七

 食卓が整い、ビールをまじえて賑やかな夕食になった。ジャッパ汁に煮こんであるジャガイモがじつにうまい。テーブルの各所から、うまいの声が上がる。菅野が主人に、
「巨人戦、女房子供といっしょに観にいくことになりました。入場料は社長のおこぼれをいただかずに、自前で払いますからね」
「菅ちゃん一人のときは、おこぼれちょうだいしとけ。うちはワシと……あとは知らん」
 カズちゃんが直人に一箸めしを含ませ、カボチャの煮物を与える。小さな鮭のムニエルに、茹で野菜を添えた皿も置いてある。ジャッパ汁などはまだ食えないようだ。カズちゃんが、
「年間予約席はあと二人分あるんでしょう。観にいきたい人が順繰りで都合をつけていけばいいじゃない。アイリスは今年じゅう無休だから、責任者の私はあまり抜けられないわね。五、六回ぐらい観にいけるかな。来年は定休日を作るから、もっといかせてもらうわよ」
 素子が、
「十五日の巨人戦は火曜のウィークデイやろ。試合開始が一時やとすると、アイリスのメンバーは休まんかぎりいけんわ。北村の厨房さんのだれかやな」
 ソテツが、
「私も責任者ですから。お腹の大きい奥さんにまかせておけません」
「はいはい、あんたが大将よ。ならイネちゃんが観にいったらええがね」
 女将が言うと、
「オラも抜けられません。洗濯も掃除もあるすけ」
「じゃ、野球の試合を観たことのない人」
 ソテツが手を挙げ、
「やっぱり、私いきます」
「なんやの、素直になりゃあ」
 大笑いになる。ジャッパ汁をお替りする。睦子の母親がうれしそうに見ている。直人が手づかみでムニエルを食っている。カズちゃんが、
「ソテツちゃん、今回は特別に野球見物を許す。でもこれからは、なるべくよしなさい。おトキさんはいなくなっちゃったし、トモヨさんはそろそろ動けなくなるし、あなたが先頭に立って、みんなを引っぱっていくしかなくなるの。あなたの持ち分はこの家でいちばん大切なお料理。北村の台所の将来はあなたの肩にかかってるのよ。わかってる?」
「はい!」
 千佳子が手を挙げ、
「二日目は私とムッちゃんでお願いします」
「パンパン決まったわね。これからもそうやって観にいけばいいのよ」
 睦子の母親が、
「正直なところ、北村席さんは商売柄、もっと崩れた、暗い雰囲気の家なのじゃないかって思ってたんですが、ぜんぜん……」
「そんなジメジメしたところに、娘さんを置いておけないわよね。むかしはそういう雰囲気があったのよ。北村席は、キョウちゃんが現れてから生まれ変わったんです。封建的な暗い置屋でなくなって、明るい解放的な家になったの。女の人たちのオツトメは置屋のころと変わらないにしても、つらい仕事のあとで早く帰っていきたい家になったの。ここに帰ってくれば、やさしい旦那さん夫婦がいて、涙もろい菅野さんがいて、かわいらしい直人がいて―」
 ソテツやイネを見て、
「何よりも、おいしいごはんを作ってくれる元気な賄いの人たちがいるのね。台所が明るくなったのもキョウちゃんのおかげ。実際、北村席でキョウちゃんを引き取った形になってます。引き取ったときは、苦労を覚悟したわ。キョウちゃんは深い傷を抱えてる人だから、扱いが難しいんじゃないかって。逆にキョウちゃんにしても、女ばかりの家で、野球に詳しい人も、変わったところのある人もあまりいないから、暮らしにくいんじゃないかって。でも予想は外れました。野球に詳しい男どもがいて、男も女もみんな変わり者ばかりで、キョウちゃんは水を得た魚になった。あっという間に家じゅうに活気が満ちたんです。キョウちゃんのおかげで何もかも明るくなりました。キョウちゃんはほんとに明るかった。お母さんの手から離すことでキョウちゃんを救うつもりだったのに、まったく反対でした。私たちが救われたんです。キョウちゃんのしゃべることは少々難しいけど、頭を使う喜びがあるし、振舞いがとぼけていて楽しいし、歌声は胸を打つし、ときどき親友の山口さんがやってきてすばらしい曲を弾いてくれるし、プロ野球選手もやってくる。書道の先生もいれば、看護婦さんもいれば、大学生もいる。ぜんぶキョウちゃんの光が吸い寄せたものです」
 賄いたちが浮きうきとおさんどんをする。
「明るいだけでなく、みなさん、汲々としてないというか、のんびり充実してるというか」
「ゆったりして、満足そうで、色気があるでしょう? 女だらけの家なので、女らしいツヤを出して、もっとキョウちゃんに満足してもらえるようにしてるんです。世間さまに内緒でね。キョウちゃんの満足は私たちに返ってきます。女の充実の一つは、そっちの満足感からきますからね。そうでないと、男と女は欲求不満のまま堅苦しい思いをして、おたがい嫌気が差してきます。キョウちゃんは日本を代表する有能な若い野球選手です。その男を保護するにはそれ相応の環境が必要です」
「世間さまに内緒……ハーレムということですか」
「そうでないことはムッちゃんからよくお聞きでしょう。この家では、一般の人間関係はもちろんのこと、キョウちゃんは男、私たちは女という関係でも成立してます。と言っても、三十人余りの中の十人程度ですけどね。内緒にするのは、大切なキョウちゃんがマスコミに潰されないようにするためです。そんなことにでもなったら、私たちはもとの湿地帯に逆戻りです」
 すでに何度も話し合ってきた話題なので、だれもわれ関せず、箸を進めている。賄いたちも動き回っている。とぼけているのでも、気に障ったわけでもない。睦子は恐縮している様子だが、店の女たちはその睦子に同情的な表情だ。カズちゃんはソテツに、
「トモヨさんとあなたは、この明るい家のカナメなの。厨房に光あり。きちんと持ち場を守ってしゃしゃり出ないようにね。あなたはまだまだ自己主張の強い子供っぽいところがあるから、トモヨさんやほかの人たちを見習って、穏やかな雰囲気を身につけるようにしなさい。料理の腕は天才級なんだから、落ち着きが出たら鬼に金棒よ」
「はい!」
「返事だけよくてもだめ。これからはドラゴンズのフロントや選手たちもどんどん遊びにくるでしょう、報道の人たちも取材にくるでしょう、そういう人たちが食事をすることになったら、いくら料理の腕がよくても、押しの強い感じに目がいけば、おいしい料理を気分よく味わってもらえないでしょう?」
「はい!」
「でも、そのひょうきんな性格は大切な長所だから、なくしちゃだめよ」
「はい、なんだか難しいですね」
 少々卑屈なところのあるソテツの性格や資質を見抜いたうえで、徹底的に喜ばせ、自信を持たせ、発奮させる。
「……女らしい落ち着きというのは、どうすれば出るんでしょう」
