間ほど眠った。起きると睡眠時間の足し算をした。試合日でもないのにそんなことをするのはめずらしい。寝床に法子の姿はない。時計は八時を回ろうとしている。別れを告げずに去るのは法子が私を信頼しているからだ。
 四月一日火曜日。曇。十一・七度。たしかユリさんが四月生まれだった覚えがある。何日だったか忘れた。五十一歳。文江さんと同い年。一年に一度は逢わなければいけない人だ。私の望みは? いつも解決がついたようでいて解決のつかない難しい問題だ。しかし私はそれを探すことを生きている目的にしている。
 小便をして、カズちゃんが用意していた風呂に入った。屹立したままだ。一度だけの交接で終えるとかならずこうなる。最近では習いになっている。歯を磨き、頭を洗って、湯船に浸かりながら、グロテスクな自分のものを見つめていると、戸を開けてカズちゃんが覗いた。
「法子さん、ごはん食べてさっき帰ったわ。とっても幸せそうだった。千佳子さんも睦子さんもそうだけど、すごいわねえ、十八、九の美しさって。でも、キョウちゃんがいちばん美しいわ。お風呂上がったら、ごはんにしてね。みんな終わるころよ。節子さんたちはもう出かけちゃった。私たちも開店初日でもうすぐ出かける」
 きょうが四月一日であることを思い出す。
「……カズちゃん、いま、できる?」
「だいじょうぶよ」
「出していい?」
「いいわ」
 立ち上がってそそり立ったものを示す。
「わ、おいしそう!」
「最近、つづけてしないと、ぎんぎんのままなんだ」
「知ってる。最近にかぎらず、むかしからそうだったのよ。ごちそうになるわね」
 下着を脱いでやってきて、スカートをまくって腹の前で縛り、湯殿に両手両膝を突いて湯船の中へ尻を向ける。私はカズちゃんの裸の尻をつかみ、挿入する。握手のように簡単で気を差さない。カズちゃんはすぐに達する。腹を抱えてやる。やさしくうねり、するどく締めつけてくる。数度往復する。たちまち迫る。
「カズちゃん、イクね」
「うん、イッて、私もイク、ああ、信じられないほど気持ちいい! 愛してる! イク!」
 波打つ襞の中へ吐き出す。私の律動にみごとに合わせて強く痙攣する。引き抜くと、カズちゃんの柔らかいからだが前屈みに折れ、床板に両肘を突いて尻を反射的に上げた。小陰唇とクリトリスが美しくうごめく。膣口から精液があふれ出し、スキーン液が幾筋も飛ぶ。カズちゃんは腹筋を搾って私の精液を出し尽くすと、こちらを向いて横坐りにへたりこんだ。湯船の縁を両手でつかみ、私のものに唇を突き出す。そっと亀頭にキスをしながら、カズちゃんはもう一度襲ってくる快楽の波に身をまかせる。
「ごちそうさま。また気が向いたときに、ね」
 口中深く亀頭を含む。
「いつも気が向いてるんだけど」
 口を離し、
「わかってるわ。私たちは最高の鍵と錠だもの。でも、都合のいいときにね」
「うん」
 立ち上がってスカートを下ろす。
「よしのりが迷惑かけて、ごめんね」
 カズちゃんはちょっと小首をひねり、言ったものかどうかという表情で、
「たしかにお荷物だけど、みんなの度量が試されてる感じね。おとうさんはいちばんうまく対応してるわ」
 脱衣場に出て、スカートの下にたくしこむように下着を穿く。
「きょうは御池とよしのりが帰る日だね」
「夕方ね。一日ゆっくりして帰るんでしょう。帰り道、御池さんがたいへん」
「ちょっと気の毒だ」
「少しヤケになってるから、自分が愛情に飢えてることに気づかないみたい。敦子さんという人とうまくいけばいいわね」
 私は湯船に沈んだ。
「あしたか、あさっては、節ちゃんとキクエの荷物が届く日だ。手伝いにいかなくちゃ」
「それは千佳ちゃんとムッちゃんにいってもらうことにしたわ。二人とも科目登録の日らしいけど、終わったら駆けつけるって言ってた」
 カズちゃんは廊下へ出ていった。私はからだを拭うと裸のまま便所にいって排便し、もう一度シャワーで尻を洗った。下痢で頻繁に肛門が湿る私の最低限の衛生作法だ。ひさしぶりの高い耳鳴り。ジャージに着替えて、居間の賑やかな食卓につく。北村夫婦はじめ、山口、御池、よしのり、睦子や千佳子がいる。二日目の出勤をした節子とキクエ、初仕事に出かけたアイリス組はいない。主人が、
「お先にすませましたよ」
 と笑う。食卓にさっぱりした好物が並んでいる。アジの開き、片目玉焼き、納豆、白菜の浅漬け、海苔、なめこと豆腐の味噌汁。
「ジュンサイの味噌汁が食いたいな」
 おトキさんが、
「六月の末から七月初めにかけてが旬です」
 直人が板海苔を小さな手でクシャクシャ揉んでいる。私はその粉々の海苔を口に含んで直人を膝に抱いた。
「オチョーチャン、ノリ、オチンコ」
「オチンコ? ああ、おしんこか。食うか?」
 トモヨさんが、
「まだ、そういうものは食べられないんですよ。直人、おとうちゃんのお食事、じゃましちゃだめよ」
「いいよ、いいよ、このままで」
 直人を膝で遊ばせ、どんぶり飯を食いはじめる。イネが主人や山口たちにコーヒーをいれた。御池が、
「電車で遠出した先で走るという話ですが、おもしろそうなんでついていきます」
 よしのりが、
「俺はいい。社長と山ちゃんとくつろいでる」
 山口が、
「俺はいくよ。五日には東京へ帰っちゃうんだ。神無月といられる時間が残り少ない」
 私は味噌汁をすすり終え、
「ああ、うまかった。ごちそうさま。あとは昼前に菅野さんがくるのを待つだけだ」
 私にもコーヒーが出る。よしのりが、
「カズちゃんの店にもいかなくちゃ」
 山口が、
