百十七

 よしのりはすでに荷物をまとめて、おトキさんの出したコーヒーをすすっていた。私はよしのりを荷厄介に思おうとする気持ちを戒めた。
「よしのり、さびしそうな顔をするな。ぼくたちのなれ初めを忘れないでよ。ぼくはおまえに出会って救われたことや、ここにいるみんなに出会って救われたことをぜったい忘れない」
「口だけなら何とでも言える」
「……立身とか、勲章とか、わが身を序列化したり飾ったりすることに没頭するのも、それで自分の命が輝くなら悪くはないと思う。でも、古きよき時代や過ぎた年月への感傷に浸るような、そういうことでも命を輝かせてほしいんだ。ものをしゃべるときに事実そのままを言わない、いったんいろいろな教養のふるいで漉した脚色話をする―ぼくたちだけでも、そういうことをするのはやめよう。ぼくは、頭のいい、学歴のない、権威主義者のおまえを愛してるよ。いつも機嫌よく、正直者でいてくれ」
「神無月!」
 よしのりはうつむき、ポタリと一粒涙を落とした。山口が彼の手を包みこんだ。泣いている。御池も唇を結んで泣いていた。よしのりは顔を上げると、軽く肩を揺すって都会的な感じののどかな笑いを作った。
「山ちゃん、何か一曲」
「よし、神無月の選曲にしよう」
 おトキさんが居間からギターケースを持ってくる。
「グルックの精霊の踊り」
「好きだなあ、神無月はいつもそれだ」
 弾きはじめる。女たちが寄ってきて、うっとりと耳を傾ける。トモヨさんは直人を抱いて山口の背中に坐り、幼い耳に名曲を滲みこませようとする。澄んだ絃の音が部屋じゅうに響きわたり、周囲の人たちが思わず顔を見合わせる。
「すてきな曲。初めて聴いたわ」
 カズちゃんが言う。よしのりは、うん、うん、とうなずき、
「バリケードで聴いたら、滲みるだろうな」
 よしのりには私とちがう体臭がある。俗界から離れない俗人の眼光が見え隠れする。あの野辺地の海岸から逃れ、どんな精神の経緯で、俗界に抵抗する学生運動に関心を持つようになったのだろう。たぶん関心を持っていない。労働者の汗をかかずにそのにおいを嗅ぎ、彼らといっしょにシュプレヒコールを叫ばずにシュプレヒコールを聞くだけの魂。周囲に満ちていた政治や経済の高揚を冷やかにやりすごした私とちがうようでいて、じつは似た者だ。私も俗界から離れなかった。
 山口はギターを弾きながら、俗界から離れた虚ろな表情をしていた。いつもの、芸術そのものに取りこまれた顔だ。彼だけは俗界にいない。私はよしのりに言った。
「この旋律はそういうイデオロギー的な風景には合わないな。路面電車が音もなく走る風景に合う。音楽は思想の場所にはない。……青森高校のころ、アパートの部屋の窓の外に金色の田んぼが広がっていた。音楽はああいう不思議な場所にあるんだ」
 山口は私たちの雑音をよそに弾き終わると、
「さ、よしのりさん、御池くん、いこうか」
 御池は、ごちそうさま、と天ぷらうどんの箸を置き、よしのりといっしょに立ち上がった。居間でジャージを背広に着替えると、北村夫婦と一家全員に頭を下げ、門まで見送られる。主人が言う。
「いつもお待ちしとりますよ。この北村席を拠りどころにしてください。御池さん、汚い世間のゴミをうまく掻き分けて、政界にきれいな風を吹きこむような熱血漢になってください。ご成功をお祈りしてます。横山さん、あなたは奇人だ。そのせっかくの器を萎縮させんでください。もっと思いどおりに生きてくださいや」
 トモヨさんが、
「敦子さんとお幸せに。今度いらっしゃったときは、カクテルを作ってくださいね」
 バイバイ、と直人が手を振った。カズちゃんと私と山口が駅へついていった。
 四人でホームのベンチに坐った。カズちゃんがよしのりに、
「よしのりさんはいつも、キョウちゃんにペシャンコにされるわね。でも、キョウちゃんはあなたを愛してるのよ。自分の愛を貫くためには、容赦のない人なの。愛してるのに相手の気持ちを考えないなんて、へんだと思うでしょう? 自分の世界に留まってほしいからよ。だから、相手の気持ちが自分の理想に照らして歪んでないと判断すれば、百パーセント受け入れるの。自分に対して反感を抱く人は最初から問題外で、口を利くことさえしないわ。男も女も同じ。飛島のお母さんを見てごらんなさい。キョウちゃんに見かぎられたでしょう? 私たちはキョウちゃんに見かぎられないようにしてるんじゃないの。愛してもらうようにしてるの。キョウちゃんは、基準を自分に設けて思いどおりに生きてる人だけを愛してくれるから」
 よしのりはフンと鼻を鳴らし、
「自分ごときに基準は設けられない。基準は個人ではなく社会にある」
 山口が、
「群衆の抽象的動向にか?」
「そう。個人に基準を設け、個人だけで屹立するには、群衆を圧する権威を持たなくちゃいけない。それが不本意な分野でもな。俺はそれを探ってるんだ」
 私は立ち上がって少しホームを歩き、よしのりを振り返った。
「名望欲を否定するわけじゃない。いくら否定しても、きっとぼくにもあるにちがいないからね。それを生きるエネルギーにして生きてる人は多いだろう。そういう欲望は、欲望のもとを懸命に愛して初めて達成できる代物だと思う。水泳、バーテン、文学、舞踊、浪曲、政治……。あわただしすぎないか。御池は政治に未来を託し、山口はギター、ぼくは野球に没入してる。御池が不本意な政治を改革しようという情熱があるのは、政治を愛してるからだ。山口とぼくもまたしかりだ」
「おまえの俺に対する愛情はうれしいと思ってる。ただ、俺にはおまえや山ちゃんみたいな才能がない。才能があれば、欲望の対象を愛することは全面的な安らぎになる。才能がないと、愛だけでは虚しい」
 カズちゃんが、
「愛じゃ満たされないとすると、社会的な不満ね。社会的に二人と大きな差がついちゃったと思ってるのね。残念だけど、現実はそのとおりよ。つまらない現実はね。人はそうやって離れていくものよ。ほんとうは何の差もついていないのに。人間として精いっぱい生きてることには何の差もないのよ。そう納得し合って人間て結びつくものでしょ。結びつきたがらないのは、差をつけることに生甲斐を感じる人だけよ」
 私はベンチに戻って坐り直すと、しゃべる種が見つからず、所在がなくなった。御池が、
「ワシ、権威やら才能やら、面倒なことはわからんとです。ワシは、神無月さんのように奔放で、なつかしい人生を送ることはできん。ぜったいにできん。それは才能がしからしむるところやけんね。ばってん、そぎゃん人たちを見習って生きたか。模範を持たずに生きるんは空しか。じゃけん、自分が神無月さんや、神無月さんが愛する人間からは離れんという気持ちだけはしっかり持っとります。ときどき遊びにきますので、よろしく」
 よしのりは、
「たしかに才能のせいで、神無月は奔放となつかしさと、その両方を一度に経験できるけど、それだけでは社会的達成は叶わないだろうな。神無月には文学が似合うと俺は信じてる。どういう命のもたせ方をしようと、文学を捨てないでくれさえすればいい」
 山口が、
「社会的達成というのは、世間評価にかけるということか」
「もちろんそうだ。とにかく、神無月は文学で名を残すために生まれてきたということさ」
 新幹線が入ってきた。二人が乗りこんだ。カズちゃんがドアの前に立ってよしのりに言った。
「何かあったら電話ちょうだいね。できることなら何でも力になるから」
「サンキュー」
「じゃ、よしのりさん、暇を見つけてラビエンにいくよ。御池くん、おトキさんと新居を構えたら連絡する。ときどき会おう」
「は、じゃ、失礼します。和子さん、ありがとうございました。ご両親によろしくお伝えください。いずれ直人くんにお土産送ります」
 御池は三人に握手を求めた。よしのりは彼の後ろで手持ち無沙汰にしていた。ドアが閉まった。御池はお辞儀をし、よしのりは小さく手を振った。私は懸命に笑いを返した。コンコースを出て、三人思いにふけりながら歩く。
「あーあ、女とちがって、たいていの男は複雑。まるで世間の人たちの代弁者みたい。キョウちゃんも山口さんもご苦労さま」
「和子さんこそご苦労さまでした。慰めを期待する人間は社会の強者だから、屈服せざるを得ない。神無月を座敷牢に閉じこめておきたくなるよ。彼らに対処することで、細かく、しつこく傷つけられるからな」
「よしのりさんはキョウちゃんや山口さんに、いえ、せめてムッちゃんや千佳ちゃんになりたいんでしょうけど、自分を磨く努力をしないから……」
「鈴木も木谷も、よしのりさんとぜんぜん口を利かなかったな。イネさんが少しきついことを言ったぐらいだ」
「そりゃ、キョウちゃんの神経を逆撫でするような人とは口も利きたくないわね。どうしてよしのりさんは、のほほんと生きられないのかしら」
 山口はカズちゃんに顔を振り向け、
「際立った才能のない人間というのは、いつも慰めを求めながら神経を張り詰めてるので、のほほんとすることはないんですよ。その様子が気の毒なので、彼らはものを言うことで殺されることがない。遠慮してもらえるし、慰めてもらえるから、徹底して叩かれることがない。要するにわがままなんですね。和子さんが思うほどぺしゃんこにはされてないんですよ。その分長生きして、慰めてもらった事実をからだの底に沈殿させる。何一つマシな行動ができないという自覚も、そこにいっしょに沈殿させる。そうしかできないことを仕方なく学ぶわけです。たしかに、ものは考えられても、努力して行動する能力を与えられていない人間は、おのれの無力感と戦うよう強いられるけど、どうしようもないんですね。努力できない体質のしからしむるところだもの。和子さん、努力するしないは才能なんですよ。努力したくない連中は行動の分岐点に立つと、立ちすくんで、キョロキョロ逃げ道を探すしかない。この世にはいままでそういう人間がどれほどいたことだろうな。いまもいるし、未来も腐るほどいるんだろうな。神無月はそんなやつらを心配してやるほど繊細だ。心配してやって、傷つけられる。和子さんも俺もそうだけど、ふつうは、わが身を捨てても神無月に人生を捧げられる人間しか近づいてこないし、またそういう人間なら神無月にとってどうという問題もないんだけど、肩を並べたがる人間となると天敵になる。……ここらあたりが、よしのりさんの身の引きどころじゃないかな。神無月がいなければ日も夜も明けなかった時代が彼にもあったんだけどなあ」
「もしかしたら、今度の女の人に心底惚れられて、男としての自信と野心がふくらんだのかもしれないわ」
「なんだかなあ……。もしそうだとしたら、最低だ。女で変わるような男は、友とするに足りない」
 北村席に戻ると、山口は一心にギターを弾き、カズちゃんとトモヨさんたち八人の女は直人を連れて風呂にいった。子供は〈責任〉であり〈救い〉でもある―よしのりが自分の無聊な人生の中へあれほど子供を迎え入れたかった理由は、その二つだ。
「お父さん―」
「なんですか」
「よしのりを慰めてくれてありがとうございました」
「彼は神無月さんたちといると、自分が不甲斐なくて、いたたまれないんですな。……もうここにこないかもしれませんね。……神無月さんの野球は観ないでしょう」
 山口がギターを弾きかけた指を止め、
「お父さん、江藤選手たちがきたら、歌を聴かせるよりも、ギターのリクエストを受けてやって、ポピュラーなやつを弾いたほうがいいと思うんですが」
「いや、山口さんと神無月さんのカップルのことを前宣伝してるんで、一曲だけでも二人でお願いします。あとは懇談会にしてしまえばいいんですよ」
「わかりました」
 トモヨさんが直人を寝かしつけに離れへいった。女たちは風呂から上がってくると、節子とキクエは座敷のテーブルで職場の反省会みたいなことをやりはじめ、千佳子と睦子はあしたの登録科目を吟味しながら書式に余念なく書きこむ。カズちゃんと素子とメイ子は百江を引き入れてお茶を飲んだ。
「睦子、お城のマンションに帰るのはいつ?」
「七日の朝にします。そのまま千佳ちゃんとマンションに帰ります。夕方に金魚が届くことになってますから」
「金魚? ああ、弥富の」
「はい」
 千佳子が、
「金太郎と睦子っていうのよ。これとこれって決めたから、オスかメスかはよくわからないらしいんだけど」
 カズちゃんが、
「金太郎、睦子、仲良く育つといいわね。あしたは、節子さんとキクエさんのお手伝いよろしくね」
「はい、科目登録のあとで千佳ちゃんと駆けつけます」
 キクエが、
「引越し屋さんに電話して、あしたの四時半から五時のあいだに届けてもらうことにしました。同じトラックで届くんですって。適当に小物を運んでくれるだけでいいです。大物は引越し屋さんが運んでくれるそうだから」
 節子が、
「引っ越し祝いのお蕎麦食べましょう。片づけが楽しみ!」
「楽しみすぎて徹夜しないようにしてね。じゃ、キョウちゃん、ゆっくりお風呂入って」
「うん」
 九時半だった。
「じゃ、山口、ぼくの前に早くおトキさんと風呂に入れよ」
「言われなくたってそうするよ」
 主人夫婦と菅野が帳場に退がると、山口とおトキさんは風呂場を素通りして、二階に上る階段へいった。天童と丸が呆れ顔で首を振り、トモヨさんが訳知り顔にうなずく。千佳子と睦子が笑っている。私はカズちゃんに、
「この十日間の予定はわかってる?」
「ええ。あしたは江藤さんたち、六日の日曜日は神宮前の法子さん、九日がサイン会、十日は水原監督」
「忙しい!」
「そうね。とにかくキョウちゃん、お風呂入ってらっしゃい」
「風呂上がったら、テレビを観るよ。そのあと、則武に帰る」