「そうよね、人を見習って一朝一夕に身につくものでもないし。穏やかさというのは、私たちの課題でもある難しい問題よ。女っぽさを打ち出してしとやかにしようとすると、自分を取り繕うようになるから逆効果ね。アタマから滲み出る素顔をきれいにするということかしら。輝き。アタマが充実すると、顔も輝くのね。私は時間が空いたときに本を読むようにしてる。コーヒーとか好きなことについて研究することもある。そして、人を深く愛すること。私はキョウちゃんから、人間のふくらみや愛情を学んだわ。頭を充実させたり愛を深めたりすれば、顔の輝きがすばらしいものになる。そうなったら、あとはただ愛する人に振り返ってもらうのを待つだけ。顔は人間の門だと思うの。私はよくきれいだって言われるけど、そう言われるようになったのはキョウちゃんに遇ってからなのよ。キョウちゃんと話をしたり、散歩をしたり、音楽を聴いたりするうちに、ものごとをよく考えるようになったし、よく勉強するようになった。素ちゃんも千佳ちゃんもムッちゃんも、節子さんも文江さんもキクエさんも、みんなそう。康男さんも、山口さんも、このあいだきた御池さんも、菅野さんも、うちのおとうさんやおかあさんだってそうよ。キョウちゃんを愛し、愛されることで、懸命に努力するようになってますます輝いたの。小さいころから世間常識を受け入れて暮らしてきた人間は、キョウちゃんに出会った瞬間に電気が走って、走馬灯みたいに自分の過去が巡って、人生が更新されたと感じるのね。この家が明るい解放的な家なのは、そういうわけなのよ」
 睦子の母親が、
「ほんとに、この家は神無月さんが作り上げた家なんですね」
「商売以外はそうですね。商売は両親の根っからの努力。こうして贅沢できるのも、おとうさんおかあさんと、店の女の人たちのおかげ。ほかはぜんぶ、キョウちゃんが作り上げたものです。本人はそんなふうにはぜんぜん思ってないんです。何を言ってもポカンとしてるでしょ? 反対に、私たちに感謝してるくらいなんですよ。キョウちゃんがいなければこの家どころか、私たちみんなの関係だって作り上げられなかった。キョウちゃんがいなくても、命がある以上もちろんみんな生きていくことはできますけど……水も緑もない砂漠ですね。私は砂漠では生きられない」
 周りの女たちがしきりにうなずいている。睦子の母親は何を思ったか、ボロッと涙を落とした。隣のテーブルでキッコもまぶたを拭っていた。私は、
「母がすべてでなくなったころから、ぼくが近づかない人びとがすべてでなくなった。代わりに、ぼくが近づくみんながすべてになった。そのみんなのために生きたいと思うようになったんだ。ジャッパ汁、ごちそうさまでした」
 イネがニッコリ笑う。話が一段落した雰囲気になり、トモヨさんとソテツに天童と丸が加わって、楽しそうに食器の後片づけにいそしみはじめた。
「どれ、直人を風呂に入れるか」
 主人夫婦が直人を抱いていっしょに離れの風呂にいった。大浴場の裏手の空き地に、母屋と夫婦用の離れに挟まる形で小ぶりな内風呂があるのだとカズちゃんが言う。賄いの休憩部屋から見えたのは風呂場だったのかもしれない。菅野が、
「じゃ私帰ります。あしたの午前は走りますよね。雨がきそうなのは午後ですから」
「走ります。十一時からにしましょう。コースは名城公園まで。向こうでストレッチを十五分やって、往復一時間半」
「決めましたね。一年じゅう、これですね」
「いえ、予定は未定。マンネリにならないためにあしただけ」
「はい」
 菅野は丁寧な辞儀をして帰った。カズちゃんが、
「イネちゃん、お風呂入りなさい。睦子さんのお母さんもごいっしょに。ソテツちゃん、客部屋にお床を一つとっておいて」
「はい」
 イネは片づけを早めに退いていち早く自室へ戻り、睦子と千佳子も二階へ上がった。下着を取りにいったのだろう。店の女たちも麻雀組を残し、彼女たちと合流するように大浴場へいった。カズちゃんが私に、
「夜更かししないようにね。あしたは、ランニング以外は一日ゆっくりして、あさってのサイン会に備えること」
 と言い、アイリスに帰る素子を伴って、メイ子と三人で玄関を出ていった。百江が最後に居間に残った。少し話をした。
「巨人戦の二日目、ぜひ観戦にいきたかったんですけど、アイリスの厨房が手薄になりますので、いつか賄いのかたに代わっていただける日に、かならず応援に参ります」
「明石のような長期ロードのときは、ホテルに泊まりにきてね」
「はい、いかせてもらいます。明石といえば、あのころ直人ちゃんが熱を出したことがあったんですよ」
「え! 聞いてなかった」
 厨房のトモヨさんを気にして小声になった。
「郷くんに言っちゃだめよって、奥さんにきつく言われてたので。大したことなかったので、いまなら話してもいいでしょう。二月の初めに四十度以上の高熱を出して何日か寝こんだんです。全身に発疹が出ましたけど、医者の話だと、一、二歳の子がよくかかる〈とっぱつ〉というものらしくて、一時的なものだと聞いて家じゅう安心しました。熱のせいで軽い中耳炎と鼻炎にもかかって、二週間ほど病院にかよったんですが、これも自然と治るものだという話で安心しました」
「そんなことがあったのか。いまの健康そうな様子を見てると、まったく信じられないな」
「男の子はよく熱を出すんですよ。これからも何度も出しますよ」
「百江は男の子も育てたんだったね」
「はい。直人ちゃんは、二カ月ほど前までは、わんわん、ぶっぶー、ばいばいのような片言しかしゃべれなかったのに、いまは見ちがえるほどたくさんの言葉をしゃべるようになりました。すごく頭の成長が早いです。男ぶりもよく、表情も豊かで、ほんとに、びっくりするほどかわいいですね。奥さんと直人ちゃんにくっついて散歩してたとき、赤ちゃんを連れたお母さんが、うちの子と交換できたらいいのにって、つれないことを言って通り過ぎたこともありました。だれからも愛される子に生まれついたようですね。神無月さんも赤ちゃんのころはこうだったんだろうなと思って、しみじみとした気持ちになりました。やさしい性格のせいで神無月さんが苦労してないか心配だと、トモヨ奥さんはいつも言ってます。人のことばかり考えて生きてる人だから、せめて私たちだけでも心配かけちゃいけないって言うんです。私もそう思います。目をかけてくださって、ほんとにありがとうございます」
「何か不満なことない?」
「かけらもありません。神無月さんがからだや心の調子を崩さずに暮らせるようにといつも願ってます」
「ありがとう。気をつけて帰ってね」
 百江は、仕事上がりのかよいの賄いたちといっしょに帰った。