「今夜御池くんと帰るんだったね。きょう二人でいってくればいい。俺は五日までいるから時間はたっぷりある。ところで神無月、一度訊きたかったんだが、おまえのホームランを何度も見てると、ボールがバットに当たってスタンドまでぶっ飛んでいくのがあたりまえみたいに思えてくる。でも、実際自分でソフトボールやったり、バッティングセンターでボールを打ったりすると、まずまともに当たらないし、当たっても飛んでいかない。天才とひとことで言ってしまえばすむんだろうが、どうしてああいう芸当ができるのか不思議でしょうがない。ヒントだけでも教えてくれないか。歌とか文章というのは、それこそ天賦のなせる業で、技術の入りこむ余地はほとんどないだろう。だから、質問するのはあきらめる。野球の離れ業は、習得した技術の占める割合が大きいように思えるんだ。ギターも同じだ。一人のギター弾きとして訊きたい」
 私もコーヒーをすすった。
「ぼくにもハッキリはわからないんだけど、最初の集中的なトレーニングで決まったとしか考えられない。小学四年生ぐらいから、よくバットを振った。中学のころに、椅子から立ち上がれないほど腰をやられたこともある。技術というほど繊細なものじゃない。……コツ、かな。どれほど熱意を持ってバッティングのコツを独学するか、どれほどうまいバッターの打撃を自分なりの見方で観察するか、からだの動きが自然に流れる水のようになるまで、一心にそのコツを反復して身につけ、バットの可動範囲に無理のない最終曲線を作る。それがぼくにとっての理想のバッティングなんだ。一番大事なことは、どんなに難しい球種でも、きびしいコースでも、ホームランを意識しながら練習することだね」
「ホームランを意識する、か。ギターで言うところの超絶技巧だろう。意欲が挫けそうになる臨界点だ。バットの可動範囲に無理のない最終曲線を作る―たぶんだれにもまねできないトレーニング方法なんだろう。何千回も単純に素振りをする選手はいくらでもいるらしいからな。そんな反復練習なんてのは軽く包含してる。神無月流の簡潔な、しかも渾身の説明として聞いておく。参考になった。思い当たる節が大いにある。神無月郷……神だな」
 ジャージを着た菅野がやってきた。コーヒーを所望する。
「アイリス、きょうも満員でしたよ。でも行列は四、五人でした。落ち着きましたね」
 廊下に掃除の足音。北村席が忙しくなる。主人が、
「一日百人くらいか。それでも多いがや。もう少し減らんとじっくり商売ができん」
「減っても増えても、お嬢さんはなんとかするでしょう。神無月さん、きょうは近鉄線で県西の蟹江までいきましょう」
「きょうはポカポカ晴れとるし、近鉄線沿線にもだいぶ桜が咲いとるやろう。花見の予定はもう少し先に延ばそ。おトキ、おまえもいっしょにいって、名古屋の景色と名残を惜しんでこい」
「はい、ありがとうございます。そうさせていただきます。トモヨ奥さん、お台所お願いしますね」
「だいじょうぶよ。楽しんできて。御池さん、ジャージ着ます?」
「あ、お願いします。運動靴もありますか」
「あります。二十七・五」
「ちょっと大きいですけど、だいじょうぶです」
「じゃ、私ちょっと着替えてきます」
 百江が、
「おトキさん、私の服着てって。いい上下があるの」
「そうですか、それじゃ遠慮なくお借りします」


         百十四

 着替えをして出てきたおトキさんは、白いブラウスとカーディガンと、学生服生地の紺サージのスカートを穿いていた。愛らしかった。
「かわいいよ、おトキさん。今夜も、山口燃えるぞ」
「わあ、怖いような、うれしいような」
「うれしいに決まってるくせに、な、山口」
「おう、まちがいない。がんばるぞ!」
「御池、おまえも今度北村にくるときは、恋人を連れてこい。夜、退屈しちゃうぞ」
「わかりました! かならず連れてきます」
 五人で名古屋駅まで歩く。
「菅野さん、蟹江というところまではどのくらいですか」
「急行で一駅。十分かかりません。名古屋駅から西へ十キロばかりいったところです」
 赤と白のツートンカラーの電車に乗り、相変わらず面白みのない風景を眺めながら、八分余りで蟹江に着く。二ホーム四線の退避駅。ホームから改札へいくのに、二つの構内踏切を渡っていく。そのことですでになつかしさが湧き上がっていたが、改札を見てなつかしさは完全なものになった。野辺地駅だ。改札を出て右に視線をやり、アッと声を上げそうになる。待合室。切符売場。木製のベンチシートに何人かの人びとがゆったりと腰を下ろしている。熱田駅だ。駅前に出る。ロータリーにタクシーが並んでいる。見返ると、オモチャのようにかわいらしい、白亜の板造りに瓦屋根の駅舎。不定形の一枚板に墨字で蟹江駅。山口が私に、
「おトキさんがね、東京では自分が万事切り盛りして、俺にはビタ一文使わせないと言うんだ。上京したらすぐ、二間か三間の平屋の一戸建を借りて、五月のコンクールに備えると張り切ってる」
 おトキさんが恥ずかしそうに肩をすくめる。
「すばらしいね、おトキさんの心意気」
「あなたはいずれ若い女と結婚しなければいけない、そのときはきちんと身を引く、なんてさびしいことを言うのが玉に瑕。俺はおトキさんと生涯いっしょに暮らすつもりだ。少なくとも二十年はいっしょに暮らせる。へたすると三十年」
「それもいい心意気だ」
 おトキさんが目を潤ませ、
「……山口さん……私みたいな女と」
「どんな女か、もっと知らなくちゃ」
 菅野も危うく泣きそうになり、
「じゃ、蟹江川目指して走りますよ。山口さんとおトキさんは、私たちの背中を眺めながらゆっくり歩いてきてください」
