第三部


四章 開幕まで



         一

 十時四十分。切符を買って改札に入り、本山行きに乗る。
「キャー!」
 と車内に歓声が上がる。女子高生の群れだ。
「神無月郷だがね!」
 他の乗客たちが私に注目する。すぐに眼鏡をかける。座席に腰を下し、うつむいて頑なに黙っているので、だれも語りかけてこない。歓声がひそひそ声に変わる。
「マスコミ嫌いなんでしょう?」
「騒がれるのが嫌いなんよ」
「サインほしいわよね」
「無理、無理」
 私は胸から手帳を出して、何か書きこむふりをする。ABCDEFG……。顔のそばでシャッターの音。窓の外を見る。地下鉄なので闇しかない。
「いい男だなあ!」
 遠くから男の声。目の下にローヒールが見えた。見上げると、睦子だ!
「あ、睦……」
 唇に指を当てて隣に座る。
「十五分のがまんです。目の前に乗りこんできたので、びっくりしちゃいました」
 遠巻きに客たちがこちらを見ている。
「まったく気がつかなかった。入学式だから、どうせ睦子と千佳子には遇えないだろうけど、構内でもぶらぶらしてみようと思って。二人のいく大学を知っておきたいからね」
「ありがとう。学部入学式は十一時半からなの。やっぱり父兄は入れないから、ついてこなくていいって言ったのに、おかあさんたら」
「え、お母さん、やっぱり出てきたの?」
「そう」
 睦子は離れた座席の中年女を手招きした。私は眼鏡を外して待ち構える。肩から大き目のトートバッグを提げた女がいそいそやってきて、目の前で深々とお辞儀をする。ピンクの派手なツーピースを着ている。睦子より一回り大柄な色の浅黒い美人で、煙るような目が睦子と同じだった。口紅を引いていないし、パフも叩いていない。
 やさしい睦子を産んだ母親―好感を抱いた。
「睦子がひとかたならぬお世話になってます。いままで挨拶が遅れて申しわけありませんでした。どうぞ今後とも、睦子をよろしくお願いいたします」
 きびきびとした動きで、なるほど青果市場の女という感じだ。私も立ち上がって辞儀をする。握手した。車内にシャッターの音が連続で上がる。母親は顔の前で掌をパタパタあおいだ。
「気をつけて、おかあさん、神無月さんに触ったらビリビリしちゃうから」
 私は思わず微笑み、
「こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」
 睦子は自分の席を譲ろうとしたが母親は断り、少し離れた空席に腰を下ろした。穿き心地の悪そうなスカートをしごくようにもぞもぞやっている。私は睦子に、
「服が窮屈なんだね」
「ふだん作業着ばかり着てるので、ああいう服は具合が悪いみたいです」
「北村席に帰ったらカズちゃんのジャージがあるから。お父さんは?」
「働き者なんです。娘のことなんか忘れてます。東大にいったときも、睦子東大さいったのな、すげな、と他人事みたいに言って、それきりです」
 私は声を上げて笑った。
「東大の入学式にはきたんだろう?」
「母と弟が。帰りに宮城の温泉に浸かってのんびりしました」
 変わり者一家だ。私は甘えかかるように睦子に肩を寄せた。睦子が、あら、とうれしそうに笑った。
 わざわざ私たちといっしょに降りてきた人びとのカメラに取り囲まれながら、急ぎ足で本山(もとやま)駅の地上へ出て、タクシーに乗る。五分で着いてしまいますよ、と愛想のいい運転手に言われた。千円を出し、人溜りが見えなくなったら降ろしてほしいと頼む。
「承知しました」
 タクシーが走り出すと人垣が遠ざかった。
「歩いても十五分ですが、このまま大学までいきましょう。おたくさん、神無月選手でしょう? 途中で降りても困ったことになりますよ」
「人だかりでわかっちゃいましたね」
「いえ、その顔はそんじょそこらに転がってる顔じゃないですから、だれでもすぐ気づきます。いまや名古屋じゅうのタクシー運転手が千載一遇のチャンスを逃さんように、サイン帳か色紙を持って走ってますよ。九十九パーセントのプロ野球選手が自家用車で移動しますからね。神無月は運転免許を持ってない、お雇いの車で中日球場の往復をする以外は電車かタクシーに乗ると知れわたってます。きょうは私、ラッキーでした」
 千円札を返そうとするので、
「メーターを倒してください。そういうことをされると気詰まりです」
「大ファンなんですよ」
「ファンはラジオを聴いたり、球場にきてくれたりするのがいちばんのサービスです」
「そうですか。じゃ、いただいておきます」
 そう言ってキリキリとメーターを倒した。沿道に別の人混みが現れた。青黒っぽい服装の若い男女が父兄を連れてぞろぞろ歩いている。新入生たちだろう。ネクタイを締めている男が多い。女はシンプルな胸ボタンのフォーマルスーツがほとんどだ。睦子の服装を見ると、サッパリとした淡いベージュのツーピースを着ている。スカートはフレアだ。うれしくなる。
「いいね、そのツーピース」
「千佳ちゃんと同じベージュで、少し色ちがいのお揃いなんです」
「きれいな町並だ。椙山女子大にいったときも、これに似た駅からジョギングした」
 運転手が、
「椙山なら星ヶ丘ですね。新興都市なので本山とそっくりです。この石垣が桃巌(とうがん)寺。曹洞宗のお寺です。天文と言うから千五百年ごろですね、信長が父親信秀の菩提を弔うために建立した寺です。合体仏や、直径一メートルの日本一の木魚で有名です」
「観光案内までしてくれてありがとうございます。合体仏って、座位でセックスをしてる像ですか」
「そうです。歓喜仏とも言われます」
「仏さまの歓喜の顔って、どんなものかなあ。あんまり見たくないな。成仏してまで人間のまねをするなんて、大きな矛盾だ。ちっとも解脱できてない」
 母親は真っ赤になってうつむき、睦子はにっこり笑った。すぐに母親はうつむいていた顔を上げ、
「思ったとおり、神無月さんは大らかな人ですね。こんな人なら、だれでもずっと応援したくなります」
 運転手が、
「いやらしくないですよ。サラリと言ってのける。私にはとうてい無理です。遠回しに歓喜仏とか合体仏と言ってしまう。お二人は神無月さんのご家族ですか」
「この娘が高校時代の同級生です。娘は青森高校で野球部のマネージャーをしてました」
「ああ、北の怪物時代ですね。選手とマネージャーか。いいなあ、こうやって親しい関係がつづいていくんですね」
「はい。神無月さんは義理堅いかたで、わざわざうちの娘の入学式の様子を見にきてくれたんですよ」
「寸暇を惜しんでというやつですね。十二日から開幕ですから。講堂前でカメラにつかまっても無視してくださいよ」
「新入生と父兄でごった返してるでしょうから、ぼくなんか目に留まりませんよ」
「どうですかね。その顔と姿かたちじゃ神無月だと一目瞭然、結局つかまると思いますよ」
 睦子が、
「豊田講堂に新入生以外の父兄や知人も入れればいいんですけど、だめなんです。講堂前は、入学式が始まってからも父兄たちがたむろしているでしょうから、やっぱりつかまるでしょうね。おかあさんと食堂の喫茶店にでも入ってたらどうかしら」
「うん、そうする。ああ、緑が多くてさわやかな道だ」
 運転手が、
「山手グリーンロードと言います。公道が大学構内を走ってるんです。全国でも名大だけらしいです。右手の二階建てが名大学生会館。このあたりからぜんぶ名大の建物です。学生会館の並びの建物が北部生協食堂、左手の格子木みたいなものが壁になってる建物は減災館と言うんですが、災害を減らす、ですか? 意味はわかりません。右手に見えてきた十階建ては工学部大学院、左は大学本部総務企画部。いずれこのあたりに名古屋大学駅ができる予定です。名駅から一本でここまでこれるようになりますよ。このあたりに建てこんでる建物は何が何やらわかりません。ぜんぶ名大です。正門がないので、名古屋大学はどこからどこまでと言えないんです。左手真っすぐの突き当たりに見えるのが、きょうの入学式会場の豊田講堂、右手は図書館、生協、食堂、文科系学部が固まってます。とてつもなく大きな大学ですよ。キャンパス面積六十ヘクタール、日本十位です。一位はその四倍の九大、名大のライバル阪大が五位、東北大は六位、北大七位、京大八位、東大は十三位です。むかし二十位まで覚えましたが、目ぼしいところしか覚えてません。着きましたよ。というより、とっくに着いてました」
 おもしろい運転手だ。みんなで笑った。タクシーを降りて、お辞儀をし、手を振って見送った。快晴。十二・二度。風なし。バス停用の半円の空間から仮柵を置いた講堂敷地の入口にかけて、ごちゃごちゃと父兄たちがたむろしている。私はまた眼鏡をかけた。
「いやあ、物知りだったなあ。よくものを知ってる人間を見るのは爽快だ」