         八

 イネの部屋に向かうために立ち上がった。廊下に出ると、台所からトモヨさんやソテツたちの声が聞こえた。遅番の女たちの夜食を用意しているようだった。テレビを流しながら雀卓を囲んでいる女たちの脇で、天童と丸がキッコと花札をしていた。
 イネは部屋を明るくし、蒲団を首まで上げて寝ていた。
「待った?」
「いえ。きょうは危ね日なので、出すとぎ、ワの口さ出してけんだ。飲みての……」
「わかった」
 蒲団に入ると湿って温かい素肌が触れた。石鹸の香りがした。固く抱き合い、口づけをする。
「逢いたがった!」
 口づけをしたまま指を使い、クリトリスがふくらんできたところで股間に屈み、やさしく舌を使う。やがてかすかにうめいて達し、心地よさそうに腹を弾ませる。柔らかい腹に耳を載せる。何も聞こえない。遠く耳鳴りがしている。イネは私の髪を愛しそうに撫ぜ、
「……入れてけんだ」
 挿入する。動かす。たちまち膣がアクメに備えるように狭まる。
「ああ、イッてまる、ああ、だめだ、わがんねぐなってきた、好ぎだ、好ぎだ、あ、イグ! 神無月さーん! 愛してる!」
 激しく腹が跳ねる。私は動きつづける。緊縛が極致に達して射精を促す。
「も、だめだ、だめ、ああ、イッグウ!」
「イネ、イクよ!」
 引き抜き、跳ね狂う下腹に射出する。私は枕のほうへ膝でいざっていき、イネの頭を抱えて口を目がけて律動する。逸れて、二筋、つぶった目と鼻柱にかかる。口に当て直し、最後の律動をする。残滓が開いた唇にかかる。イネは本能で赤子のように口をすぼめ、舌を出して吸い取る。
「うめ―」
 息も絶えだえに言う。しばらく痙攣をつづけながら、
「こたらに気持ぢいいこど教せでくれて、ありがと。二十四まで何もねがったのとおんなしだ。一生、神無月さんしかいねよ」
 ふるえの治まりはじめた腹を撫ぜてやる。イネは目を開けようとして、精液がまぶたに引っかかっているのに気づき、枕もとのテッシュを抜き取って拭った。胸にかかった精液を指に掬って口に入れた。自然な振舞いだった。陰阜の上を押すと、もう一度グウと腹を縮めた。
「お尻も舐めさせで」
 私を四つん這いさせ、陰茎を握りながら肛門を舐める。くすぐったいががまんする。仰向けに返して、陰茎と睾丸を丁寧に舐める。
「こたらにしてでも、どたらに好ぎだんだべって、胸が熱ぐなる。死ぬほど好ぎだよ」
「ぼくも」
「ちょこっと好ぎでいんだよ。それだげでうれし。帰りの汽車の中で何度も心の中で言ったんだ、神無月さんのこど狂うほど好ぎだって。とっちゃの死顔見てかっちゃが、うだで悲しそうなツラするはんで、男と女ってこういうものなんだべなあって思った。好ぎだったころの気持ぢ憶べでんだ」
 並んで横たわる。
「お父さんの死顔、どうだった?」
「きれいに化粧してあった。かっちゃより若げ顔してた。葬式に五十人もきて、どってんすた。泣いでる人もいだ」
「単純な人生なんてないからね。友だちがいて、恋人がいて、親族がいる。どんなに単純に生きようとしても複雑になる。複雑に知り合った人間と別れるのはさびしい。自分がいままで口を利いたり、温かい肌を接してきたりした人がいなくなると、とても無関心じゃいられない。でも、残った者は、だれかと口を利き、肌を接しながら、生きている自由を楽しむことができるんだ。そう思うと、ますます、申しわけないような、さびしいような気持ちになる。狭い町なんだろう? 集まってきたのは、そういう人たちばかりだよ」
「……すてきだね」
「そうかな? どうすてきに言いつくろったって、死んだ人と生き残った人がいるだけだ。人が白黒決着つけて別れるのはさびしい」
「……別れたぐね」
「そうだね。別れちゃいけない。病気は仕方ないって気がするけど、自殺は仕方ないって気がしない。自殺よりも病死のほうが、天命をまっとうしたという安堵感を生き残った人たちに与える。でも、喪失感という意味では、病死も自殺も同じだ。自殺というと、どうしてみんな驚くのかわからない。卑怯だというのは意味がない。人生が悩みと不幸以外何も与えないと思うなら、自分の意志で自分の命を断つ人をぼくは認める。自分の好きなときに死ぬ自由は、悩みの多い人に神さまが与えたお墨付だからね。自殺をひどく悪く言う人が多いのは、自殺が命を馬鹿にしているように感じるからだと思う。でも自殺は、好んで生命欲をないがしろにするわけだから、生命欲というのがほんとうに人間を保護してくれるのかどうかという恐ろしい疑問を投げかけるね……。ま、そんなことはどうでもいいや。とにかく人は別れちゃいけない」
 イネの目が閉じかかっている。
「好きだよ。神無月さん、とっても好きだ……」
 うとうとしながらイネが言った。 眠りに入った。耳鳴りが遠くつづいている。私は蒲団をイネの肩まで上げ、服を着ると、廊下へ出た。厨房にもどこにも灯りはなかった。私は楽しげな声のする客部屋に向かった。
 障子を開けると、角テーブルで三人、楽しげに語り合っていた。テーブルのそばに蒲団が一組敷いてあった。母親の分だ。母親がパッと顔を赤らめて私を見た。睦子と千佳子がにっこり振り向いた。睦子が、
「いらっしゃい、神無月さん、お話しましょ」
「うん、楽しそうに話してたね。少し話したら音楽部屋に帰って寝るよ」
 彼女たちのそばの畳に肘枕で寝転ぶ。母親が、
「ハーレムなんて失礼なこと言って、すみませんでした」
「王者の風格がなくて、逆にすみません」
 睦子がきれいな歯を見せて笑いながら、
「ね、どんなことを言っても意外な答えが返ってくるでしょう」
「ほんとね、どんな失言も帳消しにしてくれる」
「神無月さんに遇って天才というものを初めて見たって、おかあさんが言い出して。神無月さんがなぜ天才かって、話をしてたの」
「正常な人を天才と言う、というのがムッちゃんの説明。―私はムッちゃんの言うことがわかるんだけど、お母さんは難しく感じたみたい」
「よくわからなくて」
 母親がすまなさそうに笑う。
「知りたいな、その説明」
 睦子が、
「私の考えでは、天才というのは、生まれつきの抜群の創造力に加えて、自分だけの目で世界をしっかりと観る能力も併せ持ってる人のことだと思うの。その観点は一般の人もよく理解できるもので、それでいて一般的なものの見方よりも、大きく、力強いと感じさせるものじゃないとだめ。天才は、特殊な考え方をする人に対して、自分の考え方のほうが特殊だと見せつけるんじゃなくて、自分の考えをもっていない大勢のふつうの人に、自分の考えをやさしく溶けこませて安心させてあげるの。溶けこませる表現は難しくなることもあるけど、先天的にすぐれた伝達能力のおかげで、たいていの人は、彼のメッセージが生きていくうえで重要なものだと感じることができるんです」
 納得したけれども、自分のことではないと感じた。千佳子が、
「ムッちゃんが言いたいのは、天才は言うことは一般の人に伝わる以上、とても正常だってこと。スケールの大きい正常さ」
「言うことだけじゃなく、することも正常です。いろいろな条件に縛られた人生を、とても元気に、やる気満々で送って、疲れないの」
「異常に見えるのは、たぶん、正常なことを規格外のスケールでやるからね。そういうわけでムッちゃんは、天才は正常な人間だって言ったんです」
「私は神無月さんから離れていると、周囲を異常に感じるわ。寄り添ってるときは、どんなことを言ったりしたりしても異常に感じない。だから、私たちの付き合いは、人間的に正常さの中で行なわれてることになるの」
 母親が、
「考えたら常識的にものを考えるほうが人間として異常かもしれないものね」
 千佳子が、
「でも、神無月くんはきちんと常識的な目線でものを見ることもできます。私たちと離れているときは、だれよりもじょうずにその〈異常な〉常識に同化してます」
 母親が、
「……よくわかったわ。あなたたちは神無月さんのそばにいるときしか〈正常〉になれないのね」
 睦子が、
「そう。だから、いつも人間として正常でいたくて、そばにきたの。でも常識的な生活や習慣に縛られることは避けられないわけだから、神無月さんのそばにいるときだけでも正常になればいいと思ってる。それが、神無月さんと付かず離れず生きる暮らし方だと信じてるの」
 母親は少し躊躇してから、
「いまも神無月さんは、ほかの女の人の部屋からいらしたんですよね。私は野球とか東大とかとは関係なく、遇った瞬間に神無月さんを天才と思いましたし、女性関係も前もって聞いていたから驚きませんでしたけど、〈正常〉なセックスって、どういうものでしょうか。いまの睦子たちが話したような、人間的な〈正常〉さからどう説明がつくんでしょうか」
「説明などつきませんね。タガの外れた好色、のひとことでおしまいでしょう。実際に何人もの女性に対して好色な行動をとってるわけですから、もちろん道徳破壊です。ぼくは社会倫理を異常と考えられるほど腰の坐った人間でないので、世間道徳は人並に恐ろしいと感じます。道徳的に避難されたら身も蓋もなくなります」
 睦子が、
「ほら、神無月さんは、おかあさんに空気のように同化したのよ。おかあさんを傷つけないように。……おかあさんの〈常識〉を根本的に信じてないからよ。セックス自体正常なことだし、それと同じくらい神無月さんは正常な人。だって、だれだって気持ちいいことはしたいわけだもの。そうしてあげたくなるのが自然な感覚。もし女のほうがそういう考え方の理解者なら、人目のあるようなよほど都合の悪い状況でないかぎり、神無月さんはへんに道徳的なワンクッションを置かずに、すぐセックスしてくれるわ。それが私たちはとてもうれしいの。そこで神無月さんが世間道徳を重んじて躊躇したら、女はどんな気持ちになると思う?」
 私は寝そべっている畳から起きて、あぐらをかき直した。うつむいてしゃべる。堂々としゃべるべき内容ではないからだ。
「適度を守らなければいけないというのが道徳の怖さです。一人の配偶者とセックスしてる分には、だれも文句を言わないし、疑問も抱かない。何ごとも慎ましく行なえば、不道徳と言われないんです。ぼくの女たちは道徳を守っています。ぼく一人としかセックスをしない。何一つ不道徳なことをしていません。その理由は、いつかカズちゃんが精神面や肉体面をいろいろ説明してくれましたが、細かいところは忘れました。愛の強さと快楽の強さは一人の男にしか捧げられないと説明された覚えがあります。ひどく高い精神性を持った説明でした。だから道徳を云々すべきなのは、ぼくだけです。ぼくだけのことを語ります」
 睦子が、
「神無月さん、苦しまないで。私たち何もかもわかってますから」
 千佳子が、
「そうよ、神無月くんはちっともおかしくない」
「……倫理観を発動した時点で〈花から花へ〉が納得できなくなるのは、二十年もこの世の中で生きてきたのでわかります。もちろんぼくも不道徳な行為を頭で完全に納得できているわけじゃありません。気に入った花に止まるつど、なぜか心もからだも、よしと言うんです。花から花へ渡り歩かずに一つの花に止まっていろと幼いころから学習してきた道徳観は命じます。でも、純粋な好色からではなく、ぼくの行為を幸福と感じる人にどうしても無関心になれない。それどころか、彼女たちを見捨てることは人間として恥ずかしい行為だという独善的な気持ちが湧いてきます。そうやってかろうじて納得しようとします。蝶や蜂の立場じゃなく花の立場になると言えば言葉はきれいですが、ほんとうにそういう気持ちになります。女の人たちも頭の芯ではぼくの行動をうれしいと納得していても、世間的には正常だと主張できないでしょう。だから彼女たちは世間に向けては主張しません。睦子が言った〈正常〉というのは世間的な意味じゃありません。枷を外した人間対人間としての正常さのことです。人間は受粉のために飛び回る昆虫じゃないし、一カ所に定住して受粉すべきなのが人間だというのが常識ですから。そうなると男と女の本能は常識じゃ理解できないとつくづくわかります。そうやってぼんやり道徳的に苦しむ者同士、ひそかに許し合って生きている。この許しの関係は百万年経っても常識には変わらないでしょうね。―仕方ないと思います。仕方ない世界にぼくたちは暮らすようになったんです。たしかに愛し合いながらね。愛の定義はまだぼくの中でできていません。無理に考えてしゃべっても徒労に終わります。長々とすみませんでした。……ぼくはもう寝ます。じゃ、睦子、千佳子、お休みなさい。お母さんお休みなさい、またあした」