 線路沿いの田舎道を走り出す。住宅と商店の入り混じったどこにでもある町並。緑が少ないのが意外だ。四、五人の中学生とすれちがう。春休みもあと数日だろう。向学心と希望に燃える眼差しがすがすがしい。彼らの話し声、彼らといき交う気配。遠い思い出の中から少年時代が甦ってきて、たちまち消えていく。
「ああいう目をしてた時期があったかなあ」
 菅野が、
「あったでしょうね。でも神無月さんの眼はあんな弱々しい眼じゃありませんよ。……純粋さというのは、からだの表面に滲み出る時期はかぎられてます。それを過ぎたら、言動で確かめるしかないですね」
 線路沿いを道なりにひたすら走る。御池が遅れだす。
「先いくぞ!」
「はい! 追いかけます」
 菅野と併走しながら語りかける。
「なんでこんな町を選んだの。ちっともおもしろ味がないよ」
「天神山の中学を出てから、この川岸の製造工場で五年ほど働いてました。蟹江川がきれいで、ずっと忘れられなかったもんで」
「え、この町で!」
「はい、日勤と夜勤のある工場でしてね、かよいで勤めました。二年ほどして、そこで女房と知り合って、名古屋市に戻って結婚したあと、タクシー会社に勤めました。二十年前です」
 どこからか堆肥の混じった草のにおいが流れてくる。郵便配達員の自転車が通り過ぎていく。まばらな住宅街が少し上り坂になり、いただきに橋が見えた。大瀬子橋にそっくりの橋だ。足を止め、橋の真ん中に立って見渡すと、堀川と同じくらいの幅の清流が流れている。菅野の言うとおり、都会では見かけない澄んだ流れだ。
「蟹江川です」
 上流の遠景には小橋と住宅街、下流には近鉄線の鉄橋と住宅街。やはり緑が少ない。
「この先は倉庫街で、何もありません。この町は以上です」
 微笑しながら言い切る。思わずみんなで笑った。
「川の水がきれいなのがとてもよかった。この川が、このあたりの人びとの思い出の核だね」
 菅野は目を細め、
「いい言葉ですね。思い出の核。……二度ほどタクシーでお客さんを蟹江まで乗せてきたことがありましたが、かならずこの橋にきて川を眺めました」
 五百野を書き差したまま、しばらく机に向かっていない。母に随って歩いた横浜の四年間の生活は、楽しくはなかったけれども、静かで、明るい貧しさに満ちていた。いま、こうして福々しい賑やかな生活に浸っていることをかすかにもの足りなく感じる。母子の旅の最後の時間が森閑として明るい貧しさの中に過ぎた、と言うだけでは、あまりにも心残りな要約だ。あのもの悲しく静かな生活の喜びをこまごまと書けなければ、いまの陽気な宴のもの足りなさが解き明かせない。書き差したのはおそらく手慰みのつもりで始めたからだ。手慰みは可能なかぎりの装飾を好む。筆が進まなかったのはそのせいだろう。装飾を削らなければならない。
 肩寄せ合いながら歩いてくる山口たちが坂のふもとに見える。ようやく御池が私たちに追いつき、両手を伸ばして深呼吸する。欄干から川面を見やり、
「ほう! 美しか川たい。目の洗われるごたる」
「十五分も走ったから、もういいだろう。歩いて帰ろう」
「神無月さん、ホームランのコツは聞きました。神無月さん独自の体系が立っていて、難しか説明でした。……青くさかと思うばってん、人間のことば聞きたかです。神無月さんがよう言う〈別れない〉ちゅうことは、究極の長保ちですやなあ。人間関係の長保ちのコツば教えてほしかです」
「人間関係は棺桶みたいなものだ。入りこむには両足で飛びこまないと。全身入りこめば出られなくなる」
「比喩でなく、もっと具体的に言ってください」
「正直でいることだと思う。隠し事なし」
「はい―隠し事なし」
「人間は秘密で儲けてる営利体じゃないからね。秘密なしの別の体系で長保ちしないと」
「みごとです」
 山口たちのほうへ戻っていく。床屋、鍼灸院、二層、三層のマンションが混じる。あたかもの景色だ。おトキさんが、
「のんびりして、いいところですね」
 みんなで噴き出した。おトキさんはキョトンとしている。私は彼女の醸し出すあまりに平和な雰囲気に感銘を受けて訊ねた。
「北村席には、曽根崎心中じみた悲劇ドラマはないの? ぼくや山口みたいな幸福一方のドラマじゃなくて」
「幸いなことに、うちでは悲しいドラマはないんですよ。神無月さんのおっしゃる幸福なドラマというのは、講談の紺屋(こうや)高尾みたいなものでしょうけど、この世界では類のないものだと思います。トモヨ奥さんと私がこの界隈では初めてじゃないでしょうか。むかしからある心中ドラマよりも、そちらのほうが派手です」
 山口が、
「悲劇や幸福な和合がここまでめずらしくなったのは、男が情緒的に乾いた時代になったからだろうな。女はいつの時代も阿部定みたいにしっぽり濡れてるものだよ。男がしっぽり濡れてないと、悲劇も和合も起こらない」
 御池が、
「神無月さんや山口さんみたいにしっぽり濡れた男のそばに寄せてもらえて、ワシは幸せです。女はもっと幸せやろうもん。濡れとる男でおられてうれしか」
「政治は乾いてる?」
「はい。S先生のようにたまには濡れた熱血漢もおりますが、十中八九乾いとります。政界はカネの木しか生えない砂漠です」
 蟹江駅のそばまできたので、少し曲がりこんでみる。菅野が通りを見やって、
「小さな店筋になってます」
「建物が古か。よか趣たい」
「猫の額の神社がある」
 山口が、
「名前の石柱がないな。ちっちゃな鳥居が一つ、大木が四本。何の木だ? 榊か?」
「いや、ケヤキの幼木だ。葉が尖ってギザキザしてるだろ。別名、槻(つき)。高槻って聞いたことあるよね。すごく高くなる木だからだよ。木目が美しいから、卓袱台やテーブルなんかに使われる。木造船もそうだな」
「お、きたきた、植物博士。神無月、ケヤキの一句は」
「ケヤキの句は知らないなあ」
 おトキさんが、