         百十八

 速攻で風呂に入り、座敷で肘枕になってくつろぐ。賄いの女たちはほとんど部屋に戻っている。きょうから始まった『鬼警部アイアンサイド』を観る。十時から十時四十五分。視聴者は私、カズちゃん、素子、メイ子、百江の帰宅組と、天童、丸、そして麻雀をやめて付き合う店の女たち何人か。睦子と千佳子はお休みなさいを言って二階へ去った。
 ペリー・メイスンで名を馳せたレイモンド・バーが車椅子のアイアンサイド役。彼の手足となって活躍する刑事二人と、弁護士を目指して勉強中の黒人青年。アイアンサイドが狙撃されて半身不随になるまでの第一話。内部者の犯行ということで興味をそそるが、犯人を突き止めるまでには至らなかった。ペリー・メイスンのようにスキッとしたエンディングでない。おもしろくなるのは次回からだと言いたいのだろうが、初回を引きずった形では展開されないとわかる。それじゃ私はおもしろくない。犯人などどうでもよく、車椅子の警部であることが重要なだけで、単発で事件を解決していくシリーズにする意図にちがいない。ペリー・メイスンも鬼警部アイアンサイドも、活発に動くのが苦手そうなレイモンド・バーの〈頭脳〉を主人公にする仕立てだろう。愛好者がけっこう出てくるだろうが、私はもう観ない。ポツリと呟いた。
「……予想外の人生だ」
 カズちゃんが、
「アイアンサイドの?」
「ぼくの」
「私のも予想とはぜんぜんちがう。十年前までは型どおりの人生だったわ。ちょっと反抗するくらいで、ただ進むだけ。中学、高校、大学、ゴー、ゴー、ゴー。そして、育った家で結婚式を挙げた。式の最中に縁側の窓から外を見たの。木と空。シンプルな人生の先が見えたわ。子供、お揃いの食器、日曜日の外食……。息苦しくなった。ここを出なくちゃって。ちがう人生を求めたの。そしてついに、キョウちゃんに巡り合った。それから、キョウちゃんが島流しに遭って、私の欲張りのバチが当たったんだと思った。罰を受けながらきょうまできた。……予想もしなかった人生にずっと安らぎを感じられた。私の大切な罪人の人生よ。キョウちゃんといっしょにバチを当てられたまま生きていくわ」
 みんなで耳を傾けている。素子が、
「安らぎを感じられるのは、キョウちゃんが生きとるいまだけやよ。安らぎが消えたら、もうほかのキョウちゃんは見つからんよ」
「みんなそうよ」
 百江とメイ子が私の肩に寄り添った。カズちゃんが、
「もう十一時くらいかしら。さあ、則武に帰って寝ましょう。あしたは六時起き」
「アイリス、当分百人以上きそうやね。最終的には、八、九十人に落ち着くんやろか」
「と思うわ。天童さん、丸さん、あしたは初めてで、いろいろ戸惑うと思うけど、よろしくね。九時入店の、五時上がり。八時半ころ更衣室に入ってれば、みんながいろいろ教えてくれるわ」
 二人でコックリする。
「飲み物類と食べ物類をいっしょに運ぶと危ないから、面倒がらずに、飲み物が先、食べ物があと」
 素子が、
「お待たせしました、ありがとうございました、ほかに余分なことは言わんでええよ。ごゆっくりどうぞ、とか、またお越しくださいませなんかもうるさいわ。心がこもっとらん」
「百江さんはあんなこと言ってたけど、お料理じょうずなのよ。助かるわ」
 天童と丸が立ち上がり、
「送っていきます」
「いいわよ、玄関で」
 丸が、
「もう仕事に戻らなくてもいいなんて……信じられません」
「私も、ずっとここで暮らせるなんて」
 天童と丸に玄関に見送られ、女三人と庭石に出る。カズちゃんの手をとる。
「アイリスの二階の何部屋かは空いてるんだね」
「夫婦者が二組入ったわ。素ちゃんの分を除いてまだ一部屋空いてる。新築の2LDKだから、すぐ埋まるでしょう」
 百江を自宅に、アイリスへ素子を送りつけてから、カズちゃんとメイ子と則武の家へ帰る。メイ子のいれたコーヒーを手に、三人で音楽部屋へいく。箱詰めのジャズレコードが置いてある。アル・ヒブラーを取り出す。ターンテーブルに載せ、針を落とす。『ゴーイング・トゥ・シカゴ』、『アンチェインド・メロディ』と聴く。盲目の男の朗々とした甘いバリトン。コーヒーを飲みながら耳を傾ける。カズちゃんが、
「いい声。でも来本塁打茶菅野・ブラザーズに軍配が上がるかな。睦子さんの意外な趣味ね。……天童さんと丸さんがね」
「やっぱり……。予想してたよ」
 針を上げて、ステレオのスイッチを切る。
「二人とも直接キョウちゃんに言い出せずに、トモヨさんや私に言ってきたの」
「―断ってくれた?」
「うん、断った。こういうことは、一度うなずいたらキリがなくなっちゃう。メイ子ちゃんとイネちゃんでおしまい。キョウちゃんがどれほど寛容でも、もう無理」
 カズちゃんのような女はぜったいいない。彼女はまるで……男だ。駆け引きはしないし、本心を探る必要もない。愛する人間にはかならず本音を言う。穏やかに叱ることも多い。聞いたこともない理の通った言葉で。おかげで私は、人間を規定するさかしらな考えを笑い飛ばせる人間になった。憂鬱の密度も薄くなった。
「断る前にぼくの気持ちの可能性を考えてくれたことはよくわかるよ。たしかに、ときとして望まないのに、勝手に踏みこまれたおかげで、その人が自分の求める存在かもしれないって気づくこともあるからね。でも、彼女たちはどこかちがう。新しい人生をぼくで始められる人たちには思えない。カズちゃんにはすまないけど」
「もちろんよ。謝るのは私のほう。北村でキョウちゃんに興味を持ってる女の子は、もう見当たらないから安心して」
 メイ子が、
「ほんとですか?」
「……まだ何人かいるかもしれないけど……でも、とにかく、おしまい。キョウちゃんは忙しい人になったの」
「野球をやって、休む、それが基本ですね」
 メイ子がうなずきながら、私の寝室に蒲団を敷きにいった。カズちゃんが残りのコーヒーをすする。しみじみ私を見つめ、
「……野辺地で二人して計画したことが成し遂げられたわね。こうなると思った?」
「思わなかった。人生の希望のほんのひとコマで終わるって、あきらめてた。カズちゃんは?」
「キョウちゃんはぜったい成し遂げると思ってた。半信半疑じゃなく、ちゃんと実現させるって思ってた」
「……これは奇跡だよ。すごい奇跡だ。ぼくたちは〈帰ってこれた〉んだよ」
「そうね。希望が始まった場所に帰ってきたのね。希望を実現させて」
 人は固い結びつきを求めて動きつづける。あいまいで無関係に思えるできごとも、徐々につながりがはっきりと表に現れる。生き延びるためにそのつながりにしがみつく。しかし、ちょっと手を離すだけでつながりは絶たれる。
 おまえの望みは何だ、と訊かれたら、答えは簡単だ。
 ―このまますぐれた野球選手でいること。そうあることで愛する人たちを救うこと。