 睦子はニッコリ笑って、
「タクシーの運転手さんて物知りですね。菅野さんもそう。あ、十一時十五分。入学式は五学部の合同入学式らしくて、千佳ちゃんと会えたらいっしょに帰ってきます。一時間ほどで終わるそうだから、おかあさんと南部食堂でコーヒーでも飲みながら待っててください。この道を真っすぐいって、最初の角を右です」
 睦子は人混みに紛れ、広い芝生の中を講堂に向かって歩いていく。私と母親はしばらく歩きつづけ、南部食堂の見える温かみのない石だらけの構内に入った。見覚えのある顔が食堂の玄関から出てきて通り過ぎた。小財布を手にしている。すぐにわかった。
「甲斐さん?」
 女が振り向いた。小さい目が訝しげに私を見ている。睦子の母親が、
「どなたですか?」
「中学校の同級生だと思うんです」
「まあ……」
「ひさしぶりなので、自信はないですが」
 女が近づいてきて、
「甲斐ですが……。あっ、神無月くんですね」
「はい、やっぱり甲斐さんでしたか」
 甲斐は私をしみじみ見つめ、
「―大活躍のご様子、おめでとうございます。いつも新聞やテレビで拝見してます」
「中二の春以来ですから、ちょうど六年ぶりですね。名大の理学部にいったことは加藤雅江さんから聞きました」
「加藤さん……。どうしてらっしゃいます?」
「愛知時計に勤めてます」
「そうですか。きょうは名大にご用事が?」
「友人の入学式なので、見学にきました。こちらがその友人のお母さんです」
 甲斐は母親を見て、頭を下げた。
「神無月くんと中学のとき同級だった甲斐です。いま理学部の二年生です」
「まあ、ご立派に」
「そこらへんでコーヒーでも飲みませんか。時間ありますか?」
「はい。理学部校舎の図書室に戻るところでしたので、空いてます。食堂のコーヒーは飲む気がしませんものね。そこの四谷という交差点に喫茶店が一軒ありますから、いってみましょう」
 うつむいたまま上気した声で答える。歩いて三百メートルほど戻る。
「お友だちは一浪ですか?」
「東大の文学部を中退して、こちらの文学部にきました。東大野球部のマネージャーでした」
 甲斐は何かを感じたようで、
「神無月くんを追いかけてきたんですね。すてき。たしか神無月くん、中三のとき青森へいってしまったんでしたね」
「はい、島流しでした」
 甲斐はうつむき、
「……とうとうプロ野球選手に」
「なれました」
「ご苦労なさったでしょうね。ここまでくるには」
「ラッキーが重なりました。理学部校舎というのは?」
「豊田講堂の左手に何棟か建ってます。道を隔てて建ってるのが工学部校舎です。……お友だちは東京のかたですか? それとも名古屋かしら。青森から名古屋のほうの高校に転校なさったという噂は聞いてましたが」
 母親が、
「青森高校の同級生でしてね。そこでもマネージャーをしてたんですよ。もう一人マネージャーをしてた子も、名大の法学部にきました。いっしょに入学式に出てます」
 甲斐はただならぬものを悟ったような顔をした。
「理学部って、どういう仕組みのものですか。男女比は?」
「八対二です」
「女が十人ぐらいしかいないわけか。名古屋西高からも金原という女がいきました。甲斐さんと同学年です」
「その人、知ってます。クラスがちがうのでお話したことはないんですけど、よくできるということで有名です。私と同じ数理学科に進まれたはず。理学部は、昭和十七年生まれなんですよ。まだ二十七歳。定員は二百七十名。数理学科進学定員は五十五名。一年生のうちは学科分属をせずに共通で学びます。二年生でそれぞれの学科に分かれます。二年生では数学を学習するうえで必要な定理などを学び、三年生では興味に合わせて専門的な内容を学びます。四年生では卒業研究として、本を選びその本の内容を深く学びます」
 意外と話好きのようだ。小さい目を大きく見せる化粧を目もとにしている。中学時代と同様、〈女〉に対するなつかしさを感じなかった。


         二

 交差点の角にペルーという大きな喫茶店があった。中高年の男女でぎっしりだ。新入生の父兄にちがいない。窓ぎわにどうにか席をとり、コーヒーを注文する。
「東大で直井整四郎くんに遇いました?」
「いや、遇いませんでした。野球一本だったし」
 私も質問した。
「鬼頭倫子さんの消息は知りませんか」
「さあ……。井戸田くんが名大の工学部にいったことぐらいしか。中高と、私、ほとんど友だちいませんでしたから」
 主要大学に合格した直井も井戸田も新聞で消息は知れる。鬼頭倫子やリサちゃんは知れない。しかし甲斐も私もは新聞以上のことを知らない。だからこそ伝聞で知りたいのだ。
「勉強家だったから、甲斐さんは」
「神無月くんは野球ばかり。どこで勉強してたんですか」
 ―今度は負けないわよ。
「試験前によく徹夜してた。どこにいっても勉強の怪物ばかりで、そんなことをしてやりすごすのがせめてもの策でした。アタマ悪くて泣きたくなるほどだった。でもそのおかげでいまは人生を野球に絞ることができて万々歳です」
「でも、野球で東大に受かったわけじゃないでしょう?」
「馬鹿なりに工夫した。中学時代から得意だった英国でなんとかね。英国九割取って、あとの三科目を三割取ると、平均五割を超えるんです。東大は五割超えれば全学部合格です。前宣伝がオーバーなので案外知られてません」
 出てきたコーヒーをすする。
「あのころ、励ましのお手紙書けなくて、すみませんでした。直井くんや加藤さんから書いてあげてと言われてたんですけど、なんだか怖くて。寺田くん絡みの転校だと聞いてましたから。……寺田くんはどうしてます?」
「立派に怖いヤクザをやってます」
「……やっぱり」
 何がやっぱりだ。誘ったことを後悔しはじめる。つまらない話に母親は閉口している。甲斐の魅力のない卵形の中学生時代の顔が目の前の顔に重なって甦ってきて、目を逸らすことが多くなった。幸い、甲斐はチラッと腕時計を見た。
「忙しいでしょう。どうぞ遠慮なく。ぼくたちは入学式が終わるまでゆっくりしていきますから」
「別に忙しくはないんですけど、数理科の先輩に二年時の勉強の仕方をアドバイスしてもらうことになっているんです」
 勉強、勉強。
「将来は学者に?」
「それは無理です。数学の教師。母校の向陽高校に勤められたらなって思ってます。じゃ私、いきます。またお会いできたときにゆっくり。野球がんばってくださいね」
「ありがとう。がんばります」
 母親にも頭を下げた。母親は丁寧に挨拶を返した。胴長のスーツ姿がドアを出ていった。
「誘ったのは失敗でしたね。六年ぶりなんて思えませんでした。ちっとも感激のない会話をしなくちゃいけないなんて、お気の毒」
 あらためて母親の顔を見る。大きなグラマラスなからだに小さく整った浅黒い顔が載っている。目、眉、鼻、唇、すべて睦子に似て形がいい。女優の中に似たような顔を探す。睦子より目が垂れていて、慕情のジェニファ・ジョーンズに少し似ている。いや、どこやら田舎っぽいところがオズの魔法使いのジュディ・ガーランド、それとも八千草薫……はないか。この観察が始まるとまずい。心が移る。母親は私をじっと見つめ返し、微笑む。
「神無月さんて、ほんとにおきれいな顔してますね。睦子は高校一年のときから神無月さんのことばかり話してます。腕のいい歯医者にかかって、高いお金かけて歯を治して、神無月さんが東大にいくからって言って、必死に勉強して東大にいって、野球部のマネージャーまでして、神無月さんが中日ドラゴンズにいくからって言って、東大やめて勉強して名古屋大学にきたんです。わが子ながら、一途で、立派なものだと思います。神無月さんにこうやって会ってみて、なるほどとわかりました。神無月さんに女がたくさんいるという話も、ちっとも汚ない感じがしません。家庭を壊すような不倫をしてるわけでもありませんしね」
「社会の基準からすれば不倫ではありませんが、道徳的に首をひねられるでしょう」
「そういうふうに受け答えする人だって、睦子から聞いてます。どうか、末永く睦子のこと、よろしくお願いします」
「人生をともにしようと決めてます。お母さんはそういう気持ちでも、お父さんはぼくのことを……」
「英雄色を好む、そばにいられるだけありがたく思え、のひとことで終わりです。あとは何も言わずに仕事ばかり。気兼ねしないでください。私たち夫婦はまだ四十代、まだまだ働けます。店の跡を継ぐ息子もいるし、睦子には何の荷も負わせません。木谷さんのところも、夫婦して市場で働いたり、役所の清掃員をしたりしてワタクタ働いてます。北村さんからもらった見舞金で、家をちょっと直したって言ってました」
「木谷さんとはお知り合いなんですか」