「神無月さんは、どうしてそんなに木や花に詳しくなったんですか」
「祖母の影響だ。中学校のころも、ばっちゃを思い出しながらときどき図書室でじっくり植物図鑑を見てた。草木は神経系のない長寿の生きものだ。昼も夜もじっとたたずんでいて、数千年のときを生きる。病気に罹らなければ一万年も生きるかもしれない。ほぼ無限だね」
 菅野が、
「草木の花も長寿ですか」
「うん。草木の生殖を請負って、短命を装いながら反復して何度も生きる。孤独にね」
 御池が、
「詩人の言葉はすばらしか」
「ほんとですね」
「……みなさん、何か食っていきまっせんか。おごります」
「御池は相変わらずだね。一万円札、ポケットに丸めて持ってんだろ」
「はあ、財布は持ちまっせん」
 菅野が、
「お言葉に甘えます。どれどれ、ラーメン・餃子一力亭、喫茶ふれんど、四川料理和源。やっぱりラーメンですね」
 全員一力亭で一致する。建てつけの悪い引き戸を開けて入ってみると、テーブル三つの狭苦しい店だ。古びたセルロイド縁の眼鏡をかけた店主が、厨房の中で鉄鍋を揺すっている。巨人軍の各選手のカラー写真が、壁にうやうやしく額装されて並んでいる。店主は眼鏡をした私に気づかない。巨人軍なら二軍選手でもわかるのだろう。マフラーをした青い事務服の男が奥のテーブルでワンタンメンを食っていたが、ドラゴンズの地元に暮らす彼も私に気づかなかった。
 ラーメンお一人さま九十円なり。御池は男たちにラーメン四人前のほかに、餃子も四皿頼んだ。おトキさんには彼女のリクエストでニラレバ炒めとチャーシューメンを注文した。おトキさんは研究顔で、少しずつ箸をつけた。余したチャーシューメンとニラレバを山口と御池が処理した。ラーメンは甘ったるい味で、好みではなかった。
 帰りの電車の中で私は言った。
「プロ野球選手になってから、一日の経つのが速くてね。去年の秋までは、どんな時間も長く感じられたものだけど」
 おトキさんが、
「なぜでしょう」
 山口がうなずき、
「神無月にはわからないよ。俺にはわかる。早熟な神無月のすごしてきた時間は、ふつうの人間とちがって濃密なものだったんだ。濃密な時間は死を頻繁に考えさせる。本人は意識してなかったとしてもね。長くいっしょに暮らしてきた肉体に飽きあきして、いいかげん離れたいと思うんだろう。そういう一日一日は長い」
「ワシらと同年輩でしょが!」
「早熟な人間に年齢は関係ない。幸福でなかったならなおさらだ」
 いまは幸福のいただきにいる。潮だるみという言葉を何かの小説で目にしたことがある。潮の満ち退きの中間で、流れが完全に止まる時間帯のことだ。時が止まったように感じられる穏やかで平和なひとときだ。だが、長くはつづかない。変わってほしくないと願うことほど変わってしまう。私は潮だるみが終わるのを静かな心で待っている。
「このごろ、やっと、命に没頭するようになった。没頭すれば時間を忘れる。一日の長短がなくなった」
 御池が私を真剣な目で見た。
「時間ば忘れると? それがほんとうなら、神無月さんといっしょに年ばとる楽しみが増えました。時間に捉われんけん、ものごとば焦らずでくる」
 山口が、
「そうだ。野球も、遊山も、むかしを思うことも、時間を忘れさせる。没我だからな。死を考えるのは我を捨てることで、没我じゃない。捨てるまでの時間を気にしつづける。神無月がよくセンチメンタルジャーニーをするのは、我に浸るためだ」
「野辺地だけは感傷旅行をしたくないな。我に浸る思い出がない。よそ者に濃密なむかしはない。あそこの時間は無条件に長くて退屈だ。野辺地に流されたばかりのころ、この土地に根を生やそう、この土地の人のように生きてみようと考えたこともあったけど、退屈を紛らわそうとしてよそ者が一念発起してみただけだったんだろう。潤んだやさしい目をした人たちと、半年もいっしょに暮らせなかった。人や風景に浸りたいほどの思い出がなかったからだね。思い出は退屈を吹き飛ばす」
 山口は笑って、
「おまえは熊本で生まれて、たった半年暮らして、東京、野辺地、三沢、横浜、名古屋と転々とした。よそ者と言えるほどの〈よそ〉は持ってない。ただ、野辺地と横浜と名古屋は、不思議に感慨深い場所だったんだな。苦しい思い出が多い。神無月、おまえは刻苦の人間だ。危機感に曝されて生きた場所を思い出にしてなつかしむ。そういうのが肌に合ってるんだよ。その意味で原初の東京も三沢もおまえに馴染まなかったんだ」
「おそろしく複雑な感情ですばい!」
「天才だからな」
「分析ばでくる人も天才やろうもん」
 山口はおトキさんの肩を抱く。おトキさんは真っ赤になって寄り添う。


         百十五

「御池はきょう東京に帰ったら、あしたから選挙運動で忙しくなるんだね」
「はい。水戸の叔父の参院選の事前運動に回ります。運動と言っても、車で選挙民各戸に新聞ば配ったり、投票ば促すハガキを書いたりするくらいのもんです」
「松尾たちも手伝いにいくのか」
「去年の七月に手を借りたばってん、一日でクビを切られました」
「へえ! おもしろそうな話だな、聞かせてよ」
 彼が語りだしたのは腹を抱えるような滑稽談だった。
 御池は、松尾、中尾、宇治田、田中と誘い合わせて、朝早く上野から常磐線に乗って水戸に向かった。みんなに食わせる幕内弁当と一升瓶二本を携えた。
「高畠はいかなかったの」
 私は手短に高畠とはどういう様子の男かの説明をするために、山口たちに甘泉園の一件を語った。三人が納得顔でうなずいた。御池は江藤とそっくりの九州訛りで、