 簡単そうに見える。しかし、永続は不可能だし、どんな手段に頼るのであれ、他人と絆を結ぶのは最も難しいことだ。人を救っても罪の意識は消えないというのはまちがいだろう。人はだれも、自分の罪を忘れるために、人を救うことで正しくあろうと決意して生きる。だから、いまいちばんの望みは何かと訊かれたら、いまよりもっとすばらしい野球選手になり、一本でも多くホームランを打って人びとを喜ばせること、と答える。
         †
 四月二日水曜日。六時半起床。快晴。八・二度。風強し。庭の木の枝がざわざわ揺れている。風のある庭で、素振りを百八十本したあと、ジム部屋で筋トレ三十分。ひょいと油断して力をこめすぎたり、速くやりすぎたりすると、筋肉や腱を痛めるので、ゆっくり緩急をつける。打球のするどさと距離を伸ばすために、名古屋にいるときはかならずやろうと決めている。
 むかしから野球選手は筋トレをやってはいけないという定説があったけれども、それはまちがいだと言われるようになってきた。筋肉を大きく硬くするのではなく、素早く強く動かせるようにするにはジムトレが最適だとわかってきたのだ。先日、阪急戦のベンチで池藤さんや鏑木さんにも教えられた。
 ジムトレで鍛えられる筋肉を〈速筋〉と言うらしい。走りこみで鍛えられる〈遅筋〉というのは競歩や長距離走に必要な筋肉であって、野球などの瞬発力を必要とする筋肉ではない。速筋鍛練のためには、球界で従来行なわれてきた走りこみは効果が薄いとまで彼らは言った。巨人を代表とする多くの球団の走りこみに対して、私にはかなりの反発があったが、的は外れていなかった。これからはきちんと意識して、習慣的なリズム調整のためにランニングやダッシュをしよう。菅野にこのことを言う必要はない。彼のペースでこれまでしてきた軽度のランニングが野球のために最適のものだとわかったからだ。
 庭の芝の緑が増し、生垣には、キンモクセイに雑ぜて植えたサザンカに椿のような赤い花が咲いている。サザンカは冬のイメージがある。でも、冬ばかりでなく春にも花が咲くのだ。椿はぼたりと花ごと落ちる。サザンカは花びらが一枚一枚落ちる。どちらも掃除がたいへんだとメイ子が言う。サザンカは花のあとに、椿より小ぶりな実がつく。この時期の新葉は赤みを帯びている。葉を繁らせる軸は赤黒い。
 玄関前にはカクレミノが植えてある。日当たりが悪くても、一年じゅう緑葉を保つので、いつも玄関が明るい。庭の生垣沿いがさびしいので、近いうちに枇杷を植えようと思っている。そのことを食卓で言う。
「わかった。おとうさんにすぐ言っとく」
 メイ子が、
「モミジは、庭がうるさくなりますものね」
「うん。ヤマボウシは夏にできる実が甘くておいしいけど、背が高くなりすぎる」
 カズちゃんが、
「離れの庭の奥ならマッチするわよ。三本ぐらい植えましょ」
「ああ、奥ならいいね」
 シャケの切り身。麦めしとトロロ。ミョウガの味噌汁。ごちそう。
「素子はアイリスの二階で一人暮らしだけど、さびしくないかな」
「楽しくやってるみたいよ。勉強家だから、いろんな本を読んで退屈しないんでしょ。そういえばきのう、バリスタの資格を持ってる姉妹が応募してきたわ」
「カズちゃんがいれば、必要ないと思うけど」
「そう? 一応、あしたから一カ月だけ試験採用することにしたの。椿町に住んでて、二十八歳と二十六歳。どちらも既婚者」
「人手の足りない分、カズちゃんがホールに出る気?」
「ホールは天童さんたちでなんとかなったからいいの。私や素ちゃんの技術の参考にしたいということと、店に本格的な雰囲気を持たせたかったの」
「従業員が、十四、五人になっちゃうね。給料だいじょうぶ?」
「だいじょうぶよ。一日の客数は、百三十人から百五十人。この何日か様子見てて、それくらいの人数が確実にくるって見当がついたわ。二百人きたらてんやわんやになっちゃうけど。しっかりサービスできるのは百五十人までね。少なく見積もっても一人七百円使うとして、一日の売り上げは九万円から十万円。月最低二百七十万円の売り上げよ。人件費は百五十万くらい、あとは毎日の食材費と、光熱費、有線料、契約を結んでる豆屋、ケーキ屋、オシボリ屋、植木屋への支払い、その他もろもろ合わせて、百万くらい。持ち店舗だから、純利が最低二十万は出る。私は給料なんかいらないから、その分、持ち出しに回せる。長くやっていけるわ」
 メイ子が、
「ギリギリですね」
「最低に見積もってそれだから、ぜんぜん平気よ」
「そうですよね。たいていのお客さんは、食事をして千二、三百円使いますものね」
 菅野の到着前に、カズちゃんたちは出かけていった。菅野は一月の末から、二カ月以上にわたって走りつづけている。大した根気だ。いや、そんな突き放した言い方をしてはいけない。彼は私に殉じている。感謝するべきだ。カズちゃんや山口たちに対するのと同じように。玄関に菅野の声。
「神無月さーん、きょうは電車乗る?」
「電車も飽きましたよね」
「ほんと、ほんと」
 八時にやってきた菅野と、ひさしぶりに西高のほうへ出かけることにする。
「菅野さん、マラソンに出るんだよね」
「いまのところ四十二キロは無理です。二、三年後に挑戦します。二十キロ程度を完走できる自信はつきましたから」
「ぼくは二十キロでも無理だな。心臓破りになっちゃう」

「きのうの晩、十時ごろでしたか、席に江藤さんから電話があって、きょうの二時くらいに五人でいらっしゃるそうです。江藤さん、小川さん、高木さん、太田さん、菱川さん。《一番センター中》に会いたかったんですけどね」
「中さんは群馬に里帰りしてるか、東山の家族とくつろいでると思う」
「へえ、名古屋では東山に住んでるんですか」
「奥さんと八歳の娘さんの家族だと聞いてる。野球選手の家族は謎だね。まだだれにも会ったことがない。独身か結婚してるかもわからない選手も多い」
 区画整理を拒んだ数軒のあばら家のある道を抜け、笈瀬川筋の通りへ出る。アイリスと百江の家と椿神社を右手に見て左へ折れ、浅野とかよったまったく記憶のない灰色の街並を抜け、則武のガードに出る。くぐり抜け、直進して、中央郵便局から那古野へ出る。キャンプ前に走ったときには貧しく煤けていたオヒョウ並木の緑が濃くなり、目を洗う。西高に近づいていくように、〈名もない通り〉と私が呼んでいる見慣れた街並を走る。かなり広い道だが、菅野もこの道の名前を口にしたことがない。
 登校する男女の高校生たちを追い抜いていく。私とせいぜい四歳か五歳しかちがわないのに、その表情と声に一世代を隔てたような不思議に平明な晴れやかさがある。定規で引き下ろしたような鼻筋や、薄く締まった口もとは、未来人の風貌を予感させる。言葉が熱を生み、熱が言葉を生むような人びとではない。この風貌の若者たちが、言葉や情熱と討ち死にすることはぜったいない。
「ここで曲がりましょう。顔見知りに遇いたくない」
 顔見知りなどいるはずがない。いるとすれば金原一人だが、こんな時間に万に一つも出合うことはない。押切を左折し、菊ノ尾通りから環状線へ回り、上更を左折して鳥居通を直進する。帰路に入る。