「高校時代から娘同士は付き合ってたんですけど、親同士は最近知り合いました。木谷さんのお母さんが訪ねてきて。……千佳子は野球選手の愛人で終わるんだべがって嘆いてました。まともな結婚させてやれねって。そういう気持ちは、神無月さんにくっついてる娘の親ならだれでも持ってます。みんなふつうの親ですから。私もふつうの親ですけど、睦子の心意気には感じるものがありますし、神無月さんから睦子が受けたご恩は忘れませんので」
「恩というと?」
「勉強にかぎらず、ものごとに真剣に取り組む子になりました。いつも物陰に隠れてあたりの様子を伺っているような子でしたが、明るい、よくものをしゃべる子になりました。
 神無月さんの周りの人たちは、書道の先生になったり、看護婦さんになったり、立派な大学にいったり、からだを売る生活から更生してまともな仕事についたり、ギターの達人になったり、お店を出したり……それはすばらしい恩を受けてます。親が知ったら泣いて感謝するはずのことばかりです」
「ぜんぶ本人の才能です」
「どう神無月さんが否定しても、ふつうに暮らしていたらできないようなことを、その人たちがどんどん成し遂げていくというのは驚く話だと思いませんか。その人たちの生活が向上して、幸せを感じてることは曲げられない事実だと思いませんか。ハタの者が並の考えを押しつけて幸せを奪うのはわがままです」
「ほんとにぼくは何もしてないんですよ」
「神無月さんからしてみればそうでしょう。笑い話みたいですけど、神無月さんは福の神です。福の神でいるだけでいいんです。自分で何でもやる人間を作り上げてしまうんですからね」
 福の神? 横柄で、トゲがあり、無愛想、それに侮蔑的―私の秘めた性質はたぶん生まれながらにそういうものだ。福の神? 愛すべき彼らは思いこみが激しく、展望が利かない。私はなぜ彼らのために努力するのか、なぜこれほどがんばるのか。彼らの思いこみどおりの未来を見たいからだ。大上段な結論だけれど、自分の未来に関心があるからではない。彼らの未来に関心があるからだ。
「お母さん、お名前は?」
「―ヤヨイです」
「ムツキ、キサラギ、ヤヨイ、か。……三月生まれですか」
「いいえ。睦子は六月、私は十月」
 チラと笑った歯が白かった。気持ちが温まった。鷹が鷹という感じがした。
「きょうは北村席に?」
「はい、一泊させてもらうことになってます。一家のみなさんにお会いするのが楽しみです」
 彼女は腕時計を見た。
「十二時二十分です。いきましょう」
 三十センチほど横に離れて歩く。豊田講堂の表通りに相変わらず人が溜まっている。市バスが往来する。こういう景色には、ノコギリの歯を並べた山ではなく遠いなだらかな山が似合うけれども、周囲を眺めても山どころか、立木の緑の彼方にビルの群れや雲の湧いた空しか見えない。
 健児荘から遠く眺めやった八甲田の山容をなつかしく思い出した。連山を随え悠然とあぐらをかいた巨体。山腹のところどころに爪跡のような白い切れこみがある。雪をはめこんだ山襞だ。八甲田山が単一の山ではなく、二十近い火山や溶岩墳丘から成る火山群であり、その中で最も高いのは大岳という山だということを、名古屋にきてから中村図書館の百科事典で知った。
「神無月さんは、自分から女に心が動くことはあるんですか?」
 質問が肌に近い。たぶん彼女は私を気に入ったのだ。中年の女に気に入られると胸を撫で下ろす気分になる。
「それはもちろんあります。たぶん、いつも自分からですけど、心の中で唱えるだけでうまく表現できません。だから女から近づくように見えるんでしょう。淡い片想いが強烈に実現する形になります」
「ほんとに? 神無月さんに心を動かすのはいつも女のほうだと思いますけど。……睦子もそうです」
「男と女というのは、ある瞬間一方が惹かれたのをきっかけに、それに気づいた一方が吸い寄せられて引き合うようになるものだと思ってます。ぼくが睦子に惹かれたのは、味噌っ歯が治って、彼女が美しいと気づいたときです」
「睦子のほうが先だったんですよ。ホホ」
 芝生の向こう、講堂の出口にまだ人の気配はない。四囲に緑は多いが、すべてが取ってつけたような植樹だ。目の前が信号というのも異様な景色だ。東大には電車が乗り入れていたが、あれは正門の前だった。構内ではない。
「あ、神無月さん、出てきましたよ」
 黒いスーツとタイトスカートが群れになってやってくる。濃いベージュ色と淡いベージュ色が二つ紛れている。睦子と千佳子だ。よく見ると千佳子のベージュが濃い。申し合わせたのだろう、どちらもフレアスカートのツーピースだ。母親と私と二人で手を振る。走ってくる。愛らしい。ぶつかるように近づき、
「ただいま!」
 と二人で声を上げる。千佳子が、
「おばさん、おひさしぶり。やっぱり出てきちゃったんですね」
 睦子が、
「ここで待ってるの、たいへんだったでしょ。構内の喫茶店にいった?」
「一つ向こうの交差点の喫茶店にいってコーヒー飲んだの。きれいな神無月さんを見ながら飲むコーヒー、おいしかったわよ」
 甲斐の話はしない。余計なことだからだ。
「おかあさん、まだあがってる。初めておとうさん以外の男を見た感じね」
「親をからかわないの。入学式、どうだった?」
 千佳子が、
「つまらなかったです。学長から豊田なんとかという資本家まで、名古屋大学が世界一みたいな演説ばかり。すごい業績を上げてる人がたくさんいるみたいでした。音楽もワーグナーのマイスタージンガー」
 睦子が、
「東大の入学式もマイスタージンガーだったわ。たいていの大学がそうみたい。おかあさん、見て、ここの学生たちはああいう顔してるのよ。締まりがないでしょ。一度見て、横を向いたら忘れちゃう、そういう顔でしょ。勉強しかしてこなかったって書いてある。それでいて自信満々」
「そうなんです。いまも出口のところで、国際レベルじゃ名大は東大京大より上だろ、なんて学生たちが話し合ってるのを聞いたわ。学長も、百回は名古屋大学という単語を口にしたし」
「そういう郷(ごう)なんだろう。日本全体がそういう郷の気がする。郷に従えないなら、現場では笑って黙殺するか、その場を去ることだね」
 取り払われた仮柵を出てきた黒背広の友人同士らしい二人連れが、オッという表情で顔を見合い、馴れなれしく近寄ってきた。
「神無月?」
 呼び捨てだ。答えないでいると、もう一人が、
「神無月さんですか」
 と尋いた。
「はい」
 学生や父兄たちが遠巻きにして写真を撮りはじめる。
「どうして名大に? 公演か何かあるんですか」
「いや、この二人のめでたい姿を見にきました。青森高校野球部のマネージャーでしたから」
 片割れの目の細い三角顔が、
「野球選手が名大で公演することなんかないだろ」
 別の一人が、
「神無月さんは名古屋出身だぜ。しかも東大」
 三角顔はせせら笑い、
「名古屋出身と名大は関係ないだろ。その東大にしたって、野球やってて受かるような大学なら、俺でもちょっと勉強すればいけるんじゃないの」
 同調した笑い声が学生の一部から上がる。私もうなずきながら笑った。名古屋には西高の平岩のようなやつが多いのかもしれない。千佳子が、
「神無月くんだから野球をやってて受かったんです。あなたが野球やってたら受からないし、やってなくても、ちょっと勉強したくらいじゃ受かりません」
 睦子は眉を逆立て、
「勉強だけして東大に受かるのはあなたたちでもできますけど、野球をしながら、そのうえ日本記録を樹ち立てながら東大に合格するのは無理です。底知れない才能と素養が必要です。ふつうと系統のちがう特異な能力です。ただ勉強だけして、地元の大学に受かって天下を取った気分でいるような人にはとうてい持てないものです。神無月さんに比べたら私たちのようなヒラ大学生なんて、石の下のゴミ虫みたいなものです」
「そこまで言う?」
「言います。神無月さんは天性の野球選手で、天性の開拓者です。文字どおり空を翔ける天馬です。肩なんか並べられません。あなたがもしすぐれた野球選手で、ふつうの勉強家なら、野球で忙しすぎて、十年浪人しても東大には受からないでしょう。もし受かることがあるとすれば、野球も勉強も並すぐれている場合です。……たとえ東大に受かったとしても、あなたは一国を代表する野球選手になれますか」
 周囲から賛同か反感かわからない拍手が上がった。


         三

 三角顔が睦子を睨んで、
「あんただれ?」
「名古屋大学の新入生です。質問に答えてください。あなたは天才野球選手じゃないんでしょう? 野球もできない、勉強してればいいだけのふつうの受験生だったんでしょう? そこまで恵まれていても、ちょっと勉強すれば東大に受かりますか? 野球など関係なく、うんと勉強しなければ受からないんじゃないですか。空想なんか楽しまずに、名大にしがみついていたほうがいいと思います」