「高畠さんは政治が好きな人ですけん、頼みもせんのに、いち早く帰郷して水戸の事務所に詰めよりました。甘泉園以来、ワシらと行動ば共にせんのです。基本、学者や政治家を尊敬しとりますけんね。ワシらは中庸な立場をとっとるように見せかけとるばってん、どっちかて言えば、馬鹿にしとるのが高畠さんにはわかるわけたい。実際、学者も政治家も馬鹿ですばい。社会的な枠組みば信じて、その中で生きとるけんですね。そんなもんあるち思えばあるし、ないち思えばなかとです。幻みたいなもんたい。幻でなかとは、目の前の人間、つまり一人ひとりの人間だけですばい。そん人たちとの付き合いに心ば砕いとるうちに一生は終わってしまう。高畠さんは、人間そのもんよりも世間の枠組みのほうがずっと複雑やと思っとるんでしょ。鈍感のきわみたい。枠組みばシンプルに整えて、人間に思う存分複雑な活動をさせるんが社会ちゅうもんたい」
「相変わらず頭がいいな! 頭以上に、情がある」
 山口がうなる。それがうれしかった。御池は照れ笑いをしながら、
「車中で弁当ば食い終えると、さっそく酒盛りになったとです」
 松尾はいつもの切腹スタイルで早稲田校歌を強要した。
「おまえらも唄わんか! て大声で命令ばするとです」
 驚いたことに、あちこちの席で歌声が上がった。松尾は気をよくして三番まで唄い終えると、酒瓶を抱えて乗客たちに酒をついで廻った。早稲田ですか、と尋く松尾にどの乗客もすまなさそうに笑いながらかぶりを振った。
「早稲田でなか人も早稲田校歌ば唄う。早稲田大学がいかに人びとに愛されとるかわかったやろう。これが早稲田ぞ」
 と松尾が得意げに言ったのがおかしいと御池は笑う。
 彼らを水戸の選挙事務所の長に紹介したあと、二手に別れてさっそくハガキ書きの仕事をやらされた。暖房の効いた部屋で汗まみれになって五百枚ほどハガキを書きあげたあたりで、昼飯になった。事務所で二千円の食券を受け取り、一階のレストランに降りる。すでに松尾たちが集まって賑やかにやっていた。テーブルにビール瓶が林立している。
「酒はやばか、松尾さん、叱られるだけですまんですよ、バイトがふいになる」
「心配せんでよか。能率の酒たい。ビールくらい、三十分もすれば醒める。しかし二千円てか! 酒でも飲まんと使い切らんばい」
 田中が、
「夜は三千円の食事代が現金で支給しゃるうそうばい。日給五千円、実質日給一万円たいね。ハガキ書き、ポスター貼り、新聞配達、そぎゃんもらってよかとですかね」
「ケツの穴の小さか! 酒でん飲んでリフレッシュしろちゅうこったい。ばってん、新聞配りは面倒くさか。ポストにいちいち入れて歩くんが、まっこと億劫じゃ」
 その態度を見て御池がぴしゃりと言った。
「まじめにやっとる姿勢ば崩さんでください。運動員のいいかげんさは、すぐ対立候補の耳に入って誇大宣伝の材料にされますけん」
「ライトバンば使って二組で新聞を配るらしか。ポスターはあしたばい」
「新聞のハカがいったら、少しでもきょうポスターば貼りますよ。中尾さんか、宇治田さん、免許持っとられますか」
「持っとるぞ」
 中尾が答えた。
「じゃ、松尾さんと中尾さんと宇治田さんは、大洗から山手方面をお願いします。ワシは田中と団地方面を回ります」
 つづきを聞き逃すわけにはいかなくなり、名古屋駅を降りたあとも話がつづいた。牧野公園のベンチに腰を下ろして耳を傾けた。
 新聞を積んだライトバンが二台、事務所から二手に別れて出発した。後ろの荷台に新聞の大きな束が三つも乗っている。当初の予定とちがって、後部座席に田中と並んで一人の茨城大生が姿勢を正している。
「松尾さんという人に、あっちの車に乗れと言われました」
「あの三人はコワモテですもんね。こちらの車に乗るほうが安心でっしょ」
 田中の言葉に茨城大生がうれしそうにうなずく。那珂湊へ向かい、集合住宅を中心に配る。団地やアパートを見つけるたびに、車から降り、新聞を小脇に抱えて、三人バラバラの道を走りながら、玄関の戸の隙間から新聞を丁寧に落としていった。道ゆく人にいき当たるたびにお辞儀をして手渡すということもした。
「手渡しは効果が薄かです。郵便受けでじゅうぶんです。票田地区は、配り漏れのないようにせんと」
 五時を過ぎて、つつがなく仕事を終えて事務所に戻った。松尾たちが玄関ベンチでわいわい話し合っていた。
「クビになったとよ」
「何ですと!」
 役員室へあわてていった。事務長はじめ選挙参謀たちがただならぬ面持ちで睨みつけた。
「サトシくん、これはきみの責任だよ」
「何があったんですか―」
「きみの友人どもは、新聞を川に捨てたんだよ。一部は、下流でうちの党員に拾われて回収されたが、ほとんど流されてしまった。反対派の拠点が川の流域にある。確実に一部が拾われているだろう。配布された市民が捨てたという言い訳は通用しない量だ。事務所の手伝い党員たちには、急ブレーキをかけたときに車の荷台から新聞が転げ落ちたと説明しておいた。あのろくでなしどもは、全員クビにすることにしたからね。もちろんそちらの友人にも連座してもらう。そら、一日分の給料を用意しておいた。みんなに東京へ帰るように言いたまえ」
 ろくでなしどもが表の通りで悠長に煙草を吹かしていた。
「橋の上からゴッソリ投げたっち。山の中にも埋めたんぞ。よか気晴らしができた。アホらしくてやってられんたい」
 松尾がさばさばした顔で言った。バイト料の封筒を配りながら、
「高畠さんもクビですか」
「あれは事務長の腰ぎんちゃくやけん、関係なか。高畠に恐ろしか目で睨まれた。もう東京で遊んじゃらん」
 中尾が田中にケケケと笑いかけ、宇治田が悲しそうに眉をひそめた。見とがめた中尾は、
「宇治田、おまえ、いつまで童貞でおる気や。不甲斐なか。上野に着いたら、トルコいくばい」