         百十九

 栄生のガードをくぐり抜け、ひた走る。栄生二丁目。法子と出会った蕎麦屋竹井を過ぎる。退屈な風景に心が安らいでいることに気づく。学生カバンを脇籠に入れて自転車でかよった道を、いまプロ野球選手として走っている。ある種の派手な変身にはちがいないすれども、だれにでも起こる成長途上の脱皮をしただけのことだ。それだけのことに恐怖の身ぶるいをする。
 自分のいまのプロ野球選手という身分や、やっている野球という仕事が、束の間の価値しか持ち得ないのは仕方がない。その束の間に、仕事をする私を気に入ってくれる者の要求に応えることが絶対的な使命であり、幸福への最大の選択肢だと信じている。たしかに私の身分や仕事は私にとって大事なものでも、この世にゴマンとある身分や仕事の一つにすぎず、未来永劫の価値などあるはずがない。何ごともそうだろう。絶対的な価値などないし、絶対的な使命もない。しかし、使命や価値があると思って生活することに生甲斐を見出さなければ、一歩も前へ進めない。
 退屈な風景の中を安らかに走る。退屈な風景に安堵するのは、私の生き方に目新しい修正が加わっていないからだ。生活が退屈の範疇にあるからだ。自分を疑わない、真に退屈でない首尾一貫した人生―山頭火のように句を作りながら大空のもとを放浪したり、辻さんのように全国をギャンブル行脚しながら血を沸かせたり、正木ひろしのように無実の人間を救うための弁護活動に専心するといったたぐいの人生を送る意欲は私にない。彼らは退屈の通念を〈すっかり〉修正して、美や熱情や正義という思想に転化させたのだ。静かな路上を走ることに安堵する思いはするどい思想ではなく、漠然とした感覚だ。筋肉を動かす生理的な感覚のようなものかもしれない。
 私は走っている。私を敬愛する人間と走っている。菅野はきのうよりきょうの私のわずかな目新しさを愛している。カズちゃんも、山口も、私を愛するだれもかれも、私の首尾一貫していない、目ぼしい改革のない、薄ボンヤリした感覚が好きなのだ。彼らも私も世間並の感覚からすれば、わずかに新鮮な人間だ。達成はできないけれども、徹底した首尾一貫にあこがれる人間だ。そんな人間は多少修正された薄ボンヤリした感覚がなければ存分に生きていけない。
「たこ焼き屋があるよ。買っていって、日赤の節ちゃんたちの土産にしよう」
「そりゃまた、突拍子もない考えですね。やめましょう。病院のどこをどう捜せば彼女たちに会えるかもわからないんですよ。きょうは東京から荷物が届く日だし、勤務時間も変則なんじゃないですか」
「じゃ、日赤構内の芝生に坐って食べよう」
「芝生ありますかね」
「ベンチくらいあるでしょう」
 六個入りを二包み買い、それぞれ一つを手に走りだす。東大の本郷構内とはちがって剪定のきいた銀杏並木の緑がまぶしい。本陣あたりで並木の種類が変わった。まだ貧しい枝ばかりだが、初夏に真っ白い花を群がり咲かせるナンジャモンジャだ。
「いい天気だ。十度ちょいですね。昼には十五度になる」
「温度がわかるんですか」
「体感でね」
 タイメックスを見る。十二・二度。風は強いまま。
「五度を下ると、キャッチボールの手が痛くなるんです」
「気温と飛距離は関係ありますか」
「〈感じ〉ですけど、あります。夏場は、高い気温のせいで空気が上昇して滞らないので、空気の密度が低いんです。飛ぶ感じがします。逆に冬場は密度が高い。あまり飛ばない感じがします」
「神無月さんには関係ないでしょう」
「冬に試合をしなくちゃいけないとなると、少しホームランは減るでしょうね。わずかに飛距離が落ちるうえに、手がかじかんでいてミートに重く響く」
 ふたたび銀杏並木に入る。日赤が近い。鳥居通から左へ曲がりこみ、病院を目指す。すぐに三階建ての荘重な建物が見えてきた。円筒形の建物を挟み、遠く近く三棟寄り添って並んでいる。積み石の塀とモダンな駐車場があるきりで、芝やベンチなどという公園ふうの設備はない。警備員の姿が目につく。
「昭和十二年、私が八歳のときにできた病院です。神無月さん、小学校一年のとき鹿島建設の飯場にいたと言ってませんでしたか」
「はい、そうです」
「この病院を建てたのは鹿島建設です。ほら、あれです」
 敷地の一隅に二階建てのバラックが建っていた。八所帯ぐらい暮らせるボロアパートに見える。まちがいなく飯場だ。二人、門を入る。側面の戸脇に鹿島建設出張所という看板が貼りついていた。
「へえ……」
「いまは廃屋になってます。病院が完成してからは、このボロい建物にたった一人の専任社員が常駐して、施設のメンテナンスをしてたようです」
 門を出て、生垣沿いに歩きながらタコ焼きを頬ばる。
「たしかこのあたりですよ、二人のアパートは。北村席まで二キロはありますね。ふつうに歩いて三十分弱でしょう」
 節子とキクエとの奇縁を思う。それが神の仲介で結ばれたものなら、神に借用書を握られていることになる。私の力では縁の結び目は見つからない。とすると、いずれ私はこっぴどい報いを受けるだろう。
「どれも立派なアパートだね。一度訪ねて、ドアでも叩いてみないと暗記できない」
「近いうちに乗せてきてあげましょう」
 病院を囲む石塀にもたれてタコ焼きを平らげる。塀の上に空の容器を置き捨て、
「さあ、いこう!」
 走りはじめる。
「ほんとに名古屋の街路はすっきりしてるなあ。道幅は広いし、横断歩道のゼブラもかならず一本。新宿や池袋の横断歩道には苛立った。車優先社会への反撥だか反省だか知らないけど、縦にも斜めにも人が渡れる横断歩道の珍妙な光景には呆れた。納得顔で渡ってるやつらの気が知れなかった」
 スピードを上げる。菅野はついてきて並びかける。私は訊く。
「松葉会は、実際、北村席の役に立ってるの? ちゃんとしたヤクザ組織がいくらぼくを気に入ったからといって、一般人一人ごときのためにシマ一つの利益を捨てるとは思えない」
「神無月さんは、自分の価値がまったくわかってないですね。役立ってるどころじゃありませんよ。関西系の進出組をすっかり追っ払ってくれました。アルマーニのスーツを着こんだ怖いお兄ィさんや、せこい線彫りのもんもん入れたチャラついたチンピラどもが姿を消したんですよ。太閤通のドブを浚ってくれたわけです。おかげで北村席は、この業界でもきれいな商売をする店として評判を高めてます。すべて神無月さんのおかげです。人が人に惚れる一念は強いです。牧原さんがどうやってうまく追放できたかは詮索することじゃありませんけど、もっと上の組織の力を借りたことは確かでしょうね」
 トルコ羽衣を通り過ぎる。
「羽衣という店名はヒットでした。大門町の隣町を羽衣町と言うんです」
「むかしから?」
「はい。びっくりですよね」
「相変わらずナンバーワンは千鶴ちゃん?」
「はい、稼ぎ頭です。あと一年で辞めて、定時制高校にいくと言ってました」
「あれ? 那古野のお母さんの家のローンはどうなったの」
「母親のイロが払っていくことになったと聞いてます」
「当然だよね。きれいな子だし、もっと自分の幸せを考えなくちゃ」
 菅野は走りながら笑い、ふと振り向いて、言いたいことを収める顔をした。
「なになに、意味ありげな顔をして」
「いや、神無月さんとデートさせてくれって素ちゃんに頼みこんだけど、素ちゃんはハネつけたそうです。ちゃんと高校出て教養つけてから、自分で挑戦しろって」
「素子らしくないこと言うなァ」
「神無月さんに負担をかけまいとしてるんですよ。……ソテツがみんなに言いふらしてます」
「何て」
「ぜったい神無月さんに抱いてもらうって。私、叱っときました。まんいち北村の外へそんな話が漏れたら大ごとになるぞって。覚悟のないことを言うなとお嬢さんも叱ったようです。メイ子さんやイネちゃん以来、みんな柳の下のドジョウを狙ってるみたいですね」
「ぼくは抱いた女はみんな好きになっちゃうし―これ以上はね」
「わかりますよ。少ない経験ながら」
 北村席に走り戻った。十時。一時間半走った。直人は保育園、千佳子と睦子は科目登録に出かけていていなかった。ソテツが飛んできて、
「イネさん、お父さんが亡くなったって、今朝青森へ帰りました。ずっと胃癌で寝てたらしいです。何もしてやれなかったって、イネさん泣いてました。まだ五十歳だったんですって」
「そう。泣けるのはすばらしいことだね。泣かれる人もすばらしい。ソテツちゃんはきょうから北村に戻ったの?」
「はい。百江さんが代わりに入ってくれたので。……そのうち、よろしくお願いします」
 菅野が、
「ソテツ、図々しすぎるぞ。胸のうちにしまっておくというがまんを覚えろ。社長、青森へは北村からだれかいったんですか」
 主人が、
「いや、香奠を持たせただけや。ワシらのような商売の人間は、田舎に顔を出さんほうがええやろ」
 おトキさんさんが厨房から顔を覗かせ、
「私がいっしょにいってもよかったんですが」
「何言っとる。おまえは五日に山口さんと東京やろ」
 私は、女将やトモヨさんたちが茶を飲みながら話をしている台所のテーブルに近寄り、
「家族という重大な問題の解答をあの世から要求してくるのは、死んだ身内の特権ですね。家族以外の他人はそんな問いには答えられない。だから、血のつながりのある者だけで近親の死者を偲ぶことになる。ぼくは、近親は偲べない。思いの強い他人を偲ぶ」
 女将が心痛む様子で、
「神無月さんは身内に恵まれんかったからなあ……。イネのお父さんは、寝こむまでは平雇いの漁師やったそうや。お母さんは通年雇いの漁業組合員。葬式をきちんと終えたら、四、五日で戻ってくるって。しばらく神無月さんの顔見れんのがつらいゆうとった」
 台所の窓から、裏庭のさびしげな棕櫚や無花果の葉が見えた。トモヨさんたちに言った。
「会ったことのない人でも、人が死ぬのは悲しいね。……梢より、放つ後光や、しゅろの花。蕪村」
 山口がやってきて、
「健児荘の庭にも棕櫚が植わってたな。あんな寒い土地に育ちもしないのに。それでも夏には黄色い花が咲いてた」
「いつも葉が枯れてたね。部屋の窓からの眺め、思い出す。特に春だね。白い雲の下にもう一つの雲の層みたいに、裾野が広くて薄青い岩木山が浮かんでるんだ。頂上から谷筋に沿って残雪の白い条が引いてた。何という理由もないのに、目の前が翳るような悲しさがあった」
「相変わらず鮮やかな表現だ。目に浮かぶよ」
 トモヨさんが、
「イネちゃん、二年にいっぺんは帰ると、あてのない約束をしてたそうです。この八年、ときどき弟や妹たちへ学用品なんかを送ってたんですけどね。今回は、母親にあげる衣類や小物をチッキにして送ったようです」
 主人と菅野が外回りに出た。私はシャワーを浴びにいった。小ざっぱりとワイシャツとズボンに着替える。
「お母さん、お父さんのスクラップブック、見せてください」
「はい。一般紙は?」
「いりません」
 ソテツが、
「神無月さんはスポーツ紙以外ほとんど新聞を読みませんけど、どうしてですか」
 女将が、
「ソテツ、失礼なこと言っちゃだめよ」
「いや、失礼じゃない。当然の疑問です。一般紙に載ってるきのうきょうのことは、人が問わず語りにしゃべってくれる。たとえば、いまは山口がいるので、訊けば彼がぜんぶ教えてくれる。それで読まないということもあるけど、じつは、一般紙に書いてあることはぜんぜん理解できないんだ。だから翻訳してくれる人間が必要になる。そんな面倒なものは読みたくない」
 女将がスクラップブックを持ってくる。
「そんなこと言って、人は本気にしてしまいますよ」
 山口が、
「いや、そのとおりなんですよ。新聞に書かれているへたくそな文章のとおりには理解できないということです。何が書かれているかは、ちゃんと理解できるんですよ。それを確認するために、俺たちに訊いてみるんです。翻訳というのはそういうことです。ちょっと説明させてください」