 睦子に賛意を示す顔で何人かの男女が寄ってきた。ニュースカメラがいないかと、私はヒヤヒヤしていた。男は顔色を変え、
「俺の質問にも答えてよ。そこまで言う失礼なあんた、だれ?」
「あなたが失礼なことを言うからです。私は高校時代から神無月さんを見てきたふつうの女です。こちらもそうです」
 千佳子の袖を引いた。千佳子が、
「二人で青森高校野球部のマネージャーをしてました。青森高校、北の怪物、と言っても知らないかも。話題がローカルだから。その青森で神無月くんは全国高校生のホームラン新記録を二年連続で樹ち立てたんです。東大で六大学新記録を樹立したことや、東大優勝の立役者になったことや、プロ野球のオープン戦で桁外れの新記録を樹ち立てたことはさすがに知ってるでしょう? じゃなきゃ、こうして近づいてこないわけだから。とんでもないレベルの野球選手だってことはわかってますよね。神無月くんはそのうえで、東大にいったんです。そして中退してプロにいったんです。こういうことぜんぶ、ふつうの人間が努力してできることですか? 神無月くんの人間離れしてるところは、自分が北の怪物だったことも、東大にいったこともすっかり忘れてるところです。ホームランを打つことだけが彼の願いなんです―小学校四年のときからずっと。どうしてこんな回りくどい人生を歩まなければならなかったかは、もう何十回も新聞雑誌に書かれてるでしょう?」
 群衆の一人が、
「知ってるぞ! 親のために東大にいったというのも知ってるぞ!」
 三角顔が、
「それってちょっと眉唾だと思うけどね。話を悲惨に脚色してるんじゃないの? ただ勉強して上を狙っただけだろう。で、あんたたちはいったいだれなの。神無月の街頭宣伝にきたわけ?」
 睦子が地団太を踏む格好で、
「悪意もそこまでくると、劣等感がミエミエね! 私たちは名大の新入生として、入学式にきたんです。あたりまえでしょう。もういきましょ!」
「おいおい、なんか怪しい世界だぜ。宗教か」
「馬鹿なこと言うなよ。現実の神無月がここにこうして立ってるんだ。宗教のはずがあるかよ」
「神無月選手はもちろんだけど、この二人も天才だということやろ」
 母親が、
「帰りましょう。何を話しても、埒が明きませんよ。神無月さんがこんな扱いうけるなんて驚きです」
 細目の三角はこっそり早足で歩み去った。ほかの学生たちも、サインをくださいとはだれ一人言わない。私たちが歩みだすと、ただ興味津々に話しかけてくる。
「どうして二人は名大にきたんですか」
 千佳子が、
「神無月くんのそばで暮らすためです。できるだけ近くにいて見守りたいからです。そのためには努力して、神無月くんに迷惑をかけないように身分を安定させなくちゃいけないって考えたんです」
「神無月選手のそばにいるためだけでいいなら、大学に属す必要があったんですか? 単なる労働者になってもよかったんじゃないですか」
 睦子は、
「神無月さんの周りには、労働が身に合ってる人もいますし、勉強が身に合ってる人もいますし、芸術が身に合ってる人もいます。みんな神無月さんが生きてきた道で知り合った人びとです。神無月さんの生きる環境を、いろいろな持ち前を発揮する人の手で退屈しないものにしてるんです。私たちの場合は勉強しか能がないので、神無月さんのバラエティの一要素になるには、勉強で頭角を見せるしかありません。私は将来万葉集を研究しようと思ってますし、木谷さんは法律や経済の勉強をするでしょう。すべて神無月さんを退屈させないためのバラエティです」
 母親は睦子の背中について困ったふうに笑いながら歩いている。追ってきた群衆の一人が、
「神無月選手の野球生活を見守るためにだけ、転々とするわけですか? それって異常じゃないですか?」
 睦子が、
「どうお話してもわかってもらえないでしょうね。野球生活を見守ることは二の次です。野球は神無月さん才能のごく一部で、それを見守るためにこんなに必死にあとを追いかけているわけじゃありません。あるとき私たちは、神無月郷という人間の偉大さに打たれたんです。私たちにとって、神無月さんのそばにいて暮らすことにこそ最高の価値があります。たしかにここまで必死になる私たちは異常でしょう。でも、異常にならなければ神無月さんを見逃してしまいます。もう一つ、神無月さんがあなたたちのような自分いちばんだと考える人たちに殺されないように、しっかりお護りすることも私たちの務めです」
 息子といっしょに帰途についていた一人の中年の女が話を聞きつけて寄ってきて、
「聞こえてきた分だけですが、学生たちのお話は伺いました。さんざんでしたね。日本のスターの神無月さんがあんなふうに言われるなんてね。お二人のお言葉、心に沁みました。心からお慕いする人のためにどんなふうにも身を振っていかれる。一人の女として感服いたしました。そちらはお母さんですか」
「はい。この鈴木睦子の母です」
「お母さんは、娘さんがこういう生き方をしてることに不安を覚えませんか。娘さんがふつうに結婚して、人並に幸せになってほしいと思いませんか」
 難詰しているふうではない。安心する答えを聞きたいという面持ちだ。
「娘の幸せがいちばんです。親の幸せじゃありません。それに、私自身、もし自分が娘だったら、神無月さんのそばにいないことは不幸だろうと感じますから。―神無月さんとはきょうが初対面なんですよ。それでもそう感じます。おたくたちもこうして神無月さんを見ているだけで、そう感じませんか? 人生の宿でたまたま泊まり合わせて、その瞬間に、生涯泊まり合わせようと決意する心はたしかに常識外れだとは思います。常識がないことで得をすることはめったにないですものね。でも社会的に得をするか、個人的に幸福を与えられるかを選ぶとなると、当然、社会的な得よりも個人的な幸福のほうに軍配が上がりますね」
 すらすら答えた。睦子の母親も頭がよかった。女はホッとした顔でうなずくと、息子といっしょに離れていった。入れ替わりに中年の男が近づいてきて、
「そばにいるって、どういう形でいるんですか。愛人みたいな形ですかな」
 芸能記者ではないかと目を光らせたが、ふつうの勤め人ふうの男だった。睦子が、
「神無月さんを見守ってるのは老若男女です。私たち二人じゃありません。みんなお相撲さんのタニマチみたいなものです。何かの形で報われようなんて思ってません。じゃ、これで失礼します。私たちを待ってる総元締めのタニマチがいますから。その人たちが、きょうの私たちの入学を祝ってくれるんです」
「将来、結婚はしないんですか」
 しつこく問いかける。千佳子が、
「しません。常識外れの生き方に慣れてしまいましたから。社会的な枠組みに入ったらもう異常な天才を見守れなくなります。見守ると決めた人間が平凡になったら、その時点でそばにいる意味がなくなります」
 常識外れであることの唯一の利点は、逸脱を好まない人間を皮膚で感じ取って、きちんと追い払うことができるということだ。四人で歩きはじめると、しつこく追ってきた何人かに私は握手を求められ、きちんと応えた。女三人も、真剣に握手を求めてくる学生や父兄に応えた。入学式帰りの客を拾うタクシーがうろうろしていたので、一台を拾ってそのまま北村席に向かった。
「睦子、千佳ちゃん、がんばったね。あなたたちを見直したわ」
「おかあさんもすごかったわ。スカッとした」
 千佳子が、
「ほんと。きょうが初対面なんですよって言ったとき、ジーンとしました。―それって四年前の私たちの気持ちでしたから」
 睦子が、
「神無月さんはずっと黙ってたけど、すごい存在感。みんな圧倒されてました。くだらない人間関係にはぜったい巻きこまれない、それが神無月さんのモットー」
 運転手がチラとバックミラーで私を見たので、話の水路を逸らした。
「式の最中に、グリークラブみたいなのが出てきた?」
「はい、おしまいのほうで、白スーツと白ブラウスの混声合唱団が出てきて、何か重々しい曲を歌ってましたけど、歌詞がぜんぜん聴き取れませんでした。メンバーのほとんど全員が眼鏡なのにも驚きました」
 千佳子が、
「マイスタージンガーが演奏される中を、何十人もの主任教授陣が階段を降りてくるというやり方にはびっくりしちゃった。まるで紅白歌合戦。みんなすごく権威的な顔をしてるの。ひとこともしゃべらず、一人ずつ紹介の名前を呼ばれて、えらそうに頭下げるだけ。代表でしゃべったのは豊田自動車の社長で、話の中身は学長とどっこいどっこい。あの二人、毎年同じことをしゃべってるんじゃないかしら。聴いてる学生のまじめな顔! ちょっと絶望的。神無月くんなんか、東大の入学式にも出なかったというのに。帰りも教授たちがワーグナーに送られてしずしず階段を上って退出するの。これで入学式を終わります、だって。だれの入学式? 青高の入学式のほうがずっと趣があったわ」