「クニに許嫁(いいなずけ)がおる」
「なんじゃ、それ。政略結婚ちゅう柄か。ゴリラが」
 ここまで聞いて、私たち全員大笑いになった。菅野が、
「豪快というより、慎みがないですね。でも会ってみたいな」
「話を聞くだけですましておいたほうがよかですよ。人の時間を奪う男どもですけん」
「横山さんは嫌ってるもんなあ。巻きこみ型の人間はいやだと言ってた」
「カズちゃんは気に入ってるよ。気に入った人間には巻きこまれればいいんだよ。その叔父さん、当選したの?」
「落選しました。ばってん、九月の補欠選挙で当選しました」
「今度の選挙はいつ?」
「まだまだ先ですばい。四十六年の六月です。事前運動は二年間の長丁場になります。社会党の女性候補が強敵たい。落ちたら、翌年以降の補欠選挙で返り咲くしかありまっせん。ばってん運の強か人ですけん、だいじょうぶでっしょ」
 そろそろ三時になる。アイリスに寄ることにした。おトキさんと菅野は、仕事に戻ると言う。数奇屋門で二人と別れ、山口と御池と三人でアイリスにいった。
 行列はなかった。大きな窓ガラスから覗くと、壁に近いテーブルが二つ空いていた。それでも二十人ばかりの客がいる。カウンターにカズちゃんと男の従業員が二人いて、ホールでは男二人と女二人の従業員に混じって、素子、メイ子、千佳子、睦子も制服を着て立ち働いている。厨房はカウンターの背後なので見えない。自動ドアを入る。驚くほど内装の美しい店内だ。
「オー!」
 と歓声が上がった。
「神無月だ!」
「神無月選手!」
 しかしだれも近寄ってこない。壁に貼紙がしてある。

 
プロ野球選手にサインを求めることはお控えください。
 
四月九日(水)に名鉄百貨店特設会場で午後一時よりサイン会が催されます。
  アイリス店主


 三人テーブルについて微笑んだ。
「よく考えてくれてる。ありがたい」
 素子がおしぼりを持ってやってきた。ふだんよりも少し高調子で、
「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか」
 山口が、
「おいおい、ほんとに素ちゃん?」
「私的なお声かけはお控えください。仕事にさしつかえます。フフフ、サントスでしょ? それとチョコレートケーキ」
「うん、それ」
「かしこまりました。しばらくお待ちくださいませ。いまちょうどお客さんの退けどきなんよ。タイミングよかったわ」
 素子はカウンターに近づき、
「サントス三つ、チョコケーキ三つ」
「はい、承知しました!」
 男の声だ。壁に大型のカラーテレビが間隔を置いて三台設置してある。そのうち一台がかかっている。五月に全線開通する東名高速道路の特集をしている。カラー放送は始まっているけれども、ほとんど白黒で放映されている。五、六分おきに宣伝が入る。日立カーステレオ、安眠毛布、トースター、キドカラー、ステレオ、冷蔵庫と矢継ぎ早だ。後楽園三塁側奥の照明塔のシンボルマークを思い出した。
 ウェイトレスがケーキを持ってきた。少し固めの作りの、武蔵野とそっくりなケーキだ。客たちはほとんど軽食をとっている。ときどきこちらを注視する。シャッターの音が聞こえる。ホンダN360。パブロンゴールド。大学サンテ。山口が、
「どこもこうだといいんだがな。和子さんは神無月の苦労がよくわかってるよ」
 千佳子と睦子が遠慮がちに手を振る。シャープハイカラー。テレビはだいたい五万円前後のようだ。なかなか一般の勤め人に手の出る値段ではない。今陽子のハウスバーモントカレー百十円。私は、
「ここに青森高校が四人か。マリスト高校一人。北と南。不思議な縁だね」
 山口が、
「俺たちにかぎらず、人間はみんな、どうしようもなく不思議な縁でつながってる。ただし、出会っただけじゃ縁にならない。ちょっと興味をそそられるくらいの出会いは、目を留めただけで通り過ぎるめずらしい風景と同じだ。出会って、引き留め合い、たくさん会話をしなくちゃな。会話をして、ビシャッと気に入った人間と永遠に引き留め合う、それが縁だ」
 ファイトでいこうリポビタンD。リンゴを齧って血が出ませんか? デンターライオン。
「そういう気に入った人たちとすごす昼と夜は、まさに縁のある生活そのものだね。きのうまでだれが寝ていたかもしれない寝床のにおいを嗅がされるのはいやだ。そういう感覚的なじゃまの入らない生活―」
 山口が私に、
「生活って、安定した習慣のことだろ?」
「うん、感覚的に安定した毎日のことだね。縁でしか安定しない」
 ママレモン。ニューハイトップ。素子が、サントスを運んでくる。
「どうぞ、めしあがれ」
 一口飲む。
「うまい!」
「やや、こりゃ絶品だ。武蔵野よりうまい」
 御池は豆から点(た)てたコーヒーを飲みつけていないようで、ポカンとしている。コニカFTA。岡田可愛のパブロン顆粒。
「こっちにも神無月選手の飲んでいるコーヒーください!」
「こっちにも!」
「承知しました。チョコケーキもごいっしょにどうぞ!」
 ウェイトレスやウェイターが忙しく動きはじめた。サクラカラー。スズキフロンテ。コマーシャルばかりに目が留まる。コマーシャルに流れる品物は感覚的に安定した生活の要素ではない。私たちには縁のないものだ。カウンターのカズちゃんが私たちに向かってうれしそうに手を振った。
 遠慮がちな拍手の中、男三人ドアを出た。


         百十六

「スターって、すごかねェ!」
「大学あたりから、のべつ幕なしに声をかけられるようになった。なんとか慣れようとしてるけど、なかなか慣れない。これから何年もつづくだろうから、無理にでも慣れなくちゃいけない」