         百二十

 山口の話が聞きたくて、トモヨさんたちや遅番の女たちも遠巻きにやってきた。毎度の図になった。
「たとえば今年に入ってからの事件らしきものを思い出せるまま並べてみると、奥崎謙三パチンコ玉事件、ぼりばあ丸沈没、……減反政策本決まり、東大紛争による入試中止、美濃部都知事ギャンブル廃止、……自衛隊戦闘機住宅街に墜落、磐光ホテル火災、……性転換手術有罪判決、それから、今月には東京で史上二位の降雪。たった三カ月で主立ったものがこれだけありますよ。実感が湧かないでしょう?」
 ソテツが、
「湧きません」
「ね。神無月は実感の湧かないものにまったく関心がないんです。実感の湧かないものは不思議でもあり、世界が白々しく感じられ、その世界に取り囲まれた自分の存在がつまらなく思える」
「私はそう思えないです」
 山口は呼吸を整え、
「聞いてね、ソテツちゃん。なぜというに、いまこうして人と過不足なく愛し合い、充実した気分で野球をしている自分にとって、そういう事件を知ることにどういう意味があるのか、と神無月は考えるからだよ。一般人にとって、そういう記事は、事件そのものを知るというより、自分のアタマでものを考えるためのきっかけにはなるけど、つね日ごろ自分のアタマでものを考えている神無月には、きっかけなどいらないんだよ。これは神無月が新聞を読まない理由の説明だったけど、じゃ、なぜ人はよく新聞を読むのか。その説明をしなくちゃいけないね。俺も、よしのりさんも、お父さんも、お母さんも、ふつうの人間は、ふだん自分の頭で考えたり想像したりしていないからなんだ。考えるきっかけが必要になるんだよ。たとえば、奥崎という人間の心のすべては理解できないけど、天皇に向かってパチンコ玉を打ったことを知るのは重要だ、知ることによって天皇制について考えはじめるからだ、性転換したい人の心のすべては理解できないけど、思い切って手術をして有罪になった人がいることを知るのは重要だ、知ることによって同性愛について考えはじめるからだ、といったふうにね。自分たちに何ができるというわけじゃなくても、目と心で世界を思いはじめることは、ふつうの人間には大切だ。そう心の底で思ってるから新聞を読むんだよ」
「目と心で世界を思うことは、神無月さんにとっても大切だと思いますけど」
「大切じゃないんだ。神無月自体がすでに思索体なので、記事で伝えられる前に考えてるからなんだ。あれこれひっきりなしに起こる事件の種類を考えてるんじゃなく、身の周りの人間の生活のあらゆる局面を考えてるからなんだ。事件のほうが神無月の考えに遅れてくるんだよ。世界を知る必要はない。身の周りが世界の縮図だから。そのことも神無月はよく知ってる。愛する人びとや、愛する仕事を、世界に拡大して考えようとしない。足もとの生活の息吹は神無月のからだに届くけど、世界の息吹は届かない。だから、ソテツちゃんも神無月の恩恵をこうむれるんだよ」
 ソテツは赤くなってうなずいた。トモヨさんが、
「すてきです、山口さんのおっしゃったこと。山口さんは私たちのようなふつうの人間じゃないですね。神無月さんと一心同体の人。すぐれた人です。これからも一心同体でいてくださいね」
「もちろんですよ」
 トモヨさんは、
「何のために毎日習慣みたいに新聞を読むのか、自分でもよくわからなかったんです。郷くん関係の記事はもちろん、あれもこれも熱心に読みますけど、だからといって何をしようというのでもありません。私たち凡人は生きている意味を自分一人で見つけるのは難しくて、世界と少しでもつながっていれば、ものを考えたりもします。そうしていくらかでも生きている意味を知ったりするんです。でも、郷くんの周りが世界の縮図なら、それを知ればいいだけということになります。とても安心しました」
「新聞は、神無月に関わる記事を読めばいいだけですよ。あとは神無月の視線といっしょに眺めていれば、いろいろなことが飛びこんできます。じゃ、神無月、スクラップブックでも見ろ。俺は昼めしまでおトキさんと散歩してくる」
 トモヨさんが、
「私も直人を迎えにいってきます」
 女将が山口に、
「直人が帰ってきたら、江藤さんたちがくる前に、タクシー三台でお花見にいくって、耕三さんが言っとったよ」
「わかりました。一時間ほどで帰ります。メイチカというところを歩いてみたいので」
 山口とおトキさんとトモヨさんが出ていくと、私は座敷に寝転んでスクラップブックに目を落とした。

  
『大リーグに影響力を持つ百人』神無月郷7位の快挙
 神無月郷(19・中日ドラゴンズ)がアメリカの全国紙ニューヨーク・タイムズの発表した『大リーグに影響力を持つ百人』に選ばれた。日本人では唯一の選出である。
 百位までのランキングは、大リーグ各球団幹部、大リーグ機構関係者、かつての名選手などが大半を占めていたが、現役プロ野球選手では、七位に神無月郷、三十一位にサンフランシスコ・ジャイアンツのウィリー・マッコビー、六十九位にニューヨーク・メッツのトム・シーバーの三人が選ばれただけだった。長嶋、王をさしおいての驚愕の壮挙である。
 なお三月末日ニューヨーク・タイムズ紙より白井文吾中日新聞社社主に神無月郷取材の申し入れがあったが、白井は小山武夫球団オーナーをはじめとするフロント陣を招集して合同協議を行なったうえ、これを退けた。理由は、身辺の喧騒を嫌う神無月選手の神経を乱さないためとしているが、将来的な大リーグの勧誘をシャットアウトするためと解したほうがよさそうだ。日本プロ野球界最高の財産である神無月郷を海外へ流出させまいと努めるのは、ひとりドラゴンズ球団関係者ばかりでなく、われわれ国民全体の責務でもある。


 マッコビー! 四打席連続場外ホームランのマッコビー! 
「キョウちゃんもいつか、きっとああいう選手になるよ」
 小山田さんがそう言ったマッコビーだ。私は心の中で快哉を叫んだ。
 さらにページをめくると、中日の快進撃に〈警告〉を発している評論記事があった。投稿者は林義一。『勝利かシーズンか』と銘打ってある。

 優勝を狙うためには、大きく分けて二種類のゲームプランがある。一つは、目の前の試合をどう戦うか、もう一つは、長いシーズンをどうやって乗り切るか、である。目の前の試合を全力で勝ちにいけば、たとえ勝っても選手の疲労がかさみ、故障のリスクが大きくなる。長いシーズンの勝率を考えて、①効率よく勝つ試合、②負担を少なくして負ける試合、そのふたつをうまくミックスして戦わなければならない。オープン戦の中日ドラゴンズはこの使い分けができていなかった。投手起用にもメリハリがなく、全力で勝ち、全力で負けていた。こういう、長打と力投に頼るだけの勝負をしていると、ひょっとしたら、ペナントレースは早々と落伍するかもしれない。

 悪口のための悪口だとわかる。こんなふうに、喜ばしき勝利まで非難する輩がいるのだ。たまたま大量得点になった試合運びを〈全力〉と言って揶揄している。つまり、一、二点を取ってじゅうぶん勝てる試合なら、あとは疲れないように力を抜いてやれということだ。負けがにおう試合なら捨て試合にしろということだ。そんな無気力で小賢しい戦いぶりを観てだれが楽しいものか。みんな優勝の二文字に毒され、スタンドに観客がいることを忘れている。才能に基づいた鍛錬の結果として、速球が生まれ、ホームランが生まれ、大量得点が生まれるなら、難癖をつけるべきアラなどどこにもない。ほんとうに全力でやった結果なら、勝っても負けても批判のつけ入る余地などないのだ。だいたい〈全力で負けていた〉というのはどういう意味だろう。
 主人と菅野が帰ってすぐ、トモヨさんと直人も帰ってきた。直人がさっそく私の首にかじりつく。女将が主人に言う。
「花見はあしたにしよまい。節子さんたちが荷物整理を終わったらこっちにくるし、江藤さんたちもいつくるかわからんし」
「ほやな、みんなを連れていけんのはかわいそうや。開幕まで十日もあるしな。ゆっくりしよか」
 直人が台所へ走っていき、
「おやち、おやち」
 とトモヨさんに甘えている。大きなビスケットを与えられ、大喜びで走り回る。ビスケット―じっちゃの慈顔。いつのことだったか、私を囲炉裏の下座に坐らせ、大きなビスケットを差し出した。炉端にはカズも善夫もいなかった。私は秘密のにおいのする愛情を独り占めにしていた。ピンセットで抓んだような記憶。幸福の時代。
 山口たちが帰ってきた。おトキさんを厨房に迎えて、昼食の仕度が佳境に入る。
「ネックレス、買ったよ。ちっちゃなダイヤが入ってるやつ。一万円。奮発した」
 デジャビュ……私も、牛巻坂のディスカウントショップでそんなネックレスを女に買った。いつだったか、相手がだれだったかも忘れた。カズちゃん? 節子? トモヨ? 法子? 問質すわけにはいかない。
「そうか。いいことしたな。花見はあしたになったぞ。アイリス組以外、全員でいく」
 菅野が、
「十人ぐらいですかね。神無月さん、山口さん、おトキさん、トモヨ奥さんと直人、社長、節子さん、キクエさん、千佳ちゃん、ムッちゃん、ソテツ……」
「節ちゃんたちは、あした出勤でしょう」
「そうでした」
 ソテツが、
「私は留守番します」
「そう言わんといっしょにいけ。花見は初めてやろ。沖縄の桜とはまた感じがちがうぞ」
 主人がたしなめる。
「はい、じゃそうします」
 私が、
「沖縄の桜って、どんなふう?」
「濃いピンクの寒緋桜(かんひざくら)です。一月から二月にかけて、ちっちゃな釣鐘みたいな花が咲くんです。桜吹雪みたいには散りません」
 座敷の女が飛んできて、
「神無月さんがテレビに出てますよ!」
 厨房の火を止め、みんなでワッといく。例の百人をやっている。歓声が上がる。
「……昭和十一年、一都市一球団という理想的なフランチャイズをいち早く確立させたのは、名古屋市の中日ドラゴンズでした。やがて中部日本新聞社が経営に乗り出し、東海地区の名士の支援のもと、小鶴誠、西沢道夫、藤本英雄、近藤貞雄、杉山悟、杉下茂、吉沢岳男、井上登等々、数かずの名選手を輩出し、ついに昭和二十九年、天知監督のもと宿敵巨人軍を倒して初優勝を遂げました。その後昭和三十年代に入り、大矢根博臣、森徹、中利夫、板東英二、高木守道、江藤慎一、権藤博、河村保彦、小川健太郎、木俣達彦らによって黄金時代を現出し、今日に至る栄光の伝統を脈々と築き上げてきました。そして、その伝統の畝(うね)に天馬が翔け下ったのです。昨日、神無月郷選手は、アメリカ大リーグ関係者および、大リーグOB、現役プレーヤー、マスコミ関係者らの厳正な投票のもと……」
 オープン戦の私のバッティングぶりが、アナウンサーの背後のスクリーンに映し出される。山口が、
「くるところまできたな」
「いや、ホームラン王を獲ってないし、シーズンも始まってない。ただ、マッコビーといっしょに選ばれたのがうれしい」
 マッコビーの四打席四ホームランの話をする。菅野が目を拭いながら、
「そりゃ、うれしいでしょう!」
 トモヨさんも頬を拭いながら、
「おとうちゃんが、世界の偉い人に選ばれたのよ」
 と言って直人を抱き締める。賄いの一人が廊下から、
「あの、表がたいへんなことになってます」
 主人が、
「やっぱりな。ほっときゃ帰るやろ」
「そうもいきません。出ていくまで帰らないでしょう。顔を出してきます」
 私はブレザーをはおり、山口と菅野を従えて門まで出ていった。
「ひとこと!」
「ひとことお願いします!」
 という叫び声が交差する。数え切れないほどのマイクが突き出される。フラッシュが光り、ビデオが回る。
「おめでとうございます!」
「世界へ飛躍したいまのお気持ちを!」
 松葉会の黒服たちがチラチラしはじめたので、私は彼らを手ぶりで制し、
「まだ公式戦にも出場していないのに、幾多の業績を挙げられた名選手と同日に論じられるほどの評価を受けたことに戸惑っています」
「アメリカ各紙のインタビューは、いずれ受けられますか」
「受けません。球団の判断を喜んでいます」
「大リーグでプレイすることはあり得ますか」
「まったくありません。単純な理屈です。ぼくは母親の中日ドラゴンズから離れられない甘えっ子です。彼女の膝もとから出かけていく親善野球なら喜んで出場します」
「マッコビーやシーバーとプレイなさりたいですか」
「第三者として、彼らのプレイを〈観たい〉です。ベーブ・ルース以来、大リーグは野球ファンの永遠のあこがれです。ぼくもファンの一人です。野球選手として彼らに肩を並べようという気持ちになれるほど、ぼくは傲慢な人間ではありません」
「開票の結果ナンバーワンに輝いたボウイ・キューン大リーグコミッショナーは、選手の自由移籍を禁止する案の信奉者でして、ドラゴンズ球団幹部の態度に好意的です。彼が言うには、もし大リーグが神無月選手を迎えられる幸運を得られれば、米国民は少なくとも七十本のホームランを楽しめるだろうということでした」
「これからは、ぼく自身の日々のプレイに関する取材しか受けません。人気投票はぼくの手柄ではありません。ホームランやファインプレーはぼくの手柄です。手柄を立てたときに取材してください。なるべく球場で。じゃ、昼めしの時間なので」
 無理やり門の内に引っこんだ。黒服たちが三、四人、門の外に立ち並んだ。