「あのガヤガヤ討論会の入学式か。たしかにおもしろかった」
 母親が、
「大学の中身なんかどうでもいいでしょ。神無月さんのそばにいられたら、あとは付録でしょ。せっせとかよって、勉強しなさい」
「はーい。私なんか、大学に入れただけで万々歳。舞い上がって、ちょっと悪口言ってみただけ」
「勉強に打ちこむわ。落ち着いた大学だし、図書館も充実してるみたいだし、不満はゼロ」
「生活費はちゃんと送るから」
「いいわよ。私も千佳ちゃんもあんなに送ってもらったんだから」 
「二、三年は軽くもつわね」
「ときどきアイリスでアルバイトすれば、本代や映画代ぐらい出るし」
 母親が、
「ちょっと、私、お便所にいってくる。冷えちゃった」
「私も」
「私も」
 途中の小さな公園で停めてもらい、女三人が公衆トイレに飛びこんだ。
         †
 牧野公園の傍らで降り、散りかかる桜を眺めながら帰り着いた。玄関に北村夫婦とトモヨさんと菅野が出迎えた。主人の肩口から菅野が、
「電話くれれば迎えにいきましたのに、水臭いですよ」
 千佳子と睦子が土間から居間に入ると、トモヨさんが睦子の母親に自己紹介を兼ねて挨拶する。
「お腹すいたでしょ。すぐに用意しますね」
 やさしく言う。母親は式台にたたずんだまま、
「初めまして、睦子の母の鈴木弥生でございます」
 と腰を折った。女将が主人と並んで深く頭を下げ、
「ようこそいらっしゃいました。いやあ、睦子さんそっくりですな」
「同じようにおきれいやわ。お化粧なさってないんやね」
「はい、むだな抵抗ですから。毎日青物市場で馬車馬のように働いてます。化粧なんかとんでもない」
 目の周りに最初見たときよりも少し皺が増えているような気がした。北村夫婦は笑いながら彼女を居間に上げた。
「ご繁盛なさってるようで、何よりです。学者さん二人が家にいてくれるのは、ほんとに心強いですよ」
 ソテツが畳に両手を突いて茶を出す。イネがやってきて挨拶する。イネに、
「あ、イネ、お帰り。お父さんときちんとお別れしてきた?」
「つつがなぐすませました。長げこど迷惑かげました」
 母親が、
「あら、あなた青森のかただの?」
「はい、大湊です」
「わいはァ! ワ、下北町の出身だァ。隣でねの」
「オラのかっちゃが下北です」
「苗字は?」
「田所です」
「お母さんの小学校は?」
「苫生(とまぶ)小学校。中学校は田名部中学校。ワは大湊中学校ですけど」
「田名部だばおんなしだ。どっかで会ってるんでねがな。だども、田所ってふとはいねがったな」
「いま四十五ですから」
「ああ、それだば五つ上だ」
 そんな世間話で二人はかなり親しみを覚えたようだった。


         四 

 母親は、自分が二十歳のときに、青森市から下北町にスグリを仕入れにきた二十五歳のいまの夫と知り合い、すぐに結婚して二十一で睦子を産んだことなどを語る。
「青森市から三戸ぐらい遠くなると、出かけていくより取り寄せということになるんですけど、むつくらいならというんで、たまたま仕入れにきたんです」
 ミースケが吊るされていた裏畑のスグリの垣根……。たわわに稔っていた、半透明でビーズ玉のように美しい小さな実を思い出した。赤、グリーン、白、黒。口に含むと酸っぱくてうまいものではなかったが、噛むと夏がきたという感じがした。私は母親に、
「スグリはイチゴや葡萄のようにたくさん食えないですよね。食用じゃないとすると、仕入れてどうするんですか」
「いろいろ用途があるんですよ。鉢植えの観賞用、ジャム、スグリ酒、盛りつけの飾りなんかですね。けっこう売れます」
 賄いたちが食卓を整えはじめる。食事をしないで待っていたという女将も運び仕事に加わる。
「トモヨさん、カズちゃんのジャージを睦子のお母さんに貸してあげて」
 イネが、
「ワのジャージがあります。お嬢さんのだとデッケェべ」
「じゃ貸してあげて。お母さん、お風呂の脱衣場で着替えてきてください」
「はい、ありがとうございます。どうも吊るしで買った服が合わなくて」
 イネについて廊下に出ていった。女将がトモヨさんに、
「何かお母さんに合う服ないかね」 
「同じピンク地のワンピースがありますから差し上げます。からだの大きさもちょうど同じくらいだし。ちょっと見てきます」
 そう言って離れへいった。入れちがいにジャージを着た母親がイネといっしょに居間に戻ってきた。抱えていたピンクのツーピースを膝もとに畳んで置く。イネが、
「それでしばらくがまんしてけんだ」
「はい、くつろげます」
 やがてトモヨさんはピンクのワンピースを持ってきて、帳場に母親を連れていって試着させた。
「ありがとうございます。ぴったりです。これでゆったり帰れます」
 うれしそうな声が聞こえた。もう一度ジャージ姿で戻ってきた。トモヨさんは畳んであるツーピースに気づき、
「この服、どうします? 痩せても着られるというものじゃないですよ。バストやヒップの寸法が少し……」
「置いていっていいですか?」
「もちろん。イネさんにちょうどいいんじゃないかしら。イネさん、ちょっと着てみて」
「はい」
 イネが私たちの前でシュミーズ姿になって着替える。睦子の母親はその躊躇のなさに驚いている。
「ほら、ちょうどいいわ。若々しい服だし、もらっておきなさい」
「はい、遠慮なぐ」
 菅野が、
「トモヨさん、直人を迎えにいきましょう」
「あら、そろそろ二時ね。じゃ、しばらくしたらいってきます」
 ソテツがおさんどんについた。カツ丼だった。さっそくかぶりついた。事情を知っているらしい母親がトモヨさんに、
「お二人目ですか」
「はい、六カ月になります」
 女将が、
「トモヨはうちの子宝を一手に引き受けてとるんですよ。和子がその気にならんもんで」
 女将がどうぞと勧めると、女三人が箸をとった。
「神無月さんの子供なら、何人でもほしいんじゃないでしょうか」
 主人が、
「はい。だれが産んでも、親の子育ての都合が悪いときには、北村で育てようと思っとります。どうにか親もとで育てられるときにも、ちゃんと援助をするつもりです」
「立派ですね。なかなかできることじゃありません」
 箸を動かしながら言う。主人が、
「ワシらにもしものことがあったら、和子が引き継ぐことになっとります。睦子さんも千佳子さんも、どんなに気をつけてもいつできるかわからん。産んだあとは、勉強に支障がないようにせんと」
「ありがとうございます。そうなったら、私どもも尽力いたします。子供は親のそばに置いておくのが基本ですけど、爺さん婆さんにもできることはけっこうあります」
「いや、ご心配なく。この家なら転がしておけばいいだけですから」
 睦子も箸を動かしながら、
「いまはそれどころじゃありません。生活の基盤を築かないと」
「私も」
 千佳子が強くうなずく。私は、ごちそうさま、と箸を置いた。主人が、
「鈴木さんは、お子さん何人?」
「二人です。十七の男の子と、この睦子です。弟のほうは商業高校にかよいながら、店を手伝ってくれてます。高校を出て独り立ちしたら、店を継がせます」
「ワシもそういう言葉を言ってみたいけど、トルコ風呂稼業じゃ、直人も跡を継ぐ気にはならんやろ。菅ちゃんに継いでもらう」
 菅野が、
「社長、それはわかりませんよ。決めつけたらいかんです。プロ野球をやめたら、神無月さんが継ぐかもしれない」
「それはいつか訊いた。あのとき神無月さんは、退屈だって言ったぞ」
「気が変わることだってありますよ。とにかく、人生の流れなんて計画どおりにはいきません」
「菅ちゃん、神無月さんの影響をだいぶ受けとるな」
「ハハハ、トモヨ奥さん保育所いきましょ」
「はい」
「菅ちゃん、ワシはコーヒー飲んだら、ぶらぶら散歩がてらシャチのほうを見てくる。あとで迎えにきて」
「はい、保育所のあと、ムッちゃんのお母さんをアイリスに寄せてあげたあとで回ります」
 睦子の母親はトモヨさんと菅野の背中を柔らかい目で見送った。主人が、
「神無月さん、大洋の新治が正式に退団しましたよ」
「そうですか。一度も対戦したことがなかったですね」
「東大出のプロ野球選手第一号ですからね。こうして神無月さんを見ていると、私は何か胸にくるものがありますよ」
「井手が第二号」
「はい、彼は入団翌年の四十二年に、生涯唯一と言っていい一勝を挙げとるんですが、奇しくもそれが大洋戦で、負け投手は新治なんです」
「人生は偶然の連続で、楽しくて目が回りますね」
 主人は、
「神無月さんはボッとしとるから目は回らんでしょう。どれ、いってくるか」