 山口が、
「おまえを目がけてかける声だ。親身な声には親身に応えなくちゃ」
「うん、そうだね」
 数寄屋門の前からいつも見かける御用聞きのミニトラックが出ていくところだった。あしたの注文を受けたのだろう。若い男が運転席から私たちに辞儀をした。
 玄関に、すでに帰宅していた節子とキクエ、天童と丸を従えた北村夫婦と菅野が出迎えた。天童と丸が深く頭を下げる。初めて彼女たちの全身を見た。天童のほうがふっくらとしている。二人とも百六十センチくらい。女としては大柄のほうだ。私を好んでくれる女たちに自分の命を奮い立たせようとは思う。しかしどこか乗り気がしないのは、つまるところ、活力を煽る自発的な欲望が湧かないからだ。私に見つめられ、天童と丸は頬を紅潮させた。主人が、
「お帰りなさい。アイリスに寄ったんですな」
「はい。例のサントスを飲んできました。うまかったです。もう一流店ですね。店内の構えも、従業員の動きもすばらしい」
 菅野が、
「あした江藤さんたちとまたいきましょう。さっき電話がきました。昼ごろきて、夕食のあと帰るそうです」
「オッケイ」
 おトキさんも出てきた。
「御池さん、七時半の新幹線ですよ。横山さんは?」
 女将が、
「もう食べはじめとるよ」
「じゃ、御池さん、すぐお風呂に入って、食事をして、お着替えしてください」
「めしも風呂もけっこうです。あっという間の二日間でした。もう少しみなさんと話がしたか。あと何時間もなかとです」
 私が、
「今度はいつ会えるかな」
「さびしか……。東京でちょくちょく会えるというわけにもいかんでしょ。シーズンオフにまたこちらに会いにきますけん」
 山口が、
「東京には俺とおトキさんがいるよ。法子さんもいる」
「は、ときどき寄らせてもらいます」
 座敷にいたよしのりが、
「警察に捕まって、留置場で自殺を図る運動員までいるらしいな。ついこのあいだ東大闘争があったってのに、馬耳東風で粛々と選挙は行なわれるわけだ」
「よしのり、毒のある言い方はよせよ。だれだって仕事がある。いきすぎた運動をして捕まって死ぬのも仕事だ」
「俺も含めてこの世はバカばかりだ。あやまちだとわかってるテーゼをあやまちと認めないバカ、あやまちと知っていて闘争するバカ、正否を問うことを知らないバカ。しかしほとんどが行動しないバカだ」
「学生運動だけに限定してものをしゃべってるな。図らずもおまえは人間の行動の最高峰に政治を置いてるということだよ。政治は行動そのものだからね。ただそういう行動重視の思考には〈抜け〉が出る。たとえ生死に関わらないことでも、自分の持ち分の中で命を懸けて行動するバカや、行動しなかった自分を責めて死を思うバカを忘れてないか」
 菅野が真剣な表情で耳を傾けている。山口が、
「横山さん、人間に行動のグレードはないんだ。みんなそれなりのバカに甘んじて懸命に生きてるんだよ」
 北村夫婦とトモヨさん母子が座敷の食卓につき、夕食前の歓談が始まる。直人が私の膝に絡みついてくる。抱いて額にキスをする。節子が抱き取る。
「なんてかわいらしいのかしら。こんなかわいい子、産もうったって産めないわね」
 キクエが、
「節子さんはだいじょうぶ。私は無理」
 キクエが受け取る。よしのりが私にニヤついた笑いを向け、
「北村さんのご厚意で、羽衣にいってきた。むだな種を蒔いてきた。礼儀正しく接してくれたよ。大名気分に浸った。俺は、プロは楽しませられないから、今回でプロ相手はあきらめた。これで、敦子一本に種を蒔く気持ちが固まったよ。愛があればいい実りがあるだろう。ね、おトキさん」
「あれば、というのは、まだないということですか……」
 早番で戻っていた女たちが笑いながら、
「愛があれば、どんな租チンもだいじょうぶよ!」
 惣菜の皿を運んできたイネが呆れ顔で、
「東京帰ったら、そのふとだけにすんだ。あっちこっちに種蒔いてたらだめだよ」
 よしのりがシュンとしたので、主人が、
「男は種蒔き機。神無月さんを見習って、大いにやんなさい」
「神無月さんとは比べものになんねべ。神無月さんはちゃんと種蒔いて、ふとりふとりに責任とってら。こたらめんこい直ちゃんまででかしてせ。ふつうの男は、一人の女に尽くすのがいぢばんだ。大物ぶるのはいぐね」
 よしのりはますます悲しげな顔をしたけれども、愛情を保ちながら、女といっしょに働いて生計を立てなければならないというような、覚悟の要る悲しさとは無縁の表情だった。何かもっと深い野心に根ざした悲しみの表情だった。山口が、
「イネさんの言うことは一理も二理もある。拝聴に値する」
「ヤマグヂさん、あんだは大物だ。神無月さんみてに生ぎるのが似合ってる。山口さんにとってのおトキさんは、神無月さんの和子お嬢さんみてなもんだべ」
 それだけ言うと、厨房へ戻った。トモヨさんが、
「よかったわね、おトキさん」
「はい、もったいないです。和子お嬢さんみたいだなんて……」
 よしのりはやおら表情を構えて、
「御池ちゃん、きみはいつも政治家を馬鹿にしてるけど、政治家たちにめしを食わせてもらってるんだろ。よくないんじゃない? 政治家なんて、だれもがなれるわけじゃない人たちなんだしさ」
「はあ、よくないとは思うばってん、もともと政治家一家なんで、俺のように取り柄のなか人間は巻きこまれて生きるほうがラクなんです。めしば食わせてくれる親の悪口を言うようなものだとはわかっとります」
 女将が、
「和子もよう私らに逆らったものやけど、悪口言うにはそれなりの理由があるんよな」
 御池はうなずき、