         九

 母親はあわてて、
「私、神無月さんを責めたわけじゃ―」
「わかってます。ぼくに反感など抱いてないこともよくわかります。ぼくもお母さんに反感など抱いてません。名大の父兄を前に雄弁を揮ってくれた人ですから。あなたはすばらしい母親です。めったにいないタイプの母親です。今回もわざわざ遠くからぼくを見にいらっしゃったんでしょう。娘のことが心配だったからですね。さすがは睦子のお母さんだと思います。ぼくに対する疑惑はうなずけます。やっぱり仕方のないことだと思います。そもそも経験の出発点と、積み重ねてきたものがちがうんです。こうなってしまった自分の過去を消すわけにはいきません。その経験のせいで愛するようになった人たちと別れるわけにもいかない。人は理解し合うために生きてますが、理解が叶わないなら、近づかないほうがおたがいのためになる」
「いいえ、神無月さん、そんな冷たいことを言わないでください。少し待って。私、こんなふうなお話になるなんて……」
「睦子のことは安心してください。心から愛し合ってますから」
「心配してません。喜んでます。神無月さんには感謝してるんです。ただ、睦子がそういう人間関係を怖いという気持ちになったら、どうやって助けてあげればいいかと……」
 睦子はかえって冷静になり、
「おかあさん、私は怖くないわ。神無月さんに縛られていないから。怖くなったらいつでも逃げていけばいいわけだし、助けてもらう必要もないの。おかあさん、神無月さんのこと嫌い?」
「まさか―」
「それでいいの、そういう気持ちで神無月さんを通りすぎていけばいいの。……おかあさん、きょうはもう寝て。疲れてるはずだから」
 千佳子が、
「そうね。私たちも寝ましょう。神無月くんも休んでください」
「うん、いつものとおり音楽部屋で寝る。じゃ、お母さん、失礼します。またあしたの朝お会いします。お休みなさい」
「……お休みなさい」
 解散した。睦子と千佳子は廊下の突き当たりの納戸部屋から蒲団を一組運び出すと音楽部屋に敷き、二人で私にキスをすると二階へ上がった。私は服を脱いで蒲団にもぐると、のんびりとからだを伸ばした。
         †
「申しわけありませんでした」
 一時間ほど寝入ったころだろうか、耳もとで囁く声がした。すぐ目覚めた。寝巻姿の睦子の母親が蒲団の横で正座していた。襖を開けた控え部屋から豆燭の明かりが射している。
「娘たちの前では話しづらいこともあったでしょうから、少し神無月さんとお話して、お腹立ちの気持ちを収めていただきたいんです」
 意外な気がして飛び起きた。まったく腹など立っていなかったからだ。
「お母さん、ぼくは腹など立てていませんよ。それどころか、お母さんの表情から、子供の親の立場からではなく、人間としてぼくを感じてくれたことがわかりましたから、かえって喜んでるんです。ぼくは人の意見は尊重します。ぼくのことを理解してくれる人もいるでしょうし、軽蔑する人も、批判する人もいるでしょう。考え方は人それぞれです。そのことにぼくは何のわだかまりもありません。今夜は虚心坦懐にお話しできてよかったと思ってます」
「私も素直な気持ちで聞きました。天才とか変わった人というのじゃなくて、素朴な人間として神無月さんを感じました。神無月さんが人を愛せない人間じゃないということも、睦子たちがなぜ命懸けで神無月さんを愛してるかもしっかりわかりました。ほんとはもうお話することなんかないんです。何も胸につかえるものがないし、自分の思いを説明する必要も感じません。睦子に対する世間の目を心配する気もありません。……それに、人はわかり合うものじゃないと思います。引き合うか引き合わないかだと思います。大勢の人とうまくやっていこうとすると、その素直な行動にヒビが入ります。そのヒビを埋めるためには大勢の人と別れる決意をしなくちゃいけなくなります。私がその大勢の人の一人でないに越したことはありませんけど、いまはちがう一人だと感じます」
「とてもよくわかりました」
 母親はホッとしたようだった。
「ほんとに私、もうどう言ったらいいか。……神無月さんの人を拘束しない自由さが羨ましいです。……睦子を末永くかわいがってやってくださいね。長い付き合いをしてほしいんです」
「もちろんです。彼女を心から愛してますから」 
「神無月さんは、異常とか正常ということじゃなく、静かな心持ちの人なんだと思います。だれからも安心して愛されるような……。独占するには大きすぎる人だと、きょう一日ごいっしょしていてわかりました。こういう形の人間関係になっているのも、当然のことのように思います。ほんとに申しわけありませんでした。神無月さんの心を乱すようなことを言ってしまって……こんなすばらしい人に」
 そっと手を絡めてきた。
「神無月さん……いい年をした女が話せる内容ではありませんけど、電車で握手したとき私が感じたことは、夫のある身にはとても難しいことでした。それも人間として神無月さんを感じたことになると思います」
 私は指に絡んだ指をそっとほどいた。母親は私に正対し、じっと見つめながら、
「……一度だけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
 母親がとつぜん言い出したことに、ごく自然な流れを感じた。不潔感がなかった。
「こうなることは、あの交差点の喫茶店で頭をチラリとよぎりました。でも、ぼくは万能じゃないんです。少しでも心につっかえのある女の人とはできない。それが行動の壁になっているうちにやめておいたほうがいいと思います。世間的な罪悪感を持ってしまうと、一生の引け目になります。ぼくも睦子に引け目になります」
「睦子には口が腐っても言いません。道徳を捨てなければ、神無月さんの心もからだも感じられないとわかったんです。……正直に言います。きょう一日ボーッとしてたのは、ずっと神無月さんのことを考えてたからなんです。こういう気持ちは、混ざりけのない誠実なものですけど、睦子のように処女で神無月さんに出遇った気持ちとちがって、正直、きっと長年セックスを経験してきた女のどろどろした欲望なんだと思います。でもそんなふうに考えたくないんです。私はいままで男の人に一目惚れしたことがありません。私にも少女の気持ちはまだ残ってます。一目惚れした人とセックスしたらどんな感じだろうという好奇心があります。女の根っこを押さえつけている欲望は、いつまで経ってもそういう欲望なんです。遇った瞬間に、こんなにきれいな人と交わったらどんな感じになるのか知りたいと心から思いました。一度だけ道徳を忘れます。夫にも睦子にも生涯しゃべりません」
 私は蒲団の上で裸になった。性器はだらりとしていた。母親は私のほうを見ないようにして、寝巻と真っ白いパンティを脱ぎ、私に正対するように膝を折った。ブラジャーをしていない胸が大きく突き出している。私よりも暗く色づいて輝く裸体で、思ったほど筋肉質ではなかった。私は仰向けになって彼女に下半身を曝した。事務的な行為だという意識を頭の隅に残しておきたかった。母親は恥ずかしそうにぼんやり坐っている。
「……神無月さんの、不思議な形してます」
 覆いかぶさるように胸を寄せてきた。はち切れんばかりの乳房をつかみ、乳首を吸った。
「ああ、神無月さん……」
 吐息を殺して母親は私の髪をさすった。
「妊娠の危険は?」
「月のものがあと四、五日で……だいじょうぶです」
 私は母親を仰向けにして立ち上がり、控え部屋からティシュボックスを持ってきて、目をつぶっている彼女の胸をもう一度吸いながら、左指で襞をいじる。掬えるほど濡れている。胸から唇を滑り下ろして陰毛に口づけする。睦子とちがう濃い葎(むぐら)を唇に感じた。腿を開くように両手に力をこめる。素直に脚を広げた。少し長い小陰唇、包皮から半分以上顔を覗かせているクリトリス、白っぽいすべらかな前庭。陰毛を除けば睦子とそっくりの性器が目の前にある。この女は睦子だという意識に切り替えた。
 鼻を寄せると、重く澱んだようなにおいがする。睦子と同じにおいでない。小陰唇を咬んで引っ張る。母親はそのとたんに無言になった。襞を丁寧に舐め上げ、クリトリスに舌を使う。最低限の礼儀だ。陰阜が細かくふるえる。息を殺したままだ。この無言の行にとつぜん勃起した。舌で押し回し、吸い上げながら、膣に二本指を入れてざらついた壁をこする。ふるえが激しくなった。グンと陰丘が突き出され、無言のままぶるぶると下腹が振動する。尻を抱えてやり、頬を陰毛に寄せる。うん、うん、としばらく痙攣する。
 一瞬でも肉体の生理が動いたことを睦子にすまなく思いながら、挿入した。何度も馴染んできた柔らかい壁に包まれる。ハア、と深いため息が洩れた。黙って腰をゆっくり前後させる。母親も少し腰を使って、同じようにゆっくり応じる。むかしからこうしてきたのだろう。この神聖な儀式を睦子の誕生のために行なったのだと思うと、あふれるような感激に満たされた。感激でおのずと抽送が速くなった。
「あ、気持ちいい!」
 ついに母親は声を発し、私の背中をきつく抱き締めた。柔らかい襞が脈動を始めた。摩擦が心地よくなってくる。両乳房を握り締め、腰を速める。
「ど、どしよ―あなた、ごめんなさい、気持ちいい!」
 母親はとっさに夫に謝罪した。脈動が頻繁になり、摩擦がさらに強くなる。彼女はおそらくこれまで経験したこともない快感が高まっていく予感から、からだ全体を硬直させ、
「も、無理です、イク、気持ちいい! あああ……イグ!」
 さらに強く膣が締まってきて、
「神無月さん、気持ぢい! たまらね、イグ!」
 シュッと私の陰毛を叩くように愛液が飛んだ。瞬間、睦子のような極度の緊縛とうねりが起こった。私は驚き、あっという間に射精した。快味の強い射精だった。反射的に突き入れ、律動する。
「すごい、か、神無月さん、いいい、イクイクイクイク、イグ!」
 引き抜き、抱え起こして後ろ向きにする。下腹を縮めながら激しく痙攣している。片脚を持ち上げてもう一度挿入する。
「あああ、だめ、またイッてしまる、いいい、イグ!」
 膣がよじるように確実に精液を搾り取る。
「あああ、気持ぢいィィ! イグ、イグイグ、イグ!」
 片脚を抱きかかえて結合したまま痙攣するにまかせる。睦子とまったく同じ膣のうねりだ。私は心から微笑んだ。睦子、と呼びかけたい気持ちを抑えた。痙攣が止みそうもないので、ゆっくり引き抜き、背中を押しつけて枕に顔を凭(もた)せかけてやる。目をつぶった母親の横顔が口を大きく開けて呼吸している。美しく黒光りする豊満なからだが、間歇的に上下しながらふるえる。
 ティシュを股間に押し当てて尻をさする。母親は懸命に薄目を開けた。私の顔を見上げ、もう一度上半身をふるわせて痙攣した。
「やさしい人……。ありがとうございます、汚ないまねさせて、堪忍してください。これは私の知ってるセックスじゃありません。ちがうものです。睦子の気持ちがつくづくわかりました。神無月さんの心持ちのやさしさも、よくわかりました。睦子は幸せ者です」
 母親は挟んであるティシュで股間の精液をしっかり拭うと、寝巻をつけ、足もとに散っているティシュといっしょに胸もとに入れた。それからもう一度ティシュボックスから数枚抜いて念入りに股間に挟みこみ、パンティを穿いた。私を見つめる。
「どれほどきれいに生まれついたんだでしょう」
 抱きついてきて、唇を求める。舌を絡めて長いキスをした。それから屈みこむと、舌に記憶させるように私のものを含んで丁寧に舐めた。そうするのは初めてのことらしく、苦いものを口に入れたような表情をして、私を見上げながら微笑んだ。
「愛(め)んこくて、むしゃぶりつきたくなります。毎日そばにいられたら、どんなにうれしいか。私は結婚してるから、これは不倫になります。だからだれにも言いません。一生言いません。―思い出にします」
 そう言うと母親は寝巻の帯をしっかり締め、もとの純朴な人になった。私はパーマのかかった彼女の髪を撫ぜて整えた。
「ありがとう、神無月さん……好きです。……もう、言いません―これ切りにします」
 母親は畳に平伏して頭を下げると、襖を閉めて出ていった。何ほどのことが起きたとも思わなかった。ただ、だれが何と言おうと、自分は異常な人間だと確信した。
 ランニングシャツとパンツ一枚になって蒲団に入る。耳鳴りがハッキリ聞こえてきた。耳鳴りを聴いているうちに急速に襲ってきた眠気の中で、この耳鳴りが聞こえない瞬間を喜びとして積もらせながら生きようと思った。やがて睡魔が耳鳴りを吹き払った。