 ノソリと玄関を出ていった。ソテツがやってきて、
「電子レンジがきました。見てくれます?」
「見たい、見たい」
 食事を終えた千佳子がはしゃぐ。睦子母子はにこにこしながらゆっくり食べている。私はソテツと千佳子について台所にいった。イネもついてくる。ステンレスの置き台の上に立方体の鉄のボックスが載っている。
「うちでも買ったんですよ」
 睦子の母親の声が居間から聞こえてくる。ソテツが、
「シャープの回転盤つき。十三万八千円。電波でものを温めるんですって。来年あたりは十万円を切るそうです」
 蓋を開けて中を見せたり、ダイヤルの説明をしたりする。
「終わると、チン、と鳴るので、チンとも言われてます」
「何ができるの」
「冷めた食べ物は何でも温められます。それからお肉や魚の解凍。生卵やゆで卵はだめです。調理したあとの卵焼きや目玉焼きはだいじょうぶ。使える容器は、陶磁器、耐熱ガラス、耐熱プラスチック、サランラップ。だめなのは、金属、漆器、木、紙です」
 得意そうに言う。こういう話はにわかには信じられない。
「ますます料理名人になるね」
「これは料理じゃありません!」
 ソテツの反発にイネたちが笑う。そのイネに私に顔を寄せてきて、
「今夜……」
「わかった」
「だいぶあいだが空いちゃったね」
「なも。まンだまンだ、がまんでぎるすけ」
 千佳子が聞きつけて、
「どのくらい空いちゃったの」
「ひと月くれです」
「わあ、たいへん! 今夜はぜったいね」
「はい、うれしです」
「イネの部屋は?」
「一階のソテツちゃんの部屋から奥へ三つ目です。いぢばん奥からは二つ目です。ソテツちゃんの部屋はお便所の隣です」
 風呂場に接した便所の厚壁の隣から突き当たりの廊下にかけて四部屋並んでいる。廊下を右に曲がってトモヨさんの離れへつづく屋根付きの廊下までにも二部屋ある。
「わかった。十時までにいく」
「……はい。危ね日だすけ」
「外に出すね」
「はい、おねげします」
 窓際に掛けてある真っ白い布巾が目を洗う。清潔好きな賄いたちの気骨だ。千佳子が、
「十万円を切ったら、私も電子レンジ買おうかしら」
 ソテツがせせら笑い、
「部屋に置いてどうするんですか。何を温めるの?」
「私が使うんじゃなくて、ムッちゃんにプレゼントするの。いつ神無月くんが訪ねてもいいように」
 居間で聞きつけた睦子が、
「来年自分で買うわ」
「あ、聞こえた? 金魚鉢のそばに置いたらだめよ」
「そうだ、金魚が十日に届くんだった」
 私は居間に戻っていき、
「あした、お母さんは?」
「九時くらいの新幹線でいきます」
「羽田から飛行機ですって。名古屋空港からいけばいいのにって言ったら、もう切符買ってあるって」
「たいへんですね、乗り換えは」
「なんてことないです。東京から浜松町まで三つですから。今度くるときは名古屋まで飛行機できます」
「年に一度は名古屋にきたいって言うの」
 千佳子もみんなと戻ってきて、
「そうしたほうがいいです。とってもいい息抜きになるわ。私たちも一年に一回ぐらいは青森に帰りますから」
 母親が、
「お盆にね」
 睦子が、
「やっぱり年末から正月にかけてになるわ。夏は神無月さんの試合があるから」
「そうね」
 母親がやさしくうなずいた。
「ただいま!」
 という直人の声が玄関から聞こえてきた。式台へいくと、トモヨさんと菅野に両手を引かれている。喜びいっぱいに笑っている。生来機嫌のいい子なのだ。合船場の前で善夫と善一といっしょに撮った仏頂面の写真を思い出す。賄いたちが走ってくる。
「お帰りなさい!」
 全員で声をかける。さっそく直人が女たちに向かって、聞き取れない舌使いでしきりにしゃべりだす。睦子の母親が興味深げに式台に出て、
「おやあ! かわいらしい! まるっきり神無月さん人形ですね」
 抱き上げる。唇を突き出すと、チュッと返す。イネが拍手する。
「和子さんとトモヨ奥さんとムッちゃんと千佳ちゃん以外は、よっぽど気に入らねと、なかなかチッスしてもらえねんだ。このごろは神無月さんともやんね」
 女たちが近づいて唇を突き出すと、睦子と千佳子にだけ返し、ソテツの頬をつねった。
「たたた、痛い、直ちゃん」
 女将がニヤニヤして、
「八方美人の世之介やないということやね。ソテツはもっと年とらんとあかん」
「でも、千佳ちゃんとムッちゃんも……」
「神無月さんに年季が入っとる。イネだってまだ何カ月の年季でもないやろが」
「じゃ、ムッちゃんのお母さんは」
「ムッちゃんとまちがえたんやろ」


         五

 私は直人を抱き取って座敷へいく。腹の上に乗せて遊ばせる。あっという間に逃げていった。私はあらためて睦子母子のいる居間に戻った。トモヨさんが菅野にコーヒーを持ってくる。
「郷くん、名古屋大学を見たから、これで名古屋を見尽くしたことになった?」
「まだまだ。名古屋は広うござんす。何でもやり尽くすことが好きだけど、残しておくことが楽しく生きるコツだね」
 菅野が、
「犬山のラインパークが残ってますよ。秘境動物園駅」
 トモヨさんが、
「あそこは名古屋じゃないでしょう」
 私は、
「あしたいきましょう。あしたしか空いてない」
「名鉄の準急で三十五分、特急で二十六分です。あしたは午後から雨です」
「うーん、じゃ中止!」
「ですね」
 みんなホッとした顔になった。直人は座敷で、女たちと腹這いに寝そべって積木をやっていた。菅野が、
「じゃ、ムッちゃんのお母さん、アイリスに顔出してってください。ケーキがうまいですよ。神無月さんもいきましょう」
「ほいきた」
 睦子母子と千佳子といっしょに、菅野のクラウンでアイリスにいく。睦子の母親はトモヨさんからもらった淡いピンクのワンピースを着ていた。美人なのにやっぱり田舎臭く見える。
「いらっしゃいませ!」
 レジのメイ子のさわやかな声。
「いらっしゃいませ!」
 立ち働いている天童や丸たち七、八人が呼応する。相変わらずの繁盛だ。
「すごいですね、この店。満員!」
 私はメイ子に、
「こちら、睦子のお母さん」
「あら、ようこそ。あ、そうか、きょうは入学式でしたね。仕事が上がったらまたゆっくりお話を。カウンターのほうにどうぞ」
 カウンター席のスツールに座ると、男子店員が礼儀正しい態度でオシボリを出す。カズちゃんと素子が寄ってきて、
「いらっしゃいませ。あら、睦子さんのお母さんね。そっくり。おきれい! 睦子さんに負けないくらい」
「ありがとうございます」
 母親はカズちゃんの美しさに圧倒され、トロンとした目で見つめた。ハッと気を取り直し、
「いつも睦子がお世話になっております。あんな高級なマンションまで……」
「世話なんてとんでもない。睦子さんは立派に自立してやってますよ。マンションはそのご褒美。菅野さん、小腹すいてるでしょ?」
「ご明察。家で朝めし食ってきて、さっきまではなんともなかったんですがね。オムライスください」
「ほかの三人はだいじょうぶそうね。オムライス、ワン!」
 カウンターの背後の厨房の大窓から返事が聞こえ、料理人の島と森、それから百江の真剣な横顔が垣間見えた。
「ブルーマウンテンいれるわね」
 素子とコーヒーをいれにかかる。母親がため息をついて、
「……女神ですね、たしかに」
 睦子が、
「高すぎるハードルだから、越えようと思わないの。おかげで、一心に神無月さんを見つめていられる。和子さんはだれよりも深く神無月さんを愛してるの。みんなの模範なのよ」
 次々とコーヒーを出しながら、素子が、
「模範でないんよ。お姉さんもただキョウちゃんを愛しとる一人の女。キョウちゃんが生きとることだけを願っとる一人の女。うちらは、おたがいそれに気づいて喜び合う女同士なんよ。越えるも越えんもないわ。キョウちゃんに縛られるも縛られないも自由。キョウちゃんが生とれば生きとるし、死ねば死ぬ。人から見れば不自由かもしれん」
 カズちゃんが、
「最高の不自由が、私たちの自由なのね」
 千佳子が、
「こういう会話がたまらないんです。ね、菅野さん」
「麻薬だね。しかし、あまりおいしくないね、ブルーマウンテンて」
 カズちゃんが、
「そ、一番じゃないわね。コーヒーを飲むことが楽しいのよ。こつこつ何十種類もコーヒーを飲みなさい」
 コーヒーカップを受け皿に戻した母親が、おずおずと手を差し出して、カズちゃんと素子と握手した。なぜか菅野も手を差し出し握手した。睦子の母親がカズちゃんに、
「一つお訊きしてもいいでしょうか」
「どうぞ」
「和子さんが、十歳の神無月さんに恋をしたという話を睦子から聞きました。理屈ではわかるんですが、どういうお気持ちだったんでしょうか」