「そのとおりですばい。悪口を言うことで、自分が汚いと思う世界に染まらんように自戒しとるとです。北村席のことではなく、政界のことば言っとります。北村席の世界は、俺には美しく見えるばい。一官僚、二財界、三政治家と言われとります。国民を苦しめる悪いことを平気でやる人たちばい。悪いことは彼らの人生ゲームですばい。東大法学部を出て官僚になったり、大企業にでもいったりしたやつは、地元にもどって金持ちの婿養子になって、自民党推薦で選挙に出て国会議員になる。ワシの叔父も、茨城の銀行の頭取の娘と結婚して、自民党の議員になったとです。官僚や財界と結託して、国民不在の政治を繰り広げる人間に成り下がったわけですばい。横山さんが言うような立派な人たちとは思っとりまっせん。ワシはそぎゃん人たちにめしば食わせてもらっとります。かと言って、ほかの分野でめしば食うには乾坤一擲の度胸が要るし、家系の絆が許してくれまっせん。せめて抵抗しなければ、ワシも成り下がった人間で終わるとです。ばってん、S先生のごつ清廉な政治家の秘書ばやって、神無月さんたちのごたる曇りのなか、潔か、才能にあふれた人たちと生涯付き合うことで、自分ば清めていきたかと思っとります」
 御池は、鴨居に飾ってある写真を見上げた。満面の笑顔の私を中心に、これまた満面の笑顔の一家の者たちが寄り合っている。つられてみんな見上げた。よしのりは見ようとしなかった。そんな風景とは隔絶された孤立感があるのだ。結局それがどういう種類の孤独なのか、私にはよくわからない。この男とたがいに理解し合えるときは永遠にやってこないだろうと感じた。
 何かの幸運で引き上げられないとき、私もこの男と同じようになっただろう。幸運がなければ、男という生きもののほとんどが、才能の幻にすがって、くすぶった野心を抱きながら怠惰に生きる。十五歳の自分を思い返して、痛いほどそう感じられた。
 きょうも明るい声がしてカズちゃんたちが帰ってきた。カズちゃんが、
「二人帰るの、何時?」
 よしのりが、
「七時半」
「ホームまで送るわよ。ごはん食べよ。お風呂はあとでいいわ」
「俺はすませた」
 食卓が賑やかになった。めずらしく主人もめしを掻きこみながら、
「どうやった、きょうは」
「百二十人くらい。少し落ち着いたわ。回転もよかった。お昼どきはたいへん。おトキさんが東京にいっちゃうから、ソテツちゃんにいつまでも手伝ってもらうわけにもいかないし。おかあさん、厨房さんもう一人、どうにかならない」
「あんなに腕のええ人たちはもう見つからんわ。メイ子をホールから厨房に入れたらどうや?」
「私、料理は自信が……」
 百江が、
「私が入ります。ここの台所は、これからはトモヨ奥さんと、ソテツさんたちが中心になって切り盛りしていくでしょう。私はいちばん年配で、賄い歴も浅いし、少し足手まといになってますから、アイリスの厨房ならじゃまにならずにお手伝いできると思います」
「ありがとう、そうしてくれる? ムッちゃんと千佳ちゃんは大学が忙しくなるから、ホールも二人ほど足りなくなるわ」
 睦子と千佳子がすまなさそうにする。主人が、
「ホールは何人いるんだ」
「男二人、女三人」
「それでじゅうぶんだと思うぞ。ま、様子見に一人増やすくらいでいいんじゃないか」
「様子がわかるまで、私入ります」
 丸が手を挙げる。
「丸ちゃんはナンバーいくつや」
「鯱のナンバーセブンです」
「もうトルコはやめたらええ。ちょっと実入りが減るけど、ええか?」
「ぜんぜん。できればずっとアイリスをやらせてください」
「年季は」
「あと一年半です。毎月三万円ずつ返済すれば終わります」
「それならいけるな」
 山口もよしのりも聞こえなりふりで黙々とめしを食っている。トモヨさんが、
「天童さんは?」
「あと二カ月です。完済したらここを出なくちゃいけません」
 カズちゃんが、
「あなたもトルコをやめてアイリスに入ればいいじゃない」
「え! いいんですか。三十五ですよ」
「いいわよ、働き盛りじゃないの。丸さんだって三十でしょ。アイリスに勤めてれば、ここを出なくてすむわ」
「ありがとうございます。私、羽衣のナンバー十五あたりをウロウロしてるので、助かります」
「こちらこそ助かったわ。丸さんもありがとう。千佳ちゃんとムッちゃんは、しっかり勉強してね」
「はい!」
 同僚の僥倖を目のあたりにして、翳りのある眼差しをする女たちがいないことにいつもながら感心する。丸と天童のしたことといえば、私に流行歌の名前を教えたことと、私の耳をほじったことにすぎない。なぜかそれが主人夫婦やカズちゃんたちの目に重大なことと映ったのだ。私は自分の影響力の強さを思い知ると同時に、この先の〈成り行き〉がぼんやり予想できた。
「さあ、めしを食おう」
 主人の明るい声を潮に、たちまち箸や茶碗の音が座敷のほうぼうから上がった。おトキさんが、
「御池さん、あんたも食べときなさい。それとも、天ぷらうどんでも作る?」
「あ、それお願いします」
 菅野が、
「私も、それ、よろしく。運ぶの手伝います」
 厨房へ飛んでいく。一つ注文が増えただけで台所が繁忙をきわめることを知っているからだ。菅野が毎度こまめに、小学校の小使いさながら動き回るのは、きょうに始まったことではない。中学を出てから蟹江の製造工場で働き、それから二十年もタクシーの一線でやってきた。数年前までは、フロントガラスから射しこむ光で焼かれた茶色い皮膚をしていたけれど、運転席から解放されたいまは色も白くなり、からだが素軽くなったというのか、あれこれこまめに立ち動くことに張り合いを見出している。毎朝のランニングもその一つだ。



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