        十

 目覚めると、柱時計が六時を回っていた。聞こえるか聞こえないかの耳鳴りがしている。トモヨさんが起こしにきて、蒲団を運んでいった。
「お風呂沸いてます。あとで洗いにいきますね」
「ありがとう」
 パンツ一枚で風呂へいく。廊下を歩いていると、居間から声がかかった。
「よ、彫刻!」
 ハサミ片手の主人だった。女将の笑顔の隣にピンクのワンピースを着た睦子の母親の笑顔があった。睦子と千佳子の顔もあった。
「おはようございます!」
「おはよう」
 ソテツとイネたちは厨房で生きいきと動き回っていた。
 トモヨさんは私の全身にシャボンを立て、真剣な顔で隅々まで洗った。
「ほんとにいつ見ても彫刻のよう」
 洗い終わると、スリッパを明るく鳴らして戻っていった。
 座敷で直人が走り回っている。女たちが手を伸ばす。それをくぐり抜けて走る。椿町の百江が一足先にやってくると、つづくように則武のカズちゃんとメイ子と素子がやってくる。輪をかけて座敷が賑やかになった。主人が一般紙を開きながら、
「きのうの夜、連続射殺魔がつかまりましたよ」
「何ですか、それは」
 訊き返したとたんに思い出した。いつだったか吉祥寺で、ランニングをして戻ったとき、雅子からその事件に関する新聞記事を読み聞かされて、何がしか考えたことがあった。
「そうか、神無月さんは入団騒ぎでスッタモンダのころやったから知らんのやな。去年の秋にガードマン二人、タクシー運転手二人を撃ち殺した犯人です。永山則夫という十九歳の男やそうです」
 同じころ法子のマンションで、三億円事件のニュースをたまたま耳にしたとき、その連続射殺事件の犯人のことをチラッと思い返した覚えがあるが、何を考えたか忘れた。他人を殺すことで社会的な不満を解消しようとするのはバカのやることだ、と考えたのだったか。そんな殺人犯と比べて、三億円略奪の犯人の知略に快哉を叫んだのだったか。私は主人に、
「金ほしさにしては金額が少なすぎるけれど、銃を用意していたという計画性があるし、殺した人数も多い。死刑になるでしょう」
「そんなもんですか」
「強盗殺人とか、強姦殺人、誘拐殺人のようなあたかも残虐な犯罪は、計画的な場合は死刑判決が下されると思います。民主主義国の司法は臆病ですから、計画的か残虐すぎるかでないかぎり、斟酌に値するようなさまざまな事情を探り出して量刑を減らすでしょう。永山という男は死刑ですね。まんいち無期になることがあるとすれば、少しでも情状酌量の余地がある場合だけど、どんな情状があるのかな」
 千佳子が、
「神無月くんて、どんなことでもすぐに深く考えはじめるのね。私もせっかく法学部に入ったんだから、しっかり考えなくちゃ」
 睦子がめずらしく深刻な顔で、
「神無月さんは参考書なしで深く考えるんです。相馬先生の国語の授業で、私がヒメネスの『青春』という詩の朗読を当てられて、ただ甘ったるく、感傷的に読んでたとき、神無月さんがとつぜん立ち上がると、ぼくは生きるぞ! って叫んで倒れたんです。男が女を捨てて都会へ出ていき、女が悲嘆に暮れるというだけの詩でしたけど、あとから山口さんが教えてくれた話だと、神無月さんは、山口さんに担がれて下宿に帰るとき、無能な人間が本質的に抱えている抜き差しならない悲しみを描いた詩だ、と言ったんだそうです。いっぺんにその詩の意味するものがわかりました。たぶん、詩に登場する男と女はいちばん大切なものを愛していない、自分を愛してるだけだいうことなんだと思います。自分はそんな生き方はしない、いちばん大切なものを愛して生きるぞって、神無月さんは決意したにちがいないの。それを山口さんから聞いたとき、私は深い思考のすばらしさを学びました。出会った瞬間から大好きだったけど、あれは決定打でした」
 トモヨさんが、
「すばらしいお話ね。でもどうして郷くんは倒れたの」
「インフルエンザで高熱を出したからなんです。健児荘の寝床で意識もなくふるえてるときに、千佳ちゃんはお見舞にいってタオルを取り替えたりしました」
「あなたは?」
「味噌っ歯だったので、恥ずかしくていけませんでした。うわべだけを気にする人間だったんです。そんなの関係なくお見舞にいけばよかった……。歯を治してから、遅ればせながら野球部のマネージャーにもなりました。いまの私はちがいます。たとえお岩になっても神無月さんのそばにいます」
 女将が、
「そのあんたたちを、うちらが見守りますよ」
「お父さん、スポーツ新聞のほうはどうですか」
「中日スポーツ以外は、やっかみばかりですわ。色よい記事なんてのは、こちらの愛想の分だけ返ってきたものやからね。いくら神無月さんががんばっても、全球団負け越し最下位のチームがAクラスに跳ね上がることはないだろうって、野球雀たちがピーチクやってます」
 主人がサンケイスポーツの記事を押してよこす。

 水原と言えば、慶大から巨人を通じての花形プレーヤーで、監督としても、巨人、東映で花を咲かせた大物。鶴岡、三原と並ぶ大監督に挙げられる。だが、これまでは中日とは無縁の人だった。濃人を除けば、チーム生え抜きの主力選手が相次いで務めてきた監督の任をここで水原に託すのは、球団の大英断であったと思われる。なんとしても優勝したい、その切実な願望がこめられた人事である。
 この水原体制の下、コーチ陣も外部から人材を集めた。ラジオ関東の解説者だった宇野光雄をヘッドコーチに、南海から森下整鎮(のぶやす)を二軍コーチに、中日OBでは、慶大出の太田信雄が新たに加わった。一月には、チームカラーをブルーグレーに決定、帽子はブルーグレー地に白色の角文字CDをつける等、チーム新生の気勢を示す工夫も種々試みた。また水原は、今年キャンプ地を巨人時代に功あった思い出の土地である明石市に移した。かつて天知俊一監督も、三度目の監督復帰のキャンプで、優勝に縁がある奈良を選んだことがあった。一つの縁起担ぎだった。しかし、天知の場合、その効果は表れなかった。
 たしかに今年はオープン戦から例年と様相を異にしている。チーム打率、チームホームラン数、チーム長打率、チーム防御率等々、すべて十二チーム中ナンバーワン、さらに前人未到の境地でひた走る天馬神無月のオープン戦三冠王、オープン戦チーム優勝ときては難癖のつけようがない。いや、つけようはある。犠打、盗塁、四球、牽制等、試合の要ともなり得る繊細な戦術機会が十二球団中最下位という点である。勢いのまま偶発的な長打を頼りに、無策に戦っているという気がしてならない。
 予行演習の成績だけでは予想しきれない本番の運気というものがある。たとえ昨年のどん底を脱して上昇気流に乗った気配はあるとしても、一挙に天上まで飛翔する運気を得たなどと考えるのは早計である。なるほど、プロ野球にはときおり神が降臨する。稲尾しかり、長嶋しかり、王しかり。しかし、果たして天より降臨した白馬一頭で、昭和二十九年の優勝以来十四年間不運にまみれてきたチームを、まとめて牽引していけるものだろうか、そう考えるのが理である。


「スポーツ報知も一つ、やはり長めのコメントを書いとります」
 また押してよこす。

 ありそうで意外にないのが、前年の最下位からのリーグ優勝である。ふつうに考えれば、最下位になるのは他チームより戦力的に大きく劣っているからで、思い切った補強を行っても、また主力選手が急成長しても、優勝を争うまでにレベルアップするのは容易ではない。最下位から優勝を達成したのは、二リーグ制になって以来、昭和三十五年の三原監督率いる大洋ホエールズのみである。
 大洋は打撃力のチームではなかった。リーグ最下位のチーム本塁打六十本、リーグ五位のチーム総得点四百十一。それでも六連覇を目指していた強豪巨人を四ゲーム半差で破ると、日本シリーズにも四連勝してしまった。引退まで考えていた権藤正利を敗戦処理から中継ぎ、さらに先発と使って自信を与え、有力投手に生まれ変わらせた。テスト生で入団した島田源太郎をローテーション投手に抜擢すると、島田は期待に応えて、二十歳十一カ月という史上最年少で完全試合を達成した。新人近藤昭仁を一番セカンドに、また守備に難のあった麻生を代打の切り札として起用して成功し、プロ野球で初めて代打男の呼び名を定着させた。こうした脇役を三原は〈超二流〉選手と呼んだ。彼らに活躍場所を与え、想像以上の実力を発揮させたのである。
 さて中日ドラゴンズは、江藤、中、高木、木俣、小川、小野等、超一流選手の集団であり、二流になり得べくもない。その点で改善の余地がないのである。前年最下位に甘んじたのには、何か根本的な原因があるのにちがいない。その原因を抉り出して除去しないかぎり、大看板が一枚加わったくらいで変身を遂げるとは思えないのである。


「どちらの評論家も、打撃力のあるチームだと優勝できんような書きぶりやね。プロ野球は二流であれと言ってるようなものだ。三原監督の名前まで出して、水原中日を微妙にこき下ろしとる。しかし、これが世間評価ですよ。評論スズメが黙りこむまで言わせておきましょう」
 ソテツが主人と私にコーヒーを、女将と睦子の母親に緑茶を出す。カズちゃんが配膳の手伝いをしながら明るい声で言う。
「新しい従業員が二人応募してきたから、一日働き具合を見てみるわ。天童さんと丸さんは、きょうはお休みとってゆっくりして。その子たちが使えるとわかったら、交替で定休をとるように日程を組みます。レジのメイ子さんと厨房の百江さんは、たいへんでしょうけど、今年は臨時休だけで働いてもらうわ」
「わかりました」
 うれしそうに二人で顔を見合わせる。一日手の空いた天童と丸は、トモヨさんやソテツに混じっておさんどんにかかった。私はアイリスのメンバーがいる座敷に場所を移す。
 居間の主人夫婦と睦子の母親が箸をとると、座敷も全員箸をとった。居間と座敷とのあいだには広めの廊下が渡っているが、襖が立ててないのですっかり見通せる。声もきちんと聞こえてくる。この家に開放的な空気が流れている理由の一つだ。主人夫婦や客人が座敷で食事をすることは多いが、店の女たちが居間で食事をすることはない。女将が睦子の母親に、
「青果市場というのは、どういう仕組みになっとるものなんやろね」
 母親は話しかけられたことをうれしがり、標準語で答える。
「はい、まず、荷主と呼ばれる出荷人たちがおります。生産者とか農協です。現地の仲買人が買って現地の消費に回すこともありますけど、ふつうは荷主から出荷専門の会社や産地仲買人が買い付け、それを仕入れ業者が卸売市場へ搬入します。市場には青森合同青果のような大卸と言われる会社があって、出荷人から委託されたり買い取ったりした品物を私たちのような仲卸や、そのほかの関連事業者に競りで売りつけます。そこへ買出人がやってきて買い、それを消費者に売ります。むかしは、うちの亭主は産地仲買みたいなことをしてた時期もありましたが、出張やら買い付けやら労力が並大抵でないので、仲卸業一本にしたんです」
「やっぱりどんな商売も手数料で儲けるんやね。うちらも同じや」
 女将は簡単にひとことでまとめた。あの枇杷島青果市場の仕組みが、ようやくはっきりわかった。源順(したごう)の真島仲買のオヤジさんはどうしているだろう。ひどくむかしのことのように思えるけれども、まだ一年余りしか経っていないのだ。
 私は睦子の母親を流し見た。心なしかきのうより若く見える。でも、きのうほど心が動かない。私はしみじみと睦子の顔を見つめた。深い安らぎ。
 箸を途中に玄関に出て、下駄箱の脇の用具専用コーナーからグローブとスパイクを取り出して磨いた。思いついたことはすぐやらないと忘れる。私がめしの途中で何かほかのことをやりだすのは常のことなので、だれも不思議がらない。ブラシでスパイクの汚れを落とし、全体にオイルを塗る。スポンジで薄く延ばす。乾いたタオルで拭き取る。グローブの球受けの部分にグリースを塗り、柔らかい革用の別のオイルで拭く。油面に浮き出した細かい汚れをタオルで拭き取る。調整の革紐をきっちり締める。手入れしすぎると革を傷めるので、三カ月ぐらいこれいっぺんでいい。風通しのいい下駄箱の上にグローブを伏せるように立てて置く。広島へ持っていく新品のバット三本も、ついでに乾拭きした。野球用具は日光と湿気に弱い。用具をしまう下駄箱の専用コーナーにはいつも乾燥剤が入れてある。バットも汚れたまま置いておくと劣化が早まる。
 きょうは四月八日。十二日の開幕まであと四日。小学四年の秋から九年と半年。ついにプロ野球の公式戦のフィールドに立つ。感無量だ。
 直人が食事を放り出してやってきて肩口に立ったので、オイルのにおいを嗅がせようと指を近づけると、びっくりして逃げていった。
「直人、早くごはん食べちゃいなさい。保育園よ。郷くんも食べ終えちゃって」
 トモヨさんがやさしく呼びかける。千佳子と睦子が直人を捕まえ、小さなスプーンとフォークで食事をさせる。合間に自分たちも食べる。少し硬めのごはん、小アジの開き、卵焼き、納豆、海苔、香の物、豆腐と油揚げの味噌汁。ごちそう。
「白菜の浅漬けと海苔もくれる?」
「はい。ソテツちゃん、お願い」


         十一 

 睦子の母親がまた市場の話をしている。
「品物に自信のある生産者が、直接市場に荷を送ってくることもあるんですよ。中間マージンなしで、高値で取引できますから。そういうのはたいてい質がいいので、ブランドになることが多いです」
 女将がしきりに相槌を打っているが、視線はトモヨさんと玄関を出ていこうとしている直人に注いでいる。
「いってらっしゃい。喧嘩したらあかんよ」
 食事を終えると、フッと眠くなった。
「一時間ほどトモヨさんの離れで横になってきます。そのあとで睦子のお母さんを送っていきます」
 私が言うと睦子が、
「ここを八時半に出て、駅の売店で買物をしていきますから、ゆっくり寝ててください」
「いや、送ってく。めったにこれないんだから。何時の新幹線?」
「九時十五分です」
 カズちゃんが、
「私たちは八時に出るわよ。ムッちゃんのお母さん、お見送りできないけど、ごめんなさいね」
「はい、お世話をおかけしました。ほんとに睦子のこと、お礼の申し上げようもございません」
「ムッちゃんのことは心配しないでくださいね。何不自由なく伸びのび勉強してもらいますから。いい学者になれるでしょう」
「はい……あの、もし、ご迷惑でないなら、年に一度ぐらい寄せていただいてもいいでしょうか」
「遠慮なく。いつでもいらしてください」
 おさんどんが下火になり、賄いたちがテーブルについた。トモヨさんの離れへいき、私の書斎になっている部屋ですぐ蒲団に入った。机の上の置時計が八時を指している。睦子の母親が私を見つめた最後の真剣な眼差しを浮かべる。一度夫でない男に身をまかせたからといって、生活も頭の中身も急に変わるはずがない。ただ、思いもしなかった新しい経験に怯えて、行動を慎重で考え深いものにしていくだろう。―睦子の母親が年に一度訪れたいというのは、たとえかすかなものであっても、節子母娘や法子母娘と同じ関係になろうとする願望があるからだ。
 二時間ほどぐっすり寝入ったころに、女の裸の胸が背中に吸い付いてきた。耳を咬んだり首を舐めたりする。ハァ、ハァ、と興奮した息を立てる。ん? と目覚め、黙っていると耳打ちする。
「―ソテツです。トモヨ奥さんに、ちゃんとお願いしてきました。……安全日です」
 不快がまずきた。この女と交わりたい欲求がない。
「自分が何をしてるか、わかってるの?」
「わかってます。ずっと願ってたことです」
「きょうしかないの?」
「……いつでもいいんです。……でも、きょうのようなチャンスはめったにないと思いました」 
「チャンス、か。睦子のお母さんは帰ったの?」
「お帰りになりました。ムッちゃんはもう戻ってます。ムッちゃんも千佳ちゃんも知りません。トモヨさん奥さん以外はだれにも言いません。私も知られたくないんです。自分だけの秘密にしたいので」
「きれいに洗った?」
「え? ……はい、石鹸で洗いました。お臍も、お尻も。神無月さんが寝ているうちに、こちらの離れのお風呂を立てて入りました」
「じゃ、もう一度お風呂にいこう。歯を磨きたいし、頭も洗いたいし」
 女が意を決してやってきたときは―カズちゃんの教えだ。ただ、行為が可能になるか不安だ。
「……ソテツのからだも見たいし」
「はい」
 女を惹きつける運命なのだ。十歳のとき、カズちゃんは、女殺しね、と言った。身をまかせなければならない。一つの関係が遠ざかり、一つの関係が近づく。遠ざかったものを放っておき、近づくものを愛でる。それ以外に対処のしようがない。
 私が裸になると、もともと裸体のソテツも目を逸らしながら立ち上がった。風呂場へいき、さっそく頭を洗う。ソテツはぬるい湯船に入ってガスを点けた。歯を磨く。ソテツはしばらくその様子を見つめていたが、湯船から出てきて私のものを覗きこんだ。
「かわいい。先が飴玉みたいですね」
 愛情よりも好奇心のほうが勝っている。どうにかなるだろう。
「湯船の縁に腰を下ろして、股を開いてよく見せて」
「……はい。どうぞ見てください」
 ニッコリ笑う。どうにか自分を奮い立てなければならない。ソテツは浴槽の縁に坐った。小柄なからだに大きな乳房がついている。十六歳と思えない濃い陰毛だ。私は近寄り、かすかにしか開けていないソテツの腿に手を置いた。ブルッとふるえた。広げて覗きこもうとする脚が戻る。強く開いた。
「あ、いや、恥ずかしい」
 大きなクリトリスが目に飛びこんできた。陰唇がひどく短い。
「クリトリスだけの感じだね」
「恥ずかしい!」
 私が包皮を剥く。ソテツは不安そうな顔で、自分の陰阜の肉をつかんで引き上げ、ポコンと突き出たクリトリスを見下ろす。
「大きいのはだめですか?」
「いいことだよ。敏感な証拠だから。包皮がだいぶ黒ずんでるけど、オナニーをしょっちゅうしてる?」
「……沖縄で何度か。こちらではありません。こちらにきて二度ほど。声を殺すのがたいへんです。廊下に聞こえちゃうと思って」
 正直な女だ。
「そんなこと、恥ずかしくないよ。……声が大きいの?」
「わかりません。ほかの人の声を聞いたことがないので」
「中が感じるようになれば、そんなことしたくなくなるよ」
「中って?」
 ソテツの顔を見ないで股間だけを見るようにしているうちに、やっと性器に力を感じはじめた。私はソテツの目の前に半勃ちのものを突き出した。
「あ、さっきよりふくらんでる」
 じっと見入る。
「……こんなに大きな、ケッケレ……」
「ケッケレ?」
「クリトリスのことです」
「男のこれは亀頭と言うんだ」
 包皮を後退させ、
「この窪みのところに垢が溜まりやすいんだよ。二日、三日に一度は洗わなくちゃいけない。じゃソテツの洗うよ」
 左指で極限まで皮を剥き、右手の小指の腹で丁寧にこそぐ。
「あ……」
 指先にかすかに白くついたものを湯で流す。
「生まれてから一度もこうしたことがなかったね?」
「はい……」
「これからはきちんとやるんだよ」
「はい」
「そうしないと、舐められないだろ?」
「舐める……んですか?」
「あたりまえだ。こんなふうに」
 ペロリと舐め上げる。
「ああ……」
「この格好でオシッコして」
「え! 出ません。それにお風呂場が汚れます」
「どうせ洗うからいいよ。出して。恥ずかしいことをまずしてしまうんだ。そうしたらセックスに対する不潔感がなくなるし、心もゆったりする」
「はい……」
 ソテツは懸命に腹に力をこめる。膣口がかすかに開いたり閉じたりする。思わず顔を見ると太い眉がゆがんでいる。見たくないので視線を戻す。チョロリと出て、あとは一気だった。大きな陰核の下から間断なくほとばしる。差し出した手のひらに強い圧力で当たる。勢いのいい水切りが二度で終わった。手桶で湯をかけてやる。
「よし、ふつう状態になった。見て」
「きゃ、大きい!」
「舐めて」
「はい!」
 短髪のソテツは大きく笑うと湯殿に両膝を突き、陰茎を大事そうに握り、亀頭の割れ目をこわごわペロリとやる。茎をしっかり握っている。女の本能だ。
「いろいろ考えるなら、ここでやめてもいい。いろいろ考えたことは後々しつこくまとわりついてくるから」
「何も考えてません! 最初に叱られたときから」
「叱られたっけ」
「はい、失礼なことを言って、奥さんに叱られました。辞めてくれとまで言われて。あんなこと言うつもりなんかなかったのに、何であんなことに……とても後悔しました。最初から神無月さんのこと大好きだったのに」
 私は湯殿の床をシャワーで清め、ソテツと並んで湯に浸かる。肩を抱いてやる。細かくふるえる肩を抱いても、私には何の感激もない。性器に力がなくなってくる。それだけが気がかりだ。
「じゃ、上がろう」
 脱衣場に出てからだを拭き、書斎の蒲団に戻る。トモヨさんに教えられているのか、ソテツは脱衣場から持ってきた二枚のタオルを敷布団の上に敷いた。私のスケッチした直人の寝顔が、額に入れて鴨居に掛けてある。ソテツは二つ折りしたタオルを尻の下に敷き、天井を向いて粛々と横たわる。私はソテツの顔を見ないようにして、太腿をやさしく押さえながら股間に屈みこむ。小陰唇が短いので、滞りなくクリトリスを舌先で突き、周囲を舐められる。
「あ……あん」
「遠慮しないで声を出していいよ。気兼ねしてると思い切り感じられない」
 舌で回し押しながら、強く吸い上げる。
「あ、神無月さんだめ、もうイク、あああ、イク!」
 両脚を真っすぐ揃え、ピンと伸ばす。思わずソテツは自分の両乳房を押さえた。しばらくあえいでいる。
「信じられない……自分でするよりずっと気持ちよかったです」
「脚を開いて。入れるよ。少し痛いけどがまんして」
 ソテツは胸の上で両こぶしを握り締めた。椀のように盛り上がった胸をつかみながら、亀頭の先を膣口にあてがって挿入しようとする。入らない。強く押す。入らない。
「緊張しすぎて、入口が濡れていないのかもしれない」
 抜いて、指で股間を確認する。濡れている。もう一度あてがいグイと押した。ほんの三センチほど入る。
「思い切り入れるからね。力を抜いて」
「はい!」
 力をこめて突き入れる。
「あいた! 痛あい!」
 有無を言わさず往復する。
「た、た、たァ……」
 声が止んだ。強引に抽送しつづける。ゆるい膣圧に何の変化もない。初めてじっくり顔を見た。真剣なドングリ目が私をひたと見つめている。恋する色を浮かべている。幼い手を差し伸べて私の頬を撫ぜる。私の行為自体を喜んでいるのだ。
「もう、痛くない?」
「痛くありません」
「どんな感じ?」
「ヒリ、ヒリってしてます」
 私はソテツの汗ばんだ額をなぜながら、痛みを計るために、素早く引き抜いた。 
「た、た!」
 陰茎に血がついている。私はティシューで丁寧に拭き取った。不思議なことに、尻の下のタオルにはまったく血がついていなかった。
「感じるまでに一年くらいかかるかもしれないね」
「ヒリヒリするところが、ケッケレみたいに感じるようになるんですか?」
「簡単に言えばそうだけど、中全体が、ケッケレの何十倍も気持ちよくなるんだ」
 ソテツは私の腹を撫ぜた。
「……一年も待てません。いますぐ、そういうからだにしてください。痛いのはがまんします」
 これまで容易に感じていたことを困難に感じた。幸い屹立は止んでいない。
「やってみよう。今度はそれほど痛くないはずだから、軽く感じられるかもしれない」
 ソテツはぎこちなく、それでも朗らかな表情で両腿を広げた。陰部にまったく血は滲んでいなかった。愛液の量が少し足りないように思えたので、たっぷり滲み出すまで局部を舐めることにする。
「ああ、気持ちいいです、またイッてしまいます、あ、神無月さん、イク、イク!」
 痙攣しているうちに挿し入れる。今度はまったく痛がらない。痛みのないことを確かめるように、浅いところで摩擦を始める。乳首を舐めながら、あらためて地黒の皮膚に気づく。十六歳の肌よりもカズちゃんたちのそれのほうが輝いていると知る。
「いた、痛い」
 痛みが戻ってきたらしく、膣が快感とは異なる脈動をする。中ほどより奥の抽送に切り替える。上壁を強く引きこする。ゆるんだ膣なので私に刺激はない。労働している気分になる。奥をつづけて突き、ふたたび上壁を引きこする。逃げていかない腰をつかみながら往復する。喜びの涙を浮かべてソテツは私を見つめている。愛情にあふれた目だ。
「神無月さん、なんだか気持ちいい、お腹の奥が気持ちいい」
 臍のあたりを触っている。予感があるのにちがいない。
「もう少しだよ、がんばって」
「オシッコ出そう……神無月さんにかかっちゃう」
「だいじょうぶだよ。ツーンとするだけで、オシッコは出ないから」
 とつぜんきた。
「あ、気持ちいい、イキそう、ああん、やだ、イッちゃう、イッちゃう、イク! イク! あー、イッちゃった!」
 まぎれもないアクメに襲われて、からだが跳ねる。抜き去って仰向けになりソテツを腰に乗せ挿入する。脈動が激しい。
「すごい! ボールみたいにふくらんでます、あああ、気持ちいいい! 愛してます、愛してます、イク! イキますうう!」
 私もすぐそこに迫ったので、あわただしく突き上げながら往復する。
「ああ、もう一度イク! 好き好き、愛してます、好きですう!」
 私が吐き出したとたん、ソテツはバタッと胸に倒れこんだ。猛烈に膣が収縮を繰り返す。痙攣する腹が私の腹を叩く。ソテツの尻を両手で強く握って律動を与える。ソテツは思い余って、唇を強く吸いながら私を抱き締めた。いつまでも膣が蠕動する。十六歳の不思議な深い愛情を感じた。


         十二

 ソテツの息が安らかになった。
「神無月さん、ありがとう。セックスがこんなに気持ちいいものだなんて知りませんでした……ありがとうございました」
 硬い眉毛を腕にこすりつける。私はソテツの髪をなぜながら、
「女だけなんだよ、苦しいほど感じるのは。男の棒っ切れは、オナニーの経験から想像できる程度の反応しかしない。想像を超えた反応は女のからだの神秘だ。男はその想像を超えたものを見て興奮し、興奮ついでに、ちょっと射精してみるんだよ。……ソテツは立派な女だったよ」
「うれしい」
 ソテツは私の首を抱き締めた。直人の部屋にいこうとしているトモヨさんの足音が廊下にしたので声をかけた。足音が戻ってきて戸が開き、
「あら、ソテツちゃん、無事に終わったのね。ちゃんと感じた?」
「はい、夢みたいに気持ちよかったです」
「おめでとう。たった十六歳で女の幸せをもらったのね。郷くん疲れさま。すぐお休みなさい」
「トモヨ、お腹の子供に障りがなければ……」
「あら、うれしい。このところご無沙汰してるし、お言葉に甘えます」
 ソテツも私の女たちの喜ばしい奔放さを瞬時に知った面持ちで、
「そうしてください。無理のない姿勢になるようにお手伝いしますから」
 素早く適応する。
「やさしいのね。じゃ、そうさせてもらおうかしら。ソテツちゃんも、こんなに齢の離れた私が感じる姿を見れば、女は何歳でも同じなんだって安心するでしょう。同じ女として、これからもっと和やかな関係で付き合えるわね」
 トモヨさんは部屋に入るなりすぐ全裸になり、丸くふくらんだ腹を抱えながら、私を挟んでソテツと反対側に横たわって尻を向けた。ソテツが前に回り、つやつやしている腹を撫ぜた。
「この格好がいちばんラクなの。ソテツちゃん、重いでしょうけど左足を持ち上げて抱えてくれる?」
 ソテツはトモヨさんの左足を抱えて、姿勢を保つために立て膝を突いた。
「こうすると郷くんが後ろから入れやすくなるから。郷くん、私が二、三度イッたら抜いて、ソテツちゃんに出してあげて。私のイクのを見たらとても興奮すると思うし、ぜったい、もう一度確かめたいと思ってるにちがいないから。そうでしょ、ソテツちゃん?」
「……はい」
「そのあと、私はおつゆの残りをいただくわ。やっぱり少しでも出してもらわないとしっかりイッた感じがしないから。ソテツちゃん、よく見ててね、あられもない姿よ。郷くんが入ったとたんに、全身が痺れるほどイッちゃうから」
 私がトモヨさんの尻を撫ぜると、トモヨさんは右膝を、ふくらんだ腹のほうへ引いた。美しい肛門と陰部が眼の前に現れた。 ソテツが横から覗きこみ、
「初めてトモヨ奥さんのを見ました。きれい!」
 私はいい気分になり、
「カズちゃん、トモヨ、千佳子が三大美マン。睦子のも白くてとてもきれいだ」
「郷くん、私としたら二回目の射精になるんでしょう? だいじょうぶ?」
「もう一回出したら萎んじゃうかも」
「奥さん、私はもうじゅうぶんです。最後にいただいてください」
「そう? でもお余りでいいわ。しっかり出されると、強くイキすぎちゃうから」
 トモヨの膣口に亀頭の先を当てる。
「入れるよ」
「はい、ください、すぐイキます」
 ソテツが目を見開いている前でグイと挿し入れる。
「わ―呑みこんでしまいました」
「あたりまえよ、あなただって呑みこんだでしょう、ああ、気持ちいい、郷くん、愛してる、走る、走る走る、もうだめ、あああ、イク!」
 ガクンと反り返る胸をソテツは驚愕の目で見つめる。そしてバカの一つ覚えのように腹をさする。
「郷くん、もう一度イッたら抜いて、あああ、走る走る、強くイク、強くイク、郷くん好きよ、愛してるわ、うーん、イィック!」
 引き抜いてソテツを四つん這いにする。
「え? え? こんな格好で?」
 突き入れる。
「あ、あ、すごい、気持ちいい! ああ、お腹が熱い、オシッコ出る、オシッコ出る、出るう! イッちゃった! あん、気持ちいい! イッちゃう、うーん、あ、だめだめ、神無月さん、イッちゃう、神無月さん、大好き、うううん、イクウウ!」
 意外なほど持続的な緊縛をしてきたので、思わず射出が迫る。
「あああ、もうだめ、もうだめ、神無月さん、だめェ! 何度でもイク、何度でもイク、あああ、イッちゃったあ!」
 射精する。一度律動して引き抜いて、正常位で構えているトモヨさんに挿入する。数回律動した。
「あああ、郷くん、気持ちいい! 暖かい! 愛してます、イクウ!」
 膣口が箍(たが)になる。
         †
「ありがとう、郷くん。すてきなボーナスだったわ。六月くらいにもう一回お願いしますね。さ、ソテツちゃん、しばらくしたらお昼ごはんですよ」
「はい」
 トモヨさんが下着をつけ、私にキスをすると直人の部屋に去った。ソテツがずっと私の手を握っている。水仕事で荒れた指先がザラザラ触る。見つめられている自分の顔の半分に熱を感じる。陰阜をすりつけてくる。からだの悦びを覚えた十六歳の性急な性欲だ。これほど精力的な女を知らない。陰唇のほとんどない性器に指を当ててやる。身をくねらせて喜びを伝える。握ってくる。私は限界を感じている。ソテツは三度目の屹立がないことにションボリする。
「神無月さんの認める女って、顔と、ヒーのいい女ですね」
「ヒー?」
「あそこです」
「ちがうな。顔に心のプラスした女。ヒーは後づけだ」
 ソテツは陰茎を強く握って、
「私は顔が……」
「心が充実すれば、顔も自然ときれいになるよ」
「丸さんと天童さんも、いつかぜったい願いを叶えてもらうって言ってました。でも、神無月さんの好みのハードルを越えられるかしらって心配してました」
 ソテツは私を握った手を離さない。その行動は新奇な類に属している。
「どうしても、もう一度したいんだね」
 コクリとうなずく。恥らうようなけだるい素振りも作る。限界だと感じる力を振り絞らなければならない。
「舐めてごらん。キンタマを揉みながら」
「はい」
 ソテツはそのとおりにした。血が戻ってこない。
「だめですね……」
 私は目をつぶり、カズちゃんと睦子の顔を思い浮かべた。みるみる回復してくる。
「わあ!」
「もう少しでできる」
 ソテツは夢中で舌を使っている。はち切れるほどになった。
「私が上でお願いします……」
 恥ずかしそうに言うソテツを私に跨る格好に抱き、指を添えて入れるように言う。滑らかに入った。
「うう、気持ちいい!」
 私の腹に両手を突いて目をつぶる。おそるおそる上下に動く。
「ああ、好き、神無月さん、好き、熱い」
 私はソテツの尻を支えて上下させ、強いアクメを与えようとする。不快や嫌悪が一転して官能になる微妙な一点にさしかかる。気に入らない女を受け入れられる一点だ。不快と肉体の情動が絶望的に分かちがたくなる一点だ。愛する者をからだが裏切る一点だ。
「イッちゃう、あああ、イク、イク!」
 私は射精し、二度三度と律動する。
「だめだめだめ、ううう、イクイク、イク!」
 ソテツは私の胸をドンと押すと無理やり自分で引き抜いて飛び離れようとする。私と最後まで付き合う愛情がない。まだ律動が残っている。激しく痙攣しているソテツと上下入れ替わり、愛する者を裏切る抽送を激しくする。最後の律動をする。これきりだ。
「あ、またイッちゃう、やだやだやだ、イッちゃう、イクイクイク、イク!」
 ソテツは私の両腕をつかもうとする。空を切り、シーツをつかむ。足の裏で蒲団をこするようにしている。心なしか緊縛が緩んだ一瞬に素早く離れる。精液がほとんど出てこない。
 ソテツは動かない。唇も求めず、何も言い出さず、股間の始末もせずに私の腕に寄り添ってウトッとした。ただの天真爛漫なお転婆娘なのだろう。私を好んでいるにちがいないが、深い愛情はないようだ。生理的な不快が馬鹿らしい愉快になり、何の感情もなく不快な生理をうごめかせたことだけを後悔する。この女は最初の印象を少しも変えない。愛しく感じられない。馬鹿らしい愉快さはいつか重荷に変わる。……トモヨさんの人間を見る眼を一縷の頼みにしながら、極力、彼女の肉体から遠ざかろう。
         †
 一時間余りうつらうつらした。そのあいだにソテツは厨房へ戻った。離れまでやってきた菅野の声に起こされた。十一時だ。
「はーい。いまいきます」
「十一時半からにしましょう」
「すみません。寝こんでしまいました」
「ちょうど疲れが出るころですよ。オープン戦が終わってからも一週間、忙しく動いてましたから」
 ジャージに着替える。
「じゃ、いきますよ」
 名城公園を取りやめて、日赤病院にする。からだは軽い。椿神社、駅西銀座、金時湯、環状線、中島郵便局、大門町、道下町、中村日赤。ここまでほぼ二キロ。帰路は一筋南下して、名楽町、羽衣町、中島町、竹橋町と走り戻る。二人無駄口もなく走り通し、十二時十分に戻る。腹がへっている。菅野は座敷へ、私は離れの浴室へシャワーを浴びにいく。全身に石鹸の泡を立てながら、赤くなっている亀頭に見入る。好き放題な生活をしているのに、どこかで制約を覚えているのが心地よい。その好ましい感じは、北村席に寄食するようになってから消えることはない。
 トモヨさんがやってきて脱衣場に下着を整える。私のからだを拭く。
「直人は?」
「便秘気味だったので、朝、浣腸しました。とたんに元気になって、いまごはん食べてます。午後の部で登園させます。きょうはごめんなさいね、ソテツちゃんが切羽詰まった顔をしてたからかわいそうになって。悪い子じゃないんですよ。気が向いたときだけでいいですから、かわいがってあげてくださいね。お嬢さんたちは昼食を終えて、いま午後の部に出かけました」
 トモヨさんのあとについて屋根と窓つきの渡り廊下から母屋に入る。居間にいくと、アイリス組の姿はなく、睦子と千佳子が主人といっしょになって新聞の切抜きをしている。女将は茶を飲んでいる。
「や、お帰りなさい。ご苦労さん」
「近場でごまかしました。睦子、お母さん元気で帰った?」
「はい、名古屋銘菓をゴッソリ買って帰りました。土産物売場で買い物をして、ちょうどいい時間でした。来年のいまごろ、またきたいって言って」
「おたがい、年に一回ずついききすればいいよ」
「私はいいですけど、お母さんは暇人じゃないんだから、年に一回は多いです」
 笑顔で切り抜きに戻る。
「めしは?」
 千佳子が、
「神無月くんといっしょに食べます」
「ワシらはもうすましました」
「神無月さんの好きなキンキの煮魚やよ」



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