「キョウちゃんに出会ったのは昭和三十四年の十一月だったわ。伊勢湾台風の年、九年半前ね。お母さんに連れられて学生帽の子供が飯場に入ってきたの。ハッと何かまぶしいものを感じた。不思議な気がして目を凝らしたら、ほんとに小さいからだが光を放ってるように見えたの。よく私は人に、そのときのキョウちゃんのことをかわいかったと説明するけど、そうじゃないのね。外見の輝きじゃなかった。かわいくて美しかったけど、内側から滲み出る光だったの。魂の美しさとでも言うのかしら。これからこの子を深く知っていけば、かならず愛するようになるだろうという気がしたわ。からだじゅうでそう感じたんです。ぜったい離れないと決めました」
 睦子と千佳子が目を拭った。カズちゃんはニッコリ笑うと、素子といっしょに新しく入ってきたカウンター客へ移っていった。母親は深く息をつき、
「すばらしい人……」
 と言った。なにほどもなくみんなコーヒーを飲み終わった。
「さ、お母さん、帰ってのんびりしましょう。菅野さん、ぼくたちはこのへんの景色を見ながら帰ります。ゆっくりオムライスを食べてきてください」
「了解。私はシャチの社長を拾って帰ります」
 私はレジにいって金を払った。
「ありがとうございました!」
 店員みんなの声がした。母親は壁の貼紙を見上げている。
「ありがとうございました」
 メイ子が明るい声をもう一度上げた。
 四人で肩を並べて歩く。睦子と千佳子に両脇から腕を抱えられながら、脇に少し離れた母親と無言で歩いた。母親はキョロキョロ辺りを眺めながら歩いている。
「フフ、おかあさん圧倒されちゃって、口も利けなくなってる」
「名大での学生との話しぶりは、睦子や千佳子にひけをとりませんでした。標準語、じょうずですね」
「商売柄だと思います」
 厨房の戸の隙からイネの背中が覗き、彼女の肩越しに大釜のめしを掻き混ぜる長柄の大ヘラが二本、壁からぶら下がっているのが見えた。あんなもので掻き回していたのか。いままで注意を留めたことがなかった。女将が睦子の母親に、
「アイリスどうやったですか」
「すばらしいお店でした。店員さんの礼儀がしっかりしていて気持ちよかったです。コーヒーもおいしかった。……和子さんに感動しました」
「ほりゃええことでした」
「おかあさん、私と千佳ちゃん、夏にアイリスでバイトすることになってるの。働くのってすてきだから」
「いいことよ。和子さんたちに鍛えてもらいなさい」
 睦子に直人が飛びついてくる。デタラメにクレヨンを塗りたくってある画用紙を差し出して、
「ぬりえ、ぬりえ」
 と言う。
「わあ、じょうずねえ。お姉ちゃんも描いてみようかな」
 睦子は肌色のクレヨンで直人の顔のスケッチを始める。やさしいタッチだ。直人が手を叩いて喜ぶ。母親も覗きこみ、満足げな笑みを浮かべる。
 座敷からNHKの子供向け歌番組が流れてくる。グループサウンズだらけのうるさい世の中に一掬(いっきく)の清水。山口と私の唄う歌は、クズ音楽の地層の下に深く埋もれている湿った化石だ。ときどき掘り出して風に当ててやらなければいけない。
 雀牌の音といっしょに女たちの世間話や哄笑が聞こえてくる。大胡キッコの声も混じっている。あの女とも、この女とも、いろいろなことを約束している感じがするが、一週間も経つと思い出せなくなる。
 からだを動かしたくなった。庭に出て、芝の上で筋トレを始める。腹筋、背筋、念入りにゆっくりやる。北村夫婦の離れの別棟を眺め、樹木に覆われた奥深い座敷になっていることをあらためて知った。厨房の大ヘラと同様、これもいままで気づかなかった。私はいつも足もとしか見ていない。野辺地も、横浜も、道とその勾配しか憶えていない。降りしきる雪の向こうの野辺地湾を眺めたとき、もっと視線を上げようという決意を固めたはずだ。―今度こそ長つづきさせよう。
 トモヨさんがバットとタオルを持ってきた。睦子の母親もジャージ姿で出てきて、トモヨさんと並んで見物する。ボールを寸秒のあいだ待つ感覚で九コース二十本ずつ百八十本振る。裏庭から蒲団を叩く音が聞こえてくる。
「練習も、ゆるくないですね」
 母親が声をかけた。
「はい、練習がすべてのような仕事ですから。こうやって、ほとんど毎日コツコツ練習しつづけるんです」
 活字から離れている。ふと気にかかった。つづけて左腕のシャドー五十本と腕立て。感覚を確かめながら納得のいくまでやる。額から汗が滴り落ちる。
 速度を乗せて、門と池とのあいだの斜面をアヒル歩きする。思いついてやったことだが、きつい。格好がおかしいというので、トモヨさんと睦子の母親が笑い声を上げる。直人を連れて睦子が出てくる。直人は転がっているバットを持ち上げようとし、重すぎてよろめく。睦子が危なさそうにバットを奪う。主人と菅野が帰宅組の三人の女たちといっしょに帰ってきた。
「直人、そんなもの持ったら危ないぞ。どれどれ」
 自分も手にとって重さを確かめてみる。
「ようこんな重いもの振り回せるわ」
 女たちがみんなで手にとる。ほんとだ、ほんとだと感心する。みんなでゾロゾロと玄関に入る。
「トク、おトキから電話あったか?」
「無事に着いたっておととい連絡があったきりやよ。きのうのきょうで、そうそう何度もかけてこんわ。一週間ぐらいは吉祥寺におって家を探すんやったろ」
「そうやったな、ちょっと心配でな」
 座敷に落ち着き、汗っぽいからだを畳に横たえる。使いから戻ったソテツが手に封筒を持ち、腋に薄べったい風呂敷包みを挟みこんで居間へ入っていった。
「球団本部からです」
 主人に渡す。
「広島の宿の件やな。神無月さん、年間スケジュール表はもうとっくに届いとりますから、いま見ときますか?」
「いやけっこうです。水屋のガラスに貼っといてください」
 居間へいく。ソテツに、
「その風呂敷は?」
「私のお見合い写真」
「へえ!」
「冗談です。そんなわけないでしょ。このあいだ江藤さんたちと撮った写真ができ上がりました」
 風呂敷から取り出して見せる。みんなが、見たい、見たいと集まってきて、しげしげと見入る。写っていないイネは残念そうだ。
 主人は端の十六畳の鴨居に小釘を打って額縁を飾ると、真剣な顔で見上げた。それからテーブルに落ち着き、封筒の頭を慎重に切った。
「ほう、三連戦の日曜日はダブルヘッダーですよ。同行マネージャー、トレーナーを別にして、監督コーチを含め三十四名。初日に球団上層部が駆けつけることになっとりますね」
「小山オーナーでしょう」
「はあ、小山と書いてあります。このチラシを見ると、世羅別館は三階建の和風旅館ですな。神無月さんの部屋は二階の一号室、八畳二間つづき。江藤さんと同室です。監督やスタッフは三階だな。到着した十一日の六時から、一階小宴会場で夕食。朝食は同じ部屋で七時からとなってます」
「暗記できません。いけば何とかなるでしょう」
 私は額縁を見上げて、直人のかわいらしさに胸を温める。汗で冷えた腹が不意に痛んだので、あわてて便所へ走っていって下痢をした。トモヨさんの離れで汗まみれの下着とジャージを替えた。


         六

 玄関に出て運動靴を履き、
「もう一汗かきに、ちょっと走ってきます」
 主人が、
「裏手にバンが二台ぐらい停まってましたから、追っかけられるかもしれん」
「わかりました」
 菅野が、
「ちょっと待って。私もきょう走ってないんですよ」
 あわてて帳場部屋でジャージに着替えてくると、私に並んで立つ。女将が、
「帳場の小箪笥に汚れた運動着をしまってあるんやから呆れるわ。今度から廊下の納戸に放っとくよ」
「や、貴重な衣類ですから箪笥でよろしく」
「帰ったらかならず洗濯籠に入れといてや」
「了解」
 四時五分前、あてもなく出発。もうすぐ夕暮れだ。バンが二台追ってきて、パシャ、パシャという音を立てて走り去る。
「時間が時間だから、あれで終わりだね。どこへいこうかな。そうだ、笹島の向こうにしよう。さびしくて走りやすそうだ」
「いいすね、いきましょう」
 菅野のヒゲの青さが目に涼しい。俗に言うイイ男だ。
「いい顔してる」
「やめてくださいよ。神無月さんに言われたら同情に聞こえます。いい顔と言えば、女将さん、大正何年かに雑誌のモデルに応募したことがあったといいますから、それくらい若いころは美人だったんですね」
「カズちゃんのお母さんだから、推して知るべしだ」
「対抗意識を燃やして、社長も第一回東映のニューフェイスに応募したと言ってました」
「お父さんも変わった顔をした美男子だからね。落ちたの?」
「昭和二十八年当時、社長は四十歳でしたし、あの背格好ですから」
 二人で声立てて笑いながら走った。まばらなビルの群れを抜けると、とつぜん建物の連なりがさびしくなって二差路に突き当たった。
「左、八車線、市電道、右、五車線、市電なし。右へいこう」
「はい。そろそろ帽子をかぶって走らなくちゃいけない季節になりますよ」
「ぼくは麦藁帽子がいいな」
「それ、不気味でしょ」
「髪伸びてる?」
「まだですね。格好いいですよ」
 またバンが追ってきて、カシャカシャやった。四車線のほうへ逃げるように走り去っていく。信号を渡って五車線へ入る。
「名鉄の線路沿いのこの通りは、ずっと名駅通と言います。目ぼしい建物はないですね。これからも大きなテナントビルが建っていくだけでしょう」
 呼吸正しく走る。フッ、フッ、ハッ、ハッ、という二人の息が聞こえる。
「ふうう、この景色は飽きるね。宗教団体や葬儀屋の建物ばかりだ。そのあたりで右へ曲がろう」
 車もあまり走らないので、ラクに右折できる。
「そこ、行き止まりになりますよ」
「そうは見えないなあ」
 ガード下のトンネルに入りこみ、すぐに抜ける。ものさびしい草の空き地が道の左右に展がる。やがて右手に十階建てのビルが見えてきた。
「愛大の名古屋図書館です。アジア関係の本がたくさんあるそうです」
「アジア関係と言われても、ぼんやりしてるね」
「たしかに。仏教関係とかなんとか言ってほしいですね」
 図書館の外れまで走る。
「菅野さんの言ったとおり行き止まりだ。もとの道に戻って、また左折しよう」
「はい。楽しいですね」
 名駅通へ出て、百メートルほど戻って左折する。
「今度はずっと道が通ってるぞ。アスファルト路に、背高ノッポのビルか。おっと、この先の道は工事中だ。右折」
 ハッ、ハッ、フッ、フッ、空き地、フッ、フッ、ハッ、ハッ、空き地。
「こりゃだめだ、空き地、草地、また空き地だ。ここたしか名古屋の都心部だよね。戻りまーす」
「はーい。一大娯楽施設建設予定地なんですよ」
「ちゃんとしたランニングコースを本気で見つけないと」
「やっぱり太閤通か、それとも西高までのコースですね。あ、そうだ、西の丸のそばのジムですけど、フリー会員は受けつけないそうです」
「やっぱり。ゴチャゴチャとコース設定で金儲けだな。ま、いく先々のホテルのジムで鍛えることにします。あればの話だけど」
 太閤通の市電路に入る。九丁目まである幅の広い並木道だ。
「市電が来年か再来年か、よくもって三年以内に廃止だそうです」
「え、ほんと!」
「さびしいですよ。京都の次に日本で二番目に古い市電だったんですからね。本格的な車社会へ突入です。神無月さんが横浜から転校してきたのは、伊勢湾台風の年でしたよね」
「うん、秋」
「その年に総延長距離が最大になったんです。最盛期を見てるから、ますますつらいですね」
「うん、黄色と緑のツートンカラーにもう会えなくなるのか」
 私は歩きだした。菅野も歩く。
「横浜は青木橋と浅間下しか憶えてないけど、名古屋は憶えてる駅が多い。市電自体あまり乗ったことないんだけどね。名古屋にきてすぐ、母といっしょに、昭和区の伊勝というところに住んでた叔父を訪ねたとき、名古屋駅前から乗った市電は、栄町から今池を通って、大久手、安田車庫前、そして川原通に着いた。そこで降りた。交差点に名古屋相互銀行というのが建ってた。あの先が八事だったんだろうな。名古屋で最初に入った小学校が川原小学校だったから、川原通という停留所の名前をはっきりと憶えてるんだ。それから千年に移ってきた。千年の交差点を中心に右と左へ分岐するように駅名を憶えてる。康男の住んでいた東海通りのほうへは市電が通っていなかった。だから、東海橋から牛巻まで走ったんだ。千年から左へいけば、肘を悪くして畠中女史に連れていかれた労災病院前、築地口、名古屋港。右へいけば、船方、熱田駅前、金山橋、栄町、柳橋、名古屋駅前。西高にかようようになってからは、名古屋駅前を中心に右と左に分かれるんだよ。右へいけば、笹島、大門、中村公園前、稲葉地。左へいけば、那古野、菊井町、押切、天神山、浄心」
「すごい! タクシー運転手のように努めて記憶したというよりは、自動的に焼きついた写真ですね」
 笈瀬通の市電路を渡る。
「たとえばですよ、このあたりの家並は古くて、神無月さんの興味を惹くかと思うんですけど、煙草屋、コインランドリー、電器屋、民家、民家、民家、得体の知れない零細会社A興業、B商事、喫茶店、民家、民家、ときて、この米屋で角を曲がります。横山さんなら焼きつけてしまいますが、神無月さんは一つも憶えてないでしょう」
「うん、風景に人がいなかったのでなつかしくないから。そういう受験勉強じみた機械的記憶はぼくには大仕事だ」
「ほら、興味を惹くどころか、目にもつかない。なつかしさにはぜったい人間が絡んでなくちゃいけない。そういうのを、トコトン頭がいいと言うんだと思います。なつかしくない記憶はほぼ頭に刻まない。なつかしいものはほぼ百パーセント記憶する。いや、頭の中の写真に撮る。先月の下旬、和子お嬢さんや江藤さんたちと、直ちゃんを連れて桜を見つけにいったでしょう。牧野公園で桜を見つけたと言ってましたが、そのときの桜の樹の数を、憶えてるんじゃなくて、脳味噌に撮影してるはずです。ここから百メートル先が牧野公園です。桜の樹の数を思い出してください」
 私は目をつぶって、まぶたの裏の桜の樹を数えた。
「十九本」
「数えましょう」
 公園まで歩いていき、二人で公園の周囲を一巡りする。
「一、二……五……十一……十五……十八、十九。おみごと! 十九本です。これが神無月さんの記憶の仕組みです。人間を記憶するのといっしょに背景にもシャッターを切ってるんです。私はこういうことに泣けるんですよ。宮中や、松葉会や、大瀬子橋や、千年小学校や、東海橋、熱田神宮、牛巻坂を回ったときも、泣けて仕方ありませんでした。神無月さんに一生泣かされて生きていくと思います」
         †
 菅野と二人で風呂に入った。背中を流し合った。名古屋西高の校歌を唄いながら湯船に浸かった。大先輩のカズちゃんが廊下にやってきて、私に合わせて唄い、私が唄い終わると去っていった。
「アイリスは残業もなく帰ってきたようですね。きょうはつくづく痛感しました。何と言うか、和子お嬢さんは突然変異で生まれたような人ですね。変人なのに圧迫感がない。女神―ひとことでそう言うしかないんでしょうね。神無月さんがお嬢さんに惚れ抜いてきた気持ちがトクとわかります」
 私はしばらく考え、
「楽しい謎の人なんだ。一生わからないと思う。わかろうと努力したこともない。いわく言いがたいんだけど、なんとか説明してみる。カズちゃんという女は、寛容とか陽気という好ましい性格以上に、生まれつき、型にはめられるのを嫌う性格の人間だと思う。なにしろ、本棚には日本や外国の古典があったり、政治や経済の学術書があったり、現代詩も現代小説もあるんだから、それだけでまず呆気にとられる。その知識欲と精神の柔軟さにびっくりして心の底から愉快になる。それは知的な面だけれど、情操的な面では、カズちゃんはたしかに、自分と似たような、並から外れたおかしな人間を好むけれども、一般の人への共感も人一倍ある。物言いは、ほかの女とちがって遠慮がない感じで、言うことも大胆で、おもしろおかしくて、歯切れがいい。でも、よく観察すると、だれよりも口数が少ないんだ。それで謎めいた翳りを感じさせるわけ。笑い方も明るく豪快そのもの。しとやかに笑う女を見てこんなことを言ったことがある。どうせアタマが空っぽなら、もっと手放しで笑ってもよさそうなものなのに―。周囲の女を仕切ってるようで、大勢の女たちの中で彼女の姿は孤独そのものに見える。でも暗さは感じない。自分でその孤独な様子に気づいていないおかしみがあるから、だれも自分が仕切られてないと気づくんだ。実際彼女はだれも仕切ってないし、関心があるのはぼくだけなので、みんな自由に行動できる。孤独と見えるのは、持って生まれた奥ゆかしさだと思う。……とにかく最高の女だ。呼び方は女神でもなんでもいい」
 二人に新しい下着が用意してあった。座敷にいくと、だれも先に食事をしないで待っていた。直人までがカズちゃんの膝に行儀よく納まっている。カズちゃんが、イネと睦子の母親が共同でじゃっぱ汁を作ったと言う。女将が、
「何やの、じゃっぱって」
 青森県民の千佳子が説明した。
「大ざっぱのザッパです。魚をぶった切って煮こんだ汁。こっちで言うアラ汁です。ほんとうのジャッパは、身を取ったあとの内臓や骨を煮こむものなんですけど、いまは青森でも身をいっしょに煮こむのが定番になってます。鱈とか鮭のアラをよく煮て、塩や味噌で味つけします。青森以外では塩汁をおかずにする習慣がないので、これは味噌で味つけしたんですね」



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