         百二十一

 二時を回って、門のチャイムが鳴った。私と菅野が出迎えた。報道陣も黒服も消えている。
「いらっしゃい! 昼間はうるさかったんですよ」
「そりゃそうたい。世界の金太郎さんやけんな」
 江藤たち五人が周囲の立木を眺めながら庭石を歩き、玄関土間に入って律儀な挨拶をした。主人夫婦とトモヨさん母子が式台で丁重に額づく。主人が、
「みなさん、ようこそ、おひさしぶりでした。おお、小川健太郎さん、初めまして。―勢揃いすると夢のようですな」
 江藤が小川に、
「こちらは北村席の社長ご夫妻。こちらはトモヨ奥さん、この子は直人くん。金太郎さんとトモヨさんの子供だ」
「ホウ!」
「金太郎さんに球界で長生きしてもらいたかったら、ここで見聞きすることはすべて外部に洩らさんようにせんばいけん。特にマスコミには用心してほしか。金太郎さんの人生を食い荒らすけんな」
「オシ!」
 小川がドスの利いた声を出した。女将が、
「どうぞ、どうぞ、上がりゃあせ」
 彼らはぞろぞろと座敷に上がった。おトキさんとソテツが慇懃に緑茶を出す。江藤が、
「金太郎さんの住んどる世界は、ワシらには想像もできんようなギリギリのところで落ち着いとる。ちょっとでも乱したらいけん。水原さんら幹部連中は、たとえこんことば知ったっちゃ、心から理解するにちがいなか。天馬は人間でなかと割り切っとるけんな。マスコミはそうはいかん」
 高木がほんの少し斜視の魅力的な目で、
「ご心配なく。金太郎さんのことは、どんなことも驚きませんし、他言もしません」
 小川が、
「しょっぱなからうれしくなっちゃったよ。ひさしぶりにまともでない世界に踏みこんだ。まともやつに、あんなホームラン打ってほしくないもんなァ。金太郎さん、大リーグ百人おめでとう。バックネットに外人連中がけっこう貼りついてたことは知ってたけどさ。こういうことだとはな」
 彼はすり寄ってきた直人の頭を撫ぜ、
「俺も三十歳でドラゴンズに入団したときは、食べ盛りの息子を四人も抱えてた。まともな人生じゃなかった」
 大便をしていたらしい山口が顔を出し、膝を折って頭を下げた。
「初めまして。神無月の友人の山口です。みなさんにお会いできて光栄です」
 江藤が、
「おお、あなたが金太郎さんの大親友、ギターの達人山口さんね! ご主人から聞いとりました。きょうは金太郎さんとやってくれるんですな」
「やりますよ。ギターはもちろん弾きますが、神無月の声に感動してもらいます」
 高木が、
「巨人との紅白戦のあとの懇親会で一度聴いて、すでに感動してます。もう一度どうしても聴きたいと思ってました」
 江藤が、
「ワシと太田は、明石からの帰りに北村席さんに寄ったときも聴いとります。ものすごか声ですばい」
 小川と初対面の菅野が自己紹介したものかどうかキョロキョロしている。私は、
「小川さん、こちら菅野さんです。北村席の取締役です」
 小川は、よろしく、と頭を下げた。菅野は畳に平伏した。おトキさんはじめ、賄いたちや店の女たちもやってきて、菅野のように平伏する。女将が、
「みなさん、娘の店がきのう開店したんですよ。夕食前にいってやってくれませんか」
 みんなでうなずく。太田が、
「さっそくいきましょう」
 こんにちは、と節子たち四人が玄関にやってきた。女将が、
「荷物整理、終わったの?」
 と訊いている。キクエが、
「はい、二人に手伝ってもらって、ザッとですけど」
 座敷に入ってきて、千佳子が、
「キャ! ドラゴンズ!」
 小川が大笑いする。
「おひさしぶりです! 十日に名古屋駅でお会いして以来ですね」
 睦子は、
「お初にお目にかかります。鈴木睦子です」
 女たちはめいめい自己紹介して、やはり平伏する。高木が、
「みなさん、相も変わらずおきれいで、目を奪われますね」
 菅野が、
「そのうち慣れますよ」
 今度はみんなで大笑いになった。ずっともじもじしていた菱川まで笑った。千佳子が遠慮しないで、
「このあいだも思ったんですけど、こちら、外人さんですよね」
 菱川は鬢(びん)をポリポリやりながら、
「いや、倉敷生まれの生粋の日本人です。混血です。衣笠さんと同じです。進駐軍の置き土産ですね」
 胸を張って言う。睦子が頬を赤らめて感動した。店の女たちが寄ってきて、
「ええ男やわあ」
 まぶしそうに見つめる。菱川は照れてまた鬢を描いた。女将が、
「いま電話したら、ちょうど大テーブルが空いたとこやと。神無月さんの案内でいってらっしゃい」
 主人が、
「混んできたら、さっさと引き揚げてきてください」
 ブレザーに下駄の格好で、背広姿五人を引き連れて出る。
「六、七分ぐらい歩きます。さっきテレビで、むかしのドラゴンズの偉大な人たちの名前が紹介されてました。わくわくしました」
「だれの名前が出てた?」
 高木が訊く。
「うーん、ここにいる三人の名前を含めて現代の選手の名前はぜんぶわかりましたが、ほかは初めて聞く名前が多かったので思い出せません」
 江藤が太田に、
「おい、記録屋、ドラゴンズの偉人を教えてくれ」
「俺も終戦前後くらいからしか知らないんですよ。そうですね、シーズン通して、三振たった六個の坪内道則、これはいまなおプロ野球記録です。彼は千試合出場、千本安打の第一号でもあります。うーん、それから、ライト方面に飛べばかならず捕ってしまう〈地獄谷〉の原田督三。シーズン五本のグランドスラム、ご存知西沢道夫。この記録も破られてません。杉下茂は二百十五勝というドラゴンズ記録を持ってます。神無月さんがスタンドで打球を捕った森徹は、これといった記録はありません」
 江藤が、
「ワシとソリが合わんかった。人気を二分した時期があってのう、森が叩き上げのワシに嫉妬ばしてくさ。向こうは力道山の義兄弟で、六大学の花形だった男やけんな」
 だれも人生に意味を求める。年をとるにつれ、その欲求は高まる。路に迷う者、誤った路に進んだ者は何を求める? 人生に意味がないなら、愛する者に何を残せばいい? 母は私に人生の醜さを伝えようとした。私は何を伝える? ばらばらな無秩序の人生?
「板東さんもこれといった記録はないんですよ」
 高木が、
「彼はセリーグ初の、一球勝利投手」
「何ですかそれは」
「先攻チームが九回表か延長回の表で勝ち越したする、その裏、ツーアウトでピッチャー交代をして、最後の一人を一球で打ち取ると一球勝利投手。板ちゃんは去年、東大病院でプロ野球初の肘軟骨除去手術をしてる」
 記録と言えない記録だなと思った。江藤が、
「三十年の入団の年に、天知監督の背番号30をもらっとるな。メスを入れたプロ野球選手がカムバックした前例はない。板ちゃんも無理やろう」
「小五のころ、右肘が曲がったまま投げていた大矢根という投手を見た覚えがあります。昭和三十五年です」
 高木が、
「ああ、観音寺一高の大矢根ね。その年のシーズンオフに、交通事故起こして、同乗者二名死亡、自分も頭蓋骨骨折。復帰して翌年西鉄にトレードされた。二勝しか挙げられずに引退した。俺は三十五年入団だから、一年いっしょにやっただけ」
 江藤が、
「ワシは二年いっしょやった。肘がくの字に曲がっとるのに、それほど痛がっとらんかったな。ビュンビュン快速球やシュートを投げとった。健ちゃんみたいにテンポの速い歯切れのいいピッチングでな、二十勝を二回、ノーヒットノーランも一回やっとる」
 小川が、
「俺が三十九年に入団したときは、とっくにいなかったわけか」
 菱川が、
「ドラゴンズのタイトル王は江藤さんですね。首位打者二年連続二回」
 太田が、
「それもドラゴンズ記録です」
「あのころは夜も眠れんかった。ばってん、それも風前の灯たい。ワシの記録がというより、プロ野球全体の打者記録が金太郎さんのせいで風前の灯たい。金太郎さん、万一スランプに陥るようなことがあったら、無理に振らずにボールば見て楽しめばよか。それでフォアボールでも取ると、また気分が変わるばい」
「覚えておきます。中さんは里帰りですか」
「おお、自宅は名古屋の東山にあるんやけどな。孝行息子やけん、群馬へ帰っとる」
 高木が、
「利さんは、昭和三十年、大矢根と同じころに入団してるから、大ベテランだね。中学時代に十一秒台で走ってたというんだから、ものすごい人だよ」
 太田が、
「中さんの七十二の三塁打は、その数字のままでもプロ野球記録として残るんじゃないでしょうか」
 私は、
「両脚を引きずるようにして、大きなストライドで塁間を駆けていくあのダイナミックな走り方は、中さんだけのものですね。まるでホーバークラフトだ」
「ピッタシやのう! ホーバークラフト」
 太田が、
「悪い右膝を抱えてるんですよね。入団した年のキャンプで傷めたらしくて、いまもときどき水を抜くと言ってました」
 江藤が、
「夏あたりに思い切って手術するち言うとったばってん、小さな大打者もあと三、四年が限界やろう。今年は金太郎さんに刺激されて、よう打ちよる。十五本は打つんやなかね」
 高木が、
「あの流し打ちは天下一品だ。利さんはもともと引っぱり専門だったんだ。アッパースイングでね。ホームランは毎年十本程度打つんだけど、アベレージが二割五分前後。初球を打って凡退することが多くてね。これじゃいかんというわけで、自力でダウンスイングの流し打ちをマスターした。三十五年に三割打って開眼だね。それ以来、攻走守三拍子揃ったリードオフマンを通して、とうとうおととしは首位打者を獲った」
 菱川が、
「中さんの長嶋殺しは見ものですよ」
 江藤と高木がわが意を得たりというふうに笑った。私は、
「どうやるんですか?」
「打席に入る前に長嶋のほうをチラリと見るんです。セーフティかなと思って長嶋は前進する。すると中さんは、定規で測ったように長嶋の頭上ギリギリを越えるライナーを飛ばすんです。長嶋が前進してこないときは、逆にセーフティをかまします」
 アイリスに到着した。自動ドアを入ると、きょうも、オー! という歓声が上がった。店の奥の大テーブルが一つ空いている。
「いらっしゃいませ!」
 レジのメイ子が品のいい声を上げる。カウンターのカズちゃんと素子とウェイター二人が頭を下げる。レジ脇に立っていたウェイトレスが、大テーブルを手のひらで示す。私たちが席につくと、二人のウェイトレスがすぐに水を持ってきた。カウンターのそばに控えていた天童と丸が、びっくりしてこちらを見ている。
「サントス、六つ」
「かしこまりました」
 客がざわつき、シャッターの音が始まる。貼紙が効いている。
「あのおかげでノンビリできます」
「ほんとすね」
 太田がはしゃぐ。江藤が小川に、
「カウンターに立っとるウルトラ美人が、金太郎さんの女神たい。スーパー美人のほうが素子さん。二人とも金太郎さんの菩薩さま」
「どちらもこの世の美しさじゃないな。ああいうのを見ると、俺の女房が人間だってわかるぜ。ここのウェイトレスたちも極上品だ。龍宮城だな」
 菱川が、
「北村席のかたたちも、とんでもなくきれいでしたね。映画女優みたいだった」
 江藤が、
「女将さんもトルコ嬢たちも、よかオナゴたい。ご主人も山口さんも美男子だし、北村席は映画の大部屋のごたる。賄いの人ぎり、ふつうばい。ようできとる」


         百二十二
  
 サントスが出る。
「おお、これはうまか!」
「苦いのに、甘い。こりゃいい」
 高木が目を瞠ると、小川が私に、
「これ、コーヒーだよね」
「サントスといいます。ブラジルのコーヒー豆です」
「買っていこう。俺んちはフィルターコーヒーなんだ」
 高木が、
「北村席のコーヒーもうまかったが、ランクがちがうね」
 小川が、
「あのご夫婦は、和子さんのご両親ということだね」
「はい」
「そして金太郎さんのスポンサー」
「はい」
「娘さんは金太郎さんの女神で、トモヨさんは金太郎さんの子供の母親」
「はい」
「これはマスコミの格好のネタだ。俺たちだけでもガードを固めないと、たいへんなことになるぞ。アメリカ百人がぶっ飛ぶ」
 江藤と太田がニヤニヤしている。話がそこですんだことにホッとした笑いだ。水原監督にもそこまでですませてほしいという期待の笑いにも見える。あの女もこの女も、じつは、という話になると、驚嘆より先に嫌悪感が先に立つ。私は話の水路を変えた。
「高木さんのグランドの武勇伝を聞きたいですね」
 三十四年入団の同期の江藤が、
「本人はしゃべらんたい。謙虚な男やけんな。モリはおとなしそうに見えて、瞬間湯沸かし器ぞ。入団から何年目やったかな、試合中にぷりぷり怒って宿舎に帰ってしまったことがあったとばい。おとなしか男やったけん、だれも気づかんかった。守備になって気づいて大騒ぎになった」
「ああ、あれね。俺のファインプレーを杉浦監督が叱ったんだよ。自慢じゃないが、俺の守備は、南海から移籍してきた半田さんに鍛え上げられたスグレモノだから、人の追いつけない範囲も追いついてしまう。その日もそうだったんだけど、送球しようとしてポロリとやった。それを、何やっとるんだ、ときた。頭に血が昇ってね。結局お咎めなしだったから助かった」
「板ちゃんがこぼしとったぞ。モリは一年後輩のくせに、先輩風を吹かした口の利き方をするってな。フォアボールばかり出しやがって、どんどんストライク取れよ、とか、サヨナラホームラン打たれたときに、だったら早く打たれとけ! と怒鳴ったとかな」
 小川が、
「俺もあるぞ。二塁へ何度も牽制したことがあってさ、四回目の牽制球をグローブで捕らずに足で蹴って、いいかげんにしろと怒鳴られた」
 私は思わず噴き出し、
「おもしろいですねえ」
 高木もいっしょに笑い、
「……去年引退した権藤とはよく話をした。あいつは俺が短気すぎると諭すんだ。怒って相手が改善されることはない、勝った負けたは監督の責任だからおまえがカリカリすることはないってね」
 江藤が、
「よか男やったなあ、権藤は。酷使されて投手生命を花と散らした天才やった。木俣が言うには、浮き上がる速球は百五十キロを軽く越えとったらしか。一年目から六十九試合に登板、先発四十四、三十五勝、新人王、最多勝利、最優秀投手、沢村賞。二年目もほとんど同じくらい登板して三十勝、最多勝利。二年で終わってしもうた。優勝しか頭になか濃人に殺されたとばい。あげなピッチャーは、プロ野球が永久につづいても二度と出ん」
「ピッチングフォームを思い出します。軸足の踵をピョンと上げて、左足のステップを大きくとって投げ下ろす。胸がすくようなダイナミックなフォームでした」
 小川が、
「低目に伸びる直球、高目に浮き上がる直球、するどく落ちるカーブ、大きく沈むシュート。各チームの主力打者どもがきりきり舞いしたもんだ」
 菱川が、
「浜野が聞いたら、恥ずかしくて穴に入りたくなるだろうな」
 高木が、
「あいつはならんよ。人を穴に入れることばかり考えてるやつだから。ところで、金太郎さんは一試合ごとにユニフォームを替えるね。俺も毎試合替える。遠征でも連戦全試合替える。替えないと気持ちが悪い」
 ひっきりなしに鳴るシャッターの音がわずらわしいので私は、
「そろそろ、出ましょうか。家でゆっくりしましょう。歩きながら、最後に木俣さんの話を聞かせてください」
 みんなで立ち上がると、先回と同様、盛大な拍手が上がった。
「がんばれよう!」
「優勝してくださいね!」
「野球選手は格好いいなあ」
 江藤が支払いをしようとすると、カズちゃんがレジまでやってきて、
「お越しくださっただけで、すばらしい宣伝になりました。店のおごりです。今後ともご贔屓にお願いいたします」
 私は、
「バリスタ姉妹はどうなったの。カウンターにいないね」
「このお店が自分たちの格に合わないってプライドの高いことを言うから、格は自分じゃなく相手に合わせるものよって、ちょっとお説教じみたことを言ったら、勝手に辞めちゃった。惜しい人たちじゃなかったからよかったわ」
「格は相手に合わせる、か。よかことば言うねェ」
「夕食時には私たちもみんな帰宅しますので、そのときにまたお会いします。ご来店ありがとうございました」
 店員全員で深く頭を下げる。
 表に出て、私は話しはじめた。
「チームメイトはライバルではなく、敬愛する仲間だとぼくは思ってます。だから、むかしもいまも、みんなのことをいろいろ知りたいんです。その人の美点がエピソードに散りばめられてますから」
 小川が、
「欠点もな。俺のギャンブル好きは、ほとんど病気だよ。ま、それは野球と関係ないから措くとして、達ちゃんの長所は思い切ったバッティングだけど、欠点は、そのバッティングに似合わない弱気なリードだった。強気の新宅、弱気の木俣。そのままじゃメインキャッチャーになれないってんで、バッティング練習を熱心にやるようになった。そしてあのマサカリ打法を編み出した。リードも強気になった。努力家なんだよ」
 江藤が、
「練習の虫やな。家を建てたら、ピッチングマシンつきのバッティングケージを据えつける言っとる。今年のシーズンオフの自主トレは、独りっきりで沖縄の石垣島へいく予定だそうだ」
 十歳の秋、才能を褒められる喜びを知り、野心を知った。あの日々の情熱を細かく思い出したい。
「昭和三十四年の伊勢湾台風の年から、三十八年の東京オリンピックの前年までのドラゴンズの話をしてくれませんか。その五年間がぼくの野球の情熱の原点なんです。どうしてぼくが野球に奮い立ったかの秘密が、その五年間にひそんでる気がするんです。いま奮い立っていないという意味ではありません。あのとき以上に奮い立っています。ただあの五年間の野球一筋の情熱をいっときでも失わせた原因は、他人の干渉じゃなく、ぼく自身の落胆にあったことはわかってます。その弱い心を封じこめるためにも、五年間の情熱の記憶をなぞりたいんです。野球以外の記憶はこの数年でなぞり尽くしました。野球だけの記憶を取り戻したいんです」
 みんな、そろりそろりと歩を緩めはじめた。小川が、
「弱い心とは思わないな。いっとき情熱を失った原因は、野球に対する落胆じゃなく、自分の未来に対する落胆だったんだろう。野球ができなくなるという落胆だよ。金太郎さんが思い出したいのは情熱の記憶だったな。そのあたりの球界の話は、俺はオリンピックの年に入団だからよく知らない。古株の話を聞くだけにするわ」
 私の下駄の音がしばらく響く。小川の見解がすでに正しいものだった。そのせいで情熱の五年間が色褪せたのだった。江藤が口を切った。
「ほうやな、ワシの話ばしても仕方なかと思うばってん、一応話しとこう。金太郎さんの情熱の原点やけんな。昭和三十四年はワシの一年目の年ばい。天知監督から杉下監督に代わった年でな。ドラゴンズは若返りば図って、ワシのほかに若手ば四人獲った。板東、河村、伊藤竜彦、水谷寿伸の四投手たい」
「伊藤さんはピッチャーで入団したんですか」
「おお、中京商業のエースやったけん。ワシと同期ばい。入ってすぐバッターになった。柱の杉下さんがおらんごつなったあと、右の二十勝投手大矢根博臣、右の十勝投手児玉泰(やすし)、左の十勝投手中山俊丈(としたけ)で賄うことになったばってん、その三人だけでは足らんと思うたけんやろう。ワシは捕手で入団したばってん、吉沢さんゆう強力なキャッチャーがおったけん、杉下さんに直訴してファーストば守らせてもらった。ファーストは前の年まで西沢さんが守っとったポジションで、たまたま空いとったけんな。一年目から百三十試合全部に出場した。井上、森、ワシと三人でクリーンアップば打った。はっきり憶えとる。四百九十五打数、百三十九安打、十五本塁打、八十四打点、打率二割八分一厘。新人王はホームラン三十一本打った桑田武に持っていかれた。ファイター岡嶋が四十一盗塁と走りまくってくさ、二年連続で盗塁王ば獲った。前半戦は五位まで落ちたばってん、後半戦は児玉が狂い咲きして二十勝したせいで、阪神と並んで同率二位に食いこんだ。二年目やった森は、阪神との最終戦のダブルヘッダーで、小山、村山から一本ずつ打って、三十一本で桑田とと並んでホームラン王のタイトルば分け合った。打点も八十七叩いて打点王にもなった。首位打者は長嶋やった。……憶えとるね?」
「いえ―」
 まったく記憶になかった。江藤がファーストを守っていたことも知らなかった。高木が、
「三十五年は私が入団した年だ。春のキャンプで杉下監督に認められたけど、五十一試合しか出してもらえなかった。いつか金太郎さんに話したように、五月の大洋戦に代走で出て、初盗塁。そのまま打席に入って初打席初ホームランを打った。三十五年は、ドラゴンズは前半戦を快調に飛ばして、オールスターの折り返し地点では首位だった。後半に入ると、慎ちゃんも言ったように投手陣の駒不足が目立ってきて、じりじりと負けがこみだした。九月には勝率五割を割って五位に落ち、結局、十一年ぶりのBクラス転落になってしまった。中さんが初の三割を打ち、五十盗塁して盗塁王になったのが目ぼしいトピックかな。クリーンアップは不調で、三人合わせてホームラン五十本打てなかった。シーズン終了後、杉下監督は辞任、二軍監督の濃人があとを引き継いだ」
 憶えていなかった。私はうつむき、
「三十四年、三十五年……まったくその二年間、ペナントの行方やチーム事情を憶えてないのは、ぼくが小学四、五年生で、毎日忙しく野球にいそしんでいたからでしょう。生まれて初めて触れた軟式野球というスポーツがめずらしくて仕方なかったんです。それまではソフトボールしかやったことがありませんでしたから」
 江藤が、
「ふつう野球に夢中の時代は、巨人戦ば観たり聴いたりすることが多くなるもんたい。パリーグにも目がいくようになるしな」
「なぜかぼくは、小学六年の三十六年からそうなりました。森徹のホームランをきっかけに、野球に命を懸けると決めた年でした。それでもあまりテレビは観てないんですよ。飯場のスポーツ新聞で結果を見るくらいでした。五年生くらいから、社員たちに球場に連れていってもらって、折おり有名な選手を目にすることはありましたけど、欠かさず見ていたのはスポーツ新聞だけでした。目を皿にして見ました。テレビで知った選手は、山内一広、張本勲、尾崎行雄……」
「ほとんどパリーグたいね。野球が豪快やったけんな」
「はい。好んでパリーグばかりを観ました。小学校以来中日球場で知った選手は、ドラゴンズのレギュラーメンバーだけでした。彼らの美しい姿はときどきフラッシュバックします。とにかく美しい、そのひとことでした。ドラゴンズへのあこがれが芽生えました」
「長嶋と王はどぎゃん形で入ってきたんね?」
「ラジオのナイター中継で中日戦を聞いたぐらいです。巨人単独で追いかけたことはありません。晩めしのあとバットを振り、ラジオを聞きながら眠りこむのが習慣でした。野球部の練習でグッタリ疲れてましたから」
「実際の打球の音や、グローブの音を聞いたのはドラゴンズのやったんやな。中日球場でな。権藤、利ちゃん、モリミチ、ワシ、井上、森、河野、吉沢、前田……巨人にヒケばとらん錚々たるメンバーやったしな。あこがれるはずばい」
 江藤はうなずき、語を継いで、
「昭和三十六年のドラゴンズは、濃人のもとでチーム首脳陣の大幅な入れ替えばして、選手のトレードも盛んにやった。チームにじゅうぶん貢献できる生え抜きがどんどん外へ出ていった。自分の舞台に都合のよかやつだけ濃人が残したったい。ノンプロ時代から弟子やったワシもその一人ばい。ばってん、濃人は一本だけヒットばかっ飛ばした。ブリジストンタイヤから権藤を獲得したことばい。これは大きかった」
 小川が興奮して博多弁を出し、
「ばってん、人使いの荒か濃人のせいで、権藤は二年で死んだっちゃん」
「ところどころ記憶が戻ってきました」
「マッコビーやら、王、長嶋やら、尾崎、山内やら華々しかところがポチリポチリ重なって、金太郎さんの野球の情熱を高うしたことはまちがいなか。金太郎さんにバカでかい才能もあったけんな。そぎゃんところへ、金太郎さんの情熱ばもっと高うする役目ば買って出たんがドラゴンズやったちゅうわけたいね」
 高木が、
「ああ、そのとおりですね。プロ野球開始以来、ドラゴンズは二位かBクラス下位が定位置のチームだけど、いつの時代もメンバーは天才揃いだった。とくにあのころはすごかった。長嶋と王しか目立たない巨人とちがって、全員目立った。たしかに球場で見たらショックだったろうな。野球への情熱は確実に高まる。金太郎さんがあこがれを現実のものにしてくれて、俺たちはラッキーだったね」



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