百三十五

 北村席に戻ると、主人と菅野と直人の姿はなく、山口が女将とトモヨさんに挟まれて歓談している。座敷からは、ポン、チーの声がする。
「はい、お母さんから手紙がきとったよ」
 女将から分厚い封書を手渡された。
「大ごとやないとええけどね」
「また嫌味な手紙でしょう。あの人にコゴトはあるけど、大ごとはないですよ」
 駄洒落を言って笑った。居間のテーブルで封を切る。手紙となると人格が豹変する母のことだ。親切ごかしを警戒しながら読まなければならない。山口が興味津々で寄ってきた。彼に一枚ずつ便箋を手渡しながら読む。

 つつがなく暮らしておりますか。こちらも飛島の所長社員ともども元気でやっております。独立不羈のおまえに関しては、だれがどう心配してもむだな気がしますが、よかれ悪しかれ、おまえはこれまで出会った人たちに強い印象を残してきたようです。いい印象を受けた人たちは、おまえの人生をいやす役割を果たしているのでしょう。おまえは、おまえを気に入った人たちに、とことん支援してやりたい気持ちを起こさせる人間のようです。私にはそれがなんとも不思議でなりません。西松の社員たちのおまえに対するしつこいこだわりは気味が悪いほどでした。じっちゃさえ喜ばせられるほど、おまえは魅力のある人間なのでしょう。
 今年の九月十一日で母は四十六歳になります。おまえももうすぐ二十歳ですね。二十六でおまえを産み、すぐ離婚して、二十年が過ぎました。早いものです。おまえはこの二十年間、こつこつと人間的成長をとげたと思いますが、私は二十年前のままです。人間も平凡に小さく固まってしまい、働くことしか能がありません。ハンダづけの内職を始めました。一本一円です。一日に二百円でも稼げれば、月に六千円です。大きな収入です。定年まであと十四年、なんとかがんばって勤め上げ、じゅうぶんな貯蓄をたずさえて野辺地に帰ろうと思っています。
 義一が、三、四年もしたら野辺地に帰って、じっちゃばっちゃの面倒を見たいと連絡をよこしました。あのいいかげんな男がどこまで本気なのかわかりませんが、私が定年になって野辺地へ帰るまでのあいだ、ツナギ役を果たしてくれればと思っています。義一はいま、自衛隊を辞めて、東京の関東興業という会社で都バスの運転手をしています。別紙に住所を書いておきます。連絡し合って会ってみたらいかがでしょうか。何年も同じ釜のメシを食ったいとこ同士なのだから、積もる話もあるでしょう。
 所長と飛島さんは、この四月から本社勤務と決まり、三木さんも大阪支社へ転勤することになりました。三木さんは半年後に本社異動になるそうです。山崎さんは名古屋の人と結婚して、中村区にアパートを借りました。親しい社員は佐伯さんだけになりました。佐伯さんは一級建築士試験に向けて懸命に勉強しています。二級の資格を取得してから四年間実務経験を積まなければならないようで、受験はまだまだ先です。大沼所長が転勤に先立ち、残していく彼のために一夜激励会を開いてあげました。一級建築士だった神無月大吉という男の優秀さが、いまさらながら偲ばれます。
 加藤雅江さんが、季節ごとに、お茶や果物を送ってくれます。おまえのことを生涯見守ることを許してもらいたい、迷惑はかけない、という手紙が添付してありました。彼女と何か接触があったのですか。たとえそうだとしても、それはそれで大人同士のことですから横槍を入れる気持ちはありませんが、くれぐれも、おまえのその変人気質で素朴な人の人生を誤らせないようにしてください。  
  郷へ。母より。


 義一と積もる話などあるはずがないし、なつかしむ気持ちもなかった。彼は幼いころの散文的な追憶の中の人物にすぎない。文章に書いてみる気にはなるけれども、実際会ってみたいとは思わない。山口が、
「いったいこりゃ、何の手紙だ? 何も書いてない。この、一円の内職って何だい? 契約金で最大限の親孝行をしてやっただろう」
 女将が便箋に目を落としながら、
「親が子に出すまともな手紙やないわな。ネチネチしとる」
 トモヨさんもじっくり読み、
「他人の親というのは、まずうるわしい点が目につくものですけどね。……さびしいですね。則武の住所を知らせてあげたらどうでしょう」
「いや、いい。まんいち訪ねてこられたら、縮み上がる」
 雅江に礼状を書こうという気持ちがふと動いたが、あした会いにいったときに感謝の気持ちを伝えればいいと考え直した。雅江は自分の行ないが私に知れるなどとは夢にも思っていないはずだし、礼状を出して、彼女の両親がたまたまそれを目にしたとき、恋人の縁者に対する娘の媚びともとれる過剰な好意に、誇りよりは屈辱を覚えるのではないかとも考えた。
 果たさなければならない〈約束〉も苦しく胸に迫った。何となくひんやりとした気持ちになった。人は一生何かに枷をされて生きる。私を愛する女たちは私を枷にした。私は彼女たちが私を枷にした決意を枷にして生きている。どこもおかしくないあたりまえの覚悟なのに、加藤雅江の場合だけ冷たい風が吹くのは、その枷に肉親が加わっているからだろう。トモヨの離れで五百野を書き継ごうとする。一枚も書き継げずにやめる。
「山口、家を見にいこう」
「おう」
 山口と傘を差して玄関を出る。雨に濡れた潅木や樹々がもう芽を出している。二人で小池のほとりにしゃがんでいると、千佳子が傘を回しながら帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま。金太郎を見てるの?」
「いや、ただぼんやりね。睦子と楽しんだ?」
「ええ。日当たりがよくて、とってもきれいなお部屋。トモヨさんの香りもほんの少し残ってる感じで、清潔そのものだった。夜は近くのお蕎麦屋さんでもりそば食べて、お蒲団に入ってからは、遅くまで青森の思い出話をしました。神無月くんのことばかり」
「……すごい本の数だったろう」
「はい。何百冊も。小さなステレオセットもありました。アルビノーニのアダージョと、サンレモ祭のカンツォーネを聴きました」
 黒蝙蝠を差した菅野が元気にやってきた。
「昨夜はご迷惑かけました。和子お嬢さんに謝らなくちゃ。私にクラウンを置いて、自分はタクシーで帰ったんですよ。もう十一時ですか。社長はどうしてます」
「さあ、見回りにいったんじゃないかな」
「やっぱり! 体力あるなあ。きょう、走ります?」
「やめときます。則武の家を山口に見せてから、素振りとストレッチだけ。そのあとここに戻ってきます」
「じゃ、私お茶飲んでます」
 千佳子も連れて門へ向かって歩きだす。
「体育の科目登録にムッちゃんといっしょにいってきました。雨なのに構内はびっしりだった」
「体育選択はソフトボールだろ」
「はい。私たち二人とも野球しか興味ないから」
「マンションから名古屋駅までは歩いていったんだね」
「はい、ムッちゃんが自転車牽いて。三十分近くかかっちゃった」
「睦子のお母さんはくることになったの?」
「こないそうです。どうせ名大の入学式は父兄が入れないし、東大の入学式に一家で出てきたからもういいって。北村のお父さんにはきっちりしたお礼の手紙を寄こしたらしいけど、神無月くんにはどう書いたらいいかわからないし、会うのも怖いんですって」
「よく言えば娘のあこがれの男、悪く言えば娘を引っ張り回してる男だからな。木谷の母親もそうだろ?」
「……はい」
         † 
 山口と千佳子は感嘆しきりに部屋部屋を見て回る。
「すげえ部屋数だなあ! 特にジム部屋がすごい。キッチン、風呂、便所、ベランダ。庭にはお気に入りの木や草花、石、素振りネット、藤棚に四阿(あずまや)か。裏庭も樹木と花まみれだ」
「階段も広いですね。北村席のミニチュアみたい」
 ジム部屋にいき、バットを黙々と振る。三種の神器、ウエイトとプルトップダウンをやって見せる。汗はかかなかった。
「みごとだ! ついに城主になったな。妻がいて子供がいる家庭的な男が住むような家じゃない。城だ」
「父親だけど、夫じゃないからね。そういう男が住むんだ。たしかに無害で正直そうな造りじゃない。まさに城だ」
「これだけ大きいと、独りきりならつらいが、和子さんもメイ子さんもいるし、北村席という出城もある」
「私たちもしょっちゅう遊びにきます」
「頼むね」
 ふたたび傘を差して緑陰の玄関を出る。
「門も北村席と同じ数奇屋門だな。グッド」
 千佳子が私に、
「ほんとうの愛が何かも知らなければ、人を愛せないと思います」
「どういうこと?」
「愛を知らない人は自分の形を整えたがります。山口さんのことじゃありません。山口さんは父親でもないのに、ずっと齢の離れたおトキさんの形を整えてあげようとしたんですから、正真正銘愛の人です。一般の人のことです。子供と妻を一挙に手に入れようとする人が、父親であることに飽き足らずに夫になりたがるんです。自分の都合から世間体を整えようとしているだけのことなので、女の人への愛は二の次です」
「北村席のお父さんや、菅野さんや、山口の父親のような例もある。そういう例のほうが多いだろうね。決めつけたものでもないさ。ぼくや山口を理想と考えちゃだめだよ。夫がすべて悪人とはかぎらない」
 北村席への道を歩く。空いている手を千佳子が強く握ってくる。これから何度この道を歩くだろう。雨が連れてくる涼しい風を肌で感じる。このときをいつか失うのか。数寄屋門をくぐり、緑を増しはじめた芝に切られた緑青色の飛び石を踏んでいく。
「姫高麗芝だ。日本芝の一種で、とても美しい色を出す。成長が早いから、夏場は絶えず低く刈らなくちゃいけない」
 千佳子が、
「ときどき園芸会社の人がきて、芝刈り機で刈ってます」
 玄関戸を開けて居間に入る。主人夫婦とトモヨさんと菅野が和やかに茶を飲んでいる。菅野がトモヨさんに、
「直ちゃん、二時?」
「はい、雨なのにすみません。あしたあさっては休みです」
 千佳子は、
「さっき話したことですけど、ムッちゃんのお母さんが神無月くんに会うのが怖いって、悪い意味じゃないんです。畏れ多いんですって。あの神無月郷がほんとに娘の相手だということがどうしても信じられないって」
 菅野が、
「それがふつうです。よく考えたら怖いですよ」
 ソテツがコーヒーを出しながら、
「このごろ私も、神無月さんが怖いです。どういう人かわかっていても、思わず甘えちゃいそうで」
 女将が、
「女って、自分が女だってことだけで甘えた気持ちになってまうんよ。そこが浅はかなところ。和子たちを見習いなさいや。だいたい、神無月さんがどういう人かわかるはずないやろ」
「はい」
 トモヨさんが、
「桁外れな有名人の奥さんて、しゃしゃり出ずに隠れてますものね。夫婦ともに有名人の場合でも、奥さんは慎ましくしてます。ましてや、愛人は陰に引っこんでないと」
 千佳子が、
「愛人てメカケのことですよね。呼び方はどうでもいいですけど、私は自分のことを、結婚しない恋人と思ってます。愛人よりはいいでしょう?」
「そうね。響きはね。婚姻制度って、子供を産んで育てるために発展したものだから、子供を産まないかぎり、女は愛人でも恋人でもいいのよ。そのほうが新鮮で、長つづきするわ。逆に子供を産むと、結婚してない女のくせにって世間から責められるの。形を整えないと世間の仲間入りをさせてくれない。私は世間の仲間入りなんかしたくないからこのままでいいんだけど、直人が私生児って言われるのだけはつらいなと思った。そしたら郷くんが認知届を出してくれたの。何もお願いしてないのに……。飛び上がるほどうれしかったわ。これで直人は、おとうさんおかあさんが揃ってる家庭の子として、おとうさんは神無月郷だって胸を張って人に言えることになったの。テテナシ子と後ろ指は差されることはないのよ」
「ムッちゃんが婚姻の社会学という本を開いて教えてくれました。子供を産んで育てるには、女一人の力じゃ心もとないから、結婚、そして入籍という形で男を縛るつけるんですって。神無月くんにぜったい結婚を迫っちゃいけない、そんなことしたら神無月くんを殺すことになるって」
「そのとおりよ。殺そうとしなくたって死んでしまう人の背中を押しちゃだめ」
 菅野が腕組みして感心しながら聞いている。


         百三十六 

 主人が帰ってきた。
「ひさしぶりに歩いたよ」
「すみませんでした。しかし社長は酒が強いですね。あんなに酔った翌日もケロですもんね。鉄の肝臓だ」
「十年前に売防法が出たあたりまでの話やが、酒の強い女衒たちと長っ尻で飲み食いせんとあかんかったからな。鍛えられたわ」
「値段交渉ですか」
「ほうや。いまはもう女衒はおらん。あの程度の酒はラクやったんやが、このあいだは酔った」
 私は、
「ぼくはカラッキシだけど、山口は強いよね」
「俺はからだで飲んでる」
「ぼくもほとんど山口と同じ大きさのからだなのに、酒は弱い。プロ野球人もけっこう酒を飲むけど、誘われないので助かってる。……その女衒という人たちは引退したんですか」
「ほうやね、宴席の奥部屋でブルーフィルムを流す業者のほうへ鞍替えしたな。ほとんどの女たちは家族が連れてくるか、一人でくるようになった。トルコが主流になってきたから、近々接客業は年季のない自由業になるやろう。借金こさえてヤクザに叩き売られる子は別やがな。きょうも、仲介なしの素人さんを二人面接してきた」
「そうだ、お父さん、あの薄緑の飛び石は何石というんですか。雨に濡れてきれいでした」
「徳島の阿波青石です。丸く平らに加工してあります。赤石というのもあって、徳島城の石垣は青石と赤石で作られとります。滝澤のお師匠さんには、角棒に加工したものを文鎮としてプレゼントしました」
 主人はそういえばという顔で、
「千佳ちゃん、うちのやつとも話したんやがな、法律の勉強の合間に、公認会計士か税理士の勉強もしてくれんか。急がんでええで。大学出てからでもかまわん。うちの専属になってほしいんや。専門学校いくんやったら、学費を出すで」
「法律の勉強の忙しさがだいたいつかめたら、考えます」
「おお、待っとるで。何年後でもええで」
 千佳子の受け応えを頼もしく感じて、明るい気分になった。座敷にいって、しばらく雨の庭を眺めながら肘枕で横たわる。雀卓の連中が愉快そうに笑った。やがてステージ部屋で、きょう二度目の腕立てと腹筋を始めた。山口がやってきて、
「どうしたんだ神無月、いやに楽しそうだな」
「いやあ、なんだかうれしくなっちゃってさ。千佳子が公認会計士になって電卓はじいてる姿が目に浮かんで。このあいだまでイネと同じくらいのズーズー弁だったんだぜ。愉快だなあ」
 居間も座敷もみんなケラケラ笑った。
「さあ、ゴロゴロするか」
 ソテツがドスドスやってきて、
「私もゴロゴロしたいけど、できません」
「女のゴロゴロは似合わないよ。なまめかしくなる」
「私でも?」
「ああソテツでも。一人前の胸と尻を持ってるから。いっしょに腕立てやるか」
「やりません。料理中です」
 すたすたいってしまった。入れ替わりに主人がやってきて、私と並んで腕立てをする。六度でダウンした。
「山口、すごいところを見せてくれ」
「よーし!」
「おトキさーん! ちょっと山口を見てやって」
「はーい」
 山口は私と並んだとたん、猛烈なスピードで腕立てをやりだした。あっという間に五十回やって、仰向けにひっくりかえった。おトキさんがエプロンで手を拭きながらニコニコ眺めている。
「バテたあ! 体力落ちてる」
 菅野が、
「尋常じゃないですよ。素人は二十回がせいぜいです」
「そんなにか! ワシは六回がやっとや」
 主人が二の腕を揉んだ。
 雨が本降りになった。暗くなった座敷に蛍光灯が点された。賑やかな昼食が始まる。きょうは和風一色だ。各種野菜の炒め物、きんぴらごぼう、揚げだし豆腐、ホウレンソウのお浸し、けんちん汁、とりわけナスの味噌炒めがうまい。女将が、
「おトキ、ごはん終わったら、菅ちゃんにパーマ屋さんへ連れてってもらえ。二時間はかかるやろ。保育所の帰りに乗せて帰ってもらえばええ」
「はい」
 めしを噛みながら菅野が、
「太閤通に出てすぐ右手にありましたね。アカネ美容室」
「そこです、よろしくお願いします」
「いよいよあした上京だね」
「はい。一週間ほど吉祥寺に落ち着いてから、家を探します」
「住所決まったら、すぐに連絡するんよ」
「はい。あしたチッキで送るもののほかに、思いついた荷物があったら、手紙に書きますのでよろしくお願いします」
「はいはい」
 私は主人に、
「こんなことあらためて言うのも恥ずかしいんですが、ぼくは今年から、東京の吉祥寺を遠征のときの仮の宿にして、名古屋の則武と北村席を根城にすることになりました。ここの女の人全員の名前を知っておく必要はありませんか。三年前に訊くべきでしたけど」
「ないですな。ここに寄宿する女は賄いも含めて不定期に入れ替わりますし、この三年でも何人か入れ替わっとります。クビにするわけやなくて、年季が明けたり、転職したり、結婚したり、それぞれの事情で辞めていきます。従業員のほんの一部やが、ありがたいことに神無月さんのお手がついて、人生を新しくやり直す気になった女は、娼妓の職を賄いに替えさせて残しとります。そいつらの名前だけわかっとればええんやないですか?」
「いや、たとえ短いあいだでも呼びかけないと、顔を親しく合わせられないんですよ。学校のクラスのようなものです」
「じゃ、呼びかけたいときに、そのつど訊いてやってください。喜びますよ。まだ知らんのは、トルコ、賄い、合わせて十二、三人程度のもんでしょう。覚えてすぐ忘れりゃええですよ。それで神無月さんの気持ちは伝わります」
 私は箸を置いて、まだ食卓についていない雀卓の女たちに寄り、
「名前教えてください。源氏名でもいいです」
「あら、恥ずかしい。木村しずかです。鯱のナンバーテンをいったりきたり。三十五歳です。年季明けはあと四年くらい。豊橋の農家出身です」
 いやに詳しく言う。残りの女たちもそれに釣られた。
「大胡キッコ、二十一。季節の季。季子。大阪の枚方(ひらかた)の出身や。いつかぜったい神無月さんに抱いてもらうで。いまんとこ羽衣のナンバースリー。そのうち千鶴ちゃんを抜くつもりでおる。かなり借金があるけど、二年で返してまうわ」
 パンツが見えるほど赤いミニスカートをまくってあぐらをかいている。奥二重の目がこちらを向く。これまで気づかなかったのが不思議なほど、豊頬の整った顔立ちをしている。
「新しい人?」
「古い人や。いつも雀卓に向かっとったさかい、気づかへんかったんやろう」
 カズちゃんが、キョウちゃん好みと時おり仄めかしていた女の一人かもしれない。
「近記れん。近く、記す。ハスの蓮(れん)。三十三歳。年季は明けましたけど、旦那さんにお頼みして、置かせてもらってます。石川県の輪島の漁村出身です。鯱のナンバーフォーかファイブです」
 四人目の女が、
「名前と齢は事情があって言えないんです。暴力亭主が怖くて、北海道の釧路から逃げてきましたから。半年もしたら、沖縄のほうへいく予定です。寒いの苦手なんです。羽衣でひっそりやってます。ランクはずっと下のほう。目立たないようにしてるんです」
 彼女たちの呼吸に耳を澄ます。ひたすら哀しい。座敷のほかの女たちも寄ってくる。私は自然としゃべりだす。
「身の上話は音楽でも聴くようなものです。だれだって人生歴に音楽を持ってますからね。耳を傾けさえすれば聞こえる」
 居間の連中がこちらを向いて聞いている。女の一人が、
「音楽って?」
「姓は××、名は××。身の上話をしゃべることで音楽のように人をなつかしませることができたら、その人は天命をまっとうしたことになります」
 食卓の菅野が、
「そのしゃべり口で神無月さんの音楽が響いてきますよ」
 山口が、
「おまえが人を安心させる方法はただ一つだからな。思ったとおりに話す―」
 女将が、
「さ、あんたたちごはん食べちゃいなさい。中番の子は仕度せんとあかんでしょ」
 みんな揃ってテーブルにつき、箸の音がかしましくなる。雀卓にいなかった女の一人が、
「神無月さんが相手にしとる女の数は、私たちのようなプロでもなかなか経験できない数ですけど、どうやってそんなに……」
 わずかに非難の眼を向ける。
「引き合わせです。……ありがたいとしか言いようがありません。でも、ぼく程度の数の相手に、プロであるあなたたちが巡り合えないというのは、どういうことですか」
 ほかの女が、
「リピーターのお得意さんが多いからやが。ひと月に二人としかやらんゆう子もいるんよ。二人合わせて十回くらい」
「売れっ子だと?」
「それでも二十人もいかんやろなあ。その人たちがお得意さんになってまうと、一年間でも三十人というのはなかなか。十年もやってれば、百人くらいになるかもしれんけど」
 ソテツが女たちを嫌悪に満ちた目で見ている。
「ソテツちゃん、そんな尖った眼で見ちゃいけない。愛情がなければ、セックスもちゃんとした仕事にできるんだよ」
 近記れんが、
「そうです。素人さんとちがって、私たちみたいな仕事をしてる者は、愛情のこもったセックスの悦びなんか知らずに一生を終わる人がほとんどでしょう。愛情をにおわせて店にくる男がいたら、悪い冗談ですましてしまいますね」
 大胡キッコが、
「百パーセント冗談やな。ヒモになりとうてする冗談や」
 山口が、
「口はばったいですが、そういうふうに考えて仕事をするのは、プロとして立派な生き方だと思います」
 おトキさんが立ち上がり、自分の皿を片づけはじめた。賄いたちも立ち上がり、食卓の器を浚いはじめる。主人が、
「神無月さんはこの四年で、ワシらの世界がエログロやないゆうことを教えてくれましたよ。神無月さんがおらんかったら、女どもの正直な胸の内は一生聞けんかったやろう。心が洗われるゆうんは、こういうことなんやろな」
 愛の歓びを知らないだけに、ここにいる女たちが、ソテツに劣らず厳しい道徳観を持っていることがその表情から察せられた。しかし道徳観こそこの家の雰囲気を引き締めているものだった。
 ポツポツと緑茶やコーヒーが出る。名を明かせないと言った女が、
「私らみたいな商売の人間なら、神無月さんみたいな奔放な生活をする人を見ても笑ってすませられますけど、ふつうに生きてる人間は許せないと思うんじゃないかしら。有名な野球選手じゃなかったら、ただのスケベ野郎と思われるのがオチでしょう」
 私はまだ表情を和らげない女たちを意識しながら言った。
「オチです。あなたたちも笑ってすましてないと思いますよ。自分で望んで就いた仕事じゃないですから、心の奥に堅い道徳観を持ってるはずです。ぼくは清廉潔白な人間じゃありません。そのことは、この三、四年ではっきり自覚しました。いつでも、どんな形でも裁かれる覚悟ができてるんです。あと数年、野球をやり尽くしてから裁かれたいとは思ってますけどね。別にそれが早まってもかまいません。楽しいときは終わるかもしれないけど、人生の終わりじゃないですから。で、ぼくの覚悟を聞いてもらったところで、人が人を見る目についてしゃべっておきたいことがあります。けっして自分を正当化するためじゃありません。しゃべり終えたら、ちょっと庭でバットを振ってきます」
 女たちは能面のような表情になって息を詰めた。
「……自分にはどんなに欠点と思えることでも、それは、意識しない自分の一部でもあるということです。自分のことなら、よい面も悪い面も合わせて受け入れるでしょう? 問題は他人ごとの場合です。道徳を重んじる人間は、他人を判断する段になると、その規準をほんとうの自分じゃなく、自分の理想像に置いてしまいます。虚栄ですね。そしてその理想像に合わないと、虚栄心を傷つけられ、世間的に信用されてる人だけしか認めないというやり方で反撃する。ところがその信用されてる人が、不正直だとか、弱虫だとか、性的にでたらめだとかわかると、ショックを受け、軽蔑する。でも、自分も彼も、人間として大きな差はないんです。気高さと卑しさ、やさしさと意地悪、操の正しさと色欲、ごた混ぜです。ケチで、身勝手で、気取り屋で、センチメンタル、ごちゃ混ぜです。中には機会に恵まれて、何かの分野で天分を発揮できる者もいますが、やっぱり同じごた混ぜの人間であることからは逃れられない。心の中で考えてることを足し算すれば、だれもかれも醜い怪物です。だからこそ突き刺すような目で人を見てはいけないんです。ぼくの母のようなするどい目で……。こんなことを言う必要はないと思うかもしれませんが、言っておかなければ、道徳的な人は虚栄にやられっ放しになります。自分を正直に曝さない、自分の胸の内を正直に言わない道徳的な母からぼくは退散したんです。そしてめでたく不道徳な人たちのあいだへ逃げこんだんです。あなたたちもできれば、人を見る目を柔らかくして、自分の仕事のとおり、純粋に不道徳でいてくれませんか。あなたたちも、たしかに山口が言ったように立派な仕事人かもしれませんけど、ときどき道徳的な固い殻を光らせます。まだほんとうの醜い自分を発見できていないからだと思います。ぼくは自分を戒める意味で、他人のそういう道徳的な雰囲気を重んじますが、母から逃げたようにそこから逃げたくもなります……。バットを振ってきます」


         百三十七

 玄関へいき、バットを持って雨の庭へ出た。軒下に戻ってパンツ一枚になり、小池のそばへ歩いていって、バットを振る。十本、二十本、三十本。まぶたや鼻や唇に大粒の雨が降りかかり、心地よい。傘を差した山口と千佳子が走ってきた。
「だいじょうぶだよ、あとでシャワーを浴びるから」
「お父さんが女たちを叱ってたぞ。だれがそんな眼をした、山口さんに立派と言われていい気になったらあかんぞ、何が立派や、立派な人間を怒らせよって、てな」
「ぼく、怒ってなかったのになあ」
「おまえの言いたいことも気持ちも痛いほどわかる。しかし、平凡な人間には戸惑いというものがあるんだ。自由奔放な人間関係をいいなあと気持ちではわかっても、世の中それじゃ通用しないって、自分を引き締める気持ちにもなるんだよ。それで思わず、開けっ放しの人間や奔放な人間を睨みつけてしまう。おまえの母親の権高な軽蔑の眼とはまったくちがう。どんな仕事についてても、彼女たちは長いこと道徳的に生きてきたんだ。恋愛を軽蔑することは、道徳的に生きるための橋頭堡なんだよ。それだけは否定しないでおいてやれ。するどい視線は甘んじて受けろ」
「もちろん。あと五十本で終わり!」
 二人大声で笑いだした。きっちり五十本すませ、玄関へ歩いていく。ジャージを拾い上げ、土間から、
「ソテツちゃーん、タオル! お母さん、風呂入ってますか」
 主人が飛び出てきて、
「入っとる!」
 ソテツがタオルをあわてて持ってきて、からだを拭きながら、
「ソテツと呼んでください。店のかたにはちゃんと謝りました。よくない目つきしてました。バカですね」
 店の女たちが裸足で土間に下りてきた。四方から抱きついて、
「ごめんなさい」
「ごめんなさいね」
「自由な人っていいなあって、嫉妬の眼で見たことがありました。ごめんなさい」
「私も。ほんとにごめんね」
 私は、
「謝るのはこっちです。いい気になって、大上段なこと言いました」
 女将が私の手を引き、
「さ、はよ、風呂入って。風邪ひいてまう」
 山口が、
「大名だなあ。背中でも流すか」
「いや、頭を洗うのに時間を食う。のんびり長湯するよ。トモヨさん、下着頼むね」
「はーい」
 私に抱きついた女たちが腕をほどき、靴を履き、
「いってきまーす」
 と口々に言って、傘を手に玄関から出ていった。キッコが戸を引くときにウィンクした。
「あたしは神無月さんを睨どらんかったんよ。脚長いなあ。カッコええわァ。ほんとにいつか抱いてもらうでね」
 木村しずかが、
「チンチンの毛、透けてますよ」
 菅野が嘆息する。
「神無月さんは、大岡越前ですよ。そうだ、おトキさん、パーマ!」
「はいはい、お願いします。でも、いまの女の子たち送らなくていいんですか」
「きょうは特別ステージの日だから、七時出の子も含めてみんなに涙を呑んでもらってます」 
「俺ちょっと、則武の家、もう一度見てきます」
 山口が言うと、ソテツが、
「私もいきます。あの家は鍵をかけないから、いつでも空いてるんです。いきましょう」
「ソテツちゃん、私もいくわ。さっきじっくり中を見てこなかったから。ムッちゃんにも教えてあげなくちゃいけないし」
 千佳子も連れ立って雨の中へ出ていった。
 私は濡れたパンツを脱衣場に脱ぎ捨て、湯殿に入った。頭を丁寧に洗い、のんびり湯船に浸かる。ガラス戸に人影が映り、女将が着物の袖に襷をかけて入ってきた。
「お背中、流そうわい」
「あ、お母さん、気を使わないでください」
「まあまあ、とにかく、流させてな」
 私は湯船を出て、床几ぎに座った。丸めた背を女将に向ける。女将はシャボンを泡立てそっとこすりはじめた。
「強うこすったらいかんて、いつか和子言っとった。大理石みたいに固そうやけど敏感なんやろなあ、ほんとに。このからだと気持ちに、ひとことでもケチつけられるわけあれせん。しっとりしとって、女でもこんなきれいな肌の人はめったにおらん。……なあ、神無月さん、きょうはほんとに申しわけなかったね。腹立ったやろけど、機嫌直してな」
「いや、ぼくは、あの、ぜんぜんそんな……書生っぽいことを言って、すみませんでした」
「すまんことあるかいね。そのとおりやもの。不道徳な人間がこんな商売しとるはずなかろ。みんなカチカチに道徳で固まってるから、辛抱して勤められるんよ。不道徳なら辛抱なんかせんと、亭主に尽くすように客にも尽くしとるわ。……ほんとに神無月さんの言うことは胸にくる。不道徳ゆうんは褒め言葉やよ。いつやったかなあ、去年やったか、おととしやったか、不道徳こそ人間らしくて、幸福のもとやて神無月さんに教えられるまでは、うちら夫婦も気づかんかったんよ」
「そんなこと言いましたか」
「たしかに言ったよ。ひとっ走りして外から帰ってくるなり、うちらの前で和子に向かって、オマンコするぞって言ったときやな。えらく自然で、きれいな感じがしたんよ。ねちねち秘密にしながらオマンコしとる世間の男や女たちが、なんやら汚く思えてきてな。そのとき、耕三さんとも話したんやけど、あれが神さまのふつうの行動やろうって。そういう人に道徳もへったくれもあるかいね。自分のアホな頭に収まらんからゆうんで、睨みつけたり、馬鹿にしたりするのは許せんがや。ソテツにしても、同じアホのくせに、小賢しく白目剥いたりして。……ありがとね、どっちも叱ってくれて。神無月さんがバット振りにいってから、耕三さんが怒ること、怒ること。私よりも、理屈通してしゃべったもんやから、みんなワッと泣いてな。山口さんのきれいな心持ちも、ようやっとわかったみたいやった。……神無月さんのお母さんには、神無月さんのことは永久に理解できん。そういう人からは逃げるて、スパッと言ったな。ゾッとしたわ。うちらから逃げていかれたらたまらんもん。さびして、生きていかれん」
 肩から湯をかけると、また私を湯船に沈めた。そして額にキスをして出ていった。ほのぼのとした幸福感が押し寄せてきた。〈大人〉に容認された気がした。
 からだを拭って新しい下着とジャージを着て居間にいくと、コーヒーが用意されていた。おトクさんは耕三さんに、
「神無月さんの真っ白いからだを洗いましたよ」
 主人が真剣な顔でうなずく。トモヨさんが、
「この世に一つのからだです。私たち女はみんな幸せです。でもそれ以上に―」
 女将が、
「わかるよ。心やろ? 無敵なのに、まるでなんも持っとらんように振舞うんよな」
 菅野はコーヒーを飲み干し、
「トモヨ奥さん、そろそろ直ちゃんを迎えにいきましょう。帰りにおトキさんを拾います」
         †
 おトキさんは髪をきっちりアップにしていた。別れの宴に、文江さん、節子、キクエ、睦子もきた。日の暮れる前から、おトキさんを厨房に入れずに座敷に坐らせたまま、みんなが下準備にかかった。私は畳に寝転がって見物する。この家の内部の様子は、一行も新聞に掲載されたことがない。松葉会の組員たちが、カメラマンやテレビ記者や新聞記者連中を門の内へ入れないよう眼を光らせていてくれるからだ。組員の姿はこちらから見えなくても、報道陣が集まる可能性があるときは、かならずどこかに潜んでこちらを見ている。山口が直人を抱いた千佳子と盛んに則武の家の感想を言い合っている。
「最初はだだっ広いと思ってたけど、むだに広くないとわかった。しっくりまとまって落ち着いてた。庭もまとまってる」
 案内を務めたソテツが口を出し、
「本の数に驚きました。適当に引っ張り出して開いてみたら、ぜんぶのページに書きこみや線引きがしてあるんです。レコードもたくさん! ジャケットの曲名にも、かならず赤丸がついてました。いつの間に読んだり聴いたりしたんだろうって驚いちゃった」
「寸暇を惜しんで、ってやつだ。それが神無月のものごとのやり方だ。行動はゆっくり見えるが、じっと休んでない」
 千佳子が、
「勉強部屋も音楽部屋もよかったけど、特にベランダがすてき。でも、吉祥寺でも感じたんですけど、どんな家も神無月くんには似合わないわ。健児荘の四畳半も似合わなかった。神無月くんにいちばん似合うのはグランドね」
 直人が千佳子の唇に吸いつく。びっくりしながらも吸い返してやっている。山口にも同じことを仕掛けたが、山口はうまくかわして高い高いをしてやる。私は直人を抱き受けて唇を寄せたが、恥ずかしそうに身をよけて、また千佳子の膝に移動した。
「精神がてんやわんやしてないから、のびのびしたグランドが似合うんだろう。しかし神無月は家という密閉空間がいちばん好きなんだ。とりわけ机がな」
 文江さんと節子とキクエが、私たちから離れた畳でおトキさんに話しかける声が聞こえる。キクエが、
「どうせなら、三鷹よりもう少し先の武蔵境に決めたらどうですか。静かな町だし、ちゃんと商店街もあって、暮らしやすいですよ」
 節子が、
「小金井までいっちゃうと、さびしすぎるのよね」
 文江さんが、
「住めば都やよ。好きなところにしたらええが」
 キクエが、
「新宿、池袋はぜったいだめです。やかましくて落ち着きません」
 睦子が座敷の隅で店の女たちと話している。早番から帰ってきた古株をつかまえて、いろいろと訊いているのだ。私は興味が湧いて寄っていった。
「からゆきさんてよく聞くんですけど、どういう人たちのことですか」
「東南アジアに渡った娼婦のことよ。九州出身が多かったみたい」
「コンドームって、いつごろできたんですか」
 矢継ぎ早だ。
「さあ、旦那さん知ってますか」
 主人に呼びかける。足袋をすってやってきて、
「明治の初めやな。いまみたいにちゃんとしたのができたのは、昭和の初めや。梅毒ゆう恐ろしい病気に罹らんための予防やった。サックしたらまずだいじょうぶ。うちには一人もおらん」
「梅毒は恐ろしいんですか」
「恐ろしいよ。治らんからな。からだの中の菌を追い出せんまま、症状が出んように抗生物質で治療することしかできん」
 山口と千佳子もやってきて話に加わり、
「梅毒菌は宿主が人間だけなので、むかしから人間の中で暮らしてた細菌だ。コロンブスがアメリカから持ち帰ったと言われてるが、どうだかな。恐らく原始時代からいた菌だと思うよ。どうして宿主と仲良く共生しないで、最終的に殺すほどひどい悪さをしちゃうんだろうなあ。殺しちゃったら、自分が不利になるのにな。性病って、そういう病原菌が多いけど、謎だよね。とにかく表に現れる症状が激烈だ。コブを作ったり、皮膚を融かして崩したり、骨を食い散らしたりするから、癩病みたいな外見になる」
「怖い!」
「キョワイ!」
 直人が口まねをする。
「話変わるけど、神無月、試合開始の前に、両監督が何か紙を審判に渡してるだろう、あれ何だ?」
「メンバー表。試合開始三十分くらい前に、バックネットの前で交換する。メンバー表には、監督、コーチ、ポジション別に分けられた選手の名前が印刷されてる。頭に○印のついているのがベンチ入りしている出場可能の選手だ。△がついている二人がベースコーチ。カーボン紙を裏に敷いたメンバー表の写しと、スターティングラインアップを記した細長い紙を両監督が交換するんだけど、まずその用紙を審判員が受け取り、原本部分を切り取って両監督に手渡す。カーボンに写した二枚の紙を、バックネット裏の公式記録員とウグイス嬢に渡す。それで終了。ネット裏には報道各社の記者たちがスタンバイしていて、メンバー表をメモすると放送ブースに飛んでいく。ただ、どうやってあんな細かい数字まみれの報道記事ができあがるのか、詳しいことはわからない」
「何かの筋から細かい資料を渡されてるんだろう。関係者とかお偉いさんたちはどこに座るんだ?」
「ネット裏の前列席か、ビジター側の内野席」


         百三十八 

 カズちゃんたちが大挙して帰ってくる。
「ただいま!」
 ソテツが、
「お帰りなさい!」
 と明るく呼びかける。女たちはうなずきながら、文江さんや節子やキクエとにこやかに挨拶する。そしていつものように風呂へいく。
「和子さんは最高」
 千佳子が惚れぼれとした目で背中を見送る。私は、
「首尾一貫してない人間はみんな魅力的だ」
 睦子がやわらかく笑いながら、
「首尾一貫してるというのは、神無月さんのお母さんみたいな人のことでしょう?」
「うん。一貫して自分を保とうとする人間には魅力がない。その一貫が欠点に集中していたら、もう救いようがない。魅力的な人間というのは、からだの中に、とうてい相容れないような性質が混在していて、それにも拘らず、しっかり調和している人のことだ。カズちゃんには人の神経を逆撫でするような欠点がまったく見つからない。それでいて一貫してない。柔軟に自在に振舞う。つまり、人に害を与えない範囲で振動しているんだ。たくさんの女と付き合えと勧めたり、急に好色になって挑んできたり、深い哲学を語りだしたり、人間の真実味に素朴に感動したり」
 千佳子が、
「仕事を辞めて青森まで追っていったり」
「うん。すべてぼくを励まして慰めるための振幅なんだ。常識から外れたことを好ましく思っている反面、倫理的なことにもきちんと価値を認めて、非常識を秘密のベールで覆おうとする。じつは、この家でぼくを取り囲む人たち全員がそうだ。そういう人たちをカズちゃんが引き寄せたんだ。彼女は、常識的な人に多くを期待しない。彼らから親切にされると喜び、冷たくされても平然としてる」
 睦子が、
「神無月さんがそういう和子さんを引き寄せたんです。和子さんは、素朴で人のいい八方破れの神無月さんという神さまを愛した最高の女神です。二人の結びつきほど美しいものはないと私は思います。世間の基準からすれば情け容赦なく非難される二人の関係に、どれほどたくさんの真実があるかをこの目で確かめると、飛び上がりたいほどうれしくなるんです。……神無月さんに引き寄せられて、ごく自然に二人に寄り添うようになった私たちの関係も、世間の明るみに出れば厳しく糾弾されるものでしょう? でも、どれほど糾弾されても、一人の愛する男を真ん中に光り輝く世界で暮らしているという喜びを奪われたくないんです。私はこの喜びに命を捧げています。人の死に方にはいろいろあります。こういう死に方もあります」
 山口が涙を浮かべながら、
「鈴木、おまえは俺たちの気持ちをすっかりしゃべってくれたよ。……ほら、お父さんもお母さんも、木谷も、ソテツちゃんまでみっともない顔で泣いてるぜ」
 ソテツが憎たらしそうに山口の肩を叩くと、台所へ立っていった。私は文江さんたちに、
「さっきお母さんに背中を流してもらったんだ。大人に認められた気がした」
「きれいな赤ちゃんみたいで、とってもかわいらしかったですよ」
 と女将がやさしく笑う。主人が頭を掻く。
「ワシがいってこいて言った。女たちのことを謝りたくてな。ワシにはそんなやさしいことはしてくれん」
「あんたは赤ちゃんみたいでにゃあもの」
 アハッと山口が笑う。睦子と千佳子が、節子とキクエといっしょになってからだを屈めて笑った。
 カズちゃんたちが風呂から上がってくると、賄いを除いた全員が食卓についた。ビールと酒と料理が運びこまれる。中華がメインで、十種類もの大皿が並んだ。酢豚、チンジャオロース、海老チリ、その四つ以外は初めて目にするものばかりだった。父親と山口にビールをつぎながら、
「ソテツちゃん、料理の名前を教えて。名前を知らないと目をつぶって食ってるようなものだから」
 私のコップに素子がつぐ。女たちもめいめい勝手についだ。
「スープ二種類は、海老入りワンタンスープと、トマトの玉子スープです」
「うん」
「インゲンと豚角の煮物、豆腐と牛肉の煮こみ、鶏肉の辛子揚げ、ホウレンソウのニンニク醤油炒め、ブロッコリーの蟹肉餡かけ、アスパラとベーコンの塩和え、チンゲンサイとシイタケ炒め、海鮮餡かけビーフン、五目焼きそば、ごはんは高菜チャーハンです。白米も炊いてあります」
「うん、すごいね」
 素子が、
「聞いとるだけで、お腹いっぱいなるわ」
 カズちゃんが立ち上がり、
「おトキさんの門出を祝して、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
 いつもの和気藹々として賑やかな食事になった。テーブルがそれぞれの話し相手を求める女たちで固まり、がやがやと盛り上がる。文江さんや素子の高笑いが聞こえる。私はビールのコップを重ねた。
 カラオケの準備がされ、箸を途中に、歌に飢えた女たちが勝手に機械をいじりはじめる。結局千佳子が呼ばれて調整してやる。ステージが立ち、次々とむかしの歌がつづく。夜来香、あの丘越えて、ガード下の靴みがき、りんどう峠、南国土佐をあとにして、ラストダンスは私に。ぜんぶ女性歌手の歌だ。箸が進み、ビールが進む。
「旦那さん、旦那さん」
 女の一人が主人をおいでおいでして、いつでも夢を、のデュエット。女将も呼ばれ、か細いファルセットで、アンコ椿は恋の花を歌う。私は愉快になり、グラスを飲み干し、どんどん箸を進めた。調子に乗って、おトキさんはじめ女たちにビールをついで回ったりする。じつに愉快だ。振り仰いでキスを求めるカズちゃんたちに応えていく。山口も主人夫婦も睦子たちも大喜びだ。直人までが女たちにキスして回る。菅野が無理やり抱き寄せて頬にキスすると、トモヨさんのもとへ逃げていった。山口もコップ片手にステージに出て、ハイそれまでヨ、とか、恋の山手線といったオチャラけた歌を唄った。主人が、
「山口さん、一曲でええから、神無月さんとギターで唄ってや」
 と両手をすり合わせた。
「銀の涙!」
 私が叫ぶと山口はギターケースからギターを取り出し、
「オッケー、銀の涙! 昭和四十一年、俺たち二人の転校の年に布施明が歌った。デビュー以来五枚目のシングル。神無月が言うには、西高から花の木の家に向かうときに街頭のスピーカから流れてきて、思わず立ち止まったそうです。四枚目の『おもいで』のときもたしかそうだったという話だ。彼は感動し、立ち止まって、記憶する。ぜったい俺にはまねできない。感動しても、訓練しなければ記憶できない。作詞水島哲、作曲平尾昌章。名曲!」
 突き抜けるような高い声で山口がスキャットを歌い上げる。

  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン
  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン)

 私がつづく。

  あなたの頬を濡らしてる
  銀の涙はだれのもの
  ぼくにおくれよ 一粒を
  作りたいんだ ペンダント
  二人の愛は 星より長く
  つづいてほしい 祈りをこめて
  あなたの頬に口づける
  銀の涙に口づける
  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン
  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン
  あなたの頬を濡らしてる
  銀の涙はだれのもの
  ぼくの心の その奥で
  光ってほしい いつの日も
  二人の愛は 心の絆
  ちぎれぬように 祈りをこめて
  あなたの頬に口づける
  銀の涙に口づける

 山口は私の独唱のあいだじゅう涙を浮かべながら、遠くかすかに、みごとな伴奏を響かせた。最後にいっしょにスキャットを唄う。

  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン
  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン 
  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン
  ランランラン ラン ラ ランランランランラン
  ランランランランラン ランランランランラン……

 表と裏を合わせたデュエットがフェイドアウトするまで一挙に歌い切った。賄いたちも立ち見にきて、テーブルの人たちといっしょに割れんばかりの拍手をした。そしてやっぱりみんな泣いていた。山口は周到に用意していたタオルで顔を拭き、
「神無月、すばらしかったぞ。いい聞き納めをした」
「ありがとう」
 酔いが回っている。
「顔が白いぞ。少し休め」
「そうする。霧の摩周湖もいいなって思ったんだけど、歌ってたら倒れてた。選曲がよかった」
 私は疲労困憊し、よろよろステージを降りると、座敷の縁側に近いガラス戸のそばに横たわった。雨の音が心地よく響く。
「寝かしといてあげて。酔っちゃったのよ」
 カズちゃんが言う。天童が納戸部屋から蒲団を持ってきて敷いた。転がすように私を蒲団の上に押しやる。直人が並んで横たわる。トモヨさんが横坐りになる。
「神無月さん、きょうはよう飲んどったからな」
 主人が言うと、菅野が、
「具合悪くないすか?」
「だいじょうぶ。きょうはこのまま寝るから、気にしないで」
 節子とキクエがやってきて、髪や頬を撫ぜる。私は目をつぶったまま、
「七日の夜にいくからね」
 節子が、
「はい、アパートで二人で待ってます。風邪ひかないように、ちゃんと蒲団をかけて寝てください」
 キクエが、
「きょうもすてきな声、ありがとう。心から愛してます。お休みなさい」
「お休み」
 入れ替わりに文江さんもきて、
「キョウちゃん、ええ歌やったよ。胸のお掃除してもらってスッキリしたわ。きょうはこれで帰るでね。しばらくお弟子さんのコンクールの指導でこれんけど、ときどき顔出すで。愛しとるよ。じゃ、またね」
「うん。お休み」
 みんな立っていった。たがいに挨拶をする声が聞こえる。
 ―ほんとに酒の弱い男だ。情けない。



         百三十九

 トモヨさんに並んで、枕もとに睦子と千佳子が坐った。二人で額にキスをしたり、手を握ったりする。直人がまねをする。吐き気がやってくる気配がないのは幸いだった。目を閉じる。カズちゃんと素子が、台所のおトキさんに語りかける。
「……たちが……から、休んどって」
「お土産なしの手ぶら……いいわね。御殿山……住め……何の問題もな……菊田さんだって福田さんだって、ちゃんと自分の住む家があるんだから」
「山口さんも……気兼ね……練習でき……練習部屋から遠く……た家……ないとね」
 彼女たちの言葉の輪郭が滲んでくる。眠くはないので意識は覚めている。物音も声もよく聞こえる。直人は晩めしを食ったろうか。あの子はいつ風呂に入るのだろう。いっしょに入ってやるという約束をまだ果たしていない。遅出の女たちが出ていく足音。男たちのグラスにビール瓶の口がぶつかる音。山口が、
「一曲唄っただけで、くたくたなんですよ。よく唄ってくれた」
「野球より体力を使っとるんですな」
「魂を振り絞ってるんです。すごいエネルギーで胸をえぐってきます。天成の歌手なんですね。プロ歌手に比べれば総合的に貧弱と言っていいんですが、センスのよさと音楽的能力でその貧弱さを補うので、彼の歌唱は大きな快楽を聴く者に与えます」
「貧弱というのは……」
「ちっとも悪い意味じゃありません。こういうことです。神無月のような天成の歌手というのは、訓練は不十分だし、編曲の機転は利かないし、和音の知識もないし、芸術の約束事をすべて踏みにじっているんです。そういう意味です。ところが、その魔法のような声に聴く者は魅了されてしまう。一度その絶妙な歌唱に心を奪われると、その身勝手な唄い方も、露骨な感情の訴えも、みんな許してしまう。芸術的な技巧などどこ吹く風の、真の芸術家だということです」
 山口がギターをケースにしまう音がすぐそばで響いた。部屋の端のテーブルから、丸が百江とメイ子に夢中でしゃべる声が聞こえる。
「肉体って、神無月さんへのとっかかりにすぎないってことが、毎日どんどんわかってきて、からだの血が入れ替わるみたいな感じ。お嬢さんがボーナスだっていったこと、いまは百パーセントわかります。神無月さん、魅力的すぎる」
 メイ子が、
「一度とにかく抱かれないと、何も始まらないわよ。そのあと、からだ以外のすごさがわかってくるの」
 百江が、
「最初にびっくりすること要求されますから、たまげちゃいます。私、この八月に五十になるんですけど、子供が何人もいる大の女が、そんじょそこらのことには驚かないぞと思って明石に出かけていったんです。たまげました。そして、生まれて初めて強く感じさせられてほんとの意味で腰が抜けました。最初のうちは、そのせいで自分が神無月さんに夢中になったのかと思ってたら、ぜんぜんちがうんです。セックスなんかしなくても、どんどん恋心が募って、そうすると、神無月さんを思ってるだけで満足するようになったんです。野球を見たり、歌を聴いたり、しゃべる言葉を考えたりということは、セックス以上のボーナスです。いまは神無月さんがどこか遠くに出かけていても、はっきり顔が浮かんできて毎日が楽しくて仕方ありません」
 女たちのふだんの寡黙が解ける。話したいのは私のことだけのようだ。私のことを語っている分には、この家ではだれにも拒絶されない。寡黙は何度も拒絶されたあとで身につける術だ。だれもが自分のことを語りたいという欲望を持っている。他人が喜んで耳を傾けないので、仕方なくその欲望を抑えているのだ。いまはみなが進んで耳を傾け、進んで語りたがっている。私にしか関心のない彼女たちにとって、私のことを語るのは自分のことを語るのと同じだ。
 トモヨさんが私のジャージを脱がせて下着姿にし、掛蒲団をかけ直した。頬を撫ぜて唇にキスをした。話し声がどんどん遠ざかっていく。丸たちの会話にカズちゃんや素子や睦子や千佳子が加わったようだが、もう意識が遠い。ギターの音も途切れ途切れになってきた。
         †
 はだけた胸をさすられている感触に気づき、ぼんやり意識が戻った。女の手だ。酔いは抜けていないが、気持ちの悪さはない。目を開けると遠近がわからないほど座敷が暗い。縁側の雨戸も閉められているので、夜空の反映もない。手を伸ばすと裸の胸に触れた。全裸のようだ。女だとわかっているので驚きはない。固く弾む。睦子か? いや、睦子の胸はもっと柔らかく、豊かだ。顔の輪郭をなぞる。ふっくらしている。
「キッコよ」
「キッコ?」
 薄っすらと頬のあたりが浮き上がってきた。まちがいなく雀卓にいた女だ。そうだ、キッコと言っていた。
「何時?」
「十二時半過ぎ」
「したいの?」
「うん。さっき帰ってきたんや。廊下を通るとき、座敷でだれかが寝とるように見えたさかい、だれやろ思って。顔覗いたら神無月さんやった。もう、がまんできんようになって」
「妊娠しない? 危ないなら出さないけど」
「心配あらへん、妊娠せん日や」
「ぼくのこと好き?」
「口で言えんぐらい好きやわ」
「廊下の奥の部屋はソテツの部屋だから、なるべく声を絞ってね」
「声なんか出さん」
「出たら抑えてね」
 キッコの手が私の腹へ滑り、パンツを脱がせにかかる。手伝うように尻を上げる。腿まで下ろすとすぐさま睾丸を握り、亀頭を含む。私の萎んだ陰茎は七、八センチしかないので含みやすいはずだ。商売柄だろう、睾丸の揉み方がうまい。すぐ血が入り、意識がはっきり覚めた。キッコがあわてて口を外した。驚いたふうに握り締め、亀頭だけを唇で吸うようにする。興味深げに掌をかぶせて握ろうとする。
「わ、おっき……」
 呼吸が弾んでいる。冒険を求めるナマの息吹が腿の付け根にかかる。キッコの陰部に手を伸ばし、小陰唇に触れる。わずかに湿っている。つまむ。厚い。その厚みを新しい指先の感触として記憶する。クリトリスを探り当て押し回すが、反応が少ないので、中指を膣に挿入してみる。反応がない。跨ってきた。
「入れていい?」
「いいよ」
 胴を三本の指で握り、膣口に押し当てる。
「怖いけど、入れるね。和子お嬢さん、ごめんなさい」
 ゆっくりに挿し入れる。湿りの少ないきつい感触で入っていく。キッコは少し動く。感覚を確かめるように動きを止める。髪と顔のシルエットが私を見下ろす。
「ああ、きつい……ぜんぜんちがう……」
「気持ちいいの?」
「わからんけど、きつい。中がいっぱい」
 暗いので表情が定かでない。両手を伸ばして胸をつかみ、乳首をくじる。ハアッと切ない声が上がり、膣口が一瞬潤った。安心したように上下しはじめる。挿入した瞬間とちがい、陰茎に感じる空間は茫洋としている。
「ええんかいなあ、こんなことして叱られへんかなあ」
 不安が興奮を呼ぶのだろう。どんどん濡れてきた。
「だれに? ぜったい抱いてもらうって言ってたじゃないか」
「言うてみただけや。瓢箪から駒やった」
 両乳房を握ったり緩めたりする。
「あん……お嬢さんの大事な人なのに。ええんかいかなあ、怖いなあ」
 突き上げる。
「やん、気持ちええわあ、信じられん」
 少しカリが壁に触れるようになった。キッコはがんばって腰を動かす。下からリズミカルに合わせてやる。刺激があるはずなのに、圧力が弱い。このままだと射精までに時間がかかりそうだ。
「まだイカんの?」
「イカない。きょうは何人とした?」 
「四人。神無月さんより若い男が一人。あとはおじさんばっかり。延長してくれたさかい相当稼いだで」
 私は腹を据え、ゆっくり根気よく抽送する。
「イカへんの? 気持ちようならへんの?」
「もう少しかかる。キッコは?」
「いつもといっしょ。ふつうの男はもうイクんやけどなあ。つらいわあ。あたしのオメコ神無月さんに具合が悪いんかいなあ」
 私は上下逆になり、尻を持ち上げて上壁を引きこするように素早く腰を動かした。
「あ! ほんまやわァ、丸ちゃんの言ったとおりやわァ、あああ、気持ちええ! あ、ああ、こんなにオメコって気持ちええの?」
「ここでぼくがイッたら、うれしい?」
「うれしい、めちゃくちゃうれしい、イッてくれるん?」
「まだ」
 深浅にスピードを加える。奥を突き、膣口を素早くこする。
「あああ、気持ちええ! 神無月さん、ありがと、もうええよ、イッて、あああ、気持ちええわあ! あたしほんとに神無月さんのこと好きなんや、オメコ熱うなってきた、こんなの初めてや、うれしい、もうええよ、ほんとに、出してもうて」
 奥を連続で突き、上壁を連続で引きこする。
「あ、神無月さん、あかん、あかんあかん、恥ずかしい、抜くで!」
 私は尻をつかんで抜かせず、連続で強く突き入れると、動きを止めて待った。達成の予感がすぐにきた。膣が脈動を始め、急激に締まった。
「ウウン! あああ、ウン! ウウウーン! はあああ、ウン!」
 激しく痙攣して膣を強烈に緊縛させた。腹の筋肉が弛緩を繰り返す。完全にアクメに達している。
「なんやの! あああ、ウーンンンン!」
「イッたんだよ、キッコ」
「あたしイッたん? あ、ああ、イク! あかんあかん、またイッてまう、イク! あああ、イク!」
 ようやくアクメの発声を繰り返しはじめた。緊縛したままの膣にこすられ、亀頭が急速に怒張する。快感が妊娠の不安を打ち据えた。
「イクよ、キッコ!」
 尻をしっかり捕まえて射精する。
「やーん、うれしい! 気持ちえええ! イクウ!」
「キッコ、妊娠!」
「だいじょぶやて、だいじょぶ、あああ、気持ちええ! イク! うううーん! ん! んんん!」
 尻がドジョウ掬いのように前後し、おびただしい愛液を私の付け根にあふれさせる。
「好きや、好きや、好きや! うううん、イクウ!」
 私は痙攣するキッコの尻を持ち上げて精液が漏れないようにしてから、そっと引き抜き、枕もとのティシュを多量に引き抜いて股間に挟んだ。深夜の廊下に人の気配はない。私は座敷の襖を閉め、壁のスイッチを押した。美しい裸体がまだかすかに痙攣していた。目を開けたキッコは、部屋の明るいのに気づいてパッと顔を両手で覆った。
「かんにん。図々しいことして」
「よかったね。イクことができて」
「おおきに。狂ってもうた……幻滅したやろう?」
「ううん、とても気持ちよかった。好きだと言ってくれてありがとう」
 キッコは顔から手をどけて、もの思わしげな視線を天井に向けた。
「びっくりしたあ……。おおきに。何かめちゃくちゃ恥ずかしいわ。……この仕事に就いとる女はオメコでイクことなんか知らへんし、じつはオマメでイクことも遠いむかしの思い出しかないんよ。アパートで一人暮らしの子も、自宅からかよっとる子も、寮に住んどる子も、仕事が終わって部屋に戻ったら、ぐったり疲れてもうて、そんなことする気にもならん。その気になるのは素人女だけやろうな。習慣て恐ろしいものやわ。ないものはないことがあたりまえになって、ほしくなくなりますねん。毎日あるものは何やろな。仕事で入ってくる給料。それと食べもん。お金と食べもんだけがほしくなりますねん。そういう女の前に、神無月さんみたいな人が現れたらどないなる思う?」
「さあ、仕事で接する男たちとどこがちがうんだという反感かな。神さま扱いされて、えらそうなこと言って、女とやりまくって……」
「まさか。きょうもダンさんに叱られて、みんなそういう気持ちが自分にあったのかもわからんて素直に謝っとったけど、あれは神無月さんの誤解で、そんな気持ちにはぜったいならへんねん。世間の道徳なんてこと、考えたこともあらへんし、思いついたこともあらへん。プロ野球、三冠王、東大―とんでものうえらい人がこの世にはいるんやちゅうことを嘘や言うほどアホちゃうし、ひねくれてもおらへん。……さびしいあきらめの気持ちなんよ。こんな男に愛されることはあらへんやろうなあちゅう、あきらめの気持ち。するとな、愛されんでもええさかい、からだだけでも抱いてくれんかなちゅう願いが湧いてきまんねん。お嬢さんはわてらの気持ちをわかってくれとる。だから、天童ちゃんや丸ちゃんが思い切ってお願いしたら、心を磨きなさい言うて希望を持たせてくれた。お嬢さんが言うには、キョウちゃんの好みの女やないとあかんて。そんな自信のある女がいるわけあらへんやろう。素人にかておらへん。……わかってくれた? 気に入ってもらう前に、抱いてもらうことそのものが願いなんよ。もちろん、オメコがイッたんは驚いたし、めちゃくちゃうれしかった。大きなプレゼントや。ほんまにおおきに。あたしが神無月さんの好みの女やったかどうかわからんけど、あたしは思いを遂げたわ」
「好みの顔と、からだだったよ。きょうは失礼なことを言っちゃったね。考えが足りなかった。みんなに謝っておいてね」
「それはでけへんで。あたいが抱いてもらったことがバレてまう。みんながかわいそうや。それに、わてらも純粋でない心があったんは確かやさかい、そういういやらしい眼をしとったかもしれへん。だいじょうぶでっせ、だれも気ィ悪うしてまへん。神無月さんがわてらに無関心やなかったてわかって、かえって喜んどる」


         百四十 

 私は目が潤み、キッコを抱き寄せてきつく抱擁した。
「すごく頭のいい女だね。感動した。あしたまた、ぼくに軽口でも叩いてくれるとうれしいな」
「今夜のこと、一生忘れへんで」
「またチャンスがあったらね。じゃ、ぼくはここで寝るから、お休み」
「お休みなさい。……気にせんと聞いてね。……あたしがここにきたのは三年前の夏です。スケバンみたいなことしとって、高校二年で退学食らって、親に縁切りされて、名古屋に流れてきたんです。……初めて神無月さんに遇ったときから好きやった。きょう、神無月さんがそばにきて、名前は? って訊いたとき、心臓が破裂するかと思った。……もうほんとにええんです。神無月さんを見てるだけで何もいらん。……お休みなさい」
 さばさばとした感じで下着をつけ、ミニスカートにブラウスをはおって廊下へ出ていこうとした。私は呼び止め、
「借金はいくらぐらいあるの?」
「言わん。好きでもない人になら言う」
「そう」
 摺り足で戻ってきて、抱きつき、貪るように唇を吸った。
「愛しとる、愛しとる。今度いつか抱いてくれるときは、この言葉だけは言わせてな」
 あわてて離れると、また摺り足で廊下へ出ていった。
 私は自分が麗しい存在でありすぎる気がした。私は麗しくない。身勝手と思いやり、禁欲と好色、虚栄と羞恥、精力と怠惰、共感と偏見。自分がそういう矛盾した感情にまみれた人間であることを精いっぱい曝け出して生きなければならないと痛切に感じた。
 ジャージのズボンを手に、下半身を剥き出したまま離れへいった。トモヨさんの寝室に入ると、直人を庇うようにトモヨさんがこちらに背を向けて寝ていた。背中に寄り添った。手を前に回して胸をつかんだ。その手を陰部に滑らせる。乾いた襞を探る。
「あ、郷くん、起きちゃったのね。うれしいわ。少し待って。すぐ濡れてくるから」
 待ち切れず、右脚を抱えて、キッコの愛液でべとついたままの亀頭を膣口に当てる。指で陰核を刺激する。たちまち濡れてきて抵抗なく入った。
「ああ、気持ちいい、愛してます」
「直人を起こさないように、声を出さないでイケる?」
「イケます、ううう……う!」
 アクメを伝えてくる。
「……! ……! ……ん!」
 抜き取る。痙攣する腹や尻をさする。トモヨさんが囁く。
「秋まではできないと思ってました。うれしい」
 私も囁く。
「そろそろ、子宮が収縮すると危ない時期になったよ」
「はい。隣の部屋へいきましょう。出してください」
「浅いところでね」
 腋を支えて私の寝室にあてられている隣部屋へいく。蒲団がいつも敷いてある。万年布団ではなく、いつ私がきてもいいように夜だけ敷く蒲団だ。大きな腹を仰向けにして、クリトリスを亀頭でこする。十秒もしないうちに、愛してますの言葉と同時に、硬く腹が絞られる。浅く挿入し、できるかぎり素早く往復する。キッコに出したばかりなのでなかなか出ない。苦しげなつづけざまのアクメの声を聞きながら、亀頭だけをふくらませる感覚で射精する。収縮が五度も六度も追いかけてくる。痙攣の静まるのを待って、柔らかく抱き合う。口づけを交わす。深い安堵の中でうとうとする。
 陰茎が暖かいタオルで拭われているのを感じ、やがて横たわっている私の背中にやさしく掌が回るのを感じる。意識が遠ざかっていく。しばしの眠りに就いているあいだに、トモヨさんは音もなく直人のもとへ戻る。
         †
 四月五日土曜日。七時半起床。カーテンを透いてくる陽射しが強い。七・○度。窓を開けて庭の花を見る。白い花をつけているクロキとハナミズキの根方にクローバーが這っている。薄紫のシバザクラ、濃いピンクのチューリップ、オレンジ色のクンシラン、紫のラベンダー、黄色いマリーゴールド、ネモフィラの青い絨毯。グルグル腹が鳴る。まず下痢をする。耳鳴りは……ほとんどなし。シャワー、歯磨き、洗髪。洗濯したての下着とジャージを着る。
 アップした髪をあらためて整えたおトキさんが、今朝も厨房に入っている。お腹の大きいトモヨさんも元気に立ち働いている。ソテツがチョコマカ動き回り、えらそうに年長者たちに指図している。人間は食うのが仕事なので、彼女たちは一日も休めない。
 目立たないふうに動いている年配の女たちのほとんどは、どことなくのろまな様子をしている。無能には見えないが、厨房を取り仕切っている三人とちがって、独立独行の気構えで調理にいそしんだり、創意工夫して膳をまとめたりする活気が感じられない。人に使役されるのを待っている立ち居だ。トモヨさんは夏に入れば長期休暇でいなくなるし、ソテツは年増たちを差配するには小娘すぎて舐められる気がするし、ここでおトキさんが抜けることはかなりの痛手になるだろう。しかし、中堅どころのイネが来週戻り、アイリスの客足が落ち着いて百江や天童や丸が戻ってくれば、どうにかもとどおりの雰囲気になるかもしれない。
 居間にカズちゃん、素子、百江、メイ子、千佳子が勢揃いしている。千佳子は直人を抱いている。土曜日なので直人はお休みだ。
「おはよう」
「おはよう。コーヒーいれるね」
 カズちゃんが言うと、百江が率先して立ち上がった。私は千佳子に、
「睦子は?」
「夜遅く菅野さんが送っていきました。七日の入学式のときキャンパスで会うことになってます。十四日から授業開始なので、巨人戦がデーゲームなら観にいけないって言ってました。初日からサボれないので」
「そりゃそうだ。二時からのデーゲームだよ。四月の下旬以降はナイターが多くなるけど」
 山口に目ぼしい記事を探させながら新聞を切り抜いていた主人が、
「結局トモヨの部屋へ避難しましたね。座敷は少し冷えますもんね。ワシも心配やったんやが、よう寝とったから」
 カズちゃんが、
「私たちも則武に帰るとき、ちょっと気がかりだったんだけど、かえってキョウちゃんが落ち着いて寝られると思って」
「女の肌の温もりがいちばん落ち着く」
 山口が、
「アイ、アグリー」
 主人に、
「何か覚えておくべき動きがありますか」
 主人はスクラップブックをペラペラやりながら、
「自由契約になった巨人の高倉がアトムズに入団しました。阪急のスペンサー退団、ヤンキースのミッキー・マントル退団」
「あ、それ、チームメイトに聞きました」
「これは別に気に留めなくてもいいような記事ですが、西鉄の宇佐美ゆう入団したてのピッチャーが、練習中に打球を胸にぶつけて死んでます。……それより、中日新聞に北村席の写真がでかでかと載ってますよ」
 みんなで覗きこむ。門前の景観と、松葉会の組員たちが両手を広げて報道陣を整理している姿が写っている。女将が不安そうに眉をしかめる。主人が『天馬のお宿』という記事を読み上げる。

 中日ドラゴンズ神無月郷外野手(19)は、昨年十一月の入団以来、キャンプ地と球場を除けばほとんどマスメディアの前に姿を現すことはないが、名古屋における寄宿先とおぼしき場所は特定されている。球団関係者もその場所(報道協定のため所番地は伏せる)の存在は別段秘密にしていない。先日の「百人」の取材の際も、本人がこの家の門前でインタビューを受けた。
 この家は、昭和初期からつづく芸妓置屋の老舗として名高い北村席の新宅である。旧宅は、昭和三十年代後半に持ち上がった新幹線プロジェクトを契機にする名古屋駅周辺土地区画整理で昨年取り壊されたが、その際廃材となった柱や梁等は貴重な建築資材として新宅の築造に役立てられた。
 当地区の隠然たる勢力家である北村耕三氏(56)は、神無月の最大のスポンサーであり、居宅を新築して提供するほどのかわいがりようである。北村席宅および営業店舗には、総計百五十名ほどの風俗嬢、三十六名の男子従業員、三十四名の賄い婦が勤務しており、二つの寮棟と一つの保育棟を完備している。本宅には耕三氏のほかに妻のトクさん(60)、長女の和子さん(35・椿町にて喫茶店アイリス経営)、養女智代さん(40)、智代さんの長男直人くん(1)、風俗嬢十一名、住みこみの賄い婦八名などが居住している。なお耕三氏は当家に関わるいっさいの取材を拒否している。
 名古屋における神無月の登録住所は、中村区岩塚町の株式会社飛島建設の社宅であり、母親である佐藤すみさん(47)が管理人兼賄い頭をしている関係から、彼はここを根城に名古屋西高校に通学した。東大進学後の東京における居所は、阿佐ヶ谷、荻窪、吉祥寺と転々とし、なかなか追跡が困難であった。吉祥寺宅を訪れた巨人軍スカウト陣が彼の雲隠れに困惑したことは、記憶に新しいところである。
 神無月のマスメディアに対する態度は、いざ公式取材の段となると、巷間で噂されるほど尖ったものではない。風聞に偽りがあると思われる。ただ、彼の周囲にはプロらしき警衛のスタッフが要所に隠見し、特攻的な取材にはきわめて防御が堅いため、限定された日時と場所以外ではめったに彼を捕まえることはできない。なかなかふだんの素顔を報道できないゆえんである。なお、早朝のランニングの姿は何度か遠方より捉えられているので、いずれ紙面に掲載しようと考えている。これを要するに、まるで、塀の内の人であるサリンジャーか、原節子か、覆面レスラーを追跡するようであり、同時にわれわれ新聞人としては興味の尽きないところでもある。


 山口が、
「害はないですね。それどころか、北村席やアイリスのいい宣伝になってますよ。ますます商売繁盛でしょう」
 カズちゃんが、
「そうね。この、球団側が秘密にしていない、というところがいいわね。直人のことも深く考えてないみたいだし、自粛の効いた記事だと思うわ。水原監督や村迫さんたちのおかげね。マスコミの共感力はとっても弱いの。一つにはマスコミ本来の覗き屋という性質のせいと、一つには大衆的な社会環境のせいなんだけど、とにかく偏った集団だということは忘れちゃいけないわね」
 私は主人に、
「一キロの鉄アレイ、こっちに置いてましたっけ」
「一キロと三キロ二つずつでなかったかなあ。下駄箱に四つ入ってますよ。どうするんですか」
「両手に持ってランニングしようと思って。効果があるかどうかわかりませんけど、腕全体の筋力保持にはなるでしょう。じゃ、走ってきます」
「菅ちゃんを待たんでええんですか」
 女将が、
「菅ちゃん、きのうも酔っとったよ。遅いんやない」
「桜通を往復してきます。三十分ほどで戻ります。道草するかもしれません。先に朝めし食べててください」
「いってらっしゃい」
 カズちゃんの声につづいて座敷の女たちの、
「いってらっしゃい」
 の声が上がる。キッコの声が大きく聞こえた。
「おとうちゃん、いってらっちゃい」 
 直人がオチョーチャンではなく、初めて〈おとうちゃん〉とハッキリ言った。私は思わず振り返った。千佳子に抱かれた直人が両手を振っていた。手を振り返し、両手に一キロの鉄アレイを持って玄関を出る。
 快晴。まだ八時。七・一度。風強し。新聞記事であたりに常にカメラのいることがわかったので、門から何食わぬ顔をしてすみやかに走り出す。牧野小学校の裏を抜け、かつての蜘蛛の巣通りをいく。あの当時の土の道に貼りついた町並がジオラマのように浮かんでくる。トタン屋根、六枚の正方形のガラスがはまった埃っぽい板戸。ゴタゴタした看板の連なり。大衆食堂・丼物一式・うどん・中華そば―みつわ食堂、ゴム履物卸―加藤ゴム商事、化粧品・薬品部―マツオカ化粧品。そういえばデンキパンという看板もあったが、どんなパンだったのだろう。それらの店の前にはミゼットや小型トラックが停まり、ワイシャツ着てハンチングかぶった中年男や、ツーピースのタイトスカートを穿いてハンドバッグ提げた若い女や、下駄を履いて風呂敷持った婆さんや、自転車牽いたランニングシャツ姿のおっさんなんかがたむろしていた。界隈に子供の姿はなく、たまに見かけるのは、新幹線などから降りてきた土地っ子でない子供たちで、たいてい親に手を引かれて西口の食い物屋へ入っていった。
 泥江(ひじえ)町の交差点まで直線距離で約一キロ半。そこから折り返して帰宅するまでの距離を考える。道の曲がりくねりがあるのでおよそ五キロと踏み、時速十キロで走って三十分だなと見当をつける。駅西広場を横切り、混雑するコンコースを速歩で抜けていく。大時計の下は背広姿が多くなる。女の服装と髪型も駅東らしく整ってくる